聖母の眠る都市
1
その少女を初めて見たとき、和樹は息が止まるかと思った。
車で信号待ちをしていたときだった。
少女が両手を大きく天にかかげた。
光の球体が、天空の彼方へと吸い込まれていく。いくつかはじけ、光が霧雨のように少女へと舞いおり、光を浴びて輝いているようにみえる。
姿の美しさもあったが、光をまとった彼女の姿は、光の結晶そのもののように思われてしまう。
羽がないのが不思議だった。天使ではないのだろうか。
視線を感じたのか少女がいきなり和樹のほうへ顔をむけた。
キッと意志ある目でにらみつける。
まだ大人になりきらない危うささえある面にくらべて、息をつくような迫力があった。
少しクセのある長い黒髪が、車の排気ガスにゆれて、蜘蛛の糸のように見えた。
胸がキリッと傷んだ。
彼女の腕のなかには、浮浪者であろう老人のすがたがみえた。ぐったりとして、まるで人形のようにうごかない。すでにこと切れてしまったことがわかる。
どことなく幸せそうで、微笑んでいた。
きっと社会からも家族からも捨てられ、それでも最後まで自由のままに逝った孤独の魂だったのだろう。
――何を見ているバーカ。
彼女の口がはっきりそう型をつくった。
とりまいていた神秘的な雰囲気が一瞬にして消えてしまった。少しばかり美しいが、どこにでもいる下町の少女の顔に戻る。
車が走りだした。
少女の姿が流れていった。
わずかなあいだなのに、目が釘付けになっていたのだ。
和樹はふりかえった。
体がわれしらず震えていた。
もっと彼女を見ていたい。追いかけて話がしたい――。
和樹はふと気づき、苦くため息をつく。
たったいま着いたばかりの街で、いきなり会った少女に、なにを自分は考えているのか。
地理もわかない、ましてや下町の状況もしらずに踏み込むのはあまりにも無謀すぎる。きっとスラム特有の警戒心で、外部の侵入をたやすく許すはずはないだろう。
いやそれより、あの少女を捕まえて自分はなにを話すつもりだったのだ。
少女の目がゆっくり走る車のなかの和樹を追っていた。
二人はまだみつめあっていた。
車が角を曲がり、少女の姿が消えてしまうまで、二人は見つめあったまま微だった。
和樹は真っ暗な部屋のなかに寝転がっていた。
ずっと、あの少女の事を考えている自分に気づいた。
冷たい笑いをもらす。
あそこで何をしていたのだろう。なぜ、あんなに互いに見つめあってしまったのか。
彼女の手から発せられていた光を、和樹は本当は知っている気がした。
それは見たくないもののうちの一つであり、だが、どうしても見えてしまうものでもあるのだ。
ひろい屋敷には、家政婦をのぞいては和樹一人しかいなかった。
その家政婦も、わずか一、二時間ばかりいると帰ってしまう。それ以外にこの屋敷を訪れる者はだれもいない。
父親はいつも仕事が忙しく、めったに会うことはなかった。
そのかわりに、いつもなにかにつけ干渉だけはしてきた。妙なところにはこだわるくせに、一回でも遊んでもらった記憶がないのだから気分がわるい。
きっと父、孝昭にとっては、和樹は言いなりになる自分の持ち物ぐらいにしか考えていないのだろう。
母親は、物心ついたときからすでにいなかった。
顔も知らなければどんな人物であったかもまったくわからない。何一つ彼女について教えられることもなかったし、聞いても答えてはくれなかった。
だから和樹もそのうちに聞かなくなり、母親像はもうずっと不在である。
そのくせに、一樹がだれかを母替わりに懐いたりすると、孝昭は不自然なくらいに怒った。慕った人間をすぐに遠ざけ、使用人ならば首にしてしまうのだ。
ずっと寂しかった。
といっても、もう父親の愛情を欲しがる年齢でもなくなったし、母を求めようという気も起きない。
幼いころは寂しくてたまらなかったが、多少、他の人間とは変わっている部分があったので、返ってよかったのかもしれないと思っている。
和樹は不思議な子供だった。
人の心を無意識に読んでしまうことがあった。
それは心に傷を持つ人や、悲しんでいる人に、特に惹きよせられてしまう傾向がつよかった。
傷ついた心に彼が触れると、痛みは水が流れるようにないでゆき、人々の顔に笑みが戻ってくる。
そうしているうちに、しぜんと彼らは和樹を求めそばに居たがるようになっていった。
彼の瞳は幼く愛らしさだけではなく、誰をも魅了していった。微笑みでさえ慰めになったのだ。
しだいに大人たちは和樹のいうなりになり、のめり込んでいきはじめた。
なかには悪戯をしようとする者もいたので、それでよけい孝昭は心配したのかもしれない。
だがそんなこと以上に、彼はなぜだか和樹を家の外に出そうとはしなかった。
学校に行く年齢になっても、一年の半分は家庭教師がついて家で勉強していた。人に会うことも、ましてや友達と遊びにゆくのですら禁止した。
当然友達もいなくなってしまった。
家政婦も本当に家事のためだけに来ているので、挨拶以外の話をしたこともない。
それも孝昭の息のかかった部下であることは間違いがない。和樹がどうしているか、変なところに外出していないかを報告しているのだ。
家とは、和樹にとって牢獄を意味していた。
一人で住むにしては広すぎるここは、無意味で重苦しい空間だった。
先日越してきたこの家も、いくつかある別荘のなかの一つであり、孝昭の今度の仕事の都合とあうし、従姉妹たちとのいざこざもあって、しかたなく移ってきた。
だが和樹にはそんなことはどうでもよかった。
いつも結局は父の言う通りになったし、どこにいても親しい友達一人いるわけでもなかったのだから。
人に執着をもつということがなかった。
いや、意図してそうしてきた。そうでなければ、いままで独りで過ごすことなど出来なかっただろう。
だからこそ、たった一度会っただけのあの少女のことを、こんなにも考えてしまう自分が不思議だったのだ。
いまだって気になってしようがない。
彼女はなぜあんなにもきつくにら睨みすえてきたのだろう。
光を浴びた彼女は、自分の視線にすぐに気づき、怒りのようなまなざしをむけてきた。
気の強そうな黒い瞳があまりにも印象的で、ほっそりしていた肢体からは考えられないような迫力もあった。
下町の人間なのは間違いがない。長い髪はクシも入れていないように無造作にのばされ、化粧気ひとつなかった。Tシャツにジーンズというラフな格好で、地面に平気ですわりこみ、汚い浮浪者を平気でだきかかえていた。
和樹のような、権力をもつ親にずっと庇護されている人間を軽蔑しているのかもしれない。
自分の汚れた双眸とはちがう、内面から輝く強さが、彼女の瞳にはあった。この禍禍しい光をひめた瞳の底には、近寄るものを不幸にする呪力があるのだから。
凶眼――誰かがそういっていた気がする。本気で感情を荒らたげたなら、本当に人を殺してしまうだろう。
和樹の瞳は、幼いあの日に罪を負ってしまった。あの時からこの身は呪われてしまったのだ。
ノックの音がした。
「和樹様、私はこれで帰りますので。夕飯はいつものところにありますから、温めてからお召し上がりくださいませ」
家政婦の肉付きのよい顔が少しだけのぞいた。
それこそ本当にできるだけ関わりたくないように、彼女は言うことだけ伝えると、すぐに顔をひっこめてしまった。
和樹は家政婦が帰るのを窓越しにのぞきながら、しっかりと確認すると、部屋をそっとぬけ出す。
昼間だというのに薄ぐらい廊下が長く続き、高級な赤い絨毯があわく浮かびあがっていた。不気味な感じさえあたえている。
壁には動物の剥製が自慢げに飾られていた。
それは応接間やロビーにもいやというほどあるし、また、それはこの屋敷に限られたことではなかった。
和樹が通るたびに、彼らは呪いの声を発しているように思われた。まるで彼を罵っているようにさえ聞こえてくる。
趣味の狩猟で、すべて孝昭が殺したものだった。大きな屋敷に閉じ込められて、それらの呪いの声とともに、一樹は暮らしているのだ。
気分のわるさに、和樹は夕飯を食べることもなくふらりと外へ出て行った。
学校をフケたのも、べつに深い理由があったわけではなかった。
退屈、というより、仕切られた時間と空間の檻が、和樹にはたえられなかった。
学校のなかで学べることは限られているし、それよりも精神を死に至らしめる緩慢な死だけが、その牢獄にはいつも存在している。
時期はずれの転校生というだけで見せ物になるのにもあきあきしていた。どこに行っても、どんな問題を起こして転校してきたのだと、好奇の白い目がつきまとった。
そうでなくとも名門校にスキャンダルは格好のネタだった。人の弱みを捜そうと目を爛々と輝かせている肉食獣どもばかりなのだから。
たしかに、今回の学校も、孝昭の権力と莫大な寄付金にものをいわせてねじ込んだものだった。父にはそれだけの力があったし、知名度も高あった。
それもそのはずで、孝昭自身が、第三次都市計画を発案し、このあたり一体の開発を行おうとしている張本人でもあるのだ。
二十二世紀の技術革新の波から、取り残されている地方の後進地域を、彼の会社がほとんど中心的に開発を手がけてきているのだ。
この土地は、とくに彼の今後の事業計画地には、うってつけでもあり、意欲的にすすめられている。
賛成する金持ちもいれば、もちろん住む場所を追われると反対する下町の住人もいた。
そんな人々のあいだで、つねに孝昭という色眼鏡越しに、和樹はいつも見られてしまう。
和樹には、それらがたまらなく、うっとおしかった。
父のことなどどうでもいい。自分に干渉してほしくない。
その否定感がよけいに人を寄せ付けない、冷たい雰囲気を与えていて、今にも切れそうな刃の鋭さをまとっている。
そしてその刃が、自分をも傷つけているのに気づいていない。
和樹はどちらかといえば整った優しい顔立ちをしていた。笑うととても魅力的になるだろうのに、転校してきてから誰一人としてそれを見た者はいなかった。
日頃、ずうずうしく寄って来る女生徒たちでさえも、怖がっているように声をかけずにいた。教師たちですら、それは同じ事であった。
いつもいつも動物園の中にいるような気がして、気が休まらない。
和樹はゆっくりと雑踏を歩いていた。
これという目的もなくブラブラしていると、気がつくとあの少女に会った場所まで来ていた。
老人の死体はもうなかった。
あたりまえだ。きっと市の役人が片付けたのだろう。
それも珍しいことでもない。
冬になれば道端で死ぬ者はもっと増えるだろうし、夏には熱中症で倒れている者もたくさんいる。同情してやる義理もないし、彼らは好きでそうなったのだ。そのぶん自由に生きてきたのだから。
自由――。
どんな人間にでも、最後には必ず訪れる死。
それを彼らは自由に自分で選びとれる。
和樹にはそれすら許されない。
過去に対しての負目がありすぎるせいだ。
「俺も剥製とかわらないかもな」
孝昭の管理下から逃れることは不可能に近かった。
いや、それ以上に恐いのだ。
自分が、恐かった。
自分の生が、そして息をしているだけの状態が、なにより恐くてたまらない。
未来への道は閉ざされている。静止したたえがたい現実ばかりが延々と広がっていて、この先になにがあるのかさえ、わからない。暗闇を手探りで進み、希望の光さえみえないこの場所は、拷問以外のなんであろうか。
あの少女なら、何かかわるかもしれない。
なぜ突然そう思ったのかわからなかったが、熱い揺さぶりが胸をすぎていった。
恋、というには衝動的すぎる。
もっと強い、言葉にあらわせられないような何か強いものだ。
たった一人がこんなにも気になるなんて。
冷めた笑いが唇に漏れた。
下町の、しかも誰とも知りもしない女に、これほど会いたくなるなんて、今までの自分では考えられない。
もしかしたら、彼女の魔力に、とらわれてしまったのか。
細い路地をまがったとたん、道がいきなりそこで終っていた。
薄汚れた灰色の壁がたちふさがっている。
来た道を振り返ったが、もう自分がどの方向からきたのかもわからなかった。スラムにありがちな袋小路に迷い込んでしまったのだ。
あまり雰囲気がよくないことは一目瞭然だった。壁にこびりついている赤い染みは血だ。
うらさびれたアパートや老朽化の進んだビルが林立して影をおとし、ジメジメとドブ臭く、あちこちが湿気で腐食している。
錆びた鉄パイプのうえに座った。鈍くきしんだ。
平常世界と区切られた空間のように感じ、ガラの悪そうな刺青をした男や、シンナーでラリったジャンキーたちが闊歩しているのが、よくなじんでいる。
父はここを掘り返し、新たなきれいで冷たい建築物と、コンクリートで塗かためようとしているのだ。
足元にミケ猫がすりよってきた。きれいな毛並の小さめのメスだった。
抱きあげると人懐っこく首に顔をよせてきた。その口元から、ネズミでも食べたのかどことなく生臭い臭いがしてきた。
血の、臭いだ。
まずい!
和樹は目をつぶった。猫を遠ざけようとした。だがもう遅い。
頭痛が襲ってきた。
警戒警報である。良くないことが起こる前には、必ず頭痛がするのだ。
きっと壁の血の赤を見すぎたせいかもしれない。沸騰するような血のざわめきがした。
かたく閉じた目を、ゆっくり開いた。
目の底に潜んでいた凶暴さが解放されていった。
猫がだらりとぶら下がっていた。
赤い雫が手に垂れていた。
口から泡を吹いており、首が奇妙なかたちに折れ曲がり、白目をむいていた。
すでに息はなかった。
だがきっと猫の死は、首の骨を折るより先に訪れていたことだろう。
和樹の眼をのぞき込んでしまったのだから。
――また、殺してしまった。
後悔よりも強い、充足感を拒むことはできなかった。
血が見たいわけでもなく、恐怖に歪む顔が見たいのでもない。
なのに内なる誰かが死を求めていて、死に向かう最後の息の甘さを求め欲している。
殺したい。
ただそれだけなのだ。
「ねえあんた、どうしたの?こんなとこでボケッとしてさあ」
軽い脳天気な女の声に、甘美な夢は破られた。
気がつくと猫はまだ生きていた。足元で愛らしく耳の後ろを掻いている。
手は伸ばしかけられたまま止まっていた。
妄想は現実になる前に破られていたのだ。
ホッとしている自分とは別のところで、苛立っている誰れかがいた。血を求める野獣がいりきたっている。
「ねえあんた何してんの。やけに浮いた格好してるじゃん。こんな所で遊ぶにはさぁ」
制服姿では、確かそうかもしれない。
見上げてくる女の顔は、濃い化粧のわりにはひどく幼かった。
カールした短い髪を、安物の赤で染めていた。不思議と似合っている気がした。頭が弱そうに見えるぶん可愛いらしくも感じる。
体の線を強調した服からは首筋のキスマークが目立った。たぶんコールガールだろう。
「あんた道に迷ったんでしょ。ここら辺ってさあ、ややこしいからねぇ。時々いるのよぉ迷っちゃう人って。いいわ、あたしが案内したげるよ。ついておいで」
やけに人懐っこいなれなれしいそぶりで、スルリと腕を組んできた。
一樹はそのおぞましさに反射的に振り離していた。
「触るな!」
びっくりしたように目を丸くしていたが、女は弾かれた手を押えると、表情がみるみる豹変た。
「なにすんだよぉ。人が親切に言ってやってんのによぉ、高くとまりやがって。ちょっとイイ男だからって図にのってんのかぁ」
和樹は相手をせずに背を向けた。まだキャンキャンと吠えていたが無視をする。
悪夢はまだ、そこに残っているのだ。
少しでも気を抜いたら現実になろうと牙を剥き襲ってくる。
安物の香水の臭いと耳につく女の声に、苦い汁が喉までのぼってきた。頭痛のひどさに立っていられなくなり膝をつく。
「や、やだあ、ねえどうしちゃったの?調子が悪いのあんた?」
離れてくれ、と言おうとして、彼女の手が背中にあてられゾッした。寒気に震えた。
のぞき込んできた彼女の目は、なぜか澄んでいて驚いてしまう。
十三、四才ぐらいか。素顔のほうがずっと綺麗だろうに、なぜか哀れでさえある。
へんな驚きによって現実が戻ってきた。ソレはだんだん薄れてゆく。
「ねえ大丈夫なの?どっか痛いの?」
「……いや、もう大丈夫だ」
和樹はなんでもなかったように少女の手を払い立ちあがった。どうにか消えてしまったことを確認すると、内心ほっとした。
少女は和樹と正面から目がはっきりあうと、いきなり赤くなった。
言葉を捜すように目をくるくる回して、舌で唇をなめた。
「あっ、ね、ねえ。あんたさぁ、あたしんちで休んでかない?ほら、まだ調子悪そうだしさ」
「いい。ほっといてくれ」
「だめだよ。ほら、ちょっとでいいからさあ。あたし麻里江っていうの。マリって呼んで。いまあたしんち今誰もいないんだぁ。だから大丈夫なの。ヒモもこのあいだ切れたし、親父はブタ箱。ババァは男ンとこだし。ねえ――何よ、変な顔して」
和樹は体をすりつけられれ、見上げてくるのにうんざりしたように息をはいた。会ったばっかりの男をベッドに誘っているのだ。
マリの濁った吐息に苛立ちのようなものを感じ、目の奥が痛んだ。
「金の心配ならいならいらないよ。あたしいまけっこう懐具合いいんだ。あんたも暇なんでしょ」
「おまえ、命いらないのかよ」
「え、なに?」
その安易な気安さが、命を奪ってしまうかもしれないとは夢にも思っていない。
どうしてあのまま通り過ぎてくれなかったのだろう。
もう二度と人を傷つけたくないのに。
このままでは父の思惑通りになってしまう。
孝昭が自分に執着していたのはこの力があるせいだ。
人の意志を絡めとり、命を奪えてしまう呪うべき力に何の価値があるのだろう。
和樹を愛していると言いつつ、父が本当に愛しているのは、生き物の命を求めてやまない狂った野獣のほうなのかもしれない。
「死にたいのか……」
「やだァ」
マリは奇声をあげた。
「やあもう。あんた見かけによらず自信家なのね。いっとくけどさぁ、あたしだって結構テクは自信あるんだよ。固定のファンもいるんだからね」
誤解してはしゃぐマリを和樹は冷然とみすえる。
獲物を狙い定めた目だ。
和樹が目を薄くとじた。マリはその目に動きをとめた。硬直したような不自然な格好だ。
「なんであのまま行き過ぎなかった」
皮膚が裂け血が飛びちった。高圧電流に触れたように肉がはち切れると、ずるりと皮がむけおち、腕から血がしたたった。
マリの腕ではなかった。
和樹であった。
ひじから先が一面が、焼き切れたように真っ赤な血を流している。
こめかみに飛び散った血が垂れて目ににじんだ。
黒色から茶色に変色していた瞳に、赤く膜がはった。
殺意と憎しみが彼のなかでショートし、ひたすらに隠していたうちなる悲しみに引火した。血に飢えた醜いソレをむりやり押え込んだため、彼のからだの内側で大きく爆発してしまったのだのだ。
なにが起こったかわからないマリはおろおろしていた。いきなり手から血を噴出したのだからしかたがない。
怯えながらも、それでもまだ和樹に触れようとした。
「だめだマリ、いまは触るな!」
厳しい声が制止した。
和樹は痛みに青ざめた顔をむけた。
わかっていた。誰の声か。その顔を見なくても内なる声がそう告げる。あの少女だと。
「み、水無穂さん?どうしてここへ」
マリが目をおおきくして声をあげた。
水無穂はまっすぐ和樹を見据えた。
この顔だ。忘れるはずもない。
口を開けかけた野獣が、牙をとめた。
マリは厳しい顔の水無穂にかまわず抱きついていった。男を誘う娼婦の顔から子供のようなあやうい顔にもどっている。助けをみつけてたように安心しきって顔をすりよせる。
「ねえねえ水無穂さん、このヒト変なんだ。急に腕から血を吹きだしちゃったんだよ。どうしちゃったのかなぁ?」
「ああ大丈夫だ、わかってるから。マリ、いまこいつに触っちゃだめなんだ。命が惜しいならあっちに行ってな」
「――でも」
不服そうに唇をすぼめたが、それ以上、とりつくしまもないきっぱりした物言いに、しぶしぶだが従った。時々振り返りながら歩いてゆく。
「馬鹿か、おまえ」
冷たい一言った。
「な、なに?!」
開口一番の台詞にさすがの和樹も唖然としたが、傷口に触れようとする水無穂の手を弾き、おびえたように後ろへ身をよじった。
「触るな」
「なに甘えてるんだ。自分で自分ぐらいコントロールしろよ」
「な、なんだと?! 」
「他人を傷つけないために、自分を傷つけてみせるなんて、ただの偽善だ。それって一番最低なことだ。自分を大切にしない者が、他人を大切にできるわけないんだからな」
和樹はその言葉にカッとした。心の深くをズバリと切られたような気がしたのだ。
鈍く光る凶眼で睨んでいるはずなのに、水無穂は平然として和樹の腕をつかんだ。激痛が走り目の前が白く霞んでうめく。
「ちょっと我慢しろ」
そう言うと、痛みは不自然なほどに薄れていった。
手から送られてくる柔らかい熱が、体を癒してゆく。
はっきり感じる。それは水無穂から送られてくるものだ。
奇妙に思いながらも心地よすぎて、身体が拒絶しきれないでいた。彼女の顔を見つめていると気が遠くなってきた。
懐かしいような不思議なここちがして、なにか遠いところに隠してあった記憶が甦えってくるようだ。
ただ姿形が美しいだけではなかった。彼女には、まるでドロの中から咲く睡蓮の花のような気高さがあった。
いや、それだけではない。そこにあるのは違和感なのだ。和樹と同じように、どこにいてもその場にとけ込めない異質さを感じてしまう。
彼女の手を押し退けた。その手はけっして嫌ではなかったが、なぜか急に、彼女にそんな風にしてもらってはいけないような気がしてしまった。
二人の身体が突然まばゆい光を放ちはじめ、大きく目を見開いて見つめあった。
まるで互いのなかの魂が反応したとでもいうような強い衝撃だった。
いや衝撃などという生優しいものではない。
もっと深い、もっと激しいうねりが二人のなかではじけ、魂の核が溶けあうような熱さと、それでいて震えるほど恐ろしい寂しさ、泣きそうなほどの狂おしさが、いっぱいになり、体中をうめていった。
得体のしれない思いが一瞬にして二人を支配していった。
光はいきなり消えた。蝋燭の火が消され、暗闇がいきなり戻ったように、それらの感情も去っていった。
「……共鳴?おまえと?」
水無穂がいぶかしそうにつぶやいた。
「共鳴だと?なんだよそれ」
水無穂は和樹をうかがうように見ながらも、答えない。
かわりに、何もなかったように黒い瞳を細くして、意地悪顔でおもいきり腕を叩いた。
「腕はよくなったかい、ベビイちゃん」
「つっ――!な、なんだと!」
「自分の影を恐れて逃げまわっているような大馬鹿野郎のくせに。まるでおびえた子リスのようだな可愛子ちゃん。でもいくら頭を隠して逃げ回っていても、運命は巡ってくるんだよ。あんまり大声で泣かれたらうるさくてかなわないよ、子リスちゃん」
「子リスじゃない、和樹だ!それに泣いてなんていない!」
「心の声をあんなに無防備に垂れ流してたら、こっちがいいめいわくなんだよ」
馬鹿にしたような言い方が、カンにひどく触った。
表情の美しさに似合わない口の悪さだったが、どこか自分に言い聞かせているような響きがあった。
「訳のわからないことばかり言うな!知った顔をして俺のことに干渉するな!」
叫ぶように言った。
和樹は久しぶりに大声を出したことに気がついた。驚きながらも一杯で今にも爆発しそうだった胸が軽くなったような気がした。
思いを外に出したぶんだけ楽になり、頭痛が消えている。
「だからバカなんだよおまえは。簡単なことだろう」
心を見透かしているように笑われて、和樹はカッと赤くなった。どうしてここまで和樹の内面のことまえわかるのだ。
和樹はふいに怖くなって、走り出した。
彼女に心をこれ以上自分の内面を知られたくない。完璧に負けたと思った。
「そのまままっすぐ行けよ。赤い街灯が見えたら出口さ」
水無穂の笑い声がした。
いつまでも背中に彼女の気配をかんじていた。
校門を出てすぐに、は親しげに駆け寄る影を見つけた。
マリだった。
ずいぶん前から待っていたらしく、和樹を見つけるとぱっと顔を輝かせた。腕に飛びついて来る。
「よかった!見つからないかと思った。会いたかったんだあたし――」
そう言ってから、マリは周りの白い視線にやっと気づき、おずおず手を離した。
下校時の制服の群れのなかで、露出の高いマリの服装はいやでも目立っている。
自意識の高い良家の子女たちが通う、名門校なのだ。
しかも平素、無表情、無愛想であり、他者を完璧に排除している和樹に、これだけ派手に飛びつけば驚嘆の的である。
無遠慮な視線で、いかにも品定めをするようにジロジロながめまわしていた。
そこにひそむ自分たちの選民思想ですら、彼らは他人に植えつけられたものだとは疑いもしない。
マリが赤くなってうつむいた。急に自分の生い立ちや、学歴のなさを恥じたのだろう。
和樹はなぜか周囲に腹がたってきた。
マリの腕をつかむと歩きだした。一睨みするだけで簡単に人の波がわかれる。
和樹ははじめ、なぜこんな所で待ち伏せしていたのかとマリに腹がたった。無視しようかとも思ったのだが、彼らの態度を見ているうちにそれ以上の嫌悪を感じ、我慢できなくなったのだ。
一人では何もできないくせに集団になるととたんにとたんに強くなる。どんな獣よりも残酷になるのだ。
「ねえ手がいたいよ、離してよ。待って、あたしそんなに速く歩けない」
マリの非難の声を聞くまで、和樹はその存在を忘れていた。
いきなり手を離した。
「あ、あのあたし――」
「何しに来たんだ」
一切を受けつけないような和樹の声に、さすがのマリも青ざめた。
だがすぐに身をすくめると、ヘヘッと笑って見せた。そうして何もかもをやり過ごしてきたような、哀れを誘うような卑屈な笑い方だった。
「あたしあんたに会いたかったんだ。あれからすごく気になったし。ね、ねえ手、大丈夫だった?」
包帯を巻いた左の腕に目をやった。
和樹はことさら大きくため息をついてみせた。
「でもさあ、あいつらヤな感じだよねぇ。善良そうなお坊っちゃんやお嬢ちゃんたちだと思ってたのに、あんなに怖いヤツらばっかりなんてびっくりだよ。あんたよくあんなところ通ってるね」
「……」
「気分わるくなるね。けど、あんたってやっぱり迫力あるんだぁ。ひと睨みでみんなすくんでたじゃんか。なんかかっこいいね。あんたが連れだしてくれたときすっごく嬉しかったんだからぁ」
頬を赤らめるすり寄ってくるマリに、和樹はうんざりした。
「で、何の用なんだよ」
「えっあたし?べつに用なんてないよ。ただ会いたかっただけ。あ、ねえねえ、あたしまだあんたの名前聞いてないよね、なんて言うの」
「――和樹だ。もう用はないな。じゃあな」
「あっ、ちょっと待ってよ和樹」
くるりと背を向けた和樹に、マリは慌てて追いかけてきた。
癖なのか、スルリと腕を組んでくるのを、乱暴に払いのける。
「あんたお坊っちゃんのわりには気取ってないよね。気にいっちゃった」
「触るなよ。あっちいけ」
「このあいだから不思議に思ってたんだけど、どうして和樹って触られるのが嫌いなの?すごく怒るよね。あたし好きだなぁ、人に触るのって。人肌にくっついてるときが、一番落ち着くもんね。温かいし」
小首をひねってみあげてくる。愛情に飢えた赤子のような目だ。
「だからさ、あたしセックスって好きなんだ。すっ裸で抱き合うのって気持ちいいよね。心臓の音とか直接聞こえてくるし、すぐ眠くなっちゃう。ねえ、和樹はセックスは嫌い?」
あからさまな質問に、和樹はため息をつき、眉をよせた。
「あたしと寝てみない。けっこういいよ、あたしの体。あたしあんたとセックスしたいんだ。セックスってその人の深い所がわかるじゃない。あんたのこと、もっと知りたいんだもん」
こんな子供がどこでそんなことを覚えたのか。
和樹は口をひらきかけて、やめた。
たしかに、体を売りじめたのは空腹をいやすためだったのだろう。それが空腹をいやし寂しさを紛らわせるうちに、親から与えられない温もりの代償に変換され、本来の意味を忘れて愛情にすりかわってしまったのだ。
「俺はおまえのことを知りたくもないし触れ合いたくもない。あんなっ――」
きっぱりと断った。否定する和樹のなかに憎しみの影がうかぶ。
「ねえ、なんで?どう――いたっ!」
不用意に触ろうとしたマリが悲鳴をあげた。
指の先が痺れていた。
和樹の瞳が変化するのを見てビクリと後ろにさがった。
「め、目の色が変、だよ?なんだか――」
和樹はそういわれて、一瞬、憎しみと悲しみがないまぜになった顔をして、目を反らした。
「水無穂さんと、似てるねあんた……」
「……水無穂?なんであんな女の名前がでてくるんだ」
一樹がその名前に反応した。
「あいつ、人のこと知ったように言いやがって」
「水無穂さんと、どうかしたの?」
「うるさい。おまえもあいつも、どうして女ってやつは無神経に人の中にズケズケと土足で踏み込んでくるんだ。ほっといてくれ」
「和樹、急にどうしちゃたの?ねえ、そういえばさぁ、あのあと水無穂さんとどうしたの。なんかあったの?」
和樹は包帯を巻いた腕に手をふれていた。水無穂が触ったところだった。
「その傷、水無穂さんが治してくれたでしょ。水無穂さん触れると痛くなくなるんだぁ。いつもみんな助けられてるんだよ」
「いつも?」
たしかに、家で包帯を巻きながら、ずいぶん傷が癒えていることに気がついていた。
あれからまだ一日しかたってないのに、はじけていた傷口がふさがり、皮膚もかなりきれいになっている。
「あんたって不思議だね、和樹。その目も、雰囲気も、なんだかすごく水無穂さんに似てるよね。ああ、だからかなぁ。あたしあんたに初めて会った気がしなくってさ、つい声かけちゃったの。水無穂さんはね、特別なのよ。あたしの中でお母さんのイメージにつながる人なの。だから和樹のこと見たとき――」
「うるさい!俺があの女に似ているなんて、おまえ目が腐ってるんじゃないか?!」
言いながら思い浮かぶのは、車のなかではじめて見た、あの時の姿だ。
浮浪者の魂を、天へかえしているかのように、あわい光に包まれていた美しい水無穂。あの光景が脳裏に焼きついてはなれない。
それと同じ顔が、今度は人を小馬鹿にしたように笑いずけずけ言ってきた。甘えているのだと。自分から逃げている、愚か者だと。
あんな女、会ったことがない。
もう長いあいだ、だれもが和樹のすることに口を出さなかった。
人間と接触することにはあれほど口を出す父親でさえ、どんなわがままでも許した。学校に行きたくなければ、家庭教師をやとい、家が嫌だといえば、すぐに別荘へうつらせ、学校さえ変わらせた。
体を触れられることを嫌がった和樹が、間違ってケガをさせても、叱りもしなかった。反対に相手のほうを処罰したぐらいである。
そんな中で、一人だけ諌めてくれた人がいた。
だがその家庭教師の青年も、すぐにやめさせられてしまった。和樹のそばからいなくなってしまった。
誰も近づいてこなかった。
誰も和樹のことに口を出さそうとしないし、関わるのを嫌がった。
この街の人間は変なのかだろうか。どうして和樹こんなに簡単に近寄ってくるのだ。この目をみても、あの変な力をみても、恐れない。
「あんな女……」
「和樹、水無穂さんの悪口ここではやめておいたほうがいいよ。あの人、あたしたちにとって大切な人なんだから」
「大切?」
「だからぁ、その腕だよ。彼女が声かけてくれるだけで気分良くなったり、体が軽くなったりしちゃうんだよね。あたしらあんまりお金ないでしょ。まともな医者にいけないことのが多いんだ。でも水無穂さんがいれば安心。水無穂さんの親父さんも、薬をときどきくれるしね。まあもっとも親父さんのほうは、酒飲んでない時だけだけど」
「水無穂の親父って、医者なのか?」
「知らないよ。でもどっか奥の部屋から薬出してくれるよ。あの人たちのことは誰もよく知らないんだ。どっかの富豪だったみたいな噂はあるけどね。働いてなくっても金はあるみたいだし。けどそんなこと関係ないよ。水無穂さんは特別なんだもん。あたしたちの女神さまなんだよ」
絶対の信頼感。
それがなぜか胸を悪くする。
「傷が治るなんて、ありえない。何者なんだよ水無穂って」
「そんなことわかるわけないじゃん。あたし馬鹿だもん」
ケラケラ笑った。
「でもこんなあたしでも嫌がらないし、必要だから生まれてきたって言ってくれたんだ。死にかけたおっさんにだって、抱きしめてくれるよ」
和樹はもう話を聞いていなかった。
無性にイラついていた。わからない。なんで水無穂のことを思うとこんなに胸が騒ぐのか。周りの人間に腹がたってしまう。
和樹はそのままマリを無視して、廃墟となったアパートの非常階段を昇っていった。錆びてしまった下品な朱色が、建物の垢のように醜かった。
かなり登ったらしく、空気が薄くなるのがわかった。かわりに地上ほど膿んでない空気になり、体が楽になる。
後を追うマリの息は、運動不足のためかかなり荒くなっていた。顔が真っ赤だった。
「ど、どこまでいく気なの。もう、あたしこれ以上――。ああっ、ねぇあそこ見て、ほら水無穂さんだ」
言われなくても、もう和樹は彼女を目でおっていた。
水無穂のそばには浮浪者がいた。
手から柔らかな木漏れ日のようなあの光が流れ、泣いているような老人に吸い込まれていく。悲しみに満ちたドス黒い情念が、光にとけて消えて、静かにうすめられていた。
周囲をただよっていた報われない魂が、彼女の放つ澄んだ光に群がりはじめていた。
誰もが気づかないうちに、彼女に忍びより、湧きだす癒しの光を奪っていっている。まるで慈愛の源までも、ごっそりと根こそぎ堀りかえそうとするかのようだ。
彼女の姿だけが目に一杯になった。
一心に視界を奪われた。
そして、怒りがわきたった。
たまらない。
見えない手が無限にすがりつき、彼女から当然のように奪ってゆく。与えられるのをあたりまえのように、喰らいつくしてゆくのが、なぜか許せない。やつらを殴ってでも止めてやりたい衝動にかられてしまう。
「なんかわかんないんだけど、水無穂さんのそばにいるだけで気分よくなるんだよねぇ、あのじいさんみたいに元気になるんだよ」
マリにもその記憶があるらしく、ちいさくつぶやいた。
「……当り前さ、あれだけ奪えばな」
「え?」
「見えないのか、あれが?」
キョトンとしているマリに、和樹は口を閉ざした。
たぶんそうだとはわかっていた。自分の目がそれをとらえてしまうのは、水無穂と同じだからだ。
同じ『人と違う』者なのだ。
けれどそうだと言っても、他人にはわからないだろう。
皮肉にも、それだけは、わかるのだ。
水無穂が口から漏らした苦しげな吐息の音まで聞こえるような気がした。
どうして自分を削るほど与えるのだろう。
「水無穂さんて特別なんだよねぇ。すごいんだ」
「特別って、おまえらが勝手に特別の線を引いてるからだろ」
そっけなく言いながら、つい語気が強くなった。
『特別』という言葉はなにかしら嫌な響きをふくんでいる。
聞き慣れたそれは、まわりから区別し、孤独の闇へとほうり込こんでしまう呪文なのだ。
惹かれてしまう。
彼女へと、心が向かってしまう。
彼女を特別にしてしまう奴らから、連れだして救ってやりたくなった。
彼女の淋しそうな顔が自分のものに変わってゆく。心が重なってしまう。
どれだけ孤独な海にいるのか、不思議なほど手にとるようにわかってしまった。
和樹は一人しゃべっているマリの声はまったく聞こえてこなかった。
くるりと背をむけ、赤い階段を降りていった。
和樹は自分の眼のなかにいる悪魔の正体を知っていた。
だが悪魔のほうが逆に、和樹を罵っているのもわかっていた。おまえが悪魔だと、おまえの方こそが醜いのだと。
和樹は、きっとそれもまた、正しいことなのだろうと思っていた。
生きる意味をもたない虚の存在。
やつらを追い払う気力さえなく、それすらいなくなったら、本当に自分の中がからっぽになってしま気がする。
「人殺しめ、永久に血の呪いを受けるんだな」
壁に掛けられていた、鷲の剥製が吐きすてるように言った。
「おまえは馬鹿だ。何も見ようとしない臆病者だ」
熊の剥製が、いつのまにか水無穂の顔に変わっていた。
「水無穂……」
「えっ何か言った?!」
マリが聞き返した。
和樹は我にかえり、顔をそらした。何もなかったように口を閉ざす。
あれからマリは何かとうるさくつきまとっていた。
どんなに邪魔にしても平気な顔である。
悪い娘ではなかったのだが、何かとしつこくセックスを求めてくるのにはうんざりしていた。まるでそうすることでしか相手を知り得ないように、そして和樹を自分のものにできるたった一つの手段のように思っているのだ。
今日もまた、錆びた赤い階段にすわって水無穂を見ていた。ここのところずっとそうして時を過ごしていた。
女神だと誰かが言っていた。
和樹はTシャツにジーンズをきた、口の悪い女神など知らない。悪魔の自分がこんなに惹かれるのに、神のはずはない。
「和樹ぃ」
マリが切なく呼んできた。四つん這いになって近づいてくる。
ブラジャーをつけてない小さい胸は、乳首がまる見えだった。わざとそうしているのだ。
肩やわきにあるアザもみえた。煙草を押し付けられた火傷もある。
彼女の今までの生活をのぞいたようで、和樹は疲れたように目を反らす。
「ねえ、和樹ってばぁ」
甘く鼻を鳴らした。
血の臭いが彼女からただよってきた。
「おまえ血――」
「やだあ、わかるぅ。そうなのよあたし実は二日目なの。あっ、でも大丈夫よ。血が出てるくらいだったら、セックスなんて平気だから」
気にした様子もなくいって笑う。
和樹はグッと拳を握った。
「客ン中にはさ、あの血を舐めるのが好きってのもいるんだよ。だいたい生理の方があたし燃えるの。でも変態はだめ。ヤバイじゃん、やっぱ傷跡がのこるとさ」
和樹はますます近寄る血の臭いに、目の奥が痛んだ。
嫌悪感とあいまってそれが疼く。
「ねえ、べつに裸にならなくてもいいんだ。入れてくれるだけでいいの。生理だから濡れる必要ないもん。たたせてあげる。お願い、好きなのよ、とっても好きなの。和樹してよ」
切なげに名を呼び、手が伸びてくる。
「やめろ触るな!」
払いのけた。
だがマリの背後にいた、黒くゆれる影が巻きついてきた。
彼のなかの野獣が吠えだす。邪気をふくんだ同質の波動に刺激され、目覚めかけている。
和樹の目の色が変わった。
誰かの思考が混じる。
可愛いポテッとした唇から血を噴かせてやりたい。思うさまそれを味わいたい。男を食い物にしてきた汚らわしい下半身を、八つ裂きにし、肉のかたまりにしてやる。
それが言った。
早くしろ、と。
和樹は絶望的になってきた。
押さえられない。今度こそ駄目だ。暴走してもう、二度ともとには戻れないかもしれない恐怖がわきたつ。
和樹には、本当はわかっていた。この女は死を求めているのだ。
無意識にそれを呼び寄せ、まとわりつく。彼女の心の中ではもう、色情に溺れて生きることにすっかり疲れはてている。
「マリ、それ以上はだめだよ」
清浄な水が、一滴おちた。
妖気がスッとひいていった。
「水無穂――」
階段の向こうから姿をあらわしたのは、厳しい顔をした水無穂だった。
和樹のなかの野獣が彼女の視線に萎えてゆく。
「マリ、いい加減にしとかないと本当に腐って死んでしまうぞ」
マリは必死の形相で訴えるように言った。
「だってやっと見つけたんだもん。いやだ、あたしこのひとから離れないよ。あたしを連れだしてくれるたった一人の人なんだ。こんなとこもう嫌なんだ」
「馬鹿だな。誰もおまえを連れだしてはくれないよ。仕方ないじゃないか。あたしたちは自分で自分の責任をとるしかないんだ」
「ムリだよ。あたし我慢できない。寂しくって気が狂っちゃうよ。一人でいられないんだ。誰かに触れていたい。セックスしてないと寂しくってたまらないんだよ」
泣きながら言うマリに、水無穂はそっと頬をなでた。
「マリ、体で寂しさを埋めても、いつまでたっても癒えないよ。誰かを愛する心で、自分の心を一杯にしないと、結局は駄目なんだよ」
「だってあたしは――」
水無穂はマリを抱いた。
まばゆい光が水無穂からマリの下半身へ流れていった。マリをとりまいていた瘴気が、影ごと消えてなくなってゆく。
「医者に行っておいで。ほっとくと性病だって死ぬことあるんだ。先は長いんだからね。あんたにはまだ、いつだってやりなおせる未来があるんだから」
涙に洗われてた化粧の下の素顔は、ほんの幼い子供の顔だった。
マリは水無穂のささやきにうなずいた。かすかな光を帯びたまま大人しく階段を降りていく。
和樹はそれを黙ってみつめながら、まるで水無穂には未来がないみたいな口ぶりだと、考えていた。なぜかそれが和樹の意識に引っかかった。
「おまえはやっぱりバカだな和樹」
水無穂が言った。変わらず口は悪い。
「否定できないな」
だが、つい苦笑していた。
思いもかけず、いきなりのばされた水無穂の手に、和樹は反射的に後ろにさがっていた。水無穂はそれを許さず、強引に和樹の顔を両手ではさみこむと瞳をのぞき込んだ。
「よせっ!」
「怖がるな。人が人を怖がってどうするんだ。おまえも一生逃げ続ける気か?何が起こるか本当は、わからないだろう」
「いや、もう知ってる。いいんだよ、自由でいたいんだ。俺は親父につかまりたくない」
「父親から逃げてるなんて、そんなの自由じゃない。おまえの力を外に出してみろ。傷つけることがどんなことか確かめて、おまえの中の恐怖の姿を見るんだ」
目が、閉じられなかった。
逆らえない力で拘束されたかのようにうごけない。
抱き締められる。
「水無穂、やめっ――!」
水無穂の長い髪がはねあがった。
和樹のかおに電気のような痺れが走った。水無穂の白んだほほが首に触れている。
「……和樹、人間には、肌のふれ合いが必要なときもあるんだよ。とくに、おまえのようなバカには」
空気のショートが徐々におさまりはじめた。キラキラした光にかわる。
和樹は息をやっとついた。
あたたかかった。抱きあうぬくもりが、肌から染みいり、心まで包んでいくかのようだ。
「なんで……こんなことをするんだ。俺は危険だって知っているんだろう……?」
「別にたいしたことじゃないさ。あたしは誰にだって同じことをする」
それでも、いくぶんぐったりしながら水無穂がちいさく笑った。
小さな切り傷が顔や体に無数についている。和樹の力をあびたのだ、かなりの衝撃を受けているはずである。
だがそれは、和樹の思っていたほどの――ひとの命を奪ってしまうほどの力ではなかった。自らを傷つけるより、他人へ向かうときのほうがずっとその力は小さくなるらしい。
「やめろ!」
和樹はふいに水無穂をひきはなした。水無穂から力が流れ込んできたのだ。水無穂をかたちづくる光が、和樹に分け与えられようとして止まる。
「和樹?」
「おまえばかりが与えてどうするんだよ。こんなにおまえの方が傷ついてるじゃないか。自分を痛めてるのは――馬鹿はおまえだよ」
「な、にを?」
「どうしてそんなことをするんだよ。いいよ、もう。やめろよ」
驚いたように無心に和樹を見つめる水無穂を、今度は和樹がだきしめた。
水無穂は緩慢に動きをとめると、溢れる黄金の光が、和樹から水無穂へと流れをかえていく。彼女の傷を癒してゆく。
「和樹、知ってるの?」
かすれた水無穂の声が耳元をくすぐった。
「知ってるさ。だってはじめから見えていたもの」
水無穂を抱くうでの力が強まった。
「俺は、おかしくなったんだ。おまえのことばかり考えてしまう。おまえしか、あの日から目に入らなくなってしまった。――だからこそ、おまえを縛りつける手が許せない。与えられることを当たり前として奪い、お前が傷つけられるのが、俺には我慢できないんだ」
「なんで?どうしておまえにだけ、私のことがわかるんだ?」
水無穂の体の力がスッと抜けた。フワリと小さな頭が肩にもたれかかった。
二人は緩やかに抱きあった。
「――変な奴だ」
水無穂がつぶやいた。
和樹が返した。
「おまえと同じくらいにな」
「あたしだって、そうしようと思ってやってるわけじゃない。けど、いつの間にか光が流れている。息をするようにそれが溢れでて、すがる手をとってしまうんだ。みんな傷ついている。いつだって求めている。そして、あたしはそれを知っていて、与えられるだけの力をもってるんだ」
「だから俺はおまえに腹がたつんだよ。人には自分のことを大切にしろだなんてズケズケ言うくせに、自分の事はちっともわかってないんだからな。周囲には優しいくせに、どうして俺にだけは厳しいんだよ」
水無穂は顔をあげた。
和樹の拗ねた顔に思わず吹きだした。
「そうかもな?あたしもあんたにイライラしてた」
「なんで?」
スルリと水無穂は和樹の腕からぬけだした。一瞬消えたようだった。
いつもの水無穂の表情にもどっていた。
「あたしは甘えている奴は嫌いなんだ。出来るのに出来ないふりをしているのも、与えられないのに与えられるふりをするのも、嫌だ。だからマリのように誤解する者が現れるんだ」
「俺がなにをしたっていうんだよ?!」
「バーカ、自分で考えろ」
「水無穂!」
水無穂は階段をすべるように降りていった。まるで中空に浮かびあがっているかのように軽やかに、だが彼女は笑うだけで答えようとはしなかった。
和樹は水無穂から、目がいつまでも離せられなかった。
グシャグシャになったシーツの上でいびきをかいていた。
水無穂は父親を無言で見つめていた。ベッドの周りにはアルコールの缶が散乱し、タバコの吸殻であふれている。
もう何年もずっとこんな調子だった。
裕也は大きないびきをかき、ひきつったように息をしばらく詰めてはあえぎ、それからまた苦しそうに息をしている。
悪夢が寝ていてさえ、彼を苦しめているのだ。
水無穂は裕也の痩せた土気色のほほにさわった。ざらざらした手触りだったが、あごのひげには白いものが混ざりはじめていた。
布団をかけなおし、そっと額に手を当てる。わずかに光が放たれると、彼のしかめっ面がやわらぎ、いくぶんかは呼吸が楽そうになった。
水無穂は椅子にすわった。
必要なもの意外なにもない部屋だった。綺麗に掃除はされているが、日の当たらない陰気さに湿っている。
それはこの街に共通する陰鬱さであり、カビた空気にあがきながら、何かに飢えて、いつもひかりを求めている。彼らは自分たちでも気づかぬうちに、まるで植物が水を求めるように、それ無しでは生きていられないと、他人からの愛情を希求している。
水無穂は知っていた。その渇望は、ほんの少しの与えられるだけで、いやされるのだ。愛情込めて触れることで、満たしてやれる。
「……水都」
裕也がうわごとのようにつぶやいた。
彼はときどきその名を口にした。
酔っぱらって、もう何度も水無穂を間違えて呼んだことだろうか。
水無穂は苦しげに求めのばされた手を握ってやった。
彼がどれほどの思いで水都と呼ばれる女性の名を呼んでいるのかその手の強さだけで伝わってしまう。そして水無穂がどんなにその人に似ているかも。
だが彼女が水無穂の母親ではなかったし、裕也とも、水無穂は血がつながっていなかった。
それでも裕也は水無穂を育ててくれている。
ここまで育ててくれたのだ。
水無穂は裕也に感謝していた。心弱く、とても優しい人だった。ずっと愛していると思った。
たとえ自分を見てくれていなくても。自分のなかの誰を見ていようとも。
誰もが水無穂を見てはくれなかった。
みんな彼女の癒し施してくれる手を求め願っていた。
表面に浮かんだ愛情の油膜のしたに、彼女がどんなに傷つきやすい心をもっているかなど考えてもいないだろう。
「おまえばかりがどうして与える。腹がたつんだよ!」
和樹の言葉が耳に熱く甦えった。
初めてだ。
そんな真摯な言葉も、癒しを与えらえたのもはじめてのことだった。
与えることはあっても貰ったことなど、一度もなかったのに。
「なんであんな甘ちゃんなんかに……」
金持ちで苦労などなにも知らないお坊っちゃんにみえた。
会ったときからまっすぐみつめてきた強い視線は、偽りなく水無穂をとらえていた。
なのに、彼は水無穂のなかの癒しと力を求めもせず、望みもしなかった。
「変なヤツだ。……いや、変なのはあたしか?」
胸が思いで熱くなる。
いきなり刺すような種類の痛みにかわった。
キリキリとつきあげてくる。
いつもの発作だった。鋭い爪が心臓に食い込むような痛みと、呼吸困難におそわれて、目の前がゆれ平行感覚がなくなってゆく。
水無穂は机の上においてある、白いカプセルの薬が入った瓶を握った。いっきに何錠か飲みこんだ。
裕也が調合してくれる薬だ。いつも小さな瓶に一杯にされている。
何年もかわらず、どんなに酔っていても、妄想に暴れ狂っていても、その薬だけは切らしたことがなかった。
水無穂への愛情だと思った。彼女のためだけの特殊な薬なため、市販されていないのだから。
裕也は、かつては有能な博士号をもつ研究者だったという。
中央で、科学庁の技術役員として活躍しており、選り抜きのエリートだったという。
だがいまは逃げるようにしてこの街に移り住み、ひっそりと医者紛いのことをしている。
それもはじめの頃だけで、今では気の弱さがみせる狂気にとりこまれている。自責の念を避けるため、アルコールへと走り溺れてしまっているのだ。
彼もまた、この街に巣喰うジメジメした陰の気からは逃れられなかった。
その裕也が水無穂のことだけは忘れない。
それだけで、もう充分な気がする。
水無穂はやっと落ち着いきを取り戻すと、震える手で垂れたあごの汗をぬぐった。氷のように冷たかった。
「あたしの身体が一番壊れてるのかもしれないな」
クッと喉を鳴らして笑い、自嘲ぎみにつぶやいた。
「あたしはもう……」
泣きそうに睫が揺れ、閉じられた。
「和樹に……逢いたい」
誰にもきこえぬほど、小さなつぶやきだった。
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