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天上の樹

10


 
 朽葉の水晶を眺めていた。
 ナギの目には、透明なきらめきだけで、それ以上はなにも見えてこなかった。
 時を見通す魔女にだけしか、やはり答えはみつけられないのかもしれない。
 きっとそれらは代償を要求するのだ。
 もし時間の流れに捕らえられてしまったら、観るという行為から、逃れられなくなってしまう。
 朽葉は、だからどこにもいけず時をみつめつづけている。だれとも未来を語ることなく石の足にしばられている。
 「水晶になった人たちは、望まなかったんだろうか」
 ナギは水晶から目をはなさずに云った。透明な球体に朽葉の黒いベールが映っていた。
「どうしてリノはぼくなんかを守ってくれたんだろう。どうしてみんな与えてくれるの?樹の人たちも、シンもリノも……ソメイ様も……」
 寂しくてたまらない、とその顔はかたっていた。
 朽葉がふっと笑った。
 「簡単ですわ。ナギ様が与えてさしあげるから、皆様もなにかして差し上げたいとお望みになられるのですわ」
 「ぼくはあげられるものなんか何も持ってないよ。ううん、与えてあげられやしないんだ。それどころか、無理なものを望んでしまう。欲深くほしいと思うんだ」
 ナギはそれがつらくて、恥ずかしかった。
 慣れない感情を持て余している。
 心はいつも飢えていた。だからまるで乾いた砂であるように、かけられた愛情をすいこむと、もっともっとと、つい無限に望んでしまいたくなるのだ。
 「朽葉は望まないの?運命から、のがれたいと思わない?」
 「……わたくしのこの運命も、石となってしまった足もなにもかも、起こったことすべてがわたくしという存在の現れにすぎません。時は流れ、とどまることをしりません。全ては過去となり未来となるだけで、わたくしはそれを受け入れているにすぎません」
 「受け入れる?」
 「あがらわず、流されず、――そうしてわたくしは運命を信じます。ここにこのような姿でいるからには、それなりの理由があるのですから」
 その理由がわからないからこそ、ナギは苦しんでいるのだ。
 ソメイのことがわからない。
 ソメイが考えていることも、ナギが彼にとってどういう存在なのかもわかりようがない。
 ミササギの代わりであるか、ただの気まぐれか、いずれにしても彼の目に自分は映っていないのだ。
 見て欲しかった。
 自分だけを、見て欲しい――。
 シンといるときはそんな欲にみちた感情があるとは思いもしなかった。
 シンは自分であり、自分はシンだった。
 求めなくてもそこにいたし、求められなくても与えられ、与えていた。
 けれどソメイには、非力な自分が与えるものすらないのだ。
 なのにその広い胸のなかに入れてほしいと思っている。
 「愛しておられるのでしょう、ソメイ様を」
 朽葉の言葉にうつむいた。
 「だけどソメイ様はぼくを水晶にもしてもくださらない。ううん、ぼくを見てさえいないんだ。あの方の心にいるのはただひとり……」
 「そう、思えていたとしても、人の心のというものは、本当のところ、誰にもわかりません。終着点は一つかもしれませんが、それにいたる道は幾つもあるのでしょうから」
 ナギは朽葉をみた。
 底のない瞳は、ナギのなかの不安な影まで飲み込んでしまう。
 「人の思いとは、それぞれで異なるものです。なにが愛で、なにが優しさなのかはわかりません。思いが純粋ならば、きっと行き着いてみればわかるものです。また、行き着かなければ、わからないものでもあるのです」
 なぞをかけるように、笑う。
 「どんな暗い夜のあとにも、必ず朝が来ます。たとえ雲のしたに雨がふっていたとしても、うえは美しい青空がひろがっているのです。ソメイ様のお心を推し量るにはわたくしたちの目は狭すぎます。空を理解したいのであれば、雲の上を見るだけの心を持たなくてはなりません」
 「・・・・朝は、必ず来るの?」
 「ナギ様が、いま信じることがつらく苦しいのも、これまで信じる必要がなかったからです。それ以上に、信じることの美しさを誰からも教えられなかったからです。あなたが自分だと思っているそれは、本当は、魂という広大な砂のほんの一部であり、わたくしや、あなたが知っていると思っていることは、誰でもが知っている一部のことにしかすぎません。みな同じ宇宙をもち、同じ神のもとに生まれました。わたくしたちはソメイ様をうつして生まれてきた、分け御霊(みたま)なのですから」
 朽葉の言葉は、難しかった。
 けれどソメイの一部として存在する自分であるならば、ではこれから何かできるかもしれない。
 ソメイのためにナギになにができるだろう。
 いまのナギにわかることといえば、ソメイは欠けているただ一つのものを捜しているということだけ。
 ならばそのなくしたものを見つけてあげたい。捜してきてあげたい。
 「あの方はなんでも持っているように見えるのに、きっとほんとうは何も持っていないんだね」
 大事なことだけが、いつも彼の手からすべりおちる。彼はそのひとつさえもっていない。
 「あの方は、あなたを失いたくないからこそ、レベルを上げ変成しようとなさらないのですよ。それが、あの方の優しさなのです」
 「ぼくを失いたくないから?」
 「ナギ様は、心を、伝えたことはおありですか」
 「……いいえ」
 「きっと、あなた方は、よく似ているのです。相手を思いやる心までもが同じなのですよ」
 朽葉は夢みるような幻想的な微笑みをうかべた。けぶるような優しさがにじんでいた。
 「朽葉って、なんだか昔からの知り合いのような気がするね。会ったときから懐かしいような、そんな気がしてたんだ」
 ナギは安らいだ表情に、朽葉は、
 「そうかもしれませんわね。いつかどこかで会っていたのかも・・・・」
 陰りのある表情が水晶にうかびあがり消えていった。
 二人の過去がほんの一筋流れていったように見えたのだった。
 
 

 
 異変を察知して集まってきた兵士たちは、次から次へと倒れ、そのままただのむくろ骸となっていった。
 その中心にシンがいた。
 シンの肩の上には小さな人形のようなもの――エンラが乗っている。
 天界人のありとあらゆる攻撃は、なぜかシンには通じなかった。
 まるで何かの守護があるかのように、薄いバリアーが張られていて、衝撃を吸い取ってしまう。
 シンは力が益々つよくなり、溢れんばかりになっていくのがわかった。
 それが肩のエンラによるものなのか、自分の本来の力であったのかはわからない。
 いままで曇っていたような視界がひらけ、思考がはっきりしてきていることだけは確かだ。
 天使たちに軽く触るだけで、毒に痺れたように呻き倒れていった。
 エンラが煙幕のような煙を吐くと、面白いように兵士たちは動かなくなった。
 「このバケモノめ!きさまらどこから来たのだ!なにが望みなんだ?!」
 最後に残ったひとりの兵士吠えるのに、シンはなるほどと思い尋ねる。
 「ねえ、ソメイはどこにいるの?やつからナギを返してもらわなきゃならないんだ」
 男はエンラの吐く毒にやられ、片足が溶けていた。
 恐怖にひきつる形相で男はあざ笑うようにいう。
 「ソメイ様だと?きさまバカか。ソメイ様に立ち向かおうとうのか。身のほどしらずだな。あの方はしょせん我々とはちがうお方だっ。きさまなど、ソメイ様の業火にやかれ骨の髄まで焼か――グエッ!」
 わめいていた男が、血の泡をふき事切れた。
 シンは、背後から剣を突きたてた男をみあげ鋭く睨んだ。逆光で顔がよく見えない。
 「オレなら、ソメイの居場所を知っているぞ。もちろん、ナギの居る所もだ。それに、あのソメイの倒し方も、教えてやってもいい」
 歪んだ笑みをうかべる。
 「おまえは?!」
 シンは目を吊り上げた。
 先刻から、襲いかかってきた兵士たちの背後で平然とそれをみていた男だ。
 どこかでみたような気もするが、酷薄そうなその顔を見た途端、シンはなぜか、記憶にうすい膜が張ったように思い出せなくなってしまった。
 だが嫌な気持ちだけは変えようがなかった。微塵も油断がならない。
 男は味方が倒れてゆくのに顔色もかえず傍観していたのだ。時にはなにかを示唆し、まるでこちらの力を試させるかのように襲いかからせた。
 そして、やっと動いた彼は、シンたちの力を見極めたとでもいうように、平然とした顔で仲間を殺したのだ。
 エンラが鳴き、毒の血が足もとに飛び散った。
 「おおっと、おれは敵じゃないぜ。おまえたちに協力してやろうというんだからな」
 シュラは陰湿な笑みをうかべて言った。
 「きさまら天界人の言うことなど信じられるものか!なぜおまえがおれに協力するんだ。天界のやり方はよく知っているんだ。そんな甘い言葉に騙されるか!」
 シンは吐き捨てるように厳しく言った。
 シュラの目に浮かぶ暗鬱としたものが、シンをひどく不安にさせる。
 信用するには危険過ぎると何かがいっている。
 「まあ信じてみろよ。――オレはな、おまえと同じように、ソメイには恨みがあるんだよ。それに、ナギがあまりにも可哀想なんでな、オレとしてもどうにかしてやりたいんだ。ソメイから解放してやりたいんだよ」
 ナギの名前がでたとたん、シンは素直すぎるぐらいに反応してしまった。
 あまりの直情さに、シュラは失笑する。
 「あいつは悪魔だ。ナギを痛ぶり傷つけて楽しんでいるサディストだ。樹といったって、生きているのにな、まるで品物ぐらいにしか思っていないのさ。あんな綺麗で華奢な樹なら、ソメイはまた水晶に変えてしまうだろうな。まったく同情するよ」
 「ナギを水晶に……?」
 「そうだ。やつは気に入った者は水晶にかえて、ずっと側においておくのが趣味なのさ」
 シュラの術にかけられ、また憎しみに支配されたシンの頭には、それらがもはや事実とて聞こえてしまう。
 泣き叫ぶナギが目の前に浮かびあがり、水晶にかえられてゆく姿が、シンの怒気に火をつける。
 シュラは手にしていた包みからなにかを取り出した。
 ここぞとばかりになげ渡した。
 「こいつはナギの腕だ。ソメイはナギの腕を切り落としたんだ。気の狂わんばかりの絶叫をあげ、ナギがのたうちまわるのを、やつは楽しげにみていたんだ」
 とどめの一言だった。
 シンの猛りがエンラの怒号となって、空を曇らせ消し炭のように黒くした。
 雷が天空に渦巻き、波動のバランスが狂って放電しはじめる。
 「オレはやつを倒す方法を知っている。あいつは強大な天人であり全宇宙の神だ。生命など造作もなく消し去る悪魔なんだ。その証拠に自分の父親を閉じ込め、三界を手にしてしまったではないか。やつの力は強大だ。だが、幽界にある、ただ一つの剣でなら、きっと倒せる」
 「ただ一つの剣だと?」
 「ああ。幽界の王、穢那がもっている神剣だ。その剣ならば、やつの魂まで消滅してしまえる。それに穢那は何でも知っている。多分、樹となったナギを戻す方法も知っているだろう」
 「穢那王――?」
 「人間のおまえが天界で呼吸できるのも、みえないシールドで守られていせいだ。――どうせナギの羽根を飲んだのだろう。その力がはたらいているせいだ。それもたぶん、ソメイの策略だったはずだぞ。本当はおまえに羽根を飲ませ、殺すつもりだったんだ。羽根は薬にもなるが、毒にもなるからな。おまえがこんな力をもつとは、やつにしてみれば、とんだ誤算に違いないさ」
 「なぜソメイがそこまでしてオレを狙わなくてはいけない?――いや、なぜおまえがそんなことを知っているんだ。なぜおれに教える。おまえの目的はなんだ?!」
 シンが殺気も緩めず如才なく言うのに、シュラはその場からいち早くとび去った。
 エンラの手が触手のようにのび、何度か足を捕まえようとしたが、うまう逃げおおせゆく。
 「言っただろう、おれはソメイが嫌いなんだって。やつを倒してくれるなら、だれだっていい。――そうだ、よいことを教えてやろう。ナギは東の塔にいるぞ。そこに閉じ込められている占い師のところだ。この道をまっすぐ行って森をこえれば、すぐにあえる」
 シュラは言い放つと、高く笑い、そのまま飛び去っていった。
 嵐の前ぶれのような邪気だけが残っていた。
 「あの男、なぜおれにそんなことを教えるんだ?」
 シンはだが、シュラを疑うにはあまりにも激しい感情に流されすぎていた。怒りに煮えたぎり、自分を忘れてしまいそうになるのをとめるので手一杯だ。
 シンは握っているナギの腕をみた。エンラが雄叫びをあげた。
 地面が足元から裂けて、亀裂がまっすぐに走った。
 「エンラ、行こう!」
 シンは裂け目にそって走っていった。
 兵士たちの体が大地に飲み込まれていったのに気づかなかった。    

 


 「穢那王(けがなおう)に会うには、どうしたらいいの?」
 その質問の内容には、さすがの朽葉も眉をひそめた。
 「穢那王様のことを、知ってらっしゃるのですか?」
 「あ、うん。……シュラ様に」
 朽葉はスッと目を細めた。
 「シュラ様は何とおっしゃられました」
 「歌を知っていると――」
 「歌?」
 そう、シュラが言ったのだ。
 歌を知っているのだと。
 穢那王はこの世のあらんかぎりのことを知っている。
 ソメイが求めている『歌』も、たぶん知っているのだと。
 その言葉が嘘でもよかった。
 もし偶然にでも穢那がしっていて、その可能性がわずかでも残されているのなら、捜しにゆきたい。それでソメイの心が慰められるならば、彼に歌ってあげたい。
 眠れぬ夜を一人で過ごすソメイの癒しは、もはやそこにしかないのかもしれない。
 たとえわずかばかりの夢であったとしても、ソメイが安らげるのであればよかった。
 ナギはなにかしてあげたいのだ。
 それがミササギではなかった自分のできる、ただひとつの償いのような気するから。
 穢那王は、伊邪那岐の剣の行方を知っているとも言っていた。
 四界の重みがすべて彼の肩にかかっていている。その剣さえあれば、解放してあげられるかもしれない。
 自由に、ミササギの魂を捜すためにどこへでもソメイは行ける。
 歌も、剣も、穢那王が知っているという。
 だったら、逢いにゆきたい。
 幽界に降りて、この身がそこで終わってもいい。
 「どのような歌を求めていらっしゃるのかは存じませぬが、幽界は、とてもひとが降りてゆける処ではございませんよ」
 朽葉はいさめるように言った。
 「たしかに穢那王様はこの世のすべてをご存じです。地底のそこにあって、この世のすべてを見つめられている方だと、お聞きしております。また、そのあまりの聡明さに、天界の賢人様方が恐れをなし、行く方を危惧するあまりに幽界に墮としてしまわれたとも言われております。この世でもっとも聡いお方ですが、それゆえにご温情もふかく、いまをもってもまだ、業火に灼かれる罪深きものたちと共に、その尊い身を炎にまかせておられます。その地に降り立つことは、常人、ましてや天樹様のような方には、とうてい叶いますまい」
 「でも、でも、穢那様は知ってらっしゃるのでしょう……。墮とされたとはいえ、その地にいらっしゃるのなら、行きたい」
 「あの方なればこそ、あの地に留まることもできるのです。知りすぎるということは一種の罪です。行動のともなわぬ知識は強欲であり、ひとを傲慢にさせてしまいます。それゆえ穢那様は、幽界で己の身を焼き、与えることを実践してらっしゃるのです」
 穢那王の浄化の炎にやかれて、朽葉もまた、時間の流れをなくしたひとりだった。
 地獄の王の(ほむら)に耐えられるのは、きっと罪という鎧をまとった者でなくてはならない。
 「ナギ様のその四枚の羽根は、穢れなき純粋なるエネルギーの結晶です。穢れには、なに何より敏感に反応してしまいます。もし降り立つことができたとしても、きっと地獄の苦しみがつきまとい、不浄の闇によって、かならずや魂のかけらも残さず消滅してしまうでしょう」
 どんな話しを聞いても決心は変わらなかった。
 「それでも、穢那様に歌を聞かせてもらえるなら行きたいんだ。そして教えてもらいたい。――自分が何者なのかを。ぼくはなんのためにここにいるのか、なぜ天樹と呼ばれるものになってしまったのか、聞いてみたい」
 それを問うがために、天界に来たのかもしれない。
 ソメイのために歌を捜しだし、自分が何者なのか知らなくてはならない。使命感のようなものがわきあがっていた。
 「幽界は闇の想念でできております。あなたの羽根は魔物たちに力を与えるでしょう。それは幽界の魔物どもに真っ先に狙われ、殺され喰われるという意味でもあります。その地に巣食う穢れと魔物たちに阻まれて、まずは穢那王様のもとには至らないと思わねばなりません」
 「でもきっと道はきっとあるはずだ。ねえ、朽葉はどうやって帰ってきたの?」
 「わたくしはソメイ様のお慈悲により救われたのでございます。ソメイ様ほどの強大なエネルギーでなければ、あの火はとうてい避けられません」
 「じゃあ、もしもだよ、もしもこの羽根のすべてをエネルギーにかえたとしたら?」
 言ったナギは、朽葉におもわぬ強さで抱きしめられていた。朽葉はたまらぬように言う。
 「めったなことを仰らないで下さいませ。そのようなことが、ソメイ様のお耳にでも入りましたなら、どれほどお嘆きになられますか。わたくしには歌がどのようなものかは存じません。ですがあなたの命と引き換えるようなものなど、この世に、何一つとして存在しえないのです。あのお心深き方が、命と引き換えのなどを喜ぶはずはありえません」
 そう、羽根をすべてなくした樹は、死ぬしかないのだから。
 「なに者であっても、それは愛によって造られています。自分が何であるのか、また相手が誰であるのか、それを知る方法はただ愛によってのみの行動です。自分を造ってくださったものに感謝こそすれ、自らの命を無駄にしてはなりません」
 「朽葉……」
 「きっとナギ様は、ナギ様でなければならない理由があるはずです。そのためにこそ、存在しているのですから」
 覚えておいて欲しいと朽葉はつぶやいた。
 ナギは朽葉の冷たい石の脚にすわらされながら、彼女がこんなに温かかったのかと、はじめて気づく思いがした。
 すべてが鼓動をうち生きている。
 水晶になった者たちも、石になった女もみんなそうなのだ。
 そして時の巡りから弾かれた魔女は、だれより命というものを愛していた。
 「なぜ、朽葉が泣くの――?」
 ベールのしたに隠された瞳から、涙がおちてナギに滴った。
 「わかりません。なぜか、とても懐かしくなって」
 「なにが懐かしいの?」
 「……あたたかくて…この足が、人のぬくもりを感じるなんて――」
 ナギは朽葉の背をなでた。
 そうなのだ。
 自分だけではないのだ。
 寂しさは、時空を超えて存在し、時間の概念からはずれて生きている者であっても、等しく訪れるものなのだ。
 甘い女性の香りがした。
 突風が吹きぬけた。
 ひらかれたテラスのガラス扉がビリビリッと鳴った。
 部屋の中のものが吹き飛ばされ、朽葉のベールがはためき、ながい裾が大きくゆれた。 
 ナギの羽根が揺れるのにあわせて、光の粉が散ってゆく。
 「空が、黒い――」
 ナギはあわてて扉を閉めようと走りより、外をあおぎ見た。
 いままで一度も曇ったことのない天界の蒼穹が、黒鉛を吸い込んだように真っ黒になっている。
 木々が悲鳴をあげ葉をまき散らしていた。
 冷たい空気がおしよせた。
 森の中から忽然と現れでた。
 その姿に、ナギは硬直してしまった。
 こぼれんばかりに目を見開くその眼前で、なぜか樹々たちが、行く手をひろげるように二つにわかれてゆく。
 「シン……っ!」
 こえが、震えていた。



 
 「シン・・・・」
 ナギのつぶやきに、風が止まった。
 まるでまっすぐにそこへナギへと導いているかのように道がひらけている。
 シンの凍てつくような憤怒の形相が溶けた。
 ナギを映した目があたたかい笑みにかわった。
 蒼く燃え、風をよびおこしていたオーラが消えて、強ばっていた緊張の糸が緩んだように表情がくずれた。
 シンが泣きそうに駆け寄ってくる。
  「ナギ、ナギ!」
 思わず走り出していたナギを、シンの強い腕がつつんだ。
 「シン、どうしてこんな所へ……?!」
 「逢いたかったよナギ!ずっと、さがしてたんだ」
 息がとまるほど強く抱きしめシンがうわごとのように言う。
 肩のうえに乗っていたエンラが叫ぶと、自分を主張するようにナギにまとわりついて体を伸ばす。
 足元におりてから少年の形をとった。
 シンはナギをじっとみつめた。
 「帰ろうよナギ。いっしょに帰ろう。あの家に二人で戻るんだ」
 「で、でも、シンぼくは――」
 ナギはさすがにその台詞に言葉をつまらせた。
 だがシンはナギのとまどいなど目に入っていない。
 ずっと捜し求めつづけ、やっと逢えたのだ。
 本物のナギと触れ、抱きあうことをどんなに夢見ていたか。
 感情があふれるのに、他のことなど考える余地もない。
 「ナギの声がずっときこえていた。叫び声と痛みが、ずっとおれのなかに届いてたんだ」
 額をくっつけた。
 シンにナギの心が染み込んでゆき、ナギにはシンの渇望がどれほど深かったのかが、観えてしまう。
 ハッとしたように言った。
 「――そうだナギ、腕は?!腕は大丈夫なのかっ!」
 シンは思い出したのか、慌ててナギの右手をみた。
 恐ろしげにさわった。
 「き、切り落とされたんじゃなかったのか」
 「どうしてシンそんなことまで知ってるの?」
 「聞いたんだよ。腕を切り落とされたって。その話しを聞かされたときは心臓が止まるかとおもったよ。ねえこの腕、本物?」
 「う、うんそれは、そうなんだけど。でも――」
 「よかった。大丈夫だったんだ」
 シンはぬくもりを確かめるように、細く白い指に指をからめてくる。
 ナギはその手で握りかえし、シンの頬を撫でてやった。
 いつの間にかシンの方が背が高くなっていた。
 「あのね、この腕はソメイ様が、つけてくださったんだ。ご自分の腕を切り落として、ぼくの腕に――」
 「ソメイだと?!」
 シンの柔らかくゆるんでいた表情が一瞬にして強ばった。
 双眸に怒りのほむらが浮かぶ。
 「どうしたのシン?……ねえ、怖いよ」
 エンラがキイッ、と吠えた。まるでシンの感情に呼応しているようだ。
 「あ、えっ?エンラ――?!エンラじゃないか。どうしてここにいるんだい。なんでシンと一緒に?!」
 ナギはようやくエンラの存在に気づきあらためて見た。
 ナギのために天使たちと戦い、その後どうなったのかまったくわからず心配していたのだ。
 まさかこんなところで会おうとは。
 「ナギ、おまえなんでこいつを知ってるんだよ」
 「だって地界に墮ちてたとき、エンラはぼくの目の前で生まれたんだ。それに、天使に連れてゆかれそうなったときも、助けようとして闘ってくれたんだよ。……結局こっちに連れてこられたから、そのあとのことは分からなかったんだけど――。心配してたんだ、エンラ。よかった無事で。怪我はなかったのかい?導師たちは元気なのかな」
 ナギはひさしぶりの再会を無邪気に喜び、少年の頭をなでた。
 心地良さそうにエンラは頭をよせ喉をならす。
 「ナギ、そいつはあの屋敷の地下から這い出して気た化け物なんだぞ。こうして今はおれにひっついて大人しくしているけど、いざとなったら精神を喰うマインドイーターになるんだ。気をつけなきゃ、精神を喰われて死ぬぞ」
 「エンラが?」
 そのせいで何人が死んだかわからないのだ。
 だがナギの肩に甘えるように頬をすりよせ、うっとりとしているエンラはただの少年のようにしかみない。
 エネルギーの塊である羽根にさえ、触れようともせず、まるでそうしてナギに甘えることだけが目的だったように安心しきっている。
 「ほんとにエンラがそんなことを――?」
 ナギは不思議そうにたずねた。地界にいたころにそんな兆候があっただろうか。
 「そ、それよりもシン!ここへはどうやって来たの。シンも天使たちに連れられて来てしまったの?」
 それにしても、連れてこられたにしては、天使の気配もないし、様子もどこかおかしい。
 シンの出現にあわせるように暗雲がたちこめたのも、不快な感触がぬぐいきれなのも、たぶん気のせいではかたずけられない。
 「ここへは、エンラと――エンラとレイに、連れてきてもらったんだ。ナギが羽根をくれるために使ったあの鏡をつかって、次元を超えてね」
 「リノちゃん!!リノちゃん、シンのところに行ってたの?」
 言ってから、しまったとばかりに口をおさえた。
 レイがリノだと、シンは言っていなかったのだ。
 「あの、シン――」
 すでに知っているシンは、オタオタしているナギに首をふった。
 やさしく唇を指でおさえ、
 「わかってる。ぜんぶ、わかってるんだ。 絶対に許さないよ。あの男、ソメイだ。――傲慢で残酷な、あんな男なんか殺してやる。神だろうとなんだろうと、おまえやリノにしたしうちは必ず返す。仇はとるよナギ」
 「シン!」
 ナギは悲鳴のような声をあげた。
 「なにを言ってるんだいシンっ!ソメイ様はなんにも関係ないんだ。あの方はただぼくを守って――」
 「違う!あの悪魔がすべての元凶なんだ!ナギはだまされてるんだ。あんな男のそばにいたらいずれ殺されてしまう。帰ろうよナギ。迎えにきたんだ。ソメイはおれが倒す。伊邪那岐の剣を手にいれ、やつを必ず倒してやる!」
 シンの耳には、もはやなにも聞こえていなかった。
 ナギがどう説明しようと、怒りに思考をうばわれ、ナギの声は届かない。
 シンの、あまりの意志の強さに、ナギはただ言葉を失ってしまった。どうしてシンがこんなにソメイを憎んでいるのだろう。
 それでも誤解をなんとかとこうとして口を開きかけたナギは、いきなり強く抱きしめられた。
 「ナギ、逢いたかったんだ。ずっと逢いたかった。ナギがいてくれないと、おれはどうしていいかわからないんだ。ヒトではなくなってしまう。自分がなにか別なものに変わってしまいそうで怖いんだ、側にいてくれよ」
 「シン……」
 「体が変わってゆくみたいなんだ。力が集まり、なにか恐ろしいものがマグマのように煮えたって、身体の中から溢れてしまいそうになるんだ。おれの怒りが空を黒くそめ、憎しみをもって触るものが、すべて死んでゆく。魔物たちがどこかへ連れていってしまう。――ナギがいないとダメだ。おれはヒトとして生きて行けない!」
 胸の中にうずまく苦しみの吐露に、ナギはただ抱きしめてやるしかなかった。
 シンは自分でさえわからぬ、心の奥底に潜んでいた闇に、ひどく怯えている。
 変わりゆく恐怖をもてあまし、気が狂わんばかりに救いを求めていた。
 シンはナギと一緒だったのだ。
 迷子だった子供がやっとみつけた母親を離すまいとすがるようにすがりつた。ナギにはその手を離すことができなかった。
 ナギから流れでるエナジーが、シンにゆるやかに灯り、二人は子供の頃からそうしてきたように抱き合い、一つの光となる。
 「幽界にいけば、おまえを人間に戻すことが出来る」
 「えっ?」
 ナギの、人間ならざる姿は美しすぎる。人にとっては、澄みすぎた存在は、危険だ。
 「かならず戻してやる。そしてソメイを伊邪那岐の剣で倒してやる!」
 「シン!」
 「行こうナギ――!」
 シンはナギの手をとると、有無をいわせず森の方へ走りだした。
 いままでにない、力の強さに、ナギは逆らえない。
 背後の城をふりかえりながら、心のさだまらぬままナギはシンとともに走っていった。
 


  
 黄泉比良坂の洞窟が、なげきの風をつめたく吹きあげている。
 シンは切り裂いた結界の御幣を踏みにじると、迷わずナギの手を引いた。
 ナギは困ったように、わずかに手を引き足をとめかけた。
 シンはやっと気づいたかのようにふりかえり、先へと促した。
 「さあ行こうナギ、大丈夫だよ」
 「あ、あのシン――あの、ちょっと待って。ぼくは、ほんとはソメイ様を――」
 「ここはおれたちの棲む場所じゃないんだ!さあはやく帰ろう、家へさ」
 「シン、お願いだから待ってよ」
 懇願するように言うナギに、シンは他に何も考えられないように力強くいう。
 「大丈夫、心配いらない。ソメイはおれが絶対倒してやる。そしてもう二度とナギを連れてゆかしたりはしない!」
 エンラがうなずくように横で吠えた。
 おどろくほど大きく膨れあがった。
 黒くヌメるような塊となったかと思うと、岩のように凝固した。
 後ろにあらわれたそれに対峙する。牙を荒々しくむきだし威嚇する。
 「おまえにわたしを殺すことができるか、シン」
 「ソ、ソメイ様っ!」
 「ソメイ!」
 ナギの叫びに、シンはあらためてソメイに目をやると、ナギを自分の背後にまわした。
 ギッと切りつけるように睨む。
 直接みるソメイは、鏡のなかにいた時の比ではないほど美しく、迫力にみちている。造り物のような相貌は、冷たく鬼気にあふれて気圧されそうだ。
 ソメイはシンなどいかほどもない、とばかりに悠然とシンをみおろしていた。
 エンラの威嚇もシンの殺気にもいささかも動じない。かえって深淵の瞳がシンを闇につきおとす。
 シンはソメイの瞳に吸い込まれてふらついた。
 たが、それはすぐに燃えたつようなオーラにかわった。
 自分など相手にもならない力の違いをみせつけられたようで、シンは屈辱に瞳を爛々と燃やしている。
 空が黒さを増した。
 風がうなりをたてはじめ、雷鳴が轟きはじめる。
 稲光がカッと閃き空につきたった。
 「それはわたしのものだ、返してもらおう。おまえでは天樹をあつかうのは無理だ」
 「ナギはモノじゃない!おまえのような冷血な男に何がわかるんだ。ナギを苦しめ悲しませているだけだろう!もともとおまえたちが、おれからナギを奪っていったんだ。ナギはおれと一緒にあの家へ帰るんだ!」
 「来るべくして天界に来たのだ。おまえのような下等な人間にはわからぬ。運命は全て法則によって定められている。その理を乱そうとするきさまこそが狂っているのだ」
 「運命なんかくそくらえだ!始めからおれたちの味方じゃなかった。だから自分で変えるまでだ!」
 それだけがシンにとっての真実なのだ。
 ナギの手をつよく握りしめた。
 シンとソメイの放つエネルギーの激しさが増していった。
 ふたりのあいだで、ナギのガラス細工のような身体だけが、それらの重圧に耐えかねて潰れそうになっていた。
 ナギは息が止まりそうな苦しさに気が遠くなりかけている。
 まさかこの二人が自分のために争うことがあるなんて、信じられない。
 身が裂けそうだった。
 大切な存在なのだ。
 どちらも、自分の身をわけるように愛していて、特別な存在だ。
 シンとソメイの一方だけを選ばねばならないとしたら、きっと胸が弾けて死んでしまう。
 「人界にナギは連れてゆけぬ。すでに天界の生き物となってしまったのだ。たとえ人界にいっても、おまえはどうしてやることもできず、ただ弱らせて殺してしまうだけだろう」
 「わかるものか!おれは絶対ナギを人間に戻してみせる。ナギを助けるんだ!」
 ソメイが一歩近づいたのに、シンの緊迫していたエネルギーが炸裂した。
 二人のエネルギーが莫大な炎となり、渦を巻いた。
 さすがのシンも、ソメイの波動の強さに圧されて後にさがる。
 エンラなど攻撃すらできない。
 ソメイがナギの手を掴みひきよせた。
 シンも離すまいと夢中でナギをにぎった。
 ナギをはさみ、二人はしばらく睨みあっていた。 
 ソメイはハッとして手を離した。
 ナギは二人の波動でバラバラになりそうになっていた。
 悲鳴をのみこんだまま、すでに気をうしないかけているではないか。
 「ナギ……っ」
 ソメイが手を離した。
 シンはナギを抱いたまま、ソメイの波動に突き飛ばされるように、時空の洞窟に吸い込まれていった。
 そのあとを、エンラがおいかけるように続いて飛びこんでいった。




 エンラは、横たわっているナギの枕元で、おとなしく丸まっていた。
 犬が主人をきづかうようにときどき目をあけ、人界の空気になじめず、ぐったりしているのを、心配げにうかがっている。
 「ナギ、大丈夫かい」
 シンが水を手にして屋根裏部屋に入ってきた。
 冷たい水をくんだコップをそっと手渡す。
 身体を起こすのもつらそうなナギは、だるそうに頭をうかせ、少しだけ口をつけた。
 顔色がかなり悪かった。
 あげた手さえ重石をのせたように動きがぎこちない。
 「まだつらそうだね。もうちょっと眠ってなよ。何か食べられそうなものでも買って来るからさ」
 「ううん、あんまり食欲ないから……。それよりシンあまり気をつかわないでね」
 ナギは心配しないでとやわらかく微笑んだ。
 「でもちょっとでも食べたほうがいいよ。そんなこといってもう三日も食べてないんだもん」
 「シン……」
 こわれる寸前のしゃぼん玉のようなはかなげな様子に、シンはくやしげそうに目をそらせる。
 「ごめんね、ナギ。……あんなこと言っておながら、おれ、全然ナギを守れてないや。無理ばっかりさせてる気がする。……もしかして、ナギには迷惑だったのかな」
 天界の空気になじんでしまったナギの身体には、人界の何もかもに違和感を感じられてしまう。
 昔からは考えられないほど美しくなってしまったナギは、気安くふれると消えてしまいそうだ。
 半女性化した体は、もともと細身だったナギをさらになよやかにし、全身に丸みをおび、胸までうっすらと膨らんでいる。
 そうしてみていると絵にかかれた天女の姿そのものだ。
 もはやこの世のものではなかったのかもしれない。
 「シン、シンが迎えに来てくれてすごく嬉しかったよ。だってだれがあんなところまで来てくれるだろう。シンだけだよ。シンだけしかぼくにはいない」
 「けど、ナギの体がつらそうだ……」
 ソメイとのエネルギーのぶつかりあいの衝撃をじかに受けたナギには、時空をこえるための荷重がかかりすぎてしまっていた。
 人界に戻ったときには、生体エネルギーがほとんどなくなってしまった。
 「すぐに良くなるからさ、そんなに気をつかわないで。ぼくたち樹は大地からエネルギーを吸収できるから、もともとあまり食べ物を口にしないんだよ。それに、シンに会ってほっとしたのかな、ちょっと疲れがでたみたいだ。……ねえシン、それよりリノちゃんの方は大丈夫なのかい?リノちゃんのほうがなんだか凄く辛そうだったじゃないか。すごく心配だよ」
 ナギは思案げに言うと、そのまま翼から羽根を抜きとった。シンに手渡した。
 「ナギ!そんなことしたらもっと体が――」
 「このくらい平気だよ。これをリノちゃんに食べてもらって」
 痛みの表情ひとつみせず、ナギは笑う。
 これでリノに手渡す羽は四枚目だ。
 リノは自分の体から発する臭気がナギに障るといけないと思ったのか、自ら地下室のまえにある闇のなかで休んでいた。
 リノは時空の転送で体力を使い果たしたように、帰ってきたときは冬眠状態に陥っていた。
 シンに連れられたナギの姿をみたとは心配そうにしていたが、それでも大丈夫だとナギが声をかけると、嬉しげに目を輝かした。
 彼女はだが、結局なにもしゃべらず、闇の中へ疲れたように戻っていったのだった。
 「じゃあ、リノにこれ渡したら、ついでになんか飲み物でも買ってくるよ。まってて」
 「…うん」
 出ていくシンを笑顔で送りだしたナギは、扉がしまるのと同時に、糸が切れたように崩れてしまった。
 息をするのも苦しそうに浅く呼吸をくりかえし、じっと耐えている。
 すでに変成を繰り返していたナギにとって、人界の空気は毒に近かった。
 純粋なエネルジーだけではなく、邪気がいたるところに混じっていて、やすむことなく羽根を刺激しては身体をいためつけている。
 頭痛と熱に冒された目の前が、ぐらぐら揺れていた。
 体を起こすだけで体力が消耗する。そんなささいなことだけでも、自分はもはや人間の体ではなかったのだと思い知らされるようでつらい。
 天界に帰ることはもうできなかった。
 シンの心を踏みにじることはできない。
 真実、だれが天界まで迎えに来てくれるだろう。
 人の身でありながら、ナギのためだけに危険も省みずやって来てくれ、そして神と闘おうなどと誰が思ってくれるだろうか。
 寂しかったのは自分だけではない。シンはナギの声をちゃんと聴いてくれた。
 それにシンの体に異変をおこさせたのもきっと自分のせいだ。
 異世界のものである羽根を飲ませてしまった。
 ただ魔物たちから守りたかっただけだったのに、それはシン自身までも変えてしまった。
 彼の運命を狂わせてしまったのは自分なのだ。
 それに、ソメイを裏切ってしまった。
 シンについていった自分を、ソメイはきっと許さないだろう。
 一度自らはなれてしまったのだから、ソメイの胸のなかは、もはや帰る場所ではなくなってしまったのだ。
 なにより、ソメイはナギの手をみずから離した。
 まるで、永遠の別れのように。
 今度こそ、本当に要らなくなってしまったのだ。
 もともと役にたつことは一つもなかった。だからソメイがいらないといえば、それで終わってしまう。
 「ソメイ様……」
 懐に隠してあった、銀色の雫のような花を取り出していた。
 ナギが天界からもってきた唯一のものだ。
 ソメイがくれた、初めてで、そして最後のもの。
 枯れもせず色褪せもせず、摘まれたそのままの姿でナギの心を慰めてくれていた。
 いつまでもぼんやり見つめていたナギの耳に、空気の隙間をぬうようにして、歌が聞こえてきた。
 なつかしさがこみあげる。かすかに耳に触れるこの歌は、地下からいつも聞こえていた歌である。
 この歌だけは、昔も今も変わらない。
 いまもまだナギにしか聞こえないのだろうか。
 だとすれば、それはなんの意味がある。
 まるでナギに宛てられた、果てしなく遠いところからの、手紙のようではないか。
 聞き入っているナギの手をエンラが舐めた。
 まるで自分にもわかっている、といっているように。
 「きみにも聞こえているの、エンラ?……不思議な子だね。なんでぼくの側にいてくれるんだい」
 頭を撫でるのに、気持ち良さそうに目を細める。
 エンラは黒い塊になると広がっていった。
 ナギに覆いかぶさると、そこだけが温かくなった。まるで邪気を吸い取ってくれているように、呼吸が楽になってゆく。
 ナギは花を握りしめ目を閉じた。
 浅い眠りに、ソメイの腕に抱かれている夢をみていた。


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