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天上の樹

5



 周囲の様相が一変したことにナギはひどくとまどっていた。
 自分の中のなにが変化したというわけでもないというのに、いままでは表面だけで取り繕い仕えていた天使や召使いたちが、こぞって取り入ろうというかのように、恭しく接しているではないか。
 ナギの四枚の羽根をみてからというもの、彼らは今までの非礼を恥じて小さくなり、またそのことを糾弾されはしないかというように恐縮している。
 まるで羽が二枚増えたことで、ナギの人格まで変わったかのように思っているようだった。
 そのことはヒサギにとっても衝撃だったらしく、彼はひどくまごついていた。
 身近に接していたのだから、周りの天使たちにくらべれば、驚きもひとしおだったのだろう。
 彼は彼なりに、自分のなかのプライドをおさえて、周囲の連中に比べれば、ずっと丁重に扱ってくれていた。
 それでも言いたいことだけははっきり言ったし、叱りつけることもあった。
 ナギに、大切な忠告してくれていたのは常に彼であり、腫れ物にさわるような他の天使たちの態度よりは、ずっと親しみがわいた。気も許していた。
 それでも時々、ナギが普通の樹たちにくらべ特異なことに眉をひそめていた。
 人界での過去は忘れさられるはずなのに、ナギだけが忘れていなかったこともそうだった。
 過去は良いものだけではないとわかっている。
 けれどシンのことを忘れるなど、ナギには考えられなかった。忘れてしまうにはあまりにも大きすぎるではないか。
 今のナギの性格を型どっている根幹が、過去なのだとしたら、ナギはどこにも存在しなくなってしまう。
 ヒサギはナギが異彩を放っていることを不思議に思っていたが、ようやくここにいたって半分は納得していた。
 のこる半分は、ナギのどこに天界樹たる資質があるのかというところだ。
 たとえ羽根が四枚になり、例えようもなく美しくあろうとも、いつまでたっても控えめで消え入りそうなまでの儚さはかわらない。
 敬うだけの威厳もプライドもみあたらない。
 ヒサギにしてみれば、その美貌をもっと誇ってもよいと思った。天界樹としての高潔な魂の輝きをはなち、ソメイに相応しくあるべきなのだ。
 けれどそんな気配はまったくないばかりか、さらにひそやかに静まってしまっている。
 背筋を伸ばし堂々とするだけで、きっとまわりの陰口がどんなに減るだろう。わかるだけに、よけいに口惜しいのだ。
 ソメイは変化したナギをヒサギに頼むといって、何の説明もなく、そのまま去っていった。
 ヒサギの途惑いにも気づかず、ナギはなぜかソメイの態度に落胆していた。
 やはり自分は不要な存在なのだと思いしらされた気がした。
 きっと自分がミササギかもしれないという望みのすべてをうち砕いてしまったからだ。
 ソメイを失望させてしまった。
 はじめから、彼はナギ自身には用はなかった。
 もしかしたらという希みだけだったのに、それさえ無くなってしまったのだ。
 ならばそのまま壊されてしまってもしかたないと思ってしまう。
 きっとソメイの期待を裏切っただけで、すでに大きな罪なのだろうから。
 けれどソメイはもはやナギさえ見ることもなく去ってしまった。
 きっと、二度と会うことはない。
 ナギは両方の性をもつ体をもてあまし、激しく困惑していた。
 あの泉で、自分の体になにが起こったのだろうか。
 こんな体になってしまった意味すらつかめず、自分の存在理由さえ消失してしまった。
 ただいえることは、体が女になりはしても、なに一つ変わらないということだけだ。
 地上にいたときから性別など関係ないほど、弱々しいものであった。
けれど男のナギも女のナギも、誰も必要としていないのだ。
 だがそれは違った。
 ナギだけが、まだわかっていない。
 その美しさがどれほどのものであるのか。
 まごうことなく選ばれた最高の被造物であり、美の粋の傑出作品であるのだ。
 ナギの優美で繊細な艶やかさは、美貌をほこる天界人のなかにあってさえ際立っていた。
 ひっそりとすればするほど苛立たしほどに美しく目をひいてしまう。
 ナギにとっては、そんなものは不要なものでしかないのだろう。
 望んでいるのは、ただそっとしておいてほしいということだけなのだから。
 自分はこれからどうなっていくのだろうか。
 すぎてゆく日々は、重くてただ長くうつろなだけで、自分さえ持て余してしまう。
 ナギは自分をとりまく喧騒から逃げるように、知らないうちに、宮殿の奥へとむかっていた。
 無意識にあの音を探していのかもしれない。
 一歩一歩まえにすすむにつれて、あれほど負担になっていた重く苦しい空気がやわらいでいった。
 かすかに聞こえ始める歌によって、ナギからあふれでるエナジーが生気をとりもどしてゆく。
 暗い空間にうっすら光明がさしてゆき、前におとずれたときほどの恐ろしさが感じられなくなる。
 優しい()だった。歌がはっきり耳にはいる。
 ナギは心を決めた。
 今度こそ、あの音の先に行ってみよう。
 その楽の音はまるでナギを(いざな)うかのように聞こえてきて、ここへ来てほしいと哀願しているようではないか。
 石畳の廊下を走るのにあわせ、羽根が霊妙な光の珠をはなっていった。
 まるで音楽にあわせて謡っているようだ。
 ナギは目の前にたち塞がった石の扉を思いきって押した。
 いかめしい音を立て、扉は開かれた。
 部屋のなかは思いのほかまぶしく、目をうばわれた。
 地下通路を隔て、別の塔へ出たらしい。 
 風がナギの髪をくゆらした。
 そこから聞こえてきていた音色は、光に溶けるようにやんでしまった。 
 「だあれ?」
 甘い声が問うた。
 ナギはそこにいる女性に目が吸い寄せられた。
 黒い装束(ローブ)を着た、抜けるように色の白い女性が座っていた。
 どこか神秘的な雰囲気をただよわせ、その瞳は夜空に瞬く星をイメージさせる。
 女性は肩にかけていたハープをそばに置くと、ゆったりとくつろいだように赤い唇をほころばせた。
 「よく、おいでくださいましたわねナギ様」
 まるでナギの来訪を予期していような言葉だった。
 ナギはビクリと怯んでしまった。
 女性はいっこうに臆する様子もなく、まるでよく見知っているかのごとく親しげに微笑んだ。
 黒いビロードの敷かれた机の前にすわり、しろい指の爪は長くて黒い。
 机の上には水晶の珠がおいてあり、不気味なひかりをゆらせている。
 彼女はやけに長い黒のローブを着ていた。
 床に垂れてどこまでもひろがっており、闇がぽっかり浮かんでいるようにみえる。
 「今日あたりお見えになるのではないかと思っておりましたのよナギ様。わたくしの水晶が、そう告げておりましたからね」
 妖しく密やかな声でいう。
 灰色の瞳が、黒いケープからうっすらのぞけられた。
 遠い瞳は盲いているかのように昏かった。
 この世はなにひとつ見ていないようでいて、なにもかもを見透しているような、不思議な色をしている。
 「どうぞこちらにお寄りくださいませ」
 破顔するのにとりこまれたように、ナギはフラリと前にでた。
 ナギの光が水晶にうつり、キラキラと輝いた。魔術にかけられているような錯覚をおぼえてしまう。
 「あなたはどうしてぼくのことを知っているのですか?」
 来ることがどうしてわかっていたのだろう。
 「日の光のようにまばゆい四枚の翼。両性を兼ね備えた神々しい美貌。ナギ様、あなたのことなら、この天界のものならば誰だって知っておりますわ。それに、神の祝福と寵愛を一身にうけた、天の思し召す天界樹さまのご来訪ならば、わたくしはもうずっと昔から、夢の予兆に見続けておりました」
 「夢……?で、でもぼくは、そんなたいそうな者じゃないんです。普通の、なんの力も持っていないただの樹だから……」
 「いいえ、あなたの放つエナジーは、他者の傷を癒さずにいられないほど、強い慈愛の波動に満ちておりますわ。本当に悲しみを知る者だけが、相手を癒すことができるのです」
 自分の無力さをかみしめているナギには理解できない。
 「聖なる天樹はそうやってどんどん純化されてゆき、自分の身を切り分け、与えることで、究極の愛となられるのです」
 うつむいたナギの手を、彼女の指が握った。
 その冷たさは、鼓動も温もりも遠い昔に消え失せたかのようだった。
 「慈愛そのものである樹々のなかで、その最も頂点にたたれる聖なる天樹様、あなたの魂は気高く深遠でいらっしゃいます」
 なにかの預言でも告げているような調べがある。
 「たくさんの悲劇を経てこられたあなた方は、わたくしたちの想像をこえた魂の器をもっていらっしゃいます。毎日を生きるだけで、魂はますます昇華されているのです。生きるということは、なぜなら強い忍耐と誠意を持たねばならぬことですから」
 「えっ……?」
 ナギは、ふいに彼女のなかに吸い込まれてゆくような、底知れぬ虚無の闇におそわれた。
 上も下もない真空の闇のなかで、ただ時だけが流れてゆく、そんな錯覚をおぼえる。
 「……あなたは、なにを観ているのですか?あなたの目には、なにが映るのです」
 「わたくしは朽葉(くちは)と申します。ただの占者にございますれば、現在のことも、過去も未来もただの夢のようにわたくしの中を通りすぎて行くだけでございます。わたくしにとって時間の流れとは無意味なこと。ただ知るのみで。なに一つ関わることはできません」
 過去も未来も現在も、遠々と続く時間の流れを、その乾いた瞳は、ただ指からサラサラとからこぼれる砂時計のように観ているだけなのか。
 彼女は永遠の、彷徨人なのかもしれない。
 「わたくしは、あなたの渡ってきた魂の遠い先がみえます。そしてゆくべき遥か先さえも」
 「なにが、見えるのです――?ぼくはこれからどうすればいいのでしょうか」
 ナギは問わずにはいれなかった。
 閉じ込めようとしていた不安が一気におしよせた。
 「ぼくは何もかもがわからないんです。どうすればいいのか、どうしてさしあげればいいのか……。なにもかも、あの方の心も真意も、すべてが闇のなかに隠されていて、ぼくはあのひとの望む名前には応えてあげられないというのに、それでも居続けなければならない。だったら今ここにいるという、ぼく自身の意味を見出せない。もう、どこにも行く場所がなくなってしまったんです。ぼくには、帰る場所がない、あのひとのところには……」
 初対面の女性のつむぐ怪しげな言葉だということも忘れ、必死の面持ちですがってしまう。
 「大丈夫ですよ。あなたは、これから自分の力で、時を紡いでゆくことができるのですからね。体などしょせん、ただの魂の乗り物にすぎません。いまここに生まれ、存在しているこの魂こそが、最も大切な意味をもっているのです。きっと、意味はみえてきます」
 手で顔を伏せてしまったナギの頭を膝に引き寄せた。
 髪をやさしく梳く手の優しさとは裏腹に、頬にあたる足はやけに固く冷たく心地いい。
 そっと見上げた彼女の瞳は、運命の魔女そのものように暗く深かった。
 あらゆる他人の時を渡りながら、現在にとどまる誰かの観ている夢でしかない。
 「もっとご自分の感情を解放してごらんなさい。悲しみも不安も。喜びや怒りさえも、あなたは自由に使うことが許されているのです。あなた自身を許してあげるべきですよ。そして恐れずに、真の姿を認めなければなりません」
 「真の姿?」
 「ソメイ様のなさることの中で、それがもし無意味であり、非情なことに見えても、必ずそうしなければならない理があるのです。八方世界に住んでいたあなたには分かりにくいかもしれませんが、この世界を誰より愛し存続させようとなさっているのは、ソメイ様なのですから」
 ナギは朽葉の言葉は半分以上わからなかった。
 だが、その言葉は、シュラが落としていった不安をしずかに押し流してくれたことは確かだ。
  朽葉がいい人なのか悪い人なのか、それすらわからない。けれど彼女の言葉の真実はナギの中に素直にはいってくる。
 胸の中にこびりついているソメイの悲しい瞳が、どうしてこんなにはっきり思いだされるのだろう。
 「はるか彼方のむかしより、人界で積み重ねられた歪みのために、伊邪那岐の剣が壊されてしまいました。そのせいで、太陽もまた、消えてしまったのです。いつの世であっても、真実はすべて、ソメイ様だけが知っておられます」
 朽葉の不思議な響きのある声が、ナギにもひびく。
 ソメイの心をだれも推し量ることはできない。だれも彼を犯すことはできない。
 彼の行為の気高さを非難することは、できないのだ。
 ソメイを、信じていよう。
 たとえ、必要とされなくても。いらないと言われるその日まで、ずっと信じて行くのだ。
 朽葉はまるでソメイの心そのもののように憂いをおびた目を閉じると、ナギの固い決心を愛でるように、そっと頭をなでていた。




 泉にたたずむナギのまわりには、自然と樹と呼ばれる者たちが集まるようになっていた。
 滝となって流れる落ちる水から生みだされる波動と、全体的に減ってきてはいるが、まだまだ豊富にある城の自然の息吹によって、森それ自体が磁場となっている。
 そため、エネルギーの保有率は、他のどこよりずっと高くなっているのだ。
 さらにその芳醇な気を、高純で濃縮したエネルギーと変換させながら、ナギは体の内からエナジーとして放ち、傷ついた樹たちに、分け与えていた。
 ナギの知らず知らずにはなつオーラから聞こえる微妙な歌声は、泉に反射し、風のながれに子守歌のように溶けていった。
 歌のもつ波動は、宇宙そのもののようであり、歌うもの自身を表現していているためか、ひどく心地よかった。
 ナギは歌いながら自分の身を分け与えていた。
 羽根を与える方法ではない、天樹と呼ばれる者にしかできない高次の施しだった。
 うっとりと聞き入る者たちは、中空に浮かぶ、光の粒でできたような青年の幻影をみていた。そっとナギを慈しむように抱きしめていた。
 時々、その青年はナギと一緒に歌うことがあった。
 そんなときのナギの歌は、限りなく優しく力に満ちていた。
 朽ちかけた羽根が新たに再生するものも、そう珍しいことではなかった。
 なかには天使や、天人でさえ足をとめて歌に聞きいり、渇いたエナジーを潤している者さえいた。
 ナギは目にみえない羽根を自らもいで、求める者たちに与え続けている。
 しだいに、泥のような疲れが徐々にたまってきていた。
 目の前にいる苦しんでいる樹々たちをみると、自分のもっている全てのエネルギーを与えずにはいられなくなる。
 持てるすべてを出しつくすこともかまわぬように、際限なくあたえてしまっているのだ。
 それが聖樹の根幹をなす性質でもあった。
 みなどんな樹であっても、力の有るものが無いものへ分けてゆく。
 だれもが等しく、羽根がなくなってしまえば、死んでしまうというのにそんなことを顧みない。
 ひとつの終わりは、全ての死であるかのようだ。
 彼らが、地上にあったとき、血肉を他者に分け与え続けたのも無理はなかった。歪んだ地上では、もうそれよりほかに手段がなかったのだ。
 ナギは疲れ果てぐったりとしていた。
 身体を動かすのがひじょうにつらく、鉛が内臓にたまってきているようだ。
 それでもひとりになると、シンの姿を映しだしてくれる鏡の前にすわり彼を追っていた。
 薄暗くなんの刺激もない部屋は心地がよい。
 闇は、けして恐ろしいだけのものではなかった。
 こうして包み込み、癒してくれる。
 ナギは暗闇にだけ、疲れを吐き出させることができるのだ。
 シンの姿をじっと鏡面にみつめ心配げにつぶやく。
 「どうしてシンのまわりには、そんなに闇が集まるの?」
 鬼も魔も、もはや地下への入口からではなく、シンの部屋へ直接現れるようになっていた。
 次元の歪みを利用して、化け物たちが勝手に時空をひらいているのだ。
 シンをいまにも襲わんばかりにとりまきながら、その中心にいるマインドイーターの少年が恐ろしくて手が出せないようだった。
 少年はシンから片時も離れようとせず、まるで親を慕う子供のようにみえる。
 だがそれは守っているわけはないのだ。
 ただそこにいるだけ。
 まして居並ぶ魔物たちなど手下でも味方でもない。時々、低級邪霊などはイーターに喰われ、黒雲母のようにひび割れてくだけている。
 「シン…」
 「おまえの歌は次元を通りこし、地界にまでも響いているぞ」
 音もたてず闇のようにひっそりとソメイがナギの真横に立っていた。
 「ソメイ様……?」
 「ナギ、おまえはなぜそうまでして他人に与えてやるんだ。他人を癒す力はあるのに、なんで自分を癒そうとはしない」
 座り込んだまま立てないでいるナギのそばに彼は膝をついた。
 「あっ……」
 まさかソメイがそんなことをするとも思っていなかったナギはおどろいた。
 息をのみ、その端正な横顔を見つめているしかできなくなった。
 彼から漂うのは静寂の波動。
 弱ったナギにあわせてソメイはエネルギーを抑えてくれている。 
「人界において、おまえを殺そうとしたのはたしか母親ではなかったか。彼女らのあたえる絶望で、天樹となってしまったのではなかったのか。悲しみの炎で浄化され、こんなところにまで来てしまったというのに、なぜ他者ばかりに、己をわけ与えるようとする」
 そっと肩に手をおかれ、ゾクッと身体が痺れた。温かいエネルギーが伝わった。
 「おまえのエネルギーだって無尽蔵なわではないんだぞ。こんなに疲れきるほど与え続ければ、いまにおまえ自身が枯渇する。自らエネルギーをつくれなくなるほど衰弱するのだ。なぜ、それほどまでに分けてやるんだ」
 「………それでも、ぼくは孤独を知るほどに、人には優しくしたいと願ってしまいます。人に優しくする以外に、人が人である由縁はどこにあるのでしょうか」
 ナギの真摯な目をうけ、ソメイはフッと表情をゆるめた。 
 「おまえを樹にしたくはなかった」
 「えっ?」
 ふいに言った。
 「覚えていないかもしれないが、一度、おまえはわたしのもとに来たことがあるのだ。わたしはおまえを送り返してやった。――おまえがそう、望んだから」
 ナギはハッとするようにソメイの顔をみつめた。
 怖さもわすれ、記憶の彼方にあったはずのその顔を思いだす。
 やはりあれは夢ではなかったのだ。
 ずっと幼いころの、空想の出来事だと、ずっと思おうとした。
 一度、母親の美保にひどくなぐられ、死にかけたことがあった。
 電気のコードで首を絞められ窒息したのだ。
 殺意は本物だった。
 昇天しかけたのも嘘ではないだろう。多分、そのとき、監査官の天使に連れゆかれてしまった。
 ナギはみ知らぬ部屋にとじこめられてしまった。
 恐ろしさをこらえながら、そこからなんとか逃げだした。
 死んではだめだと思った。
 帰らなくてはならないと。
 シンが一人になってしまうと思うと、孤独の深さに恐ろしくて悲しくてたまらなかったのだ。
 どんなことをしてでも逃げようと誓い、どこかもしらずに必死で逃げたのだ。
 長い廊下の曲がり角でだれかにぶつかった。
 それがソメイだった。
 ソメイは幼いナギを抱きあげた。
 懇願するナギの願いどおり、人界へとおし返してくれた。
 「おぼえています……。そのとき、あなたはぼくに、一枚の羽根を飲ませてくれた」
 そのとき、シールドを掛けてくれたのだ。
 二度と天界の監査官に見つかぬように、樹として連れてこられないようと。ずっとシンのそばにいられるように、彼は心をわけてくれた。
 けれどそれも空しく終わってしまった。
 ナギが絶望したとき、美保に見捨てられたあのとき、火事のなかでシールドは弾け飛んでしまったのだから。
 「あなたが、ぼくをいままで守ってくれた……」
 ナギは震える指でソメイの顔にそっとふれた。
 ソメイはナギの手をとり、抱きしめた。
 身悶えするような甘い衝撃がはしる。
 深くて大きなソメイの闇に捕らえられてしまう。
 「樹などにしたくなかった。地上で幸せになってほしかったんだ」
 ソメイの手が肌にすいつくような熱さで背をなでた。
 ナギは胸の中に溜っていた息をはきだしてゆく。
 抱かれているだけでこんなにも深い陶酔感に飲み込まれるなんて。肌を触れ合わせただけなのに、熱い激流のようなエナジーが体中をみたしてゆくではないか。
 渇いた砂が水を吸収するようにソメイのエネルギーがナギの心の飢えを癒してくれる。
 「いくら天樹でもいまのようにエネルギーを与え続ければいつかは枯れてしまうぞ」
 「ソメイ様……」
 熱にうかされたようにぼんやりとみつめた。巨大なエネルギーに冒され、宙にういているみたいだ。
 ソメイの深い瞳がじっとナギをとらえた。
 ナギは熱くなった体に己を見失いそうになった。黒水晶の瞳にとじこめられてしまう。
 ナギはなぜかそこに、シンの気配をかんじてしまった。
 なぜそう思ったのかわからないけれど、ソメイのなかに、シンが映っている。
 これは、なんの象徴なのだろう。
 「力のバランスが崩れたとき、闇はそこに集中するものだ。そこを力によって破れば、道ができてしまう」
「えっ?」
 ひそめられたソメイの声音に、にわかにナギは現実にひきもどされた。
「おまえを映すことで人として生きてきた者がいたなら、それはおまえのシールドまでも映していたはずだ。おまえが消えてしまったいま、均衡は崩れ、魔を呼び込む礎になるだろう」
 「そ、それは、シンのことですか?!」
 とびつくように言うナギに、ソメイは答えない。
 だがかわりに、
 「羽根を飲ませればいいだろう。闇の物たちの目からは防御してくるはずだ。闇が濃くなれば、天使たちが動き出さずにはいないからな」
 思いがけない言葉だった。
 ナギが、ここでずっとシンのことを見ていたのを、彼は知っていたのか。
 「ぼくの羽根を、シンに飲ますのですか?」
 ソメイは微笑む。
 苦しむシンを助けたいと歯噛みするように鏡をみていたその答えが、まさか自分の羽根にあったとは。
 「だが、それもひとつの賭でしかない。羽根の力は強いが、それは人にとって毒とも薬ともなるからだ。そのことだけはよく覚えておかなければならない」
 もしかすると、この羽根を与えることで、死ぬ、というのだろうか。
 「……ソメイ様はなぜ、教えてくれるのです」
 ナギは、聞いてしまった。
 恐ろしさに震えながら、真っ直ぐみつめていた。
 抱きしめていた、手が離される。
 去ってゆくぬくもりに身が切れるような淋しさを感じながら、グッとたえる。
 「ぼくはあなたの求めていたひとではなかったのに、あなたにとって必要の無い樹なのに、なんで……」
 いつも救ってくれるのだろうか。 
 ソメイはびっくりしたように目を吊りあげた。
 その視線に弾かれたように、ナギの淡い瞳から涙がこぼれ落ちた。
 聴かずにいられなかった。
 それが愚かな自滅の行為だとわかっていても、答えがほしかった。
 今だってそうなのだ。
 エネルギーを与えてあげなければならないはずの樹なのに、逆にソメイは力を注ぎ込んでくれているのだ。
 樹にしたくなかったと言ってくれた優しいひと。
 人間と、幸せになって欲しかったのだといってくれたけれど、ナギには、この寂しそうな人に、自分がなにも与えてあげられないのが、つらくてたまらない。
 この人にこそ、癒しが必要なのだから。
 ソメイはナギの涙を唇で吸った。
 柔らかなキスだった。
 そっと白銀の羽根を一枚もぎ取り、それがまるでナギ自身であるかのようにそうっと口にした。
 ナギは愚かなことを言った自分を恥じてしまった。
 いったい、自分はこの人に何をさせたかったのだろう。
 情けなくて涙がまた溢れ出た。
 ――なにを、言って欲しかったのだ。
 ソメイはそんなナギの心を知ってかしらずかナギを抱き寄せてくれた。
 うつむいてしまったナギの頭をいつまでもなで続けてくれていた。
 



 闇が、あつまる。
 まるで自分自身が闇でできているとでもいうように、闇と、魔物があつまってきてしまう。
 シンはそばから離れない、闇が凝固した少年を苛立たしげにみた。
 姿だけなら、なんら普通の少年らと変わらないのに、それは人ではなかった。
 化物だったのだ。
 目の前で変身したにもかかわらず、最初は信じられなかった。
 化け物としらずに外へでかけ、接する人々がバタバタと倒れるようになったことに驚いた。もしかしたら自分のせいかもしれないと怯えていた。
 ようやく、なにが起こっているか解ったとき、シンは自分自身もまた、変化してしまった後だと気がついてしまった。
 魔の闇に取り憑かれているうちに、人界にひそみ同化していた闇が、見えるようになってしまっていた。
 魔たちの動向が見えるようになってからというもの、世界がいかに蝕まれているかがわかった。
 魔による介入が各所で起こっていた。
 天地の秩序は不自然にゆがめられている。
 シンはそれらが見えだしてからは、家から外には、できるだけ出ないようにした。
 それより先に、学校には、とくに違和感をおぼえはじめていた。今ではまったく行っていない。
 どこか遠い存在であり、群れなす同じ世代の子供たちが、気色悪くてついてゆけないのだ。
 ナギが消えてからの日常は、異常の色を日々濃くするのみであった。
 シンはいままで自分がどんなふうに暮らしていたかすでにわからなくなっていた。
 どんなことを考え、どうやって息をしていたのか、なにを思い、何のために生きていたか。
 それこそ生活のすべてを、些細なことにいたるまで、なにもかもナギを映して生きていた。ナギこそがまるで本当の自分であるかのように。
 闇の少年は日増しに成長しつづけ、いまや 部屋に通じている魔界の扉も、ゆっくりとではあったが拡大していた。
 部屋をうごめくそれらが、シンをねらっているのもわかっている。それを近寄らせないのもまた、シンを人間でなくしつつあるこの精神を食べる化物なのだ。
 『シン……リノ……』
 玄関ホールに立っているのは母親だった。
 いや、母親であったものの、過去の残像だ。
 部屋の隅でナギと遊んでいたとき、綾子は急に帰ってきた。
 部屋にもはいらず、玄関ホールで狂ったように突然、笑いだしたのだ。
 彼女が薬を常用していたのは、みなが知っていた。
 だからナギもシンもいつもの発作かと思い柱の陰にかくれ、抱き合っていた。
 こんなことはよくあったことだし、気分屋の彼女は、機嫌のいいときはやさしく抱きしめてくれたり、差し入れにもらった珍しいお菓子をくれたりもした。
 そうでなければ、狂ったように罵声をあびせかけ、蹴ったりそこら辺にあるものを投げて、叩き割ったりした。
 気性が激しく、後先のことなど、なにもかんがえないで行動するような女性なのだ。
 ちやほやされすぎて王様然としているくせに、やけに寂しがりやで、感受性が強い。
 このところモデルの仕事が上手くいってないとグチっていたので、またスタッフともめたに違いないと二人は思っていた。
 そして、彼女は二人の見ている前で、いきなりナイフを首に突き立てた。
 血と涙が噴き出し、それから先は見ていない。
 ナギが、シンの両目を震える小さな手で隠した。
 二人でガタガタふるえ、だきあった。
 何かが転がる音がした。
 錆びた鉄の匂いがした。
 それっきりだった。
 葬式が終わったあと、だれかが薬の飲み過ぎで錯乱したのだろうと言っているのを聞いた。発作的なヒステリーだったのだ。
 あの日から、綾子はときどき透ける体でホールを巡回することがあった。
 プライドの高すぎた彼女は、自分の死の意味さえ、理解することは無いのだろう。
 シンは部屋にもどり寝ころんだ。
 少年がそばにうずくまって座った。
 不気味で妖しい目をしている。
 何かを訴えているようにも見えたのだが、面倒くさいのでのぞき込まないことにしている。
 ボーとしていたシンの頭上で、錆かけの鏡がいきなり光りを放った。
 ――シン……。
 「なに?」
 鏡面が波うつようにゆれた。
 それが浮かび上がってきた。
 シンは目を疑う。
 ナギがそこに映っているのだ。
 いや、一瞬そう思ったのだが、その姿はあまりにもナギとはかけ離れていることに驚いた。
 四枚の翼をたなびかせ、この世の生き物とは思えないほどに美しくはかない。
 「ナ、ギ……?」
 そこにある瞳は、ナギ以外にはありえない。優しい、包み込むような温もりが溢れている。
 もとから線がほそくて中性的ではあった。
 目の前のナギは、もはや男とも女ともつかない。目を奪われずにいない美しい生き物になっている。
 全身の輝きが、シンの孤独な心を満たしていった。
 「シン……」
 「ナギ」
 シンは、ナギに手をのばした。
 二人のあいだを、紙一枚ほどで、なにかが隔て、あともう少しなのに触れあえない。
 悔しそうに眼をほそめるシンに、ナギはどこか苦しそうに眉をよせ、残された時間がすくないのだと必死な面持ちで言うと、白い羽根のようなものをさしだした。
 「お願いシン。ぼくを信じてこれを飲んで」
 「ナギ、どうしたんだよナギ?! ああ、やっぱり生きてたんだね、どこにいるんだい。その姿は、いったいどうしたんだ?」
 ナギは言葉に喉をつまらせ、悲しそうにうつむく。
 見開いた目に涙がたまっていた。
 なんという目なのだろうか。
 魂の奥底まで魅入られるような、思いの深さにあふれている。
 「ずっと君をみていたよ、シン。どうかお願い、これを――ぼくの羽根を飲んで。でないと、君が闇に喰われてしまうんだ。魔物たちにシンが連れ去られてしまう。だから、お願い……」
 「なにを言ってるのナギ。ねえどうしたんだい?」
 シンはナギが青ざめてくるのにはっとして、意をけっしたように差し出さていた羽根をうけとった。
 「君を守るよシン。きっとぼくが守ってみせる。だからお願い、信じて」
 なにかの痛みがおそっているのか、息があらくなるナギは懇願する。
 その気迫にのまれて、シンは機械的にそれを口にふくんだ。
 霞を食べているかのようにさわりも味も無いそれを飲み込む。
 光がふっつり途絶えた。
 あとには、閑散とした、闇と虚無だけが残っているばかりだった。


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