天上の樹
8
その部屋は、一面の水晶で埋められていた。
どれもがナギの背丈か、それよりはもう少し高いほどの無色透明なかたまりだった。
差し込んだ光に反射していた。しとやかなきらめきを放っている。
朽葉に会いにいくナギを、何かが引きとめ、その部屋へみちびいた。
前に一度だけのぞいたことがあった。
あの時は、得体の知れない恐怖にすくんですぐに逃げだした。
どうしてこんなにたくさん水晶があるのだろうかと気味が悪くなった。
胸がひどくざわついた。
すべてが人の形をしていた。
少年もあれば少女の形もあった。まるで水晶となってしまう呪いをかけられた一団のようにもみえた。
いまナギを呼ぶその声は、濁りの無いひたむきな意志のそのもののだ。
まるで樹たちと共鳴しているときのような思いがわきあがり、ナギは部屋に踏み込んでいった。
息をひそめ薄暗がりをゆっくり歩いてゆく。
たたずんでいる水晶のどれもが、はっきりとした一つの思いを抱いていて、なぜだか、みんな心残りに身をやいているように感じられる。
赤く美しい絨毯のうえにたたずむ水晶たちから、光の珠がうきたち闇に浮遊していた。
ナギにあつまり、胸のなかに火をともしていく。
「――みんな、生きているの?」
問いかけるナギに答えるものはいない。
ただ強い思念だけがナギの心を絡めとり、思考を狂わせただひとつの願いへとのみこんでゆく。
彼らがなにをそんなに願っているのかナギにはわかった。
それはいつだってナギの中にあったものと、同じだったからだ。
ナギはコクリと頷いた。
部屋中の空気がいっせいに凪ぎ、光がおさまってゆく。
思念の炎だけがナギにとどまったまま、魂を急くように焦がしている。
彼らの表情が、どこか安心したように、おだやかになっていた。
扉が自然にかいほうされた。外からの光が一条さしこんできて、まぶしく彼らを照らし出していたのだった。
朽葉の冷たく動かない膝に顔を伏せながら、ナギはいつもこの脈うたぬ足がすこしでも温まってくれればいいのにと、小さな願いをこめていた。
朽葉の岩の足は、水晶の部屋の彼らを彷彿させる冷たさがあった。そして彼女の中にも強い思いが秘められているのだ。
「あの方の瞳があんなに望んでいるのに、ぼくにはミササギ様の魂のかけらも、もっていないんだ……」
それが、どうしてこんなに悲しい気持ちにさせるのかわからない。
ただ、もう自分がどうしたいのかわからなくなってしまった。
悲しみがすぎれば、あとにはただ狂気がのこっているだけだ。
そればかりを考えすぎて、もはや自分が何をのぞんでいたのかわからなくなってしまった。
「どうしてミササギ様の過去がぼくになかったんだろう」
「ナギ様、ひとの心ほど、ままならぬものはございませんわ」
朽葉がゆるりと言った。
「なにが正しくてなにが正しくないかは、すぐにはわかりません。記憶とておなじことです。現在ある思いが過去をつくっています。そして今現在、そうだと思っている過去が、はたして事実かどうかは誰にもわかりません。なぜなら記憶は書き換えられ、それを保有しつづけることで過去として存続できるのですから」
「じゃあ、今の自分によって、過去はかえられるというの?」
「未来をもかえることができます」
「未来――」
ナギを待っている未来とはどのようなものか。
幸福も少なかったが、かわりに幸福を求める能力も多くはなかった。そういうナギだからこそ、時分の傷を自分でなめて治しながら、どうにか生きてこれたのだ。
「けれど、心の傷は小さなように感じていても、その影響ははかりしれぬほど大きいものなのです」
「ぼくは、べつに傷つくことはこわくないんだ。ただ求めようとする、自分がこわいんだ」
「求めることは悪いことではありませんわ」
朽葉はこまった子供をあやす母親のようにナギを抱きよせた。なでる色素の薄い髪は手に柔らかい。
「人は誰かを好きになることで変わるのです。好きだからこそ求めたくなります。けれどそれ以上に、相手に求められることによって、自らを与えようとするのです。そして、本気ならば、どのような結果になっても後悔はいたしません」
「……あそこにいるみんなは、じゃあちっとも後悔してないないというの?」
朽葉ははるか未来を見ているような、遠い目をしていた。
「あの、水晶の部屋をご覧になられたのですね」
「彼らがぼくを呼んだんだ。あの人たちはみんな祈っている。たった一つの願いをひたすらに求めている」
彼らはナギにその思いをたくした。
「ねえ、あの人たちはなぜあんな姿であそこにいるの?いったい、誰なの?」
「……彼らはみなソメイ様を愛した者です」
やはり、といいたげにナギの瞼がふるえた。白らんだその頬に朽葉はそっと手をあてた。
「彼らはみな、ソメイ様を愛し自らがミササギ様であることを望みながら、そうでなかった者たちです。ミササギ様にあるはずの聖痕の影を、わずかに帯びていたにすぎなかったのです」
「聖痕って?」
「ソメイ様によって、ミササギ様が亡くなるときにつけられた御印です。生まれ変わったとき、必ずみつけると約束された証だといわれております」
「じゃあ、ソメイ様はその痕跡をもとめて、いまもまだ待っているの?」
朽葉はうなずく。
命をつくり育み、宇宙さえも破壊してしまえる偉大なあのひとが、たったひとつの魂を待ちわびているというのか。自らがつけた聖痕をもつ者をさがし求め、だからあんなに孤独になっている。
「彼らはソメイ様を心よりお慕いしておりました。ずっとソメイ様のおそばにいられるように望んだ結末なのです」
ナギは黙って先へと聞き入った。
「彼らはもとは人でした。いくら樹とよばれ、清められていようとも、永遠の命をもつソメイ様のおそばにいるためには、人の子である身体のレベルを上げなければなりません。
――人界はいまだ不完全な八方世界にとどまっております。神の世の十方世界となるためには、七つのレベルを上げる試練に耐えなければなりません。本来ならば、人間たちが自分の力で昇らなければならなかった道ですが、人はいつの世も自滅を繰り返し、能力を下げているばかりだったのです」
「レベルをあげるのに失敗した姿が、あの……」
水晶の群れが痛いようにまぶたに焼きついていた。
「誰も後悔していません。みな、ソメイ様を本気で愛してらっしゃいました。みなが、それを望んだのです」
だが皮肉なことに、水晶と化してしまうものが増えれば増えるほどに、ソメイの心は凍りついていったのだ。
ソメイを無心に慕い、もしやミササギでは、と思うものが、次々と水晶の塊となってゆく。
どれほどの苦しみの影が、ソメイを覆っていったことだろう。
「だからみんなあんなに・・・・」
かれらから伝わる思いが、なぜあれほどナギの心を揺るがすのかわかった。
ソメイに悲しみを与えたことを嘆いていた。
彼の心を癒してくれるようにと、ナギに一つの意思をこめて、願っている。
どうかミササギの魂たらんことを。
「ぼくはミササギ様じゃないのに、なんでみんなは……?」
皆が皆、ソメイの幸せを願っていた。自分がそうでなかったことより、ソメイを落胆させたことの方が悲しい。
「彼らは、だれもミササギ様になりたかったのではありません。ただ、ソメイ様のお心を、癒してさしあげたかったのです」
「……朽葉も?」
こぼれそうになる涙をこらえながら朽葉をみあげた。
朽葉はナギの眼差しに、一瞬だけ表情をゆらせた。
「……わたくしは、ただミササギ様の転生をだけを、お待ち申しあげているだけです」
それだけがソメイを救える唯ひとつのことなのだから。
ナギは、喉がやけに渇いたように感じた。
「どういう人、なの?ミササギ様という人は」
言う声がふるえていた。自分ではないようだった。
もう何度も聞こうとした。
そのたびに恐ろしくて思いとどまった。
心臓の音が鐘楼のように響き耳を塞ぐ。
「ミササギ様は、はるか彼方の過去に滅び去ってしまった王国の、次期王となられるはずの方でしたわ」
朽葉は久遠の幻影を懐かしむように、ゆっくりかみしめて言った。
「それはもう、何万年も昔のこととなります。――興っては滅び、滅びては興る文明のなかの一つであり、そして、神の怒りによって滅ぼされた愚かな王国の一つでもあるのです」
「ソメイ様が滅ぼしたの?だって、ミササギ様の国なのでしょう?」
「そうです。ミササギ様の国、アスカは、太陽神スサナルの末裔と称す王により、代々統治されてきた王国です。ミササギ様はその第一王子で、十三王子の長男としてお生まれになられました。そのお姿はうるわしく、こころざしは気高く高潔で、輝く太陽のような方でした。そして、最も高貴だとされる、第三種族の身に属しておられたのです」
第三種族と言うのがなんであるのかと問おうとしたが、朽葉が話しをつづけだしたのに、口をとざした。
「ソメイ様はそのころ何度も地上に降臨されておりました。わたくしたち下賎な者には、さすがにお目通りの機会はございませんでしたが、ミササギ様が城を抜け出したときにだけ、姿をお現しになられお会いになっていたようです。お二人は、かの君だけがしる密やかな場所で会見をかさね、信頼をふかめられました。ソメイ様は、もちろん、はじめは神だということを隠されていたそうです」
ミササギは王となるべく、選ばれて生まれてきた者だった。神霊崇高にて、気品たかく、それでありながら誰に対しても公正であり、なにより心がまっすぐだった。
光それごとくのような笑顔みをもっていた彼に、会う人みなが惹かれた。
飾りのない実直な性格は、どんな人にあっても偉ぶることはなく、優しかった。
そんな王子に、家臣や召使だけでなく、人民の心もまた魅了されていた。
「代々王家は、国を統治する証として、神よりさずかった太陽の剣、伊邪那美を受け継いでおりました。神殿に奉られ、それは次期王となるものだけに反応し、剣がぬけるよう定められておりましたが、ミササギ様はその剣に選ばれし王の一人でもありました」
たしかに生まれの違う兄弟たちのなかには、ミササギを快く思わない者もいたし、義母たちによる度重なる暗殺の手に、幾度となく襲われることもあった。
そのたびごとにソメイは陰からミササギをたすけていた。
城に火がつけられたときには雨を降らせ、毒が盛られたときには杯を割った。
人の子の運命に関わることは禁止されているため、直接手を貸すことはできなかったが、かわりにいくつもの助言を与えていた。
「一度、ミササギ様が、ソメイ様をお助けしたことがあると聞いております。わたくしは当時、ミササギ様の従兄弟として生をうけておりましたが、王家と神殿が秘密裡に行ったことらしく、詳しくは解りません。ですがそれはソメイ様の命にかかわることだと聞き及んでおります。それ以来、お二方の結びつきは非常に強いものとなれたそうです」
絶対の神という存在にあるソメイに、一体何が起こったのだろうか。
彼が、死にいたるほどの衝撃とは何だったのか。
だが、ミササギがそれを救ったのだという。想像もできない。
ミササギは天を味方につけたにも関わらず、それに頼ることなく、みずからの足で、正しい道を歩みすすんでいった。
人々の信頼はいやがおうでも高まり、誰もがミササギが王になると思っていたはずだったのだ。
「ですが弟王子たちの何人かはそれを阻止しようと、姑息にも愚劣な奸計をはかりました。しかもそれは成功してしまいました。民衆をつかって、ミササギ様を殺してしまったのです」
「だってそんな!ソメイ様を救った人なのでしょう?!剣だって選んだ人なのに、なんで――」
「ある年、恐慌な飢饉がやってきたのです。天候の不順によって農作物は枯れはて、絶望的な食糧難による飢えや病気が蔓延しはじめました。飢饉は何年にもわたり、民衆の怒りは高潮をきわめたのです。そこに目をつけた弟王子たちは民衆を煽りました。彼らは王家につたわる、あるひとつの呪われた祭儀を引っ張りだし、王につきつけました。――それは、生贄の儀式でした」
朽葉は思い出すのもおぞましいとばかりに手に筋をたて黒いローブをにぎった。
「王家の血による代償によって、神々は陽光の恵みを甦らし、雨を降らせるのだとふれまわりました。彼らの息のかかった神官や大臣たちを焚きつけ、民衆のあいだにまことしかやに流布させました。王自身がながした血は大地の神と生命を結びつき、穢れを祓うのだと。馬鹿げた内容もかかわらず、人民は信じてしまいまったのです。けれど王は国の存続と統治に欠かせぬお方でした。ならばと、次期王と目されているミササギ様の命を捧げろと、叫びはじめたのです」
あの時は、皆がおかしかった。
皆、欲望のために狂っていた。一つの命を求めた。
「安穏に過ごしすぎた人々に、愚かな文明に対する神の警鐘は届きませんでした。ただ野蛮で愚かな道をえらび、儀式はただの象徴なのだとも気付かず、なおさら神の命にそむくことを行いました」
しかも、神より賜わった伊邪那美の剣で、である。
「神の最愛の方であるミササギ様を、神聖な剣で、
殺するためにひきずりだし――」
耐えられないように一時、口をとざした。
「儀式は民衆の眼前で行われました。わたくしもまた、止められぬ者のうちのひとりでした。王も、民も、ミササギ様を慕っていた姫たちや弟王子ですら、みなその残忍で無益な惨劇を、恐れおののくだけでただ見守っているだけだったのです」
伊邪那美の剣は、ミササギの身体を無惨に凌辱していった。
舌から腹から性器から、切り裂いては、大地に血をふりそそいだ。
それらの行為が、ただむやみに地に棲む妖魔を喜ばせるだけとも知らずに、血の魔術のとりこになった。
「多分、ミササギ様は、それらのことは事前に、ソメイ様から知らされていたのでしょう。あの方は逃げようとも、抵抗しようともさりませんでした。愚かな者どもに、自分の命でもって、気づいて欲しいと願い、その崇高な命を捧げられたのです」
きっと、人々が自らの力で、自分たちの間違いに気いてほしいと思ったのだ。
「――ソメイ様は怒りに猛り、荒れ狂いました。願いどおり雨を降らせ嵐を呼び、ついには、水の下に一つの文明を沈めておしまいになりました。そのとき伊邪那美の剣は砕けちり、太陽が消滅しました。それに呼応するように伊邪那岐の剣も姿をけしたため、三界にすべてに暗黒が押し寄せはじめたのです」
ソメイの嘆きは、地球の命すべてを流し無に帰してしまうほど、大きかった。
四千世界をおしながしてなお収まらない。
ソメイはだがすべての破壊の寸前でなぜか思いとどまった。
最愛の妹ガイアと、ミササギの魂の、最後の願いによって、すべての抹消を思いとどめたからである。
最後のわかれのとき、ソメイはミササギにふたたび逢えるようにと、彼の魂に聖痕をほどこし、心を鎮めた。
「それからずっと、探しているんだ。……あの方は、神様だから泣かないのかと思ってたけど……違うんだね。人とは違った方法で、泣いてるんだ……」
ナギが独りごちるように言った。
きっと、自分はソメイの魂の一部なのだ。だからこんなに苦しいのだ。
彼の気持ちがわかる。わかるからなおさらつらい。
ミササギになりたいと思った。
それが叶わぬなら水晶になりたいと。
そうして結晶となった彼らの心がやっとわかってきた。
彼のためになにかせずにはいられない。この熱く重苦しい情熱が身も心も焼きつくす前に、行動せずにはいられなかったのだ。
ナギの胸にも、貫く蒼い炎がもえあがるのをとめることができなかった。
ナギは子守歌を歌っていた。
それはまだ幸せだったころ聞いた歌だった。
父がいて、母がまだナギを嫌っていなかった。
もしかしたら、それは彼女が与えてくれた最後のものだったかもしれないし、本当は彼女が歌ったのではなかったかもしれない。
弟の勇が生まれたときも、あの人からこの歌は一度も聞かなかった。
けれどナギは知っていた。誰かがいつも耳もとで歌いつづけていてくれたのを。
その歌を身体に刻みつけて大きくなった。
羅天かもしれないと思っていたが、母親が歌ってくれたと思うほうが楽しいと思った。
だから母親の子守唄だと思うことにしていた。
ナギはソメイがいつも外を見ている塔の窓から、外界を眺めていた。
そこは時間の塔と呼ばれ、四千世界を見渡せる場所でもあった。
おなじ場所に立ち、おなじ視点で世界を見たら、もしかしてソメイの心がわかるかもしれない。
リリスがソメイに会いに来ていたため、ナギはひとりきりだった。
リリスのあんな表情ははじめて見た。きっとソメイだけにしかみせないのだろう。
ナギに対するときその美は恐怖となるのに、甘くやわらかな微笑につつむだけで、少女のような愛らしい顔になる。
リリスの緑の丈なす黒髪が、夜空にひろがり星になり、空気となるのを知っていた。例えようもなく美しい夜の母となるのだ。
あんな笑みをもつ女神が、鬼女となりうるほど、憎む気持ちを与えてしまったのは、人間のせいだ。
リリスの心の傷は深く、いまだ癒やされない。
夜という眠りと静けさを守り、小さな命に安らぎを与えてきたのに。
彼女をそうさせた憎しみの理由がかわかるナギにはつらかった。
時間の塔には時の刻みがなかった。
いつまでも時の上に留まり、いつまでも傍観者となってしまう。
人の子の運命に関与できない神にとって、見下ろす世界は、どんなにはがゆいものにかんじられただろう。
「なんでも持っているけれど、なにもないひと――」
それがソメイを一番あらわしているように思う。
眠りでさえ、彼をおとなわないのだ。
夜は寂しさを道連れにやってきては、思い出を呼びさますだけだ。
彼はナギに安らぎとエナジーを与えてくれるのに、ナギは彼になにも与えてあげるものがない。それがナギをよけいつらくさせる。
「彼の樹なのに、ぼくはどうしてなんにもできないんだろう……」
「ならば歌を歌ってやればいい。もちろん、普通の歌では駄目だがな」
無防備に心をあけはなしていたナギは、突然の来訪者に身を固くして、背後をみた。
シュラが風に吹かれてたち、微笑んでいる。
まさかここにソメイ以外のひとが来るとは思わなかった。
呆然としていたナギが、シュラの歩みがすすむのに、小動物のようにふるえ壁にはりつく。それを楽しみながら、さらにゆっくり間合いをせばめてくる。
「歌を捜してやればいい。兄上が求めている歌をみつけるんだ、ナギ。そうすれば、ソメイの心は必ずやすまり、眠ることもできるだろう」
「歌?」
頬をなでられビクリとした。
「そう、歌だ。兄上は、ずっと歌を求め捜している。けれどあの通り、世界すべてを支え統治している最高神だ。やつは容易に動くことができないでいる。だからこそ、いまだ姿を消した伊邪那岐の剣を見つけ出すことも、求める歌を探すこともできないでいるのさ」
シュラがなんの意味あって、そんなことをナギに教えるのかわからない。
彼の瞳には油断ならない光があることだけはわかるのに、その言葉にはひどく惹かれてしまう。
「綺麗になったな、ナギ。兄上といっしょの部屋で暮らしだして、よけいに磨かれたんじゃないか。どうだ、兄上は優しいだろう。やつは優しくてな、もっとも残酷な男なんだ。優しくしてはくれても、心は決してくれない。愛されはしても、愛してはくれない。心がここにないんだからね」
ひどく淫靡な顔でわらいながら言う。
「やつは冷たく残酷な男だ。父をとじこめ、世界を自分の手でもてあそんでいるんだ。完全な太陽がなければ四千世界は滅びへ向かうと知りながら、それでも父を解放しようとしない。自分の欲望のためだけに、世界を破滅させようとしている」
「違う!」
叫んだナギは、羽根を掴まれ小さな悲鳴をあげた。引き寄せられ、精気吸い取るように首にくちづけられ、に声をもらす。
耳もとでささやかれる。
「やつは渇えているんだ。それを癒してやるためには、歌がいる。――兄上になにかしてやりたいんだろうナギ。だったら、おまえがそれをとってきてやればいい」
ナギははっとしてシュラを見た。
「やつは動けないでいる。だからかわりに、おまえが
穢那から歌を聞いてくるんだ。彼女ならどんなことでも知っている。かならず歌をおまえに教えてくれるだろう」
「……穢那様とは、誰のことなのですか?どこに……」
ナギが興味を示したてきたのに、したりと笑う。
「幽界だ。邪気邪念、恨み妬みそねみに怒り、疑心そして欲望――ありとあらゆる負の感情がつど集い、魑魅魍魎や妖怪、影や罪業に穢れた者たちばかりが棲まう極悪の地だ」
地界よりももっとずっと下にある、最下層の世界。
そこを統率し、それらの者を治め配下においている女王こそが、穢那王なのである。
「おまえのように純粋なエナジーからなる天樹なら、きっと幽界にも降りて行ける。穢那から歌をききだせ。そして伊邪那岐の行方を問うてくるんだ。天樹ならばできる。ナギ、おまえならば穢那も口をひらく」
「なぜ、ぼくにそんなことを教えるのですか」
震えながらも、シュラに聞き返した。彼の底にひそんでいる真意がわからなかった。
その目はいつだってソメイを憎んでいる。油断ならない危険な匂いがしている。
「もちろん兄上のためだ。それに人民のためでもあることだからな。兄上のお心が多少なりとも収まるならば、父上は戻ることができ、世界はきっと救われるだろう。伊邪那岐の剣を取り戻しておけば、父上はきっとそこから伊邪那美の剣をまた再生してくださるにちがいないんだ」
唇に冷たい悪魔のキスがおちてきた。
ナギの悲鳴は一粒も残らず、吸い取られていったのだった。
「ナギ様はお美しくなられた」
それは城のだれもが認めざるえなかった。
天空に浮かぶ月を見ながら、森を歩くナギを見たものはみな、その稀な天樹の美貌に心をうばわれてしまった。
優しいエナジーに一度でも触れてしまったなら、きっとその精妙な存在を求めずにはいられなくなる。
月の光を浴び、黄金に色を染めかえた草むら歩くナギは、夢のように美しかった。
はかなくて玲瓏としており、不思議な懐かしさがこみ上げて、なぜか涙がこぼれてくる。
そっと天空をみあげているナギは、月の光に愛されているようにみえた。
あれほどナギを嫌うリリスの母星が、ナギを女神より美しくうつしだしている。
ナギは自然と心気が一体になってゆくのがわかった。自分のそばに誰かがいる。
このところ、森を歩くといつもその気配をかんじていた。
それは嫌なものではなかった。
ただ切なく悲しい気配がする。そっとみつめる眼差しであり、慕わしい思いがやるせなく伝わってくるだけなのだ。
ナギの翼は月光をうけて黄金に輝いた。
一枚の絵をみるような光景だった。
「そこにいるのは、だれ?」
黒い影がカサッとうごいた。
危険なものは感じなかった。
それはじっとみつめた。
ナギは警戒するのもわすれて、そのまま手繰り寄せられる糸にひかれるように、森の奥へと入っていった。
月が青さをました。長く鋭い影が、ナギに覆いかぶさった。
「おまえにはどうあっても、死んでもらわねばならないわ」
ナイフのような鋭利な声に、夢見るように漂わせていた意識を引きさかれた。
「リ…リス、様?」
彼女は月の光につつまれながら、ナギを睨みつけていた。
ここまで月の魔力でナギを呼び寄せていたのは、彼女だったのだろうか。
「月の女神よりも、月光に美しく輝くものは不要なのよ。おまえは消えなければならない。おまえは争いの兆しよ、ナギ!」
リリスの白い手がひらめくのに、その美しさにナギは目をうばわれた。
彼女の白いドレスがひろがりナギの意識をつつんでゆく。
ナギは重く落ちてくるまぶたのむこうで、飛び出す黒い影が、リリスに襲いかかってゆくのを見たような気がしていた。
冷気が漂っていた。
くらむ視界に目頭を押えながら、どうにか身体をもたげたが、希薄な酸素を吸うためには、肩で息をしなければならなかった。
いまだ自分の置かれている状況がわからなかった。
確認するように周囲を見まわす。
いまだみたことのない部屋にいる。ナギは床に転がされていたのだ。
窓の向こうがやけに赤い。
「なんて、ひどい……」
その世界に目をやったナギは、それ以上の言葉がでてこなかった。
あまりの惨状に我が目を疑う。
何もない荒れ果てた土地だった。
川だったらしい筋が引っかいたようにまっすぐ伸びているほかは、荒涼とした赤い岩と砂だけの土地が、延々と広がっているのみだ。
水もなければ緑もなかった。
ただ燃えカスのような森林の残骸が朽ちて砂風にむなしくゆれている。
瓦礫と化した建物の跡が方々に散らばり、その惨状の凄まじさだけをものがたっている。
「壁を一枚へだてた向こうは、室内とは比べものにならいくらい酸素が薄いのよ。擬似太陽のでている昼間は灼熱の地獄となり、夜は魂が凍てつく寒波が襲って来るわ。どうしてだと思う?」
リリスの声だった。
ナギはそこに立っていた彼女に恐る恐る眼をうつし、小さく首をふるった。
「それはね、人間のせいだからよ。あれほど緑豊かで、天球の楽園とまでよばれた永遠の月世界が、人間の愚かさのせいで完膚なきまでに破壊されつくしてしまったわ。ここに棲んでいた天人も野獣も人も、生命という生命は太陽の消滅とともに、すべて呪いの声をあげ、惨めに死んでいったのよ」
それは事実なのだと、事実を目の前に突きつけられている。毒のような言葉がナギを突き刺して、こころを蝕んでゆく。
「剣がこわれ、白銀の太陽は赤く照射して、わたくしたちを殺していった。そしてガイアお姉様まで眠らせてしまったわ。おまえたちはお姉様に寄生している泥人形のぶんざいで、その上、まだわたくしのソメイお兄様まで悲しませたのよ。――絶対に許せないわ。お兄様にとりいるなんてことをよくも!ナギ!おまえなんか死んでしまえ!」
呪詛に満ちたことばだった。
「リリス様、ぼくは……」
「気安くわたしの名を呼ばないで!お兄様もどうしてこんなろくでもない人間にばかり気を惹かれるのかわからないわ。どうかしてらっしゃるのよ。ねえ、どうしてあなたたちはそんなに愚かなの?なんでお兄様に応えてあげないの、薄情すぎるわ?!」
応えたい!
――こんなにも、応えたいのに。
けれど、そうできない歯がゆさがどれほど苦痛であるかは、言いあらわせない。
ナギは怒りにもひとしい苦しみの炎に、延々と燻されて続けている。
「かつてはあれほどに純粋な生き物だったのに、ヒトは愚かに進化し、わたくしの愛もお姉様の愛も踏みにじってしまったわ」
地球はこの悠久の宇宙に属し、神の重要な一部を形成している星だった。
ガイアはその永遠に生きつづける生命の源であった。
宇宙で起こるすべての因子をふくみ、生き物にうつしだし育て養ってきた。
だから蒼く美しい水の惑星は、驚くほどに生命に、みちている。
火星や金星と比較したとき、その生命の神秘が、いかに神によって守られてきたかをいつだって思いしらされる。
「わたしもお兄様も、どれほどお姉様を愛したかわからないわ。そして、人間もよ」
愛ゆえの怒りがあり、絶望がある。リリスもまた、ソメイの一部をなしている。
「お兄様はおまえに執着しすぎるわ。おまえは危険な存在よ」
「ソメイ様がそんなこと…」
頬をピシャリと叩かれた。
「口答えしないで!お兄様の気持ちもわからぬ下衆のくせに、知ったような口をきくな!――わたくしにはもう、お兄様だけしかいないのよ。ガイア姉様も眠り、そしてわたしの半身である妹、レヴェナまでも眠ってしまった。わたくしはたった独り。たった独りこの天空にとりのこされてしまった!もうお兄様しかいないのよ!」
リリスの心の悲鳴。
それが、彼女の凄さまじいばかりのソメイへの執着の理由であり、人間へのにくしみである。
ナギはリリスの気迫に飲まれながら、はじめて聞くレヴェナの名を口にしていた。
「レヴェナ様が眠っているって…?」
「そう、おまえの目の前にいるわ。よく眼を開き、その姿をみるといい!」
ナギは指される壁面をみた。
装飾の絵かと思っていた。それは、本物の女性だった。
リリスとそっくりの面ざしをしていた。
彼女はリリスと左右対照に髪をわけ、右半分の顔を隠している。
それだけなのに、あたえる印象が火と水のように異なっているのはどうしてだろうか。
「レヴェナは、月を守るために力をつかいはたしてしまったわ。人間が太陽を消滅させたとき、月もその破滅のエネルギーに引き込まれ爆破しそうになったのよ。それを食い止めるために――いいえ、わたしを助けるために、自らの
生命の力を使い果たしてしまったのよ!」
剃刀のような怒りがナギにむけられた。
言葉が終わらぬうちにナギは、彼女の扇に打ち据えられた。執拗なほど何度もリリスは怒りにまかせて叩きつける。
ナギは自分を庇おうともしていなかった。
母親に殴られているとき、いつもそうして苦しみをうけていた。
自分はそれを受ける義務があるのだ。
いや、月の女神のゆくかたない怒りは、受けてあげなければいけない。
血の糸が口の端から垂れた。
切れる息をつくと、リリスは続けて言った。
「わたくしはレヴェナを氷柱に眠らせたわ。甦えらせるだけのエネルギーが世界に戻るまで、ここで待ちつづけるのよ。わたくしはエネルギーを求めているわ。レヴェナの復活のためにも、お兄様にはもっと活力をとりもどしてもらい、最高神としあまねく世を統治してもらわなければならないのよ」
リリスの目は、すでに怒りと悲しみに濁り狂っていた。
「でも、シュラが教えてくれたわ。もっとはやくレヴェナを復活させる方法を」
ニヤリと笑った。
「おまえの血と羽根にはそれだけのエネルギーがあるのよ。おまえの命があれば、わたくしもレヴェナも、また元に戻ることができるの。月を再生させることができる!」
「ま、まさかそんな――」
リリスが、死の女神がゆっくり近づいてくる。
へたりこんだままのナギの首に、白く形のいい指が巻きつく。
リリスの髪がゆれた。
ナギは息を飲んだ。
レヴェナの氷柱の脇にあった鏡に、隠されていた半分の顔がはっきり映しだされたのだ。
「リリス様……っ」
「みたわね。わたくしのこの顔を」
髪からのぞいた左のがわは赤黒くひきつれていた。
焼け燗れたように目がつぶれている。
右の反面がより美しいだけに、その酷さがひきたてられ、より恐ろしく、より鬼のように怪異に見えてしまっていた。
その顔がどれほどリリスを傷つけているだろうか。思うだけで胸がいたくて、目をそらさずにいられない。
呪いの声があがった。リリスの人間を憎む怒りと、深い嘆きの声だった。
「醜いでしょう、わたくしの顔は。おぞましくてみたくないでしょ。これはね、太陽が爆発したとき負った傷なのよ。レヴェナの半分にも、わたくしと同じ傷があるわ。ねえ、あなたたちが何をわたくしたちにしたのかわかる?わたくしたちに与えた苦痛が、どれほどのものか、いまの美しいあなたにわかって?――憎いわ。憎くてたまらない。美しいあなたも、愚かな人間も、みんな絶対に許しはしない!」
哭くように笑ったリリスの顔は壮絶だった。
ナギは首をしめられるのに、もはや抵抗する気もなくなってしまった。
気位の高いリリスを苦しめた一つの理由がこのようなことだったとは。
もっと早く知っていたら、こんな無価値な小さな命で購えるのならすぐに差し出していたのに。
「グッ・・・」
ナギの喉が鳴った。
込められた力のためリリスの指の腱がうきたった。
最後の息が肺から抜けでた。
いや、それよりほんの数秒はやく、黒い影が二人のあいだをとおりぬけた。
首から離されたリリスの白い手の甲からは鮮血が流れていた。
「なにやつ!」
怒号とともに、リリスの手がナギから離れた一瞬の隙をついて、素早くナギを奪った。
野獣の黒い躯が逆立っている。
「レイか!このいまいましい野獣、まだわたくしの邪魔をする気か?!」
レイは喉を潰されているのか、グルグルという低い野獣の唸り声しかださなかった。
だがその目にもえる闘志は、リリスにも劣らぬ気迫にさかっていて、睨みあうふたりのあいだの空気に火花が散っているかのようだった
「この疫病神の鬼畜めが」
リリスは呪詛をこめて言った。
ぐったりしていたナギがピクッと動くのに、レイはハッとして、毒の息を押し殺した。
「レイ、あれほど痛めつけてやったのに、まだ生きていたとはね。しぶといやつだわ」
レイは用心深く、目だけはリリスからはなさないで、ナギを庇うようにして後ろにさがっていった。
背を軽くたたいてやるのに、ナギは息を吹きもどし、激しく咳きこむ。
目に涙をためながら、心配するように背をなでてくれる存在に声をのんだ。
「レイ――!生きてたんだ。良かった。無事でよかった…」
ナギは苦しいのも忘れ、レイにすがりついた。それから、ビクリッとして手をはなす。
「……こ、この傷は?」
獣毛にかくされている膿むような紫色の傷。
それは顔にも身体にもつけられていた。灼かれ切り裂かれたような傷跡だ。
喉にはトゲのついた銀の首輪が食い込んでいる。気道をふさいでいるため、息が今にも止まりそうになっており、きっと、動くのもつらい。
レイをだく手がふるえた。
「愚かな女ね、レイ。そんなになってまで、まだナギなんかを守ろうというの。二度と逆らいたくなくなるほどに責め立ててやったというのに、死の淵からこんなに早く復活してくるなんてね」
リリスは驚くような、いらだつような複雑な顔をしている。
たしかに、部下に命じて、地界にある、死の海といわれる、硫酸の海に投げ捨てさせたはずだった。とうていはいあがってこられるとはおもえない。
「何がそうまでさせるの。たかだか、人界で知り合いだっただけなのでしょうおまえたちは」
「ぼくと、レイが知り合い?」
ナギの言葉に、レイがピクリと反応したのに気づき、リリスは急に冷血な笑みをうかべた。
「ねえナギ、その鏡になぜわたしの真実の顔が映し出されたかわかる?」
「えっ?」
「それは真実を映し出す鏡といわれているのよ。次元を越える回廊ともなっているわ。わたくしがおまえのことを知っていたのも、この鏡にうつっていたからよ」
ナギはやはりこの鏡がそうだったのかと思った。
「レイはおまえのために、わたくしのかけてやった恩もわすれ牙をむいたのよ。異次元から迷い込んできたあわれな子供とおもい、情けをかけてやったというのにね」
「レイは、じゃあ人間界から来たの?」
「そう。この愚かな女はね、鏡に映しだされていたおまえの存在を、わたくしの目から隠すためだけに、この大切な鏡を割ったのよ。神世の代から、われらが姉妹のもとにあり、時空をあやつるといわれた天盤鏡をね」
怒りの深さのわりに、なぜそうも冷静に微笑んでいるだろう。
レイはリリスの真意を悟ったのか、今にもとびかからんばかりに牙を剥きだしている。爪を鋭く床にたてている。
獣面なのでわかりづらいが、悲壮といえるほど、悔しげに歪んでいた。
「この鏡はどうしてもなくてはならないものなの。お兄様の城にある鏡と一対でこそ、存在すべきもの。でなければ天界とのバランスがたもてなくなり、月は地球の守護者として用をなさなくなるわ」
夜を守護する月がいない夜からは、簡単に魔が流入してしまう。
「だからね、わたくしはお仕置きをしなければならなかったの。ねえナギ、レイはいったいどうなったと思う?」
「なに、を……?」
「まこと人間とは愚かな存在だわ。鏡にレイの姿を映してみるがいい、どのような姿が映るか楽しみねえ」
リリスが声をたてて笑った。
レイは怯えるようにナギをみた。
琥珀の瞳が、大きく見開らかれていった。
鏡の前から逃げようとした。
レイはいきなりギャッと悲鳴をあげ倒れた。身体から煙があがっている。
リリスがなにかを投げていた。引きずられるようにして、レイは鏡の前に連れてゆかれた。
レイの姿が鏡に映った。
鏡面が波打ち、レイの姿を、いや、少女の柔和な相貌を、はっきりと浮かびあがらせる。
「だ…れ…?」
気の強そうな、美しい顔だちの少女だった。
まさかこんな可憐な少女が、獣鬼だと蔑まれている者と同一人物だとはおもわれない。
黒いも瞳も髪も艶やかで、もう少し育ったならば、人界でどれほどその輝かんばかりの美貌を誇っていただろうか。
「莉野――。そう人界ではリノと呼ばれていたそうね」
ヒクッとレイがした。その名をもつ者を、ナギはたったひとりしか知らない。
まさかそんな――。
だが少女の姿は、たしかにシンに似ていた。いや、それよりももっと、あのあでやかな、あの薔薇そのもののようなひと、綾子に似ているではないか。
そう、シンの妹の、リノだ。
「だって、リノちゃんは……っ」
「こやつはおまえの代わりにこの世界へ
墮ちてきたのよ。おまえが喰われるかわりに、闇に喰われたの。わたしはそのけなげさに打たれて慈悲をかけて、側女として置いてやっていたというのに」
「うそ…そんなこと、うそだ……」
ナギはうわごとのように言った。聞いていなかった。
レイを、いや、リノだけを見つめていた。
醜く変貌してしまった己の姿を恥じるように、リノは身を震わせ、つらそうに、顔をそむけた。
「わたしは割れた鏡のかわりに、美しかった少女の身体を鏡へと転化させてやったのよ。そのかわりに、リノの魂には、わたしの呪いとともに、新しい魔獣の身体をくれてやってね」
クククッと喉をふるわせる。
「その醜く呪われた獣鬼は――首からうえと心臓だけしか本物ではなのよ。すべてが造りものの玩具なの。レイってね、奴隷の隷のことよ」
言って、おかしくてたまらないよう甲高く笑った。月界中にひろがる呪いのようだった。
「……どうしてそんなことを!」
ナギが我慢できないように叫んだ。
聞いたこともないほど怒りにみちている悲痛な声だった。
こんなに感情が逆巻くのははじめてだった。
リリスに対してではない。自分の無知と愚かさに対してだ。
なにも知らなかった。リノの心も思いも優しささえも、こんな絶望の縁にあるような苦しみにさえ気付かずに、当たり前のように生きていた。
彼女がひとり闇に墮とされているあいだ、自分はシンと二人でどれほど幸せに過ごしていたかしれない。一体自分はなにをしていたのだ。
「リノ・・・・」
うなだれたリノの目から涙が溢れこぼれた。
彼女はきっと、ナギにだけは知られたくなかったにちがいない。
見ないで欲しかった。こんな醜い姿など、いますぐにでも忘れて欲しい。
ナギにだけは、幼く愛らしいかった頃のままのリノを覚えていてほしかった。三人で遊んでいた姿だけを。
リノの頬を毒の涙が灼きこぼれた。本人までも傷つける禁忌の涙だった。
「ごめんね、リノちゃん」
リノの涙に満足げにリリスは笑った。
ナギはたまらなくなり、リノを抱きしめ顔をかくす。羽根が広がるとリノの姿ごと覆い、誰の目からも覆いかくすように羽根は閉じられた。
彼女をおそった痛みも傷も消え去ることをひたすらに願うナギのエナジーが、まばゆい光を放ち、ひかりの華になった。
幼かった可愛いリノが、おしゃまな笑みで、ほのかに恥らいながら、ナギの耳にそっと語りかけてくる。
『リノはナギお兄ちゃまが大好き』
『大きくなったら、リノお兄ちゃまのお嫁さんになってあげるわね。そしたらね、シンお兄ちゃまとも皆でいつまでも一緒に暮らせるでしょ』
なのに、リノはナギの代わりにこんな世界に堕ちてしまった。
そのうえまだナギを庇い、こんなにボロボロに傷ついている。
いままで天使や鬼たちに見つからずに安穏と暮らせたのは、みんなリノのおかげだ。
「リノちゃん……」
「なに、この光は?!」
リリスはおもわず目をかばい、勝ち誇ったような笑い声がとまった。
光をどんどん増し、光そのもののように発光するナギに悲鳴をあげた。
天樹が放つという聖なる光。
鏡に反射され、リリスを直撃していた。
光はリリスをもつつみこむと、意識を灼き切っていた。
床にくずれた。
ナギは泣いていた。
リノの一途な心に涙がほとばしり、とめどなく流れる涙は、頬を灼くリノの涙を中和して、傷をいやしていった。
『ナギ』
誰かが呼ぶ。
『ナギ、ナギお願い』
ナギは動かなかった。
羽根にそっと触れたかと思うと、あたたかい手がふわりとナギをだきしめた。
極められた純粋なエナジーが流れ込み、悲しみに凝り固まっていたナギのこころがひらかれていった。
それと同時に、翼もまた、ゆっくりと開いかれていった。
リリスが、ナギを抱きしめていた。
ちがう。リリスではない。顔は数分たがわず同じであるが、爛れている反面が左右逆だ。
幻のようにたゆたっているその影は、レヴェナである。
「あ……」
『早くお逃げなさいナギ。リリスの意識をわたくしが抑えているうちに』
「レヴェナ、様――?なぜ、あなたがぼくを!」
人間を憎み、ナギを最も憎んでいるはずのひとなのに、女神は、なぜナギたちを助けようというのだろうか。
それとも、これは巧妙にしかけられた、別の罠のはじまりか。
『ナギ、わたくしは、誰も憎んでなどおりません。わたくしはただリリスを独りにしてしまったことだけを悔いているだけです。現実から逃げ、一人で氷柱で眠ってしまったせいで、姉の心はひどく病んでしまった。悲しみを憎しみにすりかえ、暴走するのをわたくしは止められなかった。すべてはわたくしのせいです。本当のリリスはこんなに残忍でも臆病でもなく、いつもわたしを守ってくれていた優しい姉でしたのに……』
リノに、そうっとさわった。
うなりをあげていた喉にくいこんでいる首輪が、ボロッと崩れた。
ナギは、リノの痛んでいた傷がいつのまにか治っているのに気がついた。邪気によって変形していた顔や指でさえ戻っている。
リノのオーラの中にはナギの輝きがみえる。まるでナギの羽の中で、癒しの光を浴びてきたかのように。
『すべてはわたくしの弱さのせい。……ごめんなさいねリノ、ナギ。リリスのやったことをすべて許してとはいえないけれど、でもいまは早く逃げてちょうだい。でないともうすぐ――』
「もうすぐ、なんですか、レヴェナ姉上」
『シュ、シュラ?!』
シュラは意地悪く眼をひからせて言った。
「めずらしいことだなレヴェナ。リリスの意識を抑えこんでまで口出ししてくるなんて。でも、せっかくわたしとリリス姉上で連れてきたんだ。こんなに簡単に逃がしてしまうな愚かなまねは、ご遠慮願いたいね」
レヴェナの顔がひきつる。
『早く逃げるのよ!この男は、本当はあなたを――」
「消えなさい姉上。あなたは邪魔だ」
『ナギ、気をつけて!シュラはリリスを唆して自分が本当は――』
彼の口元が笑みにひるがえった。
言いかけたレヴェナの姿は、そのまま水に溶けるように消えてしまった。
シュラは平然とナギに眼をやった。
「ナギ、おまえにはゆっくり聞きたいことがあるんだ、そう、いろいろとね」
近づいてくる靴音がやけに大きい。
足もとに倒れているリリスなど見向きもせず、踏みつけるようにゆっくりやってくる。
激しい危険信号が頭の中でなり響いていた。このままでは、危ない。
「リノ、逃げて早く!」
ナギは牙をむいたリノを鏡の中に突き飛ばした。そのまま鏡に飲まれていった。
シュラは気に止めもせず平然と笑っている。
もはや彼の本性のままの残忍さを隠そうともしない。
「優しいんだなナギ。でも残念だが、オレが用があるのは、おまえだ」
ナギはシュラの冷たい手が腕に食い込むのを感じた。
羽根を折りとられ、悲鳴が虚空に響きわたっていった。