輝く大海の波に乗って

4



 子供はゼイゼイと息をあらくしながら浅い眠りについていた。
 ようやく眠ったところだという話しだが、ずいぶん苦しそうだった。
 全身が真っ赤な湿疹におおわれていて、かきむしった痕から血が吹き出している。
 その、かさぶたの上にもまた湿疹ができているのだ。
 それでも痒くてたまらないというように、さらにその上を無意識に掻きむしっていた。ひどいありさまである。
 シュロは入るなり、かび臭い部屋にまゆをひそめ、窓をあけた。
 血のついた布団に咳をつきながら眠るやつれた頬は、みるからに栄養も足りていない。
 「勝手なことをしないでください!この子は気管支が弱いのよ、冷たい風なんか入れたらよけいにひどく――」
 「こんなジメジメした空気のほうが病人に悪いですよ。ほら、外の風はこんなに暖かい」
 陽光がやわらかく差しこんで、目にまぶしかった。
 やつれて目が飛び出しているようにみえる母親は、そんなことにも気づかなかったとばかりに押し黙った。
 どうして扉を開けてしまったのか、たぶん彼女にもわかっていないのだろう。
 だが、誰かに頼らずにいられないほど――それが例え魔であっても――疲れていた。
 きっと誰かに、こうして強引に来てもらい、扉をあけて欲しかったにちがいない。
 シュロは少年のほほに手を当てた。
 そっと目をあけ、また傷口を掻こうとした子供の手をとり、微笑んだ。
 「あんまり掻いちゃだめだよ。ほら、皮膚が痛いよおっ、て悲鳴あげているよ」
 「でもすごく痒いんだ。はなしてよ。お母さん助けて!この人が邪魔するよぉ」
 いらいらして叫ぶ少年をじっと見ていた。
 母親が何かわめいていたが、シュロは少年をかまわず抱きしめた。
 血が服のあちこちに染み、ひたいから出た膿が顔につく。嫌な臭いが鼻を麻痺させるがかまわない。
 しばらくそうしているうちに少年はおとなしくなっていった。ぎゅっと抱き返してきた。
 「……僕が、気持ち悪くないの?」
 「どうして?」
 「だって僕はこんな醜い……・」
 言いかけて口をつぐんだ。少年だってわかっているのだ。自分の体がどんな状態か。
 シュロはまだ文句を言い続けていた母親にかまわず、あっさりと言った。
 「お母さん、お風呂沸かしてもらえますか」
 「えっ?……あの……はい」
 母親は毒気を抜かれたようにフラフラ出ていった。
 いつも手のつけられない癇癪を起こすはずの息子が、おとなしく抱かれていることに拍子抜けしていた。
 「お風呂に入ってきれいに洗えばすぐになおるよ。長いことはいってないだろう?」
 「うん」
 「この病気はね、もう少しきみが我慢すればすぐ治っちゃう病気だよ。笑顔をお母さんにむけてごらんよ、ずっと良くなるからさ」
 「笑顔を母さんに?」
 シュロはうっとりするほど優しい笑みをむけた。ラキに何か書いた紙を渡した。
 「これをシナックに届けて欲しいんだ。薬をもらってきてくれるかい」
 「はあ、薬、ですか?」
 ラキは受けとると、文句もなく二階の窓からふわりと風に乗っておりていった。
 シュロはその間、少年をハーブの風呂に入れ、丁寧に湿疹の皮を洗い落していった。優しくみがきあげると清潔な服に着替えさせる。
 母親と一緒にベッドを乾いたシーツに替え、よく干した布団にかえる。温かいミルクを飲ませた。
 「これを飲んでひと眠りしたらきっと良くなっているよ。僕との約束を忘れないでいてごらん、すぐ治っちゃうから」
 「うん、約束するよ」
 少年は笑顔で返事をした。
 母親が目を丸くしているめのまえで、素直にミルクを飲みほすとそのまま眠った。
 ミルクなどいらないとあれほど拒み、何度も投げつけたのに。笑顔をみたのは何日ぶりだろう。
 母親にやさしく言った。
 「この子の浮腫は、病気でも呪術でもないですよ。あなたの愛情の――スキンシップの欠如からくるものです。もっと抱いてあげてください。そして話をしてあげて。駄目なことは駄目だと言う勇気をもつことですよ」
 「駄目?なにを――?」
 「この子の母親はあなただけです。ただ我侭をきくのが愛情じゃない。正しいことを見る目を養ってやるのも大切なことなんです」
 母親は黒ずんだまぶたをそっと伏せた。何か思うことがあるのだろう。
 「大丈夫。シナックの薬を薄くのばし、毎日肌にすりこんであげてくだい。薬はね、体温と愛情とで効くものなんですよ」
 シュロは母親の肩をやわらかくたたいた。
 「言われなく人を疑ったり傷つけたりすることは、結局は自分を落としめていることにすぎないんです。あなたの心の眼をひらくといい」
 シュロはうつむいたままなにも言わなくなった母親を残して家を出た。
 その家は、男の匂いが少しもしなかった。
 たぶん彼女が一人で子供を育てているのだろう。なにがあったかはしらないが、それが彼女の心をよけい閉ざしている原因でもあった。
 シュロはうさん臭さそうにみている人々のあいだをぬけ、町はずれの森へ入っていった。よそ者には落ち着けるところはここより他にない。
 ファナーと出会った泉まできていた。
 水をすくい上げ、汚れた髪と顔を洗い流す。
 ほんのちょっとした病気でも、人間はすぐに魔族のせいする。
 そのために世界は狭くなってしまった。精霊たちからの大切なメッセージすら、いまではもう聞き取れないのだから。
 木影にファナーが立っていた。
 いや、ファナーではなかった。その目はセアラだった。
 セアラは柔らかな眼差しで、しっとりとシュロの銀の髪が水に広がるのを見ていた。
 「戻ったのかい、セアラに」
 「どうして私だと――?」
 「きみにはきみの色がある。ファナーとは違った意味での、気高い光がね」
 セアラはためらいがちに木影から出てきた。珍しげに水にそよぐシュロの髪に手をふれた。
 「きれいだわ。こんなきれいな髪はじめて」
 なめらかで穢れひとつない銀の流れをうっとりと指でなどる。肌についた汚れを落とすのをじっと見つめている。
 「不思議な人ね。私のことを知っても少しもその紫の瞳は変わらない。どうして?」
 「セアラとファナーは、互いに個別の魂を持っているんだもの。比べることはできないよ」
 「でも同じ体だわ――汚れている」
 寂しそうに言うのに、シュロは首をふる。
 「さっき君は僕にきれいだと言ったけど、僕にはセアラ、きみのほうがずっときれいに見えるよ。姿かたちだけではなく、魂がね」
 セアラの栗色の頭をなでた。子供にするようにゆったりと。
 「肉体は魂の入れ物にすぎない。だれもきみを恥ずかしめられないし、その権利もない。きみはそこに在るだけでいいんだ。」
 セアラはシュロの長く形のいい手を、両手で包み込んだ。頬に当てた。
 「……・暖かいのね、人の手って」
 「うん」
 思いだすように遠い目をした。
 「私ね、ずっと小さいころから、人に見えないものが見えたり、精霊と話ができていたの。魔族ですらあまり怖くはなかったわ。そんな才能を見込まれて、十才になったら巫女として都にあがる約束だった。でも、それもとうとう叶わなかった。山で旅の男に乱暴されてしまってね」
 抑揚のない声だった。
 「都の話は消えてしまったわ。それからよ、おじいちゃんが森に霧を張るようになったのは。村人の態度も一変してしまった。私の母さんも、誰の子だか最後まで言わずに私を産んだしね。だから私は呪われているんだって、ずっと罵られた。それでも魔術師のおじいちゃんの手前、私をどうこうする者はいなかったけれどね」
 そのころの村の生活は、とうていシナックなしではやっていけなかった。
 魔族からの守りの結界や、病気のための薬に怪我の治療など、その他多くを背負われていたのだ。
 「魔族との戦いが激しくなり、多くの命がこの地で流れたわ。そして最期の戦いのあと、おじいちゃんはファナーを連れてきた」
 「それで、きみの中に彼女を封じたのかい?いやではなかった?」
 「私は……」
 セアラはいい淀んだ。
 はしばみ色の瞳が揺れ、シュロの手を離した。
 「私には選べなかった。そのころにはもう、ファナーなしでは生きていけない体だったから。病魔に冒されて、治るみこみのない私を救う方法は、それしかないと――」
 魔との共生によってしか、セアラを救う手だてはなかった。孫を救うためシナックはあえて危険な賭にでた。
 「私なんかのために、村中の反対を押切り、ファナーを憑かせたの。私の中の聖なるものが勝てば私は生き残り、負ければファナーに乗っ取られるって――。でも結果はこの通り」
 「一つの体に二人存在することになった」
 「でもね、私はファナーのことをずっと昔から知っていたのよ。だからそう嫌ではなかったの。魔族の谷に結界を越えて、何度か行ったことがあったわ。彼女は覚えてないだろうけど、迷子になった私を村の近くまで送ってくれたわ。彼女はほんとうに優しくいい子なの。だから村人に殺される前に救いたかった。――だから私はあえておじいちゃんに協力して、ファナーを捕えて、匿ってもらったの。あのころの村人は、みんな少しおかしかったから……」
 命の重みは、魔といえど、なにも違わない。そして、一族全てを根絶やしにした悔恨の情は、村の人々の心に、重くのしかかっていった。
 そうだからこそ、あれほど彼らは忘れたがっていたのだ。魔の存在を消してしまいたがっている。
 「だから私はファナーに体をあげてもいいの。どんな使い方をしても許せる。だって私はファナーがいなければ生きてはいないんですもの」
 それが黙って彼女に体をあたえている理由なのだ。
 だがセアラは笑った。その笑みは、卑屈になっているのでも自暴自棄なわけでもなかった。すべてを知り、そのうえで許し愛している。だから深い。
 「そうなんだ」
 シュロが納得したように言った。
 「きみが聖なる乙女だという意味がわかったよ、セアラ。シナックがあえてそうしたのは、ファナーを消すためでも、きみを苦しめるためでもなかったんだと思うよ」
 シュロは敬意を込めて優雅にセアラの手をにぎった。
 「シュロ、さま?」
 「きみたちは似ているよ。魂の形がとてもね」
 セアラの目がギリっと吊上がった。
 一瞬にして表情がかわり手を振りはなった。
 「やめろヘドが出る!あんな聖女ぶったやつとあたしをいっしょにするな」
 「ファナー」
 「あたしはこいつがなんと言おうとも、こいつらを許す気はないんだ。シナックの老いぼれの息の根は絶対あたしが止めてやる」
 「それでもファナー、シナックやセアラが、きみになぜそうしたのか考えなくてはいけないよ。きっときみにだって意味はあるはずだ。魔がぜんぶ悪いのではないのと同じように、人間だって悪い人たちばかりじゃないんだ。今だって感じているはずだ。その体を通して、セアラからの愛情がきみを包んでいるのを。わかってるんだろう」
 「やめろ!この女はあたしの一族を滅ぼした張本人だ。敵に閉じこめられ、たった一人で取り残されたこの憎しみは消せない」
 足元で踏みつぶされた白い野の花を、ファナーは荒々しく手折った。
 「おまえらはいつでも魔物は傷つかないと言う。魔は笑わない、花を愛でない!そうやってあたしたちを人間の物差しで図ってきたんだ。あたしたちだって愛し合う心を持っていた。慈しむ心を知っていた。だがおまえたちは信じない。偽善者になにがわかるんだ!」
 ファナーから溢れだす怒りに、泉の水が冷えていった。
 シュロは体と心が凍りつき、彼女の悲しみのトゲが身体の奥底に染みこんでくるようだった。
 「あたしに人間を信じろというなら、この花を元に戻してみせろ!魔族を滅ぼすために、荒野に変えてしまった死の谷を元に戻せ。誰もあたしのために一輪の花も摘んではくれない。ただあたしが花を手折ったと怒るだけだ」
 花は彼女の手の中で砕かれた。ガラスのように粉々になった。
 「谷に花が咲いたら話を聞くわ。あたしはあんたみたいな口先だけの男は大っ嫌い!」
 走り去るファナーの後ろ姿が泉に映った。彼女の心の色の悲しさがにじんで消える。
 シュロはただ答えようもなくてただうつむいているだけだった。




 とぼとぼと歩いているシュロの姿をみつけたのはラキだった。あわてて跳ね寄ってきた。
 「シュロ様どこへいっちゃってたんですか?薬をもらって帰ったらいなくなってるんですもの、ずいぶん捜しましたよ」
 「ああごめんよ。ちょっと泉に行ってたんだ」
 「ああ、髪を洗ったんですね。もう、全身がビショビショじゃないですか。子供みたいなんだから」
 「うん、なんだかそんな気分だったんだよ」
 はかなく笑うシュロの肩にラキは乗った。
 「冷たいですねえシュロ様のほっぺた。そうそう、薬を届けたあの子の母親、なんだかぽわんとしてましたよ。ネジが切れちゃったみたいに。ねえなにがあったんですか」
 ラキは手に持っていたものを広げて見せた。
 小さな布きれを縫い合わせて作ったハンカチだった。両面に花の模様があるこまかな細工は、かなり手のこんだものだった。
 「これを帰りぎわにくれたんです」
 「良くできているね。時間かかってそうな図柄だ。手間の結晶だよ」
 「だからよけいに不気味なんですよ」
 母親からなにか文句のひとつでも言われるとかまえていたラキは、たぶんひきつった顔でこれを受け取ったのだろう。
 「そうそう、急ぎで薬を作ってくれたシナックにもお礼いわなくっちゃね」
 思いだしたようにいうとそのまま家に足をむけた。
 ノックをして戸を開ける。
 「シナックさっきはありがとう。急なのに無理いって作ってもらっちゃって――」
 シュロは暖炉のまえで倒れ込んでいるシナックをみつけた。慌てて駆け寄り抱き起こす。
 肩で大きく息をしている。顔が土気色だ。
 「シナック!どうしたのしっかりして?!」
 「あ、ああ」
 立ち上がれそうもないシナックをかかえ、そのままベッドに横たわらせる。その体は見た目よりずっと軽い。
 「いつからこんなことに?」
 「そう、気にすることもないさ。わしも年だ。迎えがきてもおかしくはなかろう」
 「なにを言ってるんだよ。そんな気弱なことを。ねえ薬はどこなの、なにか調合しようか?」
 ラキが泣きそうな顔でつぶやいた。
 「さっきまで元気だったのに。ボクが早く早くってあんまりせかしたから」
 シナックは首をふった。すでに悟りきった表情で、同情も憐憫も受けつけていない。
 「わしも魔術師のはしくれだからな。自分の寿命ぐらいわかるさ。それに惜しむほどの年齢でもない」
 「だってシナック……」
  シュロの言葉を手の振りだけで押さえる。
 「もう充分すぎるほど生きてきた。未練はない。魔族との戦いで毒におかされた身体も、もうかなり前から石化しはじめておったんだ」
 負傷した傷口から入った毒素が、人間の細胞組織をジワジワと硬直させてゆくのだ。そしてしまいには、心臓まで、とめてしまう。
 「このことをセアラやファナーは?」
 シナックは、いや、と小さく言った。二人には頑健な姿しかみせていない。
 「至高の紫だな」
 ふいにシュロの瞳をまじまじと見つめて言った。
 「その紫は、真に高貴な者しかもち得ない知慧の輝きがある。そんな目をした者はいまだ見たことがない。おおいなる慈悲が、きっとあんたの中には秘められている。人の枠を越えた神の――」
 ふっと目を閉じた。
 「はじめて見たとき、わしはあんたを人ではないと思った。われわれとは違うなにかをその閉じられた眼から感じていた」
 「僕は何も……・」
 「どうか――どうかセアラを頼む。ファナーを、二人を頼む。あの子らには可愛そうなことをした。あの時はそれしか考えられる方法はなかった。魔は悪いばかりではない。ファナーを受け入れる巫女はほんらい――」
 ゴフッと咳をした。血が押さえた指の間から流れ落ちシーツに広がった。
 シナックは血の着いた手でシュロの腕を握った。アザがつくほど強い力だ。
 「あんたしかおらんのだ。どうか、頼む」
 「でも僕は、何も特別な力なんて――」
 シナックの咳がひどくなった。あえぎだすのに薬をとろうと慌てた。
 だがその手はシュロを決して離そうとはしなかった。
 かたく、かたく握りしめていた。




 ファナーはもう、三日も帰ってこなかった。
 あまり症状のよくならないシナックに、シュロはついに、いてもたってもいられなくなって捜しに出かけていた。
 町までくると、酒場で愉快そうに酒を飲んでいるオルフを見つけた。シナックの家の酒をすべて飲みおえると、それっきり姿をくらませていたのだ。
 あれほど嫌われていたよそ者だったくせに、なぜかすっかりその場に馴染んでいる。賭の手ほどきまでしているではないか。
 「オルフ、ねえセアラ見なかったかい?」
 葡萄の瓶を傾けているオルフは、すっかり酔っぱらっている赤い顔をむけた。
 「よお、おっひっさっしぶぅり。んん?ずいぶんしけた顔しおって。若いんじゃぞ、もっと明るく生きにゃきゃあなあ」
 酒臭い息で豪快に笑った。
 「ボクたちはおまえみたいな脳天気じゃないんだ。もう、臭い息を吹きかけないでよ!」
 ラキがキイッと牙を出す。もちろんオルフは愉快そうに酒をあおっている。
 「オルフ、ねえセアラが帰ってこないんだ。どこにいるか知らないかい」
 「セアラ?ああファナーなら見たぞい」
 「おんなじじゃあないのそれって!」とラキ。
 「どこで見たの?」
 「うーんとうーん……あ、山でじゃ」
 「山?」
 「二股に別れた川の、なんだか上流の方へむかっとったのう。後をしばらくつけてみたが、なあんもない石ばっかりの山じゃったぞい」
 笑うオルフのまわりの人間の顔色がかわる。
 「死の谷だ」
 誰かが言った。
 シュロはそれだけでわかった。
 ファナーがどこに向かったか。
 魔族が棲んでいた谷、枯れてしまった故郷へ行ったのだ。
 シュロはろくな返答をしないオルフをせっつきながら、どうにか言葉の端々から谷の場所を聞き出そうと必死になったが、遅々としてすすまなかった。




 やっとオルフから聞き出したシュロたちは、飛ぶようにして谷にむかっていた。
 ラキはそのあたり一帯をみわたすと、呆れたように言った。
 「ほんっとに荒れ地だけなんですねえ」
 「なにも残ってないんだよ、ここにはね」
 過去も思い出も、すべては無となり赤い不毛の地へと帰していた。
 旅人を迷い込ませるうっそうとした森林のなかに、そこだけがすっぽりと切り取られたように閑散としている。
 不自然なまでの空間に、よけいにそこで行われたかつての戦いの激しさを思いしのばせてしまうかのようだった。
 こここそが、村人たちの禁忌の土地だった。
 「この地をみる彼女の思いはどんなだろう」
 シュロは生物の営みを拒絶した土をすくい上げた。風に赤いほこりが吹き散る。
 草一本、生物のほんの一息さえもない。
 もし自分の生まれた土地がこんなふうに枯れ、家族や友が死に絶えてしまったらどうするだろうか。
 二度と笑いかけてくれず、自分の過去を知る者はいないのだ。ましてやファナーは慣れぬ土地で、周囲の人間から憎まれ続けて生活しなくてはならない。
 「こんな土地に花なんかみつけられっこないですよ」
 ラキが絶望にちかい口調でいいた。肩から飛びおりた。
 花を手折ってみせたファナーのために、シュロはどうしてもこの土地で彼女に花を捜してやりたかったのだ。
 「僕は、この土が持つ歴史がどんなものかは知らないけど、でもこうまでしなきゃ人間は生き残れなかったのかなって思うよ。一緒に生きる道は、本当になかったのかな。――胸が、痛いね」
 はるか昔に、世界を二分する大きな戦争があったことは知っている。
 魔と人間とが互いに憎みあい、地上を征服しあおうと戦いをくりかえしていたと言われていた。
 それから何年かして別々の世界に別れたというが、その名残はまだこんなにも生々しくのこっている。決して昔がたりではないのだ。
 現にシュロは過去、王城で襲われた。
 そして、大切な者の命を奪われてしまった。
 だがそれですべての魔の存在を憎むという理由にはならなかった。彼らも生きていて、心魂を持つ者たちだと知っていたからだ。
 「シュロ様は、魔を憎んでいないんですか」
 ラキもそのことを思い出していたのだろうか、不安げに聞いた。彼もまた魔の側の生き物だ。
 「どうして?憎んでなんかいないよ。だってエリがそんなこと望むとは思わないもん。そんな片寄った生き方では、人生が半分になってしまうよ」
 ラキのこころもちを知ってか明るく笑ってみせた。
 「それに、世の中を正しいものと正しくないものに分別してしまうなんてもったいないよ。骨や筋ばかり大切にして、脂肪を無駄なところだと切り取ってしまうのと同じことじゃないか。脂肪のところにこそ、旨味があるんだからね」
 「無駄はないってことですか?」
 「この世に存在すると言うことは、それだけで何かの意味をなしているんだ。だから生まれてきたものになに一つだって優劣はない」
 谷を切りつける刃物のような風が吹いてすぎた。
 シュロの長い髪を束ねていた紐がほどけて飛んでいった。
 「花を捜そうよ。きっとあるよ。ここはファナーの心の世界だもの」
 ラキがシュロの瞳をじっとみつめる。
 「シナックが生きているうちに、本当の心を伝えてあげたいじゃないか」
 あるさ、きっと。そう気軽に言うシュロに、ラキはわざとに大げさに息をついてみせた。
 「なんでこんな面倒なことばっかりしたがるんでしょうかねえシュロ様は。得なことなんて何もないのに。だってあのファナーですよ」
 だが口の半分も態度には現れていない。
 「あのファナーが花を欲しがるなんて、思いもしなかったですね。女っていうのはほんとに不可思議な生き物ですよねえ」
 「ほんとだね。けど、だからこそ大切にしなきゃならないんだよ。男と違う繊細さとか弱さがあるんだから」
 「かよわい?ファナーが?」
 ファナーだけではない。オルフを追いかけてきた太ったパン屋のおかみさんにしても、怒鳴りまくっていた病気の子の母親にしても、そんな言葉に相応しい女性がいただろうか。
 「本気で思ってるんですか」
 「なにを?」
 その顔に疑問の余地はない。
 「まああなたがそう思うのなら別に……・」
 ブツブツいいながらラキはシュロに伴って花を捜し続けていた。
 そうしてほぼ半日以上のあいだ、遮るもののない太陽光線の下、二人は地面に張りついていた。それはあるはずのない、架空の物を求めているのだとも、彼らにはわかっていた。
 「シュロ様――もういいかげん諦めませんか。わかってるんでしょう、本当は。それにもしどうしても必要なら右目を開けば簡単に――」
 「ラキっ!」
 言葉をさえぎった。ビクッとしたようにラキに、シュロは諭すように言った。
 「ファナーが真実、僕らに望んでいるものは花じゃないんだよ」
 「花じゃない?ではなんですか」
 「たしかにラキのいう通り、この右目を開けば花なんて簡単に手に入るだろう。でもそんなものを欲しがってる訳じゃあないんだ。それは『捜す』という行為なんだよ。本気であると信じ、採ってきてあげたいと願い捜し続ける思いなんだ」
 ラキは難しそうに顔をしかめただけだった。
 「ごめんねラキ。いつも迷惑かけちゃって。僕のわがままに巻き込んでばかりだね」
 「え?い、いえ、そんなこと!ちっとも迷惑じゃありません。こんなことちっとも――」
 「自分が自分でいられる場所がないと、息がつまるんだよ。存在に気づいてくれる人がいない中で生きるのはつらくてたまらないんだ」
 王として、イシュラリオンとしてきみ臨していたあの日々が思い出されてしまう。
 加工された記憶を注入されたシュロは、コールドスリープにつく以前の自分の状況を知らなかった。
 目に映った家臣や侍女たちは、なぜか驚くほど恐縮し、卑屈な様子で王に接していた。
 どんなにイシュラリオンが荒れ、人々に当たっていたのか想像もつかなかったが、周囲に与える負の感情により、とうとう王は恐るべき怪物として認識されてしまっていた。
 そうとは知らないシュロは、だから彼らと打ち解けるあいだにどれほど苦労をしたか。
 理由も正確にはわからぬままに、腫れ物に触るような臣下と時間を重ねて、ようやく心をほぐしていったのだ。とうとう軽口さえをたたき合えるまでになっていた。
 だからその間、どれほど精神に負担がかかっていたか。ユールがいたからこそ耐えられたのだ。昔のように明るく楽しい日々を取り戻せた。
 だが、それもまた違っていた。
 自分は、そこにいるべき人物ではなかった。
 イシュラリオンその人ではなかったのだから。
 存在する場所はすでに城にはなかった。不完全な記憶と能力しかもたないシュロの帰る場所も、友人たちもいなかった。
 そのかわり得たものは、有るはずのない狂っていたころの記憶だった。
 当初の予定では、不必要な存在として殺されるはずだった。
 だがそのわりに力の封印をされたのだ。そのとき、きっとコンピューターの誤作動だったのだろう、イシュラリオンのたまらないほどに苦しい記憶までが、注入されたのだ。
 ユールもたぶん、このことは知らない。
 そして、わかった。
 狂うほどの愛情の意味をと、周囲を脅えさせた悲しみを。声なき号泣が世界を狂わせるほどに響いていたのだから。
 だから味方のいない場所に暮らす寂しさを、シュロはだれよく知っていた。ファナーの寂しさはシュロの寂しさと呼応してしまうのだ。
 「だから探してあげたいんだ。僕のためにもね」
 なぞめいて笑うシュロを、ラキは不思議そうにみつめていたのだった。




 それからシュロはずっとそこで探しつづけていた。
 三日目の朝には、雨がポツリポツリと降りはじめていて、昼までには叩きつけるような豪雨となり、水を吸収しない土地は雨が表面をすべるだけで、すぐに大水となって荒々しく地面をけずっていった。
 「シュロ様ちょっと岩陰で休みましょうよ。こんな状態じゃ見つかりっこないですよ。ボクが覆いになりますから休憩してください。冷えきってるじゃないですか」
 ラキは押し込まれていた懐から顔を出した。
 「大丈夫さ。ラキこそ風邪を引いたら大変だ。どこかへ避難しておくかい?」
 「ヤですよ。シュロ様が休まないのに」
 上流から流れてきた石英の破片が手を弾いた。血が雨に洗われ手首のほうへ滴った。
 「ああ、シュロ様ゆびが」
 力仕事もしたことのないようなシュロの美しい指先に、赤い傷口がひらく。石をひっくりかえしたり、種をさがそうと掘り起こしたりしてかなり痛んでいる。
 照れ笑いしながら服で拭くシュロの前にファナーが立っていた。
 「あんた馬鹿?なにこんなところで三日間も這いつくばってんのよ。花なんてないの、わかってるじゃない。なに考えてんのよ、あたしに嫌味?」
 「ファナー。でも、もしかしたらあるかもしれないだろう?」
 「ないわよ!見ただけでわかるじゃない」
 「でも僕はきみに何もしてあげられないもの。かけてあげる言葉も資格もないだろう。けれど、こうして花を捜すことはできる。ほんのわずかな確率でも、あるならそれを探す方がいい」
 「あ、あんなの一時の感情じゃない」
 「でもあの時のきみの言葉は本気だった。だから僕は本気で探してあげたいと思ったんだ。きみが気にすることはないよ。僕が勝手にしているんだからね」
 「あたしは魔物よ。セアラの体を半分奪った略奪者なのよ。なのにセアラといい、あんたといい、信じられないくらい大馬鹿者だわ!」
 一度、芯から魔術におかされた土地は、死霊の跋扈する不毛の地と化してしまうのだった。
 相当の術者であっても浄化は難しく、気を抜くと、死の闇にとりこまれ死んでしまう。だから誰も手をだそうとしない。
 「きみは略奪者じゃないよ。だって考えてみてよ。もし本当にきみがいらないなら、シナックはとっくに殺しているはずだ。いくらセアラの命を助けたいといっても、魔術師の名をもつなら、そんな私情に溺れはしない。それはシナックと戦いそして一緒に暮らしているきみが一番よく知っていることだろう。ねえ、どうしてシナックはきみを残したんだろうか」
 「あたしを、残す?」
 ファナーは動揺を隠せずにうろたえた。だがすぐに怒りを面にだすとねめつけた。
 「またあたしを惑わす気ね。あんたの言葉はいつもあたしを混乱させる。胸が苦しなっってくる。あたしに何の魔術をかけたんだ?!」
 ラキが答えた。 
 「それはシュロ様の言葉にふくまれる真実に、きみの心が気づきはじめているからだよ。心の声を素直に認めたら、もっと楽になれるよ」
 「うるさい!人間に身を売った裏切り者があたしに意見するな!あたしには聞こえるんだ。この土地で苦しむ同胞の叫び声が。その苦しみがなくならないかぎり、あたしは人間を憎むことが止められない。シナックをセアラを殺すまで、止まらないんだ!」
 シュロは自分の指先から流れつづける血が、まるでファナーの涙のようだと思った。
 ハンカチをとりだした。ファナーを罵った母親がくれたものだ。いくつもの布切れからつくられたそれはシュロの血を吸い紅に染まっていった。
 右目をスウッとひらいた。
 濃い、魂を奪われるような神秘にみちた紫の瞳があらわれた。
 もはや人間の目ではなかった。神界に属する者の力強い息吹を感じる。
 うっすらと微笑んでだ。魔界の暗闇にすら、一条の光を差し込んでいる慈愛の笑みだった。
 布が細かくちぎれて舞い上がった。
 雨と一緒に降り注ぎ、それと同時に、荒涼とした台地は、緑の野へと姿を変えていくではないか。
 「これは、なんの魔法――」
 「白い花が好きなんだよね」
 「え、シュロ?なんで、それを」
 一面にさざめくような香華が広がっていった。咲き乱れた花はみな白い色をしていた。
 シュロは右目を閉じた。放たれていた光も消え、神の創造力はふたたび眠りについていた。
 「これが、シュロの力――?」
 ファナーは呆然としてつぶやいた。しばらくは立ちすくんでいた。
 求めていた大地の姿がそこにはあった。もう一度、どれほどこの故郷が見たかったか。
 ないはずの花を求めてとうとう手にいれた。
 ファナーははじめて泣いていた。
 いきなり抱きついたかと思うと、シュロにくちづけた。暖かい唇だった。
 「なんでここまでしてくれたの?」
 シュロは笑った。その顔は悲しそうにもみえた。
 ラキはショックを受けたように固まっていたが、毛を逆立て泣きそうな声で抗議した。
 「シュロ様どうして?絶対に右目の力は使わないっていっていたのに。なんでこんな」
 「ファナーの傷んだ心はね、この花を見るまでは癒されることはなかったからだよ」
  「だってこの力は――」
 ブルリとラキは震えた。封印をされていたせいか以前より力が増したような気がする。
 ファナーはシュロの指から流れる血を舐めるとスカートの布を裂き、巻きつけていた。
 「おまえみたいな男、はじめてだ。あたしに何も求めずこんなものをくれるなんて……」
 ファナーはじっとシュロを見つめた。もう一度右の目が見たいというような熱い視線だった。
 「あなた一度もあたしにセアラと統合しろとは言わなかったわよね。どうしてなの?あたしは邪魔じゃなかったの?いらなくはないの?ねえ――不思議なひと。ほんと不思議。あたしがこんな穏やかな気持ちになるなんて」
 瞳が熱っぽく潤んでいた。シュロは言った。
 「一つの身体に二人いたっていいじゃないか。どちらかを消すなんてもったいないよ。こんなに素敵なのに。好きだよ、二人とも」
 ファナーなのかセアラなのかわからなかった。
 二人の鼓動が跳ねる音がした。
 「……それ、本当?」
 シュロに腕をまわしてみつめるファナーに、ラキはいまごろ気づきハッとして叫んだ。
 「ダメダメダメダメ!シュロ様はおまえのような女なんか全然だめだ。離れろ!」
 「なにようるさいわね。あんたこそ年がら年中ベタベタしてんじゃないわよ」
 「ベタベタなんかしてない!お守りしてるんだ!」
 「よく言うわ役たたずのくせに――」
 「なにを!」
 「ちょっと二人ともやめてよ。せっかくこんな綺麗な花が咲いているのに。のんびりしようよ。ちょっと疲れちゃったしね」
 「疲れた?!」
 ラキとファナーが同時に言った。顔を見合わせると、シュロにすがりついた。
 「シュロ様どこが悪いんです?お腹ですか?頭ですか?」
 「どこ、どこが痛いの?さすったげる」
 対抗意識をたぎらせた二人がにじり寄る。
 シュロはストップをかけた。
 「待ってよ。どこも痛いなんて言ってないじゃないか。ラキ、頭が悪いってなんだよ。ファナーも体をさすってもらう必要ないから」
 「男の体なんてあたしのほうがよく知ってるわよ。遠慮しなくても、この世のものともおもえない快楽を味あわせてあげるわ」
 舌舐めずりすりよる。ラキがわめいた。
 「げ、下品なことをいうな!シュロ様になんてことを言うんだ」
 「うるさいわねえ人形のくせに。悔しかったらあたしぐらいの胸になってみなさいよ」
 「む、胸って、セアラの体じゃないか!」
 「馬鹿ね。セアラん時なんてあたしの半分もないわよ。あたしのは妖力でほらこの通り」
 腕で胸を押しだし豊満さを強調する。
 「こらこら二人とも、なに遊んでるんだよ」
 ラキが目を三角にして抗議した。
 「シュロ様!なにをのんきなことを言ってるんです!この女あなたを狙って――」
 シュロはとっさに、ラキとファナーをかかえて横に跳ねていた。銀の残像が尾をひらめかせ、白い花がいくつもはね上がる
 「だれだ!」
 銀の仮面をつけた男が三人現れた。
 つけた鎧より固そうな筋肉が隆々としている。
 いままでそんな気配はまったく感じなかった。だがいきなり斬りつけてくるとは何者であろう。
 それもはっきりとシュロを狙っている。
 「誰だおまえたちは!」
 必死でかわすのに、ラキが目を回していた。鼻先を何回も銀の残像がすんぜんで横切っている。
 シュロは土を蹴りあげた。つちぼこりで相手の眼をくらませているあいだに岩影に飛び込む。
 「シュ、シュロ様この人たちは――」
 ラキが唾を飲み込んだ。
 「あの腕章、王直属の刺客みたいだね、この服の色からいくと、たぶんかなりのエリートだ」
 ふうと息をついた。シュロはつい先日までこの服を着た者たちに守られていたのだ。
 と、いうことは凄腕であるということも意味している。
 「な、な、なんでそんな人たちがボクたちを狙うんです!シュロ様、なんかあいつらすごく怒っているみたいですよ」
 「ほんとだ、そうみたいだね」
 シュロはのんびりと答える。
 ファナーにいたっては何が起こっているのかもわかっていない。
 いきなり襲われているわりにはシュロにせっぱ詰まった危機感はない。逃げ回っているだけで一向に応戦しようともしない。
 「やっぱり、こんなおノンキな人が自分と同じなんて、イシュラリオン様、怒ったんじゃないですかぁ」
 「ひどいなあ、ラキは。ああ、でもそうかもね」
 「あんたたちこんな時になに漫才してんのよ!」
 ファナーは我慢の限界が切れたとばかりに、シュロの手をふりきり、剣をかかげてくる男たちにむかっていった。
 足元の棒切れをひろうと、正面からその剣を受け止めふき飛ばす。
 男たちの動きがピタリと止まった。
 「漫才ってそんなファナー」
 しごく大真面目なのに、とゼロが言った。
 「王の兵士なんでしょ、こいつら。何で襲われるのよ。何をしたのあんたたち?!」
 怒鳴るファナーにシュロたちはわからないと首をふる。
 男たちは果敢に立ち向かって来るファナーに何を感じたのか、いきなり消え失せてしまった。あっけにとられ三人は顔を見合わせた。
 「ホントに、なにをしたのシュロ?」
 シュロは答えようがなく、首をかしげただけだった。
 だが、瞳の紫色がはひどく濃かった。
 



 シナックの家は村人に取り囲まれていた。
 誰もかれもがみな、何かにとり憑かれたように凶暴な顔つきをしている。手にはそれぞれ棒やクワ、鉄の刀まで握りしめている。
 それは、シナックが死に逝き、埋葬をしたその日の晩のことだった。
 セアラが家にもどってから二日目の夜に、とうとうシナックは息をひきとってしまった。まるで彼女たちの変化になにか気づき、満足したかのように、あまりにもあっけなかった。
 突然のわかれに、セアラは動転して、ほとんど自失しかけていた。
 もしシュロとラキがいなかったらセアラは自殺を決意したかもしれない。そう思わせるほど、その悲しみ方は見ていてかわいそうなほどだった。
 シナックは、病状を本当にまったく隠していたらしく、心の準備すらなかったのだ。
 たった一人の肉親だった。まだ十七才の少女がこれからのことを考えると気が遠くなる気持ちもわかる。
 背負わされた運命の重荷もまだ、すこし荷が勝ちすぎている。
 だがその悲しみに浸る間もなく、狂気にとり憑かれた集団が押し寄せたのだ。
 「シナックが死んだってのに、あんな魔女を野放しにしとく馬鹿はいねえぞ」
 「不安の種は一粒でも残しとくな。一緒に葬ってやるのがせめてもの情ってもんだ」
 息が荒く責めよる彼らの様子は、とうてい話し合いで解決するようなこととは思えない。
 シュロは意を決し、手を差しだした。
 「セアラ行こう!僕たちと一緒に」
 「シュ、シュロ様、でもどこへ――」
 「わからない。でも外の世界にはきっと、きみに相応しいところがあるはずだ」
 シナックが言っていたのはこのことだったのだ。
 腕を固く握って離さなかった痛みが甦える。
 「でも私は……。村の人たちにこんなにまで憎まれている私なんかがそんなこと――」
 生きている価値はない。セアラはつぶやく。
 「なにバカなこと言ってるんだ!」
 『そうよバカいわないでよ!』
 ファナーの声が体の内から聞こえてきた。
 『こんな偏狭な狂心者に殺されるのなんて、ただの犬死じゃない。命の無駄使いよ。あたしたちにはもっと新しい未来が待ってるのよ』
 「そうさ。シナックはきみに生きて欲しいと願っていたんだ。きみにはもっと幸せになる権利があるんだよ」
 「いこうよセアラ」と、ラキ。
 『手をとりなさい!』と、ファナー。
 「さあ行こう」
 シュロの力強い声にセアラはビクッとした。反射的に手をとり、シュロはその手をしっかりと握ったのだった。


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