天上の蒼い灯火

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10



 ようやく落ち着いた万理に、亜希の身に起こったことや、彼女が『聖母』の性質をもっていたということを、いくぶん要約しながらも、シンが説明していった。
 亜希の死については、彼女はもう何も言わなかった。
 妹の思いがシンに伝わっていることが、その口ぶりからなんとなくわかったのだろう。
 万理もまた、亜希がずっと長いあいだシンのことを見ていたのを知っていたのだ。何枚もスケッチされた彼の絵をみたことがあるし、それを寂しそうに見つめていたのも知っている。
 そして万理もまた、ここに連れてこられてからのことを語ってくれた。
 彼女も最初は、当初の目的どおりに、王宮の地下の牢獄へと、贄として連れてゆかれるところだったらしい。だが途中で魔獣に襲われてしまい、この黒樹の森へさらわれてきたのだ。
 さらには、その魔獣が、途中でいきなり万理をすてて、いなくなってしまった。
 何が起こったのかわもからず、どうすればいいのかと途方にくれて、絶望的なきもちで森をさまよっていたところ、ちょうど運よく地上に出ていた地下の住人たちにみつけられ、ここにたどり着いたのだという。どうやら彼らは食べ物になる菌類の一種を探しにきていたらしく、極まれに、森をうろついている人間に出会うことがあるらしいのだ。
 それから手伝いをしながら地下集落で暮らしているということだった。
 妹のことも気になってはいたのだが、もはやどうすることもできず、また同じような境遇の者達や、この残酷な世界で暮らす人々を見ているうちに、生きる気力に乏しかった彼女にも、少しだけ頑張ろうという気が万理にわいてきはじめていた。
 どんな悲惨な境遇にさえ、負けずに立ち向かおうとする人たちの、生きよう、というという力強いパワーが万理にも入ったのかもしれない。
 落ち着いた口調でそう話す万理に、嘘は感じられなかった。
 「亜希だけは、なんとなく、きっとあの化物たちからも逃げのびて、無事に暮らしているんじゃないかなって思っていたの。だってシン君に――あれほど憧れていたシン君にやっと出会えて、しかも親しくなれたんですもの。……そんな奇跡のようなことが起こったんだったら、きっと大丈夫じゃないのかって、ね――勝手に思ってたのよ」
 「亜希ちゃんは、シンが好きだったんだね、ずっと」
 ナギが視線をおとして切なそうに言った。シンのことを話す時のあの熱っぽい感じに間違いはなかったのだと思う。鈍感な自分でもわかるくらいだった。
 「でもこんなところで、また二人に逢えるとは思わなかったわ」
 万理が悲しそうな、それでも少しホッとしたような顔で笑った。
 よかったのか悪かったのかわからないが、それでもなにか特別な力を感じていたナギとシンに出会えて嬉しかったのだろう。
 「マリ、どうしたの?あんまり遅いから何かあったのかと心配して――」
 部屋をのぞきこんだアシャが中の様子をみて、おや、という顔をした。
 深刻そうな顔をして頭をつきあわせ、それでも親しげに話している三人に赤い目をわずかにほそめた。
 「もしかしてあなたたち、顔見知りだったの?」
 「ええアシャさんそうなんです!――妹の、友達だったんです」
 「まあっ!こんな地下の世界にきてまで出会えるなんてすごいわね。そんなこともあるのかしら……でも、もしかして出会いに偶然なんてことはないのかもしれないわね。だって」
 言いかけて、足元のガラスの破片に気がづいた。
 「――あらガラスが割れるじゃない、手を切らないように気をつけてちょうだい」
 アシャはそう言って、拾いにかかった万理の肩をトントンと叩いた。
 ナギとシンに目をむけた。
 「ナギの顔色も少しよくなったわね。よかったわ落ちついて。……ねえシン、父が、サガがなにか話があるみたいなのよ。ちょっと来てくれないかしら?」
 「おれに?」
 「ええ」
 シンは首をかしげ、ナギを少しだけ心配そうにみた。
 「ぼくは大丈夫だよシン」
 「ナギのことは心配いらないわ。ここには誰かを害そうなんて者はだれもいないし、それに、なんだったらマリについていてもらってもかまわないわ。色々話もあるでしょう?」
 アシャはシンの心配ごとを先回りするように言った。
 シンはそれならば、とうなずいた。
 「――だったらおれはかまわないよ。で、話ってなんだ?」
 「それは父から聞いてちょうだい」
 「そうだな、わかった。……ナギ?」
 シンは優しくナギに呼びかけた。まるで大切な宝物のようにナギの柔らかい白い肌を指でなで、首にからんでいた髪をはねる。
 「ちょっと行ってくるから、大人しく待っててくれ」
 「うん。心配いらないよ。もうすっかり楽になったもの、シンのおかげだね」
 こぼれるように笑うのに、シンも誰にもみせたことのない甘い笑みをかえした。
 二人の女たちが目をまるくしてみつめていた。どこか排他的な雰囲気を醸しだしているシンが、こんな優しい顔をもっていたのかと驚いているのだ。
 「つ、疲れているところをごめんなさいね」
 アシャが言った。心持顔が赤い。チラリとナギを見た目には、どこか羨望のような嫉妬のような色がからんでいた。
 「いや、こっちの方が世話になっているんだ。おれも話したいことがあったし、丁度いい」
 「よかったわ。じゃあちょっとシンを借りていくわね、ナギ」
 「え、ええ……」
 そのままアシャに案内されて、シンは部屋を出て行ってしまった。
 二人きりになると静かな空気がながれた。
 「ナギちゃんとシン君て、ほんとに仲がいいのね。他の誰にも入れないような特別な雰囲気があるみたい」
 ガラスの破片を盆に拾いあげながら言った。
 「シン君て、本当にナギちゃんしか目に入ってないっていうか、世界にはナギちゃんだけしかいないっていうか、すごく一途ね。なんだかちょっと羨ましい感じがするな」
 「そうかなぁ?」
 ナギは言いながら、表情を少し曇らせた万理に、ああ、と思いだしていた。そうなのだ、彼女の恋人は、いなくなってしまったのだ。
 ある日いきなり人形にとってかわられてしまった。彼もまた、きっとこの不浄の世界に連れてこられてしまったにちがいない。万理はシンのナギをみつめる姿に、恋人のことを思い出したのだろう。
 恋人が万理のように運よくどこかで助かっている確率は非常に低い。いや、ほとんどゼロに近いだろう。心を壊すほど大切な相手を失った万理には、二人はまぶしすぎたのだ。
 「ふたりには、亜希の入る隙間なんてちっともなかったわね。でもね、亜希はそんなあなたたち二人を見ているのも好きだったみたいよ。ナギちゃんがいなくなってから、シン君が寂しそうだってよく言ってもの。可哀想で見ていられないって」
 そう言われて、ナギは言葉を返せなかった。
 自分はソメイを選び、ソメイのもとに帰りたくて、シンのそばから離れてしまったのだから。
 「ああ、そんな顔をさせたかったんじゃないのよ、あんなに愛されていて幸せだなぁってね。ごめんなさいね」
 「愛されてる……?」
 「愛されているじゃない、あんなに強く」
 ナギはどういっていいのかわからず、言葉が出てこなかった。
 もちろんナギもシンを愛している。とてもとても口では言いあらわせないほど大切な存在だし、もし自分の命とシンのどちらかだったら、絶対にシンをとる。
 それでも、亜希のような恋をはらんだものとは違っていた。ソメイによせる、あの切なく苦しいような、そしてくすぐったくて胸がうずくような思いとも違うのだ。
 「ちょっと待っててね、これを片付けてくるから」
 万理はお盆にのせたガラス片を手に出てゆこうとした。
 「ぼくもついて行っていい?ここがどんな風なのか見てみたいんだ」
 「……そうね……顔色もいいし、大丈夫かしらね?さっきアシャさんから、ナギちゃんの具合が悪そうだって聞いてたから」
 「もう平気だよ。だってシンが――」
 言いかけてナギは気づいた。
 いつもシンが助けてくれるのだ。どれだけナギに与えてくれても、何も言わず、何も求めず、当たり前のようにそばにいてくれる。見返りを求められたことなど一度もないし、恩着せがましくいわれたことすらない。
 彼は口に出さない部分のほうがずっと大きかった。思いは誰より大きいのに、惜しげもなく無償でそれを差し出しくれている。
 ナギはいつも気づかずに通り過ぎたあとで、シンのありがたさを思い知らされるのだ。
 「シン君がどうしたの?」
 「ううん――シンてば、いつもぼくを助けてくれるんだなぁってね。いつもいつも、どこにいても、どんなところに連れ去られても、助けに来てくれるんだ。それってすごいんだよね」
 「すごいわね、ほんとに」
 格好いいし、強いし、うらやましいわね、と万理がほほえむように言った。
 シンにはいつももらうばかりで、自分は何もしてあげられていない気がする。
 一体何をシンにしてあげることが出来るだろうか。どうしてあげることがシンの一番の幸せなのだろうか。ナギにはそれすらわからない。
 誰かが遠くで笑った気がした。まるで未来の記憶のように空気が通りぬけていった。
 「ナギちゃんここでちょっと待ってて。これ置いてくるから」
 「えっ?……あ、はい」
 声をかけられナギは我にかえった。万理は手に持っていた盆をさしている。
 「ここは共同スペースだから気兼ねないわ。あのイスにでも座っててちょうだい、すぐ来るから」
 万理はそのまま忙しげにパタパタと駆けていってしまった。
 彼女の背中が見えなくなってから、ナギはやっと少し落ち着き、あたりを見回す余裕ができた。本当にめまぐるしく色々なことがおこったので、息つく暇もなかったように思われてくる。
 黒樹王のもとからようやく逃げだし、シンに出会った。そしてこの場所までどうにか逃れてきたと思えば、さらわれて行った万理と出会い、また亜希の最後をも知ってしまった。
 「このまま、どうなるんだろう……まだソメイ様の黒い球だって一つももみつけられていないのにな……」
 ふうっと、重い息をつき、かたわらのイスにすわった。
 その足元にコロコロとボールのような草の球がころがり足先で跳ねた。
 「んっ?」
 みると小さな子供たちが柱の影にかくれていた。
 こっそり幼げな顔をだし、ナギをじっと見ている。興味深そうに、赤や黒、緑色の目をそれぞれに輝かせ、珍しいお客様を観察しているのだ。
 「わ、こっち見たぞ!スゲッ、生きてる!」
 「なっ?! おれの言ったとおりだろ。だってさっき見たんだもん、アシャと一緒に降りて来くるのをさ。スッゲェなぁ、あれ全部ほんものかな?」
 ナギはボールを手にとるとニコリと笑った。男の子たちは飛び上がるようにして真赤になり、あわてて柱のむこうに引っ込んでしまった。
 「これ、君たちのでしょ?」
 ナギが話しかけるのに、柱の後ろでなにやらもめているのが聞こえる。
 どうやら相談が決まったらしく、三人のなかで一番背のたかい少年がこっそりと出てきた。
 赤い目をしていた。ナギを好奇心にあふれた眼差しで見ているのがなんだか可愛くて、やわらく微笑みながらボールをさしだした。
 少年はニカッと相好をくずすと、いきなり親しげな表情になり、ボールではなく、ナギの手に触ってきた。
 「ワーッ!やっぱり本物だ。すっげぇこの人気持ちいいぃぞ、エネルギーで出来てるみたいだぁ」
 「あ、ずりぃ、オレも!」
 「待てよ――オレもオレもっ!」
 少年たちにいきなり囲まれてしまった。
 年のころは人間でいうと七、八歳くらいだろうか。どの子も透明に近い白すぎる肌をしている。
 それでも彼らは、飛びつくようにしながらも、ナギにわずかでも衝撃を与えてはいけないように、幻に触れるかのように優しくさわってきていた。どの顔もうっとりとして嬉しげである。
 「ねぇあんた天上界の人なのか?どう見ても樹界人じゃないよな?――オレさ、天界人ってはじめてみるよ!」
 緑色の目をした、まだあごがそれほど尖っていない少年が顔を輝かせて言った。
 「すごい綺麗だよな。天界人ってみんなこんなに綺麗なの?めちゃくちゃエネルギーが一杯で、いい匂いがするぞ!」
 黒い目のこの子供はたぶん人間との混血だろう。二人に比べて少し背が低いが、耳がそれでも尖っている。ナギに抱きついてきた。
 「あ、こらそんなにしたらダメだ。壊れたらどうするんだ!ここエネルギーが少ないんだから治せないぞ」
 結局は奪いあうようにナギにひっついてきているのに、ナギはいきなり懐かれて、どうしたらいいのか困ったように目をしばたかせていた。それでもなんだか可笑しくなってきて、コロコロ笑いだした。
 「天界人なんかじゃないよ。えっと――もとは、人間かな?」
 「ウッソだぁ。母さんと全然ちがうじゃないか。これが人間のはずないよぉ」
 少年の抗議に優しくこたえる。
 「そうだね、最初は人間界にいたんだけど、その次は天上界にはいたから、半分は天界人になるのかな?『樹』って呼ばれてたんだ」
 「樹?!」
 三人は声をそろえて言った。
 「でも、なんかわかるよな。だってこの人がいるだけで、すごい空気にエナジーが流れてくるもん。オレこんな楽に呼吸できたのって初めて」
 「呼吸、苦しかったの?」
 ナギの問いかけにて照れたようにうなずく。
 「オレはリードっていうんだ」
 と赤い目をした少年が言った。ついで緑色の目をしたとなりの少年が、
 「オレ、ガリル」
 と紹介し、最後に混血の黒い目の少年が元気よくいった。
 「オレはヒカルだよ!」
 「ぼくはナギ。よろしくね」
 名前を教えてもらえてはしゃぐようにヒカルがはねた。
 「なあナギ、ナギがファーやシシルんところに来てくれたら、きっと楽になると思うんだけどさぁ、ついて来てくれよ」
 少し舌たらずな口調で言った。
 「ああ、オレも今そう思ってたんだ」
 ガリルが賛成するのに、リードもその通りだとうなずく。
 リードがナギに言った。
 「ナギ、すぐそこなんだけど、どうしても会って欲しいヤツがいるんだ。ナギが来てくれたらきっと楽になると思うんだよな」
 「ぼくが?――でも、ぼく何もできないよ?」
 「いいんだよ、ナギが居てくれるだけで。それにみんなもビックリするぞ、こんなにエナジーが溢れてたらさ」
 リードの言葉に、二人とも元気よくうなずく。
 「あ、オレみんなに先に知らせてくる」
 返事もきかずにガリルが嬉しげにパッと走っていってしまった。
 「ぼくは行ってもかまわないんだけど、でも、ここで万理さんに待っててって言われてるんだよ」
 「マリなら大丈夫。おいヒカル、おまえここでちょっと待ってろよ。マリが来たらファーのところへ連れてったって言っとけ」
 「えー、オレもナギのそばに居たいよぉ」
 「言うこときけよ。伝えたらすぐ来ればいいじゃないか」
 ちょっと命令調なのは、年が少し上だからか、それとも三人のなかのリーダーだからか。
 「チェッ、わかったよ。そのかわり今度の花狩りは、オレも連れてってくれよな」
 「ああ、わかったわかった」
 口を尖らすのに、リードは仕方なくうなずいてみせる。
 これで大丈夫と、彼はニカッと笑ってみせると、ナギの手を力を込めすぎないように握り、そっと引っ張った。
 「こっちだナギ、こっちに早く来てくれよ。みんな待ってるからさ」
 「みんなって、だれ?」
 ナギは自分の肩くらいしかないリードについて早足で歩きだした。後ろのヒカルを振り返ると、手を振ってまかせとけ、と笑って言っている。
 万理にどこへ行くか伝わるならいいかと、ナギはそのままリードについていった。
 下につづいている階をくだり、その通路を少し奥へと入ってゆき、一室の前にまできて足をとめた。
 リードは今までのガサツな行動とは打って変わって、その扉をゆっくりとあけた。
 忍ぶような足取りで部屋の中にはいっていくと、まるでわずかの振動も立てないように、ナギを手招きしてよびこむ。
 ついてくるのを確認すると、さらにその部屋の向こうにある小部屋へとむかっていった。
 「ちょっと静かに入ってくれよな。刺激があるとヤツらすごくこたえるからさ」
 声までひそめて言うのに、ナギは思わずつられて神妙な顔をし、うなずく。
 「この部屋にいるの?」
 「うん、シシルとファーに、ルーラたち。ここは騒がしくしちゃダメなところなんだ」
 薄暗い部屋のなかに続いて入っていった。
 空気の重みはいっそう深く、冷えるような静寂さがただよっていた。
 なかに居たのは小さな子供たちであった。
 木の葉の玩具で遊んでいた手を止め、来訪者たちをあどけない仕草でみあげると、パッと表情が輝いた。
 「リードだ!リード、あそぼ。ねぇ、ララァが今日はいそがしいんだって。つまんないから、あそんでよ」
 「リー、あそぼ、あそぼ」
 「わあ、だれその人?――すごぉく気持ちいい。キラキラしてるよ、はじめてみる人だよね?」
 「キレイキレイ、ひかってるっ」
 ナギはその子供たちをみた衝撃に、思わず動けなくなっていた。なんと言葉を継いでいいのかわからない。
 暗がりの、ひっそりとした空間にいたのは、光ゴケのあかりにさえ刺激されて肌がいたむような、まったく皮膚のない、神経がむき出しにされた子供だった。その向こうにいるのは、半分だけ薄い皮膜があるが、半分は黒く爛れ黒炭のように固まっている子がいる。
 頭蓋骨が透けて脳がみえ、さらにそこに水がたまり膨れ上がっている子もいた。誰もみな、言うにいわれぬ痛々しいすがたの子供たちばかりである。
 最下層の、さらに地下のこの部屋で、外界からの刺激を、出来る限りうけないようにそっとかくまわれている子供たちは、なんという目が痛まんばかりの悲惨な姿をしているのだろうか。
 彼らはみなこの地下で生まれた子供たちだった。
 エネルギーの枯渇によって体になんらかの影響を受けてしまった親から生まれたために、奇形となったり、また治しようのない特殊な病いにおかされているのである。負の暗闇が落とした悪夢は、こんなところにも傷ましい形で浸透しているのだ。
 「この人はね、ナギっていうんだよ。なんかさぁすごいだろ?居るだけで空気がキレイになって光るんだぞぉ。エネルギーで出来てるみたいだから、みんなが少しは楽になるかと思ってさ、連れてきたんだ。あ、でも、もとは人間なんだってさ、信じらんねぇよな」
 息も立てないように笑うのに、ナギはできるだけでぎこちなくならないように微笑んでみせた。
 「は、はじめまして。よろしく、ね」
 そういうのが精一杯である。
 どの子の目もきれいに澄んでいた。
 ナギをみて笑う彼らの無垢な笑顔は、まるで生まれたての天使のように澄んでいる。清明すぎて、どこかしら老成した大人のようにもみえるのは、きっと彼らが、すでに自分の熾烈なまでの境遇を受け入れて、ひっそりと痛みと戦いながら、それでも懸命に生きているからであろう。
 彼らはこの地下に暮らすすべての者たちから、非常に大切に扱われていた。どんな姿であろうと、愛しい子供たちなのである。
 ナギは膝をしずかに床についた。草を編んだ柔らかい絨毯が敷いてあった。
 子供たちがナギにそっと触れてくるのにまかせ、少しでも刺激して痛みを与えないように羽でふれるかのように手を握りかえしてやった。
 ナギの心から流れるいたわりの涙が、まるでどこまでも広がる海のように、エネルギーをあふれさせて波紋のようにひろがっていく。
 「わぁ、気持ちいい。こんなの、はじめてっ!」
 「息ラクだね。お肌いたくない。ねぇナギ光ってるよ。きれーい、お姫様みたい」
 ナギのみえなくなった右目から、ふわりと涙がこぼれおちた。
 床にころがり、皮膚のない少年の中にぶつかって溶けてゆく。頭蓋骨の膨れ上がった少年に跳ね、また皮膚の薄い女の子の肌をぬらして消えていった。
 みなうっとりと心地よさそうに息を吐きだしていた。わずかな刺激にさえ痛みを感じるかれらの顔に、初めて安らぎが浮かびあがってくる。
 「ナギ、すげぇ――」
 リードが感心したように言った。自分の想像よりはるかにすごいナギのエネルギーの影響の大きさに、心底から驚いていた。
 よくみると、特殊部屋をのぞきこむようにして、隣の部屋には数十人の子供たちがあつまってきている。
 しばらくして部屋をそうっと出てきたナギを、いっせいに取り囲んでしまった。嬉しそうにキャアキャアといい、それでも静かな歓声をあげてよろこんでいる。
 どの子も、肌が異常に薄かった。大人たちよりさらに痛々しいほどに体が貧弱であり、不具合のある子供を多くみてとれた。どちらかというとリードのような健常な子供のほうが稀であるようだ。
 たぶん、地下で生活するということの不自然さと無理が蓄積されているのだろう。本来はそのように作られていない体への負担も大きく、またエネルギーの不足が著しいことにも起因している。
 どうしてこんな哀しい定めを背負わされなければならないのか。
 どうしてこんな苦労を、生まれたときから味あわねばならないのだろうか。
 ナギは切なくなってしまった。
 「こんな、世界があるなんて………ひどすぎる」
 ナギはたまらなくなり、泣きたくて胸がつかえるようだった。
 せめて光があれば、太陽があればいいのに。明るい日差しさえあれば、違っていたにちがいない。
 地球の影にかくれ、陽の光さえささぬこの場所で、こんな苦しい時を延々とすごしてきたのだ。
 ――ソメイ様、これが、あなたの苦しみの世界なのですか?あなたの悲しみが落とした影の世界なのですか?
 なんという苛酷でつらい世界なのだ。残酷すぎる。
 ソメイの苦しみを、どうして癒せなかったのだろう。
 こんなになるまで、なぜ今まで気がつかなかったのだろか。愛している気持ちだけでは何もかもが足りない。自分は何においても、いつも足りなさ過ぎている。
 「ごめんね………ぼくに、羽があればみんなを少しは癒してあげることができたのに。ご羽がなくて、なにもできなくて、ごめんね」
 せめて羽根でもあれば、エネルギーを直接体内に送ることができ、痛んだ体をわずかでも癒してあげることができたはずだ。こんなところに来てまで、羽根のないことが悔やまれてしまう。
 この世界のエネルギーの枯渇が、わずかでも減れば、こんな痛ましい子供たちは減るに違いないだろう。この世界の歪みを、まるでその体に引き受け、体現しているかのようではないか。
 嘆いても、祈ってもかなわないことは知っていた。自分で行動しなくては、世界はなんら変わらぬことを、ちゃんと知っている。
 なぜならソメイは――神はみているだけしか出来ないのだから。どうあっても変えることはない。自分で運命を変えてゆくしかないのである。
 そうだとわかっているのに、それでもなぜか祈らずに居られない時があった。自分の無力さを痛切に感じ、どうしようもなくなってしまうのである。
 「羽があったら、あの病気の子を癒してあげられるのに……っ」
 「あら、羽なら、ちゃんとあるじゃない?」
 少女がお可笑しそうにいった。ナギをまぶしそうに見ていた。
 「えっ?!」
「 ほら、こんなにキレイな光の羽が背中についてるわよ」
 「そうだよ、羽ならあるよ、ちゃんとついてるから泣かないでいいよ、なくなってないよ」
 ポロポロと泣き出したナギをなぐさめるように、子供たちが口ぐちに言い出した。
 「羽、ぼくについている?」
 「うん。大きな金色にひかっている綺麗な羽があるよ。――すごく気持ちいい。羽の光が体にいっぱい入ってくるよ。もうこれ以上はあふれそうだよ」
 子供たちが笑っていた。どの子も嘘を言っているのではないとわかるのは、満足げな彼表情だからだ。体がエネルギーの片鱗で輝きだしている。
 ナギの涙がさらにどっと溢れだした。
 ――羽が、まだぼくにある?……ソメイ様、ありがとうございます!
 ソメイに感謝を捧げずにはいられない。
 「ナギ、こんなところで何してるの?」
 迎えにきた万理だった。ためらいがちに声をかけてきた。
 入っていいのかどうか迷うように入り口からのぞいている。
 子供たちに囲まれたナギの姿があまりにも神聖にみえて、近寄りがたいようだった。犯しがたい雰囲気に、大人の――人間の万理にまで羽がみえてしまうかのようである。
 その背後から、ナギを探しにやってきたシンが顔をだした。
 子供たちにかこまれて、泣いたような目をしているナギを驚いたようにみつめ、それから、子供に目をやりながら、どうしたのかと、しばらくたちすくんでいたのだった。




 シンはときどきアシャに呼ばれて出て行くようになった。何かの用事をたのまれているようであるが、それ以外はずっとナギのそばにいた。
 あれから子供たちは、ナギのまわりに異様に集まってくるようになっていた。
 ナギも嫌がりもせず相手をするので、よけいに、何でもないことを話しかけたり、遊ぼうとよと言って寄ってきたり、またいたずらまじりに触れたりして喜んでいる。
 はじめこそ、シンの存在をすこし怖がって遠慮していたのだが、ナギについて、地下の子供部屋にも足を運ぶようになっていくうちに、シンのなかに隠されている優しさをちゃんと見抜いてしまったようであり、すっかり彼にも懐くようになっていた。
 子供たちは二人がくることを喜び、親しげにまとわりついては、できるだけ一緒にいたがるようになっていたのだった。
 「ねぇねぇ、ナギってば、シンのそばにいると、すっごくキレイな虹色になるんだねぇ、知ってた?」
 「うん、気持ちいいよね。ナギもシンのそばは気持ちいいのかな?」
 シンの傍らでくつろいでいるナギの膝にもたれかかり、人間との混血の少年が甘えるようにみあげて聞いた。
 たしかにシンのエネルギーはつねにナギへと注がれており、まるで守るかのように潤っていた。そのエネルギーがナギの体が瑞々しくうるおい、柔らかな光をいつも帯びているようにみえるのである。
 二人の光は、エネルギーに乏しい地下集落に響きわたるように流れていった。
 いまだかつてなく落ち着いた穏やかな空気が人々のなかにただよい、ゆったりとしていた。
 地下集落は、存外、人間と樹界人の、混血の子供が多くいた。
 逃げだしてきた人間を、かれらは積極的に受け入れているのだ。というよりも、より歓迎しているほどなのである。
 理由の一つに、子供たちのことがあった。
 地下に暮らしつづけた彼らは、体だけでなく、根源的な遺伝物質までひどく弱らせていたため、影響をつよく受けている樹界人同士の子供よりも、地球で育ち、エナジーをたくさん浴びている人間の肉体のほうが、より元気な――普通の子供が産まれる確立が高いのだ。純血種よりも、混血児であることのほうを推奨しているのである。
 もちろん樹界人と人間との、労働的な面の違いや、その性質の差もあり、また互いに不得意な分野を補う意味もふくまれていた。だが大半の理由は、子孫の衰弱をふせぐ、という部分に負うところが多かった。
 彼らとて、自分たちの大切な子供が、生きるに忍びない体で生まれてくるのは耐えがたいのだ。
 「ねえ、ナギはシンのお姫様なの?お姫様をまもる騎士はね、ずっとお姫様のそばにいるのよ。シンみたいにね」
 口が達者で、とても五歳とは思えないおしゃまな女の子であるマミがいった。ナギのキレイな顔をうっとりとみつめている。
 「ぼくがお姫様――?うーん、ちょっと違うと思うなぁ」
 すごい発想だなぁ、と笑うナギ。その横にいたシンも、思いもしない言葉に苦笑している。
 あまり表情をくずさないシンの端正な顔が笑みにほころぶのをみたマミは、おませな白い頬をポッとあからめた。どうやら彼女は二人を、物語に聞いたお姫様と王子様に見立てているのだ。
 美しさゆえに色々な受難にあうお姫様は、かたわらにずっと守ってくれる騎士がいて、じつは騎士はどこかの国の王子様なのである。最後は結婚して国に帰ってゆく、という話が大好きなのだ。
 マミの母親は人間であり、本好きだったこともあってか、いろんな話を、寝物語にマミにしてくれるようだった。その話を覚えてきては、みんなに得意げに聞かせていたのである。
 ただいまの彼女の興味の中心はナギであり、またシンだった。
 本当はシンに憧れているらしいのだが、ナギの優しい笑みにはとても勝てる気がしないので、どうやら最初から白旗をあげているらしい。
 もっともそれは、シンもまた、ナギしかみていないことを子供心に悟っていたからであるが。
 「あ、ナギこれ、ラリサがナギにくれるって――」
 ラリサとは、地下のあの薄暗い特別室にいる女の子のことだった。
 脳が透けてみえており、しかも大きく膨れあがっているため、あまり動くことができない。
 だがあの日、ナギの光をあびた時から、急激に頭から水が減ってゆき、かなり楽になったらしかった。そのお礼にと、ツル草で編んだ腕輪をプレゼントしてくれたのだった。
 いきなり突き出されたナギは、わずかに反応が遅れた。
 丁度ナギの右側であり――見えないほうの目の、しかも死角だったため、距離感がずれてしまい、伸ばした手で受け取りそこねて床に落ちてしまった。
 「もう、ナギなにやってるのよ」
 「ごめんね、ちょっとボンヤリしてて」
 ごまかしながら笑い、慌てて拾い上げようとした手を、シンにつかまれた。
 草の腕輪ごと持ち上げられ、じっと右目をのぞきこまれる。
 「ナギ、おまえやっぱり右目が見えていないんだな?!」
 「あっ――あの、シン、これは……」
 怖い顔をしたシンはめずらしく本気で怒っている。ナギはどう説明しようかと、ついしどろもどろになる。
 「いつからだ?いつから見えてないんだ?――なんでおれに言わないんだ」
 「だ、だってシン、これは仕方ないんだ。あの……約束だから」
 「約束?誰との約束だよ。どういうことかちゃんと話せ」
 シンはナギに顔をよせると、右目が本当に視力を失っているのか確かめるようにさらに深くのぞき込んだ。
 頭を固定されたナギは顔をそらすこともできず、シンの漆黒の宇宙のような黒目に映しこまれて気が遠くなった。
 マミやまわりの子供たちが、いきなりの目の前で繰り広げられた展開に、もしかしてキスでもするのかと誤解して真赤になって興奮していた。みな唾を飲みこんでなりゆきをみている。
 当の二人はそれどころでなく、逃げ腰のナギに、怖い顔をしたままシンが詰め寄っているばかりである。
 「はい、そこまで。――シン、それ以上は子供の教育に悪いわ。別の場所でしてくれる」
 声がかかった先にシンは不機嫌に視線をむけた。いたのはアシャだった。
 入り口に立ったまま苦笑している。
「 気をつけて、まるでラブシーンよ」
 「なんだよアシャ、なにがラブシーンだ。おれはナギと話をしてるだけだ。――それにこいつらが勝手に入ってきてるだけだし。いまは忙しいから、用なら後にしてくれないか」
 「あら、でももう時間よ。今日も果ての洞窟のヒビ割れた部分を見てほしいってお願いしてたじゃない」
 アシャにそういわれ、シンはムッと唇を不機嫌にむすんだ。約束していたのを思い出したのだろう。
 舌打ちすると、ナギにそれでも怒ったように言った。
 「ナギ、あとで必ず教えろよ、嘘をついてもすぐわかるからな」
 たしかにシンならすぐに嘘だとわかるだろう。
 だが言ったら言ったで怒るのもわかっている。ナギは困ったように曖昧にうなずいてみせたが、シンはまだムスッとしたままだった。
 しぶしぶナギからはなれると、アシャのあとについて出て行こうとしたが、ため息をついた。
 いきなり振り返り、ナギの耳元にささやいた。
 「お願いだナギ、無茶だけはしないでくれ。おれの心臓のことを思ってくれるならな」
 「――うん、ごめんシン。……シンこそ、気をつけて行ってきてね」
 シンはナギの柔らかな髪にそっと口づけると、本当にアシャと行ってしまった。
 「シンてばかっこいいぃぃ」
 マミの台詞に、まわりにいた女の子が悲鳴をあげた。男の子たちもちょっとポーとなっている
 「でもさぁ、いきなりライバル登場かしらね。アシャは絶対シンが好きよ、ね?」
 マミが相変わらずこましゃくれた口ぶりで知った風にいうと、隣の少女がうなずく。
 案外、この年頃の女の子は、純粋なだけに鋭く、心の奥に隠れているものを見抜いたりするのかもしれない。とくに女同士のそれは敏感だ。
 男の子はなぜそうなるのかわからない、と首をひねっていた。やはり男のほうが感情の機微にうといらしい。
 となりのノンビリした風貌の少年がいった。
 「でもさ、アシャとシンは仕事で一緒にいるだけなんだろ、関係ないんじゃないのか?」
 「バカねぇ。アシャのあの目つきよ。ナギを見るときの目ってけっこう冷たいじゃない。あれはヤキモチなの、ナギがうらやましいのよ」
 腰に手をあて、一人前の女の口ぶりで言い切るのに、ナギがおもわず噴出した。
 「あら。ナギったら余裕ね。やっぱり王子様はやっぱりお姫様(ナギ)のものだっていう自信なのかしら」
 「マミの発想は面白いよね。シンはサガにたのまれて、洞窟の不備なところをなおしたり調べてるだけなんだよ?」
 「でもいつもアシャが付き添ってるじゃない。それってどこかかしいわ。別の人でもかまわないじゃない。――まったくナギはキレイだけど、まだ子供なのね。女心も男心もわかってないんだから」
 「――そ、そうだね、まだまだ子供だよね。まったくマミにはかなわないよ」
 降参だ、とばかりに言うナギに、マミの横にすわっていた少年があきれたように言った。
 「マミってば、口だけは達者なんだからさ。誰もかなわないよ」
 「なによ失礼ね、私は口だけじゃないわよ」
 二人がギャーギャーと言い合いになっているのをナギは笑いながらみていた。
 こんなに穏やかな空気を吸っているのは本当に久しぶりだった。
 いつもいつも怯えて小さくなり、自分より大きくて力強い存在、目に痛いような強い光にばかり囲まれ、いつでも怖くて震えて過ごしていた。ソメイの庇護を求め、彼がいないと不安でなにもできなかった。
 そんな自分に、こんな小さな子供たちがなつき、甘えてきてくれている。
 日常のなんでもない会話を交わし、他愛もない話をしているなどという体験は、初めてに等しい。少しくすぐったい感覚がする。
 弟の勇が遊びたがっていたときも、ナギは美保に遠慮をして、いつもできるだけ関わらないようにしていた。自分の穢れが勇にうつったら美保が嫌がるにちがいない、勇が不幸になってしまうかもしれない。そんなことを考えていた。
 本当はあの小さな体を抱きしめたかった。
 大好きって言われたときには、大好きだよって答えたかった。一緒に遊びたかった。
 「なにナギ笑ってるのよ。もう、余裕をこいてちゃダメなんだからね。ナギはキレイだからいいけど、シンも格好いいんだからね。けっこうあちこちの女がポーっとなってるのよ、狙われてのよ――」
 勢いよくしゃべっていたマミがゴホゴホといきなり咳き込んだ。
 それをきっかけに、何度もなんども苦しそうに咳をつづけてゆくうちに、顔が青くなってくる。
 ナギは背中をさすりながら、肩甲骨のあたりに固いものを感じた。そこを丁寧になで、ほぐしてやると咳がだんだん薄れてくる。なにかの滞りがあり、血液の流れが阻害されているようだ。
 「マミ、大丈夫?落着いてきた?」
 空間にただよっていた空気が、不穏な気配をおびて曇ったような気がした。
 ナギはビクリとした。呼吸できる範囲ギリギリの比率まで淀んできているではないか。マミのあまり丈夫でない呼吸器がそれに敏感に反応してしまっているのだ。
 不完全なナギの肺だけでは、もしシンたちの守りのバリアーがなかったら今頃は呼吸困難で倒れているかもしれない。
 「最近よく魔の気が入るね。多くなった気がする」
 ナギが心配そうにあたりをうかがいながら言う。マミは咳きこみ疲れてナギの膝でグッタリしていた。
 ここのところ地震がおこって突然ゆれたてみたり、森のさらなる増大によるためなのか、木の根が巨大化しはじめ、丈夫な岩を割り、地下集落をまもっていた地盤を侵食しはじめているようだった。
 さらに集落に直接ながれこむ地上からの空気穴や、地面の裂け目からも、ときどき魔の気が入り込むようになっており、なにかと邪気がしのびこみ、人々の生活を脅かしているのだ。
 シンはそれらの空気穴や裂け目のぐあいを調べにゆき、必要ならばその個所の補修をしていた。
 彼のエネルギーは、地上から流れこむ負の力をおしかえし、汚れを清めることができるだけの強さを持っているためである。
 偶然、穴をみつけたシンが手をふれると、そこから押し寄せてきていた邪気が消え、穴がふさがったのである。そのため修復するだけの力があることがわかり、あちこちにガタがきていて困っていた彼らは、ありがたいとばかりに、シンに頼み込み、結果、忙しく引っ張りだされるはめになっていた。
 シンの本心から言うと、ナギのそばをあまりは慣れたくなかった。
 だが世話になっているうえに、魔の気配はナギにも影響することも確かであり、また子供たちの苦しそうな顔も、シンにはつらいことに変わりないことだった。出来る限り手伝うことにしたのだ。
 「なんだか今日は嫌な感じがするな。……はやく、シン帰ってこないかなぁ」
 ナギは胸にザラつくような不快感をぬぐえないまま、ぽつりとつぶやいた。珍しく不安がおさえきれずにいる。
 こんな時の嫌な予感はなぜか当たってしまう。
 思い過ごしであればいいと願いながら、ナギはマミや他の子供の背をなで、心地よい体温を感じながら、得体の知れないそれの思いをふり払おうとしていた。
 早くシンが帰ってきてくれれば、こんな気分など吹き飛んでしまうのに。シンの存在の大きさを、あらためてナギは感じていたのだった。




 「まったく、きりがないな」
 あきらめのような息をつきながらシンが言った。
 いくらでも、雨水がしたたり落ちてくるように、ひび割れた部分から、地上の邪気が浸透し流れ込んでしまう。
 シンは空気中に散ってしまった邪気を片手でにぎりつぶした。穴から魔のエネルギーを追いはらいながら浄化すると、てばやくそこを塞いでいく。
 「でもね、仕方ないのよ。これでもよくもった方だと思うわ。かなり老朽化が進んでいるから、見つけたところからコツコツ塞いでいく以外どうしようもないのよ。ほんとにたくさんあるのに、ずっと手伝わせてしまってごめんなさいね」
 アシャが申し訳なさそうにいった。小さな場所まで入れると、もう百に近い個所をシンに補修してもらっているのである。
 「いや、おれはかまわないけど、他の集落もこんな感じなのかなって思ったらさ。どうなってるかを考えると、ちょっと怖いよな。他に穴を塞ぐ方法はないのか?」
 たしかにシンのような存在がどこにでもいるわけではない。裂け目による侵食はどこも同じであることを考えると、すこし嫌になってくる。
 アシャは懐に入れていた白い石をとりだした。
 「これでどうにか塞いでいると思うわ。地下水脈のあるところまで降りてゆくことができれば、この聖石があるの。それを土に埋め込んで、どうにか魔の気を押し返してたんだけど、でも最近ではあまり効果がなくなってるって話だわね。石の力が、前ほど長く保たなくなってきるみたい」
 魔のエネルギーが強まりすぎて、今までの方法では、おぼつかなくなってきているのだ。
 シンのように、穴自体を塞ぐことができれば一番よいのだが、その場しのぎでの修復では、イタチごっこのようなものである。
 「半年に一度くらいは大きな魔の風が吹きこんでしまって、集落でも何人かが命をおとしているのよ」
 「魔の風?」
 「ええ、『死神の黒い風』とも呼ばれてるわ。すごく恐ろしい風よ」
 アシャの顔が少し青ざめていた。その風の起こした悲惨な光景を思い出しているのだろう。
 「入ったが最後、集落中をえぐるように駆けぬけ、メチャクチャしてしまう……。人の命も何もかもが一瞬にして壊され奪われてしまうわ。父はそのことをとても恐れているの。だから少しでも早く修復したいって、ついそれでシンには無理を言ってしまうのよ。許してね」
 「死神の風か……。なんだか嫌な予感がするな」
 鼻にシワをよせ、何かの気配を感じ取っているかのように低くつぶやいた。
 アシャが心配そうにシンに体をよりそわせた。
 「シン、何かを感じるの?」
 「いや――だが、最近どうも首の後ろがゾワゾワしているんだ。こんな時はたいていよくないことが起こる。――なんだかナギが心配だな……戻るか?」
 「シン」
 シンの腕にアシャの手がかけられた。
 「アシャ?」
 「ナギなら大丈夫よ。あそこは――子供たちのいるところまでは、魔の風も吹きこんだりしないわ。今まで一度も入ったことがないもの。――ねぇシン、シンはいつもナギのことを気にしているのね。頭から離れたことはないの?」
 赤い瞳が切なげにゆれている。背の高いアシャより、まだ顔半分高いシンをみあげる表情が、どこか心もとなくみえていて、何ともいえない色気を含んでいる。
 そっと唇をよせてきた。
 「――ごめんなさいシン。でも私、どうしてもあなたのことが……」
 かすかに唇が触れた。淡いキスだった。アシャは赤くなってうつむき、そのままシンの胸にからだを寄せる。
 「シンがどのくらいナギのことを大切にしているか、わかっているわ。私は、でもそれでもいいの。――シンの子供が欲しい」
 「ア、アシャ!? 」
 さすがにその台詞にはシンもうろたえた。
 アシャはシンの手をとり、自分の頬に持っていくと、潤んだアーモンド型のキレイな目を甘くむけた。
 「あなたのその強い血なら、きっと元気な子供ができる。次の族長にふさわしい、強い子が必ず産まれるはずよ。――ねえ、私はどうしてもほしいのよ、一族を率いてゆけるたくましくて賢い子供が必要なの。――もちろん、あなたが好きよ。できることならずっとそばにいて欲しいし、あなたに次の族長になってもらいたいと思っている。――でも、あなたにそれがどうしても無理だというなら、せめて私にあなたの強い血をちょうだい。私にあなたの子供を産ませてちょうだい、シン」
 あまりに真摯な顔に、さすがのシンも言葉がでてこない。
 「ア、アシャ、おれは……」
 「子供は共同で、みんなの力によって育てられるわ。だから誰が父親であってもかまわないの。集落のみんなが大切にしてくれるんだから。あなたに私のものになってなんて言わないわ、お願い――」
 「おれには、無理だアシャ」
 「シン……?」
 誘惑するような吐息を耳元にふきかけ、胸の存在を感じさせるほど体をすりよせる。まるで女という武器を最大限につかった最強の狩人(ハンター)のごとく、シンを自分へといざなおうとしてくる。
 今までは、どちらかというとサバサバとしており、あまり女性の面を見せていなかった。驚くべき豹変である。何がなんでも絡めとろうとしているのだ。
 「シンあなたをみた瞬間から、私は……決めていたわ」
 じっと目をみつめ、首の後ろに手をまわした。唖然としているシンを自分のほうへひきよせた。
 その時だった。
 ブワッといきなり黒いものがアシャの背後を走り抜けていった。
 目の錯覚かと思った瞬間、遠くで悲鳴があがるのが聞こえた。シンの頬に生ぬるいものがはね、アシャの腕がダラリと垂れ下がる。
 「アシャ!」
 アシャの上腕が切りつけられていた。骨が見えるほどえぐられており、血が噴水のようにあふれだしている。
 アシャのいきなりの行動に驚き、気がそがれたその一瞬を狙ったかのようだった。黒い風が、まさに吹き込んだのである。
 居住区のあちこちから悲鳴がわきあがった。
 吐き気がするような不快な感覚が熱湯のように沸きたち、魔の風が人々の命を嬉々として吸いとっていくのをはっきりとシンの五感がとらえていた。
 シンはナギのもとへ駆け出したいのをこらえ、あせるように服を裂きアシャの腕にまきつけた。傷より上の動脈を硬くしばり、止血する。うめいているアシャを岩場の陰に座らせ、顔をのぞきこむ。
 「アシャしっかりしろ。大丈夫だから。ちょっとここで待ってろ、あとで必ず助けに来る!」
 走り出そうとしたシンの手を、冷たい手が握った。アシャの青ざめ泣きそうな顔があった。
 「お願い、行かないでシン……ナギのところへ行かないで。お願いだから、今だけでいいから、そばにいてっ」
 「ア、アシャ」
 「ナギなら大丈夫。あそこに風は入らないわ。ねえ私のそばにいて、私をひとりにしないで、怖いのよ。お願いよそばにいてシンっ!」
 シンの心は乱れ、どうするか考えあぐねて思いが千切れるように交錯してゆく。
 確かにこのような状態のアシャをおいてゆくのはあまりにも無情なことだった。冷淡で無責任な行動は普段のシンなら考えられないのだが、今は気が狂いそうなほどナギのことが胸を掻きたてている。心配のあまり背筋の産毛が逆立ち、いてもたってもいられない。
 シンは駆け出しそうな足をとめて、ナギのいる居住区のほうをみた。
 黒い風はしだいに膨れあがり、いまでは竜巻のように渦を巻いて、岩をけずり、人々の悲鳴をすいあげていた。何人もの者が魔の風に巻き上げられ、バラバラになって壁に打ちつけられている。
 シンは叫びだしたいのを必死でこらえた。
 アシャとナギのいる居住区のほうを何度も、たまらないように見交わしていたのだった。




 いきなり湧きあがったのは悲鳴と怒号――
 逃げ惑う人々の声が大きくきこえていた。
 黒く染まった悪意と殺意にみちた魔的な殺戮の風は、容赦なく集落を荒れ狂いながら駆けめぐり、人々を恐怖と死の闇へたたき落としていっていた。
 まったく風の吹かないはずの空気が、地下の子供部屋にいたナギの髪をふうっと揺らした。
 かと思うと、次の瞬間、突き破るような勢いで、おぞましい突風が吹きぬけた。背筋が凍りつくような霊気がふくれあがっていく。
 建物の中も外も、まるで魔女のうたう呪いの歌声が響きわたるかのように風が鋭利にこだまして、叫び声をあげて人々が倒れていった。
 人を傷つけ、病ませずにはいない波動が、村を穢しながら侵食していった。
 まさに魔物がきまぐれに走りまわっているような風である。
 人も、森も、植物も、命あるすべてを憎み、何もかもを殺し、傷つけずにはいられない凄まじい執念のようなものがあった。悪意がはっきりと浮かびあがっていた。
 ナギの目の前で、とっさに逃げ切れなかった老人の首が飛び跳ね、天井にまで血が吹き上がったかと思うと、ドサリと首が床におちて、次に体がたおれた。
 子供たちが悲鳴をあげた。
 ナギは必死で抱きこみながら、魔の風が村を荒らしながら通り過ぎるのを震えながら小さくなり、どうにかこらえていた。
 風の余波は異常に強く、あちこちに分散して、とうとうナギのいる部屋にまで切り込んできたのだ。
 ナギは子供にだけはどうにか害が及ばないようにと必死になって体で庇いながら、早く風が過ぎることだけを祈っていた。それ以外いったい何ができるというのだろうか。
 風はあまりに穢れていたため、息がほとんど出来なくなってきていた。
 こんな風にいくらかでも曝されてしまったら、体の機能が狂ってしまう。病をはこぶ魔の使者があるとしたら、きっとこの忌まわしい風のことだ。
 ナギの手が届かなかった、部屋の端にいた少年がたおれた。片腕がごっそりもがれていた。
 思わずその子にかけよろうとして立ちあがったナギに、その風はまるで意志をもっているかのように襲い掛かり牙をむけた。
 渦をまいて吹きつけようとしたとたん、だがまるで、蒼い光に弾かれたかのように、いきなり魔力をうしない、床に沈むように小さくなって消えていく。
 ナギはたまらず子供たちをまた抱きしめ、しゃがみこんだ。
 それからどれくらい経ったのだろうか。
 時間にして、数十分、いや数分ぐらいのことだったのかもしれない。永遠に近いような長さに感じられていた。
 静かになったことに気づくと、ナギは腕に抱いていた子供たちに目をむけた。
 ナギにしがみつき、震えながらも、どうにか無事のようである。
 それでも膝に丸まっていたマミはナギのローブのうえに真赤な血を吐き、顔を吐いた赤色に染めながら、けなげにも心配顔のナギにけなげにも笑ってみせるではないか。
 ナギはたまらず頭をなでると、そっとその場に寝かせた。意識のはっきりしている男の子にまかせると、腕を切られた子供のそばにいそいで走りよった。
 あまりの痛みとショックで少年はすでに白目をむき気絶していた。それが良かったのか、あまり黒い風を吸っていないらしく、息もかすかだがある。
 時々痙攣していた少年のかたわらに膝をつき、ナギは祈った。どうか腕から少しでも血の流れるのが止まり、痛みだけでも薄らぐようにと。
 いつのまにか全身が発光していた。手からひときわ大きな光がふくれあがり、少年に惜しげもなく注がれてゆきはじめる。
 血はとまっていた。
 それにあわせ痙攣も消えてゆき、表情がやわらいでゆく。
 子供たちの部屋へあわてふためいて駆けつけてきた男たちが、足をとめ、発光しているナギを驚くようにみつめていた。
 ナギは光を帯びたまま、男たちにふりかえると、少年を任せて、自分は扉の奥にある部屋へとむかっていった。
 生まれついての苦しみを負う、あの可哀想な子供たちのところである。
 胸が苦しかった。嫌な予感がしてたまらない。行くのが、本当は、怖くてたまらない。
 扉は開いていた。
 風が無残にも開け放っていた。
 部屋のなかの子供たちは床に転がっており、まるで置物のようにみえた。ほとんどの者が動かなかった。そしてその大半がすでに死んでいた。
 皮膚のない少年がベッドのそばで倒れていた。
 彼もまた、すでに息絶えており、訪れた死が一瞬であったことがみてとれた。その死に顔が思ったよりずいぶんと安らいでいたことが、せめてもの救いであった。死までもは、彼を苦しめなかったのだ。
 あの黒い風の悪意には、とうていむき出しにされていた繊細な神経では、耐きれなかったのだ。かすかな風にさえ激痛が走るほどに過敏であり、生きていることがすでに苦行のような少年だった。
 だが、死んでいる子供たちのほとんどが、そのように産まれついており、何ゆえに、このようなつらい人生のもとに生まれてきたのかと、誰かに問わずにはいられないような体であった。
 それでも懸命に生きてきたというのに――。
 子供たちはすべてショック死だった。
 ナギは無言で泣いていた。心がバラバラになっていくように感じられた。
 ほんの少しずつではあったが、彼らだって良くなりかけていたのだ。本当に微々たるものであったとしても、それを喜び、たのしみにしていたのだ。
 ナギの訪れをひどく嬉しがり、そっとなでてやると呼吸を楽そうにしてくれた。良くなるといいねと声をかけると、痛みを感じるのが少なくなったと言い、少し元気な子などは、ずっと居てくれと甘えて膝に乗りさえした。
 一緒に笑い、静かなこの限られた場所で、ひっそりと、でも精一杯に頑張っていた。
 それを風のひと吹きで、たった一瞬で、何もかもを、大切な命までもを奪ってしまったのである。
 「なにも、できなかった……」
 ハラハラと涙がおちていった。
 「なにも、この子たちに、してあげられなかった……」
 嫌な予感ばかりが現実になってしまう。
 まるで自分がそれを呼んでいるかのように、どうしてこんな何の罪もない子供たちが死なねばならないのだろう。生まれたときから重くつらい業を背負い、かすかな光にさえ喜び乗り越えてきたのに、どうしてそれほどあっけなく命の炎を消すのだ。
 この村の者達だって、こんな不条理な地下の空間で、必死で生きてきたではないか。貧しくても苦しくても弱音もはかず、助け合い、努力しあって、誰も恨むことなく懸命に生きぬいてきたのだ。
 「どうしてこんな苦しみの世界があるの……?この闇はどうやったら消せるの?」
 残酷な世界。
 残酷な場所。
 無情な苦しみばかりあって、かすかに灯った光でさえ、これほどまでにあっけなく消されてしまう。
 「何もできなくてごめんね……」
 ソメイの闇はどれほど深いのだろうか。
 自分が思っていたよりもずっと深く重く黒月界を食んでいる。四千世界のすべての闇が、この星を容赦なく傷めつけている。
 ナギの光量が増していった。
 発光したおのれの光に埋もれてゆき、ナギ自身がみえなくなってしまうくらいであった。
 「あなたがどうして謝るの?ねえ、どうして、あなたが泣くの?」
 倒れていた子供のひとりが目をひらいた。
 光をまぶしそうにして見上げ、黒くかたまっている半身を引きずるようにしてナギのそばへと這おうとしていた。
 外にいた他の子供たちも、ナギから放たれている光に無意識に吸い寄せられてくるようにして、いつのまに入り口に集まってきていた。
 怪我をしたり、痛んでいる胸をおさえながらも、この世のものとも思われない幻想的な光景を、まぶしそうにじっとみつめている。
 「――この世界を、ぼくが愛してしまったから。この世界を、とても愛しいと場所だと思ったから。そして、なにも、できないことが、とても哀しい……」
 右腕がカッと熱くなった。
 今までに感じたことのない未知数にあふれた灼熱のほとばしりだった。
 まるでナギの思いを吸い取ったかのようにだんだん膨れ上がり、熱が全身を侵食してゆく。
 風が舞いおこった。
 先ほどの死の息をまきちらす黒い風ではなく、命を愛おしみ勇気をたたえ、世界を抱きしめるような優しい風だった。
 あたたかい母の腕へとつつみこみ、光にできる闇でさえ受け入れてしまい、なにもかも癒し清めてしまうかのような柔らかさでが湧きあがる。
 春の芽吹きのごとく爽やかな香りがした。氷を溶かし、水をあたため、命を育んでいく――存在のすべてを愛でつつみこむ命にあふれた光がひろがってゆく。
 ナギの右手から、ポロポロと花がこぼれ落ちた。
 純白の花は風にのって舞いあがり、地下の世界をさらに明るく照らしながら流れていった。
 人々の痛みをやわらげるかのようにして、生命のエネルギーさえ撒き散らし、子供たちにふり注いでゆくではないか。
 花々は甘くかぐわしい芳香で、傷をみるみる癒し、穢れを浄化していった。
 そして、どの子供が最初にそれを食べたのだろうか。
 その花はとろけるように甘くて美味しいお菓子のようであったのだ。
 濃厚なエネルギーを含み、それだけで一日分の、いや数日の滋養がとれるほどの栄養価をも含んでおり、また痛みや苦痛が水にながれるように消えていった。
 子供たちは花のエネルギーを十分に堪能すると、手に手に花をかかえ、自分の親たちのところへ走っていった。それを食べさせてやろうと思ったのだろう。
 倒れていた子供たちもまた、苦しげな顔から安らかな寝息にかわり、死に顔さえまるで遊びつかれて眠っているかのようにみえた。生命の終わりを、優しい風と花に祝福されて、魂ごと清められたのかもしれない。
 ナギの光が弱まるのにあわせ、光でできていた見えない背中の羽も散ってしまい、ほとんどが消えかけていた。
 最後の風のひと吹きで、すべてがなくなってしまった。
 ナギから生まれ出でたその風は、この地下集落の世界だけでなく、なんと各所の地下集落にも心地よい風をよび、また地上にも慈悲のように吹き流れていたのである。
 その地に生きるあらゆるものを恕し、そうあることを受けとめ、苦しみにさえ愛を囁くような風は、ひと時だけ黒月界を愛のエナジーにつつんだのだ。
 なにかの奇跡がおきたのか――
 大地のところどころに、ナギの右手から生まれた花と同じ、可憐な花が姿をあらわし、咲きはじめていたのだった。
 白くどこまでも清澄なすがたは、その世界にまったく似つかわしくないほど美しかったが、風が去り、ふたたび舞い降りてきた闇のなかでも、強くしっかりと咲きつづけていた。
 なんとそれは、かつて地上に降りるとき、窓から五世界になげた、ナギの切り落とした髪の毛であったのだ。
 この世界にひとかけらの影響をも与えることが出来ず、いまだ眠っていたそれらのエネルギーは、ナギの訪れと、そして心から愛の思いに共鳴し、やっとこの世界にふさわしい花を結ぶことができたのである。
 ナギは力尽きたようにその場に崩れおちた。
 床に崩れる寸前、腕がだきとめた。
 シンがナギを抱えていたのである。
 胸に抱きこみ、切なくてたまらないというように歯をくいしばり、白い顔をみつめた。
 その小さな体を一寸でも傷つけぬようとそっと、床についた膝へよこたわらせると、肩口に顔をうずめて、声もたてずに静かに涙をこぼした。
 「ナギ……ナギ……」
 胸が痛くなるような声だった。
 シンがそんな顔をして泣いたのは、きっと生まれてから初めてのことであっただろう。見ているだけで身が切られるような、これほど痛々しい泣き方があったのだろうかと思わせる苦悶の表情である。
 涙の雫はすりよせるナギの頬をぬらし深くふかく染みていった。声をださずに慟哭しているシンの心が、ナギのなかへ消えてゆく。
 「ナギ、おまえはそんなにまでソメイを愛しているのか?――この世界の、こんな無残な闇ごと愛してしまえるほど、ソメイのことを思っていたのか?……ナギ、おれの思いは、おまえには届かないんだな……おまえにはもう、おれが居られる場所はないんだな。……おまえから吹き上がった風は、おまえの心そのものだった……」
 世界の痛みを清めるかのような風は、ナギのすべての思いを含んでいた。
 アシャのそばでその風をうけとったシンは、ナギの思いに含まれているすべてを五体といわず、魂のなにもかもで感じとってしまった。
 全身から血の涙が流れたような気がした。シンは、いてもたってもいられなくなり、そのまま駆け出していた。
 ナギは自分のすべてをかけて愛していた。
 何も求めず、ただその存在を受け入れ、あるものすべてをそのままの姿で愛しく思い、なにより大切にひっそりと胸に抱いている。
 シンには痛いほどナギの愛が伝わっていた。
 そしてナギの純粋な心の声は、シンのなかに響き、こらえるように隠してずっと秘めていた思いまでもを、揺さぶってしまった。
 「ナギ、ナギそれでもおれは愛している。おまえを、おまえだけを――」
 シンは頬をなで、そっとナギの唇にキスをした。初めて熱をもって触れあう唇は、甘くとろけそうに柔らかく、そしてこれ以上ないほどに、胸を切なく焦がした。
 ナギの青ざめていた頬がうっすらと薔薇のように色づき、生気をとりもどしていた。優しく微笑んでいるかのようにみえた。
 たまらぬように、シンはナギを抱きつづけていた。




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