ナギをいたわりながらそっとベッドによこたわらせると、シンは重い息をはいた。
自身の痛みに耐えきれないように目をとじると、グッとこらえて熱をもっていた自分の胸元をはだけた。
そこは赤く膨れあがっており、まるで別の生き物のようにドクドクと大きく脈うっている。まるで今にも吹きあがろうとしているマグマが体中を暴れまわり、大蛇がのたうち噛みついているかのようである。
その嵐のような力を、シンは気力だけでどうにか押さえ込んでいた。
熱で全身の細胞という細胞が溶けだし、別の生き物にかわってしまいそうな錯覚をおぼえていた。
ソメイの力は、ますます大きくなっており、人間の肉体のなかにあってはまさに毒にも近い非常におそろしいエネルギーとなっていた。感情の乱れは特にそれを増幅させてしまい、ひたすらに傷めつけてくるのだ。
シンは耐えながら、同じようにナギの胸元をそっとひらくと、素肌のまま自分の胸を押しあてた。
荒々しくて凄まじい熱を、シンは呼吸をほそくして、体内で純化し精製してゆき、ナギの真珠のような肌を少しも傷つけないように、水鳥の羽のように柔らかなエネルギーにかえてゆっくり注いでいった。
体をかけめぐる情熱のまま、激しいエネルギーがもしわずかでもナギに触れたならば、きっとめちゃくちゃにして壊れてしまうだろう。
ナギはすべてのエネルギーを放出しつくしていた。
心臓の動きはあまりにもゆるやかであり、まるでやるべき事をすべて終え、眠りにつこうとしているように弱々しかった。エナジーが色を薄め、わずかでも手をはなせば、消えてしまいそうである。
シンは自分の心臓から溢れる力強いエネルギーを、ゆっくりゆっくり送りこんでいった。ナギの心臓がみずからの力で動き出すまで、生体エネルギーまで同じように弱め、シンクロさせていたのだ。
苦しげにひそめられた眉間から、汗がしたたりおちていった。
呼吸をととのえ、何度もナギの口へ呼気をそそぎこんだ。
体のすべての器官が動きをとりもどし、必要なエネルギーが満ちるまでは、ナギの負担にならない真綿のような心地よい波動率に調整し、高純度なエナジーを全身に染み渡らせてゆかねばならない。
――どのくらいそうしていたのだろうか。
ナギの顔色がようやくもどり、心臓が脈うちはじめているのがわかった。
シンは、こうしてみつめるナギの顔が、どれほど美しくて、この世にあらざるほどに清澄で、愛しい存在だったのかを、初めて気づく思いがした。
シンはナギの心を愛していた。
ナギの本当の美しさは、姿かたちにあるのではなく、その心にあるのだ。
どれだけ傷つけられても、決して相手を憎まず、自らを殺そうとする者にさえ、自分のすべてを与えてしまうほど、深い愛情と慈愛をもっている。
どこまでも与えられるほど、相手を想える心が美しくて、許せる心が尊くて、綺麗なのである。
疲れ果てたようにシンは床にころがった。
意識がとぎれてしまいそうだった。
ナギの片方しかない肺にあわせて呼吸する息の苦しさと、その心臓にかかっている負担は思ったよりきつく痛々しかった。それに同調し、多すぎたり少なすぎたりしないようにエネルギーを送りつづけていた疲労は、並大抵のものではない。
すでに体力の限界に達していた。
だがどれだけナギに与えても、内側で暴れまわるエネルギーはいっこうに収まる気配はなかった。それよりも、その力を使うことによってさらに増幅し、シンをおぞましい呪縛にとりこもうと怨嗟の声でいざなっているかのようだ。
懸命に抑え込んではいたが、ナギへの、どうしもうない狂おしい感情や思いが高ぶるのにあわせて、牙をむけてきていた。
内側の肉を食み、やわらかい内臓に牙をたて、毒を流し込んでくる。
ナギを自分のものにしろと囁きながら、熱をまして、衝動に狂えと笑い声をあげている。押さえればおさえるほど痛みは強くなり、神経が焼き切れてしまいそうになった。
だが、本当に耐えられないことは、その痛みが、切なさと同じところからきていることである。
ずっとそばにいて、これからもずっと一緒にいられると思っていた。
あの閉じられた空間で二人して時を重ね、ずっと過ごしてゆくのだと疑いもしなかった。
なのに、大きな嵐がきて、一瞬にしてさらってしまった。
例えようもない巨大な存在は、ナギの何もかもを、奪い去ってしまったのだ。
肉体だけならば、どんなことをしても取り戻せるだろう。
けれど心を奪われたのでは、どうしようもないではないか。
涙のかわりに、瞳が熱く燃えあがるようだった。こらえるぶんだけ熱が逆流して、全身がドロドロに溶けてしまいそうである。
身悶えるように半身をおこすと息をついた。自分の感情にとらわれて本当に暴走してしまうわけにはいかない。
女性の体をもつナギを、欲しくないわけではなかった。
ナギならきっと、自分の体など惜しみもせずシンになら与えてしまうだろう。
だが心が伴いわないのであれば、それはナギではない。ナギでないのなら、いりはしない。
「……んっ」
眠っていたナギが息をもらした。シンは思いの淵から引き戻されるようにナギをみつめた。
顔色はすっかりよくなっていた。エネルギーの色もまた濃くつややかになっていた。
自分の中にある、命の源ともいうべきエナジーを、天界樹の羽とともに使い果たしたのだ。死んでいてもおかしくなかった。
生きていて、さらに寝顔が穏やかになっているだけでも十分だった。いや、奇跡に近いことであろう。
「ナギ、あまり無茶をするな。おれの命のほうが縮んでしまうじゃないか。……多くは望まないよ、ただ、おまえが生きていてくれるだけでいい。それだけでいいんだから……」
シンの気持ちが強くにじみだした言霊によるものなのか、ナギの体が燐光をおびたように灯り、闇に浮いて見えた。
焼け焦げそうだったシンの胸が、ふと楽になったような気がした。
いつのまにか誰かが自分を抱きしめていた。
胸に顔をうずめ、まわした腕から自分の体が透けて見える。
フワリと豊潤な緑の風のような、海原の潮騒のような、陽光のまじったいい匂いがした。それだけで魂が洗われて、すべてを投げ出し眠ってしまいたくなるような心地よさだ。
淡く虹色にうるおい、あらゆる事象を含んだ不思議な光沢をおびていた。長い髪がふわふわとたなびいている。ほっそりした体は、少女のものである。
『シン……』
甘いささきが耳をかすめた。
抱きしめていたそれが、顔をあげた。
まぶしくてよく見えなかったが、眼差しはなんともいえない甘さと優しさで細められていた。どこまでも、なにもかもが恕されている気がして安心感につつまれる。
はっきりとした、大いなる思いがつたわってきた。
『シン……っていて……シ……』
もう一度シンをだきしめると、少女の光はさらにふくらみ、弾けるように消えていた。
「ああ……」
いなくなった腕のなかの喪失感はなんと大きいことか。
だが何ともいえない満たされた思いがはっきりと残っている。
「胸が、軽くなっている?」
服をかきひらくと、あれほど赤くはじけそうに明滅していた胸のエネルギーが、熱ごとなくなっていた。
体を爆走していた巨大な力がひそめられており、体がスッキリとしているのだ。
シンは少女が残した薫りをかいでいた。どこかで逢ったことがあるような気がするのはどうしてなのか。
シンの恐るべき計算スピードでも、過去のどこにも引っかからない。どうしても思い出せない。
「でもおれは、彼女をしっている」
少女のいた胸の服をグッとにぎりながら、ナギをふりかえった。
ナギに灯っていた光もまた、消えていたのだった。
ナギのおこした風が吹いてから、しばらくのあいだが地下の世界には、心地よいエネルギーをはらんだそよ風がたゆたっていた。
いまだかつてなく荒々しい魔の風が、地下を食い荒らし、多数の死者とけが人を出してしまったというのに、思いのほか人々の心は乱れてはいなかった。
あまりに吹きぬけてゆく風が優しくて、悲しみにくじけて座り込んでしまいそうになる背中を、頑張れとおされ、泣きわめき倒れ伏してしまいたくなる気持ちを慰められ、また立ちあがって前に進もうと、元気づけられるのだった。
こうして何度も味わったつらい思いを、また乗り越え、やり直そうという勇気がわいてくる。
どうにか笑みをとり戻していたのだった。
またその影響からなのか、光ゴケの光度もおそろしく増していた。
わずかなコケなのだが、まるで電灯をともしたかのように光るので、地下の居住区はいまだかつてなく浩々と照らされて明るかった。それもまたくすぶりそうな気持ちを癒してくれていた。
人々を活動しやすくするだけなく、育てていた茸や野菜類までがみるみる成長させ、収穫量がふえて、種を多く残すようになっていた。
ナギのもたらした花もまた、どうやら色々な使い道があったようだった。
そのまま食べても食料の代わりにもなるし、痛みや化膿止めなどの、何かしらの薬にも使えたし、煎じ方によって多様に用途を変えた。
体が弱っている者には滋養強壮になり、近親の者を亡くしたりした者たちの心の傷にまで、どのようにしてか作用することがわかっていた。
また地上にもその花が咲いていることに気づいた人たちは、時々その花を摘みに行くようになっていた。
不思議なことに、白く可憐な花は、地上のおぞましい闇の世界にあっても、邪気に枯れもせず、傷つくこともさえなく咲き続けており、摘んでも数日でまた新しい花をつけるほどの生命力をもっていたのである。
子供たちがいつの頃からか、『ナギの花』、とそれを呼び出していた。
それがはじまりだったのか、皆もまたいつのまにかそう呼ぶようになっていた。
アシャの腕の傷もほとんどよくなり、またシンと連れだっては、大地の裂け目や空気穴のヒビ割れを修復しに、一緒に出かけるまでになっていた。
だがシンに子供を望むようなことは、もはや口にすることはなくなっていた。
シンにおいてゆかれたアシャは、しばらくうずくまっていたのだが、ナギの風に癒され気力をとりもどすと、どうにか一人で村まで帰りついたのだった。
手当てをうけると、大怪我だということにもかまわず、すぐにシンを探しにいってしまった。
あんなシンを見たことがなかった。
風のなかに含まれるナギの悲鳴を聞きつけた彼は、顔をこれ以上ないほど悲痛に歪め、まるで泣き出すのではないかという必死の形相だった。あっというまに駆けていってしまった。
彼が壊れるのではないかと思えたのだ。
シンのことが心配でたまらなかった。
子供たちのいる部屋にたどりついたとき、シンはナギをだきあげていた。
誰にも声をかけることを許さない鬼気のようなものを発しながら、そのまま部屋へ入ってしまった。
アシャはシンの顔をみたとき、それですべてを納得した。
シンの切ない気持ち。彼もまた、アシャと同じだったのだ。
ナギは、きっとシンではない誰かのことを思っている。その人のために、惜しげもなく身をなげだし、傷つくことさえ厭わない。
すべてをかけるほどの思いを小さなその身にはらみ、シンの熱い思いにさえ気づかないほど一生懸命になって、前進しようとあがきもがいている。
あの優しい慈愛の風は、もはや嫉妬を抱かせることなどできないほどナギの心そのものだった。あまりに心地よすぎて、恋敵とおもっていたアシャでさえ涙が出そうになった。
ナギのはなつ愛のなかには、誰にも邪魔させないほどの強い覚悟があり、そうでなければ、これほどの献身の心はもてないだろうというほど優しすぎた。
その愛をうける誰かを、うらやむような気さえしてくる。
淡々と仕事をこなしているシンの心の傷が、どんなに隠そうとも、深く彼を痛めているのがアシャには見えるようだった。
感情をおし殺したまま、何一つとして押しつけたりしない。ナギのために無償で与えるすべてのことが、シンの愛なのだ。
アシャに頼まれる仕事のとき以外を、シンはナギのそばですごしていた。
一番大切なときに、そばにいられなかったのがひどく悔しくて、何よりつらかったのだろう。
もはやアシャは、シンをナギのそばから離そうなどとは微塵も思わなくなっていた。そして、自分の心から、シンの存在を消そうというかのように、あまりシンに会わないようになっていた。
シンもまた、何も言わず、ただナギのそばにいて、したいようにすることを見守っていただけだ。
ナギはあれから体調がもどると、ケガや病気の子供たちの世話をすこしずつ手伝うようになっていた。
腕をもがれた少年も、どうにか落ち着いてきており、しだいに元気な笑顔をみせるようになっていた。血を吐いたマミもすぐに調子をとりもどし、弱っていた呼吸器の具合もおちついている様子で、すぐにおませなおしゃべりを復活させていた。
黒い風を吸い込んだり、傷つけられたりして、体調を崩した子供や老人たちも、徐々に回復しきており、集落にも普通の生活がもどりつつあった。
「花がたりないわね」
子供の世話係である万理が言った。
花をためていた大きなカゴをのぞくと小さくため息をつき、
「やっぱりここのところずっと花を使いっぱなしだったから、底をついちゃったわ」
最後の花をつかみあげると、沸騰したお湯のなかに落とした。
花を煎じた薬は、甘くて子供たちに人気であり、まるでお菓子を食べているような感覚らしく、自分からねだり、もっともっとと欲しがる子もいたくらいだ。美味しくて体が楽になるのだから、嬉しいばかりである。
ナギが万理の隣にならび、同じようにカゴの中をのぞきながら言った。
「そろそろ地上に取りにとりに行かないとダメみたいだね」
二人してシンにうかがうように振り返る。
「花を取りに出かけたいんだけど、シン、いいかな?」
「――この間も出ただろう。本当はまだ上の空気は吸わないほうがいいんだぞ、ナギ」
「うん、わかってるよ。でもっ」
「そう言ってても、ナギが大人しく聞くわけはないんだろうな」
シンはワザとらしい仕草で肩をもちあげてみせた。
それでもどこか笑っているのは、ナギのお願いに、あまり逆らえたことがないからだ。
だいたいダメといっても、勝手にやってしまうのだから、どうしようもない。
「でも今回はやめておけ。オレと万理だけで行ってくるから、ナギは留守番してろ」
「大丈夫だよ、調子もいいし」
「それでもダメだ。まだ時々しんどそうにしているだろう?」
「それは……」
すべてお見通しであるシンに、ナギはすねたように目をそらす。
「そうね、今は無理しないほうがいいわ。ナギは子供と遊んでいてちょうだい。子供たちもそのほうが喜ぶしね」
万理が、まるで小さな子にいいきかすような口調で言うのに、さすがにナギもまいったように笑った。仕方なくうなずく。
「でも万理さんもこのあいだから頻繁に出てるんじゃないの?体にさわらない程度にしておいたほうがいいよ?」
「あら、ナギちゃんよりは、かなり丈夫に出来てるわよ。それに花を見つけさえすれば私のほうが手は早いもの、任せておいて」
地上に出ても、負のエネルギーの影響をナギほどは受けないために、たいして体がもたつかずに動くことができる。
柔らかく笑ってみせる万理の表情に、少しナギはいつもホッするような気がしていた。ここに来てからのほうが、ずいぶん生き生きしているようにみえる。
地下の生活にも慣れ、また仕事を任されるようになって、万理の笑みが本物のように明るくなっていた。
誰かの役にたっているということを実感するにつれて、生きる気力が湧いてきたのだ。うつろだった存在がはっきりしてきたようにみえる。
人にとって、自分以外の人のためになり、必要とされるということが一番大切なことなのかもしれない。誰にもいらない存在なのだといわれたら、きっとその人は心から死にはじめ、いずれ肉体の死にまで及んでしまうだろう。
シンも万理の変化には気づいていたのだろうが、ただ笑うだけで何もいわなかった。いつも哀しそうだった万理がみせている良い変化を、シンなりに喜んでいるのだけはわかる。
亜希は助けられなかったが、せめてこんな場所でも万理には少しでも幸せになってほしいと二人は願っている。
「じゃあナギ、ちゃんと大人しく待ってろよ」
それでも幾分心配そうにシンはいうと、ナギを軽くだきしめた。
万理をともなって、そのまま地上にでかけてしまった。
いまのところ、地下の住人のだれも緑の魔獣や、得体のしれない森に巣食っている妖魔たちの被害にあわずにいた。無事外に出て、花を摘んでくることができている。
それも大体はシンが同行しており、魔物たちの気配をいち早く察知し、また危なくなると動きをおさえ、被害がでないように行き来を手伝ってくれていたからだ。
地下の者たちにとっても、シンの存在はなくてはならないものであり、ありがたがっていた。
シンもナギも、だれからも一目置かれ、特にシンは守り神のように崇めるものさえ出はじめていた。
「万理、あまり遠くに行くなよ。このあいだから魔獣の気配がだんだん濃くなってきてるからな」
「ええ、わかってるわ」
返事をするより早く、白い花をみるみる手折りながら、カゴに入れてゆく。
「ねえシン君、魔獣って一体何なのかしらね。――人をさらってきたかと思うと、私の時みたいに、いきなりほっポリ出して、消えてしまったりするでしょ。かと思うと、執拗に追いかけてきて、これでもかっていうほど凶暴にもなるし。――やつらは、黒樹王の『贄』となる人間を集めてきてるって話だけど、それ以外は森をうろうろしていて、何をしているのかしらね?」
シンは油断なくあたりの気配に神経を張り巡らせているためか、気のない返事をした。
「さあな。そんなこと考えたこともないよ。でもどうして万理はそんなことが気になるんだ?」
「……そうね、なんとなく、よ。ほら、だって私は魔獣に連れてこられた時、やつらの体に取り込まれてたじゃない?あの中にいたとき、何ともいえない感覚をおぼえたの。とてもよく知っているような、それでいてとても怖くて、思い出したくないような、嫌な感じ。でも、やっぱり何かがそこにあるように、感じてしまったの……」
「ふうん?」
万理でさえ何を言いたいのかわからないような口ぶりに、シンさっぱりわからない、と言いたげだった。
「おれからすれば、とりあえず危険な生き物には変わりがないけどな。――もうそろそろ帰ろう。ここら辺の花はあらかた摘みおえた。数はすくないけど、嫌な気配が近づいている」
「え、ええ」
万理はまだ十分でないといいたかったが、シンの有無を言わせない物言いにうなずき、多少、不安な面持ちをまわりにむけた。
シンはたいていは優しい口調ではあるが、あまり人と親しくしたがらない気質かから、ときには冷たく感じさせてしまうことがあった。それが威厳のようにもみえるのだが、彼の負ってきた深い闇のようでもあり、少し怖く思えてしまう。
後ろをついて歩く万理が、じっと自分をみているのに気づいたシンは、表情を和らげた。
「なんでそんなに見るんだ?」
「ううん、なんかね、こんなところに来てまで逢えると思ってなかったから、すごいなって。それに、亜希の想い人かと思うと、弟のような気もするしね」
「弟――?ハッ、そんなこと言われたのはじめてだな。みんな嫌そうな顔をして近寄りもしないからな。……そういえば万理、求婚されてるんだって?樹界人だってきいたけど、どうするつもりなんだ」
いきなり自分のことに話をふられた万理は、一瞬なんの話かわからないような顔をしてシンをみつめた。それからカァッと赤面した。一番、噂話からは遠そうなシンが言ったことでよけいビックリしてしまったのである。
「な、なんで知ってるの、そんな話?!」
「何って、ケイン本人から相談されたんだよ。万理と同郷で、知り合いだったからってさ」
「あ、ああそういうこと……」
万理は納得したように曖昧に笑った。
「どうしようかなぁって思ってはいるんだけどね。ケインは悪いひとじゃないし、優しいし――ここで生きていくって決めたんだから、それもいいかなぁとは、ちょっと思ってはいるんだけどね」
「そうだな。まあ多少気は弱そうだけど、万理みたいなタイプにはあってるかもな。騒々しいのはダメだろう?」
「ダメだわね。――ケインには少し考えさせてって言ってるの。子供も好きだし、そろそろいいかも……」
万理は思い出し笑いをするように口元をゆらした。
「私ね、自分がこんなに子供が好きだなんて思わなかったのよ。ずっと苦手だって思ってた。だって私たち、ずっと母親に邪魔にされて育ってきたから、なんとなく子供って邪魔で嫌な存在かと思ってたのよ。……でも、ここに来て良かったこともあるんだなぁって思ったわ。頑張って生きていればいいことも、あるかもって」
「ああ」
シンは短く返事をした。
そんな風に考えられはじめた万理の変化にすこし驚いていた。
きっとどんなに暗い闇のなかにさえ、光は存在するのだ。自分が光になることだってできる。
ふとシンは、自分を抱きしめた。
あの光の少女のことを思い出していたのだった。
そっと気づかうようにしながら、マミはとなりに座っているナギの膝に手をかけた。
「ナギ、シンとマリにおいてけぼりくっちゃったのね。残念だったわね、でもしょげちゃダメよ。私がちゃんとお相手をしてあげるから、そしたら寂しくないでしょ?」
変になぐさめられて、ナギは困ったように頭をかいていた。
「でもシンの言うことだけは聞かなきゃダメよ、ねぇ?」
後ろにいたヒカルに同意をもとめる。
「そうだぞナギ。ナギが倒れたあと、シンがすごく大変で、すごく可哀想だったんだからな」
ヒカルはちょっと怒ったような顔をした。
二人は、ほかの子供たちにくらべて、比較的魔の風の影響を受けていないほうだった。ナギのそばにいたからかもしれない。
ただマミはもともと呼吸器官に疾患があり、走ったりむやみに動くことができないので、いまだ寝たり起きたりを繰りかえしていたが、元来の明るさからか、たいしたことなどなさそうに振舞っている。
というよりも、ずっとその病気と付き合っているので、慣れているといったほうがいいかもしれない
ヒカルはちょうど地下倉庫で探しものの手伝いをしていたので、無事だった。
いまは子供たちの世話をしている万理やサラを手伝いながら、自分より小さい子の面倒をみていた。
「そうよ、シンすごくつらそうな顔してたのよ」
「いつも顔色が青かったしさ。死んじゃうかと思ったよな」
「――ごめんね。ほんとにシンには特に迷惑かけてばっかりだ。何もしてあげられないのに……」
「あら、そんなことはないわ。シンはナギのそばにいると、とっても気持ちがいいエネルギーを放ってるわよ。たぶんすごく嬉しいんだと思うわ」
「そうそう、シンの顔が怖くないのは、ナギのそばにいるときだけだもんな。あとはちょっとおっかない気がする。でもまあ、シンも大好きだけど」
ヒカルがニカッと相好をくずした。
「ナギ、ほんとうに羽なくなっちゃったわね。あのとき全部使っちゃったのね。キレイだったのにもったいないわ」
マミがナギの見えないはずの光の羽根を惜しむように背中をみた。
「でもね、何だか前より、よくなった気がする。ナギが本物になったみたい」
「なにそれ?」
ナギは首をかたむけた。
ヒカルがからかうように、
「わかんねぇこと言ってんじゃねぇよ――って言いたいけど、でも言ってる意味はわかる気がするな、うん。なんだか前のナギは、キレイはキレイだったんだけど、幻みたいで危なっかしかったんだよな。あとで思い出したとき、本当にナギと遊んだのかなぁって思ったりしてさ」
「そうそう、そうなのよ。触っていてもフワフワしててイイ匂いがするんだけど、でも強く抱きついたら壊れそうで怖いっていうか、えっと、とにかくどこか遠くにいるみたいで、絵本の中の人を見てるみたいだったのよね」
マミとヒカルが自分たちの思いをあらわす言葉が見つからなくて、こうでもないああでもないと言いあぐねていた。
背後で聞いていていたサラが、クスクス笑っていた。
「サラ?」
ナギはサラをみあげた。
サラは褐色の髪をほとんど刈り上げるように短くしており、少年のような服装をしていた。それでも女らしい印象を少しも崩さないのは、いつも柔らかい笑みをうかべているからだろう。白い肌にはえる朱色の瞳がいまも優しく細められていた。
「私も同意見よナギ。以前のナギはね、なんだかガラスケースに入った花みたいで、生きてる感じがしなかったのよ。キレイなだけで触れられないっているか、触れちゃダメっていか。でもね、なんていうのかしら、今は花は花だけど、大地に根をおろして自分で呼吸している『生花』って感じね」
マミとヒカルがうんうん、とうなずいていた。
「ずっといいわ。光でかすんでいる花よりも、触れられる瑞々しい花のほうがずっと素敵だもの。――ナギ、ずっとまえより綺麗になったわね」
「私もそう思う!」
マミが嬉しそうにそうに賛同すると、ナギに抱きつく力をつよめて胸に顔をよせた。
「それになんだか、大人びた気がするわね」
「大人びた?ぼくが――?」
ナギには自分の変化がわからないのか、顔をつるりとなでた。
「うんそうだな。胸もでかくなったし。サラのペッッタンコの胸より、もしかしてデカいんじゃないか」
ヒカルのからかうような言葉に、サラが怖い顔をしてお尻をつねり上げた。
「なにませたこと言ってんのよ!」
「痛てぇな、もう、サラは乱暴なんだから」
二人のことなどお構いナシに、マミが気持ち良さそうにいった。
「ナギって、ナギの花の匂いがすのね。気持ちいい」
「ナギの花なんだから、ナギの匂いがしてあたりまえだろ」
ヒカルが何をいまさら、と馬鹿にしたように言う。
「なによ、いい匂いって言ってるんじゃない!」
マミとヒカルがギャアギャアともめだしたのを、ナギとサラは、また始まった、とあきれるように笑って見ていた。まるでレクリエーションのようなのだ。
サラが言った。
「でもナギ、本当に無理しちゃだめよ。シンがね、本当に見ていて可哀想なくらいナギのことを心配していて……声もかけられないくらいだったのよ」
「……うん」
「ナギが起きあがれるようになるまでほとんど部屋にいたけど、時折出てきたときのシンをみたら、そりゃもうゲッソリやつれてて、顔色なんて土気色で、なんだかこのまま先にシンのほうが倒れるんじゃないかって、みんなで思ったくらい。シンてば、いつも絶対に自分のことを顔にださないのに、あの時はすごく辛そうだった。よけい見てられなかったわ。みんなも、もうナギが死んでしまうんじゃないかって本気で思ったのよ。すごく心配したわ」
「うん、ごめんね。心配かけちゃったね」
「私たちはいいの。ナギにはものすごく助けてもらったから当然のことわ。でもシンにはあまり配かけないであげて。あの子、そういうところの表現がすごく不器用だから、みてて可哀想よ」
暗くなりかけた雰囲気をかきけすようにウインクをして笑い、背中を優しくたたいた。
「そうだね、ほんとシンには心配かけてばっかりだ」
「ナギ、顔色がちょっと悪くなったわ――。少し横になったほうがいいんじゃない?」
サラが顔をのぞきこんだ。
口ゲンカをしていたマミとヒカルが静かになり、同じように心配げにナギをみつめる。
どんなにナギが平静をよそおっていても、まだまだ力を使いきったせいで、体の隅々まで弱っていることは、端から見てもわかる。
あれからの数日間をシンの腕で眠りつづけ、どうにか命を取り留めたのだと、あとで万理や他の人から聞いていた。
そのときのシンのことを知る人は、みなつらそうだったと口々にいい、シンがどれだけの思いをこめて、自らの体をまったくいとわず、全身全霊をかけて自分を助けてくれたことを知ったのだった。
シンのことを聞くたびに、たまらぬ思いがする。
あの時のナギは、自分が抑えられずすべてを投げ出してしまった。
自分自身はどんなつらい状況にあっていても仕方がないと覚悟をしていたけれど、シンまで同じように生死の境をさまよわせてしまっていたのかと思うと、たまらないやるせなさを感じてしまう。シンはいつだって自分のことよりもナギのほうを優先してしまう。
シンがいなければ今ここにいることは出来なかったことはたしかだ。
長いあいだ生死の際を、何度も行ったり来たりしながらさまよっていた。
どうにか目を醒ましてからも、ずっと献身的な看病をしてくれていた。自らの生体エネルギーを与えてくれ、見えない体の内側の傷までもを癒し、ナギがどうにか元気をとりもどすまで、もういいというほど、彼のもつすべてを分け施してくれた。
そしてようやく負担がでない程度に、どうにか手伝いができるまでになっていたのである。
たまには外にも出たりして、花を取りに行けるようになっていたが、時折みせる儚なげな表情は、なんともいえない色と艶をまし、いっそう危うくみせてしいた。周囲には、ナギがまた倒れるのではないかと心配をあたえ、ハラハラさせてもいた。
それでもシンは大体のことはナギの好きにさせてくれていた。人々が――子供たちがナギに会うことを求めていたのも知っていたし、ナギがそれを喜んでしていたからだ。
できるだけそばを離れないようにして、ナギが無意識に他者に与えてしまうエネルギーを補いながら、不自由なく生活できるようにしてくれていた。シンが癒してくれる腕のなかだからこそ、動けているのである。
周りにも、なんとなくそれがわかっていたのだろう、そんな二人の姿をみてホッとするだけであり、口を出すものはいなかった。
ナギもまた、シンの思いを知ってか知らずか、シンが傍らにいてくれることを素直に喜び、シンにしかみせない、たとえようもなくまろやかな笑みをむけていた。傍でみている者たちは、おこぼれにあずかり、嘆息するばかりである。
本当はナギにも、自分がかなりシンに甘えていることをわかっていた。素直に許してくれることに感謝をしながら、それでも出切ることを何かしたいと望んでいた。
シンに何も返してあげることが出来ない自分をつらく思うときは多々ありはしたが、今はまだ悲しみに立ち止まるわけにはいかないのだ。そのためにも、動いていたい。
できることをできる範囲で一生懸命する。
それしか次へ進む方法がないのだから。
「シンに甘えてるのはよくわかってるんだけど、でも何かを精一杯していたいんだ。まあ、あまり役にたってないかもしれないけどね」
エヘヘ、と照れたように目をほそめるナギの頭を、サラはそっと抱きしめた。
「大丈夫よ、シンはわかってくれてるわ。――ただ、みんなあなたに感謝しているからこそ、あなたにも自分を大事にしてほしいと思っているのよ」
ナギはうなずいた。
この世界は暗く厳しいけれど、ここに生きる人の心はそれに染まらず、強く優しく、なんと忍耐強いことだろう。
ソメイの苦しみを耐え忍びながら、暗闇にまたたく光すら、人々がうみだしているのである。
――無意味な世界なんてない。ソメイ様の苦しみも、悲しみも、光になることだってできるんだ。
ナギはサラの腕のなかで、ソメイに抱きしめられているような心地よさを感じながら、そうつぶやいていた。
「やっぱりまだ花がたりなわ」
万理が大きくため息をついた。
前回、せっかく花を取りに出たにもかかわらず、魔獣が来るのが予想以上に早かったのと、近隣の花をほとんど取りつくしてしていたために、十分な数を確保できていなかったのだ。
「やっぱりもう一度出なきゃだめみたい。せっかくシシルやファーの傷の具合がよくなっているんだもの。今ここで切らしたくないわ」
いまだ痛々しい喘鳴を吐いている子供の顔をみながら、万理はどうしても譲れないとばかりに言った。花のおかげで痛みをどうにかこらえて、あと一息で楽になれるというところまできているのだ。
彼女はまるで自分の子供でもあるかのように、ここにいる子供たちを可愛がっていた。また怪我や病気であることを、自分の責任であるかのように悩み、少しでも良くなるようにと、どの子にも心を配り、出来る限りのことをしようと努力していた。
だからこそ異世界の人間でありながら、一番重要でもある、子供たちの世話を任されているのである。
もしかしたら、万理は自分が愛されなかった子供時代を、ここにいる子供たちを可愛がるによって、なぐさめ、隙間を埋めようとしているのかもしれない。甲斐がいしいのを通り越し、過保護の域にまで達していることさえある。
「ねぇお願いシン――ナギ」
万理は手をあわせた。
地球の――日本人にしかわからないその仕草を、サラが不思議そうにみていた。
ナギも花が必要なのは痛いほどわかっているので、採りに出たい気持ちは同じであった。万理に頼まれるといっそうその思いがつよくなり、シンをうかがうようにみあげる。
「ぼくも今度は手伝うよ。お願い、シン、一緒にいってくれる?」
シンはどうしようかと迷いながらも、二人に、子犬のような目にみられて、ため息をついた。
「――まったくわかっているんだろうな。もう近場は咲いてないだろうから、今度は遠くまで出ないと花は取れないぞ。一瞬でも気が抜けないほど危険なことなんだからな?!」
「わかっているわよ。それにナギがいればすぐ花はみつかるし。大丈夫よ」
花はまるでナギのエネルギーに共鳴するかのように、ナギが近づくと光るのだ。
渋々だが、うなずくシンをみて、万理が飛びあがるようによろこんだ。
多少はナギのお願いにシンが折れないはずはないと踏んでいたことは確かであり、だからこそナギに甘えて期待していのだ。もちろんシンにはそれもわかっている。
「それじゃ私も行くわ。少しでも人数が多いほうが早くすむでしょ」
隣できいていたサラが言った。
シンが同意した。
「そうだな、出来るだけ短時間ですませたいから、そのほうがいいだろう。そのかわり固まって行動すること。それとおれが引き返すといったら絶対に引き返すし、止めろといったらすぐに止めるんだぞ。言うことが守れないなら一緒にはいけない」
本当は人数が少ないほうが、何かあったときに対処がしやすいのだが、花を摘むことを考えれば、短時間でいっきに終わらせたほうがいいかもしれない。
だが、どのようなときでもやはり冷静さをもって迅速に行動できなければ、命取りになる。強調性のないものとは同行できない。
シンは、何があってもナギ一人ならどうにか護れる自信があった。が、それ以上は物理的に無理が生じるので、絶対大丈夫だとは約束できない。
三人は約束を守ると誓い、シンと一緒に地上にでる用意をしていた。
出入り口となっている、岩場の裂け目へつづく通路を昇り、簡単な魔法のような結界が張られてあるそこから外にでた。
単純な魔獣たちには、見えないように工夫されてはいるのだが、できるだけ出入りの制限をかけているのは、魔獣の数が、このところやけに増えていたためである。
外に出た者たちが、魔獣たちとかなりの率で遭遇しており、また人を追う執着度と凶暴性がましたためか、けが人や、最悪、死人がでるようになっていた。以前ほど気安く外に出られない状態なのである。
先に外にでたシンがあたりの様子を十分確認し、安全なことが見てとれると手招いた。
「大丈夫だ。――ナギこっちだ。おれからあまり離れるな。また呼吸が苦しくなるぞ」
「うん大丈夫だよ。あ、こっちから感じるよ――」
ナギが指さす方向に、早足で進みだしていった。
シンとナギのあとについて万理とサラが歩き、そのままナギの先導で、『ナギの花』を求めて、うっそうとした昏い森を奥へと踏みこんでゆく。
外界の流麗な花たちは、まるでナギの到来を喜ぶように、清楚な光を暗闇のなかでひらめかした。
次ぎ次ぎに繊細な花びらをひらき、花芯をあらわにしてゆく。
木々の切れ目からみえる地球の青い光をうけながら、滑らかな絹のような花びらを揺らしていた。どこか別に来たような錯覚をおぼえ、ひどく幻想的な世界に紛れ込んでしまったかのようだ。
いつもに比べれば、ずっと花の数は多かった。
それでも近場のものはほとんどを取りつくしていたため、数が足りないといって、いつもは行かない場所にまで、万理に急かされるようにして、つい入りこんでしまっていた。
多少、奥に入るかもしれないと覚悟をしていたが、想像していたよりもかなり遠くにまで来ていたため、シンはいつになく神経をとがらせながらピリピリしている。
万理とサラはそれでも花をみつけると、できるだけ迅速に摘んでいった。ナギもそれなりに一生懸命つんでいるのだが、花にありがとうと声をかけながら手折るので、やはり数はこなせない。
カゴが一杯になるまで入れていった。
シンの警戒心が最高潮に達した。
「これ以上は無理だ!空気が怪しくなってきたぞ。急いで戻るんだっ!」
限界だ、とシンがまわりの気配を読むように鋭く言った。生き物の気配をかんじとった魔獣どもが、まだ距離はあるが騒ぎ始めているのがわかる。
三人はうなずくと、いまさら慌てたように走り出した。シンの顔がだんだん厳しくなってゆく。
入り口にまでたどり着ければこちらのものであるが、まだそこは遠い。黒樹の森は、ナギの花をむすぶようになったとはいえまだまだ魔物の世界なのだ。
「ナギつかまれ」
シンはナギを軽々と抱きあげた。この中で魔物の気配の影響を一番うけるのはナギだ。足がもたつくのは仕方がない。
首にしっかりと腕をまわすのに、シンは走るスピードを少しあげる。二人の女性も同じようについてくる。
「きゃっ!」
後方を走っていたサラが転んだ。抱えていた花がちらばり、光が流れる。
意地の悪い棘草が、魔の触手をのばし足をひっかけていた。膝から血がでていたが、それにもかまわずサラは夢中で花を必死でカゴにもどしていた。
「大丈夫サラ?!」
「ごめんさいドジっちゃって」
あやまりながら手を動かせているサラのもとへ万理がもどり、それを手伝った。
シンの顔がさらに険しくなる。
「やばいぞ!いまのでヤツら完全に感づいた。血のにおいで集まってきてる――花はいいから急ぐんだ!」
シンが怒鳴るのに、二人は青ざめ、残りの花をおいたまま走りだした。命あってのものだねである。とにかく逃げなくてはならない。
魔獣は執拗である。
臭いがすれば必ずやって来るし、おのれに取りこみ、黒樹のもとへ絶対に連れてゆこうと気が狂ったように暴れる。それが彼らの使命であり生きている理由だからである。
まずいことにサラの血の臭いが、彼らに居場所をはっきりと教えたようだった。少し奥まで行きすぎたことをシンは悔やんでいた。
ヌゥッと黒い小山のような影が現れた。
「キャァ!」
サラに黒い触手のような手を伸ばしてくるのに、シンは舌打ちし、片手でなぎ払うようにして光の矢のようなものを放った。
魔獣からドロのような血が飛散ってころがったが、すぐさま立ち上がるとまた追いかけてきた。
そうしているうちに、あちこちから魔獣があつまり、数が膨れあがってきてきた。
だが、あまりにも異様な数だ。
「なんだこいつらはっ?!」
今までみたことがないほどの魔獣だった。たぶん花のにおいと、花を摂取しているせいでサラの血が濃くなり、エネルギーの放出が高くなっているのだろう。またナギやシンの放つエナジーも無関係ではない。
「もうすぐそこだ、頑張れ!」
シンが叫ぶのに、万理もサラも必死で走った。だが、先ほころんだときに足を痛めていたらしく、サラが魔獣に腕をひっかかれて、またおもわず倒れてしまった。
「ああ!」
「サラ――!」
万理があわてて引き返し、魔獣が取り込もうとしていたサラの手を引っ張った。どうにかサラは魔獣の手に巻き込まれるより早くぬけだせたが、渾身の力をこめたせいで、今度は万理のほうが草ですべり、背後の木にぶつかり背中を思い切り打ちつけていた。
「万理!」
先を走っていたシンが踵をかえし、万理にかけよった。そのシンの脇をえぐるように魔獣が飛び出してきたが、間一髪でそれからよけきると、逆に魔獣に光の一撃を与える。
地面にころがりプスプスと焦げたように固まった。その横から、もう一匹が意をつくようにあらわれた。
かぶさるように襲いかかって魔獣を、エネルギー波で粉々にした。さすがにシンの額に汗が流れ落ちる。
ナギを片手に抱いているシンはかなり不利であった。一匹ずつ倒していくのがやっとだ。ナギを狙っているのだろうか、半端な攻撃ではすぐに立ちあがり舞い戻ってくるため、確実に息の根を止めなければ、同じことの繰りかえしになってしまう。
「シンぼくを降ろして!大丈夫だから。このままじゃシンまでやられちゃうよっ」
「このくらい大丈夫だ――幻を抱いているより軽いさ。それよりしっかり首につかまってろよ」
ナギに鋭い爪をむけ、わずかだが触れそうになった魔獣が、シンの目に浮かんだ閃光とおなじ凄まじい電撃によって、闇に散っていった。焦げるまもなく一瞬のことだった。
魔獣たちはわずかにひるみ、ジリッと後退する。
万理のほうへ目をむけたナギが、悲鳴のような声をあげた。
「シン、万理さんが魔獣に――っ!」
爆音があがり、周囲をかこっていた数匹の魔獣がたおれ転がった。
攻撃態勢をとっていたすべての魔獣を排除すると、シンの表情が、カッと般若のような怒りにかわった。
一匹の魔獣が万理をもちあげていた。醜い口をおおきくあけ、今にも食べようとしている。
いまだかつて、魔獣が自分でさらってきた人間を食べたという話など、聞いたことがなかった。黒樹王にささげるために連れてゆくのが彼らの仕事であり、そのために飼われているのだ。
力のセーブができず、怪我をさせたり、殺してしまうことはあったかもしれないだろうが、大事な『贄』に自らが手をだすことなどありえない。異常なことなのだ。
確かに、ここのところの魔の気の増大のせいなのか、魔獣たちにも狂いが出はじめていたことは感じられていた。
凶暴性が増しているようで、あちらこちらの入り口や岩場などが破壊されたり、木々が折られたりしていることからもうかがえる。
シンは自分の攻撃が間にあわないことを悟った。とっさにナギの目を覆い腕にかかえこんだ。
バキバキッという鈍い骨の砕ける音があがった。
暗闇の世界さえ震撼させるような、怖気のたつ悲鳴が切り裂くような音だ。
肩から腕をザックリと噛み切られていた。化物の口のなかで、肉片となったそれらがゴリゴリと咀嚼されている。万理はもはや人形のように、ダラリと魔獣の腕に体をかかえられているだけである。
「万理――っ!」
「万理さん?シン、万理さんは?」
胸に抱き込まれ耳をふさがれていたナギは、シンに必死で問いかけていた。身体だけが反応して、小刻みに震えている
とてもみせられる様子ではなかった。
体を芯から凍らすような、身の毛のよだつ音が森に反響していた。魔獣たちの殺気がさらに募り、雄叫びを上げはじめだしている。
血の臭いによって、呪われた欲望がさらにたぎり狂いだしたのかもしれない。そばに転んでいたサラが、あまりに凄惨な光景に気を失い、草のうえにたおれこんだ。
「あぁ……」
万理が小さくうめくのが聞こえた。
シンは、今度はこそ容赦なく、怒りの波動によってふたたび行く手をはばみだした魔獣たちを、すべて闇の粉にして還していった。
ナギを傷つけないようにどうにか力を制御していたにも関わらず、わずかに触れるだけで塵になってゆき、後にはカケラすら残ってはいない。
魔獣が万理の首をめがけ口をあけて牙をひらめかせた。
シンの手の中で光がふくらんだ。
――そのときだった。
いきなり魔獣がうめきだし倒れてしまったではないか。
万理を投げ出すと、あえぐようにのたうちはじめ、口から黒い液体をはきだしている。悶え苦しんで出したその吐瀉物のなかに、白い花びらがうかんでいる。万理が握っていた花ごと腕を食べたのだろう。
黒い汚物の液体は、転がりまわる苦鳴にあわせて魔獣の穴という穴からいくらでも流れ出てきた。それにあわせて小山のような穢れに満ちた体がドンドン小さくなり、痙攣するように動いていた触手がとまり、まるでヘドロの中から何かが生まれ出るように、ゆっくりと、人間の姿が浮かび上がりはじめる。
ゲホゲホと激しく咳き込んでいるのは、間違いなく人間の姿だった。
男である。
「シン花だよ!花が魔獣をもとにもどしているんだ!」
ナギはシンの腕から飛びおりると、カゴに摘み取られていた花カゴをかかえた。苦しげに咳いている男にむかってなげつけた。
花はシュウシュウと蒸気をあげ、男のまわりに落ちていった。醜い泥のようなものを吐き続けながら、汚れをみずからとりはらい、姿をあらわにしてゆく。
集まってきていた魔獣たちにも、シンは同じように花を投げつけた。
光の矢と一緒に、魔獣たちに突き刺ささり、花は沈むように消えていく。
どの魔獣も同じようにうめき声をあげ、もだえはじめていった。ドロドロと解けてゆくさまは、まるで黒い涙のようであり、何ともいえない気分にさせる。
恐ろしいうめきの唱和のなかで、一人の男が起きあがっていた。
「……あっ…うっ、オレ、は……?」
何があったのかわからないように、首を何度もふり、痛そうに頭をおさえた。
酔っ払ったようにおぼつかなく前に進みながら、数歩あるいてよろけた拍子に倒れこむ。
視線の先にある万理の顔をみてハッとした表情をつくった。
「あっ…あぁ――っ!?」
目がゆっくりと驚愕に見開かれていった。
痛みに耐えかねるように頭をおさえこむと、ガクガクと痙攣し、闇を切り裂かんばかりの悲鳴をあげた。
張り裂けんばかりの懊悩の声だった。自分のしてきたことをすべて思い出したていることが告げられている。
あちこちでシュウシュウと蒸気があがっていた。
黒い汚泥のなかから次々に人間の姿が浮かびあがり、そのどれもが男のものだった。
悲鳴をあげ続けていた男は、膝をつき、ただ倒れている万理だけをこわいくらいに凝視していた。耐えるように息をはきながら震える腕で抱き起こした。
その目には、もはやシンの姿もナギの姿も、すぐそばに倒れているサラですら入っていない。いやきっと、万理以外のことは何もわかっていないであろう。
信じられないように目を見開き、まるで全身から血を流しているかのようにふるえ、かすかな声で名を呼ぶ声がきこえてくる。
「万理……万理……万理……っ!」
ノドが引き絞られたような苦しげな呼び声だった。こんな悲愴な声をきいたことない。
男はそうっと手で頬をなで、黒い筋が入るのもかまわず顔をすりよせた。魔獣の穢れは彼の全身からしたたり落ちている。
その汚泥に汚れる二人の顔を、滂沱とおちる涙が洗っていった。
万理がふうっとまぶたを開いた。
奇跡のように美しい瞳だった。
万理は肩から流れる血にまみれていながら、すでに苦痛も感じていないのか、染み入るような笑顔をうかべ、男をみあげていた。
そしてひとこと呼んだ。
「宣之――」
「万理、万理!! なぜおまえがここにいる!なぜこんなところにっ!!」
男は思わず叫んでいた。
「……ああ、やっぱり宣之も……この世界に、いたのね……あ…会えて……よかっ……」
その言葉に、さすがにシンとナギは立ちつくしていた。
目のまえで、なんと運命の恋人同士が出会いを果たしているのだ。もっとも無情であり残酷な形で。
なんと痛ましい出会いなのだろうか。
一方が魔獣に変えられ、もう一方がその魔獣に食われかけ、ようやく目覚め、出会うことが出来たのだ。
ナギの花がなければ、ナギの花を採りに出かけなければ、一生会えなかったかもしれない。花がこれほど摘まれていなかったら、もしかしたら化物としてそのまま、恋人のすべてを喰らい尽くしていたかもしれない。また恋人に、ただの肉として喰われただけで、気づかずに終わっていたかもしれない。
「宣之……逢いた、かった……。ずっと、ずっ……と……」
「万理っ!万理っ!!」
宣之はそれ以外ことばを持たぬかのように、万理の名前をずっと呼んでいた。
己の魔獣であったおぞましい過去を思い出し、まして恋人の腕を喰らい、咀嚼し、飲み込んでしまった記憶に、正気でいられるほうがおかしいくらいであろう。
万理の傷は、もはや胸にまで達していた。目を開けたのはまさに奇跡だ。
「……逢え…よか…た。………あり…が…と……」
万理はそのまま目を閉じた。
もはや動くことはなかった。
万理の赤い血が、宣之の穢れをすべて洗いながしていた。汚濁も辱瘡も、魔獣のおぞましい過去も清めて、緋の衣をきせていた。
「万理……オレも逢いたかった……ゴメン――っ」
万理をかたく抱いた。
これ以上は離れられないくらい、だれにも二度と離すことができないくらい、二つの体をひとつにつなぎ、同化させてしまおうというほどに強く抱きしめていた。
どうしてこのような悲劇が起きねばならなかったのだろう。
ここまできて、やっと万理にほんとうの笑顔がもどり、自分を必要とされる世界に触れ、頑張って生きようと、新しい未来をみつめ始めていたのだ。
宣之のことを乗り越え、先に進もうとしていたというのに、けっきょく運命は恋人を離しはしなかった。
いや、もしかしたら彼女は、この世界にいた宣之の存在を本能的に感じていたのかもしれない。出会うために、ここまで来たのだろうか。
鬼によって無理やり連れてこられた宣之たちは、なんと黒樹王のために贄をはこんでくる魔獣に作り変えられていたのだった。
狂った森は毒をはきながら、自分たちの王をなんとかして助け、また自分たちもその力で助かろうとしたのである。
負の気はさらに増大しつづけ、それに対抗しようとして、黒月界の王シオンが、王宮を護っていた白樹王へ『贄』を与えてしまい、そのことから、世界の均衡がいっきに乱れ、崩れてゆき、狂いはさらに巨大に膨れあがっていった。
もともと少ない地磁気を白樹王のもとに乱暴に奪い、集めすぎてしまったがために、薄いエナジーがさらに枯渇してしまったのである。
わずかな地味さえもすべて奪われ、森は地獄の苦しみをさらにたぎらせていた。
その均衡を元に戻すために、贄を彼らからかすめ、奪いとり、黒樹王に捧げだしたのである。
――我らに贄は必要なかった。
茫然と立ち尽くしているナギの耳に、響いてきた。
――我らに贄を与えてはいけなかったのだ。
地を這う、臓腑にうったえるような重厚感があった。
――いつも最初に人が狂わせる。我らは誇り高き世界の王……。
その声はシンにも聞こえていたようだった。驚いた顔をしてナギをみていた。
ナギはたまらず歯をくいしばった。
そうなのだ、いつも悲劇を作り出すのは人からなのである。
自分たちのことだけを考え、良かれと思い行う身勝手な行動は、どの世界にあっても、結局さいごには自らを苦しめる結果を生みだしてしまう。
地球の『聖母』たちにしてもそうだ。
良かれと思いはじめたのに、結局は地球を苦しめガイアを哀しませるだけだった。
ナギはフラフラと万理と宣之のそばに近づいていった。止めようとしたシンの手が空中をつかんでいたのにも気づかない。
宣之は万理を抱きしめたままだった。
その体は、すでに息をとめて心臓は鼓動を失っていた。
ナギは宣之の目をとじさせた。
恋人たちは最後の抱擁をかわしたまま、死んでいたのである。
穏やかで優しい宣之の心は、記憶をとりもどしたことに耐えられなかった。
やっと出会えた万理が死に――しかも自分の与えた無残な死によって命を断ち、永遠の孤独が彼はおちた。そして魔獣であった残酷な記憶は、神経を焼き切ってしまった。
同じように魔獣から人間にもどった男たちのあげている苦悶のうめきは、森にくぐもり響いていった。
どの男も、魔獣に選ばれた者はみな、宣之と変わらないくらいもの静かであり、優しい心根をもっている者たちだったのだ。
いつの間にか、意識をとりもどしていたサラが目をあけ、二人のすぐそばで大粒の涙をボロボロとこぼしていた。
悲しみがこだまして、負のエネルギーに黒く染まった木々さえも、悲しみに引き込まれてしおれていくようである。
「こんな……こんな結果で終わるなんてあんまりだ。……だれも、何も得ない、何も生み出さない、こんな終わり方があるなんて、酷すぎる――!」
ナギのたまらぬ叫びが森をつきぬけた。
樹の枝々に共鳴し、葉が反射し、あちこちに小波のように広がっていった。
白い花が光りをあげて、まるでナギの声に応えるかのように咲き乱れはじめていた。地面を覆うように白くたなびき、森をうすく照らしだしている。
発光する白い輝きに、どこまでも鬱蒼と枝をのばしていた黒い巨大な樹が、遠くにうかびあがってきた。
黒樹王の姿が、闇からあらわれ出でる。
どこまでも大きかった――。
どこまでも黒く大きく、悲しみにあふれており、樹皮も枝も、葉も、盛りあがった根さえも、なにもかもが苦しみと哀しみ、にくしみや寂しさをだきしめ、浄化させようと痛みに血を流しているように見えている。
人々の狂いをとりこみ、自らを狂気の夢にただよわせていた。
悪夢を見続けている、心優しき黒い樹の王であった。
黒樹王は、まるでナギの心からの悲しみの声に反応したかのように、悼みなげく声をあげながら、枝々をざわめかせていた。
涙にぬれた金茶色の目が、黒樹王をみあげた瞬間、大きく見開かれた。
そして一筋の大粒の涙がこぼれおち、これ以上ないほどの愛しさを表情にふくませると、ゆっくり瞳が閉じられた。
「みつけた――」
ため息のような声だった。
ナギは黒い樹の王に向かって両手を広げた。
「黒樹王!」
そばにいたシンがどうしたのかと驚きをはらんだ目でナギをみた。
「ナギ、どうしたんだ?」
黒い枝がナギにしなりながら舞い降り、素早い動きでナギを傷つけないように包み込むと、枝はそのまま持ち上げていく。
「ナギ!」
ナギは全身を枝にあずけ、そのまま繁みのなかに消えていってしまった。
あまりのことにシンは思わず出遅れ、我をとりもどした彼は、いきなり走りだした。
つむじ風が起こったかのように、枝や潅木がふた手にわかれてゆく。
一瞬にして、黒い触手によって連れてこられたナギは、黒樹王の巨大な幹のまえに浮くように立っていた。
手を黒樹王へとばすのに、枝はそっと地面におろした。
「みつけた。やっと、みつけた……。ここにあったんだね、ソメイ様の黒い珠は」
あまりにも複雑に多くの闇が絡みあいすぎて、珠の存在さえ見えないほど奥底にしずんでいた。
黒樹王はソメイの闇を何よりとりこみすぎ、もはやそばにいるだけでは、見つけることができないほどになっていた。
ナギや森の悲しみによって喚起され、ナギの花によって清められて、ようやく深すぎる闇が薄まり、その姿が浮かび上がってきていた。
黒樹王の深部にしみこんで、痛々しいほどに黒光りしている珠へと、ナギは両腕をひろげた。まるでやっと迎えにゆくことができた、愛しい者を抱きしめるように微笑んだ。
この暗黒の世界のもつ意味をほんとうに理解し、それでも愛を持つことができたナギだからこそ、黒樹王のなかに埋まっていた珠が見えたのであろう。
それは喜びに発光するかのように瞬き、ナギの胸へと吸い込まれていった。
黒樹王が歓喜にふるえた。
嵐のように身を激しく身をゆらし、ゴウゴウと空の雲を切り裂くように轟いていた。
黒樹王のふるえが風を呼び、黒い葉が散って天空に舞いあがり、そのあいだを闇が擦れて、あちこちで火花をちらしキラキラとひかっている。
森全体がうなりをあげるように振動していた。
ナギは巨大な黒い珠をだきしめ、蹂躙してくる負のエネルギーに翻弄されながらも、体にからみつき、細胞を侵食されてゆく呵責の苦痛をただじっと味わっていた。
闇はさしだされた生贄を、遠慮もなく食い荒らしていった。
絶望がナギの柔らかな心をひらすらに求めていた。それでも愛してほしい、抱いてほしいと泣いて訴えているのだ。
「ああ……ソメイ、様……」
ナギは渾身のちからでソレを抱きしめていた。
黒く光っている胸をかきいだき、その悲しみの主を、まるで小さな体であたため生き返らせようとするかのように、祈りと慈しみの見えない手でつつみこんで、己のすべてを差し出した。
――あなたのためなら、何もいりませんソメイ様。
ナギは悲鳴をのみこんだ。
腕が、肘からポロリと落ちて転がっていた。
それは、かつてナギが月の女神リリスによって腕を落とされたとき、ソメイが自分の手を切り落として与えてくれた右腕である。
ちょうどソメイのくれた肘から先の部分から、まるで分離したかのように落ちていた。
血こそ出ていなかったが、ナギには、まるでたった今、魔剣によって荒々しく切り落とされたかのような激痛におそわれ、頭が白くスパークして、その場に倒れこんだ。
腕はいつのまにかなくなっていた。
かわりに、その場所から、こんこんと水があふれだしているではないか。
なんと泉があらわれているのだ。
大地から染み出した水は、流れとなって地面をすべり、道なき道を走り出していた。どこまでも止まることを知らぬ生き物のように、乾いた大地をぬらしながら、まるで眠っていた生命を呼び起こそうとするかのように、滾々とわきだしていた。
自らの命とひきかえに、大地を洗い清めているのである。
「ナギ――っ!」
シンが荒い息をあげながら草を蹴りあげ、走りこんできた。
倒れているナギをみつけると夢中でだきあげた。
「ナギ!しっかりしろナギっ!」
投げ出された腕をみたシンは思わず息をのんでいた。
ナギの腕が、まさしく消えているのだ。
「腕をどうした?!何があった、しっかりしろナギっ!」
揺り動かされ、ナギはうっすらと目をあけた。
その瞬間、シンのこの世の終わりを見るような形相がとびこんできた。ナギは腕より胸のほうが痛んだ。こんな表情をまたさせてしまった。たまらなくなって、そっと震える左の手でシンの頬をなでる。
がその手をシンがにぎった。ナギの手は冷たく氷のようだった。
「ナギ!」
「……シン、ごめん、心配させて、ごめんね……でも、大丈夫だから」
「大丈夫って、何が大丈夫だよ!腕はどうしたんだ?!」
「うん、この腕は――もともとソメイ様の腕だったんだよ。だから、返したんだ……ソメイ様の痛みを負う、この哀しい世界に」
ナギが視線をおくった先に目をやった。
足元には泉の水があふれ出していた。
金色に輝く泉は、この暗い世界にあらわれ出でた奇跡のように美しかった。なぜか不意に涙が出そうになってしまった。大地から溢れる甘露のごとく優しい水は、見ているだけで心が癒されてしまうかのようである。
思議な感覚だった。
シンは腕をのばし、水をすくった。
触れた刹那、手がエネルギーにみちてゆくのがわかった。ナギを求め、夢中で森をかきわけて走ってきた棘や藪のひっかき傷が、みるみる消えてしまう。
泉の中にはナギの愛情があふれていた。
それは、泉の形をしたナギ自身だったのだ。
シンは、痛みに震えるナギの腕に水をかけた。
苦悶に刻まれていた眉間のしわがゆるみ、腕の小刻みなふるえが止まっていった。まるで凍りつくかのように冷え切っていた体をだきこみ、泉の水をすくって口に含むと飲ませてやる。
ポウッとナギの体が色をとりもどした。
背景が透けてみえるほど乏しくなっていた命が、また炎をとりもどし、よみがえってゆく。
泉の水は無限にながれでるかのように、いつまでも溢れだし、あたりを黄金にぬらしていた。
サワサワと草や潅木が洗われてゆくのにあわせ、黒樹王の黒檀のような分厚い樹皮が、なんと色を落とし、表面を洗うかのよう、色を脱ぎ捨てはじめているではないか。
穢れがおとされ、頑健な幹は、茶色い威風堂々とした姿となって甦っていった。
水を吸い上げるのにあわせて根元からみるみる本来の色をとりもどし、上へとのぼってゆく。太い枝、次いで細くしなやかな枝、葉へと清められてゆく。
新芽が、新しい命を得るようにふくらみ、黒い罪の皮がはがれて、美しい緑色に戻っているのだ。
まるで一滴の水が溢れたように、その波紋は森全体にひろがっていった。
森の木々や草花たちが、黒から緑、そして新緑へと姿をかえ、命を吹き返していた。
そこに棲む魔物たちでさえ、もとの愛らしい動物の姿にもどり、魔獣が人間へと還ってゆく。
ナギを抱えながら、シンは森のその変化してゆく様に、唖然としていた。
人知の枠を超えたそれはあまりに突然すぎ、またあまりの変貌の雄大さに、さすがのシンですら魂をぬかれたように、ただそれを見ているしかない。
たまらぬように息をはいた。
「……ナギ、おまえがこの森を変えたんだな。……あの膨大な闇を、すべて受け入れてしまったんだな」
わななくように震えた。
抑えきれないように言う。
「なぜなんだ!なぜ、そこまでするんだ、どうしてそこまで出来るんだ!――どうしてそんなことをするんだよっ!」
シンは叫びながら、すでにその答えを知っている自分がいることをわかっていた。
空を見上げ、どこかでみているだろう、その男に向けて、鋭く怒りに満ちた視線を投げつける。
「ソメイ!観ているんだろう!なぜ応えない、なぜ動かない。ここもおまえの創った世界のはずだ、なぜナギにすべてを償わせるんだ!」
声は天高く舞いあがり、地から昇る雷のように鋭く消えていった。
ゴウッと空が鳴いていた。
「おまえの闇だ!ナギに償わせるな――!」
怒号にこたえる者はない。
ただ蒼い地球が、ひっそりと浮かんでいるだけだった。
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