黎明の翼

15

 
 アシュナの身体は精気がきえると、急速に衰弱していった。
 一度だけ大きくのけぞり、手足がヒクヒクと痙攣し、色が剥げ落ちるように青ざめ冷えはじめてゆく。
 ゼダはその変化していく様子を面白げに眺めていた。脈拍をとると、目配せして、白衣の男にアシュナの手足の皮留めを解かせた。抵抗する力もないアシュナは震え、ヒュッと喉が切れるような息をしたかと思うと胎児のように縮まり膝を抱えてしまう。
 「そろそろ次の注射をするか」
 その声に、白衣の男が身を低くしてこたえ最後の注射が用意された。
 「……セイ」
 かすかにアシュナがつぶやいた。それが、彼がもっとも信頼し、心を寄せているものの名前だった。初めて友達になり心を許した相手。初めて我儘を言ってまで、そばに居てほしいと思ったただ一人の人だった。
 アシュナには、もうセイの名前しか、呼ぶべき者はない。
 いま一度、口がセイの名を呼んだ。すでに声にはなっていなかった。
 厚い金属のドアが、いきなり斜めに斬り落とされた。男たちが目をむける間もなく、敏捷な影が走りこむ。次々に倒れていった。一瞬のできごとに、だれもが反応できないまま、あっけなく死での旅路についていた。
 注射器を手にしていた男の腕が床にとんでだ。並べられていた器材のうえに倒れこみ、ガラスのはでに砕ける音がにぎやかにして、黄色い薬があちこちに流れてゆく。
 鬼神のように黒耀の目を燃やしたナージュがそこに立っていた。一部のすきもなく、凛然とゼダを冷たくみている。
 アシュナを囲っていた男達のすがたは、すべて消えていた。セイがドアの向こうから顔をのぞかせた。うずくまるように丸まっているアシュナに目をとめ、声をあげた。
 「アシュナ!」
 セイは走り寄ろうとした。それより早くヌッとゼダが立ちふさがった。
 睨みつけるセイに、ゼダは愛しいわが子をみるようにほくそえむ。禍々しい吐息をはきつけた。
 「なんとまあ嬉しいことよ。まさか竜玉のほうから飛び込んで来てくれるとはのう。思いもせぬ贈りもじゃ。よう帰ってきてくれた。探す手間がはぶけたというものぞ」
 「ゼダ、アシュナに何をしたんだ!」
 「なあに、ちょっとした魔法よ。ベールの願い通りにな、女にしておるところよ」
 「お、女だと?!」
 「そう、あと注射をもう一本もうてば、アシュナは完璧な女へと変身する。第二のメリジューヌの完成じゃ」
 淫靡な笑いに、セイはそれが嘘ではないと悟る。胸が悪くなる。
 「――エドリと同じことをする気なんだな」
 「ほう、エドリに会ったか」
 ゼダは愉快そうに眉を吊あげた。
 「なかなかの傑作であったであろう。まさか、ああまで上手くゆくとは思わなんだ。受胎能力まであるとは、けっこうなことよ。初めての完成作じゃ。まこと苦労したわ」
 だがすぐに忌々しげに片口を歪める。
 「なのに、あの顔無し女のせいで、すべての予定が狂うてしもうたわ。わしの研究室を焼きおってからに。せっかく集めた死体油が半分も焼けてしまいおった。――まあだが、それはよい。絞ればいくらでも出来るゆえのう。それにいずれはあの研究室も、人工孵卵機といっしょに潰すつもりであったゆえ、手間は省けたというものじゃ」
 ゼダはしたりとばかりに笑う。
 アシュナが大きく身悶えた。
 「……セイどこ?苦しいよ、セイ、どこ?……助けて…セイ」
 うわごとのようにセイの名を呼び、胸を掻きむしった。爪痕から血がにじんでいる。
 徐々にではあるが、細胞が変化の兆しをみせはじめている。細胞のひとつひとつがヒクついているではないか。
 「アシュナ!」
 セイの声に導かれるように、兵士たちが駆けこんできた。
 無表情の兵たちは息も乱さず、後から後から増えてゆき、あっというまにセイとナージュを取り囲んだ。ゼダを守るように遠ざけると、アシュナが視界から隠れてしまう。追いかけようとするが、数が半端ではない。
 「セイ、俺のうしろに隠れていろ」
 ナージュがセイをひきよせ、壁ぎわの背後にまわした。少年たちが剣を突きつけじりじりと距離をちぢめてくる。ナージュの優雅な銀光がまい、目にみえぬはやさで剣がひらめくたびに、ゼダとの距離が薄くなっていった。こんなときでなければ、ナージュのその美しさに目を奪われていただろう。
 「ちっ、役たたずめらが」
 何度目かの舌打ちに、ゼダの頬の肉が垂れさがってきた。唇が変形し、しゃべりにくくなるのを止めるように、ゼダは黒いローブから出した琥珀の液体を顔にふる。
 ヌウッと天井から黒いものが伸びてきた。
 『ママ……』
 怪物の異臭がした。その臭いにおびきよせられたらしい。這いだしてきた穢れの手には、まだエドリの腕らしきものがしっかりと抱かれていた。
 「おお、何をしておった。遅いではないか」
 ゼダはよいタイミングだとばかりに顔をしゃくった。
 『ママ、死んじゃった……ボクの家族、もういない、死んじゃった』
 「何を云うておるのじゃ。そのようなことは後でよい、はよぅ、あやつを倒さぬか」
 『いない……んだ死んだ、家族死んだ…・寂しいよ、ママ……ママ寂しい』
 「なにをほざいておる。ええい、そのようなものまた後でいくらでも造ってやるわ!さっさとあやつを倒さんか!おまえの大切なママがいじめられておるというのじゃぞ、よいのかこのウスノロが!」
 『ママ…いじめる……?』
 ようやくその言葉に反応したのか、それがゾロリとこちらを向いた。
 毛を逆立てるように腐肉を波だたせたが、覇気がすこしもない。
 「チッ、ほれ油じゃ。おまえの好物の油じゃ、さっさと飲め。グズグズしておると、二度とやらぬぞ。やつらを倒せ、化物めっ!」
 ピシャリと叩きつけるようにガラス瓶の油を一振りする。怪物の躯に吸い込まれる。
 『ああ……もっと――もっと―』
 あえぎのように声を漏らし怪物はうっとりとすると、酔ったようにふらついた。みるみる殺気を増してゆく。
 少年たちがすべて床につっぷした。ナージュがゼダを冷たくみすえ、剣をむけた。
 「そんなもので怪物を――門番を意のままに操っていたのか」
 「ほほう、門番のことまで知っておるのか。さすがは有翼族の守護機だ、と褒めてやりたいところだがの、もう遅い。こやつはすでにわしの思いのままに動く、哀れな奴隷よ」
 ヒヒヒと笑い、油をペロリとなめたる。セイは戦慄に青ざめた顔をして言った。
 「その液体は、もしかしてあの子供たちからの……?」
 「そう死体より採集した油よ」
 嬉々として断言するゼダに、セイはあのとき見た光景をおもいだしザワリと鳥肌を
たてた。
 「死体は山ほどあるゆえな、作るのに困りはせぬよ。失敗作もあるし、メリジューヌと遺伝子が合わなんだのもあるゆえ、そうこうしておればすぐ山となってしまうのじゃ。百体で一滴ほどにしかならぬが、ほれ、このとうりの効き目じゃぞ」
 手の中の油はなみなみと揺れている。
 セイは一滴一滴の琥珀のなかにあえぐ子供の悲鳴を聞いた気がした。
 「油を与え続け、何百年かって手なづけたのじゃ。わしを母と思うて、よく慕うようになったぞ」
 「よくもそんなことをっ!おまえは、人の命をなんだと思っているんだ!みんな生きているんだ、心があるんだ!命とは、なによりも大切なものなんだ!」
 「命が大切じゃと?なにを寝ぼけたことをぬかしておる。人間などただの家畜よ。地下帝国復活のための贄にすぎぬよ」
 セイは怒りに顔が朱にそまっていた。
 「おまえに生命を冒涜する権利なんてない。そんなこと、誰にもできないんだ」
 「セ……イ…たすけ…」
 アシュナがガクガクと嫌悪に体をふるわせながら苦鳴をあげた。顔はこれ以上ないくらい紙のように白い。
 「アシュナ!」
 「かなり効いてきたようじゃの。この者とて、はよう薬を与えてやらねば苦しいだけじゃ。生殺しゆえな」
 「アシュナに触るな!」
 「はよう女性へと変態させねば、苦しみに狂うてしまうぞ。こやつがダメなら他で作ればよいだけのこと。この油と異次元のエネルギーを調合すれば、そのようなことなど他愛もない。まあ、その微妙な割合を見つけるまでが、いくらかは手間ではあったがの。所詮こやつはそのための生贄よ。こやつもベールもわしの思惟の駒にすぎぬ」
 ゼダは優しげにアシュナの顔を撫でていたかと思うと、うめいているかれの髪を乱暴に引っ張りあげた。さらに苦鳴あげたアシュナの声に、いいしれぬ感情が、セイの体中に燃えたぎった。
 許せないと思った。悪魔のごとき魔術師の、その傲慢さが許せなかった。
 人の命を、命とさえ思わず、ただの実験材料として意のままに操り、平気で殺してしまう。いらなくなれば平気で殺し、さらに次を求めて作る。
 琥珀の液体にただよう多くの命の声が聞こえた。
 「なにひとつ、誰ひとり、いらない生命なんてないんだ。たとえそれが人工的に生まれてきたにせよ、どんな始まりだって彼らには関係ないんだ。なんの罪もない!」
 父も母もしらず、あたたかさも与えられず、さびしく死んでいった彼らの魂が、セイのなかに熱いうねりとなり、突きあげてきた。
 制しがたい衝動が大きく胸にこみあげ、息苦しいほどの憤怒のたけりが暴走する。
 「自然の摂理を曲げてまで求めるものなんて何もありはしない!真実なんて何ひとつない。そんなものになんの価値があるんだ。傲慢さゆえの、ただの虚構にすぎないじゃないか!醜い自己満足だ!」
 「黙れ小童っ!我々の復活に、真実などいらぬ。未来にさえ用はない。――力じゃ。力さえあれば、いかような望みとて叶えられる。世界を守護する竜の国など、はじめから我々は必要としておらぬ。きさまの竜玉など、しょせんは帝国復活の足がかりにすぎぬのじゃ」
 ゼダは杖の先端にひかるアメジストを割った。一呼吸するまもなく、エネルギーが流転しはじめた。莫大な力が押しよせ始める。
 空気が一挙に変じた。何かが開かれてゆくのがわかった。
 こちらが側の法則をねじ曲げ、荒々しくかき乱すような磁力がわきたち、空気が放電して、小さな竜巻がいく多もわきおこる。
 そのむこうから、異次元の回廊が、のったりと邪悪な顔をのぞかせはじめてゆく。
 波動の津波がそこから沸きあがった。
 世界を無に帰す、虚の力が、目のまえに無尽蔵にひろがってゆくではないか。
 その果てにつづいている『永遠』を見たとき、セイは気の狂いそうなほど壮大な孤独に飲み込まれていった。
 「ああああ――!!」
 焼けつく痛みが背筋をつらぬいた。
 「行け番人!やつらを殺すのじゃ!」
 ゼダがチャンスとばかりに叫んだ。黒い異臭が襲いかかった。
 空気が肌を切るように緊張し、凶暴な飢えた野獣は、禍つ糸にあやつられて、醜くおぞましい巨体をふるわせる飛来する。黒い鋼のような塊が柱をけずりとった。
 大気の律が変化した衝撃に、火花がくもの巣のように舞いあがり、電気盤に引火し炎を吹きあげてゆく。
 「セイ、こっちだ」
 ナージュはセイを抱え、火の手をさけて高く跳躍した。
 怪物の攻撃が、逃がさないとばかりにさらに強まった。
 セイを庇いながらの化物の攻撃をさけていたため、ナージュからはほとんど反撃ができていない。はげしく動くたびに、セイが苦しげに声をもらす。
 「セイしっかりしろ。くそうっ!」
 セイは変態しかけていたのだった。
 異次元の磁力をいきなり受けてしまい、さらに膨大すぎたため、受容範囲をこえるエネルギーに、体組成が、予想外の活動を起こしてしまっていた。
 「ああ……ナージュ、ごめん…こんなとき、に……」
 「そんなことかまわない。大丈夫か?!」
 自分こそつらそうに言うナージュに、セイは熱い息をつきながらも、青ざめた顔で笑ってみせた。心配げなナージュの漆黒の瞳だけが、セイの神経を保たせている。
 みつめあったまま、ナージュは怪物の腕をかわした。いきなり、ブワッと広がるようにセイの輪郭がブレていった。
 黒い影がセイの横にあらわれた。そのままセイから、いや竜玉から分離して、空中に浮き上がる。
 「ナージュ、セイは俺らが守る。おまえは番人を倒せ!」
 その姿は――黒竜であった。
 「ヴォル?!」
 「セイのことは任せるんだ」
 「そう、そのために、我らがいる」
 きわだった深紅の髪をした女性もまた、いた。
 いつのまにか紅竜までもがすがたを現わしていた。紅竜はナージュの腕からセイを抱きあげると、黒竜とともに朱色の幕のようなとばりを瞬時に張った。
 乱れた空気からセイを守るためのバリアーである。
 「ナージュ、おまえは早くあいつを!」
 ヴォルの声と同時に、ナージュは怪物に走っていた。頭上高くに飛びあがり、剣を華麗にひらめかせながら、優雅に着地する。絡みつこうとしていた幾つもの黒い触手が、あざやかな切れ口をみせ分解する。
 今までとはちがう、格段の身のこなしだった。怪物はにわかに苛立ちはじめ、ざわざわと体躯が波うちはじめていた。
 騒ぎをききつけたらしいゼダの配下が、ふたたび集まってきだした。
 磁力の風にわずかばかり躊躇していたが、すぐに無表情に飛びこんだ。
 ナージュたちの戦いをよそに、彼らはバリアーのなかで悠然としている紅竜たちに向かっていった。だが、赤い壁に触れる間際で、いきなり彼らは体から発火して燃えあがっていた。骨の芯まで炭化したくろこげ人形が並々とできあがっていく。
 黒竜と紅竜の生体エネルギーによって、薄い皮膜が張られているために、害をなそうと襲いかかるものは、容赦なく焼きつくされるのだ。
 セイはその皮膜の中でいくぶん苦しみをやわらげていた。瘴気に喉が焼けつき、呼吸できなかったのが、膜のおかげでどうにか息をつないでいる。
 それでも痛みが消えたわけでもなく、体細胞をいったん溶かし、編成しなおすような高熱が体中を責めさいなみ、まるで痛みによって洗われていくようである。
 一切の穢れを、ひとつぶも残さず浄化していくかのようだった。
 「溶けてく、よ」
 セイは巨大な意志ともいえる、未知の海へと飲み込まれていった。隠されてしまった叡智を求め、本来の自分をとり戻すために、自らの潜在の海へともぐりこんでゆく。
 変貌する意識のなかで、セイは誰かの救いをもとめる声をきいた。
 ――ああ、アシュナ……。
 いまは亡き守護機のユニコーンに守られていたやさしい友人。セイを大好きだといった。いつもやわらかく笑っていた。いつも自分を押さえてばかりいたさびしい少年。
 あれほど強くいかないでくれとせがんだ彼の、切なげな様子がいまでも忘れられない。ずっと目に焼きついていて、彼を置いていったつらさが身を苛んでゆく。
 絶望のふかい闇のこえが、セイの名をよんだ。
 アシュナはみずからの意にそわぬままに強制された変態に苦悶しながら、ただセイの名を祈るように呼んでいる。
 セイは少年の苦しみに自分をかさね、愛しさを感じていた。少しでもアシュナの苦痛がなくなればいいと、ただ願っていた。セイが目をあけた。
 「アシュナが――っ」
 叫ぶようにくちずさむと、顔をあげた。
 「セイ、どうしたんだ」
 紅竜はセイの視線の先に、ゼダと多くの兵に取り囲まれたまま、悶え苦しんでいる少年をみた。彼の姿が変化しかけているのに気づく。まるでセイの変態に引きずられているようではないか。
 ゼダの足元に転がるアシュナの意識は、ゆっくりとだが確実に消えていっていた。
 怪物の片足が飛んできて、張られた皮膜に焼かれて煙になっていった。アシュナの姿もみえなくなってしまう。
 怪物はいかりに赤い目をむきだし、転がっている死体をいくつか飲みこむと、切られたはずの切口にまた肉が盛りあがっている。ナージュは伸びてくる触手を軽くかわし、背に絡もうとする腐肉を根元からスッパッと切り落とした。
 腐肉がそのまま炎をあげて燃えていた。怪物はようやくその目に恐れを抱きはじめだす。ナージュの攻撃は止まることなく、手からの目に見えないような細い針金が、無数に放たれ、。すべてが的確に怪物のどろりとした毒の体に食い込んでいった。
 黒い毒素に焼き切られてしまうと思ったが、キンと張りが強まると、怪物がぐらりと倒れた。有翼族しか持たぬという金剛砂とオリハルコンの針金。地上最高の強度を誇っていた。
 怪物はキリキリと締めあげられたままの姿で内側から焼かれていた。吠えながら緑色の腋を吐いた。
 長い針金を、急所にむけてナージュが放った。
 別の部屋からの爆発音がした。建物がしなるように揺れた。穴からそれまで以上の風が吹きこんだ。
 衝撃にナージュの針金が溶けてしまう。怪物は矢のように束縛からのがれると、いきなり床に半分もぐりこんだ。つぎの攻撃にそなえてナージュは身構えた。
 だが、怪物は二度と襲ってこなかった。
 いや襲うどころか悲鳴をあげだしたではないか。恐怖に我を忘れたように逃げだしたのだ。子供のように泣きじゃくり、一直線にゼダへと向かっている。子供が母親を求める姿とまるっきり同じだ。
 さすがにナージュも、その様子には気勢をそがれたように、とっさに判断がつきかねて見ていた。
 ゼダはあまりの失態に茫然としていたが、すぐにこめかみに青筋をいきりたて、怒りで頬の肉がねじ切れ流れるのにもかわまず罵声をあげた。
 「この大馬鹿者が!なにを逃げ帰てきおるか!きさまそれでも次元の番人といわれた男か!戦え、戦うのじゃ!」
 『ママ、だって怖い。からだいっぱい痛いよ。あのひとイジめる。怖い。――怖いのイヤ。油をちょうだい。痛いから油をなめて元気になる。油をちょうだい、ママ」
 ゼダは甘えるようにすり寄らんばかりの怪物を、容赦なく蹴りあげた。穢らわしいと杖をふりおろし何度も殴りつける。
 「この役たたずめ!怪物のくせに情けない。我慢して飼っておればつけあがりおって、きさまなぞに(ママ)などと呼ばれとうないわ!このバケモノが、きさまなぞ穴に落ちて溶けてしまえっ!」
 『マ、マ……』
 ゼダは殴りつづけながら、さらに言いつのろうとしたとき、耳障りな音が、風を切るようにガラスをひっかいた。
 ゴウッと地面がゆれる。
 ゼダの狂面がとたんに笑みにかわった。奇声をあげた。
 「――できたぞ!ついに門が完成したのじゃ!」
 外に目をやり、高らかに笑うゼダの足元へ、不気味でいいしれぬ気配がたちのぼってきた。時がついに熟したとばかりに、ゼダの口は耳元にまで裂けてく。
 「きさまなどにもう用はないわ、化物。呪われた物は呪われた世界へ帰るがよい、さっさとくたばってしまえ。あとはもう――」
 チロリとアシュナをみた。
 「こやつを女として完成させ、わが帝国の門へはなむけに捧げるだけじゃ」
 止まりがつかぬほどに笑い、喉を引きつらせ笑った。
 なにが起こったのか茫然と見ていたセイたちは、目の前の次元の穴が、いきなりとまりのつかぬ早さで拡大しはじめていることに気がついた。
 卵の殻をやぶって孵化するように、異界の磁気が、次元のか壁やぶり一気におしよせてくるではないか。こちら側の世界が保てる飽和量を越えていた。勢いづいて拡散し、さらに流入した波動によって、絶対調和が乱れてゆく。
 天地万物を治めていた秩序が、音をたてて崩れて去ろうとしていた。あらゆる法則が無意味となり、封印されていたはずの邪悪な力が、地下からはっきりとした足音で、浮上してくるのが耳にひびいた。
 磁力の風がとつぜん凪いだ。
 「この気配――?」
 ナージュはそれに目をとめた。
 新しい星が生まれるときのような、すがすがしい光量が放たれ、部屋を満たしていった。精妙なる光の粒が部屋のなかに照射され、目があけていられないほどにまで膨らみ、闇の波動をうち消していくかのようだ。
 あらゆる穢れ、あらゆる魔力、邪悪なものすべてがサラサラと砂漠の砂のようにながれて消えてゆく。
 セイだった。セイの身体からはなたれた神々しいほどの光であった。
 黒竜と紅竜の守るオーラのなかで、セイは光の結晶のように輝き、細胞の一片までもが光り、輝きながら呼吸しているかのようだ。
 顔をのぞけようとしていた暗黒の胎動が、そのまま穴へ押しもどされていく。
 波動の正常なきざみが回復をはじめる。
 うずくまっていたセイが、風に舞うようなしなやかさで起きあがった。
 誰もがその瞬間、目を奪われた。純白の翼があらわれていたのだ。
 ふわりと広げられた羽はまったき白であり、天地創造の神々のみがもちうる智慧が双翼となり、セイの繊細でなだらかな背から大きく伸びはなたれていた。
 潤んだ目をあけた。いまやっと、変身の苦痛から解放され、完璧なすがたへと変貌をとげた充足感が、セイをよろこびの絶頂へと導いているかのようだった。
 長い眠りから目覚めた雛鳥のように身を振るわせ羽が天上界の音楽のように鳴った。
 「セイ――」
 ナージュはあまりにも美しすぎる魔法に取り込まれてしまったかのように、セイをみつめていた。まぶしげに目を細める。
 長くたれた青銀の髪がゆれ、叡智に色濃い紫紺の瞳がナージュをまっすぐみつめる。その美しさをみて、ようやく、セイが今までどれほど厚い膜に覆われ、守られていたかを知った。みずからの色をとりもどしたセイは、本来の姿に戻っていたのだ。
 「ナージュ」
 セイはそっとナージュをみた。その美しさは幽幻なまでであった。
 地上に備わるすべての美を集めてもかなわないそうにない。
 竜玉もまた、変わっていた。セイの紫紺の瞳に限りなく近さへ変貌していた。
 「ナージュ」
 セイはもう一度呼んだ。声まで淡く儚かった。
 セイはたまらないように、感極まったような細い声でナージュにささやいた。
 「ナージュ、やっと思い出した――」
 「セイ?」
 白い手を、ナージュは畏れおおいい、とでもいうように、ためらいがちに取った。それは存在を感じぬほどに軽く、力をわずかでもかけたら壊れてしまいそうに思われるほど繊細だった。翼の一族でも、類をみないほどの美しさだろう。
 ナージュは魂の髄まで、紫紺の瞳に吸いこまれていた。やっと会えた恋人をいとおしむように、セイは、泣きそうな目で何か言おうとしたが、言葉は出てこなかった。
 セイは稟としてまっすぐ怪物にむきなおった。
 「門番よ、次元の穴の貴き守護者よ、おまえは目覚めなければならない。自分が何をすべき者であったか、何をするべきであったかを」
 「セイ……」
 ナージュはまったく別人のように厳しい顔をしているセイを見ていた。
 「次元はつねに守られなければならない。それはおまえに与えられた、栄誉ある、誇り高き役目のはず。おまえは、真の自己に帰らなければならない」
 声に秘められた呪の力に、化物は愕然としていかのようだった。赤いくすんだ双眸が、満ちていた波がひくように静まり、しだいに澄んだ光をとり戻していく。
 『あっ……』
 怪物はにわかにつぶやいた。
 『ああ、……わたしは…っ!』
 その声は、すでにおのれが何者であったかをとり戻した驚きを含んでいた。黒い腐肉がズルリっと落ちる。
 いままで充満していた臭気が消滅した。醜い不浄の肉の下からあらわれたのは、半身半獣の男であった。片腕は切り取られたままだったが、下半身が獣であり、上半身が人であるその姿は、幻想獣一の賢者とよばれた、ケンタウル族のものだ。
 『わたくしは――っ!」
 今まですべての罪業を承知したように、悲嘆にくれる叫びをあげた。
 「ああっ、わたしはなんということをしてしまったのだろう……取り返しの、つかないことを、ああぁっ!!」
 セイがおだやかに口を開いた。
 「だが、それもまた仕方のなかったこと。おまえは魔法使いの毒に犯され、死体の油による魔力のよって、魔道の虜とされてしまっていたのだから」
 『でも、わたしはなんとういうことをっ!エドリ様を……ギュルヴィ様を…いや、多くの命を――!』
 心臓が張り裂けんばかりに嘆き顔を手でおおった。後悔の念でそのまま息絶えるかと思われるように震えていた。
 顔をあげた。怒号に青い炎をうちあげた。ゼダを睨みすえる。
 『おまえがわたしを――っ!』
 セイと番人のあまりの変貌に、すっかり度肝をぬかれ、唖然としていたゼダだったが、その厳しい視線に一瞬身を怯ませただけで、すぐに凶暴さ剥き出し嘲笑った。
 「愚か者めが、騙された貴様が悪いのじゃ。おまえはわしをママ、ママと慕うっておったではないか。醜い化物となりはて、わしのいうことをよう聞いて人をたくさん殺してくれたわ」
 「貴様、よくもっ!」
 「だがもう遅い、我らはすでに門を手にいれた。いくら番人が正気に戻ろうと――おお、そうよ、たとえ有翼天人が甦えろうとも、すでに遅すぎるのじゃ!我が野望はついに完成した。だれにも止められぬのじゃっ!」
 最後の切札とばかりに、ぐったりと虫の息になったアシュナを抱えあげた。
 息もつかぬはやさで注射針をアシュナに突き刺す。
 「やめろゼダっ!」
 セイが叫んだ。
 残っていた液体を注ぎ込もうとしたその時だった。
 中の液体が飛び散り、管がわれて粉々になってしまった。
 「なっなんだ!」
 ゼダはビクリッと硬直した。
 番人だった。番人が、目にみえぬ早さでゼダの首をつかんでいた。
 『世界の率が狂っために、多くの者が死んでしまった。多くの動植物、多くの幻獣人、多くの子供――そして多くの嘆きと悲しみが地を枯れさせ、天を歪めた。わたしとおまえのせいで、とうとう竜までもが……』
 番人は悲痛な叫びであった。
 ゼダの首が真横に折られ、鈍い音がした。
 番人はそれを手にしたまま、これ以上ないほどに切なそうに、セイをみた。
 『わが主よ、次元の回廊が均衡を崩してしまった今、わたくしはわたくしのすべきことを行います。ああ、それでもあなた方になんとお詫び申し上げればよいか――』
 門番はこうべを低くたれ、消え入るように言った。
 『わたくしの罪は重すぎる』
 それからゼダを抱きかかえたまま穴に向かっていった。
 ゼダの折れた首の下からは、別の男の顔が生えはじめていた。
 彼はそうやって何度でも再生し、何度でも魔の根を張り続けてきたのだ。
 『わたしの身体も、もはや長くはありません。死体油によって犯され、躯のすみずみまでもが腐っています。こんな躰でも、少しは率の変動に役に立てるなら、わたしは喜んで捧げたいと思います』
 セイがなにか言おうとしたとき、番人が最後の笑みを向けて穴の中へと身をゆだねた。宇宙線が彼らを飲みこみ、向こう側へと堕ちてゆく。
 生えかけていた魔法使いの新しい顔が、圧力にグニャリとへしゃげ、魔獣の絶叫とともに永遠に闇の底に消えていった。耳に焼け付くようだった。
 言葉もなくそれをみつめていたセイは、ハッとして慌ててアシュナのもとに駆け寄った。
 抱きあげたアシュナはあまりにも激しく衰弱していて、青い死のかげが全身に浮かんでいる。目を薄く開けると、彼はふうっと目元をゆるめ、セイをみつめた。苦しそうな表情のなかに笑みがうかぶ。
 「……セイ…」
 「アシュナ、しっかりしてアシュナ。もう大丈夫だから。すぐ治してあげるから、しっかりして。――ごめんねアシュナ。こんなになるまで助けられなくて、ごめん」
 「ううん」
 アシュナはうっとりするようにセイを見つめていた。涙ぐんでいるセイの容貌はあまりにも美しすぎて、まるで最後にみる夢のように幸せだ。
 「セイ、なんて綺麗なんだろう……こんな綺麗なひと、ボク、見たことないよ。ほんとうに……昔語りに聞いた、有翼天人そのままだ――」
 咳きこみ、血を吐く。
 セイはたまらず背をさすった。黒い血が止まりのつかぬように喉からあふれでた。
 「アシュナもうしゃべらないで」
 「ああ……こんな美しい夢をみられて……幸せだ…来てくれて、ありが…と……」
 あのおぞましい薬は、アシュナの身体の体組成をゆがめていた。
 中途半端な薬の量によって、よけいに荷重がかかり、負担になっている。
 かなり危険な状態だった。
 「これを飲ませれば、多少は体力が回復する」
 紅竜が懐からとりだした。スタートレットの星だった。
 紅竜はセイからアシュナを抱きとると、喉からあふれる血をうつむきにして吐かせ、最後には口ですいとってやり、どうにか嚥下させた。
 しばらくして息が落ち着くのを見てから、やっとセイは少しだけほっと表情をやわらげた。
 セイはふとナージュをさがした。彼の鼓動が聞こえないと、まだ不安になってしまう。まるで半身が消えてしまったような心もとなさだ。
 少し離れたところにいるのをみつけて、ほっとした。ナージュは熱い視線でずっとセイをみていた。何かの魔法にでもかかったかのように、一度目があうと、もう二度と離せなくなったかのように、二人はみつめあった。
 ナージュのなんともいえない瞳の色に、甘く、耐えがたい胸の疼きがはしる。
 「セイ……」
 息苦しげにナージュが名をよんだ。
 セイの羽がふわりと広がった。磁石が引き合うようにナージュの腕に抱かれる。
 「ナージュ、ナージュ」
 セイはナージュの首を抱いた。力強い手が抱き返してくれた。
 同じ速さの鼓動がひとつになり、どんな存在よりもより誓う、深く溶けあい、重なってゆく。セイはナージュの胸に鼻をすりよせ、ささやくように言った。
 「思い出した……何もかもを、思いだした。ああ、ナージュ、あなたは――」
 セイはふっと口を閉ざした。
 悲しそうに伏せた長いまつげが震えた。そして美しい紫紺の瞳をあげ、ナージュの視線を完全にとらえたまま、異次元の穴を指さした。
 「あの穴が全ての始まりだった。わたしの父はあの穴からやってきた、異次元からの来訪者だったんだ」
 セイレーク=ルディーク。
 それが有翼天人の王であり、異次元からの来訪者の名前だった。彼は高次元にすむ天界人であり、この地上の成立ちと進化を見守る管理者でもあった。
 つねに地上の調和をはかり、地上にすむ生き物を、心惹かれるものとして見守ってきた。そしていつしか、彼はこちら側にすむ有翼人の姫君、リゼナに恋をしてしまったのだった。
 セイレークは、この地上を慈しみ、この世の生物もまた愛していた。リゼナとともに、愛しいものたちの地で暮らしたいと願った。彼はそのため、天と地を結ぶ穴をうがち、次元の壁をこえて、この地に降り立ったのだ。
 「二人は契りを結び夫婦となった。リゼナは巫女の血筋だったため、セイレークの存在をいつも身に感じていた。神とも思える彼の愛はたやすく受け入れられるだろう。愛は出会うまえ、から彼女に心は届いていたんだ」
 セイは湧きあがる思いをかみしめるように言った。
 「けれども、地上のものに恋をした天界人は、二度と、天界にはもどれないのが定め。父はみずからの手で、自分の背にある天上の羽をもいだ。次に新しく地上の翼がはえたとき、子供が産まれた。その子供らは、地上人の身でありながら、天界人の能力をもっていたんだ。新しい種族の誕生。――それがわたしたち、有翼天人のはじまりだ。そして、セレイン――それがわたしのほんとうの名前。何百年目かにできた、一族の最後の子供」
 「セレイン――それが、本当の名前」
 ナージュがつぶやく。彼すらも、何かを思い出しそうな深遠なまなざしをしている。
 それはもう、少年の名前ではなかった。
 「父は、もいだ自らの羽で穴に蓋をして、次元を閉じた。その力はこの世の者が扱うには、あまりにも危険であり、増大すぎたんだ。進化がまだそれに追いついていなかったからだ。父は穴を守護するべく、番人をおいた。それが賢人ケンタウルだった。そして、人の子に――王と呼ばれる者たちに、その管理を任せたのだ」
 それは神話のような気の遠くなる世界の話だった。
 セイの声がぐっとトーンを落とした。
 「でも彼らは――王たちは、わたしたち有翼天人を、そして幻獣たちを滅ぼしてしまった。父も母も仲間も、みんな、みんないなくなってしまった。永遠に眠ってしまったのだ。――でも、わたしたちは信じていた。人の子が、みずからの間違いに気づき、改める日が必ずくることを。天界の力を有するものは、人の世の運命に関与しないのが掟。あちら側の力をけっして持ちこみ、使ってはならない。なぜならそれは、宇宙の法則を犯し、自然の均衡を崩し、人間界の調和と摂理を壊すことだからだ。だから抵抗することを否定し、多くの仲間たちは卵の中に入って眠ることにした。そしてわたしもその中の一人だった。両親は、均衡の狂いを予測し、わたしだけをある一定時間ののち、目覚めさせるようにセットしたんだ」
 セイはナージュをまっすぐみつめた。
 「それは、わたしが望んだことだった。ナージュ、本当は眠りにつきたくなんてなかった。あなたを置いて、眠りたくなかった。――でもあの時は時間がなかった。あなたを決して置いていったわけではないんの、ナージュ」
 「セイ――セレイン?!」
 「覚えていない?わたしのことを、わたしがあなたを――」
 激しい爆破音によって、最後の言葉はかき消された。ナージュには届かなかった。
 「セイ!」
 紅竜が叫んだ。次の瞬間、搭のはしから火の手があがり、建物が崩れだした。
 すでに隣りの塔は半分吹き飛ばされており、こちらがわもまた、炎がみるみる広がり、魔の空間を焼き薙ぎ倒している。あっという間にゼダの部屋にまで昇りあがってきていた。
 尖塔のてっぺんが、爆発の威力に崩れ落ち、その衝撃で足元が大きく揺れた。
 どうにか収まりかけていた穴から、波動が逆流しはじめた。白い膨大な風塵につつまれ、視界が、まったく塞がれてしまう。
 セイは、奇妙な体感を覚えた。
 なぜか苦しくもなく痛くもなかった。
 ただ混沌とした変換が、その場のすべてを凌駕していくのみである。
 ――ナージュ。
 セイの呼ぶ声がした。
 それはまるでナージュの身体の中から聞こえてくるような響きをもっていた。
 ――セイ。
 ナージュの声もまた、セイの内から沸きあがってくる心の声のように聞こえた。
 二人は気がついた。自分たちの身体が溶けはじめていることに。
 体をつかさどっていた生成が消滅し、極微の素粒子のレベルにまで分解している。
 根源の姿にまでもどり、意識のつぶとなって、触れ合い混じりあい、あたたかな光を放っている。
 セイはナージュの中にいた。ナージュもまた、セイに含まれていた。ナージュをあれほど苦しめた守護機という物性が消えさった後には、ただ一つの存在が残るのみ。
 それは愛しいという感情だけである。
 ナージュは理解した。自分が存在するということを。どうしてそこにいるのかということを。そしてその存在が、誰がなんのために造りあげたのかということを。
 ――セイ。
 二人はいま、体を重ねるよりももっと深く交わっていった。言葉にしがたい悦びの海だった。ナージュはその海の中で、最も愛する者として創造した、科学者の手を思いだした。
 比類なき美貌。完全なる智。
 よく笑いよく泣く孤独な有翼天人。
 セイが――セレインが、ナージュを造ったのである。
 彼女こそが、この世でもっとも彼を愛し、誰より深く理解してくれる者だった。
 心の最後の一粒までもが、強くどこまでも深く重なった。
 セイのぬくもりは離れがたくナージュの心を包み込んだ。
 ――セイ、俺は……。
 ――ナージュ、わたしがあなたを――。
 募る思いが無形の言葉で溢れだした。混じりあいながら互いが互いに惹かれあい、結びつけられ、確かな存在となってゆく。
 ――愛している。
 どちらから(ほとばし)った想いなのか、わからなかった。
 確かめるように、さらにはっきりと刻むように、まるで、不安の足音を近づけまいとする祈りのように切なく、愛しげに交わされる。
 ――ナージュ、愛してる。ずっとずっと……。もう、離れたくない。
 ――セイ……。俺は、ずっと思っていた。守護機は、機械はひとを愛することができるのだろうかと……。でも、今このとき、やっとわかることができた。俺は言ってもいいんだ。
 ナージュはセイの愛へと包まれていく。
 ――セイを、愛している。
 二人の遺伝子が奏でる音律は、唯一無二にして永劫不変の存在へと変化していった。愛しさと切なさと、甘い疼きがすべてを凌駕する。
 セイ……。
 二人は遥か彼方へと、数々の魂たちが飛来してゆくのをみた。
 セイ、セイ――。
 レイズが、ナギが、ギュルヴィがモーナが……。多くの子供たちが、数限りなく奪われた命のすべてが、魂の輝きとなって向こうがわへと渡っていく。
 ベールの影がセイの前にあらわれた。
 ――どうか、あの子へ伝えてくれ。あの子へ。ああ、アシュナへ。
 ――ベール王?
 ――どうか、わしが強欲に溺れ、汚し破壊してしまったこの世界の均衡をとり戻してくれと。時空の穴を守り、そして国を再建してくれと。どうか、頼む。わたしの呪いの言葉のすべてが、アシュナを祝福するようにと。あの子に伝えて欲しい。
 影はそういって己の非業をはげしく悔い、哭いた。
 セイがうなずくと、やっと安心したように、闇に消えていった。
 セイはそこから何かが生まれる音をきいた。
 「セイ!」
 セイは目を覚ました。
 ナージュと同時だった。
 ――今のは、夢?
 「紅竜……?」
 セイは紅竜にゆさぶられながら、盗み見るようにナージュを見た。
 ナージュもセイを見つめていた。
 あれはいったいなんなのだ。
 薄皮一枚の向こう側には、まったく違う実在の世界が広がっていた。個人の欲望も、あらゆる邪念からもはなれた、悟りの世界へとつづく彼岸だったのではないだろうか。
 身体にのこる熱い思い。
 これを夢というならば何を信じればいいのかわからなくなる。
 セイは不意に総てを打ち消してしまうようなおぞましい、気配にクラリとした。
 「なに、この邪悪な風は?!」
 黒竜が苦しげに答えた。
 「生贄の広場にある門からだ。あの魔性の門が、地底の暗黒の世界を引き寄せているんだ」
 天井から落ちて来る石片が増していた。黒竜はアシュナを自分の身の下に寄せた。
 アカパーナの門から吹きあがる魔の圧力で、城が耐えきれなくなっている。亀裂が壁に大きくはしり、崩壊の足音がさらに大きく響きだす。
 紅竜が奇妙なほど冷静に云った。
 「やはり番人だけの変動力だけでは足りなかったのだ。このままでは本当に、地底の圧力によって、この世界はひっくりか返ってしまうぞ」
 「そんなっ!」
 セイが絶句するのにあわせて、額の竜玉が光りはじめた。
 光はだんだん大きくなり、渦を巻いてゆく。陰と陽とが統合した、完璧な聖なる波動を刻み、竜玉の胎動が大きくなっているのである。
 紅竜と黒竜が目を見交わした。紅竜の顔に笑みがうかぶ。
 「竜王が、目覚めるのか」
 「ああ。どうやら愛の完成だな」
 二人は、セイとナージュをフワリと見つめた。二人の視線が柔らかった。
 「愛の、完成?」
 セイが不思議そうにきいた。
 「知っていたかセイ。――竜玉はな、愛によって成熟するんだ。互いの愛が満たされたとき、はじめて息吹をとりもどす」
 黒竜が言うのに、紅竜が続ける。
 「なぜ、おまえとナージュが目覚めさせられたか理由がわかるか。竜玉はけっして有翼天人の体温だけで育つのではない。その心、その考え、あたたかな思いで育つ。そしてそれに命を吹き込むのは、竜玉を育てる巫女が、本当に心から誰かを愛し、愛されたときだけだ。愛さえあれば、本当は五色の竜など必要なかったのだ」
 ナージュとセイは目を合わせた。
 そのとき、ナージュの額に埋め込まれていたセイの耳玉が、完全に身にとけ込んで消えてしまっているのに気がついた。
 「ナージュの耳玉が……?」
 ナージュが自分の額のそっと触れる。
 「セイ、どうしておまえの耳玉が半分だったのかは思い出さないのか?」
 紅竜の言葉に、セイは曖昧な記憶を思い起こそうと首をかたむけた。
 「わたしが――わたしがナージュを造ったとき、耳玉の半分を砕き、この穴の力をほんのすこしだけ借りて、混ぜ合わせた」
 それを永久機関の動力エネルギーとして、与えたのだ。
 「そうだ……わたしは、ナージュを自分の守護機として造ったんじゃない。誰よりもそばにいてくれる者を、私をひとりにしない――おいて逝ってしまわない、永遠にわたしだけの愛しい者を、わたしの半身として――」
 紅竜が優しくセイを抱いた。うっとりと微笑んだ。
 「セイ知らないのか?もし有翼天人の耳玉を溶かすことができたなら、それは固有の、一個としての生命を得ることができるのだと。――そう、それは機械が人間となりうることも出来ると、また意味しているのだよ」
 「えっ?!」
 「ナージュの中には、すでに半分が溶け込んでいる。おまえが恋しい者として造ったからだ。そして今その半分であったおまえの耳玉が溶けた。おまえの愛を受け入れることによって溶かされたのだ」
 「で、では俺は――?」
 ナージュの声もまた、震えていた。
 「セイ、おまえはまるで『神』のようだな。自分のために伴侶を造ってしまった」
 紅竜が笑い、黒竜もまた微笑んだ。
 「ナージュ」
 セイがナージュに抱きついた。肌の熱さが体中に染みわたった。
 抱きあう二人にかまわず、激しい爆発が地下から吹きあげた。天井のきしみに沿って、ついに堅固な天盤が落ちはじめた。
 実験機具から上がっていた火が勢いを盛り返し、天井に伝い昇っている。
 「だめだ。このままじゃ穴が持たない。門に引きずられて拡散し、世界が飛び散ってしまうぞ。――もう少しで竜王が復活するというのに」
 紅竜が忌々しそうに言った。
 「どうすればいいんだ」
 ナージュが問うのに、黒竜が答えた。
 「この力を止めるには、狂ったのと同じだけの反粒子をぶつけなければならない。それには相当量の熱が必要――」
 言いつのろうとして、ハッと口をつぐんだ。
 ナージュの表情に、黒竜はそれを教えたことが誤りだったと気づいた。
 だがすでに遅い。
 「では、エネルギーが必要なんだな」
 ナージュの口調には、固い意志がはっきりと聞きとれた。愛しい者を救うというためには、何ものにも臆さないという勇気と決心が宿っている。
 「ナージュ、でもそれはっ!」
 「セイがいなければ竜王は復活しない。そんなことになればこの世界は終ってしまう。そして万が一、地下帝国が復活でもしようものなら、それ以上に恐ろしいことが起きてしまう。多分こちら側だけの問題ではなくなる。既成しているすべての次元、すべての世界、あらゆる生き物へと波及し、取り返しのつかないことになってしまう」
 ナージュのエネルギーは、いまや穴から噴出しているものと等しだけの熱量があった。それだけのエネルギーをもってセイが造り、また命を与えた。
 その身だけでこの魔の空間との、等価交換が成り立つことを彼は理解していたのだ。
 ナージュが立ちあがった。
 黒竜がそれより早く走りだし、目の前に立ち塞がった。
 「ナージュだめだ!これは俺の使命なんだ、おまえはセイのために生きろ!」
 「ヴォル!」
 あっ、と誰もの言葉が出るよりも先に、黒竜は穴へ飛び込んでしまった。闇のなかにただよい、消える刹那、ナージュにむけて鮮やかに笑った。
 紅竜もまた、セイに別れを告げるように立ちあがった。
 つるりとしたや柔らかいセイの頬をなでると、そっとキスをする。 
 冷たい感覚を愛しみの別れに残すと、ためらいもせずに穴へまっすぐ歩んでゆき、身を沈めていく。
 「紅竜!――ヴォル!」
 セイがたまらず叫んだ。
 何と言うことなのだろうか。二人とも、別れの言葉さえゆるさず、こんなもあっさりと居なくなってしまうとは。こんな方法があるだろうか。
 あまりに突然のことに、言葉を失って、呆然とそこをみていた。
 セイは身体に滾るような熱さがうねるのがわかった。体の中から、何かが放たれる。
 二つの光。緑竜と黄竜――。
 セイの中にいた、二つの竜が光の筋となって流れ出した。
 それもまた、闇の空間にむかって走っていった。黒い闇のむこうで四色が合わさり、一つの絵のように浮かびあがると、穴の底へと完全にきえてゆく。
 「――!」
 セイが穴へ駆け寄っていった。
 中をのぞき込んだ。磁気の風がいざない、羽がこころもとなく揺らされる。闇のヒダから、黒竜がナージュへのこしていった言葉が聞こえくるようで、胸がつまった。
 「セイ、俺もだ」
 「ナ、ナージュ?――まさかっ?!」
 ナージュの目も、また、その穴に向けられていた。
 セイがその腕を止めようとした。
 「だめだ、触るなセイ」
 セイはビクッとして手いた。ナージュを見ていたセイの目に、どんどん涙がもりあがってくる。首を力なくなんども振る。
 「ナージュ……なんで?そんなの、いやだよ。いっちゃだめだよ。ナージュ、お願い、いかないで……」
 喉がつまるようで声がうまく出ない。
 「完全な調和をとり戻すには、これだけではまだ足りないんだ。――蒼竜のエネルギーが欠けていている状態では、穴は閉じない。不完全なままだ。セイ、だからきっとこれは、最初から俺でなくてはならなかったんだと思う」
 「そんなことっ――!…何で、ナージュなの?ナージュでなくっちゃいけないの?!」
 「おまえだって、本当は知っているはずだろ。俺の身体を造るときこの穴の力を使ったのだからな。俺の身体の内にあるこの波動でなら、穴を完全に塞ぐことができるはずだ」
 「――ナージュ!!」
 セイの涙は滂沱のごとく溢れ落ちていた。白磁のような頬をびっしょりと濡らし、あまりに辛さに息さえ途切れ途切れになっている。
 ナージュがセイを抱くように腕をひろげ、背からゆっくりと穴に吸い込まれていった。身が、闇へと沈んでいった。
 「セイ……セレイン、俺の――」
 「ナージュ、ナージュ、ナージュ――っ!!!」
 ――セレイン……愛している。そしてあなたにすべてを感謝している。俺を造ってくれたことに、愛する喜びを、悲しみを教えてくれたことに。これ以上ない至福を与えてくれたことを心から感謝する。俺のすべては、あなただった。あなただけだ。
 「―――っっ!!」
 ――悲しまなくてもいいんだ、セイ。万物はただ死にゆくのではなく、変わるだけだ。土に花に植物に、そして動物になり大気になって、いつだってそこに存在している。セイ……あなたのそばにいる。いつだって……俺はあなたの………。
 ナージュの最後の顔は笑っていた。
 それは砂漠でで会ってから、初めてみた、明るく幸せそうな、本当の笑顔だった。
 「ナ―ジュ――っ!」
 セイは絶叫すると、力つきたように穴の前に座りこんだ。
 ただ、ただ茫然とそこを見ていた。
 波動は収縮しはじめていた。まるでナージュを飲みこむのが、定められた運命であったかのように、やっと最後の贄で満足したかのように、則正しく波うち、だんだんと静まりかえってゆく。
 磁場の歪みは、そうやって、ようやく修正された。宇宙線の流入は止まり、異次元の開口となるはずだった巨大な門の振動が収まっていった。
 一筋の日の光が差し込んだ。
 生贄の広場にそびえたっていた、まがまがしい黒光りしている門が崩れていった。
 畏怖すべき入口は今世の法則にしたがってサラサラとした粒子になり、すみやかに有らざるものとして消去されている。
 城の揺れがやんだ。
 崩れがとまり、火の勢いが鎮火へと向かっていた。
 セイのなかの時間の進行も、また止まってしまっていた。何もかもが死滅したかのように色を失ってしまった。まるで息をしている者がセイひとりしかいないかのような、うっそりとした孤独な世界が訪れている。
 セイはぽつんと放り出されてしまった。
 迷子の子供のように、はじめて迷い出た砂漠のなかに戻ってしまったように、なにもなく、ただ独りになってしまった。
 五色の竜も穴にきえた。
 ナージュもまた――。
 そう、いないのだ!居なくなってしまった!!
 永遠に、ナージュがからわらから消え、二度と戻らなくなる現実が、ついに追いつきセイを飲み込んでしまったのだ。
 セイはへたりこんだまま異怪の穴をみつめていた。
 遠い向こうに消えさった者を諦め切れないように、ただひたすらに目で追っていた。
 あとに残っているのは、残酷なほどに穏やかな温かさを放つひとつの点だけである。
 割れた天井から、太陽の光が差し込みセイを照らしていた。鳥のさえずりがどこからともなく聞こえはじめ、おだやかな春のような風がながれこんできた。
 その時セイは声を聞いた。
 アシュナだった。真っ青な顔で息をするのさえつらそうに苦痛のこえをもらしている。彼の唇が動いているのがわかった。
 セイ、と彼女を呼んでいる。
 ただひとつ残った最後の命が、セイの魂をどうにか地上にひきとめる。
 アシュナのほうへフラフラと歩いていった。身体がやけに重い。
 それでも彼の伸ばす手のぬくもりに、現実をもとめるように緩慢にその手を握った。
 額の竜玉がくだけた。
 紫紺の破片が陽光に照り輝いた。
 光の結晶がみるみる膨らみ、セイの虚ろな瞳に一杯になってゆく。
 ――セイ
 声が、呼んだ。
 ――セレイン=ルディーク
 声と光だけが、セイを満たしていった。
 体の外も内もなく、白い光の手に抱きしめられ、思いのたけをこめた呼び声が、閉じかけた心の扉をゆっくりと押し開いてゆく。
 セイは顔をあげてそれを求めた。その声をセイは知っていた。
 「王――。渾円球を治めるべき、偉大なる竜王」
 それはまったき光だった。
 セイの額から生まれいでたばかりの若き光の巨大な広がりが、圧倒的な存在で、この世界にようやく君臨したのだ。
 サークレットが額から消えていた。
 セイのなめらかな髪がなびき、光の波にゆれた。頬にやわらかくかかる。
 萌えわきあがるような竜王の鼓動が、枯れかけた台地に溢れていった。
 天地万物の調和と約束が甦り、すべての命が輝きをとり戻していった。
 命の光が、セイの冷えきった、死にかけていた身体を温め、鼓動を取り戻させる。
 人間の愚かな知性では、とうてい計り知れない叡智を秘めた無限の優しさであった。
 竜王はセイをかぎりない慈愛の瞳でみつめていた。
 誰であろうとも、癒さずにはおかない光の旋律を全身で奏でている。
 セイは自分の心のなかへ響いてくる呼びかけに、唇が自然に動くのを感じていた。
 「――天と地と万物と、この世に息づくすべてのものの祝福を、そしてわが有翼族の変わらぬ友愛と尊敬を竜王に捧げます。――仰き願わくば、竜王の慈悲をあまねく一切のものへと及ぼし、我らとすべての生き物が、共に繁栄せんことを願い奉ります」
 ――その願い、今をもって更新された。
 創生の閃光が地上へ固定された。
 竜王は、約束の聖なるものが座すという、青い真理の地へと治まった。
 セイのその言葉によって、新たな契約が結びなおされたのだ。
 それは古代より受け継がれたイニシエーションであり、巫女だけが唱えられる次代への詩だった。約束は、セイの血に刻み込まれていた。
 ――セイ。わが養いの巫女よ。そして聖なる翼をもつ天人の姫よ。わたしが再生するあいだ、よく、守り、育ててくれた。
 ――だが人々は、多くのものを失い、天地万物をつなぐ光の糸もまた、散々に切られてしまった。人は自らの手でそれをまた、よりあわせ均衡を取り戻さなければばならない。調和と美と、創造の歌を再び紡ぎあわせ、自然との関係を癒し、信頼を回復しながら、この世を甦えらせなければならない。
 「竜王――でも、わたしたちにそんなことが出来るでしょうか。古き道の多くが途絶え、わずかに過去の叡智を伝え知る人々もまた、そのほとんどが亡くなってしまいました。かぼそい蜘蛛の糸を、人は根気強く編めるでしょうか。人と自然は、人と獣族は、また昔のような親しさを取り戻せるでしょうか。――我々はどうしたら続くことができるのでしょう」
 ――セイ、人は、いつの時代も過ちを犯してしまう。だが、それと同じように、正すこともまた人間は知っているのだ。間違ってしまったならば、あとは、どのように修正し、どのように償うかということだけが問題なのだよ。本当の力というものは、すべての調和からくるものだ。再び皆が手をとりあい聖なる道を歩むのだ。
 「聖なる道を、歩む、ですか?」
 ――そう。そして人々はすでに許されていることを知るのだ。なぜなら、宇宙の真理と生命とは、常にたった一つの存在からなるものだからだ。おまえの中には、どうするべきかという、真の答えはもうあるはず。生きるということが一つの祈りであり、一歩一歩たどる道のりこそが神への道だ。怖れや怒りがあってさえ、それは愛の裏返しでしかない。愛でないものがこの世に存在は出来ないのだから。なにものであっても、つねに愛へと変われる可能性がある。許すこと、愛すこと。それが今、人へと課せられた命題なのだ。
 「許すこと――愛する、こと……」
 セイは虚空の高みへ導かれてゆく幾多の光をみた。
 許された多くのそれらは、一つの根源へと帰ってゆくのだ。
 セイは泣いていた。泣いて、悲しみという毒を吐きだしていた。
 竜を成すという責務から、やっと解放された。
 泣くことも怒ることもできず、ただひたすらに暗くて寒い孤独の魔女につかまっていたような気がする。死という甘いいざないが、闇をひきつれて誘惑し、毒をもった鉛で冷たくセイを生きたままに締め殺そうと、何度もおとなった。
 セイはときに心地よく、ときに恐ろしくなりながら、感じないようにそれを閉じ込め、知ることを拒否していたのだ。ただ一つ、竜を孵すということだけを頭において。
 だが、潰れんばかりの責務から解放された今となっては、その甘い魔の手に抱きとられそうになるのに、セイは逆らえない。何もかもがどうでもよかった。人々の死も、世界の己の破滅も、もういい。もう関係ない。
 「ナージュが、いない……。ナージュがいなくなっちゃったんだ。死んで、しまったんだ――。もう、ナージュと永久に、逢えない……っ!」
 空気のかたまりが喉を塞ぎ、それ以上の言葉を押しとどめた。
 信じたくない。受け入れたくない。
 もう逢えないのだと、決して触れあうこともなく言葉を交わすこともなく、二度と戻って来ることがないのだと認めてしまうには、その感情はあまりにも残酷すぎる。
 胸をかきむしり、抉り、穴をポッカリと開けて、すべての感情が氷のつぶてとなって荒々しく通りぬけてゆく。永遠にずっと独りきりになってしまったと気づいてしまったら、それはきっと恐ろしい死へと変わってしまうだろう。
 セイは、その甘い誘いの手が優しいのだと気づきたくないのだ。ナージュの肌のぬくもりが、抱きしめられた鼓動が、いままだそこにいるように感じるのから。
 思い出すだけで、こんなにも苦しくて、こんなにも胸がきしむ。練獄の業火に灼かれたように全身が痛む。どうすれば、これから生きてゆけるというのだろう。
 「これからどうすればいいんだ……。永遠に癒すことない傷を、どうしたらいい。どうすれば、生きていられる……」
 ――セイ……セレイン、翼の姫。人にはいまこそ叡智をもって導いてゆく先導者が必要となるだろう。毒をもった知性は、かならず人々を自己破壊へ導く。それを止めることのできる者がどうしても要るのだ。かつて、おまえの父であったように。
 「でも、わたしにはできません!わたしには力なんて何もないし、もうできない」
 セイはもう涙をぬぐいもせず、首をつよく振った。
 竜王は沈黙し、セイの悲痛な叫びを見つめながら、引き裂かれた哀れな魂を見つめていた。
 ――願いを、一つだけ叶えよう。
 セイはハッとしたように顔をあげた。涙にけぶっていた目が真剣に見開かれた。
 「竜王、それは……」
 ―― 一族の死の淵から目を覚まし、おまえは巫女としてよく仕えてくれた。有翼とさえなさぬ幼き身体でありながら、我が卵を命をかけて育ててくれた。報いを受けとれ、翼の姫よ。
 ――セイ、さあ、おまえの願いはなんだ。
 竜王の声は疑いようもなくはっきりそう云った。
 いまだかつて、竜が報いを与えた巫女は一人としていなかった。
 人々の間にささやかれていた伝説は――竜が願いを叶え、不老長寿を与えるという言い伝えは――本当にただの噂にしかすぎなかったのだ。
 人智およばぬ世界のできごとに、人々が抱いた願望であり、有翼族のもつ長寿と美貌への憧憬による虚言にすぎないおとぎ話だった。
 セイは竜王のその言葉を、だが、すぐには信じられなかった。もう一度、もう一度、もしかしたら大切な人を呼び戻せるかもしれない。
 最後のチャンスだった。もしこれを裏切られたら、今度こそもう生きてはいけない。喜びが大きすぎて、声がつまり言葉がうまく出てこない。
 「竜王、わたしの願いはただひとつ――」
 セイはなぜかそのとき、彼と目が合ってしまった。
 竜の向こうに横たわっていたまっすぐな視線を。見つめている、優しい少年の顔を。
 アシュナはしずかに微笑んでいた。命尽きようとしながらも、いまなおセイを信じて疑わない、純真な赤子のような目をして、信頼のひとかけらも失わずセイだけを見ていた。
 セイはそこから唇が動かなくなるのを感じていた。己の心の冷たさに気がついた。
 欲望に溺れ、凍えるほどに冷えきった身勝手な我欲に満ちみちている。
 混沌とした闇が、身体の奥底からあふれでて、身動きできないほど心をひたしてゆくのを、どうすることもできない。
 アシュナはセイに笑いかけた。最後に、命すべてを煌かせたような慈しみであった。
 そこには、悟りをきわめた穏やかさがあった。許しを与えたものだけが持つ安らぎの清浄さがある。己を苦しめ、悲しみを与えた者、未来を奪い去った父たちですら、彼は許していた。何もかもを、セイの身勝手な心までもを、とっくに赦していたのだ。
 そしてそれがセイの心を引き裂いた。きっと、セイが自分ではないものを選ぶことを知っている。それでも心を開いている。それがアシュナという存在自身。彼は、生まれながらの聖者なのだ。
 セイはアシュナの心を受け入れた。そこにひそむ意志までもが理解された。
 彼のなかには崇敬の念をもつのに相応しいだけの、気高いエネルギーがあった。
 王たる者がもつ、この世を統べる力である。
 ――セイよ、おまえの望みはなんなのだ?
 竜のふたたびの問いの前に、口がうまく動かない。
 心は、かたく決まっていたのに。
 ベールの言葉がよび起こされた。
 セイは声なき悲鳴をあげる。その明晢な智慧は、明確になすべきことをしてしまう。
 いま、誰よりも求められているだろう者がなんなのか。誰がこの世界に必要なのか。
 ――セイ
 まっすぐな目をもち、寛大な心と真摯に物事を受け止めることができ、未来にすすむことができる新たなる王。その最大の可能性を持つ者。
 ――セイ
 心が引き千切られてしまいそうだ。心と体で二つに裂け、狂ってしまかもしれない。
 ――セイ、おまえの望みは?
 最期の問いだった。
 竜王は答えを待っていた。
 セイは自分の抱いた絶望の大きさに、目の前が真っ黒くなっていった。
 意識が暗闇に落ちてゆくのを止められなかった。


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