炎の娘

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7




 祈りの宮に帰りついた森射たちをまっていたのは、大ババだった。
 萎えてひさしいはずの足でふたたび立ちあがり、彼女がいつもいる細殿(さいでん)から、さらに奥まった特別なものしか通さぬ、上御堂とよばれる、私室の小さな中庭で待ちかまえていた。
 いつも重々しく引き下ろされていた御簾のむこうから、陽光のもとに姿をさらしたのは何年ぶりであろう。彼女の姿さえしらぬ新参の巫女もかなり多い。
 火見華だけでなく森射ですら、大ババが人前に姿をみせるだろうとは、もはやないと思っていた。さすがに驚きはしたが、それよりももっと二人の目を丸くさせたのは、彼女の両肩にとまっている、白い鴉であった。
 彼女の一畳はあるかという長い髪を結いあげた頭のよこに、それと同じくらい大きな白鴉がゆうゆうと羽をやすめていた。
 つい今しがたまで森射たちの後を追い、羽ばたいていたはずのその鳥である。
 それがただの鳥ではないことはわかっていた。またその鳥たちが運んできたことも、非常に重要なことであろうこともすぐに気づいた。
 漠然とした予感は、出迎えた大ババの口から語られていった。 
 「よう聞けみなの者よ。倭国の偉大なる巫女、日巫女様の念話が、この吉備に届いた」
 大ババの神託を告げるような朗々とした威厳ふかい声に、いっせいに体中の毛穴が引き締まるような緊張がはしった。
 「もはや、倭国の存続は絶望的だということじゃ」
 「――え?」
 一瞬なんのことかわからず、森射たちはぽかんとしていた。
 「倭国はもはや助からぬ」
 もう一度告げられ、やっとことの重大さに気がついてゆく。
 火見華が一番に反応をした。
 「倭国が助からないって、それはなぜですの?!彼の国になにが起こったのですか?」
 「わしに、それらのことは、ようはわからぬ」
 大ババはどう解釈すればいいのかと悩むように首をふった。
 「あの日巫女様が――我ら巫女すべての母であり、偉大なる幻視者、先読みの天才、そして鬼道の創始者、そうよばれてしかるべきあのお方が、愛する祖国をいうほど簡単には見限ってしまわれるとは思えぬ」
 一国の王にも劣らぬ、対等か、それ以上といえるほどに重んぜられ、それほどの価値は十分にそなえている稀有なる存在のはずだった。
 「そのお方が、そのように判断したとあるならば、いかほどまでの、身を切るような苦渋の決断であろうか。倭国はそれほどに切迫した状況であることだけは明白じゃ。……いずれにせよ、日巫女様のお言葉がわれらに届いたのならば、わしらには、もはやどうすることもできぬと思うが必定……」
 目をつぶり過ぎし日の栄光を思い起こしている。師とも、母とも慕い、尊敬している輝くような美しい日巫女の姿は忘れられない。
 彼女こそ巫女の祖であり、神にもっとも愛され、信頼されたはじめての者だ。
 国津の神の寵愛を一身にうけて、巫女として彼女は一生涯を神にささげると誓った。
 いずこにか去って久しい国津の神々を奉るための正しい作法と儀礼を、数多くの巫女たちに伝え教え、指導してきていた。
 彼女は、それこそが神より賜った大切な仕事であり、忠誠のあかしであると思っていたのだ。
 だれよりも倭国を愛し、国津の神からあずかった祖国の発展と進歩をねがい、助け、驚くべき長い時をすごしながら、ずっと見守ってきた。
 その日巫女が愛しくてたまらぬ国津の神そのものである、倭国の行く方を、とうとう見限り、終末を予期せねばならぬというのは、よほどのことであるのだ。
 「日巫女様のあの凛とした強く優しいお声が、ひどくつかれたように掠れて、弱々しく聞こえたわ」
 鴉からつたえられた声は吐息のようにかすれて聞きとりにくかった。彼女ほどの術者が消えそうな思念波しか送れなくなっているのである。
 大ババが修行をしていたあの時の倭国は、たしかにどこの国よりも隆盛をきわめ、光りと希望にみちていて、永遠にその時が続くかとおもわれた。
 「何が起こったかはわからん。わしの遠見の術でも、その地を覗くのはかなわぬ。黒くよどんだ膜が、日向地方全体をすっぽり覆い、閉じてしもうておる」
 厳しい顔つきである。
 森射が悔しそうに云った。
 「もはや、そこまで伊邪那岐の力が浸透しているというのか」
 伊邪那岐の名に、大ババの目がしわの奥から鋭くひかった。
 「伊邪那岐じゃと?」
 「やつは、自分たちのいる異次元界である高天原を、この葦原の国につなごうとしています。その通路が、恐るべき速さで近づきつつあるのです」
 森射はいいながら、妖霊星が瞬いている方角に現れはじめた、次元のヒビわれを思い浮かべていた。それもしだいに巨大化し、本性をあらわしつつある。
 星の邪悪なきらめきは、悪魔のこじ開けようとして起こる光と熱なのであった。
 生体保護膜を破るほどの荒々しさに、地球が悲鳴をあげ、地をゆるがしているのだ。
 森射はその絹の肌に邪悪な影をかんじて、腕にのこされた悪魔の爪あとが疼くように赤さを増した。そこをぎゅっとにぎりしめ、
 「妖力がますます強まっています。この吉備ですらあのような怪事がおこり、人々を悩ませています。その亜空間から直接影響をうけているだろう倭国ならば、どれほどおぞましいことが起こっているか、想像だにできません」
 森射のことばを想像してか、火見華がブルリとふるえる。 
 「これら一連の奇怪なさわぎは、やはりあの異次元の悪魔――伊邪那岐のたくらみでしたのね。なんて凶々しい、なんて忌まわしい存在なのかしら」
 「日巫女様の思念は、わしに助けをよびかけ、ふっつり消えてしまわれた。どれほどわしが呼びかけようとも、それからは二度と応えてくださらんのじゃ」
 大ババは心を痛めるように謂い、小さな肩をさらに小さくしておとした。たぶん最後の力をふりしぼり、ここまで念波をとばして、やっとそれだけの言葉が伝わったのだ。
 「この白い鴉は日巫女様の使いじゃ。わかることは、かの国は、一刻の猶予も残されておらぬであろうことだけ」
 大ババの言葉に、皆がうなずいた。
 白鴉が高く鳴いた。
 森射の瞳に燃えたつ真紅の炎が灯るのを、鴉たちはじっとみつめていた。
 彼女になにを感じたのか、いきなり白く雄々しい翼を広げとびあがった。一羽の大きな鴉は森射の肩にとまり、もう一羽はイサナ、そして、最後の一羽は火見華の肩にとまった。
 森射は肩にとまった鴉に手をふれながら、不思議な、底知れぬ力がわいてくるのを感じていた。
 「私たちが招かれているのだな」
 火見華も同様のことを感じたらしく、うなずく。
 「――倭国へ、参ります」
 声に多少の不安は隠しきれないでいるが、仕方がないだろう。
 火見華はほかでもない、祈りの宮の、もっとも重要な最上位の巫女なのだ。
 その祈りの力は、この吉備にあっては、だれに劣ることのない絶大な強さを秘めていた。その巫女を欠くことになれば、吉備にもかなりの負担となる。そのことも不安だが、もっと不安なのは、その力が戦うこと――最低限、身を守ることとは、まったく別物だということだ。
 武術はおろか、野山を駆け巡る牽強な足もなければ、倭国へおもむいて、さらに伊邪那岐たちと闘うだけの力があるとは、とうてい考えられない。そうなれば、旅についてゆくだけでも森射たちへの負担は増大するだろう。
 火見華のこころのうちなる葛藤を見ぬいてか、大ババが助言をくわえた。
 「火見華よ、おまえの巫術の力はこのたびの闘いにおいてはなによりの武器となるであろう。闇を切り裂き、先を照らす灯りとなれ。それがおまえの役目じゃ」
 「大ババ様……」
 「火見華、おまえはかならず日巫女様に出会うであろう。そこできっと巫女として、なによりも大切な教えを受けるであろうぞ」
 それは大ババの先読みであったのか、または、せつなる願いであったのかはわからない。ただその言霊は、火見華を勇気づけ、吉備の最高位の巫女としての誇りをおもい起こさせた。
 いまこそ、吉備の、祈りの宮の巫女として、全権を大ババからゆだねられたのだ。
 「そしてイサナ、おまえにはつらい道行きとなるやもしれぬ……」
 気遣うように大ババは言葉をにごした。
 「わかっているさ。俺も、いつかは帰らねばならなかった場所だ。気にはしない。いままで森射に――吉備国に保護してもらい、養育してもらっただけでも感謝している」
 すでに自分自身の中でなにかを決断しているのだろう。その表情はあまりにもいさぎよく、おだやかであった。
 森射を見つめているイサナの目線は、すでに彼女と同じくらい高くなっていた。ほんの数日までわずかだが見上げていたのに、いつのまにか同じになり、もうすぐ追いこしてしまうだろう。
 彼は日々、心も体も成長をしている。
 すっかり男の顔つきになり、守るものをもつ者の強さがにじみだしていた。その表情はなぜか遠い日の温羅を思い起こさせるようだと大ババは声にならぬ声でつぶやいた。
 「なら決まりだな。日巫女様が我々を呼んでいるとあらば、一刻も早く向かわねばらならない」
 森射はそう言ってから、自分でもそれをやっと納得したかのように息を吐きだした。みえない緊張の糸がほぐれたように、いつもの笑みが真珠色の頬に浮かぶ
 大ババのおつきの巫女たちにまぎれてその場にいたアギトの顔は、きみょうに青ざめていた。
 鴉に選ばれなかった自分に、あらためて吉備の人間ではないのだと思いおこし、ここにいるべきないことをひしひしと感じていた。 
 それを当たり前だと思う一方で、すべきことから逃げだし、放棄している己の重責感に苛まれている。
 イサナをみている自分がどれほど醜い思いにかられそうになっているかアギトにはわかっている。
 胸の痛みは、本当はヤマトのことだけを考えているためではない。森射の傍らにいることを許されなかった自分の口惜しさだ。
 嫉妬とねたみと、いまさらそんなことを感じている恥じらいがともに混濁している。
 イサナが突然、自分の中の沈黙をやぶるように言った。
 「俺は、決着をつけねばならなかったんだ」
 森射をじっとみつめていた。
 それから森射だけに、語るように、
 「俺は人工的につくられた生命体だ」
 「イサナ……?」
 「殺されるために飼われていた、まさに人によって造られた呪われし者だ。――この体には異国の神の血が混じっている。俺はそうあるべくして人工的に生み出されたんだ」
 森射ははじめて聞くイサナの話しに、イサナの決意をよみとっていた。
 心の内をくちにし、彼は自分を言葉の魔術にかけて強くしようとしている。逃げ出さず、それにむかえるように、自分の言霊で意志をかためているのだ。
 「俺は物質を根本から変化させることができる力をもっている。高圧の、エネルギー変換炉を体内にもち、そこから発せられエネルギーによって、声だけで元素変換をおこすことが可能なんだ」
 腹のあたりをおさえる。きっと何事もなければ死ぬまで隠していただろう秘密。
 「俺は人間でありながら、恐ろしい兵器でもある。もしもこの力が伊邪那岐の手に渡れば、それこそ次元を開くことなど容易いことだ。それだけでなく、ヤツの思いどおりに、この世を地獄につくりかえることもできるだろう」
 じっと森射をみる。顔色がかわらぬことを読みとりつづける。
 「だがそれは、裏をかえせば、俺の力はヤツを倒す手段にもなるということだ。俺の体はやつを倒せる」
 「イサナ……」
 どんな思いで自分が異端な存在であり、恐ろしい怪物だと告げているのだろう。
 それでも森射なら受け止めてくれるという強い信頼と、愛情があってこそのことでもある。
 彼のなかには森射への思いで一杯だった。もはやそんなことを誰に聞かれたっていい。森射がみとめてくれれば、それだけでいいのだ。
 「俺の全てはおまえのものだ、森射。もし必要ならば、おまえの望み通りに俺を使え。どんなことでも俺はしよう」
 たとえ死ぬようなことであっても、どんな恐ろしい手段としてでも、気遣いなく、存分に利用していい――。
 イサナはそういっている。
 すでに深い覚悟は決められていた。誰のために死ぬのではなく、また助けるのでもない。ただ森射のためだけ。彼女だけなのだ。
 森射はイサナの内なる心を聞いていた。大きく見開かれた瞳に、森射の言葉にならない思いが溢れんばかりにゆれた。
 イサナは自分を、自分の肉体と魂魄のすべてを森射に捧げた。見返りはなにひとつ求めていない。そんな痛々しい愛を、みたことがない。
 森射がなにかいおうとした。
 鴉が時間がないとばかりに声をあげ、森射たちに緊張がはしった。
 不吉としかいえない気配がたちこめ、空間がねじれるほどの淀みをます。
 倭国のある南の空をみあげた。
 「呼んでいる……私を……?」
 森射の耳にははっきりと届いていた。助けを呼ぶ、弱き者たちの苦しみの叫び声と、絶望のなげきが。
 嵐のように荒れ狂い、雷鳴を轟かせ、ただひたすら逃げ惑いながら、穢れた魂を癒してくれる存在を、光ある生命の歌をうたえる森射を、強く求めている。
 「行かなければ」
 まるでそれが自分の運命であるかのような気がした。
 森射の瞳に、赤い焔がゆれていた。
 アギトはそれをみつめながら、複雑な思いに胸を焼かれ、拳をにぎって倭国の空と森射を交互にみつめていたのであった。




 村に戦火のほむろがあがらない日はなかった。
 ヤマト軍の猛攻のまえにあっては、さしもの吉備の勇者たちも苦戦を強いられていた。
 その攻撃はまるで、狂った牡馬とでもいうほどに破壊的であり、残忍であった。
 どの顔も生きて帰ろうなどとは考えてないかのように攻め入っては、生きている者をみつけると、年寄りや幼な子、女に病人、赤子にいたるまですべてを殺し、ありとあらゆるものを壊し火をつけていった。
 死者の腹をさばき肉を屠り、女であれば姦し男は首を切って、死者のもつ最後の尊厳までも犯しに犯しぬき、はずかしめた。
 はじめのうちは、それこそ全くといっていいほど、穢れた死の戦士たちへの対処の方法がわからず、ひどく混乱していた。
 だが必死で抵抗するうちに、巫女たちの呪文を写した真名石によって、それらを浄化することができることがわかってきた。
 呪わしいあの年齢を急速にとってゆく病さえ、しばらくはヤマト軍からの邪悪な波動によって活性化されために、かなり悪化していたのだが、これもまた呪文で清められた真名石でくいとめることが可能であることがわかり、症状もいくらかの緩和もみせはじめていた。
 だがかなりの国土を侵され、人も土地も、そうとうな打撃をうけていることは否めなかった。
 そしていくら真名石が効力を発するとしても、石をあつめ、聖句を転写する巫女の手が圧倒的にたりない状況にはかわりない。
 結界をはる者や、病人を手当てする者、薬をつくる者など、各々が何らかの仕事にかりだされ、休むいとまもないほどに働きづめである。
 すでに限界の足音がすぐそこまで近づいてきているのは確実であった。
 そんな中で、最も精力的に多数の石を集めてきていたのが、森射であった。
 森射は倭国に旅立つと決めた翌日から、おどろくほど忙しく動きはじめていた。
 彼女が主となって行っていた仕事を、できるだけすませておきたかったのだろう。可能なかぎり、ほかの者にひきついでしまうつもりだった。
 呼び出しにこたえて倭国に行ったからといって、そのあいだ吉備の民の苦しみがなくなるわけではないのだ。ヤマト軍の猛攻すら弱まりはしない。
 死者のまきちらす穢れの猛毒にやられて、吉備国が万が一にでも死滅してしまうのでは、なんの意味もない。帰る場所がなければ、生きぬこうという気力さえなくなってしまう。
 病人たちの苦しむ声は、吉備も倭国もおなじだった。日を増すにつれて大きくなってきている。
 森射は霊力のある巫女や、神職につかえる男たちを連れて、霊山に入っていった。
 普段、人間がめったに足を踏み入れない神の山は、真名石がまだまだ驚くほど眠っていた。
 もしも何も知らない人間が入り込んだのなら、どれほど神の怒りをかうかしれない場所であった。神聖な山を踏み荒らすものは、即座に怒号の雷を受け、死の闇におとされるのだ。
 だが、森射の簡単な祈りのせいなのだろうか、神々は、人間どもの愚かな闘いさえを、沈黙をもって見守り、なにごとも起きなはしなかった。
 森射はひととおりの祈りの作法をおしえると、石を切りだしはじめた。
 山はまるで、彼女のいかなる願いをも聞きわけてくれるように、おのれの体内に孕んでいる、おびただしい石の群れでさえ、度々おこっている地震によってさらに多くを吐きだしてくれていた。
 まるで我が子を守りたいと願っている親のごとく、吉備の身を案じ、石を与えてくれているのだ。
 森射はそれらが終わると、ひとり抜けだして、イサナもつれず別の山へとむかっていた。
 そこは気の短い山の神がおられるのだという言い伝えがあり、わずかでも山の神の気にさわれば、踏み入れた人間に呪いをかけ、山からおろすことなく永遠に彷徨わせる恐ろしい魔の山だと恐れられていた。
 そのおかげで、だれも近づく者はいなかったし、まるで迷路のようにいりくんだ樹海はさらに複雑さをまし、入ることも難しい深山幽谷となっていた。冷涼で人間を恫喝するいかめしい空気が延々とはりつめていた。
 森射はもはや最後になるかもしれないと、故郷の森に別れを告げながら、まっすぐ歩みをすすめていた。
 まるで何かをあせっているかのようにひどく足早であり、その目はどこかこの世の場所ではない、遠く果てしない何かを見ているようである。
 山はそんな森射をひっそりとむかえいれ、それほど恐れられているとは微塵もおもわせない静けさだった。まるでわが子を迎える母のように、ほんのりとした祝福さえ感じさせているではないか。
 アギトは無謀にも、そんな森射のあとを追って、ずっと走りついてきていた。
 彼女の脅威的な足のはやさには、特別なちからを感じさせる。
 はげしく喘ぎながら、すでに限界にちかいほど疲労していた。彼女のすがたは目の先の、すぐそこにいるはずなのに、アギトには次元ひとつちがう、鏡の向こうの世界のような、恒久的な距離を感じさせていた。おいてゆかれる恐怖だけが、せなかを懸命におしている。
 「森射!」
 アギトは焦燥感にたえきれず、おもわず叫んでいた。
 全力で走っているのにどんどん離されて行ってしまう、そんな子供のような癇癪だった。
 森射はふりかえり、はじめてそこにアギトがいることに気づいたように、びっくりした眼をみひらいた。その顔はあきらかにアギトの存在に気づいていなかったのだ。
 「森射?」
 アギトは返ってそのことのほうに驚いていた。
 あの森射が、あの、森の中にいるかぎり、だれよりも鋭敏に反応し、どんなに離れていても、苦しむ者の吐息を逃しはしなのに、後ろをドタドタと泥臭く走っているアギトにまったく気づきもしなかったというのである。
 森射はおいつくのを待ちながら口をひらいた。
 「アギト、いつから私を――?」
 「ずっとおまえを追っていた。――でも、いつまでたっても追い付けそうになかったからつい呼んでしまったんだ。まさか本当に、俺に気づいていなかったなんてな、森射。こんなに息を切らして、小枝にひっかかったり、下生えの木を踏み鳴らしていたというのに。おまえらしくない。出発前に、何をそんなに急いでいるのだ」
 森射は言われたことに異を唱える様子もなく、そのとおりだとほうっと息を吐く。自分をなだめるように、視線をおよがせるように前方へむけた。
 「だれかが、呼んでいるんだ……」
 「呼んでる?こんなところでだれが?」
 「はっきりとしたことはいえないが、私を呼ぶ声がたしかにきこえている。向こうで、誰かが私を待っているんだ」
 アギトは森射の視線に目をあわせる。
 「どこまでも森が続いているばかりじゃないか。こんな場所でだれがおまえを待っているんだ。いや、もしやそれは……」
 敵の罠ではないかというようにアギトは森射をみたが、彼女はきっぱりと首をふった。
 森にいるかぎり、森射の神経は拡散され、研ぎ澄まされている。邪悪なものに鋭敏に反応してしまう。
 しかも森射に味方する吉備の森では、悪意あるものに森射が気づかぬとは、考えられない。
 「ここは一体どこなんだ?」
 どこまできたのかわからないほど深くに分け入っていた。
 気がついてみると、いつのまにか深い霧がたちこめていた。
 みるみるうちに白い闇がふたりを包みこみ、磐根木立のあいだを白い滝が流れるようにひろがって、空間はすっかり閉じられていた。
 そばに立っていた森射の髪に、もやの露が玉になってひかり、幻想的である。森のなかにいる彼女は、まさにひとつの自然の息吹なのである。
 「さすがにこれほど深い霧となると動きづらいな。感覚がまったく狂ってしまう。しばらくここでのんびりしていろ、ということだろうな、これは」
 森射はしかたがないと笑った。
 どんなに急いても、これでは動きようがない。
 それ以上すすむのをあっさりとあきらめると、そのまま岩の上に座った。さすがの森射も大自然の脅威には及ばないのを知っている。呼ぶ声をききのがすまいと全身にはりめぐらせていた緊張をふうっとといていた。
 アギトも、もうなにもいわずその隣に腰をかけた。森射はこんなときであっても、なぜついて来たかなどとは問わない。
 まるでそんなことなどどうでもいいように、霧がふたりを覆っている。
 ひっそりとした、一寸先すら見えない世界は、なぜか奇妙な安心感をあたえた。山という母の子宮に包まれているような気がして、心も体も生命の源である宇宙に、溶けてしまうような心地がする。
 アギトは自分の心がどこまでも広がってゆくのを感じながらも、片隅では、少しも目の前がみえないこの状況が、まるで自分の今の心をあらわしているようだと冷笑していた。
 ずっと誰かに、行くべき道を指し示してほしいと思っていた。
 どうすればいいかわからず、ただ混乱し、思考と感情と、沸きたつ闇の心にがんじがらめになっていて、窒息しそうだった。
 彼女なら道を示してくれるかもしれないと、ずっと思っていた。吉備から去れ、帰れと、おまえなど要らぬと――なんでもいいから、言ってもらいたかった。
 卑怯だということはわかっていた。
 他人に人生をなすりつけようとしていることも、すこしでも自分の責任からのがれようとしていることもわかっている。
 女性であり、しかも他国の人間に、それをおしつけたいと願っているのは自分のエゴだ。。
 だが、行き詰まった袋小路のなかであがきつづける苦しみには、飽き果てていた。そうして考えることすらできなくなったとき、闇に心を喰われてしまったのである。
 アギトは森射のつくりもののように怜悧で美しい横顔を見つめていた。
 そうやって白くけぶっている森射のすがたは、例えようもなく美しくて、奇妙な概視感すら起こさせる。
 この懐かしさは一体どこからくるのであろうか。
 熱いものが胸をかけめぐった。
 これはなんの欲望か。
 このひとが欲しいという、たぎる思いともちがい、魂が吸いつけられるみたいに慕わしくて切なくなる、そんなむずがゆい感覚なのだ。
 普通の人間が見ぬものを視て、聞こえないものの声を聴く。
 自然と同化するたおやかさを持ちながら、戦士にもなる荒々しさをそなえている。吉備の姫君というが、この世に存在しているのがおかしなくらい、人離れをしている。
 ――森射がいれば、この自然に愛される女神さえいてくれれば、今の狂ったヤマトをどうにか出来るかもしれない。
 アギトは口のなかでつぶやいた。
 世界はいま、滅びるか、それともめのまえの苦難をのりきり、さらなる進化をとげるのかという、まさに産み落とされる苦痛に鳴動していた。
 だからこそ、アギトはそれを乗り越えるだけの強さと確証が欲しかった。
 「森射、俺と一緒にヤマトに来てくれ」
 思いをしぼりだすように言った。
 「俺と一緒にヤマトに来てくれ。おまえとなら、俺はヤマトを立ち直らせることが出来る。おまえがいてくれたら、俺は、きっとどんなことでもできるはずだ」
 森射が顔をむけた。露でぬれた髪が赤味をましてアギトの肌に柔らかく触れた。紅玉の瞳だけが光り、甘く痛いような疼きが全身にかけめぐる。
 彼女の前ではもはや嘘はつけない。心が、体から染みだしてしまう。
 「気づいているのだろう森射。俺がヤマトから逃げ出してきた、愚かで情け無い王なのだということを。こんなになってまで、俺はいまだ自分の国に帰れない、心弱き人間だ。ヤマトの王たる責務を放棄し、自分のこころの闇に負けて、尻尾をまいて逃げてきたんだ」
 それがどんなに苦しいことであれ、逃げは逃げである。ヤマトがただ狂っていくのをみているだけなのだ。
 「……俺には、二つの心がある。人を引き裂き、殺したいという強い欲望をもつ残忍な心と、また、人を愛し守りたい、慈しみたいという真逆の心をもっている。ふたり俺がこの体に混在し、奥底でいつも戦っているんだ」
 相反する心は、責めぎあい闘いあい、そしてその均衡がくずれたときに、黒い心は噴出して止められなくなってしまう。
 「俺は自分を抑えることができなかった。愛していたはずの妻を引き裂き、やっと宿った新たなる魂までも流してしまった。そしてそれをいさめた医師まで、殺してしまった」
 アギトは今でも自分のしたことに耐えられぬように歯を食いしばった。
 「俺はこの黒い心が止められない。――俺は俺自身が恐ろしいんだ。いつか心が暴走し、、みなを殺してしまう。だれであろうとかまわず、何もかもがわからなくなってしまう。おねがいだ森射。俺と一緒にヤマトに来てくれ。俺をそんな悪魔にならないよう止めてくれ。そしてもし、俺がもし悪魔と化し、ふたたび暴走するようなことがあったら、そうなるまえに、おまえの聖なる刃で俺を、殺してくれ」
 もはやそれしか方法がないと追い詰められているように言った。森射のあしもとに、乞い願うように膝をつく。
 黒く汚れ切った醜い心のために、どれほど長きにわたり苦しんできただろう。
 それに気がついたのは幼いころであり、虫や動物を殺して、楽しんでいる自分にどんなに途惑い、おびえたことか。
 そしていつからか、暴走することが止められなくなり、段々それが激化していった。
 王という権威に縛りつけられ、心にかかる負担の並々ならぬ重さと、だれにも相談することを許されぬ身のつらさに、つねに煩悶してきた。
 みずからを敵として、もう何度のたうち死のうとしたかわからなかった。だがそれも叶うことなく、体の内側から、あばれる蛇に身も心も食われてゆくような、緩慢な心の死が、アギトを冒しているのである。
 森射は祈るように膝をつき顔をふせていたアギトに、哀れむように手をのばした。まるで自分の分身でもみているかのるように、アギトをだきよせた。
 アギトはもはや最後のすくいだというように縋りついた。森射のさしのべる手をはなしたら、二度と光の世界に帰れないとでもいうように強くにぎり、熱い息をはく。
 「どうして俺なんだ!神は何故、俺にこんなおそろしい二つの心を与えたんだ」
 アギトは悲鳴のように、目に見えない神へ憤りの声をあげた。
 「どうして俺をくるしめる!俺はこんなしずかな清浄なる空間にいてさえも、森射、おまえを殺し、我がものとしたいと胸の中で思っている。逆巻くみにくい欲望をたぎらせながら、その黒い心と一緒に、それと同じくらいの強い思いで、おまえにだれより幸せになってもらいたいと、愛しいと思っているんだ。いつもいつも、この二つの心が争い俺を引き裂いている。気を緩めたらきっと俺は喰われてしまう!」
 森射の細い腰にすがり、まわした手に力をこめ抱き寄せた。
 うかされたようにいう。
 「神などどこにもいやしない。いるなら、なぜ俺にこんな苦しみを与える。まるで悪魔が俺に苦痛を与えて楽しんでいるようではないか。神など信じられない。どれほど助けを願っても、沈黙しか俺にはきこえない。応えてくれない。なぜ、なぜ俺など生まれてきたんだ……っ」
 森射は苦しみごとアギトを強く抱きとめた。
 「森射、この命、おまえに差し出すのならば惜しくはない。おまえの歌と剣ならば俺の心に巣食った闇ごと浄化できるだろう。俺もまたなにも思いを残さず、いさぎよく死ぬことができる」
 アギトは森射をみあげた。悲痛な面持ちのアギトのまなじりはうっすらと涙に濡れていた。
 森射の表情は、それを見るだけで赦されているという安堵を与えていた。彼女自身からしみだしている神の摂理を知る、深い智慧そのもののようである。
 森射の穏やかな声が耳をうった。
 「どんなに……どんなに苦しい時が来たとしても、それを乗り越えなければ、つぎへ進むことはできない。神はその強さがあることを信じて、さらなる成長と共に、その苦しみを与えてくださっているんだ。――アギト、神は無慈悲におまえを助けないのではなく、助けないことが高き御方の、愛の形なのだ。人間にはどうしても依存心がある。ひとつ助けられると、つい甘えを呼び、自ら努力することをわすれて次の助けを待つようになる。それではなんの答えも得られないんだ。それを乗り越えた向こうに、きっと何かがあるのだから」
 じっとアギトの瞳をみつめてくるのに、目が、そらせられない。
 「自分の運命を呪ってはいけない。意味があってこそ万象は起こる。神は越えられない試練など、決して課しはしない」
 アギトはこらえるように息をすいこみ、目をつぶった。だが、つぎに開かれた瞳には、さらなる怒りが燃え上がっていた。
 「では何の意味があって俺はここにいるというんだ。俺は、人を殺してまで、どうして吉備に来なければならなかった。おまえなど、しょせん大自然に守られ安穏に生きている恵まれた者だ。おまえなどにわかりはしない」
 「アギト」
 「絶対的存在として、王でありつづけなければならぬ重積と、孤独――そして自分でさえ自分を信用できない、そんなおぞましい苦悩に苛まれる日々の苦しみなどわかってたまるか!ああ、神などいない。俺は信じない。いるならその神をいますぐ見せてみろ!」
 アギトの絶叫は濃い霧の四方八方に反射され、まるで鏡に跳ね返ったようにあちらこちらに響いていった。
 まるでそれがこの厚く白い壁をとかす呪文だったかのように、霧は突然どこかへすいこまれていった。
 あっというまに薄れてしまった。
 だが、なにかが違っていた。
 霧が張るまえと、晴れたいまでは、空気が、受ける印象さえがどこか違って感じられる。
 どこかの扉が開らかれた、そんな感覚なのだ。
 アギトは気づいていなかったが、どれほどかというような巨大な木の下に身を任せやすんでいた。
 巨大といっても言葉では説明しがたいほどの年輪をきざんでいる、老齢な超巨木であり、幹は何十人という人間でも囲うことが難しいほど太く厚く、梢の先端でさえ空の青さのむこうに消えて見えないほどだった。
 苔むした樹皮は威風堂々として、雨風やあらしに耐えぬいて鍛えあげられた滑らかな輝きがあった。雄々しく、神々しくて立派な岩壁のように、どこまでもひろがっていた。
 盛り上がった根が岩を抱き、そこからさらに枝をのばし、芽吹く若木や、宿り木たちが勇壮な幹から栄養をわけあたえられ、さらに成長をしている。枝から枝にツタが絡み、花を咲かせている。
 そこに巣をつくる動物たち、花の蜜を吸う虫、隠れ住むさまざまな命がいきづき、まさにそれだけでひとつの森とでもいえるほど深い繁みをつくっていた。
 アギトは畏敬の念にうたれ、怒っていたこともわすれてしばしその巨木にやどる崇高さと、大宇宙にやどる生命の神秘さに心うたれて呆としていた。
 これほどの隆々とした霊気ただよう大木が存在していたことに、霧がはっただけで少しも気づかなかったとは。
 まるで故意に隠されていたかのような圧倒感だった。誰が見ても、一目でこの神木がこの吉備の森の王だとわかるだろう。
 森射はその木の存在にきづいていたのだろうか、まるで木と同化してでもいるかのように違和感なく神木のそばにたたずんでいた。
 いや、まるでその木に守られてでもいるかのように見えない手に抱かれているのが、見える。
 「アギト、人の人生こそは、池に投げた小石のごとく、波紋となって周囲にひろがってゆく。過去から現在、そして未来へとつながり、ひとつの連続的な生命の神話となる。――なにも神をあがめることだけが信仰ではない。流れに逆らわず日々の生活を懸命に生き、神や先祖を尊敬し、自然にこそ生かされているのだと気づく。そして願わず頼まず、ただ祈るのみ。自分のすべてをゆだねるのが、真の信仰だとおもわないか。――神は自分で自分をみがき前進することを望んでおられる。われわれは茨の道であったとしても、神がそれを望んでいるのなら、未来を信じてそこを進まねばならない」
 ゴウッと大樹の枝が風にゆれた。
 神木の枝が重々しい響きをあげてうなると、嵐が起こったようにきこえた。凛とした精妙な空気がながれはじめる。
 巨木に塞がれていた向こうの空間が、ふいに開かれはじめた。
 まるで何重にもふさがれ、隠されていた、聖なる至高の場所が、呼び声に応えるように目の前に明けていった。
 そこは森射でさえはじめてみる場所であった。
 この神木の前にまでは何度も来ているが、そのむこうに、こんな空間がひらけているとはおもわなかった。
 いきなり開かれた扉は、まどい苦しむ子供たちの叫びに共鳴したかのように、いま彼らの目の前に神秘のベールをぬいでいったのだ。
 神木はこの空間のための、特別な番人でもあるかのように立ちはばかっていた。
 だれの侵入もゆるそうとはしない。それがたとえ愛し子である森射であってさえもだ。
 その扉が開かれるのには、森射とアギト――この二人でなければならなかったのか。
 だれがそう約束したのかはわかないけれど、それだけは本能的にはっきりとわかった。
 「――別れを、告げにきたんだ」
 森射が言った。
 「この木に別れを言いに来たんだ」
 二度と逢えるかどうかもわからない。森射にさえ気まぐれに道を開き、また道を閉ざしてしまうような場所である。
 「そう思って山に入ったら、声が聞こえてきた。それをただ夢中で追ってここまできた」
 そうして、辿りついていたのは、やはりこの木の前だった。
 「別れ……」
 言いかけてアギトはやめた。
 倭国にむかう森射の覚悟がどれほど深いか、アギトはわかっていたつもりだった。生きて、もはや二度とこの地をふめるかどうかわからない。帰ってこられることを、第一には思っていないのだ。
 「この木のそばにいると、身も心も浄化されるようで安らぐんだ。私の考えなど、ほんとうにちっぽけでつまらないことのような気がして、自分の小ささを思い知ることができる」
 罵倒する叫びに泣きたくなった時も、己の愚かさに苦しみ、黒い夢に脅かされた日も、ここに来て、ひとりでたえた。
 「ずっとここにこうしていると、何もかもが溶けだし消えてなくなり、空っぽになる。そうしたら、もうあとは大自然に愛され育まれている私の存在しかのこらない。私はこの自然と一体であり、自然そのもの。だから、どこに行っても寂しくはないんだ」
 人の聴かぬ声を聴き、自然としゃべり、だれかとも知らぬ父から産まれた少女を、皆が受け入れてくれたわけではなかった。
 赤すぎる髪も目も、見る者によれば恐ろしく感じられるだろうし、その特殊な能力は悪霊をも呼んでしまった。
 もっとも大切な二人を失うことになり、その痛手は森射だけでなく、吉備の多大な損失にもなってしまった。森射は人からうけた悪意についてはなにも語らなかったが、それをおもうとさらに愛しさがわき、胸がいたんでくる。
 「また、呼んでいる。声が……」
 「ああ」
 今度はアギトにもはっきり聞こえた。二人を呼ぶ、だれかの強い意志がたしかにきこえた。
 それは体に流れる血によびかけているかのようであり、森射とアギトのなかにある、切っても切れない、つよい絆かもしれない。
 二人は真っ直ぐ進んでいった。熱くからだがたぎっていた。
 緑の絨毯を敷き詰めたような草と潅木がつづき、姿美しい木立の群れのむこうがわには、見たこともない美しい滝が流々とながれ白くあわだち飛沫をあげていた。
 澄んだ空気にさしこむ陽光をうけてきらきら光る岩場がみえ、その奥手に洞窟が口をあけている。
 ゆっくりと歩みを進め、そこへと近づくにつれて空気がさらに澄み、玲瓏としていく。
 不浄なる人間には毒にもなりうるだろう空気の層は、徐々に高い波動率となり、まるで次元をいくつも越えながら進んでいくような、不思議な感覚をもたらしていた。
 二人は迷わずすすんだ。
 だれかが、強く呼び導いているのだ。
 森射の美しい緋色の髪の毛がふわふわと浮きあがり、アギトの野放図にのびた髪の毛と交じりあって、まるで双子の兄弟のように、同じ血因同士のようにみえた。
 そうしてみると、アギトと森射はよく似た何かをもっているのがわかる。
 顔かたちなどではなく、本質にそなえているもの、心の奥底にひそめている何か。凛とした雰囲気や、ささいな仕種といったものにもさえ同じにおいを感じとれる。
 いつだっただろうか、火見華が二人のオーラが同じだと言ったことがあった。その意味がいまならよくわかるだろう。
 二人は洞窟のそばへと、ようやく近づいた。
 自然にできたというよりは、人為的に造られた墳墓のような面持ちをそなえていた。恐怖感はまったくなかった。そこへこそ導かれてきたのだ。
 この不思議な空間に満ちている大気は心地よく、まるで母の腕に戻ったこどものような安心感と、まろやかな愛情が、何もかもをゆるし受け入れてくれていように感じられた。
 大いなる神の懐に抱かれた安心感に、二人の心が解放されてゆく。
 地下世界への入り口のようにひらかれた洞窟から、うっすらと白い清らかな人影が浮かびあがった。
 それは小柄で上品な老貴婦人だった。
 空気をすべるようにみるみるうちに近づいてきた。
 老婦人は微笑んでいた。
 笑みにゆるんだ目許の皺が、彼女をいっそう愛らしい少女のような印象にした。見ているだけで心がなごみ、ほっとしてくる、そんなに優しさにあふれている。
 もし許されるなら、彼女の膝で四肢をなげだし眠りたい。温和で清廉で、ほっとした休息をあたえてくれるだろう。そんな柔らかな空気が彼女をつつんでいる。
 「よく……」
 唇がかすかにそううごいた。
 森射はすぐに彼女がただの人間ではないと本能的にさとった。
 濡れたような真っ黒いかのじょの瞳は、真実のみをうつしだす。まるで賢者のようであり、聖母のようであり、少女のようでもあった。
 長い髪を一つにたばねて巫女の禊の衣装をきていた。そこを守りつづけている番人なのだと、なぜかわかってしまった。
 「よく、ここまで来てくれました」
 彼女は涙をふくように目頭を服のすそでおさえた。
 懐かしそうに二人を見ているのだが、視線のどこかが、常人とはちがっていた。魂のそのものを見られているような、本質を見抜かれる不思議なまなざしである。
 まったく見ず知らずの女性であるはずなのに、なつかしささえ感じられる。ほんとうに不思議な感覚だったが、さらに不思議だったのは、彼女のつむいだ言葉であった。
 「まっていました子供たち。私の大切な大切な子供たちよ……」
 フワリと浮いたかと思うと二人は小さな女性に抱きしめられていた。幻かと思うような軽さだった。
 森射の肩ほどしかなかったが、そこから伝わる温もりは巨人のように大きい。
 アギトもまた甘い陶酔感に飲まれるのをこらえ、必死で口をひらいた
 「あなたは、誰なのですか……?」
 ふたりの戸惑いを感じとったのか、女性は顔をあげた。
 そして愛しくてたまらぬようにアギトをみあげ、そっと皺ひとつない美しい手で、頬をなでた。
 「ああ、こんなに大きくなって。愛しいあの方の血をうけついでいる、誇り高きわが子孫よ。――わかっています。あなたの苦しい叫びはいつもわたくしの胸に届いていましたからね、安伎人(あぎと)
 「――俺の名をなぜ?!」
 ヤマト風の、きれいな発音で名を呼んだ。
 安伎人といわれ心臓が止まりそうになった。その呼び方が、母のもっていた独特の声の響きと、まるで同じだったのだ。
 「安伎人、わたくしの大切な子供。あなたはわたくしが産んだ可愛い娘――豊秋津(とよあきつ)の大切な子供なのですよ。わたくしにとっては愛しい、大切な孫」
 思いがけない言葉だった。
 一瞬、アギトはいうべき言葉を失った。
 豊秋津とは、たしかにアギトの母の名ではある。
 だが母からは、一度たりとて祖母の存在については語られたことはない。それに彼女は祖母というにはあまりに若くて美しすぎる。まだ母といってもいいほどだ。
 けれどそうしてみると、幼いころになくなったはずの、思い出のなかに住んでいる母、豊秋津となんとよく似て思われることだろう。
 安伎人は強いゆさぶりがからだ全体に起こるのを感じていた。その目から、薄皮一枚がはがれおち、世界が開けてくるのをひしひしとうけとめていく。
 それは突然おこった。
 まるで胎児が生体膜につつまれ、外界の毒素に耐えうる抗体ができるその時まで守られていたかのよう、アギトは急激な速度で膜を脱ぎ去り、理解していた。
 今までどれほど盲いた世界に自分が生きていたのか。
 たったひとつの法則、ひとつの理しか目にはいらない、許されない小さい檻のなかで、あがき苦しみ、のた打ち回っていたのだということを、やっとわかることができたのだ。
 おのれの卑小さがひしひしと身にしみた。
 彼の小さな宇宙だけでなく、別の生きかたを持つ人間がいたり、産まれ落ちたときから目にうつる事象が、常人とは違う人間がいることを認めた。
 世界は自然と、動物と、あらゆる生命体によって育まれているのだと、やっとわかった。
 「わたくしの勝手で、豊秋津やあなたには余分の苦労をかけてしまいました。わたくしはあなた方をヤマトに置き去ったまま、この地を守る番人として、帰ってしまったのです」
 息をひとつのむと、凛然として言った。
 「この吉備には、わたくしの大切な方が眠っておられるからです」
 「吉備に――?」
 森射がそっとつぶやいた。
 見た目にも、森射たち吉備の人間とはあきらかにちがった顔の造詣をしていた。
 どちらかといえば、アギトに似ていて、ヤマト美人というべき顔立ちである。
 それでも柔和でまろやかな表情は、遠いはるかな昔を思い出させるような懐かしさと親しみを感じさせている。
 「わたくしは杜璃(もり)といいます。土蜘蛛(つちぐも)族――今はヤマト族に吸収された部族でありますが、その王家の末に、属する者です。部族の巫女として神に仕えている身でもありました。わたくしは、ある約束(・・・・)に従って、今はこの地で眠りにつかれている、緋色の目と髪もった貴い御方の子を、わが身へと宿したのです。」
 杜璃は森射とアギトの顔をゆっくりと見、それからアギトだけを真摯な眼差しでみつめた。
 「安伎人、あなたはヤマトの血を引く父上と、そして土蜘蛛族の誇り高い血と、またこの神の温情ふかき聖地である、吉備の血を同時にひく稀なる子供です。あなたは重くつらい苦渋なる使命を負って産まれてきました。吉備とヤマトの――天孫と、それに敵対する国津の、猛々しい二つの血を身にやどし、その浄化をするべくして産まれてきた運命の子のひとりなのです」
 「運命の子、だと?」
 唸るようにいう。
 「吉備とヤマトの血を引き――それを浄化するとは、どういう……?」
 アギトは、杜璃の話しの内容が、途方もなく大きいことに気づきめまいがしていた。
 思考がうまくはたらかない。いきなりそんなことを聞かされても、どう処理すればいいのか。
 アギトは助けをもとめるように森射をみた。
 森射もまた、彼女の話のないように思いを馳せるように、ただじっと杜璃をみつめていた。
 杜璃の表情には、だがただいっぺんの曇りも、みじんの偽りもみつけられなかった。まるでこの時をまっていたかのように穏やかに、そして多少、興奮気味に頬を紅潮させて二人に話かけていた。
 「運命の子です。安伎人、そして森射」
 「私も?」
 森射が云うのに、視線はどこかうっとりとした憧れにもにた柔らかをふくんだ。
 そして恭しく、身分の高い人に敬意をはらうように森射の白い手をとると、そっと額におしあてた。
 まるで彼女こそが稀有で、偉大な存在だといわんばかりに、大切そうに。
 「待っていました森射。あの方の、大切な大切な御子。楪様が、大地の王とのあいだにもうけ育んだこの世の宝玉」
 森射はそういってみつめる杜璃の目が、盲しいていることにやっと気がついた。
 彼女は森射の姿を写しているのではない。森射の存在を、その不思議な瞳で写しとっているのだ。
 彼女はいったい森射の何をみつめているのだろう。うっとりと、そして愛しく思わずにはいられないような慈悲の眼差しをしている。
 細くやわらかな森射の肩にのっているであろう、世界の重みと苦しみもまた理解し、いたわるような優しいオーラを感じさせる。
 森射の知らない、大切ななにかを知っているようで、それが、いま森射が抱えているだろう重みを軽減してくれる。つかの間の憩いをくれている。
 「森射、安伎人、あなたがたは、ここに眠っている大切な御方、気高くて美しくて貴い、あの方の血をひいているのです。それは遠い未来へと、必ずつないでゆかねばならない大切な血でもあるのです」
 「杜璃……?」
 森射が躊躇(とまど)うようによびかけるのに、杜璃は森射の手を祈るようにつつみこんだ。
 はるか彼方の――それがはてしない未来へか、遠い過去のことかはわからないが――こことはちがう世界をみつめる光が、彼女の目に灯っていた。
 「わたくしはあなたたちが来るのをまっていました。よく聞いてください、これから語ることは真実なのですから」
 優しいオーラはうすまり、異世界をうつしている目にあやしいひかりが生まれだした。目の前に現れたのは、ひとりの語り部の姿だった。
 「そのいにしえの昔、この葦原(あしはら)中津国(なかつくに)は、緑深い、自然の息づく大いなる精霊と、神のおわす聖地でした。八百万の神々に導かれ、人々は田畑を開墾し、精霊と神とを崇め奉りながら、ともに生活してきました」
 肌がふれあうほど神と身近に接し、その偉大なる存在を支えとして、人々はくらしてきた。
 国津の神々は、葦原の人間たちとまったく同じといってよい、姿かたちを有していた。感情表現も、心のうごきも、目を見張るほどのちがいはなかった。
 ただ大きく異なっていた点は、その身に潜在させている超常力の大きさであった。
 人には持ち得ない神力と、自然さえ服従させる念の波動力は、おどろくべきものであり、それらは深い智慧と、強い意志の統率のもとにおかれていた。
 人々は受ける恵みの大きさと、守られているというありがたさに、素直に感謝と敬意をあらわした。
 神々に驚きおびえて崇めるのではなく、自然と湧きでてくる、感謝の気持ち表していたにすぎなかった。
 「そして吉備にもまた、一人の神が降り立ちたちました。その御名(みな)火具土(かぐつち)神。偉大なる火具土神は、あらゆる神々の中でも、最も偉大で、もっとも強力な能力を有され、はかりしれぬ莫大な潜在能力を秘めておられたといわれます。神々のなかでも最高位の神とされていた御方でしたが、またその無尽蔵の能力ゆえ、神々のすまう国でもある、高天原の王、伊邪那岐の嫉妬をかいました。いずれ王座をおびやかされぬかという恐怖をいだかれ、また姉や兄にあたる天照、月読神の妬みを呼び寄せることにもなったのです」
 もともと国津の神々もまた、高天原にすまう天津の神々の一派であった。
 不死ともおもわれる非常な長寿と、超常の力を有する神の血族であったが、かれらは伊邪那岐のあまりにも残虐で酷薄で無情な、人を人ともおもわぬ傲慢で非道で横暴なふるまいに我慢しきれず、反旗を翻したものたちでもある。
 伊邪那岐はその邪悪さにより、人々を(しい)することを厭わず、禁忌さえなくし、無惨に己がための糧として人々をころした。
 なんの感情もなくまるで家畜のように殺し楽しみだけのために悲鳴をあげさせ、苦しめるのが常だった。
 高天原の王とは名ばかりで、そこにいるのは権力という名に巣食った悪霊であった。醜く愚かに腐りきった地獄を支配する王そのものなのである。
 そんな中でも、彼は火具土をもっとも憎み恐れた。
 火具土は妻である伊邪那美が産んだ、最後の子供であったのだ。
 火具土のありあまるほどの巨大な力は、この世に生をうけるその瞬間にさえ、特殊性を発揮し、母体を焼いてしまった。
 それほどの凄まじい力は、誰よりもおおきな可能性を秘め、まさに天界をゆるがす未知数をひめた存在だった。
 けれどそれはまた父、伊邪那岐の恐怖心と嫉妬をかい、己が一番だという自尊心をもきずつけた。そして妻、伊邪那美を殺した罪だけは何があろうと許されるものではない。そういって命を狙った。
 なにかにつけ殺されそうになった。いっしょに生まれてきた双子の姉、大月姫もまたそうだった。ともに支えあい、魔の手からすりぬけてきた。だがそれを見逃すわけもなく、伊邪那岐は長女の天照と、長男の月読に、彼らの抹殺を命じたのだった。
 「天界すべてを焼き尽くすような闘いだったと伝えられています。もえあがった戦いの炎は、星辰世界も、次元の壁も、なにもかも焼きつくし、天照も月読もその火に飲まれたそうです。火具土神は、叔父である須佐之男をたよりにこの地にまで逃げて降りたちました。そのご、吉備の巫女姫のなぐさめをうけ、その繊細で優しい御心をどうにか慰められ、たちなおることができたそうです」
 かの神は、以来、吉備の神として敬われてきていた。
 情けぶかい心根によって、その深い慈悲にまもられ吉備の国は栄えてきたのである。
 「吉備は、その火具土神のもっとも守護深き土地です。わが土蜘蛛の神もまた、非常に我らを慈しんでくださいましたが、いつしか国津の神々が沈黙を守るのと同じように、口をとざしてしまわれました。人の子は、いつの世もおろかです。あまりに容易に助けられたり守られたりするとつい頼りたくなり、努力を忘れるようになってしまうのです。神はそれに気づき、助け厄災から守るだけが愛ではないとお気づきになられたのです」
 思い当たることあるのだろうか、どこか声音が遠い。
 「そして、日々しずかに安穏に暮らしていたはずの葦原の国に、嵐がまいおりました。天津の神の――次男神、月読の側女として仕えていた魔女よって、この世は戦乱の時代をむかえたのです」
 もはやそれはいにしえ語りではなかった。
 すぐ以前の杜璃の若き日のはなしだ。いまとてその時おこった闘いの名残が強く残っている。吉備がヤマトに従属を強いられているのもそのためだった。
 「まずヤマトにその魔女、黒媛はおりたち、ヤマトの王を篭絡させてしまいました」
 「黒媛……」
 アギトはその名をつぶやき、身の毛がよだつ怖気にやっとその名を思い出し、思わず声をあげた。
 「黒媛だと?!」
 「そうです。黒媛です。彼女は主、月読の復活を願い、人民の首を狩りつづけました。首には霊魂がやどり、人々のエネルギーを最も強く集約することのできる呪物とし、黄泉の深き眠りについたものを呼び覚ますダーク・パワーとなるからです。その野望を遂げんがために、まずはヤマトに入りこみ、王を色香でまよわせ傀儡とし、いうがままに周辺の国々へと侵攻をはじめました。我が土蜘蛛族もそのとき滅ぼされ、吸収されてしまいました。ゆえに今は亡き国とされてしまったのです。そしてついに、黒媛は吉備にも魔の手をのばしました」
 二人はそのまま自分たちの聞き知っている昔語り思い出していた。
 ところどころに重なる部分を持ちながらも、どこかかしこで違っている。伝える者たちの人為的な操作と、また記録したくないという無意識的削除や、捏造によって、だんだん異なってきているのだ。
 「たしかに吉備とヤマトは戦いました。……ですが、それは愚かなことであり、間違いだと気づいた方がいました」
 杜璃のかおがぱっと明るくなった。なにを思い出しているのか、乙女のようにかがやく。
 森射はうなずき、
 「それが、私とアギトの血を同じくする方なのですね」
 杜璃はうなずいたが、なぜかすこしだけ複雑そうな顔をした。
 「この世には、ほんとうに色々な方がいらっしゃいます。神事を、このうたかたの世に存在する身体に現された、至高の方です」
 洞窟の奥くふかくをみつめ、膝をつくと祈りを捧げるように手をあわせた。
 「あの方はだれよりも慈愛深くいらっしゃいました。また人々の受ける艱難辛苦のくるしみも、そこで生きるつらさも、そして強さをも知っていらっしゃいました。まこと聡明で心持ちの高く、あの方のすがたの美しさは口では申されませぬ。が、それ以上に美しいのは、その心根の美しさです。何にもかえがたく、比するものがあらぬほどに孤高でいらっしゃいました」
 それであるがゆえに、神の愛を得ることができたし、自分勝手にふるまいだした人類に深く悲嘆し失望しかかっていた神にさえ、また復活の勇気をあたえることができたのだ。
 「そして、かの方の奇跡は、その身に神の御子を宿されたのです」
 「なんだって?!」
 思わずアギトが口をはさんだ。
 「ちょ、ちょっと待てください。だってさっきあなたは、その方の子を産んだと――俺の祖母だと言っていたではありませんか」
 まったく逆のことではないか。孕ませるのと、孕むのとではなにもかもが違う。
 アギトはたまらず聞くのに、森射もうなずいた。
 「そうです。わたくしはその方の子を身ごもり、たしかに豊秋津を産みおとしました。――射王(ひおう)様は、聖なる体の持ち主、両性を具有されておられたのです」
 その言葉には、さすがの森射もびっくりしていた。アギトは言葉さえ失っていたようだった。
 『射王(ひおう)』の名は、吉備では知らぬ者がない有名な存在だった。だが射王は赤い髪をした巫女であり、女だと思われていた。
 「射王が、両性具有者?」
 杜璃はおどろきを隠せない森射をだまって見守っていた。
 その目は人の姿を――外の殻をみるのではなく、内側を見通す目であり、それゆえ彼女のなかに映っている森射の姿は、まるで産まれたての赤子のように無垢な姿であった。
 「射王様のお腹のなかには二つの魂が宿っていました。一つは偉大なる神、火具土の御子。そしてもう一つは――」
 これこそ大自然のもたらした摩訶不思議な現象である。
 純粋な、相手を求める素直で穢れない、たったひとつの愛がおこした奇跡は、神の摂理の枠を超えていた。人のもつ愛が、神のそれに劣ることなく、どれほど素晴らしいか、貴いかを雄弁に物語っていた。
 「黒媛の呪縛に冒されて、死のふちにあったとされる異母兄、皇恭(みたか)様と森射様は、この世とあの世の縁で、契られたのです。たった一度の交わりにより、射王様は受胎されました」
 それが、森射の母、楪だった。
 「射王様は、天の道をよくしる賢いお方でした。あの方は悟られました。一方で神の子をやどし、もう一方で楪様を宿しながら、このように争い渦巻くなかで子を産むわけにはいかないと。殺し殺され、憎くみ憎まれる、醜い思念と波動にさらして育てることはできぬと。それゆえ、勝ち軍であった吉備は、ヤマトとの闘いに終止符をうつべく、ヤマトの課した不条理な条件もすべて飲み、闘いを終結させました。ことの事情のなにもかもを知り尽くしていた温羅様は、素直にそれに従い、重臣もまた苦渋の決断をうけいれたのです。射王様は皆に語られました。火具土神がさらなる力を得るために、永の眠りについたことを。そして再びやってくるだろう、高天原軍との伊邪那岐との闘いのことを。火具土様が、最強最高の宇宙神としての力を有し、我々のまえに必ず復活し、現れる、その日まで眠り続けられるのです。吉備は、その神の妻たる射王様のお言葉にしたがったのです」
 射王はそのまま悪波動から身をまもり、また射王を狙ってくるであろう邪悪な存在たちから目をくらまし隠れるために、神の子を育てられる時がくるまでこの聖なる地で眠りについた。
 「ここは神の約束した聖地です。楪様はここで、神の御子と同じ母体にて、十月十日お育ちになり、人の子としての生を御受けになられました。それでも、母体にいる長きのあいだに、神の御子のはなつ高波動に身を包み育ちつづけられました。さらには同じ羊水に浮かんでおられたため、通常の方とはたしかに違っておられたのです」
 楪は、人ではないものたちの声を聞き、精霊を友として遊び、大地の王と神の愛を強く感じて育っていった。
 「そして、わたくしもまた、何者かの導きにしたがい、運命の流れのままに射王様の子をやどし、豊秋津を産んだのです」
 杜璃は射王をふかく敬愛していた。どんなにつらいことがあっても、けして負けず頭を高くかかげ、めしいた瞳を真っ直ぐにして生きてきた。
 踏まれても踏まれても彼女のそなえた高貴さや、未来を信じるつよい魂もけがされはしなかった。
 杜璃は信じていた。だれより気高い魂を心より愛したことの大切さを。尊さを。
 なぜなら彼女の(うたかた)()の事象のなにものをもうつしださない瞳は、過去に、射王の不思議なちからによって、人々の本質をみつめることのできる素晴らしい視力をあたえられたのだから。
 「理由はどうであれ、結果としてヤマト軍に負けたことになってしまった吉備と、同盟国の出雲は、ヤマトの支配をつよめられていきました。そして吉備に力を貸しともに戦っていたわたくしは、歴史の古い土蜘蛛王家のすえ末裔の者として、ヤマトの一族にいにしえの歴史を組みこむため、王の親族であり、年のちかい男性の側室のひとりとなることを余儀なくされました。わたくしの子供は、ヤマトの血をひく子として生まれはしましたが、真実、我らが清浄なる血筋の子――高貴な吉備と、土蜘蛛の娘でした」
 誇り高い部族なのだと、その表情には聡明な威厳をもってうったえていた。それは杜璃にのこされた確かな、そして唯一の拠り所でもあったのだ。
 その娘がまた、ヤマト王の子をもうけ、アギトを産んだのである。
 穏やかな優しい顔に似合わない厳しい光をたたえたまま、彼女はアギトに目をみすえ厳かにいった。
 「アギト、あなたの中には、誇り高い我ら土蜘蛛と吉備の国津の血と、そしてヤマト民族と、それに黒媛の血を受け継ぐヤマト王の、天津の血の二つが流れているのです」
 「俺の、なかに……」
 「あなたは、濁りよどみ狂った波動の天津の血を、愛によって結ばれた国津の清浄なる血によって浄化し、清めるために、生まれてきました。その身で、異なるふたつの血を浄化させるのです」
 自分の誕生の重きをしり、アギトは雷に打たれたように茫然と立ちすくんだ。まさに、いま現在、その狂気によってこんなにも苦しめられているのだ。
 それが、彼に課せられた使命であり、この狂気を凪ぎ清めろというのか。
 なんて残酷で、なんてきびしい。
 あえぐように息をもらし、何度も唇をなめて言葉をさがす。
 動揺していることすら、もはやそれを隠そうとさえしていないアギトを、杜璃は自分の苦しみのようにみつめていた。
 彼が望みそれを引き受けたのではない。過去の責任をおしつけ、惑うとわかっていて、闇に突き落としたのだ。
 どれほどあがき悩み、苦悩にくれるだろう。
 それでも我が子を激流のなかに投げ込まなければならない母の苦しみは、おのれの身を引き裂かれるよりも辛くくるしい。
 「天津神の血、それは高天原に坐し、伊邪那岐を盟主とあおいでいる者たちのこと。呪われた超常の力をもち、永遠にほとんど近い長寿を有するという神の血が、あなたのなかには流れています」
 アギトは信じられぬと首をふる。
 「そして国津の神々の血――この地上に生まれてきた、ありとあらゆるものの息吹の守護神であり、慈悲の深き御方たち。人々をいつくしみ、ともに肩を並べ歩むことさえいとわないすべての神々。そのなかでも一目置く存在ともいえる、火具土神に愛され、その神の子を宿した射王様の血を、また――安伎人、あなたはひいているのですよ」
 「よく、わからない。そんな聞いたこともない虚言で俺をだまし、なにかをさせようと企んでいるのか。それとも俺に――」
 アギトは怯えるようにわが身を抱いた。呪詛から守るように力をこめ、どうしていいか自分でもよくわからないという眼をしている。
 「すべては事実です。なによりも、天津の血は浄化されなくてはならないのです。狂ったような熱い情念を、他者の死によって消し去るのではなく、アギト、あなたの中になみなみと溢れている深くてあたたかい愛情によって包みこみ、死と欲望の心を消し去ってほしいのです」
 身にしみこませるように強く言ってから、またしずかな口調で続けた。
 「あなたの母、豊秋津は、わたくしと射王様の子供です。そしてヤマトの王――黒媛と五十狭彦(いさせりひこ) の子である伊都岐(いとき)と、豊秋津の子供が、あなたです」
 「黒媛と、五十狭彦の子……?」
 アギトはただ茫然としていた。だが今はそのまま感情が荒立つのに流されてしまっている。
 「たしかに父の名は伊都岐(いとき)だが、だがそのほかのことなど、俺はなにも知らない。誰も俺に教えようとはしなかった。――あなたが俺の祖母だなどという証拠はどこにもないではないか」
 「いいえあります。あなたの中の血が、わたくしたちを知っているはずです。なにより安伎人、あなたはこの場に呼ばれてきたではありませんか。声が聞こえたのでしょう?結界を越えてこの神域に入ってこられたのが何よりの証拠です。吉備から離れられず、今日までここにいたことは偽れないでことでしょう」
 アギトはそれに応えることはできなかった。
 この地に思わず知らずやってきて、どれほどたくさんの感情に触れ、自分の中の思いの深さに出会い、おどろいてきたか。
 自分のなかに潜んでいた狂気のことさえ、あれほど知られまいとして、禁忌としてひとり悩んでいたのに、それさえ森射によって受け入れたのだ。
 ヤマトが未曾有の危機に陥っているとわかっていながら、どうしても去りがたかった。
 未練と呼ばれる感情であっても、これほど後ろ髪を引かれるには、きっとなにか理由があるとしかおもえない。
 「……黒媛、そういえば黒媛といったな……」
 アギトはハッとした。
 胸にわだかまっていたその名を思い出した。
 「だがそれは、たしかヤマト軍を争いの方向へ導いた巫女の名ではないか!どこから来たとも知れぬ巫女だが、不思議な超常力で人々の心をとらえ、国を牛耳り、あまつさえ他国への侵攻をすすめているという謎の女の名が、どうして祖母の……」
 まさに正体不明のふしぎな巫女の名だ。
 杜璃が口にしたのは、争いの女神の名であり、またアギトの祖母の名でもある。
 なぜその不審な巫女と、女神と――父方の祖母の名前が同じなのであるのか。
 杜璃はアギトが疑問に思っていることを、まるでわかっているかのようにうなずいた。
 彼女はこの結界の地にありながら、盲目のまなこですべてをみつめている。守りをまかされている巫女としてのその力は、だてではないのだ。
 「黒媛……かつてヤマトを乗っ取り、天津神、月読と天照の復活を果たそうとしていた天津の(おんな)。吉備もまたかつて、彼女の毒牙にかかり、一時は狂わされかけました。けれども、射王様や温羅様の英断と、人の子である五十狭彦により、天津としての彼女の野望は断たれたのです」
 「黒媛は、天津の者だったのですか」
 今まで黙って聞いていた森射が冷静に問うた。
 「そうです。長男月読の復活のために、人間の首を狩り、その呪力をあつめ人々に争いの種を蒔き、負のパワーによって黄泉(よもつ)国の次元を開こうとしていた魔女です。彼女は美貌と呪力により各国の王を狂わせはしましたが、射王様はその狂った情念の根底に眠っている感情――苦しみや悲しみ、そしてなにより深い絶望と孤独を理解することによって、彼女とさえ争うことをやめました。また、黒媛は彼女のそばに控え、つねに守り、すべてをなげうってまで彼女に仕えたヤマトの男、五十狭彦による純粋な愛をうけつづけ、また彼の献身によって、心の渇餌と孤独を癒され、五十狭彦の子を産んだのです。そして不覚にも封印をうけてしまい、いまでも地下深くの洞窟に、五十狭彦の愛情と封印の槍によって眠らされているはずだったのです」
 それは、だが、倭国から逃げてきた少年によって、とっくに破られていた。
 彼女を穏やかに安らぎに満ちた眠りをあたえることができるのは五十狭彦だけなのに、その彼の亡骸をこわし、彼女を闇に解放してしまった。
 「その魔女が、甦ったと?」
 アギトの声がかすかに震えていた。
 「封印していたはずの五十狭彦の体が壊され、彼女の魂ははなたれました。その後、五十狭彦のからだを持ち去ったものがいます。いまの黒媛に残っているのは、もはや血と死のみを欲し、ただ首を狩り集めるだけのおぞましい存在のみ。争いに導かんとする伊邪那岐の思念に動かされているただの受動器です」
 「黒媛を止める方法はないのですか?また深い眠りにつかせる方法は?」
 頭の中が一杯になったのか、ものも言えないでいるアギトにかわって森射が聞いた。
 杜璃はうなずき、
 「五十狭彦の体を探すことです。誰かに――多分、伊邪那岐の采配によるものでしょうが――よってどこかに持ち去られているはずです。彼女のすべてを受け入れ、愛したその骸でしか、彼女の心の闇を納める方法はありません」
 「すべては、伊邪那岐の――」
 森射はグッと拳を握った。
 魔界の盟主によってすべての争いは起こされている。誰もが苦しみあえいでいる。
 みなの心の闇をゆりうごかし、扉の向こうで、その時がくるのを待ちかまえている。何もかもを食い尽くそうとあぐねているのだ。
 「……伊邪那岐は、高天原の王は、なぜいまになってこの葦原の中津国を狙うのです。それだけの力をもち、また巨大な王国があるのに、このちっぽけな国など、どうしてそれほど執着するのです」
 森射はその名を口にするだけでもおぞましいというようにブルリと震えた。
 森射こそが、いままさに伊邪那岐にねらわれている。その危さは時をおうごとに増しているのである。
 地獄の王がこの秋津国――日本を闇で覆い尽くそうとしている。
 森射は肌で、そう強く感じていた。その恐怖は、はかりしれない。
 体が冷えてきたように感じていた森射は、とつぜん、背後から照らしだした明かりにつつまれた。
 光は洞窟から放たれていたそれは、目に痛いような熾烈な光ではなく、朝の紫色になずむ曙光のようなやわらかな光であった。体中の細胞を愛情で満たしていった。
 緊張をとりさるだけでない、全神経を落ちつかせる豊かなエネルギー。
 二人は光にさそわれるように洞窟の中へとふみいっていった。
 導く何者かの手をすぐそばに感じ、段差のはげしい岩屋を歩いていたが、その歩みはしっかりとして、つまづきもまよいもない。
 二人はもっとも深部であるだろう、つきあたりの場所にまできた。
 そこはいきなり広くなっていて、外から見たかぎりでは考えられないほどの空間になっていた。
 真正面の壁には、あたかも氷柱のなかに縫いとめられたような美しい人が眠っていた。
 天女のような、女性とも男性とも言われぬ、中性的な不思議な魅力をたたえ、時を永遠に封じ込まれたように、透明で曇りひとつない空間に穏やかに存在しているのだ。
 二人は吸いつけられるように息を飲んだ。
 宙にうかび、まるで祈っているかのように手を胸で組み、いまなお脈づく気配が感じ取れてくる。
 敬虔な心もちにならざるをえないような、胸が痛くなってくるある種の陶酔感ともいえる感情が高波のごとくに押し寄せた。
 美しかった。
 そのひとの背中になぜ羽がないのだろうか。本当は羽があったのに、悪い人間にだまされ、もがれて、どこか遠くにあるはずの自分の世界へと、飛びたつことを禁じられているのではないかと、思われてくる。
 森射とおなじ緋色の長い髪をしていた。やわらかに流線型にたなびいていた。
 しなやかな胸のふくらみや、肢体の丸みは、あきらかに女性のものであり、しっとり濡れたような肌は薔薇色をしている。神のつくりたもうた造詣物の中でも、最も美しいものの一つに数えられるだろう。
 今にも目を開かんばかりに見えるのだが、彼女のまわりは、強固な護りの刃がはりめぐらされていた。何かの手によって、かの女神をまもるために、森射たちの場所とさえ、次元を異にしているのだ。
 だがその向こうがわで、この光を放っているのは、たしかに彼女だった。
 二人はまぶしげに目を細めみつめたまま動けなくなっていた。
 愛という白い柔らかな光が二人をくるみ、いままさに産まれんとする羊水にたゆたっている心地よさである。
 課せられた責務のおもさに萎縮しかたまっていた心が、そこでは、なんとつまらない、ちっぽけなことのように思われ、溶けていった。
 突き上げるような幸福感は、愛情からだった。
 母だけが与えられる、真実の愛そのもの。
 アギトは自分が泣いていることさえ気づかなかった。目からあふれ伝うしずくにまじって、胸の奥底につきささっていたイバラの棘が抜け落ちていった。
 その横に並んでいる森射でさえ、目を見開いたまま、身動きひとつできずにいた。
 彼女は、そこにただよう魂の叫びの中から、なにかを聞きとっているのか、射王から放たれている大いなるオーラに共鳴している。
 彼女の面差しは、本当に射王によく似ていた。
 崇高な志をいだく血の流れは、脈々と受け継がれて、森射という結晶になったようであった。
 たがいに流れる血の色をした炎を、さらに濃く激しく燃えあがらせて、純化させてより澄ませているのだ。
 杜璃が膝をつき、手を合わせて頭をたれていた。
 「射王様はあなたがたの到来を心より歓迎しておられるのです。このかたは神の子をいまだ抱いて眠ってらっしゃいますが、いつだってあなたがた、我が子のことを心に思い、その存在を深く感じられています。射王様はこの場所で、あなたがたの苦しみをわが身のこととして受け止め、その苦しみをつよく感じるときに、こうして癒しの光を放たれているのですよ」
 赤くかがやく光の渦は、徐々に収縮していった。
 氷壁に包まれて眠る彼女のすがたが薄闇にいちだんと映え、そのなだらかに膨らんだ腹が、かすかにせりあがり、動いたかに見えた。
 「神の子もまたそこで息づいていらっしゃいます。このかたも、遠い未来における黒き神々との決戦にそなえて眠っておられるのです。――守らねばなりません。射王様も、その腹の御子も。この御子こそが、次世代をになう、救世主とおなりあそばす方だからです」
 「救世主――」
 森射の声は洞窟にひびき、腹のなかで眠るその子が、まるで呼びかけられたように、そこが動いた。
 射王の腹からつよく伝わる脈動は、森射のなかにも、はっきりと息づいていることを感じてしまった。
 その波動はゆっくりと森射にかさなってゆき、本当にそこで神の子とふたりで、体内に眠っていたような懐かしささえ呼び起こしたていった。
 「伊邪那岐の率いている高天原軍は、我ら人間と異なった世界と、異なった進化の枝に属する種族です。彼らの内に潜在している可能性は、この世のものとは異なっています。求め進もうとする方向も、そのものの本質自体もが違っているのです」
 「進化がことなる種族。そんなものがあるのか?」
 アギトはよくわからないと訊ねた。
 「彼らと我々は、霊的な存在としては同じはずですが、進化の過程がことなっています。そのため、行き着く先もまた別なのです」
 種族が異なり、本質が異なれば、同じ人間であろとも、行く末がちがう。
 同じ人だということを忘れ、彼らは、ただある種の能力が劣るというだけで他人を見下げ、下僕としてあつかい、さらには家畜としてその肉を食らってきたのだ。
 能力あるものは能力あるものと結びつき、さらに力を強め、淘汰してきた。
 選ばれたものだけでつくる理想郷の、さらにそのなかで、最も力をもつものだけが上位にたち、下級のものを差別し、栄耀栄華をほしいままにして歓楽の極みを得て、消費する。そんな無気力でおぞましい世界だった。
 彼らはさらなる長寿、さらなる超常の力を欲し、いつしか、生きることだけに執着してしまった。
 「伊邪那岐は力を欲しています。その欲望は、この宇宙全土にひろがるあまたの星々だけでなく、他次元へ、他の宇宙へもその虎視をむけています。そして、それを可能にするであろう力を有し、この聖なる土地に眠る神、火具土神の血肉をおのがものとすることを欲しているのです。伊邪那岐は自分を脅かす存在を許しません。かならずそれを消し去り、火具土神の偉大な力をわがものにし、宇宙の王座に君臨しようと狙っているのです」
 神代の話だけでなく、さらにひろがる宇宙への物語に、さすがの森射もめが眩む思いがした。あまりに自分たちの次元とことなって、おのれの無力さに一瞬、躊躇いをおぼえる。
 「火具土神の力を得る――そんなことができるのか……?」
 森射は言いながらも、どうして彼らが力をつけているかなんとなくわかりはじめていた。
 杜璃もまた、それがわかっているのか、もはや隠そうともせず、耳にはっきりととどく声で言った。
 「――喰らうのですよ、血肉のすべてを」
 「喰う?!同族をっ?」
 アギトがたまらぬように言うのに、森射はやはり、とつぶやき目をとじた。
 「人々に含まれる元素の力と、体組成の本体である遺伝物質を奪い、同化させることによって我が物とするのです。伊邪那岐にはそうすることが可能である、特殊な力をそなえているのです。それゆえにあれほどの力を得、巨大化してきたのですから」
 杜璃の瞳孔のひらいた双眸が、森射の心の奥底をみつめた。
 「そして森射、邪神はあなたを狙い欲しています」
 その声には、さざめくようないたわりと憐れみがにじんでいた。
 産まれおちたときより定められし重荷だけでなく、温羅と楪を死なせてしまった深い後悔の念をかかえている。それらすべてを受け止めるには、森射はまだ若く、あまりにも小さい。
 だが闇を吸い寄せるそれらの念と同等か、いや、それ以上の力をも――大自然に愛され、信頼され、まるで森そのものであるかのごとく受けとれる恩寵もまた、もっていた。
 彼女のなかには、闇も光も、生も死も、産まれてから死ぬまでの感情がもたらす混沌すべてを受けいれ、背負う覚悟がそなわっている。
 強い光を瞳に宿していた。
 運命がいかに過酷であろうと、彼女は逃げない。
 享受し、さらに前進しようとする意志がある。生命の気高さが彼女のなかに息づき、それこそが森射の本当の価値なのであろうとさえ思わせている。
 「私の中に流れる血が教えてくれる。何も恐れることはない、前へ、もっと前へもっと進んでゆけと。私は迷わない。なぜなら、私は、決してひとりで進んでいるわけではないのだから」
 「森射……」
 アギトは森射の心を、もはや怯えたり格好をつけたりして偽ることなく、素直に受け入れていた。
 多くのものの守りが彼女を護り包んでいる。
 人であったり、動物であったり、また、草の実や、深緑の木々の一本一本に、死した霊や、風までもが、すべてみな森射を愛し見守っている。
 森射のなかから、彼らに対する愛と信頼がなくならないかぎり、どんなに深い闇の底にあったとしても、光を見失なわずにいられる。
 「私の体をつくっている、何十億という細胞のすべてが、遠い先祖から受け継がれてきた愛だと思っています。私は未来を信じています。これまでも、そしてこれからも私は人々を愛しつづけてゆく……」
 ふかい敬意を表したように、杜璃は深々と頭をさげた。
 「――森射、あなたにより多くのご加護がありますように。あなたはあなたの信ずる道をこのままお進みなさい。もはやわたくしが言うべきことは、なにひとつありはしない」
 今まさに、見守り続けてきた生命のひとつが、自分をのりこえ、人生と生命の道をひもとき、あらたに創造してゆくだろうことを、杜璃は悟っているかのようだった。
 地上におりた神聖なる実践者のひとりとなった。
 杜璃は髪に飾っていた櫛をとり、森射にさしだした。
 これといって特別なかざりもない簡素な櫛であったが、かなりの年代もののようで、目をひくような純白の輝きがある。
 森射は手にしてみてすぐに気づいた。不純物をまったく含まない純粋な鉄で出来ている。波動の強さが違っている。
 「これは……?」
 森射はその櫛に魅せられていた。不思議なほど櫛が手になじみ胸が早鳴ってくる。
 「この櫛をおもちなさい。そして、あなた方が、もし一刻でもはやく倭国に向いたいと願われるのなら、出雲の地へまずお向かいなさい」
 「出雲、ですか?」
 まったく想像もしていなかった土地の名に、森射が首をかしいだ。
 倭国とはすこし方向が違う。そう森射が言いたげなのを了解しているかのように杜璃はつづけて云う。
 「出雲には、国津神であらせられる、大国主命を奉る神殿と、その背後に聳え立つ霊峰があります。――その霊峰のみねにこそ御神体がまつられ、そこには地下へとのびる洞窟があるはずです」
 この洞窟と同じように、出雲にもまた果てしなく続く深い洞窟がある。
 「その洞窟をさがしだすのです。」
 「洞窟、ですか?」
 「なぜならその洞窟こそが、時空さえ越えることのできる、黄泉比良坂(よもつひらさか)と呼ばれている空間があります。この世にあって、この世にない、次元の節目なのです。そこには次元を守っている番人がいます。その者にこの櫛を見せたならば、かならずや、あなたを倭国に送り届けてくれることでしょう」
 「黄泉比良坂、聞いたことはある。だが、そこから次元を越えられるのか?」
 御伽噺の夢物語ではないかとアギトがいぶかしげにつぶやく。
 黄泉比良坂――。
 それは地下世界の――死したる者と鬼とのすむ、穢れた闇の世界への入り口の名ではなかったであろうか。
 だが森射は、杜璃の差し出した櫛を迷いもなく受けとった。疑うにはもはや時間がなさすぎる。いや、杜璃を疑うという感情さえ浮かんでこない。
 「ありがとう。私は必ず倭国へゆきつきます。そして伊邪那岐の野望を必ず食い止めてみせる。この国を、葦原の美しい国を、第二の高天原にはさせはしない。人が人を虐げ、食らうようなおぞましい世界にはさせない。私は私のすべてをかけて、神と、神の子を宿した射王様を守ってみせます」
 その言葉に、杜璃は頼もしそうにうなずいた。
 どこか重苦しい役目からかいほうされたような、まったりとした安堵の感情が流れだしてゆく。
 いまこそ、まさに彼女はすべての役目をはたしおえたのだ。
 封印された森のなかにあって、たった一人で、ものいわぬ愛する人を守りつづけ、その言葉を渡し、意志を引き継いでくれるものを待っていた。心強く気高い意思をもった愛し児が訪ねる今日の日をひたすら待っていたのだ。
 「弓月(ゆづき)に――どうぞ比良坂の番人に、伝えてください」
 杜璃は森射の手に念をこめるように、そうっと握った。
 「杜璃は幸せだったと。わたくしが射王様を愛したことも、射王様の子を産んだことも、すべての道に誤りはなかったと。悔いはありませぬと。そして、その道のりも、いま、やっと終ったと、そう兄にそう伝えて……」
 杜璃の長いながい孤独は、終った。
 そして森射にひきつがれ、新たな闘いが、今始まってゆく。
 「いかなくては……っ」
 森射がまっすぐ顔をあげた。
 まだ戸惑っているような不安な面持ちをしていたアギトは、それでも彼なりに、言葉にならぬ深い意志を感得しているのか、ゆっくりと頷いた。
 「お行きなさい、若く雄々しいふたつの希望よ。そして、もし迷うことがあったら、そこにあるものの中に、真理と調和、光、希望、幸福、そして未来を見出せるかどうか問いただすのです。天の道にそむく方向には明日はない。それを頭の片隅においておくのですよ」
 「天の、道」
 つぶやくアギトを、杜璃はいくぶん心配げにみやった。
 神の言葉を告げる巫女の表情は、孫を心配する祖母の花のような優しさにつつまれていた。
 「安技人、見栄や自尊心など、役に立たぬものをすべて捨てて、どうか、あなたがとてもなれそうにない人間にこそなってください。悪しき習慣は正され、人は正しき進化の道を進まねばなりません。どうか、苦しいときこそ自分を信じて、強い心根の優しい王とおなりください。人々を正しい道へ導くのです」
 ゴウッという山鳴りがした。
 空気がかわりはじめ、神の空間が閉じられて行くのがわかった。
 「行こうアギト」
 森射が手をさしだした。
 アギトがその手を恐る恐る、だがしっかりと握った。
 二人はもう迷いもせずに走り出した。
 そこにたたずんでいるはずの杜璃の姿が、緑の中に薄れてゆき、消えてしまうのもかまわない。ただひたすら先へ進み、己ができる最善の方向へと走ってゆく。
 自分達を待ってくれている人々がいるあの場所へと急ぎ帰るのだ。
 「森射……炎の娘。だれよりも激しい感情と、はてしなくひろく深い地母神の情愛を心にもった稀有なる娘。どうか、どんなに苦しいことがおこり、どんなに絶望しようとも、あなたの中の光を失わず、前進してください。そして……あなたがどうか幸せになりますように」
 木々の伸ばす枝という枝が絡み、ふくざつな封印がふたたび形成された。杜璃の祈る声が緑の中に吸い込まれ、大地に消えていったのだった。
 

                                              


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