耳玉
黎明の翼------
黎明の翼
10
セイは声が掠れるのがわかった。
頭痛が地鳴りのようにたえずしており、手足の感覚がなくなっていた。
そこから重苦しい空気が噴き出されていた。信じられないくらいの霊気の量だ。
何もかも、こちら側の法則を無視し、ねじ曲げ、道理も正義も愛思いやりも食いちぎり、薙ぎ倒していくかのような圧倒的な力だった。
生命の根源を平然とおかし波動の流れを狂わしてゆく。
その穴はぽっかりと開いていた。そこから先に続いていたのは、なんと異空間の広がりだった。そこから流れ込んできているのだ。
魔法使いゼダは、穴の開口部を、何事もなかったかのように閉じた。その力を注ぎこんだ瓶をセイの目の前で揺すってみせると、力に惹かれうっとりとほくそえんだ。
「美しいであろう。無限の力ぞ」
「ダ、ダメだよ。それは――ボクたちが触っちゃいけないものだ。こっちに入れちゃいけないものなんだよ」
セイが青ざめながら言うのに、ゼダはいくぶん感心したように片口をもたげた。
「ほう、おまえにでもわかるのか?これが何なのかを。確かにこれはこちらの世界に存在せぬものよ。それゆえ未知なる可能性に溢れておる。そうは思わぬか?」
「違う!それは未知の可能性ではなくて破滅だ。人が触れてはいけない禁忌の陰だ」
必死で言うセイの声が、にわかに変調する。
誰かの声に、重なってっていった。
『その力は、いずれ必ず災いをもたらすだろう。それを扱うにはこの世界はまだ稚拙すぎるのだ。 ゼダよ、おまえは自分が何をしようとしているのかわかっているのか?人は何度でも繰りかえし、何度でも忘れるものだ。おのれの力を過信しすぎることで、力はおまえに必ずしっぺ返しをするだろう。取り返しのつかないところまで来たときに、誰もがようやく己の愚さを知るのだ。力に取り込まれてはいけいない。その力は、この地上のものが触れてはならないものだ』
「ええい黙れ!わしに指図するな!」
ガッと目を剥きだした。
「貴様!――そ、その人を小馬鹿にしたような口調、その人を見下すような傲慢な目。まさにあいつじゃ――有翼族特有のものではやか。やはり出来損ないのふりをして猫を被っておったか!」
『魔法使いよ、おまえは何が目的なのだ。なにに固執している。この世に混沌を望むは、すべての消滅を願ってのことか』
「わしの望みは今も昔もかわらず一つ。そのためにいままで生きてきた。だが、それが叶うのも、もうすぐそこじゃ。邪魔だてははさせぬぞ」
『その為だけに、哀れなベールを利用したのか』
「ふん、あのような俗物なぞ、わしの手駒になれただけでも充分よ。なにが黄金都市よ、なにが王妃再生よ。わしの理想はそのように下賎ではない。悲願はただ一つ、地下帝国の復活、ただそれだけじゃ!」
『――地下帝国』
「そうじゃ。暗黒の魔王国よ。闇のエネルギーに満ち、魔獣と、黒魔術師たちで支配する、暗黒の世界よ。かつて遥か遠い過去世において、この世界を凌駕していたという、あの偉大なる地下帝国の復活こそが、わが使命なのじゃ!」
その名を聞くまで誰も思い出しもせぬほど遠い昔の、混沌とした邪悪な時代である。
「わしは、我が師、わが盟友たちを冥府より呼び起こし、高等生命を蘇らせ、忘れさられた暗黒の術と、魔法、闇の生き物を、復活させるのじゃ。そのために、長き年月を生きさらばえてきた。わが帝国を復活させるためであれば、人間どもにかしづいてみせることなど、何ほどでもない。異次元の力でもなんでも、利用してみせる。わしにはそれだけの力があるのじゃ!」
悪鬼の野望はついえることはなかった。過去の悪夢が生々しい音をたてて、すぐそこまでやってきている。
「見てみよ。愚かな人間どもを。やつらはわしの手足となって順調にすべてのことをここまで運びよったぞ。現におまえの種族は死滅したではないか」
『やはりおまえが――』
「そうよ。ベールにメリジューヌを引き合わせたのもわしじゃ。恋情を吹き込んだのもわしじゃ。むろん、メリジューヌが翼の王セイレークを慕っておったことは知っておったからの。後は勝手に、筋書きどおりへとベールは行動してくれたまでじゃよ」
クククッと喉をゆらした。
ベールは気が狂ったように攻め立て、メリジューヌを手に入れるために半有翼族の村を滅ぼし、彼女の思い人たるセイレークを憎むようにしむけた。
そして、メリジューヌを暗殺し、有翼族にすべての罪をきせたのだ。
『やはりそうだったか。それで怒りに狂ったベールが有翼族を滅ぼしたのだな』
「ふんっ!我が帝国を滅ぼしたのも有翼族じゃ。報いを受けて当然のことよ。我とわが同胞の怒りはこのようなものではないぞ!」
『おまえたちが滅んだのは、おまえたち自らの力のせいだ。力をもてあそんだ報いの結果だ。わかっているのだろう。また同じことを繰り返す気か』
「なにを言う!貴様らが来さえせねば、この世は今をもってわれらの天下であったはずじゃ。すべては貴様らのせいではないか」
『それは違う。たしかに起因は有翼族にあったかもしれぬが、それはおまえたちの作り上げたものが、黒い源によった力による創造だったからだ。おまえたちはそのために自らの足場を失い、だから消滅してしまったんだ』
「違う違う違う!!」
ゼダは激しくがなりたて荒く息をついた。
「我らは復活する。世界を取り戻すのじゃ。そのために世界の外に根をはり、隙をうかがってきた。そのときがようやく到来する」
『魔法使いよ、あの力を扱うにはおまえはまだ未熟すぎる。目を覚ませ』
ゼダは興奮のあまりわれを失い、セイを思いきり杖で殴った。セイは後ろに飛ばされ、床にゴロリと崩れた。
「あの力はわしのものじゃ。わしは完璧じゃ」
『……そうしておまえは、遺伝子を操り、生命と神の領域を冒してきたのか。子供たちを試験管のなかで授精させ、魔に耐えうる、新しい容器としての肉体を製造しようとしていたのだ』
「神とはわしのことじゃ。あの力を操り、わしは神になったのじゃ。たかが子供の命なぞ、どうしようとかまわぬ。甘いことをぬかすでないわ。人の形を取りえなくなった我が種族のために、人間どもを容器として使ってなにが悪い。やつらとて我が種族の礎となることは光栄の至りであろうぞ。よしんば失敗しても、その屍は我が帝国復活の入口となれるのじゃ――そう、黒き門となってな」
『そうして、おまえは多くの命を断ったのか。彼らとて生きていたのに、心があったのに。――むごいことをする。あんまりに酷い』
苦鳴を漏らすように謂った。涙が滂沱と流れおち、目の色が澄んできた。
「……痛いって、痛いって叫んでるのに。生きたいって言ってたのに。……どうしてそんなひどいことができるの、なんでそんなことをするの」
泣き声は変わっていた。幼い声だった。
秀麗な面もちが消え、泣き崩れる少年の表情に戻っていた。
「家畜を殺してなにが悪い。貴様らとて、羊を屠り、喰らうではないか。やつらを造ったのはわしじゃ。わしが神じゃ。見てみい、わしには絶対服従じゃそえ。ひとこと言えば、みずから命も断つし、隣りで眠る赤子を殺すことも厭いはせぬ。そういうふうにわしが造ったのじゃからな」
「そんなの彼らの意志じゃない!おまえが操ってるだけだ。それはおまえの心だ!」
「生意気な口をきくでないわ!いい気になりおって小童めが」
ゼダの杖がふたたびセイの背中を殴りつけた。頭を体を、何度も何度も叩きつけ、セイの口から血の霧がふきあがった。
息の根を止めんばかりだった手が不意にとめられた。杖が砕かれたのだ。
「な、なにやつじゃ」
ゼダはカッと燃えるような目を向けた。
杖についていたアメジストごと粉々に砕き、激昂に青くオーラを滾らせていたのはナージュであった。鋭い短刀が両手に幾本もにぎられ、ゼダを狙っていた。睨み殺さんばかりの形相である。
「貴様どこから――!」
ゼダの口が怒りに裂けたかと思われた。
だが、ナージュはいままでに見たこともないような煮えたぎる闘気をまとっていた。
激しい感情をあらわにし、我をわすれ怒りに燃えさかっているではないか。それは、ゼダすら息を飲みこむほどの熾烈な鬼気であり、あまりにも凄まじかった。
「セイを傷つける者はだれであっても、許さない!」
ナージュが低く云った。セイが殴りつけられているのを見た瞬間、彼の中のなにかが爆発してしまったのだ。全身が沸騰したように熱くなり、全て白くなってしまった。
備えられた本能とでもいうべき衝動のようなものが駆けぬけ、目の前のものをあらんかぎり破壊しつくしてしまいそうな荒々しい激情に駆られた。
その射抜かんばかりの気迫を恐れ、我知らずゼダは後退していた。それを横目で見ながら、ナージュはセイに膝まづくと、そっと抱きあげた。
セイはぐったりしながらも、これは本当なのだろうかと疑うように、必死でその顔を見つめていた。瞬きをすると消えてしまうかのうに、大きく見開いている両の目に、涙が盛り上がってゆく。
「どうして、ここへ?」
震える手でそっとナージュの顔にふれた。あたたかかった。
ナージュが切れた口の端にそっと指をそえると、つらそうに眉をよせる。
セイは彼のぬくもりを感じたとたん、ここに連れてこられてからずっと張りつめていた緊張の糸が切れたかのようだった。彼の胸に顔をうずめ、ほそく鳴咽をもらしはじめた。ふるえる肩にそっと手をおくと、ナージュはやっとみつけた宝物のようにセイを抱きしめた。
厳しく魔法使いを睨みすえると、威嚇するように牙を剥きだした。
「おまえは、やはり守護機!――あれほど破壊しつくしたというのに、よもやこれほどの守護機がまだ残っているとは」
気圧されていた目を、クワッと血走しらせ見開いた。
「さすが有翼天人よ。これほど精巧な技術を伝えておるとは思いもせなんだ。まこと素晴らしい、古代魔術の傑作じゃわ。異界のエネルギーを、こうも見事に機械へと変換させておるとは、さすがよの」
ゼダの身体がゴキュっと鳴った。
女の身体をかたどっていた殻が、はち切れたようにダラリと前に垂れた。
背から、二つのコブが盛り上がり、その中から男の顔が現れてくる。
「欲しいぞ、欲しいぞこの守護機。我らが古代呪術をもってしても、これだけのものは造れぬ。この秘術を解きあかせば、我が魔術は完璧のものとなれるはずじゃ」
セイは抱き締めるナージュの腕に力が入ってゆくのを感じた。呪いの言葉から、少しでも守ろうとするかのように強まる。
セイはそっとナージュの拳に手をかさねた。ナージュが顔をむけた。
セイが微笑むと、手がやわらかくなった。ナージュはやっと、暗闇の悪夢から目覚たような顔をして、それから見たことのない鮮やかな笑みをうかべた。
「ナージュ……」
セイは胸が熱くなった。彼の手が、腫れた頬をなでると、セイの泪からまた泉のように涙があふれた。
彼の指にもしたたり、そっとそれを拭いとると涙にぬれた指に彼は唇をつけた。
「ナージュ……もう二度と会えないかと思ってた。来てくれないと、思ってた」
ナージュのあまりに優しい表情に、セイはいままで体中を駆け巡っていた感情をこらえ切れなくなってしまった。止めることもできず、口から噴きだしてしまう。
「会いたかった。ずっと会いたかった」
「セイ……」
「ずっと呼んでたんだ。ずっと、ずっと待ってた……ナージュ、大好き」
胸の奥底からの湧き上がった声のようだった。ナージュの長い睫がかすかに震えた。
「すまない、来るのが遅くなった。おまえがこんなことになっているのに俺は……」
「ううん、来てくれただけで嬉しい。すごく嬉しいよ。ありがとう、ナージュ」
涙に濡れ顔が笑みをつくった。ひどくキレイだった。
ナージュは困ったような顔をしていたが、セイの耳朶に指を当てると、耳玉を取り出した。そのまま自らの額に埋め込んでしまう。
「ナージュ?!」
「これでいい。これでおまえの波動と一致できる。おまえの痛みを癒してやれる」
額の玉が完全にナージュと一体化すると、セイを冒していた身体の痛みが薄まってくるのがわかった。体が再生をいそぐかのように微熱をおびる。それにあわせて、ナージュの鼓動がセイの鼓動と同調し、二人はまた、ひとつになった。
「貴様らは逃がしはせん!わしの糧としてくれるわ!」
ゼダの叫び声に二人ははっとして目を向けた。
ひきつれた醜い顔が完全にできあがり、魔法使いは外側の魔女の肉体を脱ぎすて、岩のような黒いごつごつした体へと変身していた。
不意に腕がしなった。部屋のなかがスパークし閃光に包まれた。
ナージュは背を楯にしてセイをかばう。
光がねじ曲がって走り、粒子が突然変異したように大きくブレた。奇妙な力をうみ出しはじめ、次元と次元が重なりあい、天と地の根源がゆらぐような力が加えられる。
目のまえで、パクリと口のようなものがひらいた。
「こ、これはっ!?」
「ケケケっ。異界の穴よ。決して逃げだせん無限地獄の檻じゃ。貴様らをそこで飼い殺してやるわ」
力の渦は不気味なうめき声を発し、セイを抱くナージュの体ごと引きずっていった。セイの髪が痛むほどの激しい力で吸いよせられる。体のすべてを細胞にまで分解し、ひとかけらもあまさず飲み込もうとするかのように力をましていった。
思わずナージュは膝をついた。エネルギーの強さに骨がきしんでいる。
狂人の笑い声が耳に障った。
誰かが肩に触った。プッツリと重力の嵐が止まった。
いや、止まったのではない。
そこだけが周囲からすっぽりと切り取られたように、力を弾きかえしていたのだ。
顔のない女――。
あの、階段で会った、顔のない、口と鼻の穴だけが開いた女性が、二人の横に立っていた。彼女はセイとナージュに腕をまわして抱き、ゼダに首をむけた。
ゼダの狂喜の顔がふいに青ざめる。
それが怒りか恐れかはわからなかったが、ひどく顔をおぞましげに歪めている。
三人の姿は、忽然とそこから消えてしまった。
その手は優しかった。柔ららかくセイの髪をなでた。
「あなたは――」
女はセイを見つめていた。
いや、見つめているようにみえた。
正面から向き合ってはじめてわかったのだが、彼女の顔は、ケロイド状になった火傷の跡で覆われていた。彼女は長い前髪の向こうから、まるで目が開いているかのように、その部分で、じっとセイをみていた。
初めて会ったときほどの驚愕は、もう起こらなかった。それは恐ろしいとは思えない。ただ彼女には、泣こうにも涙を流す眼がなく、悲しみを訴えことも苦痛も表現することも出来ないのだいう、その悲しみだけが酷く伝わってきた。
彼女のかわりに泣きたくなった。鼻の奥がツンとしてきた。セイは頬に手をあてられ、ないはずの顔のうえに、見たこともない微笑が浮かべられているのを感じた。
「どうして助けてくれたの?」
辺りは薄暗かった。突然この場所に移ったように思われた。
どうやってあの力から逃れられたのだろうか。ここがどこなのかもわからない。
それでも魔法使いの妖力圏でないことだけは確かだった。空気が多少かカビ臭くはあるが、ひどく穏やかで優しい。
セイはそっと指で女の頬にふれてみた。
「痛かったでしょ……つらかったでしょ。こんな、酷いことっ」
女はセイの手をそうっと握った。合わせた手に、彼女の優しさが流れこんできた。
二人の心が混じりあり、彼女のなかに延々とうずまいていた出口のない暗闇が、セイの両目から、浄化の涙となって流れていった。止まりがつかないほどだった。
「――魔法使いの、せいなんだね」
セイにはわかった。女の手は硬化して水晶のように光っていた。セイの頬をなで、体温を少しでも感じたいかのように、それだけが彼女を慰める行為なのだとでもいうように、柔らかな線をなどってゆく。
きっと彼女は温もりに飢えていたのだろう。
「あなたは、誰なの?」
セイは、彼女が答えられないとわかっていても聞いてしまった。
女はわかっているのか、セイに背をむけると、するりと古びたドレスを脱いだ。
ほっそりした背中だった。右の肩胛骨の部分に、ねじ切られたような、火傷にもみえる醜い盛り上がりがある。
翼のあった跡でだった。無惨にも、片翼がそこにあったことを物語る印が、瘤のような傷跡となって残っていた。無理やりもぎとられたことが一目瞭然だ。
ナージュがそっと息をついたのが聞こえた。
「半有翼人か――」
「半、有翼人?」
「ああ」
半有翼人とは、片翼しかもたぬ者であり、有翼族と人の多種族との間にできた、亜人種なのであった。
彼らは、有翼族ほどの優れた能力があるわけでもなく、長寿でもないかわりに、純血種にはない、旺盛な生命力と好奇心があった。
有翼人に比する生彩な美と、人間と同等の繁殖力をあわせもち、すでに彼らで一つの種族を名乗れるほどにまで増えていた。半有翼人は、有翼人のことを非常に敬っており、そのふかい叡智と造形に心酔している。彼らによるところの、完全体である有翼天人を、神のような存在だと思っていたのだ。
「たぶん、王妃も……シアも、獣形をとることのなかった有翼亜人種だったんだろうと思う。今にしてみれば」
ナージュがつぶやくように言った。
身構えるまもなく、ふいにセイは女に突き飛ばされてしまった。暗闇を急降下しながら、セイはそれがユニコーンと一緒に、鏡のなかに落ちたときと同じ感覚だと思っていた。落ちながら、ナージュの腕に抱かれるのがわかった。そのままどさりという衝撃がして、床に転がった。
「痛ったぁ………あ、あれ?」
見たことのある天井。
のぞきこんでくる驚いたような顔もまた、知っている。
「モ、モーナ!モーナがなんで?!」
「セイ!まあぁっ、セイがどうして鏡の中から?! あなたよく――よく生きてっ!」
セイはモーナにいきなり抱きしめられてしまった。彼女の体がすこし震えている。
「ああ、わたくし、あなたがゼダ様に連れてゆかれてしまったので、てっきりもう……。セイ、まあ本当によく無事で。アシュナ様が、どんなにお喜びになられるか!」
「ア、アシュナは――?」
「アシュナ様はあなたが連れ去られしまってから、それはもう寂しがられて、一度などは助けに行こうとまでなさったくらですわ。わたくしやシェンがどれほどお慰めしたか。ずっと元気がなくて食膳のほうも進まないご様子で、このままではご病気になってしまわれると心配しておりましたの。セイ、よく無事で戻ってくれましたわね」
勢いのいい足音が駆け込んできた。
「モーナ、いまセイの声が――」
扉をあけたアシュナ顔がパァツと色づいた。部屋自体が明るくなったように感じる。
笑っていた顔が、いきなり泣きそうな顔になってセイにとびついてきた。
「セイ!――どこへ行ってたの」
モーナから今度はアシュナの腕に抱きしめられていた。
「なんで急にいなくなるんだよ。どこにも行かないでってお願いしたのにセイ!」
「う、うん。ごめん、ごめんよアシュナ」
「待ってたんだよ。きっと帰ってくるって、ボク待ってたんだ!」
アシュナがあまり激しく抱きつくのに、セイは倒れそうになった。
後ろからそっとナージュが支えてくれる。
セイはなんと言おうかと言葉がみつからなかったが、落ち着くまでとりあえずそのままでいた。やっと我をとりもどしたアシュナは、抱きついいていたセイの腕に血がついているのに、驚き声をあげた。
「セイ、どうしたのひどい血だよ!あ、頭もじゃないか。大丈夫?!」
モーナもようやく気づいたのか、あわてふためき薬と布を持ってきた。
だが側にいたナージュがそれを無言でうけとると、セイの手当をはじめてしまった。
そのとき二人は、やっとナージュの存在に気づき、なんとなく彼のもつ重厚な雰囲気に圧倒されてしまっていた。しかもかつて医者をしていただけあってみごとな手際である。セイも痛がらず、ナージュにまかせていた。
アシュナとモーナは、気遅れしながらそれを黙って見ていた。二人の様子が自然すぎて、声がかけられないのだ。
セイのあまりにも安心しきっていて、完全に身をまかせている顔をみていたアシュナは、自分でも自覚のない不快な感情に眉間へシワがよっていた。
「誰なのあなたは。セイとはどういう関係なの」
怒ったような声で言った。
「え、アシュナ?」
「まあひどいわセイ!肩のほうも腫れあがっているじゃないの。どうぞこちらをお使いになって」
モーナの甲高い声にかき消された。
ナージュは差しだされた薬草のカゴから、一枚葉を選ぶと、揉んでセイの背中にはりつけた。よくみるとあちこち打撲がある。
「ほんとだ、ひどいや。体中、真っ青じゃないかセイ。どうしたの、こんなにひどく誰がやったの?」
アシュナが心配そうにのぞきこんだ。それを払拭するように、セイがお日様のように微笑んだ。一瞬みとれてしまう。
「ううん、もうそんなに痛くはないんだよ、大丈夫だよ」
「ほ、本当に?」
本当だった。もう、心が痛くないのだ。心の痛みにくれらべれば、体の傷などたいしたことではない。痛みも半分ほどにしか感じられない。
ナージュはそのときになってやっと始めてアシュナとモーナに目を向けた。二人はいきなり正面からみつめられ、なぜか赤くなった。それに気づかずセイが言った。
「心配してくれてありがとうね、アシュナ」
「あ、ううん・……別にその…」
アシュナはナージュの視線から目をそらした。セイを取られたような気がして抛ねていたのに、こうして向き合うと、完全に迫力負けして言葉がでない。
その後ろではモーナが、ボウッと真っ赤になっていた。手に持っていた薬箱を落とし、薬草が散らばるのに、さらに赤くなって、あわてて集めているではないか。
「あっ、あのわたくしお茶でも――」
ばたばたと忙しく隣の部屋へかけていった。
「セイ?」
セイがうつむき、いきなり体をガタガタと震わせはじめた。
ナージュはなにが起こるのかわかっているような顔であり、そうっと腕にささえると、呼吸が楽なように床に横たえた。
セイは小さく丸まるように膝をかかえ、かくんっと身体がひきつる。
それが合図のように、セイの身体が発光した。
光が部屋を埋めていった。目が開けられないほどの輝きを増すと、声をかけることもできないアシュナの前で、いきなりセイは何度目かの変態にはいってしまった。
「セ、セイ?!ど、どうしたの、ねえ苦しいの?」
「触るな!」
伸ばした手を、ナージュがパシッと払った。
アシュナは驚き息を飲みながら手をひっこめた。
ナージュは瞬きもせず、セイだけを慎重な面もちで見つめていた。じっとそれを見守っている。
「……ナージュ…」
苦しげな息のなかセイがつぶやいた。アシュナはその声でわかった。彼がセイを置いていったという、大事な人だということを。
その声はそれほど甘かった。
光がふつっと途切れた。アシュナはセイのその姿にさらに目を丸くした。
一段と美しさが増していた。
姿や顔の輪郭は同じなのに、目に見えない薄いベールが剥れおちたように思われた。
鮮やかな深みが加わり、無色だった生地に色がほどこされたような変化だ。
なんと表現していいのかわからない。セイなのに、セイではないようである。
サークレットの竜玉も瑠璃色だったのが、セイの瞳の色によくにた紫紺に変色していた。姿にあわせて優美な形に変わっている。
セイはゆっくりとだが、確実に美しくなっていた。時を選んで変化をしていくようであった。ナージュの腕に支えられて起きるのを、アシュナはうっとりと見ていた。
ふうっと夢のようにやさしくセイが微笑んだのを見たとき、悔しさが頭を殴りつけた。それはナージュにむけられたものだった。唇を噛んでそっぽを向く。
シェンがすいっとナージュのそばに立ち顔をよせた。
セイと同じ匂いを感じたのか、甘えるように鼻を当てた。手のなかに心地よさそうに頭をあずけた。アシュナはそれをみたとき、ついに癇癪をおこして、怒鳴っていた。
「シェン、どうしてそいつになんか懐くんだよ!」
「ア、アシュナ?」
「こっちにおいで!」
アシュナの激しい声に、さすがセイも驚いて目をむけた。
アシュナはなんとなくいたたまれないようにむくれて横をむいていた。
いつも甘い笑みを絶やしたことがなかったのに、怒った顔は始めてだ。
だが、その表情の中に、アシュナが焼きもちをやいているのにすぐ気がついた。
「アシュナどうしたんだい。そんな怖い顔して。なにを怒ってるの?」
「セイ、セイこっちに来てよ。ねえ、セイやだよ。どこにも行かないでよ。セイはセイなんだよね?姿が変わってもセイだよね?」
「う、うん……そうだよ」
セイはアシュナに手を引かれ、アシュナのそばへよろめいた。
手を痛く握られたまま、隣の部屋へ逃げだすように連れてゆかれた。
アシュナは戸を締めるとセイに抱きついていた。
「どうしたのアシュナ。なんでそんな泣きそうな顔をしてるの?」
「セイ――だって、彼なんでしょ。セイを置いて行ったのって、彼なんでしょ」
「う、うん。でもね、こうしてちゃんと帰ってきてくれたんだ。戻ってきてくれたんだよ」
「そんなのダメだよ!きっとまた置いてっちゃうよ。また、セイを苦しめるよ。ねえ、彼と行くの?ボクを置いていっちゃうの?――やめてよセイ。行かないでよ。勝手に君を置いていってしまうようなやつなんか駄目だよ。また泣かされるよ。もう行くのやめなよ。ボクとずっと一緒にいようよ。行かないで、ここにいてよ!」
セイをきつく抱きしめる手に、どこへも行かないでほしいという気持ちが、痛いほど込められている。
「……ごめんね。でもボクには、しなくちゃならないことがあるんだ」
「だったらボクが手伝う!父様に言えばどんなことでもすぐにしてくれるよ」
セイは、しずかに首を振った。
「そうじゃないアシュナ。そうじゃないんだよ。わかってるんでしょ?」
微笑んではいたが、抵抗しがたいような決意があった。
「セイ……」
「ボクはアシュナが好きだよ。大切な友達だし、アシュナがボクと同じように思ってくれて嬉しいと思ってる。だからね、アシュナにはわかって欲しいんだ」
「だって、だってセイが行っちゃったら、ボク、また一人ぼっちになっちゃうじゃないか。一人はもう嫌なんだよ、寂しいの、嫌なんだ」
きっとアシュナがこんな事を言ったのは、セイが初めてだっただろう。そんな気持ちにさせてくれる人が、他には誰もいなかった。セイにはわかっていた。
「ボクだって同じだよ。わかってる、アシュナの気持ちは。でもお願い、友達でいてくれるなら、好きでいてくれるなら、ナージュと行かせて」
「セイ………本当に、ボクのこと好き?……忘れないでいてくれる?」
「大好きだよ。アシュナがボクのことを忘れないでいてくれる限り、絶対に忘れない」
アシュナはセイの瞳の奥底にまで自分を焼きつけるようにみつめた。涙がこぼれた。
抱きしめた手をやっと離したかたと思うと、いつものようなやわらかい笑顔に戻っていた。
「ごめんねセイ。困らすつもりはなかったんだ。ただちょっとだけ我儘を言ってみたかっただけ」
「わかってるよ、アシュナ」
セイはアシュナの頬に手をあてた。涙をぬぐった。
二人が部屋から出てきたとき、そこにあったのは、ナージュの困り果てた姿だった。
モーナの目にもとまらぬ過剰なサービスの攻撃が、ナージュに炸裂していたのだ。
目のまえには食べ物の山が出されている。おしぼりも、お茶も、果物も。
「ナージュ様、お茶のおかわりはいかがですか?――ああ、こちらはの果物がおいしゅうございますのよ。あら、お口に合いません?ではこれはどうですか」
「い、いや、もういい。モーナ、俺は食べ物は――」
「あらお腹がおすきではなかったのですね。では寛げるようにクッションでも」
モーナはところせましとかけ回っている。セイとアシュナは思わず吹き出していた。こんな困りきった様子のナージュを見たことがない。
「セイっ!」
ナージュはセイを見るなり助けてくれといわんばかりの表情をした。
反対にモーナはのほうは、もう出てきたのかと残念そうに顔をしかめる。二人が、あまりにもわかりやすすぎるのに、セイとアシュナは笑っていた。
「モーナってば、ナージュのこと気に入ったみたいだね」
アシュナがセイの耳もとに囁いた。
モーナは何を囁かれているのかわかったのか、ポッと赤くなった。
言い訳をしようと口をひらきかけたモーナを、ナージュが制し、耳をすませた。
ばたばたと廊下を駆ける音が近づいていたのだ。兵士たちの慌ただしい声が、セイらしき名を呼んでいる。
ナージュとセイは顔を合わせた。ナージュが頷いた。
意を決したようにセイが言った。
「アシュナごめん、これ以上いると君に迷惑がかかるんだ。もういくよ。いつも突然で、驚かせてばっかりでごめんね」
「セイ!」
「また、必ず来るよ」
だがまだ一番気がかりなことを言っていない。この城に残して行くことが、これほど不安なのに。
「――願い、これだけは心にとめておいて。ゼダにはくれぐれも気をつけるんだ。薬は危険だから絶対に飲まないで。それから王にも――」
「セイ、行くぞ」
ナージュが大きくなる足音に、セイは抱きかかえられた。
「アシュナ、王にも、王にも気をつけて――」
ナージュは窓から飛びだしていった。
驚愕に見開いたアシュナとモーナの目に、白い羽がひろがる。
小さくなる二人を見ているそこへ、ドアがバタンとひらかれ、兵が飛び込んできた。
「アシュナ様、失礼いたします。こちらへ不審な二人組が参りませんでしたか!」
アシュナも、モーナもまったく何事もなかったような顔をみかわした。
微笑んでみせた。
「いいや誰も――誰もここへは来なかったよ。ボクとモーナだけだ。いつもの通り」
部屋をきょろきょろみまわし、納得して頷くと、また慌しく兵たちが出ていく。
アシュナは寂しそうに空へ顔をむけた。
祈るように目を伏せ、何かを思い出しているかのようだった。