王宮の中庭にそびえたっていた白樹王は、すでにその枝々から、豊穣にしげらせていた葉をほとんど散らしていた。
エネルギーを尽きることなく流々と放っていた花はしおれ、太い幹は半分にまで大きな亀裂が入っていた。
散っていった葉はどれも茶色く変色し、白い花びらもまた留まるところをしらぬように、惜しげもなく風に流れていた。
いまやあれほど瑞々しくたおやかにそびえたっていた大樹の面影は、どこにもなかった。
シンは樹のそばにそっとナギをおろした。
腰を支えられたままのナギは、白樹王の樹幹に手をあて、耳をおしつけた。
見えないはずの瞳には、どこか別の世界が写っているのだろうか、彼岸の彼方にうつる幻影のような光がゆれている。
「シン……」
呼ばれたシンもまた、幹に耳をつけた。
コポコポとまるで血液が逆流するような、不吉で痛々しい音が微かにきこえていた。命の最後のカウントダウンが始まったかのように、ひっそりとしていながら、確実に訪れる終末の時を、刻んでいる。
「白樹王と黒樹王はね、この星の地下で、ひとつの根より生まれた双子の木だったんだ」
そう言ったナギを、シンはじっとみつめていた。
「シオン様は、この世界のことを思って浄化の森を創ったんだけれど、逆にその森にエネルギーを奪われはじめてしまったんだ。だから彼の力でどうにか保っていたこの世界は、それ以上生きつづけることが難しくなってしまったんだ」
「……ああ」
「優しすぎるほど優しい王だったシオン様は、自分の限界を知ったとき、世界樹でもある白樹王に『贄』をあたえることで、この世界をどうにか守ろうとしたんだけど、でもそれは、この世界を支えていた白樹王にとっては、まさに気がふれんばかりの狂気の行為でもあったんだ」
ナギに流れ込んでくるのは、かつてこの世界で起こった真実の物語だった。もはやこの世の世界ではないものを、その目はみつめていた。
「それでも王の心を汲もうとし、またこの世界を愛してもいた母なる白樹王は、贄をうけとりながら、歪みに耐えていたんだ。でもその苦しみをかさねた結果、だんだんと狂っていはじめしまった。――そして、シオン様によって創られた浄化の森は、自分たちの力だけでは、もはやどうにもできない限界まで行きついてしまい、森の破滅を予知しってしまった。――それが星の消滅でもあることを悟った彼らは、黒樹王にもまた、同じように贄を与えはじめたんだ」
贄によって魔力を得た黒樹王は、根元でつながっている白樹王の狂気を自らの体にすべて受け入れていた。そうすることだけが、白樹王の生命を守る唯一の方法だったからだ。
白樹王の死は黒樹王の死であり、また世界樹の死は、星の終わりを意味していた。
さらには四千世界すべての世界の木に過大な負担をあたえ、最悪の場合はともに枯れ、世界の終わりさえ呼びよせてしまうかもしれない、おそるべき危険をはらんでいる。
「白樹王は黒樹王によってどうにか浄化され生きていた。だけど、黒樹王だけが清められてしまった今、この星のもつ狂気と悪夢は、白樹王ひとりにすべて流れこんでいる。白樹王を清めなければ、この星は終わってしまうんだ」
ナギは贄を受け入れさせられていた白樹王のウロに手をかざした。
シンが中に何があるのかとのぞきこんだ。
暗く、真っ黒い空間だった。
世界の終わりが来るその時に、きっと訪れるであろう虚無の闇が、永遠の孤独と憎悪と絶望をもって無限にひろがっている。
闇の底では、生き物のように何かがざわめきながら、救いの光をまちわびているようにさざめいていた。
シンはナギの考えていることを悟ったかのように顔をあげた。ナギにかけていた手の力を強めひきよせた。
「――それでも、ぼくはこの中にあるソメイ様の黒い珠を――ソメイ様の心の闇を、抱きしめてあげたいんだ」
「ナギっ!」
ナギはどうしてなのか、この上なく安らいだ顔をしていた。
やっと最後の闇に会うことができ、ホッとしたような、何もかもを通り越してこそを得ることができる、無心そのままのような、透明な笑みをうかべている。
シンはたまらずナギを抱えこみ、どこにも行かせないかのように、これ以上苦しめないように守ろうというかのように身をよせた。
「ダメだナギっ!あんなものを受け入れたらおまえは死んでしまう!」
「でもあの闇はぼくでなければダメなんだ。――ううん、違うよ、ぼくの方が、抱きしめてあげたいんだよ。――どれだけの時間のなかで、それこそ気の遠くなるような流れのなかで積もっていった、あの孤独と不安を、少しでも癒し消し去ることができるなら、きっとその時こそが、ぼく自身の心が救われるはずなんだ。ソメイ様の闇を消すことで、この胸のなかの悲しみを、本当に消すことができるんだよ」
ナギがシンを抱きしめかえした。
そして、力をぬいた。
「シン、ぼくはウロの中にあるあの闇を浄化したい。でもそれは、ソメイ様のためじゃないし、白樹王のためでもないよ。ましてこの世界のためでもなくて、本当に、ぼくのためなんだ。……あのウロの中に入って、最後の贄となり、黒い珠を浄化しなければ、もはや何も終わらないんだ……。シン、わかって――」
「わからない!そんなこと、おれにはわからない!」
シンは叫んだ。泣いているような、怒っているような何ともいえない切ない声だった。まるで子供のように幼い表情にみえる。
「――だったらおれが白樹王の贄になってやるよ!おまえが何もそうすることなんてないじゃないか。力の弱ったボロボロのおまえより、ソメイの力で爆発しそうなおれの方がきっと白樹王だって――闇の珠だっていいに違いない。ソメイの闇を、ソメイのこの力で消したほうがいいはずだ!」
「シン……シンっ!」
ナギは必死で顔をふった。
「そうじゃないんだ、違うんだよ。ぼくは天界樹だから、本物の樹になるだけで、元に戻るだけなんだ。なにも、犠牲になるわけじゃないんだ」
「違いはしない!おれはただもう、おまえがこれ以上苦しむのを見たくない、それだけだ。――おれこそ、この世界なんてどうでもいい。おれが本当に救いたいのはナギ、おまえだけだ。ソメイと彼らのために自分のすべてをも与えるという、おまえのために、この樹におれを与えてやる」
「シン――」
「ナギ、愛している。おまえを愛している、愛している……」
シンはナギに口づけた。
切ない思いのこもった、せつなくて胸がいたくなるような口づけだった。はじめてだった。
ナギは涙がこぼれた。
シンのすべての気持ちが流れ込み、伝わっていた。どうしようもない哀切の情が胸をつらぬいて、五体が哀しみの毒におかされ痺れてゆくようだ。
ナギは見えない目をしっかりとあけ、シンの瞳をみつめた。
そこに映っている、深淵に眠る明星のような、しずかな闇の球をみつけてしまった。
「こんなところに……本当の最後の、球があったんなんて。――なんて、痛々しくて寂しい……シン……シン……っ!」
シンの愁いにぬれている漆黒の瞳の向こうにあるのは、ソメイの哀しい二つの珠だった。シンの瞳にやどっていたのは、ソメイの孤独の光だった。
ナギは涙をぬぐうこともできず、胸がえぐられるような痛みをこらえ、愛しさでたまらぬようにシンの瞳に眠っていたそれをみつめていた。
ナギの腹から光が放たれだした。
体が燃えるように熱くなり、シンの顔を黄金のひかりで照らしてゆく。
まるで慰めようとしているかのように優しい風がふわりと頬をなでてゆくのに、シンの中の痛みがうすらいてゆくのがわかる
ナギは何かを理解したような気がしていた。優しい、たまらないほどに胸に染みいる笑みを唇にのせた。
シンはじっと目を細め、ナギだけをみていた。
白樹王のウロが同じように光をあげはじめた。
まるでナギを呼んでいるかのように一条の光をはなち、最後の力をふりしぼるように樹の幹がミシミシと裂かれるような音をあげた。
ナギは鼻がこすれるくらい顔をよせ、シンの瞳をのぞきこんだ。
「シンでは、このウロの奥底にある闇は癒せないよ。きみの中にある闇と、この白樹王のなかの闇は同じものだもの。きっと反発してしまう。――そして、シン、きみの闇は、悔しいけれどぼくでは癒せない……。ぼく以外の誰かが、きみを待っているはずだ」
ナギの体がその言霊にこたえるかのように、さらに光沢をました。
どこかで『シン――』という少女の呼ぶ声がきこえた。
一瞬、シンはその声に心すべてを奪われたように、力をぬいた。
そのすきに、腕の中からスルリと抜け出したナギは迷いもせず、ウロに呼ばれるように飛び込んでいく。
『ごめんシン。ウロの底にソメイ様の闇を、どうしても、どうしても、消してあげたいんだ。ごめんシン――ありがとう』
「ナギ――っ!!」
シンは絶叫した。
声は黒月界を揺るがすようなエネルギーとなって立ちのぼり、突風をまきあげ森をかけぬけた。いまだ漂っていた闇とはげしく衝突しては、小さな稲妻をあちこちでつくり火花をあげている。
闇のなかに溶け込むナギの姿が小さくかすみ、とうとう見えなくなってしまった。ウロに手をかけ飛び込もうとしたシンよりも早く、そこは閉じられてしまった。
まるで予定調和の出来事のように、またそれ以上のなにものも受けつけぬし、どんな干渉も排除しようというように口を引き結んでしまい、あとはもう、憎らしいくらいひっそりと静まりかえっているだけである。
「ナギっ!」
耐えきれないように拳をにぎりくいしばった。
紅蓮の炎に燃えさかる怒りの瞳を天へむけシンは叫んだ。
「ソメイなぜ助けない――っ!」
天空がビリッと鳴った。
シンの額がほとんど割れていた。血がながれ、瞳に注ぎこまれ、まるで血の涙を流しているかのようにみえる。
胸のポケットがにわかに熱をおびた。
焼けるような熱さに思わず取り出したそれは、この世界に来る直前に入れた、亜希の絵であった。
絵をみたシンはすぐに感じとった。
亜希の描いた『樹のウロ』から渦巻くようなエネルギーが発せられている。
まさにこの絵こそが、天上界にある世界樹であり、あの闇を孕んでいたウロそのものだった。ここにもう一つの世界がある。
「ここだ!」
シンは絵をひろげると、そこから放たれているエネルギーをしっかりとつかみとった。
嵐のような突風が吹きあげ巨大な龍のようにシンに絡みつくのに身をまかせ、まるで飲み込まれるようにして、絵の中にシンの姿が消えていってしまった。
一枚の絵だけがヒラヒラと大地に舞い落ちていく。
そのまま風のひと吹きによって、光の粒となって空気に霧散してしまったのだった。
物見の塔のなかに、一陣の風が舞い込んできた。
ソメイの長い黒髪がたなびき、白皙の美貌をなでるように散らす。
部屋の隅にまるまっていたエンラが目をみひらいた。
まるで猫が獲物を見つけたかのように跳ね起きると、ソメイの前にかけだした。
二人の前に光があらわれたかと思うと、プラズマを発しながらふくらんでゆき、それは人の形になっていった。
最後の光芒がひときわ大きくまたたくのに、エンラは待ちきれなかったかのように嬉しそうに顔を輝かせてとびついていく。
光のきらめきを残しながら、脇にだきついてきたエンラを、シンは片腕でだきとていた。
まっすぐにソメイをみつめ、鋭い瞳をむけている。
憂うようなソメイの瞳と視線がぶつかりあったまま、どちらも言葉をかわすこともなく、目をそらすこともせず、ただ時間だけがすぎていった。
わずかの迷いもない、渾身の怒りと悲しみをあらわにしたシンの表情は、ソメイの造りもののように端正で沈静な面持ちとはちがい、生きいきとしてみえた。
命をおび、怒りをおび、感情をはっきりともっている強くて鮮明な光がシンならば、ソメイの光は、嵐の激しさも雷のひらめきも、ただそれを遠くからみつめているだけの、生命感の薄い、神秘的な美しい幻のようだった
だが、一見、まったく正反対であるかのように思えるのに、どこかが似ていた。二人の魂の根源がおなじものである証拠に、たったひとつの魂を、これ以上ないほどに愛してしまっていたではないか。
二人は見据えあったまま、息がつまるような沈黙がつづいていた。
そんなことなどまったく気にした様子のないエンラだけが、シンの脇でゴロゴロ甘えるように擦りよりながら、楽しげにシンに声をかけた。
「やっと来てくれたネ、シン。エンラ約束したからずっと待ってたよ。ねえ、ナギはどうした?一緒じゃないのか?――どこイル?」
エンラのはなった『ナギ』、という一言が、二人あいだに流れていた静かな時間をやぶった。
口火を切ったのは、意外にもソメイの方だった。
「あの世界は――黒月界はわたしの心の闇が創った世界だ。この心に降り積もった闇から目をそらし、ひとつずつ困難を乗り越え克服していくことを畏れ、怠った、わたしの――唯一の罪の世界だ」
声に出すことでさらに痛みが増すように、ソメイの声は鎮痛そのものだった。
シンがなんの同情もなく答えた。
「ああ、そうだな。あの世界は昏くて残酷な、暗黒の世界だ。宇宙のすべての闇をあつめ、あの星と、あの世界の王と――そこに在るものすべてで浄化させられている、この世界で最も過酷な、無情の世界だ」
黒月界に堕ち、惑い、苦しむ者がいた。その闇に恐怖し、狂いなげく者がいた。そして、その世界であってさえ、必死に生きようとする、懸命な人々がいた。シンはそんな人たちを見て来たのだ。
「だが、たとえ始まりがおまえの心の闇でろうと、あの世界はもうすでに存在している。あそこはあそこで新しい時を刻み、物語をつむぎだしている。あの世界はおまえからはなれて存在してしまっているんだ」
「わかっている。だからこそ、わたしは何もできないのだ」
「ソメイっ!」
「――いいや、本当は、わたしはあの世界があることすら忘れていたのだよ。わたしに闇があってはならぬと、ずっと目をふさいでいた。忘れねばとあまりに必死になりすぎて、自分で自分の呪縛にかかってしまっていた。……あれほど肥大化し、闇が深まり、私自身を害して、命を止める寸前とならねば、気づくことすらできなくなってしまうほどに。………ああ、だがなんと言葉を重ねようと、すべてはわたしの罪なのだ……」
シンはキッと目を吊りあげた。殴りつけるのをこらえるように手を硬くにぎっていた。
「罪とわかっているなら、それに気づいたならどうして行動しない!どうして己の闇を払おうとしないんだ!――そのためにガイアは死を迎えようとしているし、堕天使の奸計で、罪もない少女たちの命が費やされていった。――そして、おまえの存在の対であるシオンによって、多くの人間が連れ去られ、命を無為に散らしていたじゃないか」
シンの切りつけるような叫びに、ソメイはただつらそうに目をほそめただけであった。耐えるように沈黙していた。
そのようなことなどすべてわかっている。すべてを見ていた。そのこともまた、シンにはわかっていたのだが、それでも言わねばならなかった。
「誰だって間違ったり、馬鹿なことをしたり、罪をおかしたりするんだ。だけど、それこそが命なんだ。どんなカタチで生まれてきた命でも、この世に生を受けたからには、よりたくさんの喜びを知り、楽しさや嬉しさ、笑うことを知る、権利があるんだ。愛し、愛されることを知り、幸せを受けとってもいいんだ。――エンラだって、どんな形で生まれて来たにせよ、愛さえ知っていれば、人間に近くなることだってできたじゃないか。――ナギの心を知ってエンラは人の情を知るようになり、優しさや思いやりを持つことができた。だからここに居る」
エンラはじっとシンをみていた。
そしてソメイをみて、口をひらいた。
「エンラ、愛がどんなものか少しダケわかる。シン、いつもナギを見ていた。ナギ見ている心、すごく温かくて、切ない。でもすごく気持ちいい」
ソメイのほうへゆっくり歩いていった。顎をもちあげ、彼の宇宙の果てにある孤独の闇そのもののような瞳をみつめた。
「ソメイ、あまり気持ちよくない。心が、正直じゃない。こわがっている。不安ばかりだ」
ソメイは驚くようにエンラをみた。
だが、やはり何も言わなかった。
きっとその通りなのだと思ったのだろう。表情の寂しさが物語っている。
シンがもどかしそうに言った。
「どんなことでも、初めてのことはすごく勇気がいるものなんだ。誰かに愛を伝えることだって、思いを伝えることだって、すごく大きな勇気だ。見せない世界に踏み出すことには勇気がいる。だけど、どんな状況にあったって、前に進まなければどこにも行けはしないし、勇気をもたなければ、どこへも行きつかない。同じところにたたずみ、震え続けるなんて、あまりにも情けないじゃないか」
「シン、だがわたしは――」
「ナギは――ナギはおまえの闇を浄化するために、あんなに苦しんだ。おまえを助けるためだけに、おまえが楽になるためだけに、今もまた、すべての闇を引き受けようとしている。どんなに恐ろしい闇だろうと、その果てにどれほどおぞましい結果がまっていようと、前に進むことを恐れず懸命に進んでいる。――全てをかけて、おまえを愛してるじゃないか。あの愛が、おまえに伝わらないわけがないだろう?」
「わかっているっ!……わかって、いるさ」
さすがのソメイも耐えかねたように思いをもらした。
「ナギが、どれほどわたしのことを思い、わたしのために尽くしてくれているか………どんなに苦しんでいるか、わたしにだって痛いほどわかっている。ナギが傷つくたびにこの体は楽になり、そしてこの心は、深くエグられ、トゲがつきたち、血がとめどもなく流れてゆく……」
体の傷と、心の傷とでは、どちらのほうが痛くてつらいのだろうか。
だれにも決めることなどできはしない。
ただ、違う場所が、違う次元で痛み、だが、それは我慢ならないほどの激痛であることに違いがない。
「わたしとて、どれだけの思いでもって、ここからナギを見ていたか……。いっそ何もかも捨てて、この手でナギを抱きしめたい。助けたい。助けに、行きたいと……」
「行けばいいだろう!」
シンは叱りつけるように叫んだ。世界が震るえるように鳴動した。
だがソメイだけは、静かに首をふった。
「いっそこの場からとびだし、助けることができたなら、どれほど楽だろうか。わたしが創造神でさえなければ、こんな苦しみを負わずにすんだかもしれないし、ただの男だったら、こんな思いを味合わずにすんだかもしれない。――だが、それでもわたしは創造神なのだよ。そうするわけにはいかない。どうしてもできないのだ――」
ソメイは奥底にたまっていた暗澹たる胸のうち吐き出すように、苦しげだった。眉間に深く刻まれた皺までが苦悩にふるえており、そして皮肉なほどに美しくあった。
「わたしには見ているしかないのだ。この世界にわたしが手を加えることはできない。この世界に神の力が加われば、どんな恐ろしいことが起きるかわからない。わたしでさえ予測ができない未知のエネルギーとなってしまい――もしかしたら宇宙全てを滅ぼすかもしれない。いや、もっと多くの命をうばい、悲惨な未来をつくるかもしれない。……わたしはそういう未来をたくさんみてきた。己の愚かさを恨み、何度嘆いてきたかしれやしない。――だからこそ、わたしは世界に加わることはできないのだ。二度と、そうしてはいけないのだっ」
まるで痛哭な叫びの言葉の魔力がソメイを呪縛し、さらに苦しめているかのようにみえている。
「……きっと君は、動くことの許されないわたしが、行動する者として生み出されたもう一つの魂なのかもしれない。世界に関わることのできる、もう一人のわたし――」
「なんだと?」
「シン、わたしは誰より君がうらやましいよ。生きて、動いて、これらの世界にかかわることのできる君が、誰よりもうらやましくてたまらない」
ダンッと柱を叩きつけた。
憤激にたぎり、シンの全身が烈火のごとくに炎をあげてまるで黄金に燃えているかにみえた。怒りに溶けてしまのを耐えるように、犬歯をむきだし、ソメイを睨みすえている。
だが、そのなかにある一滴の悲しみの色だけが、あまりにありありと心の内をうつしだし、胸から流れる透明な血の赤を、目に痛いほど浮かびあがらせているではないか。
「おれが、うらやましいだと――?」
地を這うような声だった。
「――世界に関われない孤独がなんだっ!見ているだけしかできないことがなんだっ!おまえはそれでもナギに愛されているじゃないか!――ナギが愛しているのはあんただ。おれじゃない、ソメイ、あんただけだ!!」
シンの炎が燃えうつったかのように、ソメイが渾然と光りをあげた。
驚きに目をみはり、いまだかつてそんな驚愕の面持ちを目にした者などいないほどに白く青ざめ、動揺をかくすこともできずにいる。
まるで雷にでも撃たれたように、シンの言葉がソメイのなかへ飲み込まれていった。動くことすらできない。
しずかに、まるで蝶の羽化をみるかのようにゆっくりと、紙のように薄い表情に、感情が浮かびあがってきはじめた。わずかだが、頬に赤味がさす。
それを見ていたシンの怒りの表情は、しだいにおさまっていった。かわりに悲しみをふかく刻んだ、哀切に耐えないさびしげな色がにじみだしていった。
「ソメイ、あんたはただ臆病になっているだけなんだ。手をのばせばそこに幸せがあるのに、それすらわからなくなっているだけなんだ……」
そう言ってうつむいたシンの表情は髪にかくされ、暗くてわからなかった。
「ナギは本当に何一つももたずに生まれてきた。そしてあいつは今でも自分のために何一つ求めようとしていない。……なあ、そんなナギのために、世界なんて変えたっていいじゃないか。だれか一人くらい、ナギのために何かをしてやったって、いいじゃないか」
シンの涙が石畳のうえに落ちてひろがった。あたたかくて、寂しい波紋をつくっていった。
「ソメイ、おまえにとってナギ以上の世界がどこか他にあるのか?ナギより大切なものを何か持っているのか?――おれなら、世界よりもナギをとる。ナギのために世界が変わることなんて、何ほどのものでもない」
シンが顔をあげた。強い光が瞳のなかにやどっていた。
「あんなにおまえを愛しているんだ。おれじゃなく、おまえを愛し求めているんだ。あんた以外、あの手は取れないんだよ?」
「シン……」
「何を怖がっているんだよ、何がそんなに怖いんだよ。ただ求めるだけでいいんだ。おれには求めても求めても、どんなに手をのばしたって手に入らないものが、おまえはほんのちょっと勇気をだして手をのばせばすぐに掴むことができるんだ。いつだってそこにあるんだ」
どれほどの思いでその言葉を口にしているのだろう。
ナギを、どれほど愛していれば、そんな深くてあたたかい、優しい言葉がでるのであろうか。これ以上ありえないほどの強くてゆるぎない愛の美しさをみなぎらせている。
ソメイの瞳に、明るい、本当に生命に満ちた力が甦ってきた。
漆黒の瞳が、青く美しい、まるで地球(ガイア)の放つ温かい命そのもののようなエネルギーを帯びて、艶やかにうるんだ。
「シン……ありがとう――」
心からもれ出たような声だった。熱い言霊のエネルギーが世界に放たれていった。
「……目がやっと醒めたみたいだな」
悪夢は終わった。
ソメイのさわやかな顔がシンをみつめていた。
「いけよソメイ、早く――!」
じれったそうに叫んだ。
ソメイは笑った。
その笑みは、シンの心にさえ響いてくるような、鮮明で、強い決意にかがやいている清々とした力をもっていた。
黒月界の窓からソメイは飛び立っていった。
生き生きと身をひるがえしたソメイを見送るシンのよこに、エンラがしずかに身を寄せてきた。
小さな温かさが、今のシンにはたったひとつの拠り所のようにあたたかくて、何よりもありがたいものに感じられてくる。
そっと目頭をおさえ、シンはいつまでもそこにたたずんでいた。
まるで、あと一つで完成するジグソーパズルだったように、ナギを吸い込んだウロは、外界へとつづく口を完全にとじてしまった。
その内側は、いままで存在したどの世界ともまったくちがう、大宇宙のすべての法則からも外れ、はじき出されてしまったかのような、静かでなんの動きもない、永遠に抑止された「在る」だけの世界であり、ゼロだけの空間のようだった。
傷をもったまま癒されることもなければ、悲しみを乗り越えた先にあるはずの明るい未来もない、そのままの状態で、いつまでもいつまでも膿んだ傷をかかえて居つづける、ある種の、地獄に近い場所だ。
進歩もなければ前進もない、永遠に空けない夜明けを待ちつづける世界――。
そのあまりにも寂しい空間の底に溜まっているのは、どこにも行くことができない永遠の孤独だった。
ナギはそれを感じたとき、たまらなく体が冷えて胸がかきむしられるようだった。
闇色の珠は、もはやその澱に溶けこんでしまっていて、消すことのできない悲しみの結晶になっていた。外の世界から、一滴、また一滴とたまるばかりであり、減ることは決してないのである。
それらが、ナギをずっと待っていた。すぐにわかった。
誰かがそばに来て、抱きしめてくれる。この孤独をわかってくれて、それでも愛してくれる。そんな存在を、どれほど渇望し、待ち焦がれていたことか。
ナギの見えない目だからこそ、すべての本質を見抜き、表面にあらわれるおぞましい姿の奥に隠されている、真の姿をみつけだし、理解することができるのだ。
ナギが手をさしのべた途端、すがりつくように抱きついてきた。
きつく強く闇の腕のなかとじこめられて、ナギは色褪せるように目をつぶった。
すでに痛みは感じなかった。
それほどまでに高次元となった悲しみと孤独は、完璧なる存在となってしまい、十六方世界の極限を迎え完結していたのである。
「白樹王たちが、いままでずっとこの悲しい世界を支えてくれていたんだね。消すことのできない完全なる負の闇を、いままで抱きしめ慰めてくれていたんだね」
母が子供をつつみこむように、白樹王と黒樹王ですべての世界、すべての宇宙の闇を抱きしめ温めつづけてくれていた。
だがそれもとうとう限界をむかえてしまった。
悲鳴をあげつつ、全身全霊のなにもかもを与えつくし、終わる寸前だった。
「大丈夫、あなたたちの方が、ナギなんてもういらない、必要ないっていうまで一緒にいるよ。この闇が少しでも癒されるのなら、ぼくのすべてをあげる」
見えない眼をひらいたナギは、自分を抱きしめているものが、虹色に輝くソメイの姿をした存在だということに気がついた。
なんともいえない色合いをしており、この世のありとあらゆる事象をふくんで、森羅万象にさざめく魂の悲哀を、あまさず丁寧にすくいとって、映し出したかのようである。
「あなたたちもまた、ソメイ様なんだよね……あの方の世界は、本当に深くて優しい。優しすぎるから、こんなに苦しんでしまうんだ」
もっと早く抱きしめてあげればよかった。
ナギがそうつぶやくと、虹色のソメイは、粒子になってくだけ、ナギのまわりを霧のようにつつみこんでいった。
まるで闇の底にとじこめられた天女のごとく、幻想的な光景がうかびあがっていた。
ナギは何も良しともせず、悪しともせずに、ただあるがままのそれらを受け入れていた。
なにもかもがソメイの一部であり、一滴でさえソメイであるのならば、どんなものでも愛することができる。
たとえ本物のソメイに二度と触れることができなくても、あの美しく哀切のこもった瞳に自分が写ることがなくても、それでもかまわない。ソメイがほんのわずかでも心休まるひと時を持つことができるのなら、自分の存在のすべてをかけてかまわない。
「あの哀しい人の心が、一瞬だけでも、本当の心からの平安をもてますように」
癒されることないこの永遠の絶望が、わずかでも慰められるまで、ずっとそばにいようと、ナギは心に思った。
「だってぼくはシンから大切なものをもらったんだもの。絶対に後悔しないし、虚無に心を食わせたりはしないよ。一番キレイで尊いものをシンは惜しげもなく差し出してくれた。だからぼくは大丈夫」
誰も持っていないような、熱くて優しくて大きな思い。そして見えないほどに深い愛情。
応えることはできなかったけれど、それでもこの世界に堕ちたナギにとって、なにより大切な宝物となった。絶望の淵にたったときには、きっとそれがナギを助けてくれるだろう。
霧のような白い触手が、ナギの頬をかすめて甘えるようによりそってきた。
ナギは微笑むとそれを抱きしめるように腕をひろげた。
「そばにいるよ。安心して、もう寂しくないから」
そのまま虹色の霧につつみこまれ、永遠にその中に漂い続けるのだろうと思ったそのときだった。
絶望の昏い淵に、一筋の光がさしこんだ。
淡くやさしい温かさが感じられ、ナギの世界をもはや映さない瞳にさえ、そのまばゆい光が流れこんできた。
なんとも心地よくて、頭が自然にたれるほどに堂々としていて、そしてありとあらゆる物事への慈悲があり、恕しを与えているかのような気高い輝きである。
風がふきあげて、その中心に光明で編まれたような女性の姿が浮かびあがった。
青々とした緑の匂いがした。
花のように芳しく、森林のように爽やかで、果物のように甘い香りだった。
嬉しくて歌をうたいたくなるような、期待に胸が高鳴ってくるような、そんな幸福感があふれてゆく。なんとも心地よく、まさに、愛しいとしか表現できないような存在であった。
もしこの少女の腕にだきしめられたら、どんな者であっても癒されてしまうだろう。どれほど心に深い傷をもっていても、満たされ、自分が愛されている存在なのだと自信さえ湧いてくる。
ソメイでさえ、癒されるにちがいない――。
それは確信だ。
「ガイア、様?」
総てのものの母、大地の女神――。
ナギには本能的にそれを感じ取っていた。
ガイアに深く愛された『聖母』たちによって、ずっと守られ力を注与えられていたからかもしれないし、またナギ本人が、ガイアに近い、生命のエナジーを身にまとう者だったからかもしれない。
ナギは不思議なほどガイアと通じあうのを感じていた。
心がよろこびに満たされていった。まるでずっと知り合いだったかのように胸が軽くなってくる。
『ナギ、ありがとう――』
ガイアがいった。
『ソメイ兄様のために、こんなところにまで堕ちてきてくれてありがとう』
「ガイア様――。いいえ、これは、ぼくは自ら望んだことです。誰のためでもなく、ぼくがソメイ様の闇をすべて抱きしめてあげたかったんです――あなたと同じように」
ナギにはよくわかっていた。
ナギと出会う以前は、ソメイはずっと妹である地球の女神ガイアによって、傷ついた心を癒されてきたのだ。
どんなにふかい悲しみも、絶望も、孤独でさえ、すべての命あるものの母であるガイアの愛情によって薄められ、慰められてきた。
だがそのガイアまでが、人間の愚かな行為や行動によってしだいに疲弊してゆき、ついには眠りにつかざる得なくなったがために、ソメイの孤独はさらに深くなってしまった。
この世界の闇が強まり、狂気の暴走がはじまった原因の一つに大きく関わっていたのだ。
『あなたには、もうすべてが見えているのね、ナギ。自分の存在のなにもかもをかけて――その美しい両目さえ惜しまず、身も心も差し出して、兄様だけを愛してくれているのね』
ガイアはナギを覆っていた光の霧ごとだきしめた。
身体があげていた辛苦による悲鳴や、穢れに傷む疼きが、湧きでたばかりの泉によって洗われてゆくように凪いでいった。
何ともいえない清涼感がかけぬけ、うまく回転しなくなっていた思考が、だんだん明瞭になってくる。
『こんなにたくさん、兄様の闇を受けて入れてくれた……。つらかったでしょう?苦しかったわね。ごめんなさい……』
「いいえ、そんなにつらくはありませんでした。ぼくにはずっと助けてくれていたシンがいたし、『聖母』たちがいてくれていました。――でも、ぼくにも少しはわかりしたよ。ガイア様が、自分が傷つき、寿命が削られるとわかっていても、この憐れな星にエネルギーをずっと注いでいたそのお気持ちが。そして、だからこそ、この星が最後の最後で踏みとどまり、暴発して巨大な闇を撒き散らさずに――ソメイ様を殺さずにいたことを」
『ナギ……本当にすべてわかっていて、この世界に降りてきたのね……。兄様の良き面も悪しき面も、なにもかもを受け入れてくれているのね』
ソメイという存在のひとかけらさえ、ナギは愛していた。大いなる慈愛の女神ガイアですら感動させるほど、どこまで広く。
『本当の孤独を知るものだけが、他人の孤独を知ることができる。本当の痛みを知るものだけが、他人に優しくできる。あなたは、そういう存在』
ガイアは納得したように笑った。
『あなたなら変えられるかもしれない。そして、あの方の孤独を――本当の闇を消すことが出来るかもしれない』
「ガイア様……?」
ガイアの光が強まった。
『兄様を愛してくれてありがとう。兄様に愛を教えてくれてありがとう』
少女の輪郭がぼやけ、エネルギー体そのもののように光の球体となっていった。未知の、今までに感じたことのない強い巨大なエネルギーが、しだいにそこへ集まってゆく。
『――ナギ、あなたの望みはなぁに?』
「ぼくの、望み?」
ナギはまぶしげさのあまり目を細めた。
小さくて繊細な身体をヒリヒリと灼くほどの凄まじい質量がそこに膨れあがっている。ふるえんばかりの胸騒ぎがとまらなくなる。
『私の最後の力をあなたにあげる。わたしはもうここで終わってしまうから、最後に、あなたの望みをかなえてあげるわナギ』
「ガイア様!」
ガイアはまるで超新星の爆発を起こす寸前の星のごとくに、エネルギーの沸騰に耐えているかのようだった。
光りかがやき、そんな美しく儚い終わり方があるのかというような、黄金の女神がそこにいた。
ナギは理解した。
もはや変えられない事実なのだということを。
彼女を愛した堕天使が、どのようにあがこうとも、少女を何人身代わりにしても、終わるという事実を――運命をくつがえすことは、決してだれにも出来ないのである。
「ぼくの願いは……」
ナギは目をとじた。
涙が長いまつげを伝い、零れ落ちた。
「ぼくの願いは、ただ一つ。ソメイ様の幸せ――。あの方の孤独を心の底から癒し、本当の笑顔で笑ってほしい――あの方に、心からの安らぎを味わってほしい。――ソメイ様の幸せ、それがぼくの、たった一つの願いです」
大粒の涙は、ナギの絹のような柔らかい頬をぬらして真珠のように散っていった。
虹色の霧がうすまり、ざわめくような春の光が差しこんでいた。
『そう、それが、あなたの望み……』
ガイアはそう言っただけだった。
光がまるで生き物のように渦を巻き、ひろがった。
そこに小さな太陽があらわれたかのような超高温の熱と、放射をつづける磁気の嵐のごときコロナが発生し、ナギを抱き込こんでいく。
ナギは目が回るような衝撃をうけながら、細胞のたった一粒、いや、ナギを構成する原子の一つ一つまでが焼きつくされ、磁場をバラバラにし、また組み合わせ再生し、そしてまたかき乱してしまう、という、あまりにめまぐるしい変化の波に洗われていた。
ナギという存在自体をまるで作り変えるかのような、そして新たな力を加えるがごとくに、大量の粒子とプラズマが、加熱によって射し込まれ身体のなかを何度もつらぬかれてゆく。
気が遠くなりそうな永遠の時間を彷徨っているかのようだった。
まるで宇宙創成のそのときに立ち会っているような、だが、もしかしたら瞬きをするほんの一瞬にみた夢だったのかもしれないと思わせるような、夢とも現実とも得ない摩訶不思議な感覚に飲みこまれていた。
『――すべての母なるものの母、ナギ』
どこか久遠のかなたから声が聞こえた。
急激に光が遠のいてゆくのがわかった。
ポツンといきなり放りだされた。
ナギはどのくらいそうしていたのであろうか。
ひっそりとした、なんの音もない、感覚もない、まるで無明の世界にいるような孤独を感じて、目をゆっくり醒ました。
開いた目には、なんと再び視力が戻っているではないか。
ガイアの姿はすでにそこにはなく、ただ薄暗い永遠につづくだだっ広い空間だけがあるだけだった。はてしなく続いている、時間と空間の交差する、平面軸だけなのである。
もはや呼吸すら苦しくはなかった。
みればソメイの消えたはずの右腕が戻っており、何かが身体の奥底から異なってしまっているような感覚をうけていた。
ナギは確かに自分の体が、ガイアの炎に灼かれ、最初のただひとつの存在となり、バラバラに分解されて、また一つに編みあげられたことが、まさに真実だったのだと受け止めていた。
身体を触るその柔らかさも、膚のしっとりとした濡れたような感触も、また胸の膨らみの大きさも、腹の奥にある新しい存在も、すべてのものが、ナギを変えてしまい、確かなにひとりの女性へと、変身させていることを受けて入れていた。
「ぼくは……」
ソメイの幸せを願ったはずだった。
それだけしか頭にうかばなかった。
わけもわからず、ナギはいったい自分がどこにいるのだろうと世界を見回した。
視界にみえる平行線のむこうに、一点の輝く何かがあるのをみつけた。
何も考えられないまま、ただゆっくりと足をすすめ、光へと向かってゆく。
小さな点かと思われていたそれは、次第にはっきりと眼にうつり、小さく縮こまったソメイの姿であるのだとわかった。
広大な終わりのない空間のなかに、たった一つの点のように、ソメイだけがいた。そこに存在しているのは、孤独と寂しさ、またどうしていいかわからない不安や戸惑いばかりであり、やるせない気持ちで溢れかえっている。
ソメイはうずくまり誰かの温かさが訪れるのを求めていた。
だれか自分以外の他者の存在を、この上なく渇望していた。
手の中に、不意にあらわれたのは、鏡だった。
不思議そうに自分をうつし出し、じっと見ている。
ソメイから放たれていた光が、鏡によって拡散されていった。
四方へと光が放たれ、光りに世界が照らされて明るくなってゆく。
ソメイは明るさを喜んだ。
鏡をふやし、鏡は光を反射して、またその光が鏡に反射し――そうして永遠に光がひろがりはじめてゆく。
世界はひかりで満たされていった。
時間と空間だけの世界は、光の存在で、見違えるように美しくなった。
ソメイの光をうつし、あらゆるものを包括し、命を生み出し、命は命を育み、また別の命を産みだし、そうしてどんどん増えていく。
最初はソメイもまた、それを喜んでみていたのだが、そのうちに、ふたたび深い孤独に憑かれていった。
そのたくさんある命の物語のどの世界にも、自分は属さないのだということに気がついたのだ。
どこにも加われない――。
どこにも居る場所がない。彼らは彼らの世界で完結してしまい、ソメイの入る隙間など微塵もなかった。
無理やりに入り込もうとしたこともあった。どうしても我慢できず、手をほんの少し加えたこともあった。
だがそれは、ソメイを孤独にするよりも、もっと深い悲しみを与えてしまった。さらに哀しさと寂しさをつのらせてゆき、ソメイをもっともっと独りにしてしまうだけであった。
埋められない、彼の血がにじむようなその孤独を、ナギは心から愛しいと思った。
こんなに世界が愛情深くつられているのは、ソメイの愛情が深いからである。ソメイの心が優しいから、世界は心優しく、物語を未来へとつないでゆけるのである。
確かに、わずかな狂いが生じることもあっただろう。
光が屈折し、うまく反射しないこともあった。
それでもそれを修正し、そのことを反省し、正してゆくことの大切さをも彼らは学んでいった。進歩することを恐れず、いつだってまっすぐ進んでゆく強さをも、ソメイから彼らは学んでいるのである。
ナギは光るその一点を抱きしめた。
泣いている彼を、自分の腕のなかに包み込んだ。
「ああ、今ぼくは本当にソメイ様の闇を抱いているんだ……本当の孤独に、ソメイ様に出会えたんだ」
ソメイを抱きしめながら、満たされる気持ちのなかで、ナギは意識が薄らいでゆくのに、今度こそさからうことはできなかった。
眼を、静かにつぶった。
小さな流れがゆっくりと渓谷をくだり、岩肌を洗い、大地をけずりながら、いろんな場所をたどっては、別の流れと出会ってゆく。
そうしてゆっくりと他の流れとまじりあいながら、自分の知らなかった世界があることを知り、変化を受けいれ、さらに雄大で深みをました流れとなって、いつしか大海にそそいでゆくのである。
海はたくさんの物語を知っている偉大なる母だった。
生命を生みだし、時にやさしく、時にきびしく育みながら、また、途切れることのない物語をつむぎだしてゆく一個の宇宙でもある。
その母なる世界に潜在している、無尽蔵ともいえるエネルギーが、ナギの中にとめどもなく流れ込んでいた。
無限の可能性をもつ始まりの力と、生きようという強い輝きからは、多種多様な命が産みだされ、幾多の人生がうまれてゆく。
それが幸せに終わる時もあれば、悲嘆にくれる終末を迎えるときもある。
喜びの絶頂を味わいながらも、無慈悲に思われるようなことが起きてしまい、なぜこれほどまでに苦しめるのだと問わずにいられないときもある。
時に疲れ、時にドロの中に顔をつっこんだまま起き上がることもできず、必死にもがかなければならないかもしれない。それでもまた前を向いて頑張ろうとして、魂は何度でも歩きだそうとする。
どんな生命であってさえ、生まれたときに受けた祝福はいつだってかわりはしない。魂が愛によって編まれていることに、何の違いもありはしないのだから。
だが本当にごく稀に、どうしても癒されない、悲しみのひとしずくの涙が落ちるときがある。
その涙が消えぬ闇となって、静かに積もっていく。
ソメイのなかに沈むのは、そんなどうしようもない悲しみの闇であり、それを見つけたとき、抱きしめられる喜びで一杯になった。
体の冷たさと、心にまで喰いこんでくる野獣の牙のごとく鋭い痛みとは裏腹に、心だけは満たされていった。
絶対に消せぬその一滴の寂しさをだきしめ、ナギはそのまま自分が闇に散ってしまうのだと思っていた。
そうして、どのくらいの時が過ぎたのであろうか。
死の帳がナギの上にかけられたはずであったのに、不意に冷たく呪うような痛みが消えてしまった。
かわりにあまりに心地よくて、温かいものが全身をおおってゆくのに、何もかもが癒されてゆく。
もしかしたら、それこそが死なのだろうかと思ったその瞬間――。
抱きしめられていた。
痛いほどきつく抱きしめられているはずなのに、これほどに大切に、慈しみをこめた腕に抱かれたことはない。
両の胸のなかに大切にかかえこまれると、たまらないほどの幸福感が全身からあふれだしてゆく。
闇に散りかけたナギの細胞が、ゆるぎないたった一つの愛によって寄せ集められ、新たな命を吹き込まれたように萌えあがっていくのがわかった。
鼓動が、はっきりと強く刻まれてゆく。
「ナギ――」
声をきくだけで、全身の神経がふるえてしまう。胸が切なくなるような、たまらない思いがしみこんでくる。
「ナギ」
頬をなでられた。
愛しみにみちた口付けがまぶたに落とされ頬をよせられる。
「愛している。おまえを、愛している――ナギ」
声は、空洞になっていた胸を光でみたした。
誰より会いたくて、身が引き裂かれるほど恋焦がれ、求め望んでいた、大切な人のエネルギーがそこにある。
この人のために全てをなげだし、この人のために、なにもかもを与えつくそうときめたのだ。大宇宙の至高の存在であり、また誰より愛しいその人のぬくもりが、ナギの全身をだきしめ熱を与えてくれている。
ナギはその温もりを力いっぱい抱きしめかえした。
この人がいるから自分がいるのである。
「ソメイ様っ!」
抱きしめられていたナギははっきりと目をあけた。
ソメイに髪を梳かれ、何度となく愛しくてたまらぬように頬をよせられ口づけられた。互いに離れていたことが信じられぬかのように、時を惜しむように、抱きしめあい体温を交わしあってゆく。
「ナギ、遅くなってすまない。わたしのために、苦しめてしまってすまなかった……」
ソメイの柔らかな唇がナギの唇に触れた。ほんの一瞬だったけれど、それがソメイとナギの初めての口づけだった。
ナギは涙が止まらぬままの瞳をソメイにむけた。
消えたりしないか、本当は幻ではないかと必死でたしかめるように目を一杯に見開き、懸命に存在をたしかめるかのように、腕にしがみつく。
何度こんな夢を見ただろう。
ソメイに会えたと思って抱きついたとたん、目を覚まし、ひとりきりで、暗闇の耐え切れない孤独に押しつぶそうになった。喜びが大きければ大きいほど、それが虚空の物語だったときの悲しさはとうてい言葉にできない。
「本当に――ソメイ様なのですね?……ああ、ソメイ様っ!」
最後に会ったのは、ソメイがまだ禍蝕の眠りについたままであった。闇に飲み込みかけていたあの姿である。
命すら危ない苦しげな映像が、ナギの中に何度もよみがえり、何度も何度も苦しめていた。目をつぶると、いまだはっきりと眠っている姿が見えてくる。それほど強烈であり、心にずっと突き立っていた。
闇の珠を浄化しながらも、ソメイが少しでも楽になり、目を覚めますことをどれだけ願ったかしれない。いや、それだけしか考えられなかった。
「おまえのおかげだ、ナギ。おまえがわたしの闇を祓い浄化してくれたからだ。そのおかげでわたしは目醒めることが出来た。――ありがとう、ナギ」
「ソメイ様……よかった…っ!」
息をつくようにささやくと、ソメイの首に抱きついた。
小さな手でソメイの大きな背中をやさしくなでていた。ナギのなかで、夢と現実とがいっしょくたになり、あまりにたくさんの色んな情報がまぜあわされて、過去のソメイと現在のソメイとが混在したまま、ソメイの中の孤独をなぐさめようとしていた。
たくさんの寂しい闇のなかにみた、あの可哀想なソメイをいたわるように、癒しのエネルギーを送り込んでいたのである。
ソメイは、ナギの深い愛情を全身に感じながら、おぼつかなげな抱擁を黙ってうけていた。
そんなふうにソメイの身近にきて、抱きしめ、体温をあたえながら慰めてくれた者は誰もいなかった。神をあがめるままの様子で、ただいつも遠くで見ていただけなのである。
まるでひとりの人間になったような気がしていた。
ソメイは不思議な感覚に包まれ、ナギにすべてを与えて身をまかせていた。
世界樹が支えていた、ウロの奥底にたまった淀みや、静止している虚無の世界が、新しい風を吹き込まれて美しい光芒をはなちはじめていた。
まるでソメイのなかにある、優しくて綺麗なものすべてを現しているかのように、なんともいえない色合いに染まりながら、光と風と、安らぎと、生命のエネルギーに満ちみちた至高の愛そのものの世界へと、変化をはじめている。
ナギは、ソメイ自身であるかのような風に頬をなでられ、ふうっと顔をあげた。
まぶしそうに目をほそめた。
「ナギ……」
ソメイがじっと自分をみつめていた。
「おまえがわたしに新しい命と、勇気をくれた」
彼のいつも寂しげであり、永遠の宇宙の闇を映しとったような黒い瞳には、見たこともない、力強い煌めきがまたたいていた。
ナギは惹きこまれそうになりながら、忘れかけていたソメイの言葉を思い出した。
「ソメイ様――っ、ぼくを助けたら世界が変わってしまいます。そんなことをしたら、また、あなたが傷ついて――」
言いかけたナギの頬にソメイの口づけがおち、ナギの言葉がすいとられた。静かになったナギに、ソメイが思いだしたように苦笑して言った。
「シンにね、怒鳴られたよ」
「えっ?」
「シンが、おまえのために世界を変えろと、世界なんて変えてしまえと、そう言って怒ったんだよ、わたしにね」
「シンが、ソメイ様に――?」
ナギの顔がわずかにこわばり、そのまま耐え切れないように泣き顔へと崩れた。
「シンは、また天上界まで、ソメイ様のもとまで行ったのですか?ソメイ様に会って、そう……そう言ったの、ですか?」
ソメイはうなずき、くしゃくしゃになったナギの顔から、涙を指でぬぐいとった。
「そうだよ。たったひとりで天上界まで昇り、おまえを助けろと、わたしを叱ってくれた。――わたしは初めて叱られて、やっと本当に眠りから目を醒ましたのだ」
「シンっ!」
ソメイの肩に顔をふせ、嗚咽を堪えるようにナギは泣いていた。
シンよりソメイを選んだのに、ソメイのためだけに生きたのに、そんなナギのために、シンはそれでもまだ、人間の身でありながら天上界にまで昇ったのだ。そしてソメイの――神の許にゆき、ナギのためにソメイの心を動かしてくれたのである。
どれほど深い愛情をもったなら、そんなことができるのか。
ずっと一緒にいて、彼の愛のあまりの大きさに心地よすぎて気づきもしなかった。ずっと甘えて――そして傷つけてきた。
なのにシンはそれでも、ナギのために最後まで動いてくれた。
「シンにも――あなたの闇が宿っていたのに……その寂しさや孤独を乗り越えて、愛をぼくに与えてくれた……」
彼はあれだけ多く者が苦しみ、狂ってしまうような巨大な闇を身にふくみながら、それでも意志つよく動き、愛し、与えることのできる稀有なる者だった。誰にも真似のできない、強い勇気をもつ、優しくて大きな魂。
「シンはわたしに気づかせてくれたよ。わたしにとって、おまえを失うこと以上に、この世界でおきる残酷なものはないということを。おまえがいなくなったこの世界になんの意味もないのだ」
「ソメイ様――」
ソメイはナギをみつめ、抱きしめた。
「間に合ってよかった。ナギ、わたしが求めるただ一つのものは、おまえだ。おまえを失った世界に何があるだろうか」
頬に、瞳に、唇に、口づけられながら、ソメイの温かい腕がナギをそっと横たえた。
優しく瞳をのぞき込みまれ、ナギが幸せそうに微笑むのに、ソメイもまた微笑んでみせる。
二人の腕がからみあい、体温がゆっくりと重なっていった。
「ソメイ様……ぼくのすべては、最初からあなたのものです。あなただけのもの……」
言葉はもはや必要なかった。
互いのあつい熱がほとばしりと、貪りあう情熱だけが何もかもを埋めていった。
心の底から求めいつくしみあい、まるで足りないものを互い存在にみつけあいながら、愛情をもって満たてゆくことだけが意味があるように、ナギとソメイはちぎっていった。
ナギはこれほど大きな安らぎに包まれることができる日がくるとは信じられなかった。不安もなにもない、ただ心地よい心音だけがすべてであり、互いの呼吸がひとつになって思いが溶け込んでゆく。
ソメイは優しかった。その肌のぬくもりも、伝わるエネルギーも、気持ちさえも、みんなナギを幸せにしてくれるものばかりであった。それでもまだ足りぬように存在をかわし、熱を生んでゆく。
ソメイで一杯になった。
あれほど遠くて幻影のような憧れの存在だったのに、これほど近くにいて、熱い吐息と情熱をもって、身の内に感じられる。こんな幸せを、誰に感謝すればいいのだろうか。
「ソメイ様……」
新たなる光が生まれ出でていた。
ナギのお腹から放たれていた。
光に粒子となり、その場にただよっていたガイアが渦を巻き、浮かびあがった。二人をみて満足そうに笑っている。
そしてそのまま自分自身のエネルギーを与えるかのように、消えていったのだった。
新たなる時代が始まりを告げたのである。
強い衝撃だった。
いや、その衝撃を感じたのはシンだけだった。
だがそれだけで、シンには十分なほど、確かな思いが伝えられていた。
天上界の上空をおおっていた暗くて分厚い雲がみるみる消えてゆき、空が晴れわたっていった。
空が光をとりもどすのにあわせて、眺望の窓からみえていた、五つの世界のどんな場所にも光がさしこみはじめ、清浄なる空気がキラキラと舞いおりてゆく。強くてやさしい、無上の喜びに溢れた、心地よいエネルギーが湧きあがっていった。
あれほどエネルギーの枯渇に飢え苦しみ、人々の心まで荒々しくすさませていた呪いの闇は、跡形もなく消えさり、世界は光明なる清浄さをとりもどしていった。
心の闇までが、日の光によってキレイに洗いながされ、かわりにいまだかつて感じたことのないほどの美しいエネルギーを感じ、歓喜の声をあげていた。
五つ目の窓にみえていた、あの黒月界の闇までが、きれいに消えていた。
虹色の光がひろがり、まばゆい命の目覚めを祝福しているかのようであった。
シンは窓の枠に手をかけると、清められた空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「どうやら間に合ったようだな。――まったく世話がやけるというか、クソ真面目だというか、馬鹿なやつらだよな」
笑いながら、どこかホッとして淋しげな笑みをうかべていた。
「ナギ、助かったのか?ソメイちゃんと助けた?」
エンラが窓の外をのぞきながら聞いてきた。子供のような笑みをうかべているのは、なんともいえぬ喜びにみちた祝福の光がさしこんでいるのを、ちゃんと全身で感じとっているからだ。
「ああ、あの鈍感なヤツでも、どうにか気づけたようだよ。ナギの愛が自分のすぐそこにあるんだってな」
ナギのもっている本当に力とは、純粋で高密度なエネルギーを有している、天界樹という存在でもなければ、ソメイが愛した稀有なる者、ということでもなくて、ただ溢れるほどに豊かで深い愛情をもっているという、ただそのことだけなのである。
どんなものでも許し、その身に受けいれることを恐れないほど、ナギの愛情は深い。
この新しい世界は、ソメイの有していたあれほどの絶望の闇ですら、恐れずに、懸命に浄化していった、ナギの思いこそがつくった、愛情の世界だといっても過言ではないだろう。
シンの目の前に、光が集結していった。
楽しそうな笑い声がきこえ、不意にシンを抱きしめるような温かさが通りすぎていった。
――待っていてねシン。必ずあなたのところにゆくから……
あたたかな光が流れるのにあわて、心地よい風が吹き込み、光の粒子に抱きしめられながら、なつかしい匂いをかいだような気がしていた。
それはもしかしたら、未来のどこかでかいだ、幸せの匂いかもしれない。ふとそんな思いに駆られていたのだった。
ナギは笑っていた。
ソメイの腕のなかに抱かれ、肌にソメイの熱を感じながら、これ以上ない幸せな顔をしていた。
その笑みを見るだけで心がとろけてしまいそうなほど甘く、うっとりとして満ち足りた、喜びにあふれている表情だった。
ナギのなかに新たなる力が加わり、凛とした張りのようなものが表れていた。
天上界にいたころは、あれほど怯え、今にも消えそうな泡沫の夢のごとく弱々しい樹であったというのに、その面影はすっかり消えてしまい、いまあるのは明るく目に痛いような清明な表情だけだった。
それがソメイの与えた愛情によるものだったならば、ソメイはナギの微笑に、これ以上のない誇りを得られるだろう。
それほどまでに、妙なる美しさを秘めたナギの風貌は、まるでサナギから孵った蝶のごとくに心を奪わずにはいない絢爛さをそなえていた。
「わたしに、このような幸せが訪れるとは思わなかった」
ソメイはナギを愛しく抱きしめながらうっとりと言った。
「愛しいものをこの手に抱き、温もりを手に入れることが出来るとは、よもや信じられぬくらいだ」
ナギはソメイを甘くみつめ、頬をよせて羽根のようなキスをおとす。
「ソメイ様はもう絶対に一人ではありませんよ。ソメイ様を独りになんて、しません」
「ナギ――どうしてこれほどまでに愛しいものが創られたのだろう。どうしてわたしはこのことに気づかず、今まで過ごせたのだろうか。――ああ、間に合ってよかった。本当におまえを失う前に、このかけがえのない温もりを手にすることが出来て、よかった……っ!」
今にも消えてしまうのではないかというようにソメイはナギをふたたび強く腕に抱えこんだ。
「ぼくはあらゆる場所で、傷つき、苦しみ、悲痛なまでに嘆いているたくさんのソメイ様の心の闇を見てきました。その闇をこの身体に受けることによって、あなたをさらに愛しく、そして身近に感じられるようになった。それらのことがあたからこそ、本当のソメイ様をみつめられて、今こうしてやっとお傍にいられるようになれたと思っています。――ぼくは、あなたの落とした涙を、あの闇を心から愛しています」
「ナギ、わたしのナギ……っ」
ソメイの腕のなかで、いくたび求めても尽きぬ愛情の嵐が二人の仲を駆け巡っていった。やっとみつけた永遠の恋人は、どうしてこんなに愛しいのか、わからぬとばかりに、お互いの温もりを交換してゆく。
「いつもいつも、わたしはあらゆる物語の中には決して入ることができなかった。わずかに関わることが、精一杯であって、もうずっと永遠の傍観者のまま、何も出来ず、苦しむ人々を見続けるのかと思っていたよ。無力感にさいなまれたまま、一生を費やすのだとあきらめていたんだ」
独り言のようにささやく。
「どんなに助けを求める声を聞いても、わたしにはどうすることもできなかった。なぜなら、未来を変えることが、どれほど愚かなことか、わたしはもう何度となく痛いほどに経験していたからだ」
あえぐような息の中でナギが、ソメイの背に手をまわす。
「あなたはもう、傍観者じゃない……今度はあなたが新しい物語を創ればいいんだ……ソメイ様、もうあなたは……っ!」
「ナギ、ナギ?――わたしが、物語を創る?新しい物語を創るのか?」
ナギは肩で息をしながら笑ってうなずいた。
ソメイの手をそっと自分のお腹によせさせた。
「あなたの生み出した新しい世界です。これからは、決してあなたを追い出したり阻害したりしない、あなたこそが中心にいる、真の物語が始まるのです」
ドックンっ、と確かにそこから聞こえた。
ナギの子宮の中から、生命の鼓動が跳ねあがる音がソメイの全身に響いた。
「ナギ?――そういえば、この身体はいつからなのだ?」
ソメイの問いは、ナギの身体の変換のことをさしていた。
第三の性として、両性を具有化していたのは知っているが、今のこのナギの身体は、完全なる女性のものである。
生みだす力をもつ母の子宮の海は、ナギのなかにちゃんと存在していて、今まさに生命の新たなる脈動を打ちはじめているのである。
ナギは今頃気づいたのかというように笑った。ソメイにはそれほど余裕がなく、夢中だったのであろう。
「ガイア様が、最後の命の炎を与えてくれました。ぼくの望みを叶えてくれたんです」
「ガイアが?――ガイアの命は、完全に散ってしまったのかっ?!」
ナギのことばかりに心が傾けられていたソメイには、それすら気づかなかった。あれほど愛した妹の最後の命がつきたことすら見届けられぬほどにナギを失うことをおそれ、心を乱し、気が狂わんばかりだった。
だがそれほど心を傾けられる誰かが現れたということだけでも奇跡であろう。
そして、神の殻を脱いだソメイは、なんと人間臭く、愛しい存在であろうか。
「ガイアは、おまえに会いにきたのか?」
「ガイア様はずっとソメイ様のことを気にかけておいででしたよ。本当に優しくて、最後まで、力強い命のきらめきを与えてくださいました」
ソメイは自嘲するかのように切なそうに眉をよせた。まるで涙をこらえているかのようである。
ガイアはきっと、ソメイ自身よりも、彼の心をわかっていたのだろう。ソメイがずっとナギのことばかり考えていたのを知り、彼よりも早くナギを助けにいったのだ。
「それで?――それでおまえは、ガイアに何を望んだのだ?」
「ぼくが望んだのは……」
言いながら、ナギはああ、というように目を大きくして、それからやっと、わかったというように満足げに笑った。
「ぼくが望んだのは、ただ一つです。ソメイ様の幸せを――あなたから孤独が消え、安らぎにみたされることだけです」
驚いたようにナギをみつめた。そんな時さえも、まだナギはソメイのことを願ったというのだ。
何か言いたげに口を開き、ただ息を飲み込んだだけだった。
「だからガイア様は、あなたを永遠の孤独から救ってくださったんですね」
ナギの笑い顔から、ふいに涙がこぼれおちた。
「ソメイ様を決してひとりにしない存在。だからこそこの子が――あなたの血をひくこの子供が、ぼくに宿ったんだ」
ソメイの瞳から、生まれて初めての涙がながれて落ちた。
一滴のしずくがナギの頬にこぼれ、一つの涙となって滴りおちてゆく。
彼はやっとその意味をさとっていた。
もしかしたら、この時まで涙というものをソメイは持っていなかったのかもしれない。そんなものなど必要なく、泣くことが意味をなさなかった。
ただひたすらに堅強で聡明な存在だった最高神は、涙によって、いまようやく浄化されるものがあることを、知ることができたのだ。
目が燃えるように熱くて溶けそうだった。
ナギはソメイを抱きしめた。
流れ落ちる涙の熱がここちよくナギを潤している。
「わたしは……もう独りではない……。わたしの子供が、わたしの血をもつ者が、この世界に生れ落ちてくる――」
「そうですソメイ様。もうあなたを独りにはしません。ぼくも、この子も、あなたのそばにずっといて、あなたと新しい時代の物語をつむぎだすことができるんですから」
ソメイはナギを抱きしめた。
「ナギ………ありがとう!」
そして小声で、『ガイア、ありがとう』と微かに聞こえたような気がした。
黄金の光がナギの腹にあつまった。
笑い声がきこえた。
――父さま……。
緑の息吹にみちた匂いがソメイの鼻をかすめていった。
新しい命は大地と空と水、それに光にみちあふれており、生命をうみだす気高い母なる芳香をただわせていた。
ソメイは顔をあげた。
そして、涙に濡れる瞳のままでナギをみつめ、これ以上ないほど幸せそうに、嬉しそうに頬をゆるめた。
「ソメイ様?」
ナギはつぶやきながら、見惚れたようにその顔をみつめていた。魂をうばわれるがごとくまぶしい光芒をはなつソメイの微笑みは、ナギがずっと求めていた、まさに心の底からの笑い顔ではないか。
「ガイアだ、ガイアが生まれてくるんだ。次の地球の女神――」
ナギの腹に耳をあて、ソメイがうっとりするように言った。
「大切な大切なわたしの娘。――ガイアが、ふたたび世界に戻ってくる」
光が濃くなった。
ソメイの孤独の影が、完全に消えさった。
ナギはそっとソメイの頭をうでに抱きこみながら、満たされ至福の夢をみるかのように、うっとりとしていた。
『――母なるものの母』
あのときのガイアの声が、耳にいつまでも響いていたのだった。
窓から吹きこむ風をうけながら、シンは世界の変化をゆったりとみていた。
天上界はすでに命を吹きかえし、緑がおどろくべき速さで甦りながら、歓喜と豊穣のエナジーをみなぎらせ人々を潤していた。
地界もまた、徐々にではあるが、エネルギーを取りもどしており、その速度は塔にいるシンの目でさえもわかるほどだった。
あれほど争いや喧騒で騒がしかった人々の心が凪ぎ、また闊歩していた魔物たちがなりをひそめ、人々のなかに活気のある声とまた小さな笑い声さえ戻りつつある。
幽界ですら、明るく瞬くひかりが差し込み、穢那王を焼きつづけている業火の焔が色をうすめ穏やかになっていた。
一時は、本当に穢那を焼き殺すのではないかというほどに恐ろしく逆巻いていて、幽界すべてを炎で包み込むかと思われるほどにまで広がっていた。
さすがの穢那すら苦痛に表情をゆがめては、時折は耐えられぬかのように白く青ざめ震えていたのだが、その表情は穏やかにゆるめられ、頬には赤みがさしている。
彼女もまた、地下の最果ての世界で、ナギが――いや、ソメイが間に合ったことを知った。彼女の黒真珠の瞳には祝福の色がうかび、安心したような微笑みが口元にのぼっている。
今の穢那には、安寧をとりもどした黒月界のすべてをも、見通すことが出来るようになっていたのである。
そして、シンとナギの生まれた地球――
あの蒼く美しい命の星は、厚く覆われていた不穏の雲がゆっくりと晴れてゆき、宝石のように美しい紺碧の空がひろがっていた。
人々の心にやどっていた無気力で暴力的な感情が洗い流されてゆき、また異常なことに違和感を覚えなくなっていた感覚の麻痺さえがだんだんと薄れ、正常な思考へともどっていっていた。
それにあわせるように、いまだ消えずに残っていた、最後の人形たちも消滅しはじめていた。
人々の心の中まで操作するようなおぞましい支配力が抜けると、心を無為にくもらせてしまう寂寥感や虚無感もまた消えてなくなり、地球が新しい命の鼓動を打ちはじめたことを感じとって、また頑張ろうという意思が生まれ始めていたのだった。
シンは遠く道行く人々のなかに、ナギの母親の顔をみつけていた。
彼女は、ナギがまだ一度もみたことがないような安らかな笑みをうかべ、まるで初めから、心に突き立つ針などなかったかのように明るい表情をしていた。
息子の勇と、街を歩きながら談笑し、仲の良い親子を営んでいる。
ソメイの闇がきえたことで、彼女のなかにあった、あれほどまでに重く狂おしい、永遠に続くかと思われた悲しみと後悔の念までもが、一緒に消え去ってしまっていたのだ。
地球のエナジーのなかから、『聖母』たちの笑い声がきこえたような気がした。
なにかをひどく祝福しているようだった。
その歓喜の声のなかで、シンの父親であり、堕天使でもあるデュアラの泣き声だけがずっしりと痛く聞こえていた。棘々しく、大地の底にまで浸透しているかのようだ。耐えられない苦悶にのたうつ嘆き声は、祝福の輝きのなかに、一滴の悲しみを落としている。
シンはデュアラの嘆きによって、初めてガイアの永遠の眠りを知ったのだった。
だが不思議そうに首をかしげている。
「ガイアは本当にいなくなったのか?こんなにも『聖母』たちの魂は、喜びの声をあげているじゃないか。まるで待ちわびた春が、やっと来たかのように――」
厳しく耐え忍んだ冬がやっと去り、命の目覚めをつかさどる、息吹の女神が現れいでたようである。
地球を守っていた『聖母』の魂も、地球自身も命の目覚めをよろこんでいるではないか。
シンは不思議に思いながらも、自分もまた、ガイアの永遠の眠りがそれほど寂しくおもわれないのに気がついていた。
「生命の母がいなくなったのに、なぜだろう……」
そして、最後に呼ばれるようにしてみた黒月界は――
もはや黒い月と呼べない、光の世界となっていた。
苦しみあえぎ、それでも必死で生き抜いてきた星と、そこに住む忍耐強い生命たちが、やっとその苦労を報われたかのように、エネルギーと喜びにわきあがり、強く明るく輝いている。
星にちりばめられた『ナギの花』は美しく大地を彩り、光をさらに清めて純化している。まるでナギの羽根そのものように散らばって、人々にエナジーをあたえているのだ。
地下に住んでいた人々は、もはや戸外の世界に解放されていた。
白く透けるような身体に、溢れるほどの陽光の力をうけて、どの顔も喜びにあふれかえっており、生き生きとしている。
黒樹王も白樹王も、命尽きようとしていたその体に、隆々とした枝と緑をもりかえし、今度こそ、自らの力でつけた薄いピンク色の蕾を宿していた。世界樹は枯れることなく、復活したのである。
白樹王の樹の根元にいるシオンのすがたが目に入った。
その傍らによりそい、肩を抱かれているのは人形師のキラである。
彼らの魂は、創り物だったはずの人形の身体に完全にとけこみ、完全なるもとに姿を取戻していた。
星からの祝福のエネルギーを受けて、シオンはさらに精密に高度なまでのエネルギーを発光しはじめており、新たなる力を得たことによって、星を命あふれる光明の世界へと導こうとしているのだ。
シオンの表情は、かつて見たことのないほどに優しく満ち足りていた。本当に愛するものの存在に気づき、手に入れた充足の笑みである。
シンはただ静かに、それらをながめていた。
果てしない物語をみているかのようであり、もしかしたらソメイはこんな気持ちだったのかもしれないと、ふとそんなことが頭をよぎっていった。
ただ見ているだけの世界は、どれほど気持ちのよくて楽しい美しい世界であろうとも、ポッカリと穴があいたような、たまらない空虚さを感じさせられてしまう。
それはただ寂しいのとも違うし、空しいのとも違っていて、ただ、何ともいえない寂寥感だけが、傍らに溶けるようにひろがっているのである。
愛するナギをみつめながら、何もできないと怯え泣いていた彼の心はどれほどつらかったであろう。積もっていった闇は、本当に深かったのだろうと、ふと思ってしまう。
ほんのわずか、ここにいるだけなのに、同情に似た気持ちさえ覚えてしまうのだから。
シンのとなりで一緒に窓の外をながめていたエンラが短く鳴いた。
ふりかえった顔は、喜々として目を輝かしており、まるで長く家をあけていた母親が戻ってくるのを知った子供のように、純粋な嬉しさで一杯になっている。
「帰ってくるよ。ナギが帰ってくる」
聞いたことのないような大きな声だった。
シンはどこか淋しさを拭えない笑みを浮かべながら、うなずいた。
「ああ――」
風が吹きぬけた。
塔が命のエネルギーで一杯になった。
天上界という世界に、本当に巨大で凛とした氣が満ちあふれ、それがすべての世界へと波紋のように広がっていった。
二人の目のまえで粒子がキラキラと舞いあがり、小さく放電しながら時空が割れたかと思うと、ふわりと空間がひらき、そこからナギを抱きつつむようにしたソメイがあらわれた。
あれほど悲痛にくれた暗澹たる面持ちであり、存在自体が茫洋と翳っていたというのに、その相貌はまるで鮮やかな光をあびて生命をとりもどしたように、精気が流々としているではないか。
ソメイは大切な宝物をやっとみつけたように、ナギを大事に大事に腕にくるみ、片時もはなすことができないのだというように身をよせていた。愛しそうにナギに目をほそめみつめている。
シンはその姿を見たとき、ホッとしたと同時に、何かの終わりをも感じていた。
ここでようやく自分の思いが終わるのだ。昇華されてゆく。
腕の中にいるナギもまた、見たことのないほど美しくゆったりとした表情をしていた。安心しきったように身をまかせている。
優しい顔がさらにやわらかくて豊潤な笑みに輝いていた。張りつめていた細い糸がいまにも切れそうで、危うくて目が離せないような印象を与えていたのに、いまではまるで身体の大切な部分に、本物の明かり灯ったかのように、淡く色づいているかのようではないか。
それが例えようもなく美しくて、シンには目に痛いようだった。
「シン――」
まぶしげにじっと見ていたシンを、ナギが呼んだ。
甘くて目眩がするようだった。
ソメイの腕からはなれたナギは、たまらないように駆け寄りシンに抱きついてきた。シンはそれをそっと支える。
「ナギ」
腕のなかのナギは、あまりにも柔らすぎて、壊れ物のような感触だった。
そこから感じる微弱な電流のごとき清涼感は、違和感としてシンにつたわり、ナギの中に、かつてなかった新しいも何かがあることをはっきりと感じさせていた。
緑の息吹のような心地よい匂いに、シンはナギの瞳をじっとのぞきこんだ。
「ナギ、なんだか、以前のナギとは別人のような気がするけど……」
ナギは花がほころんだように笑った。
ソメイをふりかえると、ソメイもまた、満ちたりた笑みをうかべて、シンをじっとみつめていた。
「シン、ここに――」
シンの手をとり、お腹にあてた。
ポウッとそこが光をおびたように感じられた。
まるで喜びをあらわしているように暖かな鼓動が大きく跳ねてくる。光がいつのまにかシンに流れこみ、まるで抱きしめているかのように光がともった。
シンはナギを驚いたように見た。
ナギが、慈愛にみちた母親の顔でうなずく。
光はだんだん大きくなり、風のようにシンの髪をゆらし、耳元をかすめ、甘美な声がフワリと一瞬きこえたような気がした。
その声を、シンはよく知っている。
瞳をこれ以上ないほど大きく見開き、ナギのお腹をただじっと見つめた。
顔をあげたシンの目のまえに、いつのまにかソメイがたっていた。
ソメイはもの柔らかな笑みをうかべながら、何か言いたげなシンの手をとると、息を飲むほど美しい顔を丁重にさげたのだった。
「ソメイ――?!」
「シン、ありがとう」
さすがのシンもわずかのあいだ、あっけにとられた驚き隠すことができなかった。ソメイに頭を下げさせた人間は、創世の時より、彼がはじめてだろう。
ソメイは顔をあげると真摯な表情でいった。
「シン、きみがわたしに勇気を与えてくれた。わたしに、大切な家族を――娘を与えてくれたんだ。ありがとう、シン。なにもかも、ありがとう」
シンはソメイの瞳に浮かんでいる深い色彩に、そのことがどれだけ彼を癒し、消せないと思われたほどの渇望を満たして、さらに溢れるほどに潤していったのかが、わかったような気がした。
ほんのわずかな間だけだったが、眺望の窓から、世界を眺めていただけで、あれほどの孤独と空虚さを感じさせられたのである。気の遠くなるような時間、ひとりたたずんでいたソメイの心はどれほど渇きひび割れていたことだろう。きっと本当には、誰も理解できないにちがいない。
望むものを手に入れ、孤独という毒を、芯髄から癒されたソメイの心を、シンは全てではないが、心から祝福できるような気がした。
それほど熱い思いが手から伝わり、どれだけ感謝しているだろうかと思うような強いエネルギーがほとばしってきている。
自分の抱えている、この切れるような胸の痛みも、それで少しは和ぐように思われた。
この男の喜びは、全ての世界の喜びなのだから。
「シン、きみをずっとわたしの分身――わたしの分御霊だと思っていた。ずっときみを羨んでいたんだ」
「ソメイ」
「だがそれは違っていたよ。きみはきみだ。そして動く神だ。世界を変える勇気をもつ活動する神なのだ。……そしてわたし永遠の憧れでもある」
シンは驚いたように目を瞠ったが、すぐに苦笑いしながら、首を横にふった。
「おれは神じゃないよ。ただの人間だ。誰かを本気で好きになり、そのためだけに懸命になって、なりふり構わず動くような、愚かで単純な、ただの人間だ」
シンはソメイの手をはなした。痺れるようなエネルギーがパチパチと火花をちらして消えていくのをただ目だけが追っていた。
「あんたの力がもどったんなら、きっとおれのこの力は消えるだろう。おれは地球に生まれたんだ。だからこれからも、ただの『人』として生きるよ」
少し驚いたような顔をしているソメイに、シンは悠然と微笑んだ。
「おれは人間だ。地球にかえる」
「シン!」
ナギが声をあげた。
それはシンの別れの言葉だった。ナギにははっきり伝わった。
自分の役目が終わったことを知り、また自分のなかの一つの物語がおわったことをシンはもう完全に納得しきっていた。
ナギを愛したことも、そのために命をかけて尽くしたことも、なにひとつ後悔していない。またそれで正しかったのだと思っている。
きっと新しい物語をはじめるためには、長くて苦しい序章が必要だったに違いない。自分はその中のひとりであり、役目はたしかに終わった。
そんな充足感が、不思議なほど大きくシンをみたしていた。
「ねえ、ナギ子供うまれるのか?お母さんに、なる?」
それまでずっとシンのかたわらで黙っていたエンラが、おずおずとナギのそばにちかよっていった。ずっと抱きつきたくてたまらないような顔をしていたのに、一生懸命に我慢していたらしく、どうやら痺れが切れたらしい。
三人の緊張がゆるんだのを感じて、少し興奮したような眼差しでエンラはナギのお腹をみていた。ナギがうなずいて、エンラに手をさしのべた。
「そうだよエンラ、おいで」
まるで兄弟が生まれることを知った幼子のような顔で、嬉々としてナギの手をとった。お腹に手を当てさせてもらえると、顔を紅潮させ、耳をお腹にくっつける。
「赤ちゃん、ここいるね。ナギすごいね――よかった、ね?」
「うん、エンラ。すごくよかったよ。とってもとってもよかったんだよ。すごく嬉しい――ううん、こんなに嬉しいことはないよ。だってね、この子はソメイ様の子供でもあるし、新しい次代のガイア様でもあるんだ」
ナギの言葉にシンは思わず目をあげた。
ナギはこれ以上ないほどに幸せそうに笑い、うなずいた。
それにあわせるように、窓の向こうにみえていた地球が輝きはじめ、歓待の声をあげているかのように、蒼い膜が膨張する。精妙な歌声を奏でているのが聞こえてくる。
エンラはソメイをみあげると、はじめて警戒心をといた動物のように、純真な笑い顔をみせたのだった。
「ソメイ、やっとキレイになったナ。まえ痛くて近寄れなかった。今はとっても気持ちいい。ソメイ、そのほうがずっといいヨ」
ソメイも笑った。硝子のように冷たく美しい笑顔ではなく、血の通った人間そのもののような温かい笑みである。
「シン、ありがとう」
ナギが言った。
シンはもう一度ナギが手をのばすのに、素直に抱かれていた。
あれほど恋焦がれ身がよじれるような嵐のごとくたぎっていた感情は、もはやなくなっていた。母親としての、ナギの新たな力をえたエナジーによって満たされたのかもしれない。
ふいに、彼の耳に、はっきりとした声がとどけられた。
『――待っていてね、シン。かならずあなたのもとにいくわ』
目眩のような陶酔感がシンをおそい、そしてその約束をうけとった自分を、どこか遠くでみていた。
シンはナギの腕の中からはなれた。
帰る時がきたことを悟った。
「またな、ナギ」
ナギの肩をかるくたたいた。
ハッとしたようにナギが顔をあげた。
「シン、ありがとう。本当に、ありがとう――」
ソメイが言った。
エンラがシンの手をにぎると、短く鳴いた。その高周波の波動にあわせて、二人の姿が薄れてゆく。
シンの透徹な意志が、地球を愛する心と思いにみちびかれて、彼を求める優しい波動のなかに消えてゆく。
「シン!」
ナギがたまらず呼んだ。
シンが最後にみたものは、美しくたおやかなナギの瞳からこぼれる大粒の涙と、それをいたわるように後ろから抱きしめているソメイの姿であった。
そして、次に彼の透徹な双眸にうつった世界は――
地球――たしかに人間界だった。
「………帰ってきたんだな、地球に。おれの生まれた故郷に」
エンラがその言葉を肯定するかのようにシンの手を強くにぎり、それからやっとホッとしたように離した。
「帰ってきたよ、またお家に。シンが戻りたいって望んだから――それに、地球が帰って来てほしいって願っていたからネ」
「地球がおれを――?」
明るく玲瓏とした蒼さをとりもどした空を、シンはみあげた。
エネルギーがここの地を離れる以前よりも、もっとずっと強く濃くなり、そして命の芽吹きをよろこぶ芳醇なエナジーにみている。
安心したように深呼吸してから、シンはやっとその上空に、白い月が二つあることに気がついた。目を何度もまばたかせた。
それは月の女神――リリスとレヴェナが眠っている、地球の妹星である月と――かつてはすべての世界がうみだす巨大な闇の吹き溜まりだった、黒月界が、いまやナギの白い花のごとく清廉な輝きをはなちながら、新たなる月となって輝いているのである。
「すごいな。……時は、確実にながれているということか。新しい時代がそこまで来ているぞ、エンラ」
「新しい、時代?」
エンラがシンと同じように二つの月を見上げていた。
地球は新しい女王を待ちわびるかのように、芳しい風をそそぎシンを優しく抱きしめている。
その誕生の芽吹きを、期待と喜びにみちた鼓動でよろこびながら、エナジーがあちこちに虹色に沸きたっている。
『――愛する者のために、世界を変えることを恐れないあなたの勇気と優しさを、わたしは知っている。あなたの中の大きな孤独と、さらにそれを乗り越えてゆく真の強さを、わたしは知っている。――母様のお腹にやどるよりずっと前から、わたしはあなたの存在を知っているわ、シン。――わたしはあなたを一人にはしない、ずっとそばにいる――あなたを、愛しているっ!』
シンは目をとじた。
そっと唇をかすめるような優しい風が通り過ぎてった。
ぽっかり開いていた胸の穴がとじてゆき、かわりに己のなかの何もかもを奪うかのような、地球全体からわきあがる命のエナジーがたぎった。気が狂うような陶酔感におそわれる。
輝かしい光明と、緑のはなつ芳香につつまれていた。となりでエンラが、シンから零れでる光とたわむれ遊んでいる。
きっと新たなるガイアの起こした命の風は、父親でもあるあの堕天使にも届いていることだろう。新たなる女神の存在はきっと彼の心をも癒してくれるはずだ。
シンはまっすぐ顔を天にむけた。
そこにナギとソメイの姿をはっきりと見ていた。
二人は笑っていた。
そしてシンもまた、笑っていた。
神はいつも世界をみている。
天上界にある、高い塔の上から。
何もかもを見通すような黒い瞳で、すべての事象をずっと眺めている。
最高神ソメイの腕には、かならず最愛の存在である少女が抱きしめられていた。
もはや神は人々の営みを羨むこともなく、その愚かな行いを哀しむこともなく、ただあるがままを受け入れて、そこにあるものを、そのままの姿で慈しんでくださっている。
神自身が、真実の愛を得ることができた稀有なる世界は、きっと今までになく、美しくあたたかい世界となることだろう。
神が生命の大切さを知り、孤独を癒された宇宙は、きっと力強い未来の鼓動をきざみながら、前進しつづけてゆくのである。
ゆったりとした満ち足りた笑みをうかべ、すべてを愛しみながらみつめている。
人々の幸せへの祈りとともに、淡くやさしい光を蒼く天上界にともし、空を紺碧に染めあげて――
そして、新しい物語がつむぎだされてゆく――
だがそれは、また別の話である。
おわり
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