天上の樹
12
太陽が照りつけていた。
そんな穏やかでゆったりとした日差しは久方ぶりだった。
焼けるように肌を刺すような強さもなければ、目にいたいような毒々しい赤さもない。
白銀の陽光は生命に優しくふりそそぎ、愛でるように大地を照らしている。
エナジーをはぐくむ爽やかな風が地球をめぐるのに、よどんでいた空気が流れ、雨がそれを洗い清める。
神の恩恵はいたるところに現れていた。
ささくれ立っていた心を和やかにし、あれほど起こっていた諍いごとや不穏なニュースがめっきり減っていた。
そんな変化をだれも気づかなかったが、ナギはそれでいいと思った。
それがソメイの愛の形なのだから。
「ナギっ?」
シンが二階の窓から呼びかけた。
庭で空をぼんやり眺めていたナギは、シンに首をむけると手を振って答えた。
こっちに帰ってから、ナギはずっとシンと暮らしていた。
なぜそうなったのかはわからないが、両親や学校、はては近所の人間たちの記憶の中から、ナギに関することだけが、奇妙なほどすっぽり抜けていた。
だから両親のもとへ帰れない。
――ちがう、帰る必要はなくなったのだ。
ナギはこれからシンのもとで、ずっとシンの家族としくらしてゆける。
「まっててシン、すぐ行くから」
帰ってきても、ふたりの住らしている部屋は、やはり屋根裏だった。
いくら屋敷が広くてもそこしか落ちつける居場所はない。
それでも、できるだけナギのために空間をつくろうと、シンは今まで手をつけることもなくほうっておいた、余分な荷物を処分するために忙しく働いていた。
古い箪笥や雑多な小物がけっこうあった。
ふとナギは、地下室の階段のまえで立ち止まった。
普通の石畳の階段があり、闇はもうたまっていない。
ときどき歌が聞こえてくるほかは、過去の痕跡は微塵もない。
広がっていたはずの幽界の入口は消えてしまっていた。
「ナギ、疲れたのか?」
荷物をかかえておりてきたシンが気にかけるように言った。
ぼんやりしていたナギは首を違うとふる。
「ねえ、そういえばリノちゃんはどうしたのシン。帰ってきてるはずじゃなかったっけ」
「リノか?ああ、リノなら今度グラビア撮影だとかいって、いまカナダに飛んでるんじゃないかな。一週間ぐらいしたらまたこっちに帰ってくさ」
「忙しいね。このあいだパリから帰ってきたばかりだったのに。まあ売れっ子なんだから仕方ないけどね」
感心したようにナギは言う。
リノの存在は、おかしなほど、リノのいなかったあいだすべてを埋めていた。
みんなのなかにずっと存在していたかのようであった。
祖母のところですくすくと成長したはずの彼女には、毎日学校へかよい、友達と楽しくすごしたり、買い物をしたりという、普通の少女としての、日常の記憶があった。
勝気で可愛く、やさしい彼女にはたくさんの友達やボーイフレンドがいた。
リノからは、地界での屈辱の記憶は一切消失していた。
そんなものは誰にもいらないのだ。
もしかしたらリノは、ナギと交換に戻ってきたのかもしれない。
ナギはソメイとの記憶をとりもどしたかわりに、これほどはっきりとこの世界に忘れられているのだから。
リノは学校帰りに、街でスカウトされたといい、たまさかそこが母親の、綾子の所属していたモデルクラブだったため、将来を有望視され、いま売り出しの新人モデルとして、けっこう有名人になっていたのだ。
大忙しの彼女のいないあいだ、 ナギとシンはふたりだけの静かな日々を送っていた。
相変わらず父親はかえってこなかった。
また父親もなぜか、ナギがずっと家にいることについて何も言いはしなかったし、黙認していた。
「もしかして、シンのお父さん、なにか知っていたのかもしれないね……」
「まさか、考えすぎだよ、あの冷血な親父にかぎってさ」
シンはそんな可能性はみじんもないと苦笑する。
ナギは屋根裏にあがり、ふと鏡をのぞいた。
何度ここに映るシンを見ていたかわからない。
羽根をもぎ、シンに渡したこともあった。
逢いたくて、戻りたくて泣いた日々もなつかしい。
いまではまるでその逆なのだ。
鏡に映るソメイを眺め、そっと、そっとだれにも気づかれないように、心に思っているだけ。
「ナギ……」
「ああ、シン終わった?つぎは何を運ぼうか」
ナギはシンが戻ったことに気づくと、ことさら明るくなんでもさそうに笑ってみせた。
鏡を見つめているナギを見ると、シンはいつも心配そうな悲しい顔をする。
本当は戻りたいんじゃないかと、何度も何度も問うシンに、ナギはいつもきっぱり答えてみせる。
「そんなことないよ。ぼくはずっとシンのそばに戻りたかったんだもの。意味あって人間として生まれたんだ、だから、ぼくは人として生きていくよ。シンのそばにずっといる。そのために帰ってきたんだから」
「ナギ」
「さあ、部屋も広くなったし、このタンスを動かしたらおわりだよ――」
まるで、ソメイがいった言葉を自分に言い聞かせるように言っているのに、ナギは気づいていない。ナギの笑顔は美しすぎて目にしみる。
部屋を分けようとシンが言いだしたのだった。
人界にも帰ったとはいえ、ナギの体におこった変化はもどらなかった。
だからいまナギは男性でもあるが、また女性でもある。
気遣ったシンがカーテンを中央にひくことを提案した。
初めはどうでもいいといって、部屋をわけることに賛成していなかったナギだったのだが、そのうち、シンのほうが困っているのだということに気がつき、しぶしぶ承諾したのだ。
自分はなんら昔と変わらないつもりでいたけれど、一緒に着替えたりすると、シンがなんとなく困り顔になっていることに気づいてしまう。
やはりなにもかも元通りとはゆかない。
ナギはそんなこともあって、部屋をきちんと片付け、二つに分けることにした。
だがそれも、かえって良かったのかもしれないと思ってしまった。
こうして一人になると、泣くことができるのだから。
窓からさす太陽の光が、まるでソメイのように暖かだった。
胸をあたたかくする日差しにソメイの背をなでる手をおもいうかべ、彼の胸に抱かれているみたいに心地がいい。
ナギはにじむ涙をおさえた。
シンにこれ以上気をつかわせたくない。
彼は彼なりに気をつかってくれている。
鏡をナギの部屋におき、いつだって一人になれるようにしてくれている。
シンはソメイでもあった。
いつだってナギのそばいて、声をかけ、一緒に手をとりあえる。
シンにはナギがいる。ナギにもシンがいて、ソメイがいるのに、ソメイだけが、ひとりなのだ。
「ナギ、ちょっとゴミ捨てて来くるよ。明日燃えないゴミの日だったよな」
「うん、あっ、じゃあぼくも手伝うよ」
「いいよ、そんなに量はないし。疲れただろ、ゆっくりしてなよ」
シンはいうと、ひとりで古い空き缶だの、装飾品だのを運びだしていた。
ナギは二階から眺めていたが、やはり苦労しているシンを手伝おうと、慌てて階段をおりていった。
門の外にでたナギのすぐよこを、子供の声たちがワッと通りすぎていった。
楽しそうに笑いながら、我先に家に帰ろうと急いでいる。
ふとみると、もう空が赤らんでいた。
目にいたいほどの赤さで西の空が燃えている。
蒼穹のそらは青さをまし、あわいサファイアブルーから濃い紺色にかわりつつあった。
空を突っ切るように天の川があらわれるはじめ、宇宙の輝きをうつし瞬きはじめている。
ナギは冷たくなってゆく、夜と昼の端境の空気をすった。
胸がツンッと痛くなった。
ナギはほうっと息をついた。
目をむける先々のものが色鮮やかに目に染みえてきた。
庭にある柿の木も、物干し竿にとまっているトンボや、枯れかかった雑草、小さく咲いている道端の花さえもが、あまりに綺麗で、なぜだか涙がでそうになってしまった。
世界はかわりなく穏やかにすぎている。
こんなに何でもない普通の出来事でさえ、ナギのなかに入り心をゆさぶってしまう。
ナギはその理由を知っていた。
なぜならそれらすべてが、愛でできているからだ。
笑いあう子供も、美しい緑も、空に浮かぶ星、空をとぶ鳥、川をわたる風、見つめあう恋人。それらすべがソメイなのなかにあった風景であり、ソメイ自身のあらわれなのだ。
この宇宙すべてがソメイだった。
そこに対立する狂気ですらナギは愛されているのだと知っていた。
悲しみのなかには優しさがあり、絶望のむこうには希望があるのだから。
「ソメイ様……」
ナギは手で顔をおおい泣いていた。
見るもの全てがソメイに見えた。
シンをたしかに愛している。
だがソメイは自分自身であり、自分はソメイの一部なのだ。はじめから離れて生きることなどではしない。
ナギの体はいつしか光に包まれていた。
月の光だった。
東の空から浮かび上がった銀の貴婦人が、銀の鱗光でナギをつつみこんでいた。
「――リリス、様?」
ナギは顔をあげた。
息を飲みこみ、棒立ちになったまま月をみつめていた。
ふいに、ナギはわらった。
まるでなにか大切なことを思いだしたような晴やかな顔だった。
「ナギ、どうしたんだ?」
シンがゴミを捨て、帰ってきていた。
にじんだ汗を腕でぬぐい、空を見上げているナギに言う。
ナギはシンにふりかえった。
切ないほど幸せな笑みをこぼしていた。
「シン、どんな悲しみのなかにでも、必ず一筋の希望はのこされているんだ。それは自分の心をひらいたときに与えられる。わきおこる無限のエネルギーに気づき、勇気と希望を忘れず、未来への一筋の希望に、人はなれるんだ」
「ナギ?」
「生まれたもの、だれもがそうだった。必ずだれかの、一筋の希望となれる」
シンには急にどうしたのかと目を白黒させていた。
けれど清々しいナギの笑顔には、なにも言葉をかけることができなかった。
シンはなぜかほっとした。
月光をうけ、ナギは眩むようにうつくしかった。
それから、ナギはいなくなってしまった。
シンはハタハタと風にひらめくカーテンをみつめ、そこにいるはずだった空間をじっとながめていた。
もう何度もナギを思い出そうとしていたが、シンには、最後にみせたあの晴れやかな笑顔だけしか残っていなかった。
泣き顔もくるしむ顔もおもいうかばない。きっといま、ナギが幸せに笑っているせいだと思う。
ナギがどこへ行ってしまったのかわかっていた。
あの、はじめに消えてしまった満月の夜とおなじように、きっとソメイのもとへ帰ってしまったのだ。
人の世の悲しみつらさに耐え、だれより他人の痛みをしっていた優しい人間だった。
だからこそ、ナギは天に戻っていけたのだ。
天女のかえる場所は神の胸しかない。
ただポッコリと大きな空間が、むねのなかに空いてしまった気がした。
消失感がとめどなくあふれるのに、ときどき懐かしい思い出たちがそこを通りぬけ、胸に針のようにつきたってゆくだけなのだ。
なにもする気が起きなかった。
シンはぼんやり鏡を見つめていた。
この鏡もまた、役目を終わっていた。
もはや人界の事象しか映さない。
きっとナギのためにあったものなのだろうから。
シンは肩に何かの気配を感じた。
くすもった鏡に、小さなエンラの顔が映っていた。
シンはまさかと思い、肩をみた。
肩の上にすわり、笑っているのはたしかにあのエンラである。
シンたちの目の前で、エンラは魂までも幽界の炎にやかれて、消滅したはずだった。
なのに、いまここにいるのはエンラは無邪気な子供の顔で笑いかけているではいか。
まるでシンに元気を出せといいたげに小さな声で鳴いた。子猫のように頬をすりよせ、小さな子供の手で頭をなでている。
シンの心は、きっと彼だけが知っているのかもしれない。こうしてただ、ナギの代わりに温もりを与えてくれているのだから。
そんな、らしからぬ仕種をするエンラをみながら、シンは苦笑し、そして少しだけ感謝した。
エンラの鳴き声にまぎれて、少し泣けるではないか。
ほんのちょっとでいい。
ナギにも誰にも気づかれないように、ほんのわずか泣ければ、いつもの自分に戻れる。
いつもの自分にもどることが、きっとできるのだ。
またあしたから、戦わねばならない。
もうナギはかえってこない。
シンは自分ひとりの人生を、また、一からやりなおさなければならない。
「大丈夫、エンラ。おれは大丈夫だよ。いまは、ちょっと元気がないかもしれないけど、すぐにもとに戻る。だから、すこしだけ……」
頭をだきしめるエンラの胸に顔をおしかくした。
シンは声を噛み殺し泣いていた。
明日からの笑顔のために、ナギの幸せを祈りながら。
おわり