それから何日かたった、ある日のことだった。
窯焚きの準備もすっかり終え、明日からはじまる、徹夜での火の番にそなえて、私はいつもより早く家に戻っていた。
玄関からめずらしく由紀子の荒げられた声が聞こえてきた。
同時に女性が飛び出だしてくる。
「帰って下さい!今ごろそんなことを言って来られたら迷惑なんです。やっと落ち着いたんです。これ以上混乱させないでください、帰って!」
「せめてお話だけでも――」
「お願いですからもう来ないでっ!」
由紀子の剣幕に、女性はびっくりしたようによろめいていた。
ちょうど由紀子と同じくらいの年齢だろうか。整った顔立ちがどことなく由紀子に似ている気がする。
彼女は何度も頭を下げながら、とまどいを隠しきれず、ピシャリと閉められた玄関みつめていた。仕方なく歩きだした。
一度振りかえり、私に気付いたのか、目を大きくして見つめた。
何か言いたげにして近寄りかけたが、彼女は不思議そうな顔をして見ている私に足を止め、頭を一度だけ下げるとそのまま背をむけて行ってしまった。
私はなんとも奇妙な気持ちがした。
驚いたような顔をして見た彼女の目。泣きそうでいて、やけにきれいで印象に残る。
私はしばらく見ていたが、郵便受けから手紙の束を取るとそのまま家へ入った。
いつもより早い帰宅に、由紀子は少し驚いたようだった。どこか興奮がさめやらぬ様子でぎこちなく微笑むと、つくろうような平然さの声で言った。
「――お帰りなさい。早かったのね今日は」
「ああ、明日から窯焚きだからね。ゆっくり休もうと思って。それよりさっきの人、どうしたんだい。何かあったのか?」
「い、いいえ。なんでもないのよ。ちょっと言いがかりじみたことで絡まれちゃって、ついカッとして」
「ふうん」
そんな風な女性には見えなかったが。
「でもめずらしいね、由紀子が取り乱すなんて。宗教かなにかかい」
曖昧にうなずくのに、私はそれ以上は追求しなかった。
由紀子しばらくお茶を入れてくれ、洗い物をしたりしていたが、どこか落ちつかなげだった。
急にエプロンをとった。
「ちょっと姉さんとこまで出かけてくるわ。た、頼まれたものがあったのを忘れてたのよ」
「ああ、かまわないよ、行っておいで」
由紀子の姉の嫁ぎ先も、この近くにあった。姉妹はけっこう仲がいいらしい。
「お、遅くなるかもしれないけど、美奈代は迎えて連れてくから、気にしないで」
由紀子は慌ただしく出かけていってしまった。
なんとなく様子が変に思われたのだが、急ぎの用を忘れて焦ったのだろうというぐらいにしか考えず、新聞を広げていた。
「あのぅ――」
玄関口から声がした。
私は顔をあげた。さっきの女の人だ。
うかがうように入ってきた彼女の顔は、やはり由紀子に似て思えた。どこがどうというわけでもないのだが、雰囲気がなんとなく似ているように感じさせる。
由紀子がいるのかどうか気にしているのだろうか、しきりに奥のほうを気にしているようだった。
「由紀子ならいませんけど。なにか私に用ですか」
彼女はちょっとホッとしたように息をつくと、私を思わぬ強さでみつめてきた。
まるでにらむかのような大きな目が、とても綺麗に見える。
「あっ、あのすいませんいきなり。――私、先日あなたが映ってらしたテレビを拝見して、どうしてもお会いしたくて」
「テレビ……ああ、焼物の?あれは私じゃなくて、私の父ですよ」
「いえお父さんの方ではなく、あなたにお聞きたいことがあって」
彼女はまた、私を見つめた。
なんとなく目が潤んでいた。懐かしそうな切なげな表情だった。
「私、桂木綾といいます。広島から来たんですけど」
桂木綾、と名乗る女性は、先日のテレビを見て、わざわざテレビ局にまで問い合わせ、みしらぬ土地まで私を捜して来たという。
綾は人違いだとわかっているのですが、と丁寧に前置きして、ずいぶん恐縮しながら、私に話しはじめた。
「記憶喪失だとお聞きして。失礼だと思ったんですけどどうしても一度だけお会いしたくて」
「私の記憶喪失がどうかしたんですか」
「私の――私の婚約者が、五年前に失踪したんです。山に絵を描きに行くといって」
「……それで?」
綾はいったん言いにくそうにおし黙った。
が、しばらくして思い切ったように口を開いた。
「あなたにとてもよく似ているんです。その、左頬にほくろがあれば、本当にそっくりなぐらい」
「ほくろ、ですか?」
綾はまるで私が婚約者だったといわんばかりに、必死の面もちで頬にほくろをさがしていた。
だが、残念なことに左顔は小さな無数の傷跡がのこっていて、ほくろもなにもわからない状態だった。私は無意識に左頬を押さえていた。
綾は見つけようがないはずない顔に、落胆の色をはっきりと浮かべた。
「すいません。ご迷惑だとわかっていたんですけど、でも、どうしても、いてもたってもいられなくて……」
「いいえ、かまいませんよ」
彼女の大きな瞳に、みるみる涙がもりあがり、こぼれ落ちていった。
押し殺していた感情が限界を越えたように、声をおし殺して泣く姿があまりにも痛々しくて、私は彼女の胸の奥にかかえている痛みを感じとってしまった。
この人は五年もいなくなった男を待っていたのだろう。
きっと必死でここまで捜して来たに違いない。たった一筋の希望を抱いて。
どれだけの勇気と手間がかかったのか。
「ごめんなさい。奥様に不愉快な思いをさせてしまいました。別に悪意があったんじゃあないんです。家庭に波風たてようなんてことは」
「わかっていますよ。気にしないでください。私の方こそ何の力にもなれなくて」
小さな肩に手をやった。
あおぎ見る彼女の瞳に、何ともいえない温かいものが走った。
綾はそのまま帰っていった。
私は見送りながら、その姿にまた、由紀子を重ねていた。どうしてそんなに由紀子に似て見えるのだろうか。
いや、似ているのは由紀子ではない。由紀子に似た、誰かに似ている?
ふと私はため息をついた。
きっと思い過ごしだ。由紀子の事ばかり考えているからだ。
「世の中には三人似た人がいるというからな」
私に似ていたという男も、失踪するところまで似ているのか。
変な感覚におそわれながら、奇妙なこともあるものだと思い部屋にもどった。
投げ出してあった手紙の束を拾いあげた。エアメールがまじっているのに気がつき、とり出した。
「――由紀子宛に?誰だろう」
外国に知合いでもいたのだろうかと、無意識に送り主の名前を見た。
私は愕然としてかたまっていた。
「なんだって、そんな――」
何度も何度もそのローマ字の名を読み返した。
が、大きくはっきりと書かれてある名前の文字は見間違えようがない。
恩田彰――私の名前だ!
「馬鹿なっ!!」
『恩田彰』というのは、私のことではないのか。
私は夢中で封をやぶった。
中から出てきたのは、日本語で書かれた見慣れた文字の手紙。
――読み終えた私の手からは、手紙がひらひらと舞落ちた。
呆然と立ちすくむ。
私からの手紙。
恩田彰本人だ、間違いない。
どう、したらいいのだろう。何を、すべきなのだ。
頭が真っ白で、うまく働かない。その場にへたり込んでしまう。
手紙には、由紀子への悲痛な思いがつよくつづられていた。
勝手をしてきて悪かった、と。
ずいぶん待たせてしまったが、やっと自分の思いどおりの物ができるようになった。もうすぐ帰るから待っていてほしい。
そんなことが切々と書かれていた。
それはまぎれもない私からの恋文である。
苦しんで苦しんで、それでも焼物だけに情熱をそそぎ、夢中でここまできた男が、やっと自分を取り戻したのだ。
父親という枷から抜け出すことができ、前進しはじめた。
由紀子のために、由紀子に認められたいがために焼物に打ち込み、やっと自分の満足のいく回答を得て、帰ってくるという。
愛していると、会いたいと、それは熱くつよく語っていた。
情熱そのものの手紙を、私はぐしゃぐしゃに握りつぶしていた。
目の前が真っ暗だ。震えが止まらない。
成功した私。
由紀子の祝福をうけるためだけに、美奈代の父親として堂々とこの家に帰還してくる私。
では今、この、ここにいる私はどうすればいいのだろう。
どこへ行けばいいのか。何をすればいい。
わからない。私にはわからなかった。どうすればいいのか、どう考えればいいのか。
私とはいったい誰なんだ!
――五年前に失踪した婚約者と似ていた……。
先ほどの綾の言葉が、いまごろ明瞭に思い出された。
頭の中に彼女の泣き顔がうかんだ。
私は飛び出していた。彼女の姿を追った。
だが、とっくにその姿があろうはずもなく、閑散とした道をじばらくながめ、私は肩をおとして家に入った。
「そうだスケッチブックだ!あれを見れば!」
私は最後まで抱えていたというスケッチブックのことを思いだした。部屋に駆け込むと本棚の奥にしまわれてあるそれを取り出した。
所々に血のついた緑色のカバーをひらくと、何度もみたはずの女性が現れる。
「似てる。ああ、この女だ。このスケッチブックの女に似ているんだ」
綾は由紀子に似ているのではない。
このスケッチブックの女性にこそ似ているのだ。
だが私はふたたび茫然とした。それがわかったからと言ってどうなるというのだろう。
彼女がどこの誰かも知らないし、それより、私の由紀子に対する、このたぎるような思いをどうすればいい。
由紀子が妻ではない。
そう、それを一番恐れていたのではなかったか。
美奈代が娘ではない。父も母も、友人も、みんな私のものではない。私が懸命に取り戻そうとしたものは、全部他人が所有していた幻だった。
スケッチブックの裏に書かれた名前らしき箇所、血がついていて、まるでこすりとられてように消されていた。
……私は、誰なのだろう。
恩田彰の記憶をすりこまれたこの私は、いったい何者だ。
吐きそうだった。
胸がキリキリして口から血が吹き出そうだ。
私は手紙を握りしめ、逃げだすようにして家を飛び出していた。
窯場の静かな空気を吸いながら、私は泣きそうな思いをかみしめていた。
そうだった。ああ、ここさえ、もう私の場所ではないのだ。
私はずっと努力してきた。恩田彰になるべくこの五年間を必死で費やした。
ここ以外でもう、私の生きる場所はないのだというほどに、彼の記憶を刻み込んできた。
「どうすればいいんだ――っ!」
私は準備をおえて静まり返った窯に手をかけてしゃがみこんだ。うなされるように彼女の名前を繰り返した。
「由紀子……由紀子……っ!」
もう、彼女には触れられないのか。
美しいあの熟れた肉体を愛することもなく、あえぐような吐息を聞くこともできない。
代わりに本当の私、恩田彰が抱く。
――耐えられない。とても耐えられない。
嫉妬に狂うかもしれない。狂って、やつを殺すかもしれない。
いや、きっと殺す。嫉妬の炎に身を焦がし、私は恩田彰を刺し殺すだろう。
私は窯にいれるかどうか迷い、そのままにしていたソレに目を止めた。
聡の造った鬼の面。
それはまさしく私の相貌だ。今の私の姿だ。
なんと醜いのだろう。私はなんてあさましい。
不安と嫉妬に狂い、人さえ殺しうるほどに情けないのが私だ。こんなにもろい男だったのか。
私はふらふらと外にでた。
くぐもったような声にふと我に返った。
聡だった。聡が岩に隠れて吐いていた。
すっかり吐ききった胃からは、血の混じった黄色い胃液がわずかに出ていた。何度も嘔吐しながら、真っ青な顔に涙がにじみ、息が止まりそうなほどにあえいでいる。
私は彼の手首から血が流れているのに気がついた。
「なにをしてるんだ聡!」
転がっていたナイフを私は慌ててとりあげた。見上げる聡の目は真っ赤で、表情には生気も気力のかけらもない。
聡の腕を乱暴にとるとハンカチを巻きつけた。
傷は見た目より深くはなさそうですでに乾きかけていた。
本気ではなかったのだろう。だがそこからははっきり死の匂いがする。私がさっき振りおろした刃の下には、縮こまっていた聡がいたような気がして、なぜだか胸が痛んだ。
「どうしてこんなことをしたんだ」
「おじさん……」
聡の唇はまた切られていた。以前よりずっと深く、頬が蒼く腫れあがっている。
涙の浮かんだ目に私がうつると、哀れでたまらなくなった。
「父さんが……出ていけって。もう、いらないからこの家から出てけって。おまえは俺の子じゃない父さんなんて二度と呼ぶなっ……」
聡はぐっとこらえたたが、また吐いた。彼に突きつけた最後通牒は、母親ではく、彼が憧れ求め続けてやまなかった父親だったのである。
「それで殴られたのかい」
「……兄さんも以前からずっと冷たかったし、睦子も……お兄ちゃんなんか出てけって、お兄ちゃんがいるから家の中がヘンなんだって。僕さえいなくなれば平和にすごせる、母さんもあの男に付きまとわれずにすむって」
吐息のようなかすかな声で言った。
「いらないんだ、いらない子なんだ、僕なんか誰もっ」
はみ出してしまった子供の居場所はついになくなった。家族のために、彼は犠牲にされてしまった。
私は、ふと彼と自分が同じなのだと気づいてしまった。
そう、もう私の居場所はないのだ。
本人が帰って来るのに、私のいるべき場所はない。家族のためにはいてはいけない。
泣いている聡の頭を撫でながら、私は思いもしない言葉を口走っていた。
「どこかへ、行こうか」
「えっ?」
「私も、帰る家がなくなってしまったんだよ」
聡は不思議そうに私を見つめた。
「だって、おじさんには奥さんも子供もいるんでしょ?自分の家族が、あるんでしょ?」
「うん、でもね、偽物だったんだ。私はニセモノで、本当の恩田彰ではなかった。名前もわからない、どこの誰かもわからない――幽霊だったんだよ」
言いながら冷たい笑いがもれた。
そうだニセモノなのだ。名もない、架空の人間。
「――行こうよ、おじさん」
聡は言った。
私はわらうと、どちらともなく立ちあがり、山を、降りはじめていた。
「はじめてね、母さんとその男の人を見たのは小学校に入学したときだったんだ」
聡はバスに揺られながら小声で話していた。
「そのときは何をしていたのかわからなかったけど、二人とも椅子に座って、互いの身体を触りあってた」
言いにくそうに口を閉ざした。さすがにそこで情事がはじまたのだろうことぐらいは察しがつく。
「そしたら睦子がとなりの部屋できゅうに泣きだして、僕は急に怖くなって部屋に戻ったんだ」
「うん」
「兄さんはもうとっくに知ってたみたい。いつも知らないって顔をして、僕ともあんまり口をきいてくれなかった。きっと僕が父さんの子供じゃないって知ってたんだと思う。……よく母さんは僕を殴った。おまえさえいなければって鬼のような顔をしてた。小さいときは何でかわからなかった。けど、でも僕は母さんが好きだったから、一生懸命にがまんしてた。でも本当は、母さんが睦子を抱くのが羨ましかった。母さんに触れたかった……」
痛いほどわかる。
私も、ずっと触れていたかった。ためらうことなく由紀子を抱きたかった。愛し続けたかった。
なのに否定されるのが怖くて、いつだって由紀子に触れたい気持ちを押さえつけてきた。
「僕はね、僕だけ違うってわかってた。勉強も運動も兄さんみたいにできないし、好きものもみんなと違ってた。ゲームもテレビも好きじゃない。女の子とかにも興味がない。父さんはおまえのことはわからないっていつも言うし」
記憶を失うと好みまで変わるのね。そう恩田の母がもらしていたものだ。
由紀子はなにも言わなかったが、私の好みに黙ってあわせてくれていた。ずいぶん奇妙に感じていただろうに。
私は、自分でも本当は、なんとなく違和感をおぼえていたのではないだろうか。ただ、それを見ないように、感じないようにしていただけではなかったか。
思い出せば出すほど、私は彼とは違う。いや、違いすぎる。
私たちは何度かバスを乗りかえながら、聞いたこともない地名で降りた。
なにもない、所だった。
道はきれいに舗装されてはいたが、穂の膨らみはじめた田んぼがどこまでも広がっていた。ぽつぽつとある家はほとんど瓦屋根と焼き板の壁の、大きな農家ばかりだ。
道沿いに走る峡谷からは、川の流れる音がやけに耳に大きく聞こえていた。みあげた絶壁の岩肌に、まだ青い紅葉の枝がしなやかに張りだしている。
よく見ると川縁に降りることができるようになっていた。幾人かの釣り人の姿が見える。
「そういえば昔ね、ずっと昔なんだけど、こんな所来たような気がする」
聡と私は川にそって歩道を歩きだした。
「小さかったころ、父さんと母さんと兄さんと睦子で、キャンプに行ったんだ。夜になると川音がすごくてさ、僕はとても怖かった。みんな楽しそうに笑っているんだけど、僕はちっとも楽しくなくって、なぜか怖くって、置いて行かれるんじゃないかってそればかり考えてた。……僕だけ楽しそうな彼らの笑いのなかに入れなかった。帰りたいって泣いたら、母さんすごく怖い顔をして、どうしてあんたはいつもそうなの、って殴られた」
幼心にも、聡は不安だったのだろう。自分が異分子だと肌で感じとってしまったのだ。
「父さんはあきれ顔で僕を見ていた。兄さんは嫌な顔をして、睦子もふくれた。でも、僕はたまらなく怖かったんだ」
怖かった。私も由紀子に、美奈代においてゆかれるのがずっと怖かった。
だから一生懸命に焼物を覚えた。それしかすることがなかった。そうすることを、みんなが望んでいたのだから。
「それからは、僕はずっとみんなの顔色をうかがってきた。みんなの機嫌をそこねないように、僕のすることがみんなのかんに触らないように、少しでも大人しくしておこうって」
「……うん」
私は、私は本当に備前焼などしたかったのだろうか。
それが好きだったのだろうか。
何も考えないようにそれだけを必死にしてきたけれど、私はそれが好きでやりたかったのか、わからない。そうしなければならなかったから好きになったのかもしれない。
そんな風に考えると、何もかもが、わからなくなってくる。
私の存在意義はどこにあるのだろう。
陶芸家でない恩田彰に意味がないなら、恩田彰でない陶芸家の私には意味はありえない。私はもう、必要とされてない――。
「おじさん?おじさんどうしたの?」
「あ、ああ、なんでもないよ」
私は青ざめた顔を手でこすった。
バス停からすこし離れたところに、半分つぶれかけたようなドライブインらしき店をみつけた。車が数台とまっているのだから、開いてはいるのだろうが、かなりさびれている。
「飯でも、食うか」
ご飯などどうでもよさそうな聡を連れて、薄ぐらい店の重いたてつけの戸をガラガラと引いた。
土の床がひんやりとしていた。
陰気な建物のなかには中年の男女が一組座っていただけだった。
何か作れるのだろうかとカウンターをのぞくと、暇そうにしている太った初老の女性が新聞から目をあげ、私たちをジロリとにらんだ。
「なにか、食べるものが出来るんですか」
「うちはラーメンしかできないよ」
「じゃあそれを二つお願いします」
私と聡はやぶれているナイロンの椅子に黙って座った。かなりたってからとろけたようなラーメンがやってきた。箸ですくったら崩れてしまいそうだ。
「あの、おにぎりとかできますか」
「おにぎり?」
おばさんは鼻に皺をよせて聞き返した。
「ええ、できたら四個か五個ほどにぎってほしいんですけど。持ち帰りで」
「あんたたち弁当も持たずにピクニックにきたのかい。まあこの辺にうちより他に店はないからねえ。しかたないね」
おばさんは愛想もなくそう言うとカウンターに戻っていった。
「おいしい、このラーメン」
聡が言った。
「おいしい?」
こんなふやけた麺が?
「昨日から、ずっと食べてなかったんだ」
「……そうか。しっかり食べとけよ」
いつ食べられるかわからないから、と付け加えて、二人でなんとなく笑った。
くつろいできた聡を見ていると、家のなかには、聡の心が休まる時間はなかったのだろうことが容易に想像できる。
彼の姿を思い浮かべると不憫になってくる。
きっと小さいころから、家で起きるマイナスの部分を押しつけられてきたのだろう。家庭はそうすることでどうにか崩壊をまぬがれ続けていたに違いない。
聡は久しぶりにこんなにしゃべったと笑った。胸に積まれた重荷が少し楽になったのか、少しだけ明るい笑顔になっていた。
「あんまり、家じゃしゃべらないのかい?」
「うん。僕がなにか言うと母さん怒るから」
「いろいろ大変だね」
「……あの人がね……僕に、自分の家に来ないかって言ったんだ」
待ち伏せしていたという実の父親の話らしい。
「そう父さんにも話してみるからって……」
「でも、君は行きたくなかったんだ」
「行きたくないよっ!僕の父さんは、ひとりだ。ひとりしかいないんだ」
声がだんだん小さくなってゆく。
彼のそんな心を知らず、遠くから彼をみていた実の父親は、青あざをつくって学校に通う聡があまりに痛々しかったのだ。いっそ引き取ろうと思ったのだろう
けれどそんな大人の身勝手さが、子供をどんなに傷つけるかわかってはいない。
幼い美奈代も私たちのことでどんなに傷つくだろう。それを考えるとやりきれなくなってしまう。
一年も家をあけたという身勝手な父に、やっと慣れたと思ったら、今度はまったくの別の人間が、今度こそ本物の父親だと帰ってくる。
繊細な幼い心につけるだろう傷を思うと、彼女のうけるショックのことを考えると、胸がつぶれそうになる。
「行かないでいいよって言って欲しかった。僕は……父さんが好き……なんだ」
「そう、言ってみたのかい?」
聡は激しく首をふった。
「言えないよ。そんな事、だって」
本当の子供でもないのに、と唇を噛みしめる。
「でもね、言わないと伝わらないこともあるんだよ。誰もが心の中で思っていることなんて、わかってくれないんだから。口で、ちゃんと自分の思いを伝えてあげることも必要なんだよ」
聡はむっつりと黙ったきり、ラーメンの黒いつゆをじっと見ていた。
おばさんがおにぎりを持ってきた。乱暴だが一つづつラップに巻いてくれている。買物袋のナイロンにつっこみ差し出した。
「おまちどうさん。あんたらバスで来たんだったら気をつけないと大変だよ。この辺、バスの本数少ないからね。乗り遅れたら野宿さ。民宿なんてしゃれたものもないからね」
「バスの便ってそんなに少ないんですか」
「夕方四時ぐらいが最終便じゃなかったかねえ」
「そうですか。あ、どうもすいません」
残り少ない小銭を払って店を出た。
思いつきのまま、考えもせず飛び出してきた私と聡の持ち金は、あとわずかだった。あの時はその場を離れることだけで頭がいっぱいだったし、そこまで頭が回らなかった。
気がつくともう空は赤らんでいた。
空気がひんやりとしてきた。田舎の夕暮れはなぜかとても早く、ものがなしく感じる。
私と聡はだまって歩いた。
ときどき通る車も数が少なくなり、さらに空が青から黒になるころには、寂しさというより、世界にとり残されたような孤独さだけが残った。
私はいつのまにか聡の手をとって、とぼとぼと歩いていた。
農家の納屋をみつけた私たちは、こっそりそっと中に入っていた。
田舎の大らかさからか、鍵はかかってなかった。
中にはいくつか藁の束があった。
焼物に敷くためだと二時間ぐらいは平気で藁を揉んでいた。よく手がだるくならなかったものだと今おもえば不思議になる。
「握り飯、食べるか」
「うん」
おばさんの握ってくれた形の悪いおにぎりを二人でわけあった。味はそう悪くはなかったが、聡は半分ほど食べると、それ以上は口をつけなかった。
私も食べる気がせず、一口かじるとそのままやめてしまった。藁のうえに寝転がった。
木戸の隙間から月明りが差し込んでいた。
私たちは誘われるように外に出た。
稲穂の上にぼんやりとモヤがかかり、青白い月はほとんど満月にちかい。全く別の世界に迷い込んだような気がして、幻想的に思われる畦道をゆっくりと歩いていった。
虫の声がゆるゆるとして、かすかな風にさやいでいる稲の音が聞こえた。
稲も山もめずらしいはずもないのに、空気が違うと、まるで違って感じてしまう。
聡が月を見ながらぼんやりとつぶやいた。
「僕、思いだした。……母さんは泣いていた。いつもいつも僕を見て、ごめんね、って泣いていた。父さんも、父さんいつも僕に触れるのをためらっていた……僕がビクつくのと同じようにビクッてしてた」
私と由紀子もそうだ。
互いが互いに触れるとき、いつも緊張していた。ためらい合っていながら、そっとそっと肌を重ねた。自分を忘れるまで、怯えをぬぐいさることができなかった。
「僕、おじさんに言われて気づいたんだけど、一度も言ってなかった。母さんにも父さんにも、大好きだって、まだ一度も言ってない……」
由紀子、一度でもおまえに言っただろうか。
愛していると。ずっとずっとそばにいたいと。もう二度と離したくないと。
ああ、まだだ。まだ、言っていない。
どうしてこんなに聡の言葉は私に重なるだろう。どうしてこんなに由紀子を思い起こさせる。
「私は、何がしたかったんだろう。何をするべきだったんだろう」
自分がするべきことを、自分で考えたことがあっただろうか、と今更ながらに気づいてしまった。
いつも当てがわれた目の前の事象に、自分を合わせようと懸命なだけだった。自分の心を、自分で消し去っていたのではないだろうか。
「わからないよ。僕はどうしてほしかったんだろう。どう、したかったんだろう」
私は愛されることばかりを私は望んでいた。愛していると口に出して、みんなに逃げられたらとそんなことばかり考えていた。
備前焼をするということが、みんなの承認を受ける一番てっとり早い方法だった。そうであったから、信頼を得るためにだけ、それをしていたのか。
では私にとって、恩田彰ではない私にとって、焼物とはいったいなんであったのだろう。どういう存在なのだ
私はたちはぼんやり月をみあげていた。
小さな風がすりぬけていった。
私はふと畦道の四つ辻に、お地蔵さまが奉られているのを見つけた。
小さな祠に、赤い前垂れをしている。しぜんに前で足が止まる。
目も、鼻も口もほとんど風化して消えているはずなのに、その表情がなぜかとても優しくて笑っているような気がした。
足元にはひっそりとした白い野の花が供えられており、なにげなく花をさしている赤茶けた器を見て、目が離せれなくなった。
「なんでこんなところに……」
見慣れた焼きの色。野にさらされてなお、飾りもおごりもなく自然にとけ込んだ素のままの古い備前焼の姿。
地蔵仏にも似た、荒っぽい造りがどこか味わいがあり、あたたかさを感じさせている。
なんの変哲もない湯呑を花器にしていた。そっと手にとってみて、私は身震いをした。
この焼きの感触だ。この、独特の土の匂い。
どうしてだろう。なぜ、今なのだろう。
私は気づいてしまった。
好きなのだ。土が、こんなにも好きだったのだ。
私はもうすっかりと土に魅了されていた。おしつけられて始めたと思っていた焼物は、いつのまにかこんなにも愛しいものとなり、私の中で息づいていた。
もう、それは私自身だ。自分の一部のように血の流れの中にまでしみこんでいる。
私は泣いていた。
湯呑を手にしたまま、記憶を失ってからはじめて私は涙を流していた。
「おじさん?」
聡はぼんやりとしたように私に声をかけた。
聡もまた、泣いていた。
黄金の稲が月明りにゆれていた。サアッと風に流れてゆれた。
私は聡の涙をぬぐった。私の涙をぬぐった。
帰ろう。
美しいあの人が待っているあそこへ、帰ろう。きっと泣いている。私を待っている。
眠れぬ夜に、きっと待ちつづけている。
「逃げていても、始まらないよな」
「……うん」
私は私から逃げることはできない。
本当の恩田彰が帰って来るのであれば、きっとそれは逃げてはいけないことなのだ。
事実を受け止めよう。由紀子だけを苦しめてはいけない。二人ですごしてきた日々が、全部むだになってしまう。
「帰ろうか」
聡はうなずく。
どこまで歩けるかはわからない。
だが、あの人のそばに、少しでも近くに行くために、私は歩く。
そして、愛していると伝えるのだ。
私自身のはじめての言葉として。
おわり
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