輝く大海の波に乗って
3
ユールはお茶をのむと、忙しいからといってそのまま帰っていった。
わけのわからない白い粉の詰まった瓶を一つ買っていたが、シュロには何に使うのかも見当がつかない。たぶん、またよくわからない実験をするのだろう。
「さて、僕たちもあんまり長居しても迷惑だろうからね、そろそろ行こうかラキ」
「はい。そうですね」
「もっとゆっくりしてくださって結構ですよ。なんのおもてなしもできませんけれど」
「充分だよ。お茶もおいしかったし。どうもごちそうさまです」
「クッキーもおいしかったですよ」
ラキは手土産まで貰ってホクホクしている。
「で、どちらの方へ向かう御予定で?」
「まだわかんないけど、あちこちウロウロしようと思っているだ。もっとたくさんの事を勉強しなくっちゃならないからね」
「それはいいことです。本当にこの世界は広い。そしてそこで行われることすべてには意味があるものですよ。たいていそれらには――」
いいかけて、ああ、とウィラートは笑った。はじめて彼から人の匂いが感じられた。
「これからあなたが自分で捜すことです。どうぞ私の紡ぐ言葉は聞き流してください。私の存在も言葉も何ひとつ意味はありません。すべてが幻なのですから」
「幻?」
「また、ぜひお立ち寄りください。いつでも歓迎いたしますよ」
「ありがとう。じゃあまた」
シュロは手をふった。
こんな奇妙な店も、そうはないだろう。
歩き出したシュロは一度だけ振り返った。
ウィラートの放つ光の中に、魂の核は見えなかった。
旅芸人の一座が焚火をかこんでいる輪になかに座っていた。
街を出てから、たいして進まないうちに夜になってしまった。宿もないし、どうするかと話していたシュロたちのまえに、野営をしている焚火が見えたのだ。
シュロはもちまえの人懐っこい笑みで、いつのまにか仲間に加わり、火にあたっていた。すでに夕食までご馳走になっている。
一座は大人も子供も年寄りもいる、大家族のような集まりだった。祭をたずねて、街から街をわたり歩いているという。
小さな子供はすでに母親の膝枕でおだやかに眠っていたが、やんちゃざかりの少年たちはまだ疲れをしらず犬と一緒にかけまわっていた。
帽子が大きいのか、顔が半分かくれ短いひさしの下から黒い目がいたずらっぽくのぞいている。
こんな平穏であたりまえの光景が、シュロには泣きたくなるほどに愛しく感じられた。いつまでもこの笑みがたえることなく続いて欲しい。そう願わずにいられない。
空は満天の星で、彼らの他に草原にはなにもない。歌声だけが浪々と流れている。
そこはかとなくもの悲しい音色に、炎にゆれる彼らの顔がしみいるようにあたたかく見えた。
「うーん、この人たち見ていたら、これこそ人間だぁって感じしますよねえ」
ラキが生き生きと目を輝かせて言った。
「ずいぶんとウィラートとは相性が悪かったみたいだねラキ」
「だってね、ボクみたいな存在にはちょっと刺激が大きすぎちゃいますよ。生体防御反応で、もう少しで冬眠するところでしたもん」
確かにそうかもしれないとおかしそうに笑う。
「じゃあよかった。冬眠するまえに出てきて。ラキがいないと僕はなにもできないからね」
「なに上手いことを言ってるんですか。ほんとはなんでも出来るくせに」
ラキは照れたように唇をとがらせた。
風が吹きつけた。
建物もなにもない場所のまっすぐな風は想像以上に冷たかった。
ラキはシュロの体に巻きつき変形する。服の形になって防寒具となる。
ラキの体は変形自在なのだ。保護色と擬態が特にうまい種でもある。だがこんな使い方があると知ったのはつい最近のことだ。
「ボクってほんと重宝な稀獣ですよね」
「感謝しています」
シュロは柔らかい毛に頬をよせてほほえむと、一晩中、快適なあたたかさに包まれてぐっすりと眠りについたのだった。
シュロたちは芸人一座とわかれると、山道を登っていた。
ラキが言った。
「てっきりあの人たちに着いて次の街に行くのかと思っちゃいましたよ」
あれから数日間は、彼らと一緒に旅をしていた。
ご馳走になったお礼にと、かるく弾いた竪琴がやけに気に入られ、スカウトされてしまったのがはじまりだった。
若い娘たちにも気に入られてはいたが、親方が一番のご執心のようだった。
「どこにいっても気に入られちゃうんだから。まあご飯代が浮いてよかったんですけどね」
「きっとあんな風な弾き方が珍しかったんだね。僕が教わったのはエリだからさ」
「まあエリちゃんは竪琴の名手でしたからね。でもこんな山道なんか入っちゃうなんて、どうしてですか」
シュロは空をみあげた。
青い空には雲の筋がレースのようにたなびいている。
「昨日の夜にさ、空を見ていたら、どうも星の位置がこっちを示していたんだ。今だってほら、雲がそういっているよ。どうせだから天空の地図にそって行こうかな、なんてって思ってさ」
「はあ」
ラキは曖昧に返事をする。そういったことは、ラキにはてんでわからない。
「でもわざわざこんなとこに来ちゃうなんて、ね、ねえシュロ様、ちょっと霧が出てきたんじゃないですか?」
山の中腹ちかくまで歩みをすすめたとき、いきなり霧がたちこめだした。
最初はふわりとして、風景に柔らかみをもたせているぐらいだったのだが、みるみるうちに視界をふさぎ、一寸先さえわからない状態となってしまっている。
「わあ、すごいねえラキ。まるで雲の上を歩いているみたいじゃないか」
「なにはしゃいでるんですか。うかつに歩きまわってると沼かなんかに落ちちゃいますよ」
「ほらほら、まつげから水が落ちてくるよ。すっごい湿気なんだねえ」
楽しげに言いながら顔をぬぐう。ラキの毛先にも水の玉がぷちぷちと浮いている。
「でもずいぶんいきなりだね。山の天気は変わりやすいっていうけど、これじゃまるでこの先に行くのを拒まれてるみたいだ」
「そんな不吉なこと言わないでくださいよ」
「この霧、なんだか……・」
シュロは髪の露をはらいながら、何かつぶやいた。
草やぶに手を突っ込み、しばらくかき分けると、一本の赤い草を引っ張りだした。
「なんですかそれは」
「えっと、これに鉱石の粉末をかけるとね」
ポケットから取り出した袋の中から、銀色の粉を一つまみかける。
草はみるみる青い炎をあげて燃えはじめた。
火花が散って、手にまでこぼれているのだが少しも熱くはない。しばらくすると煙にかわった。
「その草って……?」
「ほんのおまじないみたいなもんだよ」
言っているそばから、煙にかき消されるように霧がどんどん晴れていく。
「やっぱりね。この霧って、人が入らないように張ってあった防御の魔術だったんだ」
「誰がそんなことをしたんですか?」
「さあね。でもそう嫌なものは感じないよ」
シュロはためらいもなく薄められたもやのなかを進んでいった。
ある一線を越えたとたん、霧がカラリと晴れた。
突然ちがう世界へ迷いこんだようだ。
静かで空気が透明すぎ、風景が目に痛い。
水音が聞こえた。振り向いた。
泉のなかに、人がいる。
白い肌に水が流れおち、長い髪をくしけずっている。
まだ年若く美しい少女だった。
シュロの視線に目を上げた。
大きな黒い瞳が見開らかれ、まるで宝石のように光って見えた。
シュロは呪縛にとらわれたように動けなくなり、数秒間、二人はそのままみつめあう。
少女がいきなりキッと厳しいかおで睨みつけた。
とたんに形相が一変し、なぜか魔的な鋭さを感じさせてしまう顔つきになる。
少女は泉から出ると、一糸まとわぬ姿を隠そうともせず、たじろぐシュロをにらみすえたまま、美しい体から殺気を発した。
ふいに消えてしまった。
「消えた?まさかそんな――」
「シュ、シュロ様、なんだったんでしょうねさっきのひと。いきなり消えちゃいましたよ。でもすごい迫力だから、僕食べられちゃうかと思いましたよ」
肉食動物の殺気をラキはみのがさない。
シュロは泉に近づいていった。
泉の水面には金粉が浮かび、陽光にかがやいていた。
「これは、魔族の?!」
「まさかぁ。だって魔族はもう絶滅させられたはずですよ。でなければはるか遠い地へ追いやられているはずです。こんな人里近い場所へはさすがに出て来ないでしょう」
わずかではあるが、だが確かにこちら側に残った魔族は確かにいたのだ。
人間との接触を避けながらも、どうにか生き続けている。それでもだんだんに少なくなりつつあるのは、人間の人口増加による軋轢と、習慣のちがいによる相互不理解のための、感情の悪化によるものだ。
人間たちは、野蛮で慎みがないとばかりに魔族を狩りはじめてしまった。
かなりの魔族は絶滅させられ、それでも人間が一番恐れている超常の力によって、仙境の地へと逃れていったはずだった。
「ここら辺の空気はやっぱりよそとは違っているよ。さっきの彼女も完全な魔とは思えなかったしね」
体はどうみても人間のものだった気がする。
魔の存在を隠しようがないのはその目だった。燃えあがるエナジーをあまりにも素直に映しだしていたのだ。
木に昇っていたラキが谷間を指した。
「シュロ様、あっちに村がみえますよ」
「よし、じゃあ行ってみようか」
ラキが肩に飛び乗ると村をめざして歩きだした。
たいした距離を歩くこともなかったが、その村はどこか外界と隔てるような、異質な空気が張り巡らされていた。
なんとなく一歩が入りにくいのだが、中にはいってみれば、べつだん普通の村とかわりはない。
遠目でみるよりにぎやかそうだ。人の往来も多いし、店も連なっている。
だがシュロを見るまわりの目はあきらかに冷たかった。
奇妙なものを見るような殺伐とした目つきは、かなり居心地が悪い。
「ちょっとあれ、片目だよ。なんだか不吉じゃないか、あんなモノがこの村にたどり着くなんてさあ」
「ああ、シナック様の魔術の腕も落ちたもんだな。あんなよそ者が簡単に入って来るなんてな」
買物途中の婦人たちがシュロをいやな目つきで検分しながら、店の主人とヒソヒソと耳打ちしあっている。女たちの高い声はいやでも聞こえてきてしまう。
「あの方もいい年だからねえもう。まさか、あのセアラじゃないのかい、連れ込んだのかもしれないよ」
「そりゃ考えられるよね、なんてったって男好きだし。根が魔物だからさあ」
ラキが鼻白んで言った。
「なあんか感じ悪いところですねシュロ様」
「こんなところに住んでいる人たちだからね、きっと警戒心も強くなるんだよ。仕方がないよ、それも身を守る手段なんだからね」
まいったなぁ、と頭をかきながらシュロは答えた。
彼の相貌も目立ちはするが、こんなに注目をあつめるほどには得体が知れなくはないはずだ。どちらかというと、人好きする柔らぎと華がある。
シュロはひとかたまりの婦人たちに顔をむけた。
それに合わせ、うかがっていた周囲の者たちが不自然に顔を横にした。どこか食べるところはないかと声をかけようとしたが、とても聞けそうな様子ではない。
じろりと目を細めた子連れの婦人に、シュロは曇りのない笑顔をした。幼い子供は笑い返してくれたが、若い母親は赤くなりはしても、すぐにそっぽを向いただけだった。
「うーん、なんだかやりにくいなあ。ここってけっこう魔的な匂いがするんだけどなあ、なんでだろ」
シュロはため息をついた。そういうところはたいてい人馴染みのいい気さくな人が多いはずなのだ。
「シュロ様、あそこ食べ物屋みたいですよ」
「ほんとうだ。やっとご飯にありつけるね」
ラキがいう店へと急ぎ、店の中に顔をだす。
「すみませーん。なんか食べるものありますか」
声をかけると、なかで遅めの昼食をとっていた男たちがぎょっとしてシュロを見た。
興味ありげだが目をあわせまいとすぐそらせる。
厨房から亭主が出てきた。シュロを見ると露骨に嫌そうな顔をした。
「なんだね、あんたは」
「あの、なにか食べるものできますか」
肩の上のラキをみて、さらにはっきりと顔をしかめて嫌そうに手をふった。
「ダメだダメだ。あんたみたいなよそ者に食べさせるものは何にもないよ」
「はあ?」
「魔獣を連れてるやつにろくなもんはいねえ。だいたい片目がつぶれてるなんて縁起でもねえやつはさっさと帰った帰った」
その口調には、どうせおまえも魔物だろうと、いわんばかりである。
「まったく店が魔物臭くならあ」
肩を突き飛ばされて外に出された。
「なんて失礼な親父なんだ!シュロ様こんな店こっちから願いさげですよね」
「よくわかんないけど、ずいぶんと魔物の嫌いなところみたいだね」
「魔物っていっても色々いるのに、全部いっしょくたにしてほしくないですよ。それよりもシュロ様を魔物だなんて失礼きわまりないです。本来だったら極刑なんだから――」
「ラキ、そんなことを言うものじゃないよ」
短く笑う。
「でもシュロさまぁ――」
シュロは怒りに毛を逆立てているラキをおちつけと撫でた。
だがシュロは甘かった。
その後、どの店どの店でも断られ、挙げ句ついには泊まる所すら見つけられなかったのだ。
「やばいなあ。今日も野宿かなあラキ」
「それよりお腹すきましたよお」
ラキとシュロはすっかり歩き疲れてベンチに座りこんだ。公園の噴水を飲んでいた。
「非常食用の携帯パンならあるよ。お食べ」
「せっかく町があるのに、なんでこんなまずいものを食べなくっちゃならないんだ」
ラキはなかばやけくそに乾パンを頬ばった。
「キャーっ、泥棒よ、だれか――!」
「こらあ、まてぇ――」
けたたましい悲鳴があがるのに、シュロとラキは乾パンを喉につまらせた。
店の中から、腕ほどある長いパンとハムの塊を持って走りだしている男が見える。太ったパン屋のおかみと肉屋の主人がわめきちらしながら追いかけるのに、辺りが騒然となりはじめている。
勢いよく走っている男はどうやら小さな老人のようだった。
大男に捕まると、軽々とぶら下げられた。二人はゴクリと乾パンをかまずに飲み込んだ。
「オ、オルフじいさん?!」
「なんであのジジイがこんなところに!」
オルフと海賊船まで一緒だったのは覚えていた。だがその後、彼が船を降りたのかどうかも知らないのだ。
オルフがなぜこんなところにいるのだろう。
恰幅のよい二人にはさまれてギャンギャン怒鳴られていた。クスンとすすり上げてみせながらも、肉だけはけっして離さない。
「食いぱぐれたんですね、彼も」
ラキがしみじみ言った。
彼ならそれくらいはやりそうだ。
オルフがこちらをみて手を振っていた。シュロたちは辺りを見回したが、他にだれもいない。
シュロはもしやといわんばかりにおそるおそる自分を指す。オルフはにこやかに頷く。
一斉に周囲の険しい目がこちらを向いた。
「えっ――?」
「おまえも共犯か!」
「てめえ、こんなジジイに泥棒させやがって。やっぱりよそ者は信用ならねえ」
いきなり屈強な男たちが駆け寄ってきた。言い訳をする間もなく腕をねじり上げられ、引っ立てられる。食べかけていた乾パンが落ちて石畳に転がっていった。
「あ、あの僕は別になにも――」
「や、やめてよ。ボクたちは共犯なんかじゃないぞ。こら、いたいやめろって!」
「うるせえぞ魔物」
ラキは指で弾かれ転がった。
「わあ、なにするんだ」
「ラキ!」
シュロが叫んでいるのにもかまわず連れて行かれた。オルフはひょひょと笑っていた。
「オルフじいさん!どうして巻き込むんだよ」
「すまんのうシュロ。ちょっと悪いが金をこの人たちに払うてくれんか」
「お、お金?」
オルフはパン屋のおかみに頭をはたかれる。
「金の問題じゃないよ。うちはよそ者に売るパンは置いてないんだからね。あんた、仲間ならそれ相応の責任はとってもらうよ」
シュロに凶悪な顔を近づける。
「ちょっと待ってください。話を聞いてくださ――」
男に服の衿をつかまれ爪先立ちになった。
ふいにその手を少女の白い手がとめた。
「その人、関係ないわよ。私ずっとみていたんですもの。誰も食事をさせてくれないんで、非常食の乾燥パンを食べていたわ」
ざわっと騒ぎが広がった。
「セアラだ」
「あの、セアラだよ」
セアラと呼ばれた少女の手にはラキが抱かれていた。
「君は……」
シュロは少女の顔をみて少し驚いた。あのとき、泉にいた少女ととても似ているのだ。
人垣はがなぜか後ろへ退いていた。どれも嫌そうな顔をしている。
抱かれたラキが怒っていて、黒目がすこし赤らんでいた。
「ボクたちは違うって言ってるじゃないか。人の話を聞かずに乱暴なんだから」
「うるせえ魔物が――やっぱり魔物は魔物を呼ぶんだな、悪魔の子のセアラ」
忌々しそうに男は悪態をついた。セアラが少しも気にせず、男の手をはたき、シュロを放させた。
セアラは誇り高く、だが淋しそうな瞳の色をして彼らを見た。
そのけぶるような清廉な美しさをみていると、泉であった魔の色を濃くもった少女と、同一人物とは思えない。
「私は見たままを言っただけだわ。お腹をすかせている人がいるのに、食べ物も売ってあげない方が、人道的にはずれていると思うけど」
「な、なんだとぉ」
男は威嚇するように口をゆがめると、こぶしをつきだし掴みかかろうとした。
おかみがそれを止めた。
「やめときなよ。一応はシナック様の孫娘だ。こんな悪魔憑きでもさ」
「チッ、死にかけのおいぼれが。こんな面倒なもん残しやがって。昔は一流の魔術師だったかもしれねえが、いまじゃただの厄介者だぜ」
セアラがその言葉に、怒りの目をきびしく向けた。
「な、なんだよ魔物のくせに。どこの種ともしらぬ男の落し子がよお」
「母さまの悪口をいうことは許さないわ!」
「ほ、ほんとのことじゃねえか。どうせおまえも魔――」
「あ、あの――」
シュロが申し訳なさそうに割って入った。
男はシュロに八当たるように怒鳴った。
「なんだ、よそ者が口をはさむなよ!」
「すいません、あの、でも一応パンとハムのお金を払いますので、これでいいですか」
シュロは充分すぎる金額をさしだした。
「お腹立ちは重々承知しておりますが、どうかこれでお引き取りください。この者にもよく言ってきかせますので」
頭を下げられきっぱりと言い切られると、なぜか反論できない。まっすぐみつめる紫の瞳は邪気を吸い取ってしまう。
シュロが微笑むと緊張がいっきにとけた。
パン屋のおかみと肉屋の男は、しぶしぶながらもお金を受け取った。ぐずぐず言ってはいたが、そのまま帰っていった。
それにあわせて、人垣もしだいにまばらになった。
「ありがとう。庇ってもらえて助かりました」
迷惑をかけてしまったと申し訳なさそうに言うシュロに、セアラはにっこり笑った。
「本当のことを言っただけですから」
その笑みからは、どうみても魔の匂いはしない。それどころか白い石の塔にいる巫女のような輝きすら感じさせている。
シュロにはどうして魔物扱いされるのかがわからなかった。村人たちよりよほど清浄ではないか。
「あの人たちっていつもあんな風なんです。気にしないでくださいね。それにお腹をすかせているのに、よそ者だからって食べ物も売らないなんて、やっぱり変ですものね」
「そうじゃ。嬢ちゃんはええことを言うのう。人間、腹がすいてはなあんもできんのじゃ」
オルフが腕を組み、セアラの横でもっともだと首をふっていた。
ラキがつばをとばして怒鳴った。
「いつもいつもいつも――っ!もとはといえば、おまえが元凶なんじゃないか!まったく人騒がせなことばかりしてシュロ様を巻き込むんだから」
「いやいや、こんなところで会うとは天のお導きとしか考えられんのうシュロ。わしとおまえさんたちはとはよっぽど縁があるんじゃな」
「そんなものあるかっ!」
二人の言い争いにシュロが乾いた笑いをもらす。
セアラが明るい笑い声をたてていた。
シュロは彼女の笑顔をみつめながら、思いがけないほど優しく微笑んだ。
セアラがのほほが桃のように淡く色づいていく。
「泉で君にあったような気がしたんだけど。違ったかな」
「泉――?」
ハッとしたセアラから笑みが引いていった。急に表情が引き締まる。
「あなたが会ったと言うのなら、会っているのでしょうね、きっと」
「きっと?」
セアラはおし黙った。
「お金を払ったのはシュロ様なんだから、これはボクたちのものです」
「年寄りをいたわらん者にはバチが当たるぞ。こらこちらによこさんか。えい、よこせ」
ラキとオルフが肉を取りあっていた。シュロたちが言葉をなくして見ている前で、いきなりオルフが肉にかじりついた。
ヒョッと悲鳴をあげる。どうやら固すぎたようだ。
その悲壮なようすに、セアラがこらえきれず噴き出した。身体を笑いに震わせながらようやく言った。
「うちでよければご飯くらいはご馳走するわ。どうせここら辺で泊めてくれるところなんてないでしょうからね」
「ほんとかぇ?!いやぁ、嬢ちゃんは話せるのう」
「でも、いいんですか。そんな急におじゃまして」
シュロが恐縮そうにいうのに、セアラはあっさりとこたえる。
「うちはおじいちゃんと二人暮しだから、気にすることはなにもないわ」
「いい娘さんじゃ。助かった助かった」
オルフはすっかり宿泊先が決まったとすなおに喜んでいる。
「このハムは年よりの口にはあわん。おお、嬢ちゃん、土産にどうじゃな。ほれ」
歯形をつけた肉を差しだし、地面に転がったパンといっしょにセアラのカゴに入れた。
ラキがオルフを叱りつけた。
「そんなのいらないだろ!迷惑だよ。もとはといえば全部オルフのせいなんだからね」
「そ、そんなに怒らんでも……」
「どんなに怒ってもちっとも懲りないくせに」
「まあまあラキ、落ちついて。すいません、あの、ではお言葉に甘えておじゃまさせてもらいます。実は僕もおなかペコペコで――。僕はシュロ、こっちはラキです」
「わしはオルフじゃ」
セアラが頭を下げた。
「セアラです。でもよくあなた方あの森を越えてこられましたね。村長たちの頼みで、おじいちゃんがあまりよそ者を入れないようにと呪術の霧を張っていたんですよ」
「やっぱりそうだったんだ。人工的な匂いがしたと思ったんだ。かなり腕は良さそうですね、魔術師ですか」
辺境の地には必ずといっていいほど魔術師の存在がある。
それも魔との接触率の高い地ほどその質は高くなるとされていた。それだけ村人たちにとって魔術は命の要なのだ。
たぶんこれほどまでに魔物を毛嫌いしているところをみると、過去に、この地でかなり血生臭いことがあったにちがいない。
シュロはセアラの荷物を持った。大きなカゴには薬草のような匂いのする植物がたくさん摘まれていた。
「おじいちゃんはもういい年なんです。ちょっと体が弱っているけど、昔はかなり名を馳せた魔術師だったみたいですよ。いまでは薬を作ったり軽いまじないをする程度だけですけどね。今日もかわりの使いに出たところだったんです」
「なんで村人は君のことをあんな風に言うんだい?君がとても魔物だとは思えないけど」
セアラはギクリとしたようにシュロを見た。
だが含みも悪意もなく言うシュロの瞳に見つめられ、きれいな弓なりの眉が泣きそうに歪められて、たまらないように顔をそむけた。
「きっとあなたもそう思うようにります。訳はすぐにわかるはずですから」
「でも僕にはきみがとても優しい心根の子だってわかるよ。きみの目は、きみの心を素直に写しだしているからね」
「ヒョオ、見つめあっちゃってこのスケベェ。いいのう若いもんは青春じゃなぁ」
見つめあっていた二人をオルフが肘でつついた。セアラがカッと赤くなった。
「あの、べつに僕は――」
「シュロ様はそんな下世話な輩じゃないぞ!へんなこと言うなエロジジイ!」
ラキはオルフのつるつるの頭に乗ると、てっぺんの残り少ない髪をつかんだ。
「いてて、いててやめんかい!残り少ない資源は大切にせにゃあかんのじゃ、あたた」
ふいに石つぶてが飛んできた。
シュロはとっさにセアラをかばい抱き込んだ。いくつかが背中に命中し、一番大きな石がこめかみに跳ねていった。
「わーい、セアラの悪魔憑き。淫乱女がまた男連れ込んだ――」
セアラはシュロの腕からキッとにらんだ。
子供たちがワーと叫びながら走り去った。
「ちくしょうこの悪ガキめ!あたしがファナーだってわかってりゃあそばにも寄らないくせしやがって!おい、こらまて――っ!」
それはドスのきいた低い声だった。
ギリッと吊上がった目の険しさは、さきほどの少女のものとはまったく違う。
だが違うのは表情だけでなかった。姿そのものまでもが変化している。別人だ。
「ちょっとあんた、いつまであたしを抱いてるつもりだよ。気安いんだよ放しなっ!」
「あ、ああごめん」
シュロはあっけにとられて腕をとく。こめかみの血を拭いながら彼女の変貌に唖然としている。
「なにジロジロみてるのさ。まったくムカつくったらさ」
「セアラじゃ――ないよね」
「ふん、あたりまえさ。あたしをあんな聖人ぶった女と一緒にしないでよ、ああ気分わるっ!」
表情がかわるだけで、こうまで変わるのか。黒く長いサラサラの髪さえ巻毛になっているではないか。
「泉にいたのは、きみだね」
「そうよあたしよ。ねえあんた、そういえばあたしの裸ただ見したんだよねぇ」
「えっ?ああ、ごめん。そんなつもりはなかったんだけど」
「見物料とってもいいんだけど、まあこれで勘弁してやるわ」
シュロのこめかみの血を舌で舐めた。シュロがビックリする。
「ねえあたしの身体、けっこう綺麗だったでしょ」
「いいのう。嬢ちゃん、ぜひわしにも見せてくれんかな、金はこいつらが払うぞい」
オルフがよだれをたらさんばかりに言う。
「役にたたなくなったジジイには用はないわ。あたしは若くて活きのいい男の精液が好きなんだから」
「ググッ、そそ、それは――きびしいのう」
うなりながら後へ思わず退いている。
ラキは真っ赤になって口をパクパクさせていた。
「今のきみからは、魔の臭いがするね」
シュロが不思議そうにつぶやいた。
「そうよ。あたしはファナー。魔界の眷族だわ。こんな女に封印されているだけで、人間なんかと一緒にしないでほしいわね」
魔族という誇が、彼女に色濃くうつる。
燃える黄金色の光彩が猫のように細まった。
「嬢ちゃんよー、わしは腹がすいたぞい」
欲望に忠実なオルフは、ものおじもせずファナーの服を引っ張った。
哀れな顔をしてまるで捨て犬のようだ。ファナーはチッと舌うちした。
「あんたらを泊める約束したのはセアラさ。あたしは知らないね」
シュロを見て、なぜかファナーはふっと目をそらした。
その目はセアラであってもファナーであっても少しも変わらない。まっすぐで優しい。
「まあいい、すぐそこだから着いてきな」
ファナーは膨れたように口をとがらせ足早に歩き出した。
すぐ先の森にはいってゆく。
「ありがとうファナー、助かるよ」
シュロは笑った。ラキがその笑みを不思議そうに見つめていた。
ファナーが乱暴にドアをあけると、暖炉のそばに座っていた白髪の老人がゆっくりと振り返った。
そのあまりの眼光の強さに、シュロは思わず足をとめてしまった。
「じじいまだ生きてやがったのかよ」
「ファナーか。なあに、そう簡単におまえを喜ばすわけにはいかんからな」
シナックは重々しい皺を刻んだ顔をかえもせず、じっとシュロたちをみすえた。
一人一人を鋭くみてから、口を開いた。
「おまえにしてはずいぶん珍らしい客人を連れてかえったようだな」
「あたしじゃないわよ。あの馬鹿セアラに決まってるじゃない」
「いずれの御人も、稀にみるご面相の持ち主のようだ。まあどうぞ、おかけください」
峻厳な面もちに相応しい、重厚な口調だった。
気押されしながらもシュロは頭をさげる。
「すいませんずうずうしくお邪魔して。あの、僕はシュロです。こっちはラキ」
「で、このくそジジイがオルフ」
ファナーは尻に触るオルフの手をつねりながら言った。オルフは手をさすりながらニヘッと笑った。
「若い娘のケツはやっぱりええのお」
「わたしはシナックです」
「おうかがいしています。魔術師の先生だとか」
身にそなえている気配だけでもじゅうぶん手腕はしれる。
シュロは手に持っていた薬草のカゴを机に置いた。
「よく、あの霧を越えて来られましたな」
「運がよかったんですよ。それにラキがいてくれましたから」
とんでもないとラキは首をふった。シナックは口元を緩めるとそれ以上聞いてこなかった。
「お腹がすいたぞい。わしは腹がすいた」
「バーカ。あたしは作らないからね。セアラんときに頼むんだねエロジジィ」
ファナーは相手にできないとばかりに言い返すと、くるりと踵をかえした。
「こんな陰気くさい家になんていられないわ。ご飯の用意が出来たら呼んでちょうだい。それまで遊びにいってるからさ、じゃあね」
「ファナー!」
シナックが呼ぶのにもかまわずさっさと出ていった。
家は、村からかなり外れた森の奥にひきこもっていた。呪術をあつかうという特殊な仕事と、ファナーとセアラのような特別の事情がある娘たちと暮らすには、やはり町中では弊害が多すぎるのだろう。
だがファナーは家にほとんどいることはないらしく、気ままに男を誘ったりして遊び回っているようだった。シナックのそばに寄りつこうともしない。
ふう、とため息をつくとしナックは短くいった。
「すまんが、そこらへんにあるものでも適当に食べておいてくれ」
シュロには、シナックがあまり体調がよくないことに気がついていた。
けして表情をかえることがなく、気圧されるような威圧感はあるが、どこか覇気がない。
もちろん滅多な者にけどられるほどではないが、吐息から病魔のにおいを感じる。
「あの、よかったら僕が何か作りますけど」
「あなたが?」
見るからに料理などしたことがなさそうなシュロを、疑うようにじっと見た。
「海賊船でウェルズじいさんに仕込まれましたから」
「海賊船?」
シナックはあやしげに眉をしかめていたが、なんの悪気もなさそうなシュロの様子に、皺をふっとゆるめた。
「では、わるいが頼もうかな」
「わーい」
小踊りしたのはオルフだった。
「シュロ様、僕も手伝います」
ラキが肩から飛び降りると人型をとった。少年の姿になる。
「ほう、変身するのか。質の高い魔獣だな。躾もいいし主人の言うことをよくきくようだ」
「ラキは友達ですよ、大切なね」
「シュロ様〜」
ラキの目が嬉しそうにゆれる。
「なるほどな。ファナーが連れて来るはずだ。あんたたちみたいな者ばかりだと、この町ももう少し居心地がよくなるんだろうがな」
諦めたような口ぶりだった。
シュロは料理の準備にとりかかった。薬草をより分けているシナックの手が気づかぬほどに震えている。
「この町の人って、ずいぶん魔が嫌いなんですね。過剰なほど敏感に反応する」
「魔物どもにかなりの人間が殺されたからな。絶滅させてから、そう年月はたっておらん」
「あなたが?」
魔物を、ほんとうにこの地から消し去ってしまったのか。
だが言葉にはだせない。
「後遺症がかなり残った。村人たちはすっかり変わった。かたくななまでに魔を拒むようになってしまったからな。娘も死に、そして孫までも……」
「セアラはいい子ですよ。気だてもいいし。町で庇ってもらいました。ファナーも優しい子だ。よく、わかります」
「おもしろい御人じゃな。あの子らがああだとわかったとき、妙だとは思わんかったのか」
「一つの体に二つの魂があることがですか?」
はじめて仕事をする手を止めシュロを見た。
料理をする鮮やかな手際に感嘆していた。
「優雅な身のこなしや育ちのよさそうな笑顔につい見逃しがちだが、ただのお貴族様とはどうやら違うようじゃな」
「あたりまえ。シュロ様は何でもできるんですからね。あ、ちょっとお間抜けですけど」
ラキが自慢げに言った。
「ひどいなあラキ」
「その片目、かなり高等な魔術がかけてあるようだが、承知のことかな」
「わかるんですか?この国でも最高の科学者による魔術ですよ」
「なるほど……。セアラも、もう少しわしの力が強かったなら、もしかしたら聖なる乙女として、白い石の塔に巫女として仕えていたかもしれなかったんだがな」
「聖なる乙女、ですか?」
「そうじゃ。わしはこうなることも有り得るとわかっていながら、わがままでファナーの魂をわざと憑かせたんじゃ」
「あなたがセアラの身体に、ファナーを……」
バンッと扉が乱暴に開けられた。
ファナーは憮然と眉を吊りあげ、ひどく不機嫌な表情でかえってきた。
「たく、どいつもこいつもフヌケ野郎ばっかりで、いやんなるわよ」
気に入らないことがあったのかずいぶんご機嫌がななめのようだ。
驚いているシュロの目の前を素通りし、さっさと自分の部屋へむかってしまう。
「ちょっとぉご飯まだなの?!さっさとしてよグズね」
悪態をつき叫びながら部屋にはいると、自分のベッドでオルフが気持ちよくいびきをかいているのを見つけ、ファナーは目が丸くなった。
手に握っている酒瓶が目にはいったのと同時に、容赦なく蹴りあげベッドからつきおとした。
「ジジィ!なにしてるんだ!」
「おおっ?おっ、飯ができたんかいな」
「ふ、ふざけんな!あたしのベッドに勝手に寝て、しかもお酒まで――!」
「いやーご馳走になったぞい。久しぶりのいい酒じゃった」
けぷっと息を吐いて握っていた酒瓶をふった。すでに空だ。
どこからみつけたのか、それはファナーの秘蔵酒だったらしい。枕に涎のあとまでついている。
真っ赤になって怒鳴る。
「ぶっ殺してやる!」
「ファナー、オルフ、おまたせ。ご飯ができたよ〜。さあ冷めないうちに食べようよ」
シュロののんびりとした顔がのぞけられた。ずいぶんと胃袋を刺激するいい匂いがいっしょである。満面の笑みは久々にうまく出来た証拠だ。
ファナーはシュロの罪のない笑顔に、一瞬にして毒気がぬかれた。怒気が消える。
「ファナーなにをしている。さあ温かいうちにいただこう」
シナックが、ファナーがごねているのかと心配してやってきた。
そして、三人がもどってみると、すでにオルフが席についていたのには、さすがに唖然としたのだった。
「なんであたしについてくるのさ」
ファナーは振り返ると、シュロにわずらわしげそうに声を荒だてた。
「僕も町まで出てみようと思ってね。ついでだから一緒に行こうよファナー」
「あんたも懲りないやつだね。町の連中がどんな奴らかはもうわかってるんだろう」
「ちょっと過剰防衛すぎるけど、でも世の中にはいろんな人がいるんだなあって」
「で、もう一度それを味わいに行くのかい?あんたってマゾなわけ?」
シュロは笑っただけだった。
ファナーが鼻を不満げに鳴らし歩き出すのに、となりに並んだ。
「シュロ様はマゾなんかじゃないぞ」
ラキがかわりに抗議するのに、ファナーはからうようにラキを横目で見ると、鼻をつついた。
「あにするんだ!」
「たかだか花に巣喰う妖獣のくせに。あたしら魔族に生意気いってんじゃないわよ、おチビちゃん」
「妖獣じゃない!稀獣だ。あんな低知能なのと一緒にするな。おまえだって人間に封印されてる間抜けな魔族じゃないか」
「なにを!あたしとやる気なのか――」
「いつでも受けてたつっ!」
シュロの手に押さえられ、ふたりがウググとうめいた。
「ケンカはよしてよ二人とも。せっかく友達になったんだからさ」
「だ、だれが友達になったのよ!」
「そうですよ!こんなやつなんかと!」
言い合いをする二人の様子がどこか楽しげで、シュロは思わず微笑んでいた。本人たちは気づいてないが、ずいぶん親しそうにみえる。
ファナーはカッと赤くなった。
「なに笑ってんのよ。あたしを馬鹿にしてたら、たたじゃおかないからね」
「だって、なんだかそうしてるとファナーもラキもとても可愛くってさ」
ファナーはさらに沸騰したように真っ赤になった。ラキはボソリと言った。
「ファナーのやつ赤くなってやんの」
「あ、赤くなってなんかないわよ!あたしは魔族よ。み、みんなあたしを怖がってるし、近寄りもしないんだから。おまえたちもあたしに気安くするな!」
ファナーはむきになって牙を見せ怒鳴った。
シュロにはファナーのそんな姿が、まるで自分は孤独なのだと訴えているように思えていた。彼女に微笑みかける者がどうしていないのだろう。
「あんたもどうせあたしが欲しいだけなんだろう。他の男たちと同じで調子のいいときだけ声をかけてくるんだ」
「ファナー」
「いいさ、別にそんなこと。だからあたしは快楽のかわりにやつらの精気を吸い取ってやるのさ。一週間ぐらいは口もきけない腑抜けにしてやるんだから。あんたもそうなりたいのかい?」
「ファナー、きみが孤独なのはね、きみのまわりには『ファナー』という人を理解してくれる者が、誰もいなかっただけだよ。そしてまたきみ自身が、その人たちを排除していることでもあるんだ。自分から孤独になってはいけないよ」
「あたしを理解する?!ハッ!だれにも理解してもらう必要なんかないよ。あんたはあたしを、そのお気楽なペットと同じにでもしようってのかい。手懐づけて、頭でもよしよしと撫でたいの?」
「な、なんだと!」
ラキが怒りに気を逆立てた。
シュロが穏やかに、だが、きっぱりと言った。
「ラキはペットじゃないよ。友達なんだ。僕はむりにきみに受け入れてもらおうとは思っていない。だって人の心は自由でしょ?誰も汚すことはできないし、強いることもできない。きみのようにプライドの高いひとは特にそうだ」
「あ、あたしはあんたなんか――」
「僕は命令されてシュロ様といるんじゃないよ。僕の意志でいるんだ。馬鹿にするなよ」
ラキは肩から飛び降り、少年の姿になった。
頭上からいきなり何か白いものが飛んでくるのがわかった。
ファナーは俊敏な反射神経でとっさに身をかわしたが、シュロの頭に直撃した。
額からじわりと黄色いものが垂れる。卵だ。
ガラスを引っ掻くようなヒステリックな声がいきなり浴びせられた。
「この悪魔め!どうしてうちにばっかりくるのよ。仲間まで連れて、また呪いをかけにきたのね。いいかげんにしてよ!さっさと消えろ、おまえみたいなやつがいるからうちの子の病がよくならないのよ!」
見ればまだ年若い婦人だった。品よくまとめられた髪には似合わない形相をしている。窓から彼女が卵を投げつけたのである。
シュロには、彼女のまわりにひどく歪んだ想念が見えていた。
あっけにとられていたシュロとラキをよそに、ファナーは毅然と怒鳴りかえしていた。
「なんだとクソババァ!あたしが何をしたっていうのよ、言いがかりつけやがって」
「悪魔憑きめ!おまえがうちの子を病気にしたんだろう。この前まであんなに元気だったのに、おまえがうちの前を通ったからこんな病気になったんだ。おまえなんかあのとき悪魔と一緒に死んでしまえば良かったのよ!」
ファナーの様子がにわかに変わった。
女はその殺気にグッと押し黙った。寒気のするようなファナーの瞳には怒りが燃えたぎっている。
「それほどあたしのせいにしたいんなら、本当に呪いをかけてやろうじゃないの。どうせあたしは魔族だ。人間の血を見るのが何より好きさ。子供が苦しんで血を吐きながら死ぬなんて最高じゃないの、そうしてやる!」
「ファナー!」
彼女の本心でないとわかっていた。だが母親にそんなことは関係ない。やっぱりそうだと妄想をかきたて憎しみを増長させるだけだ。
「やっぱりそうだったのね。ここで聞いているみんなが証人だわ。シナック様がなんと言おうとあのとき殺しとくべきだったんだわ!」
「待ってください奥さん。いきなりそんな言いがかりは困りますよ。お子さんが病気だなんて僕たちは今まで知りもしなかった事ですよ」
シュロがいう言葉など耳にもはいらない。
「うるさい!セアラの仲間のくせに。おまえだってその魔物を連れてきた悪魔じゃない」
ラキのことだ。
なにげなく窓の外に目をやり、ラキの変身を見てしまって、高ぶっていた神経が切れたのだ。
衝動のおもむくままに卵をまた投げつけ、ファナーの足元で砕けて散った。
「みろ。どうせこの町のやつらなんかこんなものなんだ。あたしのいう言葉なんて誰も聞こうともしないのさ。町で起きた厄介事は、みんなあたしのせいにすればいいんだからな」
「ファナー待って!」
シュロは触ろうとした手を跳ねつけられた。
睨みつける黄金の瞳は他人を拒絶していた。
「薬が必要なときだけいい顔をして来るくせに、薬を届けてもらうやいなや、あいつらは汚いものでも見るように顔をそむける。次に会ったときには悪しざまに罵り石をぶつけてくる。いつもそう。ねえ、あいつらみたいな腐った人間のどこが、魔族より生きる価値があるっていうの。あたしの一族を滅ぼしたあいつらを憎んでいるのはあたしのほうよ。あたしを憎んでいるあいつらを、どうしてあたしが憎まないでいられるの!この手で八つ裂きにしてやるわ!」
心にたまった怒りを吐露するように言い切った。ファナーのまわりの空気が凍りついたようにキラキラ光っていた。
女にむけたファナーの視線の凄さまじさに、窓辺にいた女は悲鳴をあげた。恐怖に我にかえったのか慌てて窓をしめた。
「この町の人間はみんな同じよ。魔だとわかるとすぐ逃げるくせに、弱いセアラだとこぞって口を汚く罵る。これのどこが弱者なの。醜いのはどっち、教えてよ」
ファナーは笑った。自虐的に、憎しみを込めて。
「あたしは血が好きよ。苦しみにのうちまわる姿も、他人を押し退け自分だけは助かろうとする狂気も、許しを乞う卑屈な態度も大好きよ。そんなやつらが哀れに死んでゆく様を見るのがたまらないわ。そう、あたしは魔だ。だがおまえたちとどこが違う」
ファナーのなかの魔は消えることはない。
だが彼女を傷つけることを許される人間なんて、だれもいないのだ。
シュロは言うべき言葉はなかった。ただファナーの指に口づけた。
「なっ?!」
「人を殺したくなるのはね、心が病気だからだよ。満たされてなくて寂しい、孤独という病気だからだよ、ファナー」
ファナーの瞳が一瞬だけ、心を映しておおきく揺れた。
周囲のざわめきに気づいたのか、手をもぎはなして叫んだ。
「あたしがそんな虚言でなだめられるとでも思うのか」
口の端を吊りあげてみせた。泣きそうにみえた。
「おまえもどうせあたしと寝たいだけなんだろ、だからそんなことを――」
ラキが声を高くあげた。
「自分のことばっかり言って、おまえみたいな女にシュロ様のなにがわかるんだ!」
ファナーに飛びつきそうになるラキをシュロが押さえる。
「なによ格好つけて!どうせあたしの本性をみたら逃げるくせに。バカヤロウ!」
息を荒く言ってからファナーはギョッとした。シュロの悲しそうな顔にたまらなくなったように、顔をゆがめてかけだす。
「おまえもシナックの老ぼれも、みんなみんな大嫌いだ。殺してやる!」
追おうとしたラキに、シュロは首をふった。
「でもシュロ様」
「わかっているよ。ファナーは心の澄んだ優しい子だから、よけい他人の心無い言葉に傷ついてしまうんだ。今はそっとしといてあげようよ」
きっとそのプライドの高さは、泣き顔を見られることは我慢ができないであろう。
周囲でシュロたちを傍観していたものたちが、居心地わるそうにして消えていった。
それでも人々の目はかわらず冷たい。セアラの悪魔憑きが、ろくでもない妖怪憑きの男を呼びよせたと陰口をささやきあっている。
シュロはこの町に深く根付いてしまった魔に対する異常なこだわりに、あきらめに近い感情をいだいていた。
きっと祖先たちの血から、根深く遺伝子に刻み込まれているのだろう。どうにもならない。
たしかに魔は人々に害を及ぼしてきたかもしれない。
だがそれらのほとんどが、人間が彼らの領域を侵してきたためのものだった。習慣の違いを受け入れられない狭量さも、また言及されるべきだったのだ。
シュロはふと視線に気づき見上げた。あの母親がじっとカーテンの向こうから見ている。
シュロはその家のドアを叩いていた。
「シュロ様こんな家になんの用なんです?」
卵をぶつけられたというのに。
「子供が病気だって言っていただろう。だからどんな具合いなのかなって思って」
「あのおっかない母親が入れてくれるわけないじゃないですか。それに治してやる義理もないですし」
ラキは言いながら元の姿に戻った。肩に乗り、頭に張りついた卵の殻をはぎとった。
「疲れが人の心を病ませるんだ。その心の病んだ者に看病される子供はもっとかわいそうだよ。あの人は助けを求めていたんだ。受け入れるかどうかは彼女しだいさ」
しばらくのあいだ静まりかえっていたが、扉がそっと開かれた。
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