明日みる夢

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 むなしく響く黒板のチョークの音を聞きながら、僕は彼女のことを考えていた。
 いま彼女はなにを見ているだろう、なにを考えているのだろうか。
 ただ一つわかるのは、僕のことではないという、それだけ。
 きっと僕には触れられない、神聖で美しい世界をただよっているのだ。
 ため息をつき、窓の外をみた。
 運動場を囲むように植えられたポプラの木々や、黄色い花でうまった花壇。開きっぱなしの体育倉庫のまえにはボールがころがっている。
 それらが不意に視界から遠のいていった。
 硝子に映っていたクラスメイトの顔も消え、数式を唱えつづけている教師の声がきこえなくなり、すべてのものが僕の中からなくなってゆく。
 何もない虚無の世界。まるで一人で取り残されたような感覚におちいる。
 どこか戸惑いながらも、僕は不思議なほどあっさりと、それらを受け入れてしまう。
 いまさら世界なんてどうでもいいことであり、いつだって、僕だけがはみ出しているのだから。
 XとYの方程式が羅列している黒板。それを必死で書きうつす筆記具の音。
 僕にとっては、なに一つ重要なものは含まれていない。そこにあるのはあちら側に住んでいる人間の、日常と退屈だけ。
 無気力なクラスメイトの頭から、思考のカケラが溢れ出し、ボロボロとはみ出していた。教室中に無尽にゆきかい、なかなかにぎやかな光景だ。
 もちろん誰も気づかないし、見えるわけでもない。
 もし教師や、教育委員会のお偉いさんたちが、この思考の化け物たちを見たら、きっとビックリして腰をぬかし、そのうちに自殺したくなってくるだろう。
 子供が純粋だというが、いま頭上でにぎやかに走り回っている邪気や物欲、色欲の魔物たちの奇態、狂乱の数々を見たなら、前言を簡単にひるがえすだろう。
 僕は一人でどうしてこんな所にいるのか。
 「帰りたい」
 むなしくなってしまう。
 諌子のいる世界に帰りたい。彼女のぬくもりに帰りたい。
 僕の存在を責めたりしない、あの閉じられた優しい世界に帰ってしまいたい。
 この場所に存在しながら、僕だけが馴染めず、まったく別の世界にいるのだ。このまま何年もこちら側の世界にいたら、きっと水のない魚のように窒息し、干からびてしまう。
 百鬼夜行の横行するこちら側。
 その世界に入れない僕。
 それでも帰るところが、どこにもない。
 そう、僕には家がないのだ。
 僕が罪人になってしまってから、家も家族も消えてしまった。あるのはたったひとりの家族だけ。
 諌子に会いたい。会って抱きしめたい。彼女に抱きしめられたい。
 彼女だけの世界に居続けたいけれど、いまだ僕にはなんの力もなくて、何もできないままでいる。傷つきやすい彼女の心どころか体さえ守ることができない。
 そうする力を得るためだけに、だから今、僕はここにいる。
 逃げだしたい。逃げて二度と来たくなんかない。一秒だっていたくない。でも僕は我慢できる。まだ、こちら側の人間でいられる。
 諌子のためだけに。
 諌子と二人で果てしなく遠くに行くためならなんだってできる。
 捕らわれの魚のように、死ぬ寸前のにごった目と、止まる直前のかぼそい息で、教室という名の社会の汚水につかり、奇形のままで醜く生きつづけている。
 「久住!久住嗣樹(しき)
 鋭いどなり声が僕の横っ面をはった。
 名を呼ばれ、彼に視線をむけた。
 チョークをにぎった教師の鬼面が、みごとに真っ赤に染まって僕を見ていた。怒りに興奮していて部屋がよどみ、生徒たちの狂乱が少しだけ静かになった。
 「さっきから何をボケっとしている、外なんか眺めてなんでノートをとらんのだ!俺の授業をなんぞ聞く気がないのか、ええっ、なめてるのかっ!?」
 なめてなんかいない。する価値もないし、気力もない。
 「余裕な顔だな。そんなに余裕なら、この問に即答してみろ!それができるなら外を見てても文句なんか言わんさ。――なんだそのダラけた顔はっ!さっさと席を立たんかコラァ!」
 ゴリラ顔が、さらに赤らんでひどい顔になっている。僕はため息をついて立ちあがる。
 教師のくせにどうも情緒不安定なようだ。まあ、彼も強面の教師として知られているようだから、自尊心があるだのろう。こんな頼りげのない生徒に馬鹿にされるわけにはいかないのだ。
 まあまあ気持ちはわかるかな。
 同じ鋳造型で、同じ製品を作らなければならない職人の規則正しさが、僕という規格はずれは見過ごせないでいる。
 黒板には相変わらず、XとYとZの四連の数式が、まるでミミズを這わせたような字で並んでいた。
 僕はなぜだか知らないけれど、その答えを知っているし、また正しいと確信していた。頭に浮かんでくるそれを口にするだけ。
 「X=15、Y=28、Z=92です」
 そう答えると、教師の顔色がにわかにかわった。
 すぐにやりにくそうに舌を打ち鳴らす。
 「……いいだろう、席につけ。だがな久住よ、ちょっとぐらい成績がいいからって教師をバカにするなよ。おまえのようなクズは後でかならず泣きをみるんだからな」
 いちおう頭をさげて席についた。そうとう僕が気に喰わないらしいが、そんなの知ったことではない。まだ睨んでいる。
 僕の周囲が、いつの間にか嫉妬と嫌悪の感情にネバネバと取り巻かれていた。よけいな注目を集めさせるからだ。
 それらはひどく妬みが強いので、少しでも体にさわると、いきなり固まって首を締めつけてくる。
 でもバケモノたちを放出している彼らには、出していることすらわかっていない。
 だから僕はそれらに何もできない。
 ああ、うっとおしい。
 まったく、ここはなんてあさはかで単純で、面倒くさい世界なのだ。
 すべてが煩わしくて辟易する。こちら側の人間は、どんな形をとってでも僕に干渉しようとしてくる。無視をして、ただ通り過ぎてはくれないのだ。
 トゲトゲしく刺すくせに、いつだって助けを求めて泣いていた。束になってかかってくるくせに、一人だと何もしようとしない。
 交錯する思念の糸から、僕は心を、意識の枠の、さらにその奥にしまいこみ、すこし麻痺させておく。ズタズタに切り裂かれてからでは遅い。
 授業の終わりを待って、僕は教室を飛びだした。
 けど、あんまりに慌てすぎてカバンを忘れてしまい、慌てて戻るはめになった。
 僕の心ほどに、カバンには何も入ってないのだから、学校においていてもちっとも構わないのだけれど、そんなことをしたら、また『先生』たちや『クラスメイト」たちの神経を逆撫でるにちがいない。
 肩を誰かがつかんだ。
 悪意の塊のような冷たさに一瞬吐き気をもよおす。
 「よお久住くん、今日もお急ぎでお帰りなのかな。いつもいつも補習も受けずに慌てて帰ってなにをしてるんだい。家で特別の家庭教師でも待ってるのかい」
 クスクスと周りから笑いが漏れる。正直なほどの揶揄と嫉妬のこもった顔をみて、うんざりする。
 やめてくれ。なんで僕に助けを求めてくる。
 そんな泣きそうな顔で睨みつけられても、僕にはなんの関係もない。
 「学校にきても、ノートもとらずに教科書も見ない。なのに先生の問いには即答する。学年トップの久住くんは、俺たちとは頭の出来が違うっていいたいのかな?それとも家に帰って一人でガリ勉か?おまえさ、なに様のつもりなんだよ!いつも気取ってやがって。少しぐらい勉強ができるからっていい気になるなよな」
 がなり続ける男の後ろで、優等生っぽい細面の別の男が、厚い眼鏡を押あげながら僕をじっと見ていた。蛇のような執念深さで赤い舌がのぞき、首に巻きついてくるのを感じる。
 「俺らの神経を逆撫でしてるのをわかってるのか?どんな思いで勉強してると思ってんだよ!それをいつもいつも余裕な顔して見下しやがて。自分だけが特別だとでも思ってんのか?!」
 肩の手が食い込み、悪意の息が喉につまった。
 「何とか言えよ、言ってみろよ!」
 彼の背後の欝屈した重い気が、溶岩のように彼にズッシリとのしかかりながら、残り少なくなっている精気を食らっている。
 教室に残っている人間の魂が、どれもひび割れて悲鳴をあげ、逃げだしたいともがいている。
 でも、こんなことそう大したことじゃない。まあ僕にとっては、だけどね。
 僕にソレが見えたとしても同情なんか持ち合わせてない。
 それでも、なぜか僕には視えてしまう。
 時間を惜しんで勉強している彼に、それを口うるさく追い立てている母親の姿。
 ひどく苦しんでいる様子で、成績が落ちたと罵られ、知合いの息子と比べられて、うんざりするほど小言をくらっている。
 逃げられない地獄に、絶望にもにた苦痛を訴え、誰かにわかってほしいと、もう十分おまえはやったと言ってほしいと、泣きさけんで僕に訴えているのだ。
 僕は無情にもその手を払いのけた。
 カッとして凶器のように開かれたはずの彼の目が、僕を見たとたん、すぐに脅えの色に変わり、そらされた。
 「君の成績が落ちたからって、僕にはなんら責任はないと思うけどな」
 そうさ、こんなの見たくて見えるわけじゃない。見えるからといってすくってやる義理はない。
 「な、なんだときさま――!」
 図星をつれてカッとした。襟首を掴んで僕を引きあげた。
 頭一つ大きい。固そうな握り拳がふりあげられる。
 だが拳はそこでかたまった。まるで痺れて動けなくなったように硬直している。
 僕はその手をふり払った。
 彼の瞳に、涙がほんのりと揺れたが、僕はカバンをつかむと、二度と彼をみることなくそのまま教室を後にした。



 どうも僕は、人の思いというものが見えてしまうらしい。
 だからといって、どうすることもないのだが、この力が特別だったと知ったときはひどく面食らってしまったものだった。
 煩わしくてたまらず嫌悪していた次期もあった。だが年負うごとに慣れてしまった。
 望んだわけじゃなかったし、もちろん見たいと思ったことなど一度もない。
 ただ強い感情や思念は、いつだってむこうが僕を見つけてくる。
 ぼんやりとしたイメージが僕に飛びかかり、幾重にもおりかさなるヒダのようにくらいついて、無理やり悲しいものばかりを見せつけるのだ。
 見たくないのに、感じたくないのに。
 どうして僕ばかりが――と幼いころはよく思っていた。いっそこの呪われた双眸をくり抜いてしまおうかとも考えた。
 けど諌子(いさこ)が、僕の瞳を綺麗だと言ってくれた。好きだと言ってくれたから、やめることにした。
 そうして今は、視えることも、もう僕には関係ない。どうでもいいこととして過ぎてゆくのみ。
 諌子以外、だれも僕のなかに入りこめない。僕ではないのだから。
 人通りの多い交差点にさしかかった。
 ビルの谷間を吹きぬける風が肌を痛くかすめていった。人の感情がうんだカマイタチのような風に、人々の心の隙間があさく切りつけられていく。
 血を落とし、でもそれに気づかずにひたすら進む人間のゆく先には、なにがあるのだろうか。
 大気を赤く染めて、他人の肺を汚しながら、未来を殺してゆく。
 気づかないフリがどれだけ出来るか、いかに大勢を踏みつけて高みへと昇れるかで、今の時代の人間は、優劣が決まるってくるのだ。
 醜さが多いほど、なぜか偉い人だということらしい。
 沸きかえる人いきれに、大気が津波のように立ちあがっていった。
 本能の中にひっそりと潜んでいたはずの、優しさや思いやりまでもが殺ぎ取られ、そうしてやっと気がついたときには、他人を思いやる心が見当たらなくて、結局思い出せなくなって、消えてゆく。
 横断歩道にさしかかった。
 凄さまじい感情のにごりが、攻撃的に僕の足をすくってきた。
 歩道に座っていたソレがうっすらと僕を見あげた。人の世に存在すべきでない者である。
 いつもどおり無視する僕に、ソレはやっぱり、と肩を落とすと、隣に歩いていた中学生くらいの少女にすがりついた。
 少女はバランスを崩しころがった。アスファルトですりむいた膝の血を、長い舌でべろりと舐めて喜んだ。
 彼女のはいていた赤いヒールが、ソレの劣情を誘ったのだ。
 いまは形さえないが、まだ靴をはいていたころを思い起こさせたのだ。鮮やかな赤い靴は、初めてのデートではいたサンダルの色と同じだった。
 左折を確認しなかった車がつっこんできた。痛みとショックで何もかもがわからなくなった。真っ赤な血を、ここで流して倒れたのだ。
 だから彼の待つ喫茶店にどうしても行きつけないでいる。行き方がわからない。
 可哀想な少女の夢。可哀想な悪霊。
 信号が点滅をはじめた。
 転んだ少女はどうしても立つこともできず、涙を浮かべていた。
 けれどだれも彼女を見ない。
 誰もかもが忙しげに進み、囚人をまつ檻に向かって前進している。
 僕も助ける気はない。
 僕に喰らいつき、どうにか自分たちのところへ陥れようと、牙をだしている思念は数限りない。取り込みたいと腕を伸ばし、助けてほしいといざなってくる。
 どれ一つにだって、かまうわけにはいかない。そうした途端、もはや一歩も進めなくなってしまうから。
 ふと鼻をくすぐるようないい匂いがした。花の香を焚きしめたような芳しい薫りだ。
 僕は前方から歩いてくるそれを見て慌ててうつむいた。
 本能的にやばいとわかってしまう。
 豪華な金爛緞子の着物をきて、髪をきれいに結いあげた、目を奪うような美人が歩いていた。
 そばに居るだけで魂を奪われそうな強い霊力は半端ではない。顎をつんともちあげ、気の強さまでもがありありと見てとれる。それが当然のようにみえるのは、きっともって生まれた高貴さのためであろう。
 それは遥か昔の残像物だった。
 時の流れに忘れられた、過去からの名残人。
 だが哀れというには、あまりにも強すぎる。心意に燃えて煌々とその存在を誇示している。
 『のうそなた、(わらわ)の殿を見なんだか。約束しておったのだが、はぐれてしもうたのじゃ。助けてくれぬかえ』
 自分の存在が、どれほど今を生きる人間にとって無に等しいか、彼女には理解できていない。それでも尋ねずにはいられない思いの強さが、彼女にはある。
 『これ、そこな人、知らぬかえ知らぬかえ。なにゆえ妾を無視いたすのじゃ』
 そうしてどれほどの歳月にわたって、迷い人のことを一途に尋ねてきたのかわからない。年月に風化し、邪霊になって散ることもなく、いまだ一固体として存在しているほうが奇跡にちかい。
 ただわかることは、彼女はこの先も遠々と、未来永劫にわたってそれを問い続けてゆくということだけ。
 「これそこな若者、なぜ妾を無視いたすのじゃ。妾の愛しい背の君を、見はせなんだかえ」
 僕の腕をくんっと引っ張った。けれど慣れているので、みんなと同じく何事もなかったように歩き続けた。
 彼女もなれたもので、気にする様子もなくしゃべり続けてくる。
 「そなたより少々年は上であったかのう。見目の麗しい、それは立派な美丈夫じゃ。ふむ、そなたもなかなかよい面立ちをしておるの、殿に似ておるわ。気に入ったぞ』
 勝手に気に入らないでほしい。
 まだしつこく僕について来ていたが、けっして振向かない。はやく他の人みたいに諦めてほしい。
 いちいち話を聞いていたら身が持たない。今日はとくに時間が惜しい。
 『なぜ、答えてはくれぬ。お願いじゃ、答えてたもれ』
 僕の瞳をしばらくみつめていたが、女はふっとうなだれ影を薄くした。
 『やはりだめか。この者ならば、妾が見えるような気がしたのだがの。思い過ごしか……』
 なかなかよい勘をしているようだ。
 だが彼女はそれっきり僕から手を離すと、とぼとぼと行ってしまった。
 「冗談じゃないよ。あんな厄介なヤツを相手しているほど暇じゃないんだ」
 『おおやはり見えておったか!そなたもなかなか演技が達者よのう』
 目の前にドアップであらわれたのは、にっこり笑った、したり顔の女だ。二度と離さぬとばかりに腕に食らいついてくる。
 『ほんに見目良き姿にはにあわぬ、いけずなやつよ』
 甲高く笑っていた。
 僕は思わずカバンを落としていた。すぐになにもなかったように拾いあげる。
 「……謀ったな」
 『なあに、そなたの目だけは、妾をちゃんと映しておったではないか。見逃しはせぬよ。知らぬそぶりをしておることなど、最初から見抜いておったわ』
 思わずムッとして横目でにらむ。そこまでこの僕のことを読むか、幽霊のくせに。
 『のう、頼む。妾の殿を捜しておくれ。そなたならわかろうほどに、このとおりじゃ』
 「そんなこと知らないよ。どうして僕があんたの『殿』なんかわかるんだよ。見たこともないのに、無理にきまってるじゃなか」
 『いいや、そなたは妾の存在を見て取ることのできた初めての人間じゃ。そなたならできるはず。だいたい寺のクソ坊主や、威張りちらした祈祷師など、なんの役にもたたぬわ。妾はとっくに見放したぞ。妾の存在すら、塵ほどにも見て取れぬのじゃからな。だがそなただけはわかってくれた。ならば殿のこともきっとわかるはず。協力しておくれ』
 「断る」
 間髪いれず言い放った。
 僕はさっさと歩きだした。
 「僕には関係ないことだ。あんたになんの義理もないし、する理由もない。人を頼るなよ。自分でなんとかしろ」
 これほど冷たい断り方もないだろう。自分できないから頼んでいるというのに。
 でも僕は出来もしないことをできるといって、むやみに期待をもたせたりはしない。期待は残酷だ。やっと慣れた孤独を、いとも簡単に忘れさせてしまうからだ。
 『無下なことを申すな。いとかよわきおなごが、こうまでして頼んでおるのじゃぞ』
 そしらぬ顔でわざと早く歩く。女もどこ吹く風の調子でずっとついてくる。
 『なんたる男儀のないやつよ。武士の風上にも置けぬ。このような美人の頼み、きくが男ぞ』
 なにが『かよわき』おなご、だ。その気になれば何人でも取り殺してしまえるくせに。
 だいたい美人ていうのは――。
 「諌子のほうがずっと美人だよ」
 『諌子?……諌子とは誰のことじゃ』
 ちょっと気分を害したのか僕をじろりと見る。そしてにやりとして笑った。
 『ほほう、そなたの思い人か。これからその者に会いに行くところかな?』
 思わず舌打ちをした。
 まったくなんてやつだ。どこまでもついてくる気でいる。
 久しぶりにバイトが休みだから、やっと諌子とゆっくりできると思ったのに。こんなのにうろつかれたら、台無しじゃないか。
 「もういい加減あきらめてくれよ」
 『頼みをきいてくれるまでは離れぬ』
 「あのね、いっとくけど諌子は怖いからね。きっと君なんか、見るなり灼かれてしまうよ」
 『ほう。ならば願ったり叶ったりというものよ。いまさら妾に怖いものなどなにもないいし。そのような脅しなど、かたはらいたいわ』
 自信ありげに、艶麗な笑みをうかべる。
 僕はどうしようもないとあきらめて、仕方なく無視することにした。
 諌子の家はにぎやかな都内からはけっこう離れていて、電車に乗って数駅すぎ、さらに商店街をぬけた町のはずれにあった。
 前を走っている道もほそくて、車もあまり通らない。大きな川もまだあるし、田畑も点在している。わりと静かなところだ。
 多少、買物などの不便はあるが、だからこそ諌子の存在を隠してくれている。僕の存在すらすっぽり覆われている。
 裏門からはいると、背の高くなったススキがまるで林のように生い茂っていた。せっかくの広い庭が半分、埋めつくされているけれど、それが目隠しにもなっていて、中の様子がみえにくい。
 柵の内側には大きな桜の木がいく本も道に影をおとしていた。手入をれされていたであろう頃には、どれだけの職人の手によって管理されていたかと、その頃の繁栄が忍ばれる。
 庭のすみには盆栽がころがり、割れた鉢からたくましく根を出している。干上がった池には苔が生えて、落ち葉がたまって腐っている。
 大きくて、おばけ屋敷ともみえる日本家屋は、古びたまま、雨戸がこわれて風にまかせて揺れていた。
 陰気さのこもったここが、諌子と、諌子の祖母――心底まで腐ったバァさんとが暮らしている牢獄である。
 僕はひどく重い引戸をあけて中に入った。
 薄ぐらい土間がつづき、すすけている箱段をあがりって、さらに奥へとすすむ。掃除なんてしたことがないのだろう、靴下が真っ黒になりそうなほど、ほこりが廊下にういている。
 床がきしみ背筋のゾッとさせるような音がした。
 部屋の襖が、のそっと開かれた。
 わずかな隙間から、皺にはさまれた欲にぬめった目が、僕を慇懃にみあげてくる。
 虫けらでも見るような陰湿な目つきで、嫌みを含んだ口元が、また物好きがという軽蔑的な歪みを浮かべている。それをかくそうともせず、だが、強欲そのままに、僕にねだってきているのだ。
 毎度のことなので気になどしない。にっこりと笑って、カバンから白い封筒をさしだした。
 「お婆ちゃん今月分です。少ないですけど食費の足しにしてくださいね」
 バイト代の約半分。十万円。
 金と欲の好きなババアにはこれにかぎる。
 想像どおりに、彼女の野獣じみた黄色い目がやわらぎ――といってもにこりともしないのだが、そのままひったくって目の前で数をかぞえだした。
 「いつも悪いねえ嗣樹ちゃん」
 言葉の表面だけでそう言ってから、ぴしゃりと戸を締めた。
 「ふん、たったこれだけか」
 中から声が聞こえる。もちろん僕に、もっと出せ、と聞かせているのだ。
 これ以上相手にする気はないので、さっさとそこを通り過ぎる。これが儀式であり、地獄の門番にはらう賄賂でもある。
 『なんと無作法なやつよのう。部屋より出て来もせぬではないか。しかも金子を貰っておきながら、まだ足りぬとのたまうとは。そなた、どうして怒らぬのじゃ。あのように蔑むような態度、男として悔しくはないのかえ』
 彼女のほうがなぜか憤慨しているようにみえる。わりと可愛いいところもあるんだ。
 僕は苦笑した。
 「あんなことぐらい、大したことじゃないよ。まだね」
 そう、まだだ。まだ必要なのだ。アレはまだ役立つ。気に入られておかなければならない。
 僕にはまだ『年齢』という足枷が残っている。
 社会的な地位もないし、責任を持っているという、法律上のなにがしかもない。
 そういう実生活ではまったく意味をもたない、言葉ばかりの戒めが、いまの僕をしばっているのだ。自由には、なかなかしてくれない。
 「周囲の人間はね、僕が一流の高校に通い、トップの成績をとるということに意味を持っているんだ。あの婆さんは、僕が毎月お金をくれるということが価値なんだ。安いもだよ。そんなことで諌子の居場所が得られるのならね、僕はなんともないよ」
 だけど、それだって絶対、と言うわけではない。
 僕は諌子と一緒にいたい。彼女と時を永遠に共有していたい。そうしているときだけが僕でいられる。僕という人間になれる気がする。
 薄暗く曲がりくねった廊下を突き当たると、正面の部屋の引き戸を、そうっとあけた。
 僕はまぶしげに目を細める。
 「諌子、ただいま」
 柔らかい日の光をうけて、諌子は窓辺にもたれかかっていた。
 彼女の存在すべてが淡い色に縁どられたように眩しくみえて、心まで奪われそうになってしまった。
 諌子はだが、入ってきた僕に目を向けることもなく、ただ一点を注視していた。彼女だけの世界に意識をとばしていたままだった。
 僕は諌子のまえに座わり、手をとった。頬に当てて、ここにいるよ、と伝えてみるけれど、やっぱり今日も反応は返ってこない。
 けどそんなこと関係がない。
 彼女が生きて、息をしていてくれるだけでいい。僕はこんなにも幸せになれるのだから。
 きれいな瞳。だれも見ない優しい瞳。
 今日という日が最後であっても、諌子にはきっと何ひとつ関係がないだろう。だって彼女の閉じられた空間には、誰ひとり――僕さえ存在させてはいないのだから。
 心のなかに映らない僕のすがたは、彼女の光彩のうえで結ばれる像だけで、他の風景となんらかわらない。そこに生えている雑草とまったく同じである。
 諌子の長い黒髪が、風にふかれ頬にかかった。透ける白さをもつ首があまりに痛々しくて、髪をなおしてから、そっと窓を閉じた。
 「なんで僕らは二人に分かれているんだろうね、諌子」
 いっそひとつの体に溶け合ってしまいたいくらい、二人でいることが寂しくってたまらない。
 いつだって僕は、彼女の前では子供のように泣きわめいてしまいたくなる。どこにも行きたくない、もう誰とも顔をあわせたくない。そういってすがりつき、眠っていたい。
 諌子は僕を見ていない。あちら側で僕の弟と逢っているのだろうか。
 僕は背後の霊気が、絶対零度にまで冷えあがっているのを感じた。
 戸口を振りかえった。
 女が髪を逆立て、鬼面に凍ったまま立ちつくしている。声にならない悲鳴が、かたくむすんだ口から漏れきこえるようだった。
 だから言ったんだ、諌子は怖いって。
 僕はくすりと笑った。
 『――そ、そのおなごは何者なのじゃ。この光は、灼きつくすような壮絶な輝きは何なのじゃっ』
 女の叫び声にあわせて、一段と諌子の光がました。うめくように目を手で押さえ倒れ込んだ。
 『焼けるっ、焼けてしまうっ!体が、目がっ……ほんにこれは人間か?邪か魔か、いや神ではないのか?!信じられぬ……』
 「だから、特別なんだよ、諌子はね」
 諌子に頬をよせると、豊かな黒髪をかきあげ肩口に顔をうずめた。女が苦しむ様をそのままじっと見ていた。
 諌子は綺麗だ。
 そう、綺麗すぎるのだ。
 焼きつくほどに、一切の汚れを浄化してしまい、過去も未来も、僕さえも消し去り、すべてを清めた。
 植物のように口を閉ざし、心を無意識の彼方に沈め、無垢の結晶になった。
 だから彼女の周りだけは、宇宙の法則をまったくうけず、だたひたすらに清浄になって、少しでも陰の気があるものはその力に比するように、焼き清められる。猛毒と化した空気が肌を焦がす。
 でも諌子は諌子だ。僕にとってなに一つあの頃と変わっていない。
 ただ、「嗣樹ちゃん」っと、あの甘くまろやかな声で呼んでもらえない、たったそれだけのこと。
 「ほら、僕についてきた妖気が緋色に燃えているよ、綺麗だろう。諌子にはね、触らないほうがいいよ。もちろん君のためにも、僕のためにもね」
 妖魔と化している女にとっては、諌子のそばに近寄ることすら地獄の苦しみだろう。害することなど、とうてい出来ないとわかっていても、意地悪く忠告しておく。
 僕の口の端に笑みがこみあがった。女の顔が紙のように白くなりジリジリと後へさがっていった。
 ふと急に、あれほど強かった浄化の気配が薄れ、女の苦しげな顔がゆるんだ。
 僕は驚いて諌子をみた。
 「なんで諌子?」
 諌子は何も見ていない、聞いていない。だがその場の霊気は消えてなくなった。
 女がいぶかしげにしながらも、どうにか呼吸をつくと、うかがうように入ってきた。
 まったく諌子は慈悲深いんだから。僕はそんな諌子がたまらなく愛おしくて、頬をほころばせる。
 そっと髪をなでた。
 「諌子、お風呂に入ろうか。今日はバイトが休みで時間があるんだよ」
 返事をしない諌子の手をとって立ち上がらせると、彼女は素直について来た。本当はちゃんとわかっているのだ、何もかも。
 「なかなか入れてやれなくてごめんよ」
 昔はよく一緒にお風呂に入ったりして遊んだものだ。
 諌子の真っ黒くて長い髪が、お湯にフワリと広がるのがあまりにも見事なもんで、それをよく引っ張ってしまったっけ。ときには悪ふざけがすぎて、泣かしたこともあった。
 『そなたらは、夫婦だったのかえ?』
 「いや、ちがうよ」
 『兄弟のようにもみえぬが』
 「幼なじみだよ」
 『あの老婆がおるのに、なぜそなたがおなごの世話をしておるのじゃ。湯浴みの手伝いを男のそなたがせぬでも、ほかの侍女はおらぬのか?』
 背後の女が気色ばんでいる。うっとおしいな。妖怪女に常識をとかれるなんてうんざりする。
 「僕が入れるとおかしいかい?」
 『いや……だが、血縁でもない殿方が、そのように湯浴みまでの世話をするのは、ゆきすぎではないのかえ。もしかして夫婦の契りでも交わしておったか?なれば夫なら――』
 「別にそんな約束もしてないし、なんの契約も交わしてないよ」
 そんなもの、なんの役にも立たちはしない。
 意味のないことだ。僕らには、僕らを捨てた世界の法則など、なんら必要ではないのだ。
 「だったらさぁ、あんたは生まれてきた子供が裸だといって怒る?それとも医者が男だったら、妊婦に不道徳だって言うの?」
 『――それは、ちがう』
 「同じことだよ。僕は諌子の世話をしたい。諌子も他の誰もする人がいない。ただそれだけだ」
 たとえ僕らの存在が異常であっても、ここにしか住めない。諌子と僕を殺すだろうこの世界でしか生きられないのだ。
 それがどんなに苦しかろうと、僕と諌子には、いや、僕にはそれしかまだ方法がない。
 僕は空しくなった。この女に感情を引っかかれて落ち込みそうになるなんて、まったくバカみたいだ。
 吐き捨てるように言った。
 「僕は諌子を傷つけるぐらいなら、死んだ方がましだよ」
 女が言葉を飲み込みうつむいた。なぜかつらそう見えた。
 『すまぬ。訳も知らぬくせにいらぬことを申した。妾を許せ』
 「……別になにも」
 女の意外な素直さに、僕はすこし感心した。そんな正直な心根と純粋さをもっていながら、なぜ、こうまでこの世に未練をもち、彷徨わねばならないのだろう。
 いや、同情は禁物だ。どうしてやることもできない自分を知っている。軽々しく彼女の思いに触れる資格はない。
 「たぶん間違ってないんだと思うよ、普通ならね。ただ僕は、僕を拒絶したこちらの世界には、もうなんの興味もないのさ。流れが違うんだよ、僕の血に流れている根本がね」
 銀面をはった湯に、諌子がつかった。
 白い湯煙りがまとわりつき、彼女の肌をお湯がひたしていった。さざなみのようにお湯があふれ浴槽からすべり落ちた。
 気持ちよさそうに目を細めた諌子の首をタオルでなでる。
 こんなに気持ち良さそうにしているのをみると、毎日でもいれてやりたいと思ってしまう。
 でも、それもできない。こんな簡単なことすらできない自分が情けない。
 『まあ確かに、あの老女では、風呂を使わせるようなことは一生ありえぬかもしれぬな。なぜこの娘の世話をせぬ?』
 「アレはただ名のみの保護者だ。けど、もう少し必要だからね。あと少しでその資格が僕にもできる。けど実際は、まだ時間が必要だ。諌子の身の安全を得るためには、アレもまた要る道具なのさ」
 僕は本当に大切なものは何ももっていない。何もできない。だからあんたの望みも叶えてやれないんだ。わかってほしい。
 「僕たちは家族なんだ。ずっと昔からね。だから他人ではないんだ」
 女は不思議な目の色をして、僕と諌子をだまって見ていた。
 なにかを懐かしむような、遠い表情だった。しばらくしてから口をひらいた。
 『わかる……妾と殿も、また他人ではなかった。互いに好きおうておったし、夫婦の契りをかわしておった。いや、すでの腹には、子がおったのじゃ……』
 女は無意識だろう、腹をなでていた。悲しげに視線をおろし、長いまつ毛をけぶらせている。湯気が彼女の周りで冷たく渦を巻いた。
 『妾は武将の娘であっての、当時は戦乱の世であり、日々、それはそれは激しい戦いを繰りひろげておったのじゃ』
 女は目をあけた。僕たちではない、何かを見ていた。
 『父上はまだお若くていらっしゃって、たいそう武勲のある勇猛な武将ではあったが、またそれゆえに孤高のお方でもあった。妾の下には弟もおったが、まだ幼いうえに体が弱くてのう、あまり武芸の才にも恵まれておらなんだ』
 強い覚悟をきめた瞳には、まるで炎が灯ったようだった。
 「妾は、なんとしても父上のお力になりたかった。お助け申しあげたかった。父上は強ければ強いほどに、英雄の孤独を持ち合わせておられた。強者たる者のむなしさを、娘の妾だけが真にわかって差しあげることができた。――ゆえに妾はおなごであることを捨て、男のなりで父上とともに戦場を駆けめぐった。男として闘ったのじゃ』
 僕を見あげた顔は厳しかった。目の縁が赤くそまり、泣いているようにもみえる。
 『鬼姫と呼ばれ、気がつけば、自国といわず、他国のつわものどもにまで、恐れられるほどになっておったわ。戦場を駆けめぐる鬼神、鬼女。それは妾にとっては名誉な勲章でもあり、誇りであった。妾は父上の喜んでくださる顔だけで幸せなれたのじゃ。なのに、なのに……っ!』
 女の口から牙のような尖りがみえた。顔がドス黒く染まっていった。
 『たとえ他の者どもに、どのように罵られようともかまいはせなんだ。おなごのくせにと蔑まされても平気であった。したがまさかその父上まで――っ!』
 いったん息を飲む。
 『よもや父上まで、妾のことを、共に戦地を駆ける片腕ではなく、ただのおなごとしか見ておらなんだとは、思いもせなんだ。こともあろうに、使い捨ての駒のように、妾に政略結婚をすすめたのじゃ。まるでおまえの代わりは幾らでもいるといわんばかりに、政略の捨駒になれと!……妾はまこと、いつも独りであったのじゃ』
 女から流れる想いが風呂場を満たしていった。
 たちのぼる湯気に心が反射して、まるで映画の一場面のようにはっきりと像が浮かびあがっていた。
 『月の美しい夜であった。杉の根元に腰をおろし、妾は笛を吹いておった。青黒い闇のなかに現れたのは、りりしくも麗しいお方であった。月の精かと思われるほどでの』
 男は笛の音に魅かれてきたのだと、爽やかに笑った。
 互いに一目惚れだった。
 人目をしのんで逢瀬をかさねるうちに、淡く美しい恋心を育んでいった。
 男は優しかった。まるで昔からの知合いのように彼女の気持ちをわかってくれた。孤独も空しさも、互いが互いをうつしあった鏡のように似ていて、逢うごとに強く心を惹かれあい、いつしか身も心も愛し合うようになっていったのだった。
 男に抱かれることで、初めて女としての安らぎを覚えた。人の温もりが、言葉以上に彼女のなかの大きな隙間をうめて、温めてくれる。
 彼らは人に知られることなく夫婦になった。
 そうなってはもう、男がどこの誰であろうとも、もはや関係がなかった。たとえそれが山の精霊であっても、命を奪う刺客であっても、それでもいいと思っていた。いっそ、連れ去り、殺してほしいとさえ思うこともあった。
 だが現実はもっと厳しかった。彼女を打ちのめした。
 ある夜男は言った、自分が敵将の息子であり、嫡男なのだと。
 女は驚いた。そして心の底からなげいた。
 いままで夢中で愛してきた男が、自分の敬愛してやまぬ父の敵であり、今の苦しい戦いの素となっているのだ。その最も憎むべき敵方の長男であったなどとは。
 悪夢が彼女を喰いちぎり、バラバラにした。
 沈黙に流れる悲しみが、深々と僕をひたしていく。全身に染みこんでゆき、この胸のうちに彼女の鼓動が息づいてゆくようだ。
 愛しさと憎しみが同じ顔をして胸を掻きむしる。切なさと苦しさが襲い、狂気の思いがかけめぐる。生きたまま身が焦がされてゆくようだ。
 どうしてこんなに愛してしまったのだろう。どうしてこんなに愛せるのだろう。
 いま苦しみで胸が裂けたなら、きっとあの愛しくて憎いあの人が出てきてしまうに違いない。彼女の思いがひろがる。
 滴り落ちた涙が、銀面に波紋をまるく描いていった。
 家を捨てて我がもとに逃げてきてほしいと男は言った。
 父を裏切り、母も弟も、親族すべてを捨て、義務も責務も忘れて、一緒に生きてほしいと。
 ついてきてくれと言った。信じてくれと。
 気も狂わんばかりに悩んだ。
 だが、女は決意した。
 たとえこのまま離れたとしても、いつか恋に身を焦がし、死んでしまう。いや、それよりも、腹にはすでに新しい命が息づいているのだ。愛しいあの人との新しい命が、道を選ばせてしまっていた。
 この子のためにも生きなければならない。だれにも殺させるわけにはいかない。
 女の感情が、いっきに水にとけるように僕から消えさった。僕はいきなり現実に放りだされて、空虚な痛みにうめく。
 『ちょうど、この女性(じょせい)ぐらいの年であったわ』
 女が諌子をみつめて言った。
 平静な顔をしてそう言うこの女は、どこにあんなに激しい感情を潜めているのだろうか。僕のなかには彼女の思いの一滴すら残っていないけれど、僕をも飲み込もうとした感情の嵐は傷跡としてのこっている。
 『殿は……かの君は……』
 女は言いかけて、ふと目をとめ、大きくした。
 諌子に背にひかれている朱色の傷跡に止められていた。
 女は痛々しそうにそれをながめていた。自分の腹をひと撫でして、ふっとまた表情に影を落とした。
 僕は諌子の背の傷をタオルでかくした。
 この傷が、諌子を聖女にしてしまった。諌子を遠い世界に追いやり、僕の手の届かない存在にしてしまったのだ。
 聖者の烙印である。
 『その傷はどうした』
 「これは、天使の傷だよ」
 できるものなら僕がかわりに受けたかった。
「諌子が、父親に殺されかけた傷跡さ」
 それが僕だったのなら、誰も惜しまなかったのに。とっくに家族にすら捨てられていて、何度、弟のかわりにおまえが――と言われたことだろう。代わりの死を、何度ほんきで願われたのか。
 諌子のあのまぶしいほどの笑顔を、僕の命で守れたならば、どうなったってよかったのに。
 「あの外道(ブタ)はね、諌子を犯して殺そうとしたんだ。逃げた妻のかわりに、娘の諌子を――十にも満たなかった彼女を、刺し殺そうとしたんだ」
 美しい諌子を逃がすまいとして、ナイフで背をえぐった。天に帰ってしまわないように、隠してあった天使の羽をかきだそうとした。
 あの男は狂っている。
 凶暴で粗悪で、醜いあの男は、嫉妬で狂い、魔物になっていた。
 なんであの男と諌子の血がつながっているのかわからない。あいつは原罪そのものだ。
 そうして諌子は心をくだかれて、本物の天使になってしまった。
 この世のあらゆるものを置き去りにして、苦しみも悲しみも、穢れもすべてを捨て去って、美しすぎる容姿そのままに、時を止めてしまった。
 女の色も、なに一つつけずに硝子の天女になってしまったのだ。
 もしあの男が目の前にいて、諌子が望むなら、どんなことをしてでも殺してやる。
 苦しんで苦しんで血みどろになってのたうち、自ら死を乞わずにはいられないような、そんな残酷な殺し方を、笑いながらしてやるだろう。
 諌子を傷つけるものは許さない。だれであろうとも、たとえ、それが神の名を持つものであったとしても、だ。
 『よけいなことを聞いたな、許せよ』
 「別にそんなことどうだっていい。諌子が何とも思ってない今となってはね」
 『――いや、そなたのほうが、つらそうじゃ』
 女の手が僕の頬に触れた。
 驚いて女をみた。だってその手は、不思議と冷たくなかったのだ。
 僕は目を伏せたが、その手をはねのけると、諌子を風呂からだした。
 本当の僕は、きっと弱くて小さな子供のままなのだ。諌子のスカートの裾を握りしめてピーピー泣いている情けなくて非力な存在だ。
 僕は諌子がいないと生きてゆけない。諌子がいないと何もできない。帰るところすらなく、向かえてくれる(おや)さえ、遠すぎる。
 僕はただ、諌子がいるからここにいるだけで、諌子が留まるというから、この世界に留まっているだけ。
 諌子はすべてを浄化させたというのに、僕はまだできない。まだ、憎しみが胸を焼き、まだ後悔の念が、悲しみの荒波のようにうねり、押しあげる。
 諌子が許してくれなければ、僕は僕でいられなかった。きっとおぞましい物になっていただろう。
 だから諌子だけが僕の世界で、法則だ。諌子から始まって終わる。
 僕にはなんの力もない。求められるものはなにひとつ持ってないし、一人ではどうすることもできない。
 本当はしてあげたくても、できないんだ。
 だけど彼らにはそれがわからない。
 それが僕個人の力であるように思い、求めてきては失望し、叶えられないといって僕をののしり踏みつけてゆく。
 叶わないのは僕のせいではないのに。他人を頼りながら、僕を憎んでスッキリしていく。
 僕は諌子の服を着せると、部屋に戻った。
 髪を梳りながら、彼女のカラッポの心にとけ込んで安らいでいた。
 『なぜそなたはそれだけの力がありながら、他を望まずにおれるのじゃ。力の使いかた次第では、もっと多くのものを手にすることも可能であろうに。妾の願いなど簡単なものではないのかえ』
 女が僕たちをぼんやりとみながらつぶやいた。
 目を向けると、どうやらはじめに抱いていた強大な願望が失せて、今にも風に消えそうな小さな女に見えた。
 僕たちのわずかなまどろみにぼんやりと自分を投影し、うっすらと透けて周りの空気にとけ込みはじめている。
 『のう、妾の殿を探してくれぬか。あの方にひと目でよいのじゃ。ひと目逢わねば、妾は逝けぬ、どうしても逝けぬのじゃ』
 「どうして自分じゃ見つけられないの?きみほどの妖力があれば、それこそ見つけられない方が不思議じゃないのか」
 『妾とて必死で探した。だがどうあっても見つからぬ。転生したのかとも思うたが、それもわからぬ。こうしてここにはおるが、妾の心はあの時に弾けて破れてしもうた。半分しか残っておらぬ。きっと妾のもう半分は、かの君もの御側におるはずじゃ。そなたならすぐにでもわかろうはず。のう、頼まれてくれぬか。このとおりじゃ』
 頭を下げる女から、僕は視線をはずして諌子だけを見ていた。
 遠い瞳のまま、風にふかれている諌子の髪が、さらさらと部屋にたなびいて、まるでこの女の辿ってきただろう、終わることのない時間の長さを見ているような気がした。
 『妾にはもうわからぬ。捜して捜して捜しすぎて、もう、殿の魂がわからぬ。思いが体に染み込みすぎて、妾と殿の区別もつかぬ。だから――』
 「言っただろう、僕は駄目なんだよ。僕はしないんじゃなくて、できないんだ。諌子以外のためには何も――たとえ目の前で誰が息絶えようとも、それがたとえ血のつながりのある母親であったとしても、何もしてはあげられないんだ」
 女が僕をじっとみつめる。
 だって僕は諌子以外の人のためには存在していない。きっと君の方に近い存在だろう。
 僕を産んでくれたあのひとたちは決して僕を許さない。初めから信じてもくれなかった。
 ただひたすらに僕を苛みつづけ、憎みつづけている。
 否定された僕は、この世から消えた。
 でもそれも仕方がない、本当に僕の罪だったから。
 わざとでなかったとしても、殺したのは僕。その罪から逃げることはできない。
 「諌子が許してくれたから、僕は生きていられる。だから僕に頼っても無駄だよ。僕という存在に、価値はない」
 『……そなたは何を犯したのじゃ?なぜそのようにつらそうな顔をする。妾からみればそなたほどの力の持ち主であれば、栄耀栄華、この世は思いのままな気がするのに』
 そう、力を欲する者は、みななぜかそう思うらしい。
 『どうしてそのような女、心が体から離れ、見向きもせぬおなごにすがっておる。そのおなごが死ねといったら、本気で死ぬのであろう?だがそれは、本当は自分で息をするのが怖いのではないか?魂の沈んでしまった体に固執などせずとも、すぐにでもそなたなら女の魂を連れ戻せようほどに』
 そうして彼女の嘆きを見ろというのか。……また、憎まれろというのか。
 僕には耐えられない。
 彼女の魂のふかみに土足で踏み込むことは、そこで無心に眠る魂に、痛みと憎しみの道へ戻ってくれと願うことである。絶対にしたくない。
 彼女の瞳に光が戻るのを、どうして僕が一番望まなかっただろう。
 諌子の笑みが見たい。輝くばかりの笑い顔をいますぐにでも見たい。
 胸が張り裂けそうなほど求めているのは、僕自身。
 女が僕の視線に震えて身じろいだ。僕は自分のしていた鋭い表情に気づき、うつむいて唇をかんだ。
 僕のまわりの風が刃物のように電気をほとばしらせていた。感情を抑えなければ諌子まで傷つけてしまう。
 まだ、こんな感情が残っていたのかと、冷たい笑いがもれた。
 「求めないでよ。僕は、まったくの無力なんだから」
 彼女の答えは、思いがけない熱気となって僕たちに返ってきた。
 いきなり部屋中の大気が、彼女の霊気で逆巻きメラメラと燃えて赤くほとばしりはじめた。
 僕はとっさに諌子を抱いて炎をかわした。
 紅蓮にたちのぼり燃え盛っている彼女がいた。鬼女が立っていた。
 怒りとも悲しみともつかない眼が鬼面のように吊り上がっていたが、それも不思議なほど怖くはなかった。
 ただ飛礫のような怒気が肉をえぐり内臓に突き刺さってくる。彼女に対する哀れを感じるのみだ。
 『妾は逢わねばならぬ。殿から聞かねばならぬ。あのことを知らねば、どうしても心のなかの狂気がおさまらぬ!』
 女のその姿を、僕は美しいと思った。気高く荒々しい魂が、今にもこと切れる寸前の輝きで満ちている
 僕はそれでも否と、首を横にふる。
 女の形相がたちまちに変わった。もはや本気だった。感情の閃光に一滴の狂気がおちて真っ赤に染まった。
 僕はつい彼女に見とれてしまった。手元が遅れ、彼女は諌子をつかみとると、引き寄せた。
 「やめろ!」
 僕は叫んだ。
 彼女のためだ。
 女の顔は痛み大きく歪んでいた。諌子のもつ、穢れをけっして赦さぬ清浄さが、猛毒となって女を蝕んでいた。あっというまに肉がただれて、骨がのぞきだした。
 かわいそうに、かなりの苦痛だろう。ひどい異臭がする。
 だが女は必死に歯をくいしばり、僕に言った。
 『このように頼んでおるのにきかぬのなら、この女に訴えるまでじゃ。もう頼まぬ、我に従うがよいっ!』
 諌子の髪を引っ張った。あごが上がり、のどが無防備にむきだされた。あらがうこともなく無表情な顔に、女のただれて腕からとびだしている尖った骨がつきつけられた。
 「やめるんだ」
 彼女の必死ですがる気持ちがわからないわけではない。自分の消滅をかけた思いがわかる。
 それでも僕は彼女を殺せる。殺してしまえるほどの恐ろしい力を、諌子のためなら、いつだって解放することができる。
 ほっそりした首に、血の筋が走った。
 僕の中で何かが変わる。熱い衝動がつきあげ、それがゾロリと這う。
 僕が僕でなくなる瞬間がちかづく。ソレが溶けだし、どんどん僕を覆ってゆく。
 体が、熱い。
 『やっと本気になったようじゃの。探す気がおきたかえ。早ぅ願いをきかぬからじゃ』
 「……僕はね、たとえ君が本気じゃなくても殺せるんだよ。諌子を傷つけるものは許さない、それだけの理由でね」
 女の目がカッと見開いた。
 僕の相貌が変わった。
 「諌子を穢すなら、おまえの望みごとズタズタに引き裂いてやるよ。その前にたっぷりと絶望を味あわせてからな」
 諌子を抱いている腕の肉が、ボトボトと落ちだした。泥の涙のように垂れてゆき、僕たちは見つめあった。
 『あの男に逢わぬことには、どうしても逝かれぬ。尋ねねばならぬ――。そこまでの力がありながら、なぜこのように他愛もない願いを拒む』
 諌子の頬に、女のきつく見開かれた瞳から雫がおち、つたった。まるで諌子の流した涙のように思えた。
 『あの男は妾を裏切った。腹の子のために、父母も弟も、親族家臣すべてを裏切り、鬼畜と化した妾を裏切った。死と呪いにまみれ、それでも選んだこの身を、あの男は踏みにじった。皆をだまし、殺しまくり、おろかだと嘲笑った。奴は妾を迎えにこなんだのじゃ。来たのは妾を殺す刺客のみ。そして我が子とともに――』
 女は着物の方をはだけた。諌子と同じ朱の線が、ためらいもなく胸から腹に走っていた。
 『愛しい男の裏切りによって死んだ。そして最後に残された妾への罰は、この地上をひとりで彷徨うことであった。妾が殺した魂のひとつひとつを捜しだし、許しを乞わねばならなかった。それは気の遠くなる月日であったわ。ちりぢりに散った魂を手繰るだけでも遠いのに、許されねば、さらに時間がかかった。だがそうして、やっと妾は逝くことを許された。なのに、妾は逝けぬのじゃ。殿に逢うまでは逝けぬ。真実の気持ちを、妾の子を殺してまで得た物がなんであったかを、知らねば絶対に逝かれぬのじゃ!!』
 恋に狂った女の形相は、不思議と美しかった。
 胸の詰まるような迫力と寂しさは、混じりあうとこうまで見事なのだろうか。己の炎で身を焼きつくす恋は、高貴でさえある。
 『妾は信じぬ。迎えにくると言っていたあの方の顔を、あの声を。忘れられぬ。きっと、きっと迎えにくるはずじゃ。遅くなったと言って、すまぬと言って。――捜してたもれ。いますぐに願いを聞いてたもれ。頼む、頼みまする。あの方は、きっと妾への道がわからなくなっただけなのじゃ。……捜してくれねば、このおなご、妾は本気で――』
 女の焼き爛れてむきだしの骨が諌子の胸に刺し当てられた。
 孤独と狂気の影に喰われてしまった、恋に溺れたあわれで惨めな残像物。
 なのに、そうだと知っていてさえ僕はダメなのだ。
 僕は女の魂に別れを告げた。
 僕こそはエゴの塊。
 女の顔が苦痛にゆれた。永劫叶うことのない願いを秘めて、彼女はここで霧散する。
 ただひとりにすがって生きている無慈悲で無情で自分勝手な僕の手によって、願いも叶えられず原子に戻るのだ。
 女の色が失せた。
 黒髪が揺れた。
 ――諌子が動いたのだ。
 僕の殺意が彼女を殺すだろう寸前に、彼女に抱きついた。
 女のほうが、諌子からの突然の抱擁に硬直してしまっていた。抱かれたまましばらく立ち尽くしていたが、ふっと脱力したようにうなだれると、諌子の黒髪に顔をふせて肩をふるわせた。
 僕は目をつむった。
 諌子がそれだけ動いただけで、部屋にこもっていたすべてが消えていた。女の妖気も、残忍な僕の心も、彼女がすべて吸い込み消したのだ。
 あとに静けさだけが残っているのみ。
 『……はやく来て、あなた。どうして…?』
 かすれて聞こえる女の声は震えていた。鳴咽がかすかに漏れていた。
 諌子の手がうごいた。背を、なでていた。
 諌子の動かないはずの顔が、笑った。
 それだけで女の腕がみるみるもとに戻り、癒し包むようなオーラが女を抱きとる。
 ああ、諌子のあんな笑顔をみるのは何年ぶりだろう。
 なんて綺麗でやさしい――。
 子供のころとちっともかわっていない。僕が弟を――貴稀(たつき)を殺してしまう前とまったく同じで、慈悲深い彼女そのままだ。
 僕は諌子に見とれていた。
 嬉しいのに、この胸を突き刺す痛みは何?
 ああ、きっと欲だ。
 せめてその笑顔が僕に向けられたものならば、そう心の奥で思っている。
 あの時から、僕には決して見せない笑顔を、こうもたやすく他人に見せるのか。
 でもいい。
 諌子が、望むのなら、仕方がない。
 「諌子……」
 君はいつも正しい。
 諌子が望むのなら、この地球だって惜しくはない。神だって悪魔であっても、殺す。諌子のためなら、この命の最後の一滴さえ差し出そう。
 僕はみずから課していた、重く鋭い鎖をときはなった。
 それはゾロリと鈍く動きだした。
 かと思うと、もはや止まりのつかないような凄さまじいエネルギーが爆発した。
 僕を構成している粒子の全部が吹き飛ばされてしまいそうなほど激しく、全身にほとばしってゆく。
 本性がむき出される。
 違和感と、羞恥心が胸を灼き、地上で合成された闇と、悪しき意識が、血液を沸騰させる。
 肉体という小さな器には収まりきらない、幾多もの感情が逆巻いていた。僕を襲い噛みくだき、それと等しい力によって、また跳ね返されてゆく。
 僕は自分をつなぎ止めるのに必死だった。不安そうに見つめる視線の先で、人慣れぬ野獣をあつかう猛獣使いのように、放つ野生をコントロールしている。
 彼女の目には見えているのだ。
 僕がどんな力によって蹂躙されているか。どんなに醜い姿となってゆくのか。
 驚きの目が恐怖に変わり、そして、同情になってゆく。
 死はいつでも僕の隣にいる。
 この力に飲み込まれたら僕は人間ではいられない。そして、諌子の側にも、もう存在できなくなってしまう。
 それだけは絶対に嫌だ!
 意識の澱を必死に見つけだすと、それを夢中でつかみ、痛みによって我を取り戻した。
 体から僕は抜け出した。
 意識だけを飛ばし、頭上に浮かぶ、薄皮一枚をへだてた永遠ともいえる彼方の世界にもぐり込んだ。
 こんなに人間の世界の近くにありながら、決して生きて近づくことのできない亜空間。
 そこは嵐のように時が入り交じり、過去と未来と現在が混沌としながら、曲をえがいている。複雑な葉脈のように絡まって、時も空間も光と闇さえも、秩序の崩壊の上に無限にひろがり、収縮と拡張をくりかえしながら、それ自体が生き物のように猛り吠えていた。
 僕は思い切ってそれに手をのべた。
 オーロラのように可憐に見えたそこは、触れるといきなり獰猛な本性をあらわした。
 凶暴な触手で縦横無人にからみつき、何もかもを取り込もうとする。
 やさしげでいて無情な思い出が過ぎてゆく。捕らえられたら最後だ。同化させられ、吸収されてしまう。
 僕はその中の襞を一枚一枚感じていった。
 気を張りつめて、注意深く捜す。
 気の遠くなるような時間を、僕はそこで女の過去を探り当てるために費やした。そしてようやく女のそれを見つけだした。
 僕はその糸を手繰り寄せながら、それに関わったなん本かの糸を追い、未来を追った。それは拷問に近い作業である。
 僕が触れた糸、繰った糸の人生を、僕は僕の人生として体験せねばならない。
 苦しみも哀しみものりこえてきた一生を味わい、かぞえきれぬほどの人間が僕を過ぎてゆく。僕だけのものだった大切な何かが、バラバラになってゆく。
 苦痛。耐えられないほどの――。
 「見つけた!」
 あの男だった。
 男はすでに四度目の転生を果たしていた。僕は彼を引き寄せようとして強烈な跳ね返りを受けた。糸が焼ききれそうになる。
 「だめだ、連れてこれない――意識だけしか呼べない。あまりにも……遠すぎる」
 『かまいませぬ。どうぞ、意識だけもお願いします』
 諌子の手を握りしめ女が哀願するように女が言った。
 僕はその男の意識を無理やり飲み込んだ。
 これは賭だ。
 一歩間違えれば、それは本当に無惨な結果しかのこらない。
 僕だけでなく、この男意識も散々になって、無妙の闇をさまよわねばならい。
 波長がまったく会わない人間だっている。そういう人間同士でおこなう同化は、自殺と等しい。
 なんでもいいのだ、ただ一点だけでもつながりがあれば。
 だがやつは、嫌な圧迫感とともに徐々に細胞のなかに分け入ってきた。染み込んでくるものに、体の細部まで犯されてゆくような気がした。
 体液が蒸発し、細胞が死滅してゆく。諌子のためでなければ、こんなこと、絶対に我慢できない。
 ――やつと一体化した。
 したはずだった。
 だがそうなる寸前に、とつぜん体中に電撃が走った。全身に痙攣がおきて、あちこちの血管が切れて、全身が青黒くなった。
 「なんだこいつはっ!」
 ソレのなかの、何かが否定している。僕を否定し拒んでいる。
 鎌首をもたげた。男にはりついていた、二つでひとつにように合わさっていたものが、まるで生皮を脱ぐように分離した。
 口の中にそれが溜り、血の糸として流れ出た。
 嫌な味――魔だ。
 吐きだした血からあらわれたのは、なんと女だった。
 ほっそりとして半透明の裸体をした女が、うらめしそうな悲しそうな声をあげて泣いていた。
 紅い瞳から涙を流し、床に長くのびた髪が、流れ出る涙の塩のせいで縮ぢれてしまい、茶色く濡れている。
 妖怪だった。
 顔をあげて、僕をみた。
 その顔は、諌子のそばにいるあの女と同じではないか。
 僕は、そこに何かが見えそうな気がした。
 『……呼んでいたのは……やはりおまえか……』
 ふいに男の意識が僕を乗っ取った。僕ではない男の声だった。
 『いつか来ると、わかってはいたがのう……』
 『――殿っ!』
 女が諌子から離れてまえにでた。先ほどまでの弱々しさがきえて、ふしぎと稟然としてみえた。
 『殿が、いつまでも迎えに来てはくださらぬゆえに、妾がこの方に願うて、こうしてお呼びもうしあげたのです』
 そばで涙を流している妖女が、いっそう高く泣いた。
 『すべてわかっている……。すべてを覚えている。その妖女が、いつの転生に(わし)についてまわったのじゃ。何度生まれ変わろうとも、過去を思い出させた。……心休まる時はなかった。それは泣きながら儂に人の死を予言して、寿命をみせては苦しめた。だがそれもおのが業、そしてそなたを苦しめた罪。そう思って耐えておったがの。いまさら、許せとは云わぬ……憎んでおるのだろう、雪緒』
 雪緒、と呼ばれ、女の顔が泣きそうに歪んだ。
 『――ならば、どうして!なぜ妾たちをっ!』
 雪緒の瞳がうるむ。哀しみを色にすると、こんな色になるのかもしれない。
 『信じておりましたのに、ずっと待ち続けておりましたのに……なぜに来てはくださいませなんだ。……妾の腹には、殿のお子が宿っておりましたのに……』
 雪緒を哀れむように見ながら、だが男はきっぱりと云った。
 『儂は鬼じゃ』
 『……殿?』
 『儂はどうしても勝たねばならなかった。時代が天下を欲しておったことも否めぬが、それより何より、まず、父上にお目を懸けていただきたかったのじゃ』
 男の目は過去をふりかえっていた。
 『生まれたときより儂はずっと軽んじられておった。我ら一族よりも、父上はめかけの一族を愛しておった。弟ばかりに目をかけ、儂には自分の後を継ぐ器量も度量もないと決めつけておられた。儂はだが、父上になにがどうあろうとも、お心をかけていただきたかった。認められねばならなんだ。嫁してきた日より、疎んじられておった正妻の母上ためにも、一族のためにも』
 目を見張ったままの雪緒を、そのとき男がはじめて正面から見た。
 『そなたと同じだ、雪緒――』
 体が痛むように冷えた。後悔の強い念が僕の体だけでなく、心まで蝕んでゆくようだった。
 少年は、戦乱の世を生きるには、あまりにも純粋だった。一途で不器用で、自分の思いすら素直に表現することができなかった。
 弟にばかり与えらえる父の愛情と優しさ、そしてなにより信頼を手に入れたいと餓え、母親の無念も寂しさも間近で見続けて、さらにそれらを望むように教えられ、心を枯らしていった。
 それらをどのようにしても与えられぬ苦しさに、綺麗な心に鎧をまとい、鬼の面をみずから被っていったのだ。
 けれどそ、そうまでしてさえも、手に入れることはできなかった。
 そんなに、父親の愛とは手に入りにくいものだったのか。
 『信じてくれとは云わぬ。だが、儂はそなたを心底愛しいと思うておった。一時は、家も、父も――母さえも捨てようと思うたほどにな』 
 『ならばなぜです!』
 雪緒はたまらず叫んだ。
 その言葉には、否定できないほどの哀切がにじんでいた。
 『儂は弱い人間じゃ。いっそ、そなたほどの強さがあったならばと思うが――すまぬ』
 男は云わなかった。
 本当は迎えにいこうとしたことを。
 一度は本気で家も、親も、一族も捨てたことを。
 だか迎えにいくことはかなわなかった。家臣にみつかり、引き止められて気を失わされた。そうして、幾日も地下牢にとじこめられ、その間に、もはやすべてのことが行われてしまったのだった。
 雪緒は、だがもしかしたら全部わかっていたのかもしれない。
 ポロポロと涙をこぼした。紅い瞳の妖女もまた、同じ顔で泣いていた。
 『……愛しています。殿を、愛しております……。妾は、本当はなにひとつ悔いてなどおりませぬ。どのような結末であろうとも、すべては妾が決めたこと……』
 『雪緒』
 男はクッと耐えるように息をかみころした。
 僕の中から男が抜け出た。
 淡い幻影の偉丈夫が、雪緒をそうっと抱きしめる。
 二つの影がかさなり、慈しみと思いやりの海がひろがってゆく。
 絡まった糸は修正されたのだ。
 やっと今、ひとつの物語が終わりをつげる。向かうべき未来へと時がすすみはじめ、二人の姿が消えはじめてゆく。
 そのとき、神経をひっかくような悲鳴があがった。
 紅い瞳から涙を激しく流している妖女が、切れたように泣き狂いだした。涙をまき散らしながら、呪うような悲鳴をあげて訴えてくる。
 私をおいて逝かないでと。私だって愛しているのに、ずっとそばに居たいのに。こんなにも思っているのに――私は雪(あな)緒(た)なのに、と
 嘆きの思いが大きすぎて、僕にはもう、よく見えない。
 女の悲しみは長すぎた。あまりに長すぎて、あまりにも一人を求めすぎて、その歳月の魔力によって、それは命を持ってしまった。
 愛に迷い、憤り、苦しみ、不安と絶望に集まってきたもろもろの霊気や妖気を取り込んで、新しい命をもった。
 いつしか人間の悲しみを見抜き、生きる時間が読めるようになり、死の時を予言するようになった。たくさんの終末をみすぎてしまった。
 そうして妖怪となり、忌まわしい身となりはてた。それでも、愛しい男を忘れることが出来なかった。魂から離れることができなかった。
 なぜなら、彼女は雪緒の魂の半分なのだから。
 『そうじゃ……そなたは妾なのじゃ。妾の悲しみのかたまりじゃ』
 僕はようやく、あの鬼女と化すほどの雪緒から、なぜ過去も、それに見合うだけの感情も視ることができなかったのかが、わかった。
 あまりにも激しすぎて、一個の単体として独立してしまった。それほど、哀しんだということだ。
 『なれば妾のなかに帰ってくるがよい。おまえが悲しむかぎり、妾の旅もまた、終わりはせぬのだから』
 雪緒が両腕をひろげ、胸をひらいた。
 妖女は泣いているばかりで、動かなかった。
 僕はいった。
 「無駄だよ。それはもう君ではないんだ。別個の生命体として、人格をもち、愛をみつけてしまった。君でありながら君でなく、悲しみだけが、君の悲しみだ」
 『そんなっ?!』
 雪緒はじっと僕をみた。僕の中から真実を読みとろうといわんばかりだった。
 『では……妾たちは、いつまでも逝けぬということか?許される日は、来ないということか?』
 絶望は風をひきおこし、部屋の中のものが飛散りだした。諌子の髪がまいあがり、黒い龍のようにうずまき、耳鳴りがはじまる。
 僕は諌子を抱きよせた。
 雪緒の双眸から、紅いしずくが滂沱とながれた。血の、涙だった。
 男が雪緒を腕からはなし、妖女のもとへむかった。
 『そなただけ逝け、雪緒。これには儂がついていてやろう。これもまたおまえだ。おまえをこれほどまでに嘆かせたは儂の罪。なれば寂しいという気持ちが消える日まで、そばに一緒に居よう』
 『いいえっ!いいえなりませぬ。殿と一緒に逝けぬのならば、妾もまた逝けませぬ。共に居られぬのならば、意味はない。もう、もう独りはイヤです!!』
 すがりつくように男の腕にとびこんだ。二人は抱き合った。
 どうあがいても幸せな結末はおとずれぬ。誰にも幸せは訪れない。これは予定調和の出来事か。
 ふと諌子が僕の腕の中からはなれた。
 諌子の白い腕が、紅い目の妖女に差しのべられた。フワリとした何ともいえない柔らかなオーラが、包み込むように流れはじめる。
 妖女が諌子へと顔をあげた。視界に彼女を入れようとした。
 「ダメだ!こっちを見ろ!諌子じゃない、僕だ、僕の中にこい!」
 とっさに諌子がソレを受け入れようとしているのがわかり、僕は叫んでいた。諌子のまえに飛び出した。 
 諌子が受け入れるぐらいなら僕が受け入れる。君が胸をえぐられるぐらいなら、僕の心臓をくれてやる。
 君が傷つくことのほうが、苦痛だ。
 ソレはためらいもなく僕のなかの闇を認めた。懐かしいものをみたように、生まれて初めてみせる笑顔をのせて、僕の胸に飛び込んできた。
 ……ああ、よかった。
 僕で、よかった。
 きっとやさしい諌子だったら、コレの吐き出す毒には耐えらなかっただろう。
 いや、この引き攣るような、内側から汚泥で腐らすおぞましさと重みには、僕意外の誰も耐えられない。
 運命のジグソーパズルは、僕を生贄に、とっくに選んでいたのかもしれない。
 『……そなた?…そなたが、妾たちの代わりにそれを負うてくれるのかえ……?』
 女が、まさか、と言うように小さく聞いた。
 あれほど拒み手を貸すことを拒絶したのに、とうとう最後はこれを飲み込み喰ってしまったのだから。
 でももうなにも応えない。なにも見えないし、見たくなんてない。
 あんたたちの為にしたわけじゃないんだ。ぜんぶ諌子のため。諌子が望んだからだ。
 『ありがとう。……迷惑をかけてしまった。なんと無理なことをさせてしまった。まこと礼の言いようもない……』
 男が言った。
 もういい、早く居なくなってくれ。諌子のそばから消えてくれ。
 僕は目をつぶり、横を向く。
 幸せなにおいがした。感謝と、喜びのぬくもりが頬をかすめ、ちいさな声が耳を撫でた。
 『この世の者ならぬ目をした若者よ、そなたにはひとかたならぬ世話をかけてしもうた。どうか我らの感謝を受取ってほしい』
 僕の手に、何かが握らされる。
 『我らが惑い、苦しみ、彷徨うた月日と等しい、天と地のエネルギーじゃ。それですべての権力を手に入れるもよし、あらゆる富をのぞむもよし。妾の落とした涙の数だけ、力は強い守りとなるであろうぞ』
 気配がフッと消えた。
 僕は目をあけた。
 手の中には、蒼い、うっそりと光の飛沫をあげる丸い玉があった。
 あの女がさすらい苦しみながら過ごしてきた、気の遠くなる時間が、確かにそこにあった。限りなく未知数に照り、エネルギーに溢れている。
 静まりかえった部屋は、最初から何もなかったように整然としたままだった。
 僕と諌子だけがいて、いつもの空間が戻っている。手に握らされている玉がなければ、ひと時の夢だったかと思ったかもしれない。
 僕は玉をつまみあげてのぞきこんだ。見たこともない光をあげてきらめいた。
 僕は諌子と、散歩がてら庭にでると、それを桜の木の下にうめてしまった。
 風がまるで木の葉と話でもするかのように、枝をゆらし、サワサワと心地よくながれていき、諌子のまわりに木漏れ日がやわらかく差しこみ、内緒話をしているかのように、彼女に笑みを浮かび上がらせている。
 僕には、彼らがくれた玉なんて必要ない。権力も富も、妖力やエネルギー、まして守りなんて、何一ついらない。
 諌子さえ隣にいれば、諌子さえ守れることができれば、それだけで十分なのだ。
 窓が乱暴にひらかれた。
 「ちょっと嗣樹ちゃん!そんなの連れて外に出ないでおくれよ。近所の者にみられたら何を言われるかわかったもんじゃない。惚けた孫がいるなんざ、まったく恥ずかしいったらありゃしないんだからね」
 バァさんのいつもの怒鳴り声だった。
 無作法な彼岸の住人の思考が、僕らを襲う。でもそれすら慣れている。
 「ええ、すみません。すぐ入りますから」
 にっこり笑ってやる。これ以上ないくらい愛しみのあふれた、老婆ですらまどわせる蠱惑の笑みをうかべ、甘く甘くからめとる。
 意地の悪い、何かを言おうとしていた口が、そのまま声を発せずにとじられた。すこし赤らむ顔が気色わるかったが、「わかればいいんだよ」と口の中で言うと、そのまま窓を閉ざしてしまった。
 僕から言わせれば、あんたのほうが恥ずかしい生き物さ。そんな鬼みたいな顔で、根性の悪さを世間体の悪さでカバーしなくったって、だれも驚きやしないのに。
 息子が刑務所に入れられ、その罪名を知る者なら、みなあなたを軽蔑し、あざ笑うだろうだろう。
 その醜さをさげすむだろう
 でもそんなこともまた、どうだっていい。
 僕らは知っている。
 彼らがけっしてこちら側を覗くことがない、ということを。在ると知っていても、決して見はしないのだから。
 それでいい。
 僕らだけが知っている。それを観つづける。
 それだけでいい。
 たとえようもなく美しくてはかない世界。それは手に入れることのできない、永遠の明日だということを。
 いつしか降ってきた花の雨が僕らをうめてゆく。白い小花がかすみのように諌子と僕を消してゆく。
 「諌子、ずっとそばにいて。僕のそばに、一緒にいて」
 諌子の伸ばした腕にだかれ、疲れを癒す。
 そして、しばしの眠りにつく。



                                                終わり
 
 




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