黎明の翼

5



 セイとナージュは朝食をすませると、ついて行きたそうな顔をしているレンを置いて、早くに出かけていった。
 ナジイに連れられて賢者の家へ向かったのだ。
 下町独特の、複雑な並びをしている路がいく筋ものびており、迷うとかなり厄介な地形をしていた。職人たちの住居がつらなっているその奥は、うっそりとした都心にひそむ、もうひとつの禍々しい顔が覗いている。
 素人が容易には近づけないといわれる魔道街だった。その場の空気だけが微妙に変調しており、下町の住人ですら、めったに踏み込もうとはしない場所だ。
 ナジイはなにくわぬ顔で通り過ぎてゆき、歩みをさらに奥へと進める。その先は乳白色の朝もやが立ちこめ、目隠しをするようにすっぽりと包まれていた。
 セイはナージュにそっと身をよせた。どこからともなく歌が聞こえはじめた。
 心も体もときほぐすように心地いい弦の音と静かな歌声。
 玲瓏な流れが、何もかもを浄化してゆくように、ゆったりとした安心感をあたえる。眠りにまどろむ時間へとさそいこむようである。
 もやの一番深くなったところまでくると、ある家の門前だということがわかった。
 その門をくぐると、幻想のような歌声がピタリと止んだ。
 「もうそろそろ来るんじゃないかと思ってね、待っていたよ」
 穏やかな声だった。部屋のなかで、五弦を張ったリュートという楽器を手にした女性がゆったりとすわっていた。
 優麗に微笑した顔は妙齢の貴夫人のものであり、震えがくるような美しさだった。
 銀の髪が床のうえにまで豪華にひろがっており、同じ色の瞳が柔らかく、だが圧倒的な呪力でもって、セイをみつめていた。
 「なるほど。いい輝きだ。ちゃんとよき道を進んでいるようだね」
 鈴のような声だった。ナジイは顔見知りらしく、ぶっきらぼうに言う。
 「賢者、あんたに用だそうだ。わしもちょっと聞きたいことがあるんだが、まあまた後で寄るよ。この二人を頼む」
 「ご苦労だったね、ナジイ。あなたの話は後で聞くとしよう」
 ナジイはセイとナージュに視線をむけると、今更のように言った。
 「リュートの名手であり賢者でもある『ギュルヴィ』だ。あんたたちが探していた人物さ」
 ギュルヴィは紹介されるまでもなく、二人のことを知っているとばかりに目でうなずいた。ナジイはもっともだと肩をすくめ、後で迎えにくるといい残して、そのままに帰っていった。
 「いつ現れるかと思っていたが、天は正しく導いてくれたようだね。セイ、よくここまで来た」
 「あんたが賢者か」
 答えたのはナージュだった。まだ信じきれていないのか、わずかだが後ろにセイをかばっているそぶりを見せている。
 「そうだな。そう呼ぶ者もいるが、私はただ長く生きすぎただけの普通の人間にすぎぬと思っているよ。どう呼ぼうとかまわぬが、私は私以上の者ではないのだ。有翼天人の守人よ」
 「ナージュだ」
 ぶっきらぼうに言うのに、賢者は相好をくずした。
 「ああ、ナージュか。よき名だ」
 セイに手をさしだした。
 「さあ座るといい。茶でも入れよう」
 セイはおずおずと彼女の手をとると、そばに腰をおろした。ほどなくして、少女がお茶を手にしてあらわれた。
 「これは私の養い子のエミイだ」
 エミイはぺこりと頭を下げると、お茶を置き、よく心得ているらしく、余計なことを言わずにすぐに出ていった。
 セイはお茶をすすりながら、中庭に目をむけていた。ほんの小さな空間だが、ぎっしりと緑が植えられていた。多種の草木に、水たまりのような池。こじんまりとしているが、感じのいい、まるで小宇宙をおもわせるような空間である。
 セイはその中に、見慣れた霊草をみつけた。
 「あれは、水をいっぱ含んでる植物?」
 「ほう、旅人の草を知っているか。すぐ目に映るとは、なかなかよい兆候だ。ならばもう、緑竜は手に入れたようだな」
 「えっ?!」
 思いがけない言葉に、賢者にふりかえった。
 セイをみつめるのは、気の遠くなるような銀の瞳だった。
 どのくらいの年齢なのか、白晢の肌に美しくひらめいているのは、光も闇も抱きとめる運命の女神がもつ叡智だった。
 セイはその瞳に吸い込まれ、言うべきことが頭から抜け落ちていく気がした。
 ナージュが単刀直入に切りこんだ。
 「賢者、俺達が聞きたいのは竜玉のことだ。あなたならもうセイの額にある玉のことが解っているはずだ」
 「むろん、わかっているよナージュ」
 「この竜玉を成人となすにはどうすればいいのですか。あなたになら答えられるはずだ」
 賢者は、若さゆえのせわしなさを愛でるかのように、ゆったりと笑った。
 「そう慌てることはない。まずはその場の波動にあわせて落ち着かねば、大切なコトを聞き逃してしまうやもしれぬぞ」
 ナージュはむっつりとおし黙った。
 「セイよ、変態は何回くりかえした?玉はそのつど、変化はしなかったかな」
 「うん。――二回、したよ。そのたびごとにボクの姿が変わっちゃったんだ。竜玉も、サークレットも一緒にね」
 「二回?ああ、なるほど。ならばすでに色々なことを、経験してきたようだなセイ。竜が死んでから、まだそれほどは経っておらぬだろうに、つらかったね」
 賢者はセイの柔らかな頬をなでた。心の痛みがスッと引いていくようだった。
 ナージュとセイはじっと賢者を見つめていた。
 「セイ、竜玉は、おまえの体温と心で育つものなのだよ。おまえの成長にあわせ何度も変態をとげ、そのたびごとに竜玉は育っていく。おまえの心と行動によって、次代の竜がどのようになるか決まってくるのだよ」
 「ボクの心と行動で……?」
 「もともと竜は有翼天人の巫女により、育てられてきたのだ。翼の眷族の血は神聖であり、竜を孵化させられる唯一の種族だ。おまえはその血を濃く引いている。竜は巫女の心で育つもの。良くも悪くもおまえの心根次第となる。次代の世界は育てた有翼天人の色に染まるのだからな」
 「そ、そんな――」
 賢者の言葉の一つ一つがセイをかき乱していた。なんだかことが重大すぎるような気がする。自分の心の色に染まるなどといわれれば、セイのような子供でなくとも、任務が重すぎて、気が遠くなってしまうだろう。
 「セイよ。おまえは王家の血をひく者だ」
 「――ええっ!う、うそだ……」
 セイはとっさに叫んだ。あせったように目を白黒させる。
 「そんな、だって困るよ、急にそんなこと言われたって全然わかんないし、そんな大役、ボクにはとてもできない――それに、有翼天人だっていわれても実感ないし、羽だってないんだ。出来損ないかもしれない――そんなの、絶対無理だよ」
 最後には悲鳴のような声になっていた。
 その混乱も理解するように彼女は云う。
 「そのためにナージュがいるのだ。それに皆だとて協力してくれるだろうしな」
 賢者はセイの戸惑いさえ愛しくてたまらぬように破顔した。
 「セイ、おまえはまだまだ幼体だが、きっと素晴しく美しい有翼天人になるだろう。あの方によく似た、いまだかつて有翼族に存在しなかったほどの麗しい天人にな」
 まさか、とセイの口が形づくる。
 「少しずつ脱皮を重ね、本来の姿に戻ってゆくのだ。今のおまえは外敵から身を守るために殻を被っている状態にすぎない。守護する者に会い、守られながら、おまえはまだまだ変化してゆく。有翼族は、もっとも進んだ種だ。欠落した記憶も、そのうち思い出されてくることだろう」
 「でも、ボクはだって自分がどうすればいいのさえ、わかんないんだ……。本当にほかには有翼天人はいないの。なんで滅ぼされてしまったの。何をしたというの?」
 「セイよ、セイ=ルディークよ、与えられた試練を乗り切るためには、その試練をまず受けるしかないのだよ。たとえそれが悲観的に思えたとしても、心が最初から負けていたのでは勝負にもならないではないか」
 「賢者……」
 「おまえにはナージュがいる」
 繰りかえされる言葉に、セイはドキリとしてナージュを見た。
 ナージュは何も言わなかったが、賢者の言葉に、静かな肯定を与えていた。
 セイは、それに同調するかのように、しだいに落着いていった。そう、ナージュがいる。ナージュがそばにいてくれるのだ。
 「……賢者、ボクは、だったらこれから何をしたらいいの」
 「そうだな、まずは、五色の竜を探すことだ。竜玉を成竜にするのには彼らの力が必須の要素なのだ。それぞれの能力を玉に取り込んでやらねばならない。彼らがおまえを受け入れ、理解してくれれば、その力を与えてくれるだろう」
 「五色の竜――。ねえ、それっていったい何なの?」
 「セイよ、気がついておらぬかもしれぬが、緑竜はすでにおまえにあるのだぞ。自然がおまえには優しくなかったか?味方をしなかったか?何か記憶があるであろう」
 セイは口のなかに広がる果肉の芳香を思いだしていた。
 「じゃあ、アレが、緑竜なの?! 鳥がはじめ運んで来てくれたんだよ。食べさせてくれたんだ」
 「おまえはそれを何の迷いもなく食べた。それが死に関わるとも考えずに」
 「うん」
 「だからこそ、彼は力を与えてくれた。竜族とは、竜王を守護し、聖なる力を受け継ぐ古代種だ。彼らが人の形であるとは限らない。蒼、紅、黄、緑、黒、それぞれの力で、竜玉は完璧に成長するのだと言われている」
 「どこにいるの?どこへ行けば彼らに会える?」
 賢者は、それには易く答えなかった。
 静かに目を閉じた。手元のリュートをとり、ゆるやかにかき鳴らしはじめた。
 弦の音が神妙に奏でられはじめ、静寂な空気にわきでるように広がっていった。
 彼女は神秘的で予言者めいた歌を口ずさみ、遠い表情で庭をみている。声音がどこか違って聞こえた。
 「南の――南の街の廃虚に、寺院がある。そこに、『負の海』と呼ばれる暗い湖がみえる。その場所を捜してみるがいい」
 彼女はリュートの手をとめた。銀の目が開かれた。
 「それ以上のことは私にはみえぬ。おまえは、おまえたちは――己の力を信じ、己の道を必死で生きるがよい。それが竜を育てるということに繋がるだろう」
 彼女はリュートの名手でもあり、また、別の世界を視る知覚者でもあったのだ。
 ナージュが問う。
 「それがどこかとは、わからないのですか」
 「わからぬ。遠見は疲れるのだ。魔術はときに役立つが、また危険な存在でもある。過信しすぎるとろくな事がないからな。『南』とだけしか言えぬ。あとは己の運だ」
 賢者は疲れたようだった。そばに座っていたセイの額飾りを愛しむように撫でた。
 「サークレットの銀細工はただの飾りではない。竜の胎盤なのだ。それがおまえと竜玉をつないでいるのだよ、セイ。大丈夫、きっとナジイが直してくれる。彼は、地上に数少なくなった神の技に触れる者だからな」
 「賢者――ううん、ギュルヴィ、ありがとう。ボク、できるだけのことはするよ。頑張るよ」
 ギュルヴィはセイのけなげな決心に愛しみにあふれたように微笑した。はかない夢のようにも見えた。
 「今日はもう帰るといい、ほら」
 レンを指さした。門の脇で待っていた。いつの間にか日が高く空に掛かり、正午がとっくにすぎていた。ここにいると時間の感覚を失ってしまうかのようだ。
 二人は礼をいい、ギュルヴィの館をそのまま後にした。
 不思議な感覚がふたりの胸からはなれなかった。


 セイはひとりで家の中に残されていた。
 ナージュはナジイに呼ばれ出ていったきりだし、レンも使いに出てずっと帰ってこなかった。セイはぼんやりとベッドから見える外の風景をながめていた。長い長い息がふう、と漏れた。
 賢者の言葉が蘇り、いまさらながらにずっしりとのしかかってきていた。
 なんて重い使命なのだろう。そんなことが、本当に自分でできるのか。こんな半人前で大丈夫なのだかろうか。
 何度も何度も頭に浮かんで、繰り返しセイをわずらわせる。
 「退屈そうだな。ナージュの御主人さん」
 頭上からかかった意図せぬ声に、セイはびくりとして跳ね起きた。
 窓の小窓からヌッとあらわれたのは、レイズによく似た、あの男だった。
 「おまえは――」
 セイはと眉をしかめると、まるで臨戦体制のように身がまえた。
 こんなときにこの男の顔をみると、たまらなく嫌な気分になる。レイズの顔に全然似つかわしくない、意地悪な笑みを浮かべているのが、こさらに嫌な気分にさせる。
 「この顔が気に入らなそうだな。まあそうだろうなあ、おまえが殺した男の顔だものな」
 「――なっ!?」
 セイが息をのんだ。なぜレイズのことを知っているのだろうか。知っていてその顔をセイに見せ付けているようではないか。
 男の顔が、いきなり変化した。一瞬のことだった。べつの細面な青年男の顔になったのだ。かと思うと、中年の男、子供、老人に、ハンサムな青年、さらには女次に、次へと変わりだした。
 あまりのことに言葉を失い、目を回しているセイに、ひとしきりからかって満足したのかニヤリと笑うと、最後にまたレイズの顔になった。そして、似つかわしくないほど優しげにすらみえる顔へとおちついた。
 「おまえ、その顔は……」
 「俺はな、どんな顔にだってなれるんだよ。だからおまえの記憶を読んで、一番気分が悪くなる顔を選んでやったんだ。どうした、もう一人女の顔になってやろうか?」
 「やめろよ!! 死者を辱めるようなことはやめろ!なんでそんなことするんだ、ナギの顔になったら絶対承知しないからな!」
 むきになって怒りだすセイに、ふんっと鼻を鳴らした。
 「おまえがナージュを起こしたりするからだよ。永遠にあそこで眠らせておけばいいものを。よけないことをするからだ」
 そう言われて、セイは彼がなにを怒っているか、なんとなく理解した。
 「ナ、ナージュは……必要なんだよ。竜を孵すには、どうしても……」
 痛いところを突かれたように言い訳じみた言葉を口にのせる。どこかしらにナージュに対する罪悪感があるせいか。
 「ふん、そんなこと俺には関係ないね。まあどちらにせよ、あんたには忠告しといてやろうと思ってな。おまえはいつか大事なところで裏切られるぞ。あいつは自分のためだけに、大切な竜の歌姫を殺したんだからな。シアを殺し、なのに自分はのうのうと生きているんだ。最低の男だ。だが、必ず、シアの生命を己黎明800Pの命で償わねばならないんだ」
 「そんなこと――」
 「いいか、おまえは同罪なんだからな。やつを甦えらせた罪を、ナージュと同じだけ苦しめて味合わせてやる。おまえらは、世界で一番不幸でなければならないんだ」
 「どうしてそんなに憎むの?ナージュになんでこだわるの?なんだか変だよ」
 「うるさい!おまえはやつの氷のような冷たさを知らないからだ。やつは自分のことしか考えてない身勝手な男なんだ。あれほど尽くし、優しくしたシアに、毒を飲ませやがったんだぞ。――俺は、彼女のためにもやつを殺す。ジリジリといたぶり殺してやるんだ。竜玉を身につけるおまえも一緒だ、小僧、覚えておけ!」
 真っ赤に焼けついた、鉄の槍のような憎しみが胸を射抜いてくる。
 セイは訳がわからないが、強い思いに気圧されなんと答えていいかわからなかった。
 「あいつは知っていたんだ。知っていてレテシアに近づ、あの甘いマスクでたぶらかした。おまえもわかってんだろう?竜の歌姫が本気で恋をしたら死ぬってことを。やつはそれを知っていながら誘惑したんだ」
 「違うよ!ナージュはそんな人じゃない!」
 その言葉だけは耐えられず叫んでいた。彼は自らの力で耳玉を壊すほど愛したのだ。
 生命の源の玉が砕けてなくなってしまうほど、それほどに悲しんでいたのだ。それだけは絶対嘘ではない。
 「絶対違う、ナージュはそんな人じゃないよ」
 「どう違うというんだ、実際にシアは死んでいるじゃないか」
 だって、まだセイの胸の中には、砂漠にさまよっていた彼のあの青い光の思いが残っている。悲しくゆらめく球体――あれほど淋しい光をみたならば、どうしてそんなことを信じられるだろう。彼の悲しみは青く透明で、自分を焦がし続けているのだ。
 「セイ、どうした、誰かいるのか?」
 部屋の扉が開き、ふいにナージュが顔をだした。帰ってきたとたん、セイの叫ぶような声をききつけ顔をだしたのだ。
 窓縁にいる男と顔があい、ナージュは硬直したように固まった。男もまた、驚いた表情を隠しもせず目をみひらいた。互いに身じろぎもせず、しばらく空気が凍りつく。 
 男がニヤリとした。
 「――しばらくだな、ナージュ。……俺がわかるか」
 「ヴォル、おまえっ!」
 「相変わらずだなぁナージュ。もうこいつをたぶらかしたみたいじゃないか。いつもの手口で手懐づけて、今度はどんな方法で殺す気だ?」
 ナージュの顔が心なしか青ざめていた。
 「いいか、俺はおまえを許さない。地の果てまでも追いかけて苦しめてやる。おまえも、そのガキも、不幸の底につき落としてやる、忘れるな!」
 何も言わず、苦しげにただみつめているナージュに、嘲けるような笑いを残して、窓辺から消えていった。
 笑い声がいつまでも耳に残り、不快さばかりが後につのっていった。
 「黒竜、おまえは……・」
 「こ、黒竜って、まさか――?」
 セイはナージュのつぶやきに思わず声をあげた。
 それでは、まさか彼が、セイたちの探している竜の一人だというのだろうか。
 ではなぜナージュは黒竜と知合であり、過去に二人の間になにがあったというのだ。
 ナージュは問うようなセイの視線から目をそらし、それには答えなかった。何事もなかったかのような無表情な顔にもどってしまう。
 「……サークレットを完全に直すには、かなり準備に手間どるそうだ。ここで待っていても時間の無駄だから、五色の竜を捜しに出るほうが早いだろう。その間だけでも耐えられるように、ナジイが帰ってきたら後で仮り留めしてもらうことにした」
 「えっ、でも、さっき黒竜って――」
 ナージュははっきりと黒竜と呼んでいたではないか。五色の竜の一人ではないのか。
 だが彼の青ざめた顔をみていると、セイはもはやそれを問うことができなかくなってしまった。彼がしゃべらないのであればどうにもならない。心の中まで、強引に踏み込んでいくことはできないのだ。
 遮断したような沈黙に、排除されたような寂しさを覚えながら、セイはいそがしげに旅の用意を整えていった。
 すっかり用意も終わり、ナジイがあらわれると、応急の補修をしてもらった。
 そのまま気まずい空気のなか、旅立とうとしていたそのときだった。
 転がるようにして、レンが駆け込んできた。
 「父さん大変だ!都からの尖兵隊が近くまで来てるみたいだって。獣人の子供を捜してるらしいよ。この街に紛れ込んでるかもしれないからって――」
 ナージュとナジイは顔を見合わせた。
 「ま、まさかボクのことじゃないよね。だってまだだれもボクの存在を知っている訳ないし……」
 不安げに言うセイに、大丈夫だと安易に肯定することもできず、ナジイが言った。
 「とにかくあんたらは早く逃げた方がいい。やつらの探索力は尋常じゃないからな。どんな小さな所だろうと必ずかぎつけてくるぞ」
 「悪いなナジイ。迷惑をかける」
 「そんなことはいい。早く行け」
 ナージュはためらわずセイを抱えると、何事もなかったかのように雑踏のなかに紛れこんでいった。できるだけ目立たぬように小さな通りを何度もかえて小道を選びながら、街の喧騒を抜け出していったのだった。


 太陽は砂をこれ以上ないくらい熱く黄色く焼いていた。まるで光の差しこんだ鏡面のなかを歩いているようだった。熱気が足元からユラユラと陽炎となり、地平線がぼんやりとかすむ。異様すぎる暑さだ。まるで死そのものが、鮮やかな色となって降り注いでいるかのようでる。地下深く流れていた水までもを枯渇させている。
 砂漠はますます進行をはやめ、生物すべての命を欲しているかのようにさえみえた。
 だしぬけに突風が吹きぬけていった。セイはナージュの影に庇われながら身を小さくした。
 褐色の風が、天空を濁らせるように、乾燥した砂塵で陽光がひと時さえぎる。
 生きとし生ける者を無気力にさせる時節風がふき荒れはじめたのだ。
 砂漠の民が死の風とよび、決して戸外には出ようとしない忌むべき風だ。
 セイはナージュの腕の中でフードにくるまっていた。彼の心音を耳に直接きいていると、どんな状況のなかにあってさえも、安心していられる。
 目をつぶりこの音に包まれていると自然と眠くなってくる。 ナージュの手がかすかに背中を撫でていた。呼吸が楽になるようだった。
 半分砂に埋まりながらそっと外をうかがい、まだ磁気の狂いをうけた自然たちが凶暴に猛り狂っていることを知る。さらに大きな砂嵐を呼ぼうとでもいうのか、魔性の風の勢いはやまなかった。
 ナージュに庇われてなかったら、その風がほんとうに人の狂気を呼び起こす、狂気の魔物であることを知らされていたに違いない。陰気で、人の中の調和を狂わせる、まさに生き物である。
 「目を閉じていろセイ」
 ナージュの手がセイの目を覆った。
 「なに?」
 「静かにしていろ。死人の影だ。あいつに見つかったら、骨の随まで溶かされ、喰われてしまうぞ」
 透明で巨大な生き物がズルズルと砂漠を這っていった。
 目の前を過ぎてゆく姿は、どこか哀れな老人を思わせた。それが、なぜそんな姿になり、いつから現れだしたのかは誰も知らない。
 ごく稀ではあるが、もしそれに遭遇したならば、目を閉じてじっと通り過ぎるのを待たねばならない。そう昔から言い伝えられている。命ある者の影をみつけるやいなや、透明でぶよぶよした体にとりこみ、滋養にしてしまうのだ。
 「こんなところでやつに会うとはな。世界の均衡が崩れてきている証拠だ。砂漠の肥大化はまだまだ進んでいくだろう」
 だがセイはナージュの腕に包まれ、彼の声を夢み心地にきいていた。世界の話など、遠いもののように思われてくる。
 セイのまどろんだ目に、ふいに血の赤が飛びこんできた。ナージュの腕だった。あの宝石をとりだすために裂いた傷口がひらき、包帯に染みだしているではないか。
 「ナ、ナージュ腕が!」
 ナージュは大したこともなさそうに腕に目をやり、セイの前から引っ込める。
 「ああ悪い、汚したか」
 「なに言ってるんだよ。大丈夫?痛くないの?ねえ、あんまり無理しないでね。ボクなら大丈夫だから」
 「セイ、俺は機械だ。おまえの守護機なんだ。主人のおまえが気にすることは何もない」
 きっぱりと言われると言葉が出てこない。何度聞いても、涙がでそうになる。主人と言われるたびに胸が苦しくなり、機械だという言葉にしめつけられる。
 まるで、彼がそうとしか自分を受け入れてくれないようで、悲しい事実をつきつけられているみたいで、たまらなくなってしまう。
 「違う、ボクは主人なんかじゃない」
 そう言いたかった。だが主人でなくなったセイを、はたしてナージュが守り助けてくれだろか。それよりほかに、彼がセイといる理由はなに一つ見当たらない。
 セイはナージュと離れたくなかった。
 たとえ、自分が主人という鎖であったとしても、彼がいなくなったことを考えただけで息が止まりそうになってしまう。今でもこんなにもナージュのことで胸が一杯なのに、本当にいなくなったら、どうすればいいのかわからなくなるだろう。
 セイは紫紺の瞳を哀しく曇らせ、ナージュをみつめた。ナージュはその瞳を見ると、いつも目を反らせてしまう。
 「行くぞ」
 風がおさまると、ナージュは力強くセイの手をひっぱった。
 旅に出てからというもの、彼と抱きあって過ごした時間のほうが、離れている時間より長かった。日中は陽光を避けて休み、夜は彼の体で暖をとって眠り、身を守った。
 ナージュの腕のしたでフードにくるまれているときが、なにより幸せだった。
 セイは生まれた時からそんな風にすごしていたような錯覚が起きていた。その手がつねにそばにあり、守ってくれていたそんな懐かしさだ。
 だが忘れてはいけない。本当はセイを――有翼天人を、憎んでいるということを。
 やりきれない思いがセイをさらに切なくさせていた。
 「風からなにか匂うか、セイ」
 ナージュはセイをのぞき込んだ。息が唇にかかり、ビクッとして真っ赤になった。
 「あっ、うん。か、かすかだけど、水の匂いがするよ。緑があるような匂いだ」
 胸の鼓動の早鐘をさとられないように、遠くを見つめていった。
 セイは緑と水の匂いを、独特の香りで風から教えてもらうことができたのだ。
 だがこれ以外は、すべてナージュに頼りきりであり、ほかに役立つことはない。
 それに緑と水の匂いを敏感に察知できることにしても、緑竜の力が味方しているためであって、セイ自身の力ではない。
 砂漠を旅するうえで、水を見つけられる能力が最も重要なことではあったが、食事の必要のないナージュには、根本的には関係がない。セイは自分のためにそれを見つけているのと同じことなのだ。
 それでもナージュはセイが寂しくない程度に食事を一緒にとってくれていた。
 気にして食が細くなるセイへの、彼なりの優しさだった。
 ナージュはセイを抱き寄せると飛びたった。上空を飛ぶのはできるだけ避けていたのだが、目的地が近いなら、それもかまわぬと踏んだのだろう。
 守りがない空では、飛ぶということはひどく無防備であり目立ちすぎる行為なのだ。
 獣族狩りの手をどうにか交わしここまで来てはいたが、執拗な彼らの魔の手はどこへ伸びているかわからない。
 完全に人気のないことを確認し、死のつかさどる夜の闇をえらんで、ナージュは守護天使のように、セイを大切にだきかかえ、空を渡っていったのだった。

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