天上の蒼い灯火

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 シンはまるで求めていた問いの答えを得たように、さらにパソコンに向かうようになっていた。
 痛いような、殺気とさえ感じさせるオーラが放たれているのにも気づかないらしく、ナギはあまりの強さに同じ部屋にいるのが苦しくなってしまうほどだった。
 多分シンは気づいていないけれど、無意識に放散しているパワーが、以前の比ではなくなってきている。まだまだ日を増すごとに強くなっている。
 身体の内側に、なにか違う生き物でも飼っており、まるで制御の手綱がはずれると、襲いかかってきそうな、そんな危機感をほのかに漂わせている。
 あまりに長い時間、シンは難しい計算に没頭していたためか、疲れ果てたように床のうえに寝転がると、そのまま寝息をたてはじめてしまった。まさに限界、という感じである。
 彼もあまり眠りをとるほうではなかった。
 ナギが悪い夢にうなされたり、胸が苦しくなって目を覚ますと、かならずシンも目を覚ますか、たいていは起きていた。そんなところがソメイの姿をほうふつさせてしまい、少し切なくなってしまう。
   休息というものを必要としない人間などいないはずだが、シンはだんだん人という生命体から遠ざかっているように思われた。この世界にあって、異端者はとてもつらい人生を歩まねばならない。シンにとって、人の枠はだんだん小さいものになり始めている。
 あれからテレビから流れるニュースでは、人が誰かを傷つけたり、殺したり争ったりする事件が毎日のように続いていた。ナギがそれらを耳にしない日はなかった。
 一日の情報を確認するため、シンは習慣のようにし、数十分は何らかのニュースをみていたのだが、ナギにはその内容がとてもつらく感じられていた。聞いていたくないほどである。
 「人々が、狂ってゆくような気がするな……」
 それでも報道される話題のなかには、黒い月のことはみじんも出てこなかった。
 誰もまるで気づいていないようであり、故意に目に映さぬように、気づかぬようにしているのではないかとさえ思えてくる。
 だが、その影響は確実に、そしてだんだんはっきりと現れてきていた。
 黒い月がはっきりと姿を現しだしたことに合わせたように、事件の多さと異常性が増してきている。まるで影法師をみているようである。
 そして、地球にすらこれほど影響を及ぼしているならば、くっきりと天空に浮かび上がっていた天上界では、どんな状態になっているのだろうか。考えるだけで、ナギはいっそう不安をかきたてられてしまう。
 「ソメイ様はどうしていらっしゃるんだろう……。エンラや、ヒサギ、ハルヒたちはエネルギーがちゃんと足りてるかな、苦しんでないといいんだけど……」
 考えれば考えるほど、暗いイメージしかわかいてこない。どうしようもない苛立ちに、焦燥感ばかりがつのってくる。
 樹々たちはきっと、エネルギーの不足を補充するために、食べられたり、引き裂かれているのに違いなかった。その悲鳴が聞こえてくるようであり、自分の体までその痛みを思いだし、震えてしまう。
 「早く探し出さないといけないのに、あの黒い珠を、早くどうにかしなきゃダメなのに――。ソメイ様の闇をどうにか、早くどうにかしたいっ!」
 ナギは階段の最後の段にすわりこみ、手すりにつかまって顔をうつむけた。
 「穢那様に会いたい!会って、ソメイ様を助ける方法を聞きたい!――幽界に行く入り口さえみつけられないなんて、なんてぼくは役にたたないんだ……っ」
 クッと唇をかみしめた。
 あせりが極限にまで近づいていた。もちろん泣いてもどうにもならないこともわかっているし、どうしたって、行動するしかないこともわかっている。
 それでも、なんら手がかりさえ見出せないまま時を重ねてゆく不安は、優しすぎるナギの胸を押しつぶしそうだった。神経が疲れはてて自分が抑えられなくなる。
 「ぼくはソメイ様を助けるためだったらどんなことでもする。ソメイ様のいない世界になんて――居たくない。ソメイ様が、ほんのわずかだって幸せになるなら、こんな命、ひとかけらだっていらないのに。他に、なにもいりはしないのに、どうして……」
 ナギの涙が真珠のような粒になっておち、床をコロコロところがっていった。地下への階段を跳ねてゆき、闇の中へと消えてゆく。
 涙だけが地下にある扉のまえで淡くひかっていた。まるで灯火のようにかすかに浮かんでみえている。
 「……ソメイ様に、逢いたい」
 ずっと抑えてきた言葉がのみこみ切れず漏れでてしまった。
 口にしてしまうとそれ以上我慢できない気がして、今まで懸命にこらえていたのに。
 ノドまでたまった思いは、これ以上ほんの少しでも大きくなってしまったなら、きっとナギを窒息させてしまうだろう。思いで胸が破裂してしまい、散りぢりになって消えてしまう。
 ソメイに逢いたかった。
 優しく微笑みをうかべたあの黒い瞳がみたい。何もかもを包みこむあたたかさを肌に感じ、抱きしめられたい。
 ソメイのぬくもりをこれほど長く感じなかったことはなかった。
 いつだってソメイはナギをみつけだしてくれ、そばに置いてくれた。自分のところに居ていいのだと、腕の中にいていいのだと、不安を消してくれるかのように背をなでてくれた。
 ソメイに出会うより前は、どうやって生きてきたのかわからなかった。ソメイの存在を感じずに生きてきた時間を思い出せない。
 それほどに身も心もソメイだけで一杯に過ごしてきたのだ。
 「ソメイ様……」
 切ないつぶやきがもれた。
 地下室の扉のまえがフワリと明るくなった。
 ナギの涙の粒が溜まり、そこからくっきりとした光が放たれているのだ。
 パリンッとなにかが割れる音がした。
 錆びて軋む音がして、重い扉がひらかれてゆくのが聞こえてくる。
 ナギはフラフラと、そこへ降りていった。
 地下室の扉のまえに立つ。
 道が目の前につづいていた。地下へとまっすぐに続き、はてしない闇の世界が帳をひらき、広がっている。
 まるでナギが来るのを待っていたかのように、どんなに探しても見つからなかった入り口は、黒くおぞましい亡者の唸りをたぎらせながら、幽界へと次元をつなげてくれていた。
 狂乱の悲しみとも、肉を()む憎悪ともいえぬ、炎のごとき痛みをもった空気がうねり上がっていた。足を踏み入れようとするナギを阻止せんといわんばかりに襲いかかり、肌を灼きながら押し戻そうとする。
 間違いなかった。幽界への入り口である。
 ナギはその世界を知っていた。
 かつてシンやリノ、そしてエンラと一緒に降りていった最下層の世界である。
 あの時は、ソメイの求める歌を教えてもらうために、夢中で、穢那王を求めて飛び込んでいった。仲間がみちびきナギの手をひいてくれたし、シンがどんなときでも庇ってくれた。
 いま続いているこの道は、ナギたった一人だけで進む試練の道である。
 先のみえぬ暗闇も、内臓を溶かすような妖気も、殺気のごとくまとわりつく邪霊たちですら、ひとりで超えてゆかねばならない。
 だがそれでも、ソメイにのしかかっていたあの黒くておぞましい邪気や、生きながらに身を焼き、魂を腐らせ殺してゆくような闇よりは、ずっとマシにおもわれる。
 黒い珠を放ったとき、ナギの身をつらぬいた哀しみは、魂さえバラバラになってしまいそうな孤独と絶望だった。
 鋭い牙を胸につきたてて、己の苦しみを少しでもわかって欲しいと毒を送りこんでくる、あのおぞましさを知っていれば、それより苦しい地獄はないように思われる。
 ただひたすらナギは求めていた。
 ソメイを救う方法を。あの闇を消す手段を――。
 「穢那様、どうか、道をひらいてください。ぼくを、あなたのもとへ導いてください……お願いです」
 ナギは迷わずその世界へ踏み入れた。
 本当に前へと進んでいるのか、それとも激しい圧迫感に押し戻されているのか、それさえわからなかった。
 ただ細い道を無我夢中でたどり、刺すような熱に、もしかして肌が焼かれ溶け落ちてしまっているかもしれない、目が焼かれ、視力を失っているかもしれない、そんな恐怖が駆けめぐっていた。自分がもはやどんな恐ろしい姿になっているか、おぞましい亡者と化しているか、それすらわからない。
 呼吸をすればするほど苦しかった。
 きっと鼻やのどの粘膜も爛れ、肺は瘴気に耐えきれずボロボロになっているだろう。
 苦しいというよりも、もはや自分が何ものかも、わからなくなってくるようだった。
 魂だけが、ただひたすらに穢那に会いたいと望み、会わねばという意志をもって、ただ前に進んでいるとしか思えない。
 「ソメイ様……」
 魂の最後のひとつぶになっても、ソメイへの思いが残っているだろう。それより他には何もいらないし、持っていない。
 ――ソメイ様を助けてください。
 ナギは最後の意識のなかで祈った。
 もはや誰に祈っているのかわからなかった。それだけが自分のすべてであり、存在意義のようでもある。
 突然、闇が途切れた。
 邪悪な息を吐きながらナギの目をおおっていたそれが、フッツリと消えたのだ。
 ナギの目のまえには、真紅の業火の炎が燃え盛っていた。
 天上を突き破るように火柱をあげ、すべてを焼き尽くそうとしているかのように猛っている。
 いままで闇に目隠しをされた状態で歩き、穢那を求めていたのだと気がついた。
 女神は、もうずっとまえからここに居て、炎のなかに座っている。ナギが自分に気づくのを待っていたのだ。
 幽界に惑うすべての者が、どんな邪悪な魂であろうと、その最後のたった一人までもが救われる、瞬間まで、人々の苦しみを背負って焼かれ続けている。幽界の気高き女王である。
 「穢那様……」
 ナギは崇高な聖母の御姿(みすがた)に、自然に膝をついていた。手をあわせて、これ以上あたまを低く垂れずにはいないように身を低くした。
 慈悲の女神は、いつもは閉じている、真紅の瞳をあけていた。
 まるでわが子の帰還を待っていたかのように、愛しみあふれたまなざしでナギを迎えて、組んでいた両手をひらいた。
 「ナギ、おまえが来てくれるのをずっと待っていたよ――」
 ナギはあまりに優しすぎる声に、火の中にかけより、すがりつきたい衝動をぐっとこらえた。
 罪業ふかきものたちや、魑魅魍魎ですら敬愛している彼女の慈愛は並たいていのものではない。ナギの真実の母親のようないつくしみは、枯れた心までもを癒してくれる。
 「穢那様、やっとあなたにお会いできた……」
 「よくひとりでここへの扉をひらいたね、ナギ。その清浄極まる体でありながら、この闇に裂かれる恐怖と苦痛にもまどわず、そして、何者の誘惑にも邪魔されることなく、真っ直ぐに我がもとへきた」
 「穢那様、あなたにもう一度お尋ねしたいことがあってここまで参りました」
 穢那はうなずいた。
 彼女はこの闇と穢れの地底で、全てを見通し、全てを許している「知る者」でもあるのだ。
 「おまえの聞きたいことはすでに承知している。お前の望みもまた、しかりだ」
 このおぞましい地底から、骨身さえあますことなく焼き尽くすという紅蓮の炎にじっと耐えている贖罪の母は、ナギの心根を、すでにくみとってくれていた。
 「ソメイ様の闇――それはソメイ様の悲しみであり苦しみである」
 幽界のあらゆる動きがとまった。
 穢那の声だけが朗々と響きわたっていた。
 「創世のはるか長き時を超え、ソメイ様はたったひとりで全てを背負われていた。――世界をみつめ、あらゆる人をみつめ、終わりのない時をみつめて、この時までこられた。その長さは、とうてい()御方(おかた)の被造物たる我々には、理解できぬ。途方もない流れなのだ。だがそのあまりの時間の永きゆえに、ソメイ様はしだいに病まれていったのだ」
 「ソメイ様が病む……?」
 「そうだ。ソメイ様は少しずつたまっていった己の心の傷の膿に、もはや気づくことができなかった。流れ出る一滴一滴は、ほんとうに些少(さしょう)であり、あまりにわずか過ぎて、気にもとまらぬほどのものだったのだが、過ごされてきた時間だけが、あまりに長すぎてしまった」
 穢那もまた長い時間を過ごしてきたはずだった。だがソメイのそれにはとうてい及ばないという。
 「おのれの創った世界でありながら、あまりに力が大きすぎるゆえ、人々の流れのなかに関わることがソメイ様はお出来になられなかった。そして、それは孤独をよび、さらには人々が惑い、罪を犯してゆく、そのあさましさえ許しつづけ、愛そうと心をつくされた。――なぜなら、彼の方の怒りは、世界の破滅であり、宇宙の終わりを意味するからだ。それを望まぬ優しさゆえに、ソメイ様は怒りも悲しみも押し殺し、胸の奥に仕舞いこんでこられたのだ」
 あらゆる愚かさを(ゆる)し、人々が選ぶどんな悲しい結果にも耐え、その行く末を見守ってきた。
 いや、そのような完璧な心をもとめられて、ソメイはそうであろうと努力してきた。
 彼は自分の造った世界を愛し、また自分の手から離れ、未来を歩む人間たちの存在を慈しんでいたからだ。
 「だれよりも慈悲深くお優しい御心をおもちがゆえに、その闇もまた、影をうつすように大きかった。優しさゆえに、哀しみはその何倍も深かった。――光はね、強ければ強いほど、その影は濃くなってしまうものなのだよ」
 ナギにはその言葉が痛いほどわかった。
 ソメイのあの瞳を見たものなら、それだけで十分だろう。ソメイの孤独も哀しみも、そしてそれ以上の深い愛情も、理解してしまえる。
 「禍蝕の眠りは、その闇を忘れるための忘却の儀式だったのだ。だが、本当にそれらを忘れてしまえたのではなく、ただ忘却の泉の奥底に沈めているだけでしかなかった」
 ナギは自分の胸を押さえていた。そこにソメイの闇のひとつがある。穢那の言葉に共鳴して()いているかのようだ。
 「そして光はさらに強められた。無限とも思える孤独の時間をこえて、ソメイ様は、ナギ、おまえを得たのだからな」
 ナギは名を呼ばれ、驚いたように顔をあげた。
 「おまえを得て、ソメイ様ははじめて心からの安らぎを得られたのだよ」
 「ぼく――?」
 穢那はうなずくように目をとじる。
 「あの方を愛した者は多くいたが、ソメイ様自身が心から望まれ、みずから手を伸ばした者は、他にはいなかった。そしてまた数多の障害をのりこえて、ナギ、おまえは自分の力でソメイ様のもとへたどり着いた。ソメイ様のお心に届いた初めての者だったのだよ」
 どんなに望んでいようとも、ソメイは誰かをそばに置いたことはなかった。そばに居たいと望んだ者はいても、それを本当に成し遂げた者は、だれもいなかった。
 そうして心から愛する存在を得たとき、ソメイの孤独はおどろくほど癒されてた。
 それがどれほどの喜びであったかを、本当に理解できるものなど誰もいないであろう。魂が焼き切れるほどに渇望し求めつづけて、ようやく手に入れたのだから。
 「だが、奥底に押さえ込んでいた闇は、光に映しだされて、さらに濃く重く澱んでいってしまった」
 それこそが、ソメイを覆っていた闇の正体であり、ソメイの息の根さえ止めかねるように蠢いていた、魔の全貌であった。
 「そ、そんな――」
 「あの闇は、ソメイ様の苦しみと孤独がつくった過去の集積物だ。いや、すでに別個の命を持ったひとつの魔界となってしまったがな」
 長いながい逡巡の果てに、やっと得た安寧の時だというのに、ソメイにふりつもった闇は、ソメイだけを幸せにすることは許さなかった。
 自分ひとりだけ光の世界に行くことは許さないと、影を忘れることなど我慢できないと騒ぎはじめたのである。
 ソメイほどの力をもつ者なら、その思いも、闇も、蓄積されれば新たなる力をもち、生命体になれるのかもしれない。
 「その闇が『黒い月』だ。――私でさえ、現れ出でるまで、その存在を知ることはできなかった。それほどまでに深い闇の果ての絶望によって、星がひとつ生まれ、世界がひらかれていたのだ。このわたしの流す贖罪の血ですら、救いにならぬ、最果ての闇の世界だ」
 穢那さえ知りうることのできなかったということは、どんな穢れもどんな罪も、禍津者(まがつもの)にさえ与えられていた救すら、ない、ということである。
 救いが何一つない世界――。
 それはどんな地獄であろうか。
 「私の愛さえ届かない、残酷で悲しい世界――」
 穢那の赤い涙は、炎に焼かれて幽界を赤く黒く染めていった。幽界のなにもかもが泣いているかのように昏くざわめく。
 「だが……もしおまえが、あのソメイ様の黒い珠を消すことができたなら、あるいは最果ての闇の世界にも、救いの光がさすやもしれぬ」
 ナギの哀しみに翳っていた瞳に、かすかに明かりが戻った。
 「ぼくが、黒い珠を消せれば……?」
 「そうだ。――だがナギよ、それは、どれほどの覚悟をもって挑まねばならぬかわからぬほどに、おまえにとっては辛酸で、苦渋にみちた道となるであろうぞ。その身のすべてを差し出し与えるならば、万に一つの確率で、不可能を可能にかえることが出来るやもしれぬ」
 決して『出来る』とは言わない。何もかもが可能性でしかないのだ。
 「黒い珠は、ソメイ様の押さえこんできだ、悲しみの心が流した涙だ。涙をぬぐいさり、その身で癒すことができれば、ソメイ様の悲しみもまた癒されるであろう」
 ナギは胸元をぎゅっとつかんだ。そこにソメイのひとつの涙がやどっている。
 「ナギ、おまえが何もいらぬ、命さえ差し出すと誓ったゆえ、この幽界の扉はひらかれた。その言葉どおり、おまえはすべてを差し出し、ソメイの闇を引き受けられるのか?」
 「引き受けます」
 即答だった。
 いつも不安そうに怯えた顔をして、暗くうつむいていたあのナギとは、とても同じ人物とは思えなかった。一部の迷いもなく、強く誇り高くあるようにさえみえている。
 「きっと……ソメイ様が愛したおまえにしか、あの黒い珠の存在場所はわからぬであろう」
 「ぼくには、では、その場所がわかるのですね?」
 穢那はうなずく。
 「だがナギよ、それは本当につらいことだぞ。闇を探しだし、その体で包みこみ、無償の愛をもって消さねばならぬのだからな。―― 一度おまえはそれを無意識にしている」
 そう、木のウロから飛び出した珠の一つを、思わず抱きしめ取り込んでいた。
 「闇を己の体内に入れて、浄化してゆくのだ。けれどそれを繰りかえすたびに、おまえのなかの体の一部の機能が失われてゆくことだろう。現にいまも、呼吸がひどく苦しいのではないか?――それは肺の片方が、もはや機能を止めているからなのだぞ」
 たしかに、少し動いただけなのに息がすぐ切れていた。地球の空気の悪化だとばかり思っていたが、それだけではなかったのだ。
 肺が機能を停止したことによる負担が、身体によりひどい過重をかけていた。
 「残り四つある闇をすべて引き受ければ、さらに体のいずれかの機能が死に、負担が増してゆくだろう。もっともっと苦しくなって、地獄で這いずりまわっていることよりも、つらくなるかも知れぬ。あるいは、心臓が止まるかもしれぬ」
 機能が停止する場所が、もし心臓ならば、それは生命の終わりである。
 あの闇のもつ凄まじい痛みと苦しみをおもえば、それもありえない話ではなかった。
 だがナギはそんなことを、微塵も厭いはしない。
 「それでもぼくは、闇をぜんぶ消したいです」
 「……わが身を差しだし、ソメイ様の闇をすべて浄化できて……よしんば生き残れたとしても、おまえ自身がソメイ様に二度と会えるとはかぎらぬのだ。闇を払拭されたソメイ様は、あらゆるつらい記憶を消し、おまえのことも忘れ去っているかもしれない」
 可能性は高い。
 ナギはその言葉にだけには、わずかに長い睫毛を震わせた。自分を忘れたソメイのことを考えると、心も体も凍りついてしまいそうだ。なぜなら自分自身の存在する意味まで消えてしまうのと同じだから。
 それでも、決意はかわらなかった。
 「――ソメイ様が、それで心を癒されるのならば。幸せになられることができるのならば、かまいはしません」
 ナギはまっすぐ穢那をみた。顔は青ざめやつれてはいたが、高潔な意志をもつものだけしかもつことのできない無上の美しさがあった。見るもの全てを感動させ、心をゆさぶる至高の輝きである。
 「この四千世界を焼きつくす贖罪の炎のなかで、隠者たちの苦しみを共に背負い、焼かれ続けているあなたの存在をぼくは知っている。だからこそ、もはや何も恐れません。この身を愛する方のために差し出だせることを、誇りに思います」
 それだけしか、ソメイに愛を返し、与えることができる方法を知らない。それ以外に、できることがない。
 「ナギ……」
 穢那はナギの深い決心をみてとったように、静かにうなずいた。懊悩する赤い瞳を、ただ哀しげに揺らせているだけだった。
 女神はもはや何も言わなかった。きっと穢那にすら、ソメイを――この世界を救う方法を他に持ちえてなかったのかもしれない。
 ナギに犠牲になることを強要はできないが、深い愛情をもつナギならば、きっと断ることはないことも、彼女はその深い叡智でもって了解していた。
 それゆえの苦しみも、また彼女の業火の炎は知り、焼いているのである。
 「シンもまた、苦しんでいる」
 穢那のつぶやきに、ナギはその視線を追うようにふりかえった。
 まるで幽界の闇でさえ切り裂くようなオーラを放ち、うごめく魔性のものたちですらそばに寄ることも遮ることも許さず、シンのまっすぐ走ってくる姿がみえた。
 ただひたすらナギの身を案じ、心配するがゆえに、神のごとくに輝ける大いなる力を、無意識につかっている。
 その光はあまりにも強すぎて、人間の持ちうる限界を超えて太陽のように見えていた。まぶしいほどである。
 「ナギっ!」
 シンは光の速さでかけよると、ナギを抱きしめた。まるで他のものなど見えていないかのようであり、こんな余裕のない彼は久しぶりである。
 ナギのまわりの空気がどんどんやわらいでいった。
 焼かれていた瞳や白い肌が、水に流れるように痛みをうすめ、新たに再生されてゆくかのように癒されてゆく。
 「ナギ、おまえが扉を開いたのか?! どうして一人で来たんだ、なぜおれを呼ばないんだ。ほんとに心臓が止まりそうだったんだぞっ!」
 いきなりナギの気配がきえたので、シンはひどくビックリしてしまったのだ。
 全神経を集中させてナギの居場所をさぐり、気配をだとってここまでやって来たのである。
 どんなに計算に夢中になっていようとも、眠りについているようにみえても、シンはいつだってナギの気配をたえず気に留めていたのだった。万が一のことがないように心の一部をとばしていた。
 ――満月のあの夜のように、突然ナギが消えてしまわないように。
 置いてゆかれた悲しみが、シンにはまだ無意識下に残っているのかもしれない。大切なものが消えてしまう恐怖を、彼もまた知っている。
 「ごめん、シン――」
 ナギはシンの鼓動が飛び出しそうに早まっているのを聞きながら、彼がどれだけの思いでここまで探してきたかがわり、素直にあやまった。
 「シン……心優しき者よ。そして、心強き者よ」
 そのときようやく息をつき、シンは穢那に目をむけた。
 穢那の存在があるのはわかってはいたのに、ナギの安全を確認するまでは、どうしても他に意識がむけられなかったのだ。
 「よく来たな、シンよ」
 穢那はやわらかく笑みをむけ、そしていくぶんの尊敬をもって『シン』と呼びかけた。
 「穢那様、お久しぶりです。よもやもう一度お会いするとは思いませんでしたが、でもお会いできてよかったです。――どうしてもあなたの助力が必要でした」
 穢那はわかっているようだった。そしていくぶん眩しげにシンをみつめた。
 「おまえもまた、苦しんでいるのだね」
 「えっ?」
 声をあげたのはナギだった。
 「シン、すでにおまえが、これほどまでにソメイ様の力を有しているとは、さすがに思いもしていなかった。――いや、ナギを守りたいというその気持ちが、おまえを必要以上に変えたのかもしれぬな」
 ナギは腕にだかれたままシンの顔をみあげた。
 「ぼくのために?」
 「ソメイ様の力は比べるものがないほど、完全無欠であり、絶対的な力でもある。その畏れおおい神の御力は、決して人の体という器には受けいれきれぬのだ。――だがいま、神の力は、なぜかシンに流れこみ続けている。人の子の持たぬはずの、絶大なる力をその身に受けているのだ。――ソメイ様が眠られていることも、ひとつの要素ではあろうがな」
 いったん言葉を切り、シンとナギをみつめた。
 それから口をひらいた。
 「これ以上の猶予はならぬ。ソメイ様の力がシンを焼き尽くしてしまう前に、ソメイ様を目覚めさせねば、シンの器が壊れてしまう」
 「そ、そんなっ!」
 ナギは声を思わずあげた。そのときようやく、シンが未知の力によって苦しめられていたことを知ったのだった。
 急激な神の力の増大は、人間にとっては猛毒が流れ込んでいるに等しい。内側から無尽蔵な力に焼きつくされて壊れてしまう前に、どうにかしなくてはならない。
 そしてそのことに気づいていたシンは、自分の体の変化をどうにか隠そうとしていた。
 ナギに気づかれないうちに、驚くべきスピードで増大する力と、身体にそぐわぬ不均衡なエネルギーを、どうにかしようとその方法を探っていたのである。
 遅くまでパソコンに向かっていたのは、そのためでもあった。
 「シン――何も気づかずに、自分のことばかりで、甘えてて……ごめん」
 「なにもナギがあやまるようなことはないんだ。おれは別段、痛くも苦しくもないんだからな。ただ、力の制御が難しいだけだ」
 余計なことまで言わなくてもいいと穢那を一瞥すると、心配のあまりかすかに震えてすがりついているナギの頬を優しくなでた。
 「大丈夫だナギ。おまえは何も心配することはない。それよりも穢那様に聞きたいことはちゃんと聞けたのか?話はできたか?」
 自分では消せないマグマがたぎるような熱を、シンはだまって体にひそませやり過ごしている。精神力と忍耐力、そしてそのことを表情ひとつ出さずに平然としてみせる意志の強さは、まさに常人のものではないだろう。
 「シン、おまえもつらない」
 穢那のつぶやくような言葉に、シンは目をみひらいた。
 ナギをだきしめるその腕の悲しさと、熱い思いの空虚さをみてとった穢那の言葉の意味を、彼は正確につかんだのだ。
 ――ナギをどれほど深く愛していても、ナギの心はシンにはない。
 彼の思いはどこまで行っても、行き着く場所はない。受け止めてくれる誰かはいない。
 心が優しくて強いだけ、深く痛くしずかにシンを傷つけている。
 「だが、おまえは本当に強い。強さというものを知っている。愛するものを迎えに天上にまで自力で登り、そしてまた、ソメイ様と戦うことさえ辞さなかった唯一の者でもある」
 シンは黙っていた。
 そんなことはシンにはもはや何一つ関係なかった。
 願いはただ一つ。シンはナギに幸せになってもらいたい、ナギの笑顔を見ていたい、それだけなのだ。
 奇しくもその思いは、ナギのソメイに対する思いとまったく同じであった。
 「さあおまえたち、これ以上この地にいてはならぬぞ。この業火の炎に、長く焼かれてはならぬ。これは清めの炎。一切のものを焼き尽くし、消し去ってしまう浄化の(ほむら)なのだからな」
 天界樹であるナギのとっては、もはや限界をすぎていた。
 もし全身を守っている玉石の青い守護膜がなければ、とっくに命は焼きつくされているであろう。
 シンはうなずくと、ナギを抱きあげた。
 自分のシールドで包みこんでしまう。この地に降りてから、さらにシンの力は強まったかのようである。
 「穢那様、あなたのその長き旅が、一時でも早く終わるよう祈っています」
 シンが言った。
 あまり感情のこもらぬ短い言葉であるけれど、シンの秘めた思いを理解し、いたわりの言葉をくれた穢那への、最大の礼でもあった。
 「穢那様、ありがとうござました。必ずや、やりとげてみせます」
 ナギの言葉に穢那がうなずいた。
 だがその声はほとんど出ていなかった。ただ意思だけは穢那にははっきりと伝わっている。ノドまでやられてしまっていたのだ。
 意識がどんどん薄くなっていくのを、どうしてもとめられなかった。
 シンの手に抱きしめられたことで、緊張につぐ緊張で、極限まできていた神経のタガがはずれてしまったのかもしれない。
 「愛しいわが子たちよ、己の信じる道をまっすぐに突き進んでゆくがよい」
 シンは穢那の声を背後にききながら走りだしていた。ナギを幽界から早くださなければならない。
 「シン、この深遠たる幽界への入り口を、おまえたちいる地上の世界へと導き開いた者がいる。本来ならば、地球とこの世界の入り口はリンクすることなど決してないのだからな。――おまえの身近な者に気をつけるがよい」
 シンはナギを抱きしめていた腕に力をこめた。
 すぐにハッと気づき、緩められた。気をつけねばナギを傷つけてしまうかもしれない。
 だが穢那の言わんとしていることは伝わっていた。
 「ありがとうございます」
 短くそうつぶやくと、まるでなんの未練もないように、幽界の闇を切裂き走り抜けていった。
 穢那は切なく、愛しそうに後姿をいつまでもみつめ続けていた。




 地上にもどり、扉を閉じたその途端、むこう側の世界がすっぽりと消えてしまった。
 まるで二人を吐き出したことで、最後の仕事を終えたようだった。
 伝わってきていた質量が途絶えた。すでに普通の地下室にもどっており、扉のむこうはただの物置となっている。
 何度も時限のちがうこの地上と入り口をつないだために、この場における時空の変動率が、異様に高められてしまい、臨界値を超えてしまったのだ。
 幽界という本来、陽光のさす世界と交わりをもたぬ闇の世界は、この場から永久に去ってしまった。穢那にまたふたたび逢える可能性はゼロより低い。
 消えてから、やっと何かの特殊な力をもって捻じ曲げられ、無理やりつなぎとめられていたのだと、気づいた。
 そんなことが出来るほどの力となると、計り知れぬ存在が関与していることがわかる。だがそれが何のために、誰が、どのようにしてこの場につないだのかは、さすがに見えてこない。
 シンはほとんど揺らさないようにしてナギを部屋に運んでいった。
 グッタリしており、わずかに意識をとりもどしかけていたナギは、部屋に帰ったことで安心したのか、そのまま眠るようにまた気を失ってしまった。
 見えない無数の傷を負っている小さな体にシンは手おくと、掌からでる光をあてながら、治癒していった。自分の中に濃縮されているエナジーを、そっと唇をおしあてて流し込み、内側の穢れと傷を消し去ってゆく。
 「ナギ……」
 愛しい者の名をよんだ。
 愛しくて愛しくて、胸が張り裂けてしまいそうなほど切なく、なによりも大切な存在だった。
 ナギさえいれば何もいらなかったし、ナギだけがいてくれれば、なにも望まなかった。なのに、その心はあまりにも遠いところに行ってしまった。
 だがそれもまた、言っても仕方ないことである。
 「穢那様の幽界を、確かにこの家につなぎとめていた者がいる」
 彼女の最後の言葉を思いだしていた。
 ずっと心の片隅で、シンもまた思っていたことでもあった。
 なぜこの家なのか。なぜ自分のいるここに開かれていたのか。
 シンの目が鈍く光る。
 「不確定要素の二番目。――神名圭吾、おれの親父だ」
 彼以外の、だれが他に考えられるであろうか。
 この不必要ともおもわれる巨大な洋館を、どうして彼は手離さない。
 たいした手入をしたこともなく、ただ住居と銘打っているだけで本人は寄り付きもしないではないか。
 まるでシンを飼うためだけに作られた、牢獄のようである。
 「おれは、ヤツにとって、何の必要性があるんだ?」
 血縁関係があるという存在を、単に求めているとは思われない。
 それならば、莉野が嫁にいくときに、あれほどあっさり承諾するはずはない。
 「あの時、ヤツは何しに帰ってきたんだ?ナギがこちらの世界に来たとたん、まるですべてを知っていて、はかったかのようにやってきたじゃないか」
 仕事の鬼であり、何もかも仕事を優先させ、家庭のことなど二の次にしてきた男だった。わずらわしい係累のことは秘書にまかせきりであり、仕事だけが命のように時間をそそぎこんでいる。
 「まるで仕事のために生きているみたいな(ヤツ)だからな――」
 嘲るようにいいながら、シンはふと首をかたむけた。
 「仕事のためだけに……そうだ、仕事だっ!」
 圭吾の行動はいつもそれが第一であったはずだ。まるでそれだけの為に全てがあるとばかりに動いていた。
 そこまで考えてシンは呆然とした。
 会社の名前こそ知れ、圭吾がどんなことをしているか、どんな内容の仕事に携わっているか、まったく知らないのだ。
 「どんな仕事をしているんだ。なぜおれは、そんなことも知らずに生きてきたんだ」
 興味がなかったとはいえ、だとしても、十八年間生きてきて、家庭を顧みず仕事にのめり込んでいる父親の、その内容すら微塵も知らないとは、あまりにも不自然ではないか。
 そんなことなど、今まで頭に一片も今までのぼりはしなかった。
 まるで誰かの手によって意図的に忘れさせられていたかのようではないか。
 シンはパソコンの前にすわった。
 父親の会社の名前を打ち込んだ。
 『神名ジオリサーチ株式会社』
 出てきたのはひとつの会社のホームページであり、簡単な仕事内容の説明をしているものである。
 会社はどうやら一つでも、色々な部門にわかれており、地質・測量部門、建設経営コンサルタント部門、研究機材販売部門、その他十三ほどの名前がある。
 おもにしている事といえば、地質の解析技術の提供をメインとしているらしく、それにともなう地盤の強度をはかったり、汚染の度合いや、整備技術の指導、そのための機材を販売しているようであった。
 そのなかで『アース再生プロジェクトの推進・協力』という項に目がとまった。
 「なんだ、これ?」
 クリックしてみると、たいした内容ではなかった。
 地球に緑を取り戻しましょう、だとか、森林の再生に協力しています、などの企業イメージを上げる内容ばかりである。
 だが『政府公認』、という文字に引っかかった。
 「お役人と結びついているのか?」
 シンはこの『アース再生プロジェクト』の内容がなぜか気になった。
 あの圭吾が、意味もなくこんなことに手をかすはずがない気がする。まるで「善意からほぼ無償で技術提供しています」という姿勢からしておかしく感じるし、うそ臭い。
 利益のためにしている、自分の目的のためにしている、というほうがよっぽどあの男なら納得できる。
 シンは高速にデータ入力をはじめた。
 しばらくすると、驚くような情報があらわれはじめてきたではないか。
 各国の主だった大学や、会社の名前がうかびあがっていた。
 各専門分野の名だたる教授や助教授たちが、こぞってそれに関わっているようであり、その幅広さには目をみはるものがある。
 地質学、水質学、気候学、自然科学に、物理学や天文学、機械工学や生体学系、また心理学や医学に生理学などと、その他ありとあらゆる研究者が名をつらねていた。
 その研究データをのぞこうとしたが、どうやら非常に大掛かりなセキュリティーを敷いているようであり、スーパーコンピューターの侵入のほうが簡単なのではないかと思われるくらいに細かく管理されている。
 厳重のうえにも厳重をかさね、最後には、声紋や指紋のパスワードすら必要としているのである。
 ということは限られた者しか許されていない、ということであり、それだけ見る価値があるということになる。
 今読んでいるそれらの情報は、もちろんシンが無断で侵入し勝手に閲覧しているものだった。日ごろのハッカー技術をもってしても、かなり難しい。
 しばらくその難解なセキュリティーをいじっていたかとおもうと、やっと複雑にからまったヒモを解いて顔をのぞかせてきたのは、なんと驚くことに、中央政府そのものではないか。
 さすがに国家の中枢だけあって、並みのハッカーなど足元も及ばぬ、シンでさえ手をやくほどの徹底したセキュリティーが組まれていた。
 わずかでも外部からの接触があれば、みずからパスワードを変えるという恐るべき機能を備えており、またどんな小さな情報でも、すぐに管理システムに通報されるようになっているのだ。
 そのうえで、さらに何十にもパスワードがしかれていた。
 何度も何度もためされ、ようやく許された者だけが、その重くて分厚い扉のむこうにゆけるのである。それほどまでにして極秘にすすめている国家の最高機密とは、一体何なのであろうか。
 そこまでくると、さすがに手をやいていた。一筋縄ではいかない。
 だが、それでも一つだけわかったことがあった。
 そのどれにも、父、圭吾が関わっているということである。脳をめぐる膨大な情報量のなかには、彼の顔がつねにうっすらと見え隠れしているのだ。
 「何をしているんだ、あの男は……」
 言い知れぬ不安がつのってくる。
 大きくため息をつき、酷使しすぎて熱をもった頭をどうにか鎮めようとして、シンは目をつぶった。
しばらく意識を閉ざしたのだった。




 シンがナギのことに気づかぬくらいに没頭しているのを見るのは、ここにきて初めてのことだった。いつも夢中あるようにみえて、目の端につねにナギの存在をおき、身の安全を気づかっていたのだが、その余裕すらなくなっているようだった。
 どのくらいそうしていたのだろうか、最後には、とうとうイスに座ったまま眠りはじめてしまった。不自然な格好で寝ると、よけい疲れるのではと思うのに、それすら気にならないほどシンは疲れ果てているらしい。
 ナギはその後姿をみながら、穢那の言葉を思い出していた。
 ――シンも苦しんでいる。
 ソメイが眠ってしまったせいで、抑えられていたはずの巨大な力がシンへ流れ出しているのではないだろうか。
 もともとソメイの記憶を封印する者としての『鍵』という存在だった。鍵はソメイの一番大切な部分でもあり、またソメイの一部であり、ソメイ自身でもある。
 本体のソメイが眠りにつき、力を抑えることができなくなったのなら、一番近いシンに流れていって不思議ではない。そのことに気づきもしなかったことが恥ずかしい。
 シンはわずかもそんな様子をみせなかったばかりでなく、いつもナギを気づかってくれていた。不安や刺激をできるだけ少なくしようと、心を細やかに配ってくれていたのだ。
 いつも後になって思う。
 自分は本当になにも見えていないのだと。一生懸命であればあるほど、まわりのことが見えなくなってしまうのだと。
 気づいたときには、その人の優しさにスッポリと包まれていて、どれほど深い愛情に守れていたかわからなくなるくらい、しっかりと強い腕に抱きしめられている。
 だから足りなかったり、傷つけていたりすることが、見えなくなってしまっているようで、とても怖くなってしまう。
 体がつらいのも嘘ではなかったが、それ以上に、誰かがつらい思いをしているほうが、よけいにつらく感じられる。
 もともと天上界でも、さらに極上のエネルギーを身に宿していたナギは、心も体も思考も、あまりにも繊細すぎていた。ことに人の心を感じすぎるぐらいに感じとってしまい、自分までが傷ついてしまう。
 エナジーの結晶のような樹は、存在自体が宝石といってもいいほどであり、淡くはかない夢のごとき存在は、わずかな歪みさえ心身にひびかせる。
 この地上のエネルギーは、天上界にくらべても、あまりにも質が低すぎていた。量も粗雑で少なく、ナギにはとうてい足りない。
 それでもシンが買ってきてくれる花束が、どうにかナギを潤してくれていた。
 花たちが、自らの命をすべて惜しみもせずにすべて与えてくれている。もし彼らの喜捨の心がなければ、ナギはとっくにエネルギー切れを起こし、いまごろ起き上がることもできなくなっていただろう。
 シンはいつも花を抱えきれないほど買ってきてくれた。ナギのことを本当に心配してくれて、できる限りのことをしようとしてくるのが痛いほどわかった。
 その花の多さから考えただけでも、どれほど高価なものかしれない。それでも彼は、ナギにこんな花束なら、一年や二年くらいは十分かってやれるぐらいの貯金はあるのだと笑っていた。そしてそれがまんざら嘘ではないのだということも、わかる。
 ナギと別れてからのシンは、一体どんな生活をしていただろう。
 あれほど世間を厭い、遠ざかっていた彼からはとても想像もつかない。
 そばで見ているだけでも、パソコンをあやつっているレベルは、普通の少年のものではなかった。ましてその内容は、言うに及ばずだった。
 ぼんやり眠っているシンの背中をみていたナギは、すぐそばに、たたずんでいる少女の幻影がいることに気がついた。
 淡くフワフワと波打つ巻き毛をした、人形かと思われるほどに愛らしい横顔がシンをじっとみつめている。
 ナギは胸が熱くなる思いがした。その少女の幻をみているだけで、たまらない感情がかけめぐってくる。
 優しい面立ちなのに、その大きな瞳は感情をはっきり映しだす鏡のように艶やかであり、濡れたように真っ黒なそれは、誰かを思いだすようだ。
 あまりにも自然体でシンによりそっていた。それだけなのに何ものにも邪魔をさせない、女王の貫禄すらあるようにみえてくる。
 少女は心から愛しそうにシンをみつめていた。ナギに振り返ったと思ったその瞬間、笑みを残して消えてしまった。
 何度かまばたきをしてみたが、やはりそこには何もいない。
 さっきまで、はっきりと顔をみたような気がしたのに、思い出そうとすると、すべてがまるで霧にでも包まれたかのように、頭のなかでかすんでしまう。
 いま覚えているのは、シンをただ見ていたということだけ。
 ナギはかぶりを振った。
 ――疲れすぎたのかもしれない。
 つぶやきながら立ちあがり、そっと毛布をシンにかけた。
 こんな風に熟睡するシンをみていると、ちょっとだけ安心する。だんだん人間離れをしていくようで、少し怖くなるときがある。
 いつもはきつくて怜悧な印象ばかりをあたえがちなシンだが、目をつぶると、こんなにも優しくて、柔らかい顔立ちをしていた。鼻梁もたかく、二重に刻まれた目は、ひらくと意思の強い、くっきりとしたアーモンド形をしている。
 頬のラインはすでに少年から青年の引き締まったものにかわっていた。隙のない印象で、どちらかといえば精悍な雰囲気すら漂わせている。
 ナギだけをじっと見つめるあの瞳だけが、少しも変わっていない。
 宇宙のような黒い瞳――。
 ソメイとまったく同じ色。
 「ナギ」
 手を柔らかく握られた。
 切れ長な瞳がみひらかれ、迷いなくナギをうつしだした。
 ナギはふと目がまわるような気がした。いきなり宇宙になげだされた錯覚がして、力がぬけてしまいそうになってしまう。
 「手が冷えているぞ。エネルギーが不足しているんだろう」
 シンは立ちあがると毛布がすべりおちるのにもかまわず、ナギの手を引いてふわりと抱き寄せた。
 ナギの体がほんのり温まるのを確認すると、すぐそばにあったすこし大き目の薄手のパーカーを羽織らせた。
 さらにサイドテーブルにおいてあったサマーウールの帽子をすっぽり頭にかぶせると、すぐに自分も上着をはおる。
 思いついたように机の上にあった眼鏡をナギにかけた。
 「どっかいくの?」
 背伸びをしながら、いつものようにはっきりとした顔つきで笑った。
 「ああ、学校に行ってみようと思ってな」
 「――学校?! 何か忘れ物でもあるの?」
 学校という言葉に、とても意外だといわんばかりの顔をしたナギを、シンは意地悪くニヤリとした。
 「あと一週間ほど試験休みだからさ、学校にほとんど人はいないんだよ。あそこの裏山でなら、ナギのエネルギー補給ができると思って」
 「あっ……」
 ナギの体がどうすれば楽になるか、シンはずっと考えてくれていたのだ。
 花を買いに外に出たついでに、学校の裏山がどんな具合であるかを偵察してきていたのであろう。
 この辺では一番ノンビリしていても安全であり、ナギのエネルギー不足をいくらかでも解消できるとふんだらしい。
 「今なら部活をしているヤツくらいしかいないからな。裏山の方だと特殊校舎ばっかりだからもっと人気はないはずだ。それに不審者は立ち入れないからな、他所にいくよりずっと安全だ」
 不審者をみかけたら、警備員に一応止められ、尋問されるのが決まりである。一般人が出入りする公園よりはずっといい。
 「このあたりだと、あそこの空気が一番穢れてなかったよ」
 農薬もほぼ使っていなかった。学校側が手を抜いているだけなのだが、そのほうが好都合だ。自然が息吹を多くふくみ、ナギの体を癒すだけの純度の高いエナジーを放っているはずである。
 「そんなことまで気にしてくれてたんだね、ありがとう、」
 「たまにはナギも外にでたほうがいいだろう。気分転換も必要だからな。といっても、おまえのその容貌はちょっとヤバいんだよな。――こう綺麗すぎちゃ人目をひきすぎる」
 「綺麗……?」
 冗談を言っているのだと思いナギは笑った。
 それでも、自分がすでにこの地上のおいて、どれほど異質な存在になってしまっているかは、多少なりともわかっている。それが奇異にうつり、人目をひいてしまうのかもしれない。
 シンはそのまま何も言わず、ナギの手をひいて部屋をでていった。
 はじめてナギを連れて外の世界に出たのだった。




 学校に行きつく途中、なんどかナギは息が切れていた。
 いくら地上の空気に慣れたとはいえ、シンの結界にまもられた空間と、なにもない外とではかなり空気の組成が異なっていた。
 シンが手をにぎってくれていたので、それだけでもずいぶんと違ってはいるのだが、人の発する想念の重さが、よけいな負担になっているのだ。
 ナギが苦しそうになるのに合わせ、気づかうような優しいエナジーがナギにつよく流れこんできた。そのうち、すべてをすっぽりと包みこんでしまい、重かった肺が楽になってゆくのがわかる。
 ナギは帽子で目の上までおおい、淡い色の髪の毛もほとんど隠されていた。
 眼鏡も光を反射して、茶色くひかる輝石のような瞳を完全にさらすことはなかった。またパーカーもあごのラインを隠すように首もとまでしめられており、顔も肌もあまりみえることがなかった。
 なのに、どこをどうして漏れるのか、ナギのもつ美しさは、どうしても隠し切れないようであった。チラチラと視線がなげかけられているのである。
 小柄で可愛い彼女と、それを気づかう優しい青年。ほほえましいカップルのように人目には映っているのだろう。どんなに汚してみても、本物がもつ輝きは隠せないのかもしれない。
 もちろんシンのほうにも人目をひく要素は十分あった。
 常人とは異なるほど強くてまぶしいようなオーラが湧き立ち、それも以前よりずいぶん大きくなっている。あたかも小さな太陽のようですらあり、不用意に近づいてしまうと、その光の大きさに飲み込まれてしまいそうである。
 できるだけ人通りの少ない道をえらび、どうにか二人は校門をくぐり抜けることができた。閑散とした校舎のあいだを通りぬけながら、誰にも会わずに目的の裏山にたどりつく。
 ゆるやかになった斜面からは、遠目にグラウンドがみえていた。そこでは陸上部と野球部の部員たちが、なんら意欲もなさそうにブラブラしており、端のほうではテニス部がボールを軽く打ちあっていた。
 その数も決して多くはなかった。暑さをしのぎながら、時間をつぶしているだけのようだ。空気に含まれるエネルギーの低下は、体調ややる気まで人から奪っているのかもしれない。
 人気の少ない裏山は、もちろんナギたちより他は、誰もいなかった。
 緑の気配がみちたそこが、まるで空間を閉じるように受け入れてくれていた。歓迎するかのような息吹を感じながら、ナギはようやく息をついた。
 「体はつらくないかナギ」
 「うん、平気だよ。ありがとうシン」
 ナギは息がととのうと、どこか懐かしいような面映ゆいような表情をうかべて、学校という独特の社会だけがもつ風景をながめていた。
 「あのころってさ、学校って大嫌いだったけど、こうしてみると、なんだか特殊な雰囲気があるよね。匂いが他とは違うっていうか、もっている存在感が異質っていうか」
 「そうだな。同じ年ごろの人間を押し込めて、いっせいに何かをさせようって言うんだから、閉鎖的ではあるだろうな。――それが面白ことだとは、とうてい思えないけどさ」
 シンの言いように、相変わらずだとコロコロ笑った。
 普通の生活とはあまりにちがっていた今までを思うと、ここに自分がいることのほうが、ナギにはとても奇妙なように思われた。
 実際に生きてきた時間は、地上のほうがはるかに長いというのに、ナギにはソメイといた天上界での生活のほうが、当たり前になっている。
 「でもこの山すごいね。シンの言うとおりだ。家の庭とはやっぱり全然ちがうよ」
 ナギはさらに少しだけ坂をのぼり、樹齢八十年は越しているだろう大きな樹の幹の根元に座った。シンが上着をぬいで敷いている。
 隠し切れない疲れをにじました顔から、覆っている帽子と眼鏡をとってやる。
 風がながれて、ナギを撫でていった。
 青臭い匂いが心地よくて、さやぐ葉擦れの音がなんと甘く感じることだろう。
 「気持ちいいね。ホッとするよ。……ここって、地脈が流れている近くだよね。植物たちがまだ心を閉ざしてないもの」
 「植物の心?」
 「そうだよ。植物だってちゃんと心があるんだよ。あまりにも人間が好き勝手をしてると怒ってしまうけどね」
 空気や水、土を自分勝手に汚した人間たちが、その後始末をさせるかのようにして植物をうえることがある。黙って浄化をしてくれている彼らを放置し、枯れるに任せて、またそれを引き抜き、植える。
 そんなふうにして、まるで道具のようにあつかい、命ある等しい生き物だということを忘れ、自分のことばかり考えていると、時に痛いしっぺ返しを食らわされる。
 わずかな雨で地すべりがおこり、水があふれて氾濫し、また必要なときに雨がふらず、水が足りなくなる。花粉によって生体反応をくるわせたり、今まで防いでくれていた未知のウイルスを野放しにして、人間だけでなく、動物たちまで病気にし、そのことによってさらに人間をも病ませてしまう。
 人間が手を加えた自然はあらゆるものに影響を与え、生態系を狂わせて、大地さえ弱らせてしまう。
 また見栄えのためだけにその土地にあわない植物をうえたり、農薬や除草剤をあびせ、粗末にし、自分の都合で切ったり折ったりして、利用するだけ利用し無茶を繰り返していると、植物のほうが人間に愛想をつかして、心をとざしてしまうのだ。
「心を閉ざした植物は、エネルギーなんて絶対にくれないんだよ。かえって人間から吸い取っちゃうくらいだからね」
 植物はたいてい、あるがままの環境を享受して、その自然な姿で生きている。
 一番親しくなれる寛大な存在でもあるというのに、それでも彼らに心を閉ざされてしまったならば、大地に拒否されたも同じことであり、人間はその地では決して生きてはゆかれない。
 ナギは植物から注がれるエネルギーにうっとりとしながら、傷んでいた体をやすめていた。
 光の粒がナギに集まっていた。
 まるで虹色の雨がやわらかくナギを濡らしているようにみえ、あまりにも幻想的な光景に、いつしか天上界に迷い込み、天使の羽化を見ているような気さえしてくる。
 「ナギ、水をくんでくるよ。ちょっとここで待ってて」
 「うん」
 ナギの白かった頬が、すこし桜色なっていた。みずみずしくて愛らしく、産まれたばかりの赤子のようである。
 シンの足音が遠ざかるのを聞きながら、ナギは緑たちと一体化していった。
 地上にすまう彼らが、もともと含有しているエネルギー量は、たいして多くはないけれど、ナギに差し出してくれる心のぶんだけでも、質がかなり違ってくる。
 奪うのと、与えられるのとでは、内容がちがうのだ。人はそれがわからずに、目に見える世界だけで計算し、後のことも考えもしないで奪い去ってゆく。
 ナギはふと何かに呼ばれているような気がして、目をあけた。
 意識を自然と同化しすぎて、感覚が鋭くなりすぎているのかもしれない。
 なんとなく目をやった先には、古びた校舎が並んでいた。
 建て替えのチャンスを何度も逃し、まるで大正か昭和初期の映画に出てくるような、ふるびた教室ばかりである。
 床も教壇も板張りで、かなり年季と傷が入っていた。どうやら特殊教室の棟であるらしく、ここから一番よくみえるそこは、美術室だとわかる。
 よくみかけるミケランジェロの模造品である白い彫刻が、隅の棚におかれていた。木の机だが、製図台のように縦に持ち上がるようになっていて、あちこちに筆洗が置かれている。何枚かの絵が壁にそのまま置きっぱなしにされていた。
 ナギはふらりと立ちあがった。
 それでも帽子だけはかぶると、ゆっくりその教室に近づいていった。
 割れて草がのぞいているセメント敷きのテラスのほうから覗き込むと、どうやら金属の引戸には鍵がかかっておらず、そのまま教室に入れるようであった。
 ナギは手が痛くなるような重さでゆっくりと扉を横に開いてゆく。いたって物騒な気もするが、取っていっても価値があるものは、なにもないのかもしれない。
 顔をのぞきこませた。染みるような空気が漂っていた。
 油絵の具独特の臭いが充満しており、ペインティングオイルと筆のクリーナーの油が混じった、鼻の粘膜をツンと刺激臭がしている。
 こげ茶色の木製のイーゼルには、一枚の絵が掛けられていた。
 不意にナギの視界に飛び込んできた。
 ゆっくり近づいていってみると、一見なにを意味しているかわからないような抽象的な絵が描かれていた。
 青を基調にしていながら、多彩な色がのせられ、丸や三角、そして星が流れるような直線がのびのびと描かれている。
 ナギはその絵の前でたちすくんでしまった。
 魂ごと魅入られたかのようだった。
 天上界がそこにはあったのだ。
 いや、その絵を通して、天上界の様子が浮かびあがり、みえてきたのである。
 赤い皮膜につつまれて眠るソメイがいて、そのそばにエンラがすわり、時折その部屋に顔をのぞかせているのは、ヒサギであったり、ルアナやカルナであったりしていた。マリアナがナギの格好をしたエンラにつらくあたっているのまでみえきている。
 そして樹たちが、震えるように物見の塔を見上げていた。
 彼らはソメイが目覚めることを、ナギがどうにかしてくれることを、祈るように待っていた。
 ナギは声が出なかった。
 胸がかきむしられるように痛み、そしてソメイの姿がはっきりと目の前に浮かびあがったその時、光量がいや増した。
 もっとみたい――。
 もっともっとソメイ様の顔が見たい。ソメイの様子を知りたい。
 思わず帽子をとって顔を近づけた。そうっと手を伸ばしかけた時、ガラリと扉のひらかれる音がした。
 ナギはハッとしたように我にもどった。
 光はどこにもなくなっていた。
 静かでガランとした教室の世界だけがよこたわり、目の前にあるのは、やっぱりただの抽象的な青い絵だけだ。
 振り返ると、驚いたようにナギを見ているセーラー服の少女が立っていた。
 長く黒い絹糸のような髪を耳の後ろで二つにわけてくくり、どちらかと言うとおとなしめの顔立ちをしている。
 誰かがいるとは思っていなかったようであり、缶ジュースを手にしたまま、入口でナギを呆然として見ていた。
 しばらくしてから、怪訝そうな、けれど思いのほかしっかりとした声がした。
 「私の絵が、どうかしましたか?」
 「あ……これ、君の絵、なの?」
 ナギは絵と少女を見比べた。
 この天上界を浮かび上がらせるほどの摩訶不思議な絵を、この少女が描いたというのか。
 一見なんでもない、単調な線と点の絵ではあるが、宇宙の法則と、その音に含まれる韻をちゃんと正確に踏んでいる。まるで扉をひらく魔法を知っている賢者か、あるいは訪れを許された、聖なる乙女の手による物のようではないか。
 二人は静かにみつめあった。
 いやな空気ではなかった。
 「ナギ、こんな所で何をしているんだ」
 シンの声がした。
 ふりむくと、外の扉が開かれすでに入ってきていた。水を持って帰ってきたシンは、ナギがいなくなったのにすぐに気づき、探していたのだ。
 「あっ――」
 少女のほうが小さく驚嘆の声をもらした。
 どうやらシンを知っているらしい様子である。かたまった表情がはっきりそうものがたり、心なしか顔が赤らんでいるではないか。
 シンは何者かとはかるようにみつめながら、すぐに彼女のなかに害意がないのをみてとったらしく、鋭い表情をゆるめた。
 ナギのぞばにまわりこむと、不自然にならない程度に視界から隠し、腕をまわす。
 「ナギ、こんな所へどうしたんだ。びっくりするじゃないか」
 「あ、うんごめんね。でもあのさ――」
 「も、もしかして神名先輩と……ナギ――篠田、さん?」
 「えっ」
 ナギとシンが同時に顔をむけた。思わず視線が強まった。
 なぜナギの名を知っているのだ。
 しかもこの学校に「篠田和」はすでにいるはず。なのに、この姿のナギをみて、在りし日の名を呼ぶではないか。
 少女はシンのあまりの怖い顔にサッと青ざめていた。小刻みに指先がふるえているのがわかる。
 「シン、大丈夫だよ。彼女は大丈夫だから」
 ナギがシンの腕をひっぱり声をかけると、シンも少女の様子に気づいたらしく、表情をふたたびゆるめた。まさかここでナギの名前を呼ばれるとは、思いもしなかったので、つい威嚇してしまったらしい。
 下級生の女の子を怖がらせたことにバツの悪さを感じたのか、顔をわずかにしかめ逸らせた。
 「ごめんね、勝手に入りこんじゃって。――でも、どうしてその名を知っているの?シンのことも知っているんだよね?」
 ナギが柔らかく笑うと、まるで光が放たれるように空気がやわらいだ。教室自体に明かりがともったようである。
 少女はボウッと見とれたようにナギをみつめ、多少間抜け顔になっていたことに気づきうつむいた。
 無意識に近い動作でうなずいたのは、たぶんナギの笑みがあまりに優しかったので、素直な反応をしてしまったからだろう。
 きっとそんなふうに尋ねられたら、どんな凶悪犯人でも、口を割らずにはいない。隠し事など出来ない気がする。
 「シン――神名先輩のことも、篠田、さんのことも……小学校の時から知ってました。ずっと、同じ学校だったから」
 「同じ学校?」
 シンがつぶやく。
 ありえない話ではなかった。
 学校にかよう人数はけっこう多いのだが、幼稚園から何事もなければそのまま同じ学校に進めるシステムになっている。それを知って、この学校の幼稚園に入れたがる親も多くいるらしい。
 「神名先輩が……中学校の時、あまり来なくなってしまって、それからいつのまにか篠田さんの姿も見なくなって……。ある日気がつくと、だれも篠田さんことを知らないって言い出したて……すごくビックリしたから。だから覚えてるんです」
 ナギとシンは目を見合わせた。
 ナギが天上界から一度だけ、こちらの世界に戻ったことがあった。あの時には、ナギの存在はすでに消えていたはずだった。
 知るすべての人間から、ナギに関するあらゆる記憶が抹消されていたのではないのか。
 「あのとき、誰に聞いてもそんな人いないって言われて……。おまえの空想だって……。でも私、ずっと二人のこと見てたんです。ずっと二人に憧れていたから、どうしても自分の記憶が夢だなんて思えなくて、心に残ってたんです」
 自分だけが覚えているナギの存在を、彼女はいつしか口にしなくなった。
 変な目でみられるのがオチであり、時には自分がシンのそばに行きたい、そばに居たいという思いが過ぎて、妄想しているのだと嘲笑された。それがいやで、無理やり記憶から消し去っていたのだ。
 「ぼくたちを、見ていたの?」
 ナギの問いにうなずいてみせた。
 「二人でいるときの空気がすごく優しくて、すごくうらやましくって……。私もそんな人がいればいいのになぁって、二人のなかに入ってみたい、そばに行って話しをしてみたいって。あの特別な空気に、憧れてたんです」
 何を思い出したのか、甘く、そして切ない顔をした。
 その表情をナギはよく知っていた。『樹』たちのもつ、透明な悲しみに耐える顔そのものではないか。
 「高校に入って、そしたらシン先輩がいるってわかって驚いたんです。そしたらナギさんの名前もあったから、さらにビックリして」
 本当はずっとそう呼んでいたのだろう、呼び名が変わっていた。
 少女の心の中では、ナギとシンがお互いに呼び合っていたその名が、強くインプットされているのだ。
 「今日はなんとなく描きかけの絵が気になって、久しぶりに登校してみたら……そしたら本物のナギさんが私の絵の前にいて、ビックリして――」
 「ああ、それであんなに驚いた顔をしたんだね」
 ナギは少女の絵を見ながら言った。
 シンはじっと少女をみていた。その頭の中では、ものすごい情報量が飛び交っているにちがいない。
 「なんで、あんただけがナギのことを覚えていたんだろうな。何かの特別な力の作用が働いているのか――?」
 ずっと憧れていたシンに――時間があればいつもこっそりと見ていた彼に、真正面から真剣にみつめられて、少女の赤い顔がさらに赤くなってしまった。そのうち湯で上げられたタコのようにのぼせてしまうのではないか。
 「そういえば、きみの名前はなんていうの?」
 ナギが問うのに、少女は酩酊したかのようにフラフラしたまま近寄ってきた。
 「沢村亜希。二年の沢村亜希です」
 「この絵、すごいね。ものすごいエネルギーを放っているよ。だからついぼくも吸い寄せられてしまったんだ。……もしかして君とぼくたちを引き会わせてくれようとしたのかもしれないね」
 この天上界までもを映しだす、恐ろしい未知の力を秘めた絵。この絵が、不思議な亜希という少女とナギたちを、この場に呼んだのかもしれない。
 ナギはどう表現していいのかわからないというような複雑そうな顔をした。
 嬉しそうな、だが哀しそうな、あまりにおさなげな笑みをうかべる。
 「ぼくのことを覚えてくれていてありがとうね。この世界でぼくのことを知るのは、君とシンだけだよ」
 シンは少しだけ驚いたようにナギをみた。
 視線を落とし、やっとその時になって、そばにたて掛けられている絵に視線をうつした。
 「これはっ?! 本当にあんた――いや、沢村が描いたものなのか?」
 「あ、はい。……美術の先生が、おまえは心に思うままのものを描けっていうから、頭にひらめいたままを描いたんです」
 「……こんな絵を描くのはこれが初めてなのか?」
 「いいえ、小さい頃からずっとです。物心ついたときから、なんとなく筆にまかせて描くと、いつもこんな感じでした。姉も一緒に――」
 言いかけてやめた。
 嫌なことでも思い出したかのように唇をキュッとかんだ。
 「シンにもわかるよね?さっき見えたんだ。天上界の景色が本当にさ」
 シンはうなずいた。よくわかっているらしい。
 絵から放たれていた光は、いまは至極シンに近い気がする。彼から放つオーラと共鳴している。
 「ナギのことを覚えていたのは、こんな絵をかくことと関係しているかもしれないな」
 「この絵に何かがあるのかな?」
 亜希は顔をあげた。自分の絵が、誰にもない記憶をもっていることに関係しているかもしれないと聞こえたからだ。
 懐かしそうになんともいえない顔をして、自分の絵を見るナギをじっとみながら、亜希はポツリともらした。
 「……夢じゃなくてよかった。ナギさん、やっぱりシン先輩のそばにいたんだ。シン先輩、ずっと寂しそうだったから気になってたの……」
 ナギが驚いたように亜希をみた。
 「でもナギさん、なんか昔と雰囲気が全然かわってるっていうか、すごくキレイになってしまったっていうか――」
 言いながら、まぶしそうに目をほそめた。
 「こんなに綺麗だったかしら?なんだか、『この世の人』じゃないみたい。まるで天女様?……」
 パーカーの上からでも、うっすらとしたナギの胸の膨らみがわかるのかもしれない。いや、きっとこれだけの絵をかくのだ。普通の者よりはずっと感覚が鋭いはずである。ナギの内部の変化まで無意識に感じているのだ。
 カタッと音がした。
 三人の視線がいっせいにそちらに向けられた。
 部屋の中をのぞいた少年の顔があった。
 シンが声をかけようとするより早く、いきなり目のまえで溶けはじめだした。
 いや、本当に溶けたのではないのだが、三人には、肉がただれたそこから、何かがのぞきはじめているのが見えている。
 ゆっくり現れてきただしたのは、なんと鬼の顔である。
 牙をむき出しにし、岩のように骨ばった黄色く濁った目が、狂気に爛々としている。獲物をみつけた野獣のようだ。
 亜希が叫び声をおさえようと必死に口元を手で覆っていた。
 シンはナギをかばいこみ、指を鳴らした。
 いきなり鬼を包むように光が弾けた。鬼の顔が飛び散って消えた。
 顔のないままの体が、逃げるように駆け出してゆき、後も振りかえらずに、異様な物体だけが走っていく。
 「な、なんだったのアレはっ?! 」
 ナギがおぞましさのあまり、すがりつくようにシンの腕をつかんで言った。
 いくら幽界や地界で、魔物たちを見慣れているとはいえ、目のまえで起きた衝撃はあまりにも大きかった。
 普通のどこにでもいる少年が、いきなり鬼に変貌したのだから。
 「鬼……鬼だわ。また現れだした……」
 亜希が震える声をもらした。
 蒼白になった顔は、はっきりと先ほどのグロテスクな変化をみていたことを語っていた。
 「おまえ、あいつの正体が見えたのか?」
 シンの問いかけを、もはや聞いているのかいないのかわからないまま、ただガタガタふるえだす。
 先ほどの異様な光景は、人間界の次元とは別のところで起こった元素転換なのであって、常人には見えないはずだ。普通の人間がみていれば、少年がただのぞき、驚いてにげたにしか過ぎないだろう。
 「鬼が姉さんをさらってしまう……鬼が、姉さんを………私も、いつか連れ去ってしまう……鬼が来て、私たちを……」
 ブツブツと何かを言いだした。視点が合っていない。
 「おいっ、しっかりしろ、大丈夫か」
 シンは亜希の腕をつかみ、揺さぶった。
 「――っ」
 「おまえ、アレが見えたのか、鬼を知っているのか?」
 シンをぼんやり見ていた亜希は、強い視線にさらされ、やっと正気をとりもどしていった。
 シンと視線が合うやいなや
 「助けて!鬼が姉さんをさらいに来るの、鬼がやって来るの!助けてお願い!」
 いきなり抱きつき、ワァッと声をあげて泣きだした。
 亜希の急な取り乱しかたにこちらのほうが驚きながら、シンとナギは、お互いの顔を見合わせていた。
 亜希の泣き声だけが、部屋のなかに響いていたのだった。



                                


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