天上の蒼い灯火

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7



 誰かが呼んでいる。
 なぜかそう思った。
 控えめで、いつもひっそりしていて、少しでも力をこめて抱きしめれば壊れてしまうのではないかと思えるほどはかなく、そっと触れるとかすかに身をふるわせた。その姿をみるたびに胸にたまらぬ愛しさがわきあがり、つい、抱き上げてしまうのだ。
 ほっそりとした肢体だった。首が折れそうなほど弱々しくて、だが小さいけれど胸には柔らかな膨らみがあった。少女と少年の端境でゆれる不安定な魂は、それでも時折おどろくほど強く輝くことがあり、目を奪われてしまう。
 無心にむけられるあの笑顔を目にしたなら、きっとどんな者でも、魂を奪われる。願うことならどんなことでもしてやりたいと思ってしまう。
 抱きしめた手を放したくなかった。この腕からはなしたくない、ずっとそばに置いておきたい。そんな感情に駆られて、何度自分らしくないことをしてしまったことかわからなかった。
 それほどに愛しい存在だったのに、今はそれがどんな者だったのかすら思い出せない。あまりに愛しすぎて、自分の中にたまった闇が、淡く美しい夢さえ喰ってしまったのか。
 ひどくもどかしかった。
 胸に大きなしこりができ、圧迫されて呼吸ができなくなったようだった。
 苦しくてたまらないのに、それでも愛しさはまったくかわらない。
 いやそれ以上に思いはつのり、己のすべての激情をぶつけ、愛しさの炎の熱で、その愛しい存在を妬きつくしてしまうかもしれないと、不意に恐怖すら覚えてしまう。そんな強い感情が体中をかけめぐってゆくのに、だがどうしても思い出せないのだ。
 顔が、見えない。甘く胸が痛くなるようなあの声が聞こえない。やわらかい春の木漏れ日のようなやさしい瞳がわからない。まろやかで美しい姿が、まったく思いだせない。
 ――……ギ……!
 ソメイは目をあけた。
 愛しい者の名を呼んだと思ったその瞬間だった。
 パリンと何かが割れる音がした。
 守るように張られていたシールドが、まるで役目を終えたように消えてしまい、赤い、血のように深い鮮紅色をした結界の残骸が、チリヂリに砕けて風にながれていった。
 同時に自分をつつみこんでいた温かい誰かの腕もまた一緒に消えてしまい、いきなりの孤独に突き放される。
 ひどく寂しくて、たまらない不安がわきあがった。
 そんな不思議な感情にソメイはおもわず戸惑いを覚えて、呆然としてしまった。愛しげな誰かの存在がずっとそばにいたのに、なぜ消えてしまったのだろうか。
 ゆっくりと起きあがると、傍らにだれかいた。
 小さな少女だった。
 いや、人とは少し違っているようであり、ひどく人工的なにおいがしていた。
 じっと見つめる瞳は金にもちかい茶色であり、一見、ついぞ見ることのないような清々しい美しさをたたえていながら、だが単なる表面的な近似のような気がして、なにかしらの違和感をおぼえてしまう。
 その姿は、もっとたまらないような胸が痛くなるような光を湛えていなければならないはずだ。かきたてるような心奪われるような繊細でキレイな魂でなければならないのに、それがどこにも見あたらない。
 胸が痛むような悲しさが襲ってきた。
 大切で、愛しくて、ソメイはたまらずそれに手をのばした。
 ナギの姿をしたエンラがビクリと身をよじり、まるで最後の魔法が切れたように、エンラに――少年の姿に戻ってしまった。
 「な、に……?」
 凄まじい消失感だった。
 胸の中が丸ごとなくなり穴が開いてしまったかのようであった。穴からはどこまでも冷たい風が吹き込み、身体も心も、いや、魂までもが冷えて、思いのすべてが凍りついてゆくようである。
 そこまで考えて、ふとソメイは異様な気配を肌にかんじた。
 背後にそびえていた新しい五番目の窓のむこうに目をむけた。秀逸な相貌がわずかにゆがむ。
 「黒い月?……なぜ…?」
 窓にくっきりと浮かび姿をあらわしていたのは黒い月の世界である。
 ――ソメイ様!
 自分を求め、必死に呼ぶこえが聞こえてきた。
 ソメイは黒い月の世界を映しだしている窓に歩みよっていった。
 ――ソメイ様、助け……っ!
 声は断片的にきこえていた。全身の神経をかきたてるような心の奥底から、自分を真に求めているような、なんともいえない声である。
 ソメイを求めていた。ソメイだけを呼んでいた。
 それほどに深く誰かに思われる声を聞いたことがない。世界にまるでソメイだけのような、ソメイしか知らないかのような、必死な声である。
 「わたしは……何かを忘れている――?」
 姿が浮かびあがってきた。
 小さくて愛しくて、光まばゆいような存在――だがやはり顔がみえないではないか。
 とても大切であり、この上なくど愛しく思っていた気がするのに、なのになぜ顔が見えない。苛立つような思いが湧くのだが、顔をみてしまうこともまた、なぜか、怖い気がする。
 怖いのに魅かれる。魅かれるのが怖い。夢中になりすぎる思いに戸惑いを覚え、不安がひろがってゆく。
 その複雑な感情を、ソメイは知っていた。
 大切に思えば思うほど、失うかもしれないという恐怖におびえ、本当に消えてしまった時の、身をひきさくような苦しみ悲しみを本能が怖がっているのである。
 ――ソメイ様!
 声は泣いていた。
 ソメイは苦しげに頭を両手でかかえ、柱にもたれかかった。
 自分を呼ぶ声にこんなにも心を揺さぶられるのに、どうしてもそれを思いだせないのだ。
 「ああ……」
 苦悩にあえぎながら、黒い月に目をむけているソメイを、エンラだけが黙して見ていた。




 ひたすらの無と、永遠の虚無。
 そのどちらかを選ばねばならいとしたら、はたしてどちらがマシであろうか。
 空間を満たすものが、のっそりとしている闇だけであり、微動だにしない大気にはいささかのエネルギーもない。
  生き物のはなつ喜びのエナジーも存在しなければ、何かが生きている証拠となる鼓動さえ皆無である。
そんな世界で、ひとはどうやっていきてゆけばいいのだろうか。たまらない恐怖におそわれてくる。
 それでも虚無なら、『虚』というエネルギーが、どんな形であっても存在する。だが無の世界にはなにもない。まったくのゼロであり、空白でしかないのだ。
 ナギはこんな世界をみたことがなかった。
 天地間にあふれる無限のエネルギーを、当たり前のように吸収し、そこにある自然や緑の息吹を、母の愛情のように受けて育ってきた。
 どんなにエネルギーが枯渇しようとも、微細なエナジーは必ず存在していたし、生き物が暮らす気配や物音がいつも聞こえていた。
 生命の存在をずっと肌に感じ、なにかしらの生きる、という音をずっと聞いてきたのだ。
 だがそこには何もなかった。
 なにもないのに、苦しみだけが存在している。
 苦しみと共にあるのは、深くて悲しい死の影であった。その黒い悲しみのかたまりに抱かれ、どこまでも堕ちていくようだ。
 ナギの身体に魂をしばりつけているのは、闇の底から這いのぼってきた、すがりつくような思いのみであった。
 そこには何もない。何もないのになぜ悲しい。そんなに惨めでつらいものがあるのはどうしてだろうか。
 ナギはたまらない切なさをそれらに感じていた。ナギの愛を求めてくる心がそこには痛いほど隠されていた。振りほどくことなど到底できない。
 愛してほしい、愛してほしい、愛してほしい――
 幾度叫んだかしれない雄叫びが、もはや狂おしい生き物になってナギの体中を這い回っていた。
 何万、何千、何億――いや、星の数よりも、浜辺の砂よりもたくさんそう願い、幾度つぶやいたかもしれない。なのにどうして誰も与えてくれなかったのかわからない。
 それは怒り、悲嘆にくれ、嘆いていた。
 それさえ通り越したあとには、絶望だけが残っていた。
 もしかしたら、こんなに深い闇を生んだのは、その絶望だったのかもしれない。
 ナギはたまらずにその手をつかんでしまった。
 漲る闇が、全身をつらぬき殺すかもしれないとわかっていたのに、どうしても無視することはできなかった。
 手の平から、光の珠が浮かびあがり、彼らの求めるものを映しだしながら、それは七色に光り夢をえがき、散らばっていった。
 ナギは体だけでなく魂までもが冷えていった。
 恐怖をとおり越した先にあるのは、憐れみであり、こんなに悲しいものをみたことがない。
 ――ぼくはこれを知っている……。
 それを抱きしめたいと思った。
 その悲しみはいつもナギのそばにあった。それと一緒に、ずっと生きてきた。
 さらなる絶対無の怪物が、ナギに容赦なく牙をたて、飲みこもうと闇に引きよせ、やわらかな首に絡みついてくる。
 あまりのおぞましさに絹を裂くような悲鳴をあげてしまう。
 「そんなに怯えなくてもよい、花嫁よ」
 だれかの声がした。
 聞いたことのある声に薄く目をあけたナギは、まぶたをしばたく。
 柔らかな瞳が結んだ映像は、闇で出来たかのような男である。
 闇色の髪と、漆黒の瞳をしていた。肌まで浅黒く、背が高て、存在自体が黒く重い影を負っている。
 ナギの目には黒い塊にみえていた。
 いや、無と悲しみと絶望でできた、まったき闇の結晶である。
 「おまえをずっと待っていた。この忌まわしい黒い大地に堕ちてくるこの日を、わたしは気が遠くなるほど、心待ちにしていたのだ」
 それが手を差し出してくるのに思わず身をすくめて、ナギは目をつぶった。そっと髪を梳き、優しくなでおろすのに思わず小刻みに震える。
 闇の男は冷えるように笑った。
 「ナギ、わたしの天界樹。美しいわたしの、花嫁」
 ナギはその言葉にハッと顔をあげた。
 まっすぐ見た男の顔は、この世界には不似合いなほど美しく、悲しみに満ちていた。闇を純化すればこれほどにキレイになるのだろうか。
 「ぼくの名前を?は、花嫁って――」
 不思議なほど優しい眼差しでみつめられて眩暈がおきるようだった。これほど真摯に一途に求められれば、魂を奪われてしまいそうになる。
 闇のなかにあるのに、どうして気が遠くなるほど純粋な気持ちをもち続けられるのだろうか。まっすぐに向かってくる思いはどこまでも甘くて心地がよかった。
 「ナギ、美しいナギ。わたしの花嫁」
 「ぼくは、その声を知っている……。暗闇から時折きこえてきた声だ……。そう、たしかにあの――」
 暗い廊下であったり、物置の隅から、そして月明かりに落とす自分の影の中から、その声は聞こえてきていた。風にそよぐ葉擦れの音のように、ひっそりとゆるやかにナギのなかに溜まっていった。
 「わたしはずっとおまえを見守っていたのだよ。ここへ来る日を待ち望んでいた。どれだけおまえに恋焦がれ、おまえを求めていたか、きっとおまえにはわかりはしないだろう。……ナギ、わたしはそのために、あの男の――愚かな堕天使の言いなりになったフリまでしていたのだ。おまえを差し出すように仕向けたのは、わたしだよ」
 「なっ――」
 ナギは、男の抱き寄せようとする手に思わず身じろいだ。初めて会うはずなのに、その男からつたわる思いの深さに、恐怖すら感じて背筋がつめたくなってくる。
 ずっとナギを求めていたのだと甘い息を耳元に吐いた。
 撫でる手は思いの丈をあらわらすように燃えるほどに熱く、また冷たいほとばしりを感じさせていた。
 それほどまでにどうして自分を求めるのだろうか。自分の中の何を欲しがっているか。ナギにはわずかもわからない。
 「美しい……ああ、天上界の花はまことに美しい。……この汚泥と穢れにみちた世界では決して得ることのできない、至高の花だ。生涯見ることのない久遠の夢のように、はかなくてまばゆい貴い宝玉なのだ」
 うっとりと言いながらナギをみつめていた。
 おびえて力の入らない身体に、ナギはどうにか気力をこめて意識を保たせた。気を失うことの方が恐ろしいように感じてしまう。
 「あ、あなたは誰なの?なぜ、ぼくをそんなに求めるの……?ここはどこ……?」
 闇をまとったような男がゾロリと動いた。生命力をもたない空気が重くよどみナギの上にも覆いかぶさってくる。
 「ここはわたしの国だよナギ。そしてこれからはおまえの国となる、陽光の差さない久遠の夜の世界であり、穢那の慈愛さえ届かない無の居城だ。黒月界――たしかこう呼ばれていたはず。だが名などどうでもいい。ここはわたしの世界であり、わたしがこの国の王だ」
 抱きしめられ、ナギは悲鳴をあげることもできずのけぞった。背がきしみ折れるのではないかという強い電撃が走る。
 相容れない二つの力がプラスとマイナスのように弾きあい、傷つけあう、そんな衝撃に意識が朦朧となる。
 この世界で、どうして正気を保っていられるのかわからなかった。
 片方しかない肺で呼吸ができ、片目しか映さぬ目で世界を見ていることができている。そして魔王に触れられて、なお生きていられる。
 青い光がナギを包んでいた。
 守り包む青い光の膜のなかには、ソメイの慈愛が満ちていた。
 さらには、シンが身の内から与えてくれたエネルギーが微細に散りばめられおり、『聖母』たちのくれた慈悲と感謝の光が、ナギを取りまき、護ってくれている。
 闇の波動のはなつ瘴気から、ナギを守り愛してくれている。純粋なエナジーで出来たナギをくるみ、生命のエナジーを保ってくれているのだ。
 「そう怯えずとも、おまえを食いつくしたりはしないよ」
 魔王はナギの頬を指でなどり、その指を愛しそうに舐めた。
 淫猥なその仕草にナギはおもわず目を伏せる。
 「連れてきた人間はすべて『樹』にかえて羽根を食いつくすか、また『樹』になれぬ者はすべて『魔界樹』の贄として与えているのだ。けれど、おまえだけは特別だよ」
 「贄?」
 「そう、たいていの人間は『樹』にはならぬからな。食いはせぬが、かわりに贄として魔界樹たる『白王樹』に与えているのだ」
 ナギの白い顔がさらに蒼白になった
 「人間には『白樹王』のエネルギーになってもらうのだよ。――『白樹王』は、我らがこの暗黒の世界での貴重なエネルギーの源であり、唯一の食料となる花をつけ、養ってくれている母なる存在だ。何一つ与えられなかったこの無情の世界で生きるための、たった一つの生きる手段であり、方法なのだよ」
 「人間を、樹の食料に?……樹が、人間を食べるっ?!」
 「我らだとて生きねばならぬ」
 ナギを優しく、冷たくみつめた。
 「ソメイがこのような残酷な世界を創ったのだ。あの男は我らになに一つ与えず、あるのは闇と苦しみばかりにしたのだ。このような忌まわしい世界に生きる地獄に耐えろというのならば――我らは我らなりに生きる術をみつけねばならぬ。ゆえにソメイがもっとも愛した地球、ガイアに依存し、その子らを食うことにしたのだよ」
 暗黒のさらに昏い闇の目にあらわれたのは、憎しみの血の色だった。ソメイの名を口にしただけで、空気が殺気だった。
 「あの無情な男が、我らに――白樹王に人間を食わせているのだ。あの無慈悲で非道なあの男の心が、この世界にあらわれているのだ」
 「嘘……そんなの、嘘だ……」
 「嘘ではない。ならばこの世界をよくみてみるがいい。大地も空も黒く、煤けていて、あるのは命をもたぬ重石と残骸ばかりだ」
 男は苛立ったように声を大きくした。ナギの肌をビリビリと弾いた。
 「魔の森は日々成長をつづけて増殖し、人々の身体も魂も、この世界をも、()んでいる。――森の番人たる魔物たちが森をつねに跋扈し、命あるものを奪いつくし、殺して森の成長の糧にしている。――なにもかもが搾取し、奪うことでこの世界は生きている。一つの命からしか、一つの命が贖われない。ここは永遠にながれつづける無明の世界でしかないのだ」
 ナギは聞きたくないと耳をふさごうとした。
 その手を魔王がにぎりあげ、闇の世界の――黒月界の真実から目を背けることを、逃げることを許さないとばかりに宙に持ちあげた。
 「……やめ…て……もう、もうイヤ……っ」
 「これが、おまえの居るべきこれからの世界だ。わたしとおまえの二人の新居だよ」
 抱きしめられ、とうとうナギは悲鳴を高くあげた。ナギを守っていた青い皮膜も耐え切れずに破れ、直接に負のエネルギーが肌に差し込んできた。
 魔王は残忍に美しい笑みをうかべると、愛しげに頬をよせる。小さく声をあげ、ナギはそのまま気をうしなってしまった。




 苦しげな息のもと、ナギはうつらうつらと浅い眠りのなかで夢をみていた。
 『聖母』たちが、地下の水槽にとじこめられ、ガイアと地球の人々のために歌をうたっている姿だった。
 優しい歌声は大気をかけめぐり、どこまでも遠く広がりながら、何もかもを包み込んでいく。
 その歌声を聞いているうちに、ナギはなぜそんなに綺麗なのかがわかってしまった。言い知れない悲しみが、歌には含まれているからだ。
 いつしかナギは『聖母』たちと同化し、一緒に歌をうたっていた。
 地下深くの、だれも来ないさびしいあの場所で、ガイアのエネルギーとひとつになってすべてを抱きしめ、地上のあらゆるものをみつめていた。
 愛する家族を見るときもあれば、離されてしまった恋人の嘆く姿を目にするときもあった。友人が自分を探すためのビラを作成し、可愛がっていた犬が部屋の戸を前足でカリカリと掻いては、中に入りたいと吠えていた。
 自分を思い泣いている人々の姿に、一緒になって涙を流しながら、それでも抱きしめることも寄り添うこともできぬもどかしさに胸がひきつれ、悲哀がさらにましていく。
 そして時が流れるにつれて、しだいに人々は自分のことを忘れてゆき、時折、懐かしく思い出すこともあるが、それさえ諦めまじりとなり、いつしか恋人は新しい誰かをみつけて恋をし、家庭を持っていった。
 何もかもから置いてゆかれるその寂しさは、いいようのない苦しみとなり、孤独へと変化してゆき、あとはだた、ひたすらに歌い続けている声ふかみと艶を増させていくだけだった。
 ――こんな哀しい人間を作ってはダメ。ガイアは癒されはしない。
 女神は泣いていた。
 誰よりも優しくて気高い慈愛の神は、自分のために犠牲にされる少女を見ることをまったく望んでいなかった。
 まして地球のエナジーに愛され、母なる女神により近い能力をもつ者ならば、苦しみはいっそう強く感じられるはずだ。
 もはや分身のような存在である『聖母』たち、歌っているその声にふくまれる悲しみこそが、ガイアを真に弱らせていたのだ。
 ――ああ、どうかこの哀しみを終わらせて、この苦しみを続けさせないで。
 悲しみは地下へと染みて落ちてゆき、穢那を苦しめ、さらに、黒い月を涙で濡らしていった。
 ガイアのエネルギーが悲しみに曇ることで、彼女の慈悲のエネルギーを与えられていた黒月界までもが、同じように寂しさを増していた。悲しみがさらなる悲しみを呼んでしまう、マイナスの連鎖反応に、日ごとに影は大きくなり、闇が加速されていった。
 ――どうか、どうか、この可哀想な暗くて寂しい世界をこれ以上苦しめないでください。ソメイ様をこれ以上嘆かせないでください。お願いです。
 ナギは必死で祈った。
 その願いを、だれが叶えることができるのか――。
 ――どうか終わらせてシン!この苦しみを二度と繰りかえさせないで。
 少女たちの声が頭にひびいた。歌声にあわせてナギは祈りの歌をうたった。
 苦しい闇が胸を通りすぎ、潰れた肺がさらに悲鳴をあげるように痛んで呼吸が止まりそうになった。
 ――ぼくのすべてのエネルギーをあげてもいい。どうかシン、お願い。
 ナギは夢をみながら、あちらこちらで聞こえてくる、苦しみと悲しみの声に心を引き裂かれていくように、グッタリとしていた。
 闇の世界の波動は、強い感受性をそなえるナギにとってはまさに地獄そのものであった。
 五体といわず、細胞の一つ一つまでも、奪いつくしてゆく狂気の海に投げ込まれ、すがりつく手によって息もできずに溺れていくかのようだ。
 黒月世界の絶対的な無の空間が、ナギに与える影響は相当なものがあった。
 その場に存在するだけでもひどく身体を衰弱させてゆき、得られるエネルギーが皆無なだけでなく、まるで空気自体が重みのある固体のように、ズッシリと加重をかけ、鉛のように身体にまとわりついてくるのだ。
 呼吸すらもままならないような息苦しさに、少し動くだけでも息が切れてしまう。
 ナギは王城の、かなり高い一室に閉じ込められていた。
 部屋自体は清潔で、非常に豪奢なつくりであった。
 まるで姫君を迎えるために用意をされていた特別な一室のように、ベッドもやわらかく純白であり、絹も肌触りのよい極上のもので、ふんわりとした繊細なレースがあしらわれていた。
 壁もきれいな若草色をして、机もイスもそれに似合う優美なフォルムをそなえていた。クッションや毛皮の敷物など、ほんとうにナギの肌の一部分も痛めることがないようにと、細心の注意をはらわれた贅沢なものばかりだった
 この部屋だけみていると、外の不毛な世界とは、まったく別世界にいるようである。
 ただ、一つだけついている窓はもちろん開かなかった。
 そこからひろがっている風景だけは、どれほどこの世界がおぞましく、また枯れはてた、最下層の場所であるかを如実にあらわしており、ここが間違いなく黒月界にいるのだと告げていた。
 どこまでも続く黒い空と黒い大地――
 はじめは全てがそうであると思っていたのだが、よく見ると延々と続いている影は、森のようだった。
 あまりに鬱蒼と生い茂っており、遠目には不気味に横たわった死の川のようにみえていたのだ。
 緑の織りなす爽やかで心地よい風も、木々も花も、ここにはなかった。
 それどころか、命のエネルギーをまったく出さないばかりでなく、まるで命あるものを憎むように呪い、雄叫びをあげているのである。近づくものなら何でも喰らいつくそうという悪意すら感じられてしまう。
 さすがに王宮とそのまわり、また貴族たちの住居とおぼしき一帯にだけは、森の魔の手はおよんでいなかった。
 だが、ある一定の区間をすぎると、忽然と森が深まり、そこから先は魔物と化した森がどこまでもひろがっているのである。
 命の歌をうたわない森にナギはゾッとするものをおぼえていた。
 まるで一個の生き物のように見えて、それがひどく魔のにおいをさせている。
 どこに居ても木々はナギを愛し、彼らのもつエネルギーを分けてくれた。純粋な光そのままに、ナギを家族のように愛しみ受け入れてくれたのだ。
 だがこの森は、何もかもを否定している。いやそれすら無く、ただどこまでも絶望し、魔の世界を呪うかのように、増殖することのみに生命を傾けている。
 ナギはけれども、この世界に何かを感じていた。
 片目しか世界を映さない左の目が、森の影をひどく哀しいものとしてとらえ、誰かの苦しみの片鱗を、無限に増えつづける呪いの中ににじませているのを聞いていた。
 「もしかしたら、この木々たちは、世界の苦しみを取り除こうとしているんじゃないかな。その身に闇を受け入れすぎて、暴走してしまったみたいだ。だってあの苦しみの果てにあるのは――」
 ナギはたまらないように目をとじ、自分をかき抱いた。
 そこにあるのは、ソメイの闇と、同じものなのである。
 この極悪のなにもない世界の中に、なぜあれほどたくさんの心をもち、いたわりの涙をながすソメイの心を感じるのだろう。
 人々を愛し、同じように傷つく柔らかな心が、どうして呪いの森に存在しているのだろうか。
 ナギのなかにある大切な部分が、恐ろしくて身の毛もよだつような黒月界を憐れみ、可哀想だと感じていた。嫌いきれないのは、もしかしてそのせいなのかもしれない。
 ドアが静かにひらかれた。
 「ナギ、果物をもってきたぞ」
 空気さえ動かないようにと気づかうような仕草だった。
 「少しは食べないと体が弱ってしまう――」
 「あ……」
 男の腕に抱えられていたのは、黄色と赤の丸い果実だった。
 エネルギーのもつ波動律こそ地上のものとは違ってこそいたが、この無明の世界で、それだけの質量をふくむ食べ物を手に入れることが出来る者は、それほどいないであろう。
 「昨日もってきた花を食べていないではないか。――どうして食べないのだ?この花ひとつでどれほどのエナジーが吸収できるかしれないのだぞ。少しは何かを口にしないと衰弱する一方ではないか」
 本当に心配し、心をかたむけてくれているのがわかる穏やかな口調だった。ナギに手ずから食べ物を運んでいるのは、黒月界の王、斎隠(シオン)である。
 あれから数日にわたって、彼はナギのもとへ食べ物や花を手にかよっていた。
 決してこの部屋から出してはくれないが、乱暴なことをすることもなく、みだりに触れることも、無理強いすることもなかった。ただ深々とした黒い瞳をナギに甘く投げかけるだけである。
 はじめ見たときは、すべて闇で出来ているのかと思うほど、深淵の闇を思わせていた。だが実際には、黒くて長い髪と、同じ色の瞳をしており、褐色の肌をもつ、優しげで端正な青年だった。
 シンより身長は高く、身体もがっしりとしていた。ここで見るものたちの誰よりもキレイな色彩を帯びていた。
 なのにナギには、その色彩さえ、そこに生きているという温もりが薄く、作り物じみているように感じられた。不意に触れる手があまりに冷たく、まるでこの世界の闇で出来ているのかと思ったほどである。
 「ナギ、美しい天上の樹――わたしの花嫁。どうして何も食べないのだ。エネルギーをその身に摂らなければ死んでしまうぞ」
 シオンは、困ったようにうつむくナギにそっと近寄った。まるで枝にとまる小鳥を脅かさないようにと、息さえとめて近づいてゆくような仕草だった。
 「この世界のエネルギーはそれほど嫌なのか?わたしのそばにいるのは、死ぬほど怖いのか?この世界は――耐えられぬほどの穢れに満ちているのか、ナギよ」
 「い、いえ……あの、ぼくは……」
 空気に嬲られるような痛みをこらえ、ナギはかすかに後ろにさがった。シオンは机の上にある花を手にとると、ナギにゆっくり手をのばした。
 「なぜ素直に言うことを聞いてくれぬ。わたしはおまえを弱らせたいのではないのだ。おまえはわたしの大切な花嫁だ。この世界に早くなれて、元気になってもらいたのだけなのだよ」
 シオンの手がナギの頬にふれた。
 体の力がぬけたようにその場に膝をついた。
 ナギは羽根のように軽い純白のローブに着替えさせられていた。
 ほっそりした腰にはゆるやかな紐のベルトが垂らされ、その華奢な肢体がさらに美しく浮き立っていた。胸の膨らみにあわせたドレープがまるで一つの花のようであり、ナギの繊細さを強調してみせている。
 ナギの小さな足からソレアをぬがした。日に当たったこともないような白い肌は青ざめるように冷たくなっている。
 そっと膝まづくと足の甲にキスをした。ナギは全身に電気が走ったような衝撃を感じ、たまらず息をはいた。
 体中から力がぬけてゆくようだった。怖くて、どうしたらいいかわからないのに、逃げることもできず、涙が目にたまってくる。
 「そんなに怯えないでくれナギ。大丈夫、わたしはおまえを傷つけたりはしない」
 力の入らないナギの体を抱きかかえると、とってきていた花を口元に寄せてた。
 ナギは力なくイヤイヤと首をふるが、かまわず唇につける。
 「いやっ!その花は――」
 短く声をあげる。
 花はだが、まるで溶けるようにナギの中に消えていった。今まで淡くかすんでいたナギの体が、それにあわせて色を取戻すように鮮やかになっていった。
 ナギの大きな瞳から、涙がこぼれる。こんなに哀しいエネルギーを感じたことはない。
 「あぁ、ごめんな、さい……」
 いろんな人の思いが詰まっていた。たくさんの悲しみと、苦しみ、そして求めるような小さな願い。緋色に燃えている業火にも似た痛みがそこには含まれている。
 人の命の味がした。
 「泣くなナギ。――彼らは花となってしまったのだから、せめて喰うてやるが情けだ。むなしく枯れて散るよりも、誰かの命になったほうがその命への祈りとなる」
 涙をそっとぬぐうと、シオンはその指を舐めた。それだけで彼の精気が光沢をおび、歓喜にふるわせる体の質量が増し強まってゆく。
 「赤子のような顔をして泣くな。……そんな顔を見せられたら、わたしの中の自制心が揺れてしまうではないか」
 言いながら、ナギの涙を直接口で吸いとった。
 ナギはその感触にビクリとふるえて目をつぶった。シオンの想いが直接身体に染みこんできたのだ。
 「わたしの子を産めナギ。わたしのものになれ」
 ゾワリとした手がナギの体をなでた。
 ナギはたまらずのけぞりシオンの肩を押した。
 ひどく固い体はびくともせず、逆にその手をとられ、手に口づけられる。
 目をあけたナギは、自分を痛いほど真剣にみつめているシオンの視線にビクついてしまう。
 「わたしの子を産め。この世界でわたしのそばにいてわたしを永遠に慰めてくれ」
 「ああ……」
 つよい力で抱きしめられた。一部も逃げることができない。
 「美しい指だ。ツメの先までなんときれいなのだ。――ナギ、ずっと憧れていたよ。天上界ですべてのエナジーに愛されているおまえに、ずっと焦がれていた。おまえが欲しくてたまらなかった。――どうか、わたしの花嫁になり、子を産んでくれ」
 「ぼ、ぼくは……っ」
 ヒリつくような咽喉から、かすれるような声をだした。
 「ぼくは、半分男です。花嫁なんて、子供なんて、む、無理です……」
 「だが半分は女だ。ほら、胸だってこんなに柔らかい、ここだって、ちゃんと女だ――」
 「やっ!やだ、やめてっ――」
 ナギは胸をさわられ、足を服のすそから手を入れられ撫でつけられるのに悲鳴をあげた。身じろぎながら、大粒の涙がボロボロとこぼれるのをとめられなかった。
 恐ろしい何かを感じた。今までにない、経験したことのないような巨大な欲の熱だった。
 まるで頭から食べられ、すべてを飲みこむ野獣のような鋭い牙が肌にくいこみ、自分を欲してやまない津波のごとき劣情のたぎりが、身を焦がすようにナギの体に進入してくる。
 「やめてっ――怖い……やだぁっ」
 誰かの名前を呼ぼうとして、なぜか止めた。
 今呼んではいけないと本能がそう告げている。
 抵抗すらできず、黙って泣きつづけるナギの上から、シオンはそうっと離れた。
 頬に軽く口付けただけだったが、ナギはそれすら痛みを感じて、身体をふるえさせてしまった。
 「すまない、怖がらせてしまったな。……おまえがあまりに可愛いので、自分がおさえられなかった」
 自嘲するような含みのある声だった。
 「無理強いする気はない。わたしはおまえを傷つけたくないのだ。最初から言っているだろう?」
 ナギは目をあけ、まだ怯えて固くなっている体をゆっくりと起こした。涙をぬぐいながら、それでも怖さが隠せない瞳でシオンをみあげる。
 「それでも、おまえの体が弱ることだけは許さないよ。自ら口に入れることが出来ないのなら、何度でもこうして食べさせてやる。それがイヤなら自分でエネルギーを摂るのだ」
 ナギはそれでもイヤだというように首をふった。
 天上界でも、もっとも繊細であり、純白な存在であったナギに、どうしてこの世界の痛みをもったエネルギーを摂取できるだろうか。人の悲しい魂の味がする花を食べることなど出来るはずがない。
 それを食べることは、生きているよりもつらい気がする。痛くて苦しくて、息が出来なくなる。
 「ナギ、わたしはおまえに生きるだけで苦痛をあたえるかもしれぬ。――それでも決しておまえを手放さぬ。おまえだけをわたしは……っ」
 言いかけてシオンはやめた。自分を取戻そうとするかのように首をふると、長い黒髪が夜の帳のようにゆれた。
 もう一輪の花を手にするのをみて、ナギは過敏な神経がもたずに、床に転がるように倒れた。
 シオンの手からは、花が降るようにナギの上に散らされていたのだった。
 
 

 
 あまりに圭吾の言い分の身勝手さに、シンは憤りを抑えることができなかった。
 気がついたときには思い切り腹を蹴りあげ、殴りつけていた。
 さすがに屈強な堕天使も、シンの渾身の力のまえには耐え切れなかったようであり、血を吐きながら床にうずくまっていた。
 シンは息を荒く吐き、どうするべきかを考えていた。焦燥感だけがどんどんつのり、思考が空転してゆく。しだいに考えが乱れて手がガクガクとふるえてきはじめる。
 ナギが連れ去られた時空は、完璧に閉じられてしまっていた。
 そこから追う術はない。
 シンにもまたそれは直感的にわかっていた。そこにあった方陣も跡形もなく消え去っており、異分子が出入りしていた歪みもなくなり、次元の回廊が完璧に切られてしまっている。
 「……ナギっ」
 落ち着けと必死で唱えるのだが、怒りと焦りがシンを追いつめてうまくいかなかった。ナギの悲鳴がきこえるようで、全身に鳥肌がたっている。
 触れると消えるかのように淡いナギの魂が、繊細で少しの汚れにも耐えられないナギの体が、あんなおぞましい穢れにみちた怪物の手にさらわれたかと思うと、いてもたってもいられない。
 どんなに苦しんでいるだろうか、どんな目に合わされているのだろうか。考えるだけで身震いがつく。
 「何でおれはナギを手を離したんだっ!」
 床をドンと荒くなぐりつけた。足元の大理石がもろく崩れていった。
 ――シン、シン落着いて!
 何かがシンのなかに入ってきた。
 その途端、おどろくほどの清涼感がながれこみ、あれほど荒れ狂っていた激情が一気に消え去ってゆく。
 混乱と焦りで乱れかけていた心が静まると、風が草原を走りぬけるような心地よさを感じた。頭が明瞭に冴え、芽吹くような温かさに包まれる。
 「水都なのか?」
 ――シン、大丈夫です。まだ道はあります。黒月界へゆく入り口はもう一つだけまだ存在しているのです。
 大地から湧き出したばかりの清水のように、強い言霊のひびきがシンをひたしていった。
 ――道はあります。けれどどうか、その前にわたくしの願いを聞いてちょうだい、シン。
 背中の真っ直ぐの筋を、エネルギーが熱となって力強くのぼってゆく。この人の願いをふり切ることができる人間がいるとは思えなかった。それほどに自分が許され、愛されていることがわかってしまう。
 もしかしたら、おおいなる慈悲とはこういうものなのかもしれない。
 ――お願いです、シン。どうかこれ以上、圭吾(デュアラ)に『聖母』たちの存在をつくらせないで。
 デュアラ、と声は圭吾のことを呼んだ。
 シンは、ああ、と納得した。この存在が何ものかわかってしまう。
 母なる女神以外いないではないか。
 ――シン、この哀しい連鎖をどうか終わらせて。
 体の力を抜いたシンの中を、ナギの声が通りぬけた。
 「ナギ!?」
 ――彼女たちの苦しみを二度と繰りかえさないで、亜希ちゃんを守って!
 捕まえようと虚空に手をのばすが、存在のかげりは一刹那もせずに消えてしまった。
 ――シン、お願い私たちの思いを、どうか聞いて。これ以上だれも悲しませないで。
 水都の声が響いた。
 ――どうかわたくしたちの願いを聞き届け、すべてを解放してください、シン。
 唇をかみうつむくシンのなかに、今まで隠れていたすべての情報が流れこんできた。
 過去の地球のことも、デュアラのことも、そして黒月界や、聖母たちのこと、ナギのことまでも。
 それでも、シンは二つの感情がせめぎあうのを止められなかった。焦燥感がつのるのをおさえられない。
 ナギを一刻もはやく助けたいという苛立ちと、そして彼女たちの願いを聞き届けなければという、強い義務にも似た思いが交錯して、思考が分断されてゆく。
 ――大丈夫、ナギへの道は、その亜希こそが持っているのです。シン、わたくしを信じて力を貸してちょうだい。
 はじかれるように顔をあげた。
 「亜希が道を持っている?」
 次に流れこんだ情報に、シンの瞳の色がにぶり、ゆるゆると涙が浮かびあがった。
 そして、それをのみこむと、すべてを理解したかのように、強くうなずいた。
 「これが、おれの進むべき方向であり、仕事ということか」
 シンはそっとつぶやくと、ようやく意を決したように顔をあげた。
 それを不審そうにみあげながらよろよろと立ち上がった圭吾を――いや、デュアラをシンはじっとみつめた。
 彼とて、だてに戦士族としてガイアを守る任を与えられる天使であったわけではないのだ。これがソメイの力を有するシンでなければ、何ほどもなかったのである。
 「この男を父として生まれて来たのも、何かの(いわ)れか……」
 たとえ愛情がなくとも、たとえ肉体のつながりのみであっても。
 「ひとりで何をブツブツ言っている、ナギを失って気でも狂ったかシン?」
 いまだ馬鹿にしたように皮肉げに笑うデュアラに、冷たい眼光がひかった。
 「堕天使、あんたは間違っているよ。あんたのしてきたことはすべてガイアを苦しめ、世界を病ませていることと同じ事だったんだ」
 シンの言葉に、顔つきが変わりキッと目をみひらいた。憎しみを込めて睨みつける。
 「わかったような口をきくな小僧!ガイア様がどれだけ病まれているか知らぬからだ。これ以上あの方に負担をかけたらどうなると思う。すべての破滅だ。何もかもが終わるんだ。訳もわからぬくせに知った口をきくな!」
 「わかっているさ」
 感情が消えた冷静な声だった。
 「ガイア様の苦しみも悲しみも、そして『聖母』たちの嘆きも、全部わかっている」
 「なんだと?!」
 「彼女たちはあんたがこんなことをしなくても、いずれ自らの力で、ガイア様を救う手となり足となり、働いてくれたはずだ。――それは歌をうたうことで癒したかもしれないし、物語をつづり、言霊で共鳴させたかもしれない。絵を描いてなぐさめたかもしれない。そして、それこそが、ガイア様を本当によろこばせ、助け、命を輝かせることだったんだ。愛とは与えるものであって、奪うものではない。自然に湧きでる慈しみの心なんだ。――ガイア様を愛しているといいながら、あんたが一番苦しめていたんだ」
 「うるさい、だまれ!そんなはずはないっ!」
 「ガイア様は望んでいない」
 シンは、狂気の色を表情ににじませはじめたデュアラをじっとみつめた。その瞳に宿る力は未曾有のエネルギーを秘めている。
 「ひとつの時代は、いつか必ず終わる」
 シンが手を合わせて、ゆっくりひらいた両手の中から、黄金の光が生まれ出でていた。
 吹きあがる噴水のように流れると、女性の姿をかたちづくり、フワリと浮き上がった。
 サラサラと光が流れ消えるのにあわせて、彼女はあわく現れ、星が瞬くように輝きをましていった。
 まるでたわわに実る麦の穂のような豊穣と恵みがそこにはあった。同時に、渓谷にひっそりと咲く白百合のように純粋であり、命のすべてを祝福し、子らの成長を喜ぶ母のように寛大な許しがある。
 全てのものの母、ガイアだ。
 なんと美しい女神であろう。
 だれより愛しい女神の姿を不意にみせられたデュアラはフラフラと歩みよっていった。まなこがこれ以上ないほどに見開かれており、逢いたくて逢いたくてたまらなかった愛しいものにやっと出会えた旅人のごとく、必死の面持ちをしている。
 「ガイア様……ああ、ガイア様……っ!」
 『デュアラ―――どんなにあがいても、わたくしの寿命はもはやどうすることもできないのです。時間が逆へと流れないのと同じように、この命も、いつかは終わりがきます。それは変えられない絶対の定めなのです』
 「いいえガイア様!私があなたを決して死なせはしません、絶対に絶対に助けてみせます!――どうかそのようなことを言わないでください。たしかに水都の命はもはや限界まできていますが、次の『聖母』亜希は、天上界の力を取り込めるほどに強いのです。必ずや再生させてみせます!」
 『いいえ、わかってちょうだい。わたくしはそのようなことを望んではないのです。あなたの思いは痛いほどに伝わってきますが、運命にはだれも逆らうことは出来ないのですから』
 「あなたのためなら私が逆らってみせます!私はあなたが愛したあの美しい世界を知っている。それを必ず取戻してみせます。どうか私を信じてください。あなたのためならどんなことでもする。どんな残酷なことでも、鬼にでもなります。私を嫌い厭うてもいい、どうか、どうかガイア様――!」
 ガイアの瞳から、光の涙がホロホロと流れて中空にきえていった。
 それにあわせてガイアの姿もまた、流れて消えていく。
 「ガイア様、ああ、ガイア様、どうしてそんな悲しいお顔を――?」
 シンが厳しい顔をして言った。
 「まだわからないのか!おまえのその思いがガイアを苦しめているんだ。なぜ彼女の本当の心を受け入れない。おまえはガイアを愛しているんじゃない、ガイアを失うことを畏れているんだ。怖がって泣き叫び駄々をこねている子供と一緒だ」
 「うるさい!おまえに私の何がわかるのだ。どれだけの時間を私がガイア様のそばで過ごしたと思っているっ!」
 デュアラはシンに殴りかかってきた。シンはそれをスローモーションのようにゆっくりと感じながら紙一重でかわすと、腕をそのまま握りあげ、頬を張り飛ばす。
 光がスパークした。デュアラがそのまま床に崩れ、気を失っていた。
 シンは自分の手をおどろいたように見つめた。そんなに力を入れたわけではなかったのに、天使を一撃で床に沈めてしまうほどの力がほとばしってしまったのだ。
 「……ソメイの力が、増している?」
 まだ手の平がまだピリピリと放電していた。
 こらえるようにグッと手のひらを握ると光が四方にとびちる。
 『シン、どうかお願い、私の水槽の生命時装置をすべて切ってちょうだい。電源をすべて落として』
 水都の声が聞こえてきた。
 「水都?――なぜ?」
 『お願い私を眠らせて……誰の手にも私の魂をわたさないで。あの人のもとへ返して、お願い――』
 シンはその言葉に水都の心の彩をさとった。ガイアがみせた記憶のなかには、水都の存在もあった。そしてその恋人の姿もだ。
 水都がこうなる前から、恋人がいた。
 そしてなんという悲劇なのだろうか、その恋人こそが、この地下施設で働いていた研究者であり、技術者だったのだ。
 どんな思いでもって、水都が地球のために眠らされるのを見ていたのだろう。水槽のなかで歌う声を、どれほどの苦しみのなかで聞いていたのだろうか。
 そのうちに、とうとう彼は耐えられなくなり、ここを逃げ出していった。
 口封じに追ってくる政府の暗殺者から姿をかくし、日の当たらぬスラム街のなかで、水都を間接的な死に追いやった自分をずっと悔いている。人生に何の楽しみも喜びもなく、苦しみに時間を浪費し、間接的に死につづけているのである。
 今でも愛している。水都も、男も。
 水都は彼のもとに行きたがっていた。三十年間、ずっとずっとガイアのエネルギーのなかから、彼をみていた。
 どんなに声をかけたかっただろう、彼を抱きしめたかっただろう。
 もういいのよと、私はあなたを一度だって恨んだこともない。憎んだこともない。そう、ずっと言いたかった。
 『最後のこの魂まで、あの男たちに奪われたくないの。体はもうずっと前から使い物にならなくなってしまっていたからどうでもいいわ。そんな殻はいらない。ただ魂だけでいい、あの人のところへ帰りたい……』
 最後の最後に持っていた切望だった。
 シンはうなずいた。
 これほど真摯な思いをだれが断れるだろうか。
 『シン、ありがとう………助けてくれてありがとう……。どうか、亜希を助けてね。私に――第二の水都にしないでね』
 「ああ、約束するよ。あの子は『聖母』にはしない。幸薄いあの寂しい亜希を、これ以上苦しめさせたりはしないよ」
 水都の気配は満足したように消えていった。そしてガイアの気配も一緒に消えてゆく。
 シンはチラリとたおれたままのデュアラを横目に一瞥すると、そのまま階段を登っていった。
 水都のまつ、あの部屋へと。
 約束をはたしにゆっくりと近づいていった。
 



 小さい頃から闇はすぐそばにあった。
 ナギはどんなに泣いても叫んでも、誰も来てくれないことを知っていたし、むしろ嫌悪の目でみられるつらさのほうを学んでいた。
 父親を殺してしまったあの日から、母も、世界も、すべてが闇のなかに堕ちてしまい、ナギのそばには孤独と暗闇だけしかいなくなってしまった。
 本当は自分が死ぬはずだった。
 どうして父親が庇ってしまったのかわからなかった。
 飛散った血は自分の血のはずだったし、花壇のレンガで割れて流れ出た、脳や脳漿は、自分のもののはずだった。
 その時から、母親はナギに心をとざしてしまった。いや、憎みさえしている。
 祖母も祖父も、今まで優しかった世界のすべてが、冷たくナギを締めだし、愛するものを奪った罪びととして、つよく烙印を押されてしまったのだ。
 永久にきえない罪びとを、闇だけが抱きしてくれた。シンに出会うまでは、それが唯一の友達だった。
 だからナギは、闇は嫌いではなかった。
 それほど怖く感じたことはないし、孤独は震えるほど我慢できないものではなかった。ただ、そこに居たいとは思わないだけで、あれば許容することはいつだって出来るのだ。
 自分のそばにいつもいたはずだった。
 なのに、あまりにシンと一緒にいることに慣れすぎてしまい、ソメイの愛に包まれることに心地よさを覚えてしまい、わからなくなっていた。
 怯えずに、幸せをやっと受け取ることができはじめていたために、闇がいつでもそこにいたことを忘れかけたのだ。
 きっとソメイの闇はこんな単純な浅いものではないのだろうが、闇はもしかしたら忘れ去られることを悲しみ、光のなかで浄化されたいと願い、足掻いたのかもしれない。
 一緒に愛され、愛を得たいと願ったのだとしたら、どうしてそんな可哀想な闇を嫌うことができるだろう。
 ナギは目をうっすらとあけた。
 そこにいるそれに愛しさを込めて手をのばした。
 「……ソメイ、様?」
 闇のなかから一瞬にして沸き立つような怒りが吹きあがるのがわかった。ナギはビックリして起きあがった。
 そこにいたのはシオンだった。
 見たこともない形相をしており、ナギをこれ以上ないほどの憎々しげな表情でみおろしている。ここに来てから一度もみせたことのない暴力的な気配がたちこめているではないか。
 「ああ……っ!」
 ナギは恐ろしさのあまり声をもらした。
 ベッドを後ろ手にさがり、シオンの怒りのオーラから逃げ出そうとした。だが、力がはいらず、すぐに倒れこむ。
 「それほどにソメイがよいのか?わたしより、ソメイを求めるのか、ナギっ」
 手にしていた白い花が茶色くなり、黒くこげて、闇に消えていった。
 命のなげきが鼓膜を突き刺すように聞こえ、ナギの神経に突き立つ。
 「シ、シオン様……っ!」
 「なぜだ!これほどにまで心を砕き、与え、わたしを愛してくれと懇願しているのに、なぜこの思いを退く!なにゆえあの男ばかりを求めるのだ!――わたしと何が違っているのだ?!」
 ナギは吹き寄せるあまりの怒気の熱風に、肌が焼かれるような痛みを感じて身悶えた。燃え盛る形相があまりにも凄まじくて、震えるだけで言葉が出てこない。
 ただナギはそこにソメイを感じただけだった。とてもよく似ていて、つい、声をかけてしまっただけである。
 だがその不用意な一言が、どれほどシオンを傷つけたかわってしまった。そんなつもりはなかったのだけれど、きっと彼の心を激しく乱し、痛めつけて壊してしまったのだ。
 謝りたかった。だがあまりにも怖くて、あまりにもエネルギーが強すぎて、声を出すことができない。
 あえぎながらナギは首をふった。違うのだと、懸命に伝えるように。
 「ソメイが憎い――憎い憎い、憎いっ!」
 彼のなかに燻っていた思いはナギのたったひとつの呼びかけで激しく噴火の火焔をあげた。
 「何も与えず、奪うだけ奪うあの無慈悲の王が憎くてたまらぬ!何もかも持っているのに、なぜたった一つをわたしによこさぬ。なぜナギの心をわたしに与えぬのだっ!」
 ミシッとなにか嫌な音がした。皮膚が裂けるような、本能的な戦慄を誘い、頭の奥が痛むような音だった。
 「憎い、憎い、憎いっ!」
 シオンは呪いの言葉のように繰り返している。その禍々しい言葉に吸い寄せられるように、闇が部屋のなかに充満していき圧力が高まる。
 パリンッと最後の重圧に耐えかねるように、砕けた音がした。
 シオンのつるりとした顔が蛇腹のようにヒビ割れているではないか。
 「ソメイが憎いっ!」
 壊れ落ちた仮面の下からズルリとした闇があらわれるのが見えた。
 ナギは息を飲んだ。
 悲鳴をあげないように口をおさえたが、視線だけはそらすことができず、はっきりとソレをみてしまう。
 ナギの表情に、ハッと我にもどったシオンが顔をそむけ両手で覆った。屈辱に震えるように身をよじらせ、苦悩に耐えかねる声をあげる。
 「見るな、わたしを見てはならぬっ!」
 悲鳴のような声がナギの耳に突きたった。ガラスの破片が食い込んだように胸から激痛が消えなかった。
 大切な最後の尊厳にふみこまれ、プライドをひき裂かれたかのような怒りと、凄惨なまでの悲しみの気配がたちのぼっていく。
 「……見たのか?……わたしの顔を、見たのかナギ……?」
 ナギはノドがしめつけられて声が出なかった。
 あまりに彼の声が痛くて、姿がつらすぎて、たった一つ残っている肺が潰れてしまいそうなほど胸が締めあげられる。
 「見たのだな……わたしの本当の姿を、みたのだな……」
 両手で顔をおおったまま、シオンは笑いはじめた。クククッとのろいに満ちた声をあげ、気が狂ったように高く笑う。
 「わたしは醜い、醜くておぞましい――そうだ、誰もわたしを愛しはしない。本当のわたしなど誰も欲しなどしないのだ。――ああ、わたしは魔物だ。醜い魔物である。人の魂で出来上がったモノしか喰えぬ、おぞましい魔物なのだよ」
 「シオン様……」
 「だがこのような世界にしたのは誰だ!?」
 声音が変わった。針のように鋭かった。
 「こんな世界で生きろといったのは誰なのだ!わたしをこんな醜い化物の姿にしてしまったのは、いったい誰だ!」
 ソメイが憎い、そう地獄の底から聞こえるような、怒りと憎しみに満ちた声があがった。
 いきなり音もなく扉がひらいたかと思うと、目の前に少女があらわれた。
 怒りにいきり立っているシオンに怯えもせず、表情もかえもせず平然として話しかけている。
 「シオン様……私の作った殻が壊れた反応がありましたので、急ぎまいりました」
 まるで日本人形のような少女だった。
 目の上で切りそろえた黒髪に、切れ長の一重の目、小さい唇は朱を塗ったように色づいている。それがどうして人の言葉をつむぐのか不思議なような存在である。
 たもとの膨らんだ着物のような赤い服を着ていた。
 「人形師(キラ)か――。ああ、わたしの怒りに耐え切れず、殻が粉々になってしまったわ」
 顔をおさえながら冷笑した。
 「申し訳ありません。すぐに新しいのをお造り申し上げます」
 人形師(キラ)と呼ばれた少女が、着物のたもとから何かを出そうと手を差し入れた。
 荒れ狂っていたシオンの狂気は少女によっておさまったかのように見えたが、声だけはひどく歪んでいる。
 「……そうだな、では、この美しい天上の花が、どうしてもソメイがよいと言うので、今度の殻はソメイにしてくれ」
 「――ご命令のままに、ご主人様」
 何かの粉のようなものをつまみ上げシオンにふりかけると、少女はそのまま横笛を吹きはじめた。
 幻想的な旋律が、奇妙な音色で奏でられ、粉が光をおびてゆく。
 ナギは息を飲みこんだ。
 そこにいるのはソメイである。――ソメイの顔、ソメイの姿そのままをしている一人の男、シオンがソメイとなっているのである。
 青ざめているナギの表情に満足したのか、優しく慈愛のこもった笑いをうかべた。笑い方までソメイにそっくりではないか。
 「おまえがそれほどまでにソメイを求めるのなら、わたしがソメイになってやろう。さあこれならよいのか?満足したか?――我が手をとれ、おまえの望む姿になったのだからな」
 「や、やだ、やめて……」
 近づいて来るのに、ナギは涙をうかべて小さく首をふった。
 「どうして喜ばぬ?この人形師キラが作った殻は完璧だぞ。すべての根源を読み取り、DNAからそのもの自身の情報を写し取って、そっくりそのまま作り上げるのだからな」
 「やだ、いたいっ!」
 ナギは頬を触れられ悲鳴をあげた。パチリと青い光がはね、ナギを守る皮膜を焼き砕かれた。
 「このキラが、人界の人形をすべて作ったのだ。あの堕天使もうるさかったのだが、白樹王の贄となる人間どもが、自分でそう望んだのだからな」
 「の、望んだって……なにを望んだというの?」
 ベッドにたおれこんだナギの顔にそばに両手をつき、顔をよせてきた。ナギは震えながらも、問わずにはいられなかった。
 「本人たちがな、もはや生きる気力がないから、自分とそっくりであり、生きる気力をもった人形を、人界に残してくれと願ったのだよ。だからそのうに作ってやり、家族のもとに置いてやるのだ。贄たちのためにな」
 慈悲深い笑みをうかべ、ナギの耳元に唇をよせた。
 「死にたがったのは人間どものほうだ。だから花は美しく咲き、樹は実をつける――」
 ナギは気が遠くなりそうだった。
 魔界樹たる白王樹に、魂を喰われていたのではなかったのか。魂を喰わせていたというのか。
 あの白い花は、寂しい魂の結晶であった。だからこそあれほど美しくて痛々しいエナジーにみちているのである。
 「わたしは闇の王だ。黒い世界で、命を食う化物だ」
 臓腑に響くようなあまりに悲しい声だった。心臓がしめつけられ、ナギ固くとじていた目を思わずあけた。
 じっと自分をみつめている黒い瞳だけは、作り物のソメイの外見とはちがい、彼自身を映しだす真実の彼である。けれどその瞳に宿っているのは、やはり同じ孤独の闇であった。
 「ナギ、おまえがわたしの花嫁になってくれれば、おまえの光がこの世界を照らし、天上界で最も美しい光として輝いてくれるのならば、我らもこの地獄のような世界で生きることができる。いや、生きてもよいのだと赦される気がする。おまえさえそばに居てくれれば、わたしは、ここで生きてゆけるのだ――」
 「ぼ、ぼくは、そんな綺麗な光なんかじゃない、です。ぼくは……」
 「おまえの放つ光のことを、おまえが解っていなくともよい。わたしわかっていれば、それだけで十分だ」
 ナギ、とそう呼びかけようとしたシオンの口から血がこぼれた。
 手をくちにあて、ナギにかからぬように顔をそらすと、横に丸まるようになって激しい咳をしはじめた。
 「シ、シオン様、シオン――?」
 ベッドが黒く赤く染まっていった。噴出すような血はまったく止まらなかった。
 ナギはシオンの背に手をあて、さすろうとした。まるで磁石に吸い付けられたように手が動かなくなってしまった。
 そこから伝わってきたのは、気が遠くなるような果てしない孤独。そして悲しみと絶望。
 胸がえぐられるような、と言う表現はこのためにあったのかもしれない。それほどまでにひどい闇と虚空の無ばかりである。
 ナギは体がバラバラになりそうな冷気を感じながら、それでも彼の背をなでていた。手から流れ出るエナジーはシオンのなかの無限の闇にどこまでも吸い込まれてゆき、終わりのない闇はいつまでたっても癒せぬのだと告げているように思えてくる。
 涼やかなリーンという音がきこえた。
 ソメイにもらった宝玉がいつのまにか鳴っていた。
 ――ソメイ様?
 ナギはなぜだかソメイの気配をそばに感じていた。ナギの光のなかに、ゆっくりとソメイのエネルギーが混じってゆく。
 どのくらいそうしていたのだろうか、横笛の音が流れているのが聞こえてきた。キラが流麗に奏でていたことにやっと気づいた。
 シオンの咳がすこしおさまり、口からこぼれる血がとまっていた。苦しげに肩でしていた息が小さくなっている
 「シオン様大丈夫ですか?どこが痛いの?苦しいところは――?」
 必死で背をさする手が痺れてうずきだしていた。それでもまだまだ苦しげなシオンに手を当てつづけ、撫でることをやめない。
 しばらくして、手の光が弱くなるのにあわせシオンの息も戻ってきていた。
 「シオン様……シオン様……」
 ほっと息をついたとき、ナギはキラがその名を祈るようにつぶやいているのが聞こえた。泣きそうに震える声である。
 シオンをさする自分のうえに影が落ちていることに気づいて、ビクッとして振りあおいだ。
 そこには、二人の屈強な大男がおりシオンをのぞきこんでいた。
 魂のない人型をした男たちである。おぞましさにたまらずナギは逃げるように離れる。
 「シオン様をお連れして、はやくっ」
 キラが叫ぶのにあわせ、まだぐったりした彼を大事そうにかかえあげると、男たちはわずかも揺らさないようにし、部屋の外へとつれ出していった。
 部屋の扉に手をかけたキラが振り返り、じっとナギをみつめる。
 その鋭さにナギはギクリとした。射殺すかのようである。
 「シ、シオン様は、何かの病気なの?」
 少女は小さなあごをそらし、聞こえないかのようになにも言わず扉をとじてしまった。男たちのあとについてゆき姿を消えてゆく。
 「まただ、またこれが鳴っている」
 腕の宝玉が、ナギの魂を揺さぶるように、静かに透明に空間を振動させながら、ずっと鳴り続けていたのだった。
 
 


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