剣と剣のまじわる鋭い音が、幾度となくくりかえされていた。
うつろな表情をした集団が、いままでになく執拗に森射たちを追いまわしているのも無理はない。きわめて極上の魂からはなたれる生気は、彼らにとってなによりのご馳走であるのだ。
その肉を屠り、喰らえば、はかりしれぬ力の恩恵を浴することができる。呪わしいその身であっても、取りこめばより強大な力を得、引き裂かれるような飢えの苦しみを一時でも癒すことができる。光をみつけたならば手を伸ばさずにはいられない妄執にのみ、突き動かされている。
猟犬のようにすぐ嗅ぎつけ、さらには数が半端ではなかった。ただやみくもに力まかせにして闘うわけにもゆかない。いちいち切って捨てていたのでは、いつまでたっても目的地につきそうにない。
出雲の霊山にはいったとたん、死の戦士たちの数が、格段にましていた。そのために、彼らはほとんど逃げ回っているといった状況であった。
イサナはいきなり切りつけてきた怨霊のどす黒い魔力を剣うけながしながら、さすがに嫌気がさしてきたとばかりに、吐き出すようにつぶやいた。
「くそっ、きりがないな。黄泉比良坂はいったいどこにあるんだ」
「比良坂は、この近くに存在していることは間違いありませんわ。霊気が格段に高まっていますもの」
火見華はさきほどから、たしかになにかを感じているのか、白いうなじに鳥肌をたてていた。
さすがに最初のうちは死肉のようなゾンビたちに恐れ、青ざめて足元を震わせていたが火見華も、腐臭にもなれ、戦いのさなかですら行く方向の霊視を乱すことがなくなっていた。
ヒリヒリするような刺激のある空気が、このあたりから微量だが流れてきているのは三人にも感じられている。
彼らはどうにか、出雲の神をまつっているという杜を探しだし。その背後にそびえる鎮守の森に存在しているであろう黄泉比良坂へ通じる洞窟をみつけだそうと、その森の奥深くをさまよっていたのであった。
出雲に入ってしばらくのあいだは、火見華のつくった強力な護符によって、自分たちから放たれている、常人とはかけ離れたオーラも消されていた。
たがそれもほんの目くらましであり、この御神体ともいえる山に入るやいなや、彼らのオーラは不思議な力と引き合うかのようにいや増しに増していったのである。
その臭いを嗅ぎ付けた死者たちが集まり、彼らを絶対に目的地へはたどり着かせまいとするかのように、無限にふえる虫のごとく襲いかかってきていた。
「出雲の地も、ここまで伊邪那岐の邪念に犯されていたとはな」
イサナがいうのに、森射は腰に佩いてある剣に手をかけた。
「ああ、だがこれだけ数が増えたということは、比良坂も近いということでもあるだろう」
言いながら、剣をぬきはなった。
狭崎の鍛えた世にも稀な剣だ。この刃によってのみ、不死の苦痛にあえぐ悪夢たちを救ってはやれる。
「だめだ森射、その剣はいまは使うな。やつらを殺してやることはできるが、その波動はさらに広がり、いま以上に集まってくるぞ。――やつらだってわかるんだ、おまえが黒媛の呪いから解き放ってくれるということをな」
「次ぎから次ぎへとこれほど現れるのなら、いっそ同じだろう。それに、おまえの体力だってもたない――」
言いかけた森射は振りかえった。まるで腕をつよく引っ張られ呼ばれたような気がしたのだ。
小高くなった頂きにはえている一本の古木が目にはいった。
森射の目のひかりが増した。
「どういたしましたの姉様」
「あそこまで走れ」
「えっ?」
「あの木が呼んでいる!」
森射は火見華の手をとると、いきなり走りだした。イサナはむかってくる死者たちに激しい最後の一撃を加えふりはらうと、そのまま疾風のように走り森射たちのあとを追った。
木の根元に大きなウロがあるのが見えた。
風がそこにあたり、変調的にねじれ、ヒョロヒョロと変わった音をだしている。
森射はその音と周囲の空気のわずかな境目のような場所を見切ると、思いきって飛びこんだ。
空気の流れがピリッと変わった。
ぞろぞろ集まっていた死者の戦士たちは、不意に目的物を失ったかのようにそろぞろとあてどもなく、辺りをうろつきはじめた。
風音の心地悪さからか、そこに留まるのを厭うようにして、そのうち散会していきはじめだす。
森射の腕の中で、小さくなっていた火見華が、顔をあげた。
まるでその木の歌に酔ったように頬を紅潮させていた。うっとりとしように目をうるませ吐息をつく。
「結界――。木が、はってくれているのですね」
森射たちもそれに気づいていた。
巨木の枝によって丹念にあみあげた複雑な模様をぬって風がふきあげ、織り合わされ、さざめく自然の音色がかなでられている。
ウロからきこえる不思議な音とあいまって、歌っているように聞こえる。その歌こそが、結界をつくっているのだ。
「呼ばれていますわ」
火見華が指し示した。
「こちらの方向で、だれかが、呼んでいる」
森射はその声が聞こえたかのようにふりむいた。
小高い頂きとみえたそのむこうは、完全な絶壁だった。
深い谷が切り立ちどこまでも続いているようで、下が霞んでよくみえない。
どこか死への国につづく淵――根の国への入り口のようでさえある。
『――我の声を聴く者よ、信ずるならばその闇を抜けて来るがいい。命を捨て、我の声に導かれることに疑いを持たぬならば、この場所にたどりつくであろう』
「だれ?」
それは森射にだけ聞こえたのだろうか。
だがもはや迷いはなかった。
「森射どうした?」
イサナがじっと森射をみた。
森射は澄みわたるほど明瞭に頭がさえ、その声が信ずるに足りるものであると肌にかんじていた。
それは試しているのである。彼らのなかの真実を見極める目と、勇気を。疑わない真摯な心を試そうとしている。
「イサナ、火見華。私におまえたちの命を預けてくれ」
「姉様?」
急にどうしたのかと火見華は森射をみたが、すぐに頷いた。彼女もまた、なにかをかんじている。イサナのほうはいまさら何を、と口元をゆがめただけだ。
森射は満足げに笑った。
彼女へすべてを預けているのは彼らのようであって、本当は森射の命こそが彼らに捧げられているのだ。彼女のなかにあるもので、彼女だけのものはもはや何一つない。それがお互いへの信頼である。
「ゆくぞ」
火見華の手をとると、切り立った断崖へ飛び込んだ。
その背後を一寸とはなれないよう、イサナが飛び込む。三人の体は迷いも恐れもなく巨木の向こうの闇へと吸いこまれていった。
火見華もイサナも、森射の一部分でさえ疑ってはいなかった。
彼女に裏切られ殺されるなら本望だ。たとえそれが死神のはなつ虚無であろうとも、森射が愛せというのであれば愛するし、受け入れろというなら、心から抱きしめる。それが森射から受けた愛であり、与えられたてきた優しさだったからだ。
「闇は――決して恐ろしいものではないのだよ。人は光と闇の両方で出来ている動物なのだからな」
きこえてきた声は、思いのほか優しかった。
急速に落下しているはずの三人は、待ちうけたように肌を包むしっとりとした衣のような空気に抱きとめられ、漂っていた。
目をしっかりと見開いていた森射は、その声とともに闇が薄れてゆくのをみつめていた。
発光する柔らかな明るさが視界にもどってくると、落下はいつのまにかとまっており、なめらかな羽の乗り物から下ろされたような感覚がした。
「私の声を聴き、それを信じ、疑いもなく、まっすぐにここへ飛びこんできてくれた。よく来られたな、心高き勇者たちよ。ずっと待っていたよ」
声は耳元でささやかれるように聞こえてきた。
森射のまばたいていた瞳が、ゆっくりとその人間をうつしだす。硝子のように滑らかな光沢をもつ彼女の赤褐色の双眸が、おおきく見開かれた。
「あなたは……」
「まだまだ人間も捨てたものではないな。人を本気で信用することができる者が、こんなにいるのだから。これほどまでにこの次元をあっさり越えて来た者は、いまだかつていなかったよ」
男が嬉しそうに笑っていた。
髭のはえた壮年の、見惚れるような恰幅のよい男だった。声のおだやかさに比べ、その瞳の精悍さは、ただものではないことを示している。
森射は男に見入っていた。顔から目を離すことができない。その表情、その笑みのつくりかた、どこか温羅を彷彿させてならないではないか。
顔かたちや細部ではなく、本質的に持っているもの。心根とか行動とか、戦士としての資質のような、潜在的な部分がよく似ているように感じられてしまう。
茫然としたようにじっと見つめる森射を、男もまた、じっと真剣に見つめていた。
しずかな笑みをたたえていた髭の表情が引き締まった。
そうっと手を伸ばした。
ためらうように森射の白皙の頬に指をあてた。火見華もイサナも固唾をのんで彼の動向を見守っていた。
「射王の――?」
躊躇うような声をきいた刹那、森射の顔から華が散るような笑みがこぼれた。
「弓月ですね。あなたが」
「わたしを知っているのかね」
「はい。わたしはこれを預かりました。そして、言伝を――」
懐から、たいせつそうに鉄の櫛をだすと、弓月に差しだした。訝るように眉をよせていた弓月はそれを受取ると、瞳をみるみる大きくしていった。
「杜璃様は、幸せだったそうです。射王様を愛したことも、射王様の子供を産んだことも、すべて悔いはないと、そう……。彼女の長い苦しみの道は終ったそうです。兄であるあなたに伝えて欲しいと云われて参りました」
弓月はまるで、櫛にうつっている妹の面影でもみているかのように、それをじっと見つめていた。
その言葉を聞きながら、まるで彼のなかの大きな重荷の一つが拭い去られたように、口元を緩め、波がひくような穏やかな顔になっていった。
「きみが、杜璃を解放してくれたのだね――」
森射に親しげで、優しい視線をむける。
「森射といいます。黄泉比良坂の番人としてのあなたに会いにまいりました」
杜璃の兄であり、誇り高い部族、土蜘蛛族の王家の血をひく男、弓月である。安伎人の血縁でもある彼は、森射にとってもけして他人ではない。
だがいまは身内としての彼ではなく、番人としての彼に用があって来たのだ。感傷にひたっている場合ではない。
弓月は分かっていると言いげに森射にうなずいた。
まるで昔から知っているような深いあたたかみのある表情は、やけに温羅を思い出させる。森射ははじめて会うというのに、彼をずっと知っていたような気さえしている。
「ここが、おまえたちの探していた黄泉比良坂の入り口だよ。かつては大国主命を奉る神聖なる霊山であったのだが、いまやヤマトの邪霊軍によって聖なる神殿をこわされ、あまつさえパワースポットを打ち壊されて磁場が狂ってしまった。ここへ来るための道も以前はきちんと存在していたのだが壊されて久しいのだ。そうでなくても次元の挟間にただよう不安定な空間だったのが、ダーク・パワーの影響で、この洞窟への通路が不規則になってしまっている。もはやここへは常人で辿りつくことはできないだろう。生半かな覚悟ではな。この場はおまえたちのいた三次空間とは異なった次元の回廊だ。ゆえに、ありとあらゆる場所につながっている。神だけが通ることのできる神聖な道なのだからな」
「神だけが通れる道ですって?! 」
火見華ほどの巫女なら、この場の特殊性はいやでもわかっていたのであるが、出雲に神の通る回廊があるという話ははじめて耳にしたことであった。
思わずその空気のもつ律動の変調さに、ゾクリと背をふるわせ周囲をめぐらせた。
「本物の神の回廊だよ、巫女殿。だが、その通る神もいなくなって久しいからな、かなり不安定なのだ。あなたはよくわかっているだろう」
神々の残した息吹は、はるか時間の彼方のもののはずなのに、いまだ強く感じられている。
火見華はまるで催眠でもかけられるようにそれらに吸いこまれ、薄い膜がかかったように瞳にうつる世界がかわってゆく。
大きな――巨大な怪物としか思えない気配がそこここにひそんでいた。火見華は、だがなぜか首を淋しげに振っただけだった。
「本当に、神は去っておしまいになられたのですね。あるのは残留思念のような深い影ばかり。大国主命や他の神々はいずこへ行かれてしまわれたのでしょうか」
「さあな、それは我らが問いたいことだ。神々の復活をどれほど望んでいることか。だがさすがは吉備の偉大なる姫巫女殿だ。他国の神であってもそれほどはっきりわかられるのだからな。吉備はむかしから素晴らしい巫女が輩出される地だった。たぶんそこに発する気の質がちがうのだろう。――大国主命だけでなく、国津の神々のすべて、過去から現在にいたるあらゆる万物の神々はみな、我らが次元にはおられぬのだ。その時がくるまで、深い深い眠りにつかれているのだからな」
その時がるまで――。
言葉の意味するものが、ずっしりと内臓に響くように森射には重くきこえてくる。
「神の子が生まれ、救世主となって人類をさらなる高みへと進化させてくださる、その日まで――そして火具土神が復活されるその時まで」
森射はたしかにあの洞窟で、その目にみて、感じてきた。射王の胎内でえんえんと眠っている巨大な魂があることを。
その鼓動が体の一部のようにこの身に宿っている。
いまもまだ彼から送られてくる強いエナジーを感じている。それが自分の一部なのだ。もはやごまかすことはできない。
「杜璃様に守られながら、射王の母体でゆっくりと成長されている神の御子様ですね」
「……そこまで知っているのか森射」
弓月は森射をまじまじとみつめ、なるほどというように息を吐いた。
「本当に、杜璃の長い旅路は終ったのだな……」
切ないような、そしていくぶん感動さえしているような表情だった。
その顔はまさに妹を案じる兄のものである。数奇な運命をえらび、旅だっていった妹を、どれほど胸をいため思っていただろうか。
「弓月、どうか我々に力を貸してください。私たちにはもはや時間がないのです。伊邪那岐の侵入を一刻もはやくくいとめなければ、取り返しのつかないことになってしまいます」
森射が祈るように熱い瞳をたぎらせた。
「神々がいなくなった今こそ、我ら人間が力を奮いたたせ、次世代へと、時間の帯をつないでゆかなければなりません。救世主の誕生も神の復活も、今の我々の手にかかっているのです。さらなる進化をとげるであろう子孫へこの国をわたさねばならないのです」
たとえそれが修羅の道であっても、みずからの血を流し苦しみながら死ぬのであっても、未来を開かなければならない。進む可能性があるのなら、なにもひるむことはない。
イサナが焦れるような思いに口をひらいた。
「行かねばならないんだ。俺が行かねば、倭国の――伊邪那岐の暴走はきっととまらない。それが俺に定められていた運命なんだ」
「多くの憐れな罪なき魂が私たちを呼んでいます。倭国へ赴き、伊邪那岐と対峙しなければならないのです。これは、きっと人類が避けて通ることの出来ない道――試練のひとなのでしょうから」
森射は、イサナと火見華の言葉にうなずきながら、自分にいい聞かせるように云った。
「我々は、それでも、その試練を苦痛だとは思わない。むしろ己を磨くことのできる、神が与えた最大の愛だと思っています――ひとつひとつの苦しみを乗り越えるたびに、私は、私を支えてくれる大勢のものの存在を近くに感じることができる。どれほど多くのものが世界を愛し、支えていてくれるか。大自然は、赤子が母の乳房を求めるような愚かしい行動さえ見守り、懐にいだき許してくれている。我々は赦し赦されてこそ生きてゆける小さな存在です。木も水も空気も――海や山、そこに棲むたくさんの動物、草むらに棲む虫、川をくだる魚、どれ一つをとってもすべて我々につながっている。彼らの一つの種族が滅べば、どれほど多くの命が死に絶えることかわからない。その現象が決して人間を除外しているわけではないのだから」
どんな小さな命でさえ、なにひとつの違いもない。
命の尊さに、優劣があるわけではない。彼らの辿る運命は、まさに人間そのものなのだ。
「温羅が命をかけてまで守った娘、森射。そして運命をきりひらく子供たち……」
その言葉はまるで誰かの言葉をおもいだしているかのような口調であった。弓月が懐かしそうに口元をゆるめるのに、森射がたずねた。
「あなたは、温羅を知っているのですか」
「我らはよき盟友だった。その昔、ヤマト軍と闘ったときから、深い友情でつながっていたのだよ」
彼の目は、遠いある日を思い出してか煌めいているように見えた。
少年のような表情に、かつて馬を駈り戦地をかけめぐった雄々しい二人の勇者の影をみるようである。
そこにいたのは、杜璃や温羅そして他の仲間――何より大切な友情と、射王とのたがえることの出来ない約束をかわした仲間たちであった。
「その者が来たときには、道を開いて欲しい――。わたしが番人となるときに告げた射王の言葉だ。……そうか、ならばそれがきっと今なのであろうな」
独りごとのように言うと、弓月はおもてを引き締めた。
とたんに周囲を包んでいた次元の雰囲気までもが緊張し、来たとき同様ピリピリとしだした。
神の回廊を守る番人としての厳かな強い表情へとかわっていく。
「盟友たちとの約束により、今この道をひらこう。いつかその者が来ると予言されていた。それがおまえたちならば、比良坂はしぜんとおまえたちの望む場所へ道をひらき導いてくれることだろう」
弓月はいつのまにか手ににぎっていた杖を、ドンと強く地についた。
地震のようなゆれが走ったかと思うと、目の前に張られていたことにも気づかなかった、薄い氷のような膜が消え去るのがわかった。空気が硬度をましてゆく。
「行くがいい希望の星たちよ。世界がおまえたちを求め、呼んでいる」
弓月はそのまま目を閉じた。
扉が開かれたいま、若獅子たちが駆けぬける道がどのような場所につながろうとも、もはや番人に助言してやることはない。
今も、そしてこれからも彼らは自分で道をえらびとらねばならないのだから。
「ありがとう弓月。かならず高天原の門を閉じ、伊邪那岐の侵入をくいとめてきます。この命と引き換えにしてでも、神の御子が人類を導くだろう未来をつないでみせます」
森射は言霊固めをするように強く言った。
「姉様参りましょう。黄泉比良坂が呼んでおりますわ――」
「ああ」
火見華の声に、森射はそのままきびすをかえし、回廊へとむかっていった。
先ほどとは反対に、森射の手をひくように火見華が歩き、彼女から放たれる霊気がシールドのように高まっていた。
火見華の青いオーラは、彼女の心と同じく清く澄んだ清廉なものだった。こんなときの彼女は、巫女というより、神の遣わした精霊というほうが似つかわしい。
四方からながれてくる空気を読み、ただしい方向をしめす標を聞きとっている。
伝説の巫女姫そのもののように神々しくさえみえ、発せられるエネルギーに髪がたなびいて揺れていた。森射もイサナも火見華の精神統一を乱すことなく、足音さえたてず後をついゆく。
火見華は首にかかっている赤い石に手を触れ、その空間に在る強い『意志』のようなものに、祈りの呪文を捧げていた。
「国津の神々よ、神聖なる回廊よ、我を正しき方向へと導きたまえ。どうか我らの願いをきき、倭国へと通したまえ」
声があたりにこだまし、超音波のようにある一方向へとむかってゆくのがわかった。
そこが歪みはじめ、まるでその呪文で溶解してゆくようにただれ、とけて光を発する。
「そこか――」
イサナの瞳が薄くひかり黄金に変わった。少しも惑わず向かうと、先にたち森射たちに手をさしのべる。イサナは燃え立つように熱く、熱の塊のようになっている。
彼のなかに抑えられていた激しい血のたぎりが、故郷へと引きつけられ、そこに残してきたすべてのしがらみや、苦渋に満ちた血の呪いにざわめき沸騰しているのだ。
彼は呼ばれている。その魂を喰らおうとでもいうおぞましく邪悪な思念と、さからい難い運命の手に。
森射にはもはやイサナが走りだすのをとめることは出来なかった。
それは定めなのだ。
森射ですら五体が自分の意志をはなれ、先へ先へとすすみだそうと急いているのがわかる。胸の中の熱い何かが駈りたてられる。
発光する空間のなかで、白く輝く鳥が羽ばたくのが見えた。
白い鴉たちだ。
森射たちを導かんとしてやってきた日巫女の御使いたちが、高くいなないた。
体が燃え出すのではないかと思うような圧力が加わり、灼熱の液体にひたされ、身も心も、すべてをかたちづくる細胞がバラバラになったような気がしてゆく。
その瞬間、どこかを通過したのがわかった。
意識が遠のきはじめた森射の視界に、黒い人影が飛びこんできた。
その人物を森射は知っているような気がしたが、それはそのまま流れ消えていったのだった。
森射たちが聖なる回廊、黄泉比良坂を超えて出てきたところは、異国の地であった。
出雲でも、吉備でもない、はるか神代の時をこえ、時をきざんでいる、倭国の大地。
三人は古びた神社のまえにいた。
風と雨とに曝されつづけ、虫に食われて朽ちかけている。
そこに神社があることすら忘れるように草藪がおい茂り、ツルがからんだ潅木がはびこる草むらのなかに倒れ込んでいたのだ。
かすかにひらいた森射の目に、わずかにしか読みとれないほどひどい虫食いの神社の名札がうつった。
須佐――という上代の文字で、古の名残りのように刻まれていた。
森射たちがその地に足を踏み降ろした刹那、空間は閉じられていた。
だが、そんなことになど気がつかぬほど、ただならぬ空気が――妖気のごとくおぞましく身の毛がよだつ波動にさざめいていた。
正常という名のすべての言霊のひかりが滅せられ、邪悪な怨念が空間にびっしりと占められている。
「ここが、日向の国、倭国」
かすれた森射の声が重々しくひびいた。
国津の神々がはじめて降りたもうた聖なる山の峰々。
雄大にして精妙なる霊峰の頂からの眺望を、ほんとうならば、どれほどの感激を持ってながめていたことであろう。
だがいまこの土地に渦巻いているのは、ずっしりと重く淀んだ瘴気しかない。
背徳と不穏に満ちた禍々しさは、人々が赤裸々にはきだす怒りと悲しみと苦しみであり、それが折り重なり交じり合い、なんとも形容しがたい気色悪さとなっている。
火見華もまた青ざめ口がきけないでいた。
まるでどこかに新鮮な空気でもないかといような苦しげな表情で息をしている。
巫女としての繊細な感覚器官が悲鳴をあげ、いまにも発狂しそうな邪念がきっと全身をはいずりまわり、波打っているのだろう。胸をかき乱さずにはおられない悲痛な叫びが火見華の神経を焼き切りそうになっていた。
森射はそっと肩をだいてやった。必死でこらえていた肩がビクッとした。思わずすがりつき、悲鳴のような声をあげる。
「ああここの風も空気も、みんな死んでいるわ。ここの緑は心がない。ここの土地は――姉様、ここの土地はもはや生きていはいないのよ。なにもかもが死んでいるわ。死の国だわ。命の輝きすら、命の喜びのひとかけらすら持っていないっ!」
火見華は心を閉ざした物たちが、いかに冷たく残酷なのかがわかったかのように悲鳴をあげた。人はそんな場所では絶対にいきてゆけない。
ただじっとりと重く淀んだ空気だけがわずかの揺れもなく、瓶の底にたまった澱のように沈黙している。
狂いだし、己から滅してゆくあわれな獲物を、口をあけてまっているかのようである。
小高い丘陵になっている藪のなかから三人は注意深く身をひそめて、倭国のもっとも栄え賑やかだとされた市街をみおろしていた。
そこには灰色と沈黙の魔法をかけられている呪わしい街並みだけが、そぞろにつづいていた。
その無表情なむこうにがわには、暗幕でもかけているかのように澱み、さらに黒くかすんでいる。闇のまっただなかに、半分消えかかってみえる呪われた王城がそびえている。
「ここは……地獄だ……。少しも変わってない」
イサナが二度と見たくなかったと言いたげに、唇を噛んだ。
あらゆる物の心が閉ざされている。恐怖がすべての生気を喰いつくし、生きようという気力だけでなく、人間の存続さえも絶望させてしまう。
妖魅たちがクスクス笑いをもらしながら昼間の地上を闊歩している様は、この世の終りのような絵ではないか。
「ここが、倭国――?本当に生きた、正常な人間が残っているのか」
森射がたまらぬようにもらした。
ここのどこに生命があるというのだろう。
ときおり痩せこけた狗が怯えながら吼えごえをあげていた。狂ったように泡をふくそのようすは、餓鬼がとりつき死の直前のようだ。
毛が抜けた皮膚に、アバラがつきささるようにういていて、さらにそこに黒い虫がついている。狗の表皮を食っているのである。
動物たちは人間より敏感な神経を狂わされとっくに異常をきたしていた。狂暴さを剥き出し同胞の血で血をあらっている。その憐れな骸さえ、妖魅たちが暗闇から手をのばし、ほおばっている。
「――違う、あれは人よ!」
火見華の悲鳴が口のなかでかみ殺されるのを聞いた。
餓鬼だとおもっていた妖魅は、人間ではないか。
動物だけにとどまらず、人々からは正気が失われ、血みどろの争をおこなっていた。
狂っている。まさに狂い切っているのである。
目を伏せ、見なかったことにしていますぐこの場から逃げ出してしまいたかった。嘆きの叫びが風となり、胸を氷の刃でつらぬいていく。
王都へと吹きおりてくる一陣の邪悪な風は、人々のうえに死の灰を蒔き、争いの種をうえつけていた。
厚い黒雲におおわれた王城の真上へむけて、黒い大きな筋のような柱がたちのぼり、その天空から邪悪な波動が吹き流されているのが見える。
まるで空が裂けたような、不気味な切れ目だった。
それが、人のまなこのようにどんよりと開きかけているではないか。
そこからのぞくなにかに気づいたとき、さすがの森射も絶叫をあげそうになった。必死で口をおさえたが、それから慌てて火見華を抱きしめ目を覆った。
火見華もまた、すでにそれを目の当たりにしていた。悲鳴がもれるよりも、彼女は気を失いかけていた。
なんと邪悪でなんとおぞましいことか。
人々の脳を直接ゆびでかきまぜ、呪いの毒をそそぐ悪魔の目――伊邪那岐そのもの邪悪なまなこだったのである。
裂け目のあいだから、黒い風がふき降りていた。
高天原で家畜のように、なんの価値もなく殺された人々の怨念だ。
怒りと悲しみ、そして無念さの嘆きが、唯々諾々とこちらへ流出しており、まるで地上の生きとし生けるものすべてを呪わずにいないような、歪みきった悪霊の思念を、けたたましい悲鳴をあげながら地上にふりまいている。
イサナの顔つきがかわっていた。
森射の心の悲鳴は、イサナのなかに張りつづけられていた戒めをゆるがしているのだ。噴きつける悪魔の風から、森射たちを庇うように立ちふさがった。
カッとそれらを跳ね返すように目をみひらき、対流をうむ。
イサナの目はすでに金褐色へと変色していた。髪の色も瞳と同じくかわり、肌も茶色めいている。
ふきつけていた風はイサナからの霊気に負け、その場を避けてとおりはじめた。空気がわずかに癒され、火見華の止まりかけていた呼吸がもとにもどる。
イサナのエネルギーはここ倭国にきて、さらに強まっていた。
まるでこここそが、彼が本当に活躍し、必要としている場所であるかのように。またイサナの体を流れているエネルギーが活性しているかのように体内で爆発的に燃えあがり、高圧エネルギーになっているのが透けて見えてくる。
「ここが、伊邪那岐の本拠地なのか」
森射が雲の切れ目のむこうに開きつつある時空の裂け目を、こんどはそっと注意しながら睨みつけた。
「そうだ、そしてあれが高天原の門だ」
イサナがそこを指差す。
「あれを閉じなければ、この世は地獄となる。第二の高天原となり、人々は家畜となり、命を弄ばれ、悪霊となって永劫の苦しみにさまよわねばならないだろう」
高天原に住んでいただろう、ごくふつうの人々は、奢り高ぶった伊邪那岐の邪念のなぐさみものになり、快楽と欲望のためだけに殺されつづけていった。
暗黒の王は、際限のない欲望にもえ、自らの命を永遠のものとして宇宙で最強のものとなるために、火具土神の血肉を食らおうと、いまなおこの地上を狙っている。
あまつさえ、いまだ生まれぬ救世主を手に入れ、宇宙の王として君臨し、その聖なる力までを我がものとしようと窺っている。この星辰界だけでない他次元の宇宙にまで手を伸ばそうともくろんでいるのだ。
伊邪那岐が森射の腕につけた傷跡が熱く痛んでいた。ほんとうに伊邪那岐の近くにまで来たのだ。
約束の印のようにつけられた腕の傷跡は、闇の波動を吸収して肉にくいこみ、痛みをあたえることで森射にその禍禍しい力を誇示しているかのようだった。
「姉様、顔色が……」
意識がしっかりしてきた火見華が心配そうに顔をのぞき込んでいた。森射の青ざめた顔を映したように、火見華もまた血の色が引いている。
イサナだけが、まるでこの状態を知っていたかのように厳しい顔のまま無言で立ち、耐えていた。
地上をみおろす目は、白く巨大な研究施設をじっと睨みすえたままだ。
そこにうごめく、恐ろしくもおぞましい者たちを憎み、悪魔に嬉々として心を売りはらい、みずから闇の信徒となった科学者たちのつどっている倭国研究所を憎悪し、そこに渦巻く私欲の化け物どもを呪っている。
倭国みずからが施設へ金をだし、科学者を保護し、さらに有能な者をと集めていった自慢の研究施設だったのだ。
王城にちかいにぎやかな街中にもかかわらず、その異常なまでにひろい敷地をみれば、だれもがうなずくだろう。
一般の者を絶対に近づけないばかりか、すこしでも探ろうとしたり、もぐりこむことを企てた者は、すぐさま牢屋に入れられる。もしくはそのまま施設に入ったきり、出ることは二度とかなわなかった。
そこで行なわれている研究がどのようなものか一切極秘であり、ゆえに、どれほど呪わしいものであっても、誰も口にする者も、それを伝える者もいなかったのである。
だがイサナはずっとそこにいた。
産まれたその時からもう何年にもわたり、延々に身も心も傷つけられ、汚され、辱め続けられてきたのである。
死ぬためだけに育てられたという、彼の見てきた地獄とは、どれほどであっただろうか。そしていまこそ、過去に残してきた怨念に対決するために、彼は帰って来たのである。
「ここにいたヤツらはみんな狂っていた。命を命とおもわず、その最後の最後まで人としての尊厳をうばい、辱めるのだからな。やつらは人の尊さなど理解していない邪悪な鬼だ」
彼らは自分たちが人であったことを忘れたのだ。選ばれた者、優秀な存在という愚かな選民思考で凝り固まってしまった悪魔の集団だった。
生命は実験材料であり、それほどまでに残虐で非道な行為が日常的に、笑いながらおこなわれていたか。
そしてもっともおぞましいのが、それらすべてが、王の号令のもとで行なわれていたことである。
正規の研究所の名をかかげ、あまつさえその悪魔たちが、人々の尊敬を得たり、大切な国の宝として敬われているのだ。
「――あそこでは、限られた生命の時を、ひたすらに延ばすことにのみに夢中になっている遊技場だ。そのことを第一の目的として掲げながら、またその脇で、おぞましい実験を楽しんでいるんだ。――毎日どれだけ多くの悲鳴がひびいていたことだろう。血の臭いがたちこめ、苦痛に嘆き、殺してくれという声がきこえてきたことか。俺にはその狂ったヤツラを許すことはできない。仲間を――俺たち仲間のみなの無念を、絶対にはらさずにはおかない!」
遺体を焼く焼却炉から煙がのぼらない日はなかった。
その灰は草木に飛び散り、嘆きの声を降り積らせ、とうとうあの妖霊星をよんだ。
黒い影がいきなり飛びかかってきた。
なんの前触れもなかった。
イサナは反射的にそれらをはらい飛ばしたが、ひどく手がしびれた。無意識に反応して、いつの間にか刀をにぎっていた。
それらが動きを止めた。
自分たちの攻撃を避けたことに、いくぶん驚いているようであった。
森射はそこにいる異様な生物に思わず目を釘づけられ、動けなくなった。顔はかろうじて幼い子供のようにみえたが、あとは青光りする硬質の鱗に覆われている、何種類かの動物を連想させる体をしていたのだ。
さらに攻撃態勢をとるように低く身をかがめ、こちらをうかがっていた。木のうえに止まっていた少年が唸りだした。
猫科の動物を思わすような肢体だった。虹彩が日光をうけ縦にほそまり、指自体が鋭い鋼のようになっていて、木肌に食こんでいる。
気がつくと、周囲一帯を異様なものたちがとりかこみ、気にわきかえっているではないか。
草陰にひそみ蛇のような舌をチロチロのぞかせている者がいるかとおもえば、背に羽を生やして木の先端から隙を狙っている者がいる。
どれもが人というには呪わしい姿であった。
身も心も野獣と化した――いや、野獣化された、憐れな子供たちだ。
イサナの心にこれほど突き刺さる光景はないだろう。彼らは同胞なのである。
脳まで犯され悪魔の手術によって乗っ取られた悲しい姿は、イサナもそこに居つづけたら、きっとそうなっていただろう、未来の姿だった。
「この地獄が、ヤツラの仕業だというのかイサナ」
森射が信じたくないとばかりに切なげに言った。
イサナはただ首をかすかにうごかせただけだった。
科学者が自分たちの欲望のままに人体を改造し、使い捨ての、だが強力な戦士として創造するために、各種の動物たちを融合させる施術をした、キメラたちなのであった。
どれも脳手術を加えられ、人の心を消滅させられている。もはや敵と認識されたものだけを、一刻も早く消し去ることのみなのだ。
その常人では考えられないほどの素早さで、襲いかかってくる鋭さは、まるで機械のようだった。
森射はためらい、にぶる剣さばきで、ようやく彼らが襲いくるのを避けていた。それを補うようかのように、イサナの剣は容赦なく銀鱗をはなち、彼らを地にふせていく。
まるで同族同士、相感ずるなにかがあるように、彼らの攻撃はイサナに向いた。
さらにイサナは彼らより、早く動き、行動を察知して、普通では考えられない剣技をふるい、命を断っていった。
まるで祈りの舞いのような行為である。
もはやどうしようもない命を、あとは清め、浄化させるしかない。生きていたくないという彼らの声を、胸の奥深くで聞いているかのような、そんな荒々しさだった。
森射は泣かないイサナの悲しみをそこに見ていた。
「こっちだ森射!」
イサナは走りだした。 森射は火見華をかつぐと後をついて走りだした。
彼らから発せられる悲しみと怒りの気迫におされたのか、敵の足が鈍った。
森射の首に夢中ですがる火見華は、歯の根をくいしばり、悲鳴をもらさないように耐えている。
火見華はあとに倒れている累々と折り重なる異形の屍たちが、どれも安らいでいるのを不思議に見ていた。
もはや彼らにとって、死のみが呪縛から解き放つ唯一の手段だと、本能的にイサナに殺さるためにやってきているのだ。
手向けの呪文をとなえる火見華の声を耳もとでききながら、森射は天に開きかけた時空の門をみあげたた。伊邪那岐がまるで彼らをあざ笑っているようである。
――ヤツはみている!
森射のうでの痣があざけるように痛んでいた。
イサナの怒りが増せば増すほど、発せられる気が大きくなり、その巨大な気が、悲しみを増すほどに狂喜の声をあげているのだ。
森射には、けれどイサナの悲しみと怒りを止めることはできなかった。それを止めたなら、きっとイサナは体内のエネルギーが暴走する。加熱しすぎたそれらは、イサナの体内原子炉で暴発してしまうだろう。
もしかしたら、それを伊邪那岐は望んでいるかもしれない。
「おまえの思い通りにはさせはしない」
森射は体のなかから熱くなった。
まるで炎がみずかのなかで燃えたち逆巻き、自分自身が本物の炎になったようなきがする。
背後から笑っている伊邪那岐の声が聞こえてくる。
これは、自分との――自分の心との闘いだ。
森射の紅の瞳が強くふかく輝いたとき、頭上に三羽の鴉――白い日巫女の鴉が、ひときわ大きな声で鳴いた。
「こちらへついて来いといってますわ」
足を止めず森射とイサナは顔をみあわせた。
そのまま鴉の後をおって、山道を走り抜けて行った。
森射たちを追うキメラが去ったあとの静けさのなか、死屍が累々とした草むらがボソリとうごいた。
気配をうかがうように、苦しげに息ひそめていた何かが這いだしてくる。
オズヌであった。
オズヌはひどく疲れ果てたように土気色の顔をしていた。まるで大きな野獣にでも襲われたように、あちこちと傷だらけであり、血が大地にしたたり流れている。
立つことさえもまだ出来ぬように衰弱していたが、それでも大きく息をつくと、気を張ってどうにかたちあがった。
もし森射たちの強烈な生命溢れる気が放たれていなかったら、死肉を喰いあさる餓鬼たちの餌食となり、とっくにほふられていただろう。
その目は森射の走り去った方向をずっと追っていた。
オズヌは懐から竹筒をだすと、飯綱すべて放った。もはやそれも残り少ない。彼の養い育ててきた最後の妖魔たちである。
「森射を守るんだ、どんなことがあっても――」
目に見えぬほど小さな光は、無数に飛び散り、空気に溶けこんでいった。
「森射――」
ゴフッとのどが切れるような咳きをした。赤い固まりが口を抑えた両手にひろがりおちていった。
オズヌはそのまま倒れこみ、しばらくのあいだピクリともしなかった。
三人は白い鴉に導かれるように山道を走っていた。
巨木のおいしげる神山の上空を、鴉たちははばたいているはずなのに、見失うことも、消え去ってしまうこともまったくなかった。
優雅な羽を広げ、ゆらゆらと舞うようにとびながら、あきらかに森射を主のもとにいざなっている。
不思議な光をはなっていた。
たぶん日巫女だ。彼女の念波で結集された精霊なのだ。
「姉様、あそこにっ!」
火見華が声をあげ指差した。
山のふもとに広がっているのは神殿だった。
日向の地にそのひとあり、とかつて謳われた偉大なる聖女、日の巫女によって治められていた神聖なる至高の宮だ。
いまでさえその力はおとろえず、彼女の声ひとつで全国が動き鳴動するといわれているのも、あながち嘘ではない話だ。
いまなお各国の賢人や国の守りをまかされている巫女や、さらに王や要人たちの教育を手がけてきた者たちのほとんどが、彼女のもとで教え育てられたのだ。
彼女を師とあおぎ、それこそ母のように慕う能力者たちにより各国の均衡がたもたれている。
そこは巫女たちにとっての、心の故郷ともいえる聖なる場所であり、聖域だった。日向の大神殿だ。
全国を統べるほどの権勢をもち、つねに先頭をはしってきた倭国の王が、かつて国の総力をあげて技術の粋を傑出し、つくらせた建造物のひとつだった。
荘厳にして重厚なる尖搭形の大講堂や、伝法堂、伽藍の数々は、畏敬の念をおこさずにはおられない。気の遠くなるような繊細さは、職人たちがどれほど丹精をこめて作り上げたことであろう。
「神殿の敷地内には念波がはられていますわ」
火見華が大きな黒曜石のような瞳をみひらき、確かめるようにいった。
ふもとまで一気に駆け抜けたイサナと森射は足をとめ、その気配をうかがう。
みだりに聖域を侵すものにとっては、神殿は厳しい場所となる。
救いを求めるものにはこれ以上なく優しく頼りになっても、礼節を欠く者には冷たく重苦しい場所である。
日巫女はそれほど礼を重んじ、人の道、神の道にそむく者には、だれより厳しくのぞんできた。それだけ思い出してみても、その日巫女があるはずの日向の荒廃ぶりには、驚嘆をかくせない。
白鴉が本殿のちぎ千木にとまって大きく鳴いた。
そのとたん、ふっつりとそこを守っていた念波がとだえた。
火見華は森射のうでからおり、導かれるように歩きだした。森射たちもそれにいそいで続く。
「なにかが待っている。私たちが来ることを」
森射の名を呼び、待ち望んでいるような必死の声が聞こえているような気がした。それが罠などとは微塵も思えないのはなぜだろうか。
まして罠だとしても、ここまで来たのだ。どうすることもできない。受けて立つしかない。
背後の潅木が荒々しくゆれる気配がして、キメラたちが近づいてきたのを肌に感じた。
イサナは意識をはりつめ、刀に手をかけると、いつでも踏み出せる臨戦体制をととのえている。
だがそこに入りたくないという本能の怯えだけは、どうしても拭えなかった。
イサナはそろそろと進みながら、ふと目の前でたちつくしている森射の背中に気づいた。
それは本当に、どうしようもなくて、どうしてよいかも分からず、呆然となって立ちつくしているとしかいいようのない姿だ。
細くしなやかな柳のような肩にイサナが軽く触れると、びっくりしたように大きくふるえる。
まるで泣きだしたかのような全身をほとばしる悲鳴を、必死にかみ殺していた。
祭壇のおかれてある大きな礼拝堂の入り口。そのなかに見えているものは――。
首。
首、くび、頚。
まるで供物を捧げるためのように、漆の杯や、幣や竹、真名石などを捧げた台、その他、あらゆる場所に、首がならべられていた。
桟敷や、窓の桟にいたるところにまで、首が飾られ、見世物のように並べられている。
そのどれもが女の首であり、部屋そのものから生え出したような恐ろしさがある。
そしてなによりそれが身の毛がよだつような残酷さだと思わせたのが、彼女らの半数が生きているということであった。
どのような技術をもってしてか、彼女らは生首のまま供えられ、飾られて、ヒトならぬ姿で生きているのだ。
どんな残酷で呪わしい魔術をつかったのか、無惨な姿と苦痛を強いている。
どれも美しい少女ばかりではないか。
なかには半身から切り取られたままの裸体で飾られている者もあった。どれもが虚ろで、互いに目を合わせぬよう、死だけをひたすらに望み、願い、どんな人間であろうと必ず約束されている安寧の世への帰還さえ奪われていくことを、もはや思考のまわらない頭で祈っている。
いや、もはやこの残酷な仕打ちに耐え切れず、気がふれている者も多くあった。神経が焼き切れてしまったのかもしれない。
祭壇の向こうにある、更紗のおおいでかくされ拝されていた像は、あきらかに国津の神々であった。
この神殿は、たしかにこの地へ最初に降りたったという、須佐之男の命を祭っていたはずだ。日巫女はだれよりもかの神を敬愛し、熱心に奉っていた。
だがそこにいるのは悪魔の姿である。
妄執と欲望と己の邪心をかなえることだけしか頭にない我欲の化け物。
伊邪那岐の姿だ。
少女の目には、だがそれすら関係がなさそうに、呆として、あらぬ世界へ入り込んでいた。
自分が誰に苦しめられ、誰にはずかしめられたか、なぜこんな無意味な苦痛で残酷な時間をすごさなければならないか、それを考えるだけの心さえもはや保ち続けるには、もはや時が永すぎた。
この世の何もみていないはずの表情に、時折襲う痛みに悶えるような色をうつす以外には、その目はもう絶望さえ捨ててどんよりしている。
森射がそこにいることにすら注意をむけることもなかった。
森射ですら、かけてやれる言葉もみつからず、ただ少女の血でよごれたその頬を拭うばかりだった。
サラサラした張りのあるつややかな髪が、首を切られたとき、一緒に断たれたのだろう、肩までできりそろえられ、それがいっそう残酷さを目の当たりにして哀れである。
母親のように姉のように、慈愛と同情と尊敬のこもったやさしい手が、少女たちの魂をなでた。森射は彼女らがとった志高い行動がなんであったかを悟った。
どのような目にあわされようと、悪魔にだけは魂を売らなかったのだ。
たとえそれが苦痛と辱めに満ちていても、魂だけは、伊邪那岐に売るようなまねはしない。それならば、このような辱めもたえようと立ち向かった。
いつか来るであろう正義の刃をもつ者をひたすらに待って――。
うつし世を飛びたった心は、森射たちを呼んでいた。ずっと待っていた。
イサナも火見華もそれがわかったように、敬意を払い、そしてなによりその高邁な精神力に頭をたれた。輝きにみちた高貴な生命をいとしむように、祈った。
気の強そうな真の通った顔つきをした少女の首は、何度も何度もなでられるうちに、慈しみにあふれた森射の波動を受け、少しづつ正気の光を戻しはじめていた。そして、いつしか少女は泣き始めていたのだった。
「……憎しみと悲しみ、そして怒りがわたくしたちに襲いかかってきたの」
少女の胸のうちからもれるような声が流れだしていた。
「空の不気味な裂け目から、たくさんの死霊たちが噴きこんできたの。そして恐ろしげな化け物たちがいっせいに神殿を襲ってきた……。やがて悪魔がのりこみ、わたしたちに従えと言った。でも日巫女様はぜったいに嫌だといい、悪魔を退けられた。でも、それからずっと連日連夜、何ヶ月にもおよぶあいだ、やつらは執拗な攻撃をくりかしてきて……そして、そのうち疲れと恐怖に心を狂わす者がではじめ、闇の放つ悪波動にとり憑かれて……仲間を殺しだしていった……」
何を思い出したのか、少女のまなこに涙が盛りあがり、滂沱とおちてながれた。頬が濡れてススや血でよごれた顔があらわれていく。
「悪魔……ああ、悪魔が私たちを切り刻んでいった。日巫女様は連れ去られ、残った私たちを庇った姉様たちがむざんに殺され、犯され、身の毛のよだつような悪戯が繰り返されていった。悪魔のあやつり人形にされて、思い出すのもおぞましいくらい残酷に辱められ、殺され……。悪魔が私たちに従えと言い、それでも、どうしても嫌だといいつづけた。そのうち悪魔に心を乗っ取られた王都の科学者たちがきて、首だけで生きつづける飾り物にしてやるって、笑って、そのまま――」
それは少女の目が見たこの世でもっともおぞましい地獄だった。
残酷であまりにも慄然とさせる狂気で、やわらなか純粋な心が破壊されるのには、あまりに時間がかからなかった。
狂った同胞が同胞を殺し、悪霊や、悪魔の手下どもが、神聖なる神殿内を跋扈し、けがしていった。見つけたものを手当たりしだい壊し、人間の内臓を生きたまま食いちぎって犯した。
悪霊どもは生命という限りある美しい果実を、まるで崇拝する魔神よりたまわった贈り物のように、できるだけ残虐に辱めて殺し、そのことこそが大いなる捧げものでもあるように悦んでいた。
最後には、彼らの尊崇にたえない須佐之男命の聖体を壊して排除すると、あとに伊邪那岐の像をまつったのだった。その飾りとして、少女たちを生首のまま生かし、据え置いていったのである。
「みんなみんな泣いた。泣き尽くして涙も出なくなった。こんな姿になっても、それでも生きていかなければならないなんて、こんな地獄があるなんて、そんなこと――。でもきっと日巫女様がいつか助けてくださる、いつかきっと、力ある正義の方が助けにきてくださる、そう思い信じ、だから悪魔にだけは魂を売らずにみんなで、それまで頑張ろうといって、ここまで――」
それだけを心の支えにして生きてきた。
だが、その残酷な時間は長すぎた。
心が壊れ、脳の活動が停止していく者が増えていった。絶望は心を壊し、魂を壊した。
神殿中に漂っているのは、逝くことも生きることもできずにただよう悲しい魂と、いまだ残虐に殺されつづけ絶叫し、泣きあえぎつづけ、いまなお悪魔たちに食われる過去の時間にしばられつづけている巫女たちの、無念と苦痛である。
「もう、おやすみ。永くまたせたね。お疲れさま」
森射が優しくいった。
別れの言葉だった。
森射の唇がわずかに動き、そこからかすかに漏れ聞こえるのは、やさしい旋律である。
歌声だ。
「あなたは、だれ?ああ、なんて優しい声をしているの……きれい…きれいな光があふれてくる……」
少女の目は、これから行くであろう美しい世界の光をみつめ、うっとりとした。
決して悪魔に屈することなく、誇り頭をもたげ、だれに恥じることなく生きた者だけが向かうことのできる、あの天上の世界を見つめているのだ。
そこにいる無表情だったすべての少女の顔に正気がもどっていった。
誰もが上をみあげ、そこに何を見ているのだろうか、まぶしげに、だが安らかな微笑みをうかべてうっとりとしている。涙がもりあがり、ほほをすべりおちてゆく。
森射は歌っていた。
それは小声ではあったし、まだかなり自分を抑えはしていたが、長いあいだ禁忌とし、自ら閉ざしてきた『歌』そのものだった。
大勢の人を殺し、母の命をうばい、温羅がミイラとなってまで、その能力を高めて防ぎの礎とならねばならなかった、あの歌である。
鮮烈で命がみちあふれ、輝くときめきを秘めている。
イサナも火見華もはじめてそれを聴いた。
魂が燃えたち、生命力にふるえよろこび、自分がどんなに愛され、慈しまれた存在なのかを知った。喜びの命として産まれおちてきた神の子であり、どれほど貴い神の一部として存在しているのかということが、身が切れるほど熱く痛く伝わってくる。何もかもを感謝の念をもって受け止めることができる。
神殿中に光が――生命の波動が水面にひろがるさざ波のように響きわきたっていった。
役目をおえた清き命のために、神聖なる道がひらかれたのだ。
「……みんな昇って逝くわ。みんな、喜んでいる」
火見華がつぶやいた。
しばらくのあいだ、茫然とみつめていた。
シャッという威嚇する激しい唸り声が背後でした。
イサナの剣が数分の一の早さでそれを受け止めた。
渾身のちからをこめて払いとばすのにあわせて、それは低く体をかがめる。即座につぎの攻撃ができるようにと身構えている。
獲物に飢えた虎が、いま飛びかからんとするかのように手をまるめ、爪をたてていた。旋風のような攻撃は、身をかわした背後の壁がごっそりえぐりとられているではないか。
いつの間にそれだけ集まったのか、キメラたちが烏合のごとくそこにいた。部屋や通路に収まりきらず、天上に張りつき狙っている。
そんな中でさえ、森射はただ歌っているだけだった。
イサナは一瞬まぶたを閉じた。
「森射の邪魔はさせない」
邪魔をする者は殺す。
そう云い、強い意志を込めた黄金に輝く瞳をあけて、自分の同族たちを睨みはらった。
『去れ、禍者たちよ。ここは聖なる土地。何人によるとも犯すべからざる場所である』
強烈な言霊がこもっていた。膨れあがった途方もない力の渦がキメラたちのあいだを駆けぬけてゆく。
不気味なほど、シンッと静まり返った。
それから不意に、キメラのうちのある者が、鋭くのびたカマのような爪で、自分の喉を掻き切ったのだ。
「なに?!」
突然のことだった。キメラたちは次々に自らの命を断ちはじめていったのである。
血飛沫をあげ、唸りごえひとつもらさず自決してゆく。なんのためらいもない。
なにごとかわからず、呆けるように見ている目の前でおこったその光景の凄まじさに、さすがのイサナたちも顔色を失っていった。
「な、なぜだ……。たしかに俺は後退の呪文を唱えた。だが、そんな、自ら命を断ってしまうなんて……」
相当に高等な言霊を駆使しても、自らの手で命を断たせるような魔術は難しい。
イサナにとっては、もしかしてできない事の一つではなかったか。
だが、彼らが人の心を失った殺人道具へとなり果てていても、イサナにとっては同じ種族なのだ。どうしたって同胞の意識は無くせはしない。
襲ってくれば倒しはするが、自決さすようなことだけは絶対にできない。憐れみはしても――いつかは救ってやれるかもしれないと、どうにかしてやれるかもしれないという、一縷の望みはどこかに抱いていた。
自ら死をえらんだ者たちの屍が累々と重なっていく。
奇妙きみょうなほどに、その表情はむしろ苦痛からの解放に喜んでいるように見えた。悔いてはいないのだ。
「もしかして、死にたがっていたのか?……ずっと?」
「――巫女たちの魂が、哀れなこの小さき魂たちに手を伸べているのが見えます。共に、あの清い天上の野原の地へ逝こうと」
火見華の声が、呆然としているイサナに届いたかどうかはわからない。
だが彼らは望んだのだ。
せめてここから逃げ出せた、唯一の同胞であり、また愛し愛された喜びを体験したイサナの手によって殺され、逝きたかったと。巫女たちの高潔な愛につつまれて昇りたかったのだと。
待っていたのは伊邪那岐だけではなかった。
よりイサナの帰りを待ち望んでいたのは、彼らの方だったのかもしれない。
森射の歌声はさらに玲瓏とひびいていった。
苦しんで苦しんで、己の生命すら呪い、誕生さえ悔やんだキメラたちの、哀れで悲しい魂が清められていく。ひと粒のきらめきとなって消えていく。
言葉なくイサナも火見華もたちすくんでそれを見ていただけだった。
「――みんな逝ってしまった」
森射が歌をやめ、つぶやいた。
「姉様」
「森射……」
首だけとなって生かされていた巫女たちの瞳はすべてつむられ、あまりにもきれいで、どれも置物のように愛らしく和んでいた。
今世の生をやっとおえ、安寧の彼方にいってしまったのだ。
「ここを焼き払う。もう誰にも彼女たちを辱めさせはてはいけない」
火見華がふところからさしだした引き石を、森射はうけとった。
死者へ手向ける葬送の祝詞がゆうるりと流れた。
手のなかの小さな石から蒼い炎がもえあがる。天井に届かんばかりにふくらみ、炎はしずかに燃えうつっていった。
熱をもたない蒼い炎は、建物を清めメラメラと音もなく広がっていった。
死んでいった者たちの最後の挨拶のよう、炎は、花のような美しさをもっている。
火見華は同じ道をあゆみながら、最後までおのれの信じる正しき道をまもった巫女たちの魂に、心よりの尊敬を表し、葬送の歌をうたった。
それは国王が死んだときだけに送られる巫女姫の秘歌のひとつである。
「それくらいの価値は充分彼らにはあるだろう」
森射がつぶやくと、ふっつりと火見華のその声がとまった。
なにか目に見えないものでも探しているかのようにあたりをみまわした。
「どうしたんだ火見華」
森射がいぶかしげに声をかけるのに、火見華は目をつむり、耳をすませている。
「……声が、きこえます。呼ぶ声が、わたくしたちを呼ぶ、つよい声が」
まるでその声が自分のなかから聞こえてでもいるかのように固く目をとじていた。カッと目をみひらくと、走りだした。火見華の前方には、またもや白い鴉が飛んでいる。
神殿内をとおりぬけ、小さな小屋の中へまっすぐ鴉は入っていった。
藁やら薪を積み上げた燃料庫のようであり、部屋のすみに古い布切れをかぶったものが置かれていた。
あとを追ってきた火見華たちの目の前で、鴉たちはその鏡に体ごとぶつかってゆき、その布がもちあがったかと思うと、いっせいに光を発して、消えていった。
高貴な美しい神器である。
鉄を磨きあげた不思議な色をしている、輝く楕円形の大きな御神鏡なのだ。
「こっちです」
火見華は迷わずその光に身をすすめた。
声はそこから聞こえてくるのだ。
迷うまもなくつっこんでいった三人を、光の波がのみこむ。
フッツリとそれっきり闇がおとずれた。
静まり返ったあとに残ったのは、ただの錆びた鉄板だけであった。
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