天上の蒼い灯火

BACK NEXT TOP


6



 天上界の物見の塔は、流れゆくすべての時のなかで、ただひたすら静かに沈黙をまもったままだった。
 禍蝕期をすぎてもいっこうに目を醒まさぬソメイのそばには、ずっとナギの姿をしたエンラがいた。
 もともと影が薄かったナギは、そんな慌しい状況のなかにあっては、もはや居ようと居まいと関係のない扱いをうけていた。
 ソメイの樹なので、ソメイのそばを離れないのだといえば、それはそれで通用するし、姿はナギだが、中身はエンラであっても、あれがナギだといえば、あまり姿をみせたことがないのがさいわいして、納得もされていた。
 それでもひどくナギの評判は、悪化し続けていた。
 天界樹なのに、世界がこんなに混乱していても何もしないし、助けようともしない。ただ泣いているばかりで、まったく役に立たない形だけの樹だ。そういった無能な烙印をおすような、酷い風評ばかりであった。
 それもそのはずであり、エデンから来た天界樹のマリアナが、まるで我がもの顔で政務をとりしきっているという、なんとも不可思議な状況におちいっていたからである。
 またエナジーが日々乏しくなってきているこの状況では、再び命綱ともなっていた『樹』たちの管理までもを、彼女が行っていたために、余計であろう。
 たしかにソメイのいないこの状況で、『樹』が枯れたり、居なくなりでもしたら、貴族や王族、天使たちでさえ、命にすら関わりかねない。
 いくぶん彼女の言いなりの感があるが、だれも異を唱えるものはいない。同じ樹であるのに、いや、ナギより一段劣るはずのマリアナがこれほど有能であるのに、ナギは何をしているのだと、さらにナギの立場を悪くさせていたのだ。
 マリアナは『樹』たちにエネルギーが枯渇しないように、あれこれとうるさく命令をしていた。
 もともと控えめで大人しく、人に逆らうような気質ではない『樹』たちは、マリアナの命令に従わざるをえなかった。それがどんなに残酷なことであっても、痛みをともなうことであっても、ひっそりと頭を垂れているのみである。
 「ナギ様なら、絶対こんなことは言わないのにね――」
 冷たい泉に身を凍らせながら、すでに三十分は入れられていた。
 ナギがよく水浴びをしていた泉である。
 あの時とは泉もまた違っており、すでに生命力もうすく、水は恐ろしいほどに冷たくて硬くなっていた。
 それでもナギが浴びていたエネルギーの残りオーラと、もともと大地と水のエネルギーを満々に湛えていたので、今をもっても、『樹』たちに補充するくらいの力はあった。
 「ナギ様の森にはいって、泉を浴びるだなんて――。なんだかもったいないような気がするわ」
 「でもこんなに長くは、さすがにつらいね」
 小声で、その場にいる者以外には聞こえないようにつぶやきを漏らす。
 「ナギ様はどうしてらっしゃるのかな」
 「あの方はお優しすぎるから……」
 「きっとソメイ様の不調に、お体が引っ張られてるのかもしれないわね」
 「でも前に一時だけからだが楽になったよね?あの時って、ナギ様のエナジーを感じなかった?」
 ナギが髪を切り、世界に投げたときのことだ。
 その後しばらくのあいだ、エネルギーが大地に満ちていたのだ。
 「足、痺れてきたよぅ、冷たい――」
 まだ小学生くらいの女の子が、泣きそうに言った。
 だがマリアナの命令は絶対なのである。そばで監視している天使が女の子をギロリと睨んだ。
 「ナギ様に会いたい……」
 塔をみあげた。そこにナギが居るはずである。
 けれど今はまったくナギの気配を感じられない。まるでこの天界からいなくなってしまったかのようにひっそりとして、ただヒンヤリと冷気を放っている。
 もちろんそこに居るのはナギではなく、エンラなのだから、そうであっても仕方がない。
 エンラも、はじめこそはナギの流した涙の粒をたべて、ナギに近い気を発してはいた。だがもはや似ているのはナギの姿だけでしかなくなっていた。
 ずっと塔から出ず、ナギに言われたとおりにソメイを守っており、片時もはなれないのである。そこに来る特別な人間にしか、居ることがわからない。
 またヒサギのほうも、ナギに接するように、エンラに接していたので、ルアナとカルナはなにも言わなかった。
 マリアナがやってくる時は、ひどくエンラが嫌い、まるで追い返すようにするので、すぐにプライドの高い彼女は烈火のごとく怒りだし、ナギを攻撃するので、彼女は気づく暇はなさそうである。
 エンラはいつもと同じ姿で、膝をかかえじっとソメイをみていた。
 魔方陣や結界の向こうで、さらにナギの赤い皮膜につつまれて眠るソメイは、いまだ起き上がる気配もない。
 風だけが穏やかに流れていた。
 外の暗い景色さえなければ――第五の窓さえなければ、何事もなかったかのようにさえここでは感じられる。
 「ナギどうしてる?シンは一緒にいるカ?」
 退屈したのか、エンラは人間界の窓をのぞいていた。時々だが、ナギの気配を感じる風が吹くことがあるのだ。
 きっとそんな時は、ナギがソメイを思っているときなのかもしれない。エンラにもそれがわかっていたように風を浴びて心地よい顔をする。
 眠るソメイのまぶたが、かすかに動いていた。
 口元の筋肉がフルリとゆれる。たったそれだけなのに、ナギの名を呼んでいるように見えるのは、気のせいであろうか。
 誰も見ていない、ほんのわずかのあいだのことであった。 

 


 目が覚めたとき、シンは家の中からナギの気配が完全にきえていることに気づき、ひどく驚いた。
 一瞬頭に血がのぼったが、すぐに冷静に自分をひきもどすと、帽子や眼鏡がないことに気がついた。ナギが亜希のもとへ行ったのだと勘づいていた。
 「ナギのやつ、あの絵をやたら意識していたからな」
 亜希の描く絵をひどく気にしているのはわかっていた。
 たしかに特殊な、なんらかの力を感じさせるものはあったのだが、シンはそれに関しては大して気に止めていなかった。なので自然と、話題にすることもなかったのだ。
 亜希自身からも、普通とはちがっている何かが発せられていた。気にはなったが、それもまたシンの中の優先課題からは外れていたので、どうということもなく考えてもいなかった。
 だが全ての人が忘れ去っているというのに、ナギに関する記憶を、彼女ひとりだけが覚えていたことだけは、もっと気に留めていてもよかった気がする。
 きっと表面に現れえているより、さらに強いものを奥底に含んでいたに違いない。
 大きな特別な力によって強く守られているようなエネルギーが、いつも亜希の周りに漂っていた。彼女の特殊性を、上手に隠していたために、かえって地味な印象すらあたえていたのだ。
 そうでなければ、あれだけの力を持ちながら、今まで普通の生活が送れてきたわけがない。
 その力のこともあるだろうが、ナギは彼女の描く絵のほうになにかを感じ、きっと我慢できずに飛び出したのだ。
 シンは嫌な予感がしていた。
 頭のなかに警告音が鳴りひびいている。
 パソコンに打ち出された字は、キケン、と出ていたではないか。もしかしたらナギのことだったのかもしれない。
 まさか自分がいくら疲れていたとはいえ、ナギのエナジーに気持ちよくなってしまい、本気で寝てしまうとは信じられなかった。
 エネルギーをいっぱいに満たしたナギは侮れない。そんな力をもっていたのだと、そのときあらためて気づき、気をゆるしたことに舌打ちをする。
 ナギはいつも無意識に他人に与えてばかりいるので、常にエネルギー不足に陥っていた。そのため、本人はわかっていないのだが、本来有しているエネルギーは莫大なのである。
 こちらに来てからは、さらにエネルギーが枯渇した状態のままだったので、そのことをシンですらすっかり失念してしまったのだった。
 「まったく、無意識に与えるのもどうかな」
 ナギはいつも羽根がないことを嘆いているようだったが、無形の羽根をほんとうは気前よくあげているのである。始末におえない。
 ナギのことを思えばおもうほど、シンを襲う嫌な胸騒ぎは大きくなり、ザラつくような心地悪さでいてもたってもいられなくなってくる。
 顔をみなければ気が狂いそうだ。早くこの腕にはやく抱きしめたい。
 どうしてこんなに深く眠ってしまったのだろう。今ナギをひとりにしてしまうなんて大失態である。
 シンは家をとびだしていた。
 まさに宙を駆けるようにして走り、亜希の家の近くまでようやくたどり着いた。
 さすがに全力で何キロも疾走したので、息が荒くきれている。
 膝に手をついて呼吸をととのえていと、すぐ目の前を、黒塗りの車が通りすぎていった。
 それは亜希の家にまえに止まった。
 見ていると、黒づくめの男が携帯でなにか話しをしながら、家から出てきた。車の後部座席の扉をあけると、すぐに後ろに、もうひとり男が出てきて、乗り込んでゆく。
 その腕に抱えられている姿をみてシンは形相を豹変させた。
 ナギがぐったりと気を失っているではないか。
 まるで鬼神のように車にむかって走りだすと、まるで何かの気配を感じたかのように、車は急発進した。
 「待て――っ!」
 必死で走ったが、乱暴なまでの車のスピードにはさすがにかなわなかった。みるみる目の前から消えていってしまう。
 シンは角をまがり、先をみたが、車はもはやどこにもいなかった。
 ナギが目の前で連れさられてしまったのだ。なんとうことだ。
 「くそっ!!ナギをどうする気だ!――やつらなに者だ!」
 くやしげに激しく怒鳴り、荒い息を肩でつきながらこぶしをつよく握って、そばの電信柱をなぐった。周りの空気がスパークして爆ぜると、柱がパラパラとこぼちヒビが一番上にまで走っていた。
 こんなにも早く、嫌な予感が現実のものになってしまうなんて。しかもよりにもよって、目を離したこんなわずかなすきに、連れ去られるという最悪なことが起こってしまった。
 シンはいったん亜希の家の前まで戻っていた。
 何が起こったか確かめようと思ったのだ。ナギのかぶっていた帽子だけが落ちているのに目をとめると、たまらないようにつぶやく。
 「ちくしょうっ!」
 拾いあげるとグッと帽子をにぎった。
 シンはそれでもどうにか気を落ち着けると、今見たことを頭の中で反芻していった。
 何度も何度もくりかえして、映像の一部も残さないように思い起こす。
 ゆっくり再生し、わずかな違和感でも確認するように、それを思い出し検証してゆく。
 黒塗りの車。
 いかつい男たち。
 グッタリとしたナギに意識はなかった。
 あの男たちはどこか不自然ではなかったか。そう、姿ではなく、魂の形のようなものが。
 いや、魂そのものが、人間ではなかった気がしてくる。
 「ということは魔性の者か?――あの車、黒塗りのあの車を、おれはどこかでみた気がする……」
 運転していた男の顔を記憶から引っ張りだす。
 通り過ぎたとき見えた、ほんの瞬きするほどの間だけだったので、思い起こすのに時間がかかってしまう。
 それでもシンの意識は知っていると告げていた。あの男の顔を知っているのだ。こんな時の勘はぜったいに外れない。
 「どこで見た?あんな特殊な車とその運転手だ、そうはないはずだ」
 まるでシン自体が超高性能にコンピューターのようであった。
 記憶の映像をあらゆる場所から引きだし、求めるものと一致させてゆき、正しいかどうか調べてゆく。それをわずかなあいだにするのだから、体のほうにもかなり負担がかかっているはずである。
 眩暈がしたはじめていた。吐き気をもよおし、それも無視して続けていると、シンの目の色が変わりはじめてゆく。
 黒から黄金に、まるで高貴な野獣がもつ光そのもののように。
 「――会社だ!会社の地下駐車場でみたんだ!」
 その昔、一度だけ圭吾の会社に行ったことがあった。
 かなり目立つ高層ビルだった。
 そこにある土地も建物の何もかもが圭吾の持ち物であり、そのほとんどがテナントではなく、自社の関連会社で使われているらしかった。事前に多少は調べていたが、それでも想像よりはかなり大きくて驚いたのだった。
 ビルには、目をみはるほどの警備体制が敷かれていた。
 どうやらセキュリティーもかなり厳重そうであり、警備員はただの素人のとは思われない身のこなしをしていた。入り口にはつねに二人は立っていて、どんな時もけっして一人にはならない。普通の会社とは思えないほどの警戒ぶりである。
 シンには、そこまで厳しくするほうが返って怪しいように思われて、さらに嫌なものを感じていた。
 何かあるからこそ守りを固めているのであり、そういう時はたいてい知られるとまずいことをしているほうが多いものである。
 だが世間的にはセキュリティーも万全である、信頼のある会社としてうつっているらしかった。
 シンはちょっとした細工をすると、簡単に社員照合を通過してビルの中に入っていった。もちろん圭吾の部屋のパソコンをいじって用意していたのである。
 会社の中に入ったはいいが、あまり得ることはなかった。それより年若い青年がうろついている方が、怪しく見られてしまうので、長居はできなかった。
 収穫なく帰ろうとしたのだが、そこで地下の駐車場から上ってきた黒塗りの車が走り去るのを見たのだ。
 多分、重役のだれかでも乗せていたのだろう。重厚なつくりの車は、うしろのシートが広々ととられていて、そのシートにふんぞり返り、タバコを吸っている初老の男がみえた。
 そのときの運転手が、あの男と同じ顔をしていたのである。あまりいい印象をうけなかったので、わずかに記憶にひっかかっていたのだ。
 「神名圭吾――」
 シンのなかで、符号が一致していった。
 あの男だ。
 あの男がナギをさらっていったのだ。
 亜希の家にきた男たちは、亜希をさらうためではなかった。
 はじめからナギが目的だったのだ。
 さすがにシンと一緒のところを――家にいるときに押しってまでは、そうしなかったところを見ると、多分もっているだろう力をある程度把握しており、彼がどんなことをしても阻止することがわかっていたのだ。
 ひとりになる時をまっていた。そう、ずっと見張っていたのだ。
 「ではやっぱり、あの時帰ってきたのは、ナギがこちらの世界に来たことを確認するためだったんだ。ナギを見にきたんだ!」
 たまらない不快感は、圭吾の存在の黒さによって証明されてしまった。
 シンは唇をきつくかむと、怒りに体がふるえるのを止められなかった
 そのまま来た時と同じように、家へ全力疾走でかけもどっていく。
 来た時とはちがい、体にまったく負担がかからない。怒りによって、シンのエネルギーが全身を爆発するほどに駆け巡っているのである。
 部屋に着くとすぐにパソコンを立ちあげた。
 あらゆるところでつまずいていた問題部分に、確信をもって打ち込んでいった。
 圭吾によって目隠しをされていた真実を。
 時間をおくまもなく、スルスルと画面に答えがはじき出されてゆく。
 「『神名ジオリサーチ』。やっぱり政府と結びついていたな。いや、どちらかというと、行政のほうが、会社のために使われているようにもみえるが――ここで一体なにをしているんだ!?」
 国家機密のなかでも、その存在すら知る者を限定しているほど、極秘中の極秘である。
 あらゆるハッカーや侵入者によるキケンを回避するためにかなりの予算をさいてまで、最新のセキュリティを敷いており、ネズミよけのトラップさえ何重にもかけられていた。さらには二十四時間体制での監視までつけられているようであり、そこには国でもトップクラスのプログラマーを充てているのである。まさに激しいまでの警戒ぶりではないか。
 「何を隠してるんだ?」
 厳重に隠せば隠すほどにそこに含まれる毒の色は濃い。まして国家機密ともなると、国を揺るがすほどのことではないのか。
「何をロクでもないことをしてるんだ、クソ親父め!」
 ナギを連れ去ってまでしなければならないこととは、どんなことなのか。何をたくらんでいる。
 「傷つけることなど許さない。おれからナギを奪う存在など、どんなものであっても許しはなしない。――くそっ、またパスワードを変えやがったっ!」
 シンはきつくキーボードを激情にまかせて叩きつけた。
 手がカッと熱くなったその時、画面が勝手に動きだした。
 パスワードが自動的に入力されてゆき、どんどんと次の画面にうつってゆく。
 複雑な十桁の暗証番号や、普段使われることのない字面の漢字、長い英文などが打ち込まれ、とうとう最後まで五分もかからずたどりついてしまった。
 数字の雨が、まるで流れるようにパソコンのモニターに現れだした。
 シンはそれに見入っていた。
 呼吸をすることすら忘れたかのように、その機密を呆然としながらも、頭のなかで最速に解読してゆく。
 しだいに顔が白らんでいった。殺気だった顔つきに目だけがギラギラとしている。
 神への冒涜をゆるすまいとする聖職者のように固い表情をしていた。
 怒りと苦しみに歪んでいた眉間から、オーラがあふれだして、一瞬、爆発したように膨らみ、カーテンの隙間から漏れて流れる。
 「くそっ!」
 シンは熱い息を吐き出しただけで、電源をいきなり切ると、そのまま部屋を後にした。
 



 その住所は、神名ジオリサーチの本社がある住所とはちがっており、都心部からかなり遠くはなれている、郊外につくられた、巨大な工業地帯の中にあった。
 さらにどこにそんな建物があるのかというくらい、森のような樹木がうえられており、散歩をすれば気持ちがいいような公園があちこちにあった。
 そのどれもに花や緑を囲うように植えており、見ただけでも管理にかなり金をかけているとわかる。
 まるで野球場でもできそうなくらいの土地を、誰も使わない森林公園にあてていた。一見、どこに迷い込んだかわからなくなるいくらい静かな場所だった。
 その施設もまた、一目みただけでは、たいしたことのないいたって普通の建物であり、多少は大きいかな、というくらいのもので、国の――まして機密を扱うような場所とは到底思われなかった。圭吾の会社のビルの方がよっぽどそれらしい建物といえるだろう。
 だが、そこから発せられている気配は、静かだからこそ、よけいシンにとっては胸が悪くなるような異様さを覚えていた。
 尋常ではない巨大ななにかの意図をもっている。
 無論一般人には、ここは静かで気持ちがいい場所だろう。だが、まったくわからないだけで、こういう場合、地上がきれいであればあるほど、静かであればあるほど、その地下で行われていることに、健全なものはない。
 おぞましい、口では言われないことが平気でなされているために、緑はカモフラージュとして使われているにすぎない。
 シンにみなぎる力――ソメイのもつ無限の力は、この世の理と法則を歪めるであろう圧倒的な力を、はっきりと感じとっていた。地上にありえない力の種類をふくんでいた。
 頭に叩き込んでいたパソコンからの情報どおりに、そこを進んでいった。
 全体の地図も建物の構造も、まるで初めて足を踏み込む場所とは思えないほど、目に見ているようにわかった。もしかしたらその情報をみせた者が、シンを導いているのかもしれない。
 先に進めばすすむほど、その何者かの存在を強く感じていた。
 そこにはふしぎと悪意も害意もまったくなく、それどころか懐かしい安堵するような親しみさえふくまれていた。こんな人工的で冷たい場所なのに、まるで故郷に帰ってきたような気さえ覚えているのはなぜなのか。
 そう、母親の手に抱かれているようなホッとする、この温もりがそこはかとなく漂っているのだ。この気配が敵であるようには到底思えない。
 ひと気のない職員専用の通路の戸が勝手にひらき、カード式で動くエレベーターがシンをむかえた。
 そのまま地下三十階まで急降下してゆく。
 不安はまったくなかった。
 もしかしたら何かの罠かもしれない。シンをおびき寄せるために誰かが巧妙に罠を仕組み、狼の口にはいる獲物を、嬉々として待っていることも十分考えられた。
 それでもシンは迷わず行く。そのことを微塵も恐れはしないし、シンには本当に彼を必要とし、ここへ導いてくれている者が誰なのか、なんとなくだがわかっている気がしていた。
 ナギの居る場所に近づいていっている。それだけは本能的に確信している。いまはそれだけでいい。
 白銀色をした重々しい扉の前にたった。
 虹彩と指紋でのダブル照合が必要な、バイオメトリクスであり、登録されていないシンにはもちろん空けられるはずはない。
 だがそこもまた、シンの歩みをとめることもなく、自然に扉がひらいた。
 扉の中にはいったとたん、薄暗い廊下と違い、目に痛いような照明がシンを浮かび上がらせていた。
 「待っていたよ、シン」
 いかにも楽しそうにそうシンを迎えた男に、シンが凍てつくような鋭い視線をむけた。
 想像どおり、目のまえにいたのは圭吾だ。
 圭吾は涼しい顔をして笑みさえ口元に浮かべていた。まるで心待ちにしていた客を歓迎するように、手さえ広げてみせるとシンに歩み寄ってくる。
 「親父――神名、圭吾!」
 圭吾のすぐわきには、黒づくめの男が三人たっていた。人の気配がしない。
 すぐうしろには白衣をきた数人の男女がおり、コンピューターの前にすわっている。何かを管理するたの複雑な数値の浮かび上がったパネルをのぞきこんでは、カタカタと打ち込んだり、計器のスイッチをひねったりして、注意深く操作をしている。
 よくみると壁面にはびっしりと何らかの機器類が埋め込まれていた。天井から吊り下げられていたるのは数台のモニターであり、どれもが違う部屋らしい場所を映しだしている。それがこの地下の、いたる場所に備え付けられた監視カメラからの映像だとすぐにわかる。
 「よくここまで無事に来られたなシン――と褒めてやりたいが、当たり前というところだな、おまえの力ならば」
 シンが不審そうに目を細めた。
 「そうでなければおまえを作った意味がないからな。いや、神の魂の一部をもつおまえなら、人間のつくった玩具などたかがしれているだろう?」
 「あんたは……っ!」
 圭吾はつくりものじみた秀麗な貌を、まるで愛しい者にでも接するかのように優しくゆるめた。長身の男は威嚇するようなシンの視線をうけても、悠々として見下ろしている。
 「どうせこの施設のことは全部知っているのだろうシン。何者かの接触があったかもしれないという、近年きかない曖昧で面白げな報告があったからね。私には、すぐに君だとわかったよ」
 クククッとノドを鳴らした。
 「だから君がここへ必ず来るだろうということもわかっていたよ」
 「ああそうだ、おれがここを調べたんだ。だがあんたがナギをさらわなければ、こんなところには来なかったよ。あんたが何をしていようと、何をたくらんでいようと、興味もなかったし、関わることもなかったんだ。たとえこの地球を――ガイアをメチャクチャにして、壊そうとしようともなっ!」
 吐き捨てるように言った。
 「失敬だな、シン。君は勘違いをしているよ。私はこの地球を――この宇宙のなかで最も美しい星、生命の源であるこの地球を、本当の意味で救おうとしているんだ。ガイア様の神秘性も愛情も理解せず、ただやみくもに欲望と邪悪な想念のままに壊そうとしている、この愚かな人間どもから、純粋に守っているのだよ。君もあのレポートを読んだのなら、わかっているだろう?」
 「あんたがこんなことをしているせいで、ガイアがどれだけ傷ついていると思っているんだ!こんなことを彼女はこれぽっちも望んでなんかいない。全てのものの母が、どうして自分に一番近い彼女たちを愛していないと思うんだ?誰よりも深く愛しているからこそ、自らの力を与えているのだとは思わないのかよっ?!」
 フッと見下し小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
 「まさか君までが、そんな愚かなことを言うとはね、いささか私は失望したな。そんな甘いことを言っているから、地球がこのような状態になったのではないか。――私もずいぶん長いあいだ彼女の願いをきいてきたし、ずっと見てみぬふりをしてきた。その結果が、これだ。――女神の深くてながい眠り。生命力の枯渇という、今のこの常態が起きてしまったのだからな」
 銀の細いフレームの眼鏡を優美なしぐさでもちあげた。実業家というよりはまるで哲学者とでもいうような風情である。
 「ガイア様はこの上なく疲弊している。それもこれも破壊や公害、略奪に搾取、欲望と醜い思念思想によって、痛め、苦しめてきたからだ。もはや眠るしか生命を維持できないところまで女神はきてしまったのだ。そして近年では、そのガイア様の再生の眠りすら脅かされている。地球は人間たちの我欲によって疲れはててしまったのだよ」
 まるでガイアの代弁者のように圭吾は冷淡な口調で語った。
 その双眸に浮かんでいるのは人間に対する憎しみと嫌悪であり、それ以上の強くひらめているのは、ガイアに対する情熱的なまでの愛情だった。
 もはや母なる星、女神に対する思慕の情というには激しすぎている。人間を、ただガイアを苦しめる、薄汚い害虫としか思っていないのがありありと伝わってくる。
 シンには、圭吾がまるで人間ではない者のように思えてきた。
 考えてみれば、この男とこんなに話をしたことはない。
 顔さえろくに見たことがなく、こうして改めてみあげる容貌は、なんとも人間ばなれしている秀麗すぎる容姿をしているではないか。
 異様に若い――。
 だがその表情に浮かんでいるのは、ゾッとするような冷たさであり、明哲な頭脳をもつ者だけが有する、他者を蔑むような酷薄な表情は、人間への憎悪の念を隠しもしていない。見ている者を怯えさせるには十分な迫力がある。
 「それでも、ガイアは人間を愛している。許しているんだよ。あんたはガイアをそれほど愛しているというのなら、なぜ彼女が望んでないことをするんだ」
 「私だって人間を愛しているさ。もちろん、彼女が愛しているからね。だからこそ、地球が死んでしまわないように助けているのだよ」
 「地球が、死ぬ?」
 「そうだ。それほどガイア様は痛みきっているのだ。――時間がたりないのだよ。彼女たちの力はどうあって必要だったのだ」
 残酷なほどに平然と言い切った。
 「ガイア様くらいこの世界にとって必要な女神はいないだろう。女神の愛がなければ、何一つ成立しないのだ。宇宙の至高の宝で、聖なる生命の女神でもあらせられる。この地球の助けになるのならば、彼女たちだって自分を捧げられて返って喜んでいるさ」
 「――彼女たちだって生きていて、普通の生活をしていたんだ!つらいことや悲しいことがあったかもしれないが、それでもこの星で人間としての一生を終える権利をもって生まれ、生きてきたんだ!」
 シンは言いながら、圭吾の傲慢さに吐き気がして我慢できなかった。
 機密文書を読んだとき、まさかと思い信じられなかった。
 そこに書いてあったのは、ある項目に一致する、特殊な能力をもつ少女たちのことだった。
 各国の政府は、その少女たちを探すことに精力を傾け、血眼になって求めていた。
 すべての小学校や中学校、また高校の学力テストやアンケートのなかに、その力を潜在させるかどうかの有無をはかるための問題をちりばめ、その選定にあたっていた。
 そして教師や近所に住むものたちの中に、その力を見極める者をひそませて、さらにその力の程度や具合を調べていた。
 その力をもつと認定をされれば、少女の運命はそこで大きく悲惨に捻じ曲げられてしまうのだ。
 すべてが秘密裏に行われていった。
 それは国家という巨大な力が関わっており、また全世界レベルという大規模なプロジェクトのために、なにもかもが闇から闇へと葬り去られていった。
 どんなに探しても、連れ去られた少女は決してみつからず、なんの手がかりもなく全ては徒労におわるであろう。
 たとえ手がかりがあったとしても、ある一定のところまで来ると、かき消されるようにプッツリと消えてしまい、それ以上はどうしたって出てこない。
 「国が――人間がどうしてガイアに関する情報をこんなに詳しく持っているんだよ……。いや、神について、宇宙のなかの地球について、なんでこんなに緻密で恐ろしいほどの計測が出来るんだ。――この知識の数々は、まだいまの人間の進化程度では持てないはずだ。女神の存在をどうやって本当だと証明してみせた。どうやって信じさせることができたんだ!」
 ニヤリと圭吾がわらった。
 「だからこそ、そのために神名ジオリサーチを作ったのだよ。それらを可能にする機器をつくり、データーを集めさせた。緻密であればあるほど否とはいわせぬ研究レポートがつくられる。それを教授どもに検証させる。――ああ、もちろん機器は買い取ってもらってね。お金も必要だからね。――あとはそれらを科学者たちに必死で説明してもらうだけだった。お偉いさんは、みなさんそう賢くはないからね、権威があればいとも簡単に信じてくれる。そして信じれば、言うとおりに動いてくれるからね」
 「あんたがすべてを計画して、事をすすめさせたんだな。黒幕はあんただったのか」
 「地球の滅亡と一緒に、人間も滅亡するんだ。地球を助けるということは、人間を助けるということだろう?ならば一緒ではないか。そのためには多少(・・)の痛みはつきものだよ。そう、大事の前の小事ということだ、シン」
 名をよばれ、シンはカッと目をみひらいた。怒りで体の回りの空気が弾けて閃光をはなった。
 「何を怒るんだい。彼女たちだって、決して不幸ではなかったはずだ。自由はなかったかもしれないが、ガイアの一番そばにいられたのだし、力になれたのだからね」
 「そんなことをよく言うっ!」
 「地球の生命リズムを狂わしているのも人間なのだから、それを戻すのも人間に決まっているじゃないか。自分たちの愚かさを、自分たちの同胞で償わせるんだ。あたりまえの話だよ」
 シンの読んだあの報告書には、その特殊能力がどんなものであるかが書かれていた。
 地球の鼓動ともいえる生命のリズム――それは敏感な者や霊能の力をもつ者たちが、地球のエナジーだとか地球の歌だとかといい、または風水でいうならば大地のエネルギーが走る、龍脈とか天脈など呼んでいる、生命の根本を維持するすべての力の源である。
 その生命リズムが狂ってしまうと、あらゆる環境の変化や乱れがあらわれはじめてしまう。
 飢饉や災害、異常な病気がおこったり、人間の本能に狂い生じ、心にある大切なものが歪んでしまう。人が人を殺し、欲におぼれて盗みをはたらき、形あるものを壊し、鬼のようになってしまう。
 その大切な地球の生命リズムに、ごく稀に、完璧に一致する少女が存在するのである。
 本当にゼロに近いほどの確立でしか存在しないために、見つけられれば、まず絶対といっていいほど、政府機関によって捕獲されてしまう。
 完璧なものにただ近い、という者なら、各国にもいくらかはいたのだが、さすがに女神の鼓動すべてを一致させるとなると、非常に稀少であった。
 そしてなぜか、その特別な少女がいる確立が高いのが、日本だった。もしかしたら特別な何らかエネルギーが日本に走っているのかもしれない。
 捕らえられた少女たちは、まず延命処置がほどこされていった。
 彼女たちの力を使い、地球とシンクロさせて、ガイアの代わりに地球のリズムを――歌をうたわせるために、道具として少しでも長く使おうというのである。
 歌が響けばひびくほど、ガイアの負担は減り、地球にエネルギーがゆきわたった。
 十分浸透すれば、のこったエネルギーは、さらにガイアの回復を手伝うことになり、地球がより元気になる、という仕組みである。
 シンの燃えるような瞳に睨みつけられるのにもかまわず、圭吾は悠然と言った。
 「ついてくるかがいいシン。君に会わせてあげよう。彼女だって、本当は地球の役にたてて喜んでいるんだ。きっと実際に会えば、それがよく理解できると思うよ」
 返事などまたず圭吾は隣の部屋のロックを解除し、隣室へと入っていく。一緒についてきかけた男たちに手で合図すると、彼らの動きがとまり、圭吾の後について入るシンは彼らにジロリとにらみつけられる。
 踏み入れた部屋のなかは、一面の水の世界だった。
 蒼くただよう静かな空間。
 巨大な水槽が、部屋の半分ほどいっぱいにひろがっていた。
 その深海のような蒼い水のなかに、ひとりの少女が、たったままの姿で浮きあがっていた。
 目をつぶり、まるで自分のすべてをあけ渡すとでもいっているかのように、こちらにむけて腕をひらき、長い髪を水にたなびかせながら眠っている。
 まるで天女が空中を舞いあがっている瞬間を、永久にとどめてしまったかのように罪深く、またひどく神秘的な姿であった。
 美しい少女だった。
 真っ白い肌は真珠のように透明で、それに対比して唇は真赤で、目じりもほんのり赤く、まるで化粧をほどこしているかのようだった。長いまつげも水にゆれて、話かけてくるかのごとく笑ってみえる。ただ大きな目が開いていないのが、ひどく惜しまれる。そこに映る黒い瞳はどれほど綺麗であろうか。
 白い衣服が、女のなかの澄んだ心をより浮き立たせているかのようだった。苦しみも悲しみも消し去り、ただの慈愛だけが後にのこっていた。痛々しいほどの優しさが透けていており、彼女の前に立つだけで、こんなにも敬虔な気持ちになってしまうのだ。
 感情をあまりのぼらせないシンの顔に、あまりに強い感情をはっきりうつしだし、ただ呆然としている姿をみた圭吾は、いたく満足したように楽しげに口元をゆるめた。
 「水都(みずと)だよ。今期の女神だ。もう三十年もまえから、ずっとこのままでいる」
 まったく年もとらず、容貌も衰えず、ずっと彼女はここにいて、この場所で地球の歌をうたい続けている。
 『……シン…』
 名をよばれシンはハッと顔をあげた。爽やかな緑のような声だった
 水都をみあげる。
 『シン、やっと会えた……あなたをずっと待っていた。来てくれてありがとう、シン……シン…』
 「君だったのか、水都」
 自分を呼んでいたのは、やはり彼女だったのだ。
 シンにはわかっていた。もうずっとこの感覚やこのエネルギーを身近に感じていたのだ。
 「おや、君は水都のことを知っているのかい?」
 圭吾がいぶかしむように声をかけた。まるで知っているかのようなシンの態度を不審に思っているのだ。
 どうやら圭吾には水都の声が聞こえていないようだった。シンは圭吾を無視して、口の中で小さくはなしかけた。
 「水都、君はずっとこうしておれを待っていたのか?」
 『――そう、待っていたわ。ずっとあなたが来てくれるのを。――シン、お願いがあるの。どうしても、聞いてほしいの。私たちの、ガイアの願いをあなたに託したい……』
 私たち、という言葉にシンは胸が痛んだ。
 彼女のような存在は過去に何人もいて、そして彼女と同じようにずっと思いを残し続けているのである。
 『あなたに会いたかった。私が死ぬまえに、どうしてもあなたに会いたかった。私たちの願いを聞いて、シン』
 水都の言葉がシンの頭のなかに響きわたった。何かに支配されていくかのように捕らわれ、そのまま水都をじっと見上げている。
 背後で圭吾が話していたが、シンの耳には届いていなかった。
 ガイアそのもののようなエネルギーが満たしていくのに、シンは素直に己をあけわたし、抱きしめられていたのだった。




 目覚めたそこは薄暗い場所だった。
 ナギはどうして自分がこんなところに居るのか、はじめわからなかった。
 身を起こしながら、何かを振り払うようにして頭をふり、かすかなめまいと共にゾクリするような気持ち悪さのあまりに、小さくうめいた。
 「そうだ、ぼくはたしか、亜希ちゃんの家で男たちに……」
 捕まってしまったのだ。そして、その後の記憶がない。
 ふいに甦ってきたあの男たちのおぞましさに肌が泡立っていた。およそ人間とは思えないほどごつくて大きな手は、あまりにも粗雑でトゲトゲしていて、オーラ自体が歪んでいた。柔らかいナギの肌は触られるだけで傷がつくようであった。
 横たえられていたのは、どうやらソファーのようであり、一応毛布はかけられていたが、あまりの冷たさにふるえていた。足元の床には生々しい邪気のような冷気がただよっていて、渦をまいて対流しているのがみえる。
 命の匂いがまったくしない場所だった。
 何もかもが人工の物で作られていて、空気すら人工の機械を通された、精気のかけらもない死んだものだった。
 よくこんな場所が作れるものだと感心する。何もかもが硬くて冷たくて、死んでいて、さすがにナギも息が詰まりそうになる。
 苦しさに胸をおさえた、片方しか働いていない肺には、あまりにも粒子が荒くて、ナギの身体にほとんど受けつけられない。
 「ここ、どこなんだろう?亜希ちゃんは大丈夫だったのかな――?」
 苦しい息のなか、それでも夢中で物置きに隠した亜希の安否がことが気になった。無事でいてくれればいいのにと祈りながら、せめてこんなところに亜希が連れて来られなくてよかったと思っていた。
 きっと繊細な少女の心では、暗く冷たい不気味な場所にひとりでいることなど耐えられないだろう。ナギでさえ気が狂ってしまいそうなのである。
 咳きこみながらも、どうにか息をととのえて気を落ち着けようとした。
 腕の石が光を増したことで空気がわずかだけだが柔らぎ、息ができるようになった。
 ナギは青い顔のまま周囲をみわたした。
 「シン、勝手にいなくなっちゃったから心配してるだろうな」
 まさかこんな目にあおうとは思いもしなかった。
 いつもいつもナギを心配し、気づかってくれていたシンを、また自分は苦しめているに違いない。必死で探し、ナギが居ないことで苦しんでいる。いま彼がどんな心持でいるか考えただけでさらに辛さがます。シンの気持ちが手に取るようにわかってしまう。
 咳がノドをついて出だした。肺が切れるように痛む。
 瘴気がいきなり膨れあがり、建物がゆらいだかのかのように感じ、倒れるようにして膝をついた。咳をしすぎて血の味がこみ上げてくる。
 ――ナギ……。
 電気が薄くともったように感じた。
 ――……ナギ……ナギ。
 気づかうような少女のささやき声が、頭に直接響いてきた。
 草原を駆ける緑の風に抱きしめられたような感覚がした。
 ふいに呼吸が楽になると、ナギのエネルギーの結晶ごとき身体に、大地を濡らすしとやかな恵みの雨がふりそそぎ、洗い清め、癒すようにエナジーが満ちていった。
 愛情深いだれかの手につつまれた。
 「ガイア様?ガイア様なの?」
 地球そのものの緑と生命の息吹を感じていた。
 だれをも愛し、だれをも抱きしめることのできる大いなる力――母親だけがもつ特別なエネルギーは、何もかもを許すことのできる無償の愛情をそなえている。
 卑小な生命体にさえ、みずから命をあたえ、母乳を吸い尽くさんと懸命にあがく子供たちに身体を差しだしている、まさにガイアそのもののエナジーである。
 まろやかで甘いこれ以上の愛はないのではないかという、限りない慈しみの思いがナギに流れ込んでいた。深く息をついて、ナギは目をあけた。
 目の前に立っていたのは一人の少女だった。
 少女は陽に一度も焼けたことのないような白い肌をしおてり、見る人を惹きつけずにはいない神秘的な黒い瞳をもっていた。背中まである長い黒髪と、丹を差したような赤い唇は、白い肌とのコントラストをはっきりとさせて、えもいわれぬ艶めかしさである。
 よくみると、少女は本当に半分透けていた。燐光を帯びている。
 不思議と怖くはなかった。
 大きく黒目がちの目には、何もかもを見通す叡智を宿し、また大きな悲しみが落ちていた。
 「君が、ぼくの呼吸を楽にしてくれたの?ありがとう」
 『ナギ――』
 微笑むナギに、少女も笑った。
 彼女は自分の存在をすでに理解しているナギを嬉しそうにみつめた。透けるように光が増幅する。
 「ねえ、一体ここはどこなの?」
 『ここは、地下六十メートルに建設された地下施設。そして、地球のエネルギーを制御している要塞であり、また、私たちの悲しみの墓場でもあるところ』
 「えっ?」
 ナギはいきなり投げつけられた言葉に、即座に反応することができず、大きな目をしばたいた。
 『ナギ、私たちの話をきいて』
 ナギはじっと少女をみつめていたが、素直にうなずいた。
 光の塊のような少女は、流れるようにナギのそばにやってきて輝く繭のなかにナギをつつみこんだ。
 『あなたがいずれここへ連れてこられることを、私たちは知っていた。ずっと、待っていたのよ』
 ナギはおどろくように少女をみた。
 彼女の顔は真摯であり、放たれているエネルギーは、どこまで澄み切っていて、心の底まで透かしてしまうようであった。またその光に透かされた彼女自身の心も、どこまでも透明で、清廉な清水のように感じられる。
 胸が痛むのは、こんなに綺麗になるためには、一体どのくらいの悲しみをすぎればいいのか、わからないからだ。
 『これが真実であり、ここであったすべて――』
 少女が白く輝くひたいを、小さなナギのひたいにくっつけた。幻のはずなのに、ぬくもりが感じられてくる。
 光が強くなり、あらゆる情報がナギの中に流れこんできた。
 とらわれてきた少女たちの恐怖と悲しみと、そして幾多の苦しみ。果てしない絶望とやるせないあきらめの気持ち。
 それと同じくらい、強いガイアへの思慕の情があった。ガイアから送られてくる、純粋でかぎりない愛情は、強くてあたたかく、無上の歓喜と、胸をつくようないたわりに満ちている。その愛だけで、彼女たちの心はたもたれ、生きながらえさせているのだ。
 少女たちは地球の歌をうたいながら、人間としての時間を止められていた。
 時をとめたまま、生きるはずだった人生のすべてのエネルギーを凝縮させられ、歌へのエネルギーに変換させられているのである。
 すでに彼らの存在は、人間とよべるものではなくなっていた。
 物であり道具であり、機械だった。
 その苦痛は計り知れないものがある。人の世の理から外れるということが、どれほどの傷みをともなうか、言葉になど言い表すことができない。
 彼らに――科学者も技師、そして役人たちや企業家のだれにも、それほど残酷な一生があるのかという哀しみはわかりはしないだろう。
 そしてあの男、神名圭吾には、絶対に。
 歌うべき歌をすべて奪い尽くされると、彼女たちに訪れるのは終焉だけだった。
 つぎの『聖母』が決まり、力をなくした時点で、不要物としての死がおとない、そして無情にも、死は、彼女らに安らぎを約束してはくれないのである。
 家族のもとへも帰してもらうこともなく、愛する者にたった一言の言葉も届けられず、伝えることのできなかったたくさんの思いをなに一つ汲み取られることも、慰められることもないまま、終わってしまう。
 土に返ることさえなく、小さな箱にいれられて、それでおしまいであった。まるで不用品の廃棄処分のようでさえある。
 彼女たちの働きに対するものとしては、あまりにも無情すぎるものだった。残酷すぎて、気分が悪くなる。
 最後に伝えられたのは、目の前に浮かび上がっている水都という少女の、終わりが近かいということだった。
 ナギの目から涙がこぼれ、ほほをつたい床をぬらした。
 涙がポロポロと落ちるたびに、床を這っていた瘴気が消えてゆき、少女の姿がはっきりと浮かびあがってくる。
 ナギは涙を流しながら、ひたいをくっつけている光の少女をかき抱いた。あまりの哀しさに耐え切れず、彼女のなかの闇を抱きしめずにはいられなかった。
 「君たちは……なんて悲しい運命なの……」
 思いが強すぎて、咽喉がつまり言葉がでない。
 どのような言葉をかけたのなら、わずかでも彼女らの思いが報われるというのだろうか。家族の苦しみを、恋人たちの嘆きを、どうしたら慰めてあげられるのか、ナギにはわからない。
 『ナギ……あなたの涙が私たちの思いを清めてくれる。あなたの言葉が私たちの魂を癒してくれる。その存在自体が、すでに癒しであり慈悲。稀有なる浄化の宝石。――私たちの母、ガイア様と同じエネルギーを感じるわ』
 ナギは首をふる。
 「ぼくには、真実きみたちを救ってあげることはできない。ただ一緒に泣いてあげることぐらいしか、できないよ。……ごめんね。羽根もない樹で、ごめんね」
 ナギはいつも自分の無力を哀しみながら、見えない羽根を手折り、彼えらの思いを清めている。気づかずに折る羽は、体ではなく、心に血を流させている。
 『ナギ、あなたは気づいていないだけ……でも、ありがとう。……ナギ、ここには、本当はあなたのような無垢なる存在が来るべきところではないのよ。だって、あの穢れたおぞましい世界の入り口が存在しているのだから……』
 「穢れた、世界?」
 ナギは声の響きにゾクリとした何かを捕え、瞳に怯えをふくませた。
 『絶望と闇とでとざされた、黒い月の世界――』
 「み、水都?」
 水都の姿がゆらいだ。まるでノイズの走った映像のようにユラユラした。
 『……ナギ、気をつけ…て……』
 言葉ごと、フワリと闇の中に消えてしまった。
 「水都――」
 部屋はまた薄暗い闇にもどっていた。
 水都が消えた部屋のなかはひどく冷たく、空気のよどみがより強く感じられた。
 ナギはブルリとふるえた。彼女の存在だけで、何もかもが和らいでいたのに、ガイアのエナジーが薄まり、体がきしみはじめる。
 それでも彼女を抱きしめたときに感じたぬくもりは消えていなかった。肌が、緑の大地にくるまれているように温かいままだ。
 「彼女は今、どこにいるんだろう……」
 地球の鼓動を持つ不思議な少女――水都。
 ガイアに実際に会ったことはないが、もし彼女がガイアにちかい存在ならば、ガイアというのは、なんと大きくて温かくて、心潤される女神なのだろうか。
 心の闇も、傷も、何もかもを理解し抱きしめてくれる。許してくれるような気がしてくる。疲れも哀しみも、彼女の腕のなかでなら、すべえ癒されるだろう。
 「ソメイ様は、だからガイア様を愛したんだろうなぁ」
 ソメイはことのほか、妹であるガイアを愛でていた。
 ナギは、ソメイのあの終わりのない巨大な孤独と虚無が、彼女の手によってだけ癒されていたのが、手に取るようにわかった。
 母なる愛をもち、どこまでも許し受け入れることのできる最高の女性であり女神だけが、創造神の持つ、どうすることもできない心の闇を受け止めることができたのだ。
 「……ぼくではとても、ソメイ様の芯からの孤独を癒してあげることは、できなかったんだ」
 自分がどれほど小さくて未熟であるか、痛いほどわかる。だからこそ、再生のためにガイアが眠ってしまった後のソメイには、救いがなに一つなくなってしまった。
 どうしてそれが自分にできなかったのだろう。
 ナギは悔しくて哀しくて心が壊れそうに軋むのをどうすることもできなかった。
 「どんなに小さくてもいい、あの方の、光になりたかった………でも、それができないのならば、せめてあの方の闇を、ぼくがこの身のすべてをかけてでも、癒してあげたい」
 フフフフッと笑い声のような不吉な風が足元からふきあがった。ナギの肩先でゆれる髪の毛をもちあげ、首筋をザラリとなであげた。
 ナギは身を硬くした。あまりの不快感に動けなくなってしまった。地上にふく風とはまったくちがう、なんともおぞましくて禍々しさに溢れている風は、まるで魔物に舐められかのような心地悪さがある。
 「別の世界の――風?」
 水都は何を告げようとしたのだろうか。何に気をつけろといったのだ。
 扉がいきなり開かれた。
 入ってきた顔にナギはビクリと背をそらせた。
 「お、おじさん……?」
 「ようこそナギ君。こんなところへ、天上界の聖天樹たるきみをお迎えするなんて、ちょっと申し訳なかったのだがね」
 圭吾はいっそ優雅というような笑みをうかべてナギを見下ろしほほえんだ。
 ナギはまったく違う生き物をみるように、圭吾をみつめていた。
 「どうして、ぼくが『樹』だってこと知っているの?なぜその名を――?」
 圭吾はさてどうしようか、というように長く白いゆびをこめかみにあてた。
 水都から流れ込んできた映像には、少女たちの悲しみのむこうにいるその顔が、いつも見えていた。
 恋人に微笑むように甘くみつめる彼のなかには、だれにも真似のできないような冷酷さがあり、感情をいっさいはさまぬ厳しさは、まさに無慈悲の神とでもいえる残忍さが隠されている。
 ナギはまるで自分にされたことのように思い起こされ、身が冷えてきていた。
 「まさか見張っていた沢村亜希の家に、君のほうから来てくれるとは思いもしなかったよ。事がこんなにすんなりと進むとは思わなかったので、まずはきみに礼をいうべきかな」
 「亜希ちゃんの家を、見張っていた?」
 その名前にナギは敏感に反応した。
 「そうだよ。彼女は次の『聖母』だからね。今の水都はさすがにそろそろ寿命だ。まあ三十年も持ったんだから、最長記録ではあるのだけれどね」
 ナギは水都の名前に息をのんだ。
 「亜希ちゃんを次の水都にする気!?」
 「ほお、水都の名前を知っているのかい」
 なるほど、というようにナギのそばに近づくと、ほっそりし顎をつかみあげ、上をむかせた。人間のものではない双眸に、ナギはおもわずゾッとして目をつぶる。
 「なるほど、美しいな。アレがどうしてもと望むのもわかる気がする」
 目をみひらいたナギは圭吾と視線があった。
 「このエネルギーの質、量、ともに最高級品だ。さすが天界樹というべきかな。これ一体で、何千体、いや何万体ほどの贄に相当するだろうか。うん、きみはこれ以上ない良い供物だよ」
 「な…に……?」
 圭吾の瞳にみつめられると気が遠くなりそうだった。
 彼のなかにはいろんな感情が混ざりすぎていて、複雑で怪奇な迷路に紛れ込んでしまったような恐怖心さえわきあがってくる。
 意識がかすんでいった。
 「ソメイは動かないよ。何があろうとも、だれがどうなろうともね。やつは絶対に動かない。だれよりも寵愛していたはずの妹、ガイア様ですら、助けてはくださろうとしなかったのだからね。きみを助ける者はどこにもいない」
 倒れるナギの腕をつかみ、まるでナギこそがソメイ自身でもあるかのように、呪いの言葉を吐き出した。
 「やつは誰より冷たい。あの男に心などというものは存在していない。大切にしていた『樹』であるおまえすら、やつは絶対に助けてはくれぬだろう。――ああ、大切な『樹』が目のまえで闇に落ち、泣き叫び苦しむ姿を、どんな顔でみるのだろうな。実に楽しみだよ。……本当に、あの男の力をほんの少し動かしてくれるだけでよかったのに、なんと冷酷な神なのだろう――」
 「……ソメイ様は冷たくなんかない」
 ナギは必死で圭吾に顔をむけた。歯をくいしばり、身をよじって腕から離れようとする。
 「ソメイ様は誰より苦しんでおられたんだ。あの方は『しない』のじゃなくて『出来ない』んだ。『出来ない』苦しみの方が、ずっと大きい」
 圭吾はふん、と鼻をならすと、乱暴にナギの手を離した。ナギは床に崩れるようにたおれこみ、肩で息をしていた。
 「詭弁だな。結局はなにもしないことに変わらない。――まあそのことはいい。いずれにせよ、ソメイが何もしないのであれば、勝手にこちらで手を打たせてもらうだけだ」
 「もうやめてよ。ガイアはそんなことを望んでいないし、彼女たちだって物じゃないんだ。そんな風にだれも扱っていいはずない。生きる権利を侵害することはできないんだ」
 圭吾は小馬鹿にしたように目を細めナギを冷たくみた。
 「寄生虫に権利などあるものか。宿主を殺してしまうような下等生物に、ガイア様についてとやかく言う資格はない。――そう、彼女たちはむしろ喜んでいるさ、ガイア様の助けになれたことをね。そして一番美しい姿のまま、時を止めて死ねるのだから、女なら、これ以上の喜びはないだろう」
 ナギは圭吾の冷徹で傲慢な言葉に、背中が冷たくなっていった。なんいう蔑みと憎しみの色が混じっていることだろう。
 「ついて来るといい、特別に彼女たち(・・)に会わせてあげよう。聖母たちは未来永劫、聖者として敬われるのだからね」
 ゾッとする、魔物よりももっと禍々しい笑みをうかべると、ナギの腕を握った。一見細身の圭吾のどこに、これほどの力があるのかと思われるほどの力でひっぱりあげた。
 ナギは体がうくように感じていた。圭吾が何かしたのだろうか、ひどく心もとないフワフワとした足取りで、となりの部屋からつづいていた地下への階段をなすがままに降りていく。
 どこまで下るのかわからないほど階段を降りていった。一番下までくると、やけに仰々しい扉があった。魔方陣が描かれ、ピリピリとした封印の法が敷かれている。
 暗証番号を入力すると、音もなく扉がひらいた。
 「ああっ――っ!」
 ナギは悲鳴を飲みこんだが、たまらずふさいだ手の平から声がもれ出た。
 白亜の大理石によって作られている部屋は、目に痛いような一面の白だった。
 磨きぬかれた最高の石は、つやつやと高貴にあわく燐をおびたかのようであり、青いライトがともされているようで、冷たさをいっそう際立たせている。
 そしてその部屋に置かれているのは、美しい細工に宝石をちりばめた豪華で贅沢な棺桶ではないか。
 まるで人形を飾るがごとくに少女たちを着飾らせ、女神の像を飾るように壁面に立てかけられていた。どの少女の顔も、まだ年若くて、いっそ幼いといえるような相貌であり、眠っているかのようにみえている。
 地球のために自分のエネルギーをすべて費やし、歌をうたわされた『聖母』たちだった。彼女たちは、数十年、早ければ数年でその命を終わらせてしまったのである。
 水都ほどの年月をかさねた『聖母』はまれであろう。それほど力が強かったともいえるが、苦しみもまた、長すぎるほど、長いということでもある。
 「なんて、ことを――」
 ナギはたまらず胸をおさえた。
 そこにあるのは安らぎではなかった。
 死してなお、輪廻の枠にもどることもなく、ただそこに在ることを強要され、肉体という牢獄に閉じ込められた憐れな魂たちだった。
 彼女たちは生きてゆくはずだった時間だけでなく、肉体も、ついには魂さえも奪われつづけているのである。
 「なんてことを……ひどすぎる……っ!」
 「お偉いさんたちの趣味だよ。せっかく美少女たちが、みずからの命を賭してまで地球を救ってくれのだから、その証しを残しておきたいのだそうだ。――まあ私としても、至極悪趣味かとは思ったがね、一応金をださせているから、すべてを退けるというわけにもいかなかったのだよ。……まあそれに、これはこれで魂の共鳴によって、魔の抑えの力にもなっているから、少しは役立っているしね」
 ――水都!
 ナギにはすぐにわかった。
 水都はこのことを嘆いていたのである。
 ガイアのために歌をうたうことや、そのために連れ去られ、人生を奪われたことを哀しんだのではない。
 永久に魂を閉じ込められ、苦しんでいる同胞の心を悼み、終わることのない嘆きと悲しみに、心を痛めていたのだ。
 このことを、救ってほしいと願っていたのである。
 ナギは知らず知らずのうちに彼女たちのまえに進みでていた。白亜の床が、青白い光りを反射させてにじんでみえた。
 「こんなに傷ついている痛々しい魂をみたことがないよ。何もかもを搾取され続けている命に、かけられる言葉なんて、どこにもない――」
 ナギは膝をついた。祈るように手をあわせると、背をまるめた。
 彼女たちの魂がナギのまわりに集まりはじめていった。この世で見るもっとも美しい夢であるかのようにナギに光が宿りはじめてゆく。
 ナギのもつ、癒しと慈悲のエネルギーがすべて彼女たちにむかってあけ放たれるのに、どの少女もそうっと寄り添い、淡いオーラにふれると、まるで指に刺さった茨のトゲが抜けたかのように、安堵の表情をうかべて、うっそりと喜びに輝いていった。
 キラキラと瞬き光の渦ができあがっていた。
 さすがの圭吾もなにが起こったのかと呆然とし、それに見入っている。
 『ナギ……』
 『……逢いたかった……』
 ナギは自分をかこむ彼女たちの中に、黒いエネルギーが混じりこんでいるのを見つけていた。それに手を伸ばした。
 黒いエネルギーはナギの手に固まると、球になってゆく。
 ドンドン膨れあがり、両腕に一杯になる。
 「ソメイ様の珠がこんなところにっ?!」
 あれほど優しいソメイが、何もかもを観ている神が、彼女たちのことを知らないわけがなかった。これらの悲しみを、彼はどれほど嘆き、心を病ませ、苦しみ胸を引き裂いたのだろうか。
 その黒い珠を飲み込んだナギにだけは、痛いほどソメイの思いがわかった。
 愛していればいるほどに、傷は深くなる。
 黒い珠は、ソメイの心の傷だった。
 ナギのなかに溶け込んでゆき、細胞のあらゆる場所を死滅させてゆくかのようだった。強烈な毒を含んでいて、悲しみで心の髄まで腐らせていく。
 「――こんなにつらかったんだ、ソメイ様……」
 どうして心臓が止まらないのかわからなかった。
 ナギは光の乙女たちに囲まれながら、目の前が真っ暗になっていくのをただ黙って受け止めていた。
 そして次に目をあけたときには、右の目に、何も映っていなかった。視力が全くなくなっていたのである。
 ――身体の機能がどこか一部奪われるだろう。
 そう穢那がいった言葉が頭をよぎった。
 右目か……。
 ナギはつぶやいた。胸にひろがる痛みをもってすれば、右目が見えなくなることなど、何ほどにもないように感じられる。
 少女たちの光が増していた。
 『ありがとうナギ』
 『ナギ、私たちから悲しみを抜き取ってくれてありがとう』
 『はじめて愛をもって私たちを訪れてくれた優しい人』
 『無私の浄化のエネルギーをありがとう。ガイア様よりほかに、私たちの心を楽にしてくれたのははじめての人』
 『心に刺さっていた矢を抜いてくれてありがとうナギ』
 「きみたちの魂を、天にかえしてあげるよ」
 ナギは両手を頭上にかかげた。
 身体から光が一条、天井に向かって流れ出た。
 片目から涙が流れるのは、別れの涙である。
 「あちらの世界で、ゆっくり傷ついた魂を癒してきてね。この世界のことを忘れて、安らかな眠りについて」
 宇宙の果てにむかって飛び立ってゆく乙女たちの涙が、一粒ずつナギにおちていった。一滴一滴とそそがれるにつれて、ナギの体がさらに美しく、透明に清められてゆく。
 渦巻いていた光が消えた。
 圭吾が唖然とした表情を隠しもせず、そこにたたずんでいた。
 振り返ったナギに、ようやく我をとりもどし目を厳しくすがめると、射殺さんばかりに睨みつける。だがすぐ表情をもどすと、楽しげに咽喉をならした。
 「まさか、きみにこんな芸当ができるとはね。――彼女たちの魂を返してしまうとは、まったく残念なことをする」
 少女たちの涙で、身体の疼きが少しゆるんだナギは息を細くついた。内心の苦しさを表に出さないように耐えながら、必死で圭吾の眼光をはねえしていた。
 「――まあいい、どうせたいした力ではなかったからな。それよりもおまえが生贄として供されるほうが、よほど大きな力になるさ」
 大理石の床だと思っていたそこが紅く光った。
 血でかいたような魔方陣が浮かび上がり、ボコリと陥没したように黒くなる。なにかの通路がひらいてゆくのが感じられてくる。
 おぞましい、この世の終わりのようなうめき声が聞こえてきた。
 地の底を這う亡者のような呪いの矯正と、つきはてぬ妄執の見せる悪夢がそこから湧きあがり、ボコボコと腐臭がたちのぼってくる。
 ナギは耐え切れず足をふらつかせると、壁によりかかった。
 そこから這い出してきたのは、魔的な邪悪さをもつモノだった。
 のそりと姿をあらわすと、悲鳴をあげることも出来ずに息を飲んでいるナギにギロリと血走った視線をむける。
 ズズッと床を這った。手がナギの足元にのびてきた。
 「いや――っ!」
 ナギはいまわの際でやっと息をはいた赤子のように悲鳴をあげた。
 「やだ、来ないでっ!いやだシン、助けてっ!!」
 ナギの本能的に恐怖のさけびに、部屋がふるえて地響きがした。
 いや、そうではなかった。
 部屋の扉が轟音をあげて溶け、蹴りあけられたのだ。
 「ナギ!」
 鬼神のような形相をしたシンがとびこんできた。
 縛られていた鎖を引きちぎったのだろう、手首から赤い血が流れており、その血が扉を焼いていた。その化物にむかって、シンは口の中にたまっていた血を吐きかけると同時に、何かをとなえる。
 つぎの刹那、それは鋭い刃物に変わり、化物に深く突き立った。
 鼓膜につきたつような悲鳴をあげて化物は消えてゆき、そこから噴出す黒い影がおびえてざわめき、引っ込んでいく。
 「やめろ親父――いや、神名圭吾っ!」
 シンの今までに見たことのない強烈な殺気を、圭吾は平然と受け流すと、口の端を笑みに吊り上げた。その顔は、だがどれほどの怒りが含んでいるかわからないほど残忍なものだった。
 ふたりは睨みあった。
 もはや親子でもなんでもないと互いの視線が語っている。
 ようやく言葉を交わした彼らを待っていたのは、無情にも、敵対関係であったのだ。
 よく似た秀麗な容貌は、一人は炎のように熱く怒りに燃えたぎり、もう一人は氷のように冷たく尖っていた。
 「ナギを害する者はだれであろうと許さない」
 シンの低い声だけが地下の部屋に響いていた。



 シンはナギをしっかりと抱きしめながら、圭吾をまっすぐ睨みすえていた。
 二人は激烈な視線をかわしながら、一歩も引かぬかのように対峙したままだった。
 「なぜあの黒い月が、なぜ今まで世界に現れてこなかったと思う」
 不意に言ったのは圭吾だった。
 「黒い月……?」
 いきなりの言葉に、相手をいぶかしみ様子をうかがっているシンが言った。腕に抱かれているナギもまた、顔をあげる。
 「そう、あのおぞましい黒い月だよ。――あれは暗黒の魔界であり、そして、この地球の寄生虫でもあるのだよ」
 「どういうことだ?!」
 シンは不審げに眉をひそめた。
 「ガイア様はね、本当にお優しい方なのだ。あまりに優しくて、慈悲深くありすぎた。果てがないほどの情をお持ちだったゆえに、あのおぞましい世界ですら、愛おしみ見捨てることができなかったのだ」
 ガイアにより近いとされた『聖母』と呼ばれる少女たちもまた、その実、自分たちの身を差し出すことを厭わないほどの優しさをもっていたのだった。
 それはガイアの愛する気持ちを強く映しだし、またガイアからも愛情を与えられていたからでもある。
 「あの魔界はすべての世界が落とした影だ。暗くて醜い汚濁にまみれ、世界の穢れによって出来ている。それは日夜なく増しつづけ巨大化してゆき、とうとう一つの生命体になってしまった。――そんな穢那様の救いすら与えられぬ世界を、だが、ガイア様だけは知っていた。知っていて見過ごすことはできなかったのだよ」
 それは、すでに優しすぎるなどというレベルを超えていた。
 ガイアは暗黒の世界にすら愛情をかけていた。まるで大切な誰かの傷をふさぐように、地球のエナジーを分け与え、自らの身体をすり減らすと知っていて、救いのない苦しみにもだえる星に、愛を送りつづけた。
 結果、そのことは地球をさらに傷つけることとなってしまった。
 ガイアからの恵みが減ると、人間はすぐに狂いはじめてしまい、騒ぎ出してしまった。
 まるで破滅のシナリオを、身の内にひそませているかのように、大地を攻撃し、与えられる恵みだけに満足せず破壊へと駆り立てられていった。
 豊かな食料を与えてくれる森林を焼きはらうと、大地を掘削し、海を埋め立てた。大気を煙によって汚し、生き物を苦しめる毒を焚き、水を濁らせて生態系を狂わせてしまった。
 何度も何度も、ガイアは清めるために台風を起こしたり、ハリケーンでなぎ払い、地震で身震いをして、穢れを落とそうとした。
 それでも人間は、科学という新しい信仰にとりつかれ、ガイアの愛から遠ざかっていってしまったのだ。
 「人間は身勝手だ。ガイア様が眠りにつかねばならないほどに疲弊させてしまいながら、女神に恵みがすくないといって文句をいうのだよ。――私は、だからガイア様の負担を少しでも減らそうと、色々手をつくしたのだ。水都たちのことももちろんそうだが、あちらの世界の扉をひらき、ガイア様から奪っているエネルギーを、人間どもから直接に搾取してもらうことにしたんだ」
 言霊に誘発されるように、先ほどの魔方陣がふたたび光をあげた。
 「ここがその場所だ。世界各地に扉を作っておいた。必要な分だけ人間を狩ってもらい、ガイア様からのエネルギーは奪わない。それを約束してもらったんだ。人間だけでは多少エネルギーは不足しているだろうが、いずれにせよ女神が眠りにつかれているのだ、彼の国へのエネルギー量は、どうあっても増えないことは変わりはない」
 人間を狩っても狩っても足りないところへ、ソメイが禍蝕の眠りについてしまった。
 そのために、星自らがエネルギーを出さないという、不毛な枯れた世界である黒い月の世界――黒月界は、生きるためのエネルギーを求めて、おぞましい姿を世界に現したのである。
 ナギが青ざめながら聞いた。
 「人間を狩らせるって、まさかあの、万理さんをさらっていった魔物たちのこと?」
 「万理がさらわれた!?」
 ナギの思いがけない言葉にシンがおもわず聞き返していた。青ざめてうなずくのに、抱きしめる手の力をこめる。
 シンの声が低くなった。
 「もしかして、増えはじめている魂のない人形たちは、皆おまえが魔物に狩らせた人間たちの骸なのか?!」
 「なかなか察しがいいな。その通りだよシン。さすがにあの数の人間を連れて行くとなると、実社会でも弊害がでるだろうし、政府の方でも対応しきれないだろうからね。代わりを用意させたのだよ」
 平然と、さも当たり前のように言った圭吾の目に映っているものは、まるで人間など虫ケラだといわんばかりの冷たさである。
 「もっと減ればいいのだ。無駄に増えるからこそ、何もかもが足りなくなってしまう。不足すれば、愚かな人間どもはすぐに争いを起こし、あらゆるものを破壊する。そしえ破壊すれば物が不足し、さらに争いを呼ぶのだ。――まったく馬鹿な悪循環だな。下等な動物ほどよく増えるというが、人間などはその典型だ」
 吐き捨てるように言うのに、シンが凶暴な顔で牙をのぞけた。
 「おまえはいったい何者なんだ!――その口ぶりといい、その卑劣な行為の数々といい、もはや人間であるとは言わせないぞ!なぜそこまで人間を厭う。なぜおれたちのことを、いや神々や、他の世界のことまで知っているんだ!――何者だ?!」
 「おまえの父親だよ」
 あっさりとからかうように言った。シンが怒るよりも先に口をひらいた。
 「そしてこの地球の――ガイア様のガーディアンだ。守護天使だよ」
 「守護天使?」
 シンとナギの声が重なった。
 じっと圭吾の顔をみつめ、真意をたしかめるような視線の二人に、圭吾は自嘲気味にすこし笑った。
 「といっても、もと、天使だがね。今は……そうだな、人間界風に言うと、堕天使というところか。もっとも私はいまでもガイア様をお護りしているつもりだよ。そのためだけにこの地上に降りたのだからね」
 言った顔は、一点の迷いはなく、まるでそれを誇りにし、ガイアを護ることだけを信念にしているという強い自負心あふれていた。
 そうしてみれば彼の顔立ちは、本当に作り物めいた美しさがある。天使独特の無機質感がにじんでいて、いわれれば納得できてくる。
 シンがあれほど父親に居心地のわるさと嫌悪を感じていたのは、子供心にどこか人間離れした異質なものを感じとっていたからかもしれない。
 「堕天使……ガイアだけのための……」
 シンがつぶやいた。
 「そう、私はかの女神のためだけに生きてきたのだ。愚かな人間どもの魔の手から、ガイア様を護り続けることを誓っている。――そのためには手段も方法も選びはしないよ。ガイア様はそこまで病まれておられるのだからね。私は鬼になる。たとえ誰もが残酷だと言おうが、非情だと思おうが、何でもする。もちろん、そのことを悔いもしなければ改めもしない。もちろん、これからも悔いるつもりもないよ」
 そう、初めて地上に降りたときから、ガイアにすべてを魅了されてしまった。
 平素、感情を露わにすることなどない天使族であったはずなのに、地球の空気につつまれただけで、心がいっぱいになり、夢中になってしまったのだ。
 それはソメイの守護としてこの世界に降りたときのことであった。
 敬愛するソメイは、だれよりガイアを愛しんでおり、美しいガイアもまた、兄を慕っていた。
 ソメイを癒すガイアのエネルギーはあまりに甘くて心地よくて、漏れてくるわずかなエネルギーに触れるだけで、魂が今まで感じたことのない痺れるようなときめきを感じてしまった。
 天使は、恋慕の情というものを、地球の空気にふれ、緑の風に吹かれてはじめて知ってしまった。それがどんなに甘くて切ない、決して逃れることのできない呪縛かを身をもって体験した。
 その思いがあるだけで、どれほど生きるということが意味をおび、輝きをますだろう。ガイアの大いなる心が、すべてを教えてくれたのだ。
 ソメイは、一介の天使が抱いたその思いを許してくれた。
 なんとガイアの守護を任せてくれたのである。
 それからずっとそばにいる。女神を守り、助けるためだけの存在として。
 「ガイアのガーディアンが、なら何故おれなんかを作ったんだ!なんで綾子に、おれの母親に産ませた!」
 「それも計画のひとつだよ。もちろんガイア様を護るためのね」
 シンをみてニヤリとわらった。
 「綾子は『聖母』の資質を濃く持っていた女だった。ならば、アレと天使(わたし)とのあいだに生まれてくる子は、最高の贄になるだろうと思ってね……しかしとんだうれしい誤算だったよ」
 自らの息子を、彼は生贄として差し出そうとして作ったというのか。それもガイアのためにだけに、綾子を狂わせてまで。
 ナギは抱きしめているシンの手が震えているのを肩に感じていた。思わず服をギュッと握り締める。
 彼がシンに愛情をもっていないのは知っていた。だがまさか血のつながった我が子までを、生贄にしようとまで考えていたとは。さすがに考えられなかった。
 根源から愛情を否定されたシンの気持ちを考えると、たまらない。
 「おれを、おれや莉野のことを、ただそれだけのために――?」
 「言っておくが、莉野は私の娘ではない。アレは綾子がよそでつくった子だ。だから好きにさせているだろう?――私が必要なのはおまえだけだよ。ソメイ様の分御霊をもつ、シン、おまえひとりだ」
 口が耳までさけたような錯覚がした。笑った顔はひどく悪魔的だった。堕天使という言葉は、今まさに彼の上にある。
 睨みつけるシンの視線を軽くながすと、眉をいたずらっぽくあげた。ナギをみる視線の凶悪さに、ナギがビクリと怯える。
 「だがもっと素晴らしい贄が手に入ったよ。さすがソメイの分御霊だけはあるな。天上界にしか育たぬはずの『天界樹』を連れ帰ってくれるとはね。これほどまでに高純度で濃密なエネルギーならば、黒月界もこれ以上なく納得することだろう」
 「ぼ、く……?」
 「やはりおまえは最初からナギを狙っていたんだなっ!ナギをおまえになど渡すか、絶対にだ!」
 ナギの頭上でシンの炎のような怒鳴り声があがった。全身のエネルギーが沸きたち、ナギはその凄まじさに思わず身悶える。
 「おいおい少し押さえないと『樹』が焼けてしまうぞ。だが、さすがに素晴らしい力だシン。それだけの力があれば何にでも使える。……そうだな、おまえたちを最後の切り札として、ソメイにガイア様を助けさせることもできるかな?」
 あの何もしない薄情な男に、と付け加えた。
 ナギは弱々しかったが、それでもはっきりと言った。
 「ソメイ様は薄情なんかじゃないよ。いつも地上のことに心を傷めておられた。何もできないのだと、苦しんでいらっしゃった。ソメイ様の深くて温かいお心がなければ、世界がこんなに広くて、色んな事象にみちあふれた美しい場所になるわけないじゃないか。未来を決めるのは、いつもいつも『自分たち』のほうなのに、どうしてソメイ様のせいにするの?天使だったあなたが、どうしてそれがわからないの?」
 「小賢しいことを云う」
 圭吾はあきれたように吐きすてた。
 胸の奥に燻らせていた怒りをかいま見せるように、ギリリッと牙をのぞかせ威嚇する。もとが端正であるだけに、恐ろしい形相になる。
 「ではガイア様がこの苦しみを自ら選ばれたというのか?!シロアリに食い尽くされる古木のように自ら朽ち果てろというのか?!」
 圭吾はダンッと音がするほど乱暴に床に手をついた。
 早口になにかを唱えた。
 消えかけていた方陣がふたたび浮かびあがり、黒い空間がまたもやはっきりとしはじめる。
 先ほどとはまるで違い、底からわきあがるものすごい風が噴出しはじめる。
 「ガイア様の命を奪うことなど許さない!人間や、黒月界などに、ガイア様の大切な力を与えるなど許さない!もしそれを女神が選択しているのなら、私がそれを止めてやる。ガイア様の命をたすけることと引き換えになるなら、ナギ、おまえの命を差し出すまでだ!」
 大理石の天井がビーンという高音をたて、壁に共鳴してとてつもない不快音をあげる。耳鳴がしはじめ不快さに気分が悪くなる。シンが破って穴のあいた扉が、ガタガタとゆれて今にも外れんばかりになっている。
 シンはナギをだきこみながら、そばにあった棺につかまっていた。
 ナギは激烈な虚無のエネルギーにさらされて、意識を失いかけていた。力の抜ける身体を必死で抱きとめながら、シンは歯を食いしばる。
 尋常なエネルギー量ではなかった。
 ()(かつ)え、何もかもを奪いつくし飲み込み、さらには略奪しつくしてなお、その乾きは満たされぬかのように、すべてを欲して貪欲に手をのばさんとしていた。どれほどの執念をもって渇望しているかわからないくらい、無限の空腹がひろがっている。
 シンにはなぜかその力がまっすぐナギへ向かっているのを感じていた。
 はじめからそれだけを欲し、そのために今まであったかと思わせるような巨大な意識体である。
 ナギにも、それが求めてきていることがわかっていた。
 もうずっと、それがナギを求めていたのを知っている気がする。時々じっと見つめていたものは、この身を震わすような、窮乏の触手ではなかったか。
 「さいわいなことに、あちらはナギで満足してくれると言っているのだ。ガイア様からエネルギーを奪うのを、ナギと引き換えにやめるとな。これはもう決められた約束だったのだよ」
 空間から何かが這い出してくるのがわかった。
 黒くぬめっていて、まるで腐ったヘドロの中から生まれ、泥炭で塗り固められたような忌まわしいモノが、ヌラヌラと手を伸ばしてくる。
 『……待っていた……花嫁……やっと我が手に……ナ…ギ……』
 地の底からわきあがる黒いものかはら、血の異臭がして、ナギやシンだけでなく、圭吾までもが顔をひそめた。おぞましいまでに呪いにみちたそれは、次第に大きくなってゆく。
 「やめろ、来るな化物め!」
 シンが思わず叫んでいた。
 生物の本能的な恐怖をかきたてずにはいない永遠の闇だった。未来永劫、その闇だけは恐れつづけるだろう、原始の畏れである。
 シンの体がかたまった。
 何が起きたのだろうか、わずかの身じろぎもできず、その場にぬいとめられたままだった。体が微動だにせず、シンの全力をもってしても指一本すら、どうすることもできない。ただ目の前でナギの身体がうかび、化物に吸い寄せられてゆくのを見ているだけである。
 「ナギっ!!」
 シンが叫んだ。
 怪物のおぞましい腕にナギは抱きこまれていった。
 その瞬間、黒い空間のなかからナギの腕についている青い玉石と同じ、リーンという澄んだ音をきいた気がした。
 「――ソメイ様?」
 ソメイの気配を、なぜか闇の底から感じたように、ナギの口だけがそう形をつくった。
 化物は出てきたときと同じように、空間に吸い込まれるように姿を消してしまった。
 風がおさまり、ただの床だけが後に残っていた。
 空間は完璧に閉じてしまった。まるでナギを取り込んだことに満足しきったかのように、それ以上のものは、もはやどうでもいいかのように、次元を切り離したのだ。
 シンは我に返ったとたんかけよると、這うようにして床を調べた。なにかの痕跡がないか、どこかに入り口の気配はないかと、どんな小さな穴でも見つけんばかりに懸命になって入り口を求めた。
 「きさま、ナギをどうした!」
 しばらくして床をドンッと叩いた。地鳴りがした。
 圭吾を沸きたつ怒りで射殺さんばかりに睨みあげた。かと思うと、次には圭吾の胸倉をつかみあげ、力いっぱい殴りつけている。
 圭吾は壁にとび、壁がきしんでへこみ、そのままズルリと床におちた。
 「ナギはどこだ!どこにやった!この空間をひらけ、早く!!」
 怒りのためか、シンは黄金のオーラをまるで炎のようにたぎらせていた。重厚な固い金属の壁には大きな亀裂がはいり、棺のセラミックガラスが次々に割れて砕けると、まるで光の粉のようにキラキラしながら床にちってゆく。
 シンは圭吾の襟首をつかんだ。
 「言え、ナギをどうした!どこにやったんだ!空間をひらけ、今すぐにだっ!」
 圭吾は苦しそうに眉をひそめたが、すぐに切れた口の端からながれる血を腕でぬぐいあげた。きれいに固めていた髪がくずれ、目の上にかかっていて表情は読めない。
 髪がみだれた途端、彼の持つ相貌がガラリとかわった。とても誰かの父親とは思えぬ若さであり、人間とはおもえぬ無機質さと影がうかびあがり正体不明の生物になる。
 そうしてみれば彼がガーディアンとして、幾百年の時を過ごしてきたのかがうかがえた。
 シンもまた、もはや彼を父親だとは思っていなかった。ナギを傷つける敵であり、ことによれば殺すかもしれない、憎むべき相手だ。
 彼の血をすって赤くなった唇がニヤリと笑った。
 「この空間はもう開かない。ナギを渡したらすべてを閉じ、地球とのつながりを切ってもらう約束だったからね」
 シンはカッとして殴ろうと手をふりあげたが、忌々しそうに舌打ちをすると、苦しげな表情をして床にたたきつけた。
 「なにがガーディアンだっ!おまえに誰かを本当に愛する気持ちなんて絶対にわからない。おまえのいうソレは愛なんかじゃない!」
 シンは絶望的な声で叫んだ。
 地下の建物すべてが揺れ、鳴動したかのような音をたてると、天井が毀れてポロポロとおちてきた。多分この建物だけでなく、地上にもなんらかの影響を与えているであろう。
 「それでも私はガイア様を愛している。この世界の何よりも」
 目をあげた圭吾の顔は、なにがどうあろうとも譲れぬ、堅固なまでの意志を浮かび上がらせていた。
 シンと圭吾はにらみあっていた。
 ふたりの思いは決して交わることのない、永久の迷路のように思われた。 
 



BACK NEXT TOP


Copyright(c) 2007 all rights reserved. inserted by FC2 system