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天上の樹

1



プロローグ


 破裂しそうな心臓をおさえ、ナギは力つきたように地面にひざをついた。
 倒れそうになる体をささえる指先が、恐怖のあまりに色を失い小刻みにふるえている。 
 「なんで……、なんでぼくが鬼に追いかけられるんだ?なんでこんな所に――」
 それは凄まじい形相で追いかけてきた。
 ナギをみつけたとたん狂暴な目をむきだし、有無をいわせずナギを捕まえようとした。
 巨大で荒く削られた岩のような体躯がさらにもりあがり、闘気がはだを刺した。そのむくつけき腕にとらわれたら、きっとそれだけで命が消えてしまうだろう。
 およそ、人間が棲んでいるという印象からはほど遠い、尋常とはおもわれない世界。
 ナギが気がついたときには、なぜかすでにここにいた。まったく見知らぬ世界が目のまえに広がっていたのだ。 
 訳もわからず茫然としていたナギはいきなり手首を掴みあげられた。
 恐る恐る顔をあげ、それを正視したとたん、絞りあげるような金切り声で叫んでいた。
 頭がどうにかなってしまいそうな恐怖。
 鬼――。
 まさしく鬼としか思われない異形の者たちがそこにいた。
 人のかたちこそ、とってはいたが、そこにあるのは禍々しさと狂気だった。
 毒が肌を灼き、覗きこまれる吐息だけで、気が遠くなってしまいそうだ。
 ここはナギの慣れ親しんだあの世界ではなかった。
 まったく異質な、今まで常識だと思っていたすべてを根底からつき崩すような、不気味で恐ろしい、暗黒の世界そのものだった。
 途切れそうになる意識を必死でゆりおこし、ナギは燃える鉄のような手のなかで、息が止まるほどもがいた。
 自分でもわからない叫びをあげながら、気が違ったように暴れていた。
 とにかく、この悪夢から逃れなければならない。この悪夢に喰われたら何もかもが狂ってしまう。
 ここがどこなのかも分からなかった。
 なぜ、鬼がいるのかもわからないし、なぜ自分がこんな世界に紛れ込んでしまったのかすら、わからない。
 いや、いったい自分はこんなところに墮ちてまでなぜ生きているのだろうか。
 死の夢はこれほど恐ろしいものだったのか。
 ナギのなかにあるものは恐怖だけだ。
 もしかして本当は、狂ってしまって、現実と狂気の挟間におちて、魔の闇の大海でもがいているのかもしれない。
 あの、正常であたりまえだと思っていた世界こそが、狂気のすきまから見た幻影であり、この狂った世界こそが本物だったというのか。
 あちら側でみた最後のものは、たしか夜空に浮かぶ丸い大きな月だった。
 冴えざえとした光がナギの視界を奪ってゆき、全身を支配したのだ。
 そして悪夢がついに追いつき、飲み込んでしまった。
 あの毎夜ナギをさいなみ、苦しめ続けてきた闇が、恐れていた悪夢へと引きずりこんでしまった。
 ――月はナギを、憎んでいた。
 そう、魔界に連れ去ってしまうほどに。
 ナギは知っていた。
 月がナギをいと(いと)い、憎んでいたことを。
 もうずっと昔から気づいていた。
 いつかきっと、この憎しみに輝く蒼い光に殺されてしまう。蒼い月に灼かれ、身も心も灼きつくさるだろうことを知っていた気がする。
 ナギは夜空を見上げ、月を見るたびに、いいようのない寂寥感がこみあげてきた。
 いつかどこかへ連れてゆかれるような予感。ここは自分の居るべき場所でないという異質感がつねにつきまとっていた。
 けれど、まさかこれほどまでに凶悪で凄惨な世界に引きずり込もうとは。
 自分の部屋でぼんやりしていたナギは、ふと窓からさしこむ月の光が膨張しはじめたことに気がついた。
 吸い寄せられるように窓辺にちかづき、目をむけた瞬間、射抜くような激しいかがやきで視界をふさがれた。
 逆らいがたい痺れがナギを拘束し、目のまえに異様な世界をゆっくりと開いていった。
 そして、その世界のおぞましさに、ナギは言葉を失ってしまった。
 自分が生きていた世界が、どれほど無意味で殺伐としていたとしても、月光に照らしだされたそこに比べれば、どれほど穏やかで安らぎにみちた所であっただろうか。
 無秩序で無気力な混沌とした猥雑さにみちていた。
 生命のもつ尊厳までも貶めるような醜悪さにみち、土地そのものが腐りはてた、汚泥と穢れそのものだった。
 死臭のただよう湿った風がそぞろに吹いては、荒涼とした街なみを暗澹とした虚無だけが這っている。
 呪いの声と血の怨念が渦巻き、死の霧が土地の半分を魔の手でおおい、そこに棲まう人々の心を食い荒らしている。
 悲鳴が歌声のように響いていた。
 狂乱が渦をまき、誰かの忍び笑いのように聞こえる。
 身震いのするようなおぞましさに目眩がした。
 そしてナギは、なぜかその世界に、本当に自分が存在していることに気づいたのだ。
 恐怖に凍りつきそうになる足をたたきつけ、ここにいてはいけないという心の声に急きたてられるまま、逃げていた。
 鬼はナギを見逃さなかった。
 あっというまに腕をつかまれてしまった。
 いまはもう、その時どうやってその手から逃れられたのかはわからない。
 ただ無我夢中だった。
 何度も倒れそうになるのをこらえ走ったが、もともと体力などなかったナギは、ちからつき、膝をついた。
 まだ荒い息をかみ殺し、恐怖に負けないように目をつぶり、祈るように震える手をくんだ。
 にごった空気は酸素がうすすぎて、呼吸が少しも楽にならない。
 空中にただよう毒素ばかりが体に染みこみ、神経中枢が犯されていくような気さえする。
 追って来る鬼たちの足音がした。
 ビクッとして立ちあがった。
 ガクガクする膝をおさえ、できるだけ逃げようと走りだすが、湿気でおもくなったヘドロが足に絡んで体が思うように動かない。
 鬼達はゲームを楽むように、ナギをゆっくり追いつめていった。
まるでこの世界の毒で冒し、二度と帰ることができない体にでもしているかのように。
 きっと、産まれてこのかた、なに一つ良い事もせず、ただ生きているだけであったナギへ、神がくだした、罰なのかもしれない。
 いや、もしかしたら、産まれたことそれさえがすでに罪であり、だからその償いをしなければならないのかもしれない。
 自分さえ生まれなければ、あの人を苦しめずにすんだ。あの人に憎まれず、自分で自分を嫌わずにいられた。
 ナギはやみくもに走りながら、細い通りを何本もぬけていった。
 路地裏はまさに迷路である。
 高い塀や建物が隣接していて、複雑にいりくみ、まるで化け物のあけた口の中へ、どんどん入ってゆくようだ。
 舌を刺すような腐った空気がよどんでいた。
 煩雑な建物がいく先々で道をはばんだ。
 街それ自体がナギをあざ笑い、怨霊や、悪魔の冷笑している声が木霊となり、さらに惑わせようとしている。
 何かにつまずき、ナギは派手に転んだ。
 膝を打った痛みをこらえながらそれを見て、息がとまる。
 生首だった。
 上下の犬歯が異様に大きく鋭く突き出していた。
 頭からは雄牛のような角が異物のようにはえ荒々しく天をついている。
 まだ真新しいのか、へしゃげたままの姿で、生首は青黒い血を道いちめんにまき散らしていた。
 ナギはへたりこんだまま立つこともできず、ただ歯をくいしばり悲鳴をかみ殺した。
 が、のぼってくるものを抑えられず、黄色い液体を吐きだしてしまった。
 カラカラと乾いた風のような嘲笑がきこえた。
 尖った鉄条の先端にひっかかっていた犬面の首だった。
 半分腐った頬の肉にウジが白くのたうち、肉を咀嚼しているのがみえる。
 薄明りに浮かんでいるのは狂った世界ばかり――。
 ナギはこれ以上正視できず顔をふせた。
 遠くできこえる悲鳴に身を縮めながら、死神の足音を聞いていた。
 「なんてひどい悪夢なんだ……っ」
 夢ならはやく醒めてほしい。
 けれどきっと、この悪夢は醒めはしないだろう。
 ナギをつかまえようと、ずっと待っていたのだから。
 まさに地獄だ。
 ここが地獄という名でなければ、どこが地獄だといえるだろう。
 生贄を渇望しつづけるあの鬼たちは、きっとナギをみつけだし、残忍に無感動に切り刻んでゆく。無力で哀れでちっぽけなニンゲンなど造作もなく殺し、臓腑をえぐりだし食らうのだ。
 ナギはうずくまったまま、なぜか頭のなかが明瞭に冴えわたりはじめていることに気がついていた。
 霞がかかっていた視界がふいに晴れ、あの、静かで平凡だった世界のほうが偽物であり、この不気味でおぞましい地獄こそが、本当の世界のようにさえ思われてくる。
 茫漠として色の褪せた日常とちがい、この世界はなんと生々しく、生死に満ちているではないか。
 『(もり)』と二人だけで支えあってきたあの毎日がもはや遠いことのように思えてくる。
 シンと二人で手をとりあい、大人たちの歪みのなかで、懸命に生きてきた。
蜘蛛の糸のように細い命をつなぎあってやっと息をつないできたのだ。
 なのに、あれらの時までがサラサラと音をたてて流れ、消えてしまいそうだった。
 ナギは毒の空気にのどが焼かれて激しく咳きこんだ。  血の筋があごに伝っておちた。
 さらに薄い空気むさぼろうと毒をすいこみ、胸を焼いてしまう。
 涙にうるむ目でみわたす世界は、もはや恐怖が遠のいていた。
 ふいに誰かがナギの耳元にささやいた。
 おまえはこの世界を知っているはずだろう、と。
 この尋常ならざる魔の世界を、おまえはもうすでに知っていたはずなのだと。
 「ぼくは、ここに来たことがある――?」
 そう、たしかそれは、まだ幼稚園に行くか行かないかのころであっただろうか。
 あの時も、死にもの狂いで逃げまどっていた。
 大勢の異形のものたちに追いかけられ、階段をのぼり、廊下を走った。
 だがあの時は帰ってこられた。
 この悪夢から、だれかの力強い手が、ナギを押しあげてくれた。
 だがそれが、だれであったのか記憶すらない。
 もはやそのひとは、いない。
 いきなり襟首をつかみあげられた。
 心臓を鷲の鋭い爪につらぬかれたような痛みがかけぬけた。
 「このガキ、手間をとらせやがって!」
 鬼の恐ろしい顔が目の前にあった。
 ナギの蒼白な顔がさらに白さを増した。
 陶器のようになめらかな肌が死人のようになり、表情のない薄茶色の瞳に映ったそれは、決して逃れられない運命だったのかもしれない。
 または、無意味な人生を終わらせる死の影だったかもしれない。
 無骨で大きな腕が乱暴に服をやぶりさき、握られていたナイフが光った。
 そして、深々と、ナギの背中を切り裂いていったのだった。
 



 その家はカラッポだった。
 大きくて広くて真っ黒で、そしていつも静かだった。
 シンもナギも、もうそこしかいる場所はなかったので、しかたなく、二人してどんよりとし、闇のた(たま)りにひたっていた。
 ふたりは同じ病院で生まれた。
 同じ時刻に、同じ場所で、一緒に息吹をあげた。
 また、なぜか同じように幸せも縁遠かった。
 母胎は別々だったが、それはまるで生まれる以前からかわされた盟約のように、二人でなければ生きられないほど、互いが互いを必要としあい、肌の温もりを交わして生きてきた。
 屋根裏部屋の物置で、いつも膝を寄せあい額をくっつけあい、ささやかな夢を分けあって、宇宙を回帰して時をすごした。
 幼い頃からもう、ずっとこうして毎日をすごしてきていた。
 彼らは自分たちの墓標を見続けてきた人種だから、ひっそりと、息をしていることを忘れ、誰にも気づかれてはいけなかった。
 ナギには帰る家はなかった。
 母親が再婚して、四才ちがいの弟ができたとき、家庭はそのまま扉を閉ざした。
 楽しく明るい空間を維持するためには、ナギの存在は無くならなければならなかったのだ。
 母親がそれを望み、義父が不要としたときに、ナギは自然と幽霊になった。
 シンの家は、お金はたくさんあったが、でもカラッポだった。
 愛情のかけらも温もりもなくて、大きな家は二人が住むにはよく似合っていた。
 めったに帰ってこないシンの父親と、毎日定期的に届けられる給食の弁当のほかは、空虚な空間にはだれもやっては来ない。
 母親が血を流し、笑いながら死んでいくのを見送ったここで、シンはナギと生きるために食べ物をわけあい、命をわけあい、夢と心をわけあって息をしている。
 互いの瞳に姿をうつし、存在を確認しあい、抱きあって眠るうでに体温があるのを感じて、ようやく自分が生きているのだと認められる。
 百でも二百でもなく、ほんのわずかでよかったのだ。それだけの愛情を与えてくれる人がいなかったために、二人の時間は止まり、その事実とともに、周囲はすべて消え去った。
 いらない子供はないと、だれかが言う。
 ナギは、シンに出会ってなければ信じられなかったかもしれない。
 自分が生きていてもいいのだと。
 母親の再婚でこの町に越してきて、シンと偶然出会った。
 運命だと思った。
 存在していいという、神様の承認だとおもえた。
 そのためにこのつらい事象が起きたのかもしれない。そう思えば、どんなことでも楽になる。
 シンにはナギが必要で、ナギにはシンが必要だった。
 たとえ親が不要としても、そのためにきっと生まれてきたのだ。
 それでもまだ子供の頃はよかった。
 義務教育も、学校もなかったからだ。
 否応なく学校という動物園の檻に入れられ、鋭く残酷な外気にさらされなくてはならなかった。
 ナギは年を重ねるごとに、自分のものではない、完成しきった家族のもとへ、帰らなければならなくなってしまう。
 篠田(なぎ)――それが少年に与えられた地上での認識証だった。
 言葉を使うことに慣れていなかったナギにとっては、学校は地獄だった。
 自己表現ができない者には死にも等しいルールばかりがあり、ただの苦しみとしかいえない時間をすごした。
 グループになって体育をし、友達と輪になって話しあいをして、班別に給食をたべる。
 無遠慮に他人のなかに入りこんでくる子供は凶器にもちかい。
 シンと過ごした日々がどれだけ周囲には異様だったのか、常識という尺度で測られて、ようやくわかった。
 学校とよばれる特殊な制度が、ナギを糾弾し異端者として排除しないように、苦痛の息をひそめた。
 誰にも見つからないように、できるだけ擬態することを覚えていった。
 「篠田、きょう神名(かむな)が来てなかったみたいだけど、おまえ知らないか?」
 下校途中のナギに声をかけてきたのは、シンの担任教諭である浅井だった。
 彼は二人が、仲がいいことを知っていし、シンがナギだけとしか親しくはないことも知っていた。
 シンは、神名(しん)として認識されている世界にあっても、いっこうに変わろうとしなかったからだ。
 学校にもあまり来なかった。
 たまに来てもだれとも口をきこうともしない。
 ナギのように仮面をかぶり、苦しみの喘ぎをかくしてまで、飼育係(きょうし)になついたフリなど、プライドの高いシンは絶対にしない。
 いや、それほどまでに、シンにはなにもなかったのかもしれない。
 いまだナギを縛っている家族という名の重石も係累さえものこっていないのだ。
 たったひとりいる父親さえ、シンにまったく感心がないのだから。
 外界に関わりをのこす身と、それさえないのとでは、どちらが幸せなのか二人にはもうわからない。
 「あの、神名くんはまたきっと、体調を崩したんだと思います。昨日も、具合い悪そうにしてましたから……」
 「そうか――」
 きっと嘘だとわかっている。
 でもそれ以上は聞いてこない。意味ありげに手にしているプリントに目をやるのに、
 「……届けものがあるなら渡しておきましょうか。今日の帰り、寄りますから」
 言ってナギはプリントをうけとる。
 どうせいつものことなのだ。
 ナギがそう言うのを浅井は待っている。
 シンのクラスには、シンの家に寄りたがる者はだれもいない。
 あの古びた洋館から発する妖気は、人をよういに近よらせない。
 教師たちでさえ内心は、気味悪がっており、できることならシンのような生徒には関わりあいたくないと思っている。  
 ナギがプリントを鞄にしまうのを確認すると、浅井はそそくさと逃げていってしまった。
 きっとナギにしたところで、彼にとっては、そうシンとは違いないのだろう。
 ただシンよりいくぶん話が通じるぐらいであって、ぬぐいきれない異質感は常人には受け入れ難いものがある。
 ナギは線の細い、男とも女ともつかぬ中性的な容貌をしていた。まるで色褪せた写真を見るようだった。
 なまじっか造形が整っているだけに、それはよけい薄気味わるく、蜃気楼のようなはかなさで、いまにも目の前で消えてしまいそうな危機感をかんじさせる。
 存在感のうすさは、かれの放つ生気の少なさによるものなのか。まるで紗の布ごしに見る彫像のような印象しかなかった。
 ナギはいつものとおり、シンの家に向かっていた。
 帰りにシンの家によるのが日課だった。
 中学三年生にもなると、やたらプリントが多くて、そのたびにシンの書類を頼まれるのだ。
 三者懇談や進路指導など、保護者宛てのものがニ、三あり、受験のための膨大な問題がえがかれた課題の束がほとんどを占めている。
 わけのわからぬことを書きつづった用紙をみながら、なにが嬉しくてこんなに紙の無駄使いをするのだろうと、いつも思ってしまう。
 ナギは勝手知ったるとばかりに、鍵もかかっていない玄関の重い扉をあけた。
 オークの一枚板は重厚な重みがあったが、雨風に侵食され、いまではただ真っ黒いばかりだ。
 薄暗いホールを抜け、階段を登っていった。
 いくつかの部屋を通りすぎたつきあたりに、屋根裏部屋にぬける隠し扉がある。
 そのトンネルのような階段を超えた向こうに、シンがいる。
 「シン、帰ったよ――」
 ナギはやっと二人の宇宙へと帰還したようにほっと気をゆるめた。
 今日見せる初めての笑顔かもしれない。
 シンは、まるでナギが入って来るのが解っていたかのように柔らかく微笑んで座っていた。
 彼だってこんな風に笑えるのに、その笑顔を知る者は、きっとナギ以外にはいない。
 伸ばされた手にナギは素直にくるまり、冷えきった体を温める。
 「毎日よく頑張るね」
 シンはナギのなかの記憶をのぞき込みながらやさしく言う。
 「うん、頑張るよ。まだ、お母さんたちを困らすわけにはいかないからね。でもシンもちょっとは学校行っとかないとさ、また浅井先生が家に押しかけてくるかもしれないよ」
 「ふん、もうきっと二度とこないよ、やつは。この前ずいぶんおびえて帰ってったからな。ガッコウなんて、しょせん試験が通ればいいんだろ」
 冷めた瞳で笑う。
 「それに、おれはナギの記憶があれば勉強なんてしなくていいからな」
 コツンと額をつきあてた。
 シンはナギの記憶をのぞきこみ、その日あった出来事を自分に転写するのだ。
 学校に行かないシンには、そうやって外界をのぞき、ナギの悲しみを自分にわけて半分にする。
 やわらかく目を細めるシンは、まだまだ少年の線の細さをのこしてみえる。
 けれど不思議と皮肉ぽっい表情をするときの彼は、鋭い鋼のような印象をあたえる。
 意志の強いはっきりとした黒い瞳は、どことなく魔力を含んでいるようにみえた。その瞳にみつめられただけで気圧され、大人でさえ容易に打ち負かされてしまう。
 開け放たれた出窓の向こうに、夕焼けが赤く広がっていた。
 ありにも毒々しい光は、板張りのゆかを朱に染め、なぜか不吉な影を落としている。
 「あっ……」
 ナギがふりかえった。
 「なに?」
 「また、聞こえるよほら」
 ほっそりした首をかしげ、ナギは目を細める。
 屋敷のどこからながれてくるのか、その音が流れ出すと、ナギはいつも耳をかたむけ、かすかに自分も歌っている。
 シンには一度も聞こえたことがなかった。
 こんなにはっきり聞こえてくるのに、どうして聞こえないのか不思議だ。
 それはナギだけに、静かなささやき声で語りかけ、ナギだけに歌をうたっている。
 「どっちの方向からだよ?今日こそ捕まえてみようぜ」
シンはナギの手をとり階段を降りていった。
 二階を走り抜けると、一階の端にある地下室へとナギが指さす。
 けれどそこまで来ると音はいつも途絶える。
 まだ二人はそこを降りたことがなかった。
 屋敷には、入ったことの無い部屋が数多く残っていた。鍵がかかっていて使われていない、あかずの間も珍しくないし、興味もない。
 地下の闇はことさら重くかんじた。
 近寄ることにすら禁忌をおぼえる。
 そこが人を拒んでいるだけでなく、人の本能もまた、近寄ることを避けてしまうのだ。
 もしかしたら、ここで消えてしまった『莉野(りの)』のように、またパックリひらいた闇に食べられてしまうかもしれない。
 無意識に、ふたりはそこにただよう闇を恐れている。
 ナギはたしかにここで一度食べられ、ふたたび戻ってきたのだから。
 シンの二つ下の妹である莉野は、母方の祖母に引き取られていた。
 女の子ということもあったが、シンのような得体のしれない気味悪さがなかったために祖母たちに受け入れられた。
 その引き取られるまでの二年のあいだ、ナギとシンとリノの三人はよく遊んだ。
 リノは二人のあとを追いかけてきては、一緒にいたがり、二人といると嬉しそうに笑っていた。
 引き取られてからも、嫌がる祖母に駄々をこねて、泊まることもしばしばあった。
 そして七才になったとき、消えてしまった。
 ――この家が、食べてしまったのだ。
 一切の消息が途絶えてしまったのに、周囲の人間は、シンが食べたのだと噂しあった。鬼の子だから、妹を殺して食べてしまったのだと。
 二人が仲のよい兄弟だったということを、たいていの者は知らない。リノの失踪をシンがどれほど嘆いたかも、わかっていない。
 シンがギュッと強くナギの手を握った。
 ふいにナギが、地下の方へと無意識に歩みを進めようとしていた。
 「ナギ、ダメだ!」
 「ああ、音が消えちゃう……」
 「そっちへ行ったらダメだ、どうしたんだよナギ?! 」
 つよく頬に手をあてられ、ふとシンと視線をあわせたナギは、真剣な顔をしてのぞき込んでいるのに驚いた。
 まるで置いてゆかれそうな子供のような不安げな顔で、ナギに抱きついてきた。
 「どうしたのシン?ねえ、ぼくはどこにも行かないよ。いつも一緒だよ、シン?」
 「ナギまで消えてしまうかと思ったんだ。訳のわからない歌を口ずさんで、地下の方へ吸い込まれるみたいに歩いてゆくから……」
 「歌?――ぼくが地下へ?」
 ナギはまったく自覚をしていない。
 ただその歌が懐かしくて、記憶の糸をたどろうと夢中になっていた。
 誰かに呼ばれたような気がして、意識を手放しそうになってしまった。
 シンはそんなナギを何者からか守ろうとするかのように固く抱きしめた。硝子のようにもろいナギの肢体がしなった。
 「痛いよシン。シン?」
 「こうして抱いていたって少しも実感がない。ナギが本当に人なのか夢なのか、時々わからなくなる。怖いよナギ。どこにも行かないでよ」
 「ぼくにはシンのそばしか居る場所はないよ。それにぼくだって怖いよ、シンがいなくなったら。絶対生きてゆけない。だってぼくたちは同じ者なんだから」
 傷から血を流さず、心の奥深くにかくし、ひとりきりで血を流す人種なのだ。
 誰にもみせず、自分だけで舐めて治すことしかしらない。
 不吉な風が地下から吹き上がった。
 ナギはみぶるいした。
 「外へ出ようか。体が冷えちゃっただろ」
 シンはまた遠い目をしはじめたナギの腕を強引にひっぱった。
 外はすっかり闇がおりたち、空には星がくっきりと浮かび上がっていた。
 夜空の蒼さは、また格別な色をしていて、そんな空を見ているときのナギは男でも女でもなく、たとえようもなく美しい。
 心もとなさが、不吉なほどあやうくみせてしまう。
 「またその歌うたってる。それ、なんの歌なんだい?」
 シンが訊いた。気づかず口にしていたナギはぼんやりと答える。
 「さあ、ぼくにもよくわからないんだ。でも、知らないうちに口をついてでてくる……」
 まるで体に刻み込まれてでもいるかのように。
 「あ、流れ星――」
 シンの指の先に、無数の流星が空を駆け抜けていった。
 それはまるで何かの予兆を思わせるかのごとく、銀の矢が二人に突き刺さりそうに迫ってみえた。
 ナギにはその時なんとなくわかっていた。
 時が動き始めているということを。
 ふたりは無言で公園のブランコにすわり、風が冷たく頬をなで、木々をゆらしてゆく様をみつめていた。
 ブランコが寂しく音をたてて止まる。
 「そろそろ、帰らなきゃ」
 ナギの手がクサリからはなれるのをシンが抑えた。
 心配げに見つめるシンに、
 「大丈夫」
 ナギはそのまま目を細め笑うと、なにが大丈夫なのかわからぬまま、風にさらわれるように駆けていってしまった。




 「おかえり兄ちゃん!」
 飛びつくようにしてナギを迎えたのは、弟の勇だった。
 ほっそりとして華奢な兄に比べ、小学生の勇のほうがずいぶん健康的で、日焼けして逞しくみえてしまう。
 「今日は早かったんだね。よかった、また泊まるのかと思っちゃった」
 「あ、ああっ」
 戸惑うナギにかまわず、無邪気に言う。母の美保がピクリと反応し、洗い物の手をとめた。
 ナギにむける目の冷たさが、心を痛くする。
 だが彼女はことさら何の感慨もなさそうに、
 「おかえりなさい」
 と小さくつぶやいただけだった。
 暖簾のむこうにある綺麗な顔は、昔から変わらず表情がない。
 声は単調で、いつでもナギを孤独にさせてしまう。
 この視線にさらされるといつでも罪悪に襲われてしまう。帰って来ることを躊躇わずにはいられない。
 「かえりました」
 興味もなさそうに洗い物を続ける彼女に、ナギはほうっと息をつく。
 ナギにはちゃんとわかっている。彼女のなかに渦巻く二つの感情がいつも苦しめていることを。
 だから彼女の新しい家庭をよけいこわしたくなかった。
 勇が自分に懐けばなつくほど、申し訳ないという感情がこみあげた。
 異邦人であり、母にとってはこの存在は悪夢そのものでしかない。
 子供を愛せない母親がいることをナギは知っている。
 その苦しみがどれほど傷つけているかも、目の前で見続けているのだから、いやというほど知っている。
 最愛の人が、世界で一番大切で、一番大事で、一番、幸せになってほしいその人が、自分のせいで苦しまなければいけない。
 こんな無残で残酷な光景がどこにあるだろうか。
 だからナギは母親のささやかな幸せを邪魔したくない。もうこれ以上悪者になりたくないし、嫌われたくもない。
 それは首を絞められることよりも苦しく、棒で叩かれ、煙草の火を押し付けられることよりも痛くて、怖いことだ。
 そして、『母親』、はもう、とっくにナギの世界から消えてしまっている。
 「ねえ兄ちゃんゲームしようよ。今日、康くんにサッカーゲームのソフト借りたんだ。ねえ、ちょっとだけでいいからさぁ」
 「勇ちゃん宿題はすませたの?お父さんが帰る前にすませておかなきゃダメよ。一緒に遊んでもらえないでしょ」
 「え―、今日は兄ちゃんとゲームしたいよ。父さんより兄ちゃんと遊ぶって決めてたんだもん。宿題はあとちょっとだけだもん。ねえ兄ちゃんゲームやろうっ」
 「ダメよ!」
 母親の大きな声にびっくりして、勇はナギをひっぱっていた手を離した。
 滅多に大きな声をしたことがない母親のきびしい声に、びっくりして目を丸くしている。
 「……ごめんな勇。今日はたくさん課題があるからさ、また今度あそぼう」
 ナギはおろおろしている勇をみかねてそう言った。
 目を合わせようとしない美保に、ナギはさびしく微笑み、二階に上がっていった。
 借家のふるびた引戸が重く音をたてて閉じられると、階下から、勇の怒る声が聞こえてきた。
 彼は彼なりに、母親や父親の、ナギに対する態度を不審に思っているのだ。
 大好きなナギがいつも寂しそうに一人離れていることに対して疑問をもち、怒りを抱きはじめているらしい。
 この家にいるとき、どんなに勇の存在がありがたかっただろうか。勇がいてくれるだけで義父の暴力がやわらぎ、母の冷たさが緩和された。
 いまだに義父の落とす暴力は耐えられないものがあった。
 肉体の痛みだけならともかく、ことあるごとに身体を触られることだけは我慢できない。吐き気がしてどうしてもダメなのだ。
 それでも声もださず、無表情にみつめるナギにいたたまれなくなるのか、最後には苛立ったように暴力をおとし、去ってゆく。
 ただその時々むけてくる視線に、蔑むような暗い欲望の影を混じらせているけれど。
 シンの家はカラッポだけど、ナギの家は冷たく痛かったのだった。
 


 
 傷の手当をしてくれながら、よくシンが言っていた。
 心はどこにあるのだろうか、と。
 痛みは体で感じるだけではないのだ。
 精神の奥深くにある、柔らかで繊細な部分は、いつだって理不尽なしうちに悲鳴をあげ泣いている。痛いと、苦しいとうめいている。
 彼もまた暴力を受けていた。
 孤独という、もっとも恐怖する虐待を。
 「親は、多くの愛をもっていて、それをまったくの他人に分け与えることができるのに、どうして自分の子供だけを切り放して考えるんだろうな」
 シンが言うのに、ナギが、
 「きっと、親は親で自分を愛してないから、自分の分身である子供を、愛せないんじゃないのかな」
 だからナギの母親も、彼女自身を愛していない。
 そうではない母親はたくさんいる。
 我が子が可愛いくて、愛しくてたまらないという者もいるし、命をかけて我が子を守るような親は、いつの時代だって存在していた。 
 ただちょっと自分たちは運が悪かっただけなのだ。どこにだって例外はある。
 「……ナギ?」
 「なに、シン」
 「ねえ、どこにも行かないだろ?どこにも、行ってしまわないよね?なんだか、最近のナギは消えてしまいそうに見えてこわいよ」
 シンはよく不安げにナギに問いかけてきた。
 いまにも消えてしまうのではないかというように、漠然とした不安におびえていた。
 ナギは馬鹿な、と笑おうとして、そのまま言葉を失った。
 目の前にいたシンの幻想がきえ、虚ろな空間だけが、部屋にのこっている。
 ふとナギは閉ざされている西の窓に、大きな満月がのぞいていることに気がついた。
 その美しさと禍禍しさに、目を奪われて、意識が遠のいていった。
 月は憎しみの蒼い色をゆらめかせ光を放っている。冷たい閃光でナギをつつみ、周りの風景からきりはなしてゆく。
 ナギはゾッとした。
 美しい鬼女の微笑みが、目の前に浮かび上がってきた。
 とうとう、ナギを見つけてしまった。
 めのまえに荒涼とした地獄の世界が浮かびあがっていた。
 身の毛もよだつようなおぞましい世界。
 そこから、なにかの気配が近づき手をのばす。
 ハッと我にかえったときには、火はナギのまわりを取り囲んでいた。
 ナギは自分の部屋が燃えていることに気がついた。
 居心地のわるくて部屋にこもり、あのまま夢うつつにシンのことを考え、過去へと逃避していたのだ。
 ナギはまだ、どこまでが夢で、どこまで現実かわかりかねている。
 炎の熱さだけが現実のように肌を焼いてゆくだけだ。
 階下でさけぶ母親の声をぼんやり聞いた。
 勇を必死で呼び、義父がなにかわめいていた。
 ガラスの割れる音が続き、騒ぎ声がおおきくなってゆく。
 ナギはたちあがり、窓の外を見た。
 隣家から燃え移ってきたらしい火の手は、三軒むこうで荒々しくたぎり、屋根を超えて猛々しくうねっている。
 叫び声が幾多もこだましていた。
 隣あわせの借家の住人が次々と叫びながら飛び出していった。
 「(なぎ)!」
 母親の声がはじめてその名を口にした。
 ナギはゆっくりふりかえり、彼女をみつめた。
 炎のむこうにあるのは少女とも見える母の顔だ。
 まさか、と驚いているナギに、美保は炎のむこうがわで、なにか言おうと口をひらいた。だが、それが言葉になってあらわれるまえに、 義父の呼び声がそれをかき消した。
 「美保!なにしてるんだ、グズグズしてたら死んじまうぞ!!」
 彼女はグッと息を飲みこんだ。
 炎にのまれ、もはや自分の力では助けようのない息子に、なんと言っていいのかわからないのか、不自然に視線をそらせてしまった。
 なにが言いたかったのか、二度と言葉を紡がれることはなく、彼女はそのまま炎に圧されるように背をむけ逃げていってしまった。
 青ざめた唇がふるえてみえたのは気のせいかもしれない。
 ナギは思考のとまった瞳でぼんやりそれを見送った。
 炎の飛びうつった窓枠のむこうに、義父が勇を抱いてそとに飛び出してゆく姿がうつった。そのあとに美保が逃げでてきた。
 三人で抱きあい、へたりこんでいる。
 怯えるように美保が二階を見上げた。
 その視線が一瞬だけ、ナギとあった。
 ナギはパリンッというかすかな音をきいた。  
 彼女が顔をそむけたのと同時だ。
 それは体の中からきこえたような気がする。
 はじけるような、強固なナギを守っていた防波堤が一気に崩壊してしまったような、そんな悲しげな音だった。
 それが最後の合図だった。
 ナギのなかの何もかもが変っていった。
 かけられていた魔法が解けてしまうように、冷たい氷の棘が忍びこみ、心を凍らせてしまった。
 窓のむこうには、下界のことなどに無関心な、冷たく冴え冴えとした月だけが、美しく輝いていた。
 ナギはその光に射すくめられた。
 腕をつかむ大きな手を感じた。
 恐ろしく冷たい鬼の手がナギをつかみあげ、まさに連れさろうとしてゆく。
 失いかけた意識の中で、ナギは高く笑う女の声がいつまでも響いているのを聞いていたのだった。
 

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