天使の呼ぶ声

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 ホギャー、ホギャー、ホギャー。
 胸がザラつくような泣き声だった。
 じっとりと濡れていて、耳の粘膜をヒリつかせるような不快感にみちており、ときおり神経の糸を指で弾かれるような苛立ちを覚えさせられる。
 嗣樹(しき)は眉根をひそめた。
 わずかな、それこそ草の葉が風にそよぐほどの小さな声だったのに、まるで嗣樹にだけは存在をありありと主張しているかのように、はっきりと聞こえていた。
 長い指が、優美な線をなどるようにそれを弾いた。
 わずかな動作だったが、一瞬にして魔的な気配が青い火花をあげて消えてしまった。
 ――いやな予感がするな。
 嗣樹は小さくつぶやいた。
 こんなときの勘ほどよく当たるものなのだ。
 鮮血に塗れたような唇から憂鬱なためいきがもれると、周囲の空気までも透明に澄んでいくようである。
 気をとりなおした嗣樹は、重苦しい雑踏をぬけて、一件のみるからに錆びれた店の戸をくぐった。
 「やけに不機嫌な顔をしているね嗣樹、どうしたんだい」
 薄暗い店の奥から、ボウッと人影が浮かびあがってきた。
 奇妙なほど白く透明な顔は、底冷えがするような怜悧さをそなえていた。にっこりと愛想よく笑っているはずなのに、あまりに美しくて、作りものめいていて、氷柱を首筋に当てられたような恐怖感をおぼえてしまう。
 嗣樹はそこから伝わる異質なものにまるで気づかないように表情を柔らかくゆるめた。
 「こんにちは、マスター」
 まだどこか幼さをのこす少年の(かお)に花が散ったようなあでやかさが宿った。
 苛立っていたことを読みとられたことを嗣樹はまるで照れたようにさらに目を細めると、それにあわせてマスターと呼ばれた男もまた、白皙の美貌を笑みにくゆらせた。
 マスターは手にしていた銀細工のあわせ鏡を無造作に棚におくと、ゆっくりと歩み寄ってきた。
 店の中はひどくひんやりとしていた。
 まるで洞窟の中にいるかのような湿った風がときおり通りぬけてゆく。ふとどこか別の世界にでも紛れ込んだのではないかと錯覚しそうになる。
 古めかしい作りのたたずまいの店構えは、昭和初期の映画にでも出てきそうなほど(ひな)びており、柱も太くていかめしく、梁などはすすけて黒光りしている。いつから打ち直しをしていないのかわからない畳などはどんよりと茶色く変色している。
 物語に出てくる魔物の棲みかのような不気味さを漂わせながら、不思議ななつかしい雰囲気もまたかもしだしていた。
 店の奥からは甘美でぞっとするような薫りが流れてきており、店全体にそこはかとなく広がっている。そこに居続けていると、段々と思考がぼんやりしてしまい、正常な状態ではいられなくなってくるようだ。
 そうして、きっとそのうち主の言うがままに、何でもいうことをきいてしまうのだろう。
 「嗣樹、お茶でもどうだい?いい香草のお茶が手に入ったんだよ」
 嗣樹はマスターの言葉に、少し意味ありげに笑った。
 「マスターの『いい』というちょっと怖いからね。なかなか刺激的すぎてさ」
 「そうかな?」
 きっと言っている意味をわかっているのだろうのに、マスターは苦笑しながらもとぼけてみせている。
 嗣樹はわざとらしく息をつくと、多少本気をこめて恨みがましく言った。
 「先日のアレにはかなり手こずらされたよ。なにせ二、三日中、ずっと物の怪がまわりから離れないだから。――でも結局それって、俺から発していた、特殊な匂いをたどってやって来てたみたいなんだよね。やつらにおとなしく帰ってもらうの、本当に大変だったんだからね、マスター」
 「おやおや、それは失礼したね。――でもあのお茶、普通レベルの人間が飲んだくらいだと、ちょっとアチラの世界が見える程度の『ただ』の紅茶だったんだけどね。まあ、きみの力がちょっとばかり強すぎたんだろう。さすがに、君がアチラ側の『扉』まで閉めてしまうとは思わなかったけどねぇ……」
 魔的な笑い声をクスクスもらす。
 「どうだか」
 嗣樹は肩をすくめた。
 本当はその『扉』を閉じさせるために飲ませたくせに、とつぶやくのに、マスターは肯定も否定もせずに、ただ邪気のない顔をしてよどみなく手を動かせている。
 美しいアラベスク模様の入ったティーカップに、なみなみと琥珀色のそれをそそがれると、やはり嗣樹はためらいもせずに飲んでいた。
 もちろんマスターも同様に、ひどく美しい仕草でそれを口に運んでいる。
 果たして魔物と同じものを飲んだとき、人にとって毒となるのか、薬となるのだろうか。
 二人の横顔はどこか似ている気がした。
 明かりのささない店内には、不似合いなほど美しくて、そして淫猥で魔的なにおいを漂わせる品物が混沌とならべられていた。
 何に使用するのかさえわからないそれらは、鳥肌がたつほど不気味なのだが、心惹かれずにはいられない、かなりいわくありげな小物たちである。
 繊細な硝子細工のアンティークドール。螺鈿で細工をしてある物置棚のうえには、呪われた美術品のごとくに婉麗なオルゴール。陶器製のランプは赤黒い光を放っている。
 またみたこともない大粒のダイヤが埋めこまれトランプケースが無造作は置かれており、黒いカードが散らばっている。
 それらはみな無秩序そうにみえながらも、どこか意味ありげに品よく鎮座していた。自分にふさわしい主人が来るのをそこでじっと待っているのだ。
 モスグリーンの壁面に掛けられている絵画やリトグラフ、それに複雑な織りのタペストリーなどは、一目で手にした者を奈落の底につきおとす禍々しさを感じさせていた。呪いの歌は、世界の破滅すら呼び寄せるかのように、存在するだけで怖ましい狂気のうねりをあげている。
 常人にはとても立ち入れない魔物の住家のごときその場は、店主をみればなお一層、この世のものではないことが確信できるだろう。
 嗣樹はあっさりお茶を飲み干しながら、何ともなさそうにしていた。
 その様子をみていたマスターは満足そうに目を笑みに細めると、どこからとりだしたのか、ふいに布のかかったひと抱えはありそうな大きな鳥かごを差し出した。
 「嗣樹、今日はこれを『公爵』のもとへ届けてくれないかな。『公爵』はきみでないと、どうしてもイヤだとおっしゃるものだからね。来てくれるのを待っていたんだよ」
 まったく困ったものだというように肩をすくめてみせながら、なにかしら意味を含んだ笑みをうっすらとうかべる。
 銀色の鳥かごを嗣樹に渡すその表情は、人とも魔物ともつかず、砂漠の風のように一滴の水分すらふくんでいない。
 「公爵様のところだね。――気に入ってもらえるのは俺も嬉しいよ。なんといっても大事なお客さまだし」
 「あの方はうちの店一番のご贔屓様だよ。欲しい物のためには、金はいとわないという実によいお客様だ。――本当に、君がいてくれて助かっているよ、嗣樹」
 礼をいわれて嗣樹は苦笑する。あの公爵に気に入られて喜ぶものもいなければ、よい客だといって喜ぶものもそうはいないだろう。
 「バイト先が繁盛するのはありがたいよ。なんといっても、マスターみたいなもの好きじゃないと、俺なんかどこにも雇ってもらえないからね。――俺のほうこそ感謝している」
 嗣樹は艶麗に口の端をあげた。
 だが、嗣樹は本当にそう思っていた。
 たかだか品物の整理や、荷物の受け運びなどの簡単なことだけで、これほど破格な給料をくれるところなどまず他にはない。いや、嗣樹のような人間を受け入れてくれるところなど、どこにもないのだ。
 たとえその店が、他にはない特殊な物をあつかっていたとしても。
 嗣樹はどうしてもお金が必要だった。
 自分の能力でそれが購えるのであれば、どんな仕事でもするし、どこへでも行く。たとえ魔界であったとしても厭いはしない。
 マスターの視線をすりぬけ、嗣樹は名門進学校のおぼっちゃま制服を脱ぎすて、カバンの中からだした私服にさっさと着替えた。学校から直接ここに来たのだ。
 嗣樹はすぐに鳥かごをなれた手つきで、カウンターの脇に置いてある箱に入れた。箱はパッとわずかに発光すると、みるみるすぼんで小さくなってしまった。小脇に抱えられるぐらいの大きさである。
 「これで多少手荒くあつかっても大丈夫だな」
 「おいおい、一応『生き物』だからな。あまり乱暴にしないでほしいね」
 マスターが言うのに、嗣樹は冗談だと笑う。
 「じゃあ行ってくるよ」
 「ああ、公爵様によろしく言っておいてくれ。――くれぐれも気をつけて、嗣樹」
 嗣樹はうなずく。
 最後の言葉が箱をよけいずっしりと重くする。気をつけるのは、公爵の家でのことなのか、その道すがらのことなのか。
 嗣樹が出かけるのにあわせ、戸口の脇に置かれてある、腕のかたちをした青銅のオブジェが、いってらっしゃいと手をふった。
 嗣樹が外に出た途端、扉は自然に閉じられてしまった。
 店から一歩でた向こう側は、繁華な店並の大通りであった。いっきに現実が甦ってくる。
 人々の雑踏が嗣樹をおおい隠すのと比例するように、店は気配ごと消えてしまった。時空ごと閉じられたかのように、そこにありながら人の意識から消失してしまう。
 嗣樹は箱を抱えて歩きだした。
 まるでいきなりその場に現れたかのような嗣樹の存在を、だが、だれ一人として気にする者はいない。
 この街では、誰も他人のことなど気にするものなどいないのである。

        


 生ぬるい風が橋のたもとからわきあがるように吹き抜けていった。
 茶色にも見える色素の薄い髪がなびき、嗣樹の女のようなほっそりとした顔が、そのひとときだけやけに寂しく心もとなそうにみえていた。
 そうしてひっそりしている彼は、ずいぶん幼く感じられた。ともすればたなびく風にさえかき消されてしまう幻のようでもある。
 だが幻は美しければ美しいほど、禍々しい毒をはらんでいる。この世に属さないという罪はどこまでもつきまとってくるのと同じように。
 秀麗な目が不意にすがめられた。
 作り物じみた顔にわずかな表情がうかぶ。
 ――なんだ、この気配?
 端目からはまったくわからないが嗣樹は全身を緊張させていた。油断なく周囲へと感覚の触手をのばしていく。
 だがそれらしいモノはどこにも感じられなかった。
 なんともいえない非常にわずらわしい、険のある誰かの視線だけはいまだ感じているのに。物理的な人の気配がないのだ。
 ドンッと背後から何かがぶつかってきた。
 気をとられていた嗣樹は思わずよろめいた。
 さらに続けざまに一人、二人とぶつかられ、中学生ぐらいの子供がワッと奇声をあげて駆けぬけていった。
 腕にかかえていた箱がなくなっていた。
 野球帽を反対にかぶった、赤茶色の髪をした少年が箱を手にして目の前を走っている。
 途中でふりむくと、意地悪そうに頭上にかかげてみせ、ざまあみろといわんばかりに、歯茎をみせて笑った。まわりにいた二人の少年たちも耳に同じように奇声をあげて、戦利品を獲たことに喜んでいる。
 「ストリートギャングごっこか……」
 嗣樹は小さく息をついた。が、たいして慌てた様子もなく、逃げてゆく彼らの後をおってゆく。
 ここのところ少年たちが頻繁に起こしているひったくりなどの軽犯罪の類だった。三、四人の少年たちがグループになり窃盗や恐喝、ときには強盗までを起こしているのである。
 一時は、あまりに被害件数が多いので、困った社会問題として新聞などをにぎわしていたのだが、今ではそれほど珍しいことではなくなってきている。
 彼らはゲーム感覚で楽しんでいるのであろうが、まれに死にいたる殺傷事件や、若い女性への暴行、また悪質な強請りや殺人にまで及びはじめているところをみると、それらの行為もかなり凶悪化しつつあるのは間違いない。
 ストリートギャングと呼ばれる彼らの背後には、どうやら頭のきれる者がいる組織があるのだと囁かれていた。その人物は法律にも詳しいらしく、誰かが捕まったとしても、不思議なくらい口裏がそろえられおり、一番刑が軽くなるように、低年齢のものへと罪がかぶせられている。また同情を引くような口調で面接官に話をする者が多いという。
 そのリーダー格の人間がどんな人物なのかは、まだ誰にも知られてはいなかったが、一応の統制はとられている集団であった。
 だがそれも過去の話である。組織とは、大きくなれば必ずどこかが腐ってくる。崩壊も時間の問題であろう。
 「バカなやつらだな。奪った物がなんだかも知らないで。――命があまり惜しくないんだろうなぁ」
 嗣樹はやれやれといいながら、のんびりと橋を渡っていった。少年たちが消えた路地へと入っていく。
 「取っていい物と悪い物がわからないようじゃ、あまり長生きはできないよな」
 あれほど禍々しい気配にみちあふれた箱だったのに。
 人間はあまりに安穏として怠惰に生きすぎてしまった。みずからの生命の危険すら察知できなくなり、本能で生きぬくという大切な力を失ってしまった。
 もし野生の動物であれば、決してあの箱にも、また嗣樹にも近づかなかったはずである。
 まるで行く先がわかっているかのような足取りで、そっと嗣樹は古びたビル街へと入っていった。



 無秩序に発展と衰退をくりかえし、ねじ曲げられていった複雑な街並みは、どこか猥雑であり、奇妙なほどに入りくんでいた。
 酔っ払いが吐いた酒や汚物だとか、動物の屍骸が腐りかけていて、生臭くて気分のわるくなるような臭気を沸き立たせている。
 どんよりとした路地のむこうがわに、朽ちかけた三階建てのビルが廃墟となっていた。
 鍵はこわれており、中はジットリとしたかび臭い空気が不吉なにおいを漂わせていた。
 開けはなたれたままの扉のむこうへ大きなホールがみえており、さらにその奥のつづく部屋から、時折、人間を殴りつける鈍い独特の音が聞こえていた。
 しばらくすると、カエルがつぶれたような低い悲鳴があがりドサリと床に崩れおちる音がきこえた。
 かつては白く美しかった青灰色のタイル壁も、人造石の床も、ひどく汚れてカビがはえ、ビビ割れてたそこからは醜いコンクリートをのぞかせている。
 そのザラついた壁のくぼみへ頭をしこたまうちつけられた少年は、自分の血の溜まりのなかに顔をつっこんだまま動かなくなっていた。
 数人の少年たちがたまっていた。
 囲まれた人垣のむこうで、少年が三人、ヒイヒイといいながら痛みにうめいていた。どの顔もすでに青く腫れあがり、かたちをかえている。
 「す、すいませんリーダー」
 「古河さん、な、なんでこんなものぐらいでそんなに怒るんスか――」
 古河、とよばれた男の脇に立っていた背の高い男が、獰猛な野獣のように声をあげた。
 「だまれこのバカどもがっ!」
 恫喝された少年たちはいっきに縮こまった。
 嗣樹の箱を奪った少年たちであった。
 また殴られるのではないかと、とっさに頭をすくめた少年の、すぐ隣りの顔が蹴り飛ばされた。長い髪の毛をひっつめた男がつばを吐きかける。
 古河はただ煙草をすいながら、黙ってそれを見ていた。爬虫類のような冷たい切れ長の瞳にはなにが映っているのか、ひどく無感動である。
 古河の背丈は小さかった。体格のよい男達に囲まれているのだからよけいなのかもしれないが、どこにでもいるような普通の少年の風体である。スリートギャングとよばれる少年たちを牛耳り、操っていると噂されているわりには、優男すぎる印象だ。
 だがその瞳の奥にひそんでいる、青くゆらめく危険な彩は、一目で修羅場をくぐってきた人間のものだとわかった。彼の経歴を知る者なら、誰もおいそれとは近づきいたりはしないだろう。
 その古河の眉間に、不愉快そうな青筋が立てられていた。めったにない怒りの表情は、それだけでまわりの者たちの神経がピリピリさせている。いまの彼の命令なら、ひと一人くらい殺しかねない危険がゆらめいている。
 「――返して来い」
 古河が煙草の火を指でもみ消しながら言った。
 少年たちが一斉にビクリとした。
 古河は寡黙であり、めったに下っ端の少年たちになど声をかけたりしない。
 たかが小さな箱ひとつかっぱらったぐらいなのに、なにをそんなに怯えているのだろうか。これほど酷い目にあわされるなんて腑に落ちないと、箱を盗んだ少年の殴られて腫れあがった肉に埋もれた目が訴えている。
 「あの男には関わるな」
 低い声だった。かすかに青ざめてみえるのは目の錯覚か。いや、彼は箱には目さえ向けようとしていない。
 殴られた少年たちは、理不尽な仕打ちへの怒りが一杯で、そんなことすら気付いていなかった。納得がいかないという不平ばかりある。
 「ど、どうしてですか!あんなヒョロヒョロしたなまっちろいヤツ、オレたち目じゃないっスよ」
 「そ、そうっスよ。たかがこんなモノぐらいで――。だってあの臆病者、荷物をとられても追いかけてもこなかったんスよ。あのきれいな顔に二、三発お見舞いすりゃあ、ヒーヒー泣いて尻尾まいて逃げちまうのに」
 古河の表情がかなり不快そうにしかめられた。
 「――おまえらにはわからない……ヤツは、普通じゃないんだ」
 「えっ?」
 「いいか、今後一切、何があろうとヤツには関わるな」
 何を思い出したのか、薄く閉じられた危険な瞳に、ひどく怯えたような影がうかんでいた。鉄面皮と呼ばれた彼にすら恐れを抱かせる存在だったというのか。
 「いいな、わかったか!」
 クワッとむけられた夜叉のような面差しに、さすがの少年たちも怯えあがった。
 古河のその様子にはタダならぬものを感じ、もはや反抗の口さえひらかなかった。これだけこの男が警戒するとなると、やはりなにかがあるのだ。それだけはわかる。
 「あいつは普通じゃない……いや、人間でさえないのかもしれない。やつに関われば殺される。ヤツは魔性の妖――」
 不意に言葉を切った。それがあまりにも不自然だったので、言霊の残像が奇妙なまでに周囲の空気を冷たくさせた。
 古河のまわりにいた体格のいい少年たちはうつむき沈黙していた。幹部たちですら、みな怖がっているのだ。
 「だったら、その箱、返してもらってもいいんだね」
 音もなく、まるで不意に現れた影のように嗣樹が入り口からゆっくり入ってきた。
 場全体が息をのみ、凍るような緊張が走る。
 嗣樹は悠然と古河の目の前にまでくると、箱をかかえあげた。そのまま何事もなかったかのように踵をかえしてゆく。
 嗣樹はふと思いついたように振り返り、古河に目をむけた。
 手下のてまえ、古河はどうにか目こそそらせはしなかったが、顔色は白くかたまっていた。
 だが嗣樹はなにも言わなかった。魔的でありながらもどことなく寂しげな表情をしてみえるのは、なぜなのか。
 彼らの視線を背にうけながらその場を立ち去ろうとした。
 ――またあの視線だ。
 嗣樹は周囲に目をやった。
 背後にいる男たちの色を失い怯えた表情以外はなにもうかんではいない。
 ――彼らではないのか……。
 ため息をつくと、またそのままゆっくりと歩きだした。
 何もかもを断ち切るような、魔的な光が、嗣樹の背後で一陣ひらいめいていた。

       


 何が他の人とちがっているのだろう。
 嗣樹はぼんやりと考えていた。
 明瞭なまでの特異性を背負いながらも、どうしても自分だけが、自分の中にあるソレに慣れてしまわない。孤独を拭い切れずに、いつまでたっても同じ場所にいるのだ。
 ――……諌子(いさこ)に会いたいな。
 嗣樹は自分の世界に存在する、たったひとりの少女のことを思い起こしていた。
 遠い瞳をしたまま、けっして嗣樹を見てくれることのない美しい女性(ひと)。嗣樹を嗣樹たらしめてくれる唯一の者。
 ――君がいるから俺はここにいられる。君だけが、俺を人という存在でいさせてくれる。
 甘くけだるいため息は、天に昇ってゆくかのようである。
 ――寂しい……。
 体の芯から冷えてくるようだった。
 たったひとりでいると無限の寂しさを感じてしまう。諌子がそばにいないだけで、恐ろしいまでの不完全さが襲い、胸にポッカリと穴があいているようでとても怖くなってくる。
 嗣樹をあれほど恐れていた少年たちが、嗣樹のこんな胸のうちを知ったなら、天地がひっくりかえるほど驚くだろう。まるで小さな少年のようにはかなげである。
 『嗣樹ちゃん』
 そう一言、諌子がそう呼んでくれるだけでいいのに。
 幼いころと同じ花のような笑みをうかべ、ほっそりした腕で柔らかくだきしめてほしい。大丈夫だと言ってほしい。
 小さいころから皆に厭われ、不吉で特異な存在として扱われてきた。
 自分では、どうしてそのように嫌われるかもわからなかったし、何をどうすれば嫌われないのかもよくわからなかった。
 実の親でさえ気味悪がり、最後にはとうとうはそばにも寄せつけなくなってしまった。
 弟の多紀が死んでからは、より一層、そんな態度が顕著にあらわされ、時にはあからさまに『人殺し!』、とまで罵られるようにさえなった。化物よりも醜く、おぞましい生き物としての烙印を、彼らが嗣樹に押してしまったのだ。
 けれど、どんな子供だろうとたったひとりでは生きてゆかれはしない。
 誰にも必要とされず、まして実の親に憎まれ、抱きしめ温もりを与えられなければ、いとも簡単に死んでしまう。
 彼らは、本当はそれを願ったのかもしれないが。
 嗣樹だって、他の子供となんら変わりがなかった。誰かの温もりと愛情を糧に、生活し、成長し、心を育んでゆく生き物として生まれてきた。
 けれど、それらは消えてなくなり、嗣樹はとうとう最後の命の糸さえ切れかけてしまった。親からの無残な願いを聞き届けて、本当に死への階段を一歩一歩のぼっていった。
 心の死は、肉体の死へと結びつく。
   心にある生命エネルギーが完全に枯渇してしまったとき、一枚の紙のように薄い人生を、終えてしまう。
 そんな哀れな幼い少年に、温もりを与えてくれたのが、諌子だった。いや、諌子だけだった。
 嗣樹はそれをただひとつの頼みとして、今まで生きてきた。いまだって、これからだって、それはかわらない。それのみで、ようやくここまで命をつないできたのだから。
 けれど、その最後の大切な存在である諌子もまた、心を粉々に砕かれ、肉体と魂だけになってしまった。
 あの美しい水晶のごとき瞳に、嗣樹の姿をうつしはしても、心も魂もうつさなくなってしまった。嗣樹の存在までも流してしまった。
 この世の醜いしがらみを消してしまうことで、穢れを一切はねのけて、この世から遠い場所へと去ってしまったのだ。
 柔らかな純白の心は、実の父親の無残な暴力によって微塵にくだかれた。星の数ほどあるジグソーパズルのごとく、一片のカケラすら嗣樹にはあわせることができなかった。それは今もかわらず、だから諌子の心は戻ってきてはいない。
 「なにを見ているのだ、嗣樹?おまえの美しい魔界湖のごとく澄んだ瞳が悲しくけぶっているぞ」
 嗣樹の瞳をのぞきこまれ、今にもくちづけせんばかりに顔をよせていた公爵に気づくと、嗣樹はハッと我をとりもどした。
 彼のもとに届物をしていることを思い出すと、距離をたもとうと滑るようにそっと身を引く。
 「公爵様、これは失礼しました。かねてよりご所望だった品、ようやくお届けできました」
 何事もなかったかのように、機械仕掛けの人形めいた愛想のよい笑みをうかべた。こんな時に考え事など、命にかかわる。
 嗣樹は手にしていた荷物をうやうやしく前にさしだした。
 「ひとつがいのホムンクルスでございます。次の満月までには、恋歌を歌うようになるとのことですので、どうぞご検分くださいませ」
 嗣樹は箱から丁寧にかごをとりだした。
 かごはあっというまに元通りの大きさになり、掛けられていた黒い布をスルリとはずされる。
 中には握りこぶし大の小さな男女の子供が手をつないで立っていた。まさに生きており、本当の子供のように動いているではないか。
 「ほほう、なるほど――これは美しい。おまえの店のホムンクルスはやはり極上品だ。他には真似のできない精密さがある。まったくすばらしいな、まさに生きている。これほどまでに美しい人造人間がよくつくれるものだ」
 いたく満足したように目を細めると、顔をちかづけ、鳥かごの中の小人をみつめる。
 「魔女メディナ様が直々に造ってくださったそうですよ。マスターが何度も足をはこんでいたようですからね。公爵様はことのほか品質には厳しいお方ですから、それなりのものができるようにと心を砕いたのでございます」
 「あの男のことは信頼しているよ。取り扱う商品については安心して任せておける。おまえのような、不思議で魅力的な人間をそばに置いているだけでも、素晴らしいといえるだろう?」
 奇妙なほど艶めいた視線をおくり、嗣樹の手をにぎった。冷たい蝋人形のようなかたちのよい手が何度も嗣樹をなでる。
 「これが売り物であったならと、どれほど思ったことだろう。どのような大枚をはたいてでも買うとのにね。惜しいことだ。――おっと、君に不用意に手をだしたら、モレクのように腕をもがれてオブジェにさてしまう。それはさすがの私とて御免だからね」
 優しくなでていた手を名残惜しそうに離した。
 嗣樹はまさかと笑った。
 「公爵様にそのようなことができる者などこの世におりませんよ。モレク魔伯爵様は、多少おふざけ過ぎただけです。ああ、そうだ公爵様、このホムンクルスにはくれぐれも食事をお与えになりませんように。時満ちたときには泣き声をあげますので――そうした後に、月の雫をひと匙お与え下さい。それからならば、いかようなる世界の秘密も語りましょう」
 「わかっているよ。このあいだのヤツは、ついつい手間をかけ過ぎて殺してしまったのでね。だってほら、あまりにも美しすぎるではないか。ついついかまいたくなってしまうのだよ」
 ペロリと舌なめずっている。凍てついた魔性の残虐さをキラリとのぞかせたが、すぐに貴族そのもののような優雅な笑みにすりかえる。
 黒く長い髪をかき払い、夜の煌きのような黒雲母の瞳を嗣樹にそそいだ。邪悪で恐ろしいものほど美しいというが、多分それは本当のことだろう。
 「まったく面白いね、この世界は。私でさえまだ見ぬ未知なるものがたくさんある。ホムンクルスなどよりも、君をガラスケースに閉じ込めてしまいたいくらいだよ、嗣樹。――いつでもおいで、この世に嫌気をさしたときにはね。私だけは君のことを受け入れてあげるよ。わが世界へと歓迎する」
 嗣樹はそっと頭を下げた。
 「ありがとうございます公爵様。もし、その時がもしきたならば、ご好意、お受けさせていただきます」
 だが、諌子がいる限りは、それは絶対にありえない。
 天地がひっくりかえり、この世が地獄の業火の焔にやきつくされようとも、諌子がいるかぎりそばにいる。いや、彼女のそばにいたい。
 嗣樹は公爵に見送られ、三つの頭をもつ魔獣、番犬ケルベロスの獰猛な唸りをききながら、巨大で迷路のような屋敷をあとにした。
 


 屋敷の外はどんより曇っていた。
 見上げた空は、わずかな雲間の切れ端から、目が痛くなるような青さがひろがっていた。
 まるで地上の汚れを雲によって覆い隠し、完全で永遠の美しさだけを保持している天界が何かの拍子にこぼれ見えたような色合いをしていた。
 一瞬、空をキラリと光をはねた。
 まばゆい純白の翼が、大きくはばたき空を横切っていのが見えている。
 翼をせわしく羽ばたかせているのは天使の一群ではないか。
 何をそんなに慌てているのだろうか、どの顔もやけに険しいそうである。
 その中のひとりが、不意に嗣樹に目をむけた。
 はっきりと目があった。嗣樹に怪訝そうに眉をひそめると、なぜこんなところに自分たちの存在をはっきりと見て取れる者いるのだといいたげに、きびしい表情をした。
 だが、それどころではないと思い直したようであり、睨みながらもそのまま雲のむこうに消えていってしまった。
 「天使が騒いでいるなんてめずらしいな。何かあったのかな」
 いつもお高くとまり、下界の事には一切感知しないとばかりに、そしらぬ顔をしている輩である。
 この地上に、矢が降ろうと血が降ろうと、めったなことでは関心も向けなければ、降りてこようともしない。ある種の冷酷で無情な存在だといえる。彼らのあの慌てぶりは尋常ではない。
 だが嗣樹もまた、天使の騒ぎなどには関心がないとばかりに、すぐに興味をうしなった。
 「届けてきました、マスター」
 店に帰った嗣樹が声をかけた。
 品物を物色していた客とおぼしき一組の男女がふりかえり、嗣樹をみとめた。
 瞬間に、嬉しそうに顔をほころばせた。
 「お疲れさまだったね嗣樹。今日はもう使いはないから、裏でちょっとゆっくりしててくれるかな」
 客を案内していたマスターはにっこりと笑みをむけるとそう言った。
 「わかりました」
 嗣樹はすれちがいざま客に愛想よく会釈をすると、店の奥に入っていく。背後で老婦人の声が聞こえた。
 「ほんとうに綺麗な子ですわねぇマスター。今日は嗣樹ちゃんに会えないかと思ってすごく残念にしていたところですのよ」
 「あの子がいないとこの店も魅力が半減だねぇ、マスター」
 隣りの紳士も愛想よくうなずく。
 「恐れ入ります。じつは私もそう思っているところですよ。ですがくれぐれも――」
 「ああ、わかっているよ、わかっているさ。手は出さない。この店に出入禁止をくらうのも痛いことだが、血の贖いをさせられるのはもっと痛そうだからねぇ」
 訳知り顔の図太い笑い声に、甲高い婦人の笑い声がかさなってゆく。
 「当店でも、稀にみる貴重な存在ですのでご容赦ください。――それでは奥方様、三日ほどのちには、真相を語らせる『白骨のフルート』をお届けいたします」
 「ええ、お願いしますわ」
 「弟ご夫妻様が、この笛を使われる前に、お父上様の亡くなられた真相を語ってくださることを、心よりお祈りしておりますよ」
 「私もそう願っているんだがね」
 老紳士が重く溜息をつきながら言った。
 ふたりは嗣樹をもう一度だけふりかえってみつめると、笑みをのこして去っていった。
 「『白骨のフルート』――いかようなる真実も語らせるという魔笛。だが魔力によって口を開かされたが最後、気が狂い、地獄に落とされてしまう」
 「そのとおりだよ」
 嗣樹の完璧な答えに、マスターが満足そうに言った。
 「君ほど飲み込みがはやく、この世界の知識を広く持った人間はいないよ。まさにうちのバイトにうってつけだ」
 「たまたま知っていただけだよ」
 「そう、いつもたまたま(・・・・)なだけだけどね」
 軽くながしながら、封筒を嗣樹にさしだした。
 「今月のバイト代だよ。君がいてくれて本当に助かるよ」
 「たいしたことはしてないのに、こっちこそありがたく思ってるよ、ありがとうマスター」
 分厚く膨くれた封筒をひらくと、かなりの枚数が入っている。そこから、半分ほどの万円札の束をつかみ、差し出す。
 「これで、このあいだお願いしていた『殺生石』をお願いします」
 「ああ、そうだったね」
 マスターはうなずいて金を受けとると、高い棚のうえから小さな木箱を取り出した。
 「ちゃんと取っておいたよ、君が欲しいって言っていたからね――はい」
 嗣樹に手渡した。
 黒く異様な光沢をおびた石は握りこぶしほどあった。嗣樹はそれをじっとみつめ、満足そうにうなずいた。
 「よかった。取り置きまでしてもらった上に、こんなに安くしてもらって悪かったね」
 「なあに、嗣樹だってうちの大切なお得意様だからね。大したことないよ。まいどご贔屓に」
 優雅に頭をさげ、笑いながらも、どこか案じる視線をむける。
 「また、諌子ちゃんのためなのかい?」
 いたわるような問いに、嗣樹は小さく頷いてみせるだけだった。
 いつだって嗣樹がこの店で買う不可思議なものたちは、諌子のためだった。いや、それ以外で彼が必要とする物などなにもない。
 「今日はもういいから、諌子ちゃんのところへいっておあげ」
 今度ばかりは作り物ではない笑みが浮かんだ。
 「――ごめんマスター、お言葉に甘えさせてもらうよ」
 嗣樹は鞄を手に、あっというまに飛び出していった。
 マスターはその背中を、どこか哀愁のこもった瞳でみつめ、かわらず静かに、店にたたずんでいたのだった。




 「こんにちは――」
 嗣樹は声をかけながら、勝手知ったる他人の家とばかりに、迷いもなく上がりこんでいった。
 古く煤けている長い廊下は、ギシギシと不愉快な音をたてつづけ、久しく掃除がされていない独特のかび臭さが漂っている。天井にはところどころ蜘蛛が巣をはっている。
 今にも崩れそうな日本家屋の屋敷は、その規模ゆえに、かつての名家の没落を物語っていて、あまりにも惨めで哀れだった。
 それもそのはず、現に当主たる男は、いまは刑務所の檻のなかへとつながれているのである。
 その母である老女もまた、世間との付合いをほとんど絶ち、荒れ果てた家のなかにこもっている。
 家事も労働も一切放棄して、強欲にまかせ、食べることだけに本能を働かせて醜く太りかえっている。
 だが、哀しいことにそれらが諌子にとって唯一の係累であり、強欲な老女が祖だけが、諌子の現在の家族だった。
 嗣樹の足音を聞きつけた老婆、志摩子が、不平不満と同じように、ブルドックのような仏頂面を障子の向こうからのぞかせた。陰険で陰気な視線を嗣樹にむけると、不機嫌にフンッと鼻を鳴らした。
 「こんばんはおばあちゃん。お邪魔します」
 嗣樹は気にせず愛想よく微笑み、会釈をしてみせる。
 志摩子の視線がそそがれている鞄から、わざとらしく、今思い出したように封筒をとりだすと、それを差しだした。
 「今月分です。少ないですけど生活費の足しにしてくださいね」
 いつもように渡された封筒を、志摩子は奪うようにとりあげるとそのままピシャリと障子を閉めた。中から、一枚二枚と数を数える声がきこえてくる。
 「たった二十万円か、もっと景気よく渡しゃいいのに、ガキは稼ぎが悪くっていけないね」
 聞こえよがしに言う。
 嗣樹は何事もなかったように、そのまま奥の部屋へとむかった。老婆の悪態などいつものことなので気にするそぶりもない。
 まだ高校生なのだから、バイト代で二十万円といえばかなりの額であるはずである。感謝もしていないどころか、不平さえもらしているとは、強欲というのは、一種の病気であろうか。
 「これくらいで諌子に会えるんだったら安いものさ。もっと払ってもいいんだけど、欲にはきりがないからね」
 そう、人間の欲望には限度がない。
 十万円を渡せば、つぎは二十万、つぎは三十万円と、どんどん欲が増し、際限なく欲しくなる。
 毎月そうやって金を渡し、志摩子が放棄している諌子の世話をさせてもらっているのだ。面倒をみてもらったうえに、金まで取るというのは、端からみれば不自然すぎるのだが、嗣樹はそんなことなど全然気にならない。
 「あのクソババァ、金でも渡してないと諌子になにをするかわからないからな。もっとも、俺の結界に邪魔されて手はだせないだろうけど」
 うっそりとほくそえむ嗣樹の笑みは、今までみせていた仮面のような違和感はない。魔の匂いを色濃く浮かび上がらせているかわりに、血肉のかよった本物の感情をみせている。だが不思議とその表情をしているほうがずっと生きた人間のように感じられる。
 「諌子、ただいま――」
 一番つきあたりにある障子戸を引いた。
 夕暮れのひざしが赤く諌子を照らしだし、嗣樹はまぶしげに瞳を細めてみつめた。
 ぼんやり窓辺に腰をおろした諌子の長い髪がかすかにゆれて、黒く美しい光沢を放っていた。黄昏時の神秘的な空間へと、迷い込んでしまったかのような錯覚すらおきてくる。
 遠い世界にむけられた瞳は、嗣樹へと振り返ることもなく、ただ果てしない十万光年の彼方にそそがれていた。美しく凍てつく冬の夜空の星々のようにひっそりと煌いているだけで、幻には決して手が届かないのと思い知らされる気がする。
 一陣の孤独が吹き抜けていった。
 諌子は何も見ていない。何も聞いていない。
 穢れなく永遠につづくであろう、清浄な彼方の世界に閉じこもったまま、遠くからこの猥雑な地上の喧騒をみつめているだけである。
 ここにいるのは諌子という殻――抜け殻だけなのだ。
 「諌子、会いたかったよ」
 それでも嗣樹はかまわなかった。どんな姿でも、どんなに心が遠くても、諌子が必要なのだ。
 そっと擦り寄ると、重さを与えないように細心の注意をはらいながら膝に頭をおとした。
 諌子がここにいるたった一つの証拠のように、あたたかな温もりと心臓の音が嗣樹のなかに流れてくる。母親の心音につつまれてゆくかのような心地に、身も心も解放されてゆく。
 「疲れたよ、諌子。外の世界は本当に僕を疲れさせるんだ。君といるときだけホッとできる」
 息をはき、子供のように膝をかかえて丸まる。
 「真っ白だね。諌子の中はなんて心地がいいんだろう。僕を恐ろしがりも、不気味がりもしない。僕を僕でいさせてくれる」
 だれも愛してくれなかったこの世界で、諌子だけが守ってくれた。崩壊しそうになった自我を、諌子が編みなおし、嗣樹という存在に戻してくれた。
 波がゆっくりゆっくりと押し寄せては引きながら、大海へとむかってゆくように、嗣樹もまた自分という小さな殻から抜け出して、諌子という大海へと広がってゆく。ゆったりとしてゆく。
 「君がいるから、僕はここにいるんだ。君がいなければこんな世界なんてどうだってよかったんだから」
 綺麗な諌子、優しい諌子。
 そして悲しい諌子――。
 弟の多紀(たき)を殺してしまった嗣樹でさえ受け入れてくれた彼女は、だが多分、多紀のこともまた深く愛していたのだと知っている。
 もちろん嗣樹だって、多紀を殺すつもりなんてなかった。多紀のかわりにいっそ死んでしまいたかった。
 だれからも必要とされない命。
 否定された人生。
 なのに、どうして多紀のほうが死んでしまったのだろう。今でもずっと悔やんでいる。
 諌子は多紀の死をふかく悼みながら、哀しい瞳をしていた。
 みんなが嗣樹を憎みののしり、かわりに死ねと責めるなかで、哀しい光を浮かべたまま、何も言わずに抱きしめてくれた。
  けれど神は無惨にも、そんな優しい諌子さえ、嗣樹から奪ってしまった。
 毎日のように飲んだくれてはわめきちらし、暴力を振るっていた諌子の父親。そんな夫にたまりかねた母親は、とうとう若い男と家を出ていってしまった。
 自分勝手な暴力男と、強欲で我侭な義母という地獄から、冷たい母親はただひとりで逃げだし、諌子を人身御供にさしだした。
 そして男はそのとおり、諌子を傷つけ犯すことにより、その怒りをなぐさめたのである。
 天使の羽をかきだそうと背をナイフで裂き、心を砕いてしまった。
 幼く美しい純白の少女は、父親の汚濁を全身でうけとめ、悲しみも苦しみもありとあらゆる不平不満、呪うような憎しみを全身で吸収し、自らのなかで浄化しようとした。
 けれど穢れはあまりにも大きすぎ、幼い諌子にはそれを許容するだけの力はまだなかった。地上の穢れに耐え切れず、魂の死がおとずれるまえに、体だけを置いて、心を別の世界へと去らせてしまった。
 そしていまはもう、あらゆる感情を綺麗に消し去り、こんなに澄んでしまっている。
 「俺だけが、憎しみをまだ消しさる事ができてないでいる」
 諌子はたったひとりで何もかもを乗り越え、さらに気高く美しくなったというのに、自分はあの時のことを思い出しただけで燃えさかるような憎しみがわきあがってくる。
 憎悪の念が荒々しく駆け巡り、嗣樹という存在すべてが悪鬼となり、呪われたものへと変貌してゆくような気がした。
 父親はその後、警察によって捕えられ、その他の多くの余罪が判明したために、現在は刑務所で服役している。
 最悪の魔物は、とりあえずは社会という法律の鎖で繋がれていてくれる。
 「だけどいずれは出てくる。そのとき俺は……」
 赤い血が目の前を染めた。
 恐ろしい考えに、嗣樹はふるえ、それらを打ち消そうと助けを求めるように諌子を呼びつづける。
 「諌子、諌子、諌子、諌子――」
 何度呼んでも応えはない。
 愛しい人は、まるで決して振り向いてくれなかった嗣樹の母のように、遠くをみつめるばかりだ。
 呼びつづけることが唯一の、存在価値であるとでもいうように、それでも嗣樹は何度でも諌子の名を呼びつづける。
 それが彼の今の幸せなのだから。




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