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天上の樹

7

 

 『シン……』
 消え入りそうな苦しげな声。
 『シンっ、助けてっ』
 胸をつらぬくような鋭い呼び声がシンの胸をつらぬいた。
 たまらないようにシンは必死であたりをみまわす。
 「ナギ、どこなんだナギ?! 答えろよ!」
 ほんのりと瞬く、光の粒が転がってくるのが見えた。シンの足にぶつかりとまった。
 「ナギ……」
 それは、ナギの涙だった。
 光の粒がころがり落ちる先にナギがいて、ぽろぽろと涙をこぼしている。
 宝石のような美しい瞳からあふれた涙は、しだいにナギの周囲をうめていた。
 シンが近づこうとするのに、それらが邪魔をしていて、まえに進めない。
 ナギは顔を上げた。
 シンを見た。
 ナギはこんなに美しい顔をしていただろうか。
 こんなに、今にも消えそうにはかなげだっただろうか。
 人界にいたときから存在感は薄かった。今にもどこかへ行ってしまいそうな危さはあった。だがこれほど幻想的な美しさではなかったはずだ。
 こんな風に泣くナギは、胸がいたくて、こちらが涙が出そうになる。
 シンはナギの羽根を飲んだ。 
 それは甘くて、胸にあたたかかった。
 無限にひろがる慈愛の海が、押し寄せるようにシンをおおい、あきらめかけていた、生きるという灯火を、ふたたび与えてくれた。
 いまさらのようにナギがどれほどシンを慈しんでくれていたのか思い知らされたようだった。
 けれど、それと同じぐらい深い孤独の味もしていた。
 ナギをいつも取り囲んではなさない底なしの沼のように恐ろしかった。
 二人で過ごしていたときは、なにも怖いことなどなかった。
 何をすべきか知っていたし、どうしたいかも互いにわかっていた。
 一人のままだったら、シンはすべきこともわからず、闇の底で迷い死んでいただろう。
 いつもナギがいたから、行くべき先を見失わなかった。
 ナギの羽根が、エネルギーによって、何がおこっているかシンにすべてを教えてくれた。
 羽根を飲んだその晩、ひどくシンは苦しんだ。
 受けいれられないほどのエネルギーが、シンの渇えていた身体を一気にかけめぐり、体中の細胞を灼いていった。
 エネルギーは飢えた獣のようなシンの体内を犯し、光の矢で全身をつらぬき心臓をにぎりつぶそうとしていた。
 苦しい眠りのなかで、シンはのたうちまわりながら何度も夢を見たのだ。
 ナギの夢を。
 いや、それは夢ではなかった。
 事実なのだ。
 ソメイという男がいた。
 ナギの主だといっていた。
 その男は無惨にも羽根をもぎとり、角を突きたてた。ナギを自分の『樹』にするための印をつけたのだ。
 ナギは悲鳴をあげて気を失った。痛みはシンにも同じように伝わった。
 ナギの命はショックで消えかけた。
 男はそれさえも許さず、むりやり現実に引き戻してしまった。
 寂しい場所にいつもナギはいた。
 人界でもけして幸せでなかった魂は、さらに孤独のなかにいて怯えている。
 高飛車で自尊心のつよい天人たちはナギを快く思わず、何度も事故をよそおい傷つける。
 ののしられ、指輪で引っかかれ、最も敏感な羽根を折られた。それでもナギは何も言わなかった。
 悪意で傷つけられた羽根はどれほど痛かっただろう。
 月の女神が影で操っていたのがほとんどだった。
 ソメイは無理やり自分のものとしておきながら、ナギをまったく必要とせず、庇おうともしなかった。
 冷たいほどに無関心のまま、目をそらしているではないか。
 「いつも造る側は勝手なんだ。頼んでもいないのに造っておいて、必要となくなればその手を離す!」
 ナギは彼に必要とされたがっていた。
 誰にも望まれない子供は、生きては行けないのだ。
 愛を欲して、必要とされたがり、だから子供は親の言いなりのロボットになる。
 自分では気づかず言うがままの感情の無いロボットとなってしまうのだ。
 シンは夢からさめたとき、自分の身体が熱そのもののように燃え、変化していることを悟った。
 周りから魔物たちがいなくなっていた。
 つながっていたはずの魔界への入口は、シンの波動が浄化されたことを物語るように、消えさり、屋根裏はいつものとおりに静まりかえっていた。
 シンは顔をあげた。
 涙が目からとめどもなく流れていた。
 そこには母親の霊が立っている。
 彼女の霊はごく稀だが、シンのそばによってくることがあったのだ。
 いつも無言でシンをみつめるだけ。
 ずっと恨んでいるのだと思っていた。おまえを産んだせいでこうなったのだといわれているような気がした。
 シンにはなぜか母親が乱暴されている記憶があった。彼女に宿るより前のことのはずなのに。
 その憎しみの種こそが自分だと思っていた。だから母親に嫌われるのも仕方がないのだ。
 けれど違った。彼女の霊は、ずっとシンのそばにいた。
 シンのそばで、彼のことを心配してくれていたのである。
 シンはやっとそれに気づき、人の心というものを理解していた。
 ナギの羽根をたべることで、ようやく他人の心を――人間の孤独がわかったのだ。
 「ナギ、やっとわかったよ。すべきことがみつかった」
 シンは意志をかためていた。
 鏡に映っていた、背後にいた少年にふりかえると強く言う。
 「ナギを取り返すぞ」
 少年はその意味がわかったのか、嬉しそうに目を輝かせた。
 シンを覆っているシールドなどものともせず、抱きついてきたのだった。




 その少年を逃してやったのはほんの気まぐれだった。
 まだ幼かったし、地上に帰ろうともがき、みているほうが哀れなぐらい必死であった。
 樹として分別される検査所から、天使たちの目を盗み、頼りないほど小さな体でころがるように逃げだしてきていたのだ。
 そのあまりの懸命さに惹かれてしまった。
 わが身を省みないまでの無上の覚悟と強さがあった。
 抱きあげた少年は、泣きそうな顔で帰りたいとうったえた。憐れであった。
 その口からでた名前が、母親でも肉親でもなかったことに心が揺ぎ、帰してやったのかもしれない。
 ソメイは最初、ナギの魂がミササギに似ているとはおもわなかった。
 そんな理由から、シールドをかけてやり、監査官の目から守ってやったのではなかった。
 ナギのなかには、どこにもミササギの証である聖痕はなかった。
 今にも消えいりそうな小さな魂が、それほどまでに帰りたいと切に願うのなら、誰かがただの一回でも叶えてやってもいいでのではないかと思ってしまっただけなのだ。
 帰っても幸せになれないことはわかっている。母の手は何度でも彼の首を絞めるだろう。
 それは現実、運命となっておとずれた。
 ソメイのこころなど無視して、ナギをふたたび彼のもとへ連れてきた。
 魂は悲しみに硬質なまでに純化されて、放つエナジーは気高く澄んでいたのに、粗悪なつくりものの翼が、本当の美しい翼をおし殺していた。
 有無をいわせずそれを抜き取ってしまった。
 なぜだかナギを汚しているようで許せなかったのだ。
 急変した波動が安定するまで銀の角をうめこみ、バランスを保ってやった。
 理由をしらなければそれもまた、ひどく残虐な行為であろう。
 ナギが聖樹であることはわかっていたが、さすがのソメイも、まさか絶滅してしまった天界樹になるとは思っていなかった。
 ナギは我知らずか、羅天(らてん)の歌をうたっていた。ときどき、本人も気づかず口づさんでいるのを聴いていた。
 泉のみずを浴び、身体のすべてが変化しきったとき、なぜかソメイはナギを抱きしめずにはいられなかった。
 そんな衝動が駆け巡ったのは初めてだった。
 ミササギが死んで以来、その転生だけを待ちつづけていたソメイにとって、自分が誰かに抑えられないほどの気持ちが湧くとは、とうてい信じられないほどだった。
 初めて食べた羽根の味に、ソメイは体が切なく疼くような思いがした。
 懐かしい音が聞こえてきた。
 甘く苦々しい、なんであるか表現できないような感覚がソメイを包みこんでいった。
 涼やかで繊細な音が聞こえてきて、いてもたってもいられない気持ちにさせられるのだ。
 ソメイをみつめる、ナギの瞳の愛しさを、ずっと昔からしっていた気がする。
 いつだってソメイは見ていた。
 ナギがなにを思いなにを見つめているのかわからなかったけれど、今にも消えそうな灯火のなかでさえ、とまどい心を痛めながら、それでも一人の少年のために生きていることを。
 リリスが狙っているのもわかっていたし、シュラが得体の知れない行動をとっていることもとっくに気づいている。
 なのにナギが悲鳴をあげても、助けようとはしなかった。
 苦しんでいるのに、手を差し出さなかった。
 逃げたのかもしれない、ほんとうは。
 「わたしは――恐れている。あの瞳に、つかまることを……」
 人間に惹かれることなど、二度と許さないと思っていた。
 ソメイたちの手によって、気息なく、魂も血も、人の形を持たないただの人形に、呼吸と心を吹きこみ、人間とした。
 その人形に、心を惹かれることなど、もう二度としやしないと、心に固く決めたのだから。
 妹ガイアの愛で育つ人間たちを見ているのが好きだった。
 より良き方向へ進むことを願いつづけていた。
 楽しそうな羊の群れを、うらやましくみているたった一人の見張り番だった。
 その営みを見続けることが使命だと思っていた。
 だが最近になり、気にかかることが起こり始めている。異分子の存在がおおきくなりつつあるのだ。
 一部の天人や天使たちが、人界へ進出しているのは承知していたが、彼らはことごとくシュラのもとに集まっている。
 エネルギーの不足を人の血と命で直接補うことを提唱していた輩であり、もちろん、そんな勝手なことは許しはしない。
 地界の魔物たちは、すでに欲望のおもむくままに行動しはじめ、それを禁じるために追撃部隊も差し向けている。
 それよりもなお、いまソメイが気になっているのは、別の存在だった。
 ――シンである。
 なぜあんな小さな子供が気になるのかわからない。
 ナギが魔鏡としらず、覗きみていたことで、はじめてその存在の妖しさに気がついたほどだった。
 なのにソメイのなかの何かが、世界の分率が狂ってきていると警告を発している。
 その中心にシンがいるという確信がある。
 むしろ人界の邪念や、恨みつらみの欲望と、それにともなう、自我の拡大による波動率の変化のほうが大きいはずだ。それにくわえて環境の悪化などで、人体構成が裂傷してきている。
 シンという存在が象徴している意味がわからない。
 だが、意味のない存在はいない。
 だからこそ不吉な予感がする。
 わかっていながら、なぜ羽根を飲ますことをナギに教えたのだろうかと嘲笑してしまった。
 ソメイはっとして笑いをおさめた。
 森が悲鳴をあげ呼んでいる。
 庭に目をやった。
 ナギを守っていたシールドが膨れ上がったかとおもうと、不意に消失してしまった。
 嫌な胸騒ぎがしきりにソメイを森へと急立てているようだった。




 あたたかくしっとりした闇が包んでいた。
 鼓動がきこえていた。
 まろやかな歌声のようであった。
 まだ愛されていた記憶のある、子宮の宇宙に戻ったようで、ナギはいいしれぬ幸せを感じていた。
 もしかして生まれてくる前の子供はみんな、こんな風だったのかもしれない。
 幸せな気持ちで、母親と対面できるその日を心待ちにしている。喜びにみちた笑みを見るために一生懸命に産まれてくるのだ。
 そこにいるときは、すべての事象を手にしていた。
 宇宙の成立ちも、法則も、輝かしい未来の黄金率さえも、ナギのなかにたしかに存在していた。
 何もかもが生まれると場所はひとつであり、人も岩も植物も、ありとあらゆるものが魂をもち、耳を傾けるものにだけ真実を告げている。
 ナギはきこえてくる懐かしい歌に、心が満たされていった。
 この生命となる以前から、そして生まれ出でたのち、ここにいたる今でさえも、それはずっと歌をうたい続けてくれている。
 「羅天(らてん)――」
 吟遊詩人のような派手な出で立ちをしていた男が歌っていた。
 髪に鈴をつけ、手に竪琴をもち、ありとあらゆる音を楽しそうに奏でている。
 不思議な(ひと)
 どこからきてどこへ行くだろうか。 
 そのひとが、本当に生命体であるのかもわからない。
 もしかしたらただの幻影か、または誰かの思い出のなかにある残像だったのかもしれない。
 彼は輪廻の枠からずっと遠く外れた存在として、永遠の歌をうたっていた。
 ソメイたちともまったく違う存在でありながら、宇宙空間を漂い、謡つづけ、悠久の時をわたっている。
 ナギの耳にそっと語りかけてくる。
 その歌を、ナギが口ずさみ、繰り返すまで。何度だって歌いきかせてくれる。
 歌はナギの体の内から息吹をあげてきた。
 まるでもがれた羽根のぶんだけ、優しく大きくなれるような気がする。
 ――喰われたのなら恨みがのこる、だが喰わしてやったのだから、あとに残るのは誇りだけだよ。
 羅天(らてん)の歌がささやく。
 「誇りが、のこるの?」
 ああ、とナギは感嘆のため息を漏らした。
 なぜ植物たちがこんなにも美しいのか、やっとわかった気がした。
 気高く叡智に満ちていながら、かれらが卑小で愚かな生き物に、その身を惜しまず与えているのか。
 ――樹は、知っている。樹は、君が仲間だということを。樹は愛している。君の優しさを。
 ナギは心地よい風に吹かれて目をつぶった。緑をわたる爽やかな葉擦れの音がした。
 「ナギ…」
 心地よい温もりが背中をなでる。
 「ナギ?」
 心配げな、ささやくような声。
 「ナギ、大丈夫か、ナギ?」
 目をあけ、無垢なナギの心をさ最初に占めたのは、うつくしいソメイの顔だった。
 ソメイは心配そうに眉をよせ、深い、宇宙の果てのような深淵の瞳でただじっとナギをのぞきこんでいた。
 頬をなで、名をよびかけている。
 ナギはソメイの腕に抱かれていた。
 シュラたちから守るため、木々はみずらの腕で抱きこみ、みどりの奏でる歌でナギを包みこんでいた。
 まるで我が子を守るように自らの宇宙を閉じていたのに、彼らはソメイが来たのをしると、安心したようにナギを渡したのだ。
 大木の下に、樹の枝にかたくくるまれた大きな塊をみつけたとき、周りを草花たちがとりかこんで咲き乱れていた。
 漏れ聞こえる歌に導かれるように虫たちが飛びまわっていた。
 ラテンがその周囲を漂っているのをソメイはみた。
 彼は歌をうたっていたのだ。
 ソメイの前に、かれらは守っていた塊を差し出した。
 木々はゆっくりと包みをほどき、ナギをソメイに返してくれたのだ。
 「……ソメイ様?」
 ソメイが微笑んでやると、ナギは安心したように笑った。
 身も心もあけわたすかのような笑顔のうつくしさに、ついソメイは見入っていた。
 ナギは首に手をまわした。
 驚くのにもかまわず、ソメイに抱きつくと肩に顔をうずめた。
 そのままナギは動かなくなってしまい、ようやく眠りにおちたのだと気づいた。
 「ナギ……」
 ソメイはとまどうように名を呼んだ。
 背をなで、頬を寄せているナギの髪に狂おしそうにキスをおとす。
 ソメイは何かを耐えるように唇をかんだ。
 立ちあがり、そのまま、ナギの眠りをさまたげないように、そっと城へ戻っていった。
 いま一瞬だけ、感情がほとばしるのを、だれもとめることができなかった。




 目を覚ましたナギは、自分がいままでにない温かいぬくもりに包まれていることに気づいた。
 心地よい熱は肌に染みいり、安堵の眠気がまたおそってくる。
 シンのもとをはなれ、こんなに安らかいだ気持ちでいるのは初めてだった。
 ここにきてから、何もかもをまかせきるほど安心して眠れたことはない。
 小さな眠りはナギをいつも苦しめたし、不安と恐怖のため、小さな物音にすぐ目を覚ましていた。
 ナギはずっと闇の恐怖にたえて、朝がくるのを待っていた。
 傍らにあるこの大きなぬくもりはそれらすべてを忘れさせていた。
 ナギはおおいなる眠りを捕まえようと、その温もりをおってしまう。
 頬をすりよせ、肩を抱きよせられて、ようやくナギは理解する。
 自分が見知らぬ部屋に寝ており、そして、そのとなりで抱きしめてくれている者は――
 「ソ、ソメイ様……?! 」
 驚き、とび起きかけたナギの腕は引き戻された。
 抱き込まれるとじっと間近でナギをみつめていた。
 漆黒の瞳には、心をうばってしまう魔力がある。
 体中の力が抜けるようで、そのままソメイの温もりのなかから動けなくなる。
 「ソメイ様……どうして、ぼくは……?」
 ナギの掠れたような声が甘く薄闇にきえた。
 ソメイがはりついた前髪をはらうのに、ナギは自分がどうしたのかを思いだす。
 シュラに襲われそうになり、木の枝がナギを包み、助けてくれたのだ。
 でも、どうしてそれがソメイのそばにいるのだ。
 「ソメイ様……?」
 「木が、わたしに頼むといって、おまえを返してくれたんだ」
 「えっ」
 フッと笑ったソメイに、ナギは真っ赤になってそれ以上聞けなくなってしまう。
 夢うつつだが、自分のしたことをなんとなく思いだしてしていた。
 甘えるように抱きついたまま離れないナギに、仕方なくソメイは一緒に眠ってくれたのだった。
 いまさらながら、なんて大胆で身のほど知らずなことをしたのだろう。
 「あ、あの…申し訳、ございませんでした……」
 消え入るような声だった。
 恥ずかしくて、顔さえ見ることができない。いっそこのまま死んでしまいたいほどだ。
 ソメイの手が小さくなっているナギをそっと引き寄せた。
 「木々たちに頼まれてしまったんだ。……これからはこの部屋で一緒に暮らすといい。下の部屋では、何かと気が休まらないのだろう?」
 「えっ、あの……?」
 彫像のように整った不動の表情から、その言葉にひそむ真意を読みとろうとした。
 ナギはまぶたを手でおおわれた。
 みなくてもわかる。
 きっと、彼のその高潔な瞳はなにもかも、すべて見通している。ナギをわかってくれているのだ。
 森の木々にもにた、深いソメイの慈愛のなかで、ナギはソメイの鼓動に包まれていった。
 そして、また至福の眠りにおちていったのだった。




 初めてソメイの居城にはいったあの日、彼の部屋で、ひろく暖かい波動に包まれて眠った。
 それまでは一度も、かれの聖域に踏みいれたことはなかった。
 それ以前にそこへ近づいたことさえない。
 部屋は庭を一望できる高みにあった。
 おおきな窓からは、ナギが水を浴びた泉が見えている。
 華美な装飾もなく、家具もいたってシンプルで、厳選されたものだけがわずかに置かれ、よけいなものが一切ない。
 人の手を必要としない空間だった。
 整然とした静けさが、ソメイらしいと思えてしまう。
 なにも彼は求めていない。
 欲も得もなく、自分の偉大な力でさえ少しも顕示しようとはしない。
 ただ遠くを見つめる瞳だけが、彼の求めているものを追っていた。
 だからナギの存在も、きっと、ソメイの視線の向こうに消え去り、一つの風景としてしか存在していないのだ。
 あれからナギは、彼の腕で眠るようになっていた。一緒のベッドで眠り、同じ場所の空気をすっている。
 ソメイの波動はいつでもナギを包み、満たしてくれはしたけれど、少しもちかくに感じられることはなかった。
 ソメイの孤独は、寄ればよるほど、大きくなって、きっと広大な宇宙の壁に阻まれて、真実の姿さえみせてはくれないのだろう。
 ナギは寂しかった。
 あれほどソメイに必要とされたかったのに、やっとそばいることを許され、触合うことができたいま、間近にみたソメイの心は、もはやここにないのだとわかってしまった。
 ヒサギたちの冷たい言葉を浴びていたときより寂しさが募ってしまうのはなぜか。
 リリスたちの殺意に曝されるよりも、ソメイの目に映らぬ自分をみる方が、より自分の心が枯れて死んでゆくようであった。
 ソメイはあまり眠らなかった。
 目を覚ましたとき、かならず彼は目をあけていた。
 ナギに気づかず、ただ暗闇を見つめている。
 何をみていたのか、遠い瞳。
 ミササギ――。
 その口がそっとその名を形どり、愛しげに呼ぶ声を聞くたびに、ナギの胸ははちきれそうになってしまった。
 もしこのひとが安らかな眠りにつけるのなら、ナギはどんなことでもしようと思える。
 たとえ、地のはてであっても、ミササギの魂を捜しにゆきたい。
 このひとに、安らぎを与えてあげたい。
 ソメイは、ナギの不安げな子供のような視線に気づくと、胸を締めつけるような笑みを浮かべた。ナギはやはりそこに自分がいないときづいた。
 こうして一緒に部屋においてくれはしても、それはきっと彼がナギを自分の樹として引き取った義務感からなのだ。
 突き放すこともできず、おびえる子供を手元においてくれたにすぎない。あの時と同じように、ただのきまぐれなのだ。
 わかっている。それすら、贅沢なのだと。
 身にあまる好意なのだとわかっているのに、心はなぜそれ以上のものを求めてしまうのか。
 ナギはひとり離れにある塔に登っていた。
 螺旋状の階段の果てに見える光を追い、高く、どこまでも続く急斜面を歩いてゆく。
 息がきれて、頬が冷たい空気にひえていった。
 ナギはずっと、その先に何があるのかと思っていた。
 庭の森からその塔を見上げていた。
 何がそこにはあるのだろうか、なんであんなに高いのだと、そんなことばかり考えていた。
 ソメイのすむ宮殿にきて、はじめてそこに塔へ通ずる階段があるのをみつけた。
 ずっと迷い続けためらっていたが、なぜかいま、登らずにはいられなくなってしまった。
 もうどのくらい登ったのかはわからなかった。
 頭の中が真っ白だった。
 階段がとつぜん途切れた。
 目が開けられないほどの光がナギの目を焼いた。
 頂上だ。
 大きな、ガラスの張られていない窓が、くりぬいたように四方にあけられている。
 その窓枠にもたれ、ソメイがたったひとり座っていたのだ。
 ソメイは光のなかで風に髪をなびかせていた。
 はるか遠くを、深い思いのまじった瞳で眺めていた。
 ナギはそこにたたずんだまま、入ることも、声をかけることもできず彼をみつめていた。
 張りつめた空気を破れない。
 神の双眸は、空高くそびえる楼から何をみているのだろう。
 ナギはあらためてソメイを美しいと思った。
 光に透けて、空に溶けこんでいた。
 二人だけしかいない空気を吸いながら、いつまでもとどまっていたい思いにとらわれる。
 ラテンの歌が風にまじってさざめいていた。
 冷たい風が頬をなぶり、歌はなぜか途中で終わった。
 ソメイが振り向いた。
 ソメイの不意の質問に沈黙がやぶられた。
 「おまえは、ラテンを知っているのか」
 「えっ?」
 彼の目は、ナギのまわりを踊るように漂っている詩人の姿をおっていた。悩ましそうに目をほそめながら、
 「歌を半分しか思い出せないんだ」
「ソメイ様?」
 「ラテンに教えてもらったはずの歌なのに、なぜか最後まで思い出せないんだ。――きっともうラテンはわたしのもとには来てはくれない。けれど、おまえには、歌をうたっている」
 なぜだ、と問う瞳に、ナギはただ黙って首をふる。
 風がザッと吹きぬけた。ナギの翼がゆれ、髪が頬をなぶり空気にながれた。
 思い詰めたような顔のまま、ソメイは重く口をひらいた。
 「人界は、もう終わりだ」
 ナギは一瞬、聞き違いかとおもった。
 恐れるようにソメイをみた。
 彼の表情はなんら変わっていない。
 言うべき言葉をさがしているナギを、ソメイはじっと見つめている。
 「人類はいつも過ちを犯してしまう。何度やりなおしても同じ道をたどる。人は退化しつづけ、ついに破壊をのぞむ生き物となってしまった」
 失望と哀れみのまざった思念がおしよせる。 
 「人間はどうして滅びゆく道ばかり選ぶのだろうか。――やはり、またこんども、終末を選ばなければならないのだろうか」
 窓の外にひろがる四千世界に目をやった。
 なにを見、何を考えているのだ。
 「どんなに知能をあげ、力を与えてやっても、最終的にはおなじ答えにゆき着いてしまうんだ。細心の注意をはらい、神と呼ばれる天人にどんなに似せて造ったとしても、たかが千年そこらの寿命ですら保つことが出来ずにおわってしまう。同胞を殺し、自然に逆らい罰せられるままに、どんどん命を縮め退化するんだ」
 人は、いつから疑い、憎みねたむことを覚えたのだろう。
 超常の力は、それを否定する者たちの猜疑心によって、まどわされて消えさってゆく。
 他に依存する、消費型の破壊のエネルギーからうまれた科学の力では、争うための道具しかつくりえない。
 「鳥や獣でさえ、三日先のことぐらいは知っているというのに、人間は一寸すら見えぬままだ。自分たちのもつ科学の力に自惚れ溺れ、自然の示す象徴すら読めずに終わってしまう。人の曇ってしまった知力には、一枚の葉ですら解明できないんだ」
 それだけの能力は十分与えているはずなのにと、ソメイは言う。
 ナギには、人間の愚かさを責めているソメイの方がつらそうにみえた。
 彼がどれほど人間を愛していたか、ずっとより先の世界へと導くために努力していたか、わかってしまった。
 「創造した生命が勝手に力をもち、心の力で物事を起こし、進んでゆく姿をみるのは楽しかった。だがそのうちに、心が汚れて読めなくなってしまうんだ。気がついてみれば、維持できないほどの文明を築き、さらなる拡大を求め、滅んでしまう。文明は大きくなれば必ず滅びる。消費という構造を止めぬかぎり同じだ。資源の収奪にすぎないのだからな」
 同じ過ちで滅びた文明は幾多になるだろう。
 インドの叙事詩が語るマハーバーラタやラーマヤナにかかれている事柄は、決しておとぎ話の中の出来事ではない。
 そこに出て来る奇妙な戦闘の描写は、自分たちが造った殺人兵器であり、それにより滅んでゆく。
 メソポタミアや、インダス文明がのこした遺跡もその一つであり、結局かれらは自分たちの手で滅びてしまっている。
 昨日まであたりまえのように生活していた善良な人々は、核という最終兵器により、あっさりと消え失せてしまうのだ。
 海底に沈んだアトランティス。
 マヤ、インカも神の怒りにより消えてしまった。
 時には自分たちで引寄せた隕石により消滅し、ガイア自身も傷つけられてしまったこともあった。
 「人間は、いつもガイアを痛めつけて終わるんだ。あの情深い聖母さえもついには眠らせてしまった。ミササギの命を奪ってまで存続したがった生命の果てが、欲望の暴走など、あまりにも愚かすぎるではないか。たとえ、ミササギが愛し許した命でも、私は許さない。もう、あの時のように、わたしを止めることができる者は、どこにもいないのだから」
 静かな口調なのに、全身から発せられる気は怒りにみちていた。
 ナギはふるえ泣きそうになるのを必死でこらえた。
 ミササギの命を奪った人間を、ソメイは憎んでいる。
 それは、ミササギ以外の人間を――ナギを、憎んでいるということも同じなのだ。
 「それでも、神は辛抱つよく見守って下さいました。人は愚かです。けれど、いつだって愛を求め、学ぼうと生きています。毎日を迷いながら、立ちはばかる生涯を乗り越えようと努力しています。――どうか慈悲を。寛大な神のお心を……」
 「神などいない」
 ソメイはそっけなく言った。
 「そんな便利なものなどいないのだ。人間が人間のために造りだした幻想にすぎぬ。すがりつく虚像が必要だったのだ。全てはまぼろしの産物でしかない」
 言い切ったソメイの顔の厳しさは、どこかシンに似ていると思った。
 何度も期待し、絶望させられてきた子供そのものだ。
 「おまえはどこから来て、誰のもとへ向かう」
 「ぼくは――」
 ナギは答えられなかった。
 行きたいと願った場所は、もうだれかへの思いで塞がれていしまっている。
 ミササギがソメイにとってどんな存在だったのか怖くてきくことができないほど、大きいのだとわかっている。
 そして、かれの絶望が、自分では救いようがないことに、気がついてしまった。


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