天使の呼ぶ声

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2


 ――またあの嫌な視線。
 先日の橋のたもとまできたときだった。
 「まったく……」
 嗣樹は小さく舌打ちした。
 誰かに関わられるのが面倒でたまらないのに、いつも厄介ごとは向こうからやってくる。
 憂鬱げに視線をあげると、あの少年たちが、橋の向こう側に立っているのが見えた。
 ホムンクルスの入った箱をうばい、リーダーの古河たちによってひどく痛めつけられた少年たちだ。
 あれからずっと腹いせのリンチをうけたために、顔が変形して青黒くそまり、目の上や顎などあちこちが切れて腫れている。
 彼らの目には、嗣樹のような少年など、どこにでもいる見るからにひ弱で、ふぬけたお坊ちゃま学校のモヤシ男にしかうつらない。なのになぜ古河があれほど怒り、恐れているかわからなかったのだ。
 もとはといえば自分たちが荷物を盗んだからなのであるが、そんなことなど露ほども思い出しもしない。あまつさえ罪を棚にあげて、こんなになるまで殴られるのは、まったく理不尽であり、耐えられないことだとさえ思っている。
 腸がにえくりかえり、やり場のない怒りをどうしても押さえ切れず、とうとう嗣樹のもとへと復讐にあらわれたのである。
 「たかが箱一個かっぱらったぐらいで、なんでオレらボコボコにされなきゃいけねぇんだよ」
 低く凄みのある声だった。
 「俺らはな、おまえなんか恐ろしかねぇんだよ。古河のやつがただの弱虫な臆病者なだけなんだ」
 「ブッ殺してやるぜ!」
 狂気にとりつかれた表情は、悪魔でさえ目をそむけたくなるような醜悪さがある。
 日頃は反論することさえできないほど古河に怯えているのに、いまはきっと怒りをぶつけることに恐怖すら抱いていない。何かのタガが外れてしまっているのだ。
 それでも組織の人数的な恐ろしさよりは、嗣樹一人のほうが、復讐しやすいと踏んでいるのだろう。まだ多少の知恵は残っていたに違いない。
 みるからに優男のほうが一般的には、絶対的にやりやすいだろう。たとえ、間違っているにせよ。
 威嚇し煙草のヤニで黄色くなった犬歯を獰猛にみせた。
 殺気をこめて睨みつける表情はひどく剣呑で、冗談ではなくかなり危険な雰囲気を漂わせていた。ひと一人くらい殺しそうである
 嗣樹は彼らの頭上に広がっている黒い影に目をやると、やれやれとばかりに肩をすくめてみせるだけだった。
 「ヘッ!ビビって声も出ねぇのかこの意気地なし!」
 「ママ助けてって泣いてみろよ、そしたら命だけは助けてやるかもしれないぜ」
 ギラギラと殺気だちながら間合いをつめてくるのにあわせ、黒いモヤは、彼らの背後でどんどんふくらんでいった。あきらかに魔物の形をつくりはじめている。しかもソレらは情けないほど下っ端の雑魚どもである。
 嗣樹はまったく相手などする気もなく、乾いた声で言った。
 「自分たちの問題は自分たちで解決してくれないかな。俺はそれほど暇じゃないんだ」
 「な、なにィ?!」
 顔がおぞましいほど歪んだ。
 「――だって君らが仲間とうまくいかないのも、両親と折り合いが悪いのも、金がないのだって、みんな俺のせいじゃない。自分達の問題だろ?」
 何もかもを見透かしたような嗣樹の口調に、三人は同時にカッと赤くなった。膿んだ傷口に毒針をさされたような激痛がはしり、怒りが激増する。
 嫌な風がザッと嗣樹たちのあいだに吹きぬけた。
 生暖かく、なにかしらのよからぬ意図を含んだ思惟的な風だった。
 風のなかに混じった気配に気をとられた嗣樹は、不意に飛び出してきた一人の体当りをかわしきれず、よろめいてしまった。
 毒の拳に突かれたような衝撃がはしったかと思うと、手に握っていた小さな桐の箱を乱暴に奪われた。
 「ヘヘーンだ!」
 少年たちは猛烈ダッシュでかけだしていた。
 「待てっ、それはだめだ!おまえたちには危険すぎるっ!」
 言い終わるまもなく、少年たちは視界から消えてしまった。
 どうやらはじめから嗣樹とやりあう気はなかったらしく、箱だけ奪うと一目散に逃げ去ってしまった。
 いつも何かの使いのバイトをしていることを知った少年たちは、嗣樹から荷物を奪いとり、困らせるつもりだったのだ。店主や客に叱られれば、自分たちの惨めで卑屈なプライドが少しでも慰められる。――そんなちっぽけな腐ったようなプライドなど捨てておけばよかったのにと、後悔するともわからずに。
 「まったく……知らないからなどうなっても」
 それでもさすがに今回の品物は尋常ではないのだろう。あの嗣樹が、足早に彼らの跡を追いだしていた。
 黒い影が残している悪想の影は、くっきり痕跡をとどめている。まるで嗣樹をいざなっているかのようである。
 嗣樹はハッとしてふりかえった。
 身体中をのぞきこむような視線の不快さは、まだいくらもぬぐわれていなかったのである。
 たまらぬ煩わしを感じながら、嗣樹は先を急いだのだった。



 「ケッ、あんなヤツちっとも怖くねぇじゃんか。あんなにトロくってさ、何度も何度もこんな簡単に荷物を盗まれてやがって、バカみたいだぜ」
 手にした箱をかかげ、鼻息を荒くしていた。
 「あいつが一体どうだっていうんだよな。こんなことなら二、三発、思いっきり殴っときゃよかった」
 嗣樹をていよくやりこめたことに気をよくし、ゲラゲラ笑いあっている。
 箱を奪うと、そのまま少年たちは街はずれにあった、『売り家』と看板が立てられている空き屋にもぐりこんでいた。
 たまり場として使うには立地的にもよく、建物も存外に簡単に侵入できるので、これほど好都合なところはないのだが、誰もそこをねぐらにしようとする者はいなかった。
 どこかうす気味悪くて、時々幽霊が出ただの、人魂をみただのという噂が絶えないのである。犬や猫が入っていって、そのまま出てこなかったという話もよく聞かされている。
 少年たちも、いつもであれば遊び場には絶対に選ばないはずの場所だったのだが、あまりに興奮しすぎたせいか、思考が正常に働いていないらしく、わけのわからぬ昂揚感に気を大きくして、怖いものなどなにもないとばかりにそこへと飛び込んだのだ。
 じんわりと湿り、すえたような異臭の混じる独特な空気があった。
 時々カエルでも引き裂いて遊んだかのような生臭さが鼻をつき、思考がにぶってくる。だが今の少年たちはまったく気づいていない。
 「なんだよな、古河のやつ。あんなウラナリお坊ちゃまを怖がったりしてさぁ、本当はバカじゃないのか」
 「しょせんリーダーも進学校のエリート様なんだよ。頭ばっかり使ってるからおかしくなっちゃってるのさ。俺たちはさ、そりゃクズだけど、腕力だけはやつなんかよりずっとあるぜ。やっぱ男はこれだよな」
 力拳をみせながら笑い、嗣樹が大事そうに抱えていた箱へと、興味深々とばかりに手を伸ばした。
 あの嗣樹がもっていた箱である。中はどんなものであろうか。
 戦利品をみつめていたが、好奇心がだんだん強くなってゆき、我慢できないようにひとりが箱をこじあけた。
 箱は案外あっさりひらいた。
 次の瞬間、爆発したような衝撃音がした。
 分厚い壁のような風圧に突き飛ばされ、三人がころがった。ガサリと、ソコから何かが這い出してくるような乾いた音がきこえてくる。
 「――ワアッ!」
 ひとりの少年が金切り声を上げた。
 喉に食らいついていたのは、赤くごつごつとした毛むくじゃらの手であった。
 腕から先をすっぽりと切り落とした生々しい手は、まるで殺戮を犯すことこそが己の使命であるといわんばかりに、そのままぐいぐいと首を締めあげてゆく。
 「グエッ!」
 骨の折れるにぶい音がして、耳障りな奇声が発せられた。
 どす黒くなった顔のまま、少年が動かなくなった。
 呼吸をとめた相手に興味を失ったのか、岩石のような『手』はその死体からはなれると、ズルズルと這い、次なる獲物をさがしだはじめている。
 「ヒッ!」
 金茶色をしたドレッドヘアーの少年が切れるような息を漏らし、後ろにさがった。もうひとりの少年とぶつかり、とびあがって驚く。
 背中にねっとりとした生ぬるい感触がした。
 怖々としてふりかえったそこには、さらに恐ろしい光景があり、彼は野獣のような悲鳴をあげた。
 後ろにぶつかった少年の首は真横に折られ、眼球が飛び出していたのである。
 体が奇妙な形におりまげられ背骨が突き出していた。赤い血だまりが床一面にひろがっている。
 「ヒッ、ヒッ、ヒィィィッ――!」
 腰を抜かして悲鳴をあげて這い逃げようとした。血ですべり前にすすめない。
 少年の足首を、赤黒い手がつかんだ。
 おぞましい力でおさえつけられると、ソレはのろのろと這い上がってきた。
 少年の弱々しさを残すほそい首に、太く大きな指が巻きついた。ザラリとした感触がつよまってゆく。
 声もだせず、失禁して涙をこぼしている少年の目の前で、白くかたちのよい手がそのグッと手を押さえつけた。
 「だからよせって言ったのに。まったく厄介なことを。―――これはね、茨城童子の手なんだ。羅生門で渡辺綱に腕をきりとられた鬼だよ。恨み憎しみで怒り狂っている――といってももう聞こえてないか」
 嗣樹はやれやれと溜息をついた。少年はあまりの恐怖に気を失ってしまっているのだ。
 仕方がないなというように鬼の手首をつかみあげると、木箱に入れた。
 まいったなぁと言わんばかりにもう一度息をついてから、ふと嗣樹はまわりを見渡した。
 すうっと形のよい眉根がよせられた。
 「ここは……?」
 「待っていたのよ」
 少女の声がした。
 闇からうかびあがるように人影が目の前にあらわれていた。
 白く浮き立つような少女の姿に、今までどうして見えなかったのだろうかというほどの白骨の群れが、忽然とあらわれ少女の周囲をとりまいている。
 無数の骨たちに彩られ、薄暗がりのなかで、彼女ひとりだけが異様に浮きたってみえた。まるで夢の世界にまぎれこんだような幻惑的な美しさは、蝋燭のほのぐらい灯りに照らされた幻のようである。
 「君は――?」
 精気の一切を失ったような少女の瞳が嗣樹とあった。なぜか寂寞とした哀しさをそこに感じる。
 けれどそれと同等の怪異なるものがはっきりと混在していた。そばにいるだけで背中の産毛がたつ面妖な力を全身にまとっている。この世の存在であらざる異物感が強く発せられているのだ。
 少女が笑った。
 今まで見えていた世界が一変した。そこはもはや猥雑な魔の空間となっていた。
 いつの間にか嗣樹は閉じ込められてしまった。すべては嗣樹をおびき寄せる罠だったのだと、そのときはっきりとわかった。
 骨の海に、行き場をうしなった魂の破片がただよい、普通の人間ならばこの場に足を踏みいれただけで、魂を抜き取られ、地獄につきおとされるような虚無がひろがっていた。
 その虚無に吸い寄せられるように、悪霊悪鬼、魑魅魍魎、なんともいえぬ腐臭と憎悪の怨念たちが集まり、群れをなしたまま陽炎のようにゆらめいている。次なる被害者が足を踏み入れるのを待っているのである。
 死霊が巣食う磁場に、ある程度の禍々しいもが発生するものだが、今のこの場は、通常の霊気の閾値をはるかに越え、異常なエネルギーが波打っていた。魔界の冷気さえ発生している。
 そんな汚濁の空間のなかにありながら、少女は不似合いなほど澄んでいた。どこかもろくはかなくて、無数の魂たちを食らった鬼女だとは思われぬ風情である。
 またその反面、そんな女が持つにはとうてい不可能なほどの妖気をも発していた。そのアンバランスな気配は、まるで少女を飲み込まんばかりに蠢いているのだ。
 「待っていたのよ、あなたが来てくれるのを」
 少女は本当にずっと嗣樹を待っていたかのように、愛しそうにいった。
 「そうよ。みんなで、あなたが来てくれるのを心待ちにしていたのよ」
 嗣樹は少女の熱っぽい視線を軽くうけながし、何にも心を動かされることがないかのように淡々と周囲の状況をみていた。
 あの不快な視線の正体は、本当にこの少女のものか。
 「――君が、こいつらを操っていたのかい?」
 自分にまったく無関心な嗣樹の様子に、少女は気落ちしたように、死んだ少年たちへと視線を落とした。
 「この子たちは、自分が発していた憎しみと怒りの念によって、勝手にこの場に吸い寄せられてきたのよ。……私はただあなたに来て欲しいと願っただけ」
 「でも君ほどの妖力があれば、そう望むだけで、願いをかなえようと妖魅たちが動くのは必然のことだろ。間接的であっても、君が魔物を操っていることには変わりないんじゃないかな」
 少女もまた自分の言葉がしょせんいい訳なのだと解っているらしく、どこか哀しげに目蓋をおとした。その姿には妖魔の穢れや邪悪さがないばかりか、天界のきらめきさえ見え隠れしている。
 「あなたなら私たちを救ってくれると思ったんですもの。――いいえ、あなたにしか私たちを救えないわ。……お願い嗣樹、どうか助けて」
 嗣樹はその言葉に、またか、と言いたげに重く息をついてみせた。
 「無理だよ。俺はなにもできないもの。なんの力ももっていなければ、そんな義理もないしね」
 「いいえ、力はあるはずよ。私はあなたをずっと見ていたんですもの。そのたぐい稀なる力も、秘められた巨大な能力も、十分にわかっている。あなたなら何とかすることができるって会った瞬間にわかった。だってほら、コレがこんなにも強くあなたを呼んでいるんですもの」
 少女は言いながら、ためらいもなくブラウスの前をはだけてみせた。
 白い首もとからつづくなだらかで艶めかしい膨らみをおびた乳房――。
 だがなんと、乳房だとおもったそこには、見たこともない不思議な輝きをはなつ珠が煌々とまたたいているではないか。
 朱色と、濃い緑色のまじりあったそれは、一目みただけで、この世のものではないとわかる、宝玉である。
 心を奪うような色合いと滑らかな光沢は、人間の肌には毒々しい。それが心臓の真上にまでもりあがり、まるで産まれた時からそうであったかのように、少女の身体の一部となって、鼓動を刻んでいる。
 女の白く柔らかな乳房はどこにもなかった。
 美しいといえば美しい宝玉ではあるが、少女のほっそりした肢体にあっては、なんとも禍々しい。
 彼女から感じられていた妖気の正体は、そこから放たれていた。
 「この宝珠があなたを呼んでいる。あなたなら何とかしてくれる、あなたなら、私たちを救ってくれるって、ずっとそう叫んでいたのよ」
 宝珠は少女の胸でさらに光を増し、まるで生き物であるかのように嗣樹を歓迎している。
 どこか高貴でありながら同時にこの上なく呪わしくもある。
 周囲をとりまいていた妖魅たちがざわめき、光にチリチリと灼かれている。
 妖魅たちは、あきらかにソレに惹きつけられてやって来ていた。この場に巣食い、新たな犠牲者をおびき寄せて仲間にひきずりこんでは、成長している。
 白骨化した肢体のなかには小動物から人間まで、さまざまに入り混じりあっており、混沌としていながらも一つの複合した生物の死骸のようでもある。
 すがりつく無数の手が、少女の足元にのびていた。
 おぞましい光景だ。
 嗣樹はわずかに目を細めた。
 それらは、生前に残してきた未練や苦しみ、哀しみからも、死してなおまだ脱却できずにいた。永劫の闇の中から、たった一つの淡い光にむかって腕を精一杯のばしているのだ。
 その姿は、まさに地獄の業火から助けを求めて手を伸ばす亡者そのものである。
 「お願いよ、たすけて……」
 少女の細い悲鳴のような声が耳をかすめた。
 だが、嗣樹は無情にも横に首をふった。何もかもを否定し、それ以上の苦しみを見まいとするかのように目をとじてしまう。
 「なぜなのっ!」
 少女は非難の声をあげた。
 はじめて面差しを厳しくし眼尻をつりあげた。すがるような哀れで気弱だった瞳がこれほどきつく強められると、まさに鬼女である。
 たった一つのすがるべき望みが、あまりにもあっけなく断わられ、怒りと驚きが蒼い火花となって散っていた。
 「できないんだよ。俺には何もしてあげられない。そんな力なんて、どこにもないんだ」
 嗣樹の声はどこか苦しんでいるかのように聞こえた。まるで少女を見ることを怖がっているように目をそらしている。
 少女は何を馬鹿なことを、と般若のような怒りをおさえ、冷たい眼差しをむけた。
 「あなたのどこに力がないというの?あなたくらい特殊な『人間』、他にいるの?――さっきだって茨木童子の手を、あんなにあっさりと封印したじゃない。この場にいる穢れや、禍々しい妖魅や怨霊たちですら、あなたには近づこうとしないわ。いいえ、怯えているわ」
 嗣樹のまわりだけ、はっきりとまるで薄い被膜を張ったかのように周囲の邪気から保たれていた。
 そばに近づくのを恐れいるのか、フルフルと揺れて、ある一定以上には決して近づかない。手出しをしたら何が起こるかわからないといわんばかりに、妖魅たちのほうがひっそりと様子をうかがっている。
 「私のこの胸の宝珠ですら、あなたの力をこんなにも欲している。ほら、魔力が足りないって――苦しいって、助けてって――こんなに求めている」
 かなり痛んでいるらしく、少女は短くうめきながら乳房を愛撫する。朱色が一層つよまって血のように生々しく光っている。
 「あなたならどんなものにでもなれるはずだわ。この世の何にも囚われていない――天地の法則にも、過去からの因縁にも、大宇宙の黄金率にさえ束縛されていない。あなたみたいな不自然な『人間』なんていない――どこにもいやしなわ」
 嗣樹はそれがつらいのだといわんばかりに唇をかんだ。まさに糾弾されている罪人のような沈痛な面持ちである。
 「……本当に、俺はなにも出来ないんだよ。俺自身のためには、どんな力も使えはしないんだ」
 「うそっ!なら、あなたはなぜその力をもっているの?!」
 「それは俺のほうが聞きたい!」
 怒鳴り、なにかを言いかけたが、嗣樹はやめた。
 そうなのだ――。
 なぜ自分なのだ。なぜ、これほどまでに呪われた力を持っていなければいけないのだ。
 頼んだわけではない。欲しいなどと一度だって思いはしない。今だってこんな力など要りはしないし、消せるものなら即座に全て消してしまいたい。
 厳しく問いただされた嗣樹は、少女の顔をクッとみあげた。
 少女は驚きに目を大きくし、今度は、彼女のほうが目をそらた。
 嗣樹の眼差しに浮かび上がっている色に、何か言ってはいけないことをいったのだと気づいたのでる。
 ホギャー、ホギャー、ホギャー。
 静かな空間に、赤子の乱暴な泣き声がいきなり乱入してきた。
 突如として聞こえてきたそれは、火を吹くような激しい衝撃となり、まるで硫酸を耳のなかに流し込まれたような痛みをおぼえて、嗣樹は思わず耳をふさいでしまう。
 息をつめたまま、ドロリとした影の向こうがわに目をやった。
 「何なんだ、この声……?」
 重くて粘ついたイヤな泣き声だった。
 絡みつき二度と地上へは戻さない執念のような、まるで黄泉の悪霊のごとき業の深さがよどんでいた。この上ない非道な因縁をメラメラと燃えあがらせ襲いかかってくるようだ。
 嗣樹の膝ががっくりと折れ、床にたおれこんだ。
 手でどうにか身体をささえたが、その視線の先に、赤子がひとりで宙に浮いていた。
 青いおくるみに包まれたまま真っ赤になって泣いている。ただならぬ妖気をまとっている。
「なんだこいつは?」
 けがれない赤子とは無縁の生き物だった。
 本質自体が、邪悪さで出来あがっているかのような忌々しい存在である。
 嗣樹の目のまえで、少女は赤子をそっとだきとった。愛しそうに頬をよせ、キスをした。
 気を失っていた少年に手を伸ばした。
 少年たちはみるみるうちに白骨化してしまい、最後には藻屑のようにガラガラとくずれていった。骨だけの骸になってしまったのだ。
 「これでも、足りないのよ」
 少女の胸となっている宝珠へと赤子は口を寄せていた。一滴の白いしずくをなめとった。
 だがあとは何もでてこない。
 いくら吸っても噛んでも、乳汁はそれっきりであり、まったく足りないのとばかりに赤子は激しく泣きたてだした。
 少女は困ったようにあやしながら、自らも泣きそうに表情をくずしていた。乳を必至でしぼりだそうとしごいては、痛みに耐えかねてうめくばかりである。
 ひどく痛んでいるはずなのに、その手は泣く赤子に急かされるように動きをとめることはなかった。赤い血の筋がみにくく浮かびあがっているばかりである。
 「お乳がでないのよ。もうずっと……」
 赤子を抱きしめながら、涙も出つくし、もはや出るものがなにもないような赤い瞳を嗣樹にむけた。
 若い母親が、飢えたわが子に、乳がでぬことを苦しみ嘆いていた。
 だが消せない違和感は、きっと彼女の相貌があまりに若すぎるせいだろう。母であるにはすべての線が細すぎ、張りつめんばかりであった。年齢からいけば、まだ高校生か、いや、もっと幼い、中学生くらいであろうか。
 「昔はね、ちゃんと出ていたのよ。でもそのうちだんだん出が悪くなっていって、しまいには一滴もでなくなったわ。だから仕方なく――子猫のエネルギーをもらって栄養にしたの。それでも足りなくなっていって、つぎに子犬、大型の成犬になり、とうとう……人間のエネルギーを得なければ出なくなってしまった。――それでも益々出が悪くなって、一人、二人と増えて……」
 まるで嗣樹が憎いとでもうようにキッと睨んだ。
 「でもっ!でももういくら食べても乳がでないのよっ!この子がこんなにお腹をすかして泣いているのに、私はなにもできない、乳がでてこない……」
 どうする術もなく、途方にくれ疲れはてたように座り込んでしまった。
 我が子の苦しみが日に日に増してゆくのを、ただじっと見ていなければならない。そのことに耐えきれず、苦しんでいる母の瞳から、涙がハラハラとこぼれおちている。
 宝珠はそれに合わせて明滅をくりかえしていった。明度が強まっているようにみえる。
 まばゆい輝きは、少女の白い体に亀裂を入れるように走り、透けてみえていた。服の上からもはっきりわかるほど宿生の力が強くなっている。
 なんということか、宝玉は少女にすでに根をおろしているではないか。彼女の全身にびっしりと根をはりめぐらし、食い込んで一体化してしまっている。
 「こんな状態でよく宝珠に乗っ取られずにいるものだな。――なぜ崩壊してしまわない?」
 さすがの嗣樹も驚かずにはいられなかった。
 これほどの魔力をもった宝珠に寄生されながらも、肉体の崩壊もおこさず、意識さえ乗っ取られずに自我らを保っているのだ。この少女の精神力は並のものではないといえよう。
 「母性本能のなせるわざということか?」
 それにしては若すぎたし、赤子の相貌やそこに潜んでいるいわくありげな気配からは、本当の親子というにはあまりに不自然すぎる。
 「それは、おまえの本当の子か?」
 嗣樹は慎重にきいた。
 女はビクッ身を一瞬ひきつらせた。
 蒼白な面持ちをあげると、鬼女の様相で睨みつけた。
 「私の子よっ!この子は私の赤ちゃんだわ!」
 そう言った口調からは、あきらかにその子が本当のこどもではないのだということが伝わってきていた。取り上げられることに怯えている。ひどく執着しているのだ。
 「魅入られたか……」
 気質が違いすぎる。いうなれば、水が炎を抱いているようなもの。だからこそ負担も大きく、少女を必要以上に苦しめているに違いない。
 だが、本当の親子でないからといって、その二人のあいだにあるものが、血のつながりのある母子以上の絆がないのだとは、誰にもいえない。
 現にそこにいる夜叉は、我が子のためにすでに狂っており、これほどたくさんの人々を食らってわが子を養っているではないか。
 赤子は少女にひしとだきつき、まるでそこが自分の居場所だと主張しているかのように見えた。
 嗣樹の視線に不吉ななにかを感じたのか、絶対に母親から引き離されまいとしているかのように邪悪な思念を嗣樹におくっている。
 「この子はだれにも渡さないわ。私の子よ。――私の大切な赤ちゃん」
 少女の狂気がパチパチ音をたてて燃えあがる。
 「この子がこんなに飢えているのに、私はお乳を与えてやることが出来ない。お乳がほしい――お乳さえ出てくれればこの子を養えるのに――どうしても出てこない。……だってほら、みんながこんなに私を求めてくるんだもの……」
 少女にまとわりつく無数の手。
 地下から湧き上がるように干からびた手が、自分にも与えて欲しいと泣きながら、彼女を離すまいとがんじがらめにしている。彼女のなかにある、母の慈愛にみちた光を、ただひたすらに求めすがりついている。
 黒く呪われた手が少女に這いのぼっていた。乳に埋まった宝珠を獲ろうとあがいているのだ。
 影のひとつが宝珠にふれたと思ったその刹那、稲妻のように光りをあげた。
 まるで穢れが触れたことを怒るかのような強い瞬きだ。
 光によって黒い影は吹き飛ばされ、半分は消え、半分は部屋の隅に怯えて固まった。
 「なんでこんなものが、ここに……」
 嗣樹は眼をうたがった。
 足もとの白骨が崩れて塵になってゆくのにあわせ、その下に現れ出てきたものは――白い羽をもった少年の姿だった。
 少女のあしもとに倒れているのはまごうことなく天使の死骸である。
 腐りも穢れもせず、まるで凍りついたようにそのままの姿で、死してなお最後の封印となって少女を守っているのだ。
 「なんで天使がこんな所にいる?」
 嗣樹はさすがに驚きを隠せなかった。
 天上界の輩は、本当にめったたなことでは地上になど降りて来ないというのに。
 人間など、勝手にどうとでもなれといわんばかりに、冷たくいつもそっぽをむいている。地上の寄生虫とでも思っているにちがいない。
 嗣樹はいまさらながらに、少女の胸の宝珠をみつめた。
 思い出したように叫んだ。
 「倶縁果(ぐえんか)――!その胸の果実は、倶縁果だ」
 嗣樹は足元の天使から感じられる強い柑橘系の匂いに目眩を感じ足元がゆれた。
 瘴気にかくされて今までわからなかったのだが、不快な気配の一つはこの感覚であった。
 「倶縁果?――なんのこと?」
 少女は訝しむように言った。
 「この宝玉はね、この天使様が私にくれたのよ。私の坊やのために、よい乳が出るようにって。私を憐れんでくださったのはこの天使様だけだった。でも……でも、このひとも結局私にこれをくれて、すぐに亡くなってしまった。――可哀相にね、あんまり綺麗だから、きっと私の穢れに耐えられなかったのね」
 少女はぼんやりと、どこか感情を失ってしまったように天使をみていた。
 「なにもかもから見放された私のたった一人の味方だったのに。こんな穢れてきたない私にさえ同情してくれた優しい天使様。可哀相だって泣いてくれて、これを私にって……」
 まるで何か大事なことを思い出すのを拒絶しているかのような、平坦な口調だった。
 つらすぎて、思い出してしまったら、きっと心が粉々に砕けてもとに戻らないのではないかというように、どこか怯えている。
 「それは天界の宝樹になる『倶縁果』という果実だ。気力や体力が大きくなり、霊能力が高まるため、神々の食す果物だといわれている。けれど一方でひどい毒をもち、魔物たちをおびき寄せる妖果でもあるんだ。女神のひとりがそれを守っているというが――よくその天使は聖なる果実を盗んで来られたな。ましてそんなものに寄生されて、君がどうして生きていられるのかわからないよ」
 何が少女におきているのか。嗣樹でさえ理解不能である。
 「お乳がでないのよ」
 そんなことなど関係がないとばかりに、少女は感慨なく言った。
 「食べても食べても出ないの。私はお乳が欲しいの」
 悲しげに繰り返す彼女には、もはやそれがどんなものであってもかまいはしない。乳がでて、赤子が満足すればよいのである。
 魔物の赤子を抱き、天界の宝珠を胸に寄生させた人間の少女には、この世の理などもはや関係がない。
 「あなたなら救ってくれるってこの宝珠が言ってるわ。あなたを呼んだのはこの乳房だもの」
 あらゆる感情を混合した光が嗣樹を照らす。
 嗣樹はただ哀しげに首をふるばかりであった。
 「だめなんだよ、本当に。俺には何もできない。例えこの身がどんなに力をもっていたとしても、使えないんだ」
 「どうしてよっ!」
 少女は我慢しきれないかのように叫んだ。吹き付ける抑えのきかない強い思考の影が嗣樹をおそった。
 目の前にあらわれたのは悪魔のように黒く毛むくじゃらの手。真っ黒な部屋のなかで起こった惨劇の数々――。
 あがる悲鳴のせつなさに胸が裂けそうだった。
 痛みと恐怖と、信じられないほど残酷な現実は、まだ幼かった少女の心にどれほどの恐怖と絶望を与えたことだろう。
 途切れる意識の向こうに見えたのは巨大でみにくい鬼。切り裂く刃は少女の肉体を荒々しく凌辱し、傷つけてゆくだけ。
 『助けてお父さん……助けて、お義母さん……』
 涙にかすれた声が、嗣樹の視界をふさぎ荒んでいった。
 見てみぬふりをして逃げだす父親と、少女の苦しみを嘲笑い罵り汚物のようにあつかう義母。
 『お父さんのためなのよ。それは私たちの幸せのためでもあるんじゃないの。愛美、あなた一人が我慢すればいいことなの。そうしたらみんなの幸せになるの。そうでしょう、我慢できるわね』
 『いや、いや、いや。いやよ怖い。嫌なの』
 逃げ出したくても逃げ出せない絶対の檻のなかで、にがくて苦しい絶望の思念は、純粋な少女の心を打ち砕き踏みにじる。
 哀しい思いが嗣樹の意識に覆い被さろうと、ねっとりと心の襞にしのびこみ、絶望の嵐へと飲みこもうとする。凶々しい魔の手をのばし、心を蹂躙しようとする。
 「やめろ!」
 嗣樹は叫んだ。
 「こんなものを見せても、俺はおまえを助けてやれないんだ。俺は、誰かのためには力を使えない。諌子のため――たった一人のためにしか使うことはできないんだ。自分ではどうしようもないんだ!」
 ――諌子……ああ、彼女のため以外にはどうあっても使えない。俺は彼女のためだけ、それだけの存在でしかないのだから。
 「期待しないでくれ。この力を望むな。どうにもしてやれない……」
 だからもう残酷な過去を見せないでくれと、嗣樹は小声でつぶやいた。
 「嗣樹、どうして……?」
 腕の赤子が火がついたように泣きだした。部屋中に沸き立ち、耳鳴りがする。
 真っ赤になって激しく泣きわめく赤子に、少女はおろおろと立ちすくみ、自分も同じように泣きそうになっていた。
 だがそのうちに少女の表情は険しくひきつり本物の鬼へと変化していった。
 赤く切れ上がったまなじりと、裂けたように広がった口の端からは、人間のものではない尖った犬歯がギラリとひかっていた。妖気がユラリユラリとひらめき、我が子のために魔道へ落ちた狂女の本性がめくれあがる。
 「私はこの子ためならなんでもできる。たとえあなたをねじ伏せ、痛めなぶってでも、いうことをきかせてやる!」
 胸の宝珠が少女――愛美の狂おしいほどの思いに触発されてか鋭い光を放った。
 あたり一面の魑魅魍魎どもが溶け、散り散りとなり消えていった。
 もはや彼女にはなんの言葉も通じない。なぜなら宝珠の魔力に冒されすぎてしまったからである。
 「力が大きすぎたな。おまえの能力ではもはや御せなくなってきている」
 嗣樹は哀なよういつぶやいた。
 「なぜ俺に求める。おまえだけじゃない、だれにだって、何もしてやれない。俺は、俺だけでは成りたたない、不完全な生き物でしかないんだ」
 宝珠から放たれる光を避けて、嗣樹は跳躍した。
 耳障りな赤子の泣き声に、身体がやけに重く感じてふらついてはいたが、いまならまだ、逃げられる。まだ大丈夫だ。
 退路をさぐろうとしてふりむいた時、撒き散らされていた天使の羽根が舞いあがった。
 死したはずの天使の翼が、まるで生きて意志をもっているかのように嗣樹をつかまえようとしていた。
 「――天使がどうして彼女に味方をする?!」
 一瞬視界が純白に覆われた。
 『嗣樹ちゃん』
 笑い声が聞こえた。
 『嗣樹ちゃん、どうしたのぼんやりして。もう、嗣樹ちゃんたら』
 「いさ、こ?」
 諌子が目の前で笑っていた。
 屈託のない、昔とまったく変わらない優しく染みるような笑みだ。
 諌子は嗣樹に手をのばし、嗣樹はその手を握ろうかと迷うにように、だしかけた手をとめる。大きな眼をひらいている嗣樹に、諌子は不思議そうに首を傾け、じっとみつめる。
 手をギュッと諌子に握られた。優しいまなざしだった。
 何もかもを受け入れ、そして浄化してしまうような黒くつややかな瞳。強くて、だれよりも深い愛情を感じさせる。
 彼女は優しすぎるがゆえに、なんでも受け入れてしまい、その思いに傷つけられた。それでも赦し、愛してしまう。
 だからこそ嗣樹は諌子に救われたのだが、諌子は父親の苦しみまでも受け入れてしまい、背中からほんとうに天使の羽を生やしたまま、帰ってこなくなった。
 彼女の心をうつしたような微笑みに、嗣樹は気が遠くなった。真紅の唇が花びらのように愛らしく笑いかけ嗣樹の名前を呼ぶ。
 『嗣樹ちゃん――』
 彼女に名を呼ばれるだけで、体がしびれるような幸福を感じる。どれほどやさしい夢が見られるだろうか。
 『どうしたの嗣樹ちゃん、ぼんやりして』
 「諌子……」
 『さあ、ほらはやく学校に行きましょう』
 いつのまにか諌子は嗣樹と同じ高校の制服を着ていた。今時の女子高生の装いにしては、諌子の姿はあまりにもシンプルで色気のないものだったけれど、彼女にはとてもよく似合っていた。諌子が着るだけで、どんなに着飾った女よりも美しくなり、だれより輝いていみえる。
 『ねえ、数学の宿題やった?今日わたし当たる番なのよね。まいったな、学校で答えあわせしてくれない嗣樹ちゃん』
 「諌子……」
 『それにわたし、グラマーの大内って苦手なのよね。宿題してきてない日に限ってあてるんだもの。きっとわかってるんだわ、こっちがおどおどしてるからかな?』
 諌子は頬をふくらませたりおどけたりしてみせながら、嗣樹のとなりをゆっくり歩いている。
 「諌子」
 嗣樹は切なさにたまらず諌子を呼んだ。
 諌子は嗣樹をのぞき込み、微笑む。
 普通に歩き、普通に笑い話をする。
 こんなあたりまえで、普通に営まれる日常をどんなに望んでいたことだろう。
 諌子がとなりにいて、笑っている。
 『おはよう久住君』
 『おはよう嗣樹君、諌子ちゃん』 
 同級生が二人に声をかけて先に走って行った。だれも嗣樹を気味悪そうにさけることもなく、腫れ物のように無視することもない。
 「おはよう」
 嗣樹は泣きたいのをこらえていった。
 『嗣樹ちゃん……』
 諌子が笑いながら、ふいに嗣樹のくびに腕を伸ばしてきた。甘い薫りがして、諌子の長い髪が頬にやわらかく触る。
 あたたかい。それだけで嗣樹は涙がこぼれそうになる。諌子のほっそりした肩にそっと手をおく。
 『大好き嗣樹ちゃん』
 吐息が諌子からもれ、唇に柔らかな感触がかさなった。そっと盗みとるように嗣樹の息を吸いあげてきた。
 「そこまでだ」
 嗣樹は冷たく言うと、つきはなした。
 嗣樹の混沌とした無限のひろがりをもつ瞳は、今までに見たこともない冷徹で剣呑な光を帯びていた。鋭く凍てつき、真冬の荒野にすむ狼のように孤高で厳しい。
 「――なぜ?」
 愛美がおどろいたようにつぶやくと、嗣樹からはなれた。
 その人間がもっとも欲しているはずの夢を見せているはずだったというのに。
 誰もが彼女の甘い夢から逃れられない。得られないとわかっていても、望まずにはいられないほどの切ない思いを叶えるからだ。
 彼女から放たれていた倶縁果の香りが、嗣樹の強まったオーラによって薄められていった。
 「幸せすぎる夢は、いつでもひとかけらの痛みをもっているものだ。それが幸せであればあるほど痛みは鋭いはずだ」
 そして、それは決して犯してはいけない領域でもある。
 例え夢であろうとも、誰にだって踏み込んではいけない部分がある。
 それは嗣樹にとっての諌子であり、人々が送るあたり前の日常だった。幸せな夢ほど、目覚めた時に、残酷でありこれ以上ないほどに心を傷つける。
 嗣樹の見えない傷は二度と癒えることはない。永遠の傷口がふたたびえぐられ、新たな傷となってひらき鮮血がながれ出している。
 放たれていた殺気は、なぜか驚くほどふっつりと一瞬にして消えてしまった。もはや嗣樹からはなんの感情も読みとれない。以前の茫洋とした彼と同じである。
 「何ものであっても俺を傷つけることはできないよ。諌子以外、俺をどうすることもできないんだから……」
 すべては諌子のものであり、彼女のためだけに存在している。
 「クッ!」
 愛美は唇を噛んだ。
 彼女のなかにわきあがった一握りの悔恨の念は、宝珠の熱によってあっというまに蒸発してしまった。
 建物が地面から揺れはじめた。
 愛美の激しい感情のゆらぎに磁場が共鳴してひどくざわめいている。
 彼女の思念と、倶縁果のエネルギー、そしてそれらを増幅するような天使の羽によって、みたこともないほど複雑なエネルギーが沸き起こりはじめていた。
 天界にだけでなく、地界の底にまで響きわたるような強い衝撃が生じはじめ、周囲に渦が巻きあがりはじめてゆく。
 嗣樹は愛美の様子に、目を細めた。
 「それ以上感情を爆発させるな愛美、倶縁果に飲みこまれるぞ」
 赤子の泣き声が甲高くあがり、嗣樹の声をかき消した。
 空気が熱をもちだした。
 あたりに散らばっていた汚物も腐肉も、黒い魂たちでさえも、ジュウジュウと音をたてて蒸発しはじめていた。天井の梁がしなり、生き物のように建物がうねっている。
 「どういうことなのだ、この呪わしい気の暴走は!?」
 いきなり頭上から声がした。
 振り仰いだ嗣樹の目に、耐えきれないほど光々しい金色の光線がふりそそいできた。
 穢れひとつ知らないかのような純白の羽が視界を大きくおおい、存在そのものの美しさを主張するように燦然と立ちはだかっている。
 太陽が自ら発光するかのような高貴な存在。
 ――天使であった。
 真っ白い肌に金褐色の髪をもつ、みるからに雄々しくて凛とした天使は、盛り上がった筋肉と精悍な顔つきをしていた。まさに戦うために生まれてきたようである。
 「この呪わしい邪気、禍々しい妄執の念――貴様たちは何をしているのだ!」
 天使は手にもった槍をかまえ見下ろしていた。空中から急降下してきたのだ。
「魔界の輩か。このようなところに集まり、魔界の扉でも新たに開くつもりか?!」
 瞳にうつる正義の瞬きは、暗闇に棲む者の痛みなどまったく知らない精錬な輝きみちていた。いや、わかろうともしない白き世界の者のもつ特有の傲慢さであろうか。
 おぞましい魔物を退散させようと怒りに燃えたった天使は、ふと目の前にいた少女の胸の宝玉に目をとめた。まさかと驚愕の声をあげる。
 「その胸の輝き、まさに倶縁果ではないかっ!!」
 愛美は強力な敵があらわれたことを悟り、ジリジリと後ろに下がっていた。
 負けまいと全身の気を逆立て、できるだけ強く睨みかえしながら赤子を抱きしめている。
 天使のいきなりの来襲に錯乱しかけているようだが、それでもどうするべきかを必死で思索しているようでもある。
 「このあたりの空気がやけにざわめいていると思えば、よもやこのような穢れた場所に倶縁果を持ち込んでいたとはっ!」
 荒々しい口調に空気がほそく鳴った。
 「天上界の宝樹の実を魔物におめおめと奪われたばかりか、このような穢れた人間に着床させられるとは、天界はじまって以来の汚点だ。餓鬼と妖女によって辱められていたなど、どのようにミカエル様に報告すればよいというのだ」
 吐き捨てる天使からは、人間の描いている優しげで美しい天使の姿はほど遠かった。天上界のプライドを傷つけられた怒りはまさにすさまじいものである。
 高貴で気高い神の御使い、という幻想などあっさりと打ち破る覇気だった。人間などのような下等な生き物になど、愛情ひとつもたぬ、恐ろしくて生々しい生命体である。
 「我ら権天使までもが、奪われた宝珠をさがすのに狩り出されたのだ。このように淀んだ穢れの地に遣わされるなど、我慢ならぬ、気分が悪くなる」
 一歩おおきく愛美のほうへと踏みこんできた。天使の波動に、少女はたえきれないような小さな悲鳴をあげた。
 天使の清められすぎた光は、時には狂気のように相手を傷つける。彼女のような存在にはより一層の苦痛を与えていることだろう。
 「天界の者以外――いや天使であっても、上級者か、女神以外の者が扱えば具縁果は悪魔の実となるのだ。おまえのように、邪悪さにのっとられ狂気へと暴走させられてしまうのだ。――愚かな小娘よ、きさまどのような経緯でその具縁果を手にいれた」
 愛美の胸から強引に倶縁果をひきちぎろうと手をのばした。
 清浄な気が、愛美へと熱風となってふきつけ、肌が赤く焼けてひきつれだしている。
 「ひとりの天使と倶縁果と共に消えた。天界ではそのことで右往左往の大騒ぎをしていた。この私までがかりだされるほどの稀にみる不祥事だとしてな。そして、地上へ降りてみれば、おまえなどに――」
 忌々しいとばかりに舌をうち、人間のすること全般に対して、まるで嫌気を覚えるかのように睨みつける。
 伸ばされた手がハッと止まった。
 彼の足首をなにかが握っていた。
 少女の足元にころがっていたそれだった。
 うずくまったまま、まるで一つのオブジェのように固まっていたはずの死骸――天使の骸がゴロリと転がり、彼の足を握っていたのだ。
 確かに息耐えていた。
 なのに、まるで死してなお哀れな少女を守ろうというかのように動いたというのだろうか。
 天使はやっとそれに気づいたように足首を握る同朋の骸をみおろした。
 その表情は、もはや驚きを抑えることも隠しもしていなかった。愕然としたまま、ゆっくり膝をつくと、死体を抱きかかえた。
 「……エ、エリヤ?」
 まさか、そんな、と口だけが動く。
 「エリヤおまえなのか――っ?!」
 天が鳴動するような叫びだった。
 しばらくの間、微動だにせずかたまっていたかと思うと、天使はおもむろに怒りに凍りついた顔をあげ、愛美を睨みつけた。
 「ヒッ!」
 愛美は身をすくめ、今にも失神せんばかりであった。
 天使のみせる憎しみはあまりにも残酷でおそろしかった。狂面のままギリギリと歯がみして、宿敵の悪魔にのぞむようである。
 「きさまがエリヤをたぶらかしたのか魔女!そのうえ、あまつさえ殺すとはなんたる無慈悲――!」
 「違うわっ!」
 愛美は甲高い声をあげた。
 「違う!! ――そのひとが勝手にこれを持って来てくれたのよ。これを食べれば、この子に乳を与えられるからといって、そのひとが私に差し出したんだわ!」
 自分の声によって我を取り戻したのか、愛美は天使の鋭い視線から胸の宝珠を腕でかこい、奪われまいとするかのように赤子ごと抱きしめた。
 「おまえはエリヤをおびき出し、倶縁果を奪い、殺したのだろう。慈悲深い彼をあざむき、騙し、貶めてから、天使の羽を食ったのだ!」
 もはやそれが事実だと強く決めつけている。
 「その腕にだいた悪魔の赤子のためにと同情をひき、おまえが純真なエリヤを殺したのだ」
 愛美は首をゆっくりふりながらも、理不尽ともいえる糾弾に、だんだん鬼女のきつい情念がわきあがりはじめていた。きびしい面持ちがもどってゆく。
 赤子が乳房にだきついたのに、痛みがはしり、はっきりと愛美の強い意志を喚起した。
 不意に目の前にあらわれ、魔女とののしる天使を憎々しげに威嚇し、牙をむいた。腕の赤子を守るという強い母性本能が目覚めたのだ。
 「天使は勝手に死んだんだわ。この倶縁果だって私が欲しいと望んだものじゃない。私はただこの子に乳を与えたいと願っただけよ。それの何が悪いというの!」
 倶縁果が愛美の言霊によって活性かされ、強い光をおびた。
 天使とにらみあった。
 「だまれ魔女!盗人猛々しいとはおまえのことだ。そのような虚言に騙されると思うてか。エリヤは倶縁果を守護する女神の護衛長だったんだぞ。彼ほど女神を崇拝し、意志高く任務にあたっていたものはいない。そのエリヤが女神を裏切るはずはなどない!」
 人間に惑わされずに、みずから罪をおかす天使などいないのだ。そう語気つよく言い切る。
 「君のいいぶんをきいていたら、天上界のものはすべて正しくて、絶対に間違いを犯さないみたいだね」
 それまで黙って立っていた嗣樹が口をはさんだ。
 「どんな者にだって、自分では完全に制御しかねる『心』という不可思議な存在を抱えているものだよ。君にはそれはないのかい」
 「なんだと?」
 嗣樹の存在など忘れていた天使は、ゾロリと厳しい視線をむけた。
 「それとも天界の者たちには、心はないのかな。慈悲がないのと同じように、罪を犯さないとでも?」
 明らかに嘲るような嗣樹の言葉に、天使の顔に怒りの朱がカッと差しこむ。
 「我らにこそ心はある。だからこそ、そのために悩み、怒り――人間などには想像さえできぬほどの孤高の苦しみがあるのだ。そうでなければ、このような小娘などとっくに抹消しておるわ!」
 感情が爆発するように怒鳴ると、嗣樹をじっと驚きをこめたまなこでみつめた。
 「きさま……一体何者なのだ?……その存在、そのエネルギー、尋常な者の持つものではない。この瘴気渦巻くこの地にあって、微塵の乱れさえおこしていないその特異さ――異質な者、人ではあらざるべき者よ、きさまこそ何者だ?! 魔女の仲間かっ!」
 「美しいもの清いもの、規定の枠におさまり切れぬ者は、すべて君たちにとっては魔物なんだね。……ああ、でもそうだろうね。でなければ地上でおきる悲劇の数々を、そうそう見逃せはしないだろう。その範疇でいえば、俺は穢れた醜い魔物だろうな」
 「知ったような口を聞くな若造!きさまらのように低俗な世界にいきる虫ケラが、何もかもわかったような口をきくでないわ。天上界には高尚で複雑な思惟があり、天意によって編まれた仕組みがるのだ。その背景にある深い慈悲も意味も何もわかりはしないくせに、したり顔をするな」
 「わからないね。そんなものなど何一つわからないし、関係がない」
 冷やかな眼差しでいう嗣樹に、天使はなぜか激しく苛立っていた。
 嗣樹の存在が何者であるのかを見抜こうとしているのだが、何一つ見えてこないことに神経が逆立っているようである。
 「何やつだ……。今まで倶縁果に気をとられて気づかなかったが、このような存在、みたことがない。悪魔よりももっと複雑で、禍々しくて、それでいて無限の無を包含する数多の光がおまえの中に混在して――」
 言いかけて、天使はクッと喉をつまらせた。
 まさかというように首をふり、あらためて嗣樹をにらみつけた。
 背中の優美な羽が、不意の危機を警告するようにざわめきだしていた。そこから起こる鋭利な風が嗣樹をかすめ、朱の線と腕に頬に走る。
 腕から流れた血がとろりとしたたり落ちた。
 地面がグラリと揺れた。
 具縁果による磁場の乱れに加え、嗣樹へ打ちつけた浄化の風がさらにその乱れを大きくしてしまい、小さな嵐をおこしかけていた。
 どうにかそこへ繋ぎ止められていた時空の糸が切れかけて、磁場の崩れがおこり始めてしまっていた。
 「キャァッ――!」
 赤子を抱きかかえ愛美が叫んだ。
 割れて空中を飛びまわる床材から、どうにか身をかばおうと縮め、ねじ曲がった柱にすがりついていた。必死で腕の中の温もりを守ろうとしている。
 三半規管が狂ったような気分の悪さを感じ、吐き気がノドまでこみあげてきた。
 空気がぬるく生々しさを帯たかと思うと、焼きつけるような強い魔の波動が怒りはじめる。
 「なにやつだ、我が領内で騒いでいるのは」
 空間がわずかにブレたかと思うと、にわかに闇がたちこめた。
 つぎの瞬間、視界が黒くおおわれたかと思うと、目の前に忽然と見目麗しい黒衣の青年が現れていた。
 その美しさは怖気がするような邪悪さで渦巻いている。
 目が焼きつくような妖気に彩られ、根源からもってうまれた闇の匂いは、甘く漆黒の妖花のように人の心を惹きつけてゆく。
 黒く長いベールの向こうにみえているのは、暗黒に流れる陰惨な風だった。そして歪んだ空間だけがどこまでも淫々とひろがっているかに見えた。
 「あ、悪魔っ!」
 天使――アルメリスは、よもやこんなところで悪魔に会うとは、と枯れた声で叫んでいた。
 男は気を悪くしたように美しい柳眉の眉をつり上げる。
 「失礼なヤツだな。ひとの敷地に勝手に踏み込んでおいて、顔をみるなり『悪魔』とは」
 アルメリスの無作法さを非難するように言うと、海底よりももっと暗くて深い瞳の色に妖気を強めた。その禍々しさに目眩いがして、アルメリスの体から力が抜けていくのがわかる。
 「悪いが、わたしは魔界とは無関係の者だ。今現在の身分は――そうだな、ただの風来坊だよ。あのわずらわしい権力争いや、跡目問題、上下関係などというバカらしいお遊びにはほとほと愛想がつきているのだよ。今こうしておとなしく人間界でのんびりしている身――隠居かな、魔族のね」
 意地悪く言いながらクスクスと笑っている。
 アルメリスは頭の中が引っ掻き回されているかのようにこめかみを押さえ、どう応えてよいのかわからないらしく、何度も息を飲んでいる。
 天使の向こうにいた嗣樹の姿をみつけると、彼の表情が途端にゆるみ輝いた。
 「おお、これは嗣樹ではないか。このような面妖なところで何を遊んでいるのだ」
 あまりにも嬉しそうに歩み寄ってくる公爵に、嗣樹はさすがに苦笑をもらし、だまって抱擁をうけた。
 「公爵様、奇遇なところでお会いしましたね。ちょっとばかり面倒なことに巻き込まれておりまして――でも、もう帰ります。すいません、お騒がせしてしまって」
 「おまえも相変わらず厄介ごとに巻き込まれる性質のようだな。――それにしても、近頃は天界の質もずいぶん落ちたようだ。非常に不躾で、まったく礼儀もわきまえておらぬ」
 公爵から放たれている並々ならぬ気配に気おされていたアルメリスは、どうにかやっと自分を取り戻したようだった。
 ただ者ではないと一目でわかる嗣樹と公爵のふたりを、あらん限りの殺気をこめてギリギリと睨み、どうすればいいのかと苛立っている。
 それを横目でみながら公爵は呆れ顔をした。
 「ふむ、たかが権天使ふぜいがこのわたしを睨みつけるとはよい度胸だ――と云いたいところだが、まったく能力のほうも低下しているようだ、嘆かわしい。ちとミカエルにでも苦言でも呈するか。まあ熾天使ぐらいにならねば、この私を見抜くことはできぬだろうがな」
 ノドの奥で笑う。
 「ミカエル様の名前を軽々しく口にするな悪魔! おまえのような地上界をうろついている魔物などが、呼びつけにできるお方ではないわ」
 「これでは天上界も荒れるはずだ」
 公爵は冷たく言った。たいして怒ってはいないようであったが、相手にするのもばからしいとばかり無視すると、嗣樹の肩をたたいた。
 「まだ目もひらかぬこんなヒヨッ子が権天使になれるのだ。天界もそろそろ本腰をいれた改革が必要だな。やはりミカエルめにはきびしく言うてやらねばならん」
 「なんだとっ?!」
 自分たちではめったに顔すら拝むことすらできない最上位の天使の名を軽々しく口にする。まるで知り合いのように。
 「それになにかと最近の天上界は騒がしいようだしな。おちおち昼寝もしておられぬぞ、まったく迷惑な話だ」
 意味ありげに鼻で笑われ、アルメリスは言葉につまる。天界でのここのところの騒動を見抜かれ、嘲けられているのである。
 「保守派と急進派に分かれてごたついているのであろう?今ごろになってようやく腰をあげるなど、遅すぎるわ。ぬるま湯につかり過ぎてボケすぎだ。――まあでも、悪いことでもないかな。なにがあってもそ知らぬ顔をしていたい長老(なまけもの)どもには、この乱れきった人界に介入し、どうにか再生させようと躍起になっている者たちの存在は、さぞ脅威であろうからな」
 「う、うるさい!きさまなどに天上界のことをとやかくいわれる筋合いはない!」
 「そうだな、知ったことではない。ただし昼寝の邪魔をされるいわれもないがね。――下級天使よ、わたしはおまえなどまだ夢にさえ現れていなかったころから、ミカエルたちとは顔見知りなのだよ。ガブリエルなぞケツの青いころより知っておる。それほど、天上界の腐りもまた、知っているということだ」
 「で、でまかせを言って、私を謀ろうとでもいうのか。悪魔がミカエル様と知り合いであるはずなどない。あの方は神に最も近くにあられる存在だ。光そのものなのだ。おまえらのような穢れた悪魔などとは格がちがう。地獄に墮とされし闇の住人などに天界は愚弄されぬ!」
 興奮し、我をわすれたように叫ぶアルメリスに、公爵は小馬鹿にしたように息をついた。わずかに憐れみさえ浮かべている。
 「愚かな」
 「な、なに?」
 「愚かだな。おまえの目は盲ている。天上界の者たちは皆、みずから目をふさぎ、耳をおおっているのだ。自分たちばかりが清く美しくあり、正しいと思っているのであろうが、よく覚えておくがいい下級天使よ。おまえたち天使が忌みきらっている、我ら悪魔だとて、もとは天使族であったのだということを。――天使がどれほど残酷になれるか、醜く邪悪になれるか、よくわかっているであろう?」
 ニヤリと笑った口元には鋭い牙がのぞいている。
 言わんとしている意味をアルメリスはすぐに理解したのだろうか、見透かすように笑われて冷たく青ざめている。
 「自分たちばかりが正しいと思う高慢さは、悪魔に近くはないのか?――そう、君はわたしにだってなれる、そういうことだ」
 嘲笑う公爵のまえに、あれほど威風堂々としてみえたアルメリスが、ほんの小さな子供のように心もとなく見えてくる。
 日頃、どんなに人間の顔を装っていようと、公爵が夜の世界の住人であることは隠しきれない。闇が濃すぎる。
 「たかが倶縁果ひとつで、そうまでいきりたつ意味がわからぬ。天上界にはいやというほど実がなっておるのだろう。ひとつぐらいそのあわれな娘にやってやればよいではないか」
 ちらりと愛美をみる。
 言葉だけをきいていれば、まるで悪魔のほうが天使よりずっと慈悲ぶかい存在のようではないか。
 「倶縁果は人間にとっては毒だ。いずれあの娘も倶縁果にとりこまれ、邪悪な魔と化し、死んでしまう。そのまえに食い止めねば、被害はあの娘だけでなく他にも被害を及ぼすことになる。取り返しのつかないことになってしまうのだ」
 「いやよっ!これはけっして渡さないわ。私のものよ、私と私の坊やを守ってくれる大切なお守りなのよ!」
 愛美が叫んだ。
 胸から発する光が、邪魔なものたちを退けてくれる。
 悪鬼も、怨霊も、そしてそれ以上に醜く呪わしい、自分を襲う人間たちの残酷さから、守ってくれる。手放せば、他の者たちと同じように魔物に同化させられてしまう。
 「なんとこの赤子は……?」
 公爵は、愛美たちを見つめているうちに何かに気づいたのか、面白そうに眼を浩々とさせた。
 嗣樹はそこまでは黙って聞いていたのが、おもむろにいった。
 「悪いけど、そろそろ失礼するよ。天上界のもめごとにも興味がないし、具縁果についてはその子と天使で勝手にやってほしいな。――公爵、どうもお騒がせしました。俺はこれで失礼します」
 「ああ嗣樹、また店で会おう。そうそう、この間のホムンクルス、順調に育っていて、わずかだが詩まで歌うようになったのだがね、うっかり目を話したすきに死屍鬼に殺されてしまったよ。またマスターに頼むといっておいてくれ。金はいくらかかってもよいからね」
 「承知いたしました」
 嗣樹は優雅に頭をさげると、チラリと、愛美とその腕にだかれた赤子の視線をやった。いやなものを感じながらも、そのまま時空へと身を躍らせ姿を消してゆく。
 「この空間を抜けるか、嗣樹。やはり並のものではないな」
 背後で公爵の楽しそうな声が聞こえた。
 だが嗣樹の心は、すでに別の場所に向かっていた。
 そのことを表しているかのように、空間はそのまま嗣樹を飲み込み、消えてしまったのだった。



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