天上の蒼い灯火

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3


 シンは呆然とパソコンのモニターをみていた。
 どうすればいいのかわからず、頭をかかえるようしにして唸っている。
 「何が起きているんだ!ナギは、ナギはどうなっているんだよっ!」
 我慢できないように机をたたいた。
 聞こえてきた悲鳴は空耳ではなかった。たしかにナギの声だった気がする。
 そして今もなお、『たすけて』という文字ははっきりとうかびあがっており、シンが来るのを待っているかのようである。
 シンは不意に、目のまえに亜麻色の糸のようなものが舞い落ちてのがはっきり見えた。次に広がった光景は赤い血の膜である。
 「何だこれは?!」
 目を見開きイスからおもわず立ちあがる。足元がフラつき机に手をつく。
 「何かかが動きだしている。……天空が、鳴動している?! 」
 そのままシンはあたりの気配をうかがうように意識を集中しはじめていた。赤い映像だけがどうしても脳裏からはなれず、心臓が早鐘をうっている。
 じっとシンを見ていたエンラは、チョコレートの袋をすてると、包みカスを踏みつけてそばにやってきた。彼も同じようにしてじっと意識を凝らしだした。
 「ナギ痛いヨ、とっても痛い、シン?」
 シンの目がカッと吊りあがった。
 双眸からつよい光線がはなたれていた。
 虹彩が消えたそこに浮かびあがっていたのは、まったくの異世界の風景である。
 手が何かをつかんだ。
 金茶色の長い髪の毛だった。
 力がほとばしり出るのを、もはや止められなかった。水が一滴一滴とゆっくりとたまっていたように、シンの皮膚一枚むこう側でじっと待っていたそれらが、耐え切れないように体から溢れしてゆく。
 モニターがシンから放たれた光芒を吸い込んでいった。まばゆい輝きで埋めつくされていった。
 逆流したように爆発し、一気に沸きあがった。
 あまりの勢いにふらつきかけたシンの手を、エンラがにぎった。
 ガラスに亀裂がはいったような音が鳴った。背筋をゾクリとしたものが駆け抜け、いきなり空気がかわってしまう。
 シンはその感覚を知っていた。
 過去にも一度、エンラと次元を超えて昇っていったことがあった。
 そう、この場所には以前も来たことがあるのだ。
 呼び声はもはや疑うことがないほどはっきりと聞こえてきていた。誰とも間違えることのない愛しい者の声である。
 そう、ナギの呼び声だ。
 シンはその声の先にあるものを手繰りよせた。
 手にあたたかさを感じ、思わず抱きしめる。と、その刹那、腕にやわらかいものを感じ、はっきりとした温もりをおぼえていた。
 「ナギ!」
 シンはナギを抱きしめていた。
 驚きに、目をこれ以上ないほど大きく見ひらいた輝石のような美しいナギの瞳がシンを映しだしていた。その金茶色の瞳が、しだいに潤み、濡れたように揺れてゆく。
 「シン……っ!」
 ナギが抱きついてきた。震えていたかぼそい腕で、迷子の子猫がやっと母猫を見つけたかのようにしがみついてきた。白く透けるように青ざめていた肌にほんのりと赤みがさしてゆき、安堵の甘い息がもれる。
 腕のなかのナギは本当に小さくて華奢であり、少しでも力を入れると折れてしまいそうな気がした。まるではかない幻をつかんでいるようだった。
 だがそこからは心地のよいエナジーを強く発していた。尽きることなく湧き出る源泉のように、純粋で混じりけのない確かな存在を感じさせている。
 「シン、シンっ!どうしてここに?――どうして、来てくれたの?」
 会いたかった、と小さく聞こえた。たまらない声だった。
 シンはあまり強く抱きしめると壊れてしまいそうな気がして、必死で腕の力を緩めていた。別れたときからほとんど変わっていないナギの背は、今はシンの肩ほどまでしかない。
 「ナギの姿が見えたんだよ。おれを呼ぶ声が聞こえてきた。ひどく苦しそうで、血が赤く――」
 「ぼくの呼び声がシンに?」
 思いをこらえるようにしてナギを腕からはなし、シンはまじまじとみた。
 切り傷が腕や顔に散っていて、特に腕がひどい。服がボロボロになっており、あちこち赤く血をにじませている。
 長く美しかったナギの髪の毛は、いまは肩にも届かないほどに短くなっていた。あまりにも頼りない子供のような印象なのは、髪に隠されていた部分まであらわになっており、線の細さがはっきりと見えているからだ。
 シンは瞠目したまま、手ににぎっていた金の糸のようなものをみた。もはやそれは手から消えていたが、握った瞬間、ものすごいエネルギーを感じていた。
 もしかしたらその糸が爆発したのではないかと思ったほどであり、ナギの髪の毛だったというのなら、ひどく納得できてしまう気がする。
 「ナギ、傷いっぱい。ダイジョウブか?」
 そばに居たエンラがナギの足元にすりよってきた。
 といっても、もはや前のような子供ではなく、ナギよりいくぶん背の高い少年の顔をしている。それでも甘えるように瞳をキラキラさせて、そうっとナギに触ってくる。
 まるで母親に久しぶりに会ったような喜びを表情にたたえ、それでも傷を痛そうにしているナギに、遠慮がちにそっとよりそった。
 「エンラなの?!――ああ、本当に大きくなってたんだね。あれからずっとシンのそばに居てくれたんだね、エンラ」
 「シンと一緒にいたヨ。ナギと同じくらい大好きダカラ。でもナギにも会いたかった。家でパソコンしてるとき、時々見てたヨ」
 「えっ?」
 ナギが顔をあげるのに、シンが照れたように笑った。
 「ああ、おれの家にあるパソコンのモニターにな、時々おまえが映ってたんだよ。だから、少しはこっちでのことも知っている」
 「……ぼくも、見ていたよ。森の泉にうつったシンの姿を」
 シンは瞬きをするわずかのあいだだけ、歓喜の色を瞳にうつした。そのままナギを抱きしめ、そうっと背中をなでた。
 「お互いに、見ていたんだな。同じ思いだったんだ。……でも、どうしてこんなボロボロの姿になっているんだ?一体ここで何があったんだよ」
 あまりの部屋の昏さと、殺伐としたなんともいえない嫌な雰囲気は、シンの鋭い神経にもすぐに違和感をあたえていた。普通ではないことが起きているのだと、肌でわかってしまう。
 「ソメイはどうしたんだ。なぜヤツがいながらこんなことになっているんだ」
 いいながら、傍らにある赤い皮膜につつまれたものにやっと気づき目をむけ、薄く張られた向こうにみえるその姿に、目を思わず疑う。シンのよく知っている男のものだったからだ。
 「なぜソメイがこんなところで眠っているんだ?!」
 「シン――」
 ナギの体がフルリと揺れた。小さく身を縮こませながら、シンの胸に額をこすりつけた。こらえるように話だした。
 ナギは今まであったことをかいつまんでシンに説明していった。
 ソメイの眠りのこと。そして目覚めなかったこと。
 自分が黒い珠をはなってしまい、世界がそのための暗くなってしまったこと。それをおさめるために穢那にまた会わなければならなくなったことなどを、できるだけ感情をこらえながら。
 そして、痛みに耐えるように言った。
 「だからぼくは、地球に――人間界に降りようと覚悟をきめたんだ。シンの家にあった通路は閉じられてしまったけれど、でももしかしたらまた開くかもしれない。穢那様が開いてくださるかもしれない。それでダメなら、また探さすしかないって、思っていたんだ」
 シンを確かに呼んだ。呼んでしまった。
 そして、シンはいつだってナギの声を聞きつけやってきてくれるのだ。今こうして目の前にいるように。
 それまで黙ってきいていたシンが重く口をひらいた。
 「それは、本当におまえがしなければならない事なのか?ソメイの黒い珠をとりもどすのは、どうしてもおまえの役目なのか?」
 「ぼくは、ソメイ様にたくさんのものをもらったんだ。だけど、まだ何一つお返しをしていない。ぼくが生きていられるのもソメイ様のおかげだもの。――それに、あの珠を放ったのはぼくだから、これはぼくの役目なんだ」
 シンはナギの瞳をじっとみつめた。
 ナギは昔と変わらない瞳のままのようにみえた。
 強くて優しくてあたたかい、だがあの時にはなかった、胸をかきむしるような何ともいえない哀しい色調が切なくゆれている。
 「おまえがそう望むのなら、おれはナギを助けるよ。そのためにここに来たんだからな」
 「シン……」
 「ナギのことを忘れたことはなかった。一日だって思わない日はなかったよ。天上界でちゃんとソメイに大切にしてもらっているのかだとか、不自由なことはないのかとか。慣れない世界でつらくはないか、悲しいことなどないかって、ずっと気になっていた。ナギが幸せであればいいと思っていたよ。いや、それだけを願っていたんだ」
 こらえきれずナギの瞳から大粒の涙がこぼれた。頬をすべり、床に転がり落ちる。小さな真珠のような塊がコロコロといくつも跳ねてゆく。
 ナギもそれは同じだった。
 シンが少しでも幸せであればいいと思い、そう願わない日はなかった。
 いつも泉からみえていた、あの冷たいまでに無表情な顔でなく、少しでも楽しそうな笑みを浮かべ、昔のような柔らかな表情が浮かぶことがあればいいと、そうなれってくれればいいとずっと願っていた。
 本当はとても優しい人だと知っている。情の厚い、とても思いの深い、大きな人間だということを。
 そうでなければ、どうして神と戦ってまでナギを天上界に迎えに来てくれたりするだろう。強い意志と勇気を持っている者だからこそ、こうして再びここに来てくれたのだ。
 「これ、気持ちイイネ」
 エンラがナギの涙の粒をつまみあげてみせた。
 手に転がしていたそれをパクリと口に含んだ。快感の波に身をふるわせると、燐光が放たれだす。
 それをじっと見ていたナギは、覚悟を決めたように言った。
 「シン、ぼくを地球につれっていって。お願い」
 「――それかまわないが」
 シンは少しだけいぶかしげに眉根をよせた。
 「だが、おまえの体はもつのかナギ?以前連れて帰ったときは、ひどく衰弱してしまったじゃないか。あの時よりもおまえの体は、ずっとこっちの空気や水で体がキレイになってしまっているんだろう?」
 「大丈夫だよ。ソメイ様が記憶をもどされてから、あの時よりは地上の空気も水もきれいになっているだろうし、それにこの宝玉があるから」
 腕のある青い石をみせた。
 「これが守ってくれるよ、きっと」
 シンは直感的に、それだけでは不十分ではないのかと感じていた。そんな石ひとつ程度のことで、これだけ綺麗に清められてしまったナギが、普通に過ごせるはずはない。
 だがそれだけの覚悟をしているということもわかった。どうしても行きたいのだろう。
 ならば自分が守ってやろうと思う。
 あの時の自分はできなかったが、今は違う。この漲る力がいったい何であるのかはわからない。もしかしたらソメイが眠っていることと関係があるのかもしれないが、それでもナギを守れる力を、不思議なほどに身体の奥底に感じている。
 思いを巡らしていたシンは、とっさの気配に、ナギをかばい背後にまわした。
 入ってきた人影をにらみつけたときには、すでに完璧な臨戦態勢をとっていた。あまりに完璧な身のこなしである。
 「さすがに今この状態では、ナギ様までがいなくなっては天上界でもより大きな騒ぎとなってしまいますよ」
 「ヒサギ!」
 ヒサギはシンに睨みつけられても、どうと言うこともなさそうに平然としたままそう言った。
 「それにあなたは天上界にしか生まれぬといわれる『聖天樹』です。地上で育ったとはいえ、いまさら彼の地に降りたつのは、身体の負担から考えてもまったく勧められませんね」
 ナギはそれでもいやだと首をふった。
 シンの腕からはなれるとヒサギの前に歩みよった。固く揺らぎのない決意はどうあってもかわりそうにもないことがわかる。
 ナギが居なくなったことに気づいたヒサギは、必死でさがしてここまで来たのだった。本来なら許可なく立ち入るのははばかられるのだが、ナギの心を思うと、この場所しか思い浮かばず、遠慮しながらも、処罰覚悟で入ってきたのだった。
 「ナギ様……」
 「じゃあ、ナギは地上に行きたいの?シンのそばにいるの嬉しい?」
 じっと黙ってきいていたエンラが、考えるようにいった。
 「エンラ?」
 そのまま手のなかの涙を全部たべきると、いきなりナギの姿になってしまった。摂取したエナジー量が大きかったからか、ナギにほとんど近い質量を感じさせている。
 「ならオレなる。ナギになるヨ」
 「エンラ……」
 一生懸命の顔をむけて笑ってみせるエンラの手をナギはにぎった。そっと抱きしめた。
 「エンラ、ありがとう」
 「おまえ……」
 シンはエンラに何ともいえない思いをおぼえて、切なげにみつめていた。ナギと同じ顔ですりすりと気持ち良さそうに鼻をナギの首元にすりよせている。
 エンラはシンのそばにずっといた。
 ひと時もはなれぬようにずっといて、だからこそ、シンがどれだけナギに会いたいか知っていたし、そうであるからから、人の想いというものを、学び、心のあり方を知り、働きの大切さを覚えていったのである。
 より人に近づいていた。いや、優しささえ持ちはじめているのである。
 「……まったく、おとなしいようでいて、言い出したらきかないのですからね。――仕方ありません。ナギ様には非常に厳しい状態であるとは思いますが、今はそれ以外、ソメイ様を救う方法がないことも確かです。意志も固いようですし……」
 ヒサギはわざと重くため息をついてみせた。彼とて本当はソメイの復活を望んでいるのだ。ナギのことをどのように心配していても、ソメイが目を醒ますことよりほかに、平穏な世界への復活はありえないのである。
 「ヒサギ、ごめんね」
 「どうぞ無理はなされないでくださいね。――あれほど綺麗な髪だったのに、無茶をして」
 切りっぱなしの髪の先をなでた。
 ナギはふと自分の体が痛くないことに気がついていた。驚くように自分の腕を見ている。
 「傷が、消えてる……?」
 シンを振りあおいだ。その背はソメイとほとんど変わらなかった。
 「ナギが痛くないように祈っただけだ」
 「……あなたは、ソメイ様の?」
 ヒサギが驚きを隠せないままの表情で、遠慮がちに聞いた。
 もちろんただの人間でないことはすぐにわかってはいたのだろう、ナギのそばにいることすら咎めなかったくらいである。
 だがよくみれば、相貌も、こころなしかソメイに似てきた気がする。それよりもさらに潜在している何かが、人間とは違いすぎている。というよりも、ソメイに近すぎる気がするではないか。
 ヒサギは今度は、納得したように言った。
 「あなたにならば全てをお任せしましょう。世話係りの私が叱られないように、どうぞお願いしますよ」
 「ああ」
 シンはぶっきらぼうに答えはしたが、ヒサギのナギを思う気持ちはわかっていたので、否定的ではなかった。
 ナギはありがとうと言ってヒサギに頭をさげ、エンラにも礼を言った。
 「エンラ、かならず迎えにくるからね。どうかそれまでソメイ様を守っていて」
 「ソメイ、ナギの大事な人。それ知ってるからダイジョウブ、任せて」
 シンはナギを腕のなかに抱きこんだ。
 窓から吹き込んだ風が光ったのと同時に、二人の姿は消えていった。
 まるで一瞬の夢のように、跡形もなく天上界から居なくなってしまっていたのだった。




 ナギが覚悟をしていたよりも、地上の空気ははるかによどみ汚れていた。
 ふたりはシンの部屋に立っていた。ひっそりと静まりかえった部屋は、あの頃とはさすがに趣がすこし異なってはいたが、ともにすごしたあの小さな世界のままであることは間違いなかった。
 なつかしさを覚えると同時に、空気の濁りからくる息苦しさで肺が焼けそうに痛んでいた。
 息がほとんど出来ないのである。
 これほどまでに呼吸が苦しくなるとは思わっていなかったナギは、気が遠くなりそうだった。
 まるで煙草のけむりが充満している密室に閉じ込められたようであり、どこを探しても清浄な空気のあるところなどなく、このまま窒息してしまうのではないかという恐怖がはしる。
 「大丈夫かナギ?」
 シンが顔をのぞきこんできた。
 気づかうような瞳の色に、意識が少しもどった。気がつくとシンの腕に抱きかかえられていた。
 紙のような白い顔で、さらに色のなくなった唇を薄く笑いに形づくってみせるが、うまく笑えず、弱々しい表情になる。
 「うん、平気……心配いらないよ」
 小さく言ってかえすと、シンはすこし怒ったように目を細め、いきなり鼻を指ではじかれた。
 「いたっ」
 「嘘つけ、バカっ。そんな顔色をして平気なわけないじゃないか。ツライならツライって素直に言えよ。おれにまで遠慮するな」
 ナギは驚いたように鼻を手でおさえたままシンをみあげた。多少怒っているようであるが、それでも表情に浮かんでいるのは純粋な心配である。
 ナギは恥ずかしそうにうつむいた。
 「ん……ごめん……。苦しいよ、すごく、苦しい。息が…できにくいんだ……」
 シンが手を中空にかざした。部屋の四隅にむけて手を何度も払った。
 手から何かが流れているのがみえて、それが流線をえがきながら、何かの文様を形作って消えてゆく。
 空気がピリッと変わった。
 さすがに天上界の空気と比べればかなり質は落ちるが、それでも十分呼吸ができるほどに浄化されている。
 「今はこれくらいが精一杯だ。我慢できるか?」
 「うん、ありがとう十分だよ。息ができるようになった。――きっと、いきなりの変化だったから、ちょっと体に負荷がかかっただけだと思う。そのうち慣れるはずだよ……」
 浅いながらもどうにか息をつき、呼吸が整ってくると、ナギはくもりのない笑顔をシンにむけた。あのころと変わらないはずの笑みなのに、どうしてそんなに胸が痛くなるほど美しいのか。
 「でもシンすごいね。いつからこんなことが出来るようになったの?ちょっとビックリしちゃったよ」
 シンのほうがもっと驚かされていることにナギは気づいていない。
 ナギから放たれているそのオーラは、天上界でみているのとはまったくことなっていた。この地上で放たれている光は、なんとあわく幻惑的で、まさに一個の宝石のようである。優麗に瞬くさまは、まさにまさに天上界の光そのものだ。
 そっと腕からはなされると、フワリと飛びたった蝶のように歩きだした。
 懐かしむようにキョロキョロ部屋をみまわしながら、過去の残留物をみつけては楽しそうにながめている。
 過去の記憶を追う表情はやわらかい。
 「へえ、この消しゴム、まだ持ってたんだ」
 顔がぱっと明るくなった。
 手にとったのは赤いスポーツカーの消しゴムだった。
 たしかそれは、何かのお菓子のオマケだったはずであり、造りも粗雑で、どこにでもあるような物だったのだけれど、幼かったナギはとても大切にしていた。
 小学校の入学式の帰りに、母親に買ってもらえた、数少ない思い出のものだった。たとえそれが安物のお菓子だったとしても、ナギが欲しいものを手に入れることができた唯一のものだった気がする。
 それを知らずに、すこし使ってしまったシンはものすごく怒られたのだった。いや、怒られたというよりは、あまりに悲しそうに泣き出したので、どうしていいかわからず、おろおろして困りはてたのである。
 つらいことがあっても、めったに涙をこぼさないナギが泣いたということが、シンにひどく衝撃をあたえていた。必死で謝りたおした。
 そして、何がおこったのか、使ったはずの消しゴムは翌日には元に戻っていたのである。
 よくよく考えてみればあのころから不思議なことは色々とあったような気がする。
 あぜ道から取ってきた花が、水にもつけないのに、一ヶ月以上もったこともあったし、減っていたパンが次の朝にはもとの大きさに戻っていたりもした。
 それでも世界は二人きりで閉じられていたので、疑問などうかばなかった。それがあたりまえであり、あるがままのことを素直に受けとり、そうして生きていたのだ。
 時を重ねるごとに、二人の方がまわりの世界と違っているのだということがわってきた。人と違うことは、なぜか犯罪に近いことのように扱われることも知った。
 人々はナギとシンを異分子のようにあつかいだし、シンはさらに自分たちだけの世界に引きこもってしまうようになってしまった。ナギはそうはいかなかったのだが、皮肉なことに、この大きな家はそれを可能にしていたのだ。
 「ああ、このパソコンだねシン。すごいね、いつ買ったの?ぼくを見ていたって、これのこと?」
 ナギは白いデスクトップのパソコンに目をやり、指でボードをつついた。
 「たしか莉野のやつが勝手に置いていったんだよ。まあ退屈だったし、適当にいじってたんだけど、最近ではちょっと遊んでるかな。面白い情報やデータも手に入るから、便利でもあるしな。そうしたら、いきなりナギの姿が見えだしたんだよ」
 何がきっかけなのかはわからない。
 シンの思いが強かったのか、シンとナギの思いが重なり、引き寄せあったからなのか。それとも、パソコン自体が、そういった未知のエネルギーを拾いやすい道具だからなのかもしれない。
 いずれにせよ、シンのそばにはいつもエンラがいた。エンラから発せられるエネルギーだけでも、この部屋における霊的レベルの未知数はかなり高いはずである。
 「莉野ちゃんはまだモデルしてるの?」
 「ああ、莉野なら海外だよ。なんかのブランドのショーモデルをしてたんだけどさ、一年ほどまえにそのスポンサーの御曹司と婚約して、今はイタリアだ。しかも今は腹ボテなんだぞ」
 「――?」
 「赤ちゃんがいるんだとさ」
 「ええっ!!」
 さすがのナギもおどろいて声をあげた。
 思いだす莉野の姿は、いつも幼くて、いまだ自分たちの後をついてまわった幼子のままだった。そしてあの痛々しい、半獣の姿で苦しんでいた『レイ』のことが、胸にのこっている。
 「……そっか、じゃあ幸せなんだね?」
 「時期が来たら結婚式をするらしいぞ。そのまえに子供をつくっておこうなんてさ、あちらさんも何を考えてるかわらないよな」
 軽く肩をすくめる。
 「きっと、莉野ちゃんがどうしても欲しかったんだよ。だから確かな絆として、赤ちゃんが欲しかったんじゃないかな、その人」
 へぇ、とシンは感心したように眉をあげた。
 「子供ひとりでそんなに違うものか?」
 「違うんじゃないかな?……まあ、あんまりよくわからないけどさ」
 あまりにもシンが真剣に見つめるので、ナギは照れたようにわらった。なんとくそう思うだけで、別にナギにだってそんな確証はないのだ。
 「しかし莉野たちの気持ちを、おまえに教えられる日がくるとは思わなかったな。体は成長してないようだけど、やっぱ時間は経ってるんだ」
 からかうようにニヤリと笑った。そんな心から気を許した表情をみせたのは何年ぶりだろうか。
 「シンはさ、すごく身長が高くなったよね。なんだか大人っぽくなっちゃったし――そうだな、すごく格好よくなったよね。実際に会ってびっくりしたもの。なんだか……」
 ナギはああっと小さく声をもらした。今更気づいたように、まぶしげにシンをみつめ、そのまま口をとざした。
 ソメイに似てきているのである。
 あのときよりずっと成長して、目の前にいるシンは、なぜかソメイのことを強く思わせる。
 顔のつくりとか姿かたちというよりは、奥深くにある魂の存在そのもののような、なにか形のない大切なものが、とても似ている感じがする。
 「いい男になったか?」
 おどけたようにウインクをする。
 「でもおれから言わせれば、ナギのほうが変わりすぎだな。綺麗になりすぎだよ、ありえないくらいに――」
 もはや地上の生き物とは思われない。
 もともと線がほそく、繊細な顔立ちをしていたが、今は格別である。きっと一度でも目に止めてしまったなら忘れられない。その美しさに引き寄せられ、またとない輝石を求めるように、争いが起こっても不思議ではないだろう。
 地上にあっては、まさに毒となりかねないあやうさである。
 「とりあえず、その服を着替えなきゃな」
 ローブはあちこち破れているし血だらけだった。まるでボロ布を巻きつけている。
 「おれの服であうかな?」
 脱ぎ散らかしたシャツをあてながら、首をかしげる。
 「んー、やっぱ大きくて無理だよなぁ。エンラの服にしているか?まだおれよりはマシだろう。あ、いや、それとも莉野の置いていった服がいいか」
 隣の部屋を勝手にさぐり、持ってきたものは、雑誌のモデルが着ているような、なんとも可愛らしい洋服ばかりだった。
 胸のふくらみを強調するようなベビードールのカットソーだとか、ランストーンが入っている身にぴっちりしたTシャツ、ホルターネックのキャミソールに、びっしりフリルの段がはいったミニスカート。ジーンズにまでピンクのラメがちりばめられてあり、お尻のポケットにはスパンコールで刺繍がしてある。
 さすがにそれをみたナギは、いやだと首をふった。頼むから無理です、ときっぱりと断っていた。
 「まあ雑誌の撮影でもらったものばっかりらしいからな。あいつもさすがに自分じゃコレは買わないだろう」
 いたずらっぽく笑った。実際、家にいるときはラフなTシャツにジーンズ姿が多かったのだ。だからこそ、いらないものだけ残して行っているというわけである。
 莉野がいるときは、シンもエンラも服に困ったことはなかった。彼女が勝手に買ってくるものを着ていたので、まったく無頓着でいられたのだが、居なくなった今は、ほとんどあるものを適当にひっかけている程度である。
 エンラは、まだシンのおさがりを着られるのだが、シン本人にいたっては、莉野が時々おくってくるものだけだったので、けっこう不自由な思いをしていた。
 ナギはエンラの服の中から、首がVの字になったT白いシャツを選んだ。いたってシンプルなものである。
 シュルシュルといきなりローブを脱ぎだしたナギを、ただボケッとみていたシンは、火がついたように顔を赤らめ、後ろをむいた。
 見えてしまったナギの白い胸のふくらみは、形こそ小さいが、丸くつきたてのお餅のように柔らかそうであり、ピンクの先端など身震いがつくほど美しかった。パソコンでみるよりもずっと生々しくて、さすがにシンも鼓動が早くなっている。
 ナギはまったく気にしていないようであったが、時はやはり流れているのだ。
 より優美な曲線をもつ体は、完璧に女性のものであった。触れば手に吸いつくような肌理の細かさは、みているだけで十分その肌ざわりを想像させてしまう。
 布音が消えるのを確認してから、シンがそっとチラリとナギをみた。
 着替えをおえていたが、やはりまだ大きめのTシャツはダボついていて肩のラインがずれている。それでよけいに白い手足のほそさが強調されており、シンは思わず自分のパーカーをボフッとかぶせた。
 「上に着るものはあとで莉野のなかから探してきてやるよ。とりあえずそれを被っておけ。で、そのままちょっと休んでなよ。まだ顔色が悪いぞ」
 シンは敷きっぱなしの布団にナギを強制的に横にさせた。文句をいいそうな顔の上からフワリと毛布をかけた。
 どうしたのだろうか、そのまま部屋を出て行ってしまった。
 シンがいなくなった部屋はあまりにも静けさに満ちていて、ナギはほっと息をついていた。体の強張りがとけてゆく。
 ほとんど限界が近かった。
 あのままでいたら、きっと倒れていただろう。
 シンはいつも優しい。ちゃんとそれをわかっていて、本当に困った時に、ほしいときに、必ず手をさしのべてくれる。
 昔からちっとも変わらなかった。いや、その手はとても大きくて、より強くなっている気がする。
 シンの布団にくるまりながら、なつかしいシンの匂いをかいでいた。
 昔はシンの匂いも自分の匂いもわからないくらい一緒にいて、ふたりの区別などついていなかった。こうして離れてみると、たしかに別々の人間であり、シンに抱きしめられているような安心感がわいてくる。
 ソメイが眠りについてから、こんなホッとした安堵した気持ちになったのは初めてだった。
 いつも怖くて怖くてたまらなくて、不安で、泣きたい気持ちでいっぱいだった。身の置きどころがなくて、苦しかった。
 シンに会ってやっとホッとできたけれど、だがどうしても最後の穴はふさがらない気がする。
 ソメイがいないという空虚さだけは、胸にぽっかりと穴をあけ、そこから大切なものが抜け出しているみたいである。
 息苦しいことや心身の不安定さも、その原因のひとつかもしれないが、ナギを形作る根底にある、必要不可欠なものが足りなくて、身体に力がはいらない。
 「ダメだ、ダメだっ!こんなのじゃ、穢那様を捜すなんてとてもできない。――どうか体がもっと動きますように、こちらの世界に、少しでも馴染みますように、地球の空気を、体が受けつけますように」
 ナギは祈るようにして左腕の玉石をにぎりしめていた。額をつけると、脈をうっているのがわかる。
 このままでは地上に降りただけで終わってしまう。ただ弱ってゆくにまかせるだけでは、何もできないではないか。それでは何の意味もないのだ。
 思いがますます強まった。
 青い光が大きくなっていった。
 まるでナギの思いに呼応するように、布団のあいだから硬質な光がわきあがり、凍てつく冬の空にまたたいている星のごとき閃光が、ナギを青くつつみこむ。
 リーンという澄んだ音が耳の奥できこえた。
 「ソメイ様?」
 ナギは体がすこし軽くなるのがわかった。まるで、抱きしめられているかのように熱い手を感じた気がしたのだ。
 石の鳴音がソメイの声のようにきこえていた。大宇宙に流れる、命の源のごときひびきが、ゆりかごみたいな心地よい振動とまり、抱きしめてゆく。
 ナギは心地よい音につつまれ、いつのまにか眠りにおちていた。
 その夢のなかでシンとソメイに抱きしめられ、痛みも苦しみも忘れ、穏やかにまどろんでいたのだった。




 次に目を覚ましたナギは、床の上でころがっているシンの姿がいちばんに目に飛び込んできたのだった。
 布団も敷かず、ナギの傍に体をよせたまま、スースーと寝息をたてている。
 まだあたりはほの暗かった。
 あのまま自分は眠ってしまったのだ。
 ひんやりとした朝の冷たい空気のなかで毛布もかけずにいては、さすがに風邪を引いてしまう。ナギはシンをそっと揺り動かせた。
 「シン、そのままじゃ風邪をひくよ。布団に入りなよ」
 「――ん?ナギ起きたのか。体は大丈夫か」
 体をずらし、シンの入るスペースをあける。寝ぼけたように素直にもぐりこむと、ナギに頭をすりよせてくる。
 「いい夢だったみたいだな。体が楽になってるぞ、頭がズキズキしない……」
 シンはつぶやくと、そのまま寝息をたてだした。
 こうして一緒にねむっていたあの頃は、シンはよくナギのことを映しとっていた。まるでナギの感じかたや考えかた、人への接する態度などを取り込むことによって、人間のありかたを学んでいるようなところがあった。身も心も一体化して、いつも心を分けあっていたのだ。
 今から思えばシンの特異な能力は、実生活においてずいぶん生きにくかったに違いないだろう。際立った頭脳も、その明晰さも、まわりの人間をより愚かにみせ、つまらなくしていたのだ。
 それでもシンが他人をバカにしたり偉ぶったりした姿をみたことがなかった。そんな態度をとるときは、たいてい相手からケンカを売ってきたり、嫌がらせをして、絡んできたときだけだ。
 シンの異質感は、なにかしらの危機感を相手におぼえさせることがあり、そして異質なものは排除しようという、人間の本能を刺激してしまう。静かに暮らそうとしているのに、ときにそんな輩があらわれるのだった。
 シンの寝顔をみながら色んなことを考えているうちに、ナギは自分もうつらうつらとしていたようだった。
 次に目を覚ましたときには、シンは学生服に着替えており、紺のブレザーをはおっているところだった。
 「シン――?」
 「ああナギ起きたのか。昨日よりは顔色がずいぶんいいな」
 ナギの視線にあわせるように布団に膝をつくと、顔をのぞきこんできた。
 「悪いけどちょっとだけ学校に行ってくるよ。今日で終わりなんだけど、中間のテストなんだ。さすがにエンラと二人で休むのはまずいからさ」
 まいったよ、という風に笑った。
 「へんに教師どもを刺激すると、後々なにかと面倒なんだ。これでも一応受験生らしいし」
 「シン、本当に高校に行ってたんだね。それが、制服?」
 ナギが感心したように、シゲシゲと珍しそうにシンをみている。
 「このブレザー、ダサイだろ。まさかおれが高校に行くとは思わなかったよな、って、ナギもそんな顔してるな」
 ナギは楽しそうに声をだして笑った。
 「そうだね、なんか意外といえば意外だけど、そうしてみればシンも普通だよね」
 「だってさ、することもなかったし、親父と会ってどうこう話をするのも面倒だったんだよ。仕方なく行ってるだけさ。エンラなんて――ナギ、おまえの名前で学校に行ってるんだぞ。すっげー不思議だろ。おまえ居なくなったのに、名前だけは学校行ってるんだからな」
 「ぼくの名前で?――エンラって、学校に行っても大丈夫なの?」
 本当なのだろうか、というようにナギが不安そうに言う。
 「ああ、それが不思議と行けてるんだよ、変なヤツだろ」
 誰もナギのことを覚えていないのに、ナギの戸籍だけは残っている。そしてなぜか、シンの父親の圭吾が、ナギの後見人として判を押してくれたのである。
 父親の考えていることはひどく謎だったが、もともと興味のないものに対してはシンはとことん無関心でいられる性格だった。
 そこが父親似だと言われれば、皮肉なものだが、そんな気がする。どうして父親がそんなことをするかという疑問すら無関心に放りだし、何もかもうやむやにしてきたのだ。
 ナギはエンラが学校に行く姿を想像し、可笑しそうに目元をゆるめていた。自分はすでにこの世界にはいないけれど、それでも自分は存在していたのだ。
 「午前中で帰って来るから、おまえはちょっとゆっくりしていろ。とりあえず家の中だったら歩き回っても苦しくならないようにしておいたからさ。部屋から出てもいいが、家の外には出るなよ」
 「家の中、全部大丈夫にしてくれたの?」
 あれから部屋を出て行ったシンは、ナギを休ませることもあったが、屋敷中に空気に、浄化の結界をはっていたのだった。少しでも楽にいられるようにというシンの精一杯の心づかいである。
 「あと莉野の服のなかで着られそうなのを選んでおいたから。おれやエンラのダブダブな服は、見てるぶんには色っぽくてイイけど、実用的じゃないだろ?」
 「あっ……」
 自分の姿を見て、ナギは赤くなった。
 肩から半分ずりおちたパーカーにシャツもはだけて肩がすこしのぞいていた。ソフトジーンも腰まわりがゆるかったので、ヘソがみえている。
 「シン、そういえばどうして床なんかで寝てたの?一緒に布団にもぐりこめばいいじゃないか」
 「いや、おまえがあんまり気持ち良さそうに寝ていた起こしたくなかったのさ。それに、なんかちょっと勝手が違うし――」
 わずかに言いよどむと、鼻をこすった。
 「家には布団の余分なんてないんだよ。あってもシケってカビがはえてるしさ。エンラなんて、机の下にもぐって丸まって寝てたんだぞ」
 「布団もかけずに?」
 獣族の習性なのかどうなのか、四方に守りのない状況では、エンラは眠ることはあまりなかった。何がどう不安なのか、かならず机の下にもぐりこんでしまうのだ。
 「それにナギが一緒は嫌だっていっても困るしな。一応了解とらなくっちゃって思って」
 「そんなの言うわけないじゃないか」
 拗ねたように言うのに、シンは片目をいたずらっぽくつぶると、さっさとネクタイをしめた。
 「おまえがよくても、おれがよくないんだよ。――じゃあな、すぐ帰るから大人しくしておけよ」
 シンはそのまま出て行ってしまった。
 カーテンのすきまから、門がとじてられ、出ていくシンの後姿を見ていた。
 すこしだけ、窓をそっとあけてみた。
 息を小さく吸ってみる。
 たしかに肺は痛んだが、地上に降りたったときのような苦しさはなかった。腕の石がほんのりと温かく光っているのがわかる。
 守ってくれているのだ。ソメイのくれたこの石が、本当にナギの願いを叶えてくれている。
 「ありがとうございますソメイ様」
 石を握りしめた。
 こんなに離れていてさえ、眠っていてなお、ソメイはナギを守ってくれている。いつも感じる。ソメイの見えない手を、彼の息づかいを。彼の守りがあることを忘れたことはない。
 手を外にさしのばすと、曇った空からみえていた霞んだ太陽が、苦しみを訴えるかのようにボウッとゆれた。
 地球のなんともいえない異変を、ナギは繊細な神経は突きたつように感じてしまう。
 「苦しんでいるの、地球が――」
 ピリピリとするのは、空気の濁りのせいだけではない。
 いつも地球をつつんでいたはずの、ガイアの豊かなエナジーが枯渇していた。他の世界のなかにあって、地球だけがいつも特別視されていたのは、この星をまもる女神の守護が大きいからである。
 彼女から放たれる愛情と慈愛のエネルギーは、どんなときであっても変わらず湧きだし、絶え間なく生命を育んでいたのだ。
 だからこそ地球は、命の生まれる場所となることができ、ソメイがなにより愛したのである。
 今はまるで痛みをうったえているかのように感じられた。ガイアの尽きることのなかいはずのエナジーが極限まで薄まり、星の生命力が弱っている。空気の変化がいちばん顕著であるかもしれない。
 「シンも気づいているのかな?帰ったら、きいてみようか」
 ナギは窓をとじた。
 大丈夫になったとはいえ、あまり楽ではないことは変わりない。
 シンの張ってくれた結界は、ナギには本当に、とてもありがたいものだった。でなければ地上に居るだけで、何もできはしないだろう。
 そのまま部屋をでて、階段をおりていった。
 かつて穢那王の幽界へと通じていたはずの、地下へ続く扉のまえに立った。重い扉をあけた。
 その昔、探検ごっこをしていて莉野がいなくなり、次に開いたときには、穢那王のいる幽界への入り口となっていた。
 そして、扉を押し開いたそこには、うす暗いことだけはかわりがなかったが、突き当りの灰色の壁がうっすらとみえているただの地下倉庫でしかない。
 古ぼけた壷やら調度品や、ダンボールが積み重なっているだけで、かけられた白い布にさえホコリがつもっている。
 その中をしばらく凝視してみたが、入り口らしいところはどこにもなかった。どうやらここに開かれていた入り口は完全に消えてしまっているらしい。
 「どこかに移ったんだろうか……。それとも開くためには、何かの決まり事とかがあるのかな?」
 この屋敷のどこかにあるということは、確信にもにた勘がはっきりそう告げていた。
 だとしたら別の部屋のどこかにあるのかもしれないと、ナギは思考をめまぐるしく働かせる。
 使われていない部屋だけは豊富にあった。
 さすがに圭吾の部屋だけは無断で入るわけにはいかないであろうが――たとえ、年に一度か二度ほどしか訪れなくとも、主の部屋である。その他の部屋なら、どこに入ってもかまわないはずだ。
 ずっとそうしてシンと二人で、この空虚でバカでかい屋敷のなかで長いあいだ一緒に過ごし、遊んできたのだ。
 まず手始めに、二階から見てまわることにした。
 階段をふたたび登るナギは、息が切れて、それだけで体が重くなることに少し呆れてしまい、ため息をついた。自分の体がもどかしいばかりだ。
 こんな時にはいつも悔しく思う。
 なんて役に立たない身体なのだろう。低い背も、細くてただヒョロ長いばかりの腕や脚も、力のない手、すぐ切れる息も、みな役立たずなものばかりである。
 「貧弱だよなぁ。何するにもソメイ様に迷惑ばかりかけていたし、足手まといなばっかりだ……。お側にいるのに相応しいところなんて、ほんとどこにもない……。それに比べてあの人は、とても綺麗だったな……」
 ナギは塔からでてきたマリアナの姿を思い起こしていた。
 堂々としていて、自分こそがまさに咲き誇る真紅の薔薇の花であるという自信とエナジーにみちあふれていて、とてもまぶしく見えていた。だれに何を言われても物怖じすることなど一つとしてなさそうだ。
 きっとあの人ならソメイに見つめられても震えたりしない。胸が締めつけられるような、あのたまらない心地になんてならないに違いない。
 ソメイがそばにいるだけで胸がいっぱいになり、そのまま裂けてしまいそうで、怖くなってしまう。ノドが締めつけられて言葉がいつも出なくなってしまう。言いつくしがたい思いばかりが体中を駆け巡るのだ。
 「……ソメイ様」
 名前をよぶだけで心がふるえた。
 二階の部屋の半分ほどをみてまわったが、これといって何の変わりもなかった。それこそあの頃のままである。
 疲れたように埃っぽいソファーに座っていると、背後から、いきなり大きな花束がナギの顔のそばに置かれた。
 「やっぱ大人しくしてなかったな。部屋、だいぶ見て回ったのか?」
 「おかえりシン。もうそんな時間?」
 どうやら昼前のようである。
 それにしてもあまりにも早い帰宅だった。
 きっと最後の試験を即答で記入すると、調子が悪くなったとかなんとかと言って、学校を飛び出してきたのだ。
 「すごい花束だね。ああ、気持ちいい」
 ナギは一抱えはありそうなそれをだきしめると、花の馥郁たるかおりを吸いこんでフウと息をついた。
 濃いエナジーを身体一杯に吸い込んだとたん、たまっていた重いものが、すこし消えたのがわかる。
 人工的につくられている花とはいえ、地球の大地から育った生命力を、はっきりとナギに与えてくれていた。生命はどんな形でも美しいのである。
 「本当は店のなかの花、全部買ってもよかったんだけど、さすがに恥ずかしかったしな。こんな学生が何するんだろうって詮索されるのも嫌だし。また明日買ってきてやるよ」
 シンの生活上あまり目立つのは得策ではない。
 「ううん十分だよ、こんなにたくさんありがとう。とっても気持ちがいいね……。でも、これ高かったんじゃないの?」
 「そのくらいの小遣には不自由してないさ、心配無用だ」
 「そうなの?」
 「ああ、パソコンでちょっと小遣い稼ぎしてるんだ。ナギがこのままずっとここに居ても、十分養ってやれるぜ」
 得意そうに言うシンに、ナギはやわらかく笑った。
 「ありがと――すごいねシンは。何でもできるみたい」
 「いや、でも本当にしたいことだけは何も出来ないんだよ……。で、少しは成果あったか?昨夜おれもチラリとみたけど、どこの部屋もなんにも変わりなかったけどな」
 「うん、ぼくもここまで見てきたけど何もなかった。まえに穢那様のとこへ扉が開いた時ってさ――」
 ナギが言いかけたとき、家のまえで車の止まる音がきこえ、乱暴に戸のしまる音がそれに続いた。
 玄関の扉がひらく音がする。
 二人は顔を見合わせた。
 シンが表情を厳しくして出て行くのに、ナギもあわてついて出ていった。シンの速い足についてゆけず、おくれて、階段の上で立っていたシンの後ろ姿を目にする。
 「親父……」
 さも嫌そうに口をひらいた。
 そっと背後からうかがうと、階下に中年の男性が立っていた。
 上物のグレーのスーツをさらりと着こなし、銀の細いフレームの眼鏡をかけている、かなり長身の男だ。
 一見、物腰がやわらかそうに見えていたが、人の上に立つことに慣れきった傲慢な雰囲気がそこはかとなく漂っていた。気障にもうつるほど怜悧なまなざしは、誰にも否といわせぬ鋭さを含んでいて、他人を服従し、命令することに慣れきった表情をしている。
 シンにも似ているその顔は、父親の圭吾のものだった。
 「何しに来たんだ今頃」
 いぶかしむようにシンは鋭い視線をむけた。なぜ、ナギが居るいま来たのだ。この男は危険だと、何かが告げている。
 「近くに来たから寄っただけだ。お前の学校の先生からも何度か電話があったしな。たまには顔をみておこうかと思ったんだよ」
 学校という言葉に、わずかだけシンの刃のような気配がゆるんだ。だが緊張はといていない。
 親子だというのに、この二人のあいだには、それらしい情などなにも感じられなかった。他人以上にふかい溝がみえる。
 「私からは別になにも言うことはないが、行きたい大学があれば好きにすればいい。一々どうするかなどという相談や、了承をとる必要はない。――言うことはそれだけだ」
 圭吾の視線が一瞬、シンの背後にいるナギに向けられた。ほんとうに一瞥だけだったのに、ナギは体がすくむのがわかった。
 なんて冷たい、なんて恐ろしい視線なのだろうか。体の芯から凍りつくようで、意識が暗くなってしまう。
 とてつもない異質なものを感じた。まるで同じ場所にいながら、次元が違っているかのような心地悪さがザラリとしていた。
 圭吾はナギから視線をそらせると、まるで何もなかったかのように知らぬ顔をしていた。
 誰がそこにいるのかとか、何をしているのかなど、一切聞くこともない。エンラとのときと同じで、無関心としか思われない態度である。
 シンはそれでも何かを感じたのか、ナギを隠すように前に立った。後ろに手をまわし、ナギの手をにぎった。
 「金はいつもどおり口座に入れておく、好きに使うがいい。用があれば、私の秘書にでも伝えておくがいい。――まあ、別段ないだろうがな」
 そういって、くるりと背をむけた。
 彼の視線が二人からはなれると、やっと圧力が解けるのがわかった。
 そうやって、何もかもを一言で動かし、思い通りにしてきた重厚感は、並のものではない。
 顔が見えなくなる寸前、口元がいやな笑みに歪んだようにみえた。
 怖い顔をしているシンは何も言わず、ただ扉が閉まるのをじっと油断なく見つめていた。
 男の影が完全に消え、車が発進する音がきこえるまで、緊張を少しも解いていない。
 「ナギが来たか……」
 車にのりこむ圭吾がかすかにもらしたその言葉を、誰も聞いたものはいなかった。


 

 震えていることにも気づかないでいたナギは、シンに顔をのぞきこまれるまで体がすくんで動けずにいた。
 「大丈夫かナギ?」
 「あ……うん」
 握られていた手から暖かさがつたわり、少し体から力がぬる。
 「……久しぶりに会ったけど、相変わらずすごい迫力だね。――ていうか、なんだかすごく怖くなった気がする。ううん、前から怖かったけど、どう言っていいのかな、こう、なんだか――」
 説明しようのない違和感に、ナギは口ごもってしまう。
 人間じゃなかったみたい、とはさすがに言えなかった。どうあっても、シンの父親なのだ。
 シンはあまりにも毛嫌いしすぎていために、その異質さにさえ気づいていないようだった。
 きっと普通の状態であれば、圭吾の放つオーラが、人間にはありえない、尋常とは思われぬ強さをもっていたことを感じ取っていたであろう。だがそれすら気づかないほど、シンの意識は彼を排除しようとしているのだ。
 「こんなときに何も来なくてもいいのにな。……まあいい、すぐに帰ったし。ナギのことも何も言わなかっただろ?相変わらずおれには興味がないんだよ。いや、自分の会社以外には、何も興味を持ってないんじゃないかな」
 ずっとそうであり、だからこそシンは父親へのすべてをあきらめたのだ。
 「……そうだシン、ぼく少しは外に出ても大丈夫になったよ」
 気分を変えるように言った。
 花束をとりにもどったナギは、腕にかかえ、嫌な気配を振り払おうとするかのように笑ってみせた。
 「出てみたのか?本当に――?」
 窓をあけたナギは、顔をすこしのぞかせ腕をのばしてみせた。来た時のように、毒でも吸い込んだかのような苦しげな様子はうかんでこない。
 そのかわり、青いベールのようなものが全身を覆っている様子が、陽光に反射し浮かびあがった。もちろんシンだからこそ、ほんのり流れるそれが見えたのだが、柔らかな膜のようなものがナギを確かに守っている。
 腕にある石と同じ色をしていることにシンはすぐに気がついていた。ナギが大事そうにかかえて眠っていたのをみていたのだ。
 「その石のことは、まんざら嘘じゃなかったんだな。見たとこ、どうってことない感じだけど、何の石なんだ?」
 「これはね、宇宙のカケラだよ。星の始まりにできた、石なんだって」
 そう言って、何ともいえない愛しそうな顔をするナギに、シンは、思わず視線をそらしていた。
 そんな甘い表情をするときのナギはきまっていつもソメイを思い出している。聞かなくてもわかってしまうくらい、その表情は甘くやさしい。ソメイがくれた物なのだと聞かないでもわかってしまう。
 「でもシン、なんだか地球の空気が変だよ。どういったらいいのかな、生体反応っていうか、空気に含まれるエネルギーの量が変ってるみたい。肌がピリピリするよ」
 ナギは入ってくる風にさえ痛むように腕をなでた。
 「そのことだったら、おれも気づいてるよ」
 シンは空気の中のなにかを読取ろうとするかのように外に目をやった。
 「地球全体が変化してるみたいな感じだよな。太陽光線や、酸素のなかに含まれている物質が、何らかの変化を起こしている。それに地磁気もときどき、生物には適さないレベルになることがあるんだ。地熱量も高すぎているし――おれにはそれが、まるで地球が、自分を蝕もうとしている何かを、嫌がっているように思われるんだ」
 パソコンではじいていた計算の結果には、その変化はすでに顕著に現れはじめていた。
 だからといってそれをどうすればいいのかわからない。情報量の少なさも手伝って、まだ現段階では、なにが原因かまではつかめていないのだ。
 「植物たちも痛いっていってるよ。ガイア様が、自分が愛しみ育んでいる我が子を害するはずはないもの。何かがなければ、この状況は絶対おかしいよ」
 花束をかかえ、自分自身がまるで植物であるかのような口ぶりでいう。
 そうして花にうずもれていると、人間とはまったくちがう生き物にみえた。生命が乏しすぎる。
 花がほんのり光った。
 ナギにむかってエネルギーが流れていくのがみえた。
 キラキラした粒の粉が体にまとわりつき、見えない傷までもを癒すかのようにそこへ注ぎ込まれてゆくと、忽然と花が消えてしまった。包んでいたビニールとリボンだけになり手から落ちていった。
 「みんな、消えてしまった……」
 ナギは切なそうにつぶやいた。
 命を――かれらは全部差し出してくれたのだ。
 まるで花たちが地球そのものであったかのように、愛し子のために自ら命をあたえる母親のごとく、ナギの体を浄化してゆく。
 大地のエネルギーの少ないこの地では、ナギのようにエネルギーの結晶体そのもののような身体では、弱るばかりでしかない。
 「みんな、ありがとう」
 包みをひろいあげるナギの頬には、ほんのりと赤みがさしていた。
 すこしばかり切ない表情をしているのが、なんともいえない色香を漂わせていて、シンはついみとれていることに気がつき、苦笑した。
 「もうそれ以上は外気に触れない方がいい。窓をしめよう」
 シンは音を立てずに窓をしめ、カーテンを引いた。
 「地球や空気の変化のほうはもう少し調べてみるよ。ソメイのことと何か関わりがあるかもしれないしな。以前から、多少は変化していたんだが、ここのところ急速すぎる」
 部屋にはいるとさっそくパソコンの電源をいれた。
 思いついたようにローテーブルのほうにも黒いノート型のパソコンをおいた。
 少しエンラにも教えようと思い、莉野の置いていった古いのを取っておいたのだが、まったく興味を示さないのであきらめたのだ。
 多少旧式ではあるが、テレビがつくようになっていた。
 シンのパソコンはだいぶ改良されており、増設したり、余計なものは抜き取っていたので、かなり特殊なものになっていた。難解な計算式も高速に解明することができるのだが、ハッカー用にもいじっていたため、セキュリティーが複雑で、多少あつかいが面倒なところがある。
 家にテレビを置いていないこともあり、ノート型パソコンはたまにニュースをみるときに使っていたのだった。
 「莉野のメールがみたいならそっちに送るけど。写真もあるぞ」
 電源をいれてしばらくすると、テレビ画面がたちあがった。すぐにニュースが流れはじめ、流暢に台詞をよむアナウンサーの声だけが耳を素通りしてゆく。
 シンはさっさと自分のパソコンにむかうと、カタカタと打ち込みはじめていた。
 「なんかすごい計算をしているね。目が痛くなっちゃうよ」
 肩越しに見ていたナギは目をしばたかせた。本当に頭が痛くなりそうな画面である。数字の羅列なのだ。
 シンは何ともなさそうに答えた。
 「このくらいは学校で習うだろう。まあちょっと手を加えているけどな。基本は同じさ」
 手がものすごいスピードで動くのにナギは感心している。まるでピアノでも弾いているように滑らかであり、画面に現れる数字が音符のようにみえてくる。
 「宇宙率に反するエネルギーだよな。ああ、やっぱり関係している。――なんだろうな、この第三者的な存在っていうのは。これがひどく干渉しているっていうか、これがあるから、反応の数値が、異常なまでに高くなっているんだよな」
 ブツブツ言いだしたシンに、ナギはさすがにそれ以上ついてゆけないとばかりに、肩をすくめてそばを離れた。
 凄まじい集中力にすこし驚いたが、そういえば子供のころからそんなことがあったのを思いだす。
 ナギはぼうっとしながら流れていたパソコンのニュースを見ていた。
 花たちにエネルギーを補給してもらったが、微細なつくりの体にかかっている負担の割合を考えると、まだまだ不足している。疲れているというより、息苦しいというか、まるで何倍もの重力のなかで暮らしているような倦怠感がぬぐえない。
 『……またもや、幼い子供たちの命が奪われるという、悲惨な事件がありました――』
 『路上で突然、刃物をもった男がおそいかかり―――強盗がレジにいた店員二人を殺害し現金十五万円を奪って逃走したもようです―――虐待が問題化しており、政府では――― ―家に帰らないのを心配した家族が……死んでいました――』
 ナギはボンヤリ聞きながら、あまりに嫌なニュースばかりが聞こえてくるのにゾッとしはじめていた。
 さきほどから伝えられているのは、殺した、殺された、いじめられた、いなくなった、死んだ、死んでいた――そんな話ばかりである。
 ナギは画面をみていて怖気に青ざめた。
 出てくる犯人たちの顔が、どれも人間のものではないのだ。
 魔物にとり憑かれ、意識も脳も喰いつくされた虚無の化物たちだった。
 殺された人間たちの生前の写真は、どれもすでに生きてはいない死に顔ばかりである。
 「なに、これ……」
 地上では、いったい何が起きているのだろうか。
 このおぞましい事件の数々は、地球の変化となにか関係があるのか。
 気分が悪くなったナギは、思わずパソコンの電源を切った。
 これ以上繰りかえされる陰惨なニュースや、それを起こす禍々しい物たちの姿をみたくなかった。つらすぎて神経が耐え切れなくなってしまう。
 指先が冷たくなっていた。
 ふとナギの異変に気づいたらしいシンは、いつのまにかそばにいて、その手をとっていた。自分の手のなかにいれて握りしめると、額をくっつけてきた。
 「ナギ、すこし休め。今日は動きすぎたみたいだな」
 子供のころのままの仕草で首を少しかたむけ、優しく言うシンに、なぜかホッとしたものを覚える。ナギは素直にうなずいた。
 布団に入って目をつぶると、なぜだかいきなり疲れがでたような気がした。
 シンはそばにしばらく付き添い、ナギの体から緊張感が消えてしまい、ゆったりするのを見届けてから、またパソコンにもどった。
 実のところ、シンもまた、最近の異様なまでの事件の多さには気がついていた。ひどく嫌なものを感じている。
 目をそむけたくなるような残酷なものも多数あったし、ゾッとする魔物たちの姿もかなりの割合でふくまれていたのだ。
 つい最近まで、ほとんどいなくなっていたと思っていたのに。
 またかつてのように鬼が関わりはじめているのはどうしたことだろうか。なぜこれほどまでに数を増し、復活してきたのか。
 あれから気をつけてみてみれば、学校にもかなりの数で鬼がふえていた。
 すでに食われてしまった者たちもいれば、取り憑かれ、魂を吸いとられかけているものもいる。またすでに人ではなくなり、人形のようなうつろな顔をした生徒もいた。
 地球を侵している存在が絶対にあるはずだった。
 それが全てのことにかかわっている。シンの本能的なものがはっきりとそう告げている。
 そのことが、ソメイに起きていることと何らかの因果関係があるのかどうかはわからないが、時期を同じくしていることは、たぶん無意味ではないはずだ。
 どのくらいそうしていたのだろうか、時計はすでに深夜の二時をさしていた。
 同じ体勢でかたまっていたシンは体をのばし、立ちあがった。
 ふと目をやると、ナギがまだ怯えるように体を小さくまるめ、苦しげに何度も寝返りをうっているのが目に入った。
 膝をつき、ナギの顔をのぞきこむ。
 「ナギ、どこか苦しいのか?」
 ぼんやりひらいた瞳は、涙がうるんでいた。夢を見ているのであろうか、視点があっていない。
 目が赤かった。もしかしたらうまく眠れていないのかもしれない。
 「どうした?どこかつらいのか?」
 ナギは声をかけられ、シンの姿をどうにか意識にみとめると、かすかに首をふった。髪の毛がサラサラと音をたてた。
 「なんでもないよ……。シン、そんな顔しないで」
 眠りはけっしてナギの心身を休めていない。体だけは疲れてドロのように重いのに、意識は針のように鋭くとがり、ナギの神経に突きたっている。ひとりでそうしていると、よけいなことばかりが頭をよぎり、さらに不安をかきたてられている。
 天上界にいるときも、時折そんな風になることがあった。
 そんなときはいつもソメイがナギの背をなでてくれ、ナギのなかにある黒いモヤを払ってくれていた。
 優しく髪を梳き、吐息がかかるほど頬をよせては、温もりをあたえてくれた。目覚めるといつでも優しいまなざしでナギをみていてくれた。
 どんなに守られていたか、どんなに愛しまれていたか、離れてみると痛いほどわかってくる。ほんとうにソメイは大切にしていてくれたのだ。
 ナギはもはやソメイのそばでないと本当には眠れなくなっていた。
 あの腕のなかだけが安らげる場所であり、ナギの存在を許してくれているのだ。どこにいても帰るところはソメイの腕の中だけしかない。
 「ナギ……」
 そんなナギをどう思ったのか、シンはそっと傍によりそい、抱きしめてくれた。
 不思議とソメイと同じぬくもりがして、目の奥が熱くなった。
 「何も心配はいらないよ。何も不安になることはない。大丈夫だから……ちょっと眠れよ」
 まるでナギを眠りにつける呪文のように、背をなでながら、何度も何度もそうささやいてくれた。おだやかな耳をくすぐるような声音は、おどろくほどにソメイのものに似ている。
 ナギは抱きしめられながら、まるでソメイのそばに居るような安堵感につつまれていった。それでもシンの腕だと心のどこか感じながら、心が穏やかになってゆき、ずっと無理やり押しとどめていた思いがあふれだしてゆく。
 「……ソメイ様」
 一粒の涙が流れおちた。
 寝息たてはじめてから、起こさないように細心の注意をはらい、シンはそっとナギを腕からはなした。
 目の上にかかる髪の毛をかきわける。
 指でナギ長いまつ毛をなで、頬の柔らかいラインをすべらせた。
 胸が痛んだ。
 ナギの流す涙はぜんぶソメイのものであった。
 この小さな胸に詰まっている思いはすべてソメイへの思いであり、ナギの中にあるもの何もかもがソメイを慕い、ソメイだけを求めている。口にださなくとも、いやというほど伝わってくる。
 この胸をえぐるような冷たさはなんなのであろうか。
 シンはたまらず部屋をでていった。
 庭まででてくると、暗い空間にたたずみ、雲で薄くなった星をあおぎ見た。
 一人でいるときの孤独とちがい、二人でいるときの孤独はとても心が痛く感じられる。より寂しさをつのらせるようで、哀しみを増してしまう。
 星が流れるように、光がすべりおちた。
 シンのかたわらにまで弧を描いて流れると、フワリとほのあたたかい光が爆ぜるように膨れあがる。
 ――……待っていて……かならず、あなたのもとへ行くから……シン……
 まだ蕾にもなっていないような麗らかな少女の声が頬をなでた。かと思うと、フワリと抱きしめられ、唇に、人肌のぬくもりが甘くかすめていく。
 光が消えるのと同時に、そのぬくもりも消えてしまった。
 うずくような心地ちよいときめきが、シンの胸に波紋のようにいつまでも広がってゆく。
 「……いまのは、だれ、だったんだ?」
 シンは無意識に唇を指でなどっていた。
 切なく思いのたけのこもったキスでもされたかのように感じてしまった。
 気がつくと、胸の痛みが消えていた。
 かわりにドキドキしている。そのドキドキは決して嫌なものではなくて、もう一度それに会いたいような、それが何であるかを確かめたいような、そして今度は、こちらから抱きしめたいと思わせるような、不思議な感覚である。
 自分の思いに気づくと、ノドを笑いにふるわせて、振り払うほうに首をふった。
 「疲れているのかもしれないな、おれも」
 息をついた。
 色々なことがあった。
 嬉しさと孤独が同時にやってきて、シンの中でせめぎあい、それにどう対応していいのかわからずに、ひどく惑っている。
 ナギがそばにいることは、心ときめくような喜びでもあり、身を切るような孤独でもあった。
 そんなこと思いもしなかった。今までになかった感情ばかりである。
 わかっているのだ。これは嫉妬なのだということを。
 ソメイに対して、どうにも出来ない感情がつねに渦まいている。
 この世界をつくった最高神に嫉妬するなんて、おかしくて笑うこともできない。身の程をしらないと鼻であしらわれてしまいだろうが、ナギに対する気持ちだけは、そんなものなどまったく関係ない気もする。
 強くたぎる思いは、自分自身さえ燃やしてしまいそうだ。止める方法がみつからない。
 深呼吸を何度かくりかえし、胸のなかの嫌なものを全部はきだしてしまった。
 それからしばらくしてシンは部屋にもどっていった。
 心を乱したままのシンでは、きっと神経が過敏になっているナギならば、すぐにこの感情に反応してしまうだろう。それだけはどうしても避けたい。
 この思いに気づかれたくない。
 ――きっとナギを苦しめてしまうから。
 できるだけ驚かさないように負担をかけないように、守らなければならないのだ。そのために、自分はナギのそばにいる。
 シンは自分を叱咤した。
 心をカラッポにするためにパソコンに向かうと、なんの気なく画面の数値をいじっていた。
 そういえば、今日の圭吾の訪問は、なんとなくいつもよりも嫌なものがより強く感じられた気がする。
 あの程度のことで――たかがシンの学校のことなどで、家に立ち寄ったことなどなかったはずである。そのくらいのことならば、秘書から電話がはいるか、必要書類を送ってくるだけで十分なのだ。
 圭吾はまるで興味がない、というようにしながらも、シンの背後にいたナギをたしかに見た。
 そのときのナギの怯えようは普通ではなかった。まるで鬼にでも出会ったかのように青ざめふるえていた。
 よくよく思い起こしてみれば、シンは父親について何かをふかく考えたことがなかった気がした。
 いつも何かを感じながらも、それ以上のことを追求しようとすると、かならず脳に膜がはったように思考がにぶってしまい、いつしか、そんなことを考えることすら面倒になって、彼のことを思うことをやめていた。
 気づけば、圭吾については、あまりにも疑問が多すぎはしないか。
 あの男は、幼いとき莉野がいなくなったときもまったく騒がなかったし、結婚するといって外国に行っても、何もいわなかった。
 エンラのことも説明すら求めてこなかったし、かえって協力するかのように、さっさとナギとして法律的に登録してしまった。まるでシンのそばに置こうとしたかのようにすら感じられる。
 どうしてそんなことをする必要があるのだろう。なにを考えて、そんなことをしたのか。
 ナギをみた時のあの目は、深い意味をはらんではいなかったか。
 父親のあの普通でない態度をいままで疑問視しなかったのかと、そう気がついてみれば、それさえあまりにも不自然であった。
 まるで故意に忘れさせられ、考えることそのものまでも拒否させられたかのように、歪んだ力の存在を感じてしまう。
 ようやくそれらのことに気づいたのは、きっとナギを守ろうという強い気持ちがあったからかもしれないどんな敵であろうと貫かんばかりに高められた意思が、何かのシールドを破ったのかもしれない。
 一度疑問におもえば、あとは転がるように湧いて出てくる。
 そもそも、この家に、幽界の入り口があったのはなぜなのか。
 嫌なものを感じブルリと震えた。今までどれほど悪質な呪縛にかかっていのかと、考えるだけでも空恐ろしくなってくる。
 どんな風に考えてみても、根源にはあの男の顔がうかび、好ましくない結果しか生まれてこない。
 ――それほどまでに必要としないのなら、なぜ自分などを母に生ませたのだろう。
 カタカタカタカタ、とキーボードが勝手に動き出した。
 モニターに文字があらわれた。
 またあの言葉だ。
 たすけてタスケテたすけてタスケテたすけて――
 延々とつづく、助けてほしいという文字の羅列。
 「まただ、また『たすけてくれ』だ。ではあの時のアレは、ナギのことではなかったのか?! いったい誰かがおれに――何の助けを求めているとうんだっ!」
 深々と更けゆく夜の帳のなかで、シンはただ画面をじっとみつめていた。文字はただ、画面をおおい尽くすほど言葉を繰りかえしていただけだった。




 それから数日の日にちがたっていた。
 シンは相変わらず難しい顔をして、一日のほとんどをパソコンのまえから動かなくなっていた。
 学校にはほとんど行かず、就業式の日だけ出て行ったくらいで、補修やらなにやらと結構あったはずだが、あとは全部無視していたようだった。
 今回の試験を、教師に文句を言わせないだけの点数をとっていたこともあって、きっと無理に出てこいというお叱りや文句の言葉は、かけられなかったのだろう。
 ナギの花を買いに外出するだけで、食事も適当なものですませていた。簡単なサンドイッチかコンビの弁当がほとんどで、ただお腹を膨らせているだけのような食べ方だった。
 そのあいだ、ナギは、屋敷中の部屋を丹念にしらべていた。
 小さな戸棚の一つ一つまで、開けてはみては中をのぞき、手を差し入れ、わずかでも変動がないか、幽界へつながる手がかりがないかと、神経を尖らせて、集中して探っていった。
 そのせいであろうか、ナギは短時間ですぐに疲れを覚えるようになっていた。
 無理な体勢でどこかにのぞき込むと、胸が苦しくなってしまったり、気分が悪くなるのだ。エネルギー不足も決して小さくはないだろうが、思うように動かない体が、嫌になるほどもどかしい。
 時間がたつにつれ、気ばかりが急いて、いてもたってもいられなくなってきていた。
 体がついてゆかないので、余計に苛立ちがでてしまい、もし思い通りに動けたらきっと家中をとびまわっているのに、何か見えるかもしれないのに、という悔しさに、自分のふがいなさを責めはじめている。
 それでもこの家から、幽界の気配は消えていなかった。
 わずかな片鱗でも、感じればそれを頼りにだどってゆく。
 すこしでも近づくとフッと消え、あきらめそうになるとまた感じるという、まるでイタチゴッコのようなことを繰りかえしていたのだ。
 からかわれているみたいないやな感触ばかりが大きくなっていった。
 シンも時折、一緒にさがしてくれたが、きっとナギの苛立ちが伝わっていたのだろう。シンもまた、なにかひどくイライラしている時があり、制御しにくい自分の感情に、時々は振り回されているかのようだった。
 それは自分でどうにもならないものであり、きっと父親のことに関係しているのだろうと、なんとなくナギにもわかっていた。
 日ごろ冷静なシンがそうなるのは、決まって父親の影がチラついていたからだ。
 「ナギ、ちょっと休憩しようか」
 四つん這いになってサイドボードの下扉をのぞいていたナギは、背後からかかる声に、頭を棚から抜きだした。
 シンは笑いながら、小さな子供にするように抱き起こす。
 手からはシンのぬくもりと一緒に、心地よいエネルギーが流れ込み、ナギの冷えた体を温めてくれた。こんなときの彼のエネルギーは優しさそのものである。
 「まだ、みつかりそうにないのか?」
 「うん。なかなかみたいだね。――何かをね、感じているのに、それに近づくと消えてしまうんだよ。あのときはあんなに簡単に幽界へと通じたのに、どうしてなんだろうね」
 シンは幽界、という言葉に思いを馳せるように遠くをみていた。
 「そうだな、どうしてあの時はあそこに幽界の入り口が開いていたんだろうな。考えてみれば、何もかもが不思議だ」
 手をひかれて、そのまま外にでていった。
 庭の繁みにある大きな木のそばにいくと根元に座り込み、ナギが冷えないように、膝にかかえるようにして座らせた。
 「あの男がソレを知らないはずはないんだけどな……」
 「なに?」
 「いや、なんでもない。――そうだな、疑問に思えば思うほど深みにはまるってところかな」
 「ほんとだよね。シンもすごく怖そうな顔してパソコンの前に座っているけど、なにを調べてるの?」
 じっとみつめられて、シンは困ったように笑った。
 「おれはそんなに怖い顔しているか?」
 「してるよ。敵に向かってるみたいにキーボードを弾いてる」
 「敵かぁ……。それは言い得てるかもしれないな」
 鋭いな、と小さく笑った。ナギの小さな頭を、自分の胸にもたれかけさせると、シンは顔を見られないように腕に抱きこんだ。
 じっとしていると鼓動が一つになってゆく気がする。
 「そうだな、何にせよ情報量がたりなさすぎるよ。不確定指数が高いのもネックだし、どんな演算式で考えてみても、今ひとつ決定打にかけるからな」
 「ぼくには全然わからないけど……。でもあの数字、見てるだけで頭痛くなっちゃうよ」
 言いながら、ナギは空をみあげた。
 いつも灰色の曇が垂れこめている。雲は層をつくり、なにか邪悪なものから守っているかのようにもみえるし、すべての生命の源である太陽の光さえあきらめて、地球をそれらから隠しているようでもある。
 ナギはこうして、シンと一緒にたまに庭に出るようになっていた。
 呼吸に対する心配が、わずかだが軽減したことともあり、また庭ある手入れの行き届かない緑の繁みで、こうしてエネルギーを補給してもらうほうが、部屋にいるよりずっと体が楽になることもあって、少しだけ出ているのだ。
 ぼんやりと生暖かい風を感じながら、ふたりは空をみあげていた。
 厚い雲のむこうに、太陽のまるい光がかすかに浮かんでいる。
 その横に、雲が対流の関係からだろうか、渦が巻きはじめていることに気がついた。
 不吉な呪いの歌をでもうたうかのように、どんどん雲はそれにすいこまれ、中央に目のようなものができはじめていった。
 いや、無理やり何かが守りのバリヤーに指をつっこみ、引き裂き開いているかのように見える。
 ナギは息をのんだ。
 なぜなら、そこに姿を現したのは、黒い球体だったのである。
 ナギのよく知っているあの、黒い月ではないか。
 天界におぞましく姿をあらわした禍々しい暗黒の侵略者は、ついに地球にまで姿を現しだしていた。こんなにはっきりと姿がみえるほどに近づいてきてる、ということである。
 シンは厳しくまなじりを上げた。切れ上がった目の縁が赤らんでひどく野生的にみえる。
 「黒い月――」
 ナギのもらした言葉に、シンは目を驚いたようにむけた。
 「ナギ、アレを知っているのか?」
 「うん、だってアレは、ソメイ様が眠りから醒められなくなったときに、天界に現れたんだもの。あの月が姿をみせたのと同時に世界に闇がおちて、エネルギーが減りはじめてしまったんだ。――多分、ぼくが放ってしまったあの黒い珠と、なにか関係があるんだと思う……」
 シンは何かを推察するように、じっと月をみつめていた。
 ハッと気づいたように強い声で言った。
 「あの月だ!あれが今まで掴めなかった『第三の存在』だ。見えなかった不確定要素をやっとみつけたっ!」
 「シンも前に見ているはずだよ。ソメイ様の物見の塔で、あの五つ目の窓からね。恐ろしくおぞましい暗黒の世界がひろがっていたはずだ――」
 シンは、エンラとともに無我夢中で天界にまで行き、ナギを連れて帰ってきたのだ。だがたしかに、あの時、窓の外にひろがる忌まわしいばかりに不気味な世界をみていた気がする。
 あまりにもナギのことに懸命になっていて、すべてが意識の外にあり、塔に入ったのも初めてだったため、窓のむこうに何が広がっていたのかさえ気にならなかった。そう言われるまで、そんな光景を思い出しもしなかった。
 ナギが月の邪悪さにあてられ、小さく震えた。
 まるで黒い月はそんなナギをあざ笑うように、凶悪な黒い色をより艶光らせてゆく。
 青ざめているナギを抱えこみ、シンはその不穏なエネルギーからナギを隠すようにして睨みつけた。黒い月はそんな二人の姿に満足したかのようにどんよりと鈍くひかりを放っている。
 しばらくのあいだ、雲さえ溶かしたかのよう、灰色の空にポッカリと月は姿を現していたままだった。



                                        


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