天上の樹
3
魔都の生活にも慣れはじめていたナギは、どうにか一人で外の空気を吸うことができるようになっていた。
はじめは誰かについてもらわなければ歩けなかった街の中も、今では馴染みのものとなっている。
殺伐とした地界の風景は、どこかシンとすごしたあの屋根裏部屋を思いださせる。
けれどここにはシンはいない。
二度と会えないのかと思うと気が狂いそうなほど苦しくなってくる。
「ナギ様――」
知らない『樹』の少女が声をかけた。
どこからか現れたのか、ナギのまえに膝をついた。
小さな羽根が、手折られてしまった痛みにふるえていた。
訴えるような瞳に誘われるまま、ナギはそっと額に手をあててやった。
少女はうっとりするように表情を柔らげていく。痛みが溶け、少女に歓喜の表情がうかびあがってくる。
いつのまにか、建物にかくれてナギをひっそり見守っていた『樹』たちが集まってきていた。
どれもが養殖場から売られたり、さらわれたりして、日々、魔物たちに貪られている者たちだった。
ナギは自分でも知らないうちに、魔都に散らばるように生存していた樹たちに、崇拝され敬われるようになっていた。
彼らは子猫が親猫を慕うように、ナギの姿を見れば集まってくるのだ。
「またかよナギ。じゃあな、オレは先に行っとくから後でこい」
水極はあきれたように言った。
十分ナギでエネルギー補給したらしく、満腹なのでさっさと行ってしまう。
必要以上の狩をすれば、樹はそれだけ早くなくなってしまうことを、地界の住人のほとんどは認識している。それほど地界のエネルギーは枯渇している。
水極を恐れてそばにまで来なかった樹たちが、オズオズとためらいがちに、寄ってきだした。
ナギの放つオーラをすこしでも
浴そうとしているのだが、それでも控え目に、拒絶されるのを恐れるかのように、膝で這っていた。
それは地上にあったときの習性か、痛ましいまでの姿だった。
ナギは自分の何がそんなに彼らを癒すのかはわからなかった。
ただ溢れだすエナジーで、地界に墮ちてまでも、身を切り、与えなければならない者たちが満たせるのならば、自分ができうるかぎり与えてやりたいと思っていた。
そのエナジーは、彼らの深い心に対する慈悲であり、ナギをそのまま映しだしたような、深い愛情である。
あまり言葉をつむがない口よりも、あふれるナギの慈悲は美しく温かで、心の奥深くにある泉がどれほど深くて広いかわからない。
優しい光に傷を癒され、隠していた心の痛みでさえ、知らないあいだに緩和していた。
その力は、不思議なことに、『樹』だけを癒すものではなかった。
邪鬼や、天魔地魔、その他赤褐人や、獣鬼たちにとっても同じだった。
エナネルギーの乏しいこの地にあって、ナギという存在は日の光にもにていた。
誰もが惹かれ集まってくる。
乱暴にみえて、命を命とおもわないような魔獣の輩であっても、苦しみは同じなのだ。
ナギを食べようとするものは少なくなっていたが、ナギには、己が食べられなくても、自分の身と変わらぬ樹たちが食べられることは、同じようにつらいことであった。
いずれは死してしまう事実にかわりないのだから。
翼のほとんどが喰われてしまった女性がいるのが見えた。
彼女にひそむ陰は、姑につかえ、アルコール中毒の夫の世話をし、子供たちを必死で育ててきた女性の、毒のような疲れであった。
羽根は美しく大きかったが、それは心の痛みでもあった。
地界の者にとってはさぞかし旨いエナジーであったろう。苦労しきって浄化されつくしているのだ。
ナギの手が羽根に触れた。
なくなりかけていた翼が一気に大きくなった。完璧な翼へと戻っていった。
「ああっ――!」
どよめきが起こった。
女は至福にみちた笑みを浮かべていた。
痛みが消えたのといっしょに、過去の傷までもが消え失せていた。
魂の救済というものがあるならば、このことをいうのであろうか。
「なぎ、逢魔ガ時ニ、アマリ力ヲ使ウナ」
迎えにきていたレイが言った。
彼女の姿をみると、いっせいに樹たちは姿を消してしまった。
彼女の放つ邪気におそれをなし、繊細な樹たちにはたえられないのだ。
「レイ、大丈夫なの?!またどこか痛んでるんじゃないかって、こないだから火垂がいってたよ。心配してたんだ」
そっと黒い毛並にふれようとするナギに、レイはビクリと反応してとびのいた。
怒ったように目を吊りあげた。
「私ニ触レルナ!怪我ヲスルト言ッテアルダロウ。ソンナニ近クニ寄ルナッ!」
「大丈夫だよ。ぼくが触れると痛みがおさまるらしんだ。お願いだからレイ――」
怖がらないで、とささやいた。
レイは戸惑うようにナギをみつめた。
「私ハ、なぎ――」
せつなそうに口を開きかけたそのとき、月がぽっかり浮かびあがった
蒼く鬼幽のような不気味な月だ。
巨大な月はみればみるほど表面が風化しており、砂漠のように乾いた輝きを放っている。
「アブナイ……」
「え?」
「監査官ダ!天界カラ、ゴク稀ニ降リテキテハ、上級ノ樹ガイルト狩ッテユクンダ」
くぐもった声がより不安げに聞こえた。
レイはナギを連れ、身をひそめるようにしながら少しでも急ごうと走りだした。
だが皮肉なことに、蒼く冷たい月光がナギの白すぎる翼をいっそう際立てしまう。
空の一隅から舞い降りてきたそれらは、鷹の目のように鋭く地上を見回していた。
ふり仰いだナギは、先ほど羽を癒してやった女が、彼らに抱えられているのを見た。
女がハッとしたようにこちらを見、監査官の一人が一緒にふりかり、ナギと目があってしまった。
必死で走っているのだが、薄い空気に息が切れスピードが落ちるナギに、監査官の一人が一直線に急降下してきた。
「レイ!」
ザッという音をたてて降り立った。
ナギとレイの前に立ちふさがっていた。
優しげな顔立ちをしてはいるが、戦いのためにあるような体躯をしている。厳しく引き締まった筋肉は、すべて戦闘のためのものだ。
地界のものとはまったく異なる高次の波動が渦巻いている。
地界にあっては、すぎたエネルギーは時として狂気にもなりうる。
逃げるまもなく、ナギたちはまたたくまに監査官の天使たちに囲まれてしまった。
「おい!なんでおまえのような上級の樹がこんなところにいるんだ」
男が厳しく声をかけた。
「こちらに来い。ここはおまえのいる場所ではない」
キッと目を細め、男が手を伸ばして詰めよってくる。
ナギに触れるまえに、レイが牙をむけた。
庇うように飛びのいた。
「獣鬼っ!なぜきさまがこんなところにいる、暗黒の世界に帰れ!」
蔑んだ声が鋭く発っせられる。
容赦ない殺気がナギの羽根をピリピリと刺激し、ナギは小さくうめく。
男が顎をふった。
周りにいた男たちがレイに飛びかかった。
「レイ、レイっ!」
「おまえはこっちだ――」
「なぎニ触ルナ!」
レイは叫んだが、彼らの攻撃をかわすだけで精一杯だった。
格がちがいすぎる。
ナギはあっけなくレイからひきはなされ、腕をねじりあげられていた。
羽根を触られ、灼かれるような痛みに悲鳴をあげた。
その乱暴な腕がふっとんでいた。
エンラが血のしたたる腕を咥え、屋根のうえで唸っていた。
「エ、エンラ?!」
「きさまぁ、よくもわたしの腕を――!」
エンラは一変し、巨大なヒグマに似た獣と化した。牙をむきだしているのは、ナギが害されていることに怒っているからだ。
男たちに襲いかかっていった。
吹き飛ばされ、近くにあった古ぼけた家屋が倒壊し窓がくだけた。
はげしく土煙が舞い上がり、視界がかすむ。
ナギはふらりとよろけて建物にもたれるようにして、目の前の戦いをみていた。
レイが苦戦しているのに、思わず、足が前にフラリとでてしまった。
『――みつけた』
「えっ?」
『みつけたわ、わたくしの獲物』
振り向いたナギの視界には、蒼すぎる不吉な月だけだった。
水鏡のようにさざめく美しい月面は、憎しみと喜びの混じった色をたたえ、ナギを睨みすえている。
いつか見た、あの月の貴婦人の顔が脳裏に走る。
髪にかくされた半面だけの冷たい顔が、ぞっとするような笑みをうかべたのだった。
兵士のような男たちに腕をつかまれ、ナギは大理石の床に顔を押しつけられていた。
鼻先には目もくらむような美しい貴婦人が立っている。
こちらの世界へくるときと同じ、燃えるような憎しみの瞳で見ていた。
ナギが人界にいたころから、この憎しみにみちた目をしていた。
長い前髪を左がわにたらし、宝玉のような右の瞳で、射ぬくようにみている。
その怒りが自分のなにに起因しているものか、ナギ自身ですらわからなかった。
ただ、そうまで人を憎ませることのできる自分ならば、きっと重く醜い罪業があるにちがいない。彼女はナギでさえ気づいていない罪に、気づいているのだろうか。
ここに連れ去られたのは一瞬だった。
レイたちがその後どうなったのかもわからないし、自分がどうなるのかもわからない。
最初に、人界から連れてこられたのもこうだった。
なぜここに来たのだろうか。
そのわけを、怒りにみちたこの気位い美貌の婦人ならば、教えてくれるかもしれない。
大きな鏡が彼女の後ろにたてかけられていた。
鏡にうつる姿までが冷たく、毅然としている。優雅な物腰と仕種が、彼女の身分の高貴さを物語っている。
「リリス様、お申しつけによりこの者をひっ捕らえてまいりました」
ナギの額をゆかに擦りつけている男のよこで、監査官らしき男が恭しげに頭を下げた。
「ご苦労でしたわね――」
リリスと呼ばれた女性はかるくうなずくと、そのまま冷淡にナギに目をやる。
だがすぐに、見るのも汚らわしいとばかりに、そのまま侮蔑のこもった一瞥だけで顔をそらす。
その視線はまるで魂そのものをのぞきこみ、本質の醜さを暴きたてるようで、どんな見目麗しい者であっても恥じずにいられない。
高飛車にみくだす眼差しが、彼女の気性の激しさ通りある。
「後はいいわ。おまえたちは下がっていなさい」
「はっ!」
逆らうことを許さぬ命令に、男たちは弱り切ったナギをそのままにすると、身を低くかがめ、鏡のなかへ消えていった。
つるりとした鏡面を、驚いたように見ているナギの顎を、リリスは扇子でもたげ、検分するようにのぞきこむと、そのまま頬をはたいた。
顔に朱の線をつけたナギが床にへたりこむのに、いきなりリリスは羽根を引き千切りはじめた。
「アァ、やめ――ッ!!」
逃れるようにナギはうめき、不用意な乱暴に床へたおれふした。
リリスはそのまま足蹴にすると、苛立ったように声をあげる。
「これがそうだというの?信じられないわ。こんな未熟な人間に、どうしてお兄様がシールドなんかかけて守っておいたのかしら」
「なにを……?」
リリスは腹立ちまぎれにまた蹴ると、食べるでもない羽根を手のなかで粉々にくだき、汚らわしいとばかりに投げ捨てた。
「羽根だってこんな偽物!わずかばかり片鱗があったって、こんな混ざり物の樹なんて、今までのなかで一番最低じゃないの!」
小さく秀麗な陶器のような顔をツンとそらせる。
ナギはなんのことかさっぱりわからなかった。
ただ相手の激しい怒りにあっけにとられているのみだ。
彼女の言葉の端々から、自分がだれかと間違われているのがわかった。
シールドなんて、かけられた覚えがない。
「あ、あのぼくは……」
「わたくしに気安く声をかけないで!下級の樹のぶんざいで!」
激しい剣幕で、扇をたたきつけた。
しばらくしてから、またナギの顎を、鳳凰の白い扇子をひろげて持ち上げ、そのまま睨みつける。
「紛い物であっても、産まれてきてしまった罪は罪。おまえには、ここで消えてもらうわ。お兄様のお心を乱すものは、何者であろうとも許しはしない」
「なんのことを言っているの?あなたはだ誰なんです、どうしてぼくを――」
リリスは優雅にわらってみせた。
毒々しいほどの赤い唇が目に痛い。
「おまえがまこと『ミササギ』その人であったならば、わたくしも殺しはしなかったのよ。ただの紛い物であることがゆるせないの。どうせお兄様の心を惑わせるだけ惑わせて、そのまま輪廻の流れへ帰ってゆくつもりでしょう。――許せないわ。ならその前に、害虫の息の根を止めておくのが妹のつとめ。お兄様を悲しませる者はだれであっても許されないのよ」
ユラリ、と陽炎のようなものが背後にわきあがった。
「おまえなど、似ても似つかぬ。おまえは『ミササギ』などではない。なのにお兄様はなぜおまえなんかを気にするのかしら――」
ナギはわからない、と首をふった。
なんのことを言われているのか検討もつかなかった。
ただ彼女の言葉は呪いの呪文のように、ナギの中に染みわたってゆく。
自分こそが禍々しい存在なのだと思えてくる。死すべき運命が、ナギにもっとも相応しい……。
リリスは傍らにおいてあった剣を手にとった。すらりと鞘から刀身を抜きはなった。
「わたくしは月の女神。そなたら愚かな人の子のため、かくも無惨な憂き身にあわされてしまった。わたくしには何もかもが見える。おまえのことも、おまえの愚かな家族のことも、そして、過去も未来も――」
ぬきさしならぬ気迫に、ナギは逃げることも出来ずへたりこんでいた。
剣先がつめたくナギの喉に当てられた。
冷たい光に包まれた死の女神は、月そのもののように美しい。
ずっと憎しみをこめて人界も地界も照らし、死神の鎌を振り上げながら、ナギの死を願っている。
彼女こそがナギをこの地に連れてきた張本人であり、時空をひらく鏡を合わせることによって、天界と地界の門をひらいた。人界にいるナギをみつけ、運命の糸でつかんだ。
そんなことができる魔力をもつ者は、三界を見おろしている月の女神しかいない。
「……シン」
ナギは自分でもしらぬうちに名を呼んでいた。
鏡の割れる音がして、破片が爆発したように飛び散った。
鋭い鏡のかけらがナギに襲いかかるその一瞬、黒い腕がナギをかばい脇に跳んでいた。
大切そうにかかえこみ、ブルリと体をふるわせ立ちあがる。
レイだ。
予想外のことにリリスは悲鳴もあげずに立ちすくんだままみていた。
剣のシールドでほとんどの破片は避けられていたが、ほんのひとかけらがリリスの頬をかすめ飛んでいった。
ツツッと、真珠色の肌に真紅の血が伝いおちている。
秀麗な顔が憤怒のあまり、鬼女の形相に変貌した。
熱風のごとき怒気が舞いあがった。
「――きさまぁ、
隷!!」
レイの名前を憎々しげに呼んだ。
激烈な怒りのオーラだった。彼女を知っているのか。
リリスの手が震えていた。
背後に隠されているナギをねめつけた。怒りのすべてがナギに置きかわった。
レイは彼女の怒りがナギにむかったことを察し、背後にさがった。
逃がそうと扉の向こうに押しやる。
「レイ!おまえはまたわたくしの邪魔をする気なの!何度逆えば気がすむこの痴れ者が!! 」
「逃ゲロ!ハヤクッ!」
ひき絞るようにレイが叫んだ。
ただではすまされぬリリスの剣幕に、レイは覚悟をきめ、扉をすばやく閉める。
わめくような野獣の声が聞こえてきた。
荒々しいリリスの怒号があがっている。
ナギは夢中でかたく閉ざされた扉をたたいた。
レイの命が危ないことを本能的に察知したのだ。
「レイ、レイ!」
なぜそんなに助けてくれるのだ。
レイが命を賭けてまで、守ろうとしてくれる理由がわからない。
レイにとって、ナギのどこにそれほどの価値があるのだろう。自分自身でさえ、価値などみいだせないというのに。
長い廊下の向こうから、異変をかぎつけてきた兵士どもが、あらあらしい足音で押し寄せてきた。
ナギはドアに身をよせ、どうすべきか考えていたが、とりあえず音のしないほうへと走っていった。
ナギがどんなにレイを心配しても、いまできることといえば、逃げることだけしかない。助けに行ったとしても、お荷物にしかならないとわかっている。
古めかしく荘厳な宮殿は、どこまでも広がり続ける迷宮のようだった。
追いかける声から逃れ、でたらめに階段をくだり、いくつかの部屋をぬけ、物置のような薄暗い部屋へとびこんだ。
ナギは入ってからビクッと身を固くした。
誰かがこちらを見ている。
いや、見ていると思ったそれは、大きな鏡であった。
正面においてある鏡に自分の姿が映っているのだ。
ナギは震えが走った。
澄んだ鏡面に映った自分の姿の異様さは、眼をそむけることもできない。
「おい、こっちだ。たしかこっちに逃げこんだはずだぞ!」
兵士たちの声があがった。
弾かれたようにナギは扉に首をむけた。
どこかに身をひそめようとしたが、気ばかりあせって足がもたついてしまう。
ふらついたナギは、鏡に手をついた。
グニャリと歪み、あっというまに白銀の縁に華美な装飾をほどこしたアンティーク調の鏡のなかへ、吸い込まれていったのだった。
「ここは・・・?」
ナギはぽつんと座っていた。
まったく知らない場所であった。
静まり返った空気のおだやかさに、先ほどの喧噪がうそのようだ。
吸い込まれたはずの鏡によく似た鏡が、めのまえに置かれてあった。
多少飾りが違うのと、あの鏡のように怪しい霊気が放たれていないことが異なっている。
「どこ、なんだろう」
澄みわたったような静けさだった。
日のささない暗い部屋は、シンのいるあの屋根裏部屋のようで、少しほっとした。
優しい暗闇に抱かれていると安心するのは、昔味わった子宮のぬくもりを思いおこすせいだろうか。
ナギはこわごわとあたりを見回し、そっと立ちあがると、重い戸を開けて外にでた。
窓から白い光がさしこんでいることに驚き、足音をたてず窓辺へと近づいていった。
目をつぶり日光のエナジーを受けると、体中の細胞が歓喜しているのがはっきりわかる。
こっちにきてから、太陽の光線をみたことがなかった。
そんな風に陽光に包まれたのは、どのくらいぶりだろうか。
窓の外には緑におおわれた大地と森が広がっていた。いまのナギの目に綺麗すぎて痛くなるようだ。
こぼれる涙に、人はこんなにも自然を必要としていたのだと切に感じる。
足音がきこえたのにビクッと身をひそめた。
今の自分の立場をおもいだし、逃げるように廊下をかけていった。
先ほどの宮殿よりかなり大きく感じられる。きっと気のせいではない。
行けども行けども外に続く道はなく、ナギはしだいに不安におそわれだした。
前にみえた薄く開かれた部屋に忍びこむと、隠れるようにテーブルの下にもぐり込み、そのまま倒れこんだ。
緊張につぐ緊張のうえ、入り組んだ宮殿を逃げまどい、心身ともにナギは疲れはてていたのだ。
倒れこんだが最後、もはや体が動かない。
「レイ、大丈夫かな……」
ナギは冷たい床に頬をつけ目をとじた。
もうこれで、捕まっても抵抗できない。
それでもかまわないとも思ったが、ただ、あれほど懸命に逃がしてくれたレイのことを考えると、このまま殺されてしまうのが申し訳なかった。
その思いだけが、ナギをいままでつき動かしていたのである。
それでも肉体の限界には勝てなかった。逆らいがたい深い眠りがおそった。
寝息をたて始めたナギを、誰かが抱きあげたようだった。
白濁する意識のなかで、ナギは眼をかすかにあけた。
ふいに、胸が突かれるような懐かしさがこみあげた。
懐かしくて悲しくて、なぜだか自然に涙が溢れでてきた。
創造の限界を超えたような美しい青年の顔。
あまりに人ばなれしていて、それが夢なのか現実なのかわからない。
麗しいその
顔が、ナギをのぞきこんだ。
憂いをおびた黒い瞳は宇宙の果てのように黒く深く、漆黒の髪が整いすぎた秀麗な顔にかかっていた。氷のように冷たい表情なのに、とてもさびしそうにみえる。
見つめられていることを自覚したナギは、なにもかもを透かし見られているような気がして、はっきり目を覚ました。
大きな
眼で見つめるナギに、青年はおどろいたようつぶやき、
「おまえは……」
そっと長く冷たい指でナギの額にふれた。
ナギは息がとまりそうだった。
青年はわずかに動かした表情をもどすと、
「そうか」
とだけ言った。
たったその一言で、ナギの全てを理解しているかのようだった。
目をみひらいたまま動かないナギに哀れみの表情でうなずくと、そっといたわるように羽根を撫でる。
ゾクリとふるえた。
それは痛みではなかったけれど、それ以上の刺激が全身をかけめぐっていた。
青年の目に浮かぶのは、闇そのもののような、はかりしれない深淵の恐怖だ。
彼はナギになにも言わなかったが、いきなり抱きしめたかと思うと、翼を根元から引きちぎり手折った。
ナギは世界が破滅するかのような悲鳴をあげた。
血の霧が吹きあがり、まるで折られた翼の代わりに、血の赤い翼で羽ばたいているかのようにみえる。
突如として襲った耐えたがい苦しみが、ナギの心臓に牙をむいた。
鼓動がゆっくりと止まってゆく。
きっと、ここで終わるんだ――。
死の神は恐ろしいほど美しく、あっけなく訪れた。
結局、訳もわからないまま、この残酷で、優しい悪魔のような青年に抱きとられて死ぬのだ。
なぜだかそれは嫌ではなかった。
ナギはずっとこの瞬間を待っていたのかもしれない。
ダラリと腕がたれた。
青年は力ないナギの額の髪をやわらかく払った。
朦朧としているナギの額に、青年はいきなり何かを植え込んだ。
「
楚名――お兄様?! 」
リリスが叫んだ。
ナギを探し、取り乱したように駆けてきていたらしい。
ナギをみると嬌声をあげ立ち止まった。
「そ、それは!」
リリスの視線の先に、銀色の角を刺しこまれたナギがいた。
信じられないとばかりに、リリスは、ソメイの腕の中のナギを、ただじっとみつめていたのだった。
火事の焼け跡を、シンは眺めていた。
全焼したのは、借家の並びの三棟であり、むかいの家も半焼し、黒煙のために残った壁面が黒くすすけていた。
ナギの家はほとんど燃えつきていた。
柱に使われている鉄骨と、わずかな家財道具がそれらしい形をとどめていたに過ぎず、二階は完全に焼けおち、みるかげもない。
死骸は見つからなかったと言っていた。
たしかに二階にいたはずだったと母親が証言していたのに、それほど炎の勢いが強かったのだろうか。
姿をとどめぬほどに焼かれてしまったナギのことを、だれもが訝しがっていた。
シンは、ナギが消えてしまったのだと思った。
その思いは不思議なほどの確信にみちていた。
ナギは以前にも消えたことがあった。
あのときは、ほんの短期間で帰ってきた。
だからまた今度もすぐに帰って来るのだと思いたかった。
それは希望的観測かもしれない。
でもきっと、誰かがナギを連れ去ってしまったのだ。今度こそ本当に、戻ってこない。
シンは一度だけナギの家族のもとを訪ねた。
母親も父親も不思議なほど平然としていた。
弟すら、ナギがいたことを忘れたのではないかというほど落ち着いた顔をしていた。
彼らには、火事のあとだという大変さはあっても、それ以上のものは感じさせられない。
不気味なほどの無感心さに、シンは吐き気すらおぼえた。
ナギは見殺しにされたのだと、そのときはっきりわかった。
だから行ってしまった。
シンを置いて絶望の彼方へと消えてしまった。
ナギにとっては、この世界にいるのと連れ去られるのでは、果してどちらがよかったのだろうか。
ただおいて行かれたシンだけが、どこにもいけず、ナギのいた場所ばかりを彷徨っている。
いつか行ってしまうのではないかと思っていた不安は的中した。
いやな予感ばかりあたる。
「ナギはどこへ行ってしまったんだろう」
シンが漏らした、だれに対するでもない独白に、母親の美保は顔をわずかばかり白くさにせたにすぎなかった。
不要とされた子供たちは、胸に親の放ったナイフを刺したまま生きている。
ナギもシンも、親に愛されない子供として、胸に大きなナイフを埋め込まれている。
そうなってさえ、ひとりで生きていかねばならない子供は、幸福を感じる能力が衰退してしまう。
そんななかでさえ自分は幸せなのだと言えるようになったなら、やっと大人へと羽化ができるのだ。
シンは巨大な暗黒をのみこんだあの家に帰る気がしなかった。
ナギがいたときはあたりまえだった暗闇が、いまでは我慢できないほど淋しい。
ふたりだけでいることは寂しいようだが、なによりも強く、そして暖かくなることもできる。
ふたりでいれば宇宙をのぞき、果てしない過去の記憶に返ることもできる。
イマジナリーをかきたて、そのなかでいつだって遊べる。
ひとりとなった今では、まったく空虚な孤独だけしか残っていなかった。傍らにいてくれた温もりは、もうどこにもいない。
ナギは誰より優しい子供だった。誰にも愛情をもらわなくても、ちゃんと愛情を知っていた。
わきでる泉を汲むように、シンに惜しみなく分け与えてくれた。放つ光は微細で弱くはあっても、誰にも持ちえない気高さがあった。
周囲のひかりが粗雑すぎて、ナギの本当の輝きを見ることが出来なくなっているにすぎないのだ。
もし、それを受け取ってしまったなら、誰もがきっとナギを求めずにはいられないだろう。
その光を映し、本来の自分の輝きがどんなものであったかを認識することが出来る。
自分を受け入れない世界ですらナギは許していたというのに、血をわけた女が殺した。
ナギの心を殺してしまった。
絶望がナギを捕らえたとき、闇が追いつき、食べたのだ。
シンはめずらしく街中をさまよい歩いていた。
こんな日は、みしらぬ他人にかこまれて孤独を感じているほうがいい。
一人の孤独より、大勢の孤独の方が、心地よい。ナギのいなくなったやるせなさを、どうして埋めよう。
家電製品を陳列してある電気店のまえで足を止めた。
ローカルニュースのアナウンサーが、また死体のみつからない殺人事件や自殺の話をしている。
最近やたらとこの手の話がおおいような気がした。次々と人が消え、けれどどれも問題にならない。
まるで人為的にしくまれた計略のようだ。
それらの事件を、みなで無意識のうちに避けているようにしか思えない。
事件は頻発しているのに、誰もつきつめようとしないのだ。
考えだすとさらに恐ろしさは募る。
いなくなった人々は、いつも必要とされていない者たちであることが臭わされていた。
弱者は強者の奴隷であるという世間の風潮がそうなのであれば、彼らが消えたことなど、そう重要なことではないのかもしれない。
そこまで考えて、シンはふと怖くなった。
はたしてこんな考えを抱いているのは、自分なのか。
まるで頭のなかにべつの人格がいて、思考だけが一人歩きをしている気がする。
ナギが消えたとき、いままでいた自我というものが一緒に消えてしまったみたいだ。
いつもいつもナギの記憶をのぞき、自分の中に取り込んでいた。
自分がナギであり、ナギが自分だった。
ナギが消えてからというもの、どんな事象もシンのなかに響かなくなっている。
そればかりか、物事について考えるとき、いつもナギを頭脳に映しだし、思考をまねているのだ。
そうなってからのシンは、あることに気づき茫然とした。
過去の記憶が、ない。
ナギに関すること以外、すべてが薄れてしまっている。
ナギと過ごしたとき、ナギと話をしたとき、ナギと抱き合って眠ったとき。そのときの自分しかいない。
「なぜ、ほかのことを覚えていないんだ?!」
自分がわからない。不安が胸の穴を吹きぬける。
足りない。――心を塞ぐための力が足りなくて、心臓をとり除かれたゾンビみたいだ。
「キャ――!」
突然、背後で悲鳴があがった。
シンはショーウインドーに映った真っ黒い影をふりかえった。
我が目を疑う。
そこに巨大な鬼がいるではないか。
二メートルはゆうに超える巨体をしていた。長く太いドラム缶のような腕で女性を抱き込み、悠然ともちあげる。
クワッと穴のような口をあけた。
女性の頭をむさぼり食べた。
顔を半分かじると、そのまま、次元の切れ目のようなビルの谷間へと消えていった。
雑踏がもどった。
誰もそれをみていなかった。
通りのまん中で起こったことなのに、だれひとりふり返りもしない。
シンは自分の目を疑う。
もしや、彼だけしか見えていなかったのでは?
女性が消えたことは事実であり、鬼がヒトを食べていたのも本当だ。
道路にのこった血は、消えてはいないではないか。
「どうしてみんな不審に思わないんだ!」
シンはあまりにも異様な光景に気をのまれていた。
道行くせわしい人々はシンを肩ごしにつき飛ばしながら、迷惑そうにあるいていく。
こみ上げる吐き気をおさえ、シンはたまらずその場から走りだす。
何かに追われるように家のなかに飛び込むと、巨大で重々しい扉をとじ鍵をかけた。
「……シンか?」
黄色い室内灯の下で、誰かがふりかえった。
昼間だというのに電気なしでは、家の中は暗すぎる。
父親だった。
父親の圭悟の、久しぶりの顔がある。
自宅だといっても、彼は滅多にこの屋敷に立ち寄りはしない。
圭悟にとって、帰宅というよりは、やはり訪問といったほうがふさわしいだろう。
シンは久しぶりに会う父にかける言葉すらなく、ただいつものように無表情でみあげた。
それは圭悟にしても同じであり、親子は久しぶりの対面を無感動と沈黙ですごす。
なんの感慨もない圭悟の目は、シンをとおりこし、背後のホールで繰りひろげられた、妻の終焉の姿を見ていたのかもしれない。
「おまえ、学校に、行く気はないのか」
抑揚も何もない声がのそりと言った。
「……そうだ、昔からそうだった。気に入らぬものはすべて排除して、いつもそんな目でわたしを見ていた――」
感情らしきものを言葉にしかけ、だが彼はやめた。
シンは言われずとも、その続きを知っていた。
人間ではない。
圭悟はそう思っている。
嫌っているのだ。
シンのことを化物だと思っている。憎んでいる。
シンが化け物であったために、妻が、綾が自殺したのだと信じている。
事実、そうかもしれないと、シン自身でさえ時々思ってしまことがあった。
シンの母親は、結婚する前はかなり有名なモデルであったらしかった。勝気で奔放で、美しい綾子には誰もが惹かれていった。
それは圭悟も例外ではなく、彼は金にあかせ、むりやり手にいれた。
親友の恋人だったにもかかわらずである。
シンが出来たのはすぐだった。逃げられないように圭悟が強引に子供をつくったためだ。
気づいたときにはすでにおろせない状態になっていたらしい。
腹のなかで人の形をはっきりとっていたのに、綾子にはつわりもなく、腹もほとんど膨らまなかった。
そして、何の予兆もみせぬまま、シンはそれから十八カ月も腹のなかにいた。
まるで誰かの呼び声を待つかのように、母親の体内に寄生したまま潜んでいた。
そうシンに教えたのは母親自身である。
圭悟は用事をさっさとすませようと、シンのポケットに金をねじこんだ。
「問題だけはおこすな」
一言告げると、そのまま出ていった。
札束はかなり分厚かった。
シンはその重く手あかにまみれた紙切れを掴みだした。
圭悟の閉めた扉を一瞥すると、床に舞い落としながら、台所へ向かい水を一口飲んだ。
叫び声が聞こえる。
地下のほうから。
ごく稀だが、そんな音が聞こえることもあった。
だが、シンはその声に、ガラスコップを落としてしまった。
「ナギっ――?」
シンは飛びだした。
ナギの声をきき間違うはずがない。
ナギが苦しみ叫んでいる。
地下へつづく階段があるはずの空間は、黒くひずんでいた。
生臭い風が吹きあげ、残りの一万円札の束がパラパラと散って、転がった。
闇は目覚めようとして身をふるわせ、ズルッ、という音とともに、それは、シンの目の前にゆっくりと現れいでたのであった。
鏡にうつったその姿をはじめてみたとき、ナギはただ茫然としていた。見知らぬだれかをみつめているようだった。
線の細い、いくぶん青ざめた顔が心もとなく、怯えるように眼をあげ、泣きそうにみえる。
そこにあるのはもはや人の姿とはいえなかった。
銀盤にうつる変わりすぎた姿は、ほっそりしていて今にも水の泡となって消えそうだ。
額に生えているのは角だった。
銀の尖りが、まるでこの世界の住人となりはててしまった証のようであった。
そして、背には純白の壮麗な翼がたなびいている。
あれほど手酷く手折られたにもかかわらず、最初に植えつけられた羽とは、比べ物にならないほどに大きく、豊かになっていた。
いまにも発光せんばかりに澄み、その美しさに目を奪われてしまう。
そこにいるのは、まさに天上の生き物だった。人間のナギはどこにもいない。
日に当たらなくなった皮膚がさらに白くつややかになり、色の薄かった髪もいつのまにか背にとどくほどにのびている。
金茶色に潤んでいる大きな瞳があやうげにゆれ、淡い色の唇は息をしていないようである。そうして静かにたたずんでいる姿は、まるで少女のようだ。
もう戻れない――。
ナギは唇をかみしめる。
額に角をいただき、背には樹として生きるしかない翼が隆々とのびている。
こんなにかわり果てた姿では、もう、シンのもとに、帰れない。
どこにも行くところがない。
その絶望感がたえまなく訪れ、ナギの小さなむねをかき乱した。
何度となく死におわれ、小さな命の火はそのたびごとに消えかけてきた。
いつだって、ナギはもう終わりなのだ覚悟をきめて、運命に逆らおうとはしなかった。
だがそんななかであっても、本当は心のどこかで、いつかシンのもとへ帰れるかもしれないと思っていたのだ。
もしかしたらまたあの日常に帰れるかもしれない、シンに、会えるかもという望みを捨ててはいなかった。
そのかすかな希望にだけすがってここまできたのに、だがもうこの姿では、その願いはかなわないではないか。
気を失ったナギが目を覚ましたとき、目の前にいたのは、あの美しいひと男だった。
ナギの羽根を有無をいわせぬ力で折り、いきなり額に角を埋め込んでしまった残酷なおとこ。
――ソメイ。
たしかリリスがそう呼んでいた。
地界で聞かされていた像より、ずっと美しく、優しげだった。
自分勝手で傲慢だな最高神が、よもやこんなに澄んだ悲しい目をしているとは思いもよらなかった。
ソメイは、まだわけもわからず混乱しているナギの手を握り、黒曜石よりもまだ黒い瞳で、ナギをみつめていた。
そのあまりの深さに、ナギは目眩がした。
宇宙の深淵に吸い込まれたようだった。
彼の瞳の奥にひそんでいるものが孤独なのだとわかったとき、押し寄せる怒涛のような心の闇がナギに流れこんだ。無防備だった心を一杯にしてしまった。
ナギは孤独な闇をだきながら、心が急速にしずまってゆくのがわかった。
思っていた。
この闇の瞳を持つ人になら、何をされてもきっと許せると。
この人になら、このまま殺されてもいい、無残に切り裂き、残酷に殺されても、きっと後悔しないだろう。
ソメイならば、怖くはない。
覚悟をきめ、まっすぐ見返した。
ソメイはなぜか驚いたように目を見開き、ナギを強くみつめた。
哀れむように目を伏せると、握っていた手をはなし、しずかにそっと優しく羽根にふれた。
いつ生えたのかもわからないナギの翼を、愛おしむように、何度も何度も撫でていた。
ソメイはできるだけ衝撃をあたえぬように、一枚だけ抜き取った。
ナギの全身に、痺れるような痛みとも、悲しみともつかぬ甘い感情が身体をかけめぐった。
羽根を口にするソメイに、ナギはどうしてそんなつらそうに食べるのかと不思議に思ってしまった。
そんな視線に気づいたのか、ソメイは一切の感情を遮断してしまい、無感情なきびしい眼光を向けた。ナギがビクッついたのにもかまわずに、そのまま一言も声をかけぬまま、部屋を出て行ってしまった。
「あなたは、ソメイ様の樹となられたのですよ」
呆然としたまま、ソメイの去った後をみつづけているナギに、部屋の片隅に控えていた男が声をかけた。
いつからそこにいたのか、整った面差しの青年が立っていた。
いまさらのように気づいたナギに、青年はいかにも事務的に挨拶をする。
「わたしはあなたの世話係となりましたヒサギと申します。今後、ご用がございましたらなんでもわたしにお申しつけ下さい――ナギ様」
様づけで呼ばれたことにも驚いたが、その後いきなり膝をつかれ、ナギは面食らってしまった。
いままで樹として鬼たちに追われ、食用とされてきたのだ。
こんな、いかにも身分の高そうな人にかしずかれたら、驚かない方がおかしい。
「あ、あのぼくは……」
「あなたはこれより、最高位の樹として、ソメイ様専属の天樹となられたのです。わかってらっしゃるとは思いますが、あなたは、すべての樹の頂点にたたれたのですよ、ナギ様」
「えっ……?」
キョトンとして、事の重大さをまったく理解していないナギの様子に、ヒサギはわかっていたとはいえ、あきれたようにため息をつく。
ナギの本質を見極めようしてか、厳しい目をしていたが、たじろぎながら眉をよせているナギに、仕方が無いとばかりに説明をはじめた。
「今まで地界においでだったのでわかってらっしゃらないかもしれませんが、『樹』という存在は、この天界においては敬われるべき尊い存在なのですよ。地界の魔物どもにはその価値がわかっていないから、養殖などという下劣なことをして真似ていますが」
ふう、と息をはいた。
「あなたがた『樹』は、自然がうみだす微細なエナジーさえも、呼吸するかのごとく吸収し、身体のなかでより純化して、さらに密度の高いエネルギーへと変換なさいます。さらにその結晶を羽根としてわれらに与えてくださる唯一の者なのです」
「あ、あの、でもぼくはそんなこと、本当にできるのかどうかも……」
たしかに種子をむりやり植えつけられ樹にされた。それは養殖という存在でしかなく、さらにその翼さえ、ソメイが折ってしまった。
「ソメイ様はあなたに無駄に植えられていた養殖の――劣悪でまがい物の翼をぬきとられただけです。あなたは本当の『樹』となるべき方でいらっしゃいました。しかも最高位の樹となる羽をお持ちだったのを、ソメイ様はご存じだったのです。いまその背についている羽根は、あなた自身から生まれた、本物の翼です。本物の羽なのですよ」
「ほんもの?まさか……。だって、ぼくから翼が生えるなんてそんなことあるわけが……」
信じられない。にわかにそんなことを言われてもどう信じればいいのか。
ただ、言えることは、背に翼があることだけは嘘ではないということだ。
その羽は、無理やり植えつけられた翼にくらべれば驚くほど軽くて美しかった。
存在を意識しないでいられほど軽やかであり、身体まで体重がなくなったみたいだ。
ナギはどうしていいかわからず自分の純白の翼にさわった。柔らかくて、肌に吸いつくように心地よい。
ナギはハッとして額を抑えた。尖りが手にさわった。
「ソメイ様は天界の神々の中おいてなお、最高の神であらせられます。すなわち、そのお方が、あなたの羽根を口になさったということは、あなたを自分の物にしたという意味であり、また、他の者の手出し一切を禁じたということでもあります。……わかっておいでですか?ソメイ様は、あなたを助けたのですよ、
ナギ様」
ヒサギは言い聞かせるようにゆっくり言う。
ソメイが翼を折ってから、何日もナギは眠りつづけていた。
その間、月の女神リリスはしつこくナギを渡せとソメイに迫り、いつも困らせていた。
それでもソメイは、リリスの要求を退けつづけ、ついにナギを自分の物にするのだと言った。
そうでも言わねば、彼女があきらめないのを承知していたのだろう。
いままで、どんなに勧められても、彼は自分の樹というものをもったことがなかった。
なのに、どこから連れてきたともしれぬただの樹を、いきなり自分のものにすると宣言したのだ。
いったい彼になにが起きたのだろかと、周囲の者は驚き、ひとしきり噂しあっていた。
彼は羽根というエネルギーさえも必要としないほど、極められた高位の存在者であった。
その力は、岩戸の向こうに隠れた父である太陽神にかわり、疑似太陽すら造ってしまえるほどであるという。
それを理由に樹の所有を退けていたにもかかわらず、樹を娶ったことで、皆が不思議がってもしかたがない。
「あの方が、なにを思われてあなたを助けたのかはわかりません。もっと上質で、もっと美しい樹がたくさんいるというのに、よりにもよってこんな地界に墮ちた――」
汚らわしい樹を、と口の中で言う。
ナギの存在を快く思っていないのだと聞かされないでもわかる。
それも仕方がないだろう。
ヒサギでなくとも、ナギ自身ですら信じられないでいるのだから。
「ソメイ様はなんでぼくを知ってらっしゃるんだろう……」
「それこそわたしたちが聞きたいところですね。まったく、ソメイ様はなぜあなたになどシールドなどをかけていたのかわかりません。でなければ、もっと早くに人界から『樹』として天界へ連れてきていたはずですし、地界になどに紛れさせるはずがありません」
苛つきをおさえるようにいったん言葉を切ると、いかにも不本意だと言いたげに付け加えた。
「ソメイ様は、一時的だといえどリリス様にことわりを申されたのですからね、あなたを諦めさせるために、頭をさげられたのですよ、よく覚えておいてください」
「まさか?!」
まさか、そんなことまでナギのためにしたというのか。
とても信じられない。
「……リリス様は、なんであんなにぼくを憎んでいるんですか?ぼくみたいなちっぽけな人間なんて、あの方の気に止まるほどの者でもないと思うのに……」
「そんなことは存じません。わたしのような天使族には、天人族の皆様のふかい思惟など、はかり知れぬことでございますから」
冷たくつきはなされて、ナギは重く息をつく。
この世界の法則はいまだ理解できない。
ヒサギから聞いた話も、なんとなくわかりはするが、難しすぎて不明瞭な部分がおおすぎる。
天界にしろ地界にしろ、人間のすむ人界よりはるかに、潜在能力や精神生命が進化している高位の世界だという。
そのなかで天界と呼ばれるこの地は、最もレベルが高く、未知の力を秘め、深い叡智をもつ神々がいるというのだ。
そこにはソメイやリリスのように力をもち、人から神と呼ばれている天人族がいて、彼らにつかえる天使族がいる。
天使のなかにも上級や中級、下級の者が存在しており、さらに彼らに使える人々は、陽霊人と陰霊人と呼ばれているのだ。
その世界は上級の樹と呼ばれる者たちを擁し、彼らにふさわしい質の高いエナジーの結晶を、羽根として与えている。
本当の羽根をもつ樹にとって、羽根をもがれるときの痛みは、養殖の者たちほどではないらしいが、それでもなお苦痛をともなう。
彼らは人界において、より魂を磨かれ、浄化されているからこそ、樹となり、微量なエナジーですら地からすいあげることができるのだ。
また、別次元には地界と呼ばれる世界があった。
そこは、天界や人界より、さらに下位の存在であり、先日までナギがいた魑魅魍魎の蠢くあの魔の世界のことだ。
そこは、もともとエネルギーの少なく低級な世界だった。
にもかかわらず、さらに太陽が無くなってしまったことにより、すべてが劣悪化してしまったのだ。
彼らは生きるために四界の秩序と法則を無視し、次元をやぶって人界から樹になるべき人間をさらっていく。ときどきは、人間そのものを食べているのだという。
そして、人界と呼ばれる、緑と水の世界があるはずだった。
だがそれももう、過去のことになりつつあるのだ。
そこに住む人族は、愚かで単純で、さかしい生き物となるべく道を進んでいた。
本来ならば、自らの不完全さを人界で修正し、上位の生命体へと進化するために地球へ生まれ出たというのに、それを忘れて破壊へと進み、自己破壊能力をばかりを発達させてしまっている。
彼らはいまだ天界人によって造られた泥人形のままであり、地界の家畜とはりはてようとしている。
きっと、人界の崩壊も、時間の問題なのかもしれない。
最後に残されたのは、幽界という、他の三界とは根本からまったく異なった世界だった。
そこは、遥か昔の世に、ソメイによって千(ち)引(び)きの岩で塞がれてしまい、断絶されているのだといわれている。
かくもというほどにおぞましく、汚れた未踏の地だとはなしには聞くが、まだだれも生きたもので見た者はいない。
そこに行けるのは、不浄の魂だけだ。
ナギはほうっと肩をおとした。
シンと二人きりの世界だけに生きていたナギには、この世界は途方もなくおおきく、なにもかもが違いすぎる。
ナギの、蜘蛛の糸のように細い神経には、これらの事実を受け入れるには、時間がまだまだたりない。
急きたてるようにおしよせて、ナギをそっとしておいてはくれないのだ。