天上の樹
9
「ナギ!ナギ!」
シンは鏡に張りはりつき何度も叫んでいた。
男がナギの羽根をもぎ、悲鳴が響くのを見ていた。
シンが強く鏡をたたくのにあわせ、鏡のなかの映像はふっつり途絶えたのに、シンは半狂乱になって叫んでいた。
「ちくしょう、あの男殺してやる!」
シンは怒りに燃えたこぶしで鏡をもう一度たたいた。
そばにいる少年に八つあたりのように怒鳴った。
「エンラ!どうして途中で消すんだ、はやく映せ!」
エンラと呼ばれた少年は、あらぬ方向をむいたまま、なんら応えようとしなかった。
彼はシンに取り憑いたマインドイーターである。
精神エネルギーをとりこむごとに成長を繰りかえし、幼い子供から、いまではもう小学生ほどの少年へと成長している。
シンは彼をエンラと呼んでいた。
それは近所にいた、菓子をくれたお姉さんが飼っていた猫の名前だった。
エンラはその名が気に入ったのか、そう呼びだしてからは、反応をかえしてくるようになり、徐々にではあるが、シンになつきだしていた。
エンラはときにきまぐれに、シンの身体に入り込むことがあった。人界に生息している魔物をみせたり、また魔力をつかい鏡に天界の映像を映したりした。
だがしょせん魔物だ。
ひどく気まぐれであり、せっかく映像を映しても、だいたい途中で終わることが多い。
ただひとつシンがわかったことは、ソメイという男が、ナギを奪っていったということだけだった。
シンはこのところ、生々しいまでに、ナギの受けた痛みを、自分の体に感じるようなりだした。
また、たまにではあるが、胸が灼かれるようにキリキリ痛む。
背が痛むときのそれは肉体的な苦痛であり、かなり厳しくてもまだ耐えられるのだが、心にうける動揺や息苦しいような痛みは、むずがゆい切なさにすりかわり、たまらなくなる。
眠ることもできないような思いに苛まれた。ナギがなにを煩っているのか偲ばずにはいられない。
「ナギ?! 」
シンは悲鳴を小さく漏らした。全身に烈しい痛みがはしった。
気が遠くなるようだ。
「あいつ――あのソメイの弟とかいうニヤケた男か?! 」
シンの憤激に爆発したように、部屋なかの紙切れが空中に氾濫した。ナイフのように壁につきたっていった。
ひとしきりのあいだ見ていたエンラは、シンの手を引っ張ると、なぜかいきなり外に連れ出してしまった。
逆らえない大きな力なのに、きっとはた目には、弟が兄に甘え、夜の散歩をせがんでいるようにしかみえないだろう。
エンラはシンを公園まで歩つれていく。
「おい、どうしたんだエンラ。そこは――」
シンは足をとめた。
人が、死んでいた。
一人が血にぬれたナイフを手に震え、その背後に数匹の魔物が座っている。操られたのだと一目でわかった。
だがシンが驚いたのはそんなことではなかった。
「これ、この光景……、オレがこの前の見た夢そのものじゃないか…」
エンラは影のように伸びるとナイフを握っていた男も、背後の魔物も、いっしょに精神を食べてしまった。
エンラが愛らしい少年の姿にもどるまでに、食べられたはずの男が起きあがった。
男はうっすらと気味の悪い笑みをうかべ、目の前の死体にカジリつく。
そんな光景になれたシンは、忘れ去ろうと足早に通りすぎる。
男は食べかけの死体を捨て、なぜかエンラに――いや、シンについてきだした。
ギョッとしてシンは走るが、男もはやり後をついて走りだす。
「どういうことだエンラ!おまえの仕業かよ?!」
エンラはいつもと同じ無表情のすました顔のままだ。シンは舌打ちして、男を人ごみにまく。
「いったいどうしようっていうんだ」
ナギの羽根を飲んでから、魔物たちは消えたが、遭遇した鬼たちはシンについてくるようになってしまった。
シンは言い知れぬ不安をいだいたまま、街をしばらく徘徊してから、家へと逃げかえってきた。
門をくぐってすぐに、屋根裏部屋が発光していることにきがついた。
カーテンの隙間から何事なのか、大きく光がもれている。
心なしか家までが膨張しているような気がして、シンはいやな予感に、急いで屋根裏の階段を駆け上がった。
部屋に飛び込むと、光を放っていたのは鏡であった。
銀面が鼓動を打つように脈打っている。
「なんだよ、これ?!」
シンはゴクリとつばを飲み込む。
そっと、鏡に触る。
なにかが手にあたった。
覚悟を決めて、グイッとそれを掴み出した。
とびだしてきたそれは黒い物体だった。
重そうにみえたのに、それはやけに軽い。野獣のようにも見えるが、人型をしている。
リノである。
「なぎヲ、なぎヲ助ケテニ行――!」
飛び出したそれは開口一番、かすれる声で叫びをあげた。
激しいゼイ鳴が空気をきりさく。
ナギの名を呼ぶ声が、鏡のむこうで聞こえたような気がした。
彼女の様子からもただ事ではないとわかる。
ナギはいったい、どうなっているというのだ。
鏡はシンの姿をうつした。
その顔は怒りにもえていた。
心が、やっといま定まった。
鏡をのぞき込むかたい意思を秘めたシンの顔のそばには、なぜかエンラもまたうつっていた。
厳しい顔をして、鏡のなかを睨みつけていた。
進化しつづける人間という生き物に、こころ惹かれていた。
ソメイは人の棲む世界に憧れていた。
人という生命体に魅せられ、創造者の意志をこえて動くことに――たとえそれが愚かで、矛盾にみちていたとしても――魂を奪われてしまっていたのだ。
過去世において、人はいろんな形態をとってきた。
地界に堕ち、魔物と呼ばれしものどもと時空を共存していたともあったし、超常の力をもつ者たちの多数の出現によって、進化を必要以上にすすめすぎ、結果、短期間に終わってしまったものたちもいた。
魔術を発達させた者たちは、自然とともにあって、それらが示す象徴とシンボルを読み間違うことなく生きていた。
ミササギが生まれてきた時代も、そんな時の流れの中のひとつだった。
たいてい人界の進化は、途中まで目に見えてうまく進んでゆく。
自然も精霊も動物も、ともに営みを繰り返し、神への信仰は、名が変われこそすれ、厚く存在していた。
そういう時代だからこそ、剣をかれらに預けることができたのだ。
けれど、欲望という魔物が幽界から抜け出しきた途端、人間は脆くくずれさってしまう。
いつも、ソメイが少しでもレベルを上げようと試練をあたえると、そこで簡単につまずいてしまう。
ソメイは忍耐強く、あきらめずに神代のレベルに近づくのを待っていた。
そんななかで、一つの魂が、特別の輝きを持って目にとびこんできていた。
その魂はいつもおなじ色のオーラをしていた。
不思議な輝きを秘めた魂は、何度転生してきても、ガイアに愛され、自然に守られるという恩恵を受けていた。
ソメイはなぜか魂の行方がひどく気になってしまった。
時には禁を犯し、人界に降りてこっそり逢いもした。
地上はいつも妹ガイアの愛にみちた息吹を感じさせていて、母の愛という摩訶不思議な魔術にあふれ、降りるたびに捕らわれそうになってしまった。
ソメイにとって、母の愛とは未知のものだった。
自分には、そんな存在があったのかどうかすら、わからない。
だからよけいにガイアに魅かれたのかもしれない。
ガイアに愛され、母という存在をもつ人間が羨ましくて、憧れてしまった。
ミササギを愛したのは、だが、そんな理由のためだけではないのだ。
彼ははじめてソメイを救ってくれた者だった。
神としてではなく、ひとりのソメイ個人として、受け入れてくれた。
すべてを――そう、すべてあますことこなく受け入れ、見返りも打算もなく、母のように
恕し、ただひたすら愛してくれた。
彼は文字通りに、ソメイの傷ついた魂をその体内で再生し、産み出してくれたのだ。
そんな気持ちになったのは初めてだった。
愛さずにはいられなかった。体中から思いがほとぼりでた。
人とわかっていても、ずっと一緒にいたいとさえ、望むようになるほどに。
だからこそ、自分の我儘だとしりつつ、死に逝くミササギに、刻印をおした。つぎに転生しても、必ずあえるようにと祈りをこめて。
けれどその刻印をもつ魂は未だみつからないでいる。
その兆しをみせた者は、各時代に幾人かはいた。
けれど、そのどれもが違っていた。
魂のレベルをあげて欲しいとかれらは願うようになり、ソメイはそれに従ってやった。
もしやと思い、そうあってほしいと、ソメイもまた願ってしまった。
けれど、その結果として彼らは水晶となりいまなお眠っている。ソメイの心の一部をもちながら、果たされぬ願いをゆめみて。
ナギにもわずかだが、片鱗がみえたような気がした。
誰にも言いはしていないが、ミササギとおなじ第三種族の身体をもち、黄金の輝きを秘めている。
ただナギとミササギとでは大きく違いすぎる。
ミササギの魂は、強く気高く、強靭であったのだ。
菩薩にもなれば夜叉にもなりうるだけの精神力と力があった。彼には王としての叡智が存在していた。
武術にも長け、一流の腕をもっていたし、華奢ではあったが、風格も堂々としていた。
彼には、見る者をそうだと納得させるものがあった。
それに比べれば、ナギは弱々しすぎる。
どこをとってもみても、ナギはミササギには及ぶところがない。
人目を恐れいつもビクビクしていた。天使たちの中にあっては極度に緊張してしまい、可哀想なほどちいさくなっていた。
軽く吹けば飛んでしまうほどはかなげで、いつだって怯えた子供にみえる。
愛に飢えた小さな子供のように見えるのだ。
ソメイはナギが自分を恐れていることも知っていた。
怖くてたまらないくせに、それに耐えるように拳を握り、いつだってまっすぐな目をソメイにむけてくる。
その目は言葉をつかわずに語りかけてきた。
この世の良い面ばかりでなく、醜いところも穢れたところも、あますとこなく受け入れてきた透徹な意思をもつ眼だ。
まるで幼子が叱られても殴られても、母親にすがってくるように、ソメイの足下にうずくまり身体をなげだす。
その姿があまりに痛々しくて、やっとみせる安らかな眠りを少しでも損なわないようにと、ソメイはいつの間にか注意をはらうようになってしまった。
天樹とは思われないほど影が薄かった。
わずかでも目を離すと消えてしまいそうで、怖い。
そう――怖かったのだ。
消失してしまうのではないかといつも恐れている。
そんな自分を認めるのが嫌でたまらない。
あんな、ミササギにちっとも似ていない、ちっぽけな命に心が魅かれるのが怖い。
どんどん心にわけ入り、ミササギのことを忘れてしまいそうになる自分がいるのをみたくなかった。
人は自分のことを神だという。
だが神とはそんな完璧な存在ではないのだ。
愚かだと罵る人間と、なにがそんなに異なっているだろう。
怒りもすれば、泣きもする。後悔だって、いつもしている。
いっしょに生きてくれると誓ったミササギでさえ、黙って逝かせてしまうほど無力なのだ。
あれほど強い魂であって、いとも簡単に消えてしまった。
ならば、ナギなど、すぐに消えてしまうに違いない。自分の庇護なくば、吹けば消える灯火のそれでしかないのだから。
ナギは晴れた月の夜には、よく前庭の、銀の草原を歩いていた。
なにを思い歩いているのか、風が髪をなびかせ羽根を幽玄にゆらせていた。四枚の羽根がふるえるたびに光がこぼれて飛びちった。
月と天界を渡る月魚が、ナギにくちづけているのを見たとき、目が離せなくなった。
魂そのものを、うばわれてしまった。
「ソメイ様……、なにを先ほどから考えていらっしゃいますの?」
朽葉が遠慮がちに声をかけてきた。
ソメイはフッと夢見がちな目をあけ、自嘲するように片口をゆがめ、朽葉をみた。
「どうせおまえのにはわかっているのだろう。その目には、過去も未来も、現在とおなじように映っているのだからな」
「そうでありましても、ひとの心の奥底までは、わたくしも存じあげておりませんわ。それに、その思いはその方だけのもの。いくらこの能力を駆使させましても、事象を読むことだけしかできませぬ」
朽葉は寂しげに笑った。
「幽界に墮ち、腐水に身をひたしたわたくしを、ソメイ様は救い上げてくださいました。この能力もそのとき以来のもでございます。この身の一片たりともソメイ様のもの。お望みとあらば、どのようなことでも観てまいりますが……」
「そんなふうに恩など感じることはない。おまえはミササギを救おうとした唯一の身内だ。業火にやかれ苦しむのを見過ごせなかったのはこのわたしの勝手事にすぎぬ。それに、かえって、おまえを苦渋の大海に突き落としたかも知れぬしな」
永遠に縫いとめられた動かぬ足。そして消えない命の重さは、朽葉にしかはかれない。
「いいえ、こうしてお救い下さったことがなにより嬉しゅうございます。心より感謝しております。それに、結局はわたくし、ミササギ様をお救いできませんでしたもの……。尊い方であらせられましたのに」
ソメイが言っても仕方が無いことだというように目を伏せた。
「なぜ、ナギ様を変成なされないのですか」
真っ直ぐきりこんできた朽葉の言葉に、思いがけないように目を見開いた。
「恐れていらっしゃるのですか。もしレベルをあげて水晶になったならば、と」
「――そうだ」
隠すこともできまいと、吐き出すように言った。
「ソメイ様……」
「そうだ、たしかに片鱗は観えているのだ。けれどその向こうに見えるものがわからない。かすかな兆しでも見えればと思い、悲しみの心によって穢された血を、残酷にも流させたりもした。だがそれはついに現れなかった」
「だから
躊躇われて……」
「もし、失敗したら…もしミササギであったとして、その高潔な魂が変性されていたとしたら……。そう思うと怖くてできないのだ。だれも、もう水晶になどしたくないっ」
苦しげなソメイの表情を見逃すまいと、朽葉はそっとベールから顔をだし目をむけた。
「ソメイ様、ご自分のお心を読み違われてはいけません。ソメイ様はナギ様に魅かれていらっしゃるのです。ミササギ様とは関係ない存在として、ナギ様という新しい魂にお心を――」
「違う!違うんだ、わたしはナギに……」
それ以上言葉が出てこなかった。
初めてみたときから思っていた。
この子には幸せになってほしいと。
樹になどならずに、幸せに生きて欲しいと。
だが、運命の予言どおり、樹となってしまった。
そのとき、おさえられない感情が沸きたった。
だれにも触らせたくないと。決してだれにもやらないのだと。
もはや自分のそばから離したくなかった。だからこそ、迷わず自分の樹にしてしまった。
「ソメイ様……?」
ソメイは呼びかけにもこたえず、ふらりと急に庭に出ていった。
そこに咲く小さな一輪の花を見つけ。手にとっていた。
呼ばれたような気がした。まさかこんな花に?
「銀霊草か……。珍しいな。もう絶えてしまったのかと思っていたのに」
太陽の消滅の時より、この陽光の花とよばれる白い花を一度も見たことがなかった。
今頃どうして。
「ナギ・・・・・」
ソメイはナギの気配を身近に感じて、顔をあげた。
空をみつめる目には、なにも映っていなかった。
――ナギ様、それは求めなければ得ることはできませんが、求めると得ることができず、そしてまた、それは求めなければ、得られないものなのですよ。
朽葉の謎めいた言葉を思いだしていた。
なんのことだと言いはしなかったが、ナギにはすぐ、ソメイの心だと、わかってしまった。
交わす言葉さえ少なく、抱かれて眠るよりほかには、触れあったことさえない。
けれどいつだって、自分がどれほど彼の大きな手に守られていたか、どれほど心をかけてもらっていたか、ナギは離されてみてから、いつも身にしみてわかるのだ。
ソメイのもとにいたい。
ソメイに、ナギ自身としてみてもらいたい。
思いにならなかった胸の苦しさは、いつだってそこにあったのだ。
「ナギ、おまえがいくらソメイを慕っていても、報われることなど万に一つもありはしないぞ。あいつはただ気まぐれで、おまえをそばに置いているのに過ぎないんだからな」
手を錠で拘束され、鎖で壁に吊るしあげられているナギむかって、シュラが優しい顔で顔をよせてきた。
その様子だけならば、まるで恋人に甘い話しでもしているようにも見えるのに。
「……わかっています、そんなこと」
ナギは顔をそらし、唇を噛んだ。
シュラは顎をとり、強引に自分のほうに向かせる。
「ナギ、おまえは本当は、歌のことを知っているんだろう?さあ、無駄な抵抗をせずに、言ってしまうんだ。そうしたらすぐにでも楽にしてやるぞ」
「……何度お聞きになっても、ぼくは歌なんて知りません」
「可愛い顔をして強情だな。それほどソメイに忠義をつくしているのか?だがしらばくれても無駄だぞ。あいつは――ソメイはその歌を手に入れているからこそ、世界を支配する力を得ているんだ。その力で父王を幽閉し、すべてを我が物としているんだからな」
「まさか、そんなことっ」
「本当さ。だから、自分のほかに、唯一その創造の歌をしっている、穢那を幽界に封じているんだ。おまえにだってわかるだろう、あいつは悪なんだ。あんなやつに力を与えておいていい訳がないはずだ。おまえなら歌を思い出せる。あいつをその身で再生させたぐらいだからな、ミササギ。はやく思い出すんだ、創造の歌だ」
頬をなでられ、髪をグイッとつかまれる。
ナギは言われて意味すら皆目見当もつかない。
「……ほんとうに、知らないんです。わかりません。ぼくはミササギ様ではないんです」
「そんなわけがあるか!おまえがミササギでないならば、どうして兄上がおまえを側に置いているんだ。――あいつに抱かれているのだろう?ならば、寝物語にでもなにか聞いているのではないか。身体が、あいつの秘密を味わっているはずだろう」
「そんなこと……、あっ!」
シュラがわずかなナギの胸のふくらみを強く握った。
悲鳴をあげそうになるのをぐっとこらえた。ナギは乱暴な手の痛みに歯をくいしばる。
「俺のものになれ、ナギ。オレはあいつよりずっと大事にしてやるぞ。あいつを滅ぼし天界を手に入れた暁には、おまえを妃にしてやってもいい」
「や、やめてくださいっ!ぼくは本当に違うんです。知らないんです、歌もなにもかも!」
「強情なやつだ。やはりちょっとは痛い目を見ないと、わからぬようだな」
苦痛に歪む顔を冷たくみくだしながら、面倒だといいたげに舌を鳴らす。
「すこし、遊んでみるか」
「やっ……!」
いきなりくちづけられ、唇を噛み切られた。
舌で血を舐めるように吸われながら、ナギは羽根に動めく不快なものに身を凍らせる。
シュラの手から放たれたていた。
黒いそれは、虫であった。
ナギの悲鳴が響きわたった。
それらは、わらわらとうごきはじめると、無情にも純白の美しい翼を咀嚼しはじめていったのだ。
ナギは苦痛と不快と恐怖にあらん限りの声で叫んでいた。逃れられない鎖が手を切るのにもかまわず、逃げようと暴れていた。
何度かふり下ろされた鞭にナギは身体をしならせるだけだった。
口から血の塊が床にこぼれ落ち、白い身体にはいくつも朱の線がはしっている。
意識は切れぎれにしかなかった。
白晢の肌を赤くながれる血に、シュラは残忍な喜悦の笑みをうかべている。美術品でも見るようにながめ、傷に手をはわす。
うっ、と身をよじった。たえがたい疼痛がナギの思考をおおう。
ただひとつのメロディだけがなぐさめるように、頭に鳴り響いていた。
大空を、羅天が歌いながら舞っている。
それはいつ見た光景なのだろうか。
ナギは手をとられ、抱かれるようにして羅天ともに、音楽の結晶とでもいうべき曲を奏でていた。
歌は懐かしいようでもあり、切ないようでもあった。
もしかして彼はだれの中にでもいて、たぶん等しく歌いかけているのだろう。
みんな知っていて、そして、だれもが彼と一緒に歌ったことを忘れてしまっているのだ。
秘密は、いつでも自分のなかにある。
「ナギ、目をあけなさいナギ!」
ガクガクと乱暴に揺らされ、ナギは意識を取戻した。瞳に光が戻りかけた。
「さっさと目を覚ますのよナギ。よくもわたくしに恥をかかせてくれたわね!いいこと、おまえは、けっして楽に殺しはしないわ!私を馬鹿にしたことを悔やませてやる!」
リリスの怒りに猛った表情が目に飛びこんだ。
いきなり虫に蝕まれた羽根をつよく握られ、めのまえが白く濁る。針で貫かれるような痛みに喉をのけぞらせる。
「許さないわナギ!苦しみの床で、断末魔の叫びにのたうち、流す最後の血にレヴェナの眠りを贖うまで、苦しみぬくの」
「リリス様……」
「おまえの贖罪の血でレヴェナは復活するわ。そうなのでしょうシュラ?」
「そのとおりだ、姉上」
かすかに歪んだ視界のなかで、愉快そうに見ているシュラがいた。
彼は実の姉でさえ利用しようとしている。妹を思う心まで操ろうとしているのだ。
抵抗する力もなく、口さえきけないナギは鎖から放たれ、床にドサリと倒れおちた。
リリスの手には剣が握られている。
「手足をもがれて、何日生きつづけられるかしらねナギ。レヴェナの氷柱に、おまえの血をかけつづければ、膨大なエナジーの熱量によって氷はとけ、レヴェナは目覚めるのよ」
シュラはナギの絹糸のような髪を引き、持ち上げた。
手荒く抱き上げると、そのままレヴェナのいる部屋までつれられてゆく。
「ぼくの血に、それだけの力があれば…いいのですが……」
ナギは途切れる息のもとでつぶやいた。
「いいんだよ、別に。ただの気休めさ」
シュラが答えた。
躍起になっているリリスにかまわず、不敵にほほえむむと、ナギの頬についた血を舐めた。
「どうやら、本当に歌を知らなかったようだなナギ。残念だよ、おまえは結構気にいってたのに。それなりに楽しかったよ」
「シュラ、なにをしゃべっているの!はやくそこに置いて!」
リリスがヒステリックに怒鳴るのに、眉をあげたシュラは、おとなしくレヴェナの前にナギをおろす。
「天樹のもつ癒しの血を捧げるのよ。そして二度とお兄様をたぶらかすことができぬよう、切り刻んで幽界にたたき墮としてくれるわ!」
ナギは、もはやなにも言わなかった。
彼女の心の渇えと怒りをやわらげるにはこれよりほかには方法がないのなら、しかたない。
リリスの心の飢えが、哀れでならない。
ナギは穏やかな気持ちになっていった。
痛みも吐き気も遠い過去のことのようだった。ただ自分を側においてくれたソメイと、人界に残してきたシンのことだけが頭を占めてゆく。
剣がふり上げられた。
『だめよお姉様!』
レヴェナの幻影がナギを覆うようにかぶさっていた。リリスが眼を剥いた。
「レ、レヴェナ?! ――なぜ邪魔をするの、どきなさい!やつの命があればあたなは復活できるのよ。なぜ庇いだてするのよ」
『お姉様やめてください。わたくしはそのようにしてまで復活したいなどとは、望んでおりません。もしお姉様がそんなことをなされば、きっとソメイお兄様がいま以上にお嘆きになられます』
「なにを世迷事を言っているの?!お兄様が嘆かれるなんことあるわけないじゃない。ナギなど死ねばいいのよ!その方がお兄様のためなのよ。さあ、いいからおどけなさいレヴェナ!」
レヴェナの一言がかえってリリスの逆鱗にふれてしまったようだった。
燃えたぎるつめたい蒼い憎悪の炎が、レヴェナの思念を灼いて消し去った。
赤く切れ上がった眼がナギにむけられた。
腕にあつい衝撃をかんじる。
レヴェナの氷柱が赤く染ったかとおもうと、つぎの瞬間、ナギのほっそりした右腕が床にころがっていった。
きれいな切り口から一呼吸おき血が噴きだした。床が血の色にそまってゆく。
グッと喉を詰まらせナギは前のめった。
肘から先がない腕につよく爪をたて、歯をくいしばる。
「ああ――」
シュラに切られた唇が血をにじませ真っ赤に色づいた。
今までの拷問など比べものにならないほどの激痛が脳の芯まで侵す。
体中を生きたヘビがのたうちまわり、食い荒らしてゆくようだ。
耳に膜がはられたように周囲の音が途絶えた。
鼓動の音だけ。
ナギは顔をあげた。
リリスをみつめた。
じっとみる琥珀色の瞳には、責めるでもなく、奇妙なほどの悲哀がふくまれていた。
リリスは手から剣をおとした。
ナギの気迫にのみこまれてしまっていることにも気づかず、ガクンッと脱力して膝をつく。
みたこともない、静かな哀れみと慈愛そのものの優しさだけがそこに残っている。
リリスはその眼差しにつつまれて、ナギから顔をそむけることもできずにいる。
「ナギ……ナギ、もういい」
そっと背後からナギを抱きしめた。
ソメイだった。
ソメイは感情のたぎりをおさえきれないように抱き寄せると、ナギの髪に唇をよせた。
そんな苦しげな彼の表情を見るのははじめてだった。
ナギに施していた最後の封印が――生死にかかわるときにのみ発動するはずの守護の印が、ソメイをここまで呼び寄せたのだ。
固まったように動けないでいたナギは、誰よりよく知った、安心できる暖かさにつつまれたのに息をついた。
目をつぶり、ようやく痛みにこわばっていた身体をそっと彼のむねにあずける。
緊張の糸がきれたように崩れた。
迷い苦しみやっと母の腕に戻ることのできた子供のように、真白なこころを彼にむかってあけはなしていた。
ナギは微笑をうかべてソメイをみた。透き通るような笑みだった。
愛しくてたまらぬようにソメイはナギを抱きしめた。羽根にくちづけ、髪にくちづけ、頬にくちづける。
そして、そっと切られた腕にふれ、苦痛にふるえる腕に手をはわせた。
ナギの顔から血の気がうせゆく。
その白さは死にちかづいてゆく。
「お、お兄様……?」
リリスが眉根をよせた。
悲鳴があがる口を抑えた。
ソメイは腕を切りおとしたのだ。
ナギとおなじ右腕を切ると、血の吹きちる傷を押さえようともせず、ナギの腕に自分のそれをそっと合わせた。
ああっ、とナギは身悶えた。
腕はぴったりとあわさり、そのまま融合してしまった。
切口はうっすらと赤い輪になったかと思うと、しだいにピンクになり薄れていった。
ソメイはころがっているナギの腕を拾いあげた。
「リリス、どうかこれで心を鎮めてくれ」
リリスは腕をわたされ、言葉もなく放心したように座り込んでいた。
ソメイはそれ以上何もいわなかった。
生々しい自分の傷口を撫でると、血は一瞬にしてとまった。
ナギを片手でかかえあげる。
ナギはけぶるような目をうっすらひらき、口をきくのもつらそうに言った。
「なぜ、こんな無茶を……、なされたのですか。……ぼくなんかのために」
涙がツッと伝い、零れおちていった。
まさかそんなことをするなど想像もできなかった。
たかが樹に、しかも交換可能な樹などに、ソメイのような人物が自分の腕をあたえるなどと。
ちがう。ソメイだからくれたのだ。
ソメイ以外、誰もそんなことをしはくれない。
それだけのことをしてもらう価値が自分にあるとは思われないのに。
「花が――」
ソメイが口をひらいた。
「花が、おまえに見えたから……」
それだけ言うと、銀霊草をナギの手に握らせた。ソメイはナギの目を覆い、そのまま意識を閉じさせてしまった。
リリスに一瞥だけのこすと、時空をこえて二人はそのまま天界へと帰っていった。
ひとりのこされているリリスはまだショックからさめきれず、口をきく気にもならずに呆けているばかりだ。
戸口に隠れていたシュラがそれらを見届けるとスッと姿をけしていった。
そのまま、静寂だけが広がっていった。
千引きの岩が小刻みに揺れていた。
黄泉比良坂を守護している番人は、鋭い目をあげる。
次元を越える洞窟にはりめぐらされている封印の御幣が生ぬるい風にゆれていた。
ただならぬ気配をかんじた。
突風が噴きあげた。
かとおもうと、妖しく黒いかたまりがふくらみ、足をのばすように外界へ這い出そうとしている。
ここ数万年間、ピクリともしなかった岩戸にあって、はじめての現象だ。
しかも時空にひずみさえ起きかけているではないか。
番人の鋼のような鋭い筋肉がピクリッとした。
御幣が、四方に飛びちり、黒く禍禍しいものがいきなり結界を突き破りあらわれた。
穴から膨大な闇が、地をおおっている草を焼きながらのびてゆく。
それは一箇所にかたまると、ゆっくり収縮していった。
番人は守護の槍をかまえそれにつきたてた。
闇はスルリとそれを避け、少年の姿をかたをとると、不敵に男を見上げた。
まるで故郷に帰ってきたような笑みをうかべて、一声高く鳴いた。
エンラだった。
はっきりと表情を動かすのをはじめてみた。
空間のひずみからもうひとつの影がとびだす。エンラに続いてシンがヌラリと結界を破りあらわれでたのだ。
息を切らしているシンの足元には、すでに抜け殻となっていた番人が倒れているだけだった。
ナギは新しい腕がもたらす過剰なエネルギーと命がけで闘っていた。
あれからずっと眠り続けていた。
睡眠によって、傷ついた身体を修復しようとする機能への負担を軽くするためと、暴走する過重なエネルギーのために、ナギの弱りきった身体にかかっている負荷を少しでも小さくするためであった。
ソメイのあたえた腕は、すっかり元素転換されて、スラリとしたナギ自身の腕になっていた。
けれども、そこからソメイという強大な力を受け入れるためには、身体にそなわっている全機能が変態してしまわなければならないほどの苦しみがあった。
ナギはときどき荒い息をついていた。
ソメイを受け入れようとそんなに苦しんでいるのに、目を覚ましても、けっして泣きごとも恨みも言わず、月の世界で起こったことも、なにひとつ口にしようとしなかった。
手にソメイからもらった銀霊草を握りしめ、ひとりで苦悶に堪えている。
まるでそれだけが拠り所であるかのように。
――なぜ、ナギ様のレベルを上げないのですか?
朽葉の言葉が頭をもたげていた。
そうだ、なぜ上げてしまわないのだろうか。
ナギは望んでいるかもしれない。きっとナギなら、水晶になるのも厭いはしない。
だが、きっとナギは水晶になる。
なぜこんなに確信にみちた思いが沸きあがってくるのかわからない。
そう思うと、なにもできなくなってしまう。恐怖ともとれる感情がわきあがり、すくんでしまうのだ。
すでに、ナギは四のレベルをあがっていた。
ナギはたった一度の命のなかで、自分の力だけで昇ってきたものだ。
本人は知らず知らずのうちにレベルを上げたのかもしれないが、それはまちがいなく「人間」のレベルではなくなっていた。
だが、そうであってさえ、まだ少なくともあと三のレベルをあがらなければならない。
神と呼ばれるものと同等の身心となるためには、人間は七つのレベルをあげなければならないのである。
幼子の無垢な魂で生まれた人間は、陰陽いりみだれた過酷な世界に身をおいて、自らで道をえらびとり、己を磨いてゆく、というプログラムにそって、神という最高レベルの存在に近づいてゆくよう進化するはずだった。
そのために何度も転生をくりかえし、与えられた試練を乗り越え、苦しみと喜びを知り生命を清めてゆくのである。
だが今それを忘れ、人はただ後退の道をすすみつつある。
そんな中で、ナギはひとりで歯を食いしばり、耐え、道を昇ってきたのだ。
考えればソメイは、いつもナギに残酷な行為を強いていたような気がする。
偽の羽根を手折り、角を入れた。
本来、美しい羽がはえているはずの場所に、醜い造りものの羽が植えつけられていのが許せなかった。
それを一目みたとき、ナギの清浄さを穢しているように思えて、怒りのままに、苦しみを与えるとわかっていてもぎとってしまったのだ。
新しくはえた羽は、思ったとおりナギらしい優しい美しさをもつ、最上級の樹となった。
変化はだがなぜかそこで留まらなかった。
神仙の泉で水をあびたナギは知らずに禊を行っていた。
まるでソメイの願いを聞き届けるかのように、羽化してしまった。
滅び去ってしまったといわれる秀麗な天界樹となり、ナギは性別までもをかえてしまった。
そして、リリスに連れ去られ、腕を切り落とされていたのだ。
苦しむナギの姿を見たとき、ほんとうに息が止まるかと思った。
あふれ出る思いを堰きとめられず、ソメイは躊躇うことなく、自分の腕を与えてしまっていた。そうせずにはいられない衝動が体中をかけめぐったのだ。
ソメイは、いま後悔していた。
ナギに本当に与えて良かったのだろうか。
腕だけとはいえ、ソメイの莫大なエネルギーを受け止めきれず、こんなにも苦しんでいる。
息だけはどうにかしているものの、もしかしたらこのまま死んでしまうかもしれない。
ソメイの力を、受け入れきれる器がなければ、ここで終わってしまう。
もしこれ以上のレベルを上げたなら、ナギは耐えられないだろう。
それは死を意味している。
「いいえ、お兄様はナギのレベルをあげてやるべきですわ」
思い悩んでいるソメイの背後に、リリスが声をかけた。
その顔はまるで別人だった。
精気の抜けた人形のように悄然としていた。
ナギの腕を切り落としたリリスと同一人物とはおわれない。どこか疲れた面持ちである。
もはやナギを見つめる目に、憎しみも恨みもなくなっていた。
「お兄様はお心をいつわ偽れないはずです。こんどこそ、後悔なきようになさいませ。人の世も神の世も、すでに昔の理では動いておりません。時は、つねに変動してゆくものですわ」
そっとナギの額にさわり、髪をなでた。月の光のような黄金の粉が指先からもれた。
「わたくしも、人の子への愛を、いつ忘れてしまったのか……」
つぶやくように言うと、ソメイをみた。
それから、身をひるがえし、来たときと同じように無言で去っていった。
ソメイはしばらくしてナギの呼吸が静かになっているのに気がついた。顔色がよくなっている。
「リリス……」
あれほど憎んでいたのに、わざわざ月の癒しをナギに施しにきたのか。
ソメイにはわからなかった。
なぜだれもかれもがソメイに言うのだろう。
ナギへの思いを認めろと。
痛みをともなうことを知りながら、ナギは羽根を食べて欲しいと願っていた。
必要とされたがり、誰かにとって必要とされる人間になりたいと切望していた。
ソメイはナギのもつ孤独の意味を、しりつくしていた。
ナギの羽根の味は孤独そのものだったのだ。
わからぬわけがない。
ナギの心はだれよりも植物にちかい。
食べる側からみれば、ただ食べる行為であってもの、食べられるほうからしてみれば、自分を内に取り込み、血とし力としてくれる行為となるのだ。
それはまた、その人を自分が食べ、力としているのも同じことである。
だから食べた。
ソメイは必要としていない力を取り込んでやった。
自分でもそのときは、なぜナギの羽根を食べているのかよくわからなかった。
「……ソメイ様?」
ナギはふっと目をひらいた。
そばにソメイをみとめると、にっこりと笑う。
「ナギ……」
ソメイはナギの手を握った。
自分の手であったものから、自分のものではない、切に求めていた暖かさが伝わってきた。
このぬくもりがいまさら消えてしまうことなどもはや考えられない。
安心したように目をつぶるナギに、誘われるようにソメイはくちづけていた。
はじめて自分から望んだ、心からの触れあいだった。
ソメイは眠るナギを見つめながら、吸い込まれるような心地良い陶酔感に襲われた。
――もしかしたら、これが幸せ、というものなのだろうか
ナギの規則正しい呼吸を聞きながら、頬をなでた。
不意に空気のこわばりを感じた。
身体に緊張がはしった。
なにかが天界に進入してきた。結界がやぶられたのだ。
禍々しい違和感が清浄な空気を切りさきながら、激しい怒りを帯びたなにかが泣き叫んでいる。
ソメイは不快に眉をひそめがなら、天界を犯しつつある黒い触手がナギの身体にさわらないようにと、そっと周囲にエナジーの膜をはりめぐらせていった。
「ナギはどこだなんだよ、エンラ!」
シンは苛立つように言った。
いつも自分の後ろをついて歩いていたエンラが、こちらにきてからは、ずっとシンの目の前をあるいている。
まるでよく見知った土地であるかのような足取りだった。迷いもせず進んでゆく。
はじめに降り立ったのは、まず地界だった。
まさにおぞましい世界だった。
そこに生きる、魔とも獣ともつかぬ連中は、毒の息を吐き、汚泥を舐めて生きていた。血と腐臭と腐敗が街全体にひろがり、荒廃は二重にも三重にも重なって人々を覆っていた。
けれどそこに棲む彼らもまた、命をかけて生きていた。
その道をひらいたのはレイだった。
シンのもとにやってきたレイは、なぜかエンラをよく知っていたようだった。エンラもまた、レイの精神は食べようとはしなかった。
それもそうである。
エンラとは、そう、得体の知れない導師がつくった人工生命体である、・ ・あのホムンクルスなのだから。
ナギが天界に連れ去られるとき、エンラは天使である監査官たち戦い、殺されたはずだった。
その身体は微塵も残らぬようにと、幽界の魑魅どもへなげ与えられ喰われたはずなのだ。
今ここにいるエンラが、本当にそのエンラなのかはわからない。だがそれよりも、なぜエンラが、シンのもとへいるのかのほうがずっと疑問である。
レイは地界まで空間をひらくと、すぐに消えてしまった。
彼女にはまだ、時空をこえるだけのエネルギーがなかったのだ。シンだけを地界側におし通すとそのまま人界に引き戻されてしまった。
彼女はシンに何も言わなかったけれど、シンにはわかっていた。
シンは、鏡に映ったレイの本当の姿を――リノの姿を見ていたのだ。
人界に落ちた彼女を、綾子の霊が離さぬように抱きしめていた。
かわり果てた娘の姿に悲痛な泣き声をあげながら、いつまでもいつまでも、リノを撫でつづけていた。
シンは熱く煮えたぎるような怒りを抑えるのが精一杯だった。
シンにできることといえば、気づかないふりをしてやることだけしかないのだ。
きっとリノは、抱きしめてやっても喜ばない。かえって己の醜さに苦悶し、どれほどか嘆き悲しむだろう。
母ゆずりの気性と美貌の持ち主ならば、なおいっそうの苦しみを与えてしまだけである。
リノは幼かったころから、気高く、強い意志をもっていた。
自分が愛する者たちには深い情をかけ、害そうとするものたちから守ろうと懸命になっていた。
だからこそナギのかわりに地獄にも落ちたのだ。
今なお、自分を省みることもせず、ナギを守ろうとしている。
シンはリノがじぶんで名乗った通りの名で呼び、兄弟の再会の喜びも抱擁もなく、見知らぬ同士のまますごしていった。
シンの怒りはすでに頂点をきわめていた。
妹の姿を歪め運命を弄んだだけにとどまらず、その上まだナギを奪い、不幸におとしめようというのだ。
許せない。許すことなど、絶対にできない。
ソメイに激しい怒りを感じていた。
ソメイに連なるすべての天界に憎しみをいだき、なにもかもを滅してしまいたい。
「ナギを返してもらう!あいつになんて絶対にわたさない。おれがナギを守る。もう誰にも傷つけさせたりしない!」
シンは意を固め、リノの導きにしたがって地界に降り立った。
そこからさらにエンラによって時空をやぶり、天界への結界をこえてここまで赴いたのだ。
シンはエンラのなかにもまた、もえる怒りがあることに、はやくから気づいていた。
よもやこの生物に感情があるとは思われなかったのに、この天界へやってきたことで、それはさらにはっきりとしはじめている。
悪辣ともおもわれる臭気は色濃くはなたれている。
エンラは襲い来るもの選ばずなんでも喰っていた。
邪魔するものをなぎ払い、精神を取り込んではみずからの糧にして、急速に成長をつづけている。
食べるごとにエンラは大きく膨らんでいった。
吐きだした息で死体は焼けこげ、じょうくうが黒く染まりはじめていった。
そこには人界で食べてきた人間の想念や怨霊が、いやというほど渦巻いていた。
どれも恐怖と怒りにみちていて、清涼な天界の空気を、邪念の息吹で穢している。
シンはあまりに激しいエンラの荒れように、驚かずにはいられなかった。
もはや為す術もなくただ見ているだけしかできない。
「エンラ、おまえはいったい何のためにここへきたんだ?」
つぶやいてから、シンはエンラの目的を悟った気がした。
いや、きっと間違いない。やつはソメイの居城を目指している。
シンは目の前にちかづいてくる、とてつもなく高くて、巨大な宮殿を見あげた。
人界のどんな建物より壮麗で荘厳にみえる。
そこにソメイがいる。
身体の奥底から、怒りよりべつの何か、わけのわからない力が漲りはじめていくのに気がついていた。
それは黄泉比良坂に降りたったときから、シンのなかで徐々に強まりはじめた。
千引きの岩とは知らずにふれてしまい、激流のようなエネルギーが一気にシンに流れ込んだ。
痺れは急激な熱量となって身体をかけめぐり、まるで体組成が天界にふさわしく変化しはじめているようである。
体内にたまっていた気息を吐き切り、素に戻りつつあるエンラを呼び寄せた。
思念となったマインドイーターが肩の上にのった。
シンとエンラの目的は一緒だった。
ふたりは巨大な城をめざし、歩みをすすめていった。
ナギは、傍らで目をつぶっているソメイをじっとみていた。
彼は眠ってはいなかった。
ただ、エナジーを分けてくれているだけなのだ。
傷んでいる体をずっと撫でてくれた。息を押し殺したような、ひっそりとした優しさだった。
ナギは、かたわらの聡明な貌をもつあるじのぬくもりを失わぬよう身をよせた。
彼はなんのためらいもなく、自分の腕を切り、ナギに与えくれた。
彼の高貴なエナジーを、彼の魂そのものと一緒に吹き込んでくれた。
ナギにとって、彼がすべてを与えてくれたことに等しかった。
こんなちっぽけな自分に、だれが己を裂いてまで与えてくれるだろうか。
そんなソメイの心遣いは、あまりにも優しすぎて、ナギを一杯にしてしった。
母にさえ厭われ、死ねとまでいわれた命なのに、まるで大切なもののように思われてくるではないか。
もしかしたらという、贅沢で身のほど知らずな希望を持ってしまいそうになるのが怖かった。
期待をしたくなかった。
きっと裏切られる。傷は倍以上の大きさで返ってくるのだ。
この人の愛情は深すぎて怖い。
どこまでも深くて、果てしない。
広すぎて、凡人のナギになど理解できなかった。
一度落ちてしまったら溺れてしまうしかない。きっと離れられなくなってしまう。
本当にこの胸を、思いのすべてを占めているのはミササギである。自分ではないのだ。
彼にはその純然たる資格があるけれど、自分はなにももっていない。
錯覚してしまいそうでこわい。
――この人が、僕と同じぐらい好きでいてくれたらいいのに。
痛いような思いは、ナギの瞳から一粒の涙となってこぼれおちていった。
人間は罪ぶかい生き物だ。
どうして欲してしまうのかだろうか。
ただ、好きなだけでは、どうしていられないのか。
人は花になぜ咲くのかと問い、花はそれに答えることをしない。
ナギは花になりたいと思った。
そんな風に誰かを愛したかった。ただ有るだけで満たされるような愛し方をしたい。
近づけば近づくほど孤独になってゆく。
孤独はいつもそこにいて、きっと受け入れてみれば、なによりも慕わしくて優しいことだろう。
人は一人生まれ、一人で死んでゆく。
そのせつなさは当然の顔をして心にはいりこみ、人を優しい気持ちにさせるのだから。
「宇宙は無限のエネルギーをもっている。それは優しさの発露とあいまって、人を癒し癒されている」
ナギはささやくように、そう歌っていた。無意識であった。
ソメイが目をあけた。
「その、歌は――?」
「……ソメイ様」
「その歌を、なぜおまえが?」
深い闇の目に、魅いられる。
「ずっと昔から、ぼくに誰かが歌ってくれていた気がします。でも、これが何であったのか、誰だったのか、ぼくにはもう……」
すでにわからなかった。
「それは、羅天の歌だ。ミササギが口ずさんでいた」
その名前にキュッと胸が詰まった。
一緒に肌をあわせ眠りながらも、心が凍るような冷たさをおぼえ、息苦しくなってしまう。
こんなとき、いつも自分の存在理由を、求めずにはいられない。
ぼくはミササギではないのだ――。
抱き寄せられ、ソメイの胸に顔をうずめながら、ナギは心の中で、涙をこぼしつづけていた。