天上の樹
4
「ナギ様?ナギ様、どこにいらっしゃるのですか」
ヒサギの呼ぶ声がした。
鏡に張りついていたナギは息を押し殺してしまった。
いきなり消えてしまったナギを捜しているのだ。きっとまた雲隠れして、手間のかかる、とあきれ内心はひどく苛立っているのだろう。
ナギはけっしてヒサギを嫌いではなかった。
世話係だといい、なにかと面倒を見てくれていたし、戸惑うナギに忠告をあたえてくれるのもまたヒサギだった。
ただ、元来の生真面目さにくわえ、いかにも儀礼的であり、命令を忠実にまもっている堅苦しさが、つねにナギを緊張させる。
ことあるごとに聞かされるため息が、心に重く積みかさなって行くのだ。
それはヒサギにかぎったことではない。
ナギにとってここでの生活はどれもが苦痛であり、身のおきどころがないような心細さがつきまとっている。
貴族と称する人たちの好奇な視線や、密やかにささやかれる陰口が、ナギのほそい神経を針でつきたてひっかいてゆく。どこにいってもナギを捕らえはなさず、いたたまれなくなっていつも居場所をなくしてしまう。
あれから、一度もソメイとは会っていなかった。
彼はナギを必要としていない。
一人でエネルギーを充足できる彼には、もとよりそんなものなど無用なのだ。
自分みたいな無能な『樹』を手元においておく理由もないだろうのに、それでもリリスの執拗な攻撃から守ってくれているのが不思議だった。
感謝こそすれ、これ以上をのぞんではいけない。
ソメイは、人界にいたときから、ナギにシールドをかけていたのだと言っていた。
それが本当のことなら、なぜいまになってシールドが解けてしまったのか。
天使たちにみつからないようにという同情であったのなら、きっと今度もまた、ただ行く方ない子供を哀れんでいるにすぎなかったのだ。
あの瞳に見つめられるだけで体の芯から震えあがってしまう。
エネルギーの質量が比較にならないほど大きすぎて、あやうい感情が全身を支配して、わけがわからなくなってしまうのだ。
ナギはあの漆黒のひとみにみつめられただけで、死ぬのではないかと思った。
息さえ止まりそうになってしまう。
――あのひとが、こわい……
「たすけて、シン。こわいよ」
ナギはもうシンがいないのだと思い知らされ恐ろしかった。
自分しか頼るものがないというように冷たい鏡に頬をよせた。
それはリリスのもとから逃げたときの鏡だった。
どこかシンの屋根裏に置いてあった鏡にも似てみえる。
暗くて静かで、この場所だけがあそこを思い出させ、落ち着けるような気がする。
「シン……」
もう一度、呼びかけた。
大切で、大好きなただひとりの家族。
けれどもう二度と会えない。シンにまで化け物と罵られたら、生きてはいけない。
シンが好きだった。
彼の中にはなにもなかった。
深くて静かでいつも凪いでいて、互いの心のすべてを映しあい、足りない部分を補いあった。シンは苦しみさえも迷いもせず、吸収してくれた。
抱きあって眠ったあの日々に、帰りたかった。
何ひとつ望まなかったナギの、たったひとつの、ささやかな幸せだったのだ。
ナギはそっと長い睫をもたげた。
そこに映しだされている映像に、目を見開いた。
シンが、鏡のなかにいる。
そこに映し出されているシンは動いていた。
周囲の風景も、確かに人が住まう、懐かしい人界のものとすぐにわかった。
ナギの借家の焼け跡を食い入るようにシンは見つめていた。
なんて淋しそうな顔をしているのだろう。
しばらく立ち尽くしていたが、それから無言で歩きはじめた。古い二階建てのアパートへむかった。
何かを射抜くような鋭い目をしてその一角を睨んでいた。
そのアパートのドアがひらいた。
中から美保が出てきた。
ナギは母親の変わりない姿にほっとし、それから心臓がねじられるように苦しくなった。
買物に向かうらしい美保へ、シンはすれちがいざまに何かを言った。
美保はとたんに青ざめてしまった。
そしてシンを脅えるように一目だけ見ると、そのまま逃げるように走って行ってしまったのだった。
ナギは、小さな美保の後姿に、彼女たちから受けた暴力が、ずいぶん遠くのことだったように感じていた。
憎しみにさいなまれたあの時は、自分のなかでもはや終わってしまっていた。
ナギは母親を愛していた。
彼女もまた、ナギを愛そうと努力してくれた。
それは行き違いの約束のように、どうしても届きあうことはできなかっただけだ。
実の父親が死んだとき、ナギの生は終わってしまったのだから。
記憶がないほど幼い頃だった。
ベランダからのぞいたナギをかばい、父はかわりに落ちたらしい。
花壇のレンガに頭をたたきつけられ、脳が飛び散っていた。即死であった。
だから母も祖母も祖父も、みんなナギを憎んだ。
こんなちっぽけで役に立たない命のために、ひとつの大きく大事な魂を失ってしまったのだから仕方がない。
彼らは言った。
子供ならまたつくればいい。でも夫であり、息子であり、父親である命は返ってこない。
代わりがきく命。
それがナギの命の軽さだった。
殴られても蹴られても、首を絞められ血の泡を吹いたことがあっても、ナギは母親がすきだった。
苦しみもがき後悔し、それでも必死で生きてゆこうとする逞しさに敬服した。
彼女はやっと新しい生活を手にいれた。夫の代わりをみつけたのだ。
ナギには、彼女のしたことを責めることはできなかった。
たとえ、それがナギの心を灼き殺したとしても、それも仕方がなかったことだと、思うことができる。
「シンがいてくれたからぼくは……」
ナギは鏡のなかに現れたそれを食い入るようにして見ていた。
シンの屋敷にある地下から、のそりと現れ出でたモノに驚嘆してしまう。
まるで闇そのもののようなかたまりだった。
闇それ自体から発生したような黒い光を明滅させながら、這い出してきた
シンの前までくると、次第に固まりはじめ、人形をとりだしていった。
しばらくして闇は、一人の少年の姿となった。
彼のまわりに、いつのまにか背色の塊のような妖魅たちが集まっているではないか。
まるで、いまにも取り込もうとするかのように、不吉な、危険な光をうかべ、みなシンを見つめている。
ナギはシンに手をのばそうと、鏡を何度もたたき続けていた。
足音がだんだん近づき、部屋の前で止まった。
開かれた扉からさしこむ光のまぶしさに、ナギは目を細めた。
「ナギ様、いらっしゃるのでしょう」
鏡のまえに座りこんだまま見上げるナギに、ヒサギはフッと小さく息をついた。
「なぜいつもこのような所にいるのです。さあこちらにでていらっしゃい」
小さな子供のようにおびえ、背を丸め縮こまっているナギの手をとり立ちあがらせる。
「いいかげん自覚してください。あなたはソメイ様の聖樹なのですよ。逃げ回ってばかりいないで少しはしっかりしたらどうです。あなたの恥はソメイ様の恥なのですよ」
暗闇からひっぱりだされ怖い顔で怒られる。
誰もが敬愛してやまないソメイに、ナギはまったくふさわしくない。かえって彼を貶めるようなことばかりする。
背筋をもっと伸ばすようにと、背をたたくと、
「今日はシュラ様がお帰りになるのですからね。御弟君の聖樹より、あなたが劣るなどということは絶対許されません。それにリリス様もこられるのですから、少しは聖樹にふさわしいよう、威厳をもって毅然としていてくださいまし。さあはやく支度をして」
「……ソメイ様には、弟君がいらっしゃるのですか?」
「ええ、そうです。多少、我のお強い方ですから気は使いますが――、威風堂々となされた素晴らしい方です。ほら、もうちょっと胸を張って。まったく、あなたというひとはどうしてそうビクビクしているのです」
じれるように踵を鳴らし秀麗な顔をけわしくする。
リリスの話を聞き、焚きつけられたつけたシュラが、ナギを見るために帰って来る、というところが、本当の話らしかった。
太陽の神であり、創造神といわれる父、オームが隠遁してしまったあとの世界を、ソメイは誰にも頼ることなく、見事に代行をつとめている。
さらにあり余る力をもって、四界の者どもを治め、尊崇を勝ち得ているのだ。
そんな偉大な兄に、シュラはなにかと関心をもち牽制している。
極力、人とのまじわりを避けていたソメイが、今になって、必要もない樹を所有したと聞けば、いやでも興味を惹かれてしまうだろう。
リリスは兄弟の中でも、とくにソメイに心酔していた。
父など鼻にもかけないくせに、兄に対してだけは、針の穴でもみおとさないように神経をとがらせ気を配っている。
もしかして天人族のなかで、一番ソメイを敬愛し、忠誠を誓っているのは彼女かもしれない。
リリスにとって、ナギは気に入らぬこと甚だしい。できれば今までしてきたように、ソメイに害をなさぬうちに排除してしまいたいのだ。
だからこそ、普通では声もかけはしないシュラまで呼び寄せた。
なにを考えているかわからない弟は得体がしれないのだが、危険な男ほど容易に利用することができる。
こと、ソメイに並々ならぬ敵愾心をもやしているシュラならば、すぐにナギに興味をしめすだろう。
ナギの存在は異色であった。
最高位の樹に属してはいるが、主宰神にはとうてい相応しいとは思われない部類の樹なのだ。
天使や陽霊人や陰霊人をひれ伏させるほどの威厳もなければ、目が眩むような美しさもエナジーの豊かさもない。
いつもおどおどしていて、いまにも水の泡となり消えてしまいそうなほど、はかなく頼りない。
普通の樹たちが光だとすれば、ナギはそれをプリズムにあて、七色に分解したような柔らかな光しかもっていない。
どこにも強さとか、目をうばうような輝きとかもみあたらず、ソメイを惹きつける魅力はどこにもないのだ。
ソメイの心をヒサギはわかりかねていた。
だが以上にナギこそが、戸惑い困り果てているばかりであった。
天使たちは忙しく動きまわっていた。
久しぶりに帰ってくるというシュラを迎えるための準備に追われていたのだ。
彼らはどこか楽しげで活気づいてみえた。
シュラは六十憶光年の彼方にあるエデンという星から戻ってくるらしい。
ソメイと対称的なほどにぎやかであり、なにごとにおいても派手好きであって、帰ってくるごとに華やかなパーティを開いていた。
ほうぼうから貴族たちを招き集め、シュラのエデンでの武勇伝や、こちらで起きた興味深い話しにうち興じる。
宴席では踊るものも食べるものも自由であり、最後には無礼講となるのも珍しくない。
ひごろ静かすぎるソメイの宮殿にあっては、それは祭りさながらの行事となっていた。彼が帰ってくると天界中に明かりが灯ったようになる。
今宵もまた、シュラを迎えるため、ソメイにつらなる王族をはじめ、貴族たちが集まりつつあった。
ナギはぼんやり窓辺に座って外をみていた。
すっかり支度がおわり、羽の色にあわせた純白の
長衣に着替えていた。
蜘蛛の糸で織り上げたような白い布は、なめらかでいて軽く、地上のものとはまったく違った肌のさわりをしている。
すそに金糸の縫い取りが丁寧にほどこされ、ナギの淡く柔らかな美しさを消しさる粗雑さはどこにもない。
綺麗に髪をとかされ美しく装っているのに、なぜかさらにはかなくて、周囲の風景から切り取られているように所在なげにみえた。
見る者によれば、痛めつけ泣き叫ばしたい嗜虐の性を煽るものがあるかもしれない。
どう言葉で敬ってみせようと、天界のものたちにとって、しょせん樹などは、人の子から生まれた下等で低能な生き物にすぎないのだ。
生命をまもるために頼り、聖なるものと呼びながらも、軽蔑している者のほうが多い。
そんな目をしている人々をナギはよくみかける。
冷たいくせに、欲情するような熱をたぎらせている目は、義父ものに似ていた。
邪魔で目障りなのに、でも排除することができないのだ。
癇に障ってしかたがない存在に頼らねば生きていけぬ彼らの悔しさと悲憤が聞こえてくるようだ。
ナギは忙しく働く人々のなかでもまた、居場所がなかった。
長い大理石の廊下をひとりで渡っていた。
広間や廊下に飾られている花や緑だけが、天界も人界も変わらない存在だった。
いまのナギにとってのただひとつの慰めは彼らだけである。
そうして、だが自分もこの花や木と同じ身の上となっていることは否めない。
けれどナギは、自分が花や木と同じように強くないと思った。
自分を手折ろうとする人々が怖くてしかたがない。
ここにいる人みなが、怖い。
何もかもが恐ろしくてたまらない。
おなじ恐怖でも、地界にいるときの怖さとはまったく違う。真綿で優しくつつまれながら、心臓に素手を突っ込まれて、愛撫されているような、そんなじっとりした苦しさなのだから。
「へえ、おまえがソメイの聖樹なのか」
背後の声にびっくりして振り返った。
放たれる気のあまりの荒々しさに、反射的に壁にはりついてしまった。
腕をくみ、ナギのおびえを楽しんでいるのか、男はニヤニヤしていた。
有無を言わせぬ速さで歩み寄り、いきなり顔をのぞきこんだ。
間近にある男の、鋭くきれあがった目は深い緑色をしていて、どこか魔的だった。
造詣はこの上なく美しいはずなのに、そのむこうにあるものは粗野で獰猛な魂は気が遠くなるような荒々しさだ。
命を吸いとられるような眼光の強さに射すくめられ、ナギは身動きできないままだった。息がかかるほど顔をよせられた。
「兄上にしては、またずいぶんと、可憐な樹を選んだもんだな。かの君は、指先ひとつで太陽をつくり、その憤怒は宇宙の一切を破壊するといわれている最高神だというのにな。これでは不用意に触れぬはずだな」
ソメイのことを言っているのだとすぐにわかった。
ならばソメイのことを兄というからには、この男が、帰って来るはずであるシュラにちがいない。
そうおもえば、どことなくソメイの端麗で優雅な相貌に似ている気がしないでもない。
だが発するオーラはまったく違っていた。
あたり一面の気を乱してしまうように鋭くて、覇気さえ感じられてしまう。
ソメイは絶対周囲の調和を乱すことはなかった。どんなときでも空気に溶け込むような静寂さが彼のまわりを取り巻いていたからだ。
ソメイが静であるならシュラは動だ。
ネコがネズミで手玉をとるように面白がりながら、シュラはすくみあがっているナギの顎を指でもたげた。
「もしかして、まだ兄上は食べてないのかい?」
「あの、なにを……?」
「へえ、なるほどいい匂いがするな。ああ、そういえば兄上はいつもこんな匂いのする樹がすきだったけな」
クッと嘲笑をもらす。
「これではさすがの姉上もやきもきするはずだ。おまえのエナジーは清流のごとく澄みきっているからな。もう少し育てば、さぞや見事な樹になることだろうさ。それこそ、兄上が手をださないほど大事にして育てている樹だからな」
抱きかかえられたナギの足が宙に浮いた。
首に唇をよせられ、噛むようにきつく吸われる。
「や、やめてくださいっ――」
ナギは気が遠くなった。
野獣に襲われ食われているような錯覚がおきる。
耳元にささやかれた。
「やつはこわい男だぞ。父王を岩戸の向こうに押し込め、自分が王となるための時期をまっているんだからな。この四千世界、全てをその手に掌握しようと目論み、そのためには創造神ですら、いつか殺そうと待っているのだからな」
「やっ、止めて!やだ、離してください。そんなこと言われても、ぼくにはよくわかりません!」
あがらおうとして身体をよじるナギに、シュラはローブのすそから手を入れた。ゆっくりまさぐるように太股を撫で、背筋に爪をたてる。
「ああっ!」
「泥人形にしてはいいエナジーをだすもんだな。この純白の羽根は、兄上にどんな夢をみせているんだ?少しはオレにも分けてみせてくれたらどうだ」
羽根にくちづけられ、ナギの長い髪の匂いを嗅ぐように顔をうずめてきた。
そのまま壁におしつけるようにして顎を舐め、味わうように唇に舌をはわしていった。
ナギは苦痛と恐怖に涙が浮かびあがった。
ひたすらの恐怖に肌が泡立つ。
身体を撫でる手の不快さにたまらず声をあげる。
それは義父にあちこち触られたときの恐怖を思い出させた。だがあのときよりずっと恐ろしい。
「やめっ!」
「あいつは悪魔だ。おまえはいずれ殺されるだろう。やつにせまったがために岩にされた女や、水晶にされた樹たちが山ほどいるんだからな」
「離してっ。や、だっ……!」
ナギはまさぐるように触る手の心地悪さに、泣きそうな悲鳴をあげた。
片手で宙に持ちあげられ抵抗すら出来ない。
強烈な力に押さえ込まれたまま、すきなようにされている屈辱は耐えられない。
ナギはパニックを起こしかけていた。
見も知らぬ男に肌をさわられ、よもや女のような扱いをうけようなどとは思いもしなかった。
「シュ、シュラ様っ!……どうかおたわむれはそのへんで。その方は…ソメイ様の聖樹でございますので」
ククッとわかっていたように笑うと、悠然とふりむいた。
「ヒサギか」
ためらいがちに声をかけたヒサギの唇は蒼くなっていた。恐ろしさに震えている。
「そのまま最後までみているのかと思ったのにな。オレに意見するとはたいした忠義だヒサギ、ほめてやる」
ナギを捜しに来たヒサギはとっくにみつけていたのだった。
ただシュラの恐ろしさに声をかけかね、隅にうずくまっていたのだ。
行為があまりに激しくなってきたのに、勇気をふるいおこし、ようやく止めに入ったのだ。
「どうせ必要とせぬ樹なのだろう?代わりはいくらでもいるし、邪魔者は消してくれという姉上直々の頼みだ。おまえもその方がいいだろう、本当は。こうして犯して――」
ナギの唇をむさぼった。
「やっ……!」
「なにもかも食べ、穢し、用済みにしてしまった方がいいのではないか」
「そ、そんなことは……」
ヒサギは図星をさされたように言い淀んだ。
ふるえるように目をそらしたまま頭をさげる。
「どうぞもうそれ以上はお許ください。そのようなことは、わたしの決めることではありませぬゆえに」
「やっ…やだっ、たすけっ……」
ナギがうめくように言った。
シュラはまだ手を止めていなかった。
ナギは苦しげに喘ぎ、すがるようにヒサギをみた。
シュラの与える快感にもにた苦痛の行為は、植えつけられた疑似の羽根を引き抜き食べられたときよりも、もっと身の毛のよだつ責め苦である。
「それはわたしのものだシュラ。そうヒサギから聞きはしなかったか」
シュラの肩に手をかけた。
美しく崇高な面もちは氷のように冷然としていたのは、ソメイだ。
ソメイはただ、弟の礼を欠いた振舞いを厳しく見つめていた。
怒りをおさえた、というより、怒りを表さないことこそが怒りのような、鋼鉄の無表情さである。
さすがのシュラもそんなソメイの前にあっては、おいそれと軽口もたたけないほど緊張した様子になった。
持つものすべてにおいて、格が違っている。
たとえ似てはいても、だれもソメイを前に比べてみれば、シュラなど及びもしない影にさえみえてくる。
その強すぎる波動こそが、一種の孤独として映ってしまうほど、ソメイの力は強くて大きいのだ。
「これはこれは兄上。なあに、ほんのすこしばかり挨拶をさせてもらったにすぎませんよ」
シュラはナギをはなすと、気をとりなおし悪びれる様子もなく笑った。
ソメイは答えることもせず、へたり込んだままうごけないでいるナギを抱き上げた。
ソメイの腕のなかで、ナギはふるえる息をついた。
この腕がだけが、この世界にあって唯一頼るべき存在なのだと、いまさらながらに思い知らされる。
この腕なしでは、自分一人でたっていることもできない存在なのだ。自分の身がどれほどあやうく儚い立場にあったのだろうか。
ただ一人、ソメイが自分を要ると言ってくれなければ、だれもがナギなど簡単に殺してしまえる。そういう世界なのだ。
「兄上にしては、またずいぶんと可愛い樹を選んだものですね。あれ、えっとなんと言いましたっけ?ああそうそう、ミササギだ。ミササギに、ちょっと似てるんですかね。――まさか、またこの魂がミササギだとでもおもっているんですか?」
シュラの空笑いがピタリと止まった。
ソメイから発っせられる空気の鋭さがピリッとはりつめた。
ナギはその名をきくのは二度目だった。最初はリリスの口からだった。
ナギの横でヒサギが恐れるように目をむきふるえていた。
からかうような口調だったシュラでさえ、いまは青ざめている。
――ミササギという名。
それはこの宮殿では、すでに禁忌に等しい存在であるのか。
ヒサギはどれほどの怒りをかうかというように畏れて身をすくませていた。
だがソメイはただ冷たく一瞥しただけだった。
それだけで相手を射殺してしまいそうな蔑みにみちた眼差しではあった。
「これはわたしの物だ。わたし以外の者が壊すのは許さない、ただそれだけのことだ」
ソメイは言い放つと、そのまま悠然としたまま去っていった。
さすがのシュラもソメイがそのまま去ったのに冷たい汗をドッとながし安堵の息をついていた。
だがナギを抱くソメイの姿を、面白そうに口元を歪めてながめていた。
「どうして殺してくれなかったのよシュラ!あんな子供など、おまえなら一捻りだったんでしょう!」
リリスは真珠のように美しい顔に、ゾッとする残忍な怒りを浮かべていた。
「そんなことを言われてもなあ、姉上。その前に兄上が来てさらってしまったから仕方がないだろう」
別段くやしそうにもなく、平然と言いのけるのに、リリスは忌々しそうに唇をかんだ。
「お兄様はまだミササギにこだわってらっしゃるのよ。よけいなことで、またお心を煩わせる前に、危険要因は排除しておくべきなのよ」
「ミササギねえ、どこがいいんだか。たかが人間だと思うんだけどなあ」
「まだ転生を待ってらっしゃるんだわ。あんな低俗で裏切ることしかしない動物に、お兄様のような方が執着すべきじゃないのよ。第一、あんな子供が、ミササギのはずなんてないじゃないの。なんでわからないのかしら。未熟で低能で、なんのとりえもない人間よ――。それに、きっと今度だって裏切られるに違いないのよ。そのたびに苦しむってわかってらっしゃるのに、あんな下等な人間をそばに置くなんて、汚らわしいばかりだわっ!」
激しい剣幕ではきすてるようにいうリリスに、シュラは半分あきれ、苦笑しながら言った。
「姉上はほんとに人間が嫌なんだな」
「大っ嫌いよ!あんな家畜ども滅ぼしてしまえばいいのよ!泥からできた人形のくせに、その愚かさだけは鬼どもだって負けるほど残虐なんですから。人間の邪念のせいでどれほど月を荒廃させたかっ!」
あふれ出る感情を押さえることができず声を荒げる。
「あまつさえあいつらはお姉様を――地球神ガイアを殺してしまったのよ、許せるわけないじゃない!」
「まあ、たしかに人間なんてろくでもないけどな」
「そのせいで、どれだけお兄様が嘆いたかしれない。お兄様はガイアお姉様をだれより慈しんでいらしたのよ。お綺麗で優しいお姉様に、わたしたちだってどれほど憧れていたか」
ガイアが消えるまでは、月は、どれほど穏やかで慈しみ深い夜の女神として輝いていただろうか。
歌を愛し、生き物を愛し、人間の愚かささえ
恕していた。それほどまで人々に心を分け与えていたのに、いまや魔物の母とよばれるほど恐ろしい存在にかえたのは、人間なのである。
「殺してナギを!お兄様をまどわす人間は殺さなければならないわっ!」
殺気がもえあがる。
「シュラ、この上なく残虐な方法で殺すのよ。犯し、切り裂き、血の海に泣き叫ぶこえのなかで、自分の吐いた汚泥にまみれさせ息の根をとめるのよ」
シュラは薄く笑いながら怒りに燃える姉を冷徹にみつめていた。
その笑みに、どんな奸計を思いめぐらしているのかは、だれにもわかり得ない。
「姉上のお望みのままに」
ただ答える声は、つめたく優しかった。
ナギはソメイのことがよくわからなかった。
言葉も、態度も、いつだってナギを混乱させ、心を揺らせる。
興味などまったくないようで、ナギなど見もしないけれど、かならずたすけてくれる。
「あの人は、何を考えているんだろう?」
ナギはリリスが嫌う人間であり、しかも樹としても、そう上等なものではないことはわかっているはずだった。
それこそ、そばに置いてくれることのほうが、奇跡にちかいのだ。
神それ自身でもあるソメイの心など、ナギには図りようがないのかもしれない。
深くて大きすぎて、彼の中にはいってしまったものは皆きっと溺れてしまう。
彼はナギのことを自分のものだと言った。
そしてそれは本当だった。
いつだって握りつぶせる瑣末な樹であり、かわりのきく生命でもある。
ここにいても、人界にいたころと少しもかわりがない。ソメイはナギのことなど何一つ興味をもっていないのである。
どうしろと命令するわけでもなく、求めることも、求められることすら望んでいない風情なのだ。
ソメイの心は遠すぎて、姿さえよくみえない。
シュラはソメイのことを悪い人だといった。
父を閉じこめ自分が王位を狙っている。そして近づく人々を岩に変え、水晶にしてしまう。そんな悪魔のような男なのだと。
そんな事はとても信じられない。
何もかもが空しく彼のなかを通りすぎ、他者を寄せつけない厳しさがあって、つねに一人、世界からあのひとを孤立させているのだ。
そんなひとが、王位や、世界の支配などに興味をもつだろうか。
ただミササギを待っている、という言葉だけがナギの中に残っていた。
誰の名前なのだろうか。
すごく気になる。
それを、ナギに重ねて見ているとでもいうのだろうか。
ヒサギに聞いても教えてはくれなかった。
暗い表情をして、その名前は出すなと厳しく戒められただけだ。
よほど忌むべき存在なのか、それともなにかソメイにとって大切な存在すぎて触れてはいけないのか。
どうしてそんなに気になるのだろう。
なんでこんなにソメイのことを考えているのか、とても不思議だ。
あんなに恐れていたのに、彼に逢いたいと思ってしまう。
焦がれるようにソメイを想っている自分がいるのが信じられない。
シュラはどうしてナギのことなど気にかけるのだろう。
リリスが命を望まなければならないほど自分の存在に重みがあるとは思えない。
ソメイにだって気にもかけてもらえないというのに、皆の気持ちのほうがわからない。
「……疲れた」
「あ、あの、ナギ様、ですか?」
おずおずと声をかけるのが聞こえてきた。
そっと袖を握られた。
茶色い髪の少年がすぐそばにたっていた。
かれの背にもまた、純白の翼がある。
やはり天界の樹は、地界の養殖の羽根とは色も艶も形までも違っていて、美しかった。
エナメルのようになめらかで、羽根の一つ一つが淡いエナジーを発している。
だがその翼の片羽は、羽根が半分ほどになってしまっている。もちろん、食されたためである。
天人族といえど、樹からエネルギーを補充しなければならないほど弱ってきているのだ。
「きみは、だれ?」
ナギと同じぐらいの年頃かもしれない。
庭の木陰でぼんやりしていたナギは、いつのまにか、大勢の樹と呼ばれる者たちに囲まれているのに気がついた。
大木にもたれているナギに膝をつき、ひかえめに、できるだけ驚かさないようにこうべを低く垂れていた。
「なんでこんなに、いつのまに――?」
あらためてぐるりと周りをみまわした。
どこにこれだけの樹がいたのだろうかというほどの数だった。
城にいたときには出会いもしなかったというのに。
それだけ広いといえば広い建物だが、久しぶりに庭に出たナギを、まるでずっと待っていたかのように樹たちが集まっているのだ。
「ソメイ様が樹をもたれたことをずっと聞いておりました。もちろんナギ様のことも――」
すぐ近くの足元に伏していたのは、あの、地界で羽をいやしてやった女だった。ナギにより新しい翼を与えられ、上級者として監査官によって連れてこられたのだ。
ナギはそのことを思いだしパッと表情を明るくした。
彼女もまたやさしげに微笑んだ。
「ここに連れられてから、皆様にわたしの翼を治していただいた話をしました。皆様、ぜひナギ様にお会いしたいと申されまして。こうして会えるのをずっと待っていたのです」
ナギは驚きながらも、顔をふせる女の手をとった。立たせながら、首をゆるやかにふった。
「あの、皆さん……お願いですから、そんな頭を下げないでください。ぼくはなにも特別な力を持ってるわけじゃないんです。かえってなにもできない厄介者で……」
「いいえ、わかります、ナギ様の力は」
少年がはっきりとした声で言った。
「あなたのオーラは我々の翼を癒してくれています。だってほら、こうして側にいるだけで、心も身体も落ちついてくるようで、あたたかになるんだもの」
樹たちは一様にあかるい顔でうなずいていた。
彼らはソメイや貴族たちに仕える天使の樹だった。
それぞれに美しい者たちばかりで、翼もことさらに美しい。
ナギの目には、それでも彼らのもつ傷が見えていた。樹という定めを負わされし者がもつ苦しみによるものだ。
芳醇な香りとエナジーを生産し、それを与えつづけるためだけに存在させられている、生そのものがもたらす苦しみ。
樹となる因子は、すでに生まれる以前からDNAに組み込まれているという。いうならば、天人に狩られるためだけに、造られた者たちだ。
「最高位の樹とて、根こそぎ犯され奪われれば死ぬのですよ。痛みはさらに羽根に力をあたえ、命の火が残り少なくなればなるほど、樹たちは凝縮したエナジーを生産するようになるのです」
いつかヒサギがいった言葉を思い出した。
そのために羽根をむやみに抜かれ、大きく香りのよいたった一個の果物をつくらんとして、羽根と、命を、まびかれている。
ナギはそっと少年を抱いた。
その宿命を憐れんだ。
集まってきていたものたちは、ナギのそそぐ限りない癒しのエナジーに、安堵の息をもらしていた。どれも久しくみるような満ち足りた表情をしている。
「ごめんね、何もしてあげることができなくて」
「ナギ様……」
少年がうっとりしていた。
「おまえたち何をしている@」
鋭い怒号が静寂な空気をきりさいた。
ナギを捜していたはずのヒサギだった。
みたされる喜びに息をついていた樹々たちは、放電するような怒気にあてられ飛ぶようにして散っていったのだった。
ただひとり、少年の樹だけがナギのそばに残っていた。
澄んだ瞳で真っ直ぐヒサギをみつめていた。
ヒサギは少年の顔をみとめると、重く息をつき、厳しい顔をゆるめた。
彼は、ヒサギの樹であった。
鏡に映るシンの姿を、ナギはずっと追っていた。
一人でいるときは、必ずここでシンを見ていた。それだけがナギに許された、唯一の安息なのだ。
ナギがみるとき、シンはいつも独りであった。
闇だけが彼の側にいて、だれひとり、シンを気にするものもいない。
自分の姿をみているようだと思った。シンには孤独以外もなにもない。
『ナギ・・・』
彼の口からこぼれる言葉は、その名前だけだった。
自分でつぶやいていることすら気づいてないかのようにそっと呼ぶ。まるで愛をつげているかのように甘く聞こえて、胸が騒ぐ。
「シン……っ!」
ナギはもどかしそうに鏡を叩いた。
こんなに近くに見ているのに声は届かない。
抱きしめることも、抱きしめられることもできない。
シンは戸口にたつ少年にうろんな目をやった。
地下の闇からあらわれた化け物は、少年ののっぺりした顔で、無表情にじっとシンをみていた。
あれからまるで一身胴体であるかのよごとくシンと行動をともにし、シンの行くところにはどこにでも着いて行き、また同じように動いた。
そして……。
彼は食べるのだ、精神を。
犬も猫も鳥も、そして、人さえ食べた。
あとに残るのは、骸のみだ。
生命活動はしていたが、そこには心はない。
からっぽの体のなかへ、鬼たちが待っていたかのように次々と紛れ込んでいき、異常な行動をとりはじめる。
自分たちと波長があう者を選び、乗り移り、そうでなければあっさりと食べてしまう。
恐ろしいことがシンのまわりで起こり始めていた。
シンはそのことを知っているのだろうか。
――たぶん、知っている。
はじめ、どうして少年が触れるものが倒れるのだろうかと訝しがっていた。
急に動かなくなり、周囲の人間によって呼ばれた救急車で運ばれてしまう。
たとえふたたび動き出していても、姿こそ同じではあるが、別の生き物となってしまったのがはっきりわかる。表情も目の色も、あさましい鬼畜のごとく、変貌しているからだ。
やっと起こっている事の意味に気づいたのは、鬼が骸を食べているのが観えたときだった。
波動の違いからか、最初のうちはシンの目にはそれらは見えていなかった。
いったん見えはじめると、次第に慣さられてゆくのか、鬼がどんどんシンのまわりに増えてゆくのがわかった。
人外の常識でおこなわれている行為の恐ろしさが見えるようになったシンは、どれほどの衝撃をうけたことだろう。
おびえ、戸惑いながらも止めさせようと必死になった。
闇の子供を自分から離そうとした。
だがそれは人の世の法則が通用する生き物ではない。
精神を抜取り食べるのは、子供のすがたをしていても、魔界の生き物、マインドイーターなのだ。
それはシンに取り憑き、シンの波動にもぐり込み、人の姿に擬態した。
それはシンの精神にだけはさわらなかった。
決して、寄生している主をおかさず、ただ側にいるだけで、離れない。
ナギはイーターの正体を見貫いている自分に気づき、当惑した。
当り前のように鬼の姿を目に映し、その存在を理解している自分は、もはや思考までもこちら側のものとなってしまっているのだ。
シンはあの孤独の棲む家で、さらに彼を孤独にする鬼たちに囲まれている。
人ではありえない者へと導こうとする者たちに、たったひとりで苦しんでいる。
――ナギ。
その口が名を呼ぶたびに、ナギの胸は張り裂けそうに痛んだ。
自分は、母親に必要とされなかった命だけれどシンがいてくれた。一緒に生まれ、生きてくれた。
なにも期待しなければ、毎日は無難にすぎてゆく。満足もないが不満もない。
けれど生きていない。そんな中で、シンだけが、ナギに生命を吹き込んでくれた。けっして孤独ではなかったのだ。
鏡の画面が揺らいだ。
いきなり母の姿が、――美保が映しだされた。
美保はいつまでたっても若くてきれいなままだが、彼女には情熱や、生きているのだという強いエナジー生気がなかった。
とっくに虚無はあの人の心を食べている。
最愛の夫を亡くしたとき、心だけ一緒に逝ってしまった。
――お母さん、あなたは空虚です。あなたのなかの暗黒に、ぼくは食べられてしまいました。愛する人を殺してしまったのが、我が子であってしまったあなたが、憐れで愛しい。変えられない事実を受け入れられず、変えられるものを変える勇気がもてず、それを見分けるだけの強さをもてなかったあなたが、哀れでたまらないです。
いつでもナギは彼女のそばにいたのに。見てもらうために、彼女の生命の意味を見つめるために、愛するという意味を持たせてあげるために、ずっとそばにいたというのに。
最後まで受け入れられなかった。
学習された絶望感は、彼女のまえから消え去ることしか思いつかなかった。
もしかして、鬼を呼んだのはナギ本人だったのかもしれない。
ナギは洗濯物を干す彼女の手が赤切れているのに気づいた。その手に、自分の手を鏡ごしに合わせて撫でていた。
静かな音楽がどこからともなくナギの耳に聞こえてきた。弦をかきならすような小さな音だった。
ナギは目をつぶり、その音に耳をかたむけた。微かにきこえるそれはいつか聞いた子守歌のようだった。
誘われるように部屋を出ていった。
音を求めて歩いてゆく。
恐怖感はまったくない。ただ懐かしいだけ。
いままで足を踏み入れたこともない、離れにある居城のほうへと続いていた。
入ってもいいのだろうかと迷いながらも、その音にたまらなく魅かれてしまい、止まることができない。
どんよりと暗い空気が流れた。
地底から吹き上げる風のように重く感じる。
ナギは途中のひとつの部屋から、光が漏れているのに足をとめた。
扉がわずかに開いている。
なかを、そっと覗く。
ゾクッとした。
水晶のかたまりが置いてあった。しかもあんなにたくさん――。
シュラの言葉が甦った。
ソメイは気に入らぬ者を岩に変え、水晶に変えてしまうのだという。
冷たいものが背筋をえぐった。
急に、見てはいけないものを見たような気がして恐ろしくなり、慌てて来た方向へと引きかえしてしまう。
駆けだすと恐怖はよけい増す。
背後で聞こえる歌さえが恐ろしい呪いの言葉のようだ。
ナギは嫌な考えを振りはらうように、歌の呪縛につかまらないよう夢中で走っていた。
ナギは体に変調を感じていた。
それは翼に起こっているようでもなかった。
どこがどう、ということはっきりいえないのだが、全体的に体が重石のように鈍くて動くのが億劫なのだ。
ここの環境は、それでも地界に比べればずいぶんまともだった。
エナジーもまだ豊富にあり、太陽だって疑似とはいえちゃんとある。
レイたちと一緒にいたあの街は空気すらうすく病んでいた。息を吸うのにも肺がやけたのだから。
「レイ、大丈夫だったかなあ」
あれからずっと気になっていることの一つだった。
レイのことは何ひとつわからなかった。
ヒサギにきいても無理だろうし、もちろんリリスに尋ねることもできない。
あの不思議な鏡ですら、どんなに望んでも、レイのことは映してはくれなかった。
ナギはひとりきりになりたくて、庭を散歩していた。
部屋に閉じ込もりきりのナギに、ヒサギが外へ出て日の光に当たるようにとしつこく云っていたのを思い出したのだ。
もともと白い肌はビロードのように真白く澄み渡り、美しいけれど、どこか病的なものが感じられるようになっていた。
樹はもともと大地のエナジーを受けなければ生きてゆかれない。
ナギにしてもそのせいで体がだるいのかと思われた。だからいわれるままに、外に出たのだ。
宮殿の裏側手にある森のなかを歩いていた。
すこし踏み入った奥のほうに、滝がながれる音がしている。
たいして大きな滝ではなく、トロトロと切り立った岩場から落ちている程度だった。岩場にたまった泉が太陽の光を反射して輝いてみえた。
誰もいないのを確認すると、ナギは服を脱いだ。
そっと泉に体をひたしていった。
「気持ちいい」
ほうと大きな息をついた。
エナジーがあふれるような流れる水に体をひたし、やっと縮こまっていた体を伸ばせたような気がした。
凝り固まっていた緊張が水にそそがれ、悠々と手足をのばし、はじめて心からくつろいだ気がする。
羽根が水をはじき、虹がかかっていた。
のしかかっていた胸のうえの石が砕け、節々の痛みがとれたようだった。
自然の水によって、細胞が活性化され、ナギは内から光かがやいている。
歌さえ口からこぼれだしている。
何の歌か、自分でもわからなかった。よくシンといたとき、口ずさんでいた歌だった。
こちらにきてから初めて口にする。
いつもそうだだった。
刻み込まれた約束のように、いつだってその音楽が体のなかから聞こえてきた。あふれでるように歌っている。
「おまえは『歌』を知っているのか?」
「えっ」
声をかけられたナギは岩場を見た。
ソメイが立っていた。
ソメイはなぜか驚いたように目をつりあげ、怖いほど真剣にナギをみていた。
ナギは硬直して動くことも出来ず、泉のなかで立ちすくんでいた。
いつからそこにいたのか。
いや、自分のなにがそれほどソメイを刺激したのかわからない。
なぜそんな怖い顔をしているのだろう。
黒いダイヤよりも硬質の輝きを放つ彼の目に射すくめられ、呼吸が止まりそうだ。
「なぜその歌をおまえが知っているんだナギ?」
ソメイはもう一度問いかけた。
ナギは震えながら、ただ首を横に振っていた。
ソメイは自分の眼光におびえ、小刻みに体を震わせているナギに気づいたのか、視線をフイッとそらせた。
それでも動けぬまま泉に流されているナギに、ソメイは自ら流水にはいると、抱きあげて外につれだした。
すっかり冷えきった小さな体は氷のようになっている。
すっぽりソメイの腕に収まったナギの耳元にそっと声をかける。
「ミササギなのか?その歌を、覚えていたのか?」
「えっ?」
ナギは、何を言われているのかわからず、困ったようにソメイをみあげた。
「あの、ぼくは――」
いう言葉をさえぎるように抱きしめられた。
温かい手が肌を刺すように刺激し、圧倒的な熱が体中をかけ巡り、目のまえがスパークする。
ソメイはぐったりとしたナギに、抱きしめた手をゆるめた。
気がつくと、強すぎるエネルギーが一気に注ぎ込まれたせいか、または磁界の違う泉を浴びたためなのかはからないが、ナギの身体が黄金光をはなち、輝きはじめていた。
「ああ――」
長い息を吐いた。
気を失いかけ、ナギは後ろに背をそらせた。
その瞬間だった。
しなやかな白い背に、もう一組の翼が生えたのだ。
翼は四枚あった。ふわりとゆれていた。
それは天界だけに産まれてくるという、生粋の天界樹のものだ。
その絶対的なあかしが四枚の翼である。
過去、『樹』とは、聖なる者のことを意味していた。清らかで純粋な魂を持つものだけがなれるのだった。
今のように、エネルギーを翼として与え、自分の持ちうるエネルギーが終わると、自らも枯れてしまうということはありえなかった。
エネルギーは絶えず天樹である彼ら自身から発せられ、水も風も土も、火でさえ樹の命令をきいた。
純粋な自然の結晶のような存在であり、だれもが特別に敬意をはらう、天界の聖なる象徴だったのだ。
ナギは光に包まれていた。
ソメイの手のなかでさえ、宙に浮き上がっていた。
涙が頬をつたい、流れた。
ソメイをみる瞳に浮かんでいるものは、在りし日の刻印ではなかったか。
ソメイはただそれを凝視している。本当なのかと、確かめるように。
だがナギの意識がもどるにつれ、その刻印は、涙に流れて消えてしまった。
「ミササギなのか?――いいや、違う。この者に、おまえの魂はかけらも見あたらない。とうていおまえがミササギだとはおもえないのに、なのになぜ刻印がある?」
ナギの涙を指でぬぐい、その痕跡を少しでも読み取ろうとしているように頬に手をあて見据えた。
きっとただの徒労におわると、ソメイは最初からあきらめているのか表情は昏い。
光がゆっくりと消えてゆくのにあわせナギの視点がゆっくりと戻ってくる。
光のローブを脱いだナギの体はあきらかに変化していた。
美しさもこれ以上なく増してはいたが、それだけではない。
急激な変化に、まだ立つこともままらないナギは、ソメイに支えられていた。
ゆっくりと宙をさまようような目つきでまばたきを繰り返す。
ようやく我にかえり、ソメイの視線に気づいたとき、あっ、と短く悲鳴をあげた。
「ぼくは、なぜ?!」
自分の体の状態に愕然とした。
まさかそんなことがあるのだろうか。
一糸まとわぬその姿に起こった変化は、ソメイにすら驚嘆させていた。
産まれてきた時のナギの性別は確かに男だった。
だが、いまのナギの体には、まさに女としか思われない部分があらわれている。
柔らかな胸の膨らみにくわえ、体の稜線が丸みをおびすらりとしていた。
息を飲むような可憐で美しい肢体は女性そのものである。
もちろん、下肢においてさえ、それは例外ではない。ナギを別の生き物へ変化させてしまっているのだ。
ソメイの手が、ナギにふれた。
ビクッと震えた。
額から、銀の角が落ちていった。
「安定したな」
短くそう言うと、自分の上依をナギにかけた。ナギのなかに、まだ何かを捜しているかのように、じっと見つめる目だけがつめたい。
ナギは、なぜかいま、とてつもなく悲しかった。
自分がミササギではないことがどうしてこんなに悲しいのだろう。
悔しくてかなしくて、胸がいたくて涙がこぼれそうだ。
ソメイの失望がありありとわかった。
失望されている自分が惨めでたまらなかった。
どんなに変化してみても、いつも選ばれるのは自分ではないのだ。また、裏切ってしまった。
ナギはソメイに抱き上げられ、そのまま森を出ていった。
「歌が…?」
小さくナギはつぶやく。
あのうたが微かに聞こえたような気がしたのだった。
だが、ナギはそのときまったく気づいていなかった。
木陰にかくれ、一部始終みていた者の存在があったことを。
ソメイに抱かれて去ってゆく天界樹となったナギを、シュラは昏く不穏な目をしてみていた。なにかよからぬ思索をめぐらすように渇いた笑みをうかべていた。