黎明の翼
6
砂の侵食によってかなり風化はかなり進んでいたが、町並みらしきものが見えてきた。本当にわずかではあるが木々の緑もまだ残っている。人間はとっくの昔に去ってしまったようだった。
廃墟と化した村には、神殿が多く、信仰で賑わっていたことがうかがえた。だがそれも、今となっては遠い昔のことであろう。並んでいた数ある神聖な建築物の残骸が、哀れにも倒れていた。どれも荘厳な造形を有していただけに、よけいに閑散として荒涼感のわびしさをひきたてる。
セイは空気の乾燥の激しさに息が詰まるようだった。今までにないほどの熱気に沸き、呼吸するたびに喉に引っかかるようだ。さすがにこんな所には人は住めない。
セイは顔をハッと上げると、いきなり走りだした。
「セイ?!」
飛びだすセイをナージュは追った。
セイは誰かのよぶ声をきいていた。それは本当の声ではなく、セイの脳そのものに語りかけてくるような響きだった。セイは無意識に感じていたのかもしれない。その声に含まれる、同じ血の流れを。同族の呼び声だを。
目の前にそびえている、一段と大きな寺院の前にたどりついた。
躊躇せず中に入っていった。見事なレリーフが一面の壁に彫りこまれている神殿だ。
だが、はっきりしているのは正面の壁だけで、あとはほとんどが崩れるかヒビ割れているかしており、何がどうなっていたのか見分けすらつかなかった。
どうにか判別つく絵の中には、翼の生えた人間が描かれていた。
中央に渦を巻いた星のようなものがある。大きな翼の男と女がそれを指し示し、足元には小さな羽の有翼人や片翼人、それに人間や動物がひざまづいていた。
どれもが曖昧だった。なのにセイは渦巻く絵柄に魅せられてしまっていた。
表面的にはなんともない渦巻型の図形の奥に、記憶を揺さぶる何かが秘められているかのようで、すぐには視線をはなせない。セイはひどく心がざわめいた。
ナージュに声をかけられるまで、ずっと見つめられていることに気づかなかった。
「この絵がどうかしたのかセイ」
「……どこかで、見たことがあるような気がする。でも、よくわからないな。どこだっただろうか。さっきまでこの絵が、ボクを呼んでいたんだ……」
落ちくずれた天井から、白光が室内に差しこんでいた。ひっくりかえった祭壇が青白く浮かびあがり、やぶれて色褪せた布が風にたなびいている。
セイはそれを何度か振り返りながら、寺院を後にした。
崩れさる以前の建物はかなり立派だったのだろう。優美な装飾が、ただのガラクタとなって積み上げられている様は、なんとも無惨であるとしかいえない。
砂風が吹き過ぎていった。寺院の脇に建っていた石像がどうにか原型を保っていた。
輪郭がうつろになり、かえって怪物めいて恐ろしく見える。
セイは石像に触れた。熱に灼かれてひどく熱かった。
「これ、大きいね。ボクの十倍はありそうだよ」
「ガーゴイルだ。神殿の魔除けの守護神として建てられたんだろう」
ナージュは転がっている石碑を手に取り読んでいた。
セイは石像の向こう側をのぞこうとしてつま先立った。
硬いものが腕を引っ張る。次の瞬間、からだが孤をえがくように宙に持ちあげられた。石像の手の中にいた。石像が動いたのだ。
「ナージュ!」
「セイ!こいつ、まだ機能していたのかっ!」
ガーゴイルの顔は柔の相ではなかった。怒りに湧き立ち剛の相に変わっていた。まったくの鬼面である。
ナージュは素早くガーゴイルの膝に飛び乗った。そこを足がかりに頭上に跳ね、太い腕を、抜きさった剣の一刀のもとに切断する。腕が切られて落ちる。
空中で分解する土くれの中から、セイを抱えだして、ふわりと着地した。
ガーゴイルはうめくようにまだ低く吠えていた。不完全で醜く歪んだ体をきしませ、勢いよく向かって来た。
「ガーゴイルは寺院の守護機だ。寺院が崩壊したときに機能が止まるはずなのに、なぜ動いてるんだ?!」
どこかに別のエネルギー源があるのだろうかと、攻撃を交わしながら、ナージュは探るようにあたりを見回した。それらしき物は何もみあたらない。
さらに襲いかかろうとするガーゴイルからセイを庇い、素早く瓦礫の後ろに隠した。
自分にひきつけるように飛びだし、剣をかまえる。
「セイそこに隠れていろ。やつの機能はもう狂ってしまっている。なにをするかわからない」
「う、うん」
ガーゴイルは荒れ狂い、守るはずの寺院も、岩も分別なくなぎ倒していった。もはやコントロールのつかない巨大な魔人である。凶暴な力はむやみに振りまわされたが、ナージュの剣により、はしから切り崩されて、しだいに土へもどってゆく。
セイは瓦礫のなかからそっと顔を出した。もがくように暴れるガーゴイルを見ながら、ふと機械であるそれが、揮っている暴力と同じだけ苦しんでいるように思われた。
死に場所を求めて、狂気に憑かれたように、無理に体を動かしている。
ガーゴイルは死と闘っているのだ。
それは歪みだった。聖なるものから外れ、世界を構成する根本が崩れたための、歪の表現なのだ。セイは無意識にとびだしていた。
「セイ、隠れてろ!」
セイはまっすぐガーゴイルの正面に突っ立った。
意外な行動にナージュはつい意識をそらしてしまい、ガーゴイルの割れた腕にはじかれ吹き飛んだ。ガーゴイルはセイを憤怒の形相で睨みつけた。狂乱の空気がうねりセイのうえに振り落ちてくる。
「セイ!」
ナージュが走るよりも、それは早かった。砂塵が爆発して噴きあがった。土煙と熱風にのまれ、ガーゴイルもセイも消えてしまう。
そして鎮静した煙のなかに浮き立ったのは、黄土の盛りあがりと、黄金の光に包まれて立っているセイだけだ。
「――セイ?」
ナージュが呼ぶのに振り向いた。瑠璃色の竜玉がセイの発光を吸い込んだ。
「おまえっ」
ナージュは乱暴にセイの腕を掴んだ。
その手の熱さに驚いて、セイはふうっと正気に戻った。
「ナージュ……?」
「なんて無茶をするっ!何かあったらどうするんだ!」
「ご、ごめん。――でもねナージュ、ガーゴイルが泣いているのがわかったんだ。彼はずっと待ってたんだよ。すごく寂しかったんだ。ここは、有翼人が住んでいた小さな村だったんだ。けど、たくさんの人が殺されて、多くの血が流されて……」
それは粉砕される寸前に、ガーゴイルがみせた、過去の幻影だった。
「助けを求める人々の声が彼のところへ届いたんだ。けど、彼はなにも出来なかったんだよ。だから今なおその声が彼から離れず、ずっとずっと苦しんでたんだ。彼は――竜だったんだよ」
「ガーゴイルが、五色の竜?」
「うん、黄竜だって。彼がそう言った」
ナージュはやっとため息をつき、ほっとするかのようにセイを抱きよせた。
鼓動の高なりに、彼がどれほど心配したかが頬に伝わってきて、セイは初めて悪いことをしたと思った。
「ナージュ、ごめんなさい」
ナージュはセイを乱暴に突き放すと、なんでもなかったように言った。
「この先に湖があるはずだ。石碑に書いてあった。――行ってみよう」
「う、うん」
怒ったように前を歩くナージュに、セイは小走りでついていった。二人が湖に近づくにつれ、吹きつける風が、うっそうとしたひどく重い空気を投げつけてきた。正常な領域をねじ切ったような波動が、肌にジットリからみついてくるようだ。
「これが、湖?」
セイは茫然としてそれをみた。
そこだけ時間が止まっているようだった。
湖は鈍色ににぶく光っており、風にぶよぶよと震えている。巨大な塊ではないか。
かつてはそこが湖だったといわれて、だれが信じるだろう。今はただ生理的な嫌悪しかない、醜く嫌悪感をそそるだけの、ゼリー状に膨れあがった、負そのものだった。
枯葉のかけらが風に吹かれて湖面に舞った。
表面にふれたその刹那、あっけなく溶けてしまった。
これが、死の海と呼ばれ、誰ひとり近づけようとしない湖の本性なのである。
すべてを元素から変換し、意志をうばってしまう。透明な膜をおおいかぶせて、無機質の化物へと変えてしまうのだ。
大きな影が映った。ゼリー状の海綿の下をさまようように、それはゾロゾロと動めいていた。まったくの不吉な陰影。マイナスの幻である。
朱色の血の線が一文字にながれていった。
「ナ、ナージュ、これは何なのいったい?」
セイはすがるように声をかけ、ふと隣にいたはずのナージュの姿がいなくなっているのに気がついた。あたりを見回したが誰ひとりいない。
乾いた無機質の風が、負の感情をひきつれ吹きすさんでゆくだけである。
いきなりの恐怖だった。セイは、我を失ったような空白に襲われた。たまらない孤独が突きぬけ、心臓が止まるのではないかというような恐れをおぼえた。
みんなどこにいったのだ、なぜいなくなった。虚の海の前でたった一人きりでいるのは我慢できない。セイはありったけの声を張りあげて叫んでいた。自分の声とは思われない、恐ろしい叫びだった。
湖にながれる血の線が、帯状にひろがていった。パックリと底のない穴がひらく。セイを飲み込もうとブヨブヨしたそれが立ち上がってくる。
「いやだっ!ナージュ、ナージュどこにいったの――っ!」
死の影が顔をのっそり持ちあげた。ひどい臭気だった。吐き気をもよおし、どんな言葉でさえ、いいつくせないほど醜い生き物の臭いがする。いや、これを生物といっていいのかもわからない。
つねに溶けおちる表面の腐肉が、ありとあらゆる色を混濁させたように汚れていた。そこに無数のウジがわき、その塊が別個の生きているように動いて見えた。
目のような中央の二つの赤く巨大な光が瞬き、まるで笑っているかにみえた。
悪夢そのものの姿。セイはゆっくりとすべり寄ってくる化物に、狂気の様相で向かっていった。それに触れられ殺されるなら自ら命を断った方がずっとましだ。
れだけは絶対にいやだ。
それが口をひらいた。狂った言葉が、呪いのエネルギーを吐きだした。
セイは懐からナイフをとり出し、ためらいもなく自分の喉に突き刺す。
生温い感触がズルリとする。だが、襲いくるはずの痛みは、なかった。
「セイ!」
セイは手をはたかれた。ナイフが手から離れ、頬に痛みがはしった。
ナージュがナイフの刃を握って立っている。
セイの首に刺さる寸前に、彼の手が受け止めていたのだ。
「ナー、ジュ?」
周囲がとつぜん色をとり戻した。血が――ナージュの手から流れおちる血が、赤く目に焼きついた。
「ナージュ!」
ナージュがわかっていると言うようにセイをのぞき込み、抱きよせて背を叩いた。セイは震えてからだに力がはらなかった。
「大丈夫だセイ。目を閉じていろ、さあ。大丈夫だから」
「ナージュ、……手が、手が……」
「こんなのは大したことじゃない。それより、セイよかった、正気に戻ってくれて。いきなり叫びだしたかと思うと、急にナイフで自分を刺そうとするから、驚いたぞ」
何度も何度も背を撫でられていると、セイの震えが徐々におさまっていく。
「あまり生身の人間がこの湖を見続けるものではなさそうだな」
「ナージュ……ごめん、手、痛いでしょ?……ごめんね。ナージュごめんね」
セイは大粒の涙を砂に落としていた。
彼の手にそっと触れると、頬に寄せた。かなり深く切られている。
「ごめん、なさい――」
「見た目ほどはひどくはない。気にするな」
ナージュはいつもと変わらぬ口調でそっけなくいった。そのそっけなさが彼の優しさだとセイにはわかっていた。涙を必死でこらえながら、布切れを手に巻きつけていった。溢れおちた涙が吸い込まれる。
突風がセイの手から布切れを奪った。まるで誰か故意にしたように、負の海に投げ込まれた。ゼリー状の湖面がフルリと振動して布を飲み込んだ。
「あっ……」
湖の中空で熱風が旋回しはじめた。
その中心に、人影がうきあがった。
あぐらを組み、だるそうに背伸びをしているのは、女性ではないか。
「もう飽きあきしちゃったわ。いったいいつまで待たせる気なのよ」
うんざりしたように二人を睨みつけながら言った。
「はぁ、やってらんないわね。いい場面じゃない。なに?ラブシーン?」
女は、唖然としているセイのそばにふわりと降り立った。
「でもまあ、ほんとにやっぱりまだいたんだわねぇ、有翼天人。このまま世界を終らせるのかと思ってたのに、やっぱり一筋縄ではいかない種族みたいね」
にやりと笑う。紅いみごとな髪が炎のようにうねり、妖艶で魔的な印象を赤裸々にみせつけていた。赤で隈どったような目にまじまじと見られ、セイは迫力負けして後へ逃げる。
「だ、誰なの、あなたは?」
「あら、あなた私がわからないの。やあねえ。そういえば、有翼天人のわりにはずいぶんと不完全そうだもんね。ふうん、私は、紅竜よ。――なに、そんな顔をして」
セイは白く形のいい指に顎をもちあげられ、頬をつるりとなでられた。瞳をのぞき込んでくる、妖しげな笑みが蠱惑的すぎる。
「紅竜がこんな綺麗な女の人だなんて――」
セイの素直な声に、紅竜はビックリしたような顔をし、楽しげに声をあげて笑った。
「やだ、あんた可愛いわねぇ。今どきの有翼天人にしてはずいぶん素直じゃない。気に入ったわ。毛色が変わってていいわね。ねえ、おチビちゃんあんたなんて名なの?」
「セ、セイ。セイっていうんだ」
「セイ?ふーん。まだ完全変態はしてないのね」
面白そうに眺めながあ、額の玉に触る。玉の色が明るくなった。
ひとしきりからかうと、うってかわった意地悪そうな顔つきで振り向き、ナージュに目を向けた。光彩を細めると吐き捨てるように言った。
「ちょっとこの人形、さっきからずいぶんと生意気な顔して私を見てるんだけど、なんか文句があるの?」
「こ、紅竜?!」
驚くセイとは対照的に、ナージュは無言だった。
「機械人形の分際が、でかい態度して目障りなのよね。面構えも態度も気に食わないわ。主人より偉そうにしてる守護機なんて三流よ、三流!」
「こ、紅竜、ねえどうしたの急に」
「私はね、セイ、人形には人形らしく身分をわきまえさせたほうがいいと思うのよ。でなければ自分を人間と間違える馬鹿がいるからね」
クスリと意味ありげに笑うと、ナージュの頬がヒクリと動いた。あきらかな挑発だ。
「そこに膝をつきなさい守護機。私を見降ろすなんて許せないわ。さあ控えるのよ」
セイは息が止まりそうだった。紅竜のいきなりの好戦的な態度にどうすればいいかわからなかった。どうしてナージュに辛くあたりだすのだろう
おろおろするセイを無視するように命じた紅竜に、ナージュは膝をつこうとした。
セイが叫ぶようにいった。
「やめてよナージュ!紅竜、ナージュはボクをずっと守ってくれてるんだ。ボクは主人なんかじゃないし、彼だって機械じゃないんだよ。やめてよ、お願いだから」
「あんた馬鹿なの?これは造りものなのよ。機械なの。気を使ってやる必要なんかないんだわ、さあ早くしなさい」
「機械じゃないんだっ!」
セイの思わぬ迫力に、かえってナージュのほうが驚き動をとめた。なんともいいがたい表情でセイを見る。紅竜は意外なセイの強い言葉に、少しばかり目を見開いた。
「なにムキになってるのよ。たかが守護機じゃない。そんなに気にしちゃってさ。でもあんた、気が弱そうなくせしてけっこうはっきり言うのね。――変な有翼人。はじめてだわ、この私に意見するなんて」
クスクスと笑う。
「なるほど、緑竜が一目で気に入るはずだわ。たった一人ぼっちで最初から始めたってのに、よくも汚れなかったわね」
セイはひとりごちる紅竜に、言葉の意味を読みとろうと必死でみつめていた。
「それにこの風向き、黄竜もあんたを認めたようだわね。磁場が変動してきているわ。ねえ、すぐにわかった?寺院にいたでしょ、彼ったら――」
「えっ、あっ……うん」
「でもあいつがよく動いたわね。まあ黄竜は有翼族を愛していたからね、あんたを見てさぞかし嬉しかったんでしょうよ。けどセイ、残念だったわね。あんた竜を玉育てるために私たち五色の竜を捜してるみたいだけど、ムダなことよ。あきらめなさい。もはや全員を見つけることはできないわ」
「それはどういうことだ」
ナージュがはじめて口を開いた。紅竜は気にいらなそうに目をつり上げたが、セイの必死の様子に、しかたなく言葉をつづけた。
「竜のね、老化が早すぎたのよ。人間が好き勝手しすぎたから、世界をむすぶ法則が目茶苦茶に壊れてしまったの」
どうしようもないとばかりの言い方だった。
「人間が手を触れるそばから、自然は壊されているわ。土は砂にかわり、酸性の雨が樹海を死の森にしてゆく。掘り起こすところはどこでも汚れて生体系が狂い、生き物が死に絶えてしまう。放射線をおびた熱の風をさえぎる緑もなく、動物たちが滅んでいっているのにも気づかない。世界の波動が乱れているのよ。あんたたち気づかない?あちら側の黒い力が、こんなに流れ込んできてるっていうのにね」
紅竜は苛立ちをおさえきれぬようだった。
「竜王は世界を救うために自らを犠牲にしたのよ。世界の守護者が、たかが人間のために、人間の愚行を浄化させるためだけに死んだんだわ。わからない?この砂、これが竜王の亡骸なのよ!」
「竜王が――砂に?」
セイはまさかと、思わず砂を思わずすくってみた。
指からこぼれるその一粒一粒が、陽光を反射し、宝石のように輝いていた。
「でも遅かったわね。竜王の死をもってしても浄化しきれなかったのよ。死んでしまった。――蒼竜は、死んだの」
「えっ?!」
「目の前にいるのが蒼竜のなれのはてよ。よく見ときなさい、その湖を」
「まさか――!」
驚いたのはセイばかりではなかった。ナージュでさえ驚きを隠すことはできなかった。
「私たち五色の竜はね、莫大なエネルギーで出来ているの。もともと竜王を頂点とする五角を守護し、世界の五元素を支配してきたわ。私たちはその莫大なエネルギーを使って、次代の竜王を成長させてきたけど、でも、もう地上にそれだけのエネルギーはないの。すべて崩壊してしまった」
「そ、そんな――……じゃあ、あの黒い化物の影はなに?」
負の海にうかぶ影がヌルヌルと光ている。
セイが見たものは幻覚だとしても、そこに映っているものは幻ではない。
「時空が歪んでいるのよ。どこか別の空間とつながってしまっているのね。別の世界の生き物でしょうよ」
「どうしてそんなことが起こるの」
「そりゃあ、どっかの大馬鹿野郎が回廊を開いちゃったからよ。でないとこれだけの変動は起きないし、歪みもしないわ。いいことセイ、この世界にはね、まったくの新しい宇宙へつながる通路があるのよ。そこから漏れる波動によっては、世界の律を狂わせることもあるし――現に狂ってるわ」
「な、ならその回廊を塞いでも蒼竜はもとに戻らないの?もう、本当に、だめなの?」
「無駄ね。世界は二度と完全な形をとることはないわ。暗黒の世界になるか、時空の歪みによって、まったく違う世界になるかはわからないけど。まあどっちにしても、いまさら私には関係ないことだわ。それにセイ、あんたのせいじゃないんだから、そう気にすることないわよ。さっさと諦めなさい」
「で、でもボクは――っ!」
いきなり突きつけられた事実にセイはしたたかに打ちのめされていた。目のまえが真っ暗になった。微々たる力でも、精一杯頑張ろうときめ、迷いながら、やっとここまで進んできたのだ。
紅竜はセイの肩に手をまわすと、なんの前置きもなく、額の竜玉にくちづけた。
「こ、紅竜?」
「あんたが気に入ったわ、セイ。私の力をあげる。私だってもうこんなところ飽き飽きしちゃってるのよ。蒼竜も黄竜もさっさと逝っちゃったし、黒竜も好きなことしてるみたいだし。私もこれからは好き勝手させてもらうわ」
解放されて、せいせいしたとばかりに、紅竜は意外なほどさっぱりとした顔をしている。黒竜の名が出たそのわずかな間、ナージュの表情が曇った。紅竜はそれを面白げに見ていた。もちろん意味を知ったうえで、だ。
セイを抱いたまま、セイの頬に自分の頬をよせ、ナージュを横目でみた。
「まったく黒竜も、なあんでこんなのにご執心なのかしらねえ、わからないわ。シアといいホント馬鹿みたい。まあ気に入らないけど、文句もいわず黙って耐えちゃうなんて、いじめがいがあってちょっとは面白いかもねぇ」
意味深に意地悪く笑う。
「手を出しなさいナージュ。そんなんじゃ大切な主人も守れないわ。自己管理も大切な任務のひとつよ」
セイを離すと、ナージュに手を強引にださせた。わざとキツく傷を握るのに眉が微かに歪む。
「ずいぶんひどいわね。腕がぐちゃぐちゃじゃない。機械のくせに傷まで人間みたいだなんてね。有翼天人はやりすぎよ」
機械に悪趣味な、付け加えた。セイはナージュの傷口をまともにみて顔色を失っていた。かなり化膿していたのだ。それをいままで庇いもせず彼は酷使していたのか。
「ずいぶん強情だこと、痛いくせに」
「えっ?!」
聞き返したのはセイだった。
「痛い?痛いって、だってナージュは――」
「あら、知らないの?機械でも守護機は特別なのよ。最高の科学力をほこる有翼天人のなかでもね、守護機みたいな精密なものを造れるのは、天才と呼ばれるほんの一握りの者だけなのよ」
はじめて聞く言葉だ。
「守護機とは、彼らの長い歴史と、科学の粋とを集めた結晶だわね。その秘めた能力は計り知れないと言われているけど、体の構造は有翼人とほぼかわらないわ。修復力が人間のそれより速いぐらいで、痛覚は同じよ。それほど緻密に造ってあるの」
いらぬことを言うげに、ナージュは紅竜をねめつける。
セイの顔がみるみる曇っていった。泣きだしそうになってしまった。
「だって……痛くないって、機械だから痛みはないってナージュが」
「自分でそう思いたいだけでしょ。機械のくせに、自分が本当に機械だってことをはっきりと認識できてないから、自分にいい聞かせてるのよ。こいつは怖がっているだけ。だいたいこういうのに限って、自分のことを人間だと錯覚したりしてさ。ねえ、ナージュ――自惚れるのも大概にしなさい」
「紅竜!」
なんてことを言うのだろう。セイは怯えたようにうろたえる。だが紅竜は悪気もなさそうにナージュの傷に手をかざすと、照射される赤い光に、傷口がどんどん塞がれていった。ナージュはそれを氷の表情で見ているだけだった。一切を否定したような冷気だけが、全身に漂っていた。
あまりの拒絶感に、セイは思わずナージュの服をにぎった。自分まで完全に否定されているようでたまらなく怖かったのだ。
その手は払いのけられた。彼の腕はわずかに震えていた。ナージュはギリッと唇を噛むと、紅竜から手をもぎはなした。
「主人を泣かせるもんじゃないよ守護機。もっと丁重に扱いなさい。まあ、あんたみたいな出来損ないじゃ仕方ないわね。自分の事だけしか考えられないんですもの」
紅竜は馬鹿にしたようにけらけらと笑う。
「セイ、そんなに機械に心を奪われるもんじゃないわ」
セイは泣きながら首を横にふった。もうそれ以上ナージュを傷つけるのはやめてくれと願うようにみつめている。
ナージュから完全な拒絶のオーラが燃えあがっていた。セイは彼の名を、気弱く呼ぶ以外、もうどうすればいいのかわからなくなった。それほどナージュの顔は厳しい。
セイは自分を恥じていた。ナージュは機械なんかじゃないといいながらも、結局、心のどこかでは彼は機械なのだと思っていたのだ。だから痛くないのだといわれて信じていた。そんな自分がとても嫌だった。自分の愚かさが恥ずかしくてたまらない。
どんなに彼の心は傷ついていたことだろう。セイは喉がひりついてうまく言葉が出なかった。
「ナージュ……」
涙をポロポロ落とすセイに、ナージュは苛立ったように口をひらいた。
「泣くな。なぜおまえが泣くんだ!」
「ごめんね、ナージュごめんね」
「謝るな!」
「だって――ボクが、無理に谷から起こしたんだもん。ナージュは嫌だったのに無理言ってついてきてもらったんだ。ごめんね。痛かったでしょ。ごめんね――心が、痛いでしょ?」
「――っ!」
ナージュの拳が震えた。セイの肩に手をかけようとして、思い直したようにまた握りしめた。悔しそうに唇を噛むと、横を向いた。
「俺がどう言われようとおまえには関係ない。おまえは主人だ。紅竜の言った通り、俺はおまえの守護機なんだ」
「違う!違うよ、ナージュは機械なんかじゃない。心があるじゃないか。優しくってあたたかい心を持ってるじゃないか。悲しかったりつらかったりするんでしょ?だったら人間とどこが違うの。なにも違わないよ」
「セイっ、もういい、やめろ」
「ボクは主人じゃないよ、ナージュの主人なんかじゃない、イヤだよナージュ」
「――俺を混乱させるな!もういい。もう、思い出させるな。シアのいた幸せな世界を、二度と思い出したくないんだ。忘れてしまいたいんだ」
『シア』という言葉に、今ほどセイは胸が痛んだことはなかった。
何度か寝言でその名を聞き、思い出しているだろう彼の瞳に、その姿を見ていた。
そのたびごとに胸の奥が焼けるような痛さをおぼえ、泣きたいのをグッと堪えた。
だがこの苦しさは、特別である。彼の血を吐くような叫びに含まれる、彼女の名前一つで、どれほどの思いがその中に込められているのかわかってしまうからだ。
「ナージュ」
呼ぶ声が、かすれた。
「ナージュは、深い心根と優しい思いやりを持った人だよ。どんなに苦しんでいるかも、ボクを嫌っているかも知ってるよ。有翼族を憎んでいることも、本当はわかってたんだ。でも、それでもボクは、ナージュといたかった。いつだって好きになってもらいたいと、思っていたんだ」
セイは思い切り背高をして、ナージュに腕をのばした。指がひたいに触れた。光はセイの指先にともり、そこには主の印である耳玉が浮かんでいた。
「主人じゃなく、友達になりたいっていつも思ってた。もしこの玉がそれを邪魔するなら、もういいよ」
「セ…イ?」
「解放してあげる」
ナージュは固まってしまったかのように、動かなかった。
セイの指に光る耳玉をみつめていた。いつまでたっても何も言わないナージュに、腕を組んで見ていた紅竜が呆れたように言った。
「おまえはこれほどセイに好かれていたんだ。知らないはずはなかっただろう。セイはいつだってお前に好意をむけていた。どれだけの思いを寄せていたか。――ただ、おまえはただ微笑むだけでよかったのに、それを無視するふりをして楽しんでいた。卑怯者はおまえだ。逃げるばかりで、シアという過去にすがりつき執着して、本当の自分を見つめようとしなかったのはおまえなのだからな」
吐き捨てられ、さすがのナージュも苦しげに俯いた。
「臆病者め、何をそんなに怖がっている。機械だからといって何をためらうことがある。おまえは生きているんだろう、ナージュ。命はとっくに吹き込まれていたんだ」
「紅竜……」
「すべてはおまえの弱さのせいだ。何も起こそうとはせず過去に逃げるばかりで、セイに八つ当りをしていた。それでも男か、おまえはセイの――」
「もうやめてよ、紅竜やめて。ナージュを苦しめないで」
セイは紅竜にすがりついた。
「いいや、こんな愚鈍なデク人形は言ってやらなければわからない。でなければ辛いのは自分だけのような顔を一生しているに違いないんだからな」
「おまえにっ!おまえにいったい何がわかるというんだ!なにも知りはしないくせに、勝手なことばかり言って、俺が、俺たちがどんなに――っ!」
ナージュが怒鳴った。初めて聞く心の底からの声だった。
紅竜はあっさりと流した。
「誰だって人に言えないつらい過去がある。それを誇ったってどうしようもない」
「だからと言っておまえに踏みにじる権利はないはずだ。シアを汚す資格はない!」
「おまえは馬鹿だ。竜の歌姫が気の毒になるよ。おまえのような低能な玩具に本気で惚れていたなんてがっかりだ。気高い姫君の死を、そんな風にしか受け止められないなら、もう用はない。とっとと谷にでも帰ってしまえ!」
激しい紅竜の剣幕に、ナージュは激昂に燃える目をむけた。
何も言い返さず、そのままいきなり羽を広げると、飛びたった。
「ナージュ!」
セイは叫んだ。
だがナージュは一瞥しただけで、あっという間に空へ消えていってしまった。
嵐のような喧噪のあとの静けさに、セイはぼんやりと空を見ていた。
ナージュの飛び去った方をいつまでも目で追いながら、呆然としていた。目まえで起こったことが信じられない。
紅竜はつまらなそうに言った。
「わりとあっけなかったわね。あんなに簡単に怒るとは思わなかったわ。なかなかどうして有翼天人の技術もたいしたもんよ。人間と変わらないじゃないの、本当にね」
楽しそうにケラケラと笑った。
「紅竜!どうしてあんなこと言ったんだよ!なんでナージュを傷つけたんだ」
「あんたもさ、だからそんなに守護機に執着するもんじゃないわよ。あんな機械よりもっといいものがあるでしょ」
「機械じゃない!ナージュはナージュなんだ。おまえなんか嫌いだ!あっちへいけ、消えちゃえ」
「おやおや嫌われたものねぇ。ご機嫌斜めになっちゃって。ちょっとからかっただけじゃない。あんたもナージュも、ユーモアが足りないと、人生損するわよ」
「ひ、人を傷つけるようなことを言うのがユーモアじゃないよ」
紅竜はセイの剣幕に、さすがになだめようがないとばかりに肩をすくめてみせた。
「さあてと、そろそろ退散するわ。ご希望どうりね。――ねえセイ、知ってた?」
クスクスと意地悪く笑う。
「紅竜ってね、諍いを好む竜でもあるのよ」
ギリッと視線を向けたセイに愛想よくウィンクすると、紅竜は煙となってかき消えた。セイは砂地に膝をつき、どうするべきかもわからずに、ただ一点を、ナージュの飛び去った蒼天をいつまでも見続けていた。