はじめてその瞳をみたとき、気が遠くなってしまった。
無限にひろがる黒い闇と、果てしない宇宙がどこまでも続き、まるで永遠の孤独をひとり漂っているかのような錯覚におそわれる。
だが、恐怖をおぼえたのは一瞬だけだった。
すぐに言いようのない温かさが伝わり、何もかもが愛しみに抱きしめられ、高鳴る鼓動で一杯になっていった。瞳に淡くひろがっていたのは、彼のなかの孤独の影であり、それがあまりにも深すぎて、闇のように見えしまっていたのだ。
そこにひそんでいた慈しむような優しい光に気づいてしまうと、二度と目が離せられなくなり、たまらない切なさと愛おしさで、胸が掻きむしられるようにさざめく。
――心を、奪われてしまった。
一瞬だった。
目が合ったその時から、自分という存在のすべてが彼に吸い寄せられていき、何もかもが魅きつけられ、心も体も魂も、彼以外のものが何一つなくなってしまったのではないかと思えるぐらいに、心が膨れあがっていった。
いつしか彼のことしか考えられなくなってしまい、津波のような圧倒的な存在感で、頭の天辺からつま先、髪の毛の一本一本にいたるまで、全身がうばわれてゆくかのようだ。
恐ろしくて震えがとまらなかった。
けれどそれと同時に、どうすることもできないほどの幸福感に包まれてしまい、その思いにはもはや逆らえなかった。
愛しいと思う心は、だれにも止められないのだから。
あれから、幾ばくかの時間がすぎたというのに、今もまだ、その痺れるような甘い感情は、微塵も色あせることなく、ずっと胸のうちに熱く息づいていた。
この世界に、あの人よりも美しいものは、きっと存在しないではないかと思えてしまう。
高潔な魂のかがやきが全身から溢れださんばかりに眩しくまたたいており、どんなものも汚すことのできない峻厳たる意思の高さは、いっそ鋭くさえ感じられてしまう。孤高の極みでひとり泰然としてみえる。
とても怖くてたまらなかった。なのに、それよりも激しい憧れと追慕の念が、身の底から湧きだしてくるのをどうしても消すことができないのである。
彼の前にでると、他のもの一切を忘れてしまった。ただ真実のみを語らずにはいられないエネルギーの渦が流れこんでくるのみだ。
「――ナギ」
呼ぶ声に、そっとふりかえった。
ナギは目をまぶしげにほそめ、彼をみあげた。
ふっと、泣き出すのではないかと思われたその顔に、えもいわれぬ幸せそうな笑みがうかびあがった。
あまりに美しいので、夢をみているかのようである。
少し高くなっていた窓の桟からフワリと音もなくおりたつと、ナギは小走りにはしっていった。
会えたことがこれ以上なく嬉しげな顔をして、待ち遠しくてたまらなかったようにいう。
「おかえりなさいソメイ様っ」
ソメイは固くむすんでいた口元をやわらかくゆるめると、手をひろげてナギを迎えた。
ほんのわずかな表情の変化だったのに、仮面のような無機質さが消えた。あれほど怜悧で完璧な造詣をたたえていた相貌に、ほんのりと温かみがのぼり人間らしさを取り戻す。
ソメイはナギを抱きあげた。
小さくほっそりとした体は簡単にソメイの片腕に抱きこまれた。
同じ目の高さに顔が近づくのに、まるでそれよりそばにいくことを畏れるかのように、ナギはためらいがちにソメイの首に手をまわした。触れることすら遠慮がちなその仕草に気づいたのか、ソメイは腕に少しだけ力をこめてくれる。
ながいまつ毛がフワリとけぶるようにゆれ、ナギの色素の薄い金茶色の瞳にはソメイだけが映っていた。
冷泉のように透きとおるソメイの漆黒の瞳にみつめられると、ナギはいつも心がしめつけられるように苦しくなってしまう。こうして何度も抱きあげられているのに、顔が近づくたびに、胸がむずがゆいような震えるような感覚におそわれ、言葉が出なくなってしまうのだ。
「ナギ、また外を見ていたのか?」
ナギはコクリとうなずいた。
ソメイはナギの視線を追うように、窓辺に近づいていった。
窓の外は、下界にひろがる街並みが延々とひろがっており、たくさんの人間がにぎやかにおしゃべりをしながら、思い思いの格好をして、軒をつらねた建物に出たり入ったりしていた。
店先には色とりどりの品物が並べられ、年齢も姿も違う人々が、雑多に入り乱れながら、思い思いに買い物を楽しんでいる。
まるですぐそばにいて、彼らの生活の場を感じているかのようであった。
街や村で繰りかえされている日常の物語が、このしずかな部屋の、窓一枚へだてたこう側で、本当に営まれているようである。
部屋を囲むようにつくられた四つの窓からは、同じように下界の景色が並んでいた。
だがそれぞれの窓からは、不思議なことにまったく異なった風景がのぞいていた。
最高神ソメイのすまう物見の塔にあるという、眺望の窓であった。
四つの窓は、各々のまったく別の世界を映しだしており、それらの世界で起こる全てのことを見渡すことができるのだ。
第一つ目の窓は、最高神ソメイのいるこの『天上界』をのぞむことのできる窓だった。
二つ目の窓は、魔物や魔獣、魔界人と呼ばれる者たちの棲まう『地界』と呼ばれる魔都を映しだしていた。
そして三つ目の窓からみえているのが、ナギがかつて住んでいた世界――地球である。なつかしいシンのいる、あの緑と水の生命ゆたかな『人界』であった。
四番目の窓から最後にみえているのは『幽界』である。
あらゆる負の感情や、魑魅魍魎、妖怪妖魔に、罪や罪業に穢れた者たちのいる最下層部。
だが、幽界の地の底では、すべての者の罪と穢れが祓われるまで、おのが身をさしだし贖罪による、業火の炎で焼かれている女神、穢那王が存在していた。苦しみもあるが、慈悲もある、再生の世界でもある。
その部屋は、世界の彼方まで見下ろすかのように高き建物の頂上につくられていた。ひっそりと澄みきった空間は、本来ソメイだけしか入ることが許されていない聖なる場所でもある。
だが今は、ソメイと、ナギだけがいる、安らぎの場所でもある。
ナギはいつもそこから、三番目にみえる地球をみていたのだった。
そのことを知っているソメイは、三番目の窓辺に腰をおろしていた。
柱にゆったりともたれかかると、ナギを膝に抱えたまま、一緒に地球をみつめている。
穏やかな世界だった。
静かで穏やかで、まるで時が止まっているかのように感じられた。温かな風だけが二人の頬をなでてゆき、のんびりとした休息が二人のあいだに落ちてゆく。
春の陽だまりのようなおだやかさは、四界すべてにわたって広がっていた。
かつては亡者のごとく、世界のすべてがエネルギーに困窮しており、人々はあさましい争いを繰り返していた。生きることを渇望し、『樹』を求めて野獣のように咆哮をあげていたのだ。
だが今は驚くほどの安らぎにつつまれていた。まろやかな豊饒とその恩恵を全身に受けているのである。
すべては最高神であるソメイが、封印していた記憶をよびおこし、もう一度、創造の力をとりもどしたからである。
神はかつて、愛する者を失った悲しみと、自分が創造したこの世界の者たちの愚かな行為と、あまりの進化の未熟さに絶望し、記憶を封印してしまったのだった。何もかも忘れ、傷を癒そうとして、神は己の力のこともまた、忘れてしまったのである。
最高神の力を失った世界は、おそろしいほどに衰退してゆき、みるみるエネルギーを失いはじめていった。
まず初めに、生命の根源ともいえる、太陽の力が弱まってしまった。
生命を育まなくなった大地は、生きるためのエナジーを保てなくなり、大地から育っている植物からは、生命の素であるエネルギーが失せてしまった。
人々の身体から命の炎が消えかけていったのだ。
天と地を満たしているはずの無限のエネルギーまでもが、極限まで減ってしまい、ついには、四世界の生き物すべてがエネルギーに枯渇してしまった。
人々は、自らの命を保とうとあがきだし、他からのエネルギー摂取をはじめてしまった。
それが『樹』の存在なのである。
エネルギーに飢える世界のなかで、唯一、地球だけが、守護女神であるガイアの愛によってエナジーを保つことが出来ていた。
天界人と地界人たちは、そんな地球から『樹』となる人間をさらい、食餌として飼いだしてしまった。彼らの背から生えてくる羽を食べることにより、生命を維持しようとしたのだ。
『樹』と呼ばれる人間たちは、純粋な魂をもっていた。だがそれは、人界の猥雑な社会では非常に生きにくい、弱者的存在でもあり、多くの者は、苦しみやつらさのなかで、身も心も削がれるようにして、どうにか生命をつないでいた。
地上で削られるだけけずられて、清められていった彼らは、天界人たちによって狩られ、天上界に連れ去られると、そこでさらに美しく純化してゆき、最後は食べるための『樹』と変身させられてしまうのである。
『樹』は、天地間に漂うわずかなエネルギーさえも体内に取り込むことができる稀有なる生物だった。
そのエネルギーをさらに高濃度なエネルギーへと変換し、みずからの羽にたくわえ身体の一部として養うのである。
エネルギーの結晶のような羽根は、食べるものに強い生命エネルギーを与えることができたのだが、またそれは、羽根をすべて食べつくされると、自らの命も尽きてしまうという、なんとも哀しい存在でもあったのだ。
かつてナギもまた、その『樹』としてさらわれてきた一人だった。
色々な目にあいながら、天上界にまで連れてこられたナギは、必死で逃げ惑っているうちにソメイと出会い、そして助けられたのだった。
そして連れ去られたナギを助けようとして、ただの人間であるはずのシンが、天上界にまで昇ってきてくれたのである。
シンは、あのつらくて悲しい地上での生活で、ナギと心を分けあい、二人で支えあって生きてきた片割れのような存在だった。
ナギがつれさられたことを知り、シンは天上界に迎えに来てくれただけでなく、幽界まで一緒に堕ちてくれたのだ。
そのシンとソメイが出会うことによって、神の封印されていた記憶が甦り、世界はまた光を取り戻した。
シンこそが、ソメイ封印していたカギであり、ソメイの分御霊だったのである。
記憶を取戻したソメイは、ナギから羽を消し、シンとふたたび地上で生きることを許してくれた
ナギをなにより大切にし、愛してくれているシンのそばで、今までどおり生きることが一番の幸せだと思ったのだ。
けれどもナギは、ソメイのもとに帰ってきてしまった。
たしかに一度は、シンのそばで生きようと思った。そうしようと頑張ってみた。
けれど、なぎはどうしても出来なかった。
もはやナギの心はソメイで一杯すぎていて、ソメイへの思いであふれており、ソメイのそばから離れては生きてゆけないほどに、彼を愛してしまっていたのだ。
別れて生きることなど不可能だった。ソメイだけを誰よりも求めていた。
もちろん、シンのことも心から愛していた。
家族のように兄弟のように、まるで自分自身から二つに別けられないほどに身近であり、大切な、自分の半身よりももっと深いふかい存在だった。
それでもナギはソメイのそばに居たかった。
身も心も、いや魂までもが、ソメイのそばにいることを望み、至高の存在を狂おしいほどに希求していた。彼のそばにいないと息ができなくなるようで、どんなに忘れようとしても、ナギの中の奥深くにある魂が、悲鳴をあげて、忘れさせてはくれなかったのだ。
地上にもどったナギを、ふたたびソメイのもとへ連れ戻してくれたのは、なんと月の女神リリスであった。
かつて、あれほどナギの存在を憎み、殺さんばかりに嫌っていたというのに、最初に地上からナギを殺そうとして連れ去った時と同じように、ナギを地球から連れ去ると、ソメイのもとへと返してくれたのだ。
リリスは、ナギのことを思ってそうしたわけではなかった。
ソメイのために、ただソメイのためだけに、ナギを戻してくれたのである。
彼の孤独な魂を理解し、本当にもとめているものをリリスは見抜いていた。恐ろしいほどに独りきりの時間をすごした兄のために、妹はただ幸せを願っただけだった。
そしてリリスは今、双子の妹のレヴェナの復活のために眠っていた。
力を交換し、再生をはかりながら、次の世界のための鋭気をやしなっている。
そのために太陽のエネルギーがかつてないほどに活性化し、最大限に増幅しているというのに、まるで反比例するかのように、月の光は今をもってやわらかいのである。
ソメイの腕に抱かれたまま、ナギは地上をみおろしていた。
あたたかくて大きな彼の胸にもたれながら、全身の緊張をといていた。
ソメイの胸のなかだけがナギには一番ほっとできる場所であり、不安がまったく排除されている唯一の時間だった。
優しい手が背をなで、膨大な愛情をながしこんでくれていていた。体が楽になっていった。
だれより多忙なはずなのに、ソメイはよくこうしてナギのそばによりそってくれた。
物見の塔で、ソメイの鼓動を聞きながら静かに風に吹かれているわずかなこのひと時が、そばにいることをソメイに許されている気がして、一番好きだった。
世界は穏やかさをとりもどしていた。
強力な生命力をえて、『樹』の存在など、必要としなくてもよい、正常な世界なのだ。
だが、逆にかえせば、ナギが必要のない世界に戻ったともいえた。
もっともソメイには、最初からナギの存在など――ナギの『樹』としての羽根など、不要のものであった。
彼は他からのエネルギー摂取などなくとも、みずからエネルギーを生み出すことのできる、煌々と輝く太陽そのものだったのである。
ただナギは、樹のなかでもこれ以上ない最高位の者として認められていた。天上界で唯一の存在であり、気位の高い天使にさえ尊ばれる『天界樹』となってしまっていた。
そのために、どうにかソメイの傍らにいることを皆に黙殺されているのだろうが、ナギは実際、自分が本当にソメイのそばにいてもいいのかどうかわからなかった。また、ソメイ自身に本心から許されているのかどうかも、いまだよくわかっていない。
人界から帰ってきたナギを見たとき、ソメイはわずかに目を見開いただけであった。
あとは何もいわず、ただ静かな笑みをうかべて、ナギを強く抱きしめてくれた。その腕があまりにもあたたかくて、涙がこぼれそうになってしまったのをよく覚えている。
それからずっとナギはソメイのそばにいる――。
人界でいう四年もの月日がながれていた。
短かった髪も腰に届くほどのびており、柔らかな金茶色の瞳がさらに色素を薄くして、ほとんど琥珀のような透明感をたたえていた。
ほっそりとした体は丸みをおびてさらにまろやかになり、背丈はここへ来た十四歳のときとほとんど変わりなかったが、姿は驚くほど美しく繊細になっていた。まるで生まれたばかりの光のようにはかない、無垢な夢をみているかのようである。
「シンの姿を、また追っていたのか?」
そっと問うてくるソメイの言葉に、ナギは少し小首をかしげた。それから首をふった。
「いいえ。ただ、ガイア様の歌を聞いていたんです。――ガイア様は、まだ目覚めてはいらっしゃらないですけど、でも歌がとても優しくて地球に響いていて、すごく気持ちがいいんです……」
「ナギにはガイアの歌がきこえるのか?」
「少しだけ……。あ、でも、ソメイ様の声も聞こえてくるんですよ。世界がエナジーをとりもどしたせいで、歓喜の歌をアチコチであげているんです。そのキレイな歌の中からソメイ様の声が心地よく聞こえてきて――」
ナギはじっと見つめられていることに気づき、しゃべりすぎたとばかりに顔を赤らめ口をとざした。
世界のあちこちにみえているソメイの片鱗を、ナギはこの部屋からずっと感じるままに見ていたのだった。それがとても楽しくて、ソメイの存在をみつけられると、嬉しさのあまり心を奪われてしまい、そしてもっともっとソメイを感じたくて、またソメイのカケラを探してしまうのである。
いつでも、どこにいても、ソメイのことばかり考えている。ソメイの存在を求めている。まるでそんな小さな秘密がバレてしまった子供のように、恥ずかしげにうつむいてしまった。
まるでソメイのことが好きで好きでたまらないと告白しているようではないか。
ソメイは小さく笑って、また背中をなでてくれた。
こんな幸せな時間をナギは知らない。
どこにいても不安がつきまとい、本当にここにいてもいいのかと、いつもビクビクすごしてきた。なのにソメイのちょっとした仕草や心づかいだけで、不安はいとも簡単に洗い流されて、こんなにもやすらいでしてしまう。
ソメイの神秘的な黒くて美しい髪がサラサラとたてる風音を聞きながら、ナギは遠大な時間の流れに身を浸していった。
あまりにも静かで、幸せすぎて、かえって不安を覚えてしまいそうなくらいである。
ソメイのそばにいるだけで、何もかもが満ち足りていた。何一つこれより他にはいらない。何もいらないから、どうかソメイのそばずっといさせて欲しいと、ただそれだけを必死で祈っている。
そうしてソメイとナギがよりそい、塔から地上をみおろしていると、必ず柔らかな風が世界を走りぬけていくのだった。
その風はあまりにも優しく心地よくて、だれもが甘く胸をときめかすような、なんともいえない幸せな心地を感じさている。
物見の塔が、淡く蒼いやさしい光をおびているのを、人々は幸せそうにみあげていた。
そして見えないはずの小さな二つの影が、窓辺にたたずんでいるのを感じながら、甘美な夢のおすそ分けを頂戴するのであった。
ひっそりとした森のなかを、ナギは歩いていた。
ソメイの宮殿の背後にひろがっている鎮守の森は、王宮の政務や、それらのせわしい喧騒から切り離されたようであり、ひっそりとした静けさにつつまれていた。
下生えの青々とした草も、凛としてどこまでも伸びていく木々の枝や、驚くほど豊かな表情をあらわしている花たちも、どれもが精気にみちあふれており、喜びの歌を奏でるかのように優しくナギを迎えてくれている。
命の豊かなこの森でさえ、かつてはエナジーに貧困し、重々しい陰鬱さにみちていたのであった。
大地はどこもかしこも、ただ生きてゆけるギリギリのエナジーしかなく、そのわずかなエネルギーを、樹であったナギたちは、自分の体に集積し、純化して、さらに密度の高いエネルギーに変換していたのだ。
その羽根はまた、他者によって奪われ、彼らの生きる源となっていた。
羽根をもがれるときの痛みは、ツメや指を折りとられるのに比する激痛をともなっていたし、羽根がなくなればエネルギーがつき、枯れた花のように、死んでゆくのだったが、ナギはもう、その羽根さえもたず、ただソメイの傍らにいることを許されている。
かつてソメイのかたわらに居ることを許された者はだれもいなかった。
天使だろうと、樹だろうと、人間であろうと――。
そんな前例のない存在である自分が心もとなくて、幸せがあまりに大きすぎていて、いまだ戸惑い、時折なんともいえない不安がときどき胸をかすめてゆくのである。
ナギの不安な心を慰めるように、緑のにおいのする風が頬をなでていった。
森の中にいるかぎり、ナギはまるで誰かに守られているかのような気がしていた。なにも自分を傷つけるものはないという、まるで母の胎内にもどったような安堵感をおぼえ、いつもほっと息をつく。
天上界にきてから、月日がいくら流れてゆこうとも、どうしてもこちらの世界の仰々しさには慣れることができなかった。
もともと控えめな性質であり、ひっそりと、ただ静かにできるだけ自分の存在を目立たさぬようにと、つとめて暮らしてきたナギにはとっては、人中にいることはそれだけで苦痛だった。
そんな未熟な自分がソメイのもとにいることができるのも、ひとえに『天界樹』として認識されているからであり、だからそれを証明させようとする人々がいることも、仕方ないことなのだと、わかっているつもりだった。
せめてそれにふさわしい羽でもあればと思うのだが、今はそれを証明する一枚の羽根すらない。ナギ自身もまた、己にどれほどの価値があるのかよくわからないのだから、どう表現していいのかもわからない。きっと他人の目から見ればなおさらであろう。
いつだって、疎まれていたし、必要とされなかった。人間世界にいたころのそんな『篠田和(なぎ)』のままで、なにも変わっていないような気がする。
もし人界でも、シンが必要としてくれなかったら、きっと今まで生きてこられなかっただろう。
あのころはシンだけが自分の世界であり、また自分自身であり、愛し愛されるものだった。
お互いにお互いを映しあいながら、二人でひっそりと生きてきた。ずっとあのまま、閉じられた空間のなかで生きていくのだと信じていた。
それがいまでは、ひどく遠い昔のように感じられてしまう。
「シン……」
ナギは泉のそばにしゃがみこむと、膝をついた。
自身の姿をのぞきこむように湖面に首をのばした。
映しだされていたのはナギの姿ではなかった。
ひとりの少年――いやもはや青年といってよいほどに成長をした、シンの姿であった。
ソメイの黒い瞳をうつしたような漆黒の瞳は、いつまでもかわらず意志の強さを秘めており、線の細いおもざしとはうらはらに、他人を排除せんばかりの荒々しい気配が全身にみなぎっていた。
ほんの少し笑うだけで、どれほど甘く優しい顔になり、きっと人目を引かずにいられない鮮明な光をおびるだろうと思われるのに、その表情はあまりにも無機質に怜悧であり、造り物じみた美しさだけが冴えざえとしている。
まるで笑みを忘れたかのようにひきしめられているシンの顔を、ナギはただじっと見つめていた。今ははるか地球にいる彼は、ナギにとっては、ソメイと変わらぬほど大切で、愛しい存在なのだ。
シンのもとを去ってから、ナギは彼のことを忘れたことはなかった。
ソメイのもとに帰りたい一心で、あの時は、あとに残してくるシンのことを考える余裕など微塵もなかった。
だが、自分がいなくなったことを知ったときのシンの気持ちを考えると、たまらなかった。どんなに虚しく淋しい思いをしたか、胸が裂けるような悲しみがわきあがってきて、身のおきばをなくしてしまう。
誰よりもやさしくて心の強い少年だった。
いつもナギのことを一番に考えてくれた。
人間界からこの天上界にまで、ナギを迎えにきてくれるほどの勇気をも持っているし、自分のために神とさえ戦うことを決意し、すべてから守ろうとしてくれた。
そんな深い愛情を与えてくれる者が、他のどこにいるのか。何も求めず、ただ救いの手を差しのべてくれただけだ。
そんな彼だからこそ、黙って去っていったナギを許してくれたのだと思う。
片羽のような存在だったはずなのに、誰より大切にしてくれたシンよりも、それでもナギはソメイを選んでしまった。
もはやソメイから離れて生きることはできなかった。
氷のように冷たい無表情のむこうにある、ソメイの誰より深い悲しみと絶望が、ナギにははっきりと見えていた。
何も必要としていないようにみえるのに、その底にあるのは、狂おしいほどの孤独だった。彼の中にある悲しみも苦しみも、ナギにはすべて自分のことのように感じてしまった。一人にすることなどできなかった。
もはや好きだとか愛しいなどという感情ではなく、自分のすべてよりも大切であり、自分の存在ですら、ソメイのために何一つ惜しむものがないほどの、無上の存在になってしまっていた。
ソメイと離されたならば、きっと心が壊れ、呼吸ができなくなってしまう。それほどにナギにとってソメイは大事なひとであり、必要不可欠な存在なのである。
けれど、シンへの愛情が消えたわけでも薄れたわけでもなかった。
シンの寂しげな声が聞こえたような気がする時は、たまらなくなり、ついここへ彼の姿を見にやって来てしまう。
どうしてこの場所から、シンの姿がみえるのかはわからなかった。
かつて迷い込んだ部屋に置かれてあった、一枚の鏡から、シンの姿を見ることができていた。またその鏡を通して、行き来することも可能であった。
その鏡も、今はただの鏡となってしまい、別の世界を映すことはなくなっていた。
そのかわりに森にひっそりとたたずむこの泉が、時折シンの姿をうつしだしてくれるのだ。もしかしたら、万古の森が、ナギの心をだれより理解し、なぐさめてくれているのかもしれない。
そう、最初からこの森はナギに優しかったのだから。
この泉の水は、ナギの身体に不思議な現象を起こしてしまった。
ナギは身にまとっていた裾の長い着衣をスルリと脱ぎさると、足元の岩場に無造作にひっかけ水のなかに入っていった。
その姿はあまりにも幻想的なものであり、まるで御伽噺のなかに迷い込んでしまったかのようだった。
線のうすい体はなだらかなラインをえがき、折れそうにかぼそい首から肩、そして片腕で抱えられるくらいほっそりとした腰にいたるまで、理想的な造詣をつくりあげている。
白さをました肌は透けるようであり、水にぬれるとえもいわれぬほどに艶やかさを増していた。胸には少女のような膨らみがあり、小さなまろやかな双丘は、たしかに少女の乳房である。
ここに来る以前は、たしかに少年だった。例え性別がわかりかねるほど淡い印象しか持っていなかったとしても、それに間違いはない。
だがこの泉で水を浴びた直後に、ナギの性別はかわってしまった。
すでに男性の性器はわずかな膨らみほどしかなく、今では女性面のほう色濃く現れている。ぱっと見はほとんど少女そのままである。
もともとほっそりしていたためか、だれもがその変化に気づかぬほどだったが、ナギは両性を持つようになってしまっていたのだ。
はじめこそ自分の体に戸惑っていたが、ここへ来てからは、それすらもあまり関係がなく、どうでもよいことのように思われていた。
だれもがナギの性別など問いはしないし、ただ『ソメイの樹』であり、『天界樹』という生き物であり、ナギという存在を必要としている者などどこにもいないのだ。
湖面に広がる光のさざなみを受けながら、ナギはゆったりと水浴びをしていた。
照りかえる黄金の輝きが、まるでナギの背に見えない黄金の羽をうつしだしているかのように水面をゆらしている。
あまりに綺麗で、玲瓏としていて、この世のものとは思われなかった。少しでも穢れたものが触れれば、即座に死んでしまう繊細な幻獣ようである。
ナギは水とたわむれながらしばらく遊び、ようやく陸にあがったころには唇が少し青くなっていた。
ついつい長くつかりすぎて、いつも体を必要以上に冷やしてしまうのだ。少しでも体調でも崩したら、またヒサギに怒られてしまうというのに、なぜか泉に入ると忘れてしまう。
ヒサギという天使が、天上界へ来た当初からずっとかわらず、ナギの世話をしてくれていた。
口はあまりよくないし、云いにくいことや厳しいこともはっきり言うのだが、他の天界人たちのように遠巻きにながめてヒソヒソとうわさ話をしたり、もの珍しそうにジロジロみたりすることはない。彼の言葉には真実があり、そこにはいつも温もりを感じることができる。
口うるさく聞こえる言葉はナギのことを思ってくれているからであり、後になって困らないように配慮してくれているのがわかっていた。決して間違ってはいないことばかりだ。
そうだとわかっているので、ナギはヒサギにだけはどうしても逆らうことができなかった。またどこに隠れていようとも、なぜだかヒサギにだけは見つかってしまうのである。
初めのころは、あまりに何もかもが怖くて、不安で、慣れないことばかりに戸惑い、ナギは何かあるごとに逃げまくっていた。
華やかなパーティも嫌いだったし、気まぐれに誘われるお茶会や、大切な式典のようなものでさえ、怖くてたまらなかった。
どこかの物置の隅に隠れていたり、物陰にひそみ、時がたつのをじっと待っていたりしたのだが、あまりにナギがいなくなるので、ヒサギのほうもさすがにナギを探し出すコツを覚えたようである。いまや行動をよむエキスパートになっているのだ。
ナギは蜘蛛の糸のように細く柔らかな髪をブルブルふって水を切った。風が体を乾かすのさえ待たずに、ローブを身につけたため、残っていた水滴で布が少し湿っていくのだが、あまり気にしない。
甘い匂いがしてきた。
匂いにさそわれて近づくと、木の枝からツタのようにツルを伸ばし、先端に花をつけている植物が垂れていた。
大樹の枝に寄生する宿り木のようであり、めったに花をつけないとされる青霊草という花である。青霊草の花からとれる蜜は、天上界でさえ珍重されるというほど貴重なものであった。
ナギは誘われるようにその花に顔を近づけた。
花芯からトロリとした黄金色の蜜がわきだし、ナギの唇が近づくのを待って垂れて落ちてくる。
何ともいえない甘くて、それでいて爽やかな芳香が口のなかに広がっていった。蜜はみた目の濃厚さとはうらはらに、綿が溶けるように一瞬にしてきえてしまう。
それは百花の精髄と呼ばれるほどの、高次元のエネルギーをもつ蜜だった。
森の命が凝縮されたようなものであるのだが、もちろんナギはそんなことなど知りはしない。
まるで愛し子に与えられた母乳のように口をつけた。食の細いナギには最高の滋養であろう。
体中に熱がともり、目に見えない大切な部分へとエネルギーがほとばしっていった。
ソメイの腕に抱きしめられているかのような心地よさがあり、酩酊感が心をふるわせる。恋する乙女がつく甘い吐息のように、我しらずため息をもらしている。
生きているのが不思議なくらいに淡く今にも消えそうだったナギの姿が、いくぶん色を増していた。幻が実体を得たかというほどである。
「ナギ様?そろそろ出ておいでないさいませ。こちらにいらっしゃるのでしょう?ナギ様――」
ナギは宙を漂っていたかのような表情をひきもどした。ヒサギの声に、まどろんでいた夢から覚醒する。
「ああ、やっぱりこちらでしたか。捜しましたよナギ様」
ヒサギは泉につづく薮をぬけ出てくると、あっさりナギをみつけた。
いつもと変わらぬ難しい顔をしたまま、まったく手をやかして、といわんばかりに足早にやってくると、じっと見下ろしていた。
ナギのいつもの白い頬に赤みがさし、健康そうになっているのに気づいたのか、少しだけ目を大きくして凝視する。そっと頬に手をあて、うつむいた顔を上にむかせた。
「少しは顔色がよくなられましたね。森のエネルギーを吸収したのですか?」
あまりに食欲求が薄いため、いつもヒサギを心配させていたのだ。健康面をいつも気づかってくれている彼にはナギの変化が一目でわかったようだ。
いくぶん安堵したようにみえたが、物言いたげに目が細められていた。
「しかし水浴びをしたのにもかかわらず、また髪もろくに拭かず、半乾きのまま衣服を身につけたことは、感心いたしませんね。この前のように体調を狂わされたらどうするのですか。――まったく、何度も申し上げたはずでしょう、水を浴びたあとはちゃんと体を乾かすようにと」
静かな口調だが逆らうことを許さない厳しさがある。ヒサギの迫力にまけてナギは「ごめんなさい」、と小さく言ってうつむくしかない。
小さくなったナギを見下ろしながら、ヒサギはため息をつくと、自分の肩にとめられていた金の装飾具をはずし、ケープをするりとぬきとった。半分ぬれたままのナギの頭をぬぐいはじめる。触れれば鈴の音でもしそうな髪をけっこう手荒にあつかいながら、そうしてほとんど乾かせてしまう。
「さあ参りましょう。ソメイ様がお待ちですよ」
「ソメイ様が?」
ナギがパッと顔をあげた。
ヒサギはあまりの変わりようがおかしかったのか、笑いを殺したように、まだいくぶん厳しそうな顔をして、うなずいてみせる。
そのまま手をとると、歩きだした。ナギはだまってヒサギについて歩きだした。
彼の手から、優しさがくすぐったいような温かみをおびてナギに流れ込んできた。
この世界で、ソメイ以外の温もりをくれるのはヒサギだけのだ。
少し恥ずかしくてすこし嬉しいような気がしながら、サクサクと草をわけて歩く二人の足音だけが森の中に響いているのを、ナギはしずかに聞いていたのだった。
部屋のなかにいたのは、数人の天界人と、なにやら指示をだしながら忙しそうにしているソメイだけだった。
ノックの応えをきいてから、部屋に入っていくと、一斉に天使たちがこちらに視線をよせた。ナギはすくむように小さく身を縮めて、ヒサギの影にかくれるようによりそってしまう。
ソメイはそんなナギの様子をみると、書類のたぐいを扱うのをやめ、部下とおぼしき者たちに下がるように指示をした。
丁重に頭をさげると、すぐに天使たちはいなくなってしまった。
ヒサギとナギだけになると、ソメイはナギを手前に呼びよせた。優しくみつめながら、天界を数日間だけ離れるのだと告げたのだった。
「エデンへ、ですか?」
ナギはそっとうかがうようにソメイを見つめた。
「明日から四日ほどのあいだ、エデンに視察へ行くことが決まったんだ。エデンを任せていたシュラがいなくなったからね、少しばかりあちらの星の巡りが滞っているらしい。それに、どうやら第九十星団にある運河で、新しい星が生まれるようでもあるからね、ついでにどのような具合かもみてこようと思っているんだよ」
骨の髄まで染みいるような声音だった。一瞬ぼうっとしてしまう。
ナギはだが、すぐにソメイが留守にする不安に顔をくもらせた。
「大丈夫、それほど手間はかからないだろうから心配することはないし、すぐに帰ってくるよ」
ソメイは言いながら、机の向こうからナギのそばまで歩いてくると、安心させるように肩に手をおいた。
陶器のようなつるりとした頬をなでる。
「いつものように、後のことは全部ヒサギに任せてある」
ヒサギに視線をやるのに、彼はナギを安心させるように微笑みながらうなずいた。
「ナギ様のことならお任せくださいませ、ソメイ様」
こうしてソメイが天界を空けることは、これが初めてではなかった。
どうしても彼の手によらなければ解決しない問題などがでてきた時には、宇宙の彼方とおもわれる場所であっても、ソメイはおもむいてゆく。そんな時はもちろんナギは一緒には行けないので、帰ってくるのを大人しく待っているしかない。
「シュラ……様のあとは、だれがエデンに?」
ナギはふと、幽界の地で、穢那の炎で浄化され、いまだガイアのもとで再生中のシュラのことを思いだしていた。
「――ああ、そうだな、ナギは知らなかったのだな。エデンのことは、第四天使のウェべラに任せていたのだよ。彼も星ひとつ任せられるのは初めてのことだろうし、今回は少し気負いすぎたようだ。まあすべては慣れだから、多少のことは仕方がないだろうね」
シュラは傲慢なようでも、ソメイの――神の弟であった。その力に不足はないし、計り知れないものもあったことは確かであろう。その彼が不在となったいま、エデンの星域に、少しばかり不具合が生じたのだ。
星の運行も、巡りも、まだ管理が必要な場所はまだまだ多く残されているのである。
「それに『禍蝕』の時期もそろそろだろうからな。少し急がねばならないだろうし」
「禍蝕?」
ナギは聞きなれない言葉に眉をひそめてつぶやいたが、めまぐるしく思考をまわっているらしいソメイには、その声は聞こえていないようだった。
「今日はもう塔には戻らないから、ナギは心配せずにいつもどおりに過ごしておいで。緊急の要請だったので、色々と段取りが狂ってしまってね。明日はそのまま出立するので――少しナギの顔を見ておこうかと思って来てもらったのだよ」
「ソメイ様……」
ソメイはナギをそっと抱きあげると、なめらかな髪に顔をよせた。
「泉にまた入ったねナギ。それに花の蜜の匂いがしている。――ああ、どうやら青霊草から蜜をもらったようだな」
頬の赤味を、指ですくうように撫でられると、ナギはくすぐったそうに首をすくめた。ソメイににはなんでもお見通しである。
「元気そうになってよかった。出かけるまえに少し安心したよ。――森は、いつでお前を守ってくれる。わたしより、よほどおまえのことに詳しいのかもしれないね」
いっそ甘いといえるほどの笑みを唇にのせるのに、ナギは見惚れたように赤らんでソメイをみつめる。耳元に顔をよせられると、一層つよく顔に赤さがました。
「ナギ、だがあまり森の奥に行ってはいけないよ。森はひとつの小宇宙だからね。なにが紛れ込んでいるかわからない。泉の水も、清めてはくれるが、過ぎれば体に負担がくる」
「……はい、ソメイ様」
ソメイはまるで、世の理の何もかもを知っているかのようだった。ただナギを愛しげにみつめ、ナギはその目に浮かぶ広大な宇宙につつまれ、甘い闇に酔ったようにソメイの肩にそっと顔をうずめる。
このまま時間が止まればいいのにといつも思ってしまう。
だが時はただしずかに流れ、無情であるかのように、いつも必ず変化をもたらす。
ナギはそれもまた、知っていたのだった。
ソメイたちはエデンへと旅立っていった。
ほんのわずかな間だというのに、ソメイのいなくなった天上界はひどく寂しくて、まるで色を失った絵画のようにそっけなく、主人公を失った物語のごとくつまらない場所に感じられていた。
それほどソメイから発せられるエネルギーが巨大であり、見えない守りにつつまれていたのだと、いなくなった時にはじめてわかるのである。
ナギは塔にいてもどこか落着かなくて、毎日のように森の中にいた。
森の許しがない者は決してこの聖域に足を踏み入れることは出来ないし、また森の自らの意志によるものなのか、バリアーのような皮膜で覆われており、悪しきもならばを針の穴より小さいものだとしても排除していた。
ただ森の奥へ入ってはダメだというあの約束だけは、ナギは守っていた。彼との約束は絶対だ。
小さくため息をついた。
「どうしてソメイ様がいないだけで、こんなに落着かないのかなぁ。なんだかあの頃にもどったみたいな気がしてくる……」
今ではめったに思い出すことがなくなったのに、寂しい記憶がなぜか時々、不意をつくように思い浮かんでくるのだ。
父が死に、母が自分をひどく疎みだした子供のころ。どこにも居場所がなくて、だれからも存在自体を憎まれていた。
なぜ生きているのかと、蔑まれている感情が痛いほど伝わってきて、自分自身ですら消滅してしまいたいとずっと思っていた。ひどく惨めで哀しくて、でも誰にも言うこともできず、ただ怯えていた。
のちに、母と再婚した義父による暴力もとても怖かったし、母の冷たい無関心と無視もまた心に突き刺さるようだった。
家には安らげる場はどこにもなく、居場所がなかった。
結局、ナギにとっては、ここもソメイがいなければ同じなのである。どこだって本心からは落ち着けはしないのだ。
自分が自分でいることが、すでに罪のような気がして、ひどくちっぽけな、なんの価値もない瑣末な存在であるような不安がずっと消えない。
「シン――?」
ふとナギはシンが自分を呼んだような気がして、うつむいていた顔をあげた。
森の中に、かすかにシンの存在を感じていた。
感覚を研ぎ澄ませるように目をとじると、気を集中してゆく。シンの気配を追い、意識を拡散させてゆく。
森いっぱいに意識がひろがっていった。自分という枠がとりはらわれ、解放されてゆくのがわかる。
何もかもと同化して、心をできるだけ透明にしてゆく。
ある境をこえると、存在するあらゆるものが、すべてソメイの愛から出来上がっているのだということに気づく。
すべてのものはソメイからはじまり、ソメイを映しだして、この世界はできあがっておあり、ソメイの片鱗があちこちに光り輝いている。
――なんて、キレイ……。
『だがナギ、世界はすでにわたしの手を離れ、自分自身で歩みはじめているのだ。たしかに始まりはわたしであったかもしれないが、もはやわたしではない。ゆえに、どんなことにも干渉もしてはならないし、手を加えてはいけないのだよ。それは世界の均衡を崩してしまうことになるのだからね』
いつだったか、ソメイがナギに語ってくれた。
二人で世界を見ていたときだった。
ナギをそっと抱きかかえ、四界にうつる夜明けの陽光をあびながら、まるで自分に云いきかすかのようにソメイはひっそりと言葉をつむいでいた。
『私は天上界以外の世界には、けっして触れてはいけないのだ。天上界とて、わずかなものだけに限られている。何にも手を貸してはいけないし、力を使ってはいけない。――ただ見ているだけ。……人がどう世界を造り、世界を変えてゆくかを、ここから眺めているしかないのだよ』
そのときの、あまりに寂しげなソメイの顔をナギは忘れることができなかった。
世界を創るほどの力をもちながら、どうすることもできないのだとひっそりとつぶやいたその胸のうちを、推し量ることなど、誰にもできない。あまりに広すぎる。
人間たちがどれほど愚かな行為に夢中になろうとも、破滅への道を選択してしまおうとも、ソメイは見ているだけしかないのだった。
散ってゆく命を、ただ黙って眺めているしかない。
だからこそ、最愛の者であったミササギが殺される、その時ですら止めることができなかったのである。どれだけミササギを慈しんでいたかしれないというのに、神は恋人の死すら変えることができなかったのだ。
力があることがどんな苦痛をうむのかわからない。それでも、ほんのわずかでしかないが、垣間見た気がしてナギは胸がつぶれそうに痛んだ。きっとソメイのなかにある本当の孤独を癒すことなど、誰にもできないのかもしれない。
「ぼくは、ソメイ様に幸せになってもらいたいな……」
彼の心からの笑顔をみたとき、ナギもまた本当に幸せになれる気がする。
そうでないのなら、ソメイの中の孤独をわけてほしいと思った。
どんなにわずかでもいい、ほんの少しでもいいのだ、その胸の中にたまっている寂しさを共有したい。彼の心が、ナギの流す涙のぶんだけでも軽くなってくれれば、命だって惜しくはないだろう。
今のこの命があるのですら、ソメイのおかげなのだから。
そして、シンにもまた、幸せになってほしいと心から願っていた。
遠く水鏡にみるシンの笑い顔を、ナギはまだ一度もみたことがない。
ナギと別れてからの彼は、いつも秀麗な口元を強くひきしめ、相手を見透かすような瞳には、冷淡な影がうかび、周囲のことなどまったく興味がないとばかりに不機嫌にひそめられていた。
身長はずいぶん高くなっているようで、いまではかなりしっかりした体格へと成長していた。着実に大人の男へと近づいていっている。
いまだに子供のように小さなままのナギとは比べ物にならなかった。
昔は双子のように一緒に毛布にくるまり、額をくっつけあっては、いつも同じ映像を見、同じ思いを共感していたというのに。まるで半身のように思っていたのに。
自分だけが、まるで時においてゆかれたように感じられていた。
時折、シンの唇が、『ナギ』、と切なく呼んでいるように動くことがあった。声にも出さずに、そっとその名前だけをおうのだ。
そんな時は胸が痛んでたまらなくなった。心が二つにはりさけそうで、声をあげて泣きだしたくなってしまう。
それでもナギはソメイのもとを離れられない自分をわかっていた。その思いの浅ましさが憎いほどではあったが、きっとソメイから離れてしまったら、心も魂もバラバラになってしまい、たった一粒になっても、またここへ戻ってしまうだろう。
ソメイの守り深いこの森で、シンを感じることができるのは、シンとソメイがもともと一つの魂だったからではないだろうかとナギは思っていた。
ソメイの魂の一部に、シンが必ず混じっているに違いない。
ナギはふと自分の思考におちいりすぎ、普段、足を踏み入れることがないような森の奥にまでやってきていたことに気がついた。
背の高い木立が林立しており、あまりに鬱蒼として、空気そのものまで暗く冷やしているかのようである。
何かの結界をこえたのを感じた。
心臓が早鐘をうちはじめ、背筋がゾクリとして総毛だつ。
慌てて踵を返そうとしたナギは、ふと背後になにかの気配を感じ、ふりむいてしまった。
一本の樹が目に飛び込んできた。
それは樹というには、あまりにも大きすぎて、ナギの身長の何倍もあるかのような太い幹がドッカリと目の前によこたわり、一瞬壁かとおもってしまうほどであった。
威風堂々としており、威圧されるような素晴らしい大木ではあるが、巨大すぎて恐ろしくも感じられる。
頂上は根元から仰ぎ見ることは出来なかった。もしかしたら宇宙をもつらぬいているのかもしれないと思わせた。
ナギはなぜかフラフラとその樹のそばに歩み寄ってしまった。だれかに呼ばれているかのような夢遊病者のような足取りだった。
ものすごいエネルギーが沸き立たっていた。エネルギーの渦に巻き込まれ溺れてしまいそうだ。
どうして今までこの樹に気づかなかったのだろう。
これだけ素晴らしい波動をもっていれば、この森に入った途端、感じずにはいられないはずなのに。
「すごい……っ!」
全身が痺れ、吸い込まれてしまいそうな無限の広がりを感じていた。己の小ささが、いっそ心地よいほどの圧倒感である。
ふとみると顔のあたりの高さには、大きなウロがあった。ナギぐらいの体格であれば、人ひとりは十分入れるほどものだ。
どこかへの入り口のように、ポッカリ口をあけているのに違和感をおぼえたが、ナギは惹かれたかのようにフラフラと歩み寄っていった。
呼んでいたのは、もしかしてコレではないのだろうか。
懐かしいのに怖くて、怖いのに近寄らずにはいられない。何ともいい知れぬ感情が身体を駆けめぐってゆく。
――……はな……よ……
生ぬるい風がふきあげナギの髪をなぶった。
――……な…よめ………花……よ…め……
「えっ?」
ナギは耳をかすめるおぞましい声に身震いをついた。全身に鳥肌がたっていた。
ウロが揺れたようにブレて見えはじめ、だんだん収縮しながら、いびつに歪んでゆく。
足の力がぬけていった。
ここにいるべきではない、早く遠くへ離れなくては――。
ナギは必死で自分を叱咤し、懸命に重い足をうごかそうとしていた。
その場の異様な空気につかまってはいけないという、本能的なおそれだけがナギをどうにか動かし、早くその場から去れと、それにつかまってはいけないと警告する声が耳鳴りのようにしている。
息が切れるのもかまわず夢中で走っていた。粘つくような大気がナギを絡めとろうと邪魔をしている。
やっと陽光の差している森の出口にまでたどりついたときには、息がつけないほどに呼吸を乱しその場に倒れこんでいた。空気が軽くなっているのがわかる。
――ああ、太陽が明るい……。ナギは今までいた場所の違和感をさらに強く感じていた。
恐怖心はまだ抑えることができなかったが、いつもの日常がひろがる世界の優しさにつつまれて、やっとわずかに緊張をといた。
のろのろと立ちあがりながら、一体なんだったのだろうかと不安に思い、うかがうように背後をのぞきみながら、己をかきいだく。
ノロノロと噴水の流れる庭までくると、大理石のふちに腰をおろした。
混じりけのない青い水が流れてゆく音をききながら、いまだ乱れている拍動をゆっくりと整えていく。
戻れてよかったとナギは息を大きく吐き出した。
「あの、ナギ様……大丈夫ですか?」
「えっ?」
ナギが顔をあげると、無数の影が自分のうえに伸びてきていた。
心配そうに並んでいる顔のどれもが、おずおずとしており、遠慮そうな、うかがうような表情をしている。
かつて天界人や天使たちが『樹』として連れてきた者たちであった。
背に生える羽根は、いまだ眩しいほどの純白さで輝き、エネルギーをたたえてキラキラとしている。それだけも十分芸術品としての趣きがあるかのようで、人としてはもはやあまりに澄みすぎている。
もうその羽根を食べられることもなくなった『樹』である彼らは、この天上界でしずかに暮らしていたのである。
かつては命を削り、天上界の人々を養ってきたその双眸は、何もかもを見透かしたような、諦めることに慣れた穏やかさがあり、どれもよく似通ってみえた。
「ど、どうしたんですか皆さん?」
ナギはなぜこんなに集まっているのかと、ビックリした表情で目を何度かしばたいた。だがすぐにえもいわれぬような笑みでくるんだ。
たったそれだけなのに周りの空気がやわらぎ、清められエネルギーの結晶が、彼らの羽にうきあがっていった。ナギ本人だけが気づかないでいるが、凄まじい力である。
「ナギ様、大丈夫ですか?なんだかさっきナギ様の悲鳴が聞こえたような気がしたので、みんなで心配して、やってきたんです」
「なにかあったんじゃないかってビックリして――」
ナギはあっと小さく声を漏らした。
さっき森の中であげた心のなかの悲鳴だ。
感受性の強い彼らはそれを聞きつけて、心配してやってきてくれたのである。
「ご、ごめんなさい、つい――」
そんなに大きな声をだしたつもりはなかったのに。
「ぼくの声で、みんなを驚かせてしまったみたいだね」
ひとりの少女が淡く笑った。
肩まである髪がゆるやかにウエーブしていて、柔和な雰囲気をもっている。
「どうしたのかと心配だったんです。みんなナギ様の出されるエナジーが大好きだから。――ナギ様が嬉しい気持ちでいてくださると、天上界の空気がすごく優しいし、寂しくなると、今度は私たちまで寂しい気持ちになってくるんですよ」
ナギはキョトンとして彼女をみていた。
「ナギ様のエナジーは、私たち『樹』にはなくてはらない大切なものなんです。穏やかになったこの天上界にあってさえ、これ以上なくまろやかで、甘露のごとく私たちの傷をいやしてくれるんですもの」
小さな少年の顔をしているのに、ひどく老齢な風情をもつ男がその先をつづけた。
「ナギ様のそのエナジーは、いまだいえぬ傷をもつ我々を癒してくださいます。それに、本当に苦しい時に、ナギ様に助けていただいた恩は忘れてはいません。ナギ様になにかあれば、私たちは全てを投げ出してでもお助けしたいと思っているんですよ」
ナギが助けを求めるのであれば、いつだって来ます。そう彼らははっきり言った。
連れてこられた天使たちのもとで、『樹』たちは、かつてのような痛みも苦しみもなく暮らしていた。だがもとは地上人である彼らには、この地はどうしてみても、異国にかわりはなく馴染みがたい。
だからこそ『樹』同士がよりそい、傷ついた魂をもつ者同士が心を分けあって暮らしているのである。
「ぼくは……ぼくは何もしていない、です。天界樹っていっても、もう羽根も持ってないし、あなたたちに与えてあげられるものは、何も持ってないし……」
ナギは不安そうに自分をみている彼らに笑いかけた。
「でも、助けにきてくれてありがとう。どうか、ぼくのためなんかに命を削らないでくださいね。あなたたちは今まで十分苦しみ、傷ついてきたのだから」
話すナギのまわりには、いつの間にか虹色の光の粒が浮遊していた。
純化され、さらに濃度を高めたエネルギーが、言葉のエネルギーに活性化されて、さらに高められたのだ。
自分のために人が傷つかないでほしいとナギは心から願っている。人が苦しむのをみる時ほど、自分の胸が痛んでしまう。
そんな相手を思いやる心こそが、最高の癒しになるとは知らずに、ナギは自分のなかの慈愛を惜しげもせずに与えているのである。
樹たちはホウッと誰もがうっとりしため息をついていた。なかなか癒えずにいた老齢な羽根さえ再生され初めている。
ナギはいつも、自分には何も力がないと思い、慕われるのがわからずに戸惑っていた。わからずに与えているそんな威圧感のまったくないエネルギーこそ、『樹』たちをなにより慰め活力を与えていた。
他者を傷つけず、ひっそりした『樹』たちであるからこそ、ナギはこんなにたくさんの者に囲まれても、落着いていられた。本当は少し怖いくらいである。
きっと根底にあるが同じ魂だからだろう。天使たちだったらとっくにパニックになっているはずである。
ナギは『天界樹』としてはひどくもろくて、あまりにもバランスが悪いように見えた。己のなかの力の大きさに振りまわされ、それをどう扱っていいかわからず、ひどくもたついていた。
そのギャップが、ナギをいっそうはかなく、また幼く見せている。あまりにたくさんの刺激を与えると死んでしまう小鳥のようである。
「ナギ様ありがとうございます。生き返るようです」
年配の女性がナギの手をそっとにぎった。彼女の青ざめていた顔がふっくらと丸みを帯び、色つやがよくなっている。
その隣にいた少女もまたナギの手をにぎり、嬉しそうに笑みをむけてお礼を言う。その横の者が同じようにすると、その次の者もまた――と、そうしているうちに、オロオロするナギにかまわず、『樹』たちがどんどんそばに寄りだし、ナギの手をにぎり、足元に手をつき、すりよってきはじめた。
「あ、あの……やめっ、あぁ……」
ナギはどうしていいのかわからず困ったように彼らのなすがままになっていた。何でお礼を言われているのかわからないし、どう答えればいいのかもわからない。
ただ彼らにしてみれば、ナギに触っていられるというのは、これ以上ない至福であり、心地よいことこの上ないことであった。まさにエネルギーの源に抱かれているかのようなのである。
人との接触になれないナギは、だんだん気分が悪くなりはじめていた。フラリと体がゆれた。
「ナギ様、大丈夫ですか?」
他の『樹』からかばうようにナギを抱きしめたものがいた。
まわりの『樹』たちが止まった。
「おまえたちなにをしているんだ!はやくナギ様から離れなさいっ!」
空気がビリビリと震えるような怒号があがった。
気の弱い樹たちは、それだけでたちまちに怯え、消えてしまいそうに小さくなった。
ヒサギだった。怖い顔をして彼らを振り払うかのようにしてナギのそばまでやってくる。
先にナギをかばうようにして守っていた少年は、ヒサギの『樹』であるハルヒであった。
「ナギ様はお前たちのようなものがみだりに触れてはならうお方だ。こんなに怯えさせてどうする――っ!さっさと離れてさがりなさい!」
大きな声でこそないが、威嚇するような強さに、『樹』たちは波がひくように逃げてゆく。あっという間に消えていった。
ほっと息をついたナギは、それでも彼らに「ありがとう」と唇を動かしていた。たったひとことで空気がなごみ、『樹』たちにナギの許しが言霊として伝えられている。
「ナギ様っ!まったく目をはなしたすきに、あなたときたら何をしているんですか!」
相変わらず問題をおこすのに、苛立たしげな声があげられる。
ナギはそろりとうかがいながら、ヒサギへ視線だけをもたげた。
腰に手をまわして睨みつけていた彼は、ハルヒがナギから離れるのにあわせて、ふわりと抱きあげた。
「えっ、あ、あの……?」
「よく立場をわきまえてください。あなたはソメイ様の大切な『樹』なのですよ。『天界樹』がそのように無防備でいてはいけません。乞われるままにエネルギーを与えてどうするんですか。―――あなただって無尽蔵にエネルギーがあるわけではないんですからね」
あきれたように息を大きくついてみせた。
「まったく、そんな疲れた顔でソメイ様に合わせるわけにはいきません。でなければ、私が監督不行き届きで、ソメイ様に叱られます」
「あっ!」
ナギはその言葉にソメイの帰還を知った。顔が明るくかがやく。
「ソメイ様がお帰りになられたの?」
「だからそんな顔では会わせられないといっているでしょう。おとなしそうな顔をしているのに、よくもまあこう、毎回手間ばかりかけさせるものですよね」
お小言をいいながら、軽々と運んでいるヒサギの腕のなかで、反省したような顔をしながらも、ナギは、それでもソメイの帰還の報告に、嬉しさを隠せずにいられないでいる。
ソメイがいるというだけで、いろんな不安が何もかも消えてゆくようであった。まるで明るい太陽が昇り、暗く不安だった夜の闇を追い払ってくれるみたいだ。
後ろをついてきていたハルヒと、ヒサギの肩ごしに目があった。おかしそうに笑われてナギは赤くなる。
「ナギ様が疲れた顔をしているのはソメイ様がいなかったからですよ。お会いすればすぐ元気が戻られます。あまり意地悪をしては可哀想ですよ、ヒサギ様」
「気づくといつもいつも問題を起こしているのだから、私は気が休まる時がないよ。パーティがあれば消えてしまうし、人が会いにくれば逃げる。食事はとりたがらないし、華やかな格好はいやがり、何か起こるとすぐ怖がる。探しても出てこないくせに、気がつけばあちこちで事件に巻き込まれている」
「でもこうやってお傍に居るだけで、すごく優しいエナジーが体中に巡ってくるのがわかりますよ。ヒサギ様も感じておられるのでしょう?」
ヒサギはジロリとハルヒをみたが、彼は気づかぬ顔でいう。
「さっきナギ様をとっさにかばって触れた時なんて、エネルギーが溢れすぎて目が回るようでした。それがソメイ様の名前をきいた途端、倍以上に大きくなりましたからね。ナギ様にはこれ以上ない元気の源ですよ」
ハルヒにウインクされてナギは赤くなった。
まるで自分のソメイへの思慕の情を読まれているようであり、恥ずかしくて、思わずヒサギの腕の中でうつむき丸くなる。
「まったく、ハルヒはナギ様に甘すぎだ。まあ同じ『樹』なのだからナギ様贔屓はしかたないだろうけどね」
「こんなに会いたがっているのだから、どうしても味方してしまいますよ。お二人で居る時の世界は、とてもなごやかで、あの風が僕は大好きですからね」
みんな好きなはずだと笑うハルヒに、ヒサギは何度目かのため息をついた。
「だいぶ良い顔色になられた。これならソメイ様にお会いしても大丈夫でしょう。――さあこちらですよ」
ヒサギはそうっと壊れ物のようにナギをおろした。フワリと音もたてずにナギは立ちあがると、ヒサギについて歩いていった。
ハルヒはそこから先には一緒にはこなかった。彼にはそれ以上の出入りは許されていないのである。小さく手をふって、まるで頑張ってね、と言っているように笑う。
大きな部屋のまえにたった。扉がひらかれた。
ナギの視線のまっすぐ先に、ソメイがいた。
天井まである高い窓を背にしたソメイが、陽光のなかで凛然と立ち、まるで後光を背負っているかのようだった。ナギの顔をみつけると柔らかくほほえむ。
ナギは自分でも知らないうちに走りだしていた。
「ソメイ様っ」
ソメイはそれがまるで当たり前だというようにナギを抱きあげた。
わずかな衝撃にさえ傷ついてしまうかのように大切そうに腕をまわすのに、そのあまりの優しい仕草に周りにいた者たちさえ驚いている。
そして、それ以上に彼らの目を奪ったのは、ナギの笑顔だった。
まるでこの世界にソメイだけしかいないような、まったくの無垢であり、まったくの無心であった。心の底から灯がともるような眩しさがある。
瞬間、部屋が光の海にしずんだかのような錯覚がおきた。膨れ上がるようなエネルギーだった。
硬直したようにその光景に魅入ってしまっている。まるで夢をみているかのような二人の姿に、綺麗なものを見慣れている天界人さえ魂を奪われてしまっている。
ナギはソメイの腕の中でソメイの匂いをかぎ、やっとほっと息をついた。
うやく自分のしでかしたことに気づくと、いきなり青ざめた。他の者たちがいるなかで、ソメイに抱きついてしまったのである。
「あ、あの――ご、ごめんなさいっ!……お仕事中だったのに、ぼく……」
その何ともいえぬ愛らしい表情に、人々は呪縛が解けたように我をとりもどした。
それを見ていたソメイだけがフッと口元をゆるめた。
「いや、もう終わっているから大丈夫だよ。だからヒサギにナギを呼んできてもらったのだ」
そういわれて、少しだけホッとしたが、すぐにソメイの腕に抱かれていることに居心地の悪さを感じ小さくなる。
皆がみているのだ。しかもすごくもの珍しそうに。
実際のところは、みなその様子に目がはなせなくなっていたのだが、ナギには、礼儀をわきまえない子供だと責められているような気がして、やるせなくなっていた。うつむくナギにソメイは背をやさしくなでて、そっと降ろしてくれた。
「今日はここまででいい。皆あとはあっくり休んでくれ」
「――はいソメイ様」
「それではまた後日に」
次々に簡易に挨拶をすると、ソメイの補佐をしていた天使たちすべてが出て行ってしまった。
「ヒサギもナギのお守りをご苦労様だったな。色々と手間をかけているようだし、気苦労をかけるな」
クスリと笑うソメイに、ヒサギは
「いいえ、大丈夫です。あらかたナギ様の行動パターンはわかっておりますので。――ですが時々は、予想範囲外のことをなさいますからね、ビックリはいたしますよ」
表情も崩さずサラリと嫌味を言うのに、ナギはさらに小さくなった。それを見てソメイがノドを震わせて笑っているのには気づいていない。
「ヒサギ、お前ももういいよ。ありがとう」
「はい、では失礼いたします」
ヒサギは丁重に頭をさげると、そのまま部屋を出ていった。
「……ソメイ様、ごめんなさい」
「なにをあやまるのだナギ?」
「だってみんなの前で……」
つい抱きついてしまった。
嬉しかった。ソメイをみた瞬間、彼しかみえなくなってしまった。ソメイで心が一杯になってしまったのだ。
時々、自分でも驚くようなことをしてしまうことがある。その衝動がどこからくるものなのかはわからないが、でもどうあっても止められないで行動し、あとでひどく恥ずかしい思いをする。
「誰もそんなことを気にしていないよ。――それよりナギ、こっちにおいで」
ナギはソメイに手をひかれ、隣の部屋にはいっていった。
そこはソメイの執務をしている広い部屋とちがっており、ソファーとテーブルだけが置いてある簡易な休憩室のようだった。
よくみると、テーブルの上に小さい箱が置いてある。
ソメイはそれを手にとり、ナギの目のまえで蓋をあけてくれた。
箱に閉じ込められることよって封されていたことに怒っていたかのごとく、開いたとたんに青い光が部屋中のパアッとひろがった。
目に痛いような輝きの先には、青い石があった。
光沢のある黒いビロードの布のうえに置かれたそれは、燦々と高貴な輝きをはなち、青い炎をあげているかのようだった。
「これは、なんですか?」
まぶしげに目を細めながらも、ナギはそれから視線を離せないでいた。
あまりにも綺麗で、力強い神秘的な力を秘めている。
ソメイが目の前に差しだすのに、おそるおそる、それでもなにか誘われるようなワクワクした気持ちで、ナギはそれをつまみあげた。
リーン、という深淵の彼方から響くような涼やかな音が聞こえた。
ナギは魂ごと持ちあげられ、心地のよい世界をさまよっているような感覚にとらわれてしまった。
多分、一度聞いたなら忘れられない音色であろう。
「宇宙の果てで起きた、ひとつの宇宙の始まりの音だよ。超新星爆発のカケラだ。これから何千年、何億年かけて、また一つの物語がはじまる、その最初の破片だよ、ナギ」
「始まりの、カケラ――?」
ナギはまぶしそうに青い石をみつめた。この中に全ての始まりのエネルギーが詰まっているのだ。
それがどんなに貴重であり、大切なものなのかわからないほどだ。
ソメイはその瞬間に立会い、そのカケラをナギに持って帰ってくれたのだ。
カケラはしばらくすると、光を淡くひそめ、青く艶やかな玉石にもどっていた。ソメイは爆発した瞬間のエネルギーをほんの少しだけ封じ込めて、ナギに届けてくれたのである。
「かしてごらん、ナギ」
ナギの手から石をうけとると、それを細いクサリの飾りにはめ込んだ。そのままナギの左の腕にまきつけてくれた。華奢なナギの腕には少し大きいかもしれないが、非常に美しいブレスレットになっている。
「ソメイ様……」
ナギはブレスレットをみつめ、それからソメイを見あげて嬉しそうに笑った。宝玉にも負けぬほど美しい、目に染みるような笑みだった。
ナギはそれを耳にあて、宇宙の音を聞いていた。
しずかに響くさざなみのような音律は、ソメイにどこか似ている気がした。
うっとりと聞き入るナギを見るソメイの瞳はこれ以上ないほどに優しくて、二人のあいだに、静かな宇宙の響きだけがいつまでも漂っていた。
その話を耳にしたのは、本当に偶然のことだった。
ヒイラギの茂みの下にくぼみがあり、ちょうどナギがもぐれるくらいの空間がポッコリあいていた。
トゲトゲした葉にもかまわずナギはその中に体をすべりこませると、不思議なくらいぴったりとおさまってしまい、なおかつ葉はナギの身体をわずかも傷つけることはなく、心地よく葉をからだに沿わせてくれた。
その場所に呼ばれているような気がしてついもぐりこんでしまったのだが、ちょうど眠気を覚えていたこともあって、守られるようにして丸々ちぢこまると、すぐにやすらかな寝息をたててしまっていた。
「……ソメイ様……」
「…………ああ、だが……」
ソメイの名を聞いたような気がして、ふと目をさました。
ちょうどナギが眠っている木の前に、天使が二人で立っていた。
足先とローブのすそだけが見えているのだが、どうやらナギには気づいていないようすだ。休憩の時間なのかいつものピリピリした感じはなく、くつろいだ様子で、世間話でもしているかのような口調が耳にはいってくる。
「それで、ソメイ様の次の『禍蝕』は近いのか?」
「ああ、多分な。もうそろそろ三万年がくるはずだろう。以前に眠られたときも、ちょうど三万年くらい前だったし、その周期で来るんじゃないか、ってな。上のほうの連中もかなりピリピリしていたよ。禍蝕で隠れてしまわれる間だけは、厳重な注意が必要だといって、かなり慎重に準備を進めているらしいぞ」
「――禍蝕?」
ナギは首をかしげ声にださずにつぶやいた。
嫌な響きのする言葉だった。我しらずブルリと震える。
たしかソメイも、視察に出かける時にそんなことを言っていた気がする。しかし、『隠れる』とはどういうことなのだろうか。
「まあソメイ様にかぎっては、心配など無用の事だろうけどな。あの方は何ものも必要とされない完璧な存在だ」
「その通りだ。ただ眠られるだけだろうし、なら天界樹もいらないんじゃないか?だったら、我々に少しくらい味見させてくださればいいのにな」
からかうように言う。
「おい、めったなことを言うなよ。ヒサギ様の耳にでもはいれば、厳しいお叱りをうけるぞ」
「なあに、誰も聞いていやしないさ。あの綺麗な髪を一本でもくだされば、寿命が百年は延びるっていうのになぁ。純粋なエネルギーの結晶体――ナギ様自体が宝石のようなものだ」
「だから俺たちの手には入らないのさ」
天使たちは自嘲するかのように低く笑うと、そのまま歩いて行ってしまった。
彼らの足音が完全になくなってから、やっとナギは息をついた。これ以上ないほど息をひそめて小さくなっていた。
自分の話になった時には心臓が止まるかと思ってしまった。誰かの話にのぼるのがとても怖くてたまらない。
彼らの話を聞いていてなんとなくわかった。
集まりに呼ばれたときにみつめる貴族たちの視線や、天使たちの色とも欲ともつかない、ぞっとする粘つく気配の意味が理解できる。この体の中に秘められているエネルギーを見ているからなのだ。
ナギだけが自分のことをわかっていないのだった。この体に含まれているエネルギーを、みながどれほど羨望していかは計り知れない。少し考えただけで、寒気がしてくる。
ナギはそっと木の下からぬけ出した。
「……禍蝕って何なのかな?ソメイ様が隠れるって……眠ってしまうって、どういうことなんだろう。どこかに行ってしまわれるのかな?」
声にだして『禍蝕』、と言うと、よけいに得もしれぬ不安が波立ってしまい、体が冷えていくようである。ソメイからは何も聞いていないこともあり、よけいに不安が増してゆく。
ソメイは眠らない。
いや、ナギはソメイが眠ったところをみたことがなかった。
いつベッドの中で目を醒ましても、ソメイはからわらに肘をつき、じっとナギをみていた。
穏やかな目で、これ以上ないほどに愛しげにナギをみつめ、触れるか触れないかほどの手でナギの背をなでてくれていた。
二人きりの静かな薄闇のなかで、宇宙に瞬く星のような瞳があまりに美しく、ナギはいつも胸がいっぱいになってしまう。
まるでナギのなかの夢を一緒に共有しているかのような透徹な表情は、彼のなかにある愛情と優しさが、どれほど深く、また果てしないかを垣間見るようである。
ナギはそんなソメイをみると、たまらぬ愛情が湧きだして全身が支配されていくような感じがした。きっとソメイへの愛を抜きとったら、自分のなかには何も残らない。
夜の闇はソメイを一人にする。夜は孤独の時間なのだとナギは思っていた。
ソメイの腕で一緒に眠りながら、ソメイだけを置き忘れていってしまうことが、ひどくつらかった。いっそ自分も眠らなくてもよくなればいいのに、彼の孤独の一部でも共有できたらいのにと、いつも強く願ってしまう。
一度だけ、聞いたことがあった。
ソメイ様は眠らないのですか、と。
『――わたしには眠りは必要ないのだよ。世界は眠らないからね。わたしが眠りを必要としていないのではなくて、眠りがわたしを必要としていないのだよ』
そのときの表情が目に焼きついてはなれない。
「あの方に安らぎをあげたい。眠りをあげたい――あの、ひどく寂しい魂を、癒してさしあげたい」
どうしてあげればソメイが安らぐのかがわからない。どうすればそれが可能になるのかもわからない。
だが、さっきの天使たちの話によると、そのソメイが眠るという。
一体なにが起こるというのだろうか。
ナギは嫌な感触がどうしても胸からはなれず、いてもたってもいられなくなってしまった。
ソメイの顔がみたくてたまらない。
ソメイに何でもないよと言ってほしい。禍蝕など気にすることなどないのだと。そうすれば、この不安も消えてなくなるはずである。
ナギは塔の螺旋の階段をのぼった。
なぜかそこにソメイがいるような気がしていた。
「ソメイ様……」
窓辺に座り、外を眺めているソメイがいた。
長い髪が風にゆれ、憂いをおびたその顔は、まったくの完璧であり、一部の狂いもなく造りあげられている。見慣れたナギでさえ思わず息をのむようである。
入る足が思わず止まっていた。
「ナギ、どうしたんだ息をきって」
ソメイがこちらをみて笑った。逆光だったので、笑ったようにみえただけだったが、気が遠くなるような慈愛に満ちていた。
手を差しのべられて、ナギはゆっくりソメイに近づいていった。あまりに早足で歩みよると心臓が止まってしまうかもしれない。
「不安な顔をしているね、なにかあったのかい?」
「ソメイ様……」
ナギはそっと抱きあげられて、膝にのせられた。
「ソメイ様が眠られるって……禍蝕が近いって聞いて……」
「ああ」
そんなことか、といわんばかりにソメイはわずかに苦笑した。
すぐにナギの頬に手をそえると、いつもと変わらぬ穏やかな声で言う。
「別段、ナギが気にするようなことではないのだよ。だが、そうだな、ナギにはまだ言ってなかったな」
ナギは顔をあげた。まだ不安そうに瞳が揺れていた。
「ナギも知っているだろうが、わたしは眠りを必要としない。けれど、三万年に一度だけ、眠りの周期がやってくるのだ。それも短くて、ほんの七日だけのこと。その眠りのあいだに次の世界の夢をみるのだよ。眠りによって新たな世界への扉をひらき、世界を刷新するのだ」
「――ソメイ様の眠りによって、世界が変わるのですか?」
「そう、そして、わたしもまた、再生しなおす。次の世界をよりよい方向へ向かうことを願いながらね」
それが禍蝕、と呼ばれているのだ、と言った。
「そんなに心配そうな顔をするな、たった七日間のことだ」
ナギは髪をすくソメイの手のあたたかさを感じながらも、どうしても嫌な予感がするのをぬぐえないでいた。
「何がそんなに不安だ?」
「ソメイ様のそばに居られないのが……怖いです。なぜか、とっても――」
ナギはふるえるようにソメイの胸に顔を伏せた。
「……お願い…」
「ナギ――」
一緒に連れて行って。
言葉には出さないが、それは祈りにも似た願いであった。
願いを口にしたことはなかった。ソメイにわがままを言ったことなど一度もない。けれど今のこのたまらない不安は何なのか。
しばらく口をとざしていたソメイがナギの背中をあやすように叩いてくれた。
「そうだな……ならば、ナギだけを特別に、わたしの眠る部屋に入れるようにしておこう。この部屋に結界を貼って、わたしは眠りにつく。そのときにおまえがいてくれたら心強いからね。ナギ、お前がわたしの眠りを守っておくれ」
ナギは顔をあげた。ソメイの思案ぶかそうな瞳と目があい、それだけで魔法にかけられたように、心も魂も奪われて動けなくなる。
「……ソメイ様、あ、ありがとうございます」
「わたしもナギがいたほうが安心できるからね」
柔らかな唇がナギのまぶたに落ちた。
一陣の風がまいこみ、ソメイとなぎの衣擦れの音だけがしずかに聞こえる。
あとは静かな時間がいつまでも続いていたのだった。
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