黎明の翼
16
外の風景をみつめていた。
暗いこちら側から見ている明るい世界は、目に痛いほどに明瞭であった。
広大な緑地が果てしなくつづいていた。たわわに実ったみごとな穀類の広がりが、黄金の絨毯のように光り、渡る風にゆれて豊饒の象徴そのもののように美しくたなびいていた。
肥沃な農土は、豊かな水をたたえるチグリスとユーフラテの川に支えられており、盛んに行われている農耕は、たしかな糧を約束し、膨大な潤いをもたらしていた。
生活が向上するにつれて、街はみるみる栄え発展していった。食物と品物の豊かさは、人々の心を寛大にさせ、さらなる豊かさを求め、交易のための道はどんどんと広がっていった。
商業の行き来は、生活に賑やかさをもたらせるばかりか、各地へ進んだ文化を運び、豊潤な無形の資源を受けとることで、いっそう華やかさをました。
かつてはそこが砂漠であったと、誰が信じるであろうか。遠い昔から住む者でさえ、今となっては面影ひとつさえ、過去の姿をみいだせない豊かな街と活気に、それらが幻であったような気にさせられるのだ。
だがそれは、決してつくられた神話の話ではなかった。
一と百年半の年の、短きあいだに行われた、大事業による繁栄なのだ。人々はたしかに知っていた。そしてそこに住まう者たちが、かつては幻獣族と人間とに差別され、その特殊な能力を恐れるがゆえに、滅ぼされそうになったこともあった。
どんなに愚かなことであったか。傷つけあうことで得られることなど何もない。今ではそのこともまた、誰もがわかっている。
人々は互いへの信頼を回復し、力を合わせ、ようやくこの地をここまで繁栄させた。
だからこそ彼らは過去の先達を尊敬しているし、苦労して土地を切り開いてくれた先祖たちに心より感謝している。それ以上に、何にまして彼らは、かの気高きひとを敬慕している。誰より人々の繁栄を願い、荒れた土地の回復に腐心をし、心を砕いて、偉大なる種族の叡智を惜しみなく与えてくれた貴き存在に。
人々につねに道を示し、導いてくれた翼の姫君、セレイン=ルディーク――美しき有翼天人。
類稀な叡智をもつ、神のごとく崇高な人だった。彼女を見た、誰もが心を奪われた。
だが、歌にも物語にも読まれ、人々の心を魅了してやまないセイ自身は、窓辺に腰をかけ、風のあやなす織り目をみているかのように、ぼんやりと遠い目をしていた。
外の平和な世界をみつめてい彼女の周囲には、なぜかいつも周囲を拒絶しているかのような空気が張り巡らされていた。
すぎた美しさがそうさせるのだろうか。多分、ずっと秘められ続けている心が、わずかな隙間から意図せず漏れでてしまっているからかもしれない。
「セイ、何しているの。いつまでもそんなところにいると冷えてしまうよ」
セイはうっそりとふり返った。優しく笑った。
「夢を……見ていたんだ。久しぶりに懐かしい夢をね」
淡いい夢の糸で紡いだような、はかない声だった。
純白の羽が、ほっそりとした身体を浮かびあがらせ、青銀の長い髪がかぜになびいて秀麗な顔をなでている。ふっと目をとじると、セイは髪をかきあげた。
誰もが息をひそめて見入ってしまう、幸福で悲しい夢のようだ。
セイの笑みが空気をやわらげた。あたたかい光の匂いをさせた。
「どうしたの。またなにかあったの?」
「――なんだかセイ、とても辛そうな顔をしているね。なんだ苦しそうに見えるよ」
「気のせいだよ、アシュナ」
アシュナは、セイの紫紺の瞳を恋しくてならないように見つめていた。青年の顔にもどこか切なげな色が浮かんでいる。
「そうなら、いいんだけどね」
セイはいつものどこか存在を欠くような寂しげな笑みを返しただけで、それ以上のことは言わなかった。孤高の魂を冒すような気がして、アシュナもまた、そんな顔をしているセイには、なにも問えなくなってしまうのだ。
リュートの名手でもある王宮楽師のファーレが入ってきた。
「セレイン様、ここにおいででしたか。ヤマリ殿が探しておいででしたよ。次の星祭りの碧玉が、どうしても足りないとかで。あと巫女となる犬狼族の娘がどうとかこうとかとともね――」
セイはやれやれとため息をついた。
「まったくヤマリも細かいんだから。少々のことなら違ってもかまわないのに。まあ、でもそんなことを言っていたら、きっと政務がまとまらないんだろうけど」
セイはいたずらじみた笑いをもらすと、部屋を出てゆく。
音をさせない歩みが、リュート弾きの青年と入れ違いざまに、ふと止められた。
「あっファーレ、あとでリュートを弾いてくれないかな。その弦の音、とても好きなんだ。なんだか懐かしくてね」
黒い髪をうしろで束ねた背の高い楽士は、うやうやしく頭を下げた。
「セレイン様の望みなら、いつなりとも、望みのままにお弾きいたします」
「ありがとう」
セイは嬉しそうに言うと、そのまま出て行った。アシュナがつまらなそうに言った。
「わたしは、そのリュートを聴いているときのセイはあまり好きじゃないな。幸せそうに聞いているのに、なぜか同じくらい悲しい顔をして見えるんだもの。なんだか遠い人に感じてしまう」
「アシュナ様はわたしのリュートがお嫌いですか」
「おまえの歌も――リュートも嫌いじゃないよ。ただセイのあの表情が嫌いなんだ」
ファーレは、子供みたいに拗ねたように言うアシュナに笑いをもらす。
とっくに百年をこえた王ともあろう人が、まるで子供のような顔をしている。
幼きときよりかわらずの優しい顔立ちではあるが、聡明に引き締まっていた。背も高くなり、セイより頭二つ分くらいは大きい。与えている印象よりも、きっと実際の力はかなり強いだろう。
曇ることのない真っ直ぐな瞳は、昔となんら変わってはいないのに、そこには威厳のような貫禄が備わっていた。どんなときでも笑顔をくずさず悠々と落着いているため、この人になら、すべてを任せてみよう、いや、一緒についてゆき何かをしたい、そんな期待をさせてしまうのだ。エネルギッシュでまぶしいほどの輝きは、太陽を思わせる。
そのアシュナが口をとがらせ子供のように言うのだ。
若き日から、セイと力をあわせ、二人三脚で国を富ませてきた。
彼は、歴史に名を刻む偉大なる王として君臨していた。その業績に、民衆も敬意を示し、絶大な信頼をおいていた。
王宮づきの楽士であり、アシュナの数少ない友でもあるファーレはリュートを爪弾きながら言った。
「このリュートはねアシュナ、伝説の銀の髪の賢者が持っていた物なんだそうだよ。どういう経緯でわたしの手に渡ったのかはわからないけど、大神官様がお渡しくださったんだ。――たぶん、このリュートが、セレインさまをお慰めするものだと、知っていたのかもしれないね」
「……嫌な言い方をするな」
アシュナはムっとしたように横をむき、唇を曲げた。ファーレが暗に言おうとしていることを拒絶しているのだ。
「セイがずっと淋しげにしているのくらい、知ってるさ。子供じゃないんだ」
「わかっているのなら、どうして――」
「セイは今はわたしのものだ!ずっと側に居てくれると約束してくれたんだ。この世界だって彼女を必要としているし、いままで二人で力を併せてやってきたんだもの。これからだってそうあるべきだ。絶対、絶対に必要なひとなんだ!」
「アシュナ……」
「うるさいっ、黙れ!」
ファーレは、だが諭すように静かな声でいった。
「アシュナ、『絶対』という言葉をみだりに使ってはいけないよ。この世にあるもので、なすべきことや避けがたいことはあっても、絶対ということは何ひとつとしてないんだからね。すべては変化してゆく。それ以上の可能性がある。それを王の君が限定してしまってはいけないよ」
「わたしには、セイが必要なんだ。世界を治めるには、人間と幻獣族を束ねるには、どうしても彼女が要るんだ」
「いいや、君はもうとっくに一人で立っているじゃないか。ただ怖がっているにすぎないよ。わたしには君が、セレイン様にしがみついているだけにしかみえない。努力なくしてやってゆける者はいない。まして、やってみる前に怖がっていては、なにもできないよ。情けないとは思わないか」
「……」
「勘違いしてはいけないよ、アシュナ。君の思いの心は、決して思慕の情ではない。ただ支配欲と所有欲に根ざしたエゴイズムだ。――空を飛ばない鳥は、いつか死んでしまうんだ」
アシュナはカッと赤くなった。
「セイは幸せなはずだ!今だって幸せそうに笑っているじゃないか。いつだって楽しそうに話しをして微笑んでいるじゃないか!」
「本当にきみはそう思うのかい」
アシュナは激昂に震える手を握りしめ、プイッと横をむき口を閉ざした。
「なぜセレイン様には耳玉がないか知っているかい?有翼族にあるはずの耳玉をどうして失ったか、なんで彼女は――」
「うるさい!!あいつは機械じゃないか!もういないんだ。あいつは、もうこの世に存在しない。だってもう――!」
「ちゃんと知っているんだね、アシュナ」
アシュナはファーレを見た。泣きそうだった。
「だって、だってセイは――」
「愛しているならなおさらだよ、アシュナ。セレイン様もう充分よくしてくださったじゃないか。もう彼女を開放してさしあげなければ、本当に彼女は死んでしまう。わたしの目には、すいぶん死に近くなった、ただの美しい幻影にしかみえない」
彼女の実体は、だんだん消えてゆき、美しい象徴としての影しか残っていない。
アシュナは泣いていた。体を小刻みに震わせたえていた。
長い時間うつむいていた彼の首が、しずかに上下に振られた。
「アシュナ、そうだ、君は人の心のわかる優しい人だ。だれもが君を慕っている。人の心がわかる偉大な王だ」
ファーレの歌がいつにもまして深みをおび、風に乗り城下町へと響き渡っていった。
澄んだ音色で、それを聞く人々の心がほっとするような、なぜか淋しくなるような、そんなやさしさが含まれていた。
セイは駆けていた。
そんなふうに思いきり走ることなど、本当に久しぶりだった。
忘れ去られていた緑の風がたまらなく懐かしくて、嬉しさと、草いきれ匂いが胸を弾ませ、走らずにはいられなかった。
セイはだれにもとらわれない、自由を翼に受けていた。
限りない開放感が、わずかだった生命の灯を甦らせ、消える寸前のかすかな瞬きが、萌えるように煌々と湧き立っていた。
緑の風が歌うように、セイといっしょに野を駆けぬけ、どもまでもついてくる。
はじめ、アシュナに、自由に好きなところへいけばいいと言われたときは、冗談だと思った。ずっと共に頑張ってきた同志であり、親友であり、誰よりの理解者だった。
どんなときでも、片時も離そうとしなかったのはアシュナの方であったのだ。
またセイ自身も、彼から離れ、何かをすることなど、考えようともしていなかった。そればかりでなく、アシュナに言われるまで、そのことにすら気づいていなかった。
セイは、アシュナの質の悪い冗談だととりあわず、断わろうとした。
アシュナはだが、拒絶するかのような強い口調で突き放したのだった。
「自由にしていいよ。もうこの国はわたしの力で回っているんだからね。わたし一人でも充分治められる」
そして言った。
本当は、ナージュのことを今でも思い続けているセイを見ているのは、どうしようもなくつらいのだと。本心から笑ってほしい、生きて欲しいのだと、潤むような真剣な眼差し言われた。
それはアシュナの真実の心だった。
決心と苦悩の影がせめぎあい、彼をどれだけ苛んだか。その表情をみたとき、セイには彼の心がわかった。セイを自由にしようと決めたあとも、きっと苦悶し、迷い、云いあぐねていたのであろう。それでも、その迷いと悩みをとおりぬけ、セイに別れを告げたアシュナの顔は、いままでに見たことのないほど澄んだ安らぎをみせていた。
闇を通りぬけたアシュナは、なんと力強い、雄々しい顔つきをするようになっていたのだろう。セイはやっとそのとき、彼の本当の成長を知ったのだった。
そして、そのまま城をでてきた。
なにも持ってゆかなかった。
なにも要らない。欲しくない。
もともと生まれてきたときから、セイはナージュ以外に、なにも持っていなかったのだ。だからひとりで彼の面影だけ思い、誰はばかることなく、あきるほど泣いてみたかった。
セイは草のうえを裸足で歩いていた。
柔らかい新芽が足の裏をくすぐった。緑の匂いがセイを優しくひたしていった。
丘を抜けると、眼前にひらけた渓谷が姿をあらわす。
流れる小川に足をつけ、パシャパシャと子供よう動かすと虹色のしぶきをあげた。
「まだ少し冷たいなぁ。あっ――」
魚が足元をかすめていった。
絶滅していたと思っていた魚が、なんと甦えっているではないか。命のたくましさは、ちゃんとこんなところにも芽吹いている。嬉しくなってくる。
ふと目をあげた。
赤い岩だった。圧倒するようなこの岩の壮大さは――。
「ここは……」
胸に熱いものがこみ上げてきた。
そう、たしかこの場所、この切り立った崖。見覚えがある。
「ガルダイアの谷――!ナージュの眠ってたあの谷間だ!」
懐かしい岩の裂け目には、誰が飾ったのだろうか、花が置かれてあった。
まだ新しいとわかる、いきいきとした白い花だ。
セイはゆっくりそこまで歩いてゆくと、花を手にとった。ナージュが眠っていたそこを見上げる。彼の黒く凍てつくように美しかった瞳を、今なおありありと思いだしてしまう。
目が開かれたあの瞬間、すくむほど恐ろしかった。
けれど、心を奪われずにはいられないほどすぐに魅かれてしまった。どんどん夢中になり、誰よりも愛しくなってしまい、とうとう離れることなど考えられなくなってしまったのだ。
いまでも、思い出すだけで胸が引き裂かれてしまいそうだった。傷は時間にすこしも癒されていない。
「ねえ、何で泣いているの?――ねえ、どうして私のあげたお花を持っているの?」
「えっ」
セイは声をかけられ顔をあげた。
まだ七、八才ぐらいだろうか、少女が立っていた。
切りそろえた、照るような黒髪を風になびかせ、不思議そうにセイを見上げていた。あどけない瞳がセイをみつめ、まぶしそうに目をほそめる。
「そこに眠っていたヒトのこと、おねえさんは知ってるの?」
涙に潤んでいるセイに、紫紺の瞳をむけられた少女は、言ってから、ふいにボウッと上気した。その美しさに圧倒されるように目をみひらき見入ってしまった。
はじめてみる有翼天人の美しさに、魂をぬかれるほど魅入られているのだろう。
だがすぐに少女の無邪気さで、そっと翼に触れてきた。
「本物だわ。本物の有翼人なのね!」
興奮していた。セイは素直さが愛しく思えた。
「もちろん、本物だよ」
「本物の有翼人って、わたし初めてみたわ。おばあちゃんから聞いていた話より、うーんとうーんと綺麗なのねぇ。びっくりしちゃった。……なんて白いのかしら。まるで光ってるみたい。有翼人がこんなに素敵だなんて、みんなに自慢できるわ」
セイの瞳をためらいもなくのぞきこみ、瞳が本物なのかと不思議そうにしている。
少女の放つか輝きと笑い声がセイを癒していくようだ。
「ねえ、知ってる?遠いイデルの王城に、あなたみたいに美しい有翼天人の王がいるんですって。わたしずっと見てみたかったの、どんなに美しい方なのかしらって。彼女の歌がどんなだか、歌ってみたかったの。でもあなたもその噂以上に綺麗だわ。ねえ、その方に会ったことがある?あなたよりもっと綺麗なひとっているのかしら」
少女はうっとりとして、手にもっていた花束をセイにさしだした。
セイはなんとも答えようがなく、苦笑しながらそれを受取った。それが岩間に飾られたものと同じものだということに、気がついた。
「ねえ、なんでここに花を飾るの。だってここは――」
「あら、知らないの?ここは世界を救ってくださった、尊い方が眠っていたところなのよ」
「……世界、を?」
「そうよ。ずっとずっと昔だけど、その方と、竜の歌姫がわたしの村に住んでいたんですって。その方が、救世主セレイン様と出会うまで、ここで眠っていたらしいの。セレイン様とふたりで、世界を身をもって助け、世界に竜王を戻してくださったんですって。吟遊詩人の歌にもあるのよ。今度きいてみたら?素敵な物語だから。だから、ここは大切な場所なのよ」
少女の言葉に、セイは我を忘れるほど驚いてしまった。
だれが云いだしたのだろうか。そこはガルダイアの聖地となっていたのだ。
セイは岩肌の赤い亀裂をみあげた。
谷の人々に慕われ敬われているナージュの面影を、ついそこに追ってしまう。
「ねえ、おねえさん知ってる?竜の歌姫が、復活したっていうのを」
「えっ?!竜の歌姫が復活したの――?」
「そうよ」
ちょっと誇らしげに、それでも照れたように言い、黒目を輝かせた。
セイをまぶしそうにみつめる。
「ねえ、秘密を教えてあげましょうか。とっておきの秘密よ」
少女はクスクスと笑う。
「あのね、見たんですって」
「……なにを?」
「竜王と一緒にね、男の人が暮らしている姿を」
少女は、目を丸くしているセイに、まるで自分の目でみたかのように大人びた口調で語りだした。
「漆黒の黒髪と、闇の瞳をもっている美しい男の人がね、そこにはいたのよ。その人はずっと誰かを待つような、遠い目をしていたわ。それで竜の歌姫の詩を、懐かしそうに聞いているの。――セレイン様の歌を奏でるときが、彼がいちばん幸せそうな顔をするのよ。不思議でしょ?」
セイは少女を見つめた。
声が、震えてしまう。
「それは――本当?その人はほんとに、いたの、どこで……」
「あなたなら行けるわ。だっていつだって守られていたじゃないの。新緑からさしこむ光も、小川のせせらぎも、切り立つ岩と、太陽の輝きさえも、こんなにあなたを愛している。みんなあなたを慈しんでいる。あなたにゆけない場所はどこにもないわ」
彼女の変化に驚いた。
表情までも違っていて、まるで大人のように、いたずらっぽく目を見開く。
「あなたは……」
「待っていたわセレイン。いいえセイ。彼があなたを待っていたことを、待ちわびていたことを、あなたに告げるために、わたしはここで待ってたの。あなたがくる時をずっと信じていたわ」
「――あなたが、竜の歌姫……?」
セイが言うのに、少女はあざやかに笑うと、背中を押した。
「さあ早く行って。あなたの翼なら、すぐそこよ」
セイはそのまま駆けだした。
突き動かされるままに疾走し、地平線のかなたまでも飛翔し、どこまでもどこまでも、進んで行ったのだった。
――セイ。
――セイ。
大きなうねりが、目のまえに忽然と姿をあらわした。
虹のような鱗がまぶしく輝いていて、どこまで来たのかわからなくなっていたセイには、もはやいつ自分が光の世界に飛び込んでしまったのか分からなかった。
セイを見つめていた大きな瞳とぶつかった。
慈愛と調和の、雄大な泉のようであった。
太陽の柱が彼らの世界をとりまいており、波動によっておこる旋律が、その場所を結界のよう閉じていた。まるで天と地と、万物の源とそれが流れでる世界とに、分けているかのようだった。
圧倒的なエネルギーを秘めた存在が、悠然としてセイを待っていた。
セイの小さな額で育てられ、いまにも崩れんとしていた世界の秩序を戻し、再び人間と獣族の絆をむすびなおさせてくれた、偉大なる竜の王。
懐かしい光とエネルギーにつつまれ、セイは安堵感に抱きよせられた。
ほうっと息をつき、ふと目をむけたその横に、誰かが立っているのがみえた。
セイは涙があとからあとからこぼれてくるのを、どうしようもなく押さえることができなかった。
涙がかきけすその姿を、必死で目で追った。
なんどその姿を夢みただろう。なんど彼の幻影を追って泣きくずれたことだろう。
幸せすぎる夢のあとに続く絶望の深さに、昼も夜もなく延々と苦しめられていた。心が何度も凍って、血が止まらなくなってしまっていた。
信じられない――。
竜の歌姫の言葉は、本当だったのだ。
セイがけっして見間違うことなどない、その存在は、セイに手をのばした。
存在の熱が、はっきりと伝わる。
手をかさね、引力に吸い寄せられるように迷わずその腕へと飛び込んだ。
この光景もこのぬくもりも、いつもいつもセイは見ていた。目を醒ますと、彼は悪夢の砂となって消えてしまい、どれだけ涙をこぼしたかわからないくらいだ。
だがこれは夢ではない。
はっきりとした暖かな温もりがあった。確かに聞こえるふたつの鼓動がしっかりと共鳴しあい、大きく耳に伝わってくる。
「ナージュ!ナージュ、ナージュ――っ!!」
セイは大きな胸を抱きしめた。
全身を彼の腕のなかにうずめ、消えはしないかというようにしっかりと力をこめた。
強く抱きかえしてくる。
背中がきしむような痛みに、思いの深さと、会えなかった時間の長さのもどかしさを知った。彼もまた、セイとおなじ思いで時をすごしていたのがわかった。
セイはだがひどく怖くてたまらなかった。いまこの手に捕まえているというのに、なぜか顔を見るのが怖くて、心臓がいまにも飛び出しそうである。
この幸せが、また夢だったとしたら、もう二度とは耐えられない。きっと悲しみが心臓をとめてしまう。
ナージュがセイの頬を手で包み上をむけさせた。
「あっ……」
ゆっくりと視界にその人が映る。
まぎれもなく愛しい顔が、ある。
「ナージュ……ああ、ナージュっ、生きて――」
「生きている。生きて、ずっとおまえを待っていたんだセイ」
彼の声は熱のように鼓膜を焼いた。
「な、なんで、なんで、すぐに迎えにきてくれなかったの?……どんなに悲しかったか。どんなに淋しかったか。つらくて苦しくて、胸がつぶれそうだったのに」
「俺には、いつか必ずおまえがここに来ることがわかっていた。歌姫の詩におまえを聞き、おまえが役目を終えて、いつかやって来るだろう日を信じていた。だからこの場所で待ち、耐えていたんだ、セイ」
優しく言うナージュの微笑みに、ふとセイは不安な顔をする。
「ナージュ、でもどうして?だってあのとき穴へ吸い込まれて、あなたは――」
あのときの光景を思い出し、ゾッとした。悪夢が繰り返しはしないかと青ざめる。
だがナージュはセイの唇を、指でそっとふれた。
「もう、あのときの悪夢は終わったんだよ、セイ」
「……」
「俺はたしかにあの時、あの時空の穴へ身を投じた。たしかに一旦は死んでしまったんだ」
「ナージュ!」
「だがセイ、おまえが俺を造ったとき、あの時空の力を、わずかだが使っていたはずだ。だから、俺の身体は、あちら側のものでもあったんだ」
セイにはまだよくわかりかねていた。問いたげに長い睫毛をゆらし、心配の色をにじませる。
「穴に落ちたとき、俺は分解されてしまった。意識の一片まで溶けてなくなったんだと思う。――だけどそれは、微かに残っていた。向こう側でつくられていた部分に、俺だったはずの力は流れ続けていったんだ。小さなエネルギーだったけれど、その身体を磁場として、少しづつ俺は固定されていった。――いったんはバラバラになって消えたが、微細な、そして無限の力が、俺という分子にふたたび補充されて、そして甦ったんだ」
「ほんとうに?では、もう消えたりはしないの……?」
「ああ、もう二度と消えたりしないよ。絶対に約束する。セイ……おまえが俺を呼び続けていてくれたから、俺は自分を失わなかった。おまえの思いが俺をこの世界に戻してくれた。――最後に少しだけ、竜王が、力を貸してくれたんだがな」
「竜王?!」
セイはナージュに抱きついたまま、かたわらにどこまで広く横たわるエネルギーのかたまりを――竜王を見た。
竜王はくるまったまま、眠たげな目をあげると、わずかに微笑んだようにみえた。そのまままた、目を閉じた。
「こちらの世界の波動に慣れるまで、俺は竜王のそばを離れられなかったんだ。まだ分子が完全に固定していなかったからな。それに――」
「それに?」
「おまえとアシュナでしか、世界を取り戻すことはできなかった。俺はだからずっと待っていたんだ」
セイは悔しそうナージュの頬に自分の頬をよせた。口付けた。
涙が――流れ落ちていた涙が、セイには自分だけのものではないとわかった。
「ナー……」
セイは強く抱きしめられた。それ以上ナージュの顔を見ることは出来なかった。
胸の中から永遠に、孤独が消えてしまった。
そして、ナージュの胸のなかからも。
ふたりの幸せな思いが満たされ、竜のエネルギーをさらに熱く、大きくした。
地上へ降りそそぐ光が、あざやかさをさらに増していったのだった。
エピローグ
「アシュナ様、あの噂をお聞きになりましたか」
大臣のヤトスが書類に埋もていれたアシュナに声をかけた。
アシュナはうんざりしたように顔もあげぬまま、書類に目を通しながらぼやいた。
「なんだよ噂って。わたしは忙しいんだ。まったく、セイがいなくなってから、どうしてこんなに忙しいんだよ」
「それは仕方のないことでございます。王が今までセレイン様にまかせきりでお怠けになっていたことのツケでございますよ」
アシュナはさも嫌そうにヤトスを見た。
「ずいぶん耳に痛いこと言うな。ふん、こんなことが二度と起きないよう、よーく覚えとくよ」
最後の書類に目をとおすと思いきり放り投げ、アシュナは背伸びしながら立ち上がった。ヤトスは足元にすべってきた書類をひろいあげ、それに目を通すと、よく頑張ったと笑った。
「ところでその噂とはなんなんだ。言いかけたままでは気になるじゃないか」
「気になりますか?」
ククッと笑う。
「ならば、教えてさしあげましょうかねえ」
「なんだ、もったいぶって」
「いえね、ごく最近の『竜の歌姫の詩』に、翼を持つ美しい女性のことがでてくるそうですよ」
アシュナのあくびがとまり、ヤトスを見た。
「その方は、世界を治める竜といっしょに暮らしているそうです。彼女のそばには、いつもより沿うような黒髪の青年がいて、二人はいつも共にいるそうです。今期は竜からの恵みがいっそう大きくて、今までにないくらいに豊作が望めるらしいとも、謂われておりますしね。それに、これからますます栄え発展すると、歌のさいごに締めくくられているそうです。――ねえアシュナ様、もしかして翼を持つ美しい方って、セレイン様のことじゃないでしょうかね。だってあの方は……」
アシュナはふんと鼻を鳴らした。とたんに興味を失ったように言った。
「なんだつまらん。そんなことならとっくに知ってるぞ。おまえも今度、ファーレの弾き語りをじっくり聴いてみるがいい。その後の二人がどんなに幸せか、世界がどんなに富むか、ようくわかるからな」
ヤトスは驚いたようにアシュナを見た。
だが、その富を呼ぶ国の王がアシュナなのだと、決して疑わない満足げな笑みを浮かべていたのだった。
終わり