天使の呼ぶ声

BACK TOP


3



 まとわりつくような嫌な感触が、まだつきまとっていた。
 体の内側までをのぞきこまれ、無遠慮にながめまわし、そこにあるものが何であろうかと検分してゆくかのような、誰かの強い視線である。
 ――だれが俺をみているんだ、この視線は……
 嗣樹はまとわりつく不快さに、一瞬意識をみだしかけた。
 が、すぐに戻すと、頭上に輝く一点の星のまたたきをめざして、時空を抜けきった。
 そこは諌子の部屋だった。
 「ただいま、諌子」
 目の前にフワリとおりたった。
 柔らかい午後のひかりにぼんやりと諌子は外を眺めていた。
 ゆったりと口元をほころばせ、まるでこの世に起きる全ての醜さも穢れもない涅槃の世界をみているような何ともいえない優しい表情をしている。
 ここに来ると、どんなことがあっても、心が穏やかになぎ、まるで何ごともなかったかのような心地にさせてくれる。嗣樹でさえ綺麗に洗われ生まれたての赤子に戻ったかのような気分になってくる。
 ほっと胸をなでおろした。
 諌子のまわりの空気には、嗣樹をつねに苛む『痛み』がまったく含まれていなかった。どこに居ても、誰と居ても嗣樹はじき出そうとする拒絶感がない。
 この場にはどんな力さえも及ぼさない『虚』の時空がひらかれていた。例えるならば放射状にのびた車輪の中央であり、真中の『空』のような部分である。
 すべての中心でありながら、そこにだけは何もない。何も起こらない、絶対の無の世界。
 だれにも気づかれずに、だれもがそれを必要としている、そんな不思議な力の中心に、諌子はつねにいる。
 突如、部屋のすみが黒く淀みはじめた。
 赤子の泣き声がしたとおもうと、そこに赤子を抱いた愛美と、それを追ってきた天使アルメリスがあらわれ出でる。
 「――俺の後をついて来たのか?」
 彼らは、たぶん倶縁果の魔力によって、嗣樹を追ってきたのだろう。
 かすかに残った嗣樹の残像をかぎわけ、複雑にいりくんでいた時空の筋道を正確に選んできたのである。
 嗣樹は嘆息した。
 苛立ちをおさえきれずに握りしめた拳で自分のなかの何かをようやくしずめると、天をあおぎ、それからとがめるように諌子にふりむいた。
 「なぜこいつらがここへ来るのを許したんだい、諌子?」
 もちろん諌子はこたえない。
 嗣樹はじっと自分と諌子をみている愛美たちへと、うっとおしそうに目をむけた。
 「あなたから離れないわ、だって私たちを救ってくれる唯一のひとだもの。倶縁果も坊やもあなたを求めている。そしてこの私も……」
 愛美の言葉をさえぎるようにアルメリスの不快な声があがった。
 「この場はなんだ?! ――異常なほどの清浄さではないか。これは、まさしく天上界の絶対無の空間だぞ。なぜ人界にひらかれているのだ?!」
 いきなり落とされた場所の、あまりの不自然さと不安定な磁場の流れにいきりたち、訳がわからないと羽がざわめいていた。
 諌子の部屋を凝視し、ここがはたして本当に地上なのかどうかさえわかりかねている。
 ただ倶縁果を取り戻すために追ってきただけなのに、なんという場所にまできてしまったのか。顔にはそうはっきりと書いてあった。
 「たしかに……ここはなんて気持ちがいいのかしら。身体がすごく楽だわ。痛くも辛くもないし、心地いい……」
 倶縁果のもたらす耐えまない痛みにさいなまれていた愛美は、ほうっと安堵の息をついていた。心なしか厳しくしかめられていた表情までが柔らかくなり、少女の可愛らしさをとりも戻している。
 愛美は口にこそしなかったが、天上界の異物を身に宿したせいで、ひどく疲れ果て、鈍痛に身体をもてあましていた。
 助けて欲しいと、やっとそれを口にし求めることができたのは、みたときから惹かれつづけていた、嗣樹のなかの一点の光に出会ったときだけである。
 そしてその光がどこからきているのか、愛美は今わかったような気がした。
 その人を見つめた。
 視線さえあわせず、ただしずかに座っている諌子は、やっと会えた本当の母親――いや、聖母のようであった。
 愛美は目をうるませ、うっとりと見ていた。憧憬と敬慕の念で唇がかすかにふるえている。
 「なんの変哲もないただの部屋だな。なのになぜこれほどまでに清浄なのだ。きさま、一体ここで何をしている?!」
 アルメリスは理由のない清浄さは不愉快であるといわんばかりに眉根をひそめていた。
 まるで諌子の姿などみえないかのように視線をはしらせ、彼女の放つまろやかな光さえ感じていないかのように、諌子にだけ目を留めない。
 天使がこの場の清らかさに居心地の悪さを感じ、愛美のほうが癒されているとは、まったくおかしな話である。
 「諌子ときたら、妖魅のたぐいには厳しいのに、人間にはいつも甘いんだよな、いつも」
 嗣樹は困ったとばかりに一人ごちた。
 ならば諌子には、まだ愛美は『人間』として見えているということらしい。倶縁果に蝕まれてはいるが、まだ間に合うということであろうか。
 一方で、アルメリスは、本当に諌子が見えていないようであった。
 はじめは、わざと無視をしているのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。不自然なほど諌子のいる場所だけに眼をむけようともしていない。
 愛美の腕のなかにいた赤子が、乳房をもとめて顔をよせだした。乳首を口にふくみ、ミルクが出ないのにいらだつように泣きはじめたが、その声もまた、体力がだんだん失われているのだろう、最初のときよりも、ずいぶん弱々しくなっている。時空をこえたことで、さらに弱ったのかもしれない。
 諌子が赤子の鳴き声に反応したかのように顔をふうっと上げた。
 力なくうなだれミルクの出ぬ硬質の乳房を、少しでもほぐそうとまさぐり、愛美が痛みをこらえている姿をじっと見ていた。
 音もなく立ち上がったかとおもうと、諌子は少女の乳房に手をあてた。
 驚いた顔をして諌子をみた愛美の乳からは、あれほど強くしぼってさえでなかったのが、寒露のごとくあまい乳汁となり、とうとうと流れ出ているではないか。
 赤子は腹がすいたのにたえかねたようにむしゃぶりつき、幼い口がひっしに欲望を満たしていた。その姿は、どんな存在であっても愛らしい。
 「あなたは……なぜ…?」
 愛美は諌子を不思議そうにみつめていた。ふとその背後にいた嗣樹に目をとめ、視線が釘付けになってしまった。
 なんという瞳をしいるのだろうか。
 諌子をみる眼差しが、あまりに愛しくて切なくてたまらない。みているこちらのほうが胸が苦しくなってしまう哀切をおびている。
 愛美を冷たく突放し、なにもしてやれないときっぱり断ち切った嗣樹と、今にも消えそうな嗣樹とが、同一人物だとは思われなかった。
 たよりなく不安定で、わずかな衝撃にさえ崩れ落ちてしまいそうなはかなさは、愛美の腕にいる赤子よりもずっと幼くみえる。
 諌子をみつめる嗣樹から愛美は視線を離せられなかった。
 心が、奪われていく――。
 「なんて目でみているの……」
 急に、なぜかしらわからない、憎しみに近い怒りの感情が愛美にわきあがってきた。
 羨ましさと、そしてどうにもできない嫉妬のような熱い感情だ。
 嗣樹がハッとしたように愛美に目をむけた。
 愛美は、諌子の首に腕をまわしたかと思うと、腕にかかえこんでいた。
 「このひとがあなたの弱点なのね嗣樹。このひとのためになら、力が使えるのね」
 諌子は乱暴にひきよせられても、驚きもあらがいもせず身をまかせていた。
 嗣樹はそれこそ一瞬だけ、夜叉のように眉をつりあげてみせたが、諌子の様子に、すぐに表情をもどした。
 「そうだね、確かに君の言うとおり、俺は諌子のためだけにしか力を使えないよ」
 あっさり答える。
 「けど、君は一つ間違っている。諌子が俺の弱点だと君は思っているようだが、それは弱点じゃない。俺の最大の強みなんだ」
 部屋の温度が急速に上昇した。
 嗣樹の感情のゆれをうつしとったかのようである。
 愛美はブルリとふるえた。
 嗣樹の背後に揺らめく闇の底をわずかだがかいまみてしまった。決して触れてはならない、なにかとてつもなくおぞましくて恐ろしいその恐怖に、無意識に諌子の首にかけていた手はなしてしまう。
 そんな二人の様子を怪訝そうにみていたのはアルメリスであった。
 彼の目にはたしかに諌子はみえていない。けれど、そこにはいる存在を、もはや否定できないほど大きく感じていた。
 まるで巨大過ぎて視界に入ってこない怪物のような不気味な感じは、たまらなく不愉快である。
 「おまえたちは一体なにをしているんだ?! 何がそこにいる。どうして、私にはみえない!」
 思わず腕を伸ばしたアルメリスの手が、とりもどした嗣樹の腕の中にいた諌子の右肩に偶然ふれた。
 まるで電気に触れたようにビクッとふるえ、そのショックによって、目の上にかけられた被膜が破れたかのように、アルメリスは諌子の存在を目に止めることができるようになっていた。
 食い入るように眼を見開き、凝視する。
 「……なんだ、この人間は?なんで人間に生体膜がかけられているんだ?! 」
 嗣樹はアルメリスから遠ざけるように諌子をかばった。見せるのももったいないとばかりに。
 「これは天上界のエネルギーではないか!」
 彼女の周囲には薄い膜がはられ、まるでアルメリスたち天界人から隠すように覆われていた。
 諌子を傷つける者、害する者、仇をなすすべての災いから守るかのように張り、護られていて、その光は自分たち天上界のものと同じ輝きなのである。
 「ひと一人の命ほど、強いエネルギー膜だよ」
 嗣樹がアルメリスに冷やかに言った。
 「君に諌子がみえなかったというのなら、それは君が諌子を傷つけるおそれがあるということだ。諌子をみる資格がない、邪悪な者だからだ」
 「私が邪悪だと?! 天使にむかって何をバカな。どうして私がその女を傷つけるのだ」
 邪悪という言葉に柳眉を逆立て、鼻息あらく反論しながらも、その眼は諌子から離せられないでいる。心を奪われたようにただただ見入っている。
 「ああ、坊やが!」
 愛美が悲鳴をあげた。
 ふりかえった二人の視線の先で、赤子が切れかけた電灯のように、はげしく明滅を繰り返しはじめていた。
 ミシッというにぶい音がして、赤子の額に縦にヒビがはいった。
 そこからもれる光の波動に、アルメリスが思わず叫んだ。
 「ディーバだ!この気配、尋常ではない邪悪なこの気、この赤子はディーバの転生なのか?!」
 「魔物(ディーバ)?」
 嗣樹は赤子をみた。
 怯えながらも愛美は、叫ばれているディーバが何を意味するかもわからず赤子を守ろうと抱きしめていた。どうであろうと赤子から引き離されることだけは絶対に嫌なのだ。
 「やめて、変な名前でよばないで。この子は私の赤ちゃんよ。私のものなのよ!」
 「それほどまでの妖気をはなつ存在、まさにディーバの外ない。それが持つ邪悪さは生前に犯した業の重みと深さによるものだ」
 「この子にはなんの罪もないわ!あるなら私の罪よ!」
 「いいや、前世でおかした残虐非道の行いをいましめられ、浄化の転生を命じられた因業の者だ。その重き罪が許されるまでは、何度も何度もつらく厳しい運命を生き、転生を繰りかえさねばならぬ。そのことによってのみ許される、永劫の罪人の称号だ。そのディーバの魂が、この赤子のなかに封印されていたのだ――」
 その封印はいままさに解け、罪深き魂が赤子の殻をやぶり飛び出そうとしていた。あまりにも重い宿業だったために、並の封印ではもたなかったのだ。
 「その赤子をよこせ。転生の女神の封印を破ってしまうような邪悪な魂が目覚めでもしたら、どんな魔物になるかわからぬ。また再びの無限の殺戮をくりかえし、血と叫喚のおぞましい運命が地上を覆うことになる」
 もはや猶予はならぬとばかりに、倶縁果のこともわすれたアルメリスはディーバである赤子をとりあげようとした。
 愛美は奪われまいと躍起になって手を払いのけた。必死だったその面持ちがしだいに険しくなり、鬼女の面を露呈してゆく。
 「渡さないわ。絶対のこの子をわたしたりはしない。もう二度と私は私の大切なものをだれにも奪わせたりしない。傷つけさせたりしないのよ!」
 凄まじい気迫に畳がこげくすぶった。アルメリスがわけがわからないと苛立ち怒鳴った。
 「何を勘違いしているのだ!それはおまえの本当の子供ではないだろう。どうしてそんな魔物をかばうのだ」
 「この子は私の子よ!この子を手ばなしたら、私はもう二度と人間にはもどれない。人ではいられなくなるのよ」
 倶縁果が、愛美の感情に同調したのか光をはなち、少女の全身は張られた根によって光沢をおびて、まるで一個の鉱物のように輝きはじめていた。
 「どうしてそんなに赤子に固執する」
 「だって私には、もう何もないの。もうこの子だけなんだもの」
 鬼女の瞳から涙がこぼれおちた。
 「私は穢れているの。私なんか絶対に幸せになれないの。この子だけが、私のなかで唯一きれいなものなの。幸せなのよ」
 赤子は、自分をこの世のすべての何よりも愛しんでくれている母のことがわかっているのか、そっと小さな愛らしい手をのばし、彼女の頬にさわった。
 そこにあるのは無心の愛情と信頼。
 ディーバなどではない、無垢なる魂にしかみえない。
 恐ろしく怒りに逆巻いていた狂気の顔は、赤子の優しさに触れ、少女のやさしい表情にもどっていった。
 少女はハラハラと涙を流していた。
 「私は父に裏切られたわ。実の父によって、あの醜い男に売られて……」
 あの日の恐怖は忘れられない。
 父に連れられ、愛美は見知らぬいかにも高級そうなホテルに行かされた。
 そこに待っていたのは、父の上司だという初老の太った醜い男だった。父はそこへ愛美を置いてゆき、その男は愛美を無理やり襲った。
 逃げまどう愛美を、強引に、そして乱暴に男は貪りつくした。何度も何度も執拗に切り裂き、狂ったように犯していった。
 ボロボロになった愛美に、義母は父の出世のためだといい、家のために我慢しろと冷たくいった。愛美さえ我慢すれば、すべてがうまく行く、みんなが幸せになると虚言かさねえ諭そうとした。
 義母は愛美の母を憎んでいた。
 だから愛美のことなど微塵も愛していないことをずっと知っていた。どんなに殴られても蹴られても、時には包丁で切られたり、タバコの火をおしつけられても、あの男に汚されるぐらいならその方が数倍もましだった。いっそそのまま嬲り殺しにしてくれたほうが、愛情を感じられたかもしれない。
 そんな愚かでおぞましい関係が、愛美の意志など関係なく続けられ、いつしか妊娠させられていた。
 「それは私が十二歳の時だったわ。それでも男は私を離しはしなかった。十四の歳になるまで三回も堕胎させられ、その度に父は昇進していった。――父も義母も私を決して救ってはくれなかった。地獄におとしめ………私は私の赤ちゃんを、三回も殺してしまった。あの憎い男の子供――だけど、だけど私の大切な赤ちゃんを、私は殺してしまった……」
 大粒の涙がとまることを知らぬかのように流れおち、赤子の頬までシットリとぬらしていた。
 愛らしく笑い手をのばして、愛美の愛情を無心に求めてくるその温もりに、彼女は自分こそがすがりつき、救いをもとめて抱きしめていたのである。
 「私にはこの子しかないの。この子以外、こんな汚れた私なんかだれも要としてくれない。天使様だって、宝珠をくれただけですぐに死んでしまった。私は私を救ってくれるものなどいない。守ってくれるもものなんて、なにもない」
 絶対の孤独。
 その孤独に、どうしてこんなにかよわく年若い少女が耐えられるだろう。赤子こそが、最後の綱なのである。
 「――それでも仕方がない。私はこんなに醜いんですもの。この子に必要とされなくなったら、穢れた私なんか存在する価値がないの。私は私だけでは存在しちゃいけないのよ」
 嗣樹は愛美のその言葉に息がつまった。
 無心にお互いをもとめる、血のつながらぬ本物の親子をみつめる瞳には、自分と諌子の姿が重ね合わされていた。
 諌子がいいと言ってくれなければ、生きてはいられなかった。赦してくれなければ、存在できなかった。
 ――そう、俺も諌子がいなければ、生きる価値も、存在理由もまったくない、ただの影。諌子だけが、俺にとってのすべてであり、光だ。
 「私はどうなってもいい。でもこの子のためになら夜叉にでも鬼女にでもなれるわ」
 赤子の姿がブレはじめた。
 封印していた殻が、魂に対してあまりにも弱すぎる。
 「ああ、この子が苦しんでいる、どうすればいいの?」
 愛美は赤子をだきしめ、困りはてたようにオロオロとしはじめた。崩壊してしまわないようにと、身体で食い止めようとでもいうように赤子を強く抱きしめるほかない。
 「そんなことをしても無駄だ。早くこちらに渡せ。魂が飛び出してしまったら、二度と回収するのは不可能になるんだぞ。さあ、はやくするんだ!」
 わずかな情もなく、容赦なく赤子を引き剥がそうとしたアルメリスのかたわらを抜け、諌子が愛美のそばに立っていた。
 諌子が肩を抱くのに、愛美は闇のなかでみつけた最後の救いのように諌子に身をよせた。
 赤子を、諌子がそっと抱きあげた。
 愛美は微塵のうたがいもなく、恐ろしいほど素直に諌子へ手わたしていた。
 諌子の胸におさまると、不思議なほど苦しみ身を震わせていた赤子の震動がとまり、ブレが弱まっていく。
 「なにをしているんだ、今のうちに早く渡せ!」
 諌子から強引に奪おうとしたアルメリスの腕を嗣樹がつかんだ。
 ほっそりした少年の力とは思えない凄まじい力で腕を捻じ曲げてゆく。
 「どうして人の心がわからない。魔であろうと、人間であろうと、痛みを知るものには変わりないじゃないか。人を愛する気持ちになんの違いがあるんだ。天界のものだけが正しい愛情を持っているわけじゃないだろう」
 「きさま――っ!はなせ無礼者!」
 軽々と腕をとられたまま突き放された怒りに、アルメリスはいきりたった。
 だが彼などにかまいはせず、嗣樹は懐から箱をとりだした。
 蓋をあけると、そこには買ったばかりの殺生石があった。
 それをつまみあげると、少しだけおしそうにつぶやいた。
 「諌子のために買ったんだけどな。まあ、仕方がない。その諌子が守りたいというんだから」
 石をそのままつよく握り締めた。
 肉の焼けるようなジュッという音がして、あたり一面を熔かす熱量が放出される。
 「俺が本当に怖いものは人間だ。だって人間だけが諌子を傷つけられる唯一の存在なんだもの」
 諌子を傷つけたのも父親であり、いま諌子の心を動かしたのも人間の少女である。
 「諌子が、無限に愛する邪悪でいとしい存在――人間。だから諌子が助けるというのなら、俺が助けよう」
 嗣樹はそのまま石を飲み込んでしまった。
 あっという間に体は熱に溶解し、消えてしまったのであった。




 
 おぼろにかすんだ乳白色の世界だった。
 静かな森林をよこぎるように、大きな川がながれている。
 その川辺りには木立がうっそりと枝をのばし、どこまでも静寂な空間を守っているかのようにひろがっている。
 豊潤な湿地帯をおもわせる優雅で静かな植物たちが、大木たちの根に、葉をのばして、のんびりしていた。
 嗣樹は川のほとりに立っていた。
 水面に彼の姿がうかびあがっており、さらさらと流れてゆく。そこだけが時間が止まっているかのような不思議な感覚につつまれている。
 川のせせらぎを聞いているだけで、何もかもを忘れそうになってしまった。
 嫌なことも悲しいこともない、太初の時にもどれそうな気さえおきてくる。
 この世界の優しさにくるまりこのまま眠ってしまえばどんなに心地良いことだろう。そう、それは大いなる母の懐にもどったような、子宮の海につつまれた安堵感と幸福に満ちている。
 嗣樹はあまりの優しさに目眩を覚えながら川辺をのぼっていった。
 きっといまここで願いさえすれば、幸せな夢を見続けたまま、眠りつづけることができる。
 けれど嗣樹に幸せな夢は必要でない。
 痛みと苦みを伴っている、諌子のいる現実こそが本物なのだ。無上の幸せは諌子のいるところであり、彼女のいない夢になど用はない。
 だからこそ、この世界に渡ってさえ意志をもっていられる。自分の足で立ち意志をもって行動できるのである。
 「――やあ」
 嗣樹はわずかにもりあがった船着場のまえにいた少女へと声をかけた。
 少女はハープを長く白い指先でつまびきながら、繊細で物悲しい無限の夢とも思える幻想的な音楽を奏でていた。
 「嗣樹、いらっしゃい」
 少女はハープを奏でる手をとめることもなく、嗣樹をみあげて短く言った。少年のように短く髪を切り、小枝のようなほっそりした肢体は性別を不明にしている。それこそ夢のような繊細さと少女のもつかすかな胸のふくらみさえなければ、凛々しい美貌を少年のものとさえみまちがえてしまうだろう。
 曲が終わった。
 少女は手をとめた。
 お互いに微笑みあった。
 少女はたちあがると、なにも言わない嗣樹の用件をすでに承知しているらしく、白く長い指でその場所をしめした。
 「水しぶきには気をつけてね。たとえ嗣樹であっても、触れれば記憶の欠如はまぬがれないから。川に流されたらそれで終りだよ。もう諌子のもとにはもどれない」
 レテの川の番人。
 いつからそこにいるのかは誰もしらない。
 生前の記憶をすべて洗い流し、あの世とこの世を別けてしまうといわれる大河である。魂の洗浄するために、死者の魂は必ず一度はここをくぐらねばならない。
 「ありがとう」
 嗣樹は少女が貸してくれた船で器用に川をわたりきると、その向こうにみえていたほこら前にゆっくり進んでいった。
 そっとなかをのぞき、闇の奥底にうごめいている何かに、小さく声をかけた。
 青い光がパァっと漏れた。
 地底のまださらに奥深くに潜んでいたソレが、一瞬だけみえたような気がした。
 だがあまりにも不可思議で奇妙な生き物であったため、この世の人間には表現すべき例えがみつからない。何ともいえない感覚におそわれる。
 嗣樹はそれの発するかすかな空気の震動に、何度か頷いてから、ほこらから離れていった。
 いつのまにか手には薄紅色の布が握られていた。
 船でふたたび戻ってきた嗣樹に、番人の少女は寂しく笑って見せた。
 「やっぱり向こうがいいんだね、嗣樹。きっと地獄のような場所なのに。――ファルファだって、ずっとこっちにいればいいのにって、いつも言ってるんだよ。まだ、帰ってくる気はないの?」
 ファルファと言っているように聞こえはしたが、はたして本当にそのように発音されていたかはわからない。人間の耳にはまったくなじみのない聞き取りにくい音質で発せられていた。
 「諌子のいるところが俺のいる場所だ」
 嗣樹はそういうと、うっすらと、だがとても幸せそうに笑ってみせた。その表情に、番人の少女はわかったと苦く笑い、もはやなにも言いはしなかった。
 「さようなら、嗣樹。きみの幸せを祈っているよ」
 「さよなら―― 俺もおまえがいつか永遠の眠りにつけるその日を祈っているよ」
 二人の言葉じりが消えるのと同じように、嗣樹の姿は空気にとけ、消えていた。
 また、少女の竪琴の音だけが、寂しく哀切をこめて静かな森に流れ出していたのだった。




 呆気にとられたように、その場をみつめていた。
 アルメリスも愛美も、嗣樹が消えてしまったことが、まだ信じられぬようであった。
 殺生石とは、近づくものすべて殺してしまうという、火山口などにごく稀に発生する石である。殺人的な波動を噴出しており、非常に強い妖力を帯びている。
 一説では、妖怪が石になったものともいわれている。たとえ小さな石といえど、そんな魔石を飲み込んだのだから、よもや嗣樹が生きているとは考えられない。
 石のエネルギーに燃えつき溶けてしまったのか、または取り込まれたのか。
 いずれにせよ尋常な行為ではなかっただろう。
 内臓から石の毒によって熔かされ、死滅したその苦しみを思い、愛美は激しいショックをうけていた。
 まさかあの嗣樹が、自分と赤子のためにそんな恐ろしいことをして、救おうとしてくれたというのか。
 その行為も、また意味さえわからないが、たぶん自分たちの為に、それが行われたことだけはわかる。
 暴挙とも思われるそれは、きっと諌子が庇ってくれたからだとも、またわかっていた。彼女の心を読み取り、命さえ、あれほどあっさりと投げ出してしまうのだ。
 愛美は胸がひどく痛かった。
 嗣樹を見ていると時々こんなふうに胸が痛くなることがある。どうしてだか、涙がこぼれそうになってしまう。
 諌子がそれを願ったとはいえ、だれがそんなことをするであろうか。嗣樹はわずかも、それこそ砂粒ほどの惑いもみせずに、石を飲んだ。そしてそれは愛美たちを救おうとしてくれたことには変わりがないのである。
 ――嬉しかった。
 こんなに嬉しかったことは今まで一度だってなかった。
 そして、それ以上に、諌子が羨ましくてたまらなかった。胸が焦げつくようである。
 「誰かに、こんな風に強く激しく愛されてみたい」
 隠し切れない本音。
 諌子になりたい。
 愛が――強く揺るぎのない愛が欲しい。諌子に対する嗣樹の思いのような、そんな愛が。
 もしかしたら、それは産まれ出ずるとき、親がくれるべきものだったのかもしれない。または、いずれの日にか出会う、運命の人と育んでゆくものだったかもしれない。
 「でも、だれも私をあの暗黒の世界から助けてはくれなかった……」
 そう、あの死んでしまった天使以外は誰も手を差し伸べてくれなかった。
 子供を堕ろされたあの日、もはや生きていたくなくて、いっそ死んでしまおうと思い、愛美は死に場所を求めてふらふらと歩いていた。
 そのときだった。赤子の泣き声が聞こえてきたのだ。
 偶然だったのか、この子が呼んだのか、あの広い空き家からする泣き声に誘われて、中へと入っていった。
 薄気味悪い暗がりに、その子はポツリと座っていた。おくるみに包まれたその姿に、捨てられたのいだということがすぐにわかった。
 愛美は赤子の意志を感じた。
 すぐに抱きとっていた。
 その途端、この子が愛美を待っていてくれたことに気がついた。
 赤子の温もりは、愛美の凍りついた心を熔かし、自分が流してしまった赤ちゃんが帰ってきたのだと思われた。やっと我が子にあえたのだ。
 涙がこぼれた。これでようやく犯してきた罪が償えると思った。
 帰って来てくれた。神が愛美を憐れと思い、きっと慈悲を与えてくれたに違いないのだ。
 「この子を手放したら、私はもう人にはもどれない」
 なにがなんでもその子を守ろうと固く誓った。決して離さない。誰も愛美を守ってくれないのなら、自分でなんとかするしかない。大人たちの言うことなど、もうなにも聞かない。絶対に言いなりになったりはしない。
 そしてあの天使があらわれ、愛美と赤ちゃんを守ってくれると約束してくれた。そのときには、どれほど強い天の光を感じたことか。
 やっとあの地獄の闇から抜けられる、助かるのだと喜びにふるえた。けれどつかの間だった。
 天使は、すぐに死んでしまったのだから。
 天使さえ約束を守ってくれなかった。
 彼は天上界からずっと愛美のことを見ていたと言った。憐れみ、ずっと助けたいと願っていた。その時を待っていたのだとそう告げた。
 愛美は諌子の腕にだかれながら、ほっそりした肩に顔をうずめた。母親の甘くて心地いい匂いがして、もうなにも怖くないような気がしてくる。
 少しも覚えはないけれど、幼いころに死んだという母は、こんな風に愛美を優しく抱いてくれたにちがいない。この人に惹かれていた嗣樹の気持ちが、少しわかる。
 本当ならば愛美だって、まだまだ母親に我儘をいったり甘えたりして、うんと可愛がられてもいい年頃なのだ。
 一緒に買い物に行って、食事をして、将来の夢を相談し、ボーイフレンドを紹介したりする。時にはケンカをし、反発したりしながらも、毎日を楽しくすごす。
 そのすべてが、もはや夢だった。
 望むべくもないはるか遠い幻想。
 だがそんなことを望んでいるのではない。今の願いはたったひとつ、この赤ちゃんを守ることだけ。それ以外なにもいらない。
 諌子の手が、こわばった愛美の心をほぐすように背中をなでていた。
 緊張に固くなり、息さえつくのを忘れていた愛美は、ほっと重い息をはいた。体中のしこりが取れるように痛みがひき、体が軽くなっていくのがわかる。
 諌子は、心こそここにはいなかったが、いままで会った誰より温かく優しいひとだと思えた。不思議で、神秘的で――やさしい人。いや、人たち、だ。
 嗣樹もまた、いままで会ったことのないほど不思議で、心惹かれる存在だった。
 彼をはじめて見たとき、何かがすぐに、この人だと愛美に告げていた。そうして、胸の倶縁果がその通りだと肯定するように激しくたかなり共鳴し、嗣樹を強く呼びはじめた。
 嗣樹は、比類なく美しく冷たく、その超然とした風貌に比して、なんとも寂しげで切ない瞳をしていたことだろう。まるで小さな男の子がそのまま育ってしまったような、純粋さであり、傷つきやすい優しい光が、彼の魂の底にはひそんでいる。
 それに気づかれまいとして、わざと冷酷な氷の被膜でおおっているのだ。
 「でも諌子を見た瞬間にすぐにわかったわ。嗣樹が求めている唯一の人だってね」
 彼が本心をみせるのは諌子だけ。
 諌子が幻のように白くたおやかな手をすうっとまえに差し伸べた。
 嗣樹が消えてしまったその場所には、薄く影が浮かびあがりはじめた。
 かと思うと、だんだん濃くなり、人のかたちにうつろいはじめてゆく。
 諌子はかすかに歌っていた。
 いや歌っているようではあったが、それが本当に彼女の声なのかどうかはわからない。かすかな調べでしかない。
 あまりに玲瓏な染みいる音色に、このまま眠ってしまいたくなってしまった。死ぬまえに見るという、最後の夢だといい。
 現れたのは、嗣樹だった。
 諌子の手の先に、まるで呼び出されたかのように嗣樹は戻ってきていた。
 彼もまた同じように手をさしだし、まるで二人の手は握られているかのような正確さで差し出し交わされていた。
 嗣樹の全身は白銀の雪のようなきらめきを帯びていた。
 その光が、諌子のまろやかな慈悲の輝きと同調し、二人の姿がかさなってみえた。
 嗣樹は諌子をただ一心にみつめていた。
 こんなに幸せそうな表情ができたのかというような、透明な笑み。
 なんという信頼であろう。
 無心で、一点の疑いもないほどに心を許しきっている。諌子への思いは、腕の赤子のそれよりももっともっと強くて深い。
 その純粋な心こそが、嗣樹の力の源であり、だからこそ諌子のため以外には使えないのである。
 嗣樹の手には薄紅色の織布がにぎられていた。
 赤子のおくるみだとすぐにわかった。
 嗣樹は諌子にその布をわたすと、諌子はそっと赤子をくるんでいった。
 みると、どうだろう――。
 今まで、どうにかやっと諌子の腕の中で、魂と肉体の乖離を防がれていた赤子のブレがピタリと止まってしまったではないか。
 無理やり魂を肉体のなかに押さえつけられ苦しんでいた赤子は、ぐったりとしていた目をひらき、苦痛からやっと解放された喜びのように威勢よく泣きはじめた。
 産着は泣き声にあわせ、薄紅色から白へと変色していった。
 まるで肉体の細胞を繋ぎ合わせ強固に補修するという、その役割をおえてゆくかのように。
 「その布の光――」
 アルメリスがじっとその布から目をはなさずにつぶやいた。
 だがまさかと首をふり、視線をむけた嗣樹と目があった。
 やっとアルメリスは自分の思いが本当なのだと認識したようであった。
 「まさか本当に、おまえはレテのほとりへまで赴いたというのか?」
 嗣樹の手にしていた布は、幻の聖なる野獣によって編まれるという『変性の布』だった。
 どんなものでも包み込むことができ、その願いをかなえるという伝説の魔織布。
 「だが、たしかレテには番人がいて、決して野獣には近づけないはず……」
 「頼めば、誰だって願いを聞いてくれるさ」
 「馬鹿なことを……番人は誰の言葉もききいれぬぞ。言葉を交わすことさえないと言われているはず」
 信じられぬと声を大きくするアルメリスに、嗣樹はそれ以上なにも言わなかった。信じぬものに言ったとしても、意味がないだろう。
 まだかすかに嗣樹は白い光をおびていた。
 諌子が歌っていたかすかな声は、徐々に大きくなりはじめ、凛々と部屋中に響きわたりだしていた。
 アルメリスは、透き通るその諌子の声に含まれるエネルギーの膨大さに、なぜ今まで気づかなかったのかとうち震えていた。
 目の前にあったこんなにも大切なことをどうして見逃していたのか、間が抜けているにもほどがある。
 「女神――聖天女様……」
 嗣樹がそのつぶやきに目尻をわずかに吊り上げた。
 アルメリスが踏みよりそうになるあいだに一歩はいりこむと、近づくことを許さなかった。
 「高貴なる女神にしか歌えぬ聖なる秘歌だ」
 生まれてこのかた、数えるほどしか聞いたことがない。
 「この異様なまでの清浄さ、高貴さ、そして美しさと慈悲の御心を持たれておいでなのでは間違いようがない。どれをとっても、聖なる女神様のそれだ。どうして私はいままで気づかなかったのか……」
 馬鹿だとばかりに首をふり、顔をあげた。
 嗣樹をねめつけるように睨んだ。
 「おまだな、おまえが女神の存在を隠していたのだな。だから気づかなかったのだ。あの生体被膜によって、女神の存在を私の目から遠ざけていたのか」
 嗣樹はアルメリスの視線と同等の、いやそれ以上に強い視線で返す。
 「嗣樹、おまえは何者だ。聖天女の存在さえも我らから消し去り、自分の手中におさめ、何をしようと目論んでいるのだ」
 「何も――。俺は何一つだってする気はない。諌子はただ諌子であり、それだけの存在だ。女神だの天界だのと、一切関係がない」
 「嘘をつけ!聖天女とは、十二の女神たちの頂点にして、すべてのものの母となるべき聖なる女神だ。天界が今までどれほど躍起になって探していたかおまえにはわかっているはずだ。でなければこれほど厳重に隠されているはずがない」
 「おまえたちがどう呼ぼうと俺にとっての諌子は、諌子という存在だけだ。それ以上でもそれ以下でもない。なにも変わりはしないし、いまさら誰にも渡しはしないよ。たとえそれが天界であっても、だ」
 いい方こそ静かではあったけれど、そこに潜んでいる意志の強さと気迫はなみ大抵のものではない。もし諌子を奪うなら、天界とだって戦う、といっているのである。
 「馬鹿なっ!女神は天界にいてこそのお方だ。この変動の時代をのりきるには、聖天女様の力がどうしても必要なのだ」
 アルメリスは信じられぬと、語気つよく言い返す。
 「いまの聖天女様は、すでにかなりのご高齢でいらっしゃる。そのうえ地上から吹き上げられる毒素によって、ひどく痛めつけられておられる。――もはや明日をも知れぬ身の上。その聖天女様がいらっしゃらねば、天上界も地上界も秩序がくずれて大混乱をおこしてしまうのだぞ。天界の力が弱まれば、妖魔たちがいっせいに目を覚まし、悪魔たちが鬨の声をあげて多数地上に流入してくることにもなるだろう」
 「そんなこと関係ないな」
 嗣樹はあっさり言った。
 力説していたアルメリスは一瞬あっけにとられたように口をひらいたまま黙った。本当に関係ないと、その冷たい横顔はいっている。
 アルメリスはカッと声高にいった。
 「なんという自分勝手さだ!自分がなにを言っているかわかっているのか。世の中には、神の深い思惟によって敷かれた秩序と法則がある。きさまら低俗な人間どもにはわからぬだであろうが、その大宇宙の法則にそって織りあげた、緻密にして崇高な、そして完全な神のタペストリーこそが、この世界の姿なのだ」
 一部の狂いも許されない。完璧な世界になるために天使がいて、女神が導いて、あるべき方向へと向かっている。
 だが、どんなに言葉を熱くして語ってみようとも、嗣樹にはまったく感動も感銘も与えていなかった。
 アルメリスは蔑むように息を吐いた。
 「所詮どのような力を持とうと、人間などにはわからぬということか。まったく低俗な生き物だ。だが、天界の神意をわかれと望むほうが無理なのだろう。――おまえがどうあろうと、聖天女を見つけたからには天界へお連れしなければならない。おまえの意志など関係がない」
 嗣樹がなにを思っていようと、一介の地上人でしかない。
 魔力が多少あるかもしれないが、崇高なる使命と、権天使の力のまえにあってはいかほどのこともない。
 「倶縁果を探していて、とんでもないものをみつけたものだ」
 やっと落ちつきをとりもどしアルメリスは息をついた。
 愛美にチラリと鋭い視線をはしらせたが、もはやこんなところでお遊びをしている暇はないという顔である。
 「なぜ女神は答えてくださらなかったのだ。こんなに近くにいて、我らがあれほど懸命に呼びかけていたというのに。通常であれば聖天女様ほどの気配ならば、わずかであれど天界に感知されるはず」
 女神についている光の輪が、かならずその呼び声に反応をしてしまうはずだった。たとえ今現在、その意識がなかったとしても、呼び声で目覚め、能力を覚醒させる。
 「だが女神は黙されたまま。どうしてだ――いや、それに守護天使はどこにいるのだ。女神が生まれると同時に、必ずおそば近くに守護天使がうまれ出で、離れずにお守りしているはずなのに」
 そんな存在など微塵もなければ、気配すら感じられない。
 変わりにそこにいるのは、なんとも不気味で得体のしれない少年ではないか。悪魔にこそ近けれど、とうてい天使族からほど遠い。
 「しかしこの被膜はどういうことなのだ……?」
 手を伸ばしかけ、嗣樹に荒くはねられた。
 「連れてなんて行かせないよ。諌子にはふれさせない、絶対に」
 見た目からは感情の変化があまりに乏しくてわかりにくかったが、嗣樹のなかで燃えたぎる決意のつよさと怒りは、深くふかく砥ぎ澄まされていた。
 「諌子はここにいる。誰にも手をださせない。彼女がそう望んでいるからだ」
 「女神が望んでいるだと?」
 「諌子はここに居たいと言っている。だったら俺は誰にだって、諌子を連れてゆかせはしない。天使にだって、悪魔にだって、神にだって――っ」
 諌子のまわりの被膜が膨張した。赤子も愛美も共におし包んでいった。
 アルメリスの羽が激しくゆれていた。なにかの存在を感知したようだ。
 強い天界の光が諌子の皮膜からまばゆく輝ききだす――。
 「その被膜――天使のものか?!」
 「これもダメだっていっているんだよ。なら、なおさらダメだ。多紀が反対しているんだからな」
 「多紀……それは何者だ。被膜に天使の光が――」
 アルメリスは嗣樹をみて、それから諌子の被膜をみつめた。
 「もしかして、それが守護者なのか?! 被膜自体が女神の守護者――」
 何かを読み取ったように驚愕の眼をむけた。
 怒りが浮き立ってくる。
 「な、なんということだ……。おまえは、天使を殺したのか?女神の守護者を殺し、女神を手にいれるために被膜にしたというのかっ?」
 蔑み怒りにおさえきれないような厳しいアルメリスの相貌を、嗣樹は寂しそうにみつめた。わずかな間だけ、絶望的な悲しみが走り去っていった。
 「違う……」
 そう言ったように思えたが、実際には、嗣樹は何も言っていなかった。
 愛美がかわりに叫んでいた。
 「違うわ!この被膜も違うって言ってる。――ひどく哀しんでいる。嗣樹もまた諌子と同じくらい愛しい大切な存在だって、被膜の意思がそういっている。それに、それに嗣樹は殺さないわよ!諌子が哀しむことは絶対にしないんだから!」
 「うるさい魔女!だまれ、おまえが悪魔の味方をしても説得力がないわ。こいつはやはり悪魔だったのだ。世界を滅ぼしてでも、女神を我がものとし、自分の欲望のためだけに使おうとしている。おぞましい悪魔なのだ」
 アルメリスはやっと気づいたとばかりに言い切った。
 「女神が応えないのも本当におまえのせいだったのだな。おまえがどのようにかして、女神から力を奪い、覚醒を遅らせているのだ。女神は助けを求めておられるはずだ」
 嗣樹は目をはっきりと見開いた。
 だが言葉はない。
 「そうだ、おまえは本来この世に存在するはずがない異物なのだ。異物が女神の力を奪うことにより、神のえがかれた緻密で微細なタペストリーが狂ってしまった。すべての元凶はおまえだ!おまえの存在が悪そのものだ!」
 「俺は――っ!」
 嗣樹がたまらぬように口をひらいた。
 何度も何度もいやになるほど聞かされた台詞。
 父母から、祖父から――親戚や近所者、友達からさえも、そう言われた。異端者だと、魔物だと、悪そのものだと
 飛び出そうとする思いをぐっとこらえながら、それでもまだ言葉にするのを躊躇うようにして、嗣樹はまるで何かに祈るようにかすかな声をもらした。
 「俺は……俺は人の腹から生まれた人間だ。――人間なんだ……」
 「女神に寄生している悪魔がなにをいう。きさまなどが人間であるはずがない。レテに行き、なおかつ記憶を失わずに帰ってこられる者があろうか。どうして聖獣に遭うことができる。その上、女神を目覚めさせないように計らい、地上を混乱させようと野心をいだいているではないか。大それた考えをもつ者が人だなどと――」
 「嗣樹は真っ白よ!こんなにも澄んでいるのに悪いわけがないわ。そこにいるのは諌子だけよ。諌子が白いままでいるのに、どうして嗣樹が白以外に染められるの!」
 アルメリスの勝手ないいぶんに、聞いていた愛美の方がいたたまれず叫んでいた。瞳にもりあがっていた涙がボロリとこぼれおちた。
 赤子によせる慈悲の涙でもなければ、自分に対する憐れみの涙でもなかった。はじめての、誰かに対するいたわりの涙だった。
 きっと彼女の瞳は悲しみを通り越し、倶縁実によって変性してしまったのだろう。だからこそ嗣樹の哀しい心を映すことができたのだ。
 にじんだ涙には、罵られて忌み嫌われてきた嗣樹の過去までもが、見えてしまっている。
 「黙れ魔女。こいつは寄生虫なのだ。寄生虫は排除せねばならない、絶対に」
 使命だけがすべてなのだと、生まれたときからずっと信じてきた。疑いもせず、そうあるべき道をたどりアルメリスは今まで生きてきた。
 そんな生真面目で固い彼のなかには、愛美の悲痛な声など届きはしない。いや、届いてはいけないのだ。任務が遂行できなくなってしまう。
 天使の聖なる光の輪が、彼の頭上にあらわれた。
 燐光がだんだん強まり、それにあわせ、邪悪なる穢れを払わんとするかのように、天使の全身に力がみなぎりはじめていった。
 手には、いつのまにか破邪の杖が握られていた。魔を滅せんとする荒々しい裁きの天使である、本来の風貌へとかわってゆく。
 「覚悟しろ、嗣樹」
 鋭くとがった杖の先端を嗣樹にむけた。
 悪を浄化するという宝玉の切っ先がアルメリスの念をうけて、強く光った。
 嗣樹は怯えも隠れもせずに真っ直ぐにアルメリスを見あげていた。杖の宝玉が額の真中へとむけられても振り払おうともしない。
 「嗣樹!」
 愛美が叫んだ。
 宝玉が焼き付けるような業火の熱を発した。
 今にも爆発せんばかりの光が膨れあがり、嗣樹の茶褐色の柔らかな髪がちりちりと放電して舞いあがった。長い睫までが痛みに震えている。
 「嗣樹、逃げて殺されるわ!」
 「ハッ――!」
 アルメリスがありったけの力をこめて叫んだ。
 杖の先から出た熱は黒炎となって嗣樹を包んだ。
 いや、包むはずだった。
 だが、熱量が頂点に達する直前、ふっつり消えてしまったのだ。
 嗣樹が何事もなかったようにアルメリスを見ているのに、信じられないとばかりに、呆然としている。
 「なぜだっ……?! 」
 「この場で妖力を使うことは不可能だよ。ここは虚と無の場だ。ありとあらゆる破壊の力はかき消され、無と化してしまう。それがたとえ、天使たちの聖なる力といわれるものであってもだ。プラスの力にはマイナスが付加され、マイナスの力にはプラスが付加される。ここは絶対の無でしかない」
 「まさか……そんなことがありえるのか?」
 いいながら諌子を見る。
 「女神が――?なぜそんなことを……」
 「気づかないのか、ここから四方八方に伸びているレイライン。諌子いる場所は龍穴となり、力が地上にふきあげて、エネルギーを活性化させているんだよ」
 「レイライン?女神が敷いたのか?」
 「そう。でなければ天界があれほど乱れているのに、地上がこれぐらいの影響ですんでいるはずがないだろう。もっともっと混乱していたはずだ」
 すぐには理解できないのか、アルメリスは口の中でなにかをつぶやいた。
 それでも目の前に浮き上がりはじめた黄金のレイラインの流れを、はっきりと感じはじめていた。
 「おおっ、これは!」
 口から漏れたのは、上質のエネルギーによる充足の感嘆とため息だった。
 あらわれたレイラインからたちのぼっている力は、まさに震えるような幸福感と癒しが含まれて、天上のどんな素晴らしい美酒よりも、もっとまろやかで全身をとかすような心地よさがある。
 諌子の歌により、さらにエネルギーは活性化されたらしく、地竜が喜びに猛っているのがみえている。益々力が強くなり、きっと霊力のつよい人間にならば、いまこのラインが見えていることだろう。
 「地竜が歓喜しているというのか……。地上の穢れが浄化し、息づいている……」
 「そう、だからこそ世界は崩壊をまぬがれている。諌子がそのように望んだからだ」
 「そのために女神の力が使われているというのか」
 嗣樹はわからないと首をふった。
 「諌子は人間を愛している。自分を傷つけ、痛めつける者たちをね。終りなく貪りつくす飢えた赤子を、彼女は心から愛している――それだけしか俺にはわからない」
 自分の背を切りつけた父親でさえ、彼女は愛していた。切られた女神の背中には、きっと無数の苦しみと心の飢餓をうったえる者たちの、悲しみと怒りが飛びこみもぐりこんできたのだろう。
 それすら彼女は払いのけもせず、受け止め、慈悲の心を与えているのである。
 「俺は――俺だけが、まだ、怒りを浄化できずにいる……。俺だけがまだあの男を許せられない。だから、本当におそろしいのは人間なんだ。諌子の心をゆさぶり慈悲をもぎとってゆく、地上のあさましい人間たちだけ。あとは何も怖くない、怖いものなど、ありはしない」
 アルメリスは、嗣樹のもつ、本当の恐怖をそこにみた。
 諌子がいなければ、真におぞましい悪魔がそこに誕生していたかもしれない。
 「だが、だが――天界だとて、女神は必要なのだ。いや絶対にいてもらわなければならない。そうでなければ世界の秩序が狂ってしまい、煉獄の世となってしまう。そうなれば女神とて、この愛する大地をうしなうことになるのだぞ」
 「そんなこと知らないな」
 そう答えた嗣樹は、魔物そのものの顔だった。
 アルメリスはゾクリと体をふるわせた。
 「どうしてそこまで固執するのだ。おまえなら、自分一人だけであっても、なんだってできるだろう。それだけの力を持っているはずだ」
 「何も持ってないよ。俺のこの体も、この心も、どんな細部の一片だって、自分のものじゃない。俺は諌子のものなんだ」
 アルメリスはそこまで聞いて、やっと、どんなに言葉を尽くしても嗣樹には無駄だとさとった。
 閉じられかけていた羽を大きくひらいた。
 「たとえこの場所が虚無の地であり、天使としてのわたしの力がつかえなくても、絶対に女神はつれてゆく」
 羽をはばたかせ、風を舞いおこした。羽根が嵐のように散り、キラキラと純白の輝きがわきあがり雪のようにゆっくりと舞い落ちてくる。
 その美しさに、一時目をうばわれた。
 いきなり空間が固定された。
 なんの力の介入も受けない、別の切りはなされた次元がぽっかりひらく。
 嗣樹のまわりは、いつのまにかぐるりとたくさんの天使に囲まれてしまっていた。
 「観念しろ。魔を封じ込めるために私がつくった亜空間だ。誰ものがれられぬ」
 「亜空間をひらいただと?」
 嗣樹が眉をひそめた。
 「そうだ。本来なら、大悪魔や狂暴な魔獣を捕獲するための檻でもあるのだが、おまえならば仕方あるまい。魔獣より性質がわるいのだからな。それに女神もききわけがないようであられるし」
 天使達がじりじりと嗣樹につめよってきた。
 いつなんどき、非常な危険があるかわらぬように、ひどく用心めいた足取りである。
 嗣樹がアルメリスの方へ一歩すすんだ。
 天使たちが一斉にとびかかった。
 嗣樹の姿が、天使たちに覆われてしまい、消えたかと思うと、あっという間に光の檻ができあがっていた。
 ビリビリとし放電しているそれは、魔でさえ一瞬にして崩壊させてしまう天界のエネルギーをさらに凝縮させた高波動流だ。
 「悪いがそこで大人しくしていてもらおう。女神は連れて行かねばならぬ。倶縁果の苗床となった女と共にな」
 諌子に抱かれていた愛美の乳房の宝珠は、すでに黄色く変色していた。
 乳首の先からは、ミルクではなく、双葉の小さな芽が伸びかけている。このまま伸びれば、彼女の体はすべて倶縁果に吸収され、崩壊してしまう。
 腕の赤子だけが母を心配するように必死すがりついていた。よもやその姿は憐れでさえある。
 普通なら、もうずっと以前に、愛美は意識がなくなり倒れこんでいるであろう。そうなってさえまだ意識がはっきりしていることが不思議である。諌子の被膜が愛美を守るように包んでいるからかもしれない。
 アルメリスがゆっくりと二人に近づいていった。
 もはや邪魔者はどこにもいない。
 手をのばし、諌子に触れたとおもったその時、彼はつんざくような悲鳴をあげていた。
 膜が激しく反応し、敵を排除しようと防御の攻撃波をだしていたのだ。
 天使であるはずのアルメリスを、なんと諌子の生体保護膜は、完全に敵とみなしているのである。虹色の防御壁へと変わったのがその証拠だ。
 「なぜだ!どういうことなのだ。この膜は天使のものではなかったのか?!」
 守護天使によって張られた膜のはずなのに、結界の防御は、アルメリスが手をだせるレベルではなかった。
 もうすこし強く触れていたら、手が焼け焦げ、落とされていたかもしれない。きっともっと高位の上級天使でさえも、同じ目にあわされていたことだろう。
 「守護天使はなぜ私を拒む。あの少年の味方をする気なのか?!」
 被膜は先ほどよりさらに力をましていた。まるで嗣樹のかわりに二人をまもろうとしているかのようである。
 自暴的に張りあげたアルメリスの声にあわせ、驚いた赤子が泣きだした。愛美が諌子に力なくもたれかかった。
 諌子の光を灯さない美しすぎる瞳が、檻のなかの嗣樹へとむけられた。まるで愛美を護れと嗣樹に言っているかのようである。
 「諌子たちは、つれてゆかせないよ」
 嗣樹は天使の檻に手をかけた。
 鼓膜が震えるような轟音がとどろき、アルメリスの空間がゆれた。
 嗣樹の手からはシュウシュウと蒸気があがり、触れている檻の格子だけが赤く燃えあがっている。高熱を発し、周囲が炉の中にいるかのような熱をもつ。
 並大抵の魔物ならば、今の一瞬で消えてしまっているはずだった。
 嗣樹はクッと眉をよせてはいたが、それでも手を離してはいない。檻がわずかに曲がりはじめているではないか。
 「それはウリエル様より授かった鋼鉄の檻だぞ!天岩鉱からドワーフによって作りあげられているのだ。そうそう簡単に曲げられるはずはない!」
 「くうっ!」
 渾身の力をこめた嗣樹の声があがった。だが檻はそれ以上は曲がらなかった。
 かわりに足もとの地面がひび割れはじめていた。
 なんということだろう、アルメリスの空間が破られかけているのだ。
 空間そのものが今にも分解しそうなほどガタガタと鳴っていた。
 さらに力が込められると、広くて狭い空間が分裂をはじめてゆく。
 「やめろ!磁場の固定がくずれてしまう。異次元にながされてしまえば、二度と現在に繋げられるかどうかわからないんだぞ!」
 「諌子は誰にも連れて行かせない。俺には諌子だけなんだから」
 嗣樹にアルメリスの声が聞こえているのかわからない。ただ檻を開こうとしているだけだ。
 その檻の熱に焼かれ、嗣樹の全身は(くれない)に染めあげられていた。あまり表情をうつさない嗣樹の全身の輪郭がだんだん薄くなってゆき、しだいに小さな少年の姿がそこに浮かびあがってくる。
 『諌子、諌子――諌子、僕を置いていかないで』
 少年は泣きながら懸命に呼びつづけていた。
 『父さんや母さんが欲しいなんてもう望まないよ。君さえいてくれたらいい、諌子だけでいい。だからお願い、そばにいさせて』
 『きみが多紀を好きでもいいんだ、いてくれるだけでいいんだ………置いてゆかないで。でなければ……生きてなんていられない……生きて、いたくない……』
 生命をかけ、自分自身の存続をかけて、たった一つだけを求めている。きっと最後の望みさえ失ってしまったなら、二度と人としては生きてはゆかれない。
 愛美の瞳から涙がこぼれていた。愛美にはその少年の姿が、自分として映っていた。
 なんの欲望もふくまない透明な涙は、倶縁果の芽にまで流れ落ち、まるで清らかな水をそそがれたかのように、どんどんと成長をはじめてた。蔓をのばし、葉をしげらせ、花芽をつけてゆく。
 「諌子――!」
 床が鈍い引きちぎる音を立てて裂けていった。
 黒い影がせりあがった。
 幼い嗣樹の泣き声にあわせるように立体化してゆき、ドロリとひろがってゆく。
 青黒い肌に、充血したような真っ赤な目がギョロリとしてひどく切れあがっている。むきだされた怒りは、世界すべてを呪っていうかのようであり、見る者を畏怖させずにはいない。恨みと悲愴さの固まりのような怪物であった。
 黒い巨大な怪物は、十万億土の世界に響き渡るような声で吼えあげた。
 諌子と、アルメリスのあいだに立ちふさがり轟々とわめいていた。大切な諌子をさらおうとする、この世で最も邪悪で憎むべきものだと憤怒の眼をむける。
 アルメリスは度肝をぬかれたように突っ立っていた。
 天使がつくりあげた、それこそ並大抵でない精神力の世界にまで入りこみ、なおかつその主たるアルメリスを脅かすことのできる巨人を――またその巨人を作り、呼び出すことのできるものの心力に、彼はまさに度肝を抜かれている。
 巨人はアルメリスを威嚇しながらも、諌子へは、まったく害が及ばぬよう、細心の注意を払いながら攻撃の波動を放っていた。
 雷鳴がとどろき空間をゆるがした。全ての物の原子がもろく歪んでいく。
 まったくそれは恐るべき力であった。ひと吼えだけで世界が一変してしまったのだから。
 そしてそのエネルギーは、たった一人アルメリスにしか影響を与えていなかった。
 そうしていつも嗣樹が自分の力をつかうのは、諌子に関わっているときだけ。世界を変えられるほどの力をもちながら、ほんとうに、彼の心はたったひとりにしか動かすことができない。
 なんという恋慕の情だろう。いや、凄まじい情念である。
 巨人は、身動き一つしないアルメリスからわずかさえも意識をそらさずに、注意深く嗣樹の檻にのしかかっていった。
 嗣樹の手に巨人の手が重ねられると、渾身の力をこめる嗣樹によって、とうとう格子は歪曲し折りまげられてしまった。
 檻はそのまま煙をたて、どろどろと溶けおち、巨人ともども、空間が霧散していった。
 真っ直ぐ諌子のほうへむかう嗣樹からは、子供のはかない幼い姿は消えていた。けれど子供の嗣樹も、いまの少年の嗣樹も、何一つ違ってはいない。
 諌子だけみつめ、彼女にだけ心を開き、駆寄ってゆく姿は、母をみつけた子供と同じ、幼いままである。
 抱きつく嗣樹を、諌子がそっと――本当にわずかだが、手をかけたように思われた。
 被膜が、嗣樹まで覆ってしまうと、そのまま閉じてしまった。
 あれほどアルメリスを拒絶したというのに、それはまるで慰めるかのように優しい癒しの光を嗣樹になげかけている。
 崩れかけている空間のなかで、そこだけが美しく輝いてみえた。
 「まったく、あれは不思議な生き物だ」
 いつのまにかアルメリスのとなりに公爵が立っていた。
 怪物を見た時ほどの驚きはなかったが、それでもまたもや魔の者によって、自分の空間を破られ悔しさを感じずにはいられない。
 「なぜおまえが……」
 「巨人が放っていたあれほど凄まじく悲痛な悲鳴が、よもや私の耳に届かぬはずはないであろう。天地を揺るがしえぐるように響いていたのだからな。――だが天使よ、おまえもよくやるものだな。あの嗣樹にあれほどの巨人を呼び起こさせるのだから、なかなか感服したぞ」
 「そういうおまえこそが、嗣樹に力を貸したのではないか?」
 「まさか。……あの二人は、この穢れた大地のうえで生まれて、目覚めたのだ。とてつもない可能性を秘めている不可思議な生き物こそが、『人間』という名を持つのではないのか、天使よ?」
 「人間――だがあれは聖天女と……」
 「もしこれが、天界であり、魔界であったならば、あのようなイレギュラーな存在(もの)は決して生まれ得ぬであっただろうな。なぜなら、その可能性が現れた時点で排除してしまうからだ。特に天界では、定められた秩序以外のことを必要以上に厭い、受け入れようとはしない。――万事において、余裕がないのだ。だが地上はちがう。嗣樹や諌子という、あのような存在たちでさえ許されている。だからこそ人間でありながら、聖天女にもなれるのであろう」
 ありとあらゆる者の母。
 母は決してわが子を見捨てはしない。それは決して天界ではゆるされないことだろうが、諌子ならば(ゆる)してしまう。
 「嗣樹は言ったぞ。たった一人さえ救えないのに、どうして大勢の者を救えるのだと。だから彼はたったひとりのためだけに生きている。そのような純粋な者にだからこそ、わたしは惹かれるのだ。魔界にもそのような不可思議な魂をもつものは存在しておらぬからな」
 アルメリスはあらためて嗣樹と諌子に目をむけた。
 どうするべきか本当に途方にくれたように頭をたれると、小さくふる。
 「わからない……私は、本当にわからない。もはや何が正しくて、何が間違っているのか。あの二人をみていたら、わからなくなってしまった」
 混乱のあまり、半ばぼうっとしながらも、視線だけは二人から離せられずにいる。
 「天界で、いわれる通りに働いていればなんの間違いもないと思っていた。どんな命令でも、どんなに冷酷だと思える指令でさえも、すべてはあるべき道へともどし、正しく進むための事がらなのだと」
 はじめはただ、消えた倶縁果を捜し求めていた。いなくなった天使の行方を追っていただけであった。
 そこにディーバがあらわれ、そして聖天女をみつけてしまった。
 「女神をお連れすればいいと思った。嗣樹の存在など計算に入っていなかった。そんなものなど排除してしまえばよいと単純に考えていたのだが、だが、いまはなぜか……」
 答えがわからない。
 ずいぶんと迷いながらアルメリスは考え深そうにいった。
 「あれほど必要としている者から、その存在を本当に奪ってよいのか、もはや私にはわからない。天地を揺るがすほどの力を、そのためにしか使えないのならば、それはきっと――」
 「本当に悪いものなど、ないのではないかと私は思うぞ」
 公爵がいった。
 「泥のなかから蓮は美しい花をさかせる。蓮のあの霊妙なる高貴な美しさは、きっと地底でもがき苦しむ汚れを知っているからこそのものであろう。許しと寛容を知りうるからこその、美であるのだ」
 あまりにも悪魔らしくない言葉に、アルメリスはまじまじと公爵をみあげた。
 彼こそ、魔界きっての異端児であり、だからこそ、人間のすむ地上界にひとり好んですんでいるのだ。本当に風変わりな悪魔であろう。
 ――悪魔だって、もとは天使。
 その者のもつ正義のうえにたっての行動を悪と呼ぶならば、悪とは、いったい何を指しているのであろう。誰にとっての悪というのか。
 「彼は女神を求めているのではない。『諌子』という存在を求めているのだ。女神とは、おまえたちが勝手につけた一つの名称にすぎない。そうは思わないか」
 それは愛美についても同じことだった。
 彼女の手にいるのは、血こそつながっていないけれど、正真証明の彼女の子供なのである。彼女がそう決め、赤子がそう思っているのなら、どうして他の者がちがうといえる。
 「ああ、なんとあのディーバが……っ!」
 少女の腕の中にいた赤子が、いつのまにか白い産着の中で光る球体となっていた。
 光の球体は、わずかに赤子の形を留めながらも、一つの清く美しい玉となって浮かんでいる。
 「私の坊や……」
 愛美がうっとりとつぶやき、光る赤子をみつめていた。全ての愁いを洗いながされ安堵の表情をうかべていた。
 彼女の乳からのびていた蔓は、いまや太い腕ほどの幹となり、花芽が大きくふくらんでいた。彼女が幸せそうにまぶたを閉じるのにあわせ、つぼみはゆっくりと膨らみをましていく。
 幹から溢れる樹液が、白く乳のように赤子に注がれていた。そのまま愛美の足にまでつたい、流れ落ちて地にそそがれてゆく。
 彼女の足元に、無数の手が伸びていた。
 彼女が殺した、愛に飢えた憐れな魂たちだった。
 だが、彼らはたっぷりと乳を与えられて、飢えをみたされ満足したかのように、そのまま消えていった。
 どれもが、もはやまったく愛美や赤子を恨みもしていない。生前満たされなかった孤独を癒されて、天上へと昇っていけるのだから。
 「……わかったよ、諌子」
 嗣樹はじっとみつめる諌子に微笑んだ。
 彼女の思いを嗣樹は違えることなく聞いていた。
 諌子からそっとはなれると、嗣樹は赤子の魂である青い球体を愛美から抱きとった。
 そのとたんに、愛美の身体が空気に溶け、光の粒となってしまった。
 とっくの昔に彼女の体は崩壊していた。
 子供愛しさの念で、無理に体細胞を繋ぎあわせ、母性のみで生き、それを守ってきたのだ。
 ――どうか、私の醜い身体を消してしまって……お願い、穢れた身体を、もう誰にも見せないで………。
 最後に聞こえてきたのは、痛めつけられてきた少女の憐れな心そのものの声だった。
 「わかっている」
 嗣樹は愛美だった粒をひとつかみすると、地に流し、死した憐れで狂暴な少年たちへのたむけにした。
 もうひとつかみを天へ投げ、最後まで赤子を守った少女の、純潔な心に敬意を表した。
 そして残りの一握りを、赤子に注ぎかけてやった。
 「今度産まれてくるときは、もはやおまえの業は昇華され、清められていることだろう。母がその身を使い、真の愛と慈悲をあたえ、清めてくれたのだからな」
 はるか(いにしえ)の昔、大陸の半分を支配する帝国があった。
 その帝国の王によって、無慈悲で残酷な大量虐殺が行われた。
 おのれの能力とわずかな魔力に自惚れ、王は自らを神と称し、ありとあらゆる贅沢をむさぼった。あまつさえ、遊戯事のように、人々の命を奪っていった。
 とうとう最後は、奢った王により、一つのボタンがおされてしまった。
 それは何万人という人々の命をいとも簡単に奪ってしまう悪魔の弾頭であり、そのことが後にあらわした影響は、それはおぞましい悲劇ばかりだった。
 目をそむけたくなるような病を引き起こし、ホルモン異常による肉体の変化、死産や奇形児の出生率の異常なまでに高さ。それは人間だけに及ばず、動物から植物、はては微生物や細菌にまでに至っていた。その他、口にするのも忌まわしいほどの、多くの変異がおきていた。
 それは現在『核』という名で甦っている爆弾であり、悪魔の教えた呪われた武器の一つでもある。
 すでに古代帝国のうえで核は花開いていた。すべてを終らせ、一つの時代を消し去っていた。
 その罪を贖うために、王は永遠の転生を余儀なくされてしまった。女神の怒りによって長くてつらい旅路は、永遠に続けられる約束だったのだ。
 けれど、どうした神のいたずらなのか、たったいま、なんの力ももっていなかった一人の少女によって、それは終わりを告げていた。
 はじめこそ邪悪であった赤子は、憐れな少女を取り込み、己の安楽と救済のためだけに利用するはずだった。
 なのに逆に取り込まれてしまったのは、醜いはずの魂であった。
 無償の愛を与えられつづけ、いつのまにか本当の純粋な赤子になってしまった。魂まで無垢になったのである。
 「なんともつまらぬことだ。もうひとたび、人としての平凡な生涯を歩み、魂の長き旅を終らせるというのか。そのまま放っておけばずいぶんと凶悪で残虐な、よい魔の眷属となりえたのにな、魔界にとっては大きな損失だ」
 たいして惜しそうにもなく公爵がそう云った。
 冗談なのかどうかわかりかねていたが、公爵のなかに潜む魔物の光が、淫々と強くひらめいている。
 「人間が、ディーバを清め転生させるなどと、出来るのか?」
 はたしてそんな力を持ち得るのだろうか。
 「諌子、手をかして」
 アルメリスの目の前で、嗣樹は諌子の手を握った。
 光の粒につつまれた青い球体を天へと放った。
 それは時空を越え、はるか彼方にあるという、生命海へと流れるように、あわく消えていった。
 それを言葉もなくみていたアルメリスが、まさかと首をふり、自分の中にうまれたとてつもない思考をかき消そうと眉間をおさえた。
 「……やつの力は無限なのか?……たとえ、たとえ、それが女神の力を借りてであっても、そんなことができるなんて、まるで神――」
 とんでもないことを言いそうになり、あわてて口をつむぐ。
 「歪みを知っているからこそ、歪みを有する者のことが理解できる。だからこそ修正もまたできるのだ。正義しか知らぬ女神には、出来ぬことかもしれぬな」
 公爵はからかうような口調でいった。
 愛美の身体があった場所には、わずかに、愛美という少女がいたという名残なのか、かすかな匂いがのこっているだけだった。もはや哀しい親子はどこにもいなくなってしまった。
 嗣樹はその匂いを抱きしめるように腕を伸ばした。霞みを抱くように、そうっと胸につつんだ。
 ――諌子以外に、俺のために涙を流してくれた。俺の心を理解しようとしてくれた……。ありがとう、愛美。
 その抱擁には、以前の突き放してしまうような冷たさはなかった。
 もし、諌子以外のために力をふるえたならば、きっと嗣樹は愛美の頼みをきいてやっていたことだろう。そんなふうに思わせる憐憫の情がみえる。
 嗣樹の腕のなかで、一輪の花がうつくしく咲いていた。
 その花芯へ手をのばすと、燐光をおびた実が一つあらわれ、嗣樹の手のうえにコロリと落ちてきた。
 それは赤く滑らかな光を放っているみずみずしい倶縁果の実であった。
 花はやっと役目を終えたように、パラパラと散り、虚空に消えていった。愛美の体も心もすべてを使いはたして、実は新たな実を再生したのである。
 嗣樹はいつくしむように、そっとそれに唇をよせた。
 光がパアッと放たれた。
 倶縁果の実が割れたかと思うと、光につつまれた愛美の姿が、そこから生まれ出でてきたのである。
 白く純粋で、あまりにも無垢な魂は、少女そのものの姿となり、またなんとも神々しくて優美なオーラをまとっていることであろうか。
 その輝くような滑らか背中には、白く大きな一対の翼がのびている。
 「天使が、生まれたのか……っ!よもや、こんなことが起きるとは――っ!」
 アルメリスは思わず少女に手をのばしていた。
 光につつまれ、宙空にういていた愛美は、アルメリスに手をひかれてフワリと地上におり立った。
 両の美しい瞳をあけた彼女の姿は、まさに今生まれたばかりの天使の清らかさがある。その穢れない美しさは、アルメリスとならんで立っていてもまったく遜色がない。
 「まさか、愛美が天使だったなんて」
 アルメリスがつぶやいた。
 「気づかなかったのか?――でなければ、倶縁果を身にやつして気も狂わず、崩壊もせずにいられるわけがないだろう」
 嗣樹がそっけなく答えるのに、アルメリスはもはや反論する気さえおきないようだった。
 愛美はただじっと嗣樹だけをみあげていた。
 切ない心をおし隠そうとしていたが、どうしても溢れる思いのたけを押さえ切れなかったようであり、熱くやるせない瞳を切なくうるませている。
 少女の殻は、天使の魂まで汚すことができず、その純粋さゆえに深く傷つきながら、自らを切磋し、ついにここまで磨きあげていったのだ。
 「罪深き古の魂さえも、浄化してしまうほど、きみは素晴らしい天界の力をもっているんだね」
 嗣樹が愛美にはじめて微笑んだ。
 あまりにも優しくて、心に染みるような笑みは、まさに諌子だけにむけられていた笑顔そのままである。
 愛美の瞳に、みるみる涙が盛りあがった。かと思うと、ブワリとこぼれおちた。
 「私、あなたみたいな人に愛されたかった……。あなたの愛が……欲しかった、嗣樹――」
 愛美はそうっと嗣樹の手をとった。
 自分の柔らかな頬に押しあてた。
 嗣樹はそれを振りほどきはしなかった。涙が手をぬらすのにまかせたまま、もう一方の手で、子供の髪を梳くようにそっとなでていた。
 「ごめんなさい。あなたを傷つけたこと、本当に許してね。あなたの心がどれほど深いかわかっていたら、決して諌子の幻をみせて――諌子になってあなたを苦しめたりしなかったのに」
 それがどんなに残酷なことだったか、今ならわかる。
 諌子の顔をして笑い、キスすることがどれほど罪であったか。
 「本当のことと、本当ではないことは、すぐに見分けがつくよ。だからなにも俺を傷つけることはない。諌子が俺を見離す以外には、なにもね」
 「嗣樹……」
 愛美はたまらないように嗣樹の名を呼んだ。
 彼女の心の奥底からわきあがる、やるせなくて重苦しい恋心の悲鳴であった。
 「何者にもなれるのに、何者にもなれない愛しいひと。――あなたの中は広すぎて、そしてとても狭い。諌子だけしか入れないのね」
 愛美はそっと手を離した。
 公爵がたいした感慨もなく、その光景を見ながらつぶやいた。
 「天界から間違っておとされた天使の魂か。近頃の天界は、魂の管理がずさんだからな、争いのさなかにまぎれて墮とされたのだろう」
 そして嘲笑を口の端にのせる。
 「天界も、なかなか陰湿な派閥争いで乱れているようだ。――まあそれも仕方がないことだろう。天の覇権をにぎってきた保守派の天使(ろうじん)どもは、長年の生ぬるい水に慣れすぎ、心身ともに腐ってしまった。このように天使を堕としても気づかず、そのまましているのがよい証拠だ。いかな魔界とて、おのが族の種を放置してなどおかぬ。――だがこの少女もまた惜しいことをしたものだ。そのままにしておけば、淫らで美しく、また残虐な魔女ができあがっていたというのにな」
 そう云われるのに、アルメリスは言葉が出なかった。今の彼には、公爵の皮肉はいたいほど伝わってしまう。
 「たしかに、このところの天界での不祥事は、目にあまるものがあった……」
 生真面目な彼は、漠然とした違和感と疑問をもちながらも、そんな考えを持つこと自体が大罪のような気がして、故意に意識から遠ざけていたのだ。
 いや、自分の疑心を押し隠すために、さらに天界の命令を遵守し、厳しさをさらに増してさえいた。
 「私のような下っ端の天使ですら、どこかおかしいのではなかという疑念をもつのだ。ならば、上級の天使達は、どのようにその異変を感じているか――」
 不意に浮かび上がった考えは、非常に恐ろしくもあり、だが考えずにはいられないほど深い問題でもある。
 愛美のまわりに白い天使の影が重なった。
 背後から抱きしめるように現れた幻は、あの愛美に倶縁果をあたえ、地上の穢れに耐えきれず、死んでしまったエリアのものであった。
 うっすらと浮かび上がったエリアは、アルメリスに笑いかけた。
 まるで彼は、愛美が天使であることを知っていて、アルメリスがそのことに気づいてくれるだろうことを見抜いていたかのような、そんな満足げな笑みを浮かべていた。
 「もしかしておまえは、迷っていた私の心の目を、開かせるために――?」
 エリアとアルメリスは、仕える役こそちがえ、一緒に生まれ育ち、友情をわかちあった仲間だった。
 残留思念となった幻影の親友は、愛美に愛しそうに頬をすりよせた。それから本当に消えていってしまった。
 あるべき場所にかえるため、レテのほとりへと旅立ち、いまこそ永遠のわかれを告げたのである。
 「それで、君はどうするんだい天使君。まだ嗣樹と争って女神を連れてゆくのかい」
 からかうようにいう公爵の言葉に、嗣樹の双眸がユラリと殺気をやどした。
 静かにアルメリスは首をふった。
 「――いいや。……今は、お連れすることはできないだろう。本当にそれが正しいことがあるのかどうか、私自身が迷っているのだからだ。天界は、お戻りいただくのに相応しいかどうかさえわからない。ましてこのように地上にいることを望まれている女神を、どうしてお連れすることができる。今はまだ(・・)、無理だ……」
 連れて行くことが、本来ならば絶対の正義なのだろう。だが、絶対の正義が、真実であると誰がそう言えるのだ。
 もはや、その答えは彼にはわからない。
 「それでも、いつかはきっと、お連れしなくてはならないだろう。どうあっても聖天女の力は天界には必要なものだし、聖天女がいるあいだは、次の聖天女は生まれてはこないのだからな」
 諌子がいるあいだは、他の聖天女は現れない。ならば聖天女はいつまでたっても諌子ひとりだということなのだ。
 「地上で生まれた聖天女は、いまだかつて居ない。それが、これからの世界になにを意味しているのかはわからない。でもまだ、きっとその時じゃないような気がする。地上の聖天女が、天界の声に目覚められないのが、その証拠だろう」
 アルメリスはそれ以上のことを口にしなかった。
 だが、漠然と思っていた。
 もしかしたら、嗣樹がいたからこそ、諌子は聖天女へと昇華していったのではないのだろか、と。
 ならばその嗣樹から諌子を離すのは正しいことなのか。引き離して本当に聖天女は存在できるのか。
 その答えは、闇の向こうに側に隠されていて微塵も見えない。
 「フン、ヒヨッコ天使も、多少はまともになったようだな。まったくあそこには、目の開かぬ愚か者が多すぎるからな」
 「――あなたは、いったい本当は誰なんです」
 公爵を不思議そうに見つめアルメリスはいった。
 これほど強い魔力を感じながらも、不自然なほど人間臭い感情を持っている。
 嗣樹の存在をみとめ、ある程度理解をしめし、また諌子の存在を知っていてさえ手に入れようともしない。
 きっとその二人の力を得たならば、魔界の覇権を我がものにすることも、そう難くはないであろう。また二人を手にする力を、公爵ならばもっているのではないかとすら思えてしまう。
 何を考えているのかわからない。
 悪魔が悪魔と呼ばれるのは、その邪悪さゆえであるはずなのに、今ここにいるのは、何と呼べばよいのか。
 公爵はまるでその感情を読み取ったように意地悪く笑った。
 「ほんとに悪いものなど、ないといったであろう。悪とは他人が決めるもので、その者にとっては、それこそが正義なのだからな」
 「……そのセリフっ!――たしか以前ミカエル様が私におっしゃったのと同じ言葉っ!」
 「ああ、そろそろこの空間も終りのようだな。崩れてきたぞ」
 公爵はそうつぶやくと、アルメリスの形成していた異次元空間から、一瞬にして消え去ってしまった。
 アルメリスの力も、そろそろ限界に近い。
 「愛美、そろそろ天界に帰ろう。おまえは本来天界にいるべきものだ、もはや地上では暮らせぬ。産まれたての天使の魂にとっては、地上の空気は劣悪すぎる」
 エリアの命さえ奪ってしまうほどに穢れに満ちているのだ。
 愛美は、嗣樹をこれで最後だというようにみあげた。
 「嗣樹――私、このまま天界に行くわ。そして、あなたを全力で守ってみせる。あなたと諌子が一緒にいられるように、天界で、あなたのために動く。絶対に二人が離れないように協力するわ」
 真摯なうまれたての魂は、愛する人を守ることを決意することによって、色濃く、美しく染めあげられていく。淡い燐光を帯びていた身体が、目にも鮮やかな虹色の輝きへとかわる。
 愛美からよせられる思いの念の強さに、嗣樹はわずかだけ驚いたように目を大きくした。
 「愛美……」
 「行くぞ、愛美」
 アルメリスは彼女の言葉を聞き流し、ほっそりした愛美の体を抱きとった。
 嗣樹をみつめる眼差しが、彼もまた変化していた。
 それはもう、決して怒り排除するべき悪に対するものではなく、まるで愛を知りうる者に対する、慈愛のような、またわずかに尊敬するような不思議な感情に色どられていた。
 空間が砕ける音がした。
 天使たちのすがたが消えた。
 嗣樹はまわりから天界のすべての気配が消え去っていくのを、諌子を抱きしめたまま、しずかに感じていた。
 嵐は現れたときと同じように、忽然と消えていったのである。



 嗣樹と諌子は、まるで何事もなかったかのように部屋にたたずんでいた。
 「諌子……」
 そっと呼んだ。
 すでに太陽は半分消えかけており、赤い空にオレンジ色の雲がながれていた。
 嗣樹はそっと諌子の足もとに落ちていた天使の羽根を手にとると、それをみつめた。
 しばらくそうしていたかと思うと、急に諌子の手をとり、庭へと出ていった。
 うっそうとしたサクラの巨木がたちならび、草が繁っているそこは、もうずっと以前から手入れをされておらず、なかば野性と化した植物たちであふれかえっていた。
 その中を二人はゆっくり歩いていった。
 かつては、わが世の春とばかりに繁栄し、権力を手にしていたであろう諌子の祖先の御霊たちは、どれほど子孫の零落ぶりを嘆いていることであろうか。栄耀栄華の名残は、庭の広さ以外には、もはやどこにもない。
 二人は木々の影にかくれると、そこに穴を掘り、天使の羽根を埋めた。
 土をかぶせながら、騒がしい彼らの残したすべての痕跡をけしてしまう。
 使い方さえ知れば、天使の羽根がどれほど素晴らしい呪具になるかしれない。
 だが嗣樹たちには必要がないものだ。
 二人でいる以外、なにもいらないのだから。
 諌子のそばにいる、それだけがたった一つのはかない望みなのである。
 「この庭の広さぶんだけ、埋められるね。色んな秘密を、ここが一杯になるまでは、すべて埋めてしまおう」
 恐ろしいものも、醜いものも、そして美しいものであっても必要がない。
 諌子だけしか、世界には必要ないのだ。



 二人をそっとみつめている女の視線があった。
 その横に、影のように男があらわれると、よりそい立ちならんだ。
 「で、どうだったかい、新しい聖天女の感想は」
 あらわれたのは公爵だった。
 彼はとぼけたように聞いていた。
 「まあまあってとこね。――でも、悪くはないわ。今度の聖天女、私としてはそう嫌じゃないわね」
 女がうそぶくように笑っていた。嫌味のない歯切れのいい物言いである。
 「いまだかつてなく魅力的だ、と云っていいのじゃないかね」
 「あら、あなたには隣りにいる少年のほうが魅力的なのじゃなくて。えらくご執心ですもの」
 からかうように言うのに、公爵は素直に頷く。
 「まったくだ。じつに魅力的な存在と『力』だ。今のままでも十分魔族としてやっていける――が、それよりも、この先どのように成長してゆくか、もっと興味があるな。あの聖天女ともども、非常に楽しみなことだ」
 「そうね。あの頭のかたい天使君でさえ、ちょっとは目が醒めたみたいですものね」
 そのように謀ったのだと暗に何かが告げている。
 「きみがあのエリアという天使に、わざと倶縁果をわたしたのであろう、女神殿」
 「――そうよ。あの可愛い天使が、地上を見ては、深く胸を痛めているのはずっと知っていたわ。アルメリスのことを心配しているのもわかっていたしね。でもまあ、恋する賢い男がどうするかは、カケだったけど、彼はうまくやった。褒めていい」
 「おいおい、すべてはカケだったのかい?」
 「今の天界には、私としては大いに疑問がある。たしかにミカエルみたいに急激に天界を変えてゆくのもどうかと思うけれど、ここで少しばかり新風をいれて、一新する必要は、確かにあると思うわね」
 体制は、長く続けば必ずどこかにゆがみを生じてしまう。
 風がどう吹くかはわからないけれど、ためしてみる価値はある。
 「それで、きみはお固いガチガチのエリート組へ、一石を投じ、変化がどうあらわれるかを見ていた、という訳か。――大事な倶縁果までもを使ってね。ほかの女神や、天使どもに疑いをかけられるのではないのか、鬼子母神殿」
 彼女の管理する、大切な木の実なのだ。だれだって少し考えれば鬼子母神の関与を感じずにはいられないであろう。
 「そんなことたいしたことではないわ。天使が勝手に倶縁果をもって逃げただけよ」
 きっぱりと言い切ってから、ニヤリと口の端をつりあげた
 「私はただ、私たち十二女神をおさめる聖天女が、どんな人物かみたかっただけ。――まあでも、意外なものも発見したけどね」
 嗣樹をみつめる瞳に浮かんだ色は、なんであるのか。
 「あの存在が意味するものが知りたいわ。神はどうしてあの子を作ったのかしら――あなたが興味をもつのもわかるね。魔界一の変わり者であり、地獄の大公、恐怖公アスタロト殿」
 二人は見交わし、意味ありげにほくそえんだ。
 嗣樹の双眸が、不意にキラリと二人へとむけられた。
 突き刺すような鋭さだったが、そこにはもう二人の姿はいない。
 ひっそりとした小さな森のなかで、いま本当に諌子と嗣樹だけになった。
 そして、やっと本当に二人のあいだに静かな休息が訪れたのだった。
 

                                                  おわり




BACK TOP


Copyright(c) 2007 all rights reserved. inserted by FC2 system