雷鳴がとどろき、一陣の風がつよく吹きぬけていった。
天界の木々たちは、まるで折れるかと思われるくらいにしなり、横にあらく薙ぎはらわれては、さざめくように葉すれの音を低くあげ泣いている。
ソメイは第五の窓から、すべて見ていた。
そしてシンの叫びはまるで見えない槍のように真っ直ぐに飛来し、ソメイの心臓を貫いていた。
「ナギ……っ!」
耐えしのぶように固くこぶしをにぎり、目を痛いほどつぶって天をあおいだ。
助けに行きたい、今すぐ飛び出して動きたい――。
その衝動に歯をくいしばって堪えるのは、もう何度目であろうか。
思いの苦しさとはうらはらに、心の奥深くにあった何かが確かに軽くなっていっているのがわかった。
いつから溜まっているかわからないほど、慢性的にソメイの心を冷たくしていた胸のなかの重石は、気づくといつのまにか消えおり、後にのこっていた傷までもが癒やされているのだ。
ナギが苦しみをますほどに、皮肉なほどに楽になっていく。
けれど楽になっているはずなのに、たまらない疼痛が心を鋭く引っかいていた。
まるで赤く焼けた鉄の棒でこねくりまわし、爛れてドロドロに溶かされてしまうかのような狂惜しさがさいなんでゆき、あまりの痛みと不快さに、吐いてしまいそうなほどである。たまらぬ狂気のような苦痛ばかりがソメイの思考を覆いつくしてゆくのだ。
「ナギ、おまえがわたしの心を――」
ナギこそが、ソメイの心の闇を消していってくれているのだとわかっていた。
どんなに困難なことであるかわからないのに、それらをひとつひとつ探し出し、浄化してくれている。その身の痛みで、消してくれている。
抱え込んでいた闇があまりに深すぎて、ソメイ自身でさえ見失い、認めることがもはや出来なくなっていたのだった。
心にフタをしていたはずの黒い膜がとり払われてゆくにつれて、隠していた真実がうかびあがってきた。
心の負担が癒されたソメイは、やっと己の闇を認めて、それらを受け入れられることが出来るようになっていたのである。
そう、あの黒い月の世界は、すべて自分の心にたまった闇の澱の産物だった。
心臓を止めてしまわないように、自身からゆっくりと零れて出してゆき、しだいに溜まりにたまって、新しく生まれてしまった痛みそのものの世界なのだ。
思うようにならぬ愚かな世界と浅はかな人々に、悲憤しもだえ苦しみ、寂しさをのみこんで、絶望さえ見てみぬフリをしてきた。そうせねば世界を終わらせてしまいそうになり、慌ててのみこんできたのだ。
だが、それらの思いは、どんどんそれが膨れあがってしまった。
浄化される速度よりも、闇がしたたり落ち溜まってゆく速度のほうが増し、ついに懊悩の毒がソメイのなかに積もりに積もって、呼吸を――生命を塞ごうとしてしまったのだった。
自分が産みだした闇に、殺されかけていたのである。
ナギだけが、それに気づいてくれた。
ソメイが――宇宙が終わる寸前で、黒い珠を放ってくれた。結果として、闇を世界に散らせてしまうことになったのだが、真にソメイを助けてくれた者は、他の誰でもない、ナギだったのである。
「わたしが何もかもを隠し、心の痛みや絶望にむきあわず、無理やりに忘れてきたことがすべての原因だったのだ。乗り越える勇気をもたず、昇華させずにきたために、臆病者としての報いを受けたのだ」
そして意識からも一切を忘れさってしまったころに、ソメイはナギを得た。
愛する、何よりもいとしい存在を傍らにおくことができ、温もりを感じる幸せを手にしてしまった。
あまりに安穏としたやすらぎにみちていて、一途に思いをよせるナギがこれ以上なく可愛くて、大切な存在になり、とうとう無意識が不安をおぼえてしまったのだ。
いつかそれが終わる時がくるかもしれない。ナギがいなくなったらどうするのだろうかと――。
それほどまでに愛してしまった者はいなかった。心を根こそぎ奪われてしまった。
初めてのことだった。
誰かを求め、手に入れたことがなかった。そんな思いを味わったことがなかったのである。
たしかに天上界に連れてこられた樹のなかには、ソメイを愛し、ソメイのもとに居るために次元をあげようとして、失敗したものが多くいた。
自ら次元を上げることを望み、耐えられなかった肉体は悲鳴をあげて、結局は水晶のごとく結晶化してしまうのだ。
彼らはダメだといってもきかなかった。
ソメイのためだと言い、ずっとそばに居たいからと望んでは、勝手に次元を上げてしまった。
そして誰一人、ソメイのもとには残らなかった。
結晶となった彼らをみた時のソメイの悲しみが、どれほどのものかしれないというのに、どうしてソメイのためと言う名目で、置いていってしまうのだろうか。それはソメイのためではなく、自らの欲のためではないか。
言い尽くせない苦しみばかりが残滓としてたまっていった。
そのうちにソメイは人に愛されることが怖くなってしまった。
求められるのも、求めるのも、残酷な別れがかならずその背後にあるのならば、初めから求めない方がいいではないか。
安らいだ顔をして、彼らはソメイだけをおいてゆくのだったら、知らないほうがいいし、誰もいないほうがましだった。
悠久の時のなかに、たった一人でたたずむ孤独がどれだけのものか、誰にもわかりはしないだろう。
そうして心を閉ざしてきたというのに、ナギにだけは、つい気まぐれに力を貸してしまった。どうしてなのだろうか、どうしても心が動いてしまった。
そして自分の樹にして、適当に守ってやるつもりでいたのに、いつしか本当に心を奪われてしまっていたのだ。
ナギは自分のもとにまで命をかけてのぼってきてくれた。
小さな温もりを得た無上の喜びと、いまだかつてない幸せとやすらぎに目がくらみ、自分が抑えられなくなってしまった。放つ光が煌々と強く大きくひろがり、世界をまばゆく照らし出していった。
そして、なんと皮肉なことだろか。
光にうつしだされる闇さえも、大きく深くなってしまった。光の分だけ、闇もまた、活性化したのである。
『ソメイ、観ているんだろう!なぜ応えない、なぜ動かないっ!』
シンの叫びはソメイのすべてを突き破るほどの衝撃だった。苦しくて動けなくなるような厳しい言霊は、ソメイの心を一直線に貫いた。
わかっている。
その通りなのだ。
痛いほどわかっているのだ。
けれども、人の子の――被造物の運命に関与することはできなかった。天地万物を創りあげたときからの、絶対的な定めであり、たった一滴の波紋でさえ、どんな影響を及ぼすかわからない、無為の世界なのだ。
かつて、生贄にされようとしていた、ある国の姫君を助けたことがあった。
結果はなんとも悲惨なことに、国が二つ滅んでしまった。凄まじい戦争が何百年も続き、何万という命がむなしく散ってきえていった。
また彗星の軌道をずらし、すれ違うときの衝撃を避けたがために、星がひとつ滅んでしまったこともあった。
小さな贖罪で、大きな災禍をまぬがれる天の計らいだったのに、星を動かして欲しいという少女の懇願をきき届けたがために、すべてが無に帰してしまった。
それらを見たときの後悔と、虚無感、言い知れぬ悲しさはいかばかりだったであろうか。
二度とこれらの被造物と、そこに住まう者たちや世界には手を加えまい、絶対動かすまいと、そう固く誓ったのだ。
自分が身をおいているこの天上界のことですら、できるだけ関与を避けてきた。
出来るかぎり天使や、その配下のものたちにまかせて、見ているように努めていた。
心を動かさないように自分を律し、無感動に、無表情に、何もかもを心から流してゆけるよう努力してきた。心を動かされることがないように必死で訓練し、そうなるべくそう振舞ってきた。
そして、どうにかそれらが可能となったというのに――それまでに溜まってしまった虚無は、溢れたそこに黒い世界をつくりあげ、愛するナギまで取り込んでしまったのだ。
『ソメイなぜだ!ここもおまえの創った世界だろう!なぜナギにすべてを償わせるんだ!』
シンの声は自分の声のように聞こえていた。
自分の魂の一部をもって生まれたのだから当たり前なのかもしれないが、本当は、きっとナギを愛する者としての魂が同じだからだ。
シンの言うとおりに、ナギを助けられたら、どれだけ楽であったかしれなかった。
ナギを助けて、だが、もしそのせいで、本当にナギが死んでしまったらどうするのだ。永遠にこの手から失い、消えてしまったならば、どう悔い、嘆けばいい。どのようなことが起こるか知れないのである。そんなことには耐えられない。
ひとたび動けば、何もかもが未知数にかわってしまう。運命が根底から狂い暴走してしまう。それがソメイが関わるということであり、また創造者の約束とは、そういうことなのである。
「わたしは……動けないのだ。決して動いては、いけないのだ」
あえぐようにソメイがつぶやいた。
無力感で心臓がとまりそうであった。神といいながらも、本当は何もできない木偶の棒と一緒なのである。
「デモ、ナギもシンも、生まれた時から何もモッテイナイ。だから自分のモノなにもナイ。自分のモノもってナイから、全部与えられる」
エンラがかたわらに立っていた。ソメイをじっとみていた。
今まで口をまったく開こうともせず、部屋の隅で丸まっていたというのに、いつのまにか一緒に外をみていたのである。きっと、シンの叫びが多分エンラにも聞こえていたのだろう。
ソメイは目をみはった。
「エンラなにも持ってない。だからシンとナギの心映して生きてきた。二人のことヨクわかる。二人とも変わるの恐れナイ。世界はいつも変わっている」
そういったきり、ふたたび窓の外をじっとみていた。ソメイの存在など無視をして、シンとナギを目で追っている。
「世界は変わっている……だが、わたしは……?」
苦しそうに唇をかんだ。
エンラの先にいるナギを、ナギとシンを、ただたまらぬように見つめていたのだった。
芽吹いたばかりの緑だけが醸しだすことのできる清廉な空気が、ナギのまわりに充満していた。再生の歌をうたうやさしい風を身にまといながら、ナギは天空に浮かぶ蒼い地球をみあげていた。
「シン、森が……黒樹王が甦ったんだね」
「ああ――」
こみあげる愛しさを、もはや隠し切れないようにシンはナギを抱きしめた。
「そうだよ、おまえが取り戻したんだ。その右手でこの森の闇を贖ったんだ」
ナギはほんのりと笑った。
「黒樹王がね、悪いんじゃなかったんだよ。彼は、一生懸命に闇を浄化しようとしすぎて、頑張りすぎて、とうとう取り込まれてしまっただけなんだ」
「……ああ、わかってる。よくわかってるよ。……何もかもが闇のせいだってことも、増えすぎてしまったからだってことも」
森も木も、みんなみんな本来の姿へと戻りつつあった。
ナギの腕から生まれた泉の水は、黒くこびりついた汚濁を洗い浄化するかのように溢れてはながれ、どんどん支流をつくってゆき、まるで体を流れる動脈のように大地に張り巡らされていった。
エネルギーをふくんだ清めの水を得た森は驚くべきは速さで復活していった。
吹き返した生命の活力によって、世界の汚れや闇をふたたび体に取り込むと、どんどん昇華してゆき、世界をも純化してゆきはじめていた。
木々も風も、花や草、動物たちもまでもが、本来のおのれにたち返った喜びにあふれ、祝福の歌をうたっていた。
その命あふれる歌をききながら、ナギは痛みに痺れた腕が癒されてゆくのを感じていた。
狂ってゆく恐怖、傷つけるつらさ。悪鬼と化し、命あるものすべてを呪うことのおぞましさ。また止めることもできない暴走は、終わりが見えない死へのカウントダウンであり、存在するものすべてを恨み、悲鳴をあげつづける毎日は、まさに地獄という表現などではなまやさしすぎるほど、過酷なものであった。
さまざまな思いが胸を過ぎ去っていった。
黒樹王がゴウッとゆれた。
いままでにない、涼やかな風と枝のたわむれる音だった。
――我はいま、真に目覚めた。
朗々とした声が響きわたっていった。
――浄化の水に洗われて、根も幹も、枝も葉も、すべてが清められた。
大きな喜びと、かつて当たり前のようにそなえていた威厳と慈悲をとりもどし、まさに『王』という呼び名にふさわしい大樹にもどっていた。
そして同時に深い悲しみがわきあがっており、叡智を得たものだけがもつ、どこまでも続いてゆく苦悩と懺悔の嘆きがゾワリとたちこめてゆく。
ナギはしずかにうなずいた。
「……ねえシン、万理さんと宣之さんをね、黒樹王の根元に埋めてほしいんだ。……黒樹王が、そう願っている」
「黒樹王が?」
黒樹王の声が、ナギにははっきりと聞こえていた。
「うん。――自分の放った闇が、二人の恋人同士の運命を狂わせ、殺してしまった。そのことをすごく嘆いている。狂いにまかせて、散らなくてよかったはずのたくさんの命が散り、多くの悲しみがこの森で起こり、消えていったんだって」
黒樹王のなげきの声は、ナギにだけしか聞こえていなかった。慙愧にたえない悲痛な叫びはナギの胸をも傷ませた。
「彼はね、ずっと観ていたんだ。根をはりめぐらせた地下集落でおこったたくさんの悲劇を、地上に彷徨う魔獣や魔物たちの苦しみを。そして、贄とされるために連れてこられた人間たちのもつ、どうしようもない絶望や恐怖。――何もかもを知って、それをずっと見続けてきたんだ。見続けるしかできなかったんよ。――だから、せめて万理さんと宣之さんの亡骸を、この地に葬り、鎮魂の歌を奏でて弔いたいんだって。たくさんの命に送る祈りの歌を、森が欲しているんだ」
シンは頂上がみえないほどに巨大な黒樹王をみあげた。
青々としげった枝が返答をするようにゴウッとうなりをあげた。
腕から離すのをためらうようにして、シンはじっとナギの顔をのぞきこんだ。手を離せば痛みが戻るのではないか、もっと苦しむのではないかと心配するような、なんともいえない表情をしている。
「大丈夫だよシン。黒樹王のそばに座っていれば、黒樹王がちゃんと癒してくれるから。彼のエナジーは世界を癒すためのエネルギーに変換されている。正しい波動で黒月界の闇を清めてくれているよ」
「……そうだな」
言いながら、もう一度ナギをだきしめた。
「ナギ、どうか無茶をしないでくれ。おまえが身を削るたびに、おれの心が削られる。おまえの苦しむ姿をみるくらいならおれの全てをおまえにやるから。――どうか、おれを使ってくれ、お願いだ」
「シン……ごめんね。いつもいつも助けてくれてありがとう――シンが大好きだよ」
ナギが耳元でささやくように言う。
「――ああ、おれも愛してるよ、ナギ」
その言葉を、シンがどんな思いで言ったか、きっとナギには伝わってはいないだろう。それでも二人の思いは違うかたちをとりながら、深く強くかさなっていく。
「そうだな、確かに万理たちをあのままにしておくのは可哀想すぎるな。二度と離れないように、ここに埋めよう」
シンはナギを抱えあげると黒樹王の根元にすわらせた。下草がフワリと包み込むようにのびあがり、ナギをまもる柔らかな緑の絨毯となる。
ナギを傷つけないように受け取ったことを確認すると、シンは黒樹王をトンッと軽くたたいた。任せるぞ、という音がしたのを聞くと、そのまま駆け出していった。
星が流れるようなスピードなのに、彼の背後には風ひとつ起きていない。
ナギは黒樹王の茶色い樹皮をせなかに感じながら、全身の体重をあずけて息をはいていた。堂々としたエネルギーと一緒に、水を吸いあげ、命を体のすみずみまで行きわたらせて、生き返ってゆくような強い鼓動がつたわってくる。
生命の刻む音はどんな生き物であっても心地よい。赤子は母親の心音をきくと泣きやむし、子猫は安心して眠る。ほっとさせてしまう癒しの力に、ナギもまた息をつく。
――我らは世界を支える、支柱の大樹である。
凛とした声が聞こえてきた。
ナギは目をあける。
――我らの狂いは、世界の狂。 我らに起こることは、世界にもまた同じように顕れてゆく。 なぜなら我らは、世界の象徴でもあるからだ。
「黒樹王?」
――そうなることを知りつつ、我らに贄をあたえ、狂わせたるは大罪ではあるが、だが、それもまたひとつの努力の結果のカタチであり、狂わんばかりの尽力をつくした結果でもあったのだ。
ナギは言葉の意味はよくわからなかったが、一生懸命に聞いていた。
――我らは四千世界のすべて――天界、人界、地界、幽界、そして黒月界に根をはり、枝をのばす世界樹である。我らはひとつひとつは違う姿の樹ではるが、また一本の樹でもあるのだ。
朗々とした声はナギの頭のなかが澄み渡っていった。
世界のすべてに根を張り、悠々とそびえたている世界樹たちの姿が浮かびあがってくる。
――たった一本の樹の狂いは、世界の狂いとなる。世界の狂いは、我らの狂いであり、我らの狂いは、世界の狂いとなり、またこの世界すべてに現れてゆく。
天上界でみた、あの巨大な樹――ソメイの黒い珠をはらみ、極限まで耐えに耐えぬいた大木は、この黒月界ともつながっていた。
また地球に玲瓏とそびえる巨大な樹木も、地界にのびる鬱蒼とした大樹も、幽界に繁茂にざわめく炎のような巨樹も、みな姿はちがっていても世界を支え、世界をつなぐ柱であることに違いなかった。
宇宙はバラバラの星の集まりのようにみえていても、たったひとつに繋がっている精妙な世界なのである。
全てが少しずつ重なっているのだ。
――この身体、黒樹王の狂いは、ナギ、おまえが正してくれた。そのことは感謝する。だがそれだけでは足りぬのだ。我だけが正常にもどっても、対である白樹王がもどらねば、世界はいまだ闇にとらわれたままなのだ。
「白樹王が、対?!」
ナギはすぐにその樹を思い出していた。
王城の庭に気高くそびえたっていた、あの白い花をつけた美しい樹である。
贄によって白い花を無理やり結ばされ、その発するエネルギーによって、王都にすまう民をやしない、命を潤してきた『生命の樹』である。
まさにその巨大な風貌も力も、王と呼ばれるにふさわしいだけのものを確かに有していた。
シオンの説明では、たしかこの黒樹王のある森と拮抗し、黒い森に王都と城下の人々が飲まれるのを、ずっと守っていたはずではなかったか。
――我らは対の樹である。我らでこの世界を支えていたのだ。
黒樹王がずっと、自らのことを『我ら』と自分のことを呼んでいたことに気がついた。そう、彼はひとりではなかったのだ。
「白樹王も、贄によって狂わされたんだね」
――そうだ、我らに贄をあたえてはいけなかったのだ。だが、それも……。
黒樹王がなにかを言葉にしかけたとき、ザワリッと闇がうごめいた。
立派な枝が――一本の大木ぐらいはありそうな太い枝がバサリとおとされ、ナギの目の前を転がって坂を滑っていった。
いきなりのことに訳がわからず、驚いて意識をそれに奪われていたナギは、人影がすぐそばまで来ていたことに気づかなかった。
「ようやく見つけた!おまえを迎えに来ることができたぞ、ナギ!」
「シ、シオン様……!」
闇の怨嗟でできた黒い結晶のごとき瞳が、皓々と射抜くような光を放っていた。
ナギはかすれた声をあげたまま動くこともできず、シオンが膝を折り、漆黒の髪が自分の頬にかかるのをみていた。
グッと抱きしめられ、気が遠くなるようである。
「おまえが魔獣に連れ去られてから、わたしは一日たりとて心が休まる時はなかった。ずっとずっとおまえの身を案じていた……ナギ、ああ、やっとおまえに会えた」
ナギは悲鳴をあげることもできず、シオンの思いの丈が溢れるような言葉を聞いていた。
「どうしたのだ、ナギよ。おまえのあの眩しいほどのあの光が薄れているではないか?――ああ、だが今はなんと柔らかく温かい虹色の輝きに満ちているのだろう。こうして抱きしめたこの胸から伝わるいエナジーは、なんと優しく心地のよいのだろうか」
溜まらぬようにシオンがもらした。ナギの腕の宝玉がリーンと涼やかな音色を奏でている。
黒樹王の枝が、春の風を爽快にうけて、ゴウッと音をたてた。シオンを排除する気配もみせていない。
「わたしは今まで、どうしてもこの黒い森には入れなかったのだ。いつも彼らの憎しみと怒りのエネルギーによって跳ねのけけられてきた。おまえを探すことがどうしてもできなかった――来たくても、迎えにこられなかったのだナギ、許せ」
シオンはナギの肩口から顔をあげ、鼻と鼻がつくほどに顔をよせ、うっとりと瞳をのぞきこんだ。
「ナギ――光でできた天上の樹。宇宙でもっとも美しい輝石。そして、わたしの花嫁」
闇と悲しみで編まれた魔物が、地の底ではなつ咆哮のような響きの声には、強い言霊が含まれていた。
ナギは全身が、いや心までが絡めとられ、身動きひとつできない。純粋な『無』の結晶に抱きしめられたように、世界が遠のき視界が暗くなってゆく。
「一度光を見たものが、それを失ったときの哀しさをおまえは知らぬであろう。わたしがどれほど苦みに悶えのたうったか、おまえにはわからぬであろう」
胸が焼きつくされるような恐ろしい存在なのに、この悲しみは何であるのか。
シオンはナギをかたく、そして少しも壊さぬようにそうっと抱きあげると、空に舞いあがった。
――シオン、憐れな魔王……。
黒樹王は哀しそうにそれだけ言うと、そのまま黙してしまった。
わずかもナギを助ける様子さえみせず、シオンが飛び去るのをただみつめるだけである。枝も揺らしてはいない。
むっつりと心もエネルギー閉ざしてしまった。
ナギはなぜだかその腕のなかで、闇の痛みと、不可思議ななつかしさを覚えていたのだった。
万理と宣之が抱きあったまま、息絶えたてしまったその場所へと引き返していたシンは、地下集落の者たち、外の世界に出てきだしているのに出会った。
なにが起こったのかを知らない彼らは、オドオドしながらも、魔物の跋扈するおそろしい魔の森が、いきなり青く美しい木々と、豊潤な植物で彩られた生命の森へと変わっていることに驚嘆し、ひどく戸惑いつつも歓喜にざわめき、地下から踏み出してきていたのだった。
無と瘴気であふれ、禍々しくよどんでいた空気は、もはや彼らの呼吸器を弱らせることなく、エネルギーさえ惜しげもなく与えてくれていた。
空に浮かぶ蒼い地球の光が、世界を白く美しく浮かびあがらせ、命の芽吹きを歓迎しているようにすら思える。
そこにいた魔獣であった男たちは、流れてきた水に清められ、だんだん正気をとりもどしていた。
その水によって緑がいっそう美しくなり、活き活きするのをみた人々は、最初こそこわごわと手をつけ、水を飲みでいたが、自らの命がよみがえるようなエネルギーが与えられることに気づくと、喜びに狂うようにさわぎながら、さらに地下の者たちを呼びに行っていたのだった。
まわりではっきりとしかも急速に世界が変わってゆくのを眺めながら、シンは万理たちのそばにゆっくり歩いていった。
二人はもはやこれ以上ないほどに抱きあい、二人に分かたれていることのもどかしさを表現しているかのように、魂をかたく結びつけたまま、時を終えていた。
そばで二人に水をかけていたのはサラだった。
喜びの声をあげる人々のなか、ひとり泣きはらした真っ赤な目をして、白いナギの花を二人に手向け、水で洗い清めていた。
水の清廉さによって浄化された万理と宣之は、まるでまだ生きていて、今まさに再開したよろこびに、ひっしと抱きあっているかのようにも見える。
優しくて気の弱そうな面差しの恋人同士は、小さな魂をよせあい、しずかに生きていた時間そのものように、あまりにひっそりとしていて、それがさらに悲しみを呼び起こさせていた。
「サラ――」
シンが声をかけた。
サラは驚くようにシンを見あげ、泣き笑いのような顔して、たまらぬようにシンに駆けよってきた。
「世界は――変わったのね?シンとナギで、変えてくれたのね?」
彼女だけは初めから地上にいて、何もかもが命をとりもどす奇跡のような瞬間をずっとみていたのだ。二人によって、全てが変えられてゆくのをはっきりと感じていた。
「私にはわかったわ。シンとナギの存在を、ずっと感じていた。――だからきっと、万理と宣之の死は無駄じゃなかったのよね、そうなのよね?」
シンがうなずくと、優しい顔でみていたシンの胸に顔をうずめた。シンはだまってサラの骨ばった肩をだきしめた。
「ありがとうサラ。二人をキレイにしてくれたんだな。ナギの泉の水で清められたなら、二人の魂はきっと二度と離れることはない」
「ほんとう?……よかった」
涙をふいて顔をあげた。
「――この水があんまりきれいで優しいから、いつのまにかそうしてたの。……でも、ナギの泉って……なに?そんな泉があるなんて聞いたことがないわ。この世界が闇に飲まれてからは、泉なんてものはなくなってしまっていたはずよ」
「黒樹王の根元に新しくできたんだよ、ナギの、腕を代償にね」
「――っ!」
サラはまさか、というようにシンをみつめた。
彼の表情をみたサラのほうが、たまらない顔になり、さらに涙を瞳にもりあげた。
「この二人を黒樹王の根元にうめてくるよ。そう黒樹王が望んでいるんだ。もう二度とはなれることがないようにしなくっちゃな」
サラが黙ってうなずくのに、肩をたたいて横に避ける。シンは抱きあった二人を抱えあげた。まるで枯れ木のように二人は軽くなっていた。
そのまま歩きだした。
いつのまにか集まりだしていた人々は、シンの姿をみると、歓喜の声をおさめて道をあけていった。人垣に一筋の道ができていくようである。
「この世界はシンとナギの来訪によって変わってゆくのね。二人が、この世界を救ってくれるんだわ」
いつの間にかそこいたアシャいて、まるで預言者のように言った。
シンの背中を痛ましそうに、そして熱い思いがほとばしるのを止められないようにじっと強くみつめている。
サラはうなずきながら、アシャの背中を慰めるように撫でた。
同じ場所にいながら、同じ次元に決していなかったシンとナギ。二人には、どうあっても触れることはできなかった。
そばにいながら、宇宙の果てより遠い心を求めることは、天空に瞬く星に恋することより、はるかに難しいことである。
それでもそばにいながら惹かれずにはいられない。シンという存在はあまりにも眩しすぎて、心を奪われずにはいないのだ。
ソメイが自分のそばにいる者の心を吸い寄せてしまうのと同じように、シンもまた、周囲のものの心を引寄せてゆかずにはいなかった。大きな光りは、何もかもを吸い寄せ、包み込んでしまう。
だが彼らは、同じ魂のかけらを持っていながら、まったく違う強い光芒をはなっていた。
シンはつねに行動し、苦しみ、悩みながらも、自分たちと同じように必死で運命にたち向かってゆく。そんな等身大の人間としての、シン自身の魂を愛さずにいられない、そんな不思議な魅力を放っているのである。
アシャの思いも、サラの心も、だがシンにはけっして届かなかった。
彼の心の中にあるのは、たったひとつの美しい存在だけ。愛するナギだけしかいないのだ。
だがそれでもいいのだと思えるくらい、好きになるという感情そのものが、とても価値のあることのように誇らしくさえ思えるほどに、特別な何かが彼にはあった。
人々のあいだをぬけ歩いてゆくシンは、なぜか胸騒ぎを覚えはじめていた。
段々、なにかの警告音が大きくなるような気がしてくるのに、たまらずに走るスピードをあげゆく。
シンに触れたトゲのあるツル草が燃えるように消えた。走るスピードに残像が筋をひくようにエネルギーの尾だけがのびている。
最後の繁みをぬけたシンは大樹の根元をみた。
そこに座っているはずのナギの姿はいなかった。
鼓膜が破れるほどの警戒音が最高潮に達し、怒りが沸騰したかのように紅蓮の炎となって逆巻き、シンの形相がにわかに変わる。
「ナギ!」
黒樹王の重い枝がざわめいた。
シンは泉のそばに二人を横たえると、ナギを迎えるために伸びた柔らかな草があった所にまで走り、確かめるように手を置く。
ほんのりとまだ温かい。
だがナギの気配が完全にこの場から消えてしまっている。あってしかるべきはずの場所に、その姿だけが――ない!
「黒樹王どういうことだっ?!」
まなじりが切れるように吊りあげ、怒気にうずまいたエネルギーが、枝に茂っていた葉を焼いた。黒樹王の太いどっしりとした、何があっても揺らぎそうにない幹がミシミシとしなる。
「ナギをどこにやった!おまえに任せていったはずだぞ!」
シンの怒鳴り声に共鳴するかのように、樹皮にヒビが入り、細い枝がいくつも消えていった。
「ナギをなぜ守らなかった!なぜやすやすと奪わせたんだ!」
シンの厳しい言霊は、するどくあたりの木々まで傷つけていき、何本かの若木は樹体から折れ、切り込まれたような乱暴な筋があちこちをえぐる。
――癒されねばならぬ……彼もまた、癒されねばならぬのだ……。
「だれが癒されるというんだ!だれに連れて行かせた!」
――ナギにしかあの者は救えぬ。彼の者の闇は、ナギの深い愛情と、ソメイを愛する大きな心にしか、助けることができぬのだ。
「……ならば、おまえはそのためにナギを犠牲にしたのだな。おまえを助け、森を助けたナギに、さらに生贄となり、そいつを助けさせようとしたのか!!」
シンは黒樹王の幹をこぶしで殴りつけた。
まるで鉄を叩いたかのような火花がスパークし、激しい衝撃がまきおこった。
竜巻のような風が、ゴウッっと唸りをあげて大地ごとゆらし森全体の樹がしなっていた。
天空にまでその音は響きわたると、どこまでも終わりがないかのように広がってゆき、まるでシンの怒りと雄叫びそのもののような轟音となり、四千世界の全てをゆるがせていく。
悲しみの声のように、世界を震撼させていった。
黒樹王の枝がバサバサと落ちていった。まるで痛んでいた傷を取り除くかのように、枝がスッキリとしてゆき、やっとできた隙間から、青い光が差しこんできた。
その地球の光に照らされ、今までコケとつる草で覆われていた、黒樹王のウロがぽっかりと幹に口をあけているがのみえている。
――この世界で苦しんでいる者、それが魔王なのだ。彼が救われねば、この世界も白樹王も救われぬ。
「魔王だと?そいつが、ナギをさらったのだな!」
――魔王、いやシオン……闇にとらわれた憐れな王……。
「憐れ……?」
シンはギリッと唇を噛んだ。
「――黙れ黒樹王!それ以上口をひらくなら、おまえを今この場で砕いてやるぞ!」
シンは荒ぶる心をとめられなかった。
あれほど苦しみ、それでも自らの腕さえ与えたナギに、まだ犠牲となり、誰かを救えというのか。贄になれと求めてくるのか。
もはやこの世界の貪欲さが、憎くさえ思われていた。
それほどの献身をもとめ、どうしてナギを自分から引き離そうとする。ソメイの落とした闇を、どうしてナギが償い、それを「よし」としようとするのだ。
ナギはただソメイを愛しているだけではないか。
その思いは、それほどの罪なことだというのか。それほどの痛みをナギに強要し、わが身を厭わず差し出すことを試さねばならないのか。
「おれは、おれだけはナギを助けるっ!」
そう言ったシンの体が中空に舞いあがっていた。
炎の玉につつまれていた。
まるで星が流れるような速さで、シンは飛翔していった。彼の感情そのもののような激しさで、少し触れただけで何もかもが無と帰してゆく。
シンが消えると、あとにはただ嵐が過ぎ去ったあとのような静けさがのこり、ただ閑散とした空気がながれているだけだった。
ナギの泉の淵には、まるで自らの姿を映すように純白の百合が咲き乱れており、その根元には紫色の可憐なスミレが咲いていた。
万理と宣之の姿はすでにそこにはなく、ただ二種類の花だけがひっそりと沈黙したまま、流麗な泉を守っていたのだった。
白い毛並がフワリとした敷物のうえにナギはそっとおろされた。
これ以上もはやシオンの腕にだかれていることは、ナギにとっては耐え難い苦痛のみであった。
魔と呪いのエネルギーはシオンを構成する全てのように深い闇をたたえていた。そばにいるだけでナギの柔らかな心臓に針をつきたて、毒を飲みこまされるような苦しさを与えている。まるで汚泥のなかに顔をつっこんで呼吸をしているようであり、肺が燃えているように熱くなって息ができなくなってくる。
それがわかっているからこそ、シオンはナギを腕から降ろしたのだが、わずかでも自分から離すことを惜しむように、ナギの青い頬を、触れるか触れぬかというぐらいにかすかに撫でた。
「許してくれナギ。どうしても『力』を使うと、わたしの中にある、この闇を抑えることができないのだ」
森の上空を、あまりの高速でつき抜けたため、炎のような負のエネルギーがシオンから吹きあがり、魔と闇の力がほとばしるようにして、腕のなかに抱いていたナギに浸透してしまった。
ナギはあらがうこともできず、ただ薄い息の下でかすかに意識をつなぎとめているのが精一杯だった。全身を守っていたはずの皮膜さえ、チリチリと闇に溶けるように流れて消えてしまい、心臓の動きを止めないようにつなぎとめていることだけがやっとだった。
それさえなければ、いまごろナギは冷たい骸となってシオンの腕に抱かれていたことだろう。
敷物の上におろされたナギはグッタリとしたままだった。自分の胸に、あれほど嫌がっていた白い花を置かれることにさえ抵抗できずにいた。
「ナギ、これで早く楽になっておくれ」
大量の花が、命の飛沫をあげてとびちっていった。
ナギのなかに消えながらまるで笑うように優しい花びらのキスが頬におちてゆく。エネルギーにひたされるように体がどんどん楽になるのがわかる。
人の命のエネルギーだった。これほど悲しくて痛々しいエネルギーはきっと他にはないだろう。
「……お願い、人を、もう贄にしないで」
唇だけが言葉を追うようなかすかな声だった。
「わたしはこの世界の王だ。この世界を救うためには、鬼にも蛇にもならねばならぬ。――命が必要なら、命を狩り集めて差し出す。またそれが許せぬと、憎しみに燃える魂たちが、わたしを殺すために取り憑いてくるならば、それはそれでよい。今さらきれいごとなど言わぬ。わたしは魔王となったのだからな」
ナギの顔色がもどったことを確認したシオンは、そっと手をのばし抱きあげた。ダラリと垂れた右腕をみて、そのときやっと肘から先がなくなっていることに気がついたのだった。
「その腕はどうしたのだナギ!なにがあった!?」
目を大きく見開いた。
シオンは彼をこばみつづけた魔の森に侵入し、どうにかそこからナギを連れて帰ることだけに夢中になっていた。また狂気のように捜し求めていたナギを、やっと再び己が手にとりもどした喜びで一杯になってしまい、まったくそのことに気づいていなかったのである。
ナギは力なく首をふった。
「もともと、ぼくに腕はないんです。以前切り落とされたとき……ソメイ様が、自分の腕をぼくにくれたんです。だから、この世界に、ソメイ様のエネルギーを――愛を返しただけです」
「ソメイの腕だと?!」
仇敵の名を耳にしたとたん、シオンが形相を鬼のように強く変わった。
仮面の皮膚に小さな亀裂が入り、双眸が劫火の炎をあげたかのように爛々とゆれている。
「あやつがどのような償いをこの世界へしようと、我らへの罪はけっして晴れはせぬ!あの非情の男が創りしこの呪われた世界は、おぞましい闇の怨嗟にぬられた最果ての地獄だ。我が民に――このわたしに背負わせた、これほどまでの苦渋と雪辱の日々は、どうあっても消せはせぬ!汚泥のなかで痛みにのたうちまわり、身も心も犯され貶められた我らの怒り炎を、この恨みを、決して晴らすことはできぬのだ!!」
血を吐くような声は城全体をふるわせていた。
彼の中にくすぶっていた憤怒の激情があふれだし、薄暗い空間に青白く燃えあがっているかかのうだ。
今まで過ごしてきた苦悶がどれほどのもであったのか、想像すらできぬほどに憎悪の念はふかい。
「――シ、シオン様……お願い…っ」
ナギの吐息のような悲鳴がもれた。
黒くたぎった激昂をシオンはおさえることもなく羅刹のごとくに放っていた。ナギの一つしかない肺を容赦なく焼きつけ、胸を突きあげてくる。
ノドがつまり、呼吸がとまりかけていた。全身を鋭い剣で突き立てられているような苦痛が襲う。
ナギの苦悶の表情をみて、シオンは怒りの炎をやわらげた。
「ああ……すまないナギ。おまえが繊細で精妙な存在だとつい忘れてしまう。おまえは天上界で一番美しい花であり、一番優美な生命であり、一番ソメイに愛されている大切な樹だ。――おまえはわたしの大切な花嫁。これからは、もっと気をつけねばならぬというのに、すまなかった」
ナギは咳きこみながら、ちがうと首をふった。
「ぼくは、そんなにキレイな存在じゃない……。今はもう、樹ですらなくなっている。……ぼくの羽はすべては散ってしまった。エネルギーも、天上界にいたときほど純粋で高波動なものではないし、もう、あなたの求めるような、光り輝く存在では、ない――」
「ちがう!おまえは存在するだけで輝く光なのだ。自分で自分の価値を知らぬだけなのだ」
ナギの瞳を覗き込むように顔をよせた。金茶色の瞳が潤むようにけぶり、どんな宝玉さえもかなわぬほどに艶やかにシオンを写しだしている。ナギの瞳に映っただけで、何もかも許されて清められてゆくような気がする。
「ナギおまえは、どれほどか知れぬ時を、だれも寄せつけず、ただ一人で重ねてきたあのソメイの心を奪い、傍らに居ることができたたったひとつの稀有なる者だ。おまえは生きている光なのだ。……美しい、そう、美しい希望の光――わたしを照らし、光の世界へと導く大切な未来なのだ」
ナギは強く抱きしめられ全身がきしみ、声なくうめいた。
あふれ流れた涙が、シオンの光沢のあるヒビの入った皮膚にすいこまれていく。
「……あなたは、本当はぼくが欲しいんじゃない……ただ、ソメイ様のそばにいる樹だったから、手に入れたかったんだ。あなたはソメイ様の大切にしているものだったら、ぼくでなくとも何でもよかった。本当に欲しかったのは、天上界の光――ソメイ様の、光だ」
「違う!――おまえは知らぬのだ!この昏い地底からわたしがどんな思いでおまえをみていたを。どんなに渇望し、手に入れたいと切々と願っていたかを。――わたしはおまえをずっと手に入れた日のことを夢見みていた。そうしてようやくソメイの力が弱まり、やっとできた隙間をかいくぐって、おまえに手を伸ばしたとき、どれほどの喜びに満たされたことか!――光に灼かれる痛みに耐えながら、おまえをようやく我が物にしたあの歓喜のざわめき、甘い甘いこの気持ちが、どれほどのものだったかわかるか?……もし、それを嘘だというのなら、おまえの存在自体が嘘だ、ナギ!」
激高したように言いながら、シオンはナギを床に押しつけた。そのまま服を乱暴に破っていく。荒々しい手はまるで棘のようにナギの柔らかな皮膚につきたち、小さな悲鳴をあげさせる。
「あいつばかりがなぜ光のなかにいるのだ?!なぜあいつの影をわたしが生きねばならぬ。あいつの闇を私が償わねばならぬか教えてくれ!なぜなのだナギ!」
誰に向けている怒りなのか、もはやわからないように睨みつける。
「――わたしだとて、かつてはこの闇の世界ですら全て受け入れ、愛そうと努力したのだ。どれほど血を吐くような苦痛に耐えてきたか、この身をすべて与えつくし、懸命に世界を救済しようとしてきたかしれぬ。だが、そんなわたしの心など、おまえらにはわからぬ。決してわかりはしないであろう」
「や、やめて――いっ!」
噛みつくようなキスをされた。
まるで餓えきって狂う寸前の野獣に襲われたかのように乱暴な力に抑えこまれ、全身が痺れていった。このまま喰いつくし、すべてを奪われてしまいそうな恐怖がわきたつ。
息がとまるかと思う荒々しさでナギを求めてきた。
わずかの抵抗をすることもできず、そのまま肌をまさぐられ、抱きしめてくる手に、衣服をだんだん剥ぎとられてゆく。深く求められてゆくのに体が悲鳴をあげる。
「……あ……ああ」
ナギの鼓動が跳ねた。
気が遠くなった。
ふいにシオンの動きが優しくなった。
ふわりとしたキスがおちる。
シオンの思いの全てが伝わるような、痛々しくさえある懸命な想いのこもった唇が、本心からナギだけを求め、すがりつくように、まるでそれしか光をしらぬ子供が、必死で夜空の星を追うように、夢中になってナギを追い求めてくる。
彼の全身は、火傷するかのように熱く、また氷で出来た刃のように痛く冷たかった。救いを希求する腕がどこまでも深く絡みついてくるのを、ナギにはもはや止めることができない。
――ああ……こんなところにも、あった……。
ナギはふわりと目をひらいた。
その途端、下半身に手を差し入れられて、痛みと驚きに体が跳ねあがった。
涙があふれだした。
それは嫌悪の涙ではなく、憐憫の情そのもののような、無常の世界にながれる慈悲の涙のそのもののような、透明な一筋のしずくだった。
――ソメイ様の、珠が、こんなところに。
シオンの背中をそっときしめた。ここにいる。
「ナギ、愛してる愛している、愛しているんだ。……どうか嫌がらないでくれ、わたしを受け入れてくれ。どうか、この世界の光になってくれ」
懇願するような言葉は、何度も何度もくりかえしささやかれていた。
「おまえさえ居てくれたら、この闇の世界にあってさえ、光のなかにいるかのように生きてゆける。おまえがわたしを愛してくれたら、このおぞましい体でさえ、耐え忍ぶことができる気がする」
あやすようにナギの頬にくちづけながら、首筋におり、胸に顔をよせた。まるで幼子がやっと母の胸に抱かれるようなうっとりとした微笑をうかべ、それに口づける。
ナギの体が震えるのに、なだめるように優しく愛撫をほどこした。どれほどナギを望み、羨望し、想いをよせていたか、それだけでわかるような熱い情熱が全身を走り抜けてゆき、否とはいわせぬ思いで絡めとってゆく。
「どうかわたしを嫌わないでくれ。おまえが望むなら、決してこの姿以外にはならぬ。あのおぞましい姿を見せはせぬ。――怯えないでくれ、嫌わないでくれ」
「……シオン様……そんなことで……嫌ったりは、し…ない……」
ナギは涙をこらえながら、それだけをどうにか口にした。
こんな哀れな存在をどうして嫌ったりすることができるだろう。こんな痛々しい存在を、どうして突き放すことができるだろう。
ナギにはもはやはっきりと見えていた。
シオンの本当の姿も、本当の心も。
その人形の下にある、真実の姿こそが、彼がこの世界にささげた愛の深さなのだ。
「わたしとて、かつてはこのような醜い姿ではなかった。この星を愛し、幾ばくかでも、民たちが住みやすい、正常な世界にしようと懸命に腐心していた。――たしかにここは暗く厳しい世界ではあったし、光に満ちあふれたソメイの世界をうらやましくも思ってはいたが、それでもわたしという存在が、この世界に生れ落ち、王として君臨しているのならば、その責務を果たそうと、わたしなりに努力していたのだ」
若く美しい王は、黒い瞳でこの闇の世界をあたたかく見つめていた。
また意志たかく、優しくも厳しい面差しで何もかもをまっすぐ見つめていた。あるべき世界の平定を願う心持は、だれよりも強く尊い理想にもえており、揺らぎのない毅然とした心根をもっていたのだ。
「だが、あらゆる世界から流れる負の黒い力を防ぎ切れなくなったのは、いつのころからだったのだろう……。黒月界は浄化しきれぬほどの闇に飲み込まれてゆき、世界はしだいに混沌としはじめていった。民はだれもが我慢強い、忍耐をよく知った、自分たちの生まれた意味をよく理解する聡い者たちばかりであったというのに、彼らをも苦しめ狂わせていった」
王の貴い志しよく理解し、汲みることのできる秀逸な民だった。大人しくも、だが耐えることを友とできることのできる心の強い者たちばかりだった。
「だが彼らもまた、だんだんと闇の波動に飲み込まれ、変わっていってしまった。――わたしは民を愛していた。一緒にたえ忍び、他の世界のだれにも見えないこの忍従の世界があるからこそ、宇宙の全てが、平穏にありつづけられる、そのことを共にプライドとしていた。民こそが、わたしの誇りだったし、そうあってくれた。――だがそれでも、闇は濃くなり過ぎてしまったのだ。世界は呪いに満ち、溢れだしたてしまった」
心が病み、魔の気に喰われた人々は、他者を害し、己のことばかり考え奪うようになっていった。
空気が薄くなれば、空気の濃いよい場所をもとめて争い、エネルギーが薄くなれば、そのエネルギーをたくさん放出する植物を独り占めしようと貪欲にむさぼった。
困窮をきわめていた世界は争う想念によってさらに状況を悪化させ、何もかもが最悪へとむかっていった。
「わたしは耐えられなくなっていった。少しでも多くの闇を取り込み、浄化しようと身をすべて差し出すほどにエネルギーを与えつくした。それでも、とうとう追いつかなくなったとき――わたしはあの森を作ったのだ」
ナギは自分を求めながら、まるで懺悔するように語るシオンを止めはしなかった。苦しい息を吐き、震えながらただ聞いていた。
「あの黒い森。黒く呪いにみちたおぞましい森は、わたしが作ったのだ。この世界のエネルギーを食い尽くす負の闇を浄化させるための、人工の森だった。――だが、森もまた、闇を取り込みすぎ狂ってしまった。それほど闇は濃かった。……まさに計算外だったよ。そうして、いつしか、わたしの手からも離れてゆき、森は自らの意志で増殖をはじめだした。一個の命となって、魔物と化したときに、やつらはわたしからエネルギーを根こそぎ奪い、魔力を吸い取り、力もなにもかもを吸収しつくしてしまったのだ」
森は青々と葉をしげらせて美しかった。
だがしだいにそれらはすべて黒く染まりはじめ、意志をもって根をのばし、急激な速度で、遠目にさえわかるほどの広範囲へと増殖しつづけていった。
多分、闇が多すぎたのだ。
浄化するために増えていたはずの森は、シオンの魔力を得て、それ自体が意志をもつ、黒い呪いの森へと変化してしまった。この星を覆わんばかりになってしまった。
「森はわたしのエネルギーを吸つくすと、さいごには、この身体をも取り込んでしまった」
皮膚は縮れ、はじめ湿疹かと思っていたそれは、だんだん硬く盛りあがり、いつしかうろこのように黒く光はじめた。全身にとげが生え、そこから細胞が溶け出すように体がみるみる細くなってゆき、まるで黒く醜いとげの塊のようになってしまった。
「わたしは醜い姿になってしまったが、どうあってもそのまま死ぬわけにはゆかなかった。荒れすさんだ人々を捨て、狂った森をそのままにして消えて行くわけにはゆかないのだ」
そのためには、唯一エネルギーを放出し、どうにか世界を闇に没せずにいられた白樹王の放つエナジーを増やし、最強にまで高める必要があった。それだけが最後の綱だった。
「白樹王はわたしの願いを聞いてくれた。――わたしはすべての民とは言わぬが、この王都に住む者たちだけでも養ってくれと懇願したのだ。そして、約束どおり贄を与えると、白樹王は美しい花をつけてくれた。――そしてまた、わたしの思いを哀れんでくれた地球が――ガイアが、自らのエネルギーを分け与えてくれると約束した。そうまでして、ようやくここまで息をつないでこれたのだ」
あまりに哀れな姿となってしまったシオンは、ただ生きなければならないという強い意志と、人形師の手によって作られた躯にどうにか肉体を定着させることによって、形質を保つことが可能となった。ガイアのエネルギーと、人形の体躯だけで、彼は生きながらえている。
「わたしが怖いか?あまりに醜すぎるか?この異形の姿は耐えられぬかナギよ」
ナギは胸の尖りを強くかまれ、小さく悲鳴をあげた。
涙をもはやぬぐいもせず、そっとシオンの頬に、手をのばした。
「ぼくは、あなたを尊敬する――あなたの勇気に、それでも生きて世界を守ろうとした強い意志に、あこがれます」
「ナギ――?」
「あの広大な森ですら浄化できなかった闇を、あなたは一人で癒そうとした。だからこそ白樹王はあなたを憐れみ愛してくれている。――あなたを愛しているからこそ、哀しい人々による贄を受け入れ、花を咲かせる苦しみに耐えてくれている。――シオン様の気持ちが、白樹王に花をつけさせているんです」
シオンが何ともいえない不思議そうな顔をしていた。
ナギはたまらないように彼を抱きしめた。
「あなたの味わった苦しみが、もし……もし、ぼくのこんな体であがなえるのなら、あなたにあげる。全部あなたに、あげる。あなたの好きにすればいい――」
ナギは目をぶり、全身の力をぬいた。
もはや彼に惜しむものなどなにもない。シオンは自分のすべてをこの世界にあたえ、闇に苦しんでいたのだ。
その彼に、なにをもって報いればいいだろう。こんなものでよければ、いくらでもさらってゆくがいい。
「あなたはソメイ様だ。もうひとりの、鏡の中にいる、ソメイ様自身だったんだ」
ナギは、自分を求めだきしめるシオンの熱をうけながら、彼を理解していた。
理解しながら、またソメイのことをもまた、本当に理解していた。
助けを求めることもできず、また助けを求めるということすら知らず、独りで暗闇の中であえぎ続けてきた。
痛みを痛みと知らず、苦しみを、苦しいという言葉をもたず、なんと不器用であり、なんと痛々しいほどの一途さで、懸命に生きてきたのであろうか。
助けてほしいという願いさえ持つことが出来ないほど心優しく、純粋であり、何もかもを背負い、自分の力でどうにかしようとただ痛みの中でもがきここまで進んできた。
けれど運命も、力も――そして自分の中にたまってゆく闇をも、もはや癒すこともできなくなってしまった。
自分が傷ついていることすら気づかず、人々の羨望のまなざしのなかで、そのようにあろうと強くなろうと必死で過ごして来すぎてしまった。
確かに強いけれど――強くなんてない。いや、だれも本当に強い人なんていやしない。強くあろうと血のにじむような努力をし続けているだけなのである。
皆がみな、ソメイたちは聡明であり頑健で、何よりも強く、だから決して傷ついたりしないのだという思いをいだき、理想をおしつけてしまった。
それが神なのだという重責をあたえ、とうとうその狭い枠の中に彼らを押し込めてしまった。
優しい神は、自分にからみつく虚無の手から逃げることもせずに、自分ですら、強くなったと思いこんで、泣き方を忘れてしまった。
もし泣くことさえできたなら、闇はこれほど深くならなかったかもしれない。声をだして助けて欲しいと言えたら、こんなに苦しみは深くならなかったに違いない。
ナギは、そんな不器用さを愛しいと思った。
心から、愛しい、なんと無垢で懸命な魂なのだと気がついたのだ。
等身大の肉体をもった、一個の存在としてソメイを抱きしめたかった。力いっぱい腕の中にかかえこみ、もう大丈夫だよとなぐさめ、泣いてもいいのだと、ひとりじゃないのだと、そう言ってすべてを許してやりたかった。
このたぎるような思いを、なんと表現したらいいのだろうか――。
体がどんどん熱くなっていった。
体のすべてが、まるで初めの一点にもどったかのように溢れんばかりのエネルギーが湧きあがり、膨らんでいった。すべての命が萌えあがり、充満してゆく。
光があふれだしていた。
黄金にふるえる繊細な光明がナギからほとばしり、光にすっぽりとつつまれて、すでに輪郭さえみえなくなっていた。
まるで光の玉のように淡く美しくなりながらシオンに笑みかけている。
流れる光の粒子があとを引き、シオンは光の腕にだかれていた。
「もう苦しまないで……」
ナギのささやきが聞こえた。
グッとひきつけられるように抱かれ、シオンはナギの腕のなかで力をぬいた。
人形の表皮を突き破ったナギの腕が、本当の、かよわくて憐れな彼をやさしく抱きしめた。
――大丈夫……あなたは、愛されている。
心が開け放たれるのをまち、シオンの胸の奥に眠っていた、黒い珠をそっとすくいだした。
手にとった珠は、綺麗でさえあるのに、ズッシリと重苦しくて、心も体も、凍らせてゆくような痛みがあった。
これほど壮絶な孤独と、何もかもを奪いつくし、ズタズタに切り裂くような悲愴な闇があったのだろうかと、まさに驚くようである。あらゆる思念と我欲にからめとられ、宇宙に響きわたるような苦悩の悲鳴で編まれていて、気が狂いそうになってしまう。
――こんな闇を、独りで抱えていたの……?
ナギは指先に噛みつくそれに愛しそうに口づけた。毒のように痺れるそれは、まるで必死になって、ナギに、おのれの苦しみを訴えているかのようでさえある。
いきなり床がゆれた。
建物が大きくゆさぶられ、中庭にある白樹王がゴウゴウと唸りをあげ白い花を撒き散らしていた。
窓からはまるで雪が降っているかのように白くけぶってみえている。
吼えるような大地のゆらぎだった。
ナギはその揺れを心地よく感じながら、息をはき、貫くような痛みにたえて黒い珠を全身に受け入れいった。
ナギをつつんでいた光が、シオンに吸い込まれてゆき、しだいに彼の全身が光りを放ちはじめだしていく。
バリバリというガラスにヒビがはいるような硬質の衝撃音がして、シオンの全身に網目のような断裂跡がはしった。
「あ、ああ……っ!」
シオンがたまらないように声をもらした。
だが、恍惚とした表情は、まるで甘露のしずくを飲み込んだかのようにうっとりとしており、その光にうっとりと抱かれているままである。
ブルリと震えると、表皮が飛び散り、きらめきながら舞いあがっていった。
扉がいきなりひらかれた。
「シオン様!――いま人形のほうにただならぬ異変を感じましたが何か?!」
人形師であるキラが形相を変えて入ってきた。いまだかつてない気配を感じとびだしてきたのだ。ドアをノックすることすら忘れている。
闇のなかに光り輝き浮かんでいるシオンをみつけると、息を飲むような悲鳴をあげた。
「ああシオン様!どうなされたのですか――!!」
駆け寄ろうと走り出した彼女は、シオンの表情をみてハッとしたように足をとめる。光の中で、まるで母親にだかれる赤子のようにうっとりとしており、幸せそうな表情しているのだ。そんなシオンの姿に、心をうばわれていくように、ただ瞠目したまま立ち続けている。
キラの人形のように冷たい、色さえあまり浮かばない瞳が、ゆっくりと濡れていった。涙がユラユラともりあがり、何もかもわかっているかのような、安寧の表情がうかびあがっている。
「……痛くは、ないんですね。……やっと、はじめて、消えたんですね?」
シオンを襲っていた絶え間ない痛みが、氷が春風に溶かされるように消えてゆき、なおかつ傷を癒し、欠けたあらゆる場所を補うようなエネルギーが潤しているのである。
ずっとそばにいて、シオンのために彼女は少しでも痛みが少なくなるようとそれだけを願ってきた。だからこそ、わかるのだ。
シオンができるだけ自由に動くことができ、なんの苦痛も違和感も与えぬようにできる人形を作るためだけに、彼女は昼も夜もなく腐心してきた。
そのためだけに、キラはすべてをささげ、今なお、言葉にすることのできないほどの痛みが消えぬシオンのために、新しい身体を作る研究をしている。
そのキラだからこそ、自分の作った人形を通して、シオンがいま得ている安らぎがわかっていた。共鳴しながら、安らぎを感じているのである。
そして、キラの人形をつきぬけ、そのカケラをすべて感じたナギにもわかっていた。
キラがどれだけシオンを愛しているかを。
どれだけ大切に思い、心をよせているかを。
心優しい王が、鬼となり蛇となり、魔王であると自らを称してまで、この世界を救おうと決意したその心根も、またその身を裂くような苦しみも、利他心も何もかもを、キラはずっとそばにいてみてきた。
その孤高の魂がおのれの傷をものともせず、ただ一筋の光を求めてあがきのたうつのを、同じように心を痛めながらみつめ、なにより愛しみ大切に思ってきたのだ。
川に投げ捨てられたむなしい命を、シオンだけが救ってくれた。親の愛情をなくしたと同時に言葉をなくしたキラに、新しい命と名前を与えてくれた。
普通に暮らせるようになるまで、ずっと変わらぬ愛情をかけ、根気強く接してくれた。何の見返りも求めずに、心を与えてくれたのである。
親よりも、兄弟よりも、世界すべてよりもシオンが大切だった。キラの世界には彼以外のものは何一つなかった。
だからこそキラは、人形を作ったのだ。
もともとそういう家系の生まれであったのかもしれないが、気の遠くなるような努力をかさね、シオンの苦しみを少しでも軽減できる人形をつくろうと骨と肉を削り、自分の命の炎までもを費やし、そのための試行錯誤をくりかえした。
森の禍々しい魔の手に苛まれてエネルギーを搾取され、日に日に醜く姿をかえてゆくシオンのためだけに、彼の尊い魂を守ることのできる人形を、つくりあげたのだ。
やっと今のシオンの体が出来た時には、キラは自分の体のほとんどを失っていた。何度も試しとして創った人形に、材料として使ってしまった。
キラの体もまた、人形であった。大切な人のために、彼女は全てを、すでに差し出していたのである。
ナギは彼女の思いをもすべて理解した。その勇気にも、ひどく慰められる思いがしていた。
黒い珠を受け入れたナギは、もはや指一本動かすことができなくなっていた。
黒月界にいた、もう一人のソメイの中にあった闇の珠は、あまりにも強くて大きくて、小さなナギの体がバラバラになり、心も意識も、平穏なもの何もかもを翻弄し分解してゆかのようである。
片方だけしかのこっていなかった視力が、だんだん薄くなってゆくのがわかった。
――目か……。
「ナギ」
シオンの光が収縮しはじめていた。
ほぼ裸体のまま倒れているナギのそばに膝をついた。ふるえる腕をさしのべ、痛々しく弱り果てたナギを、どのようにしていいのかと戸惑うようにのぞきこむ。
抱きしめようとしたそのとき、窓が激しい衝動とともに枠ごと割れて吹きとんでいった。
赤い閃光がさしこみ、燃盛る光が天井を突き破るほどあかるく煌めいている。
怒りに逆巻いた鬼神のごとき炎につつまれているのはシンであった。
表情は厳しくしかめられ、目は憤怒の激情そのままにつりあがり、まるで己の前にあるもの全て薙ぎはらわんとするかのような鬼気がたちこめていた。
力なく横たわるナギの腕をとっているシオンの姿をみたとき、エネルギーがさらに激しくいきりたち噴火したかのように吹き上がった。
空間さえ破りかねない轟音が天井を割るようにうなった。空気が熱くたぎった。
「クッ……シ、シンか?!」
シオンが咽喉をしめつけられたように言った。
あまりのエネルギー風のつよさに、ナギの手を放すとよろめき膝をついた。
シンはまっすぐ彼のもとへ歩いていった。
シオンは圧迫され、たまらず後にさがると、そのままシンに壁に叩きつけられて、グワッというひき潰れるような苦鳴をあげて壁にくいこむ。
キラが悲鳴をあげ、かけよりすがりついた。
「ナギ――」
シンはグッタリしたままのナギを抱きあげた。服をかきよせ包みこむと、一瞬泣いているのではないかと思うように顔をゆがめ、ナギの小さなたよりない肩に顔をうめた。
「ナギ、ナギどうしてこんなに自分を傷めるんだ」
「……シン…泣かないで、ぼくは、大丈夫だから……」
目をあけたナギの金茶色のやさしい光が、さらに妙なる美しさをまし、まるで深海に沈むたったひとつの玲瓏とした宝玉のように、シンの姿をうつしだしていた。神秘的な安らぎさえ与える温かさを秘め、魂が吸いこまれてゆくのを止められない。
「ナギ、ナギ……」
顔をうめていたシンは、耐えるように歯をくいしばった。
いきなりまなこを吊り上げるとシオンにむけて顔をあげた。
弓を極限までひきしぼり、射ぬくよう睨みつける。その視線に、そばでシオンを支えるようにしていたキラまでが、怯えてガタガタとふるえていている。
「おまえがナギを?!」
シオンの人形の皮膚の表面がパリンッとはかない音をたてて割れた。
「くっ!」
「シオン様!」
顔を抑えるように両手でおおいうずくまったシオンに、さらに上からかばうようにキラがおりかさなる。
夢中で表面の破壊を食い止めようとしているが、シンの力が強まるのにあわせ、ポロポロとさらに崩れていった。全身に毀れがおき、シオンの体が前方にたおれてゆく。
さらにシンの目に力がこもった。
額に、縦の割れ目がうかびあがりだした。
「シン、ダメっ、それ以上力をつかったら肉体が壊れてしまう」
ナギが力ない腕で抱きついた。
神の御力は、シンの人間の肉体では受容しきれない。使えば使うほど膨れあがり暴走し、凄まじい衝撃をシンにあたえて魂を内側できっとひどく傷つけてしまうはずである。
「お願いシン、ぼくは大丈夫だから、シンっ!」
悲痛な叫びをあげ、いたいほどの懸命な抱擁をシンにあたえた。シンの力が少し弱まった。
シオンの崩壊もわずかにおさまり、半狂乱に泣きシオンを抱いていたキラの声だけが高く響く。
「シオン様、シオン様――!」
「キラ、シオン様に、もうひとつだけ、体を作れるかい?」
シンの腕にだかれたまま、ナギが浅い息でそういった。決して大きな声ではなかったが、取り乱しかけていたキラにははっきりと届いていたようだった。
「……ナギ?」
キラは涙をぬぐい、ナギをじっとみていた。
コクリとうなずいた。
袖からそっと横笛を取りだした。
おもむろに吹きはじめると、聞いたことのないような音色が奏でられはじめる。
複雑なエネルギー組成をもった音階が、滑るように上下をくりかえし、まるで魂そのものを生み出さんとするかのように、ありとあらゆる歌を溶けこませた不思議な調べとなって、鳴りわたってゆく。
シンですら、その摩訶不思議な音色によって怒りをおさめ、キラの笛の音に耳をかたむけだしていた。生み出す者のなかにあるのは、どんなものであっても愛がかならず存在しているからである。
あの人工的につくられたエンラですら、愛によって人に近づき、人の心を解し、愛を得たのだ。そうして、愛する心をもち、はじめて生き物となることができるのである。
シオンの体が、まるで織物のように編まれてゆき、みるみる修復していった。
つるりとした皮膚に、黒く長い髪がたなびき、黒い森によって己自身を奪われてしまう以前の、そのままの美しくて寛大な心をもった黒月王である、斎隠王の姿であった。
その姿は、だが以前と何か違っていた。
まるで虚ろな、色あせたような存在感の薄いシオンの姿とは異なり、まるで魂の高貴さをそのまま映し出したかのような、はっきりとした色合いをそなえていた。硬質な膚は血の色をもち、エナジーさえ流々と生み出している。
「これは――?」
シオンが自分の手を広げてみた。何度も握ったり開いたりしながら、信じられぬといわんばかりにそれを凝視している。
まばたきを繰りかえし、エネルギーの確かな流れを感じることに驚きを隠せないでいる。
「シオン様……?」
キラもまた、それをじっとみつめていた。また自分の顔をなで感触をたしかめるように皮膚をなでている。いままでの人形の張りとまったく違っているではないか、といわんばかりに引っ張っている。
「人形に、魂を定着させたのか?」
シンの何もかもを見通す瞳が、いま今起こったことの真実をみていた。
ナギが微笑んだ。
「本当の――愛をもった器だからこそ、シオン様の本当の『肉体』になれたんだよ。キラの愛情で出来た人形だったからこそ、それが可能だったんだ」
薄れる視力のなかでナギは満足そうに彼らをみていた。
最後に見ることができた光景が、こんなに美しいものでよかったと心から思ってしまう。
愛と、愛で起きたまばゆい奇蹟は、ナギに最後に贈られたプレゼントのようであった。
シオンの体からエネルギーが膨大に放たれだした。
透明でこれ以上ないくらい熱い歓喜と、まったくの無欲であり、慈しみに溢れたそれらのパワーは、ますます膨らみ、世界樹のごとき大きさとなり、天空をつらぬいて、さらに四方世界へとひろがっていく。
白樹王が光の中でゆれていた。
地球が揺れ、天上界がゆれていた。
白い花が光の中に消えてゆき、それにあわせ、地球にいた人形であった者たちの姿が消え、また花として命が残っていた者たちは、己の姿をした人形に魂を定着させていった。
地下に捕らわれていた人間もまた、自分たちのあるべき場所へと還されていく。
消えた人形であった者たちの中には、驚くべきことに、天上界の天使も幾人か混じっていた。そして、あの燦然とかがやく炎のような女性――マリアナの姿もまた、消えていたのである。
あまりに美しく強いオーラだったため、その残像が跡としてしばらく残り、まわりの者たちを驚かせていた。また何がおこったのかと騒然とさせていた。
シオンの力がすべてを取りもどしていた。
それと時をおなじくして、白樹王の幹に亀裂が入り、葉が流れる風に任せ散っていきはじめる。
「そうだったんだね……」
ナギはやっと求めていた安らぎをみつけたように微笑んだ。もはや視力はまったく消えうせていた。
その声にハッとしてナギをみたシンには、すぐにナギの瞳から光が失われているのに気がついた。
美しい瞳に残っているのは、胸が痛むほどの煌めきだけであり、シンを見ていてもシンを映してはいない。もはや誰も見つめることはないただの眼だけなのだ。
遥かかなたの宇宙の帳がしずかに舞い降りていた。
「ナギ……どうして?いつから、目が……?」
シンの声に、ナギはそうっと探るように手をのばし、顔にさわった。
「これはぼくが望んだことなんだ。だから大丈夫……」
「嘘だっ!そんなこと誰も望むはずないじゃないか――どうして、いつこんなことになったんだ?!」
「シン、ぼくのことで悲しまないで。シンの顔は見えなくても、魂ははっきりみえているよ。こんなに強くて温かいシンの魂を、ぼくは絶対に見間違えたりしないよ」
ナギの指を、あたたかな涙がぬらしていた。ナギはビックリしたようにかたまる。
「シン?」
「ナギ、ナギ――そこまでなのか?そこまで、ソメイのことが好きなのか?! ソメイに何もかも与えてしまえるほど――やつを愛しているというのか?」
シンはナギを抱きしめた。
心の底から重苦しい思いを吐き出すような言葉に、ナギのほうが、心が痛くなってしまう。
「どうしてヤツなんだ。どういておれじゃダメなんだ――ナギ、好きだ……大好きだ、愛している。……お願いだから、ヤツよりおれを愛してくれっ!」
思いのたけをどうにか口にし、すがりつくように抱きしめながら懇願するシンに、ナギは目がキリキリと熱く燃えるように痛んでいた。
シンのそんな思いを、ナギはいま初めて知ったのである。
そんな思いをいだいていたことに、恐ろしいほの鈍感さで、気づきもしなかった。
ソメイを愛し、彼のために全てをかけて行動し身を捧げているナギを、彼はどんな思いでみていたのだろうか。
ナギを助けながら、どれほど苦しい思いに苛まれ、嫉妬と悲しみの狭間でせめぎあい、のたうっていたことだろう。
それでもシンはいつもナギを助けてくれた。
ナギを恕し、包みこみ、ソメイのために動いてくれた。どれほどの大きな心をもってナギの――ソメイを愛するナギまでをも、受けとり、つくしてくれていたというのだろうか。
その思いを考えると、ナギは自分の身勝手さと、あまりの愚かさに腹が立ち、胸が妬け焦げるようだった。シンを傷つけてきた自分を、憎いとさえ思える。
なのに―――
なのに、それでもナギはソメイを救いたかった。
ソメイの闇を、黒い珠をすべて浄化し、彼の愁いをはらい、世界をとりもどしたい。ソメイが目覚め、闇の払われた世界で笑っていてほしいと願わずにはいられない。
ナギは全身に無理やり力をこめた。
己の身勝手さを呪いながら、シンに、言った。
「シン……シン……ありがとう。ぼくは本当にシンが大好きだよ。ぼくの全てをあげてもいくらい、シンが大切だ。……でも闇を、どうしても闇を全部浄化したいんだ……どうしても、ソメイ様の闇を、祓いたいんだ……」
シンはナギを抱きしめる手に力をこめた。
肩にかかった服が、シンの涙で冷たくなっていた。
しばらくして、ナギを抱く手が弱まった。
シンは顔をあげた。
「……そうだな。おまえはいつもそうだ。弱そうにみえて、決めたことは絶対まげないんだよな。思いを、変えたりしないやつだよ」
わかっていた、と笑いながらその唇がつぶやいた。
きっとシンはどんなことがあっても、思いを言うつもりはなかったのかもしれない。なのに胸が熱くなり、誰かが背中をおしたように口に出てしまったのだ。
もしかしたら、『言わなければ思いは伝わらない』と、そういった亜希の言霊が、いまごろ作用したのかもしれない。また亜希自身の思いが、シンの心を変えたのかもしれない。
言わずに癒す傷は、どれほど時間がかかるかしれない。ミササギへの思いを溜め続けたソメイは、何百年という歳月を、傷を負ったまますごしてきたのだ。
シンはまっすぐナギをみた。
強くて温かい何かが二人のあいだには、確かにあった。
「シン、ぼくを白樹王のところへ連れて行ってくれる?」
「ナギ」
「目は、見えなくなったけど、見えないおかげで、視えたことがあったんだ」
ナギの透明な笑顔は、シンを――いや、見るもの全てに従わせずにはいない、なにか不屈のエネルギーのようなものが感じられた。威厳とも威圧ともちがう、それは大地にひれ伏し、太陽に手を合わせ、自然とこうべを垂れずにはいられない、心からの畏敬の念であったかもしれない。
シンはナギにはっきりと笑いかけた。
「おまえの望むままに」
ナギを抱いたシンの体がうきあがった。
足下にみえていたのは、まるで縫いとめられたかのように光の柱のなかにいるシオンとキラだった。
彼らをみおろしながら、シンはナギをつれて、外へと飛び去っていった。
Copyright(c) 2007 all rights reserved.