炎の娘

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8




 二人が神木のあいだを抜け出したと同時に、そこは閉じられてしまった。
 茫然とその場に立ちつくしながら、もはやそこが、誰の呼びかけであろうと立ち入ることを許さぬ聖域となったことがわかった。
 神の森のゆるしと、そこに眠る聖なる者たちの御心があたえられぬかぎり、決して封印はひらかれはしない。
 森射とアギトは、自分達がいままで、まったくの異空間にいたことをはっきりと悟っていた。
 正常にながれる時のなかに戻ってくると、この場こそが、自分達のいるべき本当の居場所であり、あの地へ踏み入るには、まだまだ未熟でありすぎることが、ひしひしと身にしみた。
 高次の波動をもった時空に身をおいたため、からだじゅうの細胞が活性化されて熱を持っている。心が高まり、額にある第三の目のあたりが痛いような気さえしている。
 いまこの瞬間にながれる、血潮の熱さがひどくここちよい。
 「あれは、夢……?」
 落ちつきを取り戻しはじめたアギトが、ふうっと安堵の息をもらした。
 「いや、違う、あれは真実だ」
 森射はきっぱりとこたえた。
 櫛を握りしめた手には、なめらかな鉄のさわりと同時に、突きたつ歯先の痛みがつよくつたわる。
 夢ではないと、もはや伝え聞いたことを忘れることも、聞かなかったであろう時に、あともどりすることも、出来ないのだ。
 アギトは苦しげに胸を押さえ、不安を隠し切れないようにいった。
 「この血を、俺は、本当に浄化できるのだろうか……。ふたたび呪われた血に負けて、劣情のままに人を殺すかもしれない。自分を、止められなかったら、俺は、天津の者とおなじとをしてしまうかもしれない」
 伊邪那岐の波動はこんなにもつよく、神の森にさえひろがっていきている。
 先ほどの空間が、どれほど完璧であり、完全に外界を遮断して、閉じられているかまざまざと感じられる。
 あの場から戻った二人だからこそ、世界がこれほどまでに伊邪那岐の波動に侵されているかがわかった。それは日々を増すごとに強まりっており、人々を不幸と不安の渦にまきこんでいる。
 アギトは体の芯から感じていた。これに耐えられる精神力が自分にもてるだろうか。いや、退けて消し去ってしまうという大事が完璧にできるのだろうかと。
 「無理だ……」
 そんなことをやってのけられる自信がない。
 それでも、もしかしたら、目の前に赤く高貴な光が灯っていたならば、あるいはできるかもしれない。ともに歩み進んでくれる(ひと)がいたならば、前にすすむ勇気がきっともてるはずだ。
 「森射……森射お願いだ、どうか俺と一緒にヤマトにきてくれ。俺には、どうしてもおまえが必要なんだ。俺とともにヤマトを導いてくれ。ヤマト再生に力を貸してほしい」
 あえぐように森射を苦しげにみつめる。
 「それでももし、駄目ならば――俺が闇にたちむかえず、心に食われてしまったならば、そのときには、おまえの手で俺を――」
 「アギト、おまえにはおまえの闘いがあるように、私には私の闘いがある。それはおまえが乗り越えねばならぬ試練であって、私はなにひとつ肩代わりすることはできない」
 あまりにきっぱりした返事に、アギトはカッと目を見開いた。
 「おまえは強いからそう言いきれてしまうんだ!」
 子供が泣いているかのような顔だ。
 「おまえは強い。女の姿をしていながら、おまえの中に存在しているソレは王の心であり、強さだ。――ならばその強さを俺に与えてくれ。俺はおまえが欲しい。おまえの力があれば俺は生きていける。俺は王になることができるんだ」
 「私は、なにも強いわけではないのだよ。おまえがそう私を見ているから、そうありたいという姿を私に投影しているからこそ、私は強くみえるだけで、その強さはおまえの中に隠されているものだ」
 「なにを――?」
 「それはおまえの強さだ、アギト。おまえは吉備に来た、そして私に会い、吉備の人々に出会った。それには必ず意味があるはずだ。人生のなかで起こることに、無意味なことはない。私にその強さを見たのなら、それは必ずおまえの中にもあるもののだ。おまえこそが、強いのだ、アギト」
 目をひらけ、と強く言う。
 そのために森射に出会った。そう言っても、言いすぎではないのだからと。
 だがアギトにはいまだ納得できず苦しげに首をふった。
 起こることに無意味なことはない――そう、なんど聞いた言葉であろうか。森射はくりかえしアギトにそういった。まるで森射自身が、懸命にそう信じ、またそうあろうとしている(まじな)いの文句のさえあるかのように。
 アギトは森射のきらめく朝日のような瞳のなかに、強くあり続けようと、全身の力をふりしぼり、頭をもたげて前をみすえている、懸命な少女のすがたをみたような気がした。
 抑えられた本当の荒々しい感情も、大きな悲しみさえも、森射は己のなかにくるみ、天にとどくほど炎上させ、道を前にすすむ糧としているのだ。
 ――炎の娘。
 杜璃はたしかにそう言った。
 その意味が、いま、ようやくわかりかけた気がする。
 「……森射、ならばどうあっても、おまえは、俺のものになってはくれないというのだな」
 苦しみと悲しみのない交ぜになった低い声だった。
 「射王様がこうして残してくださった二つの血の流れは、きっとまだ、まじわる時ではないのだアギト。行きつく先は広い碧玉の大海だとしても、そこに流れる川筋は無数にある。だから我々も、神へ至る道筋は違っているかもしれないが、きっと同じものを目指しているんだ」
 その目は言いながらも、けっしてアギトをみていない。いつもいつも遠く、果てしない先へと向かっている。
 それがひどくにがくて、苛立たしくてもあり、まるで置いて行かれたような不安と寂しさがアギトをいつも突き放す。それに耐え切れないようにいった。
 「おまえのような特別な人間におれみたいな常人の苦しみがわかってたまるものか!すべてを見通したその明哲さも、清廉な思考も行動も、なにもかもが俺を見下しているんだ。おまえと俺はちがう。それが俺をさらに苦しめるんだっ!」
 アギトは森射の緋色の髪を乱暴につかみひきよせると、無抵抗の森射をそのまま地面にたたきつけた。馬乗りになると、その白く細い首をしめあげる。
 「おまえの言うことはいつも正しい。だがその正しさは俺にとってはイバラの棘でつらぬく苦痛だ。王として人々を導くことも出来ず、このように惨めに逃げだした俺のなかの劣等感を刺激して、こんなにも苦しめている。――おまえは傲慢だ、森射。正しい道をすすめぬ者にとっては、正義の鉄拳をもって煮え湯をのます、厳しく無慈悲な女神だ」
 その手の力がまし、胸の中にたぎる嵐のような感情を押さえることがアギトはできなかった。
 この熱くくすぶった思いが、いつだってアギトに燃えさかり、思考の乱れをついて、いつだって乗っ取ろうとまちかまえているのだ。
 何も考えられなかった。
 嵐にのみこまれたままの感情で暴走してしまいたかった。
 だが、いつもそのあとに『無』と化した、屍ばかりしだけが残されている。
 森射はアギトに反論することはしなかった。それもまた、真実なのだろう。
 アギトにあたえている断続的な不安は、森射が他人およぼさずにはない苦痛であり、脅威である。真実の刃は鋭いことを知っている。
 憐れみをうかべた眼差しは、のどを圧迫され、苦しげに目を細められても変わりはしなかった。
 むしろ優しさをまし、心のなかの闇と戦っている同胞を見守るような温みさえあふれさせている。
 死が彼女を脅かすなかで恐れもせずに受け止めていた。
 森射は青ざめた顔のまま、切れる息のまぎわに、そうっと首を絞めるアギトの手を撫でた。
 目尻から一筋ながれた無心のなみだは、まるでアギトの苦しみの変わりに落とした贖罪のしずくのようで、おそろしく綺麗だった。
 「くっ、そうっ!」
 アギトは歯を食いしばり、うめいた。
 硬直した手をもぎはなした。自分のなかの、もうひとりの自分と戦うかのように必死でおさえこみ、手が小刻みに震えて息が荒々しく乱れている。
 まるで体のなかに流れこんだ猛毒で気が遠くなり、麻痺してゆくようだった。息をのみこみ森射のよこに倒れこんだ。
 「う……ああぁぁ――っ!!」
 あえぐように頭をおさえてわめいた。
 狂鬼のように歪んでいた表情が、声の大きさに反してだんだんと緩まっていった。涙がアギトの頬をぬらしている。
 「なぜ抵抗しない!なんで俺を殺さない、どうして恕そうとすんだ、森射!」
 闇の心でさえ、彼女は否定しなかった。
 そうであることを赦し、認めていた。そのままであってもいいのだと言っているのだ。
 アギトは初めてだった。
 アギトがアギトでいることを――その醜さも、心弱さ脆さもふくめて、アギトという存在をあまさず丸ごと受け入れられたのは、初めてのことだったのだ。
 生まれてきたことをすべて祝福された生命体は、魂そのものが喜びとなり、輝いてゆく。
 アギトのなかの荒れ狂った妄執が、春の陽光に照らしだされて、名残雪のように溶けていく。
 「アギト……」
 森射は切れたのどからあふれた血を手の甲でぬぐった。
 アギトに手をさしだした。
 アギトはその手を乱暴に叩きはらった。まるでふてくされたような顔でそっぽを向き、唇をかむ。
 「俺のものにもならぬなら、俺に優しくするなっ!」
 母親に言うことを聞いてもらえぬ子供のようなだだをこねていた。
 欲しくて欲しくてたまらないのに、てのひらに握ったかすみが、つかんだと思ったその一瞬にして消えたかのような、素直な苛立ちである。
 「おまえがそばにいる限り俺はおまえを求める。俺はおまえが欲しい――」
 「私の半分はおまえと同じものだ。おまえの中には私がいるし、私の中にも、おまえがはっきりと存在している」
 「俺はすべて欲しいんだ。半分ならいらぬ。おまえの全部だ、全部がほしい森射」
 アギトは森射に目をやり、森射が笑いながらじっとみつめていたことに気づくとあわてて目をそらした。心の奥底を見破られそうな気がして赤らんだ。
 本当はもう、どんなに言っても無駄だとわかっているのに、親離れをするための最後のあがきのように、森射に甘えているのだ。
 「おまえとふたりでなら倭国などすぐにでも制圧できるだろう。ヤマトにはまだ、えり抜きの精鋭部隊が残っているんだ。俺が各地にひそませ、俺だけの命令でしか動かぬ、俺が育てた最強の軍団だ。俺の帰りをこがれ、俺が指揮するのを今や遅しと待ちあぐねている。たとえ倭国がどのような科学技術を持っていようと、俺の精鋭部隊のまえにはかなわぬさ」
 言いながら、アギトはすでに自分がそこへ帰ることを決意していることを認めた。
 森射には、勝てない。
 ただもう少しだけ、森射といたい。彼女の甘い匂いをかいでいたい。
 「その最強の精鋭部隊は、アギト、おまえの国の動乱をおさめるのに必要な大切な戦力だ。たぶん倭国での闘いは、人と人との、武力だけの戦いではすまないだろう。黒くおぞましい力は、それを理解したものにしか対抗できぬ。――だからこそ、伊邪那岐は、私が倒さねばならない」
 森射の意志はかたい。その心もまた、この地のはるか彼方の戦いにむけられている。
 アギトは最後までアギトの言うことを聴いてくれなかった、氷のように冷たい、そして、だれより優しくて、愛しい、憎い女の顔を見つめた。
 かすめとるように唇を合わせた。
 「おまえは本当に強い。――俺も、おまえに負けぬようにかならず強くなってやるさ」
 言うなり背を向けた。
 もちろん、ヤマトのある方角である。
 もはや吉備でのかれの学びは終わった。あるべき場所へ、帰るときがきたのだ。
 ようやく己の使命と運命に立ち向かおうという、新たな志がさだまった。
 森射が声をたてて笑った。
 燦然(さんぜん)と照り輝く心からの笑い声だった。そんなふうに笑った森射の顔をはじめてみた気がする。
 晴れ晴れとして、彼女もまたなにかから解放され、ふっきれた顔をしていた。
 「アギト、おまえはここに来て誰よりもたくさんのことを学び、誰よりも強くなった。本当の優しさや、喜びについて語ることができる者は、その厳しさや悲しみを学んでいる者だけだ。苦痛を味わうことによって他者の痛みをしり、苦労にたえることで忍耐力がやしなわれる。困難を克服してはじめて智慧や勇気が身につくのだ。アギト、おまえは神の最大の愛をうけた。必死で耐えた苦労こそが、おまえのこれからの糧になるだろう」
 アギトは何も言わなかった。
 振り返ることもせず、そのまま駆けていった。
 森射はその後姿を見送りながら、おのれもまた、立ちあがった。
 炎の血をひいたふたりが、それぞれの自分の闘いへとおもく。苦しい新たなる闘いの道へと歩み出したのだった。




 森射は森をぬけ丘をくだり、吉備の里めざしてあしばやに山を降りていった。
 人影がたたずんでいた。
 ――イサナであった。
 イサナはずっとそこで森射が帰るのをまっていた。彼女の顔をみると、何もかもわかっているようにただ微笑み、じっとみつめた。
 そのつつみこむような温かさに、森射はしらずしらずのうちにほっと安堵の吐息をもらしていた。身体の余分な力が抜けていくのがわかる。
 彼はいつもそこにいて、黙って見守ってくれている。けして森射の行く手をさえぎりもしないが、一人にもしない。心強くて大きくて、なにものにもかえがたい存在である。
 「行こう。火見華も待っている」
 小高い丘をひとつ越えた山のふもとで、火見華が待っていた。
 彼女もまた、すでに後顧の憂いをすべて立ち切り、心をのこさず旅立てるよう準備をすべてととのえ終えていたのだ。
 イサナはすでになにも持たない自由の身である。最初から、森射がゆく所が、イサナのいる場所なのだから。
 出発の準備はすべてすんだ。
 森射は笑ってうなずいていた。
 進み出す足取りはおかしいほど軽く、まばゆい希望にみちている。森射は仲間がいることをこれほど嬉しく、信じ待っていてくれる人がいることがこんなにありがたいと思ったことはない。
 イサナは、アギトの姿がいなくなっていることも口にしなかったし、また森射がどんなに誘われても、決してアギトについてヤマトにゆくなどとは思いもしていないだろう。
 だからこそ、二人の道行きを見守り、そこへ呼ばれていない自分はただひたすら森射を待ち、彼女の負担がすこしでも軽くなるようにと心を砕いていたのである。
 「待たせたなイサナ、火見華。さあ行こう」
 「はい姉様」
 「ああ、森射」
 森射はその返事に押されるように、倭国へ向かって進みだした。
 三人の頭上には、白い鴉が飛び立っていたのだった。
 



 そしてまた、こちらもほとんど走るような速さで、野山をくだり、先をいそいでいた。
 アギトはいままでの遅れを取り戻そうというかのように、荒れ狂う自分の国、ヤマトへと向かっていた。
 突然、ひとつの影がすぐわきへと降り立った。
 アギトはまったく驚くでもなく足をとめ、目の前に膝をつき、頭をたれている男たちを黙したまま悠然と見おろしている。
 それはまるでいつ来るかと待っていたかのようだった。
 男はゆっくりと顔をあげると、主の冷たく整った相貌をみた。
 いつアギトが吉備からでてくるか、戻ってくるかと時おそしと待っていたのである。
 「待たせたな。俺の我侭な遊びはこれでしまいだ。ヤマトで好き勝手をしているやつらにけじめをつけさせる時がきたようだ」
 「お待ちしておりました、安技人様」
 男はやっとその声をきけたとばかりに頷いた。
 なにかを吹っ切ったような、今までよりさらに強く逞しい光を目にやどした主人の表情に目を奪われたようにみつめていた。
 それから、この愚かにみえた主の乱行が、けっして無駄ではなかったのだと悟ったように満足げに微笑むと、勝利を確信したかのようにさらに頭を深くたれた。
 「ゆくぞ」
 「はい!」
 言葉の意味はわかっている。
 アギトの表情には、燻っていたものを払拭し、期待したとおりにさらに大きなものを掴みとり、成長して帰って来てくれたのだ。
 吉備に向かったときの死んだようなアギトの表情はもはやどこにもない。
 そこにいるのは、完璧とさえいえる、天地に選ばれた王のひとりである。
 向かうべき道をみつけた瞳には清明な意志がひらめいていた。まるで森射のような輝きをもち、高貴で透明で嘘偽りのない、正しい道へとつづく野心に満ちあふれている。
 周囲の木陰に身をひそめていた男たちの顔に、歓喜の炎が甦っていった。
 彼らはここ数日の間、ずっと吉備に張られていた強固な結界から出てくるアギトを、辛抱強く待っていたのである。
 狂ったように略奪へと邁進し、人々を殺し、死体さえはずかしめて引き裂き首を狩る、そんな狂気のおぞましい軍団になりはてたヤマト国を、ずっと愁い、わずらいそれでも沈黙をまもり見続けていたのである。
 そんな恐ろしいヤマトにあって、狂った主導者ではない、彼らが唯一深くこころから身と預けられる信頼しうる王の号令だけを望んでいた。
 彼の不在をしりながら、決して王がヤマトを見捨て、逃げはしないと信じていた。
 誇り高き王者の輝きをもつアギトにこそ、心正しいヤマトの若き獅子たちは忠誠をちかったのである。
 荒れ狂う異常気象や、人々の乱心、そしてはっきりと聞こえる無気味で、ものいわぬ淫らな足音は、いとたかき理想をむねに秘めた、強靭な戦士たちですら不安にさせずにはいなかった。
 王が――安伎人が帰りさえすれば。
 それだけに望みをたくし、かつての堅剛な王として戻ってきてくれることを、彼らは首を長くしていた。
 「ずいぶん長く待たせたな。我儘をした、許せ。だがもう俺は大丈夫だ。もはや何事にもまよいはない」
 「安伎人様、本当に――?」
 以前よりの安伎人の側近のひとりであった菟田(うだ)は、心優しき主の心に巣食う深層を、思い図るかのようにうかがい見ていた。
 安伎人は、彼らの心を読みとると、にごりのない子供のような笑いをむけた。
 「お前にもずいぶんつらい思いをさせた。菟田のことだ、内心ではかなり憂慮していたのだろう。すまなかったな、俺につきあわせてしまって」
 「そんな、安伎人様――安伎人様こそ、今までひとかたならぬ苦労をされたために、心気が病み、爛れてしまわれたのです。われらの配慮がたりませず、苦しめてしまいました」
 「いや、おまえたちが俺の心の支えだった。俺を見捨てなかったおまえたちの呼び声が、俺をヤマトへと戻らせてくれたのだ」
 だれも、安伎人が逃げだしたなどと微塵もおもわぬほどに信頼していた。
 「さあこれから忙しいぞ。誇り高きヤマト軍を、ただの野党と化し、地に落ちはてさせたやつらの一掃をはからねばならぬ。俺のヤマトの威信を、こうまで辱められてしまったのだ。正当な王国の名も、自尊心もまた始めからやりなおしだからな」
 菟田はただ深く首をたれた。
 「話していても始まらぬ。すぐに行動に移れるのだろうな?これからヤマトに巣食った諸悪の根源をたたき、その背後にいる、今だかつてない強大な敵を潰さねばならん。馬は用意できているか。今までの状況は帰りに道すがらに聴こうぞ」
 「ハッ」
 「それから郷原岳(ごうはらだけ)の中腹に、中隊を呼び寄せておけ。掠山(りょうざん)の部隊がいいだろう。あそこは荒くれどもが多いから役にたつぞ」
 「郷原岳、ですか?」
 安伎人はニヤリと笑った。
 「まずは大蛇の腹に巣食うた悪い虫をたたく。早ければ早いほうがいい。まだ俺が帰って来たとは誰も知らぬであろう。ちょっとばかり、悪戯がすぎた愚かな大臣どもを脅かしてやらねばならぬからな。おしおきが必要だ」
 すでに、これから打つべきすべての戦略は安伎人の頭のなかで整えられているようだった。人を食ったようなアクのつよい笑みをニヤリと片口にもらすと、その笑みにつられ、菟田も心強く笑う。
 「そのお言葉、ずっと待っておりましたよ。あなたらしいお顔に戻られた」
 電光石火の行動力。これが安伎人軍の最大の武器である。
 安伎人の考えをただちに行動に移せるだけの統率力と連帯力、互いの信頼があればこそもてる武器なのだ。
 「それから、よりすぐりの行者と占術師を呼び寄せてくれ。ひとつ大切な探し物がある」
 「巫女、ですか?あなたが――?!」
 「ああ。必要ならば巫女でも呪術者でもつかうさ。今度の敵はまさに俺たちの苦手としてきた分野の、しかも一等強い化け物らしいからな。闘いは勝たねば意味がない」
 あまりに変わった安伎人の言葉に、ずっとつきそっていた菟田でさえ驚いていた。
 彼は父王ゆずりで、その見えない世界を扱うものたちをどれほど嫌っていたかしれない。
 「あわれな魔女を封印するためには、あるものが必要だからな」
 「はあ……?」
 菟田は意味がわからないままに返事をしながら、だが、その旨を近くにいた者に伝え、走らせる。
 安伎人は、黒媛を眠りにつかせる決心をしていた。
 どれほど呪われた天津の血であろうと、その血は安伎人に与えられ、受け継がれてきているのだ。この苦しみの元凶でもあったが、たしかに肉親でもあるのだ。
 また深い眠りにつかせたい。そのために必要なひとがいる。
 「五十狭彦の体はどこにある……」
 ポツリとつぶやいた。
 それしか黒媛の荒れ狂った心の孤独を、慰められるだろう方法は知らないし、また伊邪那岐の強大でおぞましい、邪念のいましめから助けてやれる方法はない。
 ふと安伎人は遠くにみえていた山に目をとめると、思い出したようにいった。
 「――ストーン・サークルだ。まずあれを修復しないと」
 わけのわからない言葉をつぶやく安伎人に、菟田は大丈夫なのかと、すこし訝るようにみていた。多分それは、吉備に行き、そういう不思議な世界を見てきたものにしかわからない事柄であろう。
 安伎人はそれを説明するのもいまは億劫だというように、黒媛たちに壊されたストーン・サークルのある、霊山の峰々をじっとみつめていた。
 なにかを確信するように、こぶしを強くにぎっていた。




 ヤマトの都は想像以上に悲惨な状況であった。
 大通りには廃墟とかした家々がならび、たぶんヤマトの裕福な商人であっただろう者の骸が、杭につきささり、カラスに突かれながら腐っていた。
 首のない溶けた死肉に埋もれた腕輪が、腐敗臭のよどみのなかで鈍く光り、あわれをひどくさそっていた。
 空気はよどみ、飛ぶ鳥もおらず、川はにごって魚が銀色の腹をみせういているばかりである。
 悪臭ただようミゾや通りの裏側も、埋葬されぬまま放置された死体があることをうかがわせていた。
 都全体をおおう死んだような空気には、そこに暮らす人々から、精気をぬきとり、無気力にさせずにはいない邪悪さが湧きたっていた。
 死病をはこぶ黒いモヤがどんよりと横たわり、無残に消えゆく命の甘美さに舌鼓をうっているかのようである。
 かつての富栄を思うがままにしていたヤマト王国はもはやなくなっていた。
 はずむような活力にみちた人々も街も、通りゆきかう商人や旅人もきえ、にぎやかに、色めく乙女たちが楽しげにわら声もなく、店にならぶありとあらゆる食べ物や品物もくさり、汚されていた。
 各国から取り寄せられたものであった目をひかずにいないほど鮮やかで贅沢な嗜好品も、それを売り買いする威勢のよい豊かさも、すべてが遠い昔の夢語りであるかのように、いまはぞっとする妖魅たちが闊歩している死の都と化しているのみである。
 死霊の恐怖と、得体の知れぬおぞましきものたちの撒き散らす呪いだけが乱舞していた。伊邪那岐の毒はあまりにもひどかった。
 安伎人はまず、空気を清めるための煎香木をあちこちで焚かせ、邪悪なる気配を排除し、街を清めていった。
 街はしばらくのあいだ甘く清涼感をもった、ほの香る白い空気にみたされていた。
 ゆっくりとだが、伊邪那岐の悪波動がうすまりはじめだしている。
 さらに人々をよびよせ、大通りの中央に祭壇を組ませると、各地から呼びよせた異能集団の実力者たちに儀式の用意をさせた。
 真名石を集めるよう指示し、それを並べさせてゆく。
 安伎人はみよう見真似ではあったが、吉備で行われていたのと同じ布陣を敷き、祈りの儀式ができるだけの準備を整えていったのである。
 それは吉備の巫女達が不眠不休で行っていた、天空にはりめぐらせる結界をつくるための用意だった。
 安伎人は意味もなくそれを毎日見つづけていたのではない。
 また不思議なほどにそれらの情景は心にやきついており、遠く離れたヤマトに戻ってからもありありと思い出せるほどなのである。
 その形に、その石の並びに、組み立てる方法や順番、作法までもが、まるでそれを学ぶために吉備にいったかのようにすら頭と体に刻まれている。
 まさに何かの力が、安伎人の背後で力を貸し、ヤマトをたてなおすのを助けているかのようである。
 馬鹿げているというような顔つきで動いていた者たちも、最後にはなぜか夢中で協力をしていた。そこから発せられる力を、無意識に感じ始めていたのだ。
 「真名石をもっと集めろ!」
 安伎人は寄せ集めではあるが、一応巫女である者たちに、口移しに祝詞をおしえた。
 それは吉備独特の響きをふくむ不思議な韻調で、おぼえるのはむつかしかったが、祝詞を何度も唱えているうちに、巫女達のほうが次第にその言霊に捕らえられていくかのようであった。言葉と一体になって、だんだん力を強めていった。
 安伎人は腰に()いていた備前刀を、中央におかれている大きな真名石の上にのせた。
 吉備でみた石の半分にもみたぬ真奈石であるため、これほどまでに邪念に痛めつけられたヤマトを清める力はもちろんないとわかっている。
 備前刀をおいたのは安伎人のおもいつきであった。だが剣は予想をはるかにこえる力を発揮しはじめたではないか。
 石は祝詞に含まれる言霊をさらにつよく増幅し、剣の与える無尽蔵な力によりどんどん拡散されてだした。
 淀みきっていた空気が命をとりもどすのがわかった。
 それから空や川、井戸の水も、土にはえる草までも、まるで薄膜が一枚はがされたかのように色をかえてゆき、清められて明るさをとりもどしてゆく。
 すでに黒媛の呪力によって憑かれていた大臣達も、行者や神官たちの強制的な清めの施術によって、縛られ閉じ込められていた心を取り戻しつつあった。
 憐れだが、すでに死者となっていたものたちは、すみやかに眠りにつかせ、本来魂があるべき場所へとかえらせてやるしかない。
 そして、黒媛が建設させていた途中である、神殿内にあった首塚を粉々にたたきつぶした。
 それこそがヤマトに邪念をまきちらし、遠くは日向にある倭国に開かれつつであろう、おぞましい異次元、高天原と同調し、伊邪那岐からの悪念悪想をよびよせる根源の一つともなっていたのである。
 安伎人の狙いも行動も、すべて的確におこなわれていった。
 ヤマトを清め復活させてゆくことが、予想以上に、かなりの素早さで行われたといってもよいであろう。一番効率のよい方法を選び、迅速に実行したためである。
 絶望しかけていた人民に、希望の光がさしこんだ。
 彼らはもはや、ずっと救世主が現れるのを待っていた。
 及びもつかぬおぞましい状況へと、急激にむかっているのを止め、そこから救ってくれる英雄を願い待ち望んでいたのである。
 首塚の破壊と、巫女たちが懸命に張りめぐらせていった結界の力で、街は徐々に平穏をとりもどしつつあった。
 それにくわえ、実践力をともなった、正しい心をもつ指導者をふたたびとりもどしたヤマトは、いまだかつてないほど一つにまとまっていた。安伎人への信頼を高めて、さらなる行動を心待ちにしているほどである。だれもが何か役にたつのであれば、何かしようと思っている。
 それまでの封建的で融通のきかない、古びた考えしかもたぬ大臣達に押し込められていた、若き官僚や配下のものたちは、自分達そのもののように軽んぜられ、歪められ続けてきた若き王、安伎人が、その因習のくびきをすべて薙ぎ払い、自分の力で立ち上がったことを強く歓迎していた。
 あの弱々しい印象の王は消えさり、本来の大胆で我信のつよい、歴代のどの王より才気あふれる風格をとりもどしている。自らの力で君臨した安伎人はまぶしいほどであった。
 繊細でもろく優しい安伎人は、もうひとりの安伎人を――残忍で、人の命を命とも思わぬ傲慢な安伎人を受け入れ、認めることによって、解放していた。
 いまだに伊邪那岐の邪念に負け、だれかを思うさま嬲り殺したい欲求にかられることがなくなったとはいえない。
 首を狩り、その血を浴びて狂ったように笑いたいと感じている自分がいるのがわかる。
 だが、それを知るからこそ、相手の目論みや、思考もわかるし、阻止することもできある。人間がただ明るく清いだけでは生きられないことを認め、それを許すことで人々の誠意をも勝ちとっていた。
 また許しは彼の度量をまして、行くべき道もその方法もふやしたのである。
 いまではもう、黒い心すら、それを眺め憐れんでいる自分がいるのがわかった。
 その深く大きな慈悲心こそが、解放だったのである。
 そんな心をだいている己に心を寄せると、鎌首をもたげている天津の血の安伎人が、さらなる力となって力を貸してくれる。ますます前進させてくれている。
 安伎人は大きく深呼吸をした。
 己の出生と、行くべき道と指針をみつけ、もはや二度と己の愚かさに泣き、わがままを言うことはないだろう。
 あんなに困らせ、離れられないといって思いきり甘えた森射のふところには戻れないのだから。
 自分が殺したものたちの屍をふりかえる時間は、今はない。ただ先に進むだけである。
 そして人民はそんな安伎人をうけいれた。
 狂気の王となりかねなかった安伎人を、自分たちとおなじ、惑い苦しみ、一歩一歩前進してゆく人間らしい王として歓迎したのである。
 真のヤマト王は、剣を闘いのために使うのではなく、ヤマトの危機を救うための浄化のためにつかった。
 血を欲し、血を恐れていた男は、己の中にひそむもうひとつの高貴な炎の血をみいだしたことで、新たな闘いの方法をみつけていた。そして、人々はこれから、生まれ変わった安伎人と歩みをそろえ、さらなる艱難辛苦の道を歩むのである。




 ――森射!
 背後からアギトの声が聞こえたような気がして、森射はふりかえった。
 どこか遠くで、歪みかけていた結界のひとつが、ほんのわずかづつだが、修正されてゆくような心強さを感じていた。
 目にこそ見えぬが、強く脈打つもうひとりの自分の血を、森射のなかにながれる炎の血が感じ取ったのかもしれない。
 「姉様?」
 「森射、どうした」
 「いや、なんでもない。さあ、さきを急ごう」
 いぶかしそうにいう火見華とイサナに、森射はあかるく笑った。旅なれぬ火見華の手をひき、また歩みをすすめはじめる。
 めったに人の通らぬ野道をすすむのは、旅なれた行者たちでさえひと苦労なことだった。それを森射は、できるだけ最短の経路をとるため、歩きやすい道を選んではいたが、藪をわけて道をひらいてゆく。
 「森射姉様、ほんとうにこちらの方向でよろしいの?日向の地ではなく、出雲で……」
 火見華は歩みを速めながらも、もう一度だけというように尋ねていた。いくぶん不安げな面持ちである。
 「たぶん、というしかないな。私にもはっきりした確信はないからね。けれど間違いはない。あの人が――最も信用すべき人がそう言ったのだから」
 懐にしのばせている鉄の櫛に手をふれた。そっちに向かえといっているのがずっと変わらずある。いや、強さをまして伝わってきている。
 聖なる森の番人である杜璃。
 彼女が出雲にいる兄に会い、助力を求めるようにと助言したのだ。またその伝えるべき言葉もことづけられていた。
 「――それは、姉さまの進む道ならば、わたくしも信じますけれど」
 森射を信じる。それがまるで火見華の不安を凪がせる完璧な呪文のようにつぶやく。
 幼く旅慣れぬ足にはかなりの強行軍であり、すでにマメができ赤い血をふくんでいる。そんなわずかな苛立ちが積み重なって、火見華の心にもかすかな不安が流れているのだろう。
 それでも彼女は少しも表情をくずすことなく、遅れないようにと必死でついてきていた。
 まさに火見華の信じるものは森射しかいないというように。小さくて大きな火見華の背中には、吉備と、そこに住む人々の未来と期待が背負われている。きっと重い旅路であろう。
 「火見華、この世界はまいだ未知なることに溢れている。それはまた、あらゆる可能性に満ちているということだ。私はそれを信じていたい。信じることこそ力となるのだから」
 「ええ、ええ、そうですわね」
 森射の言霊の威力は強い。薄くかさなる不安の霧さえもはらってしまう。
 けして本気で呪力をこめて歌いはしないけれど、森射はかすかに口ずさんでいた。ふともらす、そんな歌ひとつでも空気が振動し、火見華の背中を押す風が強まっている。力を与えてくれている。
 そこに潜在している歌の力がもつ可能性ははかりしれない。本当の力をみせたならば、どれだけの霊力が有されているか知れないのだ。
 黙ってついてきているイサナにもそれがわかっているようだった。心地よさげに森射の歌を聞きながら口元をやわらげている。
 彼こそ巫女でもなければ、行者でもなく、だが森射を心底理解している不思議な存在でもある。
 森射の道行く先々で、歌にさそわれて、森の木々たちがたしかに道をひらいてくれていた。藪ですら、とげをひそめ、森の動物たちだけがつかえる獣道を、通ることを許してくれる。
 まるで愛しい我が子がむかう闘いを、わずかでも応援しようとしているかのように、また、じっと見守るしかない深いいたわりのように、森は森射たちを祝福している。
 火見華の巫女としての並々ならぬ気質はそれらを素直に感じとっていた。闇夜であっても進むあしどりに心強く不安がない。
 神に守護されているという吉備の領土の境目あたりにまでようやくきた。
 火見華の瞳が、周囲に張りめぐらされた結界を、はっきりと目にしていた。
 白く輝くような蜘蛛の糸ともおもわれる優しい結界は、まるで巨大な樹木の枝がからむかのようにうかびあがっていた。
 まさに神の英気がやどる霊木としかいいようのない、雄々しく畏敬の念をおこさずにいない大木たちだ。そこから流れ出るものは、胸をしめつけるような愛情であり、どれもが森射を抱きしめ、最後の抱擁をあたえている。
 「吉備の守りはここまでだ。結界をでるぞ」
 森射が油断なくいった。
 ほどなくして抜けると、同時に、硝子が割れるような響きが体をつらぬいた。
 一歩踏み出したそこは、完全に吉備の守りの外であった。
 神の眠る木々の守護あつき故郷ではない。不意に母親の心地よい子宮から出てしまったような赤子の不安をおぼえてしまう。
 「さっそくか――」
 イサナがつぶやいた。
 まるで予測したように、数人の男たちが潅木のしげみから顔をだすのを眼の端にとらえていた。
 どの顔もドス黒くそまり生気を欠き、悪霊の棲みかとなりはてた死者たちである。
 ヤマト軍の死の戦士たちによって攻め落とされた国の、あわれな敗残兵たちである。
 森で逃げ惑いながら殺され、伊邪那岐の邪気と黒媛の魔術によって死したのちは、終わりのない戦いをつづけているのである。
 生者をみつけては屠りつづける憐れな魔物たちだった。
 四つん這いになり、獣のように唸ると、憎しみにあふれる双眸をほそめた。ガッとひらいた口からは、長い牙がのぞき唾液がしたたっている。
 肉を欲し、血を浴びたがっていた。生前あっただろう理性や人のこころのひとかけらも、残ってはいない。
 野獣のように飛びかかってきた。
 イサナは容赦なく剣でなぎ払い、うち捨てていった。
 腕が跳ね飛ばされるのと一緒に、腐った血がドロッと垂れおち、糸を未練のようにひいていった。ドブ川のような臭いがたちこめ、腹から溶けかかった内臓が垂れ下がっている。
 いずれの男も、まるで痛さなど感じていないかのように平然としていた。さらに激しい怒りの唸りをあげ襲いかかろうと威嚇してくる。
 すでに死んでいるのだ。それ以上死ぬことはない。呪わしい体が微塵にきりきざまれ、すべての機能が不全になるまで襲い続けるしかない。
 これこそが、死の戦士を有している黒媛のヤマト軍のもつ恐ろしさであった。戦った者でなければわからない恐怖である。
 ただしい理性と本能をもつものなら、生理的嫌悪感をもよおさずにはいない。生を冒す究極のおぞましさとしかいえない呪いがそこには存在している。
 その闇をすべて抹殺してしまうか、または己が、ともに闇と化してしまうかのどちらかでなければ戦いはおわらない。
 とうてい我慢できない恐怖である。
 人々は、その恐怖にうちかてず、大半が闇に飲みこまれてしまった。それら(・・・)は、その感情が産まれることこそを待っているのだ。
 切りきざんでゆくイサナは、そのことがわかっているのか、己のなかの闇を操るように体力の消耗を押さえ戦っているかのように見えた。
 冷静に太刀をふるい、一歩でも森射たちに近づくことを許さず薙ぎはらう。
 彼がこれほどの精神力と剣技を持っていることを知る者は、吉備にも、祈りの宮のなかにもまずいなかったであろう。知っていれば多分、神殿内におきはしなかったからだ。
 森射たちに襲いかかってきている闇こそが、本来、イサナに近いものなのかもしれない。そんな風に巫女であれば、直感的に知ってしまう。そして知れば恐ろしい化け物として処分するしか、彼女らには方法はないのである。
 魔と化した男たちは、イサナの的確な攻撃により分断されていった。だが疲れを知らぬ魔物であるのに、さすがのイサナも圧されはじめていた。
 滑る腐った血に足をすべらせ、倒れそうになるのをどうにかこらえた。
 「イサナっ!」
 スラリとした剣をかまえ、森射が前にでようとした。それまではイサナに制されて、止められていたのだ。
 森射の握っている剣もまた、たしかに吉備の誇る名刀、備前刀であり、そのなかでも選びにえらびぬかれた逸品である輝きを放っていた。
 光はくすんだ空気に一筋の清浄さをうみだした。
 だがまずいことに余計に魔物たちを惹きつけたようでもあった。
 「森射、刀をしまえ!こいつらには普通の剣では通用しないんだ!」
 イサナが叫ぶのに、ガサッと草が踏み分けられる音がした。
 吹きつけるような殺気が渦巻いたが、その音がするかしないかの一瞬先に、すでにイサナは剣をかまえ、男達をはねとばした。
 目の前にたちふさがる闇の使徒たちよりも、ずっと性質の悪い気配を背後に感じて、イサナは緊張をはしらせる。
 森射のまえで戦うイサナの姿には、一分の隙もなかったが、森射もまた、火見華を守るようにいつでも攻撃できる態勢に入っていた。 
 「苦戦しているようだなイサナ」
 「狭崎っ!」
 「に、兄様?! 」
 木の陰からでてきた男は、なんと狭崎であった。
 いままでの戦いのすべてを見ていたように余裕の笑みを浮かべている。
 すっとぼけたような顔を見たイサナは、はっきりわかるほど不快げに眉根をよせた。
 火見華の兄であり、神の火を唯一つかえる刀鍛冶師でもある狭崎は、生ける屍たちと戦っているイサナを気にもせず、悪びれもしないようにまっすぐ森射のそばに歩みよると、色っぽい表情をして顔をよせた。
 怒りに沸騰しそうなイサナにかまわず、狭崎は一振りの刀をさしだし、森射の手をわざと握りながら、その刀をもたせた。
 「この剣は……?」
 森射が問うように見上げるのに、狭崎は耳に息を吹きかけるようにささやいた。
 「おまえの剣だ、森射。草薙の剣」
 「草薙の剣――私に?」
 森射は手に持たされた剣を目の前にもたげた。
 それはいままでにみたこともない薄っぺらな、たよりない刀であった。
 まさか失敗作ではないかとさえ思われるほど、実践向きの強靭な刀をつくる狭崎にしてはなよやかすぎではあったが、そこにひそむ輝きは、たしかに紛い物にはない高潔のエネルギーに満ちあれている。
 剣からつたわるエネルギーが森射をつらき、全身に力がいきわたっていった。
 森射は驚いたような顔をして狭崎をみた。
 彼女には、その剣の意味がわかったのだ。
 「これは……」
 信じられないとばかりにもう一度剣を見るのに、そんな森射を、狭崎は自信ありげに笑っていた。
 森射は驚きをかくせぬまま刀を持ちあげ、闇のほうに振りかざした。
 精妙に澄んだ気が高まり、森射の中のすべてが刀にそそがれていく。細く折れそうに薄い剣が中空をすべると、空気が割れるような音がした。
 それからシンッと森のなかが静まりかえっていった。
 森射を注意深げに見守っていた火見華とイサナは息を飲んだ。
 目の前にいた、闇に冒された憐れな戦士たちが、光の粒となり、消えていたのだ。
 「なんて、すごいっ……っ!」
 刀をふるった森射でさえ、その剣の凄まじさに心奪われるように見入っていた。
 「その刀は闘うためにつくった刃ではないんだ。――死者との闘いにおいて、物質を切り裂く刀など、なんの役にも立ちはしないからな。それは、人の体を切るのではなく、魂を切る刃だ」
 「魂を、切る……」
 森射はその言葉を口のなかでくりかえした。
 肉体に閉じ込められたあわれな魂は、伊邪那岐や黒媛のはなつ邪念の奴隷だ。
 どれほど悲痛な叫びをあげ、本心は助けてほしいと願いつづけているだろう。夜な夜な森射をおとなう声を彼女は聞きつづけていた。
 「剣もおまえを認めたようだしな。まあ、はじめからわかっていたが」
 「狭崎、ありがとう」
 ふいに狭崎は今までに見たこともないような真剣な顔をし、つよく森射の手を剣ごと握った。
 「吉備の神であり、また火の神でもある火具土神が俺に降りたち、おまえのためにその剣を造ってくださったのだ」
 フッと表情を緩めたかと思うと、いきなり狭崎は森射をだきしめた。
 あっけにとられているイサナと火見華にかまわずささやく。
 「愛している森射。おまえが無事に帰ってくるように祈っているぞ」
 いたずらッ子のように笑うと、いつものふざけたような彼の口調にもどり、腕をはなした。
 「無事帰ってこれたら、今度こそ俺の妻にしてやる。――嫌だといっても、毎日おまえのところに求婚に通うからな、覚悟しておけよ」
 冗談とも本気ともとれる声には、必ず吉備にかえって来いという、彼なりの祈りがこもっていた。
 「イサナ、いいか何があっても森射を守れ。おまえが死ぬのはかまわぬが、婚約者が傷つくのは困るからな」
 「ぬかせ!おまえなどに森射をやるか。それよりさきに、その女グセの悪さを直すことを先に考えたらどうだ狭崎」
 軽口を叩き合っていながら、好敵手に別れを惜しんでいるのがわかる。
 「兄様……」
 「行け火見華。迷わず進むがいい。おのれの信じた道をまっすぐに前進するのだ」
 「はい、必ず」
 火見華はつよくうなずいた。
 先をすすみはじめた森射の背を追うように、一度だけふりかえった火見華が歩きはじめた。
 「危険な道はおまえたちを磨き続けてくれるだろう。なにもせず、手に入るものなど何もありはしないのだ。すべてはおまえたちのものだからな。しっかりと歩んでゆけ」
 狭崎の声をききながら、自分達だけが戦いに行くわけではないと彼らは心を強くしていた。吉備の者たちも、同じように戦っているのだ。
 「そう、人生とは、水の流れのようなもの」
 兄の言葉を継いで、火見華が不意にいいはじめた。
 だがその声は、火見華のものではなかった。
 「生まれたばかりのころは、涼やかな深山のせせらぎのように汚れを知らぬ純真な存在であるが、やがて小さな流れが集まり、野山をかけ、くだりながら大きな川となって、人は成長してゆく。そしてそのさざなみが大きなうねりとなり、海へとたどりつくことを信じ、叡智をやしないながら魂を磨くことで、人のなかに眠っていた大いなる神の御心を呼び覚ませることが初めて出来るのじゃ」
 「大ババ様……」
 森射が言った。
 火見華の厳しい顔つきが、急に優しくなり、大ババの声がきえた。火見華の美しい少女の顔にふさわしい愛らしい声がした。
 「……ババ様からの、手向けの言葉ですわ」
 「――行こう」
 森射は短くいった。
 あゆむ足取りの早さに比するように、吉備はどんどん遠ざかっていったのだった。



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