黎明の翼
1
プロローグ
砂の音が耳に染みた。
うつぶせていた頬にあたる砂が、灼けつくほど痛いはずなのに、どこかなつかしさを覚えさせていた。
砂の巨群はどこまでもひろがり、風のえがく風紋が海原の波のようにみえる。
若者は、それを美しいと思った。
小さな砂の一粒までもが、斜光に火焔をあげ、水晶に似たきらめきをはなち、過ぎさる時間とともに、身体のうえにゆっくり振りつもり、覆いかくしてゆく。
――なぜこんなところへ横たわっているのだろう。
ゴオッという地鳴りが空気を走り、ぴりぴりと肌をさした。砂に埋もれながらゴロリところがり、天空をあおぐ。
どこまでも果てしなくつづく青い青い空だった。
終わりがないように思われる広大な砂漠と、その青い空の狭間には、風以外、なにも存在していない。
自分だけがその空間に閉じこめられているかのようであった。虚無のさびしさが、湧き水のように、胸にじわりとしみた。
このまま、砂と空の狭間にたった独り投げ捨てられ、終わりなく時をかさねるのだろうか。
だれかが許してくれるまで、ここに居るのかもしれない。
静かに瞬きを繰りかえす紫紺の瞳に、巨大な生き物がうかびあがった。
それは大きな翼をはばたかせ悠然と舞っている。見たこともない燐光を放ち、いくたびも頭上を旋回していた。
網膜を焼切りそうなほど澄んだ空から、それはゆったりと舞いおりてきた。まるで切りつける熱と光線から、若者を守っているかのように濃い影をおとし、若者はひと時のやすらぎに息をついた。
――誇り高く美しい獣。
――生きるものすべての王であり、地上を守護する聖なる霊獣。
いきなり鐘をうちつけたような地響きがした。
まるで戦いの火蓋がきられた、鬨の声のようだった。
若者は短くうめいた。それに触発されたかのように、奥底に眠っていたはずの、おぞましい記憶が、全身にながれこんできた。
一族の血に受継がれる、決して消えない恐怖と憎悪の感情が、魔物のように牙をむき、脳に食いこんで、見えない鮮血を流れさせるかのようだった。
遠い過去の記憶なのに、たった今傷つけられたような、激烈な痛みと苦しみが甦り、耐えられずのたうつ。
仲間たちの慈愛や優しさも、比類なき気高さも、残酷に穢され、無残にほろぼされてしまった。暗く悲しい時代の潮流に飲みこまれるのを、ただ黙って見ているしかなかった。
その後悔のやるせなさに、嗚咽をもらし、涙をこぼした。誰かに助けをもとめるように手をのばした。
柔らかな視線と目があった。
天空を舞うそれが、じっと愛しむようなまなざしで見つめていた。
その両の眼に抱きしめられたとたん、狂おしい映像がふっつりと消え、かわりに溶かすようなやすらぎが溢れてきた。
光が全身をみたすのにあわせ、体のこわばりがとけてゆく。ひどく心地いい。
意識を吸いとられ、夢にかすんでいった。
――……セ……イ…。
誰かが名を呼んでいる。
――セ…イ……。
何かをささやいているが、よく聞きとれない。
切なげに呼ばれて身じろぎながら、バサリッという羽音に目を大きくひらいた。
高く飛翔するそれから放たれた陽光が目に突きたつ。
「竜――」
創世の主たる、世界の王。命あるものの全ての至高の生き物。
竜は銀の煌めきをたなびかせながら蒼い空へとけこんでいった。
消え去ってしまうまでのほんの数秒間、ひとつの運命の星が消え去ったような光りがあがった。
不意にひたいに焼けつく痛みが走った。
マグマのように燃えたつ。
むき出された全身の神経を、乱暴な針で貫いたような疼痛がして、頭が白くなった。同時にひたいから閃線が放たれ、空のいただきを照らしあげられる。
砂漠一面が光におおわれ、黄金に染めた。
光が不意にやむ。
とたんに痛みが消え、あとは恐ろしいほどの静寂さだけ。
いつのまにか白晢の額には、優美な白銀のサークレットで包まれていた。
中央には、彼の瞳とおなじ、紫紺の色合をした大きな珠だった。まるで竜の鱗を思わせるように光っている。
そっと触れてみた。珠は見たこともない輝きをみせた。
そこからは生き物のような脈動が感じられて、ほの温かくある。
「……この感覚…」
全身をはしりぬけた異様なさわりにブルッと体を震わせた。
背を丸めて大きく息をつく。
ふわりと、純白の双翼が、しなやかな背にあらわれた。天上界でみるこの上なく優麗な幻想のように、目を奪わずにはいない美しさが煌めいている。
若者は短くあえいだ。そのまま力つきたように砂にたおれこむ。
気を失い、砂風に吹きながされる。
背中の美しい翼が彼を包みこみ、花のつぼみのように閉じてしまった。
それと同時に、サークレットの形が一瞬にして変わった
その麗しい若者もまた、時間が流れるように、姿を変えていったのだった。
さらさらと体から落ちる砂を素肌に感じていた。
目を開けた一瞬、とびこんできた太陽のまぶしさのあまり目が見えなくなってしまった。
やっと多すぎる光の量に目が慣れると、ぐるりと周囲を見回した。視界にひろがるのは砂の海ばかりである。
照りつける太陽の熱さが、空の高みで黄色くくすんでいた。どこまでいっても砂と無音の風だけだ。彼以外には、世界には生命の鼓動がまったくないかのように思われた。
「ここ、どこ……?」
つぶやいた声は、ずいぶんと幼い。
まだ五才か、六才ぐらいであろうか。死の砂漠に独りたたずむにはまだあまりに弱く、小さすぎる。
少年はひどく薄汚れた色合いの肌をしていた。赤褐色の髪が砂にまみれ、みるからに垢抜けない風貌はどこかたよりなく、口減らしの捨子のようにも思われる。
陽に灼かれた肌はいたるところがひび割れていた。鱗のようになっている。ただその額には、薄汚れた子供には似合わないほど美しく、みごとな銀細工のサークレットが飾られていた。どんな子供でもひとめで高価なものだとわかる、緑青色の珠がはめ込まれている。
「……こんなところで何を…?」
大きな紫紺の目をくりくり回して考えてみても、自分がそこにいる理由がどうにもわからなかった。いや、それよりも、ここにいる以前の記憶がみごとに真っ白なのだ。更地のように、なにもない。
ふいに少年の顔に笑みが浮かんだ。
一つだけ思い出したことがあったのだ。
「セイだ!ボクの名前はセイなんだ!」
なぜ自分がセイなのか、なんでそう思うのかはわからなかった。それよりほかは思い出せないのに、はっきりとした確信があった。いつか誰かに誰かにセイと呼ばれたのだ。
名前だけでも思い出せたことで、自分の拠り所をみつけたように安堵していた。
何もないよりはいい。
今度ははっきりと砂漠を見つめた。そこにはやはり何もなかった。一面砂ばかりだ。
疾走する風さえ、せき止めるものが何ひとつない空間では、音すらたたなかった。
耳朶を振動させてゆくだけで、砂ばかりが見事な幾何学模様をえがきながらサラサラと流れてゆく。
人間をよせつけない厳しさだった。死を裏側に秘めたひそやかな世界。
純然たる美をもち、絶対の力を誇る太陽のもとに、生死の進退をくりかえしている。その砂の世界を、しっかりとした足どりでセイは歩きだした。何かをしなくてはならないという感情が不意にわきおこったのだ。
突き動かされるように進みながら、砂に足をとられよろめき、何度かころんだ。そうしてみて、やっと陽光のはなつ熾烈な熱の恐ろしさに気がついた。
意識したとたん、熱がさらに質量を増して襲ってきたようだった。それでもセイは、とにかく前に歩みを進めていた。
じっとしていても死を待つだけだ。ならば少しでも進んだほうがいい。
その方向が正しいのか、どこへいけばいいのかもわからなかった。本能に従いまっすぐ歩くだけである。
一瞬一瞬に表情をかえる砂は、二度ともとの場所へは戻してはくれない。もしかしたら死に向かう道筋をたどっているのかもしれないし、誰にも会わず、このまま砂の群れに押しつぶされてゆくのかもしれない。
ただ照りつける砂が素足を灼き、チリチリと皮膚をめくるような痛みが身を刺すようだった。
セイは空を仰ぎみた。
蒼穹の空には太陽だけが燃えていて、ふっと意識を奪われかけた。視界が白濁してくるなかで、青くはかなげな焔をあげ漂っている球体が目に映った。
「……きれい」
セイはその光に胸がしびれるような慕わしさを感じ、それへと指をのばしていた。
青い炎は小さな指先に止まり、まるで生き物のように煌く。
熱くはなかったが、幻のように美しく悲しげだった。そっと抱きしめたくなる色合に、セイは魅入られてゆく。
ヒュンと空気に逆らう細い音がしたかと思うと、いきなり何かに身体を拘束されていた。全身に激痛が走り、ぐいぐいと胸を締め上げられゆく。あまりの圧迫感に悲鳴さえでない。
砂のうえを引きずられた。
「なんだ、ガキじゃねえかよ」
大きな影が乱暴に持ちあげたかと思うと、赤銅色のいかつい顔が目の前に現れた。
「こんなところで素っ裸のまま、おまえ何してやがるんだ?」
訝しむような顔で睨まれる。男のつやめく黄色い瞳がまぶしく感じられた。
セイは何の服も身にまとわず裸のままだった。瘡蓋のように茶色い皮膚を陽光に曝し、それさえ分かっていないかのように、キョトンとしたままである。
男は舌うちし、あきれるように目を細めた。
軽々と持ちあげていたセイを砂のうえに立たせると、全身を絡めとっていた細い針金をほどいた。男の頬には星のような傷がついている。やけに特徴的だった。
珍しいものでも見るようにしげしげと見上げるセイに、男は眉根を寄せた。
「おまえこんな砂漠のまん中で何してやがったんだ。熱に焼かれて死に気なのか」
乱雑な口ぶりだが、ふしぎと嫌味な感じはしない。
「おまえの種族は何なんだ?他の大人はいねぇのか?――にしても汚ねえな。まったくこんな馬鹿げたことをしやがって。おまえどこの幻獣族なんだ」
言いながら、セイは男に首根っこを捕まえるようにして抱えあげられた。そのまま日陰になっている丘陵へと連れてゆかれる。
日に激しく焼かれたセイの皮膚は甲羅のように厚く硬くなっていた。
セイは頭をいきなり押さえつけられた。
背中を指で強く押され、ひきつるような痛みがして思わず悲鳴をあげていた。
「やあっ!」
「これは……?」
思いっきり暴れるセイなどものともせず、男はしばらく神妙にそれを眺めていた。かと思うと、表情を和らげ、毛布でセイを包んだ。
水差しの口をぐいと押しつけられる。
唇に液体がふれた。甘く潤すような触感に、セイは突然、なにも考えられなくなって夢中でむさぼり飲んでいた。息を継ぐ間もなくノドがせわしく上下するばかりだ。
「おまえ、どこから逃げてきたんだ」
そう問われるまで水差しから口を離そうとしなかった。
「ん?」
「こんな真っ昼間に、砂漠のど真ん中を散歩するようなバカはいねぇぜ。あっという間に干物だ。だれか他に生き残った者はいないのか。……もう、氏族は全滅しちまったのか?」
気づかうように問われるが、セイは何を言われているのかわからなかった。
大事そうに水の袋を抱えたまま、困ったように大きな瞳をみひらき小首をかしげた。
セイは、ただじっと男を見つめていた。もしかしたら、彼ほほうが、自分が誰れなのか答えてくれるかもしれないと思っていたのだ。
「――そんなに他人の目を視るもんじゃない。幻獣族の種類によったら、その場で殺されても仕方ねぇぞ」
男は鼻のつけねにシワをよせると、セイの頭をぐいっと横にひねって、舌打ちした。
「おまえ何族の出だ。獣相があるのは確かだが、いままでに見たことがねぇ種類だ」
「獣相?」
「種族の証だよ。お前も知っているだろう。にしても、こんなやせっぽちでみすぼらしい幻獣族なんて見たことねぇぞ。どっかにこんな種族がいたっけかな」
セイには男の言っていることがさっぱりわからなかった。
「まあでも、このままじゃあ売ろうったって、どうにも売れねぇけどな」
それで捨てたられたのかな、と小さくこぼした。困ったようにこめかみぽりぽりと掻いていた。
セイは、口は乱暴だがなぜかこの男がちっとも怖くなかった。どこか温かいものが感じられている。それに目を醒ましてから、初めて会った人だ。その安堵感だけでも彼を信用するのには十分である。
セイはハッと顔をあげた。
男の向こうに青い光が漂っていた。さっき見た、あの青い光――。
まるで自分を誘うように明滅していた。それがまるで自分のもののような気がして、無意識に歩み寄ろうとした。毛布が足にからまりつまずき、男の腕に飛び込んだ。
「おっと、何してんだよ」
「ひかり――。青い光がそこに」
「光?」
男は訝しげにセイの視線の方向へ首をかたむけた。
だがそんなものは何もみあたらない。
「光なんざどこにもないぜ。おまえ頭のほうは大丈夫なのか?」
真剣にのぞきこむ男の瞳に、映し出されている自分の姿を、セイはまじまじみつめた。そのときはじめて知ったのだ。
なんて薄汚れた汚い小さな子供なのだろう。びっくりしたように目を丸く見開いていて、本当に生まれたての野獣みたいだ。
こんな顔を、自分はしていたのだろうか?
「おい、おまえなんて名だ」
「えっ?」
「名前だよ。なんて言うんだ」
「名前……私……ボクの?」
やっぱり頭がおかしいのだろうか、という顔をした男に、セイはやっとその意味を理解し、にっこり笑って大きな声で言う。
「――セイだよ!セイっていうんだ!」
「セイか」
「うん。セイだと、思うんだけど」
「……思う?で、何族なんだ」
「そんなこと知らないよ」
「知らないって、おまえ自分の種族だろ。本当に頭ン中ゆるんでるのか。それともしらばっくれてんのかよ――」
いきなり強められた双眸に、危険な光がやどった。頬にあったキズが凶暴に歪む。
「こんな昼の日中に、真っ裸のガキなんてのも、ちょっとおかしすぎるからな」
「……だって、そんなこと言ったって、ボクにもわかんないよ。さっき目が覚めたばかりだもん。気づいたら、ここにいたんだ……」
それ以外どう言えばいいのだろう。本当にそれより他に記憶がないのだ。
「ああっ、そうだ。大きな銀の獣がね、空を飛んでいたよ。そだけは覚えてる。すごく大きくてすごくきれいな、こぉんなのがさ」
興奮したように起きあがり、手で羽根をかたちづくり飛ぶまねをした。毛布が落ちて裸になるのにも気づかない。
「おまえ、その体は――?!」
ハタッと止まったセイの下半身を、男は凝視していた。
「おまえ、何族なんだ?!俺はいままで性別のない子供なんて見たことねぇぞ」
セイはなんのことだかわからないと小首をかしげる。彼の視線のさきの下半身をみた。どこがおかしいのだろうか。
だが男の驚く顔に、急に不安に襲われた。怯えの色が浮かんだセイは、ふいに毛布にくるまれた。そのまま乱暴に抱えあげられると、やわらかく背中を軽くたたかれた。
「まあいいさ。俺の氏族にくればわかるだろう。なんといってもグラン・マがいるからな。彼女にわからないことは何もないんだ。幻獣族でも五本の指には入る偉大なる老賢母だからな。大丈夫だ、安心しろチビ」
セイはわかったような、わからないような感じであったが、それでも、さっきの突き上げあるような不安がきえてホッとしていた。じっと彼を見つめていた。
一片の穢れもくすみもないセイのまっすぐな視線は、まるで生まれたての赤子のように澄み、紫紺の瞳だけが濡れたように妖しく光っている。
姿のみすぼらしさと、その瞳の高貴さが、あまりにもそぐわなかった。男はみつめられて寒気のようなものを感じたのか、ぶるりと震えた。
ふと額のサークレットに目を止めた。
それまでなぜ気づかなかったのか不思議なほど、その存在に目が止まらなかった。
サークレットの中央に埋めこまれた珠は、よほど高貴な部族の、しかも貴族だけしか身につけられないような美しい緑青の玉だった。
それに気づかないなんて信じられない。まるでサークレット自身が姿を隠していたかのようだ。
触れようとして、あわてて手を引っ込めた。電気のような刺激が走ったのだ。
「これ、どうしたんだ、おまえ?」
まるで触られることを拒絶しているような反応だった。
いったい何者なんだといわんばかりに、セイとサークレットを見比べる。
砂漠にはまだいくつかの幻獣族が逃れ住んでいるといわれていた。実際に会ったことのない種族がいてもおかしくはない。
だがそれも、年々激しさをます幻獣狩りの執拗な魔の手によって、獣人そのものの数が少なくなってきていた。
絶滅してしまった種族もいたし、生存の有無がしれない者たちもいた。なんとか生き残って、抵抗の旗を挙げている者たちもいる。だがもう数えられるほどである。
王国に君臨している貴族たちの猛攻は、まだ一向におさまる気配もなかった。
じわじわと追いつめ、逃げのびる先へ先へと手をまわし、どんな狂気と妄執にとりつかれているのと疑うような、誰ひとり残さぬかと思われる執拗さで幻獣族を追いつめ命を奪っているのだ。
セイもその攻撃をうけた幻獣族のひとりかもしれないと思っているようだった。
戦火の激しさからどうにか逃れてきたが、その残虐な戦いのために記憶をなくしたのかもしれない。
「おじさんは、誰なの」
「――おじさんじゃねぇ、レイズだ」
おじさんと呼ばれ、嫌そうな顔をした。セイは笑った。
「ねえ、ねえ、レイズはだったどこから来たの。なんでボクのこと知らないの?」
「おまえが自分のことを知らないのに、俺が知っているわけがないだろう。……俺はな、この先の隠れ里にいる、幻獣族の里リランの氏族(クラン)だ」
「幻獣族?」
さも頭の弱そうな子供に、レイズは仕方なく逞しい腕をみせた。たしかに色の違う長い毛がそこだけにのびている。
「――獣の相と血を受け継ぐ者だ」
言ってニッと男前の顔をはじめて笑みにゆるめた。
「俺は犬狼族だ。幻獣族にはまだ他にもたくさんの種族があるし、それぞれに特有の能力をもつ者たちが存在しているんだ。まあ、そうはいっても、そんな特殊能力をもつ者は今はほとんどいなくなってるけどな。――人間との混血がすすんだせいで純血種はほとんどいない。例えいたとしても、たいした力を持っているやつはめったにいないよ」
それも王のせいだと苛立つようにつぶやき、金の目を剣呑に光らせた。
「ったく、今まで俺たちの方が人間どもを庇ってやってたのになぁ。今じゃその人間どもが、こうして俺たちを狩ろうっていうんだから、やってられねぇぜ。やつらに惨殺されたおかげで、砂漠にすむ幻獣族以外は、ほとんどいなくなっちまったよ。俺達のもつ特殊能力が危険だっていいやがるが、人間のほうがずっと残酷で危険さ。――多分、おまえも、おまえのクランの幻獣族も、みんな人間どもに襲われたんだろう。まったく俺たちがなにをしたっていうんだよな」
遠い都にいる「王」とやらを睨みつけるように、まなじりを鋭く吊り上げた。尖った犬歯がのぞき、秘められている怒りが垣間見える。
「おまえが何の幻獣族かは知らねぇが、きっとどっかに仲間がいるさ。――まあ万が一いなかったとしても、俺達のクランに来ればいい」
レイズは優しい顔をセイにむけた。
「安心してな。グラン・マに聞けばなにが起こったか教えてくれる」
レイズをみつめたまま、なんの反応も示さないセイの鼻を指で弾くと、脇におろした。
荷物袋からなにやら引っ張りだしはじめる。
「ほら、コレを着ろ。ちょっと大きいかもしれないが、裸よりはマシだろう」
狼らしい気の細やかさで、服やらマントやらをあてがうと、つぎつぎに包みをあけた。残り少ない食糧を食べさせてくれる。
いったん仲間だと認めると保護欲がわいてくるらしい。
「でもよく助かったな。ほんとになにも覚えてねえのか」
「……うん。でも、なんでかなぁ、どこかに行かなきゃって、すごく思えたんだ。だから一生懸命歩いてたんだよ」
「はんっ、バカだな。日中にうろつくやつがいるかよ。昔と違って、そうそう水場があるわけじゃねぇし、陽の光だって尋常じゃぁねぇんだよ。俺が拾わなきゃ、いまごろチビの干物ができ上がってたな。ここらは特に砂の侵食が激しいんだ。実際、クランで水を飲むのにもこと欠いてるぐらいなんだからな」
「水が、少なくなくなっちゃったの?」
「ああそうだな。グラン・マが云うには、世界の均衡とやらが狂ってるんだとさ。だぶん竜が姿を消しちまったか――または、死んだかだろうって。王の乱行に、さすがの竜も怒ったんじゃねえか。まだ竜の世代交代の時期には早すぎるってのによ」
「竜――」
銀の燐光をはなち、金の瞳をした聖なる野獣がふいに頭にうかんだ。
「まあどっちにせよ、俺らにとっては最悪なことには変わりねぇよ。王様つっても、三百才をとっくに超えた呆けたジジィが政務を執ってるんだからな。水は干上がり、作物は枯れ、砂漠の侵食はどんどん進んでいる。わかりきったこの事態に、何の対策も立てようともしないんだ。その上、子供がほとんど生まれなくなっちまってるのに、役人どもは子供をさらって、どんどん都に連れて行っちまう。俺ら幻獣族だけじゃなく、この世界が滅びるのも、時間の問題としか思えねぇさ」
どれだけ心を痛め、悩み、苦悩しきったのか。だがそれももう愛想がつきたとでもいいたげな言い方だった。
だがセイには、まだ世界がどれほど混沌としているかも理解できない。彼の言葉の意味すらわからないのだから。
「おまえは運がいいさ。こうして生きのびて、俺に出会えたんだからな」
「うん――。朝からね、ずっと誰にも会わなかったよ。もしかしてこの世界はボク一人だけなのかなあって思ってたんだ」
「朝からって、おまえその間ずっと、水も日除けの外套もなしで歩いてたのか!?」
「だって、歩かなきゃダメかなって思って」
レイズは日焼けによって顔中の皮がめくれているセイを、さらに量るように見つめた。
砂漠の熱射を数時間もあびれば、たいていは体中の水分をほとんど奪われ、皮膚が焼けただれ火傷に苦しみながら死んでしまう。
だがセイの皮膚は、熱に灼かれ肌ははがれていても、火傷すらおこしていない。目は生き生きときれいな潤みを保っている。
水分を一滴も口に含まずこれまでこられるとは信じがたかった。いや異様なことだ。
セイがどんな獣の者であるかは想像できない。けれど生き物ならば、この土地で水なしには生きていられないのだ。
「おまえ、なんでそんなもん持ってんだ――」
セイの髪の毛にひっついていた植物に気がついた。丸々とした小さな果肉をいくつもつけた青い草だった。思い出したようにセイは髪にからむそれを引っ張り取った。
「それは砂漠にはえる唯一の植物だ。幻の霊草といわれているくらい、めったにお目にかかれないはずだぞ」
「これがどうかしたの?」
セイは何の疑問ももたず、手のなかの草粒とレイズを交互にみた。
植物の王といわれるほど、それは補水性にすぐれていて、果肉一粒で口の渇きがいえ、二粒食べれば全身に水分が潤うといわれていた。
過去には、旅人の草と呼ばれており、けっして多くはなかったが、砂漠を往来する商人たちを助けるぐらいには生えていたものだ。だがそれも、珍しいというよりも、すでに見ることがなく、絶滅した種だとさえいわれていたのだ。
ふいにセイの手に小鳥が止まった。どこから現れたのか、くちばしの長いはしばみ色の小鳥だった。
「あっ――」
レイズは小さく声をあげると、鳥は羽ばたいた。
空に消えてゆくのを呆然とみつめていた。
セイは別段、不思議そうな様子もみせず、レイズにむきなおると草を手渡した。
「これって、おいしいんだよ。小鳥がああやって時々もって来てくれるんだ。はい、レイズも食べてみて」
何か言おうとしたレイズに、セイは思いっきり背伸びをして一粒さしだした。
思わず口にしたそれは、舌触りのいい水を弾かせ爽やかな水分で喉をひたしていく。
セイにはこの植物を口にできることが、どれほど奇跡に近いかわかっていない。
いや、こんな砂漠に、あのように美しい小鳥がいることが信じられない。
「わあ……っ」
セイは感嘆の声を漏らした。
いつしか太陽は地平線に巨大な姿を沈めかけていた。
深紅にそまった空の広がりのなかで、朱色にほんのりと色づいているセイに目をやりながら、レイズは思惑ありげに口をつぐんだ。
すっかり元気をとりもどしている。
赤い空が毒々しいほどに色を増し、ゆれる空気の層が幾重にもかさなって幻想的ですらあった。砂の小さな一粒までもが空の星にあわせて輝くのを、いつまでも飽きずみている。
「そろそろ行くか」
レイズは荷物をかかえると、小さな袋をセイに持たせた。ポンポンと砂丘をはたくと、砂の丘だと思っていたそれがゆらりと動き、中から『馬』が現れる。
温和そうな黒い目をした大きなそれは、垂れた耳をゆらしのっそりと背伸びをした。細く長い首に茶色い強毛がぎっしり生えているのは、太陽の光を直接浴びるのを防いでいるためだ。
レイズはセイを乗せると自分もまたがった。
夜のとばりがおりてゆく砂漠へむけて、ゆっくりと歩き出していったのだった。
太陽が消えると、紺碧の空の向こうに星が姿を見せはじめていた。
どこからやって来るのかわからないほどの星々がつらなり、蒼い絨毯に模様をえがき、果てしなくのびていった。
空気が急速に冷えてくるのがわかった。先ほどまでとは違う痛みが肌をチクチク刺しはじめる。
セイは首をすくめると深くマントにくるまった。馬にゆられて夜空をながめる。
背から伝わるあたたかさがとても頼もしくて、安堵感につつまれていた。闇に飲まれてしまいそうな広大な砂漠の孤独から、優しくひき戻してくれるようである。
夜の冷気が、レイズという温もりにあたためられ、不思議なほどの懐かしさにおそわれていた。ウトウトしはじめたセイは、揺り起こされた。ハッと目をひらいく。
「リランの里だ。俺のクランだぞ」
セイはいきなり首根っこを掴まれ、そのまま馬から下ろされた。乱暴な手つきだが、親猫が子猫をはこぶように繊細である。
肩に巻かれていたレイズの逞しい腕からドンッという振動が伝わった。
ビックリして隣をみると、すらりとした髪のながい少女がレイズに抱きついていた。
「お帰りレイズ!ずっと待ってたのよ。今晩つくっていうあなたの心(メッセ)信(ージ)が聞こえたからここでずっと待ってたの」
少女は、ぽかんとみあげているセイにはいっこうに構わず、そのまま甘えるようにレイズの胸に鼻をよせた。瞳が嬉しさにうるみ極上の笑みにくるまれている。
「ねぇレイズ大丈夫だった?危ないことなかった?奴らに見つからなくてよかったわ。疲れたでしょ。ご馳走の用意をしているのよ。はやくこっちに来て、レイズ」
「おいおいナギ、ちょっと待ってくれよ。こいつが目を回してるじゃないか」
ナギの嵐のように降ってくるキスに苦笑しながら、レイズはセイを指さした。
せっかくの再会の感動を中断させられ機嫌をそこねたように、ナギは不満げにセイをみた。
「あら――」
レイズのとなりで、ぽかんと見ていたセイに優美な眉毛をいくぶん吊りあげた。
ぽってりとした魅力的な唇をすこし尖らせ、大きな瞳に勝気な色を浮かべている。
視線を頭から足の先まで移動させながら、少しでも不審な点はないかと確かめているかのようだった。
「この子ね、拾ったって言ってた子は。まあでも、本当にずいぶん汚たないわね。なんだ、誇大表現じゃなかったんだ」
素直すぎる感想に、レイズが思わず声をあげて笑った。それでもナギは、レイズからセイを受けとると、笑みをこぼして顔を近づけてきた。
長い金茶に焼けた髪がセイの頬に当たりくすぐったかった。小柄だが、気の強そうなきれいな顔立ちをしている少女だ。
「久しぶりだわぁ、小さな子供って。もういつから見てないかしら」
「ああ、そうだな。多少汚れてはいるが確かに子供だぜ。――おい、それよりグラン・マには話をつけてくれてるんだろうな」
「もちろんよ。グラン・マも薬草が届くのを楽しみに待ってるわ。グラン・マはあなたをすごく頼りにしてるんだからね。今日はちょうど月並の宵だから、きっと今は広場で聖火を焚いているはずよ」
「そうか。ならもう少しして行くよ。とりあえずこいつになんか食べさせてやってくれ。俺は荷を降ろしてくる」
「わかったわ」
レイズは集まってきた若者たちに、テキパキと荷物の指示をしながら忙しそうに行ってしまった。どの若者もレイズを憧れたような眼差しでみつめている。
セイはどこか保護者を失ったような心もとない顔をして見ていた。ナギがキュッと鼻の頭をつまみ、皮をめくった。
「ほんと皮膚がボロボロね。どこもかしこも真っ黒。ねえ、記憶があんたなんにもないって本当?」
「う、うん」
「ふうん、どうしたんだろうね」
セイはドギマギしながら返事をした。思ったより逞しい腕の中は甘い香りがする。
「――あれ、なんでナギはボクの記憶がないの知ってんの?」
ナギはふふん、と鼻で笑った。
「私もね、狼族なのよ」
サラリとした長い髪をめくり、ナギはなかに隠れていた一房を見せた。レイズと同じ茶色い獣毛がまじっている。
「私とレイズは特別なのよ。離れていても頭んなかでお互いに話ができちゃうの」
「頭のなかで?すごいね!どうやってするの。他のみんなもできるの?」
「誰にでもこういう能力があるわけじゃないわ。まあ今のところ、私とレイズだけかしら。もちろん犬狼族だからって、誰とでも話せるってわけでもないんだけどねぇ」
得意げな、少しにかんだ笑みをみせる。ひどく可愛く映る。
「私とレイズはね、今度の月変わりには結婚する予定なのよ」
頬が上気して、花びらのようだった。だれかに言いたくてたまらないように見える。
「私たちは特別なの。お互い通じあっているから、遠く離れていても声が聞こえるのよ。心で話ができるの」
「特別……」
特別という言葉が、やけに耳にのこった。
「ねえ知ってる?レイズの頬にある傷跡のこと。あの傷はね、獣人狩りにあったとき、私をかばって敵の矢に射られたのよ。レイズって、本当はメチャクチャ強いの。一人で王兵十人くらいは軽く倒せるんだから。でも絶対に弱者を見捨てたりしないの。今回だって、たったひとりで薬草の買い出しに行ってたんだから。すごくすごく危険なのに、他の人を危険にさらしたくないってたった一人でね」
レイズのことを幸せそうに話すナギをみているうちに、セイは『好き』という気持ちが、とても甘く、心地いいものなのだと思った。羨ましくて、少しまぶしい。
そのままナギに抱かれたまま、セイは女ばかりいる館へと連れて行かれた。
セイをみるなり、黄色い嬌声があがった。
「まあまあまあっ!子供じゃないか。なんて小さいんだい。よく生き残ってたねぇ」
「よく汚れてること。可愛いわねえ、手なんかこんなに小っさいわよ」
「ああ、私も抱かせてよ。細っこいわねぇ、ちゃんと食べてたのかい」
女たちはセイを奪いあうようにして、手に手に撫でまわした。引っ張りあわんばかりの賑やかさだ。
野良仕事でかたくなった腕に抱きよせながら、だれもが嬉しそうな笑みをうかべている。子供の感触にうえた母性が暴走しているかのようである。
「こっちへおいでおチビちゃん」
「おやまあ、おチビちゃんはお腹がすいてるんじゃないのかい。誰か食べるものを持ってきとくれよ。それに何か着るものがいるね。体をふく薬草も揉まなくっちゃ」
「なんて大きな目をしてるんだろうね。ちょっとみんな、もう少し静かにしないとびっくりして目を回してるじゃないか」
気ぜわしい女たちはセイに夢中になっていた。てんやわんやと世話を焼き続ける。
もともと情の深い性質である幻獣族は、ことに子供を大切にするのだった。宝物のように氏族全員で可愛がり、みんなで守り掟をしつけ、子育てをするのだ。
「あんたレイズに連れて来られたんだってね。ほんとになんにも覚えてないのかい」
「ナギから話を聞いたときにはびっくりしちまったよ。きっとショックで記憶が飛んでしまったんだろうねえ、可哀想に」
「ごはんのおかわりはどうだい。遠慮しなくていいんだよ、スープもいっぱいお食べ」
「うっ、ううん。――ありがとう。でももうお腹いっぱいだよ。これ以上食べたらお腹がパンパンになって弾けちゃうよ」
お腹をたたく仕草の可愛さに、女達はまたケラケラ笑って喜んだ。飽くことなくかわるがわる膝に乗せだきしめる。どの女性も、腕や足は筋肉そのもののように硬かった。だが抱きしめる胸は優しい。みんないい匂いがして温かくて、心地よすぎた。
ほんのりとさわやかな香りの風が漂ってきた。見た目よりかなり大きい家の中は、風の通りがよくてずいぶん涼しい。
「あんたの獣相、変わってるねぇ。背中のここんとこだろう。やけに固くて出っ張ってるわね。――あごめん。触ると痛いんだね。それよりこの額飾り、綺麗だけど、ほんとに取れないのかい」
体を拭いてもらったときに、外そうとしたのだが、微動だにしなかったのである。
セイは自分のサークレットに触れがら言った。
「張りついてるみたいなんだけど、でも重くもなんともないんだよ」
まるで体の一部のように額にとけ込んでいる。
「取れないのって、変なのかなあ?」
セイは気にしたふうに中央の珠をなでた。
年配の女性が心配ないというよ、とカラカラと笑ってみせた。
「きっと、外れないのなら外れないだけの理由があるのさ。気にすることはないよ。それにこんな可愛い子が、生き残ってくれただけでも嬉しいことじゃないか、ねぇ」
口元のシワがやけに優しい。セイは女の胸にほほをすりよせた。
「柔らかくてあたたかいね。これ、とっても気持ちいいや。ねえ、この柔らかいのは女の人だけについているの?ボクにはないの?ボク、男でも女でもないんでしょ。だったら何なのかなあ」
そう無邪気に問うセイに、女たちの身がわずかにこわばった。なんと言おうか迷うように、となりの女性と顔を見合わす。
セイの身体を拭いていて、性別がないのに気がついたのだ。
驚いて騒いでしまったのをセイはずっと気にしていた。
「セイ、お待ちどうさま。グラン・マが呼んでるわよ。レイズも来いって」
今まで忙しくしていたらしいナギがやっと顔をのぞかせた。女たちにセイを預けるとそのまま消え、レイズを待っていたあいだサボっていた残りの仕事をしていたのだ。
ヒョイッとセイは女達の中から抱きあげられた。
「大丈夫よ、セイ。グラン・マがちゃんと教えてくれるわ。安心してなさい」
そんな疑問なんてどうってことない、というような調子だ。
女たちは「グラン・マ」という言葉にあきらかにホっとしていた。
リランの里にすむすべての獣人たちは、老賢母をこころから敬愛していた。その深遠なる宇宙の果てのような思考には、きっとわからないことはないのだ。そう絶対的に信じきっている。
そうであるからこそ、今までこうして生き残ってきているのだから。
「おばさんたちも『月並の宵』に行きましょう」
ナギのかけ声にうながされて、女たちと連れだって広場にむかった。
夜はすでに更け、青銀の月が冴えざえと天空に昇りつめていた。