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天上の樹

11



 『ソメイ様……』
 名を呼ぶのさえためらうように、そっと小さな声でナギはいつも呼んでいた。
 息がもれるような甘さがあった。
 いつだって控え目で、空気さえゆらすまいとでもするかのように、しとやかに動いた。
 ナギからは驕りも高ぶりも、自尊さえも感じられなかった。
 潤んだ瞳にあわく見つめられるたびに、抱きしめたい衝動にかられてしまう。
 ソメイは何度目かのため息をついた。
 何をみてもナギを思い出しているのに気づかされてしまう。
 今もそこにナギの幻影がいるのがみえる。
 ものやわらかに微笑みソメイを見つめている。
 あのとき、なぜ手を離したのだろうか。
 ひどい後悔だけがあとに残って、いつまでも胸のなかでザラついている。
 ナギが砕け散ってしまいそうで、怯えたのだ。思わず手を離してしまった。
 ほんとうはシンなど簡単に退けられた。
 ナギを自分の手元においておくことなど造作もないことだった。
 けれどそうすれば、ナギの心はきっと壊れてしまっていた。心優しいナギが、二人のうちのどちらかを選ぶことなどできない。
 もろく崩れ去ったあとの野原で、くだけた心を拾い集めながら、ナギはシンという過去に、永遠に縫いとめられてしまうのだ
 想像していた以上の虚無感があれ狂った。
 消失感にぽっかりと胸に穴があき、その空虚さに、ソメイ自身が吸い込まれて行くようなのだ。
 どれほどナギの存在が大きかったのだろうか。
 自分は気づかぬほどに、その小さな命を愛でていた。 
 シンのことは、ずっと以前から懸念していた。
 地界との時空を勝手にひらいたり、そこから鬼どもをひきよせたりしていることも知っていた。いまでさえ幽界の封印をあやうく振動させているほど、未知の力を蓄えつつある。
 彼のもつナギへの思いの強さが、時折、胸をひっかくのが一番癇に障っていた。
 彼がナギの羽根を食べ、異常なまでの力が増していこともわかっていた。
 それでも放置していたのだ。
 たかが人間に、という侮りもあった。
 それ以上に、シンの存在など取るに足らぬと思いたかったのだ。
 シンの存在は抜いても抜いてもつきたつ小さな針のように苛立たしかった。
 いや、ほんとうは殺してもいいとさえ思った。
 ナギの未練となるならば、いっそ鬼どもに殺させてしまおうかとも考えていた。
 だがナギが彼を呼ぶのだ。
 いつも帰りたいと泣き、求めあうナギの姿があまりに憐れで、いつも思いとどまった。
 ソメイは我知らず嫉妬していたのかもしれない。
 シンにだけは、返したくなかった。どうしても手元に置いておきたかった。
 ソメイは自分のなかの醜さを嘲笑せずにいられない。
 自分は『ミササギ』、という過去の思いに逃げているのに、ナギには自分だけを求めていて欲しいと思ってしまうのだから。
 きっといまごろ人界でひどく苦しんでいるだろう。 
 人の世の、汚染されきっている空気には、天界の純粋なエネルギーの結晶である天樹は耐えられない。
 水も食べ物もすべてが毒であり、エナジーさえ狂いかけている。
 いつもだ。無くしてから、いつもその存在の重さを思いしらされる。もはや、愛していることを認めずにはいられないほどに。
 ――そう、ナギを愛している
 過去も未来も約束さえも関係なく、ナギというひとつの魂を愛していた。
 理由などなにひとつないけれど、それでも心が惹かれてしまった。
 ソメイはずっと待っていた。
 一人の生命が帰ってくるのを。
 それはミササギだと思っていた。
 もしかしたら、それはミササギの魂それ自体が復活することではなく、ソメイが愛するものが現れる、という意味だったのかもしれない。
 この思いを認めるまでに、なんと長い時間がかかったか。
 「ナギ――」
 ソメイはゆっくりと立ち上がった。
 かたわらにあるべき温もりを取り戻すために、彼は黄泉比良坂へとむかっていた。
 ソメイははじめて明確なみずからの意思と、欲求のもとに行動していた。




 日増しに弱るナギに、シンは内心はげしく悔やんでいた。
 ソメイの言葉がことあるごとに苦く甦り、いやというほどシンを責め立てている。
 一言もナギはくるしいとはこぼさなかった。
 ただ白く小さな花を手にして、時折、息をつまらせながら、その花を愛しそうにみている。
 シンはなぜかその姿をみると、わけもわからない嫉妬が胸のなかを駆けめぐった。
 ナギを自分だけのものにしたいという欲望が沸きあがった。
 なにも言わないぶんだけ、よけいにナギがソメイのことを考えているような気がした。うっとりするほど甘い表情をしているナギは遠くに感じられてしまう。
 今なにを思っている。
 ナギのことならどんな小さな心の揺れでさえわかったのに、今はすこしも読めない。
 まるで知らない人になってしまったみたいな不安感がおしよせるのに、よけいに慕情がつのり、ナギをそうなるまで助け出せなかった己の無力さに腹がたつ。
 「人間が、人間の世界でくらせない体にしてしまうなんて許せない」
 ナギは人間なのだ。
 人の世界にひとりで産まれおち、二人で生きてきたのだ。
 こんな姿に変え、人ではなくしてしまった。
 シンはソメイを憎まずにはいられなかった。たとえそれが八つ当たり的な感情であっても、嫉妬に歪んでいたとしてもだ。
 「ソメイのやつがナギを変えてしまったせいだ。だからこんなにナギが苦しむんだ。ソメイのやつめっ!」
 シンはナギが苦しむのをみるたびに、シュラが言った幽界のことを思い出していた。
 幽界にいる穢那王なら、ナギをもとに戻す方法を知っている。
 さもなくば、伊邪那岐という剣でおどし、ソメイにもとに戻す方法を吐かせてやればいい。
 「ナギ、きっともとに戻してあげるからね。あんなやつ殺してやる」
 「シンちがうんだよ」
 ナギが弱々しく首をふった。
 「こんな体になったのは、ソメイ様のせいじゃないんだ。ぼくの体は天界へいくと、樹になってしまうように、生まれたときからその因子が含まれていたんだ」
 本来なら、もっとはやく天界へ連れてゆかれるはずだった。それをソメイがシールドをかけ、守ってくれていたのだ。
 だからシンの側にもいられた。天界にいっても、ただの樹として食べられるはずだったナギを、必要もないのに手元においてくれた。
 なんどもナギはシンに訴えていた。
 それでもシンは取り合おうとしなかった。
 「なんてあんなやつを庇うんだよ!あいつはナギを苦しめていた張本人だろ。ナギは騙されているんだ。あいつの魔力に魅入られているだけだ。目をさませよ、ナギ」
 「シン……」
 ナギを強く抱きしめる腕に、細い息がつまる。
 「ナギ、お願いだからおれを一人にしないでよ。どこへも行かないでよ。きっと元に戻してあげるから。お願い……」
 ソメイの話をしないでほしいと、シンは小声で頼んでいた。
 ナギはシンの頭をなでながら、羽根でそうっと包み込んだ。かつて朽葉が歌っていたような声でささやいた。
 「他人を傷つける武器は、自分を傷つけてしまうよ。他人を傷つける者は、自分をも傷つけてしまうんだ。そして、他人のために自分の命をかけて助けるものは、自分の命を救える力をもっている」
 「ナギ――?」
 「シンを愛してるよ。それと同じように、ソメイ様も愛している。二人ともがぼくの命であり、命よりもずっと大切人たちなんだ」
 泣きそうな顔でみあげるシンに、ナギは深い慈みのまなざしを向けていた。聖母のような微笑がシンのなかに染み入ってくる。
 ナギのそばにいたエンラが引き込まれるように頬をすりよせた。
 「そしてもちろんエンラもリノちゃんも愛しているよ。母さんも義父さんも勇も、みんな大切な人たちで、みんな愛しているんだ」
 ナギは立ち上がった。
 フラリとゆれる体がうすく発光して、空気に溶けてしまいそうだ。
 「ナギ?」
 「ぼくは、幽界に降りなけりゃならならなかったんだ。もうずっとぼくを呼びつづけていた。そうだ、あんなに小さなころから呼ばれていたのに、なぜ今までわからなかったんだろう」
 地下から聞こえていたかすかな歌が、いまでははっきりナギの耳に呼びかけている。
 はやくきてほしいのだと、ナギをまっているのだと。
 ナギを、ひたすら呼びながら待ちつづけていた声が、いまやっと届いた。
 「歌を、捜さなくっちゃ。みんなが求めている、魂の安らぎの――そう、原初の歌だ」
 「……そうだ。そうしておれは――」
 シンも立ちあがり、ナギをかたわらから支えた。
彼もまた何かをかたく誓ったような厳しい顔をしていた。




 ナギを気づかいながら、地下室への降下口のまでくると、闇の中にうずくまっていたリノが顔をもたげた。
 ナギはそっと頭をなで、羽根をもう一枚ぬきとり与えると、地下に横たわっている暗黒の闇へ目をむけた。
 歌はたしかに呼んでいた。
 闇に近づくと、吸い込まれるような引力がナギをさそっている。
 エンラがナギの手をにぎった。
 不気味な色合いがうねり、瘴気をはきだしていた。
 こんなに歪んでいるのに、ここが幽界への入口なのだとどうして今まで気づかなかったのか。不思議なくらいである。
 闇に飛びこむ刹那、リノが目をカッとひらいた。
 琥珀色の瞳が赤く濁り、ナギの前にかけこむと、雄叫びのように啼(な)き声をあげる。
 呪われた野獣の体躯が変化をはじめ、苦しむように震えると、リノはみるみる一振りの剣にかわってしまった。
 「リノっ?!」
 「リノちゃん!!」
 シンの目の前で剣はきらめいていた。
 驚きながらも、シンはリノであった剣を手にとった。
 目の前の暗黒を、そのみごとな銀鱗をはなつ、大きな刃で切りさいく。
 まるで闇の扉がそこにあったかのように、ふたつにわれ、道が顔をだしはじめる。
 「ママ・・・・」
 エンラがいきなり走りだした。
 ナギの手をはなし、時空の隙間へと、飛びこんだ。
 闇はしっとりと魔の手を延ばし、ナギとシンを掴むのに、ふたりはそのまま込りこんでいったのだった。




 「ここが……幽界…?」
 ナギは涙があふれ落ちるのをとめることができなかった。
 怨嗟の声がいたるところで轟いていた。
 千秋の恨みのなかに、空腹と渇きにもだえる亡霊たちがいて、病み(おとろ)えてなお死ねぬ苦しみに散々に()きわめきながら、救いを求めているのだ。
 邪欲がうずまいていた。
 内臓が溶けそうな穢れだった。
 襲いくる苦しみが冷塊のごとく手足を束縛し、逃れる術もなく、無常のときが永遠にとまっている。亡者の慟哭のなげきが鼓膜をやぶり頭のなかをかき乱す。
 滴りおちる涙はそくざに蒸発していった。
 人のもつ苦しみの概念など、しょせん及びもつかぬ世界なのだ。
 それでもナギたちが溶けて幽鬼と化してしまわないのは、リノの剣がそれらをはじき切りさいているからだった。
 シンが不安げに声をかけた。
 「ナギ、だいじょうぶか?」
 「――耐えられないよ。なんて悲しみにみちた世界なんだろう。まるで苦しみで創られた世界のようじゃないか。こんな世界に苦しみ続けるひとがいるなんて、信じられないよ、シン」
 肥大化した、邪悪で凶暴な思念は、集まりすぎるとただの悲しみになってしまう。
 懊悩する魂は、灼かれるだけ灼かれて、けっきょくは救われない。
 ときどき息を切らしながら、ナギは苦しむ声にうしろ髪をひかれるのを振り切り、シンについていった。二人の先をエンラがまっすぐ進んでいた。
 どれほど走ったのか、闇が一段と深まった。
 地の最果てに、ひときわ重厚な(かがや)きが昇っていた。
 近づくにつれ、真紅の火柱が、烈火のごとく燃えさかっているのがわかった。
 何もかも焼きつくすような煌々とした熱風を吹きあげている。
 そこに一人の女性が座っていた。
 目をつぶったまま、炎に身をまかせ、灼かれているのだ。
 うずまく業火に逆立った黒髪がゆれていた。
 狂気のような苦痛にひとりで耐えている。
 四界すべての穢れを背に負って、きっとおのれの身を燃やすことで浄化しているの。
 崇高なその御姿(みすがた)は、まるで朝焼けの太陽のようで、聖母の癒しをそのまま体現していた。
 「ママっ!」
 エンラは幼子のように叫ぶと、闇となり収縮していった。
 炎に身をやつしている女性が手をのばし抱きあげると、エンラは炎のなかに入っていった。
 フッと表情をほころばせた。
 微笑んだ彼女は、命あるすべての母のようにやさしい。
 「あなたが、穢那王ですか?」
 ナギは膝をつき、こぼれる涙をぬぐうこともできぬままに伏してしまった。
 涙が炎の粒のように地に跳ねて、燃えあがった。
 懐から銀霊草をだしていた。
 祈るように敬虔な面持ちで花を炎にさしだした。
 花は燃えることもなく、摘んだそのときのままの姿で、穢那のもとへと昇っていった。
 それを呆然とみていたたシンの剣に、銀霊草の光が反射して、穢王の顔を照らしだしていた。
 「もし、この方の嘆きの炎が消えるのであれば、ぼくはもう何もいらない」
 ナギは云った。
 これ以上の苦しみと大きな喜捨がどこにあるだろうか。
 「これだけの犠牲のもとにぼくたちの世界は成り立っていたんだ。ぼくはなにも知らなかった」
 一粒の涙が炎とならず、ナギの瞳からこぼれておちた。
 いまにもナギたちを焼きつくしてしまいそうだった火の勢いが、波がひくように衰えていった。
 「……わたしにこの花くれたのはだれ?……わたしのために涙をこぼしてくれたのは、だれなのだ?」
  穢那王の瞳がスウッと開かれた。
 涙を流しすぎた瞳は、真紅の宝玉のようだった。
 四千世界を見透かしている英明のまなざしは、思いのほか優しい。
 ナギはみつめられる彼女の中で、自分自身が裸になり、むき出しの姿のままで見られているのがわかった。
 飾りもきどりも洗い流された、たった一つの魂としてでしか、彼女とむきあえない。
 すべての事象をみとおす知慧の瞳こそを、天界人たちは恐れたのだ。
 「穢那王様、ですね」
 「そうだ。久方ぶりに目覚めた。――ああ、これはなんの匂いだ。いい香り」
 うっとりとするように銀霊草をかいだ。
 「これをわたしにくれたのは、おまえ?」
 「穢那様の悲しみが、少しでも和らぎますように」
 ナギが祈るように言った。
 「ありがとう。だが、いいのだよ。わたしの苦しみは永劫終わらないのだ。地下で苦しむ者すべてが救われるまで、わたしの魂が救われることはない。幼子の悲しみと人々の嘆きがきえるまで、この血をながし、賽の河原で石を積み、泣きつづけるのが勤めなのだからね」
 穢那をつつむ炎が、さらに白く高く燃えあがる。
 邪気がチリチリと光る。
 「ここは人の邪悪な思念の集まる場所。悲しみの心と憎しみの心が増せばますほど、鬼道におちて苦しむ輩が、この地へと墮ちてくる。だからわたしはここから動くことはできない。彼らを見守らねばならないのだ。共に血を流すことだけが、わたしのできることなのだからね」
 ナギはその炎が、ただの浄化の火ではないことに気がついた。
 穢那の流す涙、そして血。
 聖母はいまだ血をながし苦しんでいる。
 魑魅魍魎たちと同じ苦しみで身を灼いている。
 「わたしはおまえたちを知っている。おまえたちが何を求めてわたくしのもとにまでやってきたのか。――こんな穢れて、最も遠い世界へまでやってきた、その心の内までも知っているよ」
 シンの心も、ナギの心も見透かしている。
 なにを聞くために来て、なにを求めているのか。
 「剣と歌。相対する二つの者を同時に求めているとはおもしろい」
 「穢那よ、その先はオレだけに聞かせてもらいたいね」
 言葉尻をかき消すように誰かが言った。
 「シュラ様?!なぜあなたが?」
 ナギが叫んだ。
 いつからいたのか、ナギとシンの背後に立っていた。気配をまったく消し去っていて、気がつかなかった。
 彼は自分の身の安全をはかり、ナギたちが幽界へ降りるのをまち、二人が切り開いた幽界の道をつけてきていたのだ。
 「シュラ……?!こいつが、おれに剣のことを教えたんだ。おまえがソメイに苦しめられているからと……その剣があれば、ソメイを倒せると」
 言ってからシンはハッとした。
 不意に記憶におおいかぶさっていた霞が晴れたのだ。
 この男がどれほどナギをいたぶり、苦しめていたかを。
 カッと頭にひらめいた。怒りに体が熱くなる。
 シュラの小馬鹿にしたような笑みを口元にのぼらせ、シンの怒りにつりあがった目尻を面白そうにみた。
 術にかけられ、いいように操られていたのである。
 切り殺さんばかりの殺気が燃えあがった。剣を鞘からぬき、シュラにむかってかまえた。
 だがシュラの見下したように冷やかな嘲笑はかわることがない。
 「鵜呑みにしたおまえたちが悪いのだ。まさか、本当におまえたちが穢那のところまで俺を導いてくれるとはおもわなかったがな。まあとるに足りぬ虫ケラとて、たまには役にたつものだということだ。ほめてやるよ」
 「なんだと?!」
 「ほんの一時だったが、楽しい夢がみられただろう。まあオレには、たかが下等な樹に、命をかけるなという気は知れやしないけどな。――だが、これから、やっと真に正しい時が動きはじめることができる。その道具となれたのだから、下等な生物にしては光栄なことだろう」
 「きさま!」
 哀れな道化をバカにするようなシュラの口調に、シンは激昂し殺気をはなつ。
 「オレこそが王となるのに相応しい者だったのだ。オレは本来あるべき姿をとりもどさなければならない。リリスもおまえたちも思惑どおり動いてくれた。あとは邪魔なソメイを王の座から引きずり下ろし、殺せばいい」
 「なぜですか?!あなたはソメイ様の弟ではなかったのですか」
 ナギが震えるように言うのに、シュラは冷笑をうかべる。
 「そうだ、やつとは兄弟だ。だが王となるべきものは、選ばれた者でなければならないんだ。世界を統率する器ももたぬソメイが世界に命令をくだすなど、我慢ができない。兄弟などと甘えたこといって放置しておけば、やつはつけあがるだけだ。そうだろう、たかが人間が一匹死んだぐらいで、いつまでもウジウジとしているようなやつになど、頭上に立たせておけるものか」
 シュラは自己を顕示するのにもっともな言い分をつらねる。
 「どうせ父王だってとっくに殺しているに違いないんだ。それを岩戸に閉じこもったなどと偽りつづけ、自分で堂々と表にたち王として世界を統治する勇気もくせに、王様然としてオレの頭上に立ちふさがっているんだ。目障りでしかたがない。なあ穢那、おまえだって許せないだろう、そんな屈辱」
 炎の台座にすわっている穢那王をみあげた。
 だが彼女はなんの感情もなく、ただじっとシュラをみているだけだ。
 「おまえだってオレのほうが王にふさわしいと思うだろう」
 女神は決められた台詞を読むようにいう。
 「なにもわかっていない者は、時に自分の能力を過大評価し、あまつさえ身分を吐き違ちがえてしまうものだ。神はそんなひとであるからこそ愛し、慈しんでくださっている。しょせん我らなど、神の被像物にすぎぬ。すべては神の手の上の事象にすぎないのだからな」
 「なにをわかったような口をきいている!きさまなど、その神の造った最下層にまで堕とされた女だろうがっ!」
 穢那はクッと笑った。
 「そう、ここはわたし自身だ。おまえの歪みもわたしの中にあるものの一部にすぎぬのだよシュラ」
 「わけのわからないことをぬかすな!さあ、さっさと創造の歌を吐くんだ、伊邪那岐の剣はどこにある。こんなところに長居は不要だ!」
 「きさま、自分が伊邪那岐の剣を手にいれたいがために、オレたちを利用したんだな!」
 シンがこらえきれないように言った。
 「そうだとも。きさまらのような卑小で瑣末な人間など、われわれ天界人の下僕にすぎぬ。用はすんだ、きさまらはここで死ぬがいい」
 言い終わらぬうちに、シュラの手からギラッと光るものがナギに向けられていた。
 起こったことがわかりかねているナギは、ただ茫然としていた。
 「ナギっ!」
 シュラの剣がナギの首を切り落とした。
 いや、切り落としたとみえた瞬間、エンラがシュラの背にのり、標的がずれて空を切った。
 エンラが低く吼えた。
 妄執にとらわれたシュラの精神を吸い込み、喰おうと牙をむけた。
 炎が大きくたちあがるのに一瞬目を奪われ、シュラは黒い魂の破片がきらめいたのにあわせ倒れた。
 あっけないほどの幕切れで、それっきり動かなくなくなってしまった。
 穢那王から放たれた炎が、空っぽになった体を包んだ。その炎は邪悪に凝り固まったシュラの思念さえ、燃やした。
 罪の重さのぶんだけみごとな輝きを放ち、原子へと戻っていくのが見える。
 エンラは舌なめずりながら、ナギのよこに降り立った。口もきけず、ただ見入っているナギに、すりよるように甘えて頬をよせた。
「シュラ様は、どうなったの……?」
 ナギがやっと口をひらいた。
 「帰っていったのだ。生命の海へと戻った。そう――地球(ガイア)の胸へと」
 「地球(ガイア)?!」
 ふたりは声をそろえ叫んだ。
 「すべての生命はガイアの御胸(みむね)からはじまる。命の萌芽は、青く美しい水の惑星によって育まれてきたのだ。だからこそ、ソメイ様はガイアを愛し、ガイアの愛のなかで育つ人間を愛していた」
 穢那王の表情がやわらぐ。それだけで炎が蒼く透明に清められる。
 「ガイアこそがわたしであり、わたしの鏡に映った姿だったのだ。わたしとガイアとは、相対する者だ」
 「あなたとガイア様が?」
 ナギはまさか、と思わずつぶやいた。
 「そう、ガイアが生みの母なら、わたしは死した魂を迎える黄泉の母だ。彼女が生きる力を愛するのなら、わたしは彼らのこぼす悲しみこそを愛している」
 穢那はまさに母という言葉そのものであったのだ。
 彼女の愛は広すぎて見えなかっただけである。この地下に渦巻く負の想念は、命を愛している者だから耐えられる。
 産む苦しみを知っている女は、いつも痛みと苦しみを抱きしめ、だからこそ、女が幽界の王となれるのだ。 
 「それゆえわたしは死の母でありながら、生命の母でもあったのだ。己を捨てて命を求め守ろうとする命があるなら、わたしはそれを救わずにはいられない」
 エンラが高く啼くのに、彼女がそっと手をふれた。
 そのままようやく役目を果たし終え力つきるようにエンラの姿が薄れてゆく。
 「切り裂かれ血を流しながらもエンラは、ナギ、そなたを求めていたのだよ。そなたを守りたいと願っていたのだ」
 「ぼくを――?」
 「その魔物はお前の血と涙でつくられた。いわば、おまえの子供のようなものであろう。エンラは親を慕うようにおまえを慕い、おまえを傷つける者たちから必死で守ろうとしていたのだ」
 エンラは導師の手により、ナギの涙で発生したホムンクルスだった。
 ナギはやっとそのことを思い出していた。
 「エンラ、そんな……」
 「シンは誰よりそなた救うことを切に願っていた。その波動に惹かれてエンラは幽界より這もどっていったのだ。きっと本能で、シンが何者であったかを知ったのであろうからな」
 エンラは薄れた姿のままで、いまにも涙をこぼしそうなナギに、満足げに顔をほころばせた。
 影のように淡くゆらめいたかと思うと、光の粉になって散っていった。ひとかけらだけが、シンの肩に舞いおちた。
 「わたしはすべてのことを知っている。そしてまた、ありとあらゆる四千世界の事象を記憶している」
 ナギは息を呑むと、覚悟をきめたように口をひらいた。
 「穢那王様、あなたはソメイ様の求めていることを、知っておられるのでしょうか?」
 「むろん」
 穢那はうなずく。
 ナギの身体に緊張がはしった。それを求めるためだけに、ここまで来たのだ。
 「ナギ、おまえはわたしの業火に灼かれる覚悟はあるか?」
 ふいに穢那は、神妙なおももちになった。
 「おまえは古き衣をぬぎすて、業火に清められ、帰ってこられるだけの強い意志があるか。わたしを灼くこの浄化の炎は、邪悪なるものすべてを焼き尽くしてしまう。たとえ罪の一粒であっても、あまねくいっさいを無に帰してしまうのだ。おまえがこの火に身を投げだし、記憶を封印している肉体の穢れを清め、最初のひとつに戻ることができたなら、歌はおのずと思いだすであろう」
 まっすぐナギを睨みすえている。まるでナギの奥底にひそむ思いの深さを図るかのように。
 それは賭であった。
 言葉でいうほど簡単な行為ではなかった。
 求める心に、わずかな曇りでもあったならは、ナギの魂は、それらと一緒に破片さえものこらず燃えつきてしまう。
 ナギはためらいもせず、炎にむかった。
 飛びこんでゆく姿にはもはや迷いはない。
 ソメイを知り、そして自分を知りたいのだ。
 彼のために、あんなにも求めている歌をうたってあげたいのだ。
 「ナギっ!」
 炎の手に抱かれたとき、シンの声が遠くに聞こえた気がした。
 身も心も焼きつくす白い炎に、持ちうるものすべてを差し出していた。
 心地よい眠りがナギを包み込んでいった。
 意識がしずみ、自我が消滅してゆく。
 かわりになんともいえない面映いような、甘くてゆったりとした歌が染み込んできて、その歌に溶けてしまいたいような、あがらいがたい誘惑がナギをいざなってゆく。
 渦巻くような光輝のむこうにそれがあった。
 羅天の歌だった。
 いま少しで思いだしそうなのに、光が大きすぎて、まぶしくてよく見えない。
 無我夢中でそれに手を伸ばした指先が、いままさに触れようとしたそのとき、歌は弾けて消えてしまった。
 一切の無が、あった。
 ――ナギは目を、あけた。 
 崩れるようなあやうい光を目にたたえていた。
 涙が滂沱とこぼれ落ちていった。
 『……わたしのすべては、ソメイ様のものでした』
 絞るように言った声は、ナギのものではなかった。
 『わたしの魂もこの身のひとかけらですらすらも、あの方の偉大な愛の一部だったのに、わたしは……』
 「ナ、ギ――?」
 シンはどうすべきかというように声をかけた。 
 『ソメイ様に悲しみを与え、あの方との約束を破ってしまったのは、わたしの方なのです』
 その表情はナギのものではなかった。深淵の闇をのぞきこんだものだけがもつ透明さだった。
 ミササギである。
 ナギの眠るような表情のうえに、ミササギの貌が浮き立っていた。
 柔らかくかすむような印象を与えるナギの相貌にくらべると、ミササギは燦然とかがやく陽光そのもののようであった。
 ナギが薄墨の破線で描かれているとすれば、ミササギは濃く鮮やかな実線のように明瞭にみえてしまう。
 これが同じ魂の出現かと思われるほど、二人は異なっていた。
 並べられるとなおさらだ。
 もし実体をもっていたら、きっとの聖者の叡智と、戦士の頑健さもつ、健常な若者がそこにいただろう。
 だが、それも長いまつげを伏せ、苦く沈んだ表情を浮かべただけで、途端に風にでもさらわれそうなはかなさにかわってしまう。
 どこか中性的であった美貌がさらに女性化して、ナギにすこし似てみえる。 
 『わたしは過去世において、このようにつたない未完全な身でありながら、ソメイ様のお命を宿したことがあったのです』
 「ソメイを?!まさかっ!」
 シンは叫んだ。
 『弱り切ったソメイ様の御身の再生をはかるため、身体をお貸ししたのです。その時より身にあまるご慈悲をいただき、こともあろうか転生した次の世においてさえご寵愛くださると約束してくださいました。なのにわたしはそれを覚えていることができなかった……』
 シンはさすがに驚いていた。
 太陽さえ容易につくりだすという最高神が、人間などの肉体で再生されうるのか。
 いや、それよりも、なにがソメイにおこったのだろう。それほどまでに痛めつけられることとは、どんなことなのか。
 ミササギは消え入りそうにうつむいてしまい何も言わなかった。
 ただ消えそうに薄れてしまった。
 ミササギにかわり、穢那王が話しだした。
 「はるか悠久の昔、天界で反乱が起こったことがあったのだ。それは主権をソメイ様から奪おうとした、愚かな輩のふるまいであり、理もわからぬ軽薄な者たちが簡単に賛同し、いつしか大きな戦いになってしまったのだ。――だがしょせん欲望に溺れた烏合の衆。神であるソメイ様にはしょせん叶わかった。どうあっても勝てぬと見越したやつらは、腹いせに、地球を楯にしようとした。ソメイ様がなにより大切にされご慈愛されているのを知っていたからだ」
 ソメイはそのことにひどく激昂し、己の立場も危険もかえりみず、ガイアを守ろうとして立ち向かっていった。
 「力の違いを見せつけるかのようなあっというまの出来事だった。ソメイ様は一気に鎮圧してしまわれた。だが、そのとき負った傷が、ソメイ様のお命を、徐々にではあるが侵していく結果になってしまったのだ」
 彼は傷つけられた妹の身を癒すために、負の力のすべてを向けてしまった。
 ガイアは人間たちによる内からの汚染と、外からの攻撃により弱り切ってしまっていたのだ。
 ソメイは自らを癒すことなど忘れているかのようであった。 
 神とは、巨大な生命エネルギーの塊のようなものであるが、それも限りがないというわけではない。
 そうでなくとも闘いにおいて、莫大なエネルギーの消費をしているのだ。かなり無理がある。
 体力も生気も磨耗していたソメイを復活させるには、失った以上のエネルギーを補充して、魂を再生したのちに、肉体の治癒をまつか、さもなくば先に肉体の再生をはかり、宇宙にただよう無限の力をその器に取りこむかの、どちらかでなければ癒されなかった。
 ミササギはそのことを神託で知った。
 消費、という文明活動により、地球を痛めつけることに警告をあたえつづけていたアスカ王国の巫子たちは、地球の滅亡にかかわる大事としてそれを受けとった。
 彼女らはガイアの話に耳をかたむけ、神の再生を計画したのだ。
 その一つ方法とは、ミササギの体の中で神を養い、エネルギーを復活させるというものであった。
 ミササギはまよわず神を体に宿した。
 子宮に子を宿すこととは違い、全身に神を受けいれ、それこそ細胞の一つ一つにいたるまで捧げ、一体化し、かの者が再生するだけのエネルギーを得るまで、みずからの魂も身体も差し出しつづけるのだ。
 それは激しい精神力と、忍耐を必要とするものだった。
 普通の人間には、きっと神を宿すことすら、出来ないであろう。
 それはミササギでなくてはならなかった。
 神の末裔と呼ばれる王族の血をもち、身も心も至高のものでなければならなかった。
 またそれも、第三種族とよばれる、最も高貴で、最も美しいとされる種であればこそ、可能なことだったのだ。
 今はもう、絶えて久しい、二つの性を合わせ持つ者たちだけである。
 ミササギはおのれを捧げた。
 神はそれを許し、ミササギの中に宿った。
 『それは、死ぬよりもつらいことでした。絶え間ない苦痛と、のたうつようなエネルギーの熱がつねに体をかけめぐり、精神エネルギーを奪っていくのです。また自分の運命をも差し出さねばならぬことでもありました』
 神を宿すだけの優れた者でありながら、その偉大な能力は、再生後、すべて消え失せるというのだ。
 何の力も能力もなく、悪くすれば命すら残らないかもしれないものとなる結末が待っている。
 『もちろんそれは承知の上でした。わたしなどで引きかえられるのなら、もうなにも望むことはありません。わたしはソメイ様をこの身に受け入れました。そして、この身に宿して、ようやくソメイ様の本当のお心を知ったのです』
 ソメイの心にふれ、もうこれ以上ないというほどに惹かれてしまった。
 ミササギは全身から流れでる愛情をおさえることができなかった。
 ソメイのなかに漂う孤独と絶望を、すこしでも癒したいと望み、彼がわずかでも救われることを切に願った。
 ソメイもまた、そんなミササギの全身で養われ、打算も見返りもないはじめての愛につつまれることで、再生をはじめていった。
 心音ひとつ、かすかな気息までをわけあい、深い愛情と強い精神力に守られていくうちに、それが、かけがえのないソメイの全てとなっていった。
 自分がだれより愛されているのがわかった。
 『ソメイ様は孤独でした。わたしは地上に降り会いにきてくださるかの君に心を捧げ、そして、約束したのです。ソメイ様とともに生きることを。――けれど一族がわたしを切り裂き、命を奪いました。わたしはその計略をわかっていながら、止めることができませんでした。民衆がわたしの命をもとめ、渇えて哭く声に、どうしても逆らえなかったのです』
 そして殺された、あまりにも無惨に。
 『ソメイ様は次の世でも会えるように聖痕をわたしにくだしました。わたしは何度生まれ変わっても側にいると誓いましたけれど、そのことを魂に刻むだけの力さえ、わたしにはなかったのです。ソメイ様を産むことですべての力を使い果たし、忘れてしまったのです』
 「ナギ……、いや、ミササギ?」
 ミササギのむこうで、ナギもまた泣いていた。
 こんなときだけ二人はよく似ている。
 彼らはなぜこんなに密やかに泣くのだろうか。 
 ミササギの風貌がナギにかさなった。ナギの泣き顔になっていった。
 『怒りに荒れ狂い、人民の絶滅をはかろうとしたソメイ様に、わたしは残酷にも、まだその人間の存続を願ってしまった。あの方はその望みを守ってくださったのに、わたしはあの方との約束をなにひとつ果たさなかった。わたしの魂はもう、わたしという人格をとどめるだけの力もなく、約束さえ覚えてもいられなかった。……ただ愛しいと思う心だけが残り、あとにはもう……』
 瞼を閉じた瞳から、ミササギとしての最後の涙がおちた。
 つぎに目を開いたのは、ナギだった。
 「ぼくはミササギではないけれど、それでもソメイ様が好きです」
 まっすぐ顔をあげて言った。
 シンのとなりにはソメイがいた。
 シンが驚くようにみるのにもきづかぬほど、ソメイはナギをきつく見つめていた。
 「ナギ……」
 ソメイは手をそっとのばした。
 ナギを抱きしめた。やっと求めていたものに出会えたように狂おしい思いを必死でおさえ、抱きしめていた。
 なにも、間違ってはいなかった。
 ただ、今はミササギとしてではなく、ナギとしての魂を愛しているというだけなのだ。
 言葉もなくして見つめているシンに、穢那王が言った。
 「シン、もうそろそろ、あなたも思いだしてもいいころでしょう。あなたもまた、まごうことないソメイ様一部なのですよ。いや、もう一人のソメイ様ご自身。あなた方は本来は一つであったということを、そろそろ思い出すべきです」
 「えっ?」
 ソメイとシンが思いがけない言葉に顔を見合わせた。
 それから穢那王をふり仰いだ。
 「ソメイ様もういいでしょう。思いだしてくださいませ。わたしひとりでは、すこし重すぎます」
 穢那王の笑みに、ソメイはまぶたをおさえた。
 涙が、ソメイの深淵の瞳から流々とあふれた。
 「ソメイ様?」
 ナギがそれを手で拭った。
 ソメイはなにをおもいだしたのか、ただ記憶のむこうをみつめ、涙をながしている。
 ソメイは、ゆっくりと言葉をつむいでいった。
 「そうだ、わたしが世界を造ったのだった――。ミササギから再生をはかったとき、その記憶を分離し、穢那、おまえに託したのだ」
 「そしてその記憶がシン、あなたです」
 「おれ?!」
 穢那が云うのに、シンはギョッとした。
 だが、その言葉といっしょに呪縛が溶けるかのように、体から一つの重荷が消えてゆく。
 千引きの岩の向こうにあるのは、創造神オームではなかった。
 そう、ソメイの記憶であったのだ。
 封印の解除によって、岩戸の割れる音が、四千世界に響きわたっていった
 自分自身をうつしだす鏡がそこにはあり、ソメイから注ぎ込まれた光を、まぶしく反射していった。
 「思いだした――。わたしは自分で記憶を分離したのだ。自分で創造したはずの世界の重荷に疲れはて、自分自身を滅ぼしてしまおうとしていたのだ。緩慢な疲弊は、日々わたしの首をしめつづけ、身も心も殺していくような苦しみにかわってしまっていた」
 天人どもの反乱など、まことに取るに足らないことだった。
 ただ、ソメイは理由がほしかっただけだった。
 だが、それは奇跡ともいえる、ミササギの愛につつまれることで、死へとおもむく病は癒されていった。
 ソメイは人を愛することを知り、ふたたび心をとりもどした。
 ミササギのために、彼の生きる世界を存続させようと思った。
 そしてミササギもまた、その身を与えてくれると言った。ふたりでならば、生きて行けると思ったのだ。
 「わたしは破壊という概念をもつことを恐れた。またきっといつか、己の怒りが抑えきれず、生命も星も、一瞬にして溶解させてしまうかもしれないと思ったのだ。だからこそ、自分が創造神であることを忘れようと記憶を分離し、封印した。その鍵が、シンおまえだ」
 「お、おれが、鍵?」
 そしてついに鍵は開かれた。
 シンは記憶を封じている者から解き放たれていた。
 ソメイがふたたびそれを受け入れるだけの力を手に入れた証拠である。
 ナギという、新しい命と、愛による力を。
 「シンは……では、ソメイ様だったのですか?」
 「そうだよ、ナギ」
 驚きに表情をなくしているナギは、やっとソメイに聞いた。
 つらそうにうつむいているシンのそばに、そうっとナギはよりそった。
 シンはこらえるように力をおさえ、肩に手をかけたナギを抱きしめていた。泣いているように腕がかすかにふるえている。
 「ナギが生まれ変わるのを見つけたとき、鍵としてのわたしの魂が、シンのなかに入ったのだ」
 そして十八カ月という月日をかけ、神のやしろとして変成した。
 穢那王がいった。
 「わたしはそれらすべてを記憶するもの。闇を愛し、死をみつめる存在として、この彼方の地からあなた方を見守っておりました」
 彼女はシンの手からおとされていた剣を手にした。
 浄化の炎でそれを灼き清めていった。
 剣が消え去ったあとに、リノの姿が現れる。
 「リノ!」
 「リノちゃん!」
 獣身でも鬼の相貌でもなかった。
 一人の少女として、本来あるべき姿をもつ、かがやかんばかりの美しい少女がそこにいた。
 「花耶(かや)、ご苦労様だったな。つらい思いをさせてしまった」
 ソメイがねぎらうように声をかけるのに、首をふり、
 「いいえソメイ様、わたくしはわたくしの意志のもとにおいて、ミササギ様をお守りしたかったのでございます」
 花耶と呼ばれているリノは、ナギの足元に膝をつき、その手をおしいただいた。
 「覚えていらっしゃらないかもしれませんが、遠い過去、わたくしはミササギ様の巫子としてお仕えしていたのでございます。あなたが神――ソメイ様を宿すという神託を受けたのもわたくしであれば、また、死するときの先達として、殉死いたしましたのもこの身にございます」
 花耶は最後までミササギにつき従い、死の寸前に、そのからだに伊邪那美の剣の破片を飲み込んで心の臓をとめたのだ。
 そのまま彼女は転生した。
 「叶わぬ身と知りながら、ずっと、お慕い申し上げておりましたわ、ミササギ様」
 「リノちゃ――花耶、さん?」
 「この思いを伝えられなかったことだけが、心残りでございました……」
 ようやく満足しきったのか、リノは会心の笑みをうかべると、そのまま目を閉じた。深いふかい眠りにおちていった。
 「リノの魂の根底にきざみこまれていた思いだ。きっと、もう心残りはないだろう。次に目を覚ましたとき、彼女は何も覚えてないはずだ」
 穢那王はリノの身体を光でつつみ癒してやった。
 ――おぼえているよ、花耶。わたしの優しい巫子姫。
 胸のおくそこから、ミササギの声がささやいた気がした。
 ナギはそっと倒れたリノの頬をなでた。
 穢那王が声を強くして言う。
 「さあ、あなた方の世界へお戻りください。ここはあなた方が長居すべきところではありません。帰ってなすべきことをなさるのです」
 後方にある、帰るべき世界の輝きが、まぶしいばかりに陽光を放っているようにみえた。
 シンもナギも光のトンネルをぬけて、真っ直ぐ歩いていった。





 黄泉比良坂にある岩戸は縦に大ききなひびが走り、二つに割られていた。
 その向こうにあるものは、輝く大きな鏡であり、それがオームだった。
 封印はとうの昔に解かれていたのに、ただ気づかなかっただけだ。
 オームはソメイを映しだし、燦然とまばゆいばかりの光を放っている。幽界で見たひかりは、このひかりであった。
 ソメイは鏡にうつる自分をみていた。
 創造神とは、けっきょく自分のことでしかない。
 ナギに与えたはずのソメイの右腕が再生された。ソメイが自分自身をうけいれた証拠であった。
 光に導かれるままナギたちは、黄泉比良坂をぬけ、千引きの岩の前にまで戻ってきていた。
 ナギには羅天がそこでみんなを待っているのが見えた。
 やはりそれも、羅天をみているのは自分だけであり、だれにも彼が歌っているのは聞こえていないようだった。
 ナギは不思議におもいながらも、彼が歌うのにあわせ、ともに口ずさんでいた。
 ナギがいつもなんの気なく口にのせていた歌だったからだ。
 もしかして、捜していた羅天の歌とは、とっくの昔にナギが知っていたものであり、いつも口にしていた歌かもしれない。
 懐かしい、あの母親が歌ってくれたかもしれない大切な歌。
 羅天にあわせて楽しく歌うナギの声が、やさしい響きをもって四千世界にひろがっていった。
 ナギのとなりにミササギの気配をかんじた。
 彼らは一緒に歌っていた。
 懐かしむように、そして、最後のわかれを惜しむように、どこか切なくソメイをみている。
 自分はもう、ミササギではないけれど、同じだけの愛を持っていた。だから彼の影におびえる必要はない。
 記憶も聖痕も必要なかった。ソメイは、ただの何ももっていないナギとしての魂を愛してくれた。ミササギの形をしていない、ナギ自身だけをみつけてくれた。
 「ナギ、おまえは本当は――」
 シンがクッと詰まるように言葉を切った。
 息を飲むようにナギを見つめていたが、見開いていた目は、次第にほそめられ、さいごにはうっとり目をとじながらナギの歌に聞き入っていた。
 ソメイは鏡にまばゆくうつるものに驚き、ナギに振り返った。
 ナギは黄金に輝いていた。
 淡く美しく燃えあがり、煌いていた。
 思いのすべてがあふれだし、何もかもを満たしてゆく。
 ――この人に逢いたかったのだ。
 ナギは思っている。
 たとえ転生するたびに忘れたとしても、きっとこの魂の隅々にわたるまで、彼への愛を記憶している。
 何度会っても、きっと恋をする。
 そのためだけに、この存在があるのだから。
 「……歌を、聞きたかった。世界を創造したときに聞いていた、あの原初の歌を……。闇に眠っていたわたしを慰め、聞かせてくれたあの羅天の最初の歌を、もう一度だけ聞きたかったのだ……」
 ソメイは、混沌とした暗闇に、たったひとりで漂っていた。
 なぜ、ふいに自分が目覚めたのかわからなかった。
 なぜそこにいるのか、どうしてこんなところをひとりで漂っているのか、なにもわからなかった。
 たった一人だけ意識をもってしまった自分が、はたして何者なのかさえわからない。
 ただ無限の孤独だけが支配する、真空の世界だ。
 どのくらいそこにいたのだろうか。ふと歌が聞こえてきたのだ。
 それはありとあらゆる事象と、時間、空間の何もかもが含まれていた。
 生命の歌だった。
 ソメイは懐かしさを覚えた。すぐに自分のなかにも同じ歌があることに気がついた。
 そう気づいた瞬間、一気に世界は生まれ出でていたのだ。
 歌が聞きたかった。
 忘れてしまった創造の歌を、生きとし生けるものすべての詠唱を、羅天の子守り歌を。
 そうすれば、八方世界を、神とおなじ十方世界のレベルにまで一気に上げてしまえると思った。
 彼らのだれもが、苦しまないですむかもしれない。 
 「けれど、わたしが本当に聞きたかったのは、この歌だ。いつもナギが歌っていた、この歌をいつしかわたしは――」
 光が薄れるのと同じように、ナギの体から羽根がおちていった。
 そこにのこっていたのは、樹としてのナギではなく、一人の人間としての、ナギだった。
 「羽根が、どうして急に――?」
 抜けおちた純白の羽根をみつめ、わが身に起こったことに戸惑うようにナギはソメイをみつめた。
 ソメイはなぜかしめやかな雨のように静かにいう。
 「レベルが上がったんだよ、ナギ。……けれど、もうそんなことも関係ないな。おまえは人間に戻ったんだからな」
 「人間に?――ぼくが?」
 「そうだ。おまえが本来生きるべき場所にふさわしい者へと、もどったんだ」
 ソメイはいい聞かすように言うと、まっすぐシンを見た。
 それは、なんともいえない目の色をしていた。
 「わたしの一部もまた、こうして人間に生まれ出でた。ふたりして、人界に生まれたのなら、なにかそれに意味があるのだろう」
 「ソメイ様?」
 ナギは漠然とした不安感におそわれた。
 ソメイはいったい何を言いたいのだろう。
 「おかえりナギ、人界に。シンと二人で――」
 「ソメイ様?!」
 「ソメイ!」
 「わたしはもう大丈夫だ。ナギおまえは約束をまもってくれた。だからきっと、次に転生してくるときも必ず見つけられる。こんどこそ、約束するよ」
 「ソメイ、おれはあんたじゃないんだぞ。あんたの鍵として、一部はたしかにそうかもしれないけど、でもおれは神名森(かむなしん)としての人間の別の魂もまた、持っているんだ」
 「それでも、おまえも必要としているだろナギを」
 シンはさすがに押しだまった。
 たしかに、そうだ。
 ナギを映し、ナギと同じ息を吸うことで彼もまた、生きてきたひとりなのだから。
 「ソメイ様、ぼくは――」
 ナギはなんと言えばいのかわからず、言葉につまった。
 この思いをどう表現していいのかわからない。言葉がみつからない。
 まさかそんな言葉がソメイの口から出るとは思ってもみなかった。
 頭が空白になる。
 ソメイの側を離れることなど考えられない。
 思っただけでも、身が切られるように、こんなに痛むというのに。
 だが、たしかにナギは人間として生まれてきた。ソメイでもあるシンという人間と生き、心をわけてきたのだ。
 泣きそうな顔をしてソメイをみつめるナギに、彼はすがすがしい笑みをみせた。
 「さあゆけ」
 背を押し、地上をさししめすのに、ナギはそれに反対するだけの言葉が、なにひとつでてこなかった。

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