私からの手紙(ラブレター)

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 「早いものね。もう、五年になるのかしら」
 私は最後の仕上げにかかっていた粘土の花器から、ふと手をとめて視線をもちあげた。
 妻はすでに乾いている茶碗を棚に並べながら、うっすらと口元に笑みを浮かべていた。
 「そうだなあ。実際、早いもんだよ。私がここまでこられたのも、全ておまえのおかげだ。備前焼の『備』の字も覚えてなかったんだからなぁ、私は」
 由紀子は無造作に束ねたきれいな黒髪を腕ではらいあげ、私をみつめた。かすかに傾けたうなじ艶めかしくて、ふいに由紀子から目がはなせなくなる。
 「そんなことないわよ。あなたが努力したからだわ」
 由紀子がくすぐったそうに言った。
 ひっそりとした窯場の空気は心地よく緊張していて、彼女の息使いが聞こえるような静けさがひろがっていた。
 しだいに私の神経が研ぎ澄まされていくのがわかる。
 私はドロのついた手でかたわらに置いてあったスケッチブックを手にとった。彼女の横向きの姿を鉛筆で描きだしていた。
 何気ない仕草のひとつひとつが私の目を引いてしまう。自然に造られる彼女の表情やしぐさがいつでも私を魅了する。
 三十八才にもなる男が、まるで少年のようにドキドキしながら妻を見ているのだ。こんな私の気持ちを知ったら、由紀子は笑うだろうか。
 「また私なんかを描いてるの?あきないわね」
 少しあきれたように笑った。
 そんな風に笑う横顔はいつもどことなく寂しそうで、それがたまらなく美しい。
 「私なんかいつだって描けるでしょうに。――さあ、ほらさっさと窯の用意をすませちょうだい」
 「ああ、そうだね」
 返事をしながら、いっこうに筆を置かない私に、由紀子はわざとらしくため息をついた。そのまま棚に並べられた茶碗に、絵模様をつけるための藁を炉に敷きはじめていた。
 私が記憶を失ってからもう五年の月日が流れる。
 はじめのころは、本当に、それこそ何をするにしても大変だった。毎日が嵐のように過ぎていくようだった。
 私はどうやら備前焼の作家であったらしかったのだが、むろん何ひとつ覚えてなく、焼き物への情熱も、妻や、四才になる娘のこともすっかり忘れてしまっていた。
 広島の山奥で発見された私は、緑色のスケチブックだけを握りしめていたという。
 崖から落ちても放さなかったということは、かなり大切なものだったのだろう。今となってはそのことすらも覚えていない。
 事故の思い出は、私の左の顔と、背にいくつかの傷痕としてしか残っていない。
 ズボンのポケットに入っていた名刺のおかげで、岡山からすぐに由紀子がかけつけてくれた。すべてを処理し、ここへ連れ戻ってくれたのだ。
 以来、由紀子には世話になりっぱなしだった。
 焼物のことも、親兄弟、親戚、その他、人間関係すべてを忘れている私に、一から根気よく教えてくれた。当りさわりのないように取り持ってくれたのも由紀子だ。
 私は初めてこの作業場に連れてこられた時のことを今でもおぼえている。
 人の気のない山の中にある小さな作業小屋には、土があふれていた。
 私は圧倒されていた。
 こねられ、かたち造られた備前焼の陶器が、棚に無数にならべられていたのだ。
 土の迫力、土の美しさ、そして懐かしいようなドロくさい匂い。
 一年前から失踪していたという私が残していった焼物の数々は、まるで妻に送られた過去の私からのメッセージのように思われた。
 私は不思議なほど素直に自分が土をいじっている人間だと受け入れていた。彼女への思いをそこに見たからだ。
 それから私は、ほんとうに一から焼物の修行をやりなおした。
 焼物の先輩でもある父の所へ毎日通った。
 それまでの私は、どうやら一応の名をもつ陶芸作家だったらしいが、土のこねかたすら忘れている私には、それらは過去の自分というより、別の誰かとしか思われなかった。
 それを我慢強くひたすら支えてくれたのが由紀子だ。
 彼女はこれ以上ないほどに辛抱強いひとだった。いつでも笑顔でいてくれた。何もわからない私を責めることなくつき合ってくれた。
 失踪のことについても、いっさい触れてこようともしなかった。もちろん、聞かれても答えられなかったのだが……。
 娘との関係も彼女のおかげでどうにか上手くいった。
 戸惑う私に、娘のクセから好みから、はては幼稚園の友達のことまでを教えこみ、幼い娘の心にも傷がつかないように、父親が病気で記憶があやふやなのだとだとやわらかくおしえていた。
 表面的には物静かでおっとりしていたが、内にこもる炎のような熱さこそが、彼女の本質だったとわかったのは、何年か経ってからだった。
 私は恥ずかしいことに妻に心底惚れていた。
 彼女の新しい部分を見つけるたびに、由紀子に惹かれずにいられなかった。こういうのを、恋をしなおすとでもいうのだろうか。
 「お茶にでもしましょうか」
 由紀子が手をとめ、正面から私をみかえした。
 私は彼女に見とれていたことに気づき、我知らず赤くなった。
 「ああそうだな。いや、私がお茶を入れよう。疲れただろから座っておいで」
 由紀子は泥に汚れた手を洗いながら、穏やかな目で私のいれるコーヒーサーバーを見つめていた。
 薄暗い室内は二人でいるには静かすぎて、時々不安を感じさせる。
 私のとなりに座ってコーヒを飲む彼女は、ほんとうに三十五にもなる一児の母親なのだろうかと疑いたくなるほど美しい。滑らかな肌が、夕暮れの日差しにやわらかく目にうつる。
 私はそっと彼女の頬にさわった。いや、さわろうとした。だが、なぜか手を伸ばすことはできなかった。
 どうしてだか、私は、彼女にみだりに触れてはならないような気がすることがある。
 はじめて彼女を抱いたとき、本当に彼女を抱いてもいいのだろうかと内心ずいぶん迷った。
 私みたいな男が本当に由紀子を妻にしていたのだろうか。何かの間違いであり、恩田彰という人物は、本当は自分ではないのかもしれない。
 彼女は肌に触れることをためらう私に白い手を伸ばし、悲しそうに言った。
 「まだ、私のことを他人と思っているの?」
 私はその時はじめて彼女が、私を求めていることを知った。
 心の底から彼女を欲しい、由紀子を抱きたい、私のものにしてしまいたいという衝動が押さえられなかった。
 私は由紀子を愛している。そして、愛されている。私たちは求めあい、やっと夫婦になれたような気がした。
 気がついてみれば、私が記憶をなくしてからまる一年が経とうとしている時だった。
 「何を考えているの、ぼんやりして」
 由紀子はなぜか不安そうに声をかけた。
 「いや、なんでもないよ」
 「あなたがそんな目をしていると、またどこか遠くに行ってしまいそうに思えるわ」
 「まさか。私にはもうどこへも行かないよ。ここしか思いつく場所はない」
 由紀子は自分のいった言葉を自嘲しているようだった。
 「でも、あなたが私にコーヒーをいれてくれるなんて、何度みても不思議だわ。前のあなたなら考えつきもしなかったもの」
 「またそれを言う。過去の私のことなら勘弁してくれよ。なんにも覚えてないんだからさ」
 「ごめんなさい。あなたがあんまり優しいから時々別人のように思えてしまうのよ」
 ほそく笑う柔らかさがいとおしい。
 たしかに私は別人なのかも知れない。
 彼女の話によると以前の私はかなりの暴君のようだった。だが非難めいていながらも、彼女はそのころの私のこともまた、深く愛しているように思われた。
 最初はよく、前のあなたはこうだったとか、こうしたしていたとか、事細かに教えていた。まるで早く思い出してといわんばかりに聞こえて、その姿を押しつけているかのようだった。
 私には、はやく昔のあなたに戻ってと泣く彼女の隠れた声のようにも聞こえて、ひどくつらく感じていた。
 それもあって私は彼女のイメージにそうような人物になろうと、努力した。そうすることが彼女の愛に応えることのように思えたのだ。
 だが、いまの私にはどうしても無理だった。
 彼女のいうような人物が、とても私と同じ人間であるようには思われなかったし、そうふるまえなかった。
 そのうち、彼女も昔のことをあまり言わなくなった。
 きっとどうしようもないのだと気がついたのであろう。今の私はこうあるしかないのだから。
 「ああ由紀子。言い忘れてたんだけど、今晩からちょっと親父のところへ行ってくるよ。来週中には窯焚きをしたい口ぶりだったからね、手伝わなきゃ。美奈代には、映画は今度の日曜日には連れてってやるからって、あやまっておいてくれないか」
 「あら美奈代ふくれるわよ。楽しみにしてたんですからね。でも今年はずいぶんと早いのねお義父さんところの窯は」
 「このあいだの展覧会でさ、かなり話題になっただろう。あっという間に売り切れてしまって、買えなかった固定客から、新作の声がずいぶん高かったんじゃないかな」
 「へぇ、すごいのね。まえも陶芸雑誌の取材がきてたんじゃない?」
 「うん、作品集を作るらしいよ。人間国宝まちがいなしだなんて噂がたったからよけい騒ぐんだろうねぇ」
 「大変ね」
 「その息子はよけいに大変さ」
 私たちは笑いあった。
 名のある陶芸家の息子、というか、跡継ぎにはそれなりのプレッシャーがある。
 父よりいいものを造らなければならないという気負もあるし、周囲からの期待する目もある。だがそれよりも、自分自身が父を越えたい、いい物を造りたいという思いで狂おしいのだ。
 山は大きいほど登りがいもあるし、また乗り越えるには時間も技も体力もいる。そしてなにより才能を必要とされる。
 過去の私も、父についてはかなり苦しんでいたらしかった。
 日記につづられているのは、父――利満の作品についてのことばかりだった。写真集や雑誌の切抜きまではさまれていて、赤ペンで注釈が入れてある。
 由紀子はなにも言わないが、私が失踪する一年間前くらいから、ずいぶん苦しみ、家族にあたり散らしていたようだった。消えてしまった理由も、たぶん父についてだろうと、母がもらしていたのを少しだけ聞いたことがある。
 今はこんな風に落ち着いていて、まるで他人のことのように語れるのがおかしいくらいだ。
 正直言うと、五年間も備前焼を見ていながら、いまだ土についても、焼物についても分からなことが多い。いや、日に日に増しているようにさえ思われる。
 ただはっきりとした事は、焼物にひどく惹かれていることだけだ。
 土のつくる表情や、粗さも色も異なるそれぞれの土味、どれひとつ同じ物ができないのに、自分のつくった作品なら、どんな些細なものでも、ぐい呑み茶碗一つですらわかってしまう。
 焼き上がってからでないと、どうなっているかがわからない焼きの表情に魔術のように魅かれ、思う通りにできないぶん、それ以上の何かができている不思議さに、日々、とりつかれていった。
 「もう帰らなきゃ。美奈代が学校から帰って来る時間だわ」
 「ああそうだな。気をつけて帰れよ」
 由紀子があわただしくエプロンをはずすと、机の上においてある車の鍵を手にとった。
 私の窯場は、自宅から十五分ほど離れた山の中につくられていた。そのため車で通っているのだ。
 備前焼は岡山県の備前地方でとれる土でしか出来ない焼物だった。
 備前市のなかでも、伊部(いんべ)と呼ばれる町には窯場だけでも四百件はあり、市民の三分の一はなんらかの焼物に従事しているという、焼物の町である。
 そのためか、市には特別の条例があり、新に窯を造るにはかなりの規制と広範囲の住民の同意書が必要とされていた。
 息子が跡を継ぐというケースが必然的に多くなってはいたが、どうやら私は無理を言って窯を父と分けたらしい。
 そのため少し町から離れた山の中でないとつくれなかったのだろう。
 私はかなり父を意識していた。
 父も息子が、親の弟子であるうちは自分らしい表現が出来ないだろうと、土を分け、窯を新たに造ることを許してくれた。父の立派な窯がいくつもあるのにもったいない話だと思う。
 今でもそんな話を父から聞くが、やはり私としてはピンとこない。父も記憶をなくした私だから言えるのだと、おだやかに笑っていた。
 きっと父にしても、息子は一番がむしゃらに追って来るライバルだったにちがいない。
 私は陶芸家としての父の姿に惚れている。
 自信と誇りと、そしていつまでもひたむきな情熱をかたむけ、いまなお理想を追い続けている一個人として、その姿勢には頭がさがる思いだ。
 師としては厳しくあったが、普段の父は温厚なとても腰の低い人だった。
 私は花器の仕上げをすませると、父の窯場へと向かった。




 「その花器、いいですね」
 土をこねている父の脇から、私はそっと手元をのぞいていた。
 父は私に窯の用意をさせながら、自分はまた新しい案が浮かんだといって花器を造っていた。
 いい発想を思いついたら、すぐさま造りはじめてしまうのが彼の常である。
 「まだまだだな。この年になってもまだ、想像した十分の一も表現できん」
 一人ごちると、真剣な目を向ける。
 「年をとるとなかなか体力が追いつかん。もっともっとと思っているうちに、作品だけがどんどん目の前を通りすぎていく」
 父は作品が枯れることを恐れていた。
 陶芸をするにはかなりの体力がいる。成熟した技術を表現するには、それだけの力が必要だ。年に腕を食われることがなにより許せないらしい。
 いつも走らないとだめだ。新しい創作をしなくてはだめだ。
 それが彼の口癖だった。
 父は昔の焼物に戻る、『古代焼き』を目標にしていた。
 伝統のなかに自分の個性を表現することこそが、新しいものを産むことのはじまりなのだと言う。
 釉薬(ゆうやく)をつかわない焼しめ陶器では、自分自身の表現ということがなにより難しい。焼き方ひとつで表情をかえてしまう、気まぐれ娘なのだ。
 だからこそ自分の色が出せたときの嬉しさが忘れられない。難しいがゆえに面白い。
 「こんなもんか」
 父はヘラを置いた。厳しく見つめていた。
 「もうできたんですか。たった三十分で」
 たぶんこれだけの作品を私が造ったなら、じゅうぶん半日はかかるだろう。
 「たった三十分じゃない。これはわしが造ってきた、四十年と三十分の時間でできあがった物だ」
 「……確かにそうですね」
 私はなるほどとうなずく。
 よく揉んだ藁を模様付けに敷きこみながら、この作品の大半が父の手による物だということに、いまさらながらに感心してしまう。
 いくつかは弟子や、知合いの頼まれ物だろうが、これだけの作品をこの年で造るにはそれ相当の気力がいる。
 いくつかの作品の乗った板を、そっと竹の棚から降ろしていった。
 大きな作品には、それこそ細心の注意を払いながら、より丁寧に扱った。
 初めのころは、必要以上に力がはいり、ひどくビクビクしていたものだった。落として割れはしないかと始終こわがっていた。
 土の選び方から、こね方、扱い方までを、すべて細かに父から教わった。通いの弟子が二人ほどいたが、いまは彼らも自分の窯を持っている。
 父の窯焚きには、何人かの弟子が手伝いにやって来るのだが、どうやら今日はまだ私ひとりらしい。
 「乾燥させたらほとんど割れていた、なんてこともありましたからね。あれには驚いた」
 「そりゃあおまえが急に土を乾燥させるからさ。目が細かすぎるとだめだ。土は適度な粗さがいる。大きな物や厚みのことなるものも割れやすい。乾くとき縮んで大きな圧がかかるからな」
 窯に入れる前ならなんとか土に戻せるが、焼いた後ではそれこそ廃棄物にしかならない。
 いつだったか、習い初めに見ようみまねでこっそり焼いて全部割れてしまった。
 「誰でもすぐに造りたくなるもんだ。学校に一年ばかり行ったやつが、その気になって焼いてみてもなかなか上手くいくもんじゃない。最低でも三年、長くとも五年は修行せんとな、土のことはわからんよ」
 一応名の通っていた息子に、また一から教えなければならなかった父の気持ちを考えるとやはり申し訳なくなる。
 だがそんなそぶりを少しもみせず、根気よく父は教えてくれた。楽しそうにさえあった。
 父の窯の外には土が積まれて雨ざらしになっている。長く置いておけばおくほどいい土になるといい、最低でも十年は置くらしい。
 そんな土が目の前に積まれているこの場所は、はまさに宝の山だ。
 ほとんどもう、備前地方では土がとれなくなってきている。いい土をどれだけ持っているかが、これからは財産となる。
 父は土を大切にしている。いまだ私にも触らせない土があるのを知っている。
 「父さん、薪は足りるんですか?今回はどのくらい焚くんです」
 「そうだな、ちょっと大きいヤツがあるから二週間ばかり焚こうと思っとるんだがな」
 「二週間ですか」
 赤松の薪の束をみあげながら計算した。
 一日二百束焚くと見積っても、十四日で二千八百。千二百度ほどの高温で一日じゅう中焚き続けるにはかなりの薪がいる。そしてそれをくべる体力も。
 「彰、ちょっと休憩するか」
 父の声に、私はだいたいの薪の数を確認しおえてから、椅子に腰をおろした。
 「おまえんところの窯の様子はどうだ」
 「ええ、おかげさまで大概の準備は終えてますよ。後は窯詰めの仕上げだけです」
 「おまえのところは由紀子さんがようく手伝ってくれるからな。記憶をなくしたときには、わしもどうしたもんかと思っていたが、ほんとによくやってくれる」
 「私も感謝していますよ」
 父は濃い玉露をすすった。
 「このあいだ、おまえの造った花器をみたが、なかなかいいもんをこねるようになったな」
 「まだまだ、全然ですよ」
 「まあ、まだはまだは確かだが、昔の悪い癖がぬけて素直ないい土味がでるようになった」
 あんまり真剣な顔をして言うので、思わず照れてしまった。
 自分の作品など素人に毛がはえたくらいだということは知っている。もちろん父の足元にも及んでいないことも。
 「作品というものは、自分の心理状況がはっきりと出るもんだ。心持ちが素直なときには土も素直だし、荒れているときにはきつい表情をしたものができる。いまは表情が優しい。由紀子さんもよく笑うようになった」
 「そんなに私は、由紀子にきつく当たってましたか」
 「作品ができんのはまるで由紀子さんのせいだといわんばかりだったぞ。一人息子で甘やかしたせいだと母さんも悔いておった」
 返す言葉もなくなく苦笑する。
忘れてしまったとはいえ、過去の事実は消えようもない。
 「まあ、ここまで来るのに、おまえほど土を無駄しやつはおらんからな。せいぜい一人前になることだ。もったいない」
 「それを言われるとなおさらつらいなぁ」
 「今日はもういい。あとはわしが自分でするから帰れ」
 「でももう少し――」
 「美奈ちゃんと約束しているんだろう。またおじいちゃんとこに文句がきて、美奈に嫌われたらたまらん」
 甘い笑みを浮かべた。
 ほんの少し口にしただけなのに美奈代の話を気にかけていてくれたらしかった。
 



 私はぼんやりと、窯場のうらにある雑木林を歩いていた。
 ちょっと行った先に、わりと大きな岩場があった。
 草にうもれながらもかすかに小川が流れていた。めったに人の来ない穴場であり、私はときどきぼんやりしにきていたのだ。
 もっとも穴場といっても、もう一人仲間がいた。
 宮家聡という中学一年になったばかりの少年だ。
 私が来る前からだろうか、彼はよくここへ来ていたようだった。たまにこうしてはち合せをする。
 彼は家でうまくいっていないらしく、最近ではひんぱんに来ていた。
 私も彼もほかに行く場所もないので、まるでお互いに、相手がいないかのようにその場に座っていることが多い。
 ずいぶん内気なようで、彼がポツリポツリと自分のことをしゃべり出したのはつい最近のことだ。
 「やあ、来てたのかい」
 聡は顔を隠すようにそっぽを向いた。
 殴られたらしい血が唇の端に固まっていた。
 いつものようにじっとうつむいて、なにを耐えているのか流れる水面をにらみつけている。
 浅い川底には備前焼のかけらがいくつも光っていた。ここにある全部が、私が叩き割ったものだ。
 何度も何度も失敗しては、昔の私と比べられる悔しさと苛立ちをぶつけていた。それで不満をどうにか解消していた部分もある。
 そんな私の姿を偶然見てからか、聡は私と口をきいてくれだした。
 どこか神経質そうな目がギラギラしていて、痩せて尖った顎が彼を幼くみせている。同じ年の少年たちに比べて、いくぶん小さいように思われる。
 「また殴られたのかい」
 聡はコクンとうなずいた。
 「僕、ちゃんとご飯、食べられないから」
 言って、川面にきらめく陶器のかけらをみつめていた。
 彼は母親の作る料理をどうしても食べられないらしかった。それでも無理に食べると吐いてしまうのだという。
 父親はそんな聡を汚いもののように罵り、兄弟は気味悪がっているらしい。
 三人兄弟のまんなかで、上に兄と、一才違いの妹がいるらしい。どちらもよくできる、いわゆる秀才肌の兄弟で、彼一人が落ちこぼれているという。
 「僕は、父さんの本当の子じゃないんだ。いつも僕が吐くたびに自分の子じゃないって母さん責める。……でも事実なんだよ。母さんが他の人と抱き合ってるのも、知ってるし」
 「……そうか」
 母親の浮気現場を何度か見てもいるらしい。
 それからというもの、聡にとっては母親が汚らしく感じて、彼女の手によるご飯が食べられなくなったのだ。できの違う兄弟にもひどく引け目を感じて、家ではつねに萎縮しているようである。
 過剰なほど敏感な彼には、きっと父親の接する態度は、いやというほどの疑いと差別を感じるのだろう。
 「僕はいらない子なんだ」
 聡はよくそう言った。
 まるで自分でその言葉に慣れようとするかのようにつぶやいている。
 なぜかはわからないけれど、私にはその言葉の意味がよくわかった。
 いらないのだと、必要とされてないのだと言い聞かせておかなければ、気を許したふいにひどく傷つけられてしまう。その傷はあまりに痛すぎて、立ち直れないのだ。
 私は由紀子に否定されることをずっと恐れていた。
 彼女がいなければ、たぶん今の私はいない。
 きっと行き場所を失い自分を失う。
 恐れている。彼女に捨てられることを。彼女がいなくなってしまうことを。
 彼女への愛はときとして、私自身を縛りつけ窒息させてしまうような気がする。
 なぜか私には聡が他人とは思われないように感じていた。
 求めても求めても手に入らない何かを、ずっと求め続けなければならない苦しみ。
 愛する者に、いつか捨てられはしないかという絶え間ない恐怖。
 それらはつねに胸を焦がし、それでもあふれんばかりの愛情が流れ出てしまう。
 聡はきっと母親に殴られながら、耐えているのだろう。母親の苦しみを自分の痛みとして受け止めながら愛を手ばさないではいられないのだ。
 私たちはただ黙って川の流れを聞いていた。
 訳のわからない不安にはそれだけが慰めのような気がしていた。
 



 父の本をめくっていた私は、いつしか夢中で見いっていた。
 それらは確かに素晴らしいものだった。
 薬を使ったわけでもないのにでる鮮やかな照り。微妙な赤い色は、鉄分を含む割合だけで決まる。
 あまり手をつけていなかった倉庫の奥から出てきた本は、父のまだ若いころの作品集だった。
 熟成されていない荒々しい、だがそのぶん勢いのある作品ばかりだった。かける意気込みの激しさがつたわるようなものが幾つもある。
 本のなかから数枚の写真が落ちた。
 それは父の作品集をまねただろうものだったが、一目で違いがわかってしまう。
 いっしょに出てきた日記帳を開いた。私はまるで他人の日記を盗み見るような錯覚に襲われ、鼓動が大きくなってきていた。
 『○月○日
 親父の作品をまねてみた。――まるで違う!なぜだ!まったくどこもかしも違っているではなか。
 どこがどうちがうのかわからない。
 どうして違うのだ。土か?
 きっとそうだ。なにか特別なものがあるにちがいない。』
 
 『○月×日
 親父に土のことを話してみた。
 土じゃないという。俺の心持ちだと怒鳴られた。
 俺のギスギスした荒くれた心持ちが土味を殺している、自分の問題だと言いやがった。
 俺のどこかいけないというんだ!
 どこが違う。心持ちなら誰にも負けない。俺はうまくなりたい。誰にも負けたくない。
 絶対土にちがいない。親父は隠しているんだ。
 ――土が欲しい!土が欲しい!土が欲しい!
 いい土だ。鉄分も砂も適度に混じった、いい土が手に入れば、きっと思うような作品がつくれるはずだ。
 欲しい。親父はどこに隠しているんだろうか。俺が盗むとでも思っていて隠しているんだ。なんて卑劣なやつだろう』

 『○月○日
 できない!どうしてもできない。なぜ思う通りのものができないんだ。
 俺には才能がないのか。親父のような天才と言われる血が流れてないのか。
 いや違う。そんなはずはない。
 だが由紀子の目が、親父の作品と、俺の物を見るのが全然違う!
 ちくしょう!由紀子が驚くようなものを造ってやる!」

 『○月×日
 なにが間違っているのだろうか。
 全部割れてしまった。新しい試みだったのに。
 由紀子が心にもない慰めを言うのでついカッとして殴ってしまった。最近よく手がでてしまう。こんなことじゃいけない。彼女を傷つけるなんて最低だ。』

 『○月○日
 焼いたばかりの壷をすべて割ってしまった。どうしても親父の作品が頭をちらつく。
 ちきしょう。親父の作品は俺の理想形だ。俺の理想が親父の手によって簡単に造られているなんて許せない。それでも親父は自分はまだだという。
 じゃあ俺は?親父のような作品すら造れない俺はなんなのだ?
 泣きながら由紀子が割った破片をかたづけていた。そんなものは捨ててしまえと言って殴ってしまった。
 ――またやってしまった。どうしてこうなるのだろう。由紀子を泣かすまいと何度も誓ったのに。』

 『○月×日
 焼物の卸問屋から、去年の半分ほどでいいという電話がかかってきた。売れないのだという。今ですら親父の半分の値もついてないのに。どこが親父のと違うんだ!
 俺は絶対認めない。俺はできるはずだ。
 備前焼以外に何かないだろうか。
 親父は昔にこだわっているが、俺はちがう。新しい技法を取り入れて、もっと斬新で創造的な俺の焼物を造ってやる。』

 『――由紀子を殴った。あいつの憐れむような目がゆるせない。めちゃくちゃにしてやりたい衝動がおさえられない。
 彼女をむりやり犯した。
 ぐったりとした由紀子を抱きながら俺は泣いた。俺は最低だ!』

 『――ごめん由紀子!ごめん、許してくれ。愛している。おまえに捨てられたら俺はどうすることもできない。由紀子は俺の全てだ。愛している愛している――。
 ああ、なのについ手が出てしまう。何故だ。由紀子だけが俺のすべてなのに、由紀子だけが――』

 私は思わずノートを閉じてしまった。
 書き殴ったような字からは激しい感情のゆれと強い思いが伝わってきた。
 私は驚きつつも、なぜかこのノートの中の男に、いいようのない嫉妬を覚えていた。
 なんという情熱だろう。
 焼物へ向けられる一途な思いをこんなに純粋につづっている。たしかに同じ自分のはずなのに、過去の自分が憎くさえある。
 今の私にこれだけの思いはあるだろうか。同じ立場の男として嫉妬せずにはいられない。
 そしてなにより、由紀子への思い――。
 傷つけながら、それでも愛さずにはいられない、手放すことができない狂おしい思いが痛いほど伝わってくる。
 めちゃくちゃにしてしまうほどの甘えと、捨てられては一日たりとて生きていけない激情を同時に存在させ、それをすべて由紀子に向けているのだ。
 それでも由紀子に愛されていた。暴力ですら、あの柔らかな胸に抱きしめられていた。
 記憶を失ってさえ、こうまで由紀子を愛しいと思ってしまう自分に驚くしかない。離したくない。彼女をだれにも、なににも奪われたくない。
 それが過去の私でもだ。
 彼女の心は私だけのものだ。絶対に、私だけのものなのだ。
 執着だ。
 これは、由紀子という女に対する執着なのだ。
 私はあらためて驚く。自分の中にこんな荒々しい感情が眠っていたのだ。
 思い出したい。彼女と過ごした過去を、この男に負けないほどの情熱をいまこそ思い出したい。
 しばらくして苦笑がもれた。自分のなかの何ともいえない感情がなさけないやら、醜いやらで、あきれてしまう。
 私は同じ自分に、嫉妬しているのだ。




 その夜、私は由紀子を抱いていた。
 貞淑な母親としての役割を終えた彼女は、夜だけは美しく淫らな女となった。
 彼女の体を狂おしく抱きよせながら、彼女と過ごす時間が増すにつれて、飲み込まれてゆく自分を、どうしても止めることはできなかった。
 「どうして笑うの」
 由紀子が不思議そうにみつめた。
 「いや、どうしてこんなにおまえに夢中になるのかと思って」
 由紀子は淫靡に微笑んだ。
 今日の彼女は熱く燃えていた。
 求めれば求めるほど情熱を返してくる。昼間の清純そうな彼女からは想像もできないほど熱い肢体で私をいくども誘う。
 私はそんな彼女すら愛しくてたまらない。美しいと思ってしまう。
 由紀子を殴っていたころの私と、今の私とどちらがいいのかと、聞きたい衝動に思わずかられてしまった。
 「おまえ、近ごろは『昔のあなたは』って言わなくなったな」
 「私、そんなに言ってたかしら?」
 「言ってたさ。まるでそうでなくちゃいけないようにさ。ずいぶんそうなろうと頑張ったけどな。やっぱり無理だったよ」
 そう、私は妻の言う通りの男になりたかった。
 「今のあなたで十分よ。いいえ、今のあなたが、いいわ。好きよ」
 「由紀子……」
 それ以上私に言わせないように、由紀子がくちづけた。
 最近の彼女は、まるで私が過去を思い出さない方がいいとでもいうように、昔のことを言い出そうとする私の言葉をさえることが多かった。
 過去の私はもう、諦めたのだろうか。
 だが、ときどき私はイライラして落ち着かなくなる。どうしてか他人から知るしかない過去は、ずいぶんと居心地が悪くてたまらない。
 だが由紀子がもし今の私を愛してくれているのなら、これ以上の過去はいらないのかもしれない。
 彼女がそう、望むなら。
 私は由紀子の中にふたたび身を沈めていった。
 



 由紀子は子供会のバザーに出すという、銀のカップに入ったケーキのようなものを焼いていた。
 マフィンとかいっていたが、美奈代の好きなおやつだった。
 由紀子はよく料理だのお菓子だのを作っていた。料理が好きだという彼女の腕前はなかなかのもので、よく子供会やPTAなどに頼まれているようである。
 私は手際よく仕上げてゆく彼女の手つきにみとれていた。どこか彼女が気まぐれに造る備前焼に通ずるものがあるような気がする。
 料理のうまい人は、生け花もお茶も、習字さえもうまいという。
 私もいまだ、箱の書付けのために字を習ってはいるが、なかなか彼女ほどうまくは書けなかった。
 私は字を書くというよりは、どちらかというと絵を描くほうが好きだった。
 暇を見つけて少しづつ絵を描きためていた。
 むろん趣味だ。
 由紀子の料理姿などもう何枚になるだろう。そう言いながらもまた、私は描いているのだが。
 一度など、由紀子と美奈代の絵をみた親友が、私の備前焼きの作品より、絵の方がずっとうまいといって展覧会の話もってきたほどだった。
 「こんちわース。じゃまするよ」
 まさに噂をすれば影、である。東京から買付けにきた中溝の声だった。
 中学校の同級生だったらしい彼は、今では東京に焼物の店をひらいている。
 昔から気心が知れているらしく、いまさら記憶を失ったぐらいどうでもないと言い切り、まったく歯に衣を着せぬ物言いをしてくる。
 よくない焼き物には、きちんとよくないといい、売れる物と売れない物を、はっきりと教えてくれた。私にはそれがかえって心地よい。
 「よお久しぶりだな。まあ座れよ」
 すでに勝手に入ってきている中溝に椅子をすすめた。
 中溝は絵を描く私の手をみつめ、ならんでいる備前焼よりも神妙な顔つきで声をかけた。
 「やっぱりおまえ頭を打ってからのほうがいいんじゃないか。別の才能が開花してるぞ、絶対。真面目にさ一度、絵の個展でもひらいてみろよ」
 「こんなのほんの手慰みさ」
 「いや、そんなことないって」
 「そうですよ中溝さん。変な話をしないで下さいよ。そうでなくても寡作なんですからうちのひと」
 由紀子がからかわないで欲しいというように台所から声をかけた。
 「そういうけど由紀子さん、これだけの絵を描けるやつ、なかなかいないよ」
 私は笑いながら、由紀子のいれたコーヒーを中溝のまえにおいた。
 「備前焼での言葉なら大歓迎なんだけどなぁ」
 「世の中そう甘くないって。けどこうやっておまえが由紀子さんの手伝いするようになるとはなぁ、何度みてもビックリだよ。昔なら偉そうに、お茶が遅い、つまみを何かだせ、あれをしろ、これをしろって、ふんぞり返ってたのによ」
 「まだ言うのかよ。まいったなぁ、まったく。由紀子には感謝してもしきれないほど感謝しているよ。手伝うくらいあたりまえさ」
 「人間丸くなればなるもんだ。おまえ記憶が一回なくなったほうがやっぱりいいよ、うん」
 「ひどい言われかただ」
 由紀子が焼きたてのブルーベリーのマフィンをさしだした。彼女の笑みが青ざめて見えるのは気のせいだろうか。
 「本当だぞ。昔の作品よりずっとファンがついてきているしな。俺としてもおまえがいいものを造りだしすのが嬉しいんだ」
 うまい、といって由紀子のマフィンを一口で頬張ってしまった。
 だだいまぁ、という美奈代の声がした。学校から帰ってきたらしい。
 美奈代は小学校の帽子をとると、私に飛びついてきた。ここのところ窯のほうが忙しくて相手をしてやっていなかったので、ひどく嬉しいらしい。こんな時間にゆっくりと会うのは久しぶりだ。
 「パパただいまぁ」
 「おかえり美奈代。今日はどうだった」
 「今日はね、先生がカゼをひいて、声がガラガラだったのよ」
 「おーい、美奈代ちゃん。おじちゃんもいるんだぞぉ。目にはいってるかなぁ?」
 首にだきついてブラブラしている美奈代に中溝がさびしそうに声をかけた。客の存在がみえないほど、娘が父親に夢中だというのは、けっこう気分のいいものだ。
 中溝は美奈代をからかうように見つめて口をひらいた。
 「しかしちょっと見ないうちに大きくなったなあ。どんどんママに似てきて、きっとそのうちとんでもない美人になるな、こりゃ」
 もっともらしく言われて、美奈代はてれたように笑う。由紀子が声をかける。
 「美奈代、いらっしゃいは言った?」
 「いらっしゃいおじちゃん」
 私の膝からおりると、中溝をみあげておしゃまな目を輝かせた。
 「ねえ、おじちゃん。パパの備前焼、高く買ってよね。うち貧乏だからおじちゃんがたくさん買ってくれないと、美奈代のおもちゃが買えないわ」
 「ハハッ。こりゃまいったね、いいお仕込だ。誰に似たんだろうな」
 「美奈代、うちの家計をばらすな」
 しっかり者の娘に笑いがこぼれる。
 「だってこのあいだラブリーキュートのしゃべるお人形買ってくれなかったじゃない。みんな持ってるのよ。美奈代だけもってないんだから。ねぇ、買ってよパパ」
 口をとがらせて私の足にまとわりつく。
 このころの女の子はどんどんませていって困るくらいだ。
 だが笑う美奈代の可愛さにはどうしても勝てない。記憶を失って一番とまどったのは娘のことなのに、いまでは可愛くてしょうがない。
 私の腕のなかで笑っている美奈代に由紀子がいった。
 「美奈ちゃん服を着替えてきなさい。マフィンが焼けてるわよ」
 「はーい」
 私と美奈代をみる由紀子の目は、どこか寂しげに感じる。
 私だけの思い過ごしかも知れないが、彼女がこんな表情をするたびに、私は不安を覚えてしまう。
 「おじちゃん見て見て――」
 美奈代は着替えもせずにすぐに引き返してきて、私が描いたお気に入りの絵をみせた。美奈代を抱いている由紀子の絵だった。
 どこがどう気に入ったのか、美奈代はその絵をずいぶんと欲しがり、私はスケッチブックをやぶって美奈代にわたしてやったのだ。以来、宝物の一つにはいっているらしい。
 「へーえ、こりゃあいい絵だ」
 中溝は手にとってまじまじとみつめた。
 私はうなる彼になぜか照れる。ほんの落書きなのだ。人にみせるような絵ではない。
 「おまえ一度本気で描いてみろよ。かなりいいところいくぞ」
 「だめさ。俺は由紀子と美奈代専門の絵描きだからな。それ以外は描けないんだ」
 私が描きたいと思うのは二人だけしかいない。記憶を失ってまでも離さなかったスケッチブックにはやはり由紀子が描かれていた。
 まだ描きかけだったが、笑っている由紀子らしき女の水彩画はとても綺麗だった。
 他に何点かあったが、それらは木や花の素描ばかりで、血にところどころ汚れていた。だが、やはり由紀子の絵が一番よかった。
 「この絵、どっかで見たことあるような気がするなあ。ああ、そういやおまえ、このあいだテレビにでてたよな?」
 「テレビ?」
 「恩田の親父さんの窯場で、手伝っているおまえが大アップで映ってたぞ。見てないのか」
 「そういえば二年ほど前にテレビ局が来てたかな。親父の焼物についていろいろと取材していたみたいだけど、あんまり関係ないし、昔のことすぎてすっかり忘れていたよ」
 「記憶を失って一から始めた息子さん、だってなんて、お涙ちょうだいよろしく大きくやられてたぞ。顔の傷跡までばっちりだ」
 「傷まで?そんなにはっきりとですか」
 聞き返したのは由紀子だった。
 「ほんと悪趣味だよなぁ、由紀子」
 「え、ええ」
 由紀子はそれっきりおし黙ってしまった。
 「まあ二、三秒ぐらいだったけどな」
 「親父ずいぶん語ってただろう。あの人に焼物を語らせたら右にでる者はいないんじゃないかな」
 熱の入りかたが違う。中溝はそのとおりだと笑って肯定する。
 「でもまさか今ごろ流すとはなぁ。わかってたらビデオにでもとっといたんだけど。親父のほうは知ってたのかな」
 「俺がちゃんと撮ってるよ。今度来るときは持ってきてやるよ」
 「東京からか?ずいぶん先の話だな」
 「東京なんてすぐさ」
 中溝はそれからさんざん世間話をすると、晩飯までしっかり食べて、私の作品をついでのように持って帰っていった。
 「相変わらずにぎやかな奴だな」
 「ええ……」
 「どうした?あんまり食べていなかったみたいだけど、少し疲れたのか。顔色も悪いみたいだし。ああ、後はやっといてやるから先に休めよ」
 洗い物をしている彼女に声をかけた。
 私はバザー用に作ったあまりのマフィンを、ナイロン袋に詰めていた手をとめ席をたった。
 「大丈夫よ。何でもないから」
 「明日も忙しいんだろ、いいからほら」
 私はおすように由紀子の肩に手をかけた。ビクッと大きく反応して私の方が驚いてしまう。
 ふっと笑った彼女に愛しさが沸きあがる。抱きしめずにはいられなかった。
 「あなたがこんなに優しくなるなんて、思いもしなかったわ」
 「……そうか」
 「あなたでよかった」
 安堵ともとれる声音に、私は抱きしめる手に力をこめた。
 きっと私は何度でも彼女に恋をする。
 自分の妻に、私は幾度となく恋心を募らせるのだ。
 「ママ、ご本読んで――」
 美奈代の声がするのに、由紀子はするりと腕からすり抜けた。女の表情から母親の表情にかわってしまう。
 私がうなずくと由紀子は行ってしまった。
 私はそのとき、幸せすぎると不安になる、という言葉の意味が、なぜか分かったような気がした。




 窯場で土をいじる私のそばで、聡がじっとそれをみつめていた。
 朝から学制服のまま来ていた。私は何も言わずに聡に土をわたした。
 聡は見ようみまねでこねだすと、いつしか夢中になっていた。
 なかなか器用な手つきだった。
 繊細な心のまま、丁寧な細工を根気よく作っている。造形向きの手先だ。
 きっとはじめてやった時の私よりも、ずいぶんいいに違いない。
 「昨日ね、本当の父さんだという人に会ったよ」
 聡がぽつりと言った。
 「……お母さんがそう言ったのかい?」
 「ううん、学校の帰り道で待ってた」
 聡がさらに痩せて見えるのは、眉間の青いアザのせいだけではないようだった。
 「僕とね、似てた」
 「そうか」
 「妹の睦子も、なんかうすうす感づいてるみたい。僕を異星人のように見てる。――母さんと同じ目」
 「お母さんは君が知ってること、わかってるの?」
 「わかってるよ」
 造り物のように長い睫の向こうに、憎むように悲しく目が光った。
 「僕なんかいない方がよかったって」
 そうして彼は黙って殴られる。
 私はなにも言うことができなかった。
 いや、言う資格もないし、言ったとしてもどんな慰めにもならないだろう。
 ほんとうに助けることができない者は、うかつに助けてやるとは言ってはいけない。すがったあとの裏切りほど、大きな傷を残すことはない。
 「父さんが、好きだよ。でも父さんは……僕が嫌いだ」
 きっと父親のほうも、うすうすは知っているのだろう。
 自分の血ではない息子をもつ男の気持ちはどんなだろうか。たぶん嫉妬と怒りと、どうしようもない感情に苦しんでいるに違いない。そしてそれもまた、聡は知っているのだ。
 もしその男の立場なら、私はどうしただろうかと、ふと思ってしまった。
 美奈代が、別の男の子供としっていて、美奈代を本当に愛せるだろうか。
 「ちゃんと食べているのかい?」
 聡は首をふった。
 「母さんが触ったもの、汚いから」
 聡はそれ以上はなにも言わず、黙々と土をひねって何かを造っていた。
 彼が帰った後にみたそれは、鬼の面だった。


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