聖母の眠る都市
3
「映画を見ようよ、和樹」
言いだしたのは水無穂だった。
和樹の手をにぎったまま、映画館のまえの看板を指さした、興味深げにみいっている。
二人はかなり遠くまで来ていた。
ずっと望んでいた、だれ一人として自分たちを知るもののいない、はじめて訪れる土地である。
中央から最速の飛行機でも二時間はかかる東の辺境地。大泉と呼ばれる古い田舎だ。
利用価値が少ないことを見越されて、都市計画からもずっと外されているため、良くも悪くも昔そのままののんびりした空気があった。
ふたりは列車を何本も乗り継いだ。
始めは目的地もなく、足取りをくらませるために行ったり来たりしながら進んでいた。時間も制限もない、あてどもない旅だったのだが、不思議とだんだん二人には楽しくなってきていた。
乗れるだけいろんな物に乗ろう。
そう言いだしたのは水無穂だった。
まず飛行機に乗って雲のうえをみた。船に長時間ゆられて初めて船酔いを味わった。モノレールや、新幹線でどこまでも行った。
あらゆるものに乗った。でもどんな乗り物にのろうと同じなのだ。できるだけ知らない土地をめざすだけなのだから。
どちらもなにも言わなかったが、わずかな時間でも、惜しむように楽しんでいた。二人でいれば、実際どんなことでも楽しめた。
「あたし映画って見たことないんだよ。二十世紀版の古くさいやつやってるんだって。リバイバル?」
「い、いまさらこれを見るのかよ。水無穂って映画も見たことなかったのか?」
「自慢じゃないが、あたしはこんな遠くまできたこともなければ、海も初めてだったんだぞ。海ってきれいだったなぁ。いつまで見ててもちっとも飽きなかった。――でもまあ、船があんなに苦しいものだとは思わなかったけどさ」
和樹がクスクスと喉をならす。
「まったくだよ。人の気も知らないで」
発作かとおもい和樹はひどくあわてたのだが、当の水無穂は便所にかけこむむと、しばらくして、すっきりとした顔で出てきたのである。ただの船酔いだったのだ。
「あの小さな街からほとんど出ることなかったからな。汚い小さなあの場所が、あたしの世界だった」
和樹はそっと水無穂の手を握る。
「たいして俺も変わらないさ。俺はお化け屋敷で妖怪の番をしていたんだからさ」
人間の顔をしたのやら、動物の皮を被ったのやら。それこそ盛りだくさん。
水無穂がうんざりしたように言った。
「結構お互いつまらない人生おくってきたよな。こんな若くって、一番楽しいはずの時期がこれだもん。普通だったらまだ親元でわがままいっても許されるはずなのにさ」
「まったくだ。『水都』のおかげで苦労させられるよ。いや、『水都』にメロメロになった馬鹿たちのせいで、かな」
二人で笑う。
「せっかくだからさあ、ぱあっと遊ぼうよ和樹。今までくすぶってたぶん、取り返さなくっちゃ許せないじゃん」
しばらく贅沢できるだけの金はある。
水無穂が満足げにいう。
「さいわいこの土地、まだ生きてるみたいだよ。都市部みたいに、『水都』の支えがないと維持できないほど病んでないもん。自分の力で生きてる土地って、こんな匂いがするんだなぁ」
遠くに見える山は、まだ本物だった。人工につくられた植樹の森ではない木々からは、鼻が痛いほど青いにおいがしていた。
道路沿いからみえる海もあおく美しい。波が地球の胎動のように動いている。交通の便がわるい辺境というだけで、文化という魔の手に汚染されていないのだ。
「ここの土地が気に入ったみたいだな水無穂」
「空気がきれいだ。それに街全体が二十世紀調で、レトロな感じがしないか?落ち着いてるから肌に合うみたいだし」
「よかった。――たのしそうで」
また、和樹が包みこむように目許をゆるめた。
和樹は最近よくこんな顔をした。水無穂はそれを見ると必ず泣きそうになった。
どちらともが、自分たちの関係について口に出そうとはしなかった。
そんなことはもう関係ない。
遺伝子上では、確固とした親子だろうとしても、そんなことはどうでもいい。今の二人には、恋人という言葉すら空々しい。
どちらかがいなかったら生きて行けない。
半身。
そう、もう一人の自分なのだ。持たずに生まれてきた片割れである。
和樹と水無穂は映画館にはいると、恋愛ものと、アクションものの二本立ての映画をみた。立体映像とちがっていて、昔ながらのスクリーンに映し出される二映像はやけにふるめかしくてめずらしかった。
だが、映画館から出てきた二人の顔は、なぜかうんざりと白んでいた。
「だからやめようって言ったんだよ俺はっ」
「なんだよあたしだけのせいにする気か?!和樹だっていいって言ったじゃないか。それにもう見ちゃったんだから仕方ないだろ」
「まあ、勉強にはなったかな。もう二度と見ないっていう」
女優はまあまあきれいだった。が、演技が非情にまずすぎた。ストーリーまでもが稚拙で、なんとも言いようがない。
サルのフラダンスでも見ていた方がましだとさえ思われる。
アクション映画のほうも、見た目のいい主人公が、女とよろしくやるばかりで、どこがアクションだったのかわからなかった。
彼らがこれで二次元映画に偏見をもったことは確かである。
「水無穂、パチンコしようぜ」
「パチンコ?」
遠くの派手なネオンに彩られた看板をさした。
過去から現在に至るまで、庶民の娯楽として一度も首位の座を奪われたことないベストヒットはやはりこれであろう。文化史上類をみない大人の遊びである。
「俺うまいんだぜ」
「あたしはそれで身を持ち崩した人間を大勢しってるぞ。子供のころからギャンブル漬けで、幼いころの記憶にきざまれているから、あの魔力から抜け出せないって言ってたな。なかには腹のなかで聞いたのを覚えてたし」
「大丈夫。俺わりと相性いいんだ。ちょっと目に力入れるだけで玉の描く円がちょうどいいところに行くんだよな、これがさ」
いたずらっぽく片目をつむる。
「まさかおまえ、いかさま――」
「たまのストレス甲斐性だよ」
にげる和樹を水無穂が笑いながらおいかける。
異様にはしゃいでいた。いままでにないほど笑い軽口を叩き合っていた。
だがそれは、年齢に応じたふざけあいであり、誰の目にもおかしくはうつらない。
だたお互いだけが変だとわかっている。
いまはもう、不思議と過去を嫌だと思っていなかった。
普通のことをするだけで、こんなにも幸せになれるのだ。感謝さえするほどである。ならんで歩くだけで、一緒に映画をみるだけで、だれがこんなに幸せになれるだろう。
できるだけ楽しむことで精一杯過去を取り戻しているのだ。
二人はピカピカに電気で装飾された店に足をふみいれた。人は少なかったが、機械だけはたくさん置いてあった。
初めから箱を持って行く二人の姿はほほえましくも、仲のいい兄弟がふざけているようにしか見えない。
店の中はいつもの独特の感覚がみなぎっていた。
銀の玉は弾かれると、小さなとじられた完璧な世界へと投げ出されていった。放射線を描き、円をいくつもなどって孤をつくり、次の世界への穴をくぐっていく。
美しい円を描けたものだけが次に進むことを許される。放たれた生をまちがいなく歩んだ者だけが、ほうびとして沢山の実りを得ることを許されるのだ。
「意外にさ、神の摂理だよなパチンコって」
和樹が言った。ガラスに水無穂のきれいな顔が映っている。
「さしずめ俺達はこっちでひっかかってる玉かな」
台の端のほうで、曲がった釘に器用にとまり、動かなくなっていた球をさした。
その一つだけがよどみなく活動している群れとは無縁なのだ。
「冗談になんないよ和樹」
「いいか、見てろよ。結構こっからがいけるんだからさ」
和樹の目の色が少しだけ薄まる。ひっかかっていた玉が、中央に吸い込まれてゆく。
それを合図に、みるみるおもしろいように増えていった。あっとゆいうまに箱が埋まって、とうとう追加の箱が必要になってしまった。
いたずらっぽい顔をしている和樹はひどく得意げにみえた。水無穂が素直に感心したようにいう。
「おまえ、その気になれば食いっぱぐれることないな。まさかその目がこんなことに活用できるとは思わなかったよ。まあこれで、あたしは飢えて死ぬことだけはないってわかったわけだな」
「なるほどな。それは思いつかなかった。俺って、もう手に職をつけてるも同然だよな」
二人は真剣にうなずいた。
銀の玉が山盛りになった箱をかかえ、さきに歩く水無穂に和樹はついていった。
やはりここらへんの金銭感覚については、お坊っちゃん育ちの和樹とは違いしっかりしている。
それでも結局、それを何に変えたかというと、手に持てないほどのお菓子だった。
「水無穂、こんなにお菓子ばっかりどうするんだよ」
「食べるに決まってるだろ。あたしはずっと死ぬほどお菓子を食べるのが夢だったんだ」
「――まじかよ」
甘いものが苦手な和樹は嫌そうな顔をする。
「知ってるか和樹。女と子供の大半は、夢とお菓子でできてるんだよ」
「ああそう。俺、女じゃなくてよかった」
荷物のほとんどを持っている和樹が本気にすることなくいった。
公園のベンチでお菓子をかじっていると、どこからともなく子供たちが集まってきた。お菓子を与えているうちに、いつのまにか全部なくなっていた。
「な、子供はお菓子でできているだろう」
「おまえが手招きして呼んでたくせに」
「いいんだよ。あの子らには甘いものが必要だったんだから」
なにが見えるのか、唇にうかぶ笑みが謎めいている。顔色が少しあおく透けていた。
「和樹、あたし海が見たいな。まだ浜辺を歩いたことないんだ。きれいな海がみたい」
「海?」
海が、そんなに気にいったのだろうか。
和樹もそういえば、浜辺をゆっくり歩いたことがなかったのを思い出していた。いつもせわしく車で通り過ぎるばかりだった。
「そうだな、海に行ってみるか」
水無穂の手をとると、バス停に向かった。
海のある方面のバスは、三時間にわずか一本しか走っていないらしい。今からだと軽く一時間はこない。
利用者も少ないらしいところをみると、かなり距離がある田舎だろう。
「今日これからじゃ、帰れないぞ」
「いいじゃない。べつに帰って来る用事もないことだしさ」
「まあ、そうだな。ただ、どこかに泊まるところがあればいいんだけどな」
水無穂がクスリと笑う。
「まったくお坊っちゃん育ちだな、和樹は。家がないと眠れないんだ。あたしはどこでも寝られるけど」
「……そうか、それも、いいかもな」
「今は夏だし、どこでだって眠るくらいならできるさ」
水無穂はだれよりも自然からの愛情を受けている。きっと自然が守ってくれる。怖いものなど、人間よりほかにいないのだから。
バスの時間待ちのあいだに、二人は食料品や必要そうな雑貨をどっさり買いこんだでいた。
やっとやって来たバスは、これでもかというような年代物だったが、市のお慈悲で運行されているのだから仕方がない。年代物のレトロ車で、廃車寸前なのは一目瞭然だった。
五十過ぎぐらいの婦人が一人乗っていた。あとはまったくの空席で貸切り状態である。
バスは思ったより乗り心地がよかった。きっと運転手の、バスに対する思いが、とても温かいものだったからだろう。
古いながら充分に手入れが行き届いていて、それはバスの方にもはっきりと伝わっているのだ。
「物には意識がないと思うか和樹」
「物に意識?」
「うん。物にだって、ちゃんと心があるんだぞ。植物だってそう。足元に転がっている石だって思いをもっている。ただその表現方法が人間と違うだけで、すべてのものに心があるんだ」
「それって、アミニズムってやつ?」
水無穂はなぞめくように笑う。
すべてに意識があるからこそ、道具は人を助け、自然は力を貸したのだ。生活が豊かになったのも人間だけの力ではありえない。
「植物が自分の体を他者に与えてくれているから、生命は生きていられるんだぞ」
和樹は真剣な顔をしていう水無穂をみつめ、いつのまにか納得しているのに気づく。
こんな話を素直に信じていることに驚かずにはいられない。あらためて水無穂の影響力の強さを感じてしまう。
あの時、蕾もつけていなかった桜の木が、いきなり満開になってしまったのだ。
生命の不思議さについて和樹の意識が変わっていたとしても、仕方がない。
ひっそりとしたバスのなか、二人は小声でささやくように話をした。とても、ゆっくりした時間だった。
しばらくいくと舗装状態のよくない道に入った。
水無穂はあまり調子がよくないのか、しばらく口を閉ざした。小さな頭を和樹は自分の肩によせて目をつぶり、無理して笑おうとするが顔色がみるみる悪くなっていく。
「ちょっと眠れ」
和樹は頭を抱いた。
水無穂はそのまま目をとじた。息が浅いのか何度も苦しげに眉根をよせていて、握った手先が冷たい。
それから一時間近くバスは走った。
楢原という停留所で二人は降りた。ちょうどバスの窓から海が見えたのだ。
先に老婦人が降りていた。二人がついて降りたのにすこし驚いたようだったが、わずかに一瞥しただけで、そのまま何も言うこともなく山の方へと消えていった。
「あの人、どこに帰るんだろうね。ここら辺って家、あんまりないみたいだけど」
水無穂はうしろ姿を見ながらぽつりと言った。
まだ少し疲れているように見えたが、いくぶん顔色が良くなっていた。
彼女のいうとおり、楢原という土地はなんだかとてもうら寂しく、民家さえ本当に少ないところである。
山に囲まれていて、一見すると緑に覆われてしまっているかのようにも思われる。
だがよく観察してみると、たいした巨木はなく、かえって低木が多いように思われた。閑散とした印象をあたえていて、所々黒く炭化した木がまばらに残っているのも目につく。
十数年前、ここら一帯を焼きつくすような噴火があったのだ。
火山からながれでた溶岩や灰が、みるみる村をおしつぶして、焼き払ってしまった。その爪痕がいまでもこうした形で残っている。
辺境のため、地下の磁場制御がとどこおってしまい、そのため急激な地殻変動によって休眠中のはずの楢原岳がいきなり活動をはじめて、火を吹いたのである。
ひっそりとした山間の村は、あっけなく飲み込まれ、多くの命が散ってしまった。
生き残ったわずかな人も、ほとんど非難先から帰ってはこなかった。
いまここに住むわずかな人間は、この土地以外では生きられないだろう年寄りと、過去に傷を持つ者、または人嫌いをする、偏屈な者だけだった。
中央からの復興も開発も、つぎにくるかもしれない噴火の予測がつかないために、当分のあいだ先送りにされていた。
そのおかげか、緑もゆっくりとだが自然治癒をはじめかなり復活しつつあった。人の手の入らない静かな村はさらに静かになり、人の営みをわずかに取り戻していた。
「どうやらほんとに野宿のようだな。なんにもないや」
山裾にひろがる海を、和樹は防波堤からすい寄せられるようにみつめていた。
「大丈夫さ、あたしがついてるんだもの」
「そうだよな。頼りにしてるよ」
波の音にあわせて潮風が薫ってきた。
無限にひろがるともおもえる青いひろがりを、水無穂は遠い瞳でみつめていた。和樹は置いて行かないでくれと、ついすがりたい衝動に襲われて、こぶしを握る。
彼女の顔はどんどん白さをましてゆく。さらに美しくなって、手の届かない空へと近づき、消えてしまいそうに思われる。
海風にさらわれてしまう錯覚に、和樹はあわてて水無穂の手をつかんだ。
「和樹、降りようよ。海だ――」
風化したコンクリートの階段をつたい、二人は砂浜におりた。かなりのあいだ誰も来た様子がなく、砂が波のかたちをきざんでいる。
遠くまでつづく海岸に人の姿はなかった。どこまでも風紋だけが美しかった。
水無穂は息を大きく吸った。
空をうつした巨大な水のかたまりが、こんなに青く懐かしいとはものだとは思わなかった。
二人は砂のうえを歩いた。歩くたびに砂がきしみ、足跡が点々とつづいていった。波打ち際をあるく靴がしずみ、押し寄せる波がそれをどんどん洗い流してゆく。
やっと息をついた。
手と足から緊張がとれた。
今まで、言葉には出さなかったがかなりの圧力が二人にかかっていたのだ。
運命の魔の手との闘いはまだまだ続くのだろうが、このひと時だけはそんなことを忘れさせてくれる。
「波の音って、どっかで聞いたことあるよな」
和樹が言いながら顔をむけた。ゆったりとした笑みだった。
水無穂も笑みを返してうなずくと、和樹の頭をそっと自分の胸に当てさせた。
「俺、この音を覚えてるんだ」
和樹はじっとそれを聞くと、やっぱりそうだ、と短く言った。
「すごいよな。試験管の中で生まれたのに、こんなことってちゃんと知ってるんだ」
「そうだよね。きっと、水都が知ってるんだ。あたしたちが受け継いだ、彼女の記憶なんだよ、これってさ」
二人は手をつなぎ、黙って海を見つめた。砂にすわって日が暮れるまでずっと波の音の中にいた。
沈むすんぜんの太陽は、赤すぎるほど赤く、炎に燃えて、海に虹色にうつった。きらめく波が小さくゆれて目に痛いほど美しかった。
「どうしてなんだろうな」
抑揚ない和樹の声がぼそりと言った。
「うん……」
小さく水無穂が返事をした。
どうして二人が親子でなければならないのだろうか。どうして水都の血が、こんなにも濃くはっきりと流れているのか。
和樹は立ちあがった。
「行こう」
手を取り引き上げると、ならんで歩きはじめる。
どちらも何も言わなかった。
言葉を通して伝えられることは本当にわすかなことしかない。思いの数分の一にもみたないのである。
与えあう温もりが、どんなものより大切であるか。どんな行為よりも心をつなぎ、重ねてゆくのか。
たとえ体のつながりがなかったとしても、触れあえるだけで、二人はこんなにも熱く通じあっているのだ。
そして、どんなにわかりあえても、どうにもならない思いもまたある。それがもどかしくて、悲しくてたまらぬように、二人はずっと寄り添いあっていた。
「水無穂……?」
水無穂の体がふっとゆらいだ。
ふわりと和樹の手のなかにいきなり崩れこんだ。
「水無穂?! 」
「……大丈夫。ちょっとめまいがしただけ」
そう言って冷たい汗をかいている水無穂は、動かなくなった。和樹は抱きあげると大きな木の根元まで運んでそっと横たえた。
「水無穂、薬はどこ?! 」
「袋の中……」
和樹はあわてて階段の降り口に置きっぱなしにしていた荷物を取りに走った。
荷物をひっぱりだし、薬の便をみつけると、水無穂の口に含ませる。
だがいっこうに楽になる気配がない。
あぶら汗が白濁した頬を伝うのに和樹は苛立たしく言った。
「本当にこの薬効いてるのか?! 」
「父さんが、あたしのために造ってくれたんだ。……そのうち効くさ」
ここのところ薬の量がかなり増えてきていた。効きが鈍くなっているのだ。
水無穂はもう一錠飲もうとして薬に手を伸ばした。その手に、別の薬が転がった。
「これを飲め水無穂」
「これ?」
水無穂の薬とは少し色が違っていたが、見たことがある。たしかこれは……。
「だってあたしの薬は――」
「いいから飲め」
有無を言わせず口におしこんだ。
その薬を飲み込んでから、そう時間もおかずに水無穂の顔色がみるみるよくなっていった。
「すこしは楽になったか?」
「……うん。でも和樹、さっきの薬は――?」
「ああ、ほら見てみろよ。すごい星だ」
つられて水無穂は空をみあげた。ほうっとため息のように声をもらす。
「空ってこんなに星があったんだね」
街のケバケバしい明りではほとんど見えなかった星の群れは、夜空にはこんなにもはっきり浮かびあがっていた。
「俺たち、出会えてよかったよな」
和樹がおもわずもらすのに、水無穂が答える。
「……うん」
たとえ、つらすぎる恋であっても。
存在さえ知らずに通りすぎる人々が、星の数ほどもいるというのに、それでも出会えることができたのだ。
そしてそのわずかな確率のなかで恋に落ちることができた。
「奇跡だよな」
草の上に寝転がりながら深い口づけを交わした。このまま、なぜ時はとまってくれないのだろう。明日、迎える朝がつらくないとは言い切れないのだ。
不意をつくように草を踏む音がした。
二人はギクリとして抱きあったまま固くなった。
「そこに誰かいるのかね」
掠れた女の声だった。
顔をみあわす。誰もいないと思っていたはずなのに、どうして。
「ああやっぱり。まだいたんだね」
懐中電灯をゆらし、ゆっくり近づいてきた。夜目にやっと見えたのは、昼間のバスの中でみた老婦人の顔だった。
「ど、どうして俺たちを……」
「どうも気になったもんでね。あんたらが海の方へ降りてくのを見てたから、もしやと思ってさ」
返事に困る。どうせ、帰るつもりのない旅なのだ。
「ここら辺りには泊まれるような所もないからね。まあ、だいたいここに来ようっていう人間が少ないし、ろくでもない理由の場合がほとんどだからね。どうしてるかとつい気になってさ。まさかまだ本当にいるとは思わなかったけど」
何気ない口調だが、きっと心配してわざわざ見に来てくれたのだ。
二人がもしかしたら、そのまま海に沈んでしまったのかと思ったのかもしれない。
月あかりに照らされた彼女の顔は、よく日に焼けてはいたが、田舎の老婦人にしてはどことなく垢抜けて見えた。
一見、気の強そうな、冷たい感じを受けるが、それは彼女の持つ雰囲気がそこはかとなく知的に思わせるからだろう。
黙りこんだ二人をじっとみていた。
「どうしたんだい、そっちの彼女、具合いが悪いみたいだね」
「別に――」
水無穂は無理になんともなそうに言おうとしたが、冷たいほどに見通すようなまなざしに射抜かれて、言葉が出なくなってしまった。
婦人はふっといたわしそうに目を細めた。
「二人とも疲れているようだね。ついといで。雨風をしのぐぐらいならうちでもできるから」
返事もきかないうちにすたすたと歩きはじめた。二人は視線をあわせると、なぜか彼女の背中をそのまま追っていた。
「あなたは――?」
水無穂が言った。
「ああ、私は松木昌子。この山のなかで一人暮しをしている変わり者さ」
「俺達は――」
「言わなくてもいいさ。その顔を見ればわかる。こんなとこまで来るっていったら、よほどの変わり者か、逃亡者だけだからね」
言う彼女の口ぶりは、なぜか嫌みがなかった。どうして彼女に着いてゆくのかわからない。だが二人は無意識のうちに、信頼のようなものを感じていた。
「あなた中央にいた人?!水都の――」
昌子の背中を見つめていた水無穂が、ふと声をあげた。
「み、水無穂?」
いきなり水都の名を口にした水無穂に、和樹はあせったように手をひっぱった。
この土地にきてから、水無穂の神経はいやでも研ぎ澄まされてしまっている。なぜその名が昌子のなかに見えたのかはわからないが、水無穂は昌子のなかのあるものに、確信を抱いていた。
「……・やっぱりそうなんだね」
前を歩いていた昌子の足が、ぴたりと止まった。
まっすぐ水無穂を見返す。厳しい目をしている。
だがすぐに同情するように緩んだ。
「あんたのその顔をみたとき、一目でわかたよ。あんまり水都にそっくりだったからね。まさかこんなところでその顔に逢うなんてねぇ、思いもしなかったよ」
二人は寄り添うようにして昌子をみていた。星をうつした二人の黒い瞳が、人間離れした美しさで恐ろしさえみえる。
「なんだかよく似てるね、あんたたち……」
「あなたこそ何者なんですか」
和樹が水無穂を背にかばうように言った。目だけは警戒を解かず、昌子のなかの何かを見極めるようにつよまっている。
昌子が手を軽くふった。
「安心おし。私も中央から逃げてきた人間だよ。もうかなり昔のことだけどね」
「もしかして、あなたも科学者だったんですか」
「そう、水都のね。そして友達でもあったんだ。まあそうは言っても、近所でよく遊んでもらったお姉さんなんだがな」
そういう彼女の年を考えると、水都は一体いくつなのだろうか。彼女は時を止め、いまなお少女の姿で眠っているというのに。
「私は嫌気がさしたんだよ。命を命とも思わない実験の数々にさ。そしたら水都が教えてくれたんだよ。眠りにつかされたガラスケースの中から、命を扱うことの神聖さをね。あの時たしかに彼女の声がはっきり聞こえたんだ」
「そしてあなたは逃げた」
水無穂が言った。
「そう。あたしは死ぬ気で逃げた。水都にこれ以上嫌われたくなかったからね」
「それはあなたに彼女の心が届いたからだ。水都を本当に好きでいてくれたから、水都はこたえてくれた。」
そうはっきり言う水無穂を昌子はまじまじと見た。考えるように瞳をゆらす。
「私のことがわかるのかい……?」
コクリとうなずく。
「そう……。私はね、水都が好きだったんだ。恋――と言っていいほどにね、彼女に惹かれていた。だから水都の声が聞こえたときとても嬉しかった。そしてそれ以上に辛かった。水都は泣いていたんだ。……彼女はすべて知っている。見て、わかっている。自分の身が削られていくのを、体をもぎ取られるのをね、悲しみながらだまって見ていたんだよ。だから私達がしてきた愚かさも、いま、進もうとしている間違った方向の未来も、すべて知っているんだ。だからもちろん、今の私のことも知っているはずだよ」
「じゃあ、あたしたちのことも?」
水無穂の声がかすかにこわばっていた。
「あんた達が何者なのかは知らないけれどね、たぶん私が考えている通りの者ならば、ね」
話はそこでとぎれた。
着いたのは小屋みたいな小さな家だった。中はわずかの家財道具のほかは、手入れのゆき届いた植物の鉢植えばかりだった。これでは森も家も区別があまりないありさまである。
「好きなところで寝ていいよ。布団はここにおいとくから」
毛布を投げ出すと、すぐに温かいスープをふるまってくれた。美味しいというよりは、体のためにいい栄養分を、でき来るだけ効率よくとるための非常食のような、実用的な味がした。
二人の体が温まって落着いたのをみてとると、彼女は部屋にひきこもってしまった。
和樹と水無穂は毛布をかぶって台所の横の小さなスペースに身を寄せた。
いっさいを干渉してこないのは、彼女の最大限のもてなしだろう。
水無穂の能力について聞くこともできたのに、それすらしなかったのだから。
だがもう、素性さえも、互いに話す必要もなかったのかもしれない。水都の名前のまえでは。
疲れた体に、無言はここちよかった。
二人だけになってやっと息をついた。一つの毛布にくるまっていた。
こんな所にまで来て水都の話を聞こうとは思わなかった。
やはり偶然というよりは、水都が二人を守り導いてくれているのかもしれない。そう考えるほうが、安心できる。
そしてなぜか悲しさも増してしまう。
「俺たちのこと、なにも聞かなかったなあの人」
「きっと、水都がほんとに好きだったんだと思うよ。純粋に、少しでも水都に近づけるんだって、そばにいられるんだって思って、血のにじむような思いをして研究者になったんだ。なのに実際に彼女が研究所でやらされた仕事といえば、何人もの水都殺しでしかなかったからだ。だから苦しくって辛くって、ここまで逃げてきたんだよ。わずかでも、水都の血をもつあたしたちに会えたことをきっと喜んでる。命が、残っていたことに」
「あの人が逃げのびれたのも、やっぱり水都の力だったのかな」
「うん。だってあそこを出るには、死か束縛――記憶の抹消しかないからね。中央の追っ手から完璧に逃げるには、水都の守りがなければ無理なんだよ。父さんだって、和樹の親父さんの力がなかったらすぐ見つかってたと思うよ」
和樹は水無穂をぐっと抱きよせた。
「よく、わからないよな。俺達のわからないところで、たくさんのことが絡みあって、複雑すぎて、俺にはもう、考えられない」
「あたしにだって見えないことの方が多いよ。なんていっても、あたしは水都の半分なんだもん。出来そこないの『廃棄処分』組の一人だよ」
「俺だって、あのエゴイストとの混血さ」
頭をよせあい笑いあう。いろんなことがいっきに起こりすぎて、すべてが自分たちの考えるより大きなところにつながっていて、もうよくわからない。
だが事実はこうして、屋根の下にいて、しかも事情をしている者の庇護のもとで、眠ろうとしている。
二人はそのまま意識をてばなした。
夜の闇が深まるのとおなじように、疲れがどっと押し寄せてきたのだ。次に本当に朝がくるともわからぬまま、深い眠りに落ちていた。
結局あれから昌子の家に二人はずっと泊まっていた。
彼女ははじめと変わらずに何も言わなかったし、問おうともしなかった。
一緒に生活するのが、あたりまえのような顔をしていた。それがよけい居心地をよくしてくれていたのだろう。
昌子のほうも話し相手がいることを嬉んでいるようにみえた。長いあいだ一人で暮らしてきた彼女は、植物以外の存在とふれあえことが新鮮だったのかもしれない。
話をするうちに、彼女の実年齢が、見た目よりかなり上であることもわかった。
ときどき街まで買い出しにいくほかは、ほとんど庭にある畑の食べ物で自給自足していて、日常製品すら自分で作っているらしい。
研究者らしく、あれこれと細かく分析しては、目的の用途にあったものを製作し、気に入るまで改造を繰りかえすらしい。またそれが性にあっているらしく、細かいとろにまで凝っていた。
水無穂はすぐに昌子と仲良くなった。
彼女は水無穂がずいぶん気に入ったらしく、娘のように可愛がっていた。
それもそうだろう。尊敬し憧れていた、あの水都のクローンなのだ。何もかもが愛おしく、また懐かしさを覚える。ふとしたことが心をなぐさめてくれる。
彼女によく似た和樹と水無穂を、ときどきまぶしそうに見ていることがあった。
その目は、手の届かない過去の幻影をみるように切なくてしずかだった。
「こんな、穏やかな生活を送れるとは思ってもみなかったな。……ずっと続けばいいのにね」
ぼんやりと草のうえに腰をおろしていた水無穂は、切株の新芽に手を当てた。
「そうだな」
和樹がしばらくしてからそう言った。
続いて欲しいとずっと願っているが、それがかない夢であることもまた、無言のうちに了解しあっている。
和樹にはわかっていた。水無穂の薬が少なくなっていることを。
隠しているが、彼女の発作はひどくなってきているのだ。
「水無穂、これどっかでぶつけたのか」
「え?」
Tシャツからのぞいた肩口に、紫色の斑点が浮かんでいた。
水無穂はそれを見るなり、ぎこちなくシャツをひっぱりあげた。ごまかすように笑いながら目をそらせる。
「ああ、ちょっとぶつけたんだよ。たいしたことない……」
「ふうん。まあ、見かけによらずドジだもんな水無穂は」
わざとらしいごまかしにも、あえて流されてやる。
わかっているのだ。血液の流れが悪くなりすぎて、あちこちの血管がやぶれて、うっ血しだしている。
問いつめたところで症状が軽くなるというものでもない。それよりは隠したいという水無穂の心をくんでやりたい。
いまは静かに時を過ごせるだけでいい。それももうわずかなのだろうから。
「水無穂――ちょっときてくれないか」
奥の部屋から昌子の声がした。
「ああ、すぐいく。ちょっと待って」
和樹は水無穂の手をとって立ちあがらせた。貧血を起こしてしまうのをそっと隠してやる。
唇をかるくあわせた。
水無穂は微笑むと歩いていった。後ろ姿にまで、ずいぶん痩せてしまったことがわかってしまう。
けれどそれももう、問わない。
……自分も、同じなのだから。
和樹はポケットから薬をとり出した。水無穂に与えたあの薬と同じものだった。
それを一錠口にほうりこむ。飲みくだす薬もの数も、水無穂のそれとそうかわらない。
ただ、水無穂より和樹の症状の進行が遅いことと、薬の効き目が強かったというだけである。いずれは同じことなのだ。
不思議なことに、水都の遺伝子は、水都以外の者には正常には働かなかった。
まったく同じクローンができないように、それは個体のどこかに必ず欠陥を生じさせた。
「神に近い血は、人の手では育たないのかもしれないな」
和樹はふっと空をあおいだ。
残してきた者たちはどうしているだろうか。今ごろになって、やっとそう考える余裕がうまれてきた。
高志を殺してしまった事実は変えようがない。
さすがの叔母も、子供を二人までも殺されたとなっては、いくら金を積まれても黙ってはいないだろう。
孝昭がどんなに手をつくして捜しているか。
そして警察もまた、捜しているだろう。
「見つかるまでもてばいいけどな。水無穂も――俺も」
あきらめたようにため息をついた。
胸がギリッと痛んだ。今までにない痛みが締めつけた。
和樹はその場にうずくまり、この場に水無穂がいないことに感謝した。
知られたくない。彼女にだけは。
もうなにも、彼女の心に影を落としたくはないのだ。
最後まで笑顔で見送ってやりたい。ただその一心だけだった
薬の瓶を水無穂はじっと眺めていた。
もう、ほとんど無くなっていた。あと一回分があるかどうか。
それが終われば死の闇がぱっくり口を開けて待っている。
別段、死ぬのは恐くなかった。
いつだってここから解放されたがっていたのは水無穂のほうだった。
だがいまになって、やっと生の楽しさを知り、和樹を大切に思う心を知って、死ぬのがこんなにもつらいことだとわかってしまった。
――彼を残して死にたくない。
たった一人で、和樹がまた暗闇を歩かなくてはいけないのかと思うと、耐えられなくなる。
こんなボロボロの体でも、和樹がのぞんでくれているかぎりは希望を捨てたくない。
「やっぱり、そうなんだね」
苦しそうにしている水無穂に影がさした。
「……昌子」
「やっぱり水都の血を持つ者は、完璧な身体じゃなかったんだ」
昌子の静かな瞳には、涙が浮かんでいた。
彼女もまた死を多く見すぎた者だった。
水都の死を、彼女から造られた多くの命を、完璧ではないといって消去させられていたのは、いつだって彼女達だったのだ。
息を吹かえした水無穂を、なにがなんでも連れて逃げ出さずにはいられなかった裕也の気持ちを、昌子は誰よりもわかることができるだろう。
「ごめんね水無穂。私たちはなんて愚かなことをしてしまったんだろう――」
「なに、言ってんのさ。昌子があやまることじゃないよ。こればかりは、仕方ないことだもの。それにね、あたし今になってやっと、産み出してもらえたことに感謝してるんだよ」
「水無穂……」
「だって、なにも知らずに流され消えるより、こうして生きて、大勢の人と出会えたってことのほうが、ずっとすごいもの。和樹を好きになって、いろんな人の心を知って、あたしはようやく生命に感謝できるんだ。みんながみんな色んな思いのなかで生きて、一生懸命求めている。それがどんなにすごいことかよう理解することができた。命は――それだけで尊いものなんだ」
昌子は不思議そうな顔をして水無穂をみつめた。
「……私は、なんであんたが生き残ったかわかる気がするよ水無穂。あんたは命を愛しているんだね。だからこそ自然に愛されて、生かされているんだ。一番、水都に近いんだろうね。だって水都と同じようなことを言うんだもの、驚いちまうじゃないか。やっぱり最初で最後のクローンだよ」
「あたしが、最後のクローン?」
「二度と造られなくなったんだよ。水都の体が特殊だってわかったからね。どんな事をしても、人工的には水都と同じものは造れないって、やっとそれを、あの人達が理解したんだ。水都の単体を何人造っても、仕方ないことだってさ」
「水都の、なにが特殊だったの?」
「彼女がほんとうに特殊な能力者だったのは、知っているだろう?けどね、彼女は本当は、双子だったんだ。弟がいたのさ。お腹の中にいるときには確かに二人だったらしい」
「それが――?」
そこまで聞いて、昌子の声がぼやけて聞こえなくなってしまった。視界二重に膨らみ、誰かの意識に吸い込まれて行くのがわかる。
水無穂は気づくと腹の中にいた。
小さく丸まって洋水を飲んでいた。
母親の鼓動が子守歌のように聞こえてきていた。いつまでもここにいたいと思わせるような、そんな優しさで一杯につつまれている。
ふと気づくと目の前にもう一人の自分がいた。小さな世界に仲良く息づいている。二人は自分自身のように愛しくて、ずっといっしょにいるべき大切な存在だった。
順調な成長をつづけていた。一緒に産まれいずる日のために栄養をわけあい、愛情も意識も心も二人でわけあった。
いつだって同じで、世界は二人で出来ていたのだ。
そしてある日突然きがついてしまう。
それ以上、二人では生きてゆけないのだと。
体に大きな欠陥があった。体を二つに分けたことを神様が怒っているかのように、二人でいる限り、どうしてもそれ以上の成長が出来ないのである。
死がそこで口を開けていた。ともにたずさえ、母の愛を受けるはずだったのに、闇に帰れと誰かがいざなう。
とても悲しかった。
誰かと出会う約束していたような気がするのに、裏切らねばならない。母に抱いてもらえもせずに逝かねばならない。
だが、なぜだが急に体が楽になるのがわかった。
成長がふたたび始まっていた。
今までのことは夢だったのだと安堵すると、母の命のリズミを聞きながら安心して眠りにつく。
つぎに目をあけると、そこには片割れの姿がなかった。いつもそばにあった大切な存在がいない。あのぬくもりが、消えている。
いや、ある。
まちがいない。体のなかに。
自分自身のなかに、それはたしかに存在していた。欠けていた体のそこを補ってくれていて、いい知れぬあたたかさで抱きしめてくれているではなか。
不安に揺れていた心が、その部分から愛に包まれていくのがわかった。
大いなる愛情は、弟が姉に、喜んで身を捧げたことを告げていた。それは最も深い、彼の愛の形だったのだ。
水都は、そして体に天使をすまわせ生まれてきた。自分でさえも惜しまず与えてしまう深い愛情を、一番最初に身に刻みこんでしまった。
だからこそ、何もかもを愛し、愛された。何もかもを魅了してしまった。
彼女の体は二人でひとつだったのだ。
「彼女はきっとだれより早く進化しすぎたんだろうな。今でいう新人類だったのかもしれない」
昌子の声が耳にもどった。
「えっ?あ、ああ……」
弟の存在は、遺伝子学の中だけでは、はかりえない部分に顕われていった。
だからこそ、一人で産まれて来る水無穂たちには、水都が本来もつはずだった障害が必ずでるのだ。
「私達はそれがわからず、ずいぶんと多くの命を犠牲にしてきてしまったよ」
昌子がつらそうにボソリともらした。
「……けど、あたしは和樹と出会えて恋ができた。たとえ血のつながりが邪魔をしても、体をつなぐことができなくても、あたしたちは十分幸せだ……」
「血のつながり……?じゃあやっぱり、和樹のほうも水都の血を持っているのかい」
「そう、彼は水都の子供だ」
「子供――?!なら、もしかしたら彼もどこか体を害しているんじゃないのかい?確か、二、三の個体で試してみたことがあったけど、どれも同じ様な欠陥あって処分したはずだ」
水無穂は真顔で昌子をみつめる。頬がぴくりとする。
「それは、本当なの?」
「残念ながらね。けれど、絶対和樹に障害があるとは言い切れないかもしれない。何かいい方法があって、作を講じたのかもしれない」
いや、ちがう。
思い当たるものがある。
和樹が持っていた薬はなんだったのか。なぜ水無穂にあの薬はあれほど効いたのか。
和樹の静かな目に浮かんでいたのは、自分の苦しみを本当に知っているからこそのいたわりではなかったか。
「わかった。あの薬、あれは……」
水無穂は震える手で自分の腕をにぎった。
涙がこぼれそうになるのをグッとこらえた。
まだだ。まだ早い。泣くのはもう少し、後だ。
「……昌子」
「ん?」
「ひとつ、教えてほしいの。水都は弟がいたから……弟が水都を愛していたから、生きていられたんだよね。だからこそ、健康な人間とおなじように生きていられるんだよね」
昌子は、鬼気迫る水無穂の表情に、ついうなずいてしまった。
水無穂は花びらに溜った朝露がこぼれおちるように笑った。涙で潤んだ瞳が、胸を痛めるほどに美しかった。
「水都……?」
かつて水都にみたはずの、慈悲深い女神がそこにいた。目に痛いほど美しい。
「やっとわかった。あたしが和樹となぜ出会ったか。何をするべきか」
「水無穂?」
水無穂の満足げな微笑みに、昌子は声をかけようとして、ふいに言葉を失ってしまった。
彼女の表情はそうまで深かっただろうか。
水無穂のすがたが一瞬、背景を透かしたように見えた。光に吸い込まれるように、水無穂は消えていた。
和樹は草村に隠されている墓のようなものをみつけた。
小さな石が積んであるだけだったが、それははっきりとした意図をもって奉られているのがわかる。
昌子が作ったものだろう。流されたクローンたちへの、彼女のせめてもの心である。
これをどんな思いでつくったのかが、そこから伝わってくる思いで、なんとなくわかる気がした。
昌子はまだ自分の過ちを悔いている。だからこんな所で、独りで暮らしているのだ。
彼女の心を考えると切なくなってしまう。
「俺がこんなこと考えるようになるなんてな」
和樹は心のすみずみまでもが、すっかり水無穂と同化してしまったような気がしていた。
けっして嫌ではないが、彼女のみている世界がどれだけ優しくて奥深いのかをおもうと怖いようである。あまりに深すぎて一歩間違うと、己まで闇に落ちてしまう危うさがひそんでいるかのようだ。
和樹は古木の根元にすわった。
まだ少し胸がギリギリと絞めつけられていた。
「このままここで水無穂と死ぬのもそう悪くないかな」
水無穂が逝くのを見届けたら、きっとすぐに死神はこの胸をわしづかむだろう。今となってはそれだけが救いのような気さえする。
「和樹……」
水無穂がたっていた。
和樹は驚き、すぐに疲れた顔を消した。
いつもの表情に戻ると、いたずらを見つけられた少年のように笑った。
「来てたんだ。昌子さんの用はもういいのか」
「もう、終わったよ。ぜんぶ、終った」
和樹はふとなにかを水無穂から感じとった。
「水無?」
「ねえ和樹、海に行こうよ。海がみたいんだ」
いつもと変わりない微笑みで、彼の言葉をかき消した。
はっきりいえない何かがそこにはあった。いつもの水無穂と違う気配がして、和樹は不安におそわれる。
「――綺麗すぎだよ」
和樹は口の中でつぶやいた。
不吉なほど悲しい美しさだった。水無穂のその美しさが目に焼きついていった。
決意を秘めた女性だけがもちうる壮絶なまでの優麗さは、どこか恐ろしくさえある。
和樹は水無穂と手をとり浜辺をあるいた。
初めて訪れたときとことなり、嵐が近くにいるかのように海が灰色にうねっている。
空にもあつい雲が乱立ち、隙間からもれみえる青空がよりいっそう澄んで美しく感じられる。
「細胞をね――おなじ培養液で育てた二つの細胞をね、別々のガラス容器に密閉して置くんだ」
水無穂がいった。
「一方にだけウイルスを入れると、もちろんウイルスを入れられた方は死んでしまう。だけどもう一方の細胞も、なぜか時間が経つと同じように苦しんで、死んでしまうんだってさ」
「へえ、そんなことがあるんだ」
「これってさぁ、まるであたしたちみたいじゃない?」
波が一段と大きくたちあがった。小さなしぶきが二人の顔をぬらした。
「和樹は、あたしが死んでも生きていられる?」
和樹は足をとめ、真剣にいった。
「なにを、言いだすんだよ急に。やめろよ!」
「水都はね、水都だけでは生きられなかったんだ。彼女は双子の弟の、献身的な愛を得たからこそ、生きられたんだ。体に愛を宿していたからこそ水都は女神になったんだよ。だからあたしたちは単体では生きていけないんだ。はじめから欠けている。一人だけではだめだったんだ」
「水無穂、何を言っているんだ?! 」
「――和樹、あたしはもう死ぬ」
「やめろよそんなこと言うの!」
「でも本当のことだ。……けど和樹……あたしが生きられる可能性が、たった一つだけあるんだ。それには和樹の助けがどうしても必要なんだ」
「どうすればいいんだよ!俺にできることがあるなら何でもする!絶対に水無穂を助けてやる、どんなことだってかまわないっ!」
水無穂を失わないためならどんなことでもする。きっと父親を殺すことでもためらわない。神を、水都を裏切ることであってももはやかまいはしない。
そんな悲痛な和樹のこころの叫びが、多分、水無穂は聞こえたのだろう。少しだけ悲しそうに笑った。
「あたしを和樹のなかで生かしてほしいんだ。あたしと、和樹が一緒に生きるんだ」
「――?!」
どういうことだと問おうとした和樹の口を、水無穂がキスで封じた。泣きそうな微笑が冗談だとごまかせなかった。
唇がはなれると和樹が切なく呼んだ。
「水無穂……おまえは……」
「生きて欲しい。あたしのぶんも、水都のぶんも和樹に幸せになって欲しい」
「おまえとならなれる。今だってこんなに幸せじゃないか」
水無穂が和樹をだきしめた。
ふたたび口づけた。
だが前とはちがうのは、水無穂から熱いうねりが潮流となって押し寄せて和樹をいっぱいにしてゆく。頭のなかに白光が差しこみ、乳白色のもモヤかかり意識を強引奪ってゆく。
だれかの手が和樹の背をなでた。
優しくあまい思いが駆けめぐり、幸せで、涙が出るほど幸せすぎて、大好きな匂いが全身にほとばしり、和樹を力いっぱい抱きしめてゆく。
――愛してる。だれよりもだれよりもずっと愛している……和樹、生きてね。生きて幸せになってね。そしてもっと――和樹……っ
「水無穂っ?! 」
和樹はハッとして目をあけた。
もう、水無穂の姿はそこにはなかった。
時がとまったように世界は音をとめた。何もなくだれもいない、虚無の白い闇のなかにただひとり取り残されてしまった気がする。
そのまま子供のように大声で泣きわめきたかった。迷子になった子供のように、めちゃくちゃに泣いて、泣いて泣いて暴れてわめいて、いっそ狂ってしまいたかった。
だが出来ない。そんなことはゆるされない。
なぜならこんなにもいっぱいに水無穂の心を受け取ってしまったから。こんなに温かく大きな思いを体中で受け取ってしまったのだから。
熱く息づく水無穂自身が、和樹の体を抱きしめ、愛でいっぱいに満たしていた。
はっきりとそこにいて、こんなにも近くに感じてしまう。
だから泣くわけにはいかない。
決して悲しんではいけない。これは、つらいことではないのだ。
体の中が熱く煮えたつようだった。
涙が目尻を焼いた。こぼれるのを堪えすぎて、頭の奥がキリキリと痛んだ。
何が自分に起こったか、ちゃんとわかっている。
どうして水無穂が自分に体を与えたか、どうして自分の命がこんなにもはっきり輝きだしたのか、目をつぶっていてもわってしまえる。
水無穂の最後の記憶が伝えてくれた。
「和樹!」
和樹はふりかえった。
孝昭の姿があった。
防波堤の向こうから大声で叫ぶと、なりふりかまわず、取り乱したように駆け寄ってきた。
階段から砂地へ転がり、靴が脱げたのにも気づかず走ってくる。
「父さん……どうしてここへ……」
「和樹!和樹――!」
息をみだしたまま必死の形相で和樹をおもいきり抱きしめた。
「よかった。よかった生きてくれていて。生きて、会えて――」
あまりの手のつよさに手に背中がきしむ。荒い息が髪にかかり、和樹は言葉がでてこない。
「おまえが、おまえがもし消えてしまったら、俺はっ!」
孝昭の心が痛いほどわかった。伝わってきてしまった。
それでも愛していたのだ。
たとえ束縛という形でしか現せなかったとしても、水都の変わりではなく、血のつながった肉親として、息子として、和樹を愛していたのだ。
それをただ口にすることができなかっただけ。
従姉妹である高志を殺したまま、大切な薬をわずかしか持たず飛びだした和樹を、彼は心底しんぱいしていた。
恋人の水無穂と、遺伝子上の親子だと知ってしまい、それでも二人で逃げた和樹の心をおもうと、孝昭自身の心がはりさけそうだった。
そのときになって、やっと自分の罪深さをしり、心の奥底からなげいたのである。
いなくなったとわかった時から彼は半狂乱のように捜しまくっていた。
約束も仕事も放りだし、権力のすべてをつかってまで銀行へ圧力をかけて、和樹がおろしたお金の番号を調べさせた。それも信頼のおける者だけをつかって、その流出先を丹念に調査させ、足取りをもとめていった。
だれにも知られず、真っ先に和樹をみつけだしたかった。何がなんでも探し出そうと懸命になっていたのだ。
そしてやっと突き止めた。
孝昭の手には薬の瓶が握られていた。和樹が苦しんでいるのではないかとつねに持ち歩いていたのである。
「和樹、ああ、和樹っ!」
和樹を一瞬たりとも離そうとしなかった。離すとまた消えるかのようにおびえてさえいる。
失ったと思って、はじめて大切さに気づいたのである。
この人はなんと不器用だったのだろうか。
和樹は、彼の思いを自然と読んでいることに気がついた。そして愛しく思い憐れんでいた。
すがりついて泣いている孝昭に手をかけ、和樹はしっかりと抱きしめかえした。
曇っていた空がまぶしいほど晴れあがり、いつのまにか海が穏やかに凪いでいる。
世界は美しかった。
水無穂と融合し、凶眼が消え去った後には、こんなにも美しい世界が彼を待っていたのだ。
水無穂と出会ったからこそ気がつけた。ひとつになれたからこそ、知り得た光明の世界だ。
「花は枯れるから実になるんだ」
和樹は自分で口にしてから少しおどろいた。それは水無穂の記憶なのである。
「水無穂……おまえは、こうしてちゃんと生きてるんだな。ほんとうに俺の中で生きて、教えてくれる……」
こんなにもはっきりと彼女を感じられる。
和樹はほほえんだ。
水無穂と和樹は区別がつかないほど、その相貌はそっくりになっていた。
そしてその笑顔は、いままでで一番、水無穂に――水都に似てみえた。
世界が和樹を、いや和樹と水無穂を受けいれてくれた。
やっと、命が、生れおちたのだ。
二人の未来はここからはじまってゆく。美しいであろう、明日へむけて、ゆっくりと歩いてゆくのだ。
終わり
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