天上の蒼い灯火

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8



 シンは亜希のもとへ急いでいた。
 あれから何日たったのか、実は数時間しかたっていないのか、地下で過ごした時間はさっぱりわからなかった。太陽が昇らない状況で、しかも何度か気を失ったおかげで、日にちの感覚がくるっている。
 最後にシンが亜希の家にまで行ったとき、ちょうどナギが連れ去られようとしていた現場に遭遇してしまった。
 そのため、すぐに車を追いかけてしまい、車を見失うとそのまま自宅に踵をかえしたので、その後彼女がどうなっているかわからないままだった。
 水都の最後の願いを聞き入れるために、シンはとにかく急いでいた。
 デュアラたち――いや、政府の人間たちよりも早く亜希を見つけだし、助けなくてはならないのだ。次の『聖母』は亜希に決定しており、デュアラがどういおうと、それはきっと変えられないことに違いない。
 水槽の延命装置をはずすとき、水都は初めて目をあけて、はっきりと笑顔をみせた。
 それほど美しい笑みをシンはみたことがない。
 ありがとう――と彼女は言い、魂だけは自分のものであり、行きたい場所へやっとゆける。最後に微笑んだ彼女の顔は、ひどく満足げであり、散りゆく寸前の花のごとく輝いており目に痛いほどだった。
 水都は自分の命の終わりを知ったときから、ずっとシンに助けを求めていたのだった。
 地下のあらゆる電気系統からつづくネットワークにまぎれこみ、どのようにかして自分の存在を知ってもらおうと、シンのパソコンに入り込んでは、たすけてほしいと文字をつづった。
 地下の巨大な牙城へ導くために、館内のみならず、政府や世界中の各関係機関のすべてのセキュリティーをあやつり、偽りの情報をおくったり、パスワードをひらき、シンが接触したことを必死で隠蔽しづつけてきたのだが、そのために、より激しく力を消耗してしまい、結果、寿命を縮めてしまったのだ。
 死ぬとわかっていて、惜しむものなどなにもなかった。彼女はまさに最後の力をふりしぼったのである。
 歴代の『聖母』たちのなかでも、水都は最強の力と精神力をもっていた。
 また母なるガイアの終わりの時が近づいていることをも、その聡明な知性は悟っていた。そのこともあって彼女は自分の命の使い方を決め、シンにすがったのである。
 ガイアが望まない、また『聖母』の魂すべてが望まない、無意味で悲しい連鎖を、止めてしまいたかった。
 水都は望みどおり、シンの手によって、魂を自由な空へと飛翔させていった。
 あとには幸せそうに笑う骸がひとつ残っただけである。
 シンは水槽を壊した。
 また水都の情報が入ったデーターを消去し、プログラム破壊しつくした。バックアップデータにいたるまで、すべて、水都を苦しめた何もかもをなくしてしまった。
 コンピューターのハード部分は、見た目には何一つ変わらないであろうが、大切な部分の情報もソフトも、ポッカリと穴が開いたように消えてなくなっている。発見したプログラマーたちはきっと何事が起こったのかと、泡を吹くだろう。
 こわれたセラミックの水槽から水があふれ、建物中にながれ去っていった、後には、ひっそりと水都の亡骸だけが残っていた。
 シンはソメイの(ちから)をつかい、水都をカケラ一つのこさず消滅させた。これ以上の辱めは、彼女には微塵も必要なかった。
 その足で建物をぬけ出ると、公園のようなグラウンドをつっきり、大通りにでた。速攻でタクシーを拾い、亜希の家へと急いだのである。
 なぜか亜希の安否が、途端に気になりはじめていた。
 きっとシンが心を亜希に向けたために、彼女の呼ぶ声が届きはじめたのだろう。
 亜希自身はもうずっと、シンのことを呼んでいた。ずっと心に思い、彼だけしか知らないように求めていた。どんな恐怖の中をさまよい、求めているのだろうか。
 タクシーを降りたシンは、亜希の家の戸をひくと、それは軽く触れただけであっさりと開き、鍵がすでに壊されていることに気がついた。
 部屋のなかはひどく荒らされていた。
 ところかまわず扉が開けはなたれ、苛立ちまぎれに食器や過敏がこわされていた。
 男たちの大きな靴跡が、廊下や絨毯のうえに無残につけられており、あきらかに家捜しした様子がうかがわれる。異様な気配すら、わずかだが、まだ残り香のように漂っているではないか。
 「異世界の者か……。亜希を――ナギをさらうのにやって来たのは、政府の人間ではなかったのか?」
 そう、彼らが実際にさらっていったのはナギの方だったのだから。
 デュアラの手下には、かなりの数で、魔物たちがたくさんいた。研究所の職員の大半は、その流れをくんでいる者たちであり、魂の核が人間とはどこか異なっていた。うまく隠されているようであるが、シンには一目で見抜けた。
 目をつぶり、意識を集中させて亜希の気配をさぐっていった。
 たしかにこの家にいる。
 神経をさらに鋭くして家中にまでしのばせる。細部にふれたとき、傷みのようなものが首筋に触れて、思わず顔をしかめる。
 「ナギの血の臭い?」
 シンは奥にある物置へと走った。
 両開きの戸をバンッと音がするほど乱暴にあけると、一見何もないただの荷物ばかりの部屋のようにもみえるが、そこからははっきりとナギの思いが感じられているではないか。
 目を凝らしてみれば、小さな封印の痕が、痛々しい血で施されている。
 シンはわずかだが悔しそうに眉根をよせると、それを手でぬぐった。飛沫のように血の封印は舞いあがり床から消えていく。
 「亜希、そこにいるのか?――もう大丈夫だ、出てこい」
 ダンボールの箱をどけると、こわばった体をさらに小さくし、隅のほうに丸まった亜希が、なかばぐったりとした状態ですわっていた。
 「亜希しっかりしろ!大丈夫か?!」
 シンは抱えるようにして亜希をその場から引きだすと、腕にかかえこむ。
 視点のズレている目でしばらくシンをぼんやりみていた亜希は、大気中にキラキラと光っている塵に気をとられたように腕をもちあげ、手ですくいあげた。
 ナギの封印がくだけてシンに降り注いでいるのにうっとりと見つめている。
 「きれい……キラキラして……神様みたい。神様が助けにきてくれたの?」
 「亜希?」
 シンは身体に力が入っていない亜希を横抱きにすると、そのまま居間にはこぶ。ソファーにすわらせた。
 脱水症状をおこしていたので、水をコップに汲み、口をしめらせてやるが、うまく飲めないのをみて、そのまま口移しに一口二口のませてやる。
 亜希は水がのどを通るたびに、顔つきがしっかりしてだした。
 長いまつげを何回かしばたかせると、段々と自分をのぞきこんでいるのがシンだとわかってきたようであり、目を痛いほど大きくした。
 「あっ、あっ、あっ――っ!」
 今まで必死で抑えていた感情がいっきに吹き上げたかのように、夢中でしがみついてきた。ガクガク震えながら握る指が腕にくいこみ、力の強さに思いの深さがにじむようである。
 「シン先ぱ――っ!怖い、こわい怖いっ!ああ助けて!!――怖い人が来たの、大きな化物みたいで、いきなり入ってきて姉さんを――あ、ああっナギさんが――こわい、すごくこわっ――!」
 すがりつくのにまかせたまま、シンはやさしく頭をなで、落ち着かせるように背を何度もさすってやった。まるでナギにしているかのように優しげな仕草でエネルギーを送り込む。
 耳元でささやいた。
 「ああ、怖かったな。怖い思いをしたな。よく頑張ったよ。だがもう大丈夫だ。もうヤツらはいない。おれが迎えに来たから安心しろ。――亜希、ごめんな。迎えにくるのが遅くなってしまった。よく耐えて待ってくれていた」
 その言葉をきいて、ようやく亜希の気持ちが落ち着いたのか、しばらくして、シクシクと静かに泣はじめた。
 いくぶんたってから、ようやく自分を取戻したかのように泣くのをおさえると、シンの存在を確かめるように顔をみあげた。
 呆けていた目元がはっきりしていた。
 それでもまだ心配がとれないらしく、シンの服にしがみついたまま身をよせている。まるで甘えるように、そして切なそうにまぶたを閉じたていた。
 時々まつげが揺れた。
 「……姉さんが連れ去られてしまったの。すごく大きくて、人間じゃないみたいな人たちがいきなりやってきて、姉さんを大きな腕に抱えてた。連れ去ろうとするのを、どうすることもできずにいたら、すぐに別の誰かが入ってくる気配がして――。そしたら、ナギさんがとっさに私をあそこへ隠してくれたの。出てきたらダメだっていって、戸を閉じて――すぐにナギさんの悲鳴が聞こえてきた。もう、怖くて怖くてたまらなくて、それからずっとあそこで震えてたの」
 グッと歯をくいしばる。
 「な、何度か物音がしたけど、絶対に出ちゃダメって言われてから、ひっしで息をひそめて小さくなってた……。もうダメだって何度も思った。気が狂いそうだった。体と頭がだんだん痺れて痛くなってきて、もうきっとそのままあそこで死ぬんだって……もう…」
 ポロポロと泣くのに、シンが背中をたたいた。
 亜希は不安そうに顔をあげ、青ざめた顔で、聞くのが怖くてたまらないように、ゆっくり口をひらいた。
 「……ナギさんは?……ナギさんはどうなったの?私のかわりに連れて行かれてしまったの――ごめんなさい」
 シンを上目遣いにみる目には涙がたまっていた。ずっとナギがどうなったかと心配していたのだろう。
 「ナギは……遠い場所へ――連れてゆかれてしまったよ。それで、どうしてもおまえに聞かなくてはいけないことがあるんだ」
 「遠い場所って、どこに?」
 シンは眉をひそめただけだった。
 言っても、たぶん理解できないであろう。
 「ナギはおまえの絵をひどく気にしていたはずだ。だからあの日ここに来たんだろう?……なあ、その絵をみせてくれないか」
 真剣に言うシンに、亜希はうなずくと、まだ足元がふらついていたが立ち上がった。シンからまだ恐々とした様子ではなれると、壁際にまで飛んでいた絵を拾いあげた。ナギがみせてほしいといった絵は、どうやら踏み破られることなく無事だったようである。
 シンは二枚の絵を――学校でみた不思議な絵と、木のウロが描かれている両方の絵をじっとみていた。この絵のなかに、ナギは何を感じ、何を見たのだろうか。
 たしかに普通の絵にはない磁力のような特殊な力は感じられていた。
 不安定な元素を取り込んで、しっかりとキャンパスに固定してしまい、高周波の律をそこに生みだしているようだ。
 だがこの絵のなかには、黒月界への道につながる鍵があるようには思えない。
 どちらかというと清浄であり、地球のエナジーというより、天上界のエネルギーのほうが、より近くあるように感じられる。
 どういうことだろうか。
 厳しい顔をしているシンを、じっとみつめていた亜希は、ふと思い出したように言った。
 「その絵を見に来たんだけど、そういえば、最後にナギさんと姉さんの絵を見ていたんです。そしたらあの男たちがやってきて――」
 「万理の絵?万理は絵を描くのか?」
 「ええ。だって私、はじめは姉さんの影響で描き始めたんですもの。でもその絵はいつものとは少し違ってて、姉さん嫌ってたから、物置に入れてたんです」
 「何で嫌ってた?」
 コクンとうなずく。
 「まえに、宣兄さんが別人になったときに、ちょっと気がおかしくなったって言ってたでしょう、あの時に無意識に描いたものなんです。けど、ちょっと気味が悪くて……」
 亜希は思い出したように震える息をついた。
 「それを見ていた時、男たちが入ってきて……だからナギさんはあの物置に私を――」
 「ああ」
 短くそういって、シンは納得した。
 「それを見せてくれないか?」
 「はい」
 亜希はナギを案内したときと同じように、物置へ連れていった。騒ぎであちこちひっくり返っており、古いダンボールが倒れたり、割れた火鉢から灰がながれたりして、ひどい状態だった。
 それでも扉のすぐそばの床に絵は裏をむいたまま無事なすがたで落ちていた。それを手に取ると、シンに差しだした。
 「コレです。ちょっと気持ち悪いから、ここにしまっていたんですけど」
 それを見たシンの目は、不快そうに細められた。
 尋常ではない絵だ。
 瘴気のようなものが浮かびあがり、キャンパスのうえでトグロを巻いていた。黒くて禍々しくて不吉な世界を描いたそれは、人間のえがけるであろう範疇を十分こえている。
 黒い樹のようなものが見えていた。
 ――泣き顔が浮かびあがる。
 「ナギ!?」
 一瞬、ナギが泣いている顔が見えた気がした。苦しそうに胸をおさえ、声を押し殺していた。
 暗い場所だった。
 陰気でじっとりとしていて、命のカケラもない負の世界。まさかあんな世界にいるというのであろうか。
 「……先輩?」
 シンはその絵を厳しい顔でじっとみつめていた。まるでそこからナギの気配を少しでも探ろうといわんばかりに、すべての気力と集中力をそこに注いでいる。
 亜希はなんともえない表情をしてシンをみていた。
 どうしても手が届かない、空想のなかの人物をみるように、消えゆく海のむこうにみえる蜃気楼をみるように、じっと思いをこらえ、彼の端正な顔を見続けている。
 「シン……」
 声に出さすにそう呼んだ。
 ずっと憧れていたその人と、夢にまで見ていた二人きりの空間が、こんな悲惨な状態のときにやっと叶ったのだ。
 いつもシンのとなりには誰かがいた。
 ナギであったり、エンラであったり。だれもすきいる間はなかった。シン自身が他人を排除していた部分もあたっため、声さえかけられる状態ではとてもなかった。とくに亜希のような内気な少女には、本当に遠くからひっそりと眺めるのが精一杯だったのである。
 バンッと乱暴な音がした。
 扉が壊れるかのような音だった。
 シンの体は考えるよりも先に動いていた。亜希を後ろかばいこみ、近づいてくる足音にさえ冷静にかまえている。普通に立っているだけなのに、臨戦態勢をすでにとっていて、一部の隙もない。
 お決まりのように黒いスーツを着た男たちがヌッとあらわれた。
 五、六人は居たが、濃いサングラスのむこうの顔は、どれも闘気がたちこめていた。ゆっくり歩みよって来る身のこなしだけで、普通の仕事とは縁が遠そうだと知れる。
 それでもわずかばかりに安堵の息をついたのは、彼らはみな『人間』であることだった。
 シンはそれらが、たぶん『聖母』を捕獲するためによこされた、プロの人間であろうことを察した。
 水都を解放し、水槽とプログラム壊したために、ガイアのエネルギーが乱れはじめ、そのことに激しく焦りをおぼえたプロジェクトの人間たちが、あわてて亜希の捕獲にかかったのだろう。
 誰もが油断のない構えをしていた。かなりの体術を使えるはずである。
 「よく『聖母』を見つけてくれたな坊主。我々も彼女を探してたんだ。この家のなかに気配はあるのに、どうしてもみつけられなかったんでな、まいってたところなんだ。いや、助かったよ、ありがとうな」
 ひとりの男が揶揄するように言った。普通の人間である彼らには、ナギの目くらましにひっかかり、あの場所が見つけられなかったのである。
 「あんたらに彼女を渡すつもりはないよ。おとなしく帰ってもらおうか」
 「やめときなよ兄ちゃん。この人数相手に、兄ちゃんみたいな優男が一人でどうしようっていうんだい?怪我をしないうちに尻尾をまいて帰りな」
 ガムをかんでいた男がニヤニヤわらった。ひどく下卑た顔をしていた。
 「俺たちはそのお嬢さんさえ連れて帰ればいいんだよ。――生きていれば、多少の傷はかまわないてことだし、邪魔するものがあれば、その排除は止むを得ないんだとさ。それについての生命の有無は、俺たち任せるらしいぜ。殺されたくなければ、さっさとこっちに渡して帰りな、俺たちは本気だ――っ」
 言い終わらぬうちに、男の顔が固まった。
 まるで咽喉を締め付けられたように顔が白くなりパクパクと口だけあけている。呼吸がいきなり出来なくなり、空気を必死で求めているのだ。
 「おれは『渡さない』と言ったはずだ」
 言霊の呪縛がもし見えていたなら、光のオビが男の首にするどく巻きつき、締めあげているのがわかっただろう。
 男が床に膝をついて転がった。
 シンの剣呑な目に浮かんでいるのは、殺気であった。男たちにむけたその表情は、まるでそれだけで心臓を握りつぶしてしまうような酷薄さがある。
 「きさま何をしたっ!」
 「何もしてないよ。けど、何かしようとするなら容赦はしない、ということだ」
 感情をうつさない、あまりにも怜悧で秀麗な相貌は、そこにいる屈強な男たちですら凍りつかせてしまう。
 シンが普通の人間でないことをいち早く感知した彼らは、一斉に態度をかえた。まるで見たこともない化物とでも戦うかのような鬼気を立ちのぼらせている。
 「シ、シン先輩……」
 亜希が後ろから震える声をあげた。シンはたいしたことなどないとばかりに亜希の手を軽くにぎってやった。
 「()のおれには、人間ならばなんの問題ないよ。――ちょっと離れてろ」
 まるで人ではなくなったような言葉であったが、亜希にはその通りであるという気になる。それほどシンから発している気は常人のそれとは違いすぎている。
 男の一人が、亜希と話しているのに気づき隙ができたとばかりに飛びかかってきた。
 足払いをするのに手をつき横蹴りにするが、シンは軽くかわすとそのまま全体重をかけ、つま先で男のみぞおちを激しく突きあげた。
 泡を吹いて転がる男にかまわず、二人が殴りかかってきた。一人は前方からだったが、もう一人は完全な死角となる背後だ。
 シンは腹筋をつかって男たちの頭上にまで飛びあがると、空中で一回転するなり、後方の一人の顎をくだき、もう一人の眉間に蹴りをいれる。
 二人はまるで同時に、反対側へと吹き飛ばされたように見えた。机がひっくりかえり、棚に顔をつっこむ。
 「こいつ、化物か?!」
 ここまですべて一発で、確実に急所を突いてしとめていた。
 まるで百戦錬磨の達人か、そういった特殊な訓練を受けてきた刺客のプロであるかのようだ。まったく無駄な動きというものがない。
 シンには相手の動きがすべて見えていた。動きというよりも、次に何をしようとしているのかが、まるで読むようにわかっていた。
 残っていた二人の男が懐から何かを取りだした。
 銃だった。
 瞬間、シンの手が光った。まるでそこから雷でも放たれたかのように、男が光に撃たれた。白目をむいてそのままの姿勢で倒れこんでゆく。
 まさに人間技ではない。
 「シン先輩!」
 亜希がかけ寄った。
 机のうえに倒れていた男がふところの銃を両手につかんでいた。シンが気づくより早く、引き金が引かれる。
 プシュッというくぐもった音がした。
 目のまえが血で染まるのに、シンは時間が止まったように感じられる。
 信じられぬとばかりに愕然としながらも、それでも倒れこむ亜希をとっさに抱えこんだ。
 「亜希――っ!」
 シンの腕のなかに亜希の全体重がかけられ、ヌルリとした生ぬるい感触が腕をぬらした。
 事実をさとったその瞬間、カッとまなこを凄まじく怒らせた。
 力尽きたように腕をおろした男の全身がいっきに黒く炭化し、サラサラと空気に溶けてゆく。
 まるで鎌イタチが舞うように鋭利な風が部屋をはしった。その場にいたすべての男たちが、みな人型の灰になって、渦巻く風に消えていく。
 シンは亜希を抱きしめた。
 「しっかりしろ亜希!」
 亜希の背中から鮮紅色の血がどくどくと流れ出していた。心臓近くのそこはからは、命がとめどなく流れ出している。
 「亜希っ!」
 懸命に傷口をおさえ、少しでも血が出るのを抑えようと力を注ぎ込んだ。だが、いっこうに傷口はふさがらず、足もとが血の海になってゆく。
 亜希は口の端からも血をながしていた。
 青ざめた頬はまるでガラスのように透明であり、奇妙なほど美しくみえる。
 「……シン、先輩……」
 「亜希しっかりしろ!大丈夫だ、こんな傷、すぐ治してやる」
 シンが見たこともないような形相でとり乱し呼びかけているのに、彼女はしずかに首をふった。
 彼女もまた、ガイアの愛を色濃くうけた娘である。どこかですでに感じているのだ。
 自分の終わりを悟った青ざめた顔で、気丈にもシンをまっすぐ見つめていた。
 シンは呆然としながらも流れだす感情の猛りおさまりきらず、彼から放たれているエネルギーが渦をまいている。ひっくりかえったダンボールの中から、亜希のラフスケッチであろう絵が舞いあがり、まるで落ち葉のようにふってくる。
 シンは目の前でパラパラとめくれている一冊のスケッチブックに目をとめた。
 亜希をだきとめたままそれに手をのばしゆっくりめくっていった。
 眼がだんだん大きくひらかれ、固まっていく。その表情が、しだいに耐え切れないように揺れてうごき、歯をくいしばって横をむいた。
 すべて自分の絵だったのだ。
 どのページにも、どんな絵にも自分がいた。
 よくみると、散らばっている紙切れのなかにも、シンの姿が描かれており、小さいものもあれば、シンの顔を大きく描いているものもある。まるで亜希の心のように、シンばかりである。
 いつから見ていたのだろうか。
 小学生とみられる幼いころのものもあれば、中学生、さらには高校生になった姿のシンも描かれている。
 その傍らにナギがいることもあったし、亜希自身がいる絵もあった。彼女は誰にもその思いを告げず、ひっそりと、ただひたすらにシンを描くことによって募る恋心を昇華させていたのだ。
 ずっとずっとシンを見ていた。ナギと居るときのシンの笑顔はこの上もなく優しくて、幸せそうに描かれていた。まるで写真で映したように描きうつしたそれらは、きっとダンボール一杯分よりもっと多いはずである。
 「亜希――」
 「ごめんなさい……わたし先輩ばっかり見てたの。先輩だけをずっと、ずっと……」
 少女の目に涙がもりあがった。
 目じりからつッとこぼれ、髪の毛にながれ染みこんでいった。亜希は目を閉じた。
 「シン先輩が、ナギさんだけを見ていたのも知っているし、ナギさんだけが大切な存在だっていうのもわかってた。だから、何も言う気はなかった……」
 シンは何も言えなかった。
 誰かが、自分などを見ているとは、これっぽっちも考えたことがなかった。自分を好きな人間がいるなんて、思いもしない。
 「ナギさんが消えてから、ずっと苦しそうだったのを、知ってた。……思いにふけるように目を遠くにむけていて、とても……近づけなか…っ」
 亜希は咳き込んだ。血の塊を吐いた。
 「亜希?!」
 「……でも、あなたが笑ってくれたら……きっと私も幸せになれる……もっと近づくことが……できる……そう、思う……」
 喘鳴が大きくなり、肩で息をつきいているのに、だんだん呼吸が弱くなってゆく。背中からの出血で、意識が朦朧としてきている。
 それでもシンの腕をにぎる力は、おどろくほど強く感じられていた。
 「シン……もっと、求めて……。あなたのそばには、本当は……たくさんの幸せがある……気づいて……あなたを…守っている存在がそこに、居る……私と同じように、見てる……」
 「おれを、見ている?」
 亜希はうなずいた。
 「もっと、心をひらいて…もっと、もっと見て……求めなければ、なにも手に入らない……なにも、得られ、ないっ」
 亜希は涙をながした。
 シンの腕を掴んでいた手を、はなした。
 「私も、早く気づけば…よかった……おそ、すぎ……」
 目をひらきシンをまっすぐ見つめた。
 透明な、どこまでも透き通る湖のような瞳に、シンは心を揺らされる。
 「あなたが、好き……」
 ため息のような言葉だった。
 「あなたが、好きシン……」
 亜希は、目を潤ませているシンに笑うと、満足したように息を吐いた。
 「早く、好きな人を助けに行って……あなたは、遅れない…で。好き、なら……好きって、伝えて……後悔、しちゃダメっ」
 頬によせてようとしていた手が、パタリと落ちた。
 「好き……」
 それから先、永久に、亜希は動くことはなかった。
 鼓動をとめてしまった。
 「亜希?……亜希っ!」
 どこかそれでも満足げに微笑んでいる彼女の死に顔は、愛するものの腕に抱かれて逝けた喜びからだろか。それとも思いを最後につげることができ、思い残すことがなくなったからだろうか。
 とても、穏やかだった。
 シンは彼女の言葉が耳に反響していた。
 耳鳴りのように繰り返し、しだいにそれらは現実味をおびはじめていった。胸を我慢できないほどの痛みが突きあげて、激しくゆさぶられてゆく。
 背後でゴウッと風音がした。家中のものがシンの感情の風に巻き込まれて舞っていた。
 ふとふりかえったシンの目に、あの絵がみえていた。
 万理の描いた、あの不吉な絵。
 暗黒の世界をうつしとった魔界の絵である。
 絵は風を吸い込んでいた。ポッカリとそこは開いていた。
 亜希のすべての絵が、まるでシンへの思いを告げて、すべてを満足しかえってゆくように、その中へ消えてゆく。思い残すこともなく、自分がいたという痕跡すら消し去るかのように闇の向こう側へもどってゆく。
 入り口だった。
 シンが求めていた黒月界へ道、その場所だ。
 「亜希――」
 亜希の最後の思いでもって、次元の扉を開いてくれたのだろうか。
 ナギを迎えに行けと、後悔するなと、そういっているようにシンにははっきりと聞こえてくる。
 足元に張りついた一枚の絵を手にとった。
 偶然にも、それはナギが見ていたという、あのウロの樹の絵であった。
 まるで亜希の思い出だというように、シンはそれをポケットにつっこんだ。こんな自分をずっと見つめつづけ、自分のために最後まで必死で黒月界の扉をひらいてくれた少女がくれた、たったひとつの名残であるかのように。
 「ナギ……」
 シンはまよいもなくそこへ足をふみこんだ。
 その絵のなかに飛び込んでいったのだった。




 シオンが血を吐いていなくなってから数日の間、ナギの部屋にはだれも訪れなかった。
 ベッドが片付けられていたり、新しい花や果物が置かれていたりするのだから、誰かは来ているはずはないのだが、ナギにはいつ来たのか、誰が来たのかわからなかった。
 体のダルさがいっそう増し、少し動くだけで息が切れてしまうので、思うように動けなくなっていた。すぐに疲れてしまううえに、片方しか見えていない左の目は、闇を見すぎるとひどく痛んで視界が濁り、ひどい頭痛をよぶのである。
 眠ってすごすことが多くなっていた。
 ナギはそうなってから、ようやくシオンの守りが大きく自分のうえにあり、黒月界の無の影がかなり薄まっていたことを知った。
 夢うつつで過ごすなか、ナギは自分を呼ぶ声をずっと聞いていた。
 まるで天上界にいたころ、森の木々がナギの訪れを歓迎し、極上の甘い蜜のようなエナジーを分けてくれながら、歌を奏でてくれていたのとよく似ている。
 柔らかい風と葉がすれあう音が響きあい、天女が身につけるという羽衣のようにそれは柔らかくナギをくるんでいた。
 優しさに満ちた声で慰めてくれるのに、同時に、ソメイを覆っていたあの呪い闇のように冷たくて、永遠にさまよう無明の孤独のごとく、どこまでもつらく寂しい怨嗟の声のようでもある。
 ナギはその声を聞き続けているうちに、どうしてもどこかに行かねばならないような気がしはじめていた。
 自分のなかの何かが、そこへ行かねば二つに裂けてしまうように感じられて、とうとう耐え切れず重い体をベッドから起こした。
 その振動からか、傍らにおいてあった花が、まるでナギが触れるのを待っていたかのように自ら細い枝から落ちてきて、ナギの胸のうえで消えてちった。
 「あっ……」
 花が笑ったような気がした。
 体がスッと楽になった。
 ナギの体のこわばりがゆるむと、枝についていたすべての花が、すべてハラハラと花びらを散らし、ナギのまわりに降りそそぎ、そのまま消えてゆく。まるで自らわが子に乳をあたえる母の手のようにあたたかくて、花のもたらす無常の痛みは、なぜかそのときだけは感じられなかった。
 「ごめんね、みんな……。でも、ありがとう!」
 呼び声のもとにゆくことを、花たちまでが望んでいるようではないか。
 ナギは立ちあがった。衰弱していたナギの体は、エネルギーによって回復し、足元がふらつかないまでになっていて、どうにか歩けた。
 開かないと思いつつも、そっと扉を押してみる。
 あっけなくそこはひらいた。
 ナギに起きる気力がないと思ったのだろうか、鍵はなぜかかけられていなかったのだ。
 そっと扉のむこう側に、小さな頭を少しだけ出し、辺りをうかがった。
 だれの気配も外にないことを見てとると、ナギはスルリと部屋を抜けだしていく。
 薄闇のなか、長い廊下をこえて、さぐるようにして突き当りの階段にまで歩いていった。ナギを呼ぶ声に導かれて、迷うことなく降りてゆく。
 そのあいだ、不思議なほどに誰とも出会わなかった。
 静かすぎる建物は、まるでナギを閉じ込め――迎えるためだけにたてられた宮殿のように静まりかえっていた。
 目を凝らしてよく見てみると、瀟洒な置物も、花器や飾り棚の優美さも、ナギの雰囲気にとてもよく合っている。足触りの優しい絨毯はナギの小さな足をわずかも傷つけなかったし、足音さえたてなかった。
 華美にならず、それでいて冷たくなりすぎない、柔らかな色調がどこにも使われて、それは物々しいしつらえの部屋だと落ち着けない控えめな性質をよく知っている人物が、特別に選んだかのようである。
 階段をくだってゆく途中に、一つだけが扉がひらかれている部屋があった。
 何かに惹かれるようにナギはそこへ入ってみた。
 そこからさらに別の場所へとつづく通路がのびており、先にはまた階段がくだっている。
 すぐに乱れてしまう息をどうにか整えながら、ナギはゆっくりとそこを降りていった。空気が下るにつれてだんだんピリピリとしはじめ、冷たい邪気が昇りはじめてきた。
 石畳のうす暗い部屋がみえた。
 地上に降りたということは、なんとなくわかったが、そこには窓もなく、締め切った空間がどんよりと広がり、まるでそれひとつで異様な生き物のような気配が感じられていた。独特の空気と空間を、ナギの肌はなぜかおぼえている。
 影に紛れて中へ入っていった。
 ひどく心ざわめく気配を感じた。
 危険かもしれないと思うのに、先にゆく足をどうしても止められずまっすぐ進んでゆく。
 突き当たったそこには、格子が天井からおりていて、それは部屋の端までつづいていた。まるで牢獄のようではないか。
 目が慣れてくると、そこにたくさんの人が居ることがわかった。
 この黒月界にいるはずのないはずの、地球の人間たちではないか。
 人の持つ魂の核が、彼らにはちゃんとあった。オーラこそかなり薄まっており、多少歪んではいたが、ちゃんと人のもつ色をしていた。この空間も人間に耐えられるだけの空気をみたしている。
 ただ、彼らのもっている精気あまりにも色褪せていて、生きるうえで必要とする何か大切なものを欠いて、痛々しいようであった。
 ナギはそれを知っていた。
 なぜならば、ついこの間まで、ナギはそちらの世界にいたのだから。
 「ここは……この人たちは…?」
 嫌な予感がした。
 先ほど胸に散っていった花たちが、はっきりと脳裏に浮かんできた。
 ―― 一つの命から、一つの命しか贖えない。
 そう言ったシオンの言葉が甦えってくる。
 ここにいる人間たちは、地球に突如あらわれた人形の――本物なのである。
 ナギは視線をあげた。
 座り込んでいる人たちの向こうに、その顔をとらえたナギは、思わず声をだしていた。
 「か、母さん――?!」
 違うのではないかと目を凝らすように大きくした。
 できるならば違っていて欲しいと願いを込めてじっと見つめていたのだが、次第にたまらなくなったように閉じ、口に手をあてて叫びたい衝動を押し殺していた。
 「母さんっ……!なんでこんなところに?!」
 ナギはおもわず鉄格子に必死手をかけていた。ビクともしないとわかっているのに、格子をあけようと思いきり引っ張ってみる。音もたてないどころか、手に痛いような冷たさを返してくるだけで、ひどくもどかしくてつらい。
 「母さん、美保――!」
 呆としたままぼんやり座っている美保にむけて、ナギは思わず呼びかけていた。そんな風に魂まで抜けきったみたいな顔で、何もかもをあきらめ、死んだ表情をしていることが我慢ならなかった。
 美保は名前を呼ばれ、まるで自分で認識したわけではないのだろうが反射的に顔が動いた、といわんばかりに首をこちらに向ける。
 ナギを視界に映したはずのその目は、だが、まるでまったく知らない赤の他人をみるよりも、さらになんの感情も浮かべていなかった。わずかも表情を変わることもなく、思考さえもっていないように、ただナギを見ているだけである。
 「……母さん…」
 格子を握っていた手を、そっと彼女のほうへ隙間から伸ばした。
 もうずっと昔にあきらめたはずなのに、それでも消しきれない最後の絆がそこにあった。美保に手を伸ばさずにいられなかった。
 じっと見ていた美保は、ナギのなかの何に誘われたのか、気まぐれのようにソロリとこちらにやってきていた。あまりつらくて懸命な顔をしているので、可哀想になったのかもしれない。
 「あなたは誰……?なぜ私の名を呼ぶの……?」
 「か、かあさ――美保……っ!」
 「なぜ、私のことを呼ぶの?知ってる人?どこかで会ったこと、あった?」
 ナギは、たえきれないように首をふった。イヤだというように、なんの感情もなく見つめられるのに耐えられないかのように、横にふる。
 「どうして、あなたがここにいるの?なんでこんな所に、連れて来られてしまったの?――ねえ、勇は、勇のことはいいの?――お母さん!」
 「勇……」
 その言葉にだけ、美保はわずかに反応した。
 わずかな悲しみの色が瞳にのぼる。そんな表情だけが、どこかナギに似てみえてしまう。綺麗なのにひどく胸をいたませてしまうのだ。
 悲しい顔だけ似ているなんて、なんて皮肉な親子なのだろう。
 「あの子なら大丈夫よ――。勇はひとりでも生きてゆけるわ。私がいなくても、ちゃんとあの世界で生きてゆける、強くていい子よ」
 うつろな瞳が、勇の名をくちずさむと優しくなった。
 「……だって私はね、息子を殺したのよ……だから罰をうけているの。私はあの子を愛せなかった……どうしても、最後まで、愛せなかった――」
 ボンヤリ言うのに、ナギの心臓が止まるかと思うほど締めつけられた。
 自分のことを、言っている。
 「私はどうしても愛せなかった。はじめからあの子が好きじゃなかったのよ。そう、だってあの人が愛そう、大切にしようって言ってくれたから、我慢して愛するフリを――努力を続けてきただけなのよ。でも、それもとうとうダメになっちゃった……」
 ナギは自分でも知らぬ間に『違う』とつぶやいていた。
 知っていたのだ。美保が自分を愛せず苦しんでいたことを。必死で努力していたことを。
 見ていて気の毒になるくらい、彼女は子供を愛せない自分を責めていた。
 愛さねばと追い詰め、自虐的になり、そしてだんだん心を壊してしまった。ずっとそばで見ていたナギだからこそ、その痛々しい姿も、心も、すべてを知っている。
 そして、知っているからこそ、もういいよと、何度も言いたかった。
 もうよくわかったから、あなたの努力も懸命さもわかっているから、もう苦しまないで。自分を許してあげて、とそうずっと声をかけたかった。
 ナギもまた、愛されぬ自分に、苦しんできたのだ。どうしようもないことがあることを、知っている。
 「ねえ、私はひどい母親でしょう?腹を痛めたわが子が愛せないなんて、最低よね。でも、あの人が、自分の子供でもないのに『息子』にしてくれたから、私は殺さずにすんでいたの。愛情を注いでくれていたから、私も愛そうと思えたし、努力だってできた……。だって、私を犯して自殺したあの憎い義父(おとこ)の子なんですもの。殺したいほど憎いあの男が私を無理やり……」
 ナギは必死で涙をこらえた。今泣けば、とまりがつかなくなって動けなくなってしまう。
 「あの人が許してくれたから、頑張ろうと思えたのに……」
 大声をあげて泣き叫びたかった。ごめんなさい、ごめんなさい、生まれてきてしまって、苦しめてしまってごめんなさい。命が宿ってしまって、ごめんなさい。
 どうぞ許してください。あなたを母親に選んでしまったわたしの罪を、許してください――。そう叫び許しを請いたい。
 そこまで苦しんでさえ、母親は努力してくれたのに、なのに、その一番大切なひとまでも自分は奪ってしまったのだ。
 「ぼくを、庇うことなんてなかったのに……。ぼくなんてどうでもよかったのに……お父さん、なぜこの憐れな人を、救ってあげてくれなかったんですか。ぼくじゃなくて、なんでこの人を……」
 ナギがすべてを無為にしてしまった。
 美保の努力も、父の愛も、すべての灰燼に帰してしまった。
 胸が張り裂けてしまえばいいのに。そうしたら汚れた血がすべて流れ出てしまうかもしれないではないか。
 美保は不思議な顔をしてナギを見ていた。
 「どうしてあなたがそんな顔をするの?――なぜ泣くの?だって殺したのはあの子よ。私が愛せず、殺してしまったのは、あの子なのよ」
 ナギはうなだれた。果てしない美保の絶望は、自分が生んだのである。
 「私の不幸はあの子からはじまった。でも、私は知っているわ、それがすべてあの子のせいじゃないって」
 「かあ、さん――?」
 「でも私は、何度でもあの子を殺す。殺すの。あの子がいる限り、私の苦しみは終わらないから。だから殺す」
 クククッと自嘲的に笑った。
 「――嘘よ。あの子が死んでも私は楽にならなかったわ。生きていても、死んでいても、私をあの子が苦しめることには変わりないのよ。もう、私は生きることに疲れた。疲れてしまった……はやく、あの人のそばに逝きたい……」
 「だ、だって――そしたら勇はどうするの?勇をおいていっていいの?」
 「そう、勇だけが私のせめてもの救いだった。あの子は普通の子供だったわ。(なぎ)とは違う普通のただの平凡な、いい子よ。――和は何もかもが違いすぎてた。違いすぎて怖かった。罪の子なのに、あまりにも綺麗で、綺麗すぎて――姿かたちだけじゃなく、心まで優しくて、たまらなく嫌だったわ。私を刺激しないようにいつもひっそりとして、私を気遣ったりして、憐れむかのようにいつも見ていた。あの眼が澄みすぎていて怖い。人間じゃないみたいに、あんまりにも美しすぎて、私の――罪の子じゃないみたいっ!」
 他人と違うということは――何かが過ぎてしまうということは、それだけで普通の平凡な生活のなかでは、罪になってしまうのかもしれない。母親すら怯えさすナギの透明さは、罪だったのだろうか。
 「私が殺したのよ。助けられるのに助けなかった。燃え落ちる炎のなかで、じっとこっちをみている和の眼が忘れられない。……すべてを悟って、まるで私に別れを告げていたあの綺麗な目が――私を責めつづける。ああ、なんて残酷な、なんてひどい悪夢……っ!」
 その記憶が、美保を新しい悪夢に引きずり込み、人生に新たなる苦痛を加えたのである。
 「あの子なんて生まれてこなければよかったのにっ!」
 生きていても死んでいても、胸に刺さった棘であることには変わりないのだ。
 本当に生まなければよかった。
 もはや美保はナギなど見ておらず、自分の思いのなかへ入りこんでしまった。目は遠い後悔の場所を、延々と繰り返しみつめており、ただボンヤリとしているようにしかみえない。
 ナギは心がバラバラになりそう気がした。
 無数に砕け散り、もはや拾い集めようがない。
 棘であることの痛みが、自分で自分をもっと傷つけて、抜けないほど深く突きたってしまった。
 胸が破裂しそうだった。
 痛みにこの身から破れて出てくるものは、きっと罪の証なのだろう。たった一人の愛しい母を嘆かせた、それが一番最初めの大きな罪なのだ。
 声が背後から聞こえてきた。だんだん大きくなったかと思うと、二人の男が別の扉から入ってくるのが見えた。
 今まで扉の存在など気づきもしなかったが、どうやらそれは外につながっているらしく、背後には薄暗い大地がみえている。
 開け放たれた扉から、命をもたない大空が流れ込み、部屋の空気を侵食しながら、負の思念をかきたてていった。
 男たちは、床に膝をついたまま動けないでいるナギなど見えていないかのように無私し、格子をあけると、すぐそばに居た美保と、となりの女をつかみあげた。
 抵抗もない彼女らを乱暴に引っ張りだし、そのまま格子を閉じると、ひきずるようにして彼女たちを連れてゆく。
 ナギはとっさにそれの意味することを悟った。
 「待って、連れてゆかないで!――母さんを連れてゆかないで、殺さないでっ!」
 『贄』にする気なのだ。美保を『樹』の供物として捧げようとしているのだ。
 叫びながら、異形の男たちを追っていこうとした。が、ガクガクして体が思うように動かない。もどかしい自分を叱咤し、後を必死で負っていたつもりだったが、現実のナギはただよろけながら歩いているだけだった。
 「お願いっ、やめて連れてゆかないでっ!」
 長いローブの裾につまずき、前につんのめって転びかけた。
 石畳にうちつけられる寸前、誰かの腕に抱きこまれる。
 ナギはだが、それにも気づかないで懇願しつづけ、叫んでいた。
 「お願い!アレはあの人のせいじゃないんだ。愛せないのは、母さんが悪いんじゃないんだ。――全部、全部あの人に悪夢をみせたぼくが悪い、ぼくが悪いんだ……っ!」
 思考が乱れて訳がわからなくなっていった。
 どうしてなのだろう。
 なぜ、すべての人がナギのことを忘れたというのに、一番忘れてほしい美保だけが覚えているのだ。なにが悪くて、あの人の悪夢を終わらせてくれなかったというのか。
 自分のことを忘れていると思っていたからこそ、美保が幸せになっているのだと疑いもしなかった。ずっと苦しみの根源である自分を忘れ、幸せになってくれることだけを望んでいた。
 「なんで、忘れてくれなかったの……?」
 「もちろん忘れていたさ。おまえのことをすべて忘れていたのだよ」
 その声で、やっと気づいたように自分を抱いている男をみあげた。
 シオンの、あのどこまでも昏く悲愁にみちた瞳が、じっとナギの姿だけを捕らえていた。彼の顔はソメイから、もとの顔にもどされていた。
 「シオン様……」
 「あの女の闇は深い。深くて残酷で、だから自分で自分を傷つけることでしか、生きてゆかれなかったのだ。あらゆる苦しみに疲れ果て、生きることすべてをあきらめたがために、とうとう鬼に連れてこられてしまった。そしてここに来たことによって、皮肉なことにも、再びおまえを思い出してしまったのだよ、ナギ」
 「お願いです!シオン様、お願いあの人を殺さないで――っ」
 ナギはシオンにすがりついた。身が痺れるように痛んだが、そんなことなど気にならなかった。
 「あの憐れな人が、このまま何の喜びも知らずに死んでゆくなんてあんまりです。たった一つの楽しさもしらず、何もかもに絶望したまま消えてしまうなんて、そんなこと、ぼくには耐えられない!」
 「だがアレは、今日の大切な贄だ。あの極上の悲しみは、『樹』にこれ以上ない力を与えてくれるだろう。それを本人も望んでいるのだ。彼女はずっと死にたがっていたのだよ、ナギ」
 その思いは、何より樹に美しい花を咲かせる。花は美しければ美しいほど、人々に最高のエネルギーを与えてくれる。
 「あの女の花で、おまえの花嫁のベールを作ろうと思っていたのだ。さぞ美しいものができることであろう」
 ナギの髪をそっと指ですくい、柔らかい感触を楽しみながら微笑する。シオンの言葉に耐え切れないように眼をみはるナギを、面白そうにみている。
 フワリと、薄い膜のようなものが二人を包みこんだ。
 そのまま浮かび上がり、かすかに揺れたかと思うと、次の瞬間には、一本の巨大な樹のまえに浮かんでいた。
 樹は一番頂上が見えないくらいにまで高くそびえたち、城の半分をその枝ですっぽりとおおうほどに繁っていた。幹は頑健で壁かと思われるほど太くひろがり、根も隆々と大地をもちあげている。
 まさに神話のなかに出てくる、世界樹を思わせるような大木であった。
 雲のように広がった枝には、姿の厳しさ似合わない可憐な白い花がホロホロとついている。馨しい匂いをはなち、けぶるような霞がかかってみえる。
 これこそが、白樹王と呼ばれる命の樹であった。
 それから放たれるエナジーが、この世界のすべてを養っている源であり、この暗黒空間における唯一のエネルギーでもあった。
 それほど強く活性化しており、また樹から放たれたエネルギーが届いている範囲にのみ、人の住む居住空間がひろがっている。
 だがある境目でまるでくると、突然断ち切られたかのようにエネルギーは消え失せ、あとは黒い森が昏々とつづいているばかりである。
 まるで生き物たちが勢力争いをしているかのように、その際でせめぎあっている。微妙なバランスである。
 樹のエネルギーも、より強くて心地よい場所にだけ、貴族や権力者が住んでいた。だんだん薄くなるにつれて、家の様子も貧しくなり、人々の数も減っていき、そこを過ぎると、あとは闇だけが支配している魔の空間となる。
 ナギはあまりに立派な樹と、そこに含まれる威力に、圧倒されて気が遠くなりそうだった。畏敬の念を覚えずにはないその姿を、以前どこかでみたことがある気がするのだ。
 だがそれを考える暇もなく、足元にある美保の姿に意識が釘づけになった。
 樹の根元に、人間が二、三ぐらいはすっぽり入りそうな巨大なウロがあり、ウロの前まで連れて行かれた二人の女は、ぼうっと樹をみあげ、少しうっとりとしているようにみえた。
 男たちが何か言うのに、まるで反応せずにいた。赤子のようにウロを興味深々でみつめて、少し幸せそうに微笑んでいる。
 ナギは思わず胸のあたりの服を強く握った。
 「母さん……っ」
 「この白樹王が、この闇の世界のすべての生きる物を養っているのだ。この樹が出すエネルギーなくして、この世界はありえない。この樹がなくなれば、あの黒い呪われた森が、すぐさま世界を飲み込み、何もかもを喰らい尽くし殺してしまうことだろう」
 ナギの小さな顎をつかみあげた。
 「それでもおまえは白樹王に贄を与えるなと言うのか?この世界すべての者にエネルギー不足で死ねというか?」
 あざけるように言い、ナギの苦しむさまを楽しんでいる。
 ナギは震えながら何度か口をひらいては閉じていた。やっと溜めていた息を吐き出すように言葉をつむいだ。
 「――あの人には、まだ希望が残っているはずなんです。まだ、ぼくの弟がいるんです。勇が、あともう少ししたら、かならずあの人に喜びを教えてくれる。きっと家族の喜びを、母に与えてくれるんです。まだ希望が残っている。――勇には、まだ母親が必要なはずなんだ」
 「あの女はずっと死にたがっていた。あれほど花になることを喜んでいるではないか」
 二人の視線の先にいる美保は、うっとりとした顔で、樹とウロを交互にみている。
 「それはまだあのひとが知らないからです!喜びを、生きていることの嬉しさをなにも知らないから――っ!」
 「では、もしあの女を助けたとしよう。すぐに、ほかの誰かが代わりに贄として連れてこられるのだぞ。おまえはどうする?」
 面白がるように言うシオンに、ナギは力つきたように力なく座りこみ、顔を手でおおった。指のあいだから、涙がこぼれておちていった。
 ナギは自分のことで泣いたことがあまりなかった。いつも涙をこぼすのは、誰かのことを思ってであり、その人の心を思ったとき、自然に涙がこぼれおちるのだ。
 美保の言葉を聞いたときでさえ、あれほど悲しくて、痛んで痛んで、熱く焼けるように目が痛んだのに、どうしても涙は流れなかった。美保が可哀想すぎて、憐れで、ナギがもって生まれた罪が苦しくて、泣くことすらできなかった。
 ならば、今流している涙は、なんのためであろうか。
 自分の影におびえて苦しむ、憐れな母親への憐憫の情なのか。命が宿った時からはじまる己の罪深さへの懺悔か。それとも存在の醜さと、原罪への懊悩であろうか。
 誰かが母のための代わりになると知りつつ、それでも美保の幸せを祈らずにいられない。自分の浅ましさも醜さも、ナギには消せはしない。
 誰かのために、なぜ誰かが犠牲にならなくてはならないのだろう。どうして、そんな人間が存在し、こんなに悲しすぎる世界が存在するのだろうか。
 ナギの涙がこぼれ、小さな空間のなかを浮遊していた。
 白く発光しながら、何ともいえない色をたたえ見るものの魂さえ奪うようなまばゆさ瞬いていた。
 シオンはそれをうっとりと眺めていた。その涙の球を指に止まらせる。
 「美しい……こんな美しいものを、わたしは今だかつて見たことがない」
 光は高純度に精製されたエネルギーのかたまりであった。それ一個でどれほどの力があるかわからない。
 人形の肌を透過し、シオンの本当の肌をうつして浅黒くなっていた皮膚が、涙の光をあびて白く澄んでいった。この世界の闇を呼吸する者がもっている特有の腐食が、なんとその光によって癒され、消えているのだ。
 エネルギーの濃度が高くなりすぎたためか、光をあげる二人を包んでいた膜が地へとゆっくり降りていった。ナギの流す涙はとまることなく、さらに純度のたかい白い光をましていった。
 「ナギ…ナギ……ああ、おまえは素晴らしい。おまえは命の源だ。この世界の光の女王となるだろう」
 うっとりとしたシオンはナギを抱き寄せた。
 「おまえがわたしのものになるのならば、贄をやめてもいい。おまえのこのエネルギーがあれば、この世界は救われるかもしれない」
 涙に濡れる目をあげ、ナギはシオンをみつめた。
 そのまま優しく押し倒されるように横になったナギのそばに腕をつくと、顔をよせ、長いまつげにたまる水滴に唇をよせてきた。
 「わたしのものになれ。わたしの子を産むのだ、ナギ。――おまえがわたしに抱かれるならば、母の命は助けよう。おまえが私の子を産むなら、贄はとりやめよう」
 「シオン……様」
 強く抱きしめられ、ナギの体はきしむように震えた。彼の感情が、無防備なままのナギに流れ込み、すくむような恐怖を与えていく。
 本気であった。彼は本気でナギを欲している。すべてを手に入れたがっている。
 「シ、シオン様、ぼくは――」
 「怖いか?この醜いわたしに抱かれるのは嫌か?そんな顔をするほど、厭なのか!?」
 咽喉に噛みつかれた。
 噛みつかれたのではなかったが、それほど肌がヒリつき痛んで小さく悲鳴をあげた。
 シオンの手はナギの肩にかかる布を留めていたフィブラをはずした。スルリと布がとけ、肩が露わになってゆく。
 鎖骨の浮きあがった白くなめまかし首筋に唇をはわせ、片手でシュルシュルと布をといていった。薄い絹はナギの身体からはずれ、肌が徐々に空気にさらされてゆく。
 ナギの存在を渇望しているのがわかる。
 ナギは身動きすらできなかった。
 怖かったことも本当だが、それよりもナギに抵抗をさせなかったのは、まさぐる手や唇から伝わってくる、シオンのその思いだった。
 言葉にできないような飢え苦しむ切ない思いが、ナギの体から力を奪い、心のエネルギーをも萎れさせしまった。
 ここでもしナギが、わずかでもシオンを否定すれば、彼はどれほど傷つくことだろう。どれほど彼が自分の醜い姿を嘆き、厭うているかということが、痛いほど伝わってくる。
 今の彼にとっては、ナギの抵抗は、自分の存在すべての否定と同じことであった。行為の否定ではなく、シオンそのものを拒絶することになってしまう。
 そんなことは出来なかった。
 彼を傷つけ否定するなどできないほど、真剣で一途な感情がナギになかにじかにもぐりこみ、心に絡めとっていった。
 もしこんな体ひとつで贖えるなら、与えもいいのではないか。彼の今までの苦しみをそれで癒すことができるのなら、惜しむほどのことなど何もないのではないか。そう思えてきた。
 体に感じる嫌悪感は否めない。そぐわないエネルギーによる痛みも大きい。それでもナギは、じっとこらえ、身が焼けるような痛みと恐怖を我慢する。
 胸がはだけられた。
 小さな膨らみは、まだ誰にもさわられたことがない処女地そのままの白さであり、ほんのりとピンク色に尖ったそこは、小指ほどの大きさもない。
 そっと口付けられた。
 ナギはたまらぬように体に力を入れ、悲鳴をあげそうな唇を噛んでふさいだ。それでもふるえだけは抑えることができずに、シオンの服をつかんで耐える。
 太ももを撫でられた。すそをめくりあげられ、少女のようにほっそりとした足が露わになると、その手は付け根まですすんでいった。秘所へ沿わされると、さすがに声が漏れてしまった。
 「やぁっ!」
 「ナギ、ナギわたしを拒むな、わたしを怖がるな」
 ナギを見つめる黒い瞳は、まるで懇願するかのように不安に揺れていた。
 その瞳をみてしまったナギは、恐怖が溶けるように流れてゆくのがわかった。
 彼のなかにソメイを感じていた。自分を今まさに犯そうとしているこの男のどこに、あの壮麗なソメイに重なるところなどあるのだろう。姿も、その行動も、思考さえも何もかも違っているというのに、驚くほど重なってしまう――。
 「ナギ……ナギ……」
 手がナギの誰にも触れたことのない中にまで入ってきた。女となって初めて得た器官にヌルリと指が這い、何かを求めるように動きだした。
 たまらぬ嫌悪間に身をよじり、痛みより、苦しみよりももっと強くおぞましいまでの力が、柔らかいその部分に食いついて、ナギの内部から毒を流し込み、殺してゆく。そんなおぞましさを感じさせている。
 指が大切な場所を探し当て、入り込もうとしたとき、ナギは無音の悲鳴をあげていた。こんなことが自分に起こるとは。
 「――――っ!」
 そのときだった。
 いきなり大地がうなりをあげた。何かをひき倒すような荒々しい音がして、風が白樹王の太い枝を大きくしならせだした。花が散りながら涙のように零れて落ちてゆくではないか。
 「なにっ?!なにが起こった――! 」
 シオンが驚嘆するようにナギから体をはなした。邪悪な影が二人の上に影を落としたのと同時だった。
 まるで世界の穢れをすべて集めたような黒い汚泥の塊がそこにいた。
 よくみると腐ったようにみえるそれは毛であり、緑色の藻のようなものがゾワゾワと動めいていた。
 それが全身をくまなく覆っており、手足が泥に埋もれるようにずんぐりとついていて、毛の下からみえる赤い瞳が、破壊的な強い意志をもって輝いている。
 見るもおぞましい化物が、ナギたちを見下ろしていた。化物の背後は辿ってきた跡をみせつけるように、すべての建物が倒壊しているではないか。
 ナギの涙で光にみちていた膜でできた空間に、ヌッと手をのばしてきた。
 まるでその光にこそ引き寄せられて来たとでもいうようである。
 二人をつつんでいたそれがビリビリと火花をあげた。怪物がわずかにひるみ手を離す。
 だがすぐにまた手を伸ばしてきた。何度でも怯むことなくそれを繰り返す。
 シオンはすぐに我を取り戻すと、忌々しそうに舌打ちをした。
 「なぜこんなところにまで緑の魔獣が入りこんだのだ!結界をどうやって破った?!」
 何度も魔獣は光を握ろうとして膜を叩いたが、そのたびに弾かれ、とうとう痛みに唸りながら後ろへひいた。それであきらめきれないように、ゾロゾロとあたりをうかがって歩いている。
 ふと樹のそばにいる美保たちに気づくと、おもむろにそちらへ歩きだした。涙の光の美しさに惹かれていたのだが、なかなか手がだせないことに苛立って、ついに極上の『贄』に意識をうつしてしまったのだ。
 ナギの目が驚愕に見ひらかれた。
 それらは美保をはっきりと狙っている。
 美保はまったく逃げる気配もなく、他の男たちや贄のもう一人の女がいなくなっていても、その場にボンヤリたたずんでいたままだった。魔獣をみあげ、うっすらと微笑んでいるようではないか。
 「母さん、母さん逃げてお願い!」
 思わずさけんだ。
 空間の中の光がました。涙の粒が爆発したようにはじけて蒸発すると、膜が消えてしまっていた。
 ナギは走っていた。夢中だった。
 「ダメだ!母さんじゃない、ぼくはここだ、ここにるっ!」
 化物はナギの声にゾロリと顔をむけた。
 ナギにはわかっていた。魔獣が何を求めているのか。何の匂いに引き寄せられてきたのかを。
 満足するように魔獣たちはナギに手を伸ばしてくる。
 「ああぁぁ――っ!」
 「ナギっ!」
 魔獣はナギをつかみあげていた。
 ナギのあげた悲鳴に、光の爆発による直撃をうけて倒れていたシオンが気がつき、叫んだ。
 その叫び声に、うつろだった美保がじっと魔獣の手の中で気を失っているナギをみつめ、かすかに首をかたむける。
 「……ナギ…?」
 魔獣の緑の青黒い触手がまるで植物のようにのび、ナギにまきついていった。
 そのまま体内にふかく取り込んしまい、ナギの姿は化物のなかに消えていったのだった。
 
 
 
                                つづく


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