黎明の翼

4

 
  セイは馬の背にすがりつき、疾走する背から振り落とされないよう、全力で踏ん張っていた。
 馬の乗り方などもちろん知らない。ナギと二人で乗り、そのときも彼女に手綱さばきをまかせていた。
 なのに、まるで馬のほうがセイのことを知っているかのようであった。気づかい、不用意に落とさぬようにと地面をえらび、走ってくれている。でなければ、これだけのスピードで落ちないわけがない。
 あれから炎に迫られたセイは、ぎりぎりのところまで追いつめられてしまった。
 もうダメだ、と思った瞬間、わきに排気口があるのに気がついた。必死でそこにもぐりこみ、風の流れるほうに必死で這っていったのだ。
 どうにか体が抜けだせるだけの小窓をみつけた時には、煙に追われ、気を失う寸前だった。光の中に向かって、火傷するのにもかまわず夢中で飛びだした。
 その窓は城壁のすぐそばの厩に続いていた。干草のうえに転がりおちた。
 さいわい、まだそこまで火は回っていなかった。セイはつながれていたすべての馬を放してやった。どうせ死ぬならば、なにも炎に焼かれて死ぬことはない。
 そのうちの一頭が、なぜだか逃げもせず、セイの前に足をとめた。まるで背に乗れというように足を折り、じっとしていた。
 セイは無我夢中で馬に跨った。何かを疑問に思っている暇はなかった。
 それと同時に気を失っていた。
 馬はセイを振り落としもせず、それからずっとひた走ってくれていた。そしてついには、こと切れるまで走りつづけ、セイを砂漠へと戻してくれた。もう止まってくれと何度も言ったのに、それが役目だといわんばかりに。
 セイは砂を踏みわけ歩いていった。
 昼間の陽光を避けながら、どこまでも続く平原をつき進んだ。だが今度は行くべき方向をけっして迷ってはいない。なぜなら、あの青い光の球体が、行くべき先へと浮かびあがってくれているのである。
 砂漠に出てからのセイをそれは導いてくれた。もうずっと一緒だった。
 時には体に染みこみ、時には遥かかなたの先にゆらめいて、ほら頑張れ、もう少しだぞと励ましているかのように、片時も傍を離れなかった。
 どこか悲しい色を帯びた光を、セイはなぜかまったく疑っていなかった。われ知らず惹かれてしまっていた。
 その青い光が大きく瞬いたあとには、必ずといっていいほど、なにかが現れた。
 どこからともなく飛来した小鳥に、“旅人の草”と呼ばれる幻の霊草を与えられた。トカゲが水辺に導いてくれたこともあったし、植物がいきなり足元にはえてきて、自らを与えてくれもした。
 セイは自分が何かの力に守られていることを感じていた。いや確信していたかもしれない。その理由もまた、なぜかわかっている気がした。
 「きっとこの竜玉のせいだね」
 セイをずっと待っていたというあの有翼人の幻影の言葉を思いだした。この玉は本物なのだ。
 額の竜玉は最初と違って、冷たくて心地よかったが、温かみがないぶん、本当に大丈夫なのだろうかと、不安がだんだん増してきていた。
 そして一人だという孤独が、こんなに恐ろしいものだったのかと、じわじわと日がたつにつれて、身にこたえだしていた。このまま考え続けると、思考の闇に捕らわれてしまいそうになる。耐えられなくなるかもしれない。
 「この竜玉……本当に孵せるのかなぁ。そんな大役をなんでボクなんかが――」
 セイは何度目かのため息をついていた。歩きはじめてから繰り返し問うていた。不安のみせる悪夢だとわかっていても、どうしても同じ答えにいきついてしまう。
 「レイズやナギと旅してたときには、ぜんぜん不安じゃなかったのになぁ」
 いま、どれほど彼らの存在が大きかったかを思い知らされている。孤独はこんなにも近くにいたのだ。
 「なんでボクなんだろう。羽すらないのに。本当にボクが有翼人かどうかもわからないじゃないか」
 青い球体がセイの頬を撫でるようにかすめた。
 セイはふと顔をあげた。小さな村が見えていた。
 わずかだが、確かに緑の茂りが確認できた。セイはいつのまにか、堂々巡りしていた疑問をすべて忘れ、息を弾ませて走っていた。
 やっと村にたどりつけると思うと、誰かに会えるかと思うと、もう何も考えられない。疲れも気にならないほど興奮し、足がもつれるのにもかまわず必死で走っていた。


 やっとたどり着いたその村は、思ったよりずいぶんと閑散としていた。
 人影がほとんど見られないばかりでなく、無気力といおうか、荒廃しているといおうか、どんよりとした虚無の影のようなものが、うっそりと村全体を覆っていた。
 先に進むにつれて、足取りがだんだん重くなってきた。やっと会えたと思った村人たちは、どの顔もいやになるほど疲れきってみえて、セイの気持ちをも重く沈ませてゆく。て陰鬱にしていくかのようだ。
 声をかけようと何度かためした。だがよそ者を排除しているらしく、無言のバリアーに拒絶され、どうしても最初の言葉がでてこない。
 何にも興味がなさそうに、生気を欠いた目はどこか病的でさえあった。セイを見ると怯えた表情をうかべ、そそくさといなくなってしまうのだ。
 「あのぅ――」
 思いきって声をかけてみた。井戸の木陰にいた老人は、セイにようやく目をむけてくれた。しかしそれもすぐにまた、関心なさげに横を向いてしまい、何事もなかったかのようなぼんやりとした顔をしてしまう。
 セイも今度は負けじと、老人の前まで歩みより、もう一度声をかけた。
 「あのぅ、すいません、ちょっとお尋ねしたいんですが」
 老人は物憂げにしながらも、セイに顔をあげた。目と目があったような気がした。
 しかしそれからは、いつまで待ってもつぎの反応は返ってこなかった。
 「あの、ここにあるという谷に――ガルダイアの谷にはどういけばいいんでしょうか。近くだと聞いてるんですけど」
 「ガルダイアの、谷――?」
 今まで表情がなかった老人の顔がビクリと強ばった。何に反応したのか、骨ばった鼻の高い落ち窪んだ目でギョロリとセイを睨みつけた。
 あまりの変わりように思わずセイは息をのんだ。
 「ボ、ボクは、あの谷に……?」
 「なにをしに来おったんじゃ!おまえはあの谷になんの用があるというんじゃ!?」
 怯えたのようにがなると、唾が乱暴に飛散った。セイは思わずビクつく。
 「そ、そこに、そこにボクは大切な用があるんです。守護機を――竜の歌姫を――」
 言い終わらぬうちに老人が立ちあがり、杖をふりあげた
 セイは反射的に身をかばうように小さくなった。
 うかがいみた老人は、息を荒くして顔を怒らせていたが、よくみると泣きそうな表情をしていた。老人の手がふるえている。
 「おまえはなぜ歌姫のことを知っておる。なんでいまさら、わしに思い出させる。もう過去のことではないか……」
 老人の声は、だんだん枯れたようにかすれていた。
 「なんでそうやって、いつまでたってもわしらを責めるんじゃ。永遠にわしらを許してはくれぬのか」
 杖は力なくおろされた。
 むき出しの敵意はすぐに哀しみと後悔へとひるがえり、セイはひどく悪いことをしたような気がしてきた。一体どうしたというのだろう。まるでわからない反応である。
 「おじいさん、どうしたっていうんですか。その谷で何かあったんですか。ボクはそこに、ただボクの守護機があるというので、それを起こしたいだけなんです。そうでないと……」
 「せ、先生を起こすのか!?なんてことを――」
 「先生?」
 飛び上がらんばかりに老人が言った。顔色が変わった。
 「お、お願いですじゃ、どうかやめてくれ。どうか起こさんでくだされ。ナージュ殿をもう二度と苦しめないでやってください」
 老人はガクリと力が抜けたように膝をつき、両手を地におろすと頭をさげた。
 「あの方は眠っていなさる。ようやく安らかになられたのじゃ。わしらはあの嘆きをもう見とうはない。……あの方は壊れてしもうた――わしらが、壊してしもうた。もう、戻らない。戻ってはこない……許してくだされ」
 「おじいさん?」
 老人の大きな目には涙が溢れた。セイは何を言われているのかもわからず、かけるべき言葉を失って見ているしかできなかった。
 老人からはしだいに興奮がきえてゆき、気力が切れたようにまた無気力のまま座り込んでしまった。
 ポツリと云った。
 「……谷はこの先じゃ。まっすぐ歩いてゆけばわかる。風化した岩間に、眠っていなさる」
 それっきり、口を開かなかった。
 セイはただ礼を言うと、谷へとむかった。
 とても忘れたがっている過去があるのはわかる。きっと自分の言葉の何かがそれを刺激してしまったのだろう。ひどく悪いことをしたような罪悪感だけが胸に残ったが、それでもセイはそこへ行かねばならないのだ。
 何があったというのだろう。先生、というのはナージュのことなのか。壊れたってどういうことだ。なにをどう許さないのか。さっぱりわからなかった。
 だがそれを押してまで問うことはできない。人の中へは無遠慮に踏み入れられない。
 しばらく歩き、どこまでも沈んだように暗い村を突き抜けた。
 いきなりぱっくりと峡谷がひらけていた。
 眼前に、切り立った岩肌が、鬼のようにむき出されている。荒涼とした赤い鉄分をふくんだ砂が、乾いた風に巻きこまれて、時々ひどく荒々しい音をならして吹き荒んでいる。すべてを赤く霞ませていた。
 崖の手前にある川には、ただの一滴の水もなく、網目のように川底がひび割れていた。命の潤いをすべて消し去られていた。
 かつては豊かな木々をたくわえていたであろう峡谷の広がりには、立ち枯れた木々の残骸が、黒く無情な顔をして延々とつづいていた。あまりにも無惨な光景だった。
 ただ赤い砂と切れるような岩肌だけの世界。
 セイは震えるような気持ち押し殺しながら、ゆっくりと足を踏み入れた。
 進入者を拒むように風が走りぬけた。
 砂の風の、あまりの痛さに目をおさえた。痛む目をこすりながら、しばらく風の飛礫にたえていた。
 ようやく落着いて、目をひらく。
 赤い風の霞みのむこうにある、すさまじいまぜの絶壁がやっと視界にはいってきた。
 真っ直ぐそれへと視線がそそがれた。
 ――彼がいた。
 セイは息をのみ、風の意地悪にも負けず、彼のほうへと歩みをすすめた。
 真正面に立ち、見上げる。
 まるでそれが合図であるかのように、風がいきなり止まった。
 嘘のように静かになったのだ。
 今度ははっきりと彼の姿がみえた。岩に包まれるようにして、絶壁の中空にぬいとめられていた。どんな力が働いているのか、ぽっかりとそこに彼だけが浮かび上がり、奇妙なほど岩と調和してたたずんでいる。
 岩の赤さが、がまるで彼の流した涙のように見えてくるのはなぜなのか。なんと悲しそうな寝顔であろう。
 セイはそれから、流れるような抗いがたい不思議な力を感じていた。
 運命の炎がが、体の奥底に灯るのがわかった。彼へと、心が吸い寄せられてゆく。
 激しい風の粒手で痛んだ目が熱くなり、涙がでそうになった。それは傷つけられたからだけではない痛みだった。
 なんと秀麗な姿の青年なのであろうか。
 均整のとれたすらりとした長身に長い手足。漆黒の髪がけぶるような睫毛にまで垂れていた。閉じられてはいたがくっきりとした二重の目が、開けばどれほど美しいかと想像されるようだ。
 すっと通った鼻梁に、白皙の肌はまるで生きているかのように艶やかである。凶暴な砂風にさえ、みじんの損傷もなく、少しも風化されてはいない。
 「これが、機械人というものなの?」
 どこから見てもまったくの人間だった。今にも目を開き、動きだしそうな気がする。
 「この人が、ナージュ――?」
 セイはしばらく、ただボウッとみあげていた。訳のわからぬ懐かしさがこみあげてきた。ずっと前から、彼に会いたくて会いたくてたまらなかった気がする。やっと会えたように心がふるえる。
 彼の記憶を、セイは確かにもっていた。彼を知っていた。
 「会いたかった……」
 セイは思わずつぶやいた。ため息が漏れでたかのような切なさだった。
 ずっと彼を求め、探していたのだ。なぜ忘れていたのかと、不思議なほどだ。
 いつのまにか、あの砂漠を導いてくれた青い球体が、セイのまわりを旋回していた。
 光は何度もセイの周囲をひらめくと、そのまま舞いあがり、ージュの額にとまった。
 光量をまし、彼の顔を照らす。
 ドクンっと鼓動が聞こえたような気がした。
 光から伝わってくるかすかな律動に、セイは青い球体の意味を悟ってしまった。
 その青い球体は、彼のものだった。彼から漏れでた心がさまよっていたのだ。
 青く発光している光のこのなんともいえない悲しみはどうしたというのだ。
 「ナージュ、何をそんなに泣いているの?なにが、悲しいの?」
 セイはそっといたわるように問いかけた。なぜ身体から抜けだし、砂漠を彷徨いつづけていたのだろう。それほどの悲しみとは、いかなるものなのか。
 セイは、ナージュの足元にある出っ張った岩に足をかけた。彼の顔の近くにまで登ると、つま先立ちをし、彼のびたいの燐光にふれた。
 触れた途端、皮膚ではない硬い破片が額あることに気がついた。電撃波のような痺れが手を射て、すべり落ちる。
 「……ナージュ」
 落ちた衝撃も忘れ、呆然としていた。セイは大切な約束を思い出していたのだ。
 だがやっと何もかもを取り戻したと思ったその瞬間、それは一瞬に消えてしまった。
 まるで幸せすぎて残酷な夢のように、シャボン玉のごとく弾けてゆき、思い出したこと自体すら忘れてしまっていた。
 ナージュの額の破片が、セイの指先で粉々に砕けていた。キラキラと風に散っている。
 「そんなっ、どうして!?」
 ――シア……
 低く甘いささやきが、優しく谷にこだましていった。まるで歌うようだった。
 屈託なく笑う少女のこえが聞こえてきた。柔らかい風と一緒にかけぬけ、至福に満ちた声が重なりあう。
 セイには彼らの姿が見えていた。自分の思いのように、愛しさが湧きでてくると同時に、ナージュがこの少女のことをどれほど愛していたか、どんなに大切に思い、いたわり、大事にしていたかを、身を切るように感じていた。
 ほとばしる思いは限りがないくらい大きいのに、その大きさで彼女を壊してしまわないかと怯えるように静かに包みこんでいく。睦みあうようなおしゃべりと、笑いさざめく声が耳をかすめてすぎてゆく。
 深い愛情に身も心も満たされていくようだった。幸せな思い出のあとには、だが、なぜだろう、いつもいやというほど苦しい感情の津波が押し寄せてくるものだった。
 やがて思いは、深い深い絶望で染まっていった。
 セイはあまりの残酷さに震え上がった。やわらかい心が引き裂かれそうになる。
 その少女は死んでしまったのだ。永久にいなくなってしまった。
 全てを失ってしまったかのような彼の苦悶と慟哭がきこえる。どれほど絶望し、後悔し、虚無の牙につらぬかれ、血を流たことか。
 みずからの手で額の玉を割ってしまうほど、心を痛めた。――そう、生命活動をみずから止めてしまうほどに。
 彼女をなによりも愛していた。彼女だけがすべてだった。
 だからこうして今彼はここで眠っているのだ。苦しみに彼は自分で自分をとじてしまったのである。
 セイは怒涛のように流れでた彼の思いを、ずべてその身に受け入れてしまっていた。
 そうして、やっと自分を取り戻せたとき、どうしていいのか立ちすくんでしまう。
 「ボクは、この安らいだ顔をした人をほんとうに起こしていいの?」
 それがはたして正しいことなのか。
 竜のため、世界のため。
 理屈はわかっている。なのに、本当にそうまでして自分のために動いてもらうことが必要なのかと問わずにはいられなかった。彼の思いを知ってしまえば、彼の力が必要だとわかっていてさえ、ただのエゴイズムのような錯覚におちいってしまう。
 自分だけで、なんとかできたらいいのに。
 セイは燃えるように熱をおびだした耳玉に触った。
 耳玉はすでに守護機に反応しており、強く発光をしている。火傷するくらい熱くなり、耳玉は何もしないのに、こぼれるように手の中に落ちたてきた。そのままセイの人差し指に灯った。
 しばらく不思議そうにそれを見つめていたナギは、無意識に、ナージュにそっと差しだすように手をあげていた。
 「おい待てよ、おまえそいつを起こす気か」
 背後からの突然の声に飛び上がるように驚いた。
 男の影がおちている。振り返り、その顔をみてハッと息をのむ。体が硬直して動かなくなる。
 レイズがいた。
 いや、それはレイズによく似た男であった。本人だと見間違えるほど、あまりに似すぎており、ただ違うのは、彼の頬に星型の傷がないことだけだ。
 「あ、あなたは――?」
 声がふるえた。レイズは、死んでしまったとわかっているのに、視線を離すことができない。あの時、炎のなかでナギといっしょに幸せそうに昇っていったではないか。
 男が笑ったような気がした。
 「そいつはな、極悪非道な悪魔なんだ。起こしたら絶対後悔するぜ。――そいつはレテシアを殺したんだ。たったひとりの竜の歌姫の命を奪ったんだ。そんな機械野郎を起こしてどうするつもりだ?」
 低く凄みのある声はセイを威圧するように言い放った。憎悪がこめられていた。
 「俺はその悪魔がここから逃げ出さないための番人なんだ。そいつを地の果てまで追いつめ、苦しめるために、こうして永遠に見張っている。そいつが二度と笑うことを許さない」
 凶悪な顔つきで口元を意地悪くまげた。
 「そんなこと――……。ど、どうしてあなたは、そんなにこの人を憎んでるの?だってこの人はこんなに傷ついているじゃないか。あんなに愛していた人を――」
 まさか殺したとはとても思えない。彼は何もかも捨ててしまうほど傷ついている。
 「ふん、おまえは何も知らないからだよ。そいつはな、俺の恋人だったレテシアを奪って、殺してしまったんだ。機械なんかのくせに、竜と一緒になって、俺のシアの命までも奪いやがった殺人鬼なんだよ、悪魔なんだ!」
 憎々しげに吐き捨てる狂気のような気迫におされ、セイは後ろの壁によろめきぶつかった。
 ふいに、自分の指が膨らんだような感覚がした。なにかの力に吸い寄せられていく。
 まるで呼ばれるかのように手がさしのばされ、浮き上がった。
 その途端、ナージュの顔に手がふれた。指先の光が彼の額に吸い込まれていった。
 男は止める間もなく起ってしまったことに、唖然と目をみひらき、食い入るようにみつめていた。
 火が灯ったようにナージュの体は発光しはじめていた。それと同時にセイも地上におとされる。
 蒼い燐光の輪が全身を流れた。
 生命が吹きかえる音がする。生気もなにもなく真っ白だった頬に赤味がさし、唇が色づく。
 怒鳴ろうとしていた男の目が、ナージュの変化をみとめた途端、強張ってしまった。おそれるように表情が歪むと、まるでナージュの瞳が開かれるのに耐えられないかのように、脱兎のごとく逃げだしてしまった。
 ナージュの唇がかすかに動いた。何かの言葉を形づくった。
 瞼がふるえると、ゆっくり開かれてゆく。
 セイは息を飲んだ。永遠の闇をふくんだ黒耀石の瞳だった。なんて印象的で美しいのだろう。魂が魅了されていく。
 だが、その神秘的な瞳は、開かれるなり不愉快そうにしかめられてしまった。
 太陽の光を射しこんだ顔には、自分が目覚めたという、なんともいえない苦痛がすぐに浮びあがっており、セイは、彼の中の悲しみがまだ少しも癒えていなかったことを悟った。その表情ひとつで十分だった。
 ナージュは足元にたたずんでいたセイに目をやった。
 二人は見つめ合った。
 なんの感情もなく、時だけが無機質にさらさらと流れていく。セイは身動きすらできず、彼の姿だけが瞳に一杯になる。悪い魔術にでも魅せられたように、ナージュだけが、セイのなかを満たしていった。
 彼の秀逸な眉根がクッと寄せられた。
 「なぜ俺を起こしたんだ」
 「……えっ?」
 第一声は、皮肉すぎるくらい厭わしげな色に滲んでいた。
 なぜいまさら俺を起こす、なんの用で醒めさせた、と苦悩にみちた声をセイの耳ははっきりと捕らえていた。
 彼の声は、青い光の球から聞こえていた叫びと同じ波動をしていた。
 セイにはわかってしまう。彼の嘆きも悲しみも。自分が機械であることで、己をどれほどまでに呪ったかということも。そんな目で見つめられることに耐えられないように口を開いた。
 「ボ、ボクは、ただ竜をあなたと――」
 セイが言いつのろうとしたとき、ナージュの光がおさまった。
 彼は岩場から音もなく飛び降りた。セイの目の前たつと冷たい目で見下ろす。なんて背が高いのだろう。
 はっきりした鼓動が聞こえた。彼のものだった。
 耳玉による契約が、言葉を交わすことによって発動を始めたのだ。
 守護機と主人は、耳玉を分かち合うことで、肉親以上により血を近づける。
 呼吸がひとつに合わされ、心音が重なりあい、体温までもが等しくなってゆく。
 主人の肉体をこまかに気遣ううえでの配慮であったが、この地上で誰よりも親しく深く互いを分かち合うことだということもまた、意味していた。
 唯一無二の存在なのである。
 なのに、その始まりがこんな憎しみのこもった言葉で始まろうとは――。
 ギリッとセイを見つめる瞳に嫌悪の色がにじんでいた。ナージュの細められた目が否定的すぎて、それ以上セイはなにも言うことができなくなった。
 彼は目をそらし、岩間を見た。
 「わかっている。俺はおまえを守るためにだけにあるんだ。そのように、おまえたち有翼天人が俺を造ったのだからな」
 「ボクのため、だけ・・・?」
 「ああ、耳玉を入れられたおかげでようやくわかったよ。俺の力は、すべてはおまえを守るためだけのものだったんだ。俺のこの知力も能力も、ただおまえのためだけにしか発動されない。あって無きがごとくのモノだな」
 訳のわからない憎しみに、セイは戸惑う。
 「もし、あの時これだけの力があったなら、これだけの知慧を持っていたら……シアは死なずにすんだかもしれないのに――」
 「ナージュ?」
 「たった耳玉ひとつで、俺は、俺の底にひそむ力を理解した。お前が望むなら、この国だって手に入れてみせよう」
 じっと冷たい目でセイをみつめる。
 「耳玉を与えたおまえを、俺は恨まずにいられない。おまえら以外に役立たたない体を造った有翼天人を、いま始めて心底憎く思う!」
 セイは言葉を失った。
 ナージュから寄せられる激しさにかえす言葉はみつからない。
 だがセイにはナージュの方がより深く傷ついているのがわかった。言いながら泣いているのは彼の方なのだ。黒い睫毛が重苦しく揺れたのを見逃さなかった。
 「ボクは、ナージュ……」
 ふいに目の前がぐらついた。ナージュの黒い深淵の瞳をみつめすぎたのか、意識が闇に吸い込まれ遠のいていきそうになる。
 倒れるセイを、ナージュの手が受けとめた。ひどく義務的な手だった。
 セイは彼の手のなかで大きくふるえる。ふたたび姿を変えはじめた。
 竜玉もまた、同じくして変化をみせはじめている。
 セイが苦しそうに身をよじった。一目でそうだとわかる、くっきりとした背の獣相が消えていった。かわりに肌に白さが増し、真珠色に深みをおび、亜麻色の髪が長く伸びて、金にちかい茶色に透けている。
 一皮剥けるたびに、セイは確実に美しさを増していった。真っ白な心に、多くの思いを吸収すればするほど、美しく成長するかのようだった。
 額の竜玉が、紺瑠璃色にかわった。
 「セイ、ゆっくりと呼吸しろ。そうだ、ゆっくりと、もっとゆっくりだ。落ち着いて、ほら大丈夫だ、体がすぐに慣れてくるから」
 ナージュはセイの背中に手を当てた。
 肩甲骨から流れ込むあたたかいエネルギーにほっとした。セイはこわばりと緊張感をといていく。ナージュの手が背をさするほど、おどろくほど楽になり、体のなかに沈着した、死の影が払われてゆくようである。
 心地よいぬくもりがフワリと抱きこんだ。
 ナージュの腕のなかに身をゆだね、セイは安心しきったようにもたれた。彼の鼓動が聞こえる。同じ早さで刻み、ふたりが重なってゆくかのようだ。
 「獣相が消えたようだな。幼体からかなり時間がたっているのか?」
 セイは信頼しきって体を預けている自分に気がついた。
 だがナージュの目の冷静さに、あわてて手のなかから起きあがろうとした。
 ずいぶんと長いあいだ抱かれていた気がする。こんなに誰かの温もりで安らいだのは始めてだ。ナージュは無表情に立ちあがると、セイの手をひっぱりあげた。
 まるでそうしたくてしたわけではないと言いたげに見えて、胸がキリリっと締めつけられた。
 「……どうして、ボクの変化のことがわかったの?」
 手慣れていたように思える。いとも簡単にセイを楽にしてくれた。
 「おまえは俺に耳玉を入れた主人だ。たいていのことは耳玉を通して伝わってくる。すべての守護機は、耳玉からの遺伝子情報と、主人の生体エネルギーによって作動するようになっているんだ。なにも不思議なことはない」
 セイはなにか嫌な感じが否めなかった。彼が主人だとか守護機だとかと口にするたびに、胸がチクチク痛くなる。多分それがセイを拒絶する言葉に思われるからだろう。
 「ナージュは…」
 言いかけて口をつぐんだ。
 ボクが嫌い?そう問いたかった。
 それは、ただ嫌いではないという否定の言葉を聞きたいのであって、はっきり嫌いだと肯定されるかもしれないと思うと、口には出せない。こんなに近い人なのに。こんなに重なりあえるのに、なんて遠い。
 「エル・ウッドの街へ行くのか」
 「えっ?――あっ、うん。エル・ウッドへ行こうと思っていたんだ。賢者に会って聞かなきゃならないことがたくさんあるみたいだし。竜玉のことや、五色の竜の事やいろいろと……。そんなことまでナージュにはわかるの!?」
 ナージュは答えなかった。
 セイはふいに抱きよせられ息をのんだ。腕の感触にドキドキしていた。彼の背にふわりと翼が現れた。大きなあの城でみた、有翼人の翼によくにた羽だった。
 音もなくはばたくと、ふわりと空に舞った。
 セイは上昇しながら、まだみぬ自分の羽をふと夢想する。懐かしい浮揚感だった。
 彼はそのままセイを抱いたまま、谷をつっきっていった。
 一望する眼下に、赤い谷が隆々と横たわっており、ひどく寂しい風景だと思った。
 緑豊かだったころの姿を忍び思うと、そこにいたはずの、陽気で楽しげな民の姿が見えてくるようで切なくなる。
 ナージュの胸のあたかさに気が抜けたように眠くなってしまった。子供が母親の胸にようやく抱かれたような満足感に、セイはそのまま寝息をたてはじめた。
 起こさないように、羽音がおさえられた。
 彼らの飛びさったその後には、わずかだった小さい緑色の芽がひっそりあちこちに顔を出していたのだった。


 セイはもの珍しさのあまりキョロキョロとしていた。
 最初はかなりまごついておっかなビックリだったのに、すぐに顔を輝かせると、辺りをしきりにみまわした。すれ違う人々の格好や、店数の多さとその種類にいちいち驚嘆し、見たことのないものに興味をもって嬌声をあげた。
 エル・ウッドの街はしごくにぎやかで大きな都市だった。
 人の行き来がせわしく、セイがいままで見た中で一番騒々しくて、せわしくて、人間が半端ではなく多い。
 セイにとっては世界中の人間を集めたのではないかというような喧騒に思われた。
 石畳の道が縦横に走っていて、それに沿うように、店や家屋がところ狭しと軒を連ねている。家は木でも土壁でもなく、煉瓦づくりであり、山土を練りあげて乾燥させたものを、高温で焼き強度をあげ、継目が重ならないように交互に積み重ねているのだ。その色が黄色や赤色を帯びているので、よけいに街が華かにみえている。
 店先に並べられている食物は目移りするほど豊富であった。
 それよりなにより、貴重な水がいたるところにあるのに驚かされる。
 街の中央にある広場には、一番大きな噴水があった。冷たい水が常時流されている。
 セイはなんて贅沢なのだろうかと思った。それだけの水があれば、砂漠の人たちがどれだけ潤うことだろうか。
 だがそこにしばらくたたずんでいるうちに、水の流れる音は、人の心を安らかにする効果もあることを知った。だれもに等しく懐かしさ覚えさせてしまう。
 セイはつい、自分が獣人だということを忘れてしまっていた。
 あちこちを駆け回り、人混みに呑まれながら、物珍しそうに店々をのぞいていた。
 そんなセイをナージュしばらくは止めなかった。街のなりたちに納得して、落ち着くまではしかたないと思ったのだろうか、それともセイの楽しそうな様子に声をかけそびれたのかもしれない。
 どこから調達してきたのか、外套着をセイにかぶせ、フードで頭まで覆った。
 「ナージュ、これは?」
 「被っていろ。どんな人間が集まっているかわからないところだからな。目の利く者でなくとも、おまえのサークレットは目立ちすぎる」
 「あっ!う、うん」
 「部族によっては顔を出さない民もある。これを着ていてもここでは怪しまれない」
 旅人が羽織るような日除けの厚目の生地ではなく、柔らかな肌ざわりのいい、街のどこにでも売られているようなキレイな外套着だった。
 セイはドキンとした。ナージュの顔が目の前にあったのだ。表情ひとつかえずに彼はセイに額をあわせてくる。
 「ナ、ナージュ?」
 「体調はいいようだな。疲れもほとんど残ってないみたいだ。――ああ、ちょっと心泊数が上がったようだ。どうしかしたのか?」
 じっとみつめてくるのに、赤い顔でセイはあわてて首をふった。茹でられたようだ。
 ナージュはセイのフードを深めにかぶせ竜玉をしっかりと覆った。
 何もいわずセイの手をひくと、周囲を視線だけでうかがいながら、人混みのあいだをくぐり抜けてゆく。通りの少ない裏道へと紛れていった。
 「ここら辺りは、本当はあまり治安が良くないんだがな、まあ仕方ないだろう。そのほうが俺たちも隠れやすい。目立たないことが一番だ。おまえも少しは気をつけろ」
 「うん」
 クセなのか、顔を近づけてしゃべられることにセイはいまだに慣れない。いつも心臓の音が跳ねあがる。
 そんなドキドキしているセイにかまわず、ナージュは建物のなかに入っていった。
 まばらにしか人がいなかった。こじんまりとした飲食店のようだった。
 半分は酒場になっており男たちがカウンターに座っている。またきょろきょろしだしたセイの頭を押えると、とりあえず離れた席についた。
 ナージュは食事を注文する。
 「セイ、俺はあとでここらの状況をすこし探ってくる。賢者をみつけるとなると、そう簡単にはゆかぬだろうからな。だがまずは、おまえの腹の虫を落ちつかせることからだ。それからだ――」
 考え込むようにナージュはおし黙ってしまった。
 セイもまた、ただじっとだまって思案げな彼を見つめていた。ナージュが今なにを思っているか、そして自分のことをどう考えているか、セイにはなにもわからなかった。ただ嫌われてなければいいという、願いにも似た気持ちだけで胸が一杯だった。
 いい匂いの食事が運ばれてきた。
 セイはホワリとしたスープの甘い匂いに刺激されわれ、クウッと胃が動いた。
 一口たべると、そのごは夢中でパンとスープをほおばっていた。
 まともな食事を久しくとってなかったのだと、食べ初めてから気がついた。ナージュは自分でも気づいていなかった空腹を、ちゃんとわかってくれていたのだ。
 ふとセイは彼が何も口にしていないのに気がつき、スプーンを握った手をとめた。
 「ナージュは食べないの?」
 「……俺は機械だ、腹などすかん」
 「そ、そうなんだ」
 そっけなく答えられ、セイは叱られた子供のようにうつむいて、また口をもそもそ動かした。彼といると、つい、その体が機械だということを忘れてしまう。
 ナージュの、セイを見つめる目は少しも変わっていない。会ったときと同じまま、冷たいほどに澄んでいる。決して優しいわけではなかった。気安く声をかけてきたり、いたわるようなことは言わなかった。
 いつもそっけなく、嫌われているのかと思えたりするのに、不意に危険なものから庇ってくれたり、危ない場所行かないように体をかわしてくれたりする。
 いかに彼が、いつでも細かに気遣ってくれていのるかを、セイは後でいつも気づかされる。何もいわない優しさ。その手のぬくくもり。セイはただ側にいるだけでどんな時でも安心してしまう。
 いつも考えていた。ナージュは自分が主人だから仕方なく、それで義務だからしてくれているのだろうか。それともすこしは――。
 目を醒ましたときの彼の言葉が胸にやきついていて離れなかった。あの場所にセイの心が縛り付けられているかのようだ。
 ナージュが席を立った。
 「あっ――」
 セイは慌てて後を追おうと立ちたちあがった。机の角にひっかかり、転びそうになってスプーンが落ちる。
 ナージュがセイの様子に、何をしているんだという顔をして、ヒョイと抱えてまた椅子に座らせた。
 「いいからおまえは食べていろ。ラム水を持ってきてやるから」
 「う、うん」
 置いて行かれるのかと思ってしまった。
 セイは無意識のうちに、ナージュの背中をみるといつも不安の影がよる。
 このまま帰ってこないのではないか、見捨てられるのではないか、そう思うと怖くてしかたがなくなってしまうのだ。
 ナージュは新しいスプーンと、甘い果実の味のする水をもって来てくれた。
 その水に口をつけながら、自分のことを変に思っているだろうかと、ちらりとナージュをうかがった。
 「この上に宿をとったからおまえは先に休んでいろ。俺はちょっと雑用をしてくる。いいか、どんなことがあっても、俺以外のやつは部屋に入れるなよ」
 「どこ行くのナージュ?」
 ナージュは答えなかった。いつもの沈黙が身にこたえる。
 鍵をわたされ、セイはしかたなくうなずいた。スープを飲みはじめた。
 背後から強烈な香水が鼻をついた。ふり返るセイの目のまえで、いきなり豊満な肢体がナージュにしなだれかかってきた。
 「ちょっとぉ、お兄さんてばいい男じゃないの。ほぉんと、うっとりしちゃうわね。あたしんとこで、ゆっくりしていきなさいよ。お兄さんだったらサービスするわよ」
 目がトロンとしていて、女はあきらかに酔っぱらっていた。酒臭い息をはきながら、ナージュに顔をすり寄せる。
 「ねえ、いいとこ案内するわよ、一緒に行きましょう。まかせてちょうだい」
 ククッと下品な笑いを浮かべ、真っ赤な唇を淫靡にチロリと舐めあげた。
 胸の谷間がはっきり見えているのを知っていて、さらに前にかがみなって、腕でよせる。あきらかに商売女である。
 ナージュは無表情のまま女の手を払った。女はよろけながらも、机に座わりなおすと、足を組んで、顔をよせてきた。
 「クールなふりしちゃって。いいのよ、男なんてみんなわかってるんだから。あたし、あんただったら安くしとくわ――ううん、タダでもいいけどぉ」
 ポカーンとしているセイを無視して、ナージュに熱い視線をおくっていた。強引に腕をつかむ。いかにも自分は魅力的だというように、鼻に皺を寄せて笑っている顔をみていたセイは、だんだん嫌な気持ちがしてきた。
 よくわからないが、赤い爪でナージュにきやすく触れないでほしい。わもわとした、訳のわからない感情が沸きあがって、気持ちが重くなってきた。
 ナージュは女の肩を押しもどし、そのまま立ちあがった。
 「あら、ねえだってこの辺ではもうあたしぐらいなもんよ、まともな女って。他で買おうったって、骨と皮の骸骨ちゃんか、カサカサの濡れもしないババァだけだわ」
 アハハッと大きな口をあけて下品に笑う。
 「あいにく俺には用はない」
 「冷たいのねぇ。でもそんなところもいいわ。自分から言い寄ってくる男たちにはうんざりしてたとこなのよ。たまにはあたしだって楽しみたいじゃない」
 女は胸をナージュの腕におしつけた。ようやくむっつりと不満げに見ているセイに気がついたのか、ひどく癇に触る笑いをもらした。
 「あらまあおチビちゃんたら、一人前にに妬きもちなんて焼いてるのね。可愛いわねぇ」
 いきなり自分に話をふられギョッとかたまったセイの鼻を、からかうように突いた。
 「あんたたちどういう関係?まさか親子じゃないわよね。兄弟にしても似てないし。――まさか恋人?」
 言ってひとりゲラゲラと笑いだす。
 「いま流行の男同士っての?あらあらそんな顔しちゃって、もしかしてあんた女?やぁだ、性別が全然わかんない顔だわね。けどそんな目をしてたら女よね、いやだわ。でも、教えておいてあげるわ、あんたとこの人とじゃ、全然不釣合いだってこと」
 魔女のように目を細めるのに、セイはびっくりして、真っ赤になった。なにを言っているのだろう。
 ただあからさまな悪意ははじめてだった。どう答えていいかわからな。
 それにナージュを知らないうちに、自分のもののように感じていた心を見透かされたようで、すごく恥ずかしくなっていた。ナージュが面倒そうに冷たく睨むと、女に金を押しつけた。
 「とっとと失せろ。おまえには用はない」
 「なによ、あたしは――」
 ちやほやされまくっていることに慣れた女は、カッと目をつりあげた。
 自分になびきもしないことにプライドを傷つけられ、けたたましく文句を言おうとした。だが、見上げたナージュの表情をみて、顔色が変わった。
 冷たい氷の刃で切りつけるような目をしている。彼は怒っているのだ。
 女はそれでも、思いなおしたように、意地の悪い顔をして金をひったくると、セイに八つ当るように睨みつけ、ぶつぶつ言いながら逃げていった。
 「――夕方までには帰る」
 ナージュは何事もなかったかのようにそれだけ言うと、一人で店を出ていった。
 セイはぽつんとひとり残されてしまい、テーブルに座ったまま、それ以上食べる気もなくなり、食べかけていたパンを皿に置いた。
 ひとりでいると、急に落ち着かなくなってきた。
 ナージュがいないと、ここはこんなにも居心地が悪い場所だったのか。所在が無くなり、不安な気持ちが誤魔化せない。
 彼と会ってから、日増しに育ってゆく感情が止められなかった。
 訳のわからないいくつもの思いが芽生え、その思いが自由にならずに、時々頭を突きだては、セイをまごつかせる。溢れそうになる感情にふりまわされ戸惑っている。
 彼はいつも無愛想で無表情だった。どんなに話しかけてもそっけなく返事をするか、視線だけを冷たくむけるだけだ。
 嫌われていることはわかっている。
 耳玉を入れたから、しょうがなく自分を主人として扱かってくれているにすぎない。
 何度もそう思おうとしているのにいつも失敗する。何度も彼の心を期待してしまう。
 セイはまだ、ナージュの笑顔を見たことがなかった。そのことがいっそうセイの中に影を落としていた。もし彼が微笑んでくれたなら、それが、セイが眠りから起こした罪を許してくれた証のような気がする。
 けれど、それでも時折みせる優しさに、ひどく胸が揺らいでしまった。
 本当に機械なのかと、これが造りものの感情なのかと思うくらい、彼は優しい。
 彼の中にひそむ悲しみが、いっそう思いやり深くさせているのかもしれない。
 いつだってセイはその悲しみを感じていた。いや、きっとセイだけがそれを感じてしまうのかもしれない。全てをわかちあう唯一無二のふたりだから。
 そのまま部屋に入ると、ベッドのうえに転がりこんだ。
 染みだらけの天井をながめた。
 「ナージュが機械だなんて信じられないよ」
 痛みがはしる。天井がぞわりとざわめき、機械の配線が巡らされている幻覚が見えた。砂漠で見たおぞましい映像だ。
 あの痛み、あの悲しみはきっと真実なのだろう。彼は自分を切り裂き、血まみれになって確認し――絶望したのだ。
 「あれがナージュの……」
 シーツに、涙がにじんだ。
 セイはいきなりカバリと身をおこした。誰かに見られているような気がしたのだ。
 身を小さくして、視線の先をさがす。部屋の隅であった。それはじっと見ていた。
 黒い影――獣であった。
 暗い穴のような目が、大きく伸び縮みする体にぽっかりと開いているようにみえた。鋭い牙だけが殺意をもって光っている。
 恐ろしい殺気、恐ろしい闇。セイはいきなりパニックにおそわれた。
 どこへ逃げればいいかわからず、怯み、体が動かなくなった。誰も助けてはくれないし、自分は今一人きりだということだけがわかっている。
 そうだ、誰もいない。誰もかも、みんないなくなってしまった。みんな殺された。レイズも、ナギも死んだ。みんな死がつれさ、セイのそばに誰も残ってはいない――。
 大きな運命の魔力が命をみこみ、永遠につづくかと思われた幸せな時を不意に途切させてしまった。一人という時間のなかで、どうすることもできず、ただ翻弄され押し流され、迫りくるエネルギーに揉みしだかれるだけだ。
 ぞろりと隅のそれが動いた。
 赤く灯った虚無の瞳がうずまくように闇にふくれあがり、恐怖の手をセイにむかって大きく伸ばし、おしたおした。
 野獣の牙は冷たく鋭かった。その先にある、セイの大切な部分に無断でふみこんでくる。それは死である。
 セイは殺されると思った。
 茫然とみつめるその野獣のさらなる影のむこうにいたのは、なんと小さな少年だった。重苦しい影のなかで、たったひとり、今にも泣きださんばかりに脅えている。
 恐怖に体を震わせる姿が、あまりにも憐れで、小さくて、セイは思わず手をのばしていた。肩をつかむ。
 それが顔をむけた。にやりと笑った。
 ――セイは悲鳴をあげた。なんと、それは自分の顔であったのだ。
 無機質でのっぺりとした意味も何のもない笑顔。
 空洞のように穴をあけた目と口と鼻からあふれだすのは『無』そのもの。
 それはセイの手を――自分の手を握った。痛みに痺れあがり叫ばずにはいられない。
 「いやだっ!助けてナージュ!」
 セイはとび起きた。呼吸がひどく乱れていて、泣きそうに肩で息をついていた。全身が汗でびっしょりになり、シーツをぬらしている。
 「ゆ、夢……?」
 セイはバクバクいう心臓の音を聞きながら汗を腕でぬぐった。冷えて体がうずいた。
 部屋のなかは、沈みゆく寸前の太陽のひかりに照りはえて、朱色に染まっていた。とても寂しくて、胸をつくような光景だった。
 セイは不安を押し殺すことができず、それ以上この場所に部屋にいることができなくなった。思わず部屋をとび出していた。
 誰か、どんな人間でもいい、誰かほかの人の顔が見たい。ひとりでは耐えられない。
 おりた階下は、すでに酒場と化していた。
 疲れきったような男たちがコップに入った茶色の液体を流しこみ、煙草をくゆらせていた。退廃的な雰囲気ですっぽり覆われている。
 セイは煙を吐いている男たちの横を通りすぎながら、静かな音楽とざわめきが、まだ夢の続きのように遠く聞こえていた。
 ふらふらと歩いていった。いつのまにか昼間きた、広場まで来ていた。
 息つきながら噴水の端に腰をかけ、通り過ぎる人々をぼんやりと見つめている。
 昼間と違い、ゆったりとしていた通りのなかには、ナージュの顔はない。
 「置いて行っちゃったの?ナージュ……」
 ふとおそろしい考えが頭をよぎり首をふった。つい口に出てしまった言葉は、音にすると真実味を帯びて、ひどくつらくさせる。
 絶対信じたくない。そんなこと、嫌だ。
 「よお、どうしたんだい、そんなにしょんぼりして。見かけない顔だな。迷子にでもなったのかな」
 人なつっこい声がかかるのに、セイはハッとした。
 小太りぎみの脂くさい中年の男が、人の良さそうな笑みでセイをじっとみていた。
 「どうしたんだ。困ってるならおじさんに言ってみなよ。できることなら力になってやるぞ」
 なれなれしく横に腰をおろし、さもいい人のような顔をしながら、セイの肩に手を回してきた。その感触の心地悪さは否めなかったが、心のほうがその温もりを拒むことができなかった。
 セイは本当に淋しかったのだ。虚無が追いかけてきそうで、とても、怖い。
 「お腹すいてないか。なんか食わせてやろうか。どうした泣きそうな顔して」
 「ボ、ボク――」
 「ほら、ついて来なよ。事情を話してくれたらさ、何とかしてやれるかもしれないし。連れにでも置いてかれたのかな、そんな顔してよお」
 その言葉にセイはぎくりと身を強張らせてしまった。男はそれを見逃さなかった。
 心配そうな顔をして作り物めいた慰めのセリフを囁き続けながら、なぜか必要以上に回した腕に力が入っていた。表情はいかにも親切そうだが危険信号が鳴りはじめる。
 「おじさんの友達はな、なんでもよく知ってるんだぞ。相談したらきっと力になってくれるって」
 「なんでもって――もしかして、賢者のこと?」
 セイはつい反応してしまった。それに男はしたりと笑う。
 「お、おう。よく知ってるなぁ。大きな声じゃ言えないんだが、実は賢者はおじさんの友達なんだよ。親友ってとこかな」
 「親友?すごいね」
 セイの顔が明るくなり、警戒心が消えた。
 「おっと、誰にも言うなよ。紹介してくれって奴が五万といるからな。うるさくってよぉ」
 「うんわかったよ。ねえ、会えるの賢者に?すぐに?」
 「もちろんだとも。よし、そうと決まったら行こう。親友のたのみだったら、賢者だってきっと拒みはしないさ。そうだ、その前に何かあったかいモンでも喰って行くか?人間腹が減るとろくなこと考えねぇからよぉ」
 男に引っ張られるようにセイは歩かされた。強くにぎられた手が痛いと思ったが、そのまま黙ってついていく。路地裏を何度か曲がると、男はとたんに豹変した。
 乱暴に腕をうしろに締めあげると、セイをむりやり家の中へ押し入れてしまった。
 「痛いよ!なにするの、おじさん!?」
 「うるせえ、黙れガキ!」
 セイは言葉づかいの変化よりも、彼の剥きだされた表情の凶悪さに唖然としてしまった。
 「騙されてついて来たてめえが悪いんだよ。ママは教えてくれなかったか?悪いおじさんにはついて行っちゃいけねぇとな。まあ今さら遅ぇえけどな」
 唇をたくるように笑うと、強暴な表情を曝した。
 なぜ最初の警戒信号を信じなかったのだろう。いまはそのほうが不思議なくらいだ。
 「あの女の言ったとおりだぜ。男が出ていったらあとは子供が一人だってな。商売女が、小銭でおまえのことを教えてくれたのよ」
 「でもおじさん賢者に会わせてくれるって」
 「ああ、会わせてやるさ。天国でな。まあおめえみてぇなガキじゃ、そうそう高くは売れはしめぇが、子供には変わりねえ。いくらかにはなるさ」
 値踏みするようにセイの顎を持ちあげる。
 セイにはまだ事態をよく把握できおらず、ぽかんとしている。
 「ずいぶん珍しい目の色だな。ふうん。もしかして、もうちっと磨いてみれば、いい所へ売れるかもしれないな。お貴族様の玩具にでもなれりゃあ、恩の字ってもんだ。へぇ、こりゃあいい小物つけてるじゃねえか。こっちのほうが高値で売れそうだぜ」
 サークレットを強引にひっつかんだ。セイは短く悲鳴をあげた。
 「ああ?なんでえ、クソッ、取れねえじゃねえか。こんちくしょうめ」
 「やめてっ痛い――!」
 ぱきっと音がした。
 竜玉を縁どっていた銀の細工のヒビが大きくなった。砂漠で子供たちに襲われたときに傷んでいたところだ。
 セイはあまりの傷みに体が硬直していた。噛んだ唇から血がでていた。
 「何でてめえが痛がるんだよ。壊れたのはサークレットだぜ。――へんなガキだな」
 男が気味悪そうに舌打ちする。床になげ捨てられ、倒れた衝撃で止まっていた息をついた。
 「ナージュ……」
 セイは咳こみながらつぶやいた。
 うずくまっているセイを、男は蹴飛ばすようにして、薄暗い地下室へ放りこんだ。
 床に転がると、乱暴にドアが閉じ、鍵のかかる重い音がした。
 「大人しくしとけよ、ガキ!」
 セイは額を押えうずくまりながら目だけを扉にむけた。背中に誰かがが触った。
 「だ、だれ――!?」
 「おい、おまえ大丈夫かよ。すごい悲鳴だったけど。フローの奴に何かされたのか」
 セイは暗闇の中でいきない声をかけられて、後ろににじりよった。
 ニュッと少年の顔がよってきた。セイよりいくぶん年上の、気の強そうな顔立ちをしている。
 「怖がらなくてもいいぜ。俺もフローのやつに連れてこられたんだ」
 「つ、連れてこられた?」
 「やられたよ。父さんの仕事で使いに出たところをゴツンとね、棒でなぐって気絶させられたのさ。このあいだから狙われてたんだよな俺。もと気をつければよかった。あいつは子供専門の人さらいさ。売るんだぜ子供を」
 忌々しそうに眉をつりあげる。
 「子供を売るって――ボクも?」
 「当たり前だろう。ちくしょう、悔しいな。あんなやつにみすみす捕まるなんてさ」
 少年はキッとドアの方をにらみつけた。
 「けど父さんが捜してくれてるはずだ。この町で父さんの目の届かないところはないんだ。絶対、みつけてくれるに決まってる……!」
 燃えるような目をして、父親に対する信頼を、ただひとつの希望のように何度もくりかえしていた。さすがに不安が隠せられないらしい。
 「おまえは何で連れてこられたんだよ」
 「ボ、ボクは、その、賢者に会いに」
 「賢者?」
 「会わせてくれるって言うから……」
 あきれたように目を鼻に皺をよせた。
 「ハッ、ばっかじゃねえの!?今どきそんな簡単な嘘に引っかかるなんてさ。信じられない。頭がゆるいか、いいとこのボンか――ああ、おまえヨソ者だな」
 「さ、さっきこの街に着いたんだ。ボクはセイっていうんだ。君は?」
 「レンだよ。銀細工師ナジイの息子、レンさ。親父はこれでも、ちっとは名の知れた細工師なんだぜ」
 もちろんセイは知らない。けれどその晴れ晴れとした自慢げな顔に好感をもった。
 「でも、ねえ売られるってどういうこと?どうして子供なんか売るの?売ってどうする?」
 セイはいまだ売られるという意味がわからない。まして自分がそうだとは、何かの冗談だとしか思われない。いきなりどうしてこんなことになったのだろう。
 ほんのちょっと外に出ただけだった。誰かの顔が見たかっただけなのに。
 このままナージュに会えずに終ってしまうなんて、とても考えられない。いや、そう思うだけでも身震いがついてしまう。
 しかしレンの様子をみていると、その確率の方がずっと高そうに思われた。
 さっきまで抱きしめていてくれた温もりが、もう二度と触れられない。もう二度と会えない。それの意味することは、まるで死と同じではないか。
 「子供が少なくなってるからさ。だから小さい子供は高く売れるんだ。やつらはそれで金を儲けをしてるんだ。そりゃ、運がよけりゃ貴族や金持の養子かもしんないけど、悪けりゃ売春させられるか奴隷だぜ、それも死ぬまでだ」
 「ば、売春?」
 「体を売らされるんだよ。子供は女の代わりになるからな」
 「代わり?なんの?」
 「そう思うヤツもいるっていうことさ」
 思いたくもないと吐き出した。
 セイはふと、ナージュに絡んできた女のことを思い出した。肉感的でぬめるような感じが思い起こされた。ナージュにすりよるのが、なんだか気持ち悪かった。
 「逃げられないの。どうすればいい?」
 セイはあの女の人になりたくないと思った。生身の人間を思い浮かべたせいで、急ににそれが現実味をおびてしまった。とたんにじっとしていられない焦燥感がつのる。
 鉄のドアを開けようと叩いてみるがビクともしない。手が痛いだけで無駄な努力であると知る。
 「だめだめ、鍵がないと開かないよ。それよりチャンスがくるまで待ってたほうがマシさ」
 冷静に言うレンの言葉に、しゅんとしたセイは肩を落とした。彼のとなりに座ろうとした。
 背後で、いきなり机が倒れたような派手な音がした。
 物の壊れる音がたて続けにひびき、男のダミ声が飛びかった。そのあとわずかに荒い音が繰りかえさると、しばらくして不意に静かになった。
 ドアがいきなり開いた。
 「セイ!」
 まぶしい光がセイに差し込んだ。
 ナージュだった。セイはまぶしそうに目をほそめると、思わず駆けだした。抱きつきかけて、彼の表情にハッときづき、ひるむ。
 怒鳴られるかと思い身をすくめた瞬間、ぐいっとセイは抱きしめられていた。
 「ナ、ナージュ?!」
 「なんで大人しくしてないんだ。似たような子供がいると思って後をつけてみれば、こんなとこに」
 「あ、あの、えっと……ご、ごめんなさい」
 抱きしめる腕の真摯さに、素直に謝っていた。彼がどれだけ心配していたのか、それだけで伝わってくる。
 ナージュはふと我に返ったように抱きしめていた手を離した。それにすがりつきたいと思う自分をセイはこらえる。
 「とにかく無事ならいい。他の奴らがくる前にここをでるぞ。面倒は困るからな。――ところで、そっちのあんたは誰だ?」
 「あっ、彼はレンっていうんだ。ボクと一緒で、捕まったんだって」
 「そうか。ならあんたも早く来い」
 何が起こったかわからず、ポケッと見ていたレンは慌てて頷くと、飛び出してきた。
 床にはセイを連れてきた男と、筋肉が隆々とした、いかつい二人の男が伸びており、部屋のものが散乱していた。レンは負けん気が強いらしく、倒れている男の頭をポカリと蹴ると、満足そうに笑った。
 ナージュは、セイとレンを連れ、人目がないのを確認すると、影のように走りだしていった。あっというま闇にまぎれこんでいった。どんな面倒もごめんである。
 あとはレンの道案内にしたがい、小刻みに道をかえて裏通りをひた走った。
 地元の人間ならではの複雑な地形は、さすがにお手のもので、レンはまるで水を得た魚のように進んでゆく。
 ナージュに手を引かれているとはいえ、セイはだんだん息があがってきていた。
 「ちょ、ちょっと待ってよ。息が――」
 セイが喘ぎながら、たまらず膝をついた。とっさにナージュが腕を出すなかに倒れこんだ。
 「どうしたセイ!?」
 「あ、頭が――額が、痛いんだ。サークレット入っていたヒヒが、さっきので大きくなっちゃったみたいで……そこがすごく疼くんだ」
 ナージュはサークレットをそっとのぞき込み、目を見張る。
 「これは、いつ?」
 「もともとは砂漠にいたときだったんだけど、さっきの男の人がサークレットを取ろうとして無理やり引っ張ったんだ。それで余計に割れちゃったみたいで」
 先にいきかけていたレンがひき返しきてきた。セイをのぞきこむ。
 「どうしたんだ?セイは調子が悪いのか」
 「ああ、悪いがもういい。ここまで来れば充分だ。あんたは家に帰れ」
 「でも調子悪いんだろ。すぐそこが俺の家なんだよ。ちょっと休んでいきなよ。それこそ何にもないけどさ」
 ナージュはレンを訝しげに見ていたが、うなずくと、うずくまるセイをかかえ同行した。事情がある身で、あまりよけいな迷惑をかけてはと配慮していたらしいが、あまりにつらそうなセイの様子には勝てなかったようである。
 彼の家は、本当に目と鼻の先にあった。通りひとつ隔てたむこうに建つ小さな家へと入っていった。
 「父さん――?」
 レンが呼んだ。家の中は真っ暗だった。
 レンが明りをつけると、そこに現れたのは、銀細工の工房のようであった。
 「あれ、いないや。――ああ、きっと俺を捜しにいったんだな。ナージュ、あんた奥のベッドへセイを寝かせといてくれよ。俺、薬を買いに行くついでに父さんを捜してくるからさ」
 レンはそう言うと、さっさと出て行っていってしまった。
 窓から月明りがほんのり入っているベッドへ、ナージュはセイを寝かせた。まだ疼くらしく、ときどき眉を寄せて、苦痛の波をたえている。顔色はあまりよくない。
 「まだ痛むのか?」
 「ごめんね、ナージュ……迷惑をかけて。ボクが勝手に外に出ちゃったから」
 「そんなことは今はどうでもいい。いいから少し目をつぶっていろ」
 頬に手をあてられ、セイは目を閉じる。体温が心地よい。
 「ボクね、夢を見たんだ。とても恐くて――ナージュに置いてかれるような気がして、たまらなくなったの。怖くなって、怖くて寂しくて……」
 「――セイ」
 ナージュは戸惑うように呼んだ。
 目をうっすらひらいたセイは、彼のその表情にせつなげに口元をゆるめた。
 「迷惑ばかりかけているね、ボク」
 「いや、俺が悪かった。べつに隠すつもりはなかったんだが、あまりガラの良くない処へ顔を出していたものだからな。ちょうど辻占いの婆さんに捕まったところで、おまえの姿を見たような気がして、後をつけたら――」
 助けられてよかった、と小さな声で言った。わからないところで攫われていたら、探すのにもっと時間がかかっていただろう。
 じっと見つめるセイに、ナージュは困ったように口をひらいた。
 「どうして置いていかれるなんて思ったんだ?俺はおまえの守護機なんだぞ。主のおまえを置いてどこにもいくはずがないじゃないか」
 その言葉に、セイはいまにも泣きそうな顔をして目をつむった。あまりに痛々しくて胸が苦しくなる。
 「……そのサークレット、困ったな。どうにかしなきゃならないけど」
 ナージュはそっと割れ目に手を触れた。サークレットの滾るような熱さが、彼の手のなかに吸いとられてゆく。体が軽くなるのがわかる。
 ドアがきしむ音がした。ナージュの体が緊張して腰の剣に手をあてた。
 「ナギ、大丈夫かぁ?」
 レンの声がした。帰ってきたようだった。
 背後で話し声がするので、どうやら父親も一緒らしい。
 部屋のドアがひらかれレンの顔がのぞいた。
 「ごめんよ、遅くなったな。薬をもらってきたよ。――ああ、こっちは親父のナジイだ。父さん、彼らが俺を助けてくれたセイとナージュだよ。調子はどうだいセイ。ちっとはよくなったか」
 レンはセイの寝ているベッドに座り顔をのぞきこんでいた。
 「息子が危ないところをどうも。連れの方の具合はどうですかな」
 ナジイが頭を少しさげた。
 それほど歳がいっているようにはみえないが、銀髪ともいえる、白い髪をしており、重々しい表情とあいまってずいぶん重厚な迫力があった。 
いかにも頑固そうな皺が口元にいかめしくうかんでおり、職人気質そのものの、難しそうな眼光で二人をするどく見ている。
 気後れしそうな視線をナージュは軽くうけながし、挨拶をした。
 「いきなりご迷惑おかけします。連れはだいぶ良くはなったみたいだが、よければもう少し休ませてもらえると助かります」
 「ああ、どうぞお気になさらずに。何のもてなしもできませんがゆっくりしていってください。――ちょっとお話が」
 ナージュは、ナジイに促されるように後について部屋を出ていった。レンがそれを見送り、思い出したように薬を懐からとりだした。
 「セイ、ばあちゃんに作ってもらった薬だよ。ばあちゃんのは特別なんだぞ。よく効くんだ。さあ飲めよ」
 「ありがとうレン」
 薬の粒と、コップにはいった水をセイにわたす。
 「なんかさあ、初めて見たときから思ってたんだけど、おまえたちってちょっと変わってるよな」
 「変わってる?」
 「雰囲気がさ、なんか普通の人と違うっていうか……。特にナージュなんて、黙って立ってるだけでおっかないもんな。すごい威圧感あるよな」
 「そ、そうかな?」
 「腕っ節もすごく強いみたいだし、戦士かなんかなのか?」
 そう問われても、セイはまさか自分の守護機だとは言えない。
 「だいたい、父さんに初めて会って迫力負けしてないヤツなんて、そういないんだぜ。あの人もけっこう見た目どおりド迫力があって怖いだろ?たいていシドロモドロになるか、脅えてまともに話せなくなるのがオチなんだ。なのにナージュのやつ平然としてるんだもんな、すげぇよ。なあ、いったい、おまえらどういう関係なの?」
 「ど、どういう関係って……」
 「なんとなく主従関係のように見えなくもないけど、でもおまえの様子をみてたら、やっぱ違うしさ。かと思えばおまえの具合いが悪いってすげぇ心配してるだろ」
 「それは、だって……」
 二人は何もかもが繋がっているのだ。セイの不調はすぐに彼に伝わってしまう。
 「でもさ、一番びっくりしたのはおまえを助けに乗り込んで来たときだよ。あのナージュがすごい血相変えてたもんな。おまえ大事にされてんだな」
 セイはまさか、という顔をしたが、すぐに悲しそうに首を振った。
 「そんなことない。ボクは彼のただのお荷物なんだ」
 レンはセイの悲壮感を、あっけなく笑いとばしていた。
 「馬っ鹿じゃないのか。あんなに必死に助けに来てくれるなんてよっぽどだぜ。充分可愛がられてるよ」
 「そ、そんな――」
 「大丈夫、大丈夫。おまえが思ってるほどでもないぜ、あいつはさ」
 「なんだ楽しそうだなレン」
 レンが笑っていると、ナジイが顔をだした。
 「ところでレン、おまえに言いつけてあった用事は済ませてきてるんだろうな」
 「あっ!」
 レンは思い出したのか、ベッドから飛び上がった。
 怒られる前にとばかりに、慌てて駆けだしてゆく。遣いの途中でさらわれ、そのままになっていたのだ。むろん、だからといって許してくれる父親でもない。
 ナジイはため息をひとつついて、セイの横にたった。ビクつくセイにかまわず、鋭い眼差しでサークレットを眺める。その表情がみるみる変わっていった。
 「なるほど、これは大物だな」
 真剣に見つめていた表情は硬い。額には汗の玉が浮いていた。
 セイはそれを大きな目でみあげたが、すぐにナージュの姿を捜した。
 ナジイの背後に見つけほっとする。
 「どうだナジイ、なおせそうか」
 「いや、さすがにすぐには無理だな。なかなかやっかいだぞ。それにこの玉はいったいなんだ?この玉の色は……」
 言いながら、竜玉がかすかに波打つのに目を光らせた。
 「あんたら――?」
 難しい顔をして二人を見た。だが何も答えないナージュとセイに、それも関係ないとばかりに息をついた。
 「これは、もうしばらく待ってもらわんと、どうにもならんな。特別な道具が必要になるだろうしな」
 「あんたの用意が整うまで待つさ。金がいるなら言ってくれ」
 ナージュは右腕を出すと、剣の先でいきなり切り裂いた。パックリと口を開け、血が流れる。あまりの乱暴な行為にセイが悲鳴をあげかけ、口を強くおさ声を飲んだ。
 ナージュの真意がわからなかった。唖然としてそれを見つめ、茫然としている二人にまったくかまわず、ナージュは赤い傷口に指を突っこんだ。
 セイが目をそらした。いくつかの石が取りだされていた。
 見事な宝玉だった。
 かなり大きい輝石が、血にまみれて次々に机のうえに転がっていった。
 「あ、あんたぁ何をしとるんだ!」
 さすがに茫然としていたナジイがわれにかえり怒鳴った。
 「好きに使ってくれ、これで足りるか」
 「これだけあれば十分だ。けどあんた、なんてことをするんだ!」
 ナジイは怒ったようにナージュの腕をとると、布切れをいささか手荒く巻きつけた。さすがの老職人も顔色が悪い。
 「ナージュ……っ」
 セイはさらに青ざめた顔で、泣きそうに目の潤みを盛りあげ揺らしていた。自分の手が切り裂かれたように、身をひそめ手当てされるのをじっと見ている。
 「俺は機械だ。気にするな」
 「ナージュ!!」
 いきなり隠しもせず言うのに、セイは言葉を飲んだ。
 ナジイが、本当かといいたげにまじまじと顔を凝視した。
 「あんたが、機械だって?」
 「ああ、そうだ。こいつの守護機だ。どうせ、もうサークレットが何なのかぐらいは、わかってるんだろう、稀代の銀細工師、ナジイ」
 ナジイは単刀直入にきりこまれて眉をしかめた。だが、曖昧にうなずく。
 ナージュはナジイのことを知っていたようだった。どうやら魔道街で、彼の情報を仕入れていたらしい。
 「あんたなら、別に隠す必要はない。それだけじゃ金が足りないなら、まだ左にもあるから出せる」
 こともなげにいうのナージュに、ナジイはため息をついて、十分だと首を振った。
 泣きそうな顔のセイの頭に手をおいた。
 「あんたは機械かもしれんが、少しはこの子のことを気遣ってやれ。とにかくだ、もうあんな無茶はするな。今日はもう遅いし、泊まっていくがいい。明日、あんたらに必要な人間を紹介してやるよ。さしものわしの手にも、かなり余りそうだからな。相談せんことには話が進まんだろうさ」
 「それは、もしかしてこの街にいるという、賢者のことか」
 「――っ!ああ、あんたはもう賢者のことも諜報ずみなのか」
 「賢者って、ほんとに会わせてくれるの?」
 セイが思わず口をはさんでいた。ずっと探していたその言葉が出たのに、止められなかった。
 「ボクたち賢者を捜してたんだよ。氏族(クラン)にいたとき、グラン・マにそう言われて、ずっと捜してたんだ。やっと――」
 言ってから、しまったと口に手を当てた。クランという言葉は、幻獣族特有の生活形態だ。すなわち自分が幻獣族だとばらしてしまった。
 ナジイはやはり興味なさげに手を振った。
 「わしにはなんの関係もないことだ。獣族狩りも、王の政策も知ったこっちゃない。やつらに義理もないし、あんたらのことは誰に云う必要もないさ」
 本当にどうでもよさそうに言うのに、セイはホッと息をついた。ナジイの言葉は、なぜか信じられる。
 レンが張り切ったように飛び込んできた。
 「父さん終ったよ。飯ももうできるからさ」
 「ああ。レン、わしはちょっと出てくるから、この人たちに先に食べてもらえ。今日は泊まってもらうことにした。――わしの仕事の客だ」
 「父さん仕事受けたの!?」
 レンはあからさまに驚いていた。
 「だってさ、もう三年先までの仕事は予約で埋まってるじゃないか。いいのかい?」
 「うるさい。わしの客はわしが選ぶ。おまえの出る幕じゃない」
 怒鳴られてレンは首をすくめた。
 ナジイが出ていってから、レンはあらためて二人に感心したように言った。
 「なんかさあ、よくわかんねえけど、あんたらすごいな。今日きてすぐ造るって言った人間なんて初めてだよ。父さんって、日参したって造らない人は絶対造らないからな。めちゃくちゃ気難しくて頑固なんだよ。あの人、都の貴族が頭下げたってそう簡単には頷かないんだぜ。そのうち捕まっちまうじゃなかってハラハラしてるよ」
 それでも、レンは父親のすることには口を出さないらしく、素直に受け入れていた。
 セイとナージュに食事を運び、久方ぶりの客が嬉しいのか、一緒に楽しげにしゃべりながら食べはじめる。
 あの父親とふたりでは、たしかに静かな食卓だろう。
 もう夜はかなり更けているようで、あたりは静寂につつまれていた。


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