どうにか亜希を落着かせた二人は、それでもまだどこか混乱していたのだろう亜希に、家までついてきてくれ、助けてほしいと懇願され、無下にもできずに、なぜか家にまで送ってくることになってしまっていた。
ナギが亜希の様子をひどく心配していたこともあって、結局、シンが折れたのだ。
亜希はどちらかというと控えめで内気な性格だった。たぶん、こんな風に人に無理に頼みごとをするようなことはきっとなかっただろう。
その亜希が必死にたのんでいる姿が、ナギには余計に可哀想にみえてしまった。ここで手を離したら、きっと亜希を助けてくれる人は誰もいないのではないだろうか。
また自分のことを覚えていてくれて、それが鬼を見ることが出来る人間であったことは、きっと偶然ではないだろう。そんな気がしていた。
どうやら亜希はかなり早い時期から、学校なかにもポツポツと、人ではないものが増えていることに気がついていたようだった。
シンと同じように、極力そういった者たちと接触しないようにしていたし、教師であればかかわりをもたないように避けていたのだと、語っていた。
自分だけがそんな風に見えるのかもしれないと、悩んでいたらしい。
誰かに相談しても、きっと変人あつかいをさるだけで、結局は嫌われるか、おかしくなったといって病院に行くように勧められるだけである。
この世界では、人とちがうということは、決定的な欠点となってしまう。異端者は、存在してはいけないし、闇に葬りさらねばならない。
亜希はどうやら人とは違うということをひどく恐れているようだった。
シンもナギも、そんな亜希の気持ちは痛いほどわかることができた。きっと彼女もまた『こちら側』の人間なのだろう。
見なくていいモノを見てしまい、感じなくていいモノを感じてしまう。それへの対処のし方がわからなくて、よけい怖くなり、ビクビクと怯えるだけで、どうすることも出来ず、萎縮するばかりであり、だんだん自らの内にこもってゆくのだ。
それでも、あの頃のナギには、シンがいてくれたし、シンのそばにはナギがずっといた。
それだけでずいぶん世界は違っていた。
ナギにとってのシンが、亜希には誰もいなかったのだ。
たったひとりで異質な世界にいなければならなかったことが、より哀れさを感じさせてしまった。
また彼女の言っていた、「鬼」という言葉と、「姉をさらいに来る」という言葉にやけに引っかかっていた。
ナギはそれらが、『黒い珠』となにか関係があるのではないかと、ひそかに思っていた。
鬼がこちら側にふたたび侵入し、人を連れてゆきだしたのならば、そう的を外していることだとは思えない。
シンもそんなナギの心情を読み取っているのだろう。だからここまで黙ってついて来てくれたのだ。
亜希の家は、小さなひどく古びた一戸建てであった。
重い木製の色あせた扉をガタガタ言わせながら引きあけた。
中に入ると、誰かがいる気配もなく、湿った空気ばかりが閑散としている。
部屋にはわずかな家財があるだけであり、それもひどく荒れた感じの物ばかりであり、えぐるような傷があったり、欠けたりして、あまり見た目によいものではなかった。毛の擦り切れた絨毯には、タバコの焼け焦げがいくつもあって、溶けて裏地が見えていた。
ナギはそれらをよく知っていた。
人が暴れてできた破損である。
亜希は恥ずかしげにおずおずとしながら、ビニールのソファーに座るようにいうと、奥のほうに視線をだけをむけて、小声で言った。
「姉が向こうの部屋にいるんですが、最近はあまり人に会いたくないみたいで、こもってしまってるんです……」
リビングのソファーにすわるとナギは身震いをした。
たまらなく嫌な風がどこからともなく流れ込んでいるのだ。
シンもすぐに気がついたようであり、すこしだけ眉間にシワをよせて、ナギを自分のそばにひきよせた。
「……お姉さん、もうずっと長く部屋にこもっているの?」
ナギが何か言いにくそうな亜希にやさしく尋ねた。
鬼が姉をさらうと、確かあのときに言っていた。何が起こったのだろう。黒い珠の手がかりになればと思うのだが、それがあまり楽しい話題でないことだけはわかる。
この家には、亜希以外の人間のにおいがまったくしていなかった。一人暮らしだといわれれば納得するほど寂しくて、虚ろで無気力さを誘う荒廃した雰囲気が漂っていた。
亜希はシンとナギに無理をいって頼んできてもらったのだが、今頃になって気後れしているようであった。
たぶん疑ったり拒絶したりすることはないとわかっているのだろうが、どう言えばいいのかあぐねるようであった。うつむいてナギとシンを時々うかがうように見ていた。
しばらくするうちに、こんな家の様子をみてもたいして二人が驚いていないことや、自分のことを異端だと思っていない様子に、少しずつ慣れ、安心していったように、落ち着いた顔つきになってきた。
無意識のうちに、二人の中にあるものが自分と「同族」なのだとわかったのだろう。彼女は否定されることを極端に恐れており、そのせいで思ったことを飲み込むクセがついていたのだ。
「あ、姉と私は、二人で暮らしてるようなものなんです。……父は、二年前に覚せい剤でつかまって、いま刑務所にいます。もうずっとヤクザの下っ端みたいなことをしていて……何度もそんなことを繰りかえしてるんです。――母は、男の人のところに出て行ったきりで、半年ほど帰ってきてません。私の家族は、いま姉だけなんです……」
その姉すら、部屋にこもって出てこないでいるのだ。
過去を思い出しているのか、あきらめきったような表情をうかべていた。亜希の孤独が、身に染みるようである。
「お姉さんはずっと部屋でどうしてるの?――さっき学校で、あの、お姉さんを鬼がさらいに来るって、言ってたよね?」
ナギは刺激しないように気づかいながら、そうっと聞いた。
亜希はコクリとうなずいた。長い前髪が目元をかくした。
「鬼が、来るんです――誰も信じてくれないけど、本当なんです。……こんなこと言ったら、頭がおかしくなったって、前のときみたいに変な目でみられると思って誰にも……」
誰にもいえなかった、とそう小さくつぶやいた。
亜希は自分の見たままを語ったときに返された、その人たちの態度が頭に刷り込まれているのだろう。昏い目をしていた。
感受性が強すぎた子供は、普通ではありえないものを見たり、声をきく。
影が横切り、手を引っ張ったりして、誘いをかけてくることもあれば、助けを求める声があちこちから聞こえ、痛みにすすり泣く声が耳から離れないこともある。
それが不思議であり、また嫌でもあって、誰かに相談しても、ただ気味悪がられるだけなのだ。
「――中学のころに、ナギさんが火事で焼かれて死んだんだって聞いたとき、友達から燃えあとにはナギさんの骨すら残らなかったって教えられて、ああ、きっと本当は、この世界から居なくなってしまったんだなぁ、って思ったんです。あのころは、鬼がよく人がさらって行ってたから……よく人が消えてましたよね?」
亜希はたまっていた目の中の涙をぬぐい、シンをみあげた。
シンはうなずき、ナギもため息をつくようにもらした。
「亜希ちゃんは、そのころからもうずっと見えてたんだ……」
そうなのだ。たしかにナギは、炎に焼かれながら、月の女神リリスに連れ去られてしまったのだ。
さらったのは鬼ではなかったが、自分の不思議な運命がはじまった第一歩でもあった。
たいていの人は、『樹』として鬼に狩られ、それっきり人々に忘れられてしまう。存在自体が、地球のあらゆるところから抹消されてしまうのだ。
「見えすぎることは、つらいことだな。よく沢村が今まで『樹』にならなかったんだと思うよ」
シンが納得したように云った。
だれにも言えず、たった一人で亜希は、鬼が『樹』を連れ去るのを見て、そのことを心にしまっていたのだ。
幼心にそれがどれだけ苦しく怖いことか、二人にはよくわかる。言葉にできないほどの狂気の世界に、きっと近い。
「亜希ちゃんから受けているこの感じ、『樹』の質に似てはいるけど、でもちょっと違う気がするな。なんかこう、もっと温かいような、もっと心地よくって、流れるような緑の風の匂いがしてる――」
ナギは目をとじて亜希から放たれている何かを感じていた。
『樹』の中でももっとも純血種にちかいナギならば、微細に違うなにかまで、感覚的に拾いあげることができるのだ。
「よくひとりで頑張って耐えてきたね」
ナギがひときわ優しい声で言った。
なぐさめられるような温かい声は、すべてを許され、今までの苦労を慰められるようであり、突き刺さっていた氷の刃が溶けて、痛みが癒されてゆくようである。
感受性の強い亜希はよりつよくそれを感じ取っていたのだろう。
見ひらかれた瞳には涙の波がブワリともりあがり、まるで声を立てることを怯えるかのようにハラハラと涙の粒をこぼしていた。
きっと本当は、こんな泣き方をする子であったのだ。
亜希はきっと、誰かにずっとそう言ってほしかったのだろう。苦しみをわかってくれる人を、ずっとずっと求めながら、ここまで一人できた。
あきらめようと我慢をしていただけで、あきらめきれたわけではなかった。
同情がほしいのでもなく、どうにかしてもらいたかったのでもない。ただ、心をわかってくれる、たった一言に餓えていたのである。
涙をこぼした亜希は、その瞬間から何かが変わったようだった。はた目にもそれがわかった。
瞳の色が星のまたたく夜空のように澄んでいたのである。
「すごく、怖かった……いつか私をさらいに来るんじゃないか、鬼たちに、私がもうずっと彼らを見てることがバレていて、殺されるんじゃないかって思っていた……」
鼻をすすって、イスに投げ出していたタオルで顔をぬぐった。
しばらくしてから、スッキリしたように顔をあげた。
「また最近鬼が増えだしたから、だからよけいに怖くなっちゃって。――ちょっとのあいだ居なくなってたのに、なんでまた増えたのかなぁ。でも、なんか今度の鬼は、前のとまったく違ってて、すごく気持ち悪くて、いやな気がする……」
まるで言葉に反応するように、邪気の流れがブワリとひろがった。
シンはナギを抱きこみ、冷えた体を邪気からまもりながら、手でそれを払った。
「今回あららわれた鬼のことは、さすがに姉にも感じられたみたい。前から姉も、なんだか変な人が時々まぎれこんでて、恐いって言ってたし。それにあの人だけは、昔から私のことを変だって言わず、かばってくれてたから」
「お姉さんも、鬼たちが見えてたの?」
ナギの言葉にコクンとうなずいた。
「多分、ですけど……。姉はもともとあまりしゃべらないんです。――でも、あのことがあってから、よけいに部屋に閉じこもってしまって。今ではほとんど部屋から出てこないし、いつも怯えているみたいに青ざめてて、だんだんやつれていって、どうしていいかわからなくってしまって……」
このままでは鬼に殺される前に、気がふれて心が死んでしまう。そう思いおびえていたのだ。
視線を、奥にある、彼女の部屋へとむける。
そのなかで気配さえころし、ビクビクと震えながらずっと閉じこもっているのだ。
「いきなりあんなことが起こったからすごくショックで……。誰に言っても、必死で訴えてみても、やっぱり信じてもらえなかったんで、それでよけいに心を閉ざしたんだと思うんです」
「なにがあったんだ?」
シンが言った。
奥の部屋の戸が、うっすらと開いているのを目の端にとめていた。そこに向かって言っているようにもみえる。
「おれたちはおまえが言ってることが真実だってわかっているし、実際、鬼がいるのも亜希と一緒に見た。もうずっと前からちゃんと理解している。何があったかを、ちゃんと自分で話せ」
シンは不意に目の前をよぎった小さな魔物をつかみ、手のなかでサラサラと消してしまった。ナギにまとわりつこうとした寸前だった。
さすがに亜希は、邪気の弱い魔物までは見えていないようだったが、シンにつかまれた何かが、光の粒子になって流れていくのだけはわかったようだった。不思議そうにシンの手のなかをみている。
「家の中にまでこんなに魔物が現れるようになっているんじゃ、相当暮らしにくいだろうな」
言ってから、部屋の隅にあった観音びらきの押入れの前にたった。
扉にかるく手をあてると、光が縁を走り、四角い残像がすぼまるように縮んで消えていく。同時に、何かがピシャリと閉じられたのがわかった。
「魔物の出入り口をふさいでおいた。けど、気配からして、ここ一つだけじゃないと思うぞ。まあどちらにせよ、普通の家であんなのが出入りしていたら、気分も落ち着かないだろう」
魔物はひどい悪夢をさそう。悪夢は眠りをさまたげ疲れさせ、疲れは心を弱らせてゆく。そうして魔物をしりぞく強い意志をうばい、取り込んでゆき、そうしてかっこうの餌食となってゆくのである。
シンは家に入ったときから気づいていたようだったが、別段、それをどうこうするつもりはなかった。ただナギが魔的な腐敗臭に弱りはじめていたので、消しだけである。
バタンと奥の部屋の戸がひらかれた音がした。
亜希によく似た面差しの、だがひどく病的で、痩せて頬骨が浮き上がった女性が飛び出してきた。
顔色もわるく、目の下のクマはよく眠れていない証拠だろうくっきり現れていて、目だけが大きく飛び出している。一目みただけで、何かの病気ではないかと思える顔つきである。
「姉さん!?――あ、あの、姉の万理です」
万理は、妹の言葉など聞こえていないように、ひどく怯えた目をギョロリとさせてシンをみあげた。彼女も背の高い印象だが、それは細くて棒のように思える体型だからだろう。
「魔物を、消したの?」
「ああ消したよ」
「あなたはアレが、みえるのね」
「見えるな」
万理の目がカッと吊り上ったように大きくなった。よどんでいた顔つきに生気がもどっきたのがわかった。
魔物がいなくなった、というそのことだけが、いまの万理の心を呼び戻したようだった。久しぶりに自ら部屋を出てきたのである。
万理は言葉にすることを恐れるように体がふるえていたが、はっきりと言った。
「あ、あなたたちなら助けてくれることができるの?宣之がいなくなったことを、本当に信じてくれるの?」
ナギとシンは目で合図するようにうなずいた。
「万理さんの言葉を、ぼくたちは信じますよ」
「まあ助ける、助けられないは別としてだがな。話だけなら聞こう」
二人の様子をじっと見つめながら、万理はいきなり力がぬけたように膝をついてすわりこんだ。長いことまともな食事もしていないので、足にあまり力も入らないのだろう。
顔を手でおおって泣き出していた。
きっと彼女は、シンのような存在を――信じるという言葉をずっと求めていたのだろう。二人が救世主のように思われているのだ。
静かすぎる泣き方は、皮肉にも亜希の姿とまったく同じであった。
見ているだけでつらくなるような泣き方は、きっと、この家で染みついたものだ。暴力的な親をできるだけ刺激しないように、ひっそりとこの姉妹は哀しんできたのである。
「いきなり、いきなり宣之が違う人になってしまったの――」
言いながら、万理のほうがいまだに信じられないというふうに首をふった。
「いえ、そうじゃないわ、そうじゃなくて――宣之はいるの。でも本当の宣之はいないの。違う人になってしまったのよっ!」
「違う人になったとは、どういうことだ」
シンはあまり刺激しないように万理の耳元で、小声でささやいた。まだ顔つきが完全には正常に戻っていない。
「違うのよ、宣之なんだけど、宣之じゃないの。私の知っている、私のことを大好きだって言ってくれたあの人じゃないの。まったく違うモノ………そう、モノだわ。――ずっと宣之は、なんだか嫌な予感がするって冗談みたいにいってた。でも私も、あまり気にしていなかった。だって嫌なことなんていつものことだもん。だから冗談半分に、本当の親がいきなり現れて、今まで放っておいてごめんなさいなんて謝ってきて、借金なんか押し付けられるかもよって、からかったりして笑ってて……」
「……」
シンもナギも、口をひらかなかった。亜希だけが、何かいいたげな顔をしながらうつむいていた。
「あの人、子供のころに親に捨てられたから、親戚の家を転々としてきたのよ。ずっと厄介者だ、邪魔者だって言われて続けてて、つらい目ばかりしてたわ。それでもどうにか高校を出て、やっと就職も決まって、仕事も落着いてきて……アパートが借りられるようになったわ。宣之は自分の居場所ができたんだってすごく喜んでた。私はそんな彼を子供のころからみていたから、どれだけ宣之が苦労してたか知ってる。人の機嫌や目鼻をうかがって、小さくなって生きてきたかしっている……だから……」
ブワリと涙がまたあふれた。声音が不意に強まった。
「ある日突然よ!突然、おなじ顔をした人間が、宣之が居るべき場所にいて、するはずのことをして、宣之みたいな顔をしていたの! 私をみて、同じ顔で笑って同じ声で話しかけてきたの。けど私は一目で彼じゃないとわかったわ!――だって全然ちがうもの。アレのなかには、私が愛した宣之の魂が――あの人の孤独な魂が入ってなかったわ!」
最後は叫ぶようだった。
それを誰に訴えても、誰に言っても、信じてくれる者はいなかった。
そのうち彼らは、宣之本人に、おまえの彼女はおかしくなったと言い、あんな女とは別れろとすすめだした。
まったくの別人なのに、奇異の目で見られたのは万理だった。友達に捨てられたのは万理のほうだったのである。
「亜希ちゃんもそれがみえたの?」
ナギが問うのに、うなずく。
「宣之兄さんとアレは、たしかに違います。っていうか、アレは人間じゃないです。魂が、すっぽりぬけている感じで、すごく不気味で……」
「人形だな、それは」
シンがまるで見たようにあっさり言った。
「シンはその存在を知っているの?」
「ああ、学校にもポツポツと現れてきてるよ。鬼どもに食われた後は、たいてい人形になっているのさ。魂も心も何もない、ただの土塊だ。写し取った人間がとっていたのと同じ行動様式に動く自動人形だよ。――でもまさか、人間と人形がそんなふうにして、急に入れ替わるのだとは知らなかったな」
それは『樹』のように、存在自体が消えてしまうのではない。
存在しているが、中身がない。その人間の形だけが、残るのみなのである。
二つの怪異は、まったく性質が異なっているようである。多分、その用途がちがっているのだ。
ナギはゾクリとしたように身を震わせた。
「もしもこのまま、誰も気づかず、どんどんそんな人形が増えていったらどうなるんだろう――」
「私もいっそ何もわからなければよかったわ――。でも……もしそうだったら、愛する人と暮らしていると信じこんだまま、違う人と暮らしているのよ。そんなこと私には耐えられない。絶対に嫌よっ!」
考えるだけで恐ろしいと、亜希がつぶやく。
「 鬼は、きっとそのうち私も連れて行ってしまう。だって私が気づいたって、もう知ってるもの。私を今度は連れて行ってしまう――っ」
どこかひどく確信にみちた声だった。
陰気でぬめるような空気が吹き込んできた。天上からぽとりと万理の肩に黒いものが落ちてきた。
とっさにシンがそれを払うと、キィーと耳障りな声をあげて消えていく。
「私も宣之と同じところへ連れて行かれる、私を消してしまう――」
うつろな目にもどっていた。まるで呪いの言葉のように万理は繰り返しはじめだした。その気配に感応し、沸きたつような何かがブワリと天井にいっきにあふれかえる。
黒い虫のようにうごめくもたちが、雨のようにポトリポトリと落ちはじめ、亜希が甲高い悲鳴をあげた。
「ナギ、ふせてろ」
ナギのパーカーを乱暴にかぶせると、シンは親指の関節を噛みきった。血をすいあげると、天井にむかって霧のように吹きかける。
「散れ、魔が虫たちよ――」
まるで命令のように冷たく言いはなつと、炎のような視線をむけた。
天井が波うつように揺れたかと思うと、うたかたの悪夢であったかのように闇が消えてゆく。
まるで何事もなかったかのように静まりかえった。ただシンの指から地が絨毯のうえに落ちてひろがっているのみだ。
「シンっ!」
ナギは頭のパーカーをはらうと、まだ油断ない顔をして天井をみていたシンの腕をとった。
親指の噛み傷に目をやると、怒ったように声をあげる。
「無茶をする。こんなに深く噛み切るなんて!」
「たいしたことはない。すぐ止まるさ」
本当にどうでもなさそうに言うシンに、ナギは血の流れている親指をとって唇をあてた。血の鮮紅色で唇がさらに赤く色づき、白い肌にはえてまるで化粧をしたかのようにみえた。目に痛いほど美しい。
ナギの体が虹色にかがやき一瞬透けたように見えた。
もはやナギが人ではなく、なにか特別な存在であり、この世にあることさえ信じられない貴重な存在なのだと隠すことができなくなっていた。
いつのまにかシンの傷がとじていた。
「おまえこそ無理をするな。傷なんてほっとけばすぐに閉じたのに」
シンはそっとナギの唇についた血を、親指でぬぐった。その指の血を自分でなめとった。
「あっ……」
亜希が思わず声をだした。赤くなり、思わず手で口元をおおう。
我を忘れたようにみていた万理は、顔を紅潮させ、瞳が興奮にうるみはじめていた。
「……二人とも……なんだかこの世界の人じゃないみたい。こんな感じはじめて。……見ているだけで、胸が痛いのに、あたたかくなる……」
悲しいような、嬉しいような、色んな気持ちが複雑にまざりあって目に痛いほど眩しくみえる。どうしてこんな敬虔な心持になってしまうのかは、わからない。そう声にならぬ声でつぶやいた。
ナギを見ていた優しい顔とは、まったく別の顔をしてシンはこちらをむいた。座り込んでいた万理のまえに膝をつくと、のぞきこんで声をかけた。
「とりあえず魔の入り口はふさいだ。けどあんたの不安な気持ちがよけいに魔を呼び込んでいるんだ。もっとしっかりしろ。――部屋にも一応結界をはっといてやるから部屋へ案内しろ」
ぶっきらぼうに言うのに、万理はまるで何かの魔法にでもかかったように素直にうなずいた。ふらりとしながら立ちあがると、シンをともない自分の部屋へとむかっていく。
「亜希ちゃん大丈夫?」
ナギはそれを見送った後もまだ、呆然としているままの亜希にそっと声をかけた。
その声にやっと我にもどったように亜希は目をむけた。自分をみつめていたナギの柔らかい瞳の美しさに改めて気づいたように息をのみこむと、しばらくじっと見つめていたが、どうにか小さく頭をふった。
「……ありがとうございます。だ、だいじょうぶです」
「ほんと、ビックリしたね。でも怪我がなくてよかったよ」
「――美術室で偶然会っただけなのに、なんだか、こんなことに巻き込んでしまって……ごめんなさい……」
しょんぼりしたように言った。何か毒気を抜かれているようである。
「そんなこと気にしないで。それに、あそこで会ったのって、やっぱり偶然じゃないと思うよ。だってあの時は、たしかにあの絵に呼ばれたような気がするもの。――それに、亜希ちゃんはぼくを覚えていてくれたじゃないか。それだけでもすごいことだし、ぼくはとても嬉しかったんだよ。ありがとうね」
ナギが光がこぼれるように笑うのにつられて、亜希もまたさびしく微笑んだ。
「……でも、そうですよね……なんか本当に、あそこでシン先輩やナギさんと会えるなんて不思議です。まして家にまで来てもらって、姉さんのことまで助けてもらえるなんて、信じられない……」
夢のなかの出来事のようだ、とその表情は語っていた。
そして、ハッとしたように口元を両手でおおい、声をもらした。
「やだっ!私ったら、なれなれしくシン先輩やナギさんだなんて呼んでる……っ!」
途中から呼び方がかわっていたことに、いま気がついたのだ。真っ赤になって身の置き所がないようにジタバアしているのに、ナギはどこがおかしいのかわからないように言った。
「なんで?ぼくも亜希ちゃんて呼んでるよ?」
「でも、でも――シン先輩はきっとなれなれしいヤツだって思ってるわ。親しくもないのに名前で呼んで――」
「シンも、『亜希』って呼んでたじゃない。平気だよ」
口のなかで亜希はまだモゴモゴいいながら、恥ずかしそうにひとりで悶えている。
ナギはほほえましく口元をゆるめ見ていた。そうしていると年相応の女の子の表情をしていてとても可愛い。
腕にしていた碧い宝玉がリーンという澄んだ音色をかなでた。音がどこかに共鳴するように響き、つられるようにして振り返ると、半分ひらいたままになっていた扉の向こうにもう一つ部屋があった。
棚のうえに一枚の絵が置かれてある。吸い寄せられてゆくように意識が集中してゆく。
遠目のため、何を描いているかははっきりと見えなかったが、木のように思われた。ナギは不意に立ち上がると、フラリと近寄っていった。
「ねえ、あの絵は?亜希ちゃんが描いたものなの?」
「えっ、あ、ああ、アレですか?」
亜希も少し驚いたようだが、すぐに後をついて部屋に入ってきた。
「そうです、私が中学校のころに描いた絵です。なんだか珍しく母さんが気に入ってくれて、小さいから邪魔にならないだろうって、あそこに置いてくれたんですよ。それからずっとあるのかな?」
どっしりとした樹の根元と太い幹を、のびのびとした筆さばきで描いていた。まるで命が流れているように生き生きとしているのだが、なぜ彼女は、樹の根元と茶色い幹などいう、中途半端な部分を絵に描こうと思ったのだろうか。
「こんな絵をよく、家でもかくの?」
「そうですね、絵をかくのは半分趣味みたいになってるから」
話しながら、ナギはじっとそれを見つめていた。
その樹を知っている気がする。
どっしりとした幹に、どうしてポッカリと浮かぶ穴などが描かれてあるのだろうか。どうして不自然なウロを、彼女はこの幹に描こうと思ったのだろうか。
「黒い、珠」
ナギは無意識に口にしていた。
天上界にあったあの木とあまりにも似すぎている。黒い珠を飲み込んでおり、ナギの手によって解放してしまったあのウロのある木に――。
「ナギ、終わったぞ。そろそろ帰ろう。疲れただろう」
扉がひらく音がして、シンが入ってくるのが見えた。
その視線は亜希などもはやこれっぽっちも見ていない。ただまっすぐにナギだけをみつめている。
心なしかナギは青ざめているナギに目ざとく気づき、走るようにやってくるとシンは顔をのぞきこんだ。
「どうした――?ここの瘴気にやられすぎたのか?ちょっと出てた時間がながすぎたからな。疲れたんだろう――また学校に戻って補給してから帰るか?」
「ううん大丈夫だよ、大丈夫だ、シン」
抱きよせられるのにまかせて、ナギは重くなりはじめていた体を、彼の腕にあずけた。大事そうに抱きかかえるシンの表情は、見たこともないほどにまろやかで優しい。
それを切なそうに、そしてたまらぬように亜希は目を眩しげに細めてみつめていたのだった。
じつのところ予定外のことに外出が長くなりすぎ、ナギの体はすこし弱っていた。
外気を――しかも魔の気が流入していた亜希の家で、その空気を長時間浴びたために、せっかく補給したエネルギーが減ってしまったのである。
そのまま彼女たちの家を後にすると、ゆっくりとした足取りで家へと二人は歩きだした。
陽は西にかたむき、曇っている空にも夕焼けの赤がうっすらと色づいて、逢魔が時のなんともやるせないような気だるさがただよっている。
こんな日暮れの風景は、不思議と家に帰りたいような、あたたかい家族のいる家へ急ぎたいような気分にさせる。
穏やかな空気だった。
こんな世界もあったのだと、ナギはなつかしく思っていた。
なつかしけれど、それは自分の記憶ではなくて、人間だれしもがもっている、原初の記憶なのかもしれない。
ナギは、ゆっくり歩きながら、亜希の描いた絵のことを思い出していた。
天上界がみえたあの青い絵。
そして木のウロが描かれた、先ほどの絵。
ウロから飛び出た黒い珠。そして鬼の出現。万理の恋人だった宣之が消えて、かわりに人形があらわれたという。不気味な現象ばかりである。
亜希という存在は、なぜかとても特別なもののように感じられた。どうして彼女は天上界と深くつながりのある絵をかくのだろうか。なぜナギのことを、彼女だけが覚えていたのだろう。
一枚の絵が、バラバラのピースになっていて、無秩序のまま転がっている気がする。ナギはなのに、それをつなげる術がない。
シンのようにコンピューターを自在にあつかえたら、もしかしたら答えがでるのだろうか。どうすれば黒い珠を捜しだすことができるのか。ソメイを目覚めさせることが、どうやったらできるのだろうか。
なにもわからなかった。わからなすぎて、もどかしくてひどく悔しかった。
「難しい顔をしてどうしたんだ?やっぱりおぶってやろうか。抱っこよりはいいだろう」
シンが手を引きながら声をかけてきた。すこしからかうような口調だ。
「ちゃんと歩けるから大丈夫だよっ。シンてば亜希ちゃんたちの目の前でいきなり抱き上げるんだもん、恥ずかしいじゃないか」
拗ねるように顔をあげ言いながら、ずれた眼鏡をゆびでおしもどした。
「でも足がもつれてたぞ」
「も、もつれたんじゃないよ。ちょっとつまずいただけだ」
シンが咽喉の奥で笑った。ナギの背中をあやすように叩いた。
「あまり根をつめるな。色々考えてみてもなるようにしかならないし、おまえは、おまえしか出来ないことをちゃんとやっているよ」
シンは、ナギが無為にあせっていることをちゃんとわかっている。
「うん……。でも、なんだか本当にさ、無力なんだなぁって時々思ってしまうんだ。――亜希ちゃんや万理さんが、あんな風に苦しんでいても、ぼくは何もしてあげられない。なにもしてあげられないのがつらいんだ。……せめて羽根でもあれば、癒してあげることが出来るのに、けどもうぼくには羽根がない。誰にも、何も、してあげられない」
「羽根はあるさ」
「えっ?」
ナギはシンをみた。
「おまえ自身だよ」
「シン……?」
「おまえがいるだけで十分だよ。それだけでいいんだ。――亜希や万理だって、ナギがいたから落着いていられたんだからな。きっとあの黒い虫が出ただけで半狂乱だったさ。それに羽なんてあってみろ、こんなところを歩くことも出来ないじゃないか。おまえは羽に価値があるんじゃなくて、おまえ自身に価値があるんだよ」
「ぼくに、価値?」
「おまえの価値はすごく大きい。ただ自分だけがそれをわかっていないだけだ。まあそれがおまえらしいけどな」
ふわりと目をほそめた。
「でも羽根があっても、アレは抜かれるたびに死ぬほど痛いんだろう?だったら、そんなものを欲しがる人間なんていないよ。いたとしたら、羽根を与えてやる価値はない人間だ」
たしかに、羽根をぬかれるたびに、どれほどの痛みがあるかわからない。指を折りとられるような、目をえぐり抜かれるような、自分自身を、まさに食われるような激痛がはしる。
ナギはシンの言葉におどろいていた。
沈みかけた心に、新しい命が吹き込まれるようだった。
全身に澄み切ったエナジーが流れ込み、震えんばかりの喜びが吹き込まれてくるのを感じる。
シンがナギを甦らせてくれる。
もし本当にナギに価値があるとしたら、それはきっとシンがいま与えてくれた言霊なのだと、そうつよく思った。
元気をすこし取り戻したのをみて安心したのか、シンはそれからは何もいわなかった。手を引いてくれる手の暖かさだけでつながっている。
きっと無言で歩く彼もまた、思考をめまぐるしく働かせているのだろう。
ナギにはあまり考えるなといいながら、シンの超高速の思考回路はあらゆる事象を計算にかけ、可能性のある無数の答えをはじき出している。表情をみていればわかる。
ナギはぼんやりと歩いていた。
よくみると、人の群れのなかには、ポツポツと人形がまじっていた。
そう多くはないが、人形が人間として存在していること自体が異様なことであり、それをわかる自分やシンもまた、こちら側に生きるには人と違う異様な存在であることを証明している。
犬の散歩をしている花柄のワンピースを着た女性は、まったくノッペリとした顔をしており、笑っていても、ただ表情が、笑みの形をつくっているだけの人形だった。
自転車にのった詰襟の制服をきた男の子も、人ではなかった。
彼らは、まわりの人にも気づかれもせず、毎日の生活を、本人のようにつつがなく送り、いつものごとく終わらせてゆく。犬をなでる手が人のものではなくても、犬は黙ってだまされているのである。
学校の裏山にむかうときは、久しぶりに街に出たという興奮と緊張で、呼吸の苦しさとあいまって何も気づかなかった。こうして落着いてみると、いろんな事がみえてくるではないか。
シン以外の人間、亜希や万理たちと話しをしたり、こうしてすれ違う大人や子供たちの、顔みたり話し声をきいているうちに、なんとなく「篠田和」であったころの自分を思い出していた。
そういえば、焼けたアパートはこの辺だったなと、ナギはぼんやり思い出す。
ふと通りの向こう側に目をやり、息を飲みこんだ。
――母さん!勇っ!
声をあげそうになった。
こらえるように歯を食いしばり、まなこをさらに大きく見開いて彼らを凝視した。
母親の美保のとなりを、ゆっくり歩いているのは間違いなく弟の勇であった。
ナギにかまってほしくてじゃれついていたあの幼かった勇は、かなり身長が伸びているようであり、美保の背を追いこしていた。もう中学生になっているのだろう、面立ちが少し昔とちがってみえる。
けれど人を気遣うことを忘れない優しげな笑顔だけは変わっていなかった。手に買い物袋をもっていて、時々なにかを話しかけている。
美保はそれとは反対に、まったく表情というものをあらわしていなかった。
昔とかわらぬどこか疲れたような顔をしており、まるで世の中の何もかもを厭い、それでも生きていかねばならない苦痛に耐えながら、辟易しきっているかのようにみえた。
ナギの目には、人形よりも彼女はずっと人形らしく映ってしまう。いや、彼女のなかに魂が見えないではないか。
どこまで擦り減ってしまっているのだろう。
どうして美保を苦しめていた根源であった「和」がいなくなったのに、幸せになっていないのだ。
「どうして……母さん、なにがあなたをそんなに苦しめているの……?」
角をまがり、二人の姿はみえなくなった。視線がそれでもずっと追ってしまう。
つぶやいたナギにシンがふりかえった。
「どうしたナギ、なんか居たのかのか?」
「――ううん」
ナギはただシンの手を少しだけ強くにぎった。
それだけが、ナギの中の真実のように、シンの温もりを一生懸命に感じていた。
シンの家に帰り着いてから、ナギはずっと考えこんでいた。
亜希や万理、そして母親の美保に、弟の勇のことを。
それぞれに対する色々なことが、頭の中で忙しくグルグルまわり、どれもが自分ではどうしようもない事のような気がして、だんだん気分がずっしりと重くなってしまった。苦しげなため息をついた。
「疲れた顔して考えてないでさ、ちょっとは眠れよ。今日は外気に触れすぎたから、負担が出てるはずだ。体がダルイんだろう?そんな時はろくなことを考えやしないからさ」
言いながら、大きな花束をナギにわたした。
時間がなかったので、花屋に直接届けさせていたのである。
いつもは自分で選び、ナギに必要そうな種類の花のなかでも、さらに元気でエネルギーをたくさん含んでいるものを買っていたのだが、さすがに今日はその暇がなかった。
シンも考えることが多いらしく、なにやらまたパソコンにむかっている。また何かの情報を集めている風である。
花たちがナギにエネルギーを注ぎこみ、溶けるようにきえると、ナギの顔色が微かにもどった。しかしそれでは足りないことを見て取ると、シンはナギを抱きしめた。
「直接だから、ちょっとはじめはキツイかもしれないけど、勘弁しろよ」
「シン?」
「このあいだから何かいい方法がないかって考えたんだよ――」
シンは寝転んでいるナギに頬をすりよせると、額をくっつけてきた。
まるでキスでもするかのようにシンの息が唇にかかり、ドキリとしたナギにかまわず、ナギの背中をなでていた手を、服のすそから手を入れる。
背骨を撫でられ、思わず身じろぎして背をそらした。
それにかまわずシンは何度も何度も手をうごかし、擦りこむように背をなでていた。
いきなり熱いなにかが注ぎ込まれたのがわかった。
「あぁっ」
ナギはたまらぬように息をもらしあえいだ。
まるで底なしのエネルギーが容赦なく襲ってくるような強い力が体をかけめぐり、肌に電気がショートしたような熱を感じていた。
脊髄をつたい、全身の神経をはしりぬけ、ナギの中をしっとりと高濃度の蜜で濡らし昇りつめていく。今まで感じたことのないえもいわれぬエネルギーがナギの全身へとひろがり、身悶えるように体をふるわせてしまう。
手がヘソに置かれた。
たまらないあつさに意識が遠くなっていった。津波のような激しい思いがナギの意識まで凌駕してゆくようである。
「な、なに、これ――?」
ナギが呻くようにもらした。
シンは服から手をぬくと、背骨が無くなったみたいに体がフニャリとなった。そのナギの体をささえたまま、そっと布団にしずめる。
額をはなすと、エネルギーの熱に浮かされたように、ほほを上気させているナギをみて、満足したように口許をゆるめた。
「穢那様がさ、おれの中にソメイの力がだいぶ入ってるっていった、あの言葉で思いついたんだ。ソメイの力なら、もしかして直接ナギの中にエネルギーを入れられるんじゃないかってな。なら脊髄が一番手っ取り早いだろう?入れてみたあとで、急に思いついたからヘソにも入れておいた。なにせ身体の中心だし、力の源だからな、きっと効くぞ」
悪びれもせずいうと、自分の試験結果のもたらしている良い感触に納得しているようであった。
あまりにいきなり高濃度のエネルギーを充填しすぎて、まるで酔っ払ったようにナギは布団にそのまま沈没していた。
「ちょっと苦しいかもしれないけど、すぐ慣れるさ。ゆっくり寝てろ」
シンはそういうと、自分はパソコンの前にすわってしまった。
ナギは体中に溢れそうな熱にうかされて溺れそうな感覚だった。アプアプしていて、何も考えられない。
シンに限って、きっとエネルギーを入れすぎた、などということはない。あれこれ迷っているナギの思考を同時に奪ったのである。
ナギはふと思い出していた。
ソメイがよく、眠れないナギの背をなでてくれていたことを。もしかしたらあの時エネルギーを注いでくれていたのかもしれない。そうしてもらうと、ナギは不思議と安心して眠れていたのだ。
そんな思いをさまよいながら、ナギは眠りのヒダに落ちていった。寝息は、だが至極心地よさそうに、規則正しくくりかえされていた。
シンは目の端にその姿をみて、微笑んでいたのだった。
ナギが眠るのをながめながら、シンは疲れたように背伸びをしていた。
連日の作業に、酷使されていた視神経が、さすがに疲労の悲鳴をあげている。何かを食べたり、仮眠をとっても、だんだん疲れをごまかせなくなってきており、目がぼんやりとかすんでいる。度のあまり入っていない眼鏡をかけているのだが、その顔色もあまりよくない。
シンは自分の内側で、たぎるように渦巻いているエネルギーの存在を、はっきりと感じとれるようになっていた。それはときおり、牙を向けるようにシンに噛みつき、出たいといって暴れている。
熱で体がひび割れるような痛みが、ときに襲い、ノドを喰いやぶろうとする大蛇をもてあまし、どうにかそれを制御しようとするのだが、かなり骨が折れる仕事だった。
身の内にふえてゆきつつあるものが、その勢力を増していることはわかっていた。これが穢那のいっていた、ソメイの力なのだろう。蛇使いが、蛇を制御できなくなったときこそ、体を裂いて飛び出してしまうのだ。
そのかわり、今までわからなかった物事がいきなり答えを得たり、また知りもしないことが顕著に頭にひらめき、それがとても重要なことだったりしていた。
どうすれば魔物たちを消すことができるかも、なぜか知っているし、どう使えば手から光が出て結界を張れるか、また空気を浄化できるかもわかっている。ナギの体にエネルギーを直接入れることも、なぜか自然に頭にひらめいたのである。
きっと、ソメイがそうしていたのだろう。
ナギを思う気持ちが重なったのだ。
やるせない心地がしたが、久しぶりに健やかに眠っている姿をみていると、それも良いことだと思える気がしてきた。
どうソメイと張り合っても、しょうがないことだ。
明瞭になってゆく思考は、多分スーパーコンピューターすら凌ぐほどになっているため、パソコンの計算よりもずっと早かった。実のところ、あまりパソコンは必要でなくなっており、使っていない。
シンは気づいていた。
世界の変化を。
いや、地球の変化、といったほうがよいかもしれない。
魔が流入してくる経路がどこかに存在し、それによって地球が侵食されてきている。
母体を蝕まれてしまえば、そこに生きている生物たちに及ぼす影響は、けっして小さくはない。
そして地球のあげる悲鳴は、なぜか、ただの星としての苦しみだけではないような気がしていた。
まるで地球という生命が悲しみ、何かによって苦しめられ、だんだんと弱っているような異質感をおぼえてしまうのだ。
星という生命が弱るほどの何かとは、一体どんなことなのだろうか。
何が関与して、何が起きている。
どれほど頭脳が明晰になろうと、必要な情報がなければ、答えがでてこない。
ピーという甲高いエラー音がパソコンから鳴りはじめた。
ボンヤリと考え込んでいたシンの意識がもどった。
視界にうつったのは、『キケン、タスケテ』の文字であり、また、カタカタとキーボードが勝手に打ち込まれはじめている。
「危険?危険とは何のことなんだ。―― 一体どこから、誰が送ってきてる」
どう問おうとも、それだけだった。
それしか知らないように、いや、それだけが精一杯のように同じ文字だけが繰り返される。まるで送り主さえ、弱ってきているようではないか。
「何もかもが弱りはじめているということなのか?何がこんなに影響させているんだ」
シンは頭が痛むように片手でこめかみを押さえた。
答えはうかんでこない。
ナギに寝息だけがなぐさめるように、闇のしじまに聞こえていたのだった。
エネルギー不足をいきなり解消されたナギは、それでも熱になれるまで、何日間かウトウトと眠っていた。
ソメイが眠りについたあの時から、日増しに減る一方だった生体エネルギーは、ほとんど極限に近づいていたため、すこし乱暴な方法ではあったが、シンがエネルギーを入れてくれたおかげで完璧に補充されていた。
さらにエネルギーが回復しただけでなく、結果的には眠りもとれたので、さらにナギを元気に回復させていた。
やっと目覚めたナギの顔色はすこぶるよかった。
頬が桃のように色づいて、目もとまでシャキッとしている。全身の肌が格段に透明度をあげてみえるのは、きっと身にまとうオーラが元気になったせいだろう。
「綺麗さに磨きがかかったなナギ」
シンは乱暴なんだから、と口を尖らせて照れかくしに文句をいったナギに、シンは冗談半分、本気半分でそう云ってわらった。
けれどナギは、本当はすごく感謝をしていた。片方しか働いていない肺までキレイに掃除されており、呼吸が信じられないくらい楽になっていたのだ。人界の汚れた空気で、ドロドロによごれて、ほとんど機能しなくなっていたことまでわかっていたのだろうか。
「シン、ありがとう」
「お安いごようさ。いつでも入れてやるぞ」
「嬉しいけど、でももう少しお手柔らかに頼むよ。ほんとビックリしたんだから」
「ビックリさせたかったのさ。ビックリしてよけいなことが頭から吹っ飛んだだろう」
さすがにその通りだった。けれど何もかもを見通されていることがちょっとだけ悔しくて、ナギはピンクの頬をふくらませてみせた。
「ぼくどのくらい寝てたの?」
「さあ、三、四日くらいじゃないかな。フニフニ寝言をいってて、けっこう可愛かったぞ」
からかう気満々なのをみてとって、ナギはもう参りましたとばかりに手をあげた。
「で、シンはちゃんと休めた?なんだか疲れた顔しているよ」
「ああ、おれのほうは大丈夫だ。おまえの寝ているあいだに図書館にいって息抜きをしてきたし、昨日は久しぶりにカツ丼も食ったしな」
休息はとれたのかと問うたのに、いくぶん見当ちがいな答えだったが、ナギは納得する。
まるで口に入ればいいとばかりに食事をするシンが、意図をもって何かを食べたというのはかなり久しぶりであるはずだ。エネルギーになればいいとばかりに、カロリーメイトのようなものばかりかじっていたのだから。
「でもすこしは寝たほうがいいよ。ぼくが布団を占領して、うまく眠れなかったんじゃないの?」
「おれが眠るとなったら床の上でも、イスの上でも熟睡できるさ」
「もう、いいからちょっとこっちに来て」
どういってもサラリとかわすシンを、ナギは無理やりに布団に座らせた。目の下のクマはどうしても隠しようがない。
仕方ないと、申し訳のように転がってみせたシンの額に、そっと手をおいて、もう一方の手でシンの手をとり、自分の頬によせる。
ナギの体が淡くともった。
今度はシンのからだに光が注がれだしていく。
エナジーをまるで泉のように隆々とたたえたナギの光は、聞いたことのないような精妙な音楽を奏でているかのようにシンの体に響いていった。
この世に、勇気をだして生まれてきたことを祝福するような、苦しいことを耐え、乗り越え、それでも生きていることを慈しまれるような、心地のよい手を感じる。
なにもかもを称え褒め、細胞のひと粒まで――構成する元素の一個までを祝福するような、何ともいえぬ優しさがある。ナギの存在を感じていると、愛という存在だけでいられる幼子になったような気がして、穏やかな心地のなかでまるで自分がキレイなものみたいな気がしてくる。
宇宙の喜びと一体になりながら、シンはそのままナギの光に包まれて、本当に眠りにおちてしまった。
聡明な思考も、揺らぎのない強い意識も、眠りをあまり必要としないかもしれないが、肉体はちがう。きっと本人が思っているよりずっと疲れ、傷んでいたにちがいない。
ナギが手を離しても、光はしばらくシンをくるんだままだった。
柔らかな寝顔をみると、少しだけお返しができたような気がして、ナギは嬉しそうに微笑んだ。
こんなことぐらいしか出来ないなんて、天上界の最高の樹――聖天樹だと呼ばれていた自分がはずかしい。
もっと役に立ててもいいのに、もっとシンや他の皆を癒してあげることができてもいいのに、とまた暗い思考におちいってしまい、考えるほどに、自分の足りなさを自覚して、気分が落ち込みそうになってしまった。
ナギはそっと部屋をそっと出ていった。
どこにいても、何かが起こっても、ナギは自分の存在の不確かさをいつも嘆いている気がする。
「もっと頑張らなくっちゃ。出来ることをせめて精一杯しなきゃ」
シンが自分のエネルギーを分けてくれたのだ。落ち込んでいる暇はない。
彼は気づかれていないと思っているだろうが、ソメイの力が彼をひどく苦しめていることに気づいていた。今まで見なかったような力をみせるとき、シンはいつも得体のしれぬ違和感に体を震わせ、もてあましている。
「――急がなきゃ。シンもソメイ様もこのままだと酷いことになってしまう」
急くばかりでなにもできない自分の意思に振りまわされないように、腕の玉石をにぎった。
リーンという涼やかな音をたてた。
ナギの手のなかにある輝石は、内側に灯している青い炎を大きくしていた。ナギの満たされた高濃度で純粋なエネルギーによって、石さえもより輝いているのだ。
ナギはその音をきいているうちに、なにを喚起されたのか、亜希とあの絵のことを思い出していた。
あの絵をもう一度じっくり見てみたい。
とても気になる。何かがあの絵に隠されているような気がする。
不意にその思いが強まった。
「亜希ちゃんはどうして天上界に関係のふかい絵を描くんだろう……。彼女は天上界となにかつながりがあるんだろうか?」
そのことを、何度かシンに相談したほうがいいかと思いながらも、なぜか話そびれていた。
いますぐにでも、と思うのだが、せっかく久しぶりに安らかな寝息をたててくれたのに、起こすのも忍びない。
シンには世話をかけっぱなしだ。甘えすぎている。
「シンは優しすぎるんだよな――」
あまりに優しすぎるから、ナギだけしか見ないようにしているのだ。
それ以外に手をまわしても、中途半端なことしかできないとわかっているから、むやみな期待は他人にもたせたりしない。
一生懸命できることにしか関わらない。彼は本気でなにかをしてあげるか、何もしないであげるかしか、できないのだ。それくらい一途で、不器用なのである。
彼の冷たさは、優しさの裏返しなのだった。
だからナギがどんなところに居ようとも、かならず助けに来てくれるし、苦しんでいると知ると、自分の身を裂いてまで、手を差し伸べようとする。
そんなシンを、ナギは心から愛しくおもう。
そして同じくらい、痛々しいのだ。
裏切られるつらさをよく知っている。すべてを受け入れきれないなら、約束などしない。理解されにくいけれど、これがシンの誠意なのである。
もっと思いをやわらげ、楽に生きていいのだと自分を許すことができたら、研ぎ澄まされた刃のような気配がきっと消えるだろう。
もっと心をひらき、色んな人や物が心に入ってくることを楽しんでくれたら、どれほど皆がシンの深い魅力に気づき、彼のことを好きになるだろう。
あれほど情けの深い人間を知らない。
きっと誰もが心うばわれる光のような存在になる。
ナギは思い切ったように、莉野の部屋に入ると、タンスからスタンドカラーの大き目のジャケットを引っ張りだした。シャツの上にはおりエリを立てると、あごまでどうにか隠れる。そして帽子を目深にかぶれば、前に外出したときかわらぬくらいに、顔がわからなくなることを確認する。
そっと家を抜け出していった。
亜希の家へとむかっていたのだ。
どうしてももう一度あの絵がみたい。そして亜希と話がしたい。その思いがだんだんつよまってゆき、どうしようもなくなってしまった。
「あのウロのある樹を、どうして描いたのか知りたい。もしかして黒い珠の存在を、彼女はどこかで感じているのかもしれない。――そんな気がする」
敏感すぎる感覚は、この世ではとかく生きにくい。つらいことの方が多いし、排除されることだって、時にはある。
でも、もしその感覚で、あの珠の行方が感じられるのなら、力を貸してほしいと思った。
すべての発端が、ナギの放ったあの珠にあり、そしてソメイの眠りと関係があるのならば、一刻も早くみつけねばならないのだ。
色んな人が色んな苦しみに喘いでいる声がきこえてくる。
鬼が連れ去ったという宣之のことも、もしかしたらわかるかもしれない。とにかくどんな小さなことでもいい、手がかりが欲しい。
先日はシンと一緒で気づかなかったけれど、ひとりで歩くとなぜか人の視線が痛く感じられた。視線が突き立つような気がするのは、そこの邪気が含まれているからだ。
人界の肉欲的な視線と、好奇な感情は、ナギの繊細な神経には慣れない。天界でだって同じようなことはあったのだが、あまりに直接的なのにビックリしてしまう。
やはり息は苦しかった。それでもシンがエネルギーを満たしてくれたおかげで、足をとめずに亜希の家にまで歩いてゆくことができた。
もし苦しそうな姿や、迷うようなそぶりをみせたら、うかがっていた何人かの男たちが寄ってきていただろう。ナギは、無意識に狩人たちを引き寄せてしまう、極上の獲物的存在なのである。
変色したチャイムのボタンを何度か押した。
「あの、こんにちは――亜希ちゃんいる?」
しばらくしても返事がないのに、ナギは出かけているのかと不安に思い、首をかしげた。もしかしてまた、学校に絵を描きにいっているのかもしれないと気がついたのだ。
「連絡してくればよかったなぁ。でも電話番号なんて知らないし」
ため息をつき、またあの街中を引き返すのかと思うと、すこし気が重くなった。
行きはどうにか足を止めずに振り切れたが、帰りは無理かもしれない。誰かにつかまると、逃げられない。
「どうしよう。学校にちょっと寄って裏山で休んでいこうかな。でも鬼に食われているあの子みたいなのや、人形が来たら怖いし……」
ブツブツ言っているナギの背後に声がかかった。
「ナギさん?!」
「あっ――」
目があった。
亜希は玄関にいるナギの姿にビックリしたように声をあげ、慌ててかけよってきた。少しだけ、目をキョロキョロさせてあたりを伺っていたが、ナギ一人だとわかると、なぜかちょっとガッカリしたような色がうかんだ。
それでも嬉しそうに笑ってみせた。腕になにやら抱えている。
「また来てくれたんですか?よかったぁ、行き違いにならなくて。どうぞ入ってください」
「ぼくこそ会えてよかったよ。学校に行ってたの?」
「あ、はい、このあいだの絵が完成したんで、乾くのを待ってから、取りに行ったんです。油絵の具ってけっこう臭いでしょ?」
まだ幾分臭うそれを指さして肩をすくめてみせる。学校で嗅ぐのは嫌いではないけれど、家にはあまりそぐわない油くさい臭いである。
居間のソファーへナギを通すと、布につつまれていたキャンパスをとりだし、壁においた。ナギはそれをじっとみていた。
学校で引き寄せられるようにしてみたあの絵だった。
今でも天上界のエネルギーを微量にそこから感じられている。ソメイをふうっと呼び起こさせる。
「この絵、まえもそんな顔をしてみていましたよね」
何ともいえないような、胸がいたくなる表情をしているナギをみて、亜希がぽつりと言った。
愛しくて切なくて、でもどうしようもない、押さえることのできない感情を押し殺しているようなその顔は、そこに行くことも叶わないのに、それでも帰りたいと思わずにはいられない、郷愁の狂おしさのような色があった。
――まるで祈るように、ただその人を思う。
亜希はきっと、誰かがする、そんな感情を目の前で見たことがなかったのだろう。ただそれが彼女の胸まで切なくさせることだけに驚いているようだった。
だがそれに近い表情をしていた人は、知っている。
ナギを見ているシンだった。
なんともいえない切なさがあり、大切な人のことを思うというのは、こんな表情もさせるのか、と納得させられた。
「なんだかスゴイ絵だね。あらゆる事象を映しだしているみたい。――あっちにある木の絵も、一緒に見せてもらってもいいかな?」
「ああ、はいどうぞ。このあいだの絵ですよね?……持ってきます。ちょっと待っててください。あ、イスに座って」
亜希は隣の部屋にとりにいった。
ナギがあちこち破れたビニールのソファーに腰をおろすのと同時くらいに、奥の部屋の戸がすこし開いた。
万理が顔をのぞかした。
ナギの姿をみると、パッと表情があかるくなった。亜希とはちがって含みのない笑顔だ。嬉しそうに部屋から出てくる。
「ナギ――くん?」
「お邪魔してます」
万理は、ナギを「くん」づけで呼んでいいのか迷うであった。
たしかにナギの風貌は、どちらかといえば今はもう少年よりも少女のそれにちかい。だが自分をぼくという言葉づかいだとか、話し方を聞いていると、男の子のようにも思われてしまう。中世的な魅力といっていいのだろうか。
だが、眼鏡や帽子をとった素のままでいるナギをみていると、もうそのどちらでもなくて、この世の人間とは遠く隔たった、崇高で稀有なる別の生命体のようにみえていた。まるで神か天使のそばにいるように、万理は安心しきっている。
万理は迷わずナギのそばにすわった。というより、ナギの足元の床のうえにペタリと腰を下ろし、膝にすこしだけ手をかける。
ナギはそれが甘えている仕草だとわかった。『樹』たちが、そうしてナギのもとに集まってきていたのを思い起こさせたからだ。きっと万理の性質こそは、『樹』に近いのだろう。
「姉さんったらそんな格好で――。ナギさんこの絵ですよね」
亜希は絵をわたした。
B5サイズのスケッチブックに書かれていたそれは、水彩で色付けされているが、油絵のものと変わらないくらい、不可思議な、この世にはないはずの別の世界の片鱗が浮かびあがっている。
亜希はこのウロを、なにを思って描いたのだろうか。
「ナギ君は絵が好きなの?」
真剣なナギの顔を万理がみていた。
「え、ああ……そう、ですね。なんか亜希ちゃんの絵ってすごい特別な感じがするから、気になってしまって」
「亜希はほんと変わった子よね。こんな訳わからない絵を、突然描きだすんですから」
「そうなの?」
と亜希をみる。
「うーん、そうかな?なんだか急に描きたくなって、手が動くに任せていたら、絵が出来上がってるって感じなんだけど。でも、よくわからないや。描いてるときはいつも夢中だから」
亜希はじっと見つめられると照れたようにはにかんだ。
「でも姉さんも描くのよね。もとは姉さんの真似からはじめたんだもん」
「へえ、万理さんも描くんだ。どんな絵を描くの?見せてもらってもいい?」
兄弟そろって天上界の絵をかくのだろうか。ナギの興味をひかれる。
万理はちょっと首をかしげた。
「どうだろう、最近はあんまり描いてないし……。あの気持ち悪い絵を描いてからは、なんだか描く気が起きなくって」
「気持ち悪い絵って、それ、自分で描いたんでしょ?」
ナギの問いに、万理はすこしバツが悪そうな顔をして亜希をみた。亜希も苦く笑っている。
「宣之がいなくなって――あの人形が現れて、私を追いかけまわしだしたときに描いた絵なの。でも、よく覚えていなくって」
「姉さん半狂乱みたいだったものね。でもあのおかげですこし落着いた気のよ」
恋人が違う人間になったと訴えても、誰も信じてくれなかったあの時である。
本当に自分がおかしくなったのかと思い、無理に宣之のそばに居てみたりもしたのだが、ついに我慢できなくなってしまった。
まるで本物の宣之のように肩に手をまわし、恋人のようにキスをして、万理を抱こうとベッドに押し倒した。
だが触れるものすべてがあまりの気持ち悪くて、怖気に全身の毛が逆立ち、神経が音を立てて切れてゆくのがわかった。
その後、頭のなかにモヤがかかったように、しばらくのあいだ、訳がわからなくなっていたのである。万理がそう語っていた。
「私の本能が、その人形を受け付けなかったのよ。――その時、自分がどうしてあんな気持ちの悪い絵をかいたか覚えてないんだけどね……」
「ソレ、みせてもらってもいい?」
ナギは考えるようにして言った。
多少、怖くはあるが、天上界の絵をかく亜希の姉、万理が描いたものである。
しかも意識なく描いたということは、描かされた、という可能性がつよい。
何かの波動を受取って描いたのかもしれないし、それが黒い珠の放つものだったのなら、絵にわずかでもヒントがあるかもしれない。
とにかく見てみなければ何もわからない。
姉妹は顔をみあわせていた。
「そういえば、今日はシン君は一緒じゃないのね」
「ああ、ええ。ちょっと疲れてたみたいだから、家で寝かせてるんです」
「へぇ、あの子でも疲れるんだ。……って、あたりまえか。でもなんだかあの子が疲れてる、なんて聞くと不思議な気がするのよね。すごく人間離れしてる気がするもの。……最初は、あんまり無表情で冷たい口調だから、近寄りがたいキツい感じがしてたんだけど、でも本当は優しいんだってわかったわ。結局、私の部屋の霊もぜんぶ消してくれたしね」
「シン先輩はすごく優しいわよ!――ナギさんを見ているあんな顔もあんなに優しいし――私だったら、あんな優しい顔で、あんな風に声をかけられたら、きっとたまらなくなる……」
亜希の目がうるみ、顔がほんのり赤らんでいた。
その表情をナギはなんとなく納得してしまった。彼女はきっとシンのことがずっと好きだったのだ。小学校のころからずっと見ていて、淡い恋心をいだいていたのだ。
彼女は、もしかしたらずっとナギになりたかったのかもしれない。
「シン先輩、疲れてるって、大丈夫なんですか?」
「うん、たぶんね。シンはいつも忙しそうにしているから」
すこし楽になっていれるといいのにと、ナギは疲れた顔を思いながら返事をした。
「いつもシン君と一緒にいるのね。仲がいいんだ」
「え、ああ、そうですね」
そんな生易しい関係ではない。半身よりももっと深い。
「ナギさんはシン先輩の特別なんだから当たり前じゃない」
かわりに言った亜希が、めずらしくキツく言いかえすのに、ナギはすこし驚いた。
「亜希ちゃん?」
「姉さんの絵、みますか?あっちにありますよ」
「え、ああ――そうだね、お願いするよ。万理さんいい?」
「私はみたくないわ。ここにいるから勝手にみてきて。あっちの奥よ、廊下の突き当たりの物置」
「姉さんアレ本当に嫌いだものね」
亜希の言葉に、万理は返事をせずにただ肩をすくめた。
ナギが席を立つまでのあいだ、万理はずっとナギの膝にもたれかかっていたので、すこし膝が痺れている。彼女のオーラはまだすこし尖っていて、ナギの肌には刺激が強い。
「こっちです」
亜希が先にたって歩きだした。
万理の部屋のまえをすぎ、その突き当たりにある両開きの押入れをあける。
なにやらガラクタのようものが無数に置いてあり、絵の描かれたキャンバスも何枚か隅のほうへ並べられている。
雑多にしまわれたキャンバスのなかから、亜希が一枚ひっぱり出した。
嫌そうに眉をよせて、箱にたてかけて置くと、自分はそっぽをむく。
「こ、れ……?」
ナギは唇をギリッと噛んだ。
たまらず目を閉じそうになってしまった。
なんという胸が悪くなる絵なのだろうか。
まさに正常な神経の持ち主が描けるような絵ではない。
生理的嫌悪感をもよすというか、人間が本能的にもっているだろう、恐怖心や不安を呼び起こさずにいない、荒廃的な色使いがされていた。
そこにあるのは悲鳴とか嘆きとかそういった負の感情であり、あえてそれらを形にして描き出したような、魔的なものがある。
ひどく抽象的だった。
森の中にもみえたし、沼の底のようにもみえた。
野獣が口をあけて今にも飛びかかりそうな構図にも思われるし、どこか呪われた城にもみえてくる。
――……我が……まって……た…花嫁……我が愛しい……嫁……め…
忌まわしい声が沸きあがった。
それにあわせて黒い触手のようなものが絵からユラユラとあらわれ、ナギの頭上に伸びあがった。
驚きと恐怖のあまりナギは後ろによろめき、フラついてそのまま倒れこんでしまう。逃げようと後ずさったナギの細い腕を掴まんとして、ソレはおぞましい影をさらに膨ませて追いかけてくる。
忌まわしいほどの腐敗臭がたちこめた。
「ナギさん!!」
亜希が声をあげ倒れこんで怯えているナギの腕をとっさに引っ張った。足に巻きつこうとしていた黒い影が皮膚をかすめた。
「キャ――!」
二人の背後で切れるような悲鳴があがった。ハッとしたように視線をあわせた。
「万理さん?!」
「姉さん!」
闇がいきり立つように広がったのに、そのまま物置から飛び出だした。
万理のいる居間へと駆けだす。後を追うようにして黒いものが紐のようにのびたが、二人を捕まえそこね霧散してゆく。
ナギは家中にたちこめているひどく嫌な気配に吐き気をおぼえた。
いきなり何が起こったというのだろうか。
部屋にかけこんだナギと亜希は、思わずその場に立ちすくんだ。
戸口に固まっている二人をふりかえったのは、あきらかに人間ではない者たちだった。
黒く硬質な顔は、皮膚が岩のようにデコボコとつきだしており、赤く皓々とひかっている目があまりに野獣じみていて、残虐な色合いをうかべ無表情にナギと亜希を映しだしている。
背丈は二メートルを軽く越えていた。
プロレスラーよりもいかつい巨体なのに、なぜか黒いスーツをきていのが、さらに異常性を増してみせている。
魔物の影が二つならんでいた。
その腕には、万理を軽々と抱えており、すでに気をうしなっていた彼女を今にも連れ去らんとしているところであったのだ。
ナギはもしかして襲いかかってくるかもしれないと身を硬くし、亜希を庇うように立った。
だが魔物たちは、なぜかナギたちにはなんら興味をしめす様子もみせもせず、そのまま出てゆこうとしている。
「ま、待って――」
青ざめ、ガタガタ震えながらも、ナギはどうにかしようともつれる足で追いかけようとした。
だがそのとき、玄関から別の足音が踏み込んでくるのが聞こえてきた。
数人のカツカツという金属音に近い靴音が響いている。土足で上がってきていることが容易にわかるが、それは歓迎すべきまともな客ではないということでもある。
ナギはとっさにどうしようかと迷った。
背後の亜希はすでに惚けたように座り込み、姉を連れ去りに来た鬼たちの瘴気によってすっかり思考を奪われていた。瞳孔が大きくなり、錯乱しかけている。
ナギがどうにか耐えられたのは、たぶん腕の宝玉の守りと、シンにエネルギーを満たしてもらっていたからである。でなければ、魔物たちの禍々しい熱にやられていた。
「亜希ちゃんこっちに――早くっ!」
むりやり亜希の腕をひっぱり立たせると、先ほどの物置部屋にむかって走っていった。
先ほどの闇も怖くはあったが、押し寄せてくる気配のほうがもっと嫌な気がしている。亜希をあれらに会わせてはいけない。
背後で複数の男たちの声がきこえた。誰かを探しているような怒鳴り声だった。
「ここに入って!早く、この箱のうしろにっ!」
開いた扉のなかは、ただの押入れにもどっていた。
安堵する間もなく、奥に積まれてあるダンボールの向こう側に、亜希の体をすべりこませた。
「絶対に出てきちゃダメだよ。何があっても、ここに隠れててっ」
小声だが、強くいいきかすと、まだ意識が正常な状態ではない亜希はだまってそこへ座りこんだ。
どうしようかと思ったが、不意にシンがしたことを思いだし、自分も人差し指噛んだ。
関節の柔らかい皮膚が切れて、痛みにあわせて血が口のなかにひろがった。そのまま床のうえに、血で簡単な封印の法陣を描いてゆく。
「ぼくの血よ、そのエネルギーでこの空間を隠して。お願い、亜希ちゃんを守って!」
まったくの見ようみまねだったが、法陣自体は、いつか朽葉に教えてもらった正式なものだった。
何かあったときに使いなさいと、あのとき彼女はそう言っていた。よもやこんな日が来るとは思いもしていなかったが、もしかして、彼女はこの時のことまで見えていたのだろうか。
物置を閉め、廊下へ出た。
どうしようか、どこへ逃げようかと迷っている間もなく、ナギのそばに男の一人が近づいてきていた。
まるで映画に出てくるスパイのように、全身黒づくめであり、黒いサングラスをかけている。その腕や身体は金属のように固そうであり、服の上からも盛りあがっているのがわかる。
身のこなしもまったく隙がなかった。まさに訓練をされたプロの動きである。
「あっ……」
ナギはその顔を一瞥しただけでわかった。
この者たちもまた、人間ではない。
先ほどの異形たちと同じく、人間の魂がそこにはないのである。
ただ人の形をしているぶん、いくらかはましかと思われたが、肌に伝わってくる歪んだ波動には、姿かたちを隠しているだけ性質がよくないものがあることを告げている。
「おまえは、この家の人間か?」
「あ、やだっ!」
顔を近づけられて小さく嬌声をあげた。怖気がたつ嫌なものがナギを刺激して息が止まりそうになった。
おもわず逃げようとすぐ前にあった部屋のノブに手をかけるが、それより早く両腕を強くつかまれた。
ナギは高くあがりそうな声をグッと飲み込んだ。
亜希がビックリして飛び出してきてはこまる。たぶんまだ正気ではないだろうが、変に意識がもどって騒ぐともかぎらない。
「さっさとこっちに来い」
乱暴にひきよせられ、軽々と抱きあげられた。まるでナギの体重などまったくないに等しい。
それだけでナギは全身に毒が回ったように気が遠くなった。生物の組成元素がちがいすぎて、棘の腕に抱かれているかのような痛みなのだ。
「おい、こっちに隠れていたぞ。これで任務完了だ」
男は大股で居間にもどってゆくと、そこにいた二人の男たちに言った。
ナギの姿を見て納得したのか、男たちはうなずきあうと、そのまま来た時同じようにさっさと家をあとにする。
まるで何事もなかったかのような顔をして、家の鍵までかけているのがみえた。
なぜ彼らが、この家の鍵まで持っているのだろう。
何が起きているのだろうか。
――ソメイ様!
男の腕でグッタリとしていたナギは、意識が完全にとぎれるその刹那、ソメイの名をおもわず心のなかで呼んでいたのだった。
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