輝く大海の波に乗って

7



 シュロは刺客の剣に切られたうでを湖であらっていた。
 流れてゆく血の筋をみながら、疲れたように座り込んでいた。
 いつものシュロからは考えられないぐらい消沈しきった面ざしだった。
 「本当に生きていていいのかな」
 それは何度もおのれに問うた言葉だった。
 イシュラリオンに放たれた刺客たちのことではなかった。
 刺客を放たずにいられない、彼の心が、たまらなかったのだ。
 そのことを考えると、自分の生存について考えずにはいられない。
 同じ魂を持つ者なら、いま彼がどんな闇に飲み込まれ、狂わされているのか、容易に想像できてしまう。
 そこまで憎まれているなら――そう例えば、この命でそれが軽減されるのならば、とつい考えてしまう。
 だが、きっとそれだけでは彼の心は癒されないだろう。大切なものを奪った罪は消せはしないのだから。
 「なら死んだらどうだ」
 しずかな紫の両眼には、憎悪よりももっと冷酷で残忍な憎しみがたぎっていた。
 イシュラリオンがそこに立っていた。
 「イ、イシュラリオン、なぜここに?!」
 「私が眠らされているあいだに、ずいぶん勝手なことをしてくれたようだな」
 美しいだけに背筋が凍る。シュロと同じ人物とはとても思えない鋭さだ。
 「たかだかクローンの分際で、私の大切なすべてをよくも壊してくれたものだな。エーリリテを抹消し、たったひとつの希望だったエリまで殺した。エリが唯一残されたエーリリテのクローンだったんだぞ!それを、それをきさまのような代役の人形のために!」
 シュロはいいようもなく沈痛な面持ちになった。どんなになじられようとも言葉を返せない。
 自分でもわかる。きっとイシュラリオンにはとって、それらが消えてしまったことは、耐えられない事実の刃なのだ。胸から抜けずに苦しんでいるのだ。
 「イシュラリオン、僕は――」
 「貴様など死んでしまえ!私からなにもかも奪い去った。おまえは私の敵だ」
 汚らわしいとばかりに呪いの瞳をむける。彼の背後で、闇が不自然に動きふくれる。
 「そう楽には殺さぬよ。生きたまま闇の者どもに喰わせ、叫喚の苦しみのなかで殺してやる。私と同じ組成の体をもっているなど、許せぬ。細胞の一粒までも残さず踏み砕いてやる」
 風が嵐のように吹きつけた。岩間の雲母がけずりとられ、鋭い刃先でシュロの頬を切った。
 「シュロ!」
 「シュロ様――?!」
 帰りが遅いのを心配して迎えにきたファナーとラキは、シュロとおなじ形質の存在に足を止めた。シュロ以上に美しくことさらに禍々しい。
 だが見えたのは一瞬間のことだった。
 イシュラリオンは時空を変換させ、テレポートしてしまった。
 「シュロ様?!さ、さっきのはもしかしてイシュラリオン様――」
 「シュロ?」
 悄然としたまま立ちすくんでいるシュロ顔は、蒼白だった。泣いているのかと思い、二人はドキッとした。
 「僕が死ねばよかったんだ。そしたら王妃(エーリリテ)は復活出来たかも知れないのに。エリだって死なずにすんだんだのに」
 「そ、そんなこと……」
 「僕が死ねば、少なくともイシュラリオンはああまで狂わなかった。この体は本当は彼のものだ。僕はなにも持っていない。なにもない。体も意識も、すべては彼のものなんだ」
 「なに言ってるんですかシュロ様」
 ラキがシュロの髪を引っ張りゆすった。
 「僕はシュロ様に拾われて命をもらったんですよ。シュロ様が自分を否定したら、僕の存在理由までもが否定されちゃいますよ」
 「そうよ。もしあなたがイシュラリオンに体を返すことが――死ぬことが、彼のためになるなんて考えてるんなら、すごい大間違いよ」
 「――間違い?」
 「だって、それで彼が幸せになれるっていうの?あんたを助けたエリって子の気持ちはどうすんの?自分で言っていたじゃないのさ、うんと幸せになるほうがいいって」
 「エリ……」
 ――シュロ様、自分を愛さなきゃ駄目ですよ。死んだ人はもう戻ってこないんですもの。
 そう、誰も戻ってはこない。
 「それにさ」
 ファナーは眉をしかめた。
 「チラッとしか見てないからわからなかったけど、あの人から、魔の臭いを感じたわ」
 「魔……やっぱり……」
 「そういえばちょっと凶悪すぎましたよねあのお顔は」
 シュロは拳をぐっと握った。
 「確かに彼の背後に影があったような気がした。けど、なら、どうして彼に魔が憑いてるんだろう。そう簡単には……」
 王といえば、絶対の力を持った不死者なのだ。その心を束縛するものが、はたしているのか。
 ふとシュロは思い出していた。自分を襲った魔界からの刺客がもらしたつぶやき。
 『なんだ、こいつクローンじゃないか』
 そう言って舌打ちしたのだ。
 その言葉から、シュロは疑いもしていなかった己の出自を調べたのだから。
 「そういえば、なぜあのとき魔界の者が、クローンの存在を知っていたんだろう。僕でも知らなかった最高の機密だったはずなのに……!」
 シュロのつぶやきに、吹きすさぶ風以外は、答えるものは誰もいなかった。
 



 それからようやシュロたちはイドリスの都にたどりつくことができたのだった。何度か刺客に襲われ、怪物にも遭遇したが、どうにか切り抜けてこられた。
 「生きているって素晴らしいですね〜、シュロ様」
 ラキがご飯を頬張りながら感動しているように言った。
 ファナーもガッついている。久しぶりの焼きたてのパンと肉料理に、シュロでさえ一生懸命だ。
 「みっ、水はどこ――?」
 シュロは肉料理に添えられていたイモを詰まらせた。真っ赤になってもがく。
 「おちついて食べてください。食べ物は逃げませんから」
 お茶を差しだしたウィラートは、食欲旺盛な子供を慈しむように見つめている。
 シュロはお茶をいっきに飲みほし、息をついた。
 「ありがとうウィラート。いや、いきなり押しかけてごめんね。そのうえこんなご馳走にまでなっちゃって」
 グラスを手に照れたように笑った。
 「まったく、最後までオルフにやられるとは思いませんでしたよね。シュロ様に財布を預けるのはやっぱり不覚でしたよ」
 ラキはまだ鳥肉にかじりついていたが、釘を刺すのは忘れない。シュロは面目ないと頭をかく。
 オルフは街につくなり姿をくらませていた。
 シュロから財布をかすめ、気付いたときにはすでに遅かった。人波に紛れてしまうのは彼の特技なのだ。
 旅をしているときからそうだったが、気がついたときには消えていたり、知らないあいだに戻ってきていたりして、どこか得体がしれないところがある。
 「おかげで飢えて死ぬところでしたよね。きっとこんなご馳走だったと知ったら、オルフのジジィ歯がみしてくやしがりますよ」
 「あいつはね食べるより酒なのよ」
 ファナーもようやく満足の吐息をついた。
 「悪いけど、あたしちょっと休むわね」
 言うなり、顔つきが変わる。瞳から金色がぬけ、茶褐色になる。髪までサラサラになっている。
 「セアラ、お腹はふくれたかい」
 シュロが優しく言うのに、セアラは戸惑った顔をした。
 「あ、あのシュロ様、ここは……」
 セアラはウィラートをみるなりビクッとした。
 黒い瞳の闇に飲み込まれたらなぜか二度と戻ってこられない気がする。ウィラートは微笑みながらセアラをみる。
 「彼女もまた稀有なるお方のようですね。聖なる巫女姫と、高貴なる魔の姫きみがひとつの体に同宿している。非常にめずらしい」
 「やっぱりわかるんだね、ウィラートには」
 シュロが感心して言った。
 セアラにウィラートを紹介すると、多少はおびえをやわらげたのか、ぎこちない笑顔をみせた。
 いきなり交代されたのがこんな奇妙な場所で、しかもウィラートのような男が立っているのだ。おびえるなというほうが無理であろう。
 シュロはこれまでの事をかいつまみ語った。
 「なるほど。それはなかなか。……ユールもずいぶん苦労しているようだな」
 「ユールが?そういえば、ユールからなにも聞いていないのかい」
 「あれから一度も会っていませんよ。それに歪はどうやら地方のほうから大きくなっているようです。中心部の方は魔界人が増えたことと、あとは情緒不安定による死傷事件が多発しているぐらいです」
 「やっぱり白い石の巫女の不在が長かったから、イシュラリオンまであんなことに……?」
 「人間というものは、根源的な不安を絶えず内側で振動させているものです。それはあなたが何をしていても、もしくはしていなくても同じことです」
 「そうかもしれないね」
 「あなたにせよユールにせよ、そして偉大なる王イシュラリオンであっても、なにかをしようするときはもがき苦しむ。そして罪を犯すこともあります。――私は思います。だからこそ人は美しく愛しい生き物であるのだと」
 「……なら僕はもがいてもがいて、もがき苦しみ、血を流しながらでも、先へと前進する方がいいね。何がどう動き、どうすればいいかもわからない。けれど、僕は動いていたい」
 「世界は魔と入り交じり、昔の姿を取り戻しつつあるように思われます。時は進んでいるのです。過去を取り戻した未来というものは、あるいはカオス的エネルギーによる分裂を意味しているのかもしれません」
 「過去の姿なんて取り戻したって仕方ない。確かにこの世界も、ある程度の魔族と共存することは必要としているはずだ。影のない実体は脆く砂上の楼閣にも等しいからね。きっと、大きな歪みになる前に、小さな歪みとして小出しにしている。小さな歪みであれば、耐え忍ぶことができる。それが国家の本当の姿だ」
 セアラが尋ねた。
 「でもしもよ、魔界側のほうが、そのカオスってものを再び望んでいるんだとしたら?」
 「カオスの力は未知のものだ。混沌としたあらゆる可能性と、より高い秩序を秘めた創造の源泉なだけに、それは無秩序の乱れによって起こせるものではないんだ。また初めから、人も魔も始めなくていけないものなんだよ」
 「はじめからって、どのくらい?」
 「それは神の領域だろうね。古代神がそれをやってのけ世界を二分した。再び均衡を崩すことに意味はない。そうユールが言っていたよ」
 シュロは言いながら深い息をついた。
 「ところでシュロ、これからどうするのですか」
 「そうだね。とりあえずお腹は満ちたよね」
 「でもシュロ様、明日からの生活はどうするんです。ボクたち文無しですよ」
 「そ、そうだった」
 ラキが言うのにいまさらながらシュロは頭をかかえた。
 「よおウィラート、ジイ様の頼んどいた千年杉の枕、届いてるか」
 外の光と一緒に入ってきたのは、海賊船のキャプテン、サライだった。
 サライはシュロの顔をみると驚いたように目をみはった。
 「シュロじゃねえか!こんなところで会うなんてすごい偶然だな。元気にしてたのかよ?!」
 「サライこそ、元気だった?!」
 二人は驚きながら、久しぶりの再会を喜びあい、手をガシッと組んだ。
 「船の調子はどう?ウェルズじいさんは元気に料理してる」
 「ああ、じいさんな、このあいだとうとう逝っちまったよ。最後まであんたに会いたがってたっけな。いままでで最高の弟子だったって」
 「ウェルズじいさんが……そう…」
 「このところ海にも変な怪物が出だしたしてよ、なにせ荒れまくってるんだ。そのときも船員三人ほどが波に()られちまったし。聖石がなけりゃ船ごとお陀仏だったさ。おまえに感謝はホント感謝しなけりゃな、シュロ」
 「もしかして、ウェルズじいさんも怪物に?」
 「ああ、もう年だったからな」
 動きが鈍くて、逃げられなかったのだ。
 「おまえなら歓迎だぜ、いつでも戻ってこいよシュロ」
 返答に困っているシュロを見かねてか、ウィラートが品物を差しだしてきた。
 「サライ、品物はとっくに届いてましたよ」
 「ああすまねえ。うちの化物じじいも死ぬ準備をしてやがるんだよ。世界が終わるってさ」
 「千年杉の枕は不死の呪力があるんですよ。あの方に限って、死ぬ準備の必要なんて絶対にありえませんけどね」
 なるほど、とサライは納得する。本人だって死ぬ気はないのだ。ラキがシュロの頭上で言った。
 「ねえキャプテン、もし世界の終末をくい止めたいなら、どこか仕事の口捜してよ」
 「はん?なんだよ、それ」
 「とにかくシュロ様が喰いっぱぐれると世界の滅亡は確実なんです。海賊家業以外でなんか働き口がないかなあ?」
 訳がわからないと言う顔をしたサライに、背後でウィラートが笑っていた。




 さすが一行の財形の管理らしくラキはちゃっかり、サライの口ききで食堂を紹介してもらっていた。
 なぜ城にいたころ、ラキに管財課の仕事を任せていなかったのかとシュロは実に残念に思っていた。
 しぶしぶだったが、そこはサライの十才年上の従姉妹が嫁入りしたという店だった。
 かなりきっぷのよさそうな婦人が出てきたと思うと、訳もきかず、あっさり承諾してしまった。
 船でのシュロの腕前を話したことと、食べ物に不自由しないというラキと相手方との双方の合意によっての成立だった。むろんシュロは口を挟んでいない。
 「まあ、こんなかわいい嫁さんもらってんの、この坊や。やるねえ」
 ライラはちょっとせり出しはじめてきた腹を撫でカラカラと笑った。
 隣にいる少し気の弱そうな細身の亭主とは好対象だ。これでも大恋愛のすえの結婚という話らしい。
 「――シュロ様が迷惑ですわ」
 セアラが頬を染めていた。ライラはニヤリと口をゆがませる。
 「いいねえ若いもんは。まあしっかり働いとくれ。サライも安心しとくれよ。ああ、それから長老たちにもよろしく言っといてよね」
 「まあよろしく頼むよ。俺の――いや、俺たちの恩人だからな」
 さすがのサライも迫力負けしていると見える。買い込んだ荷をかつぎさっさと船へ戻っていった。
 「さて、あんたたち何ができるのかねえ」
 「誰か厨房を少し手伝ってもらえると嬉しいんだけど。このところ忙しくなってね」
 主人のイルがオズオズ言った。人のよさそうな優しい笑みが眼鏡の奥からのぞいている。
 「じゃあシュロ、それはあんたに任すよ。――えっとセアラだっけ、おまえさんは給仕だ。それだけべっぴんならうちの看板になれるよ。そっちの人形は何かするのかい」
 「人形じゃないですラキです。ボクも――」
 少年形に変身した。
 「ちゃんと手伝えますから」
 とりあえず、三人の落ち着き先が決まったようだった。




 それから十日もしないうちに、ライラとイルの店、フラム停は大盛況となっていた。
 ちなみにフラムとは、サライの船と同じ名前である。
 「最近なんだか味が上品になったわねえライラ。イルったら腕をあげたんじゃない、それにお店もちょっとお洒落れになったみたいだし」
 というのが女性陣の反応である。
 若い娘も多く顔を出すようになっていた。贅沢なメニューではなかったが、宮廷で出される上品な盛りつけが受けているらしい。
 女の半分はシュロ目的なのも含まれているが、男性陣の方はというと、味もさることながらやはりセアラが人気だった。
 「ねえセアラちゃんこんど俺とデートしようよ」
 「お店、忙しいですから」
 「俺、いい店知ってるんだ。ご飯でもゆっくり食べたいよね」
 「ちょっと聞きずてならないね。うち以上にいい店があるってのかいゼーオ。看板娘にちょっかいだすんじゃないよ、まったく」
 ライラによってほぼ撃退されてはいるのだが。
 いままで辺境の片田舎でくらし、しかも村人からつま弾きにされてきたセアラのウブな魅力に、男たちはまいっている。
 「いやあ、あんたたちが来てくれてからうちは大繁盛だよ。こんなお坊っちゃんに何が出来るのかって心配してたんだけど、いい腕してるね、あんた。セアラもラキもよく働いてくれるしさ」
 「本当だよ。僕もすごく勉強になってる」
 ライラとイルは口を揃えて誉めまくった。
 「とんでもない。こちらこそすごくお世話になっちゃって」
 そう言うシュロの足元には、十二才になったばかりの息子リオがまとわりついていた。もっぱらシュロの話がお気に入りで離れないふうだ。
 「シュロ、ねえヴァン・カディフの話してよ。山での野草や動物の話でもいいよ。この間みたいな怪物も入れてね」
 シュロの巧みな話術と、飽きることのない物語にすっかり夢中だった。最近では厨房にまでやってきて話をせがんでいる。
 ラキともすでに親友となっていて格好の遊び相手だった。
 三人がきて、実はリオが一番喜んでいた。
 「ラキと遊んでおいでよ。もうちょっと仕事が残っているんだ。あとで遊ぼうね、リオ」
 「えー、まっいっか。ラキ行こう」
 「でもシュロ様――」
 「大丈夫。あとはセアラとやっておくから」
 ラキはもとの姿に戻ると、リオの頭に乗り出てゆく。さすが子供には受けがいい。
 「リオもすっかりあんたらに懐いちゃって。なんだか昔からいたような気がして来るねえ」
 「そういわれるとそんな気がしてくるね」
 シュロが言うのに、セアラも同意する。
 「毎日がすごく楽しいわ。時間がとても速く感じてしまうもの」
 ライラはセアラがお気に入りなので、嬉しそうに目を細める。
 「女の子はいいねぇ。実の娘のような気がしてくるよ。リオじゃ髪も触らせてくれないし」
 髪をすきながら、自分が若いころに着けていたリボンやら服やらを着せて楽しんでいる。
 セアラも早くに亡くした母親を思いだしているのか、すっかりライラに心を許しているようだった。
 家庭の暖かさを知らないシュロとセアラは、ここで初めてその味を味わっていた。
 仕事が終わり二人きりになると、とたんにファナーが鼻を鳴らした。
 「ふん、セアラのやつ、くだらない仕事ばっかりなのに幸せそうな顔しちゃってさ」
 「ファナー」
 「あーあ、あたしの出番ないじゃないのさ。大っ嫌いな仕事ばっかりしてんだもんね」
 このところシュロのまえ以外では姿を現していなかった。
 これでも一応気を使っているのだ。
 「僕もこんなの初めてで、なんだかすごく楽しいんだよね。家族ってこんな感じなのかな。こんな雰囲気、きみも嫌いじゃないだろファナー」
 「ちょっと様子はちがうけど、あたしの一族はこんなもんだったわよ。あんたやセアラのほうがずっと貧しい子供時代だったみたいねえ」
 「そうだね。王としての英才教育を受け、それからユールと二人でずっと学校の寄宿舎にいたんだ。家族というと不思議とユールの顔が出てくるからね」
 だがそれはあくまでイシュラリオンの記憶である。
 ユールはいま、彼の側にはいない。
 「ときどきシュロって寂しそうな顔をするのね。いつも太陽のようにまぶしいのに、そんな顔されたらあたし……」
 「ファナー?」
 ファナーは真顔でつめよった。
 「ねえシュロ、あたしとセアラどっちを愛してるの?ううん、どっちがよけいに好き?」
 「やだなあ。どちらも好きに決まってるじゃないか。二人ともすごく魅力的だしね」
 「そんなの駄目!どっちか決めてっ」
 「なにを言い出したかと思えば」
 「だってシュロったらあたしとセアラに、ちっとも態度を変えないんですもの。つまんないわ」
 ファナーはシュロをベッドに押し倒した。
 「ねえ答えて。あたしの目を見てはっきり言って。どっちが、好き?」
 唇を近づける。目をつむりシュロに触れる。
 「こら、ファナーなにしてるんだ!」
 タイミングよくラキが帰ってきた。
 少年の姿のままで駆け込んでくる。
 「また邪魔する気なの?!もう、ほんっとにお邪魔虫なんだからあんたってばさ」
 「なんだよ色気ババア」
 「コラコラこんなところで何を言いあってるんだい」
 シュロがいい加減にしてくれとばかりに止めに入った。
 この呼吸もすっかり身についていた。
 「いつもこんなことばかっかりして。セアラばかりに働かせて役に立たないんだから」
 「あら、あんたより充分役に立つわよ。そういうあんたこそ、焼きもちはやめてよね。女に化けられないからってさ。みっともないわ」
 ラキがギクリとする。どうやら弱点らしい。
 「だ、だってボクは――その、見たことないからさ、女の人になれないだけだもん」
 「見たことないって?」
 「お、女の人の裸だよ。だってボクはシュロ様の稀獣だし、だれも……」
 「あら、じゃあ見せてあげましょうかほら」
 言うなり服を脱ぎ捨て、見せつけるようにすすみよってくる。ラキは止められない。唖然としている。
 「ほら、これが女の体だよ。よく見なさいよね」
 大胆なポーズをとったとたん、血が吹き飛んだ。ラキの鼻血だ。出血多量で青くなり、倒れてしまった。




 荷車に八十人前の料理を詰め終わると、ライラは馬を引いてきてシュロに手綱をわたした。
 「悪いけど、頼んだよ。地図はセアラに持たせといたから」
 今日は特別の料理だった。ちかごろのフラム停の噂を聞きつけて、わざわざ近郊の金持ちが注文してきたのだ。
 祝いの宴会のための馳走なので手間ひまかけて作ったものだった。
 「うん。じゃあイル、ライラ行ってくるよ」
 「ああ頼んだよ、気をつけて。帰りにちょっと遊んでくるといいよ。今日はもう店開けないからね」
 「ありがとう」
 シュロは馬を走らせた。
 昨日の晩から徹夜をして、イルと二人で料理したのだ。
 もちろんライラにセアラ、ラキそしてリオまでもが盛り付けたり、下ごしらえを手伝った。
 フラム停で初の大きな仕出しだった。
 金持ちから受ける注文はいままで受けたことがなかった。
 だが偶然立ち寄った貴族の息子がフラム停の料理を気に入り、是非にと頼まれてしまったのだ。
 シュロとラキでおおまかなメニューを決め、それにあわせてイルが味付けを考えた。
 これに成功すればきっと客が増える。もっと注文も多くなるにちがいない。
 「シュロたちが来てくれてからいいことばっかりだねえ。サライに頼まれたときは本心、どうしようかとも思ったんだよ」
 「まったくだね。好運の使者ってところだ」
 いつも控え目で、感情をそうあらわさないイルが、やけに嬉しそうにいった。
 腕はいいのだが、いまひとつ盛りつけに垢抜けなかったのと、自信がなく思いきり腕をふるうことができていなかったのだ。
 それがシュロが来たことで店の雰囲気がかわり、客が満足するのを目の当たりにしてひそかな自信がでてきた。
 チャンスが巡ってきたのだ。腕前の真価を問われ、成功すればもっと大きくなれる。
 シュロは知っていた。
 そのイルをよく助け、気負わすことなく支えているのがライラだと。息子のリオを見ても二人の愛情がよくわかる。
 ラキだけでなく、シュロやセアラにまでお菓子を分けてくれるような、伸び伸びとした優しい子供なのだ。
 「シュロ様、帰りにリオたちに何かお土産でも買って帰りませんか」
 セアラが珍しく寄り道を提案した。
 「いつもね、心細かに気使いしてくれるんですよ。遊びに行っても花を摘んできてくれたり、きれいな石を拾ってくれたりして」
 「そうだね。ライラやリオにもよくしてもらっているしね。感謝しきれないぐらいだよ。ラキもリオと留守番してくれているし」
 「何がいいでしょうね」
 シュロとセアラは馬を走らせながら楽しげに相談していた。シュロにしてもセアラにしても誰かにお土産を買うのは――しかも待っていてくれている人がいるのだ――どれくらい久しいことか。
 シュロの最後の記憶では、エーリリテに買ってきたテオドラド産サンゴのネックレス以来だ。何十年、いや何百年昔のことだろう。
 シュロはこんなに穏やかに日々を過ごしていていいのだろうか、という不安がどこかでゆれていた。
 だがこのままもう少し、もう少しだけ、幸せな匂いに囲まれていたい。
 ――ほんのちょっとのあいだだけ。
 願うような気持ちだった。
 時間までに着き料理を届け終わると、人のいい貴族の主はシュロたちに息子の婚約祝いのパーティに誘ってくれた。
 丁重に祝いの言葉をのべ断るのに、主は一杯のリンゴ酒をご馳走してくれた。甘く品のいい酒にほんのり酔い、二人はそのまま買物に立ち寄った。
 二人ははたからみると仲睦まじい恋人同士のように見えた。
 ほがらかに始終わらいあっている。その姿はその場だけが切り取られたような華やかさがある。周囲の目がしぜんと集まってしまうのだ。
 二人はめずらしい南方の果物とお菓子を買った。柑橘系の香料と、店に飾る小さなタペストリー。リオが欲しがっていた海賊船の模型と本もだ。
 「あまり長くは居られないだろうけど、せめてこれくらいはね」
 馬車で帰りながらシュロが言った。
 ここらがしおどきだろう。
 セアラの、彼女の気持ちは痛いほどわかる。本当なら両親のいるあたたかな家庭で、何不自由なく暮らしていてもおかしくないのだ。
 年頃からいけば、恋人がいて母親に裁縫を習ったり、料理を手伝っていることだろう。
 だがイシュラリオンからの刺客のこともある。地磁気の歪みや魔界との均衡も気になるし、何より城で起こっていることが心配なのだ。
 「セアラ、残ってもいいんだよ。ライラたちだってきっとその方が喜ぶはずだからね」
 「えっ?!」
 「もともときみは仕方なく着いてきてただけだもの。居場所が出来たなら落ち着いた方がいい」
 「私がついて行ったのは仕方なくなんかじゃありません!私はシュロ様のことを――」
 「――あれはなに?!」
 シュロはふと訝しげに指をさした。
 セアラも振り返る。黒煙がもうもうと上がっている。フラム停の方だ。
 嫌な予感がした。馬車を思い切り走らせた。
 空を飛んでくるラキの姿にシュロは叫んだ。
 「ラキ!ラキじゃないかどうしたんだ!」
 ススにまみれてた毛を焦がし、フラフラといまにも落ちそうに飛んでいた。シュロの腕までくると落ちてしまった。
 羽根まで火傷で皮がめくれている。
 「ラキっどうしたんだ!何があった?!」
 「イシュラリオン様が……」
 「イシュティが?!ラ、ライラたちは?」
 ラキの興奮して赤く発光していた目から涙がこぼれた。小刻みに震えて首を振った。
 「配下の者たちが来て、突然……」
 「――うそ、だ」
 「四人で待っているところを突然押し入ってきて、最後には、火をはなっ……」
 「なんで、ウソだわそんなの?!」
 叫んだのはセアラだった。
 セアラは絶叫した。耳なりがする高い声で何かの呪いの呪文のような言葉を吐いた。
 クッと顔が変わった。
 「よくも、よくもこんな卑劣なまねを――っ」
 憎悪に燃えたった恐ろしい目。
 ファナーだ。ファナーの黄金の瞳は理性をなくし魔性の光を帯びる。
 シュロはラキを抱いたままフラム停に走った。人垣をかき分け、まだ燃えあがっている店に飛び込んだ。
 「ファナー、ラキをたのむ」
 ついてこようとするファナーを制止し入口から、噴き上がる火にかまわず飛び込んだ。
 火の手ははっきりとシュロを避け、道を開いた。
 階段を昇り二階の居間に踏み込む。
 待っていたのはイルとライラそしてリオだった。折り重なるようにして死んでいるその姿は、互いに庇いあい、最後までリオを守ろうとしているその時のままだ。
 イルが胸を一突きにされ、そのまま三人が貫かれていた。
 「残念だったな、シュロ」
 ユラリと現れた人影にシュロは叫んだ。
 「なぜこんなことをイシュラリオン?!」
 「おまえのせいだぞ。おまえが他人になど関わるからだ。一人でのうのうと幸せになれるとでも思ったか。おまえに関わるものみな、八つ裂きにしてやる。地獄に堕としてやる。――それがおまえへの罰だ。呪うなら己を呪うがいい!」
 憎悪の念を必死でこらえているような低い声だった。
 シュロの青ざめた唇が震えた。
 「なぜ直接僕を殺さない?!僕を殺せばすむじゃないか。この人たちには何の罪もなかった。ほんの少し僕と知り合っただけで――」
 シュロは絶えきれず膝をつき顔を覆った。
 わかっていたではないか。
 心のどこかでいつも警告を発していた。なのにもしかしたらと考え甘えてしまった。楽しすぎて、もう少しだけを望んでしまったのだ。
 同じ組成体なのだから、そんなシュロの心が伝わってしまったのかもしれない。
 彼が苦しんでいるあいだ、その苦しみを与えたシュロだけが楽しんでいた。
 一人だけ逃れようとした。
 許せなかったのだろう。だが、だがなにもこんな――。
 「なにもここまでしなくても!」
 「おまえはラクには殺さない。苦しみに悶えのたうち回ってもらう。おまえだけが幸せになれると思うなシュロ」
 イシュラリオンの放つ憎しみに、炎の乱舞が大きくなっていった。
 シュロは懐にいれていた、リオの欲しがっていた船の本を取り出しリオに手渡した。いつかサライの船に乗るのが夢だと言っていた。
 「ごめんね……」
 大きくなる炎に焼かれながらシュロは涙がこらえきれずたちすくんでいた。




――私の姿を残さないで。クローンを、決して造らないで、お願いよ。
 そう、かすかな息に彼女は言った。
 ――私は過去の思い出として消えなくてはいけないけれど、でもあの人は、これからずっと先へ進まなくてはいけない。だから……。
 ――ごめんね。私ばかりが我侭いってこんなことを。いつもあなたにつらい思いばかりさせてしまったわね。どうか許してねユール。
 美しい黒石の瞳が涙にゆれた。じっとみつめる彼女の繊細なおもだちは真剣で、言葉にならない思いが痛いほど伝わってきた。
 痩せてほっそりした手が、形のいいユールの指を握りしめて、死に逝かねばならない彼女の悲しみを溢れ込ませていく。
 死は彼女をよりいっそう美しくさせていた。
 醜いものをいっさい切りはなし、悲しみさえまぶしい光となって輝いていた。
 それは人が触れられぬ禁忌の美であり、至高の幸福である。美しく気高いエナジーで霞んでみえるほどだった。
 そう彼女こそは全身全霊をかけてイシュラリオンに愛されたただ一人。
 愛されすぎ、ついに、一粒の『狂い』を彼に残してしまった。
 孤独はだんだんと大きくなり、狂いとなってゆき、かれのなさけ深く気高い心をおおってしまった。
 時とともに悲しみは純化され、ついにだれにも癒せないほどの狂気となって、世界を揺るがせはじめたのだ。
 高度な文明ほど単一化され、規格化された完璧なものほど、たった一点の狂いから簡単に崩れてしまう。
 世界の大陸はすべて一つにつながり、その巨大な機構の中心にあるのが、王というエネルギーの塊であった。
 そこを拠点としたレイラインが各地にむすばれ、国は王都によって管理されていた。
 王の力は地核のマグマが起こす、プレートの変動を制御することによって、増大し続けている熱量をどうにか押さえていたのだ。
 世界の火山が爆発し大陸が分断される危機を抑制しているのが、王自身なのである。
 その(かなめ)である王の精神に狂いが生じたとき、それが未来に与える影響とはなんであろうか。
 さらに陰陽の均衡を保っている魔界側にも、このところ異常な数値が見えはじめている。
 ユールは自分のコンピューターの弾き出す変動の原因について、いくぶんか推察しかねていた。
 「こればかりは神の領域かな。――いや、それともイシュティの狂いに呼応したのかもしれない。魔界側の要にも何かあったんだろうか」
 コンピューターのまえで腕を組んでいた。
 世界最高で最速のコンピューターを駆使し、何日にもわたって遠々と計算していたのだ。
 ユールの頭脳はすでに神の領域にほぼ近い。
 だがいくらその原因を予見できても、いまの状態ではとうてい魔界を制御できる力はもっていなかった。
 みずからの国の制御すらしかねているのだ。そしてなにより頼りになるはずの白い石の巫女が消えて久しい。
 「イシュティ……・。私のせいだな。私が、エーリリテとの約束を守らなかったから」
 魔は、確実にイシュラリオンを虜にしてしまった。
 彼の中の、悲しみで出来たわずかな隙間にとり憑きはいりこんでしまったのだ。
 予定以上に目覚めが早かったのも、どうせやつらのせいだろう。しかも最悪なことにユールが不在のあいだにすでに終わってしまっていた。
 計算では絶対に起こるはずのないミスだった。
 イシュラリオンに入れる予定のないエリの記録までが注入されてしまっていたのだから。
 エリのことは、ユールと白い石の塔の大神官との内々の秘密事だった。シュロの滞在期だけ存在させるはずだったのに、勝手に起動してしまった。
 ユールしかしらないパスワードのはずだったのに、悪意ある魔界の関与があるのは確実だ。
 イシュラリオンの人格はひましにゆがみ、黒い心に支配されていった。
 彼の怒りは予想をはるかにこえ、怒りと憎しみにつき動かされるように自分のクローンを追っている。その姿はまるで自己の姿を厭うているようだ。
 ユールはいま初めて、エーリリテの遺言を守らなかったことを後悔していた。
 あれほど死体を残すなと、クローンを造るなと頼まれたのに。
 未練を残させるだけで何も生みださない、クローンに意味はないと念を押されたのに。それでも作ってしまった。
 いっときのイシュラリオンの深い嘆きに負け、死によって時を止めたエーリリテの亡骸を、加工してガラスの棺に保管した。
 それも気がつけば、ただ悲しみを後へのばすだけの行為だった。
 魔界側との不均衡が襲ったときも、その局面にも立ち向かわせることを選ばなかった。精神状態を安定させるためといって、百年ほど眠らせ、その間のためにクローンを無断で造ったのだ。
 しかも白い石の塔の大神官と図り、エーリリテのクローンをシュロの手で育てさせながら、二人の気で魔界からの気を封じていた。
 シュロは知らず知らずのうちにエリの力を使っていた。
 だからこうしてここまで平穏でこられたのだ。
 すべてはイシュラリオンのためだと思っていた。
 なのに何もかもが間違いで、自分の愚かさゆえの罪なのだと気づいてしまった。
 イシュラリオンとは、ユールは同じ学校の同期生だった。
 三つ年下のユールは、そのころにはすでにその天才的な頭脳をもてあまし、特例的なこととして学年を三つも繰り上がっていた。
 なにをするにも学校から一目置かれ、生徒たちからも特別視されていた。どちらかといえばひとり孤立していた。
 イシュラリオンはといえば、次期王太子ということもあって、まわりの者にはなんとなく居心地がわるかったのだろう、はじめのころはそれこそ、異端なお化けにでも接するような扱いを受けていた。
 それも仕方ない。彼自身もまた、王家独特の威厳というのだか、高貴な目に見えないオーラのようなものを張り巡らせていたからだ。
 だがそれらを誇示することもなかったし、だんだんバリアーのようものが薄らいでくると、彼のほんらいの気質である、華やかで、人を惹きつけずにはいない陽光のようなきらめきにより、いつのまにか周りはにぎやかになっていった。
 その反対に、白い石の神官たちによって養育されてきたユールの雰囲気は、いつもかわらず、どこか冷たくて憂いに沈んだような重苦しいままだった。
 美しすぎる外見もてつだって、他の者を近づけない薄氷のようなものを感じさせていた。ましてや年下で自分たちより優れているとなれば、煙たがられても仕方がないであろう。そんなあきらめさえ持っていた。
 そのユールの手を掴み、皆の中に連れだしてくれたのはイシュラリオンだった。
 年など関係なく二人は親友になっていった。
 イシュラリオンは自分やユールの出自に関係なく、何でも話してくれたし、いつだって対等でいてくれた。
 「石の塔の出なんて関係ないさ。ここは身分なんてない、無法の領域なんだからさ」
 その通りであった。学校に入れば、貴族の御曹司も下町の秀才もなくみな等しい。才能あるものが集められ教育を受けるのだ。
 イシュラリオンは王となるまえに、色々な人間を見るためにとここに入れられたという。
 彼はいつだってユールを認めてくれていた。
 武術などの実技以外では、どの科目にしろ、一つとしてユールの最高成績を抜けなかった。はじめは対抗意識を燃やしていたようだが、ついにはあきらめ、敬意さえ示してくるようになった。
 「おまえってやっぱり天才だよな。なあ、ユール、白い石の塔なんて堅苦しい聖職者なんかやめて、僕の片腕になれよ。そしたら二人で世界を回せるぞ」
 イシュラリオンにとっては、政治も王としての無限の能力を使うことすらも、まだ楽しい遊びの一つでしかなかった。
 そんな奔放なイシュラリオンにユールは深く魅かれていった。
 そして、一番知られたくなかった秘密を知られたときもまた、彼は笑っただけだった。
 「いいじゃないか別に気にしなくても」
 「イシュティは、気持ち悪くないの僕が?」
 「なんで?だってユールはユールだろ。何もかわらないよ。僕はおまえの外見が好きなんじゃないよ。心で友達になったんだ」
 その言葉がどれほどの意味を持っているか、きっと彼にはわかっていなかっただろう。
 ずっと己に課せられた罪業だと悩み苦しんでいた。
 知られるぐらいなら死んでもいいと思っていた。それをいともあっさりとうち砕いたのだ。
 「僕で、いいの?」
 「おまえだからいいのさ」
 心の中にはじめて灯った光だった。
 手に届かなかったはずの遠い存在の彼と出会え、こうして親友になれた。
 感謝せずにいられないのと同じように、ユールはイシュラリオンを愛さずにいられなかった。
 そしてある時白い石の巫女である従兄弟のエーリリテを紹介した。
 よく話題にしていたので興味をひかれ、どうしてもと彼に頼まれたのだ。
 二人が会ったとき嫌な予感がした。
 そしてそれは的中した。
 イシュラリオンは、エーリリテに一目惚れをしてしまった。
 そしてたぶんエーリリテのほうもまた同じであっただろう。
 エーリリテはすでに巫女としての地位に就いており、イシュラリオンに仕えることを定められていた。彼の力が目覚めるまでのあいだ、地磁気の安定のために魔界の気を統制していたのだ。
 ユールはまさかと思いながらも、エーリリテのいる地位に安心してしまっていた。
 だがイシュラリオンの性格をそのとき失念していた。
 彼は学校を卒業し、王となってすぐに、強引にエーリリテを妻にしてしまった。
 かつてない異例のことに、王家や貴族、白い石の神官たちともかなりもめた。
 もちろんユールも反対するはずであったが、イシュラリオンの思いの深さを知る『親友』、としての彼には、とうてい無理なことだった。
 本気の彼をだれも止められはしない。
 機械のように冷たく正確なユールにもそれだけはわかる。
 それでも、ただイシュラリオンの暴走であったなら、とめることもできた。
 けれど神殿で唯一ユールの味方だったエーリリテまでもが、イシュラリオンを愛してしまったのだ。どうすることもできないではないか。
 「ごめんね、ユルバンス」
 「なぜあやまるの?」
 「だって、あなたもイシュティのことを」
 すまなそうに手を握るエーリリテの涙をみながら、ユールは空しく笑った。
 虚無がぽっかり胸の中に巣喰っていった。
 「僕は性別を持たずに生まれた呪われた者だ。どうあがいても子孫は残せない。配偶者としては、王の役にたたぬ不具者だ」
 わかっていた。
 血を残せない。誰も生み出せない。不完全な体は自分一人で終わらせるのしかない運命なのだ。
 もし女だったなら、どんなことがあってもイシュラリオンを手に入れたかも知れない。
 類稀なる美貌と誰にも負けない明晢な頭脳で、一生彼をたすけ添い遂げた。
 「大神官様たちには僕が話をつけてあげるよ。巫女の不在時における危険性とそれを埋める技術があれば問題はないんだろう。その他のことも検討する必要もあるしね。忙しくなるよ」
 せめてイシュラリオンの片腕として一生を捧げよう。彼を守り、彼の幸福のために、生きていこう。そう誓ったのだ。
 だが巫女の不在は思ったより、かなりの影響を世界に与えた。
 魔界側が活性化してはじめ、不均衡によって魔の侵入がたやすくなってしまった。
 エーリリテは自分が巫女を放棄したためだと深く心をいため苦しんでいた。
 言葉にしないぶん、イシュラリオンやユールに負担をかけていることに気を病み、ついに相談に来た。
 「おねがいユール。私の体を使って魔界との通路を封印して。そうすればかなり魔の侵入は防げるのでしょう。これ以上もう嫌なの。臣民やあなたたちに負担をかけたくないのよ」
 「きっとかなり危険なことになるよ。イシュティにも相談しなきゃ。よく考えてよエリ」
 「いいのお願い、私の身体をつかって」
 エーリリテの懇願に負け、ついにエーリリテの身体によって封印をした。
 もちろん、イシュラリオンに言うことは厳禁された。
 予想した以上に、はるかに重い負担がかかった。
 活発になっていた地磁気はみるみるエーリリテの体は弱らせ、ついには健康を害してしまった。たびたびイシュラリオンがユールに相談に来たが、それでもエーリリテはかたくなに封印を解こうとしなかった。
 そしてやっとユールは一つの計算式を手に入れた。
 エーリリテの体を傷めているあいだ、寝る間も惜しみ心身ともに打ち込み捜していたのだ。
 エーリリテの体を使わないでも封印が出来る方法がここにある。
 だがそれもまた代りの者が必要だった。
 そのときにはユールは自分の体を使うことを決めていた。
 一番巫女に血がちかく、男でも女でもない体だ。うってつけだ。
 物心ついたころから厭い、何度死のうと思った体だった。きっとイシュラリオンに出会わなかったら、己を呪ったままつまらない一生を送っていたに違いない。
 エーリリテのためなどではない。
 時には憎しみさえ持たずにいられなかった。イシュラリオンに愛される彼女いつも羨んでもいた。
 ユールはその計算式からは、もう一つ、重大なことが弾き出されてきた。
 何千年の年月のあいだ、わずかずつだが降り積もっていった地磁気の狂いが、かなり危険なところまできていたのだ。
 あともう数百年のうちに限界に達し、その時には地下マグマの爆発で大地は分裂し、多くの命が失われてしまうだろう。
 激しい転変地異が到来するのだ。
 「だがうまくいけば、魔界の未知なるエネルギーで、狂いを修正できるかもしれない」
 そこには科学者としての過信もあった。
 なにより自分の才能を疑うことをまだ知らなかった。
 ユールはただ一人でそれを行ってしまった。
 白い石の神官たちの能力も、すでに彼には及ぶこともなく、意見するものはいなくなっていた。それだけの能力を示してもいた。
 すべてが上手くいきかけた。
 いや、いったと思ったそのとき、油断してしまった。
 まばたきが終わらぬそのわずかの間だった。
 魔界から莫大なエネルギーが逆流し、白い石が備えている潜在パワーをしのいだ。
 防ぎきれない力が荒れ狂ってしまった。
 そこには科学の力などではとうていはかりえない神の力が、はっきりと存在していた。
 意識を失いかけながら、やっとそれを理解していた。
 やはりイシュラリオンこそが、この波動を真に制御するべき存在なのだと。
 未熟で自惚れたおのれの我心など、なんの役にも立たない。
 『神聖なる魔界との通路を、神々との契約なしに塞ごうとする愚か者よ、あさはかな人知の無分別さによって、この聖なる路を穢した代償に、そなたの命を差し出すがよい』
 ――魔界から声……女……?
 『人魚の血を飲むがよい。この毒の血の魔力によって、おまえが地磁気を修正しろ。永遠の命で通路の礎となるのだ。さすればいま一度、この狂いをおさめ、慈悲を与えてしんぜよう』
 厳しい声だった。
 だがユールは覚悟した。自分の招いたことだ、それも仕方ない。
 ――あの声は誰なのだろう……。
 「ユール?!」
 必死の呼び声にユールは目を開けた。
 イシュラリオンがいた。
 抱きかかえられていた。
 赤い雫が彼の髪をすべりおちている。からだが動かない。
 「イ、イシュティ――なんできみがここに?」
 見開いたユールの目には、契約の血を浴びたイシュラリオンの姿がうつっていた。
 とっさにユールを庇い、その身に人魚の血を受けてしまったのだ。
 「イシュティ、まさかきみが毒の血を――?!」
 気が、遠くなった。まさかそんな!
 だがイシュラリオンは否定しない。
 「どうして――どうしてきみが?これは僕が受けるはずの罰だったのに。なぜだ!」
 「私が話したのよ」
 「エーリリテ?」
 エーリリテが傍らに立っていた。
 同じように青ざめ、小刻みに体を震わせている。
 「あなたが私から封印を解いたのがわかったから。もしかしたらと思って。でも、でもまさかこんなことに――」
 「これはぜんぶ私が招いたことだ。私の醜い欲望が引き起こしたんだ。王という立場にありながら、民の先行きも考えず己の幸せばかり優先させ皆を苦しめてきた。そしてついに、おまえにこんなことまでさせてしまった!」
 「いいえ、私の罪はイシュティ以上に重いわ。巫女のくせに、責務を放棄した。だからこんなことに……」
 ユールは茫然としていた。
 まだそのときは、わかっていなかった。自分がどんなに重い罪を犯したのかを。
 エーリリテが倒れた。
 「エーリリテ?!」
 二人は駆け寄った。
 イシュラリオンが抱き起こした。息を飲んだ。
 わずかだったが、エーリリテもまた、人魚の血を浴びていたのだ。それは巫女のような神聖で繊細なものにとっては、命にかかわるほど強烈な毒であった。
 そうでなくとも彼女はかなり弱っていたのだ。致命的である。
 それから彼女はもともと悪かった体調を悪化させ、床に伏せることが多くなっていった。
 だが問題はなにも解決していなかった。
 いや、封印がなくなったいまこそ、魔界との通路が解放され、負の気の流入が止められなかった。各地で異変が増発した。
 それでも数年はどうにか過ごせた。
 イシュラリオンの力によって、なんとか地磁気の狂いを押さえていたからだ。
 彼は病で伏せるエーリリテの看病に心を砕き、さらに愛しさを深めていった。はた目からみていても、その献身には涙がでそうになった。
 その姿を知る者ならきっと誰も、王を責められはしないだろう。
 ユールはただ一人黙々と、寝る間もなく働いていた。
 各地に出向き、地磁気の制御をするための設備を敷いていった。微力ながらも科学の力でイシュラリオンを助けたかったのだ。
 いまはそうすることよりほか彼らに償う方法はない。
 なぜならイシュラリオンの体にもまた、負担がかかりすぎて変調が現れてきたのだ。
 魔界からの気は押さえきれる範囲を越えてきていた。
 地核が活動をはじめ、島が津波にのまれたり、噴火によって平野が潰されていた。
 そんな苦労を知らぬ民衆の不満は募りイシュラリオンを恨む声は高くなるばかりだった。
 反乱が起こるかもしれない。
 そう噂が大きくなったころだった。エーリリテは黄泉の国に旅立っていった。
 その身によって、魔界との通路を塞いだのである。
 自らの命と引き換えにした巫女としての最後の仕事をはたしたのだった。
 ユールの、造りものである幼い子供の顔に、深い苦悩の皺が刻まれていた。
 悔いても悔いても、もう遅い。
 自分のしてきたことは――罪の深さは変えられない。何もかもが己の愚鈍さによるものなのだから。
 イシュラリオンの懇願により、永遠にその姿のままで眠るエーリリテの棺を作ってしまった。それもまた、間違いであった。
 不老不死となった彼は、だんだん孤独の闇に引きずり込まれていった。
 何もできず、みているだけしかできなかったユールは、とうとう常人には恐ろしい決心をした。
 イシュラリオンが死ぬ日までついてゆこう。どんなことがあっても一人にはしないのだと。
 そして体を機械化した。
 己の恥情に二度と惑わされることのないよう子供の体を選んだ。
 数百年の月日の流れは、だがイシュラリオンを癒しはしなかった。
 狂いは増大し、明るく快活だった彼は精神的に疲れ果てていた。
 ユールはイシュラリオンを眠らせることに決めた。
 その間、クローンを使って代行させ、兼ねてから大神官たちに迫られていた、エーリリテのクローンをも造り、彼が眠っている間にすべての気を正してしまっておきたかったのだ。
 エーリリテの死よりこの方、ピタリと白い石の巫女が誕生しなくなっていた。
 それが神の怒りか魔界との均衡の狂いかはわからない。もしかするとイシュラリオンの嘆きのせいか。
 ユールはそうして、またしても目先の事象にとらわれて、過ちを犯してしまった。
 魔界からの刺客により計画は大きくずれてしまったのだ。
 エーリリテの棺は砕かれ、エリも死んだ。もう、二度とクローンは造れなくなった。
 それにもまして、最も大きな誤算は、自分がイシュラリオンのクローンを殺せなかったことであった。
 己がここまで甘いとは――。
 だが命を終わらせると知りつつ、それをいさぎよく差しだした彼を見て、どうして殺せよう。
 クローンとてイシュラリオンなのだ。
 何度繰り返せば気がすむのかわからない。
 いま現在にいたっては、ついに最も愛するものを魔に憑か、せ狂わせてしまったではないか。
 目覚めたイシュラリオンは怒りに狂い、我を忘れた。
 この命で贖われうるのならどうとでもしてほしい。
 だがユールは自由を奪われていた。
 魔にとってユールほど目障りな存在はいない。
 命こそ部下の手前とりはしなかったが、城の一室に軟禁されていた。
 今のイシュラリオンは、家臣たちからひどく不審がられているのだ。
 急激な変化と、かつてないほどの強引さによって、筋の通らぬことでも単独で取り決めおこなってしまう。誰一人として意義を唱えさせない。
 高圧的な口調。見下す瞳の冷たさ。それに従わない者や反発者は容赦なく切り捨てる。
 冷酷で恐ろしい支配者は、かつてのイシュラリオンではなかった。
 ユールは、万が一のためにそなえていた自家発動の電力を使い、コンピューターを操っていた。
 できる事を考えなければ。
 今度こそ表層の解決ではなく、イシュラリオンの心の底からの癒しでなくてはならない。最善の方法とは、なんなのだろうか。
 ユールはあることに気が付いた。
 それはシュロのことだった。
 世に二つとない王の力がもう一つ現れたとしたら?
 王の能力が発揮されるとき、この地上において死者を蘇らせることの他は、たぶん出来ないことはない。それを私用に使わないことが王たる者の資格であり証だ。
 「この数値はなんだ?イシュティと違う力が、彼にはあるというのか」
 彼の脳を三度もいじった。
 記憶を一部削除したものを注入し、次にその潜在的な能力を削除し、最後に右目に封印をした。
 「まさか彼は……?」
 彼のつぶやきは、思考の海へ沈み、そのままコンピューターの光となって走っていた。


Copyright (c) 2006 All rights reserved.
  inserted by FC2 system