突風の切れるような鋭さをもった黒い影だった。
水田でのんびりと作業をしていた若夫婦はそろそろ夕食のしたくでもしようといいながら、片付けをはじめていたところだった。
若くはたらきものの嫁が、木陰に眠らせていた赤子を抱き上げ、赤子にまるい乳を飲ませようと片肌をはだけた。
それをほほえましそうに見ている息子の両親や、隣家の者が頬をゆるめていた。
夕日の暮れかかった空が、きみょうなほど澄んでいて、目に痛いようである。
いつもの平穏な一日の終りの風景だった。
何かが唸った。
木が悲鳴をあげ、田んぼの稲が突風になぎたおされてゆく。
風の走りにそって首がはねあがっていた。
たった今まで笑っていた農民たちの体は、首をなくし、そのまま前にたおれ土にのめりこむ。
赤子が激しく泣いた。首のない母親の腕のなかで気が違ったように泣き叫んでいた。
だが誰も、それに駆けよる者はいない。
屋敷の屋根瓦がつらぬかれ崩れおちた。
病人はその邪悪なその気配だけで胸をつまらせ、事切れてしまった。
犬や猫、家畜たちがけたたましく鳴き、死の声が高くあがり、邪悪なひびききが渦巻く。黒い風がはしる先々で悲鳴があがり、血にそまってゆかずにはいない。
黒雲がたちこめ、空は異様なほど黒くそまり不気味に轟いた。
結界は解かれたのだ。
温羅のかけた最大の守りが、オズヌによって崩れ去り、いまや吉備は、守りをうしなった無防備な状態へと化してしまっていた。
その結界が崩れた衝撃波は、なんと本州全土にまでおよびはじめていたのである。
倭国にひらいてしまった異次元の裂け目よりもれ吹き込んだ黒い風は、全国各地へとすべりこみ、各地でおぞましい呪いの雄叫びをあげている。
悲鳴とうめきの呪いの声が大地を覆い、その声を吸いこむように、影はますます大きくなっていくようであった。
「何なんだ、これは?! 」
森射は全身を総毛立たせさけんでいた。
あまりの気色悪さに、足元がわずかにふらついていた。
顔色が土気色となっており、心地悪さのため、指先が悪寒にふるえているのがおさえられず、うめいてしまう。
「森射?!」
イサナはふらついた森射の肩を支えた。全身がただならぬ気配をかんじて冷たくなっていた。
「森射どうしたんだ」
アギトも驚いたように足をとめた。
森射は彼らの声が聞こえていないのか、美しい目を仰々しく見開き、ただ一点をみつめていた。我知らずイサナのかたをにぎりしめ、耐えるように歯を食いしばる。
「結界が、破られた」
「なにっ?!」
二人が声を同時に上げた。
森射をじっとみつめた。
「温羅の結界を誰かが破った。――魔が、吉備に入りこんだ!」
なぜだと言いたげに、森射は首をふった。
これから起こりうるなにかにおびえるように苦しげに眉がひそめられた。
敏感な彼女の五感はどんなおぞましいものを感じているのだろう。耐え切れないようにイサナを抱きしめる。
いま彼女をおそっているのは、黒い影によって殺されてゆく人々の悲鳴と苦しみの叫びの声だった。
獰猛な野獣の牙が柔肌にくいこむように、それは森射の心臓にまで毒をおとし、からだをしめつけている。
「泣いている……みんなが、恐怖に苦しみ、泣いているっ!」
「森射、森射、大丈夫か?!」
「結界が破られたとはどういうことなんだ森射。あれほど温羅が強固に結界をはっているんだぞ。そう簡単にやられるわけはあるまいに」
アギトが落ち着けといわんばかりに言うのに、森射は燃えるような目をして首をふった。
「だれかが内から結界を破ったのだ。温羅の首を落とし――」
それ以上は口にすることはできなかった。その不快感も、無念さも、森射には耐えられるものではない。
生臭い空気が舞いこんだ。
突然ザザッと樹々が大きく傾いたかとおもうと、黒い風が咆哮をあげて吹きすさんだ。
森射の編んでいた髪がほどけ風にまいあがる。邪悪で淫靡な魔の風がそれをもてあそぶように、彼女のまわりをうずまき、歩みを止めた。
「やっとおまえを見つけたぞ森射。我をこばみ、なぎ払っていた邪魔な結界がようやく消えたのだ。ようやく、おまえを迎えにこられたのだぞ、森射よ。我が花嫁。おお、顔がはっきり見ゆるぞ、なんと清らかで美しい、なんと光々しい……」
「伊邪那岐!」
影の中からあらわれつつある顔は、まさに見覚えのある邪悪な鬼の顔だった。
その顔を目にした森射は、過去のあの日が思いだされたのか、息苦しそうに歯の根をかみあわせ、息をもらした。
おぞましい名前。
森射は悪夢が甦ったように目を見開いた。子供の頃に見たまま、あの邪悪でまがまがしい臓腑をえぐるような心地わるさは少しも変わっていない。いや、それ以上に呪われ、醜く歪んでいることか。
「美しい、そなたは我をのこして死した妻、伊邪那美に比するほどに、美しい。花嫁にまったく相応しい。死の秘密を知るそなたこそが、我のものとなるべき、選ばれた人間なのじゃ」
「森射がきさまの花嫁だと?!」
汚らわしい悪夢のようにアギトが叫ぶ。
「そう、森射こそは神たる我が花嫁になる女。お前らのような虫けらには近づきがたき高貴な存在よ」
伊邪那岐は忌まわしい笑みを浮かべ、妖気がピリピリと空気を震わせた。
「森射よ我がものとなれ。さすれば、永遠の命を与えようぞ。さあ我が手をとるのじゃ」
「否!何度聞かれても、答えは否だ。そのように天地の理を曲げ、無理やりにつないだ生命など、私は決して欲っしはしない。おまえのものになど死んでもならぬ、邪悪な魔王よ」
「かわゆらしい戯言を謂う。おまえは知らぬのだ、森射よ。永遠の命の素晴しさを、選ばれた者にだけ許される享楽を。中津国に棲む人の子のように、短小で極微な生命体などでは真の快楽がわかろうはずもない。こやつらなど、我らにとっては卑小でつまらぬただの虫ケラにすぎぬ。――だが、おまえは別じゃ。おまえは選ばれたのだ。そのような愚かな存在になど執着せずともよい」
「たとえ小さく儚い命であっても、私はその儚さが好きだ。愚かであっても、必死で生きるそのひたむきさと純粋さを愛している。おまえのような次元の怪物にはわからない。生命は、死があるからこそ尊いものなのだっ!」
「笑止!」
影が膨れあがった。
怒りをあらわすように森射にのしかかった。
「おまえに選択権はない。我に選ばれたのじゃ。おまえは我のもの、我がもとに来ねばならぬ運命。さあ我がもとにこい、愛しい花嫁よ」
影が手を伸ばした。森射の頬に触れた。彼女の体から力がぬけ、崩れるようにゆらぐ。
『影よ去れ。いまだこの地は、おまえの存在せぬ次元の彼方であるっ』
ビリッと空気が硬直した。
体の中の血が沸騰するようなものすごい波動を感じさせた。
イサナの声だった。
イサナは怒りに満ち、色のうすい瞳が発光している。まるで催眠術でもかける魔道師のように、言葉には深い響きがあった。
『扉はまだ開かれてはいない。おまえはただの影。影は影の世界、闇は闇の世界にかえれ』
からだ全体が声帯であるかのような声音は、宇宙に無限に存在するエネルギーそれ自体のようであり、魂を熱くしびれさす至宝の霊験さがある。
伊邪那岐にむかい、悪しき影を祓う祭文を浴びせかけていった。
『去れ、悪魔、影は消えろ!』
「き、きさま――っ!」
悔しそうに牙をむけた伊邪那岐の影はグラリとゆれた。
温羅の結界と同じほど威力のある声音をいきなりじかにうけてしまい、かなりの痛手を受けていたことは明白だった。
伊邪那岐はそれでもクワっと目を剥いた。影がその怒りに絶えられないように千切れて消えかけた。その声がさけんだ。
「わかったっ、その声、その顔――この我にさえ、これほどの衝撃をあたえられる者といえば、あの生意気な子供しかおらぬっ!」
最後のあがきのように、影の破片がイサナににじり寄った。イサナは毅然と睨み返した。
「おお、おおっ、たしかにこの顔。あの時の子供が逃げおおせて、生きていたとは……ッ!」
不意に笑いだした。昔なくした宝物を偶然見つけてしまったように愉快でたまらぬとばかりに、大声で笑った。
「これはとんだ拾い物じゃ、このようなところにおったとは、これはこれはっ!」
「イサナ……?」
森射はわれをとりもどし、驚いたようにイサナをふりかえる。彼になにが隠されているのか、それはたぶん森射にすら話されていないことであろう。
だがそれは、きっと知れば相手を危険にさらすほど重要なことなのだ。だからそこ語らない。話さない。
イサナはなにかの覚悟を決めている目をしていた。
彼もまた闇を知り、その闇によって、愛するものを二度と失いはしないという強い意志のひらめきがあった。
伊邪那岐の影が雷にうたれた。
「な、なに?!」
突然のことに影のもつ毒々しい意志力が殺ぎ取られた。解けたはずの温羅の結界が、わずかにもどる気配を感じた。
吉備中にむけて新たに結びなおされたかのような結界が伸びはじめていくのが見える。
以前ほどの強さはないが、それでも急速に薄い触手となり、壊れた結界を補強しはじめていた。
『忌まわしき死の影よ、時空の果てに帰れ』
イサナの最後の声だった。
「グウッ」
苦々しい声をあげ、影はとうとう霧散した。
一瞬にして、その場の空気の緊張がないだ。
森射は空をみあげ、あわく美しい織物のような結界をみつめた。それは女性が丹精に織った絹の織物のように柔らかで心地のよい愛にみちている。
「火見華だ、火見華たち巫女が、結界をはっているんだ」
森射はうれしげな声をあげた。アギトも同じように空をみあげ、ほっとしたようにうなずく。
吉備をおおっていた忌まわしく不吉な影が薄れはじめた。
暗雲立ち込めていた空に、目が痛くなるような澄みきった青空がふたたびみえはじめてゆく。
それは、だがほんの一時の静けさにすぎないことは確かだろ。これから起こる嵐の凄まじさをものがたるような、不気味な静寂のように。
イサナは青ざめ脱力したようにただ立っていた。
森射のこの上なく美しい横顔が、夕暮れの太陽に照らし出されるのを黙って見つめていた。
森射の表情がふと動いた。
「なんだ、あれは……」
目をうばわれた森射の視線の先へ、ふたりが目をむける。
木々でうめつくされていたはずのその場所に、いままであるはずなかった光景があらわれていた。
炎がゆれるように洞窟がうかびあがってきたのだ。
まるで固く閉ざされていた次元の扉がひらき、かいまみることを許したかのようである。
「こんなこところに、なぜ?!」
アギトがフラリと歩み寄っていた。さきほどまでは、たしかになにもなかった場所である。
陽光をあび、朱にそまった不可思議な洞窟の景色は、この世と、あの世の挟間でゆれている桃源郷のようであり、夕日のみせる逢魔時の幻影かとおもわれるほどである。
パックリとそこから先は、とりまく全てがこちら側とは異なっていた。
美しい光につつまれていた。
穢れた者の到来をゆるすことのない、神聖なる神の領域だ。
そこから放たれるエネルギーの波動が三人をつつみこみ、温かくて優しい慈愛の念がむねを一杯にみたしてゆく。
人影が洞窟をよぎった。ほんの一瞬のことだ。
アギトはなぜか途端に、胸をかきむしられるような懐かしいような感情がよぎり、なにかを思い出しかけた気がした。が、それもすぐに消えてなくなる。
太陽が完全に山の稜線におちた。
合わせるように洞窟の姿もまた消えていた。
三人は幻を見たように呆然としていた。
静まり返った森の彼方で、人々の騒ぎごえが、どこか遠くに聞こえていたのだった。
祈りの宮につかえる巫女たちは、連日連夜にわたり、まさに不眠不休で祈り祭文を唱和していた。
疲れをおし、倒れる者から休みをとり、できるだけゆずりあい、交代しあいながら、全力をつくして結界を張りつづけていたのだ。
わずかでも緩めば、すぐに伊邪那岐の邪念が入り、土地を犯し、恐ろしい出来事が里や村をおそう。
人々は震えあがっていた。わずかな侵入でさえ、どれほどの命が流されていったかわからない。
しかも結界をはっているとはいえ、今でも完全なものではない。なにかしらの不気味な影は、隙をみつけては入りこみ人々を襲う。
とくに威力が強まるという丑三時には、人々の眠りに悪夢をおとし内側からも消耗させていた。
以前のような穏やかさはすっかり消え去っていた。
空気はにごり、時折りおそいくる地震にあちこちが崩壊し、地割れをおこし陥没していく。
巫女たちがどれほど必死で守りを固めようと、時間の問題であることはあきらかだった。その証拠に、体力のない者から一人二人と体をこわし、祭文を唱えることもかなわなくなっているのであり。
火見華はそれらの陣頭に常にたち、あらゆる祝詞、祭文を唱えていた。
このときばかりは、彼女の精神力の強さには敬服せずにいられなかった。また限界のみえない恐るべき能力にも驚嘆するばかりだ。
たかだか十才かそこらの少女がみせる気迫は、もはや桁が違っていた。火見華の呪力によって使いはたされた赤珠の真名石の首飾りがいくつもころがっていた。
赤珠をつくる玉匠たちのほうも必死で磨き作ってはいるのだが、いまのような急速な消費にはとうていおいつかない。
すぐに底をつくのは目に見えている。いずれにせよ、人の力による努力は、終わりが近いということだ。
巫女たちは、神殿の奥殿に奉られていた巨大な円形の真名石のうえに、同じ長方形の真名石で組んだやぐらをつくり、そのまわりをいくつもの真名石でとりかこみ、円陣をくんで祝詞をあげていた。
火見華はその石でできたやぐらのうえに坐していた。
彼女の強力な呪文のせいで、巨大な石は宙にうき、石が言霊の威力で微動に振れて、そこから結界となる波動がうまれている。
「火見華もそうはもたないだろう。このままではいずれは……」
森射は巫女たちの祝詞を聞きながら、その微妙な響きに含まれている声色のなかに、疲労の度合いを強くかんじていた。
「もたないとなると……また、あの影がくるということだな」
アギトがにべもなく言った。
どうとりつくろおうと事実はかわらない。
「そして、そのときこそ本州のほとんどがあの影に犯されるだろう。各地の巫女たちが同じように結界をはってくれているはずだろうが、それも時間の問題だ。彼女たちの体力は無限ではない。第一、その力の源ともなる巨石の神域が汚されているのだからな」
森射の言葉を聞いて、アギトはまるでそれが自分のせいだというような気がしてたまらなかった。押し黙ってしまう。
自分さえ、心強くしてちゃんとヤマトを治めていれば、いまの狂ったように進撃して、ストーンサークルを壊しつづける、おろかな集団などは生まれていないはずだった。
森射はアギトを責めもしないし、また帰るようにとも言わなかった。
アギトにとってそれがよけいに負担である。
早く自分の国をどうにかしなければと思うのだが、そう思えばおもうほど、暗く憂鬱になって動けない。
あの闇をまだ自分で押さえることができるとは思えないばかりか、森射のそばを離れたくないという、自分勝手なあさましい思いがどうしても振り払えなかった。まだここを去るべきではないと誰かが言うのだ。
森射は巫女の環に入り、祝詞を唱えはじめていた。
彼女があげる祝詞は、まるで歌声のように流麗で、だれもがおもわず聞き入ってしまう。
アギトはそれに耳をかたむけ、己の闇と戦う方法を考える。
「吉備を、森射を冒すものがあれば、その時は俺がやつをたおす」
イサナの、彼なりのなにかかたい決意が聞こえた。
呟きの言葉でさえ、小さなエネルギーを生み、森射の声に重なり、より強い波動を与えている。
結局、森射は、イサナに伊邪那岐との関係や過去のことについて問ただすこともなかった。
それだけ信頼しているのか、それとも、もっとも悪いことを告白されるのを恐れているのか。
いずれにせよ、二人はあのおぞましい闇の王伊邪那岐に狙われている存在であり、伊邪那岐の手におちたときの身の毛もよだつ恐ろしさは、格別なのだということは明白だ。
イサナは、声になるかならないかのようなささやきで、森射の祝詞をおっていた。
二人の言葉が信じられないほど美しく共鳴し、調和して、静かな湖にひろがってゆく。波紋のように幻想的な音楽となり山々に響き渡っていった。
ゴウッと地鳴りした。
山がざわざわとまたゆれる。
祈りの宮の背後にそびえたっている美しい三角形をした神の山が、まるで森射のいのりに応えるように鳴動しはじめた。
結界がつよまっていた。
巫女たちの発している呪力が山にそそがれ、山自体が波動を増幅する変動機のようだ。
まるでそこに封印されていた力の扉がひらかれたかのように、山はますます活力に満ちて、結界がさらにつよまる。
アギトはそれらにただ圧倒されていた。ぼうぜんとただそれらを見ているしかできない。
祈りの儀式の規模の大きさはヤマトの比ではない。神秘に満ち溢れているではないか。
巫女たちの肩にのしかかっていた重荷が少し軽くなったように、森射の声に、希望の光をみて、顔色があかるくなっていった。
「山の神が我らに応え、力を貸してくれています。神のご加護に感謝し、こころを添わせるのです」
火見華の声に、巫女たちはさらに森射とイサナに声を調和させていった。
アギトもまた、しらぬまに、その美しい祝詞を唱えはじめていた。
言葉は体の奥底からほとばしり、その声は、アギトの血と魂が、うまれたときから知っていたかのような、はっきりと正しい発音をもっているではないか。
みなの声があわさるのに、山は静かに打ち震えつづけていた。
黒媛は空をみあげていた。黒い主たる影が走りくるのがわかると、目を大きくかがやかせた。
「おお、ついに伊邪那岐様が結界を越えられるぞ――」
ゾッとするような美しい白皙の顔に、毒々しい笑みが浮んだ。
伊邪那岐の邪欲にみちた、暗黒の波動風を心地よさそうに身にうけ、送られてくる霊力で心気をみたしているのだろう。
彼女から発せられるオーラはよりおおきくなり、大の男も、いまの黒媛のまえでは子猫ほどの力もない。
「黒媛様、奥州地方のストーンサークルはほぼ壊し終えました。捕らえた戦士たちも処刑を終え、首を切りしましたので、どうぞ御拝領くだされますようにとのことです」
いかにも武官らしいきびきびした物言いで、男は礼儀ただしくこうべを垂れた。
黒媛はまだ討伐の終了の報告うけていた最中だということを思い出し、意識をもどした。
相手を魅了するように鮮やかに表情をなごませ、艶然と笑った。
「ご苦労でございました。さすがヤマトの戦士、誉れ高きことはいずれ勝るものなしとうたわれる武勇の徒であらせられますこと」
裾の長い艶やかな衣装をふわりとゆるがせ立ちあがった。武官はそのふるまいの美しさに見せられながら、うず高くつまれた荷台の布をとってみせる。
その下には生首が無数に並べられていた。
普通の女ならば、悲鳴をあげ卒倒するだろうその光景さえ、黒媛は嬉しそうにみつめて、頬を紅潮させている。
あまつさえ、恨みに無念を残していった睨み顔の生首をなで、士官のまえだというのにはばかりもせず、まだ温かい兵士の眼球に指をさしいれくりぬき眼球を食べていたのだ。
男はそれに何の感情をしめさず、ただ黒媛の優雅な指使いにうっとりしていた。まるで飴をたべるように口でころがす。
すべるように顔をよせると、黒媛は武官の男の口に、それを口移しで押し込んだ。
ゴクリと喉が鳴り、男はそれを飲みこんだ。
もともとあまり表情がなかった男の顔からさらに生気がなくなり、ドス黒くなっていく。
目の前に積まれている生首よりも、より死びとらしい顔となる。
いや、彼はすでに死んでいた。そこには生きて輝いているという、魂の瑞々しい美しさがはじめからなかった。
ヤマト軍の半分は、彼のように心をなくした死体であり、いきる屍だった。
すべては黒媛のいいなりに動き、彼女を女王と崇拝し、主だとあおぐ恐るべきモノなのである。
死者の戦死たちは、恐れも痛みも疲れさえなく、どんどん各地に攻め入った。己の死をもいとわない狂ったような攻撃には、さしもの強国の精鋭の戦士たちも、恐れおののき、戦意を喪失させられてゆくのだ。
死さぬ相手と闘うおぞましさは疲労によってさらに膨れあがり、さいごには恐怖によって滅ぼされてゆく。
最後の最後まで抵抗する屈強な者たちもいたが、かれらは迷いもなく首を切られた。
その首はいずこなりへと持ち去られてゆき、誰にも行方はわからないとされている。
それもそのはずである。黒媛がこうして首をあつめていたのだから。
その未練と憎悪にかたまった兵士たちの首をつかい、黒媛は呪術でもって、ヤマトの兵士たちを呪物へと変えていっていた。
政務を司る大臣たちの幾人かも、すでに彼女のしもべと化し、意のまま思いのままの人形である。
彼らは黒媛ののぞむように動き、飽くなき破壊へとすすむよう采配をふるい、さらなる死でもって、敵国を支配してゆく。
「黒媛様、敦賀様がおいででございます。それに右大臣、真野様もごいっしょされておりますが――」
おつきの巫女が恭しくいった。黒媛は首の山もそのままに、ここへ通すようにいった。
「これは黒姫様、お忙しいところをすみませぬな」
右大臣である真野は愛想よくにこやかにいうと、黒媛の白くなよやかな手をとり挨拶をした。そのとなりで敦賀も頭をさげ、意味ありげな視線をおくり微笑んだ。
「真野様に敦賀様、ようこそおいでくださいました。お二方様のほうがわたくしなどより、ずっとお忙しいのに、わざわざお運びくださるなんて、もうしわけありませんわね」
「なあに、美しいあなたのお呼びがかかれば、出向かずにはおられますまい。それにあなたが姿をみせられると、若い者達がうわついて仕事になりませぬからな」
真野はわざとらしい気取った笑声をあげた。
「黒媛様がおいでになってから、ヤマトは見違えるほど強く、素晴らしい国になりました。どこよりも強大で偉大な国だと、各国のバカものどもに、ようやく知らしめてやれましたわ。わが国の歴史の浅さを嘲笑った愚かを、死ぬほどの辱めのなかで思いしればよいのですよ」
歴史がない国だ。倭国の偽物だ――。
そう言われ、侮られ、どれほど軽んぜられてきたであろうか。負けて逃げのびた敗残者の国だといわれつづけたその恨みだけは、死せる人間となりながらも、強く残り心からはなれないでいるらしい。
「列強国をしりめに、我がヤマトはますます領土をふやし豊かになることでしょう。もはやどこもわが国の侵攻をとめることはかないませぬぞ」
「まことに、みな様のその気迫こそが、ヤマトを勝利に導くのですわ」
敦賀の、ざまをみろ、と笑うのを、黒媛がさらに助長する。自尊心の高さゆえに、今まで傷つけられてきた怒りは大きいのだ。
そして彼らの本当のねらいはただ一つである。
自らの草分けの地、倭国をもうち滅ぼし、その礎のうえにヤマトの名を新たにうちたて、最強、最高の国だと証明することなのだ。
それがヤマトの貴族、豪族すべての者たちの悲願であり野望である。ヤマトこそが本当の倭国であるということを、誰はばかることなく言わねば、この闘いは終らない。そう、たとえ、死んでいたとしても、だ。
黒媛にはそれがよくわかっていた。
そうでありながらも、いまだ倭国への侵攻を示唆しようとはしなかった。
彼らのなかにある、名声への欲望を最大限につよめ、負の力を増大させ、じわじわとくすぐり煽っているのだ。
「そろそろ、新天地へ足を伸ばしてもよろしい時期ではないかと、各大臣たちからも度々意見が出始めております。黒媛様の占いのほうはいかがなものでしょうかな。――いやいや、みながもう、本当に首をなごうして、その掛け声をまっておるのでございますよ。その旨だけはお伝えせねばと」
敦賀は機嫌をそこなわぬように気づかいながら、それでも野望に燃えたまなこを期待に輝かせ、鋭くみつめた。
真野もまたとなりで同じような熱に浮かされた顔で返答をまっている。
「――たしかに、時は満ちましたわ。倭国はわれわれの到来をまっております」
朗々とした黒媛の声がひびきわたった。
そう、時はまさに満ちたのだ。
伊邪那岐が次元を割りつつあるいまこそ、もっとも過激でおそろしい騒乱を起こし、戦乱の世となし、世界を破壊へと導かねばらない。
命を流し、力をたくわえ、主たちの復活にそなえなくてはならない。そのために、甦ったのであるのだから。
敦賀と真野の顔がよろこびに輝いた。とうとう待ちに待った時が来た。
彼らは自分たちの本当の主がだれかなど、すでにわすれていた。
欲望の僕となり、己の心の求めるままにうごく自動人形。理性など野獣に食われて消えうせ、無きも同然だった。
二人がいそいそと出てゆくのを見送りながら、彼女のまわりに積みあげた首を手にしていた。
黒媛は愛しそうにそれを撫でながら、自分でも、おのれの感情の制御がとれていないかのように、どこか苛立たしげに歯をくいしばり、爪を生首の肌にたてていた。
『黒媛よ、血を流すのだ。愚かな男が結界を解きおった。もはや我が世は近い。そなたの主たる我が息子、月読と、また長女天照の復活はすぐであろう。我の降臨とともになしうるその日を待て』
「御意に受けたまわります伊邪那岐様。その日がほんに待ち遠しゅうございますわ。輝かしいその時にそなえ、こうして月読様に妖力をあたえる首級をそろえ準備を整えてございますほどに」
『もっともっと死の戦士を増やせ。人々のあさましく醜い心をかきたて、戦わせろ。争いの思念は、人の心をますます狂わし、邪悪の心で埋め尽くされる。この世を血みどろの世となし、破壊の王国となせ。そしてそこに渦巻くすべての暗黒の力を、倭国に終結させるのじゃ。歪みは我が高天原と、この葦原の中ツ国をつよくつないでくれる。――殺すのじゃ。殺して殺して殺しまくれ。嘆きと苦しみの血を流すのじゃ』
黒媛の体がしばらくのあいだムチに打たれたかのようにビクビクッと大きく跳ねていた。
髪が波打ち乱れたまま、ふたたび起きあがった黒媛のなかには、燃えるような妖力と、人々を争いに導く憎悪の力が膨れあがっていた。別人のように負のエネルギーで満ちている。
いまや黒媛は伊邪那岐のつくった怪物である。ただただ死を求める恐ろしい悪魔であるのだ。
『まずは吉備にむかい、最大にして最強の、堅固なストーンサークルを破壊するのじゃ。邪魔な巫女どもをすみやかに片付けてしまえ』
「承知いたしました」
『あの国は面白きものがたくさんあるぞ。手に入れたならば、必ず力を得るであろう。なぜなら我が息子であり、愚かな反逆者の火具土の――』
期待にざわめくような甲高い声が途中できえた。
ただ憎悪と邪欲にみちた波動が膨れあがり、渦巻いているだけ。
伊邪那岐は笑っていた。おぞましい人の魂を狂わせずにいない、まったき闇となって狂喜に乱舞していた。
『すべては手に入る。強大な力も、新たな花嫁も――。我が高天原を滅ぼし、天照と月読に深い手傷をおわし、我さえ脅かしたあの、火具土の、妬ましくも恐ろしい無限の力があの地にはあるのじゃ。ようやく踏み込める――我が息子にして最大の敵。こしゃくにもさらなる進化をとげるために眠りについておるというではないか。いまこそやつの力を手に入れてやる時じゃ。さすれば、我を脅かす者はもはやいなくなる。そして、やつの種をやどしたという女をも手に入れて、我が社となる新たなる体を作ってやろうぞ』
おぞましくも恐ろしい、邪悪な陰謀。
呪いにみちた思念が燃え、生首が黒く焼け焦げて炭化をおこし、さらにそれすら燃えて輝くチリとなって、うねる波動にちっていった。
『吉備じゃ。吉備を手に入れるのじゃ。吉備の力さえ手に入れ得るならば、我は宇宙の真の王となろうぞ。黒媛よ、心してかかるがよい。眠ったとはいえ、火具土の力はいまだ恐ろしい力でもって顕在しておる。こしゃくにも大地の庇護を受け、未知なる魔力を巡らせておるからな』
さすがにまだ、こちら側の次元を支配している大地の力に逆らうほど、伊邪那岐の力はよみがえっていない。大地に拒絶されれば、この世界すべてに否定されたも同じであり、存在することは不可能なのだ。
『ゆけ、黒媛!』
「はい伊邪那岐様」
闇の波動が消えた。
黒媛は伏したまま、その場にしばらく縫い付けられていた。
どこか空虚な表情をしてぼんやりしてみえるのはなぜなのか。さきほどの重大な使命を背負わされたにしては、そこにはあまりにも覇気がなさ過ぎる。
自分でも気づかないうちに彼女は眉根をよせ、疲れた顔をしていた。まるでたえがたい苦痛に疲弊しきっている老人のようにみえた。
幽鬼のような顔には悲哀がほんのり浮かび、人形のように、口が動いた。
「五十狭彦……」
つぶやいた名前すらわかっていないのか、黒媛はそのまま立ちあがった。
残り香のように漂っていた伊邪那岐の絶大の暗黒の波動が彼女のなかに吸いこまれるように消えていった。
逃れることはできない。その力が彼女を動かせ目覚めさせたのだ。
黒媛はむっつりと目をあけた。虹彩もなにもない、硝子玉のような瞳には、妖しい光だけが照り輝いていた。
みずみずしい稲穂があおくしげり、緑の絨毯となって大地をおおい、柔らかに風にそよいでいた。
それは、まさにほんの先日までは、本当に美々しい田畑であったはずだった。
なのに、いまやみる影もなく踏み荒らされ、泥と血と死骸、そして目にするのも忌まわしい死者の戦死たちの溶けかかった残骸で汚されていた。
吉備は最大の危機をむかえていた。
倭国からおしよせる黒い邪悪な風と、波動による呪わしい攻撃だけではなく、一方的にはじまったヤマト国からの情け容赦ない襲撃をうけていた。
各地の勇敢な戦士たちですら畏怖させたという、ヤマトのあの恐るべき死者の戦士たちの攻撃は、熾烈なまでに残虐であった。
人の心をもたぬのだから当然であろう。
兵士たちの半分が命のない――死の恐怖も、傷の痛みもなく、ただひたすらに戦い殺すことだけしか頭にないという、怖気のたつような死霊軍団が相手なのだ。
吉備は伊邪那岐の邪悪な侵入による被害だけでなく、ヤマト軍の終りなき攻撃に、二重に苦しむ結果になっていた。
さすがに申し合わせたような朝となく夜となく続けられる攻撃は、吉備兵や、結界を張りつづける巫女もろともに、ひどい苦悩をあたえていた。
「死者の戦士――?そのようなおぞましい者がいつの間にヤマトにはびこったのだ!黒媛とは一体なに者だ。この俺がいないあいだに、ヤマトはどうしたんだ!」
ヤマトが、吉備へ加えている攻撃で、一番こころに痛手をうけ苦しんでいたのはアギトであった。
いつのまにかヤマト国が自分の手から完全に離れてしまい、王である彼のまったくあずかりしらぬところで、とてつもない重大な異変がおこっていた。
「いや、この状況こそが、すべて俺が招いたことか……」
それが手遅れになっていないことだけをひたすら願っているのだが、身動きできないことにも、また苛立ちをひどく覚える。
アギトは巫女たちのように祈りでもって闇をくい止めることもできず、また兵士たちとともに戦いに向かうこともかなわなかった。
ただひたすら暗澹たるおももちで己の不甲斐なさにはがみし憂慮しているだけだ。
剣は持つことはできる。
だが、ヤマトに、自分の国に刃を向けることはできない。たとえ、身の毛もよだつような暗黒の戦士となっていようとも、身内なのだ。
やらねばならないことはわかっていた。なのに、なにかがまだ、吉備がアギトを離さない。まだ駄目だといっている。
アギトは用を頼まれる以外は、巫女たちの祈りをずっとみていた。
言霊が体のなかに染みわたり、まるで細胞の核から変態してしまったように、吉備に息づく不思議な力を肉眼と、そして心の目でみるようになっていた。
その不思議な力さえ、疑問におもうことさえなくなり素直に受け入れている。
「森射のせいだ、きっと」
吉備の持つ神秘性そのもののような美しい女性。不可思議さが姿をとったら森射になったのではないかというほど謎めいている。
姿こそ極上の宝玉の美をほこる姫君のようなのに、その内面に流れているのは何者にも屈しない、こころざしのたかい戦士そのものでもある。
森射は今日もまた、王宮へと出向いていた。
火見華の護衛をかねて、死の鎧をまとったヤマトの戦士たちによって、穢され傷つけられてしまった吉備の戦士や、善良なる民を清めに行っているのだ。
やつらを倒すことができるのは、真名石でつくった矢尻か、命をもつ備前刀、そして巫女のきよらかな祈りによって清めた武具だけ。
「吉備でつくられた、狭崎のこの刀を手にしていながら、俺はなにもできずここにいるだけなのか……」
苦しげな胸のうちが口からこぼれた。
山々が、巫女たちの詠唱する祈りの歌に共鳴しあわく霞をはなっていた。
それをじっと見ていたアギトは、森射がなぜ山に入るのかわかった気がした。
山はいつでも泰然としていて、決して愚かに乱れない。その森という一個の小さな宇宙のなかで、雑念もなく、心をしずめることができるのだ。
清浄な森の木々たちが空気にひそむ邪悪な因子を分解し、排除し、赤子を真綿でくるむように、心をひらいてみせる者にだけ、無償の守りをあたえてくれる。
アギトもまた、山へ足をむけていた。
「以前なら絶対にこんな気など起こさなかったのにな」
多分、気がふれたと思っただろう。他者がそんなことを口にしただけで、嘲り、わらった。
いつのまに、これほどふかく森射が体中に浸透してしまっていたのだろうか。彼女の考えかたに違和感を覚えなくなっている。
なにかが木々の幹のあいだを走った。
赤く尾をひく影に、おもわず森射かと思ったが、影は薄く、あちらがわが透けて見えた。
目の前にあらわれたのは、この世のものとは思われないほど優麗で美しい女性だった。
ながく赤い髪、そして同じ赤い瞳は潤んだようにつややかにひかり、まろやかな木漏れ日のような優しさが全身から放たれている。
だがアギトを見つめる瞳には、どこか愁いがひそんでいる。
「あなたは……?」
影はたまらなくなったように歩みだし、アギトをふわりと抱きしめた。いや、抱きしめたかと思ったその瞬間、風にながれ消えてしまった。
不思議な感覚でいっぱいになった。
心が澄みわたり、爽快ななにかが体のなかにある、もうひとつの邪悪な感情を――逃げたくて逃げたくてたまらなかったあの狂気さえくるみ、水に溶かすように凪いでゆかせた。
愛しさのひとしずくが心の中にのこり、あたたかくなっている。
アギトは誰かもわからない幻の残したぬくもりに包まれながら、森との一体感を感じていたのだった。
火見華たちを乗せたかえりの馬車が、祈りの宮へと先をいそいでいた。
夕暮れの風が吹きはじめ、ここち悪さがはびこりはじめていた。
夜の闇は、いまや、まやかしを呼び、黒い影がそれにこたえて、残虐な死をはこぶのである。
できるかぎり夜を避け、黒い影にさらわれないように身をひそめていなければならない。さもなければ翌日、無惨な死を曝すか、もっと恐ろしく残忍な目に合わされている。
火見華たちも、できるだけ遅くならないようにと心がけながらも、いつも、どうしても苦しむ者たちをおいては帰れないのであった。
身も心も、すべての力を絞り尽し、文字どおりヘトヘトになるまで、忙しく治療の施術をおこない、清めの呪いをあたえていた。
突然、馬車をひく馬の真正面にはしりよる影がとびだした。
馬車が急停車するのに、火見華たちは前にのめり小さな悲鳴をあげる。
村人たちの群れが行く手をふさいでいた。
乱暴な行為だとわかっていても、村人たちは、夢中だった。そのまま馬のあしもとにひれ伏すと、懇願の大声をだした。
「お願いです、偉大なる祈りの宮の巫女姫様、お願いでございます。どうか我らの話しをきいてくださいまし、どうかどうかお慈悲をお情けを――」
ひたいを土にすりつけるように頭をさげていた。それこそ捨て身の必死の面持ちだ。
「どうか我らをお救いください。巫女姫様が、このたびの戦乱で、非常にご多忙なのは、われらとも、重々承知しております。が、そこをまげてどうか我が村にお寄りくださいますよう、そして現状をその目で確かめ、お救いくださいますよう、御願い奉ります」
「お願いします。先ごろからの異変によって、ままならぬ奇病が発生しておるのです。もはや医者にも手のほどこしようがないと、さじをなげております。こうなったら巫女様におすがりするしかほかありません。息子が苦しんでおるのです。我らでは、もうどうすることも出来きんのでございます。どうか、どうか――」
必死の願いの声に、馬車の戸があいた。
手をひかれ出てきた少女の、あまりの美しさと、その幼さに、さすがの村人も息を飲んだ。
噂にはきいていたが、その姿を拝見したものは少ない。話にきいてはいたが、その美貌、その気品、高貴な立ち居振舞いには目をみはるものがある。
火見華のその生まれもった霊験ある眼差しには、すべての者がいたく感銘をうけていた。
彼らはおのずと深々と頭をさげていた。
火見華は疲れをかくし、そっとうかがうように傍らの森射に視線をあげた。森射は火見華の気持ちはよくわかっているというように頷き微笑みかえしてやる。
火見華は安心したように目許をゆるめた。
「皆様がたの訴え、この火見華、承知たまりました。皆様のお申し出どおり村へ参りましょう」
オオッという安堵の歓声が低くあがった。
「どうぞお手をあげてくださいませ。わたくしにそのようなお気遣い無用です。我ら巫女も、皆様がた農民も、みな同じ吉備の民。そして吉備は民あってこそのもの。その国の礎たる皆様がたの苦しみは吉備の苦しみです。我らの役目はみなさまの役に立つことそれのみ」
村人たちはきっぱりとした口調に、感謝し感激するように再びひれ伏しあたまをドロにおしつけた。
火見華は困ったように森射をみあげる。神殿の奥座にいつもおさまり、あまり外界の人々と接触をする機会がないので、このようなことに慣れていない。通常の暮らしを遠ざかって久しすぎる。
村人たちは、火見華が無心に信頼を寄せている森射の存在にようやく気づいたように目をとめた。それまでまったく目に入りもしなかったのに、ひとたび目にすると、その火見華さえかすむかとおもわれる麗人の姿に驚く。
その赤っぽい瞳と、流れるような髪の色をほんものかとまじまじと見る。
「行こう」
森射が言うのに、火見華がうなずいた。
彼らはあまりにあっさり引き受けてくれたことに、いささか拍子ぬけしていたらしく、しばらく信じられないように呆けていた。
祈りの宮の長ともいわれる身分高い巫女姫が、なんの紹介もない一介の農民の申し出をそうそう受けてくれるとは最初から思っていなかったのだ。
さすがに我に返った彼らも、くらむような美姫にはおいそれと近寄りがたく、気後れするように、なかなかそばに寄ろうとしなかった。ただひとり、それでも遠慮がちに進み出た。
「火見華様には、本当に我らの言葉をお聞きくださり、ありがたく存じ上げます」
耳垂という中年の髭をたくわえた男だった。頭を低くしたれ、村長だといい、もったいないことだと何度も礼を述べた。
「本当に、巫女様に頼るほかに、もはや我々には手がなかったのでございます」
耳垂は、緊張はしていたが、さすがに貫禄があった。汗をなんどもぬぐいんがら言葉をつなぐ。
「とにかくおいでくださいまし。話は道々にでもお聞かせいたしましょう」
そう言うと案内をはじめた。
森射たちはそのあとについて村にむかうことにしたが、とりあえず、王宮からついてきていた警護の者に、他の巫女を送り届けることをたのみ、また帰りが遅くなることを知らせるようにことづけた。
さらに帰ってから王にも知らせておくようにと云った。
時が時だけに、村の状況を王の耳に入れておくのも必要だと思ったのだ。
森射とイサナのふたりが、結局は火見華につき添っただけだった。
巫女姫である火見華の守りにしては少ないといえば少ないが、今度の敵こそ、いままでの常識の範疇にはいないやからだ。大げさに警護したとしても、森射とイサナに守れないものをだれが守れよう。
村人たちはチラチラと、火見華につきそう森射を誰なのだろうかと伺っていた。さすがにただの付き人ではないことはわかっているらしく、失礼にならないよう、じっと顔をみているだけで、余計な口はきかない。
火見華が遠慮するように声をかけているのを耳にするとひどく戸惑いながら、ただものではないと、ひそひそ耳打ちしあっていた。
そして、火見華が親しげに呼ぶ名前をやっと聞きとめると、ひどく仰天したように顔を見合わせ、青ざめてしまった。
「森射様だと?」
「あの――?」
まさかあの、話しにきく『森射』そのひとであるとは思っていなかったのだ。
だれかれなく語られる噂のなかで聞く『森射』は、もはや人の子ではなく、天界の姫君であったり、恐ろしい魔女であり、呪われた醜い子供であった。
時には男を狂わせる魔性の女であることもあったし、王に幽閉され、秘密裏に殺されたとも言われていた。
化け物が姿をかえたのではというように、恐ろしげに遠巻きに見ていたが、森射はそんなことなど気にもせず、平然としていた。怪異な噂が自分にあることなど、とっくに知っていたのだ。
一行はほどなくして村長の家へと着いた。
村を治めている長の家だけあって、なかなかに立派なものだった。
寄せ棟作りの屋根は黒々とした瓦を敷き詰め、軒先の端部には、みごとな蓮華文がほどこされている。その棟をささえるみごとな柱は、節ひとつない選びぬかれた逸品だった。
そこには何世帯かの家族がすんでいるらしかった。人の気配が多く感じられる。
豪奢な母屋からすこし離れたところには、小屋というには立派すぎる、平屋の大きな建物があるのが見えた。
そこから流れる陰惨な空気にすぐに気がついた。
ムッとする、すえたような臭気が火見華や森射に押し寄せてきた。
普通の人間よりかなり敏感な彼女たちには、目にせずとも、そこに病を患うひとびとが集められていることがわかった。病の足跡は、大気に色濃く刻まれていた。
向かう道すがらに、耳垂たちから話は聞いていた。
もはや医者さえ近寄ろうとはしない、恐ろしい病に取りつかれおり、それがうつるかどうかもわからないということだった。不治の病とされたものたちは、村中からそこへ逃げ込むように身を寄せているという。
村長が自らの離れの家をあけわたしたのだ。
「本当に、どんな病かもわからないのです。不浄を嫌うという巫女様たちにおいでいただくのは本当に恐縮なのですが……」
耳垂はほんとうに申し訳なさそうにいった。
自分はそんなことなどかまわぬように、さっさと小屋にそろそろと入っていった。
「わしらはいいんです。生い先短いんですから。病が移ろうとどうしようと。ただ……」
悔しそうに唇をかみ、どうしてこんなことが起こったのか信じられないと首をふってみせた。
部屋のなかは風通しもよく清潔ではあった。思いのほか苦しみにあえぐような声もそれほど多くなければ、目に余るような傷を抱えているものも一見しただけではわからなかった。
そこにいるのは老人たちばかりであり、ただ悲壮にくれた、どんよりとした、まったく生気のない、澱んだ空気のみがおもく沈殿していた。
「まるで死をまつ者のすむ家のようだな」
イサナが口のなかでつぶやいた。
その思いは森射も火見華も同じであった。
もはや精気はうしなわれて、明日にでも死ぬかのような絶望的な表情なのに、わりあい元気そうであったり、床についている者もいたが、普通の老衰かとおもわれるような老人で、体が痛んでたまらないというような者もごくわずかだった。
とりたてて普通の老人ばかりがいる家、としかみえなかったので、火見華と森射は、そこになんの疑問があるのかわからないというように顔をみ合わせた。
耳垂はもっともだというように、哀しそうに目をふせ、老人たちをあまり見ないようにして重い口をひらく。
「信じられないでしょうけれど、彼らはみな二十代、三十代の若者なのです」
「まさか!」
火見華の声に悄然と首をふった。
「本当に、突然なんです。突然、このように年を老うたようになってしまい、そのまま本当に年をとってしまったような衰弱で、体を病み、ついには――」
最後まで口にすることはできなかった。
火見華たちは目をみひらき、声にこそしなかったが、信じられぬと、あらためてあたりをみまわした。
そこにはどうみても、天寿をまっとうするばかりの年寄りか、体を弱らせた老人たちばかりであったのだ。
若さのかけらもない、皺を帯びた顔に、節くれだった手、腰が曲がった者や、髪が白くなったり、抜け落ちたりしている者がいた。立つのも億劫だというようにのろのろとしか動けぬ者もいる。
「これは一体――?!」
火見華が信じられないとばかりにフラリと彼らに歩みよった。
村長が慌ててとめた。
「原因がわからないんです。頼んでおきながら何なのですけど、あまり近づかないでください。あの、どうか大切な御身ですゆえ……。いつからか、急にこのように、老人のようになりはじめてしまい……。それはもう、みるみるうちで、目にみえて老いさらばえ、今の状態になったのでございます……移るかどうかも定かではないのです」
彼の目には、言いながらも涙がこらえきれず盛りあがってきた。
そのなかには、かれの自慢の息子もいたのだ。
人々の心をよく理解し、心の優しい明るい、思いやりぶかい子だった。働き者で、父母の手伝いをすすんでし、また弟妹たちの面倒をかいがいしくみていた。
村人にも慕われ、いずれはよき長として村を預けられると思っていた。だれもが彼ならば安心だと安穏としていた。
だが、もはや彼は床についている状態であり、目をあけるのもつらそうにしていた。
それでも父親の姿をみると、一生懸命笑みをつくり、そんなに心配するなと言っているのがわかる。
医師どころか、村々に住みついている村巫女たちですら手の施しようがないといい、また原因もわからぬまま彼らは放置され、死へ向かう恐怖と、衰弱する苦しみにあえいでいるだけだった。
いつのまにか部屋の真中に、森射は進み出ていた。
足音もなく、そのあまりの素早さに誰も気づきもしないほどだった。
床に伏し老人となった、村長の息子の手をとると、耳もとにそっとなにかをささやいた。
頬を撫でる手があまりにやさしいのに、笑っていたはずの息子の瞳から、ふうっと一筋の涙がこぼれおちていった。
彼がどれほど無理をしていたのか、いまさらながらにわかる。
悲しみさえ、こんなになってまで隠し押さえてきたのだ。父母に心配をかけまいとふんばっていた優しい少年は、森射の無償の愛にもひとしい深い心にふれ、こらえきれなくなってしまっていた。
いまが一番楽しく、輝きに満ちているはずの年頃あろう。思いを寄せていた少女に愛を告白し、いずれは家族として迎えるはずだった。またいずれは諸国を旅してみたかったし、色々勉強することもあるはずだ。夢も希望もまだまだ、すべてこれからだったのである。
だれがこんな奇病をうみだしたのだろうか。どうしてこんな恐ろしい病にとりつかれ、無為のうちに死ななければならないのか。
いっそすぐに死んでしまっていたほうが幾らかましであろう。
じわじわと弱り、醜く老いて死ぬのをまつのは、恐ろしく苦しいことであった。親より先に年をとって死ぬのは、たえがたい。
「――遺伝子操作だな」
イサナがポツリと言うのに、森射がふりむく。
「遺伝子操作だと?」
「ああ、人の体のなかにあって、その人間を人間たらしめている重要な、設計図みたいなものだ。それを操作することで、何がおきるかを実験している――きっと、アトランからきた倭国の研究者たちに違いない。やつら、吉備で試しているんだ」
深い意味まではわからなかったが、森射と火見華には、それが人が手を加えてはいけない禁断の領域であり、呪われた技術なのだということだけは理解できた。
その神だけしか許されないものに手を染め、人為的におぞましい病をつくり吉備にふりまいたのだということか。
ギリッと森射は奥歯をかみしめた。この症状を、もはやどうすることも出来ないのかと、祈るように天をあおいだ。
森射は怒りと哀しみを抑えようとした。
それでも、それはほとばしりでてしまっていた。
癒しの歌が、体の中から流れ、部屋にあふれていき、それだけではとどまらず外へとむかってゆくのを止められない。
田や畑、家々、そして小川、森の中へと響き渡り、秋風のように爽やかにさざめいてひろがっていった。
驚いたことに、森射の歌にあわせてイサナもまた、わずかだが声をだし歌っていた。
火見華はその歌につつまれながら、赤石の首飾りをたもとからだすと、呪いをかけ、玉のひとつひとつを人々に手渡していった。普通なら触れもできないほどのエナジーにみちているはずなのに、ただ心地よい感触のする玉でしかない。
のこった数珠を村長や、いま着いたばかりの村巫女たちにも手渡した。
魔をしりぞける魔法陣を、もってきていた真名石全部つかって組みあげていった。
二人の言霊は、真名石の魔法陣によって増幅され、しだいに大きくなり、共鳴していった。響きが響きにかさなり、言葉の意味はうしなわれ、熱く優しく、慈愛と癒しにみちている音だけになってゆく。
そこにいる、望まずして老人と化した者たちは、癒しのエネルギーに打たれるように震え、うっとりとしながら森射のまわりによりそっていった。手をそっとのばし、彼女の抱擁を待っているのだ。
歌に包まれ、真名石を手にしたまま、彼らは眠りについていった。どの顔も、いまだかつてないほどに安らぎにみちていた。
あとを火見華にまかせた森射は、身を清めるために、山の泉へとむかった。
畏敬の念にうたれた人々は森射をほんとうに神の使い――いや、まるで女神でもあがめるようにうっとりとみていた。
その歌を聞いたあとではしかたがないが、病人たちには、よりつよく、まるで恋でもしたかのように熱い眼差しだった。
彼女のもつ黒い神話はぬぐいさられてしまった。そして新たな神話が産まれようとしている。
だが森射はそんなことになどまるで興味がないというように、彼らをおちつかせると、そこを後にした。
自分はどうしたって、噂どおりに母と温羅を殺し、吉備を危険な目にあわせた魔物でもあるのだ。黒い心はいまだ存在し、消せもできない。アギトと同じように危険な存在をもちあわせている。
この村の田畑も、まだ半分だけはどうにか助かっていた。
だが無惨な半分は、稲が倒れて腐り、焼かれ、草もはえないようなおぞましい痛みかたをしている。
山もあちこち木々が枯れたり、焼かれたりしていた。森射は伊邪那岐の闇は、かなりのところまで浸透してきているのをひしひしと感じさせられた。
一度やぶられた結界はけっして完全には戻らない。ただ温羅の張り巡らしていた結界の網目をなぞらえているだけでしかない。
それほど強力な呪力をもつ温羅の首が、愚かな男によって落とされてしまった。
森射は危険を覚悟で、結界がとけたあくる日、温羅のいる森の樹海へとむかい、その目に見たのだ。
無惨にも温羅の首はもぎおとされ、聖域はひどく荒らされていた。
エネルギーの源であったはずの磁場は穢されよどみ、その歪みを正すはずの巨石は粉々に砕かれて、エネルギーは堰きとめられあやうく鬱屈していた。
「だれがあんなことをしたのだ!」
温羅の悲惨な姿をおもいだし苛だつように云った。
水をあびた森射は、泉をでるとそのまま衣服を身につけた。
白い濡れた肌に衣がまとわりつき、体を線をあらわにうきたたせて、ふくよかな胸の膨らみも、腰のくびれも、まさに彼女が女盛りの年頃であることを物語っており、生々しい色気さえ感じさせている。
ガサリと草をわける音がした。
手負いの獣のような激しい殺気が背後でいろめきたった。
森射ははっとしたように刀をにぎり、じっとみすえる。
吹きつけるような妖気は、混乱と自制をうしなった恐怖に荒れ狂い、苦しみ悶える感情の垂れ流しされているものである。
かなり修行をつんだ術者のような猛々しい気は、すでにそれだけで破壊の力を有しているのだ。
オズヌであった。
げっそりやつれ、どす黒い病的な顔色をしたオズヌがいた。
最高位の行者としての自尊心と、また特異能力によるエネルギーに雄々しく輝き、凛としていた彼の雄々しい姿は、いまや呪われた悪霊そのものとなり果てている。
ボロ雑巾のような、破れて泥にまみれた衣服とボサボサの髪、ぎょろりと剥き出された目は眼窩から飛び落ちそうで、死の国から甦った悪鬼のようにみえた。
「森射……ッ」
あえぐように言った声は、かすれていた。
額からつきでた銀色にかがやくそれは、異様な色をしてそそりたっていた。
何度もひきぬこうとしたらしく、まわりから血が流れ、渇いているのがみえる。
「森射、森射っ」
救いを求めるような、己の姿を恥じいるような、苦悩にみちた声で森射の名を何度もよんだ。その名前だけが彼を救い、現実にひきとめてくれる呪文でもあるかのように。
「オズヌ……」
森射はさすがに驚きがかくせないようにみつめていたが、しだいに怯え小さくきえてゆき、かわりにオズヌを憐れむように目をほそめ、名をそっと呼んだ。
異形の姿でさえ、ひるみもせず、救いを求める手をとろうと、そっと近づいていった。
「こ、こないでくれ森射!俺は、俺はっ――」
まさか森射が自分のところに来てくれるとは思わなかったオズヌはひどくおびえた。
ふいに光にあてられ小さな魔物のように首をすくめ、それ以外に言葉がないように、苦しげにうめいた。
オズヌのはなつ禍々しい妖気の渦が、森射の波動にすいこまれ、消し去られていった。
流れに逆らわず、ただそのままを受け入れるのみの森射の波動には、衝突することも爆発することもなく、空気がないでゆく。
彼自身、そのおぞましい悪魔の瘴気が制御ができず、角のせいで敏感になった体にはね返ってしまい、己で己を傷つける苦しみいたぶられていたのだ。
それがとまった。
「なぜ、そんな姿になってしまったのだ、オズヌ」
森射が痛々しくつらそうに言った。
オズヌは知られることを畏れるように首を振る。森射から目をそらすようにつむり、
「森射、森射……っ」
それしか言えない。
彼は愚かな行ないと思いあがった利己的な心を恥じ、それが今の姿となり現れとなったのを悔いていた。
「森射、俺は――」
「なぜ、おまえほどの者が、邪悪な闇のささやきを退けられなかったのだ。オズヌ、おまえなら、他人に頼らなくてもいずれは自分の力で、無限の力だって得られただろうに。私にはわかっていた。だからこそ、力を貸さなかったのだ」
オズヌは耐え切れないように歯を食いしばった。歯の根がかみ合わないようにふるえ、ギョロリと血走った目に赤い涙が浮かんだ。
あの森で起きたことも、彼が起こしたこの世でもっともひどい罪も、森射はすでに知っていた。
いつだって森の語る声は、彼女に真実をつたえるのみだ。
「森射」
彼女にだけは知られたくなかったようにあえぎ、名前を呼ぶ。逃げだしたいのに、それ以上に彼女を求める心がオズヌをこの場へとどまらせていた。
会いたくてたまらないのに、会いたくない。
わかっているのにどうにもならない心が彼を引き裂く。
森射は憐れでならぬ子供をだくように、オズヌに手をまわした。
泉で清められた冷たい体がオズヌの獣のように汚れた体をだきしめた。
背をなで、我が子がいかに汚れようと、いかに罪を犯し苦しもうと、かわらぬように腕にだく、まるで母親のごとくに慈愛をそそぐ。
だれにも赦されなくても、森射だけは彼を赦しているのかもしれない。抱きしめることで罪を清めているのか。
「森射、森射……」
その名前だけがたったひとつの救いのようにオズヌは呼びつづけた。
森射がほんとうに好きだった。欲しくて、自分のものにしたくてその欲望がくるわせた。
「あなたが、欲しかった。あなたを手に入れるためには、力が必要だと思ったんだ」
なのに森射をさらに苦しめてしまった。
「力は――たしかに力だけは手に入ったかもしれないけれど、それは地獄からの闇の力でしかなかった。俺が犯したおろかなことのために、多くのものが亡くなり、いまなお闇のもたらす苦しみにあえいでいる。ああ――俺はなんてことをしたのだろう。彼らの叫びと嘆きがこの身を業火の炎で灼いてゆく。俺を永遠の罪人として、額にこの角を烙印としのこしていった。だが、それでも俺は許されない。俺はなんて愚かな、なんてあさましいことを……」
闇を招き入れてしまった。
吉備の国だけでない、多くの国者が恐怖におののき、闇からにげまどっている。
「オズヌ、しっかりするんだ。自分の心に負けてしまってはいけない。今また、その心を闇に委ねてしまえば、おまえ自身が悪霊となり、悪鬼となりはててしまうだろう。――罪を犯してしまったのなら、それはもはやどうしようもないことだ。あとはもう、その過ちを認め、自分のできるかぎりの方法で正さなくてはいけない。たとえ今はどんなにつらく、方法がみつからないとしても、逃げ出してはだめだ。最善の方法で償うのだオズヌ」
それは森射が自分に何度も言いきかせてきた言葉だった。
オズヌにもそれらの言葉の重みまでが伝わっていた。きっとだれが言うよりもオズヌの心に大きくひびいている。
「森射……」
オズヌは涙にぬれた顔をあげた。
その瞳には、ゆっくりとだが、理性がとり戻されつつあった。その希望に語りかけるように森射は語る。
「自分の中のなにかを犠牲にする覚悟の出来ていない人間には、なにも出来はしない。困難に負けてはいけない。己を磨くために試練はある。きっとこれは、その大切な試練のひとつなのだ」
森射は自分もまた諭しているかのようだった。
「これは定めだ。いまここに起こっている恐ろしいすべての現象は、人々が通りぬけねばならぬ、神のくだした厳しい試練であり、死の恐怖にとりつかれ、曇った心を清めるための、気づきの、道なのだ」
森射の目はさらに遠くをみつめていた。
「人は人の命を弄んではいけない。愛がなければ人は進化をしない。愛するという心が力であってこそエネルギーとなる。恐怖や欲望によってうまれた力などただの虚無でしかない。虚無では進歩も発展もないし、それによって開く未来は、ただ崩壊だけだ」
倭国で苦しみの声をあげる、もっとも厳しい受難者たちの姿を追っているかのような瞳を、オズヌはただぼんやりみていた。
彼女の心はあまりにも大きくて、あまりにも広すぎて、わからない。見果てぬ海のようにどこまでもひろがり、人の目にはよくみえない。
オズヌは何となくだが、それでも感じられたような気がした。
彼女はだれか一人の者になるような小さな存在ではないということを。
神があらわした、数少ない尊者であり、人のゆくべき道を指し示す、勇者で、賢者のひとりなのだ。
「……ならば、俺は俺の罪を償おう。それがどんな方法で行なえるかはわからない。だが、どんなことでも行う。俺はあなたのなかの大きな愛に恕された。いまは、もはや普通の人間たる道はあゆめない。ならば俺もまた、道行く人々の礎になろう」
森射の胸にすがりついていたオズヌは、いまこそ目が見開かれた者のように立ちあがった。
深い意志が、彼のなかには刻みこまれていた。
その顔は神智にみちた穏やかさがもどり、勇気に輝き、まるで急速に成長をとげた神の御子のようにさえ見える。
「倭国だ。すべては倭国に端を発している。奇病の蔓延も、ヤマトの侵攻も、死者の甦りでさえ、倭国のゆがみにより生じているのだ」
オズヌははっきりと言った。
彼の目は、まるで間近にみているかのように、その国の様子をとらえていた。こころざしを高くもち、意を決したオズヌはふいに心眼力が強まり、次元のかなたから、倭国を幻視しているのである。
「倭国か……」
やはり、と森射はいった。
倭国の歪みが、きっと大となり小となり異常として現れている。
よもやヤマト国までもが、その魔手に染まっているとは思わなかったが、考えてみればあまりにもその二つは似ている。
「森射、どこだ――?」
イサナの声が聞こえてきた。
オズヌは夢から覚めたように意識をとりもどした。
一度だけ森射を切なそうに見ると、未練を振り切るようにそのまま逃げ走り去っていった。
イサナはすぐに森射をみつけ、たたずむ彼女の横に立った。
視線のむこうにいるオズヌの姿なき姿をいっしょにみつめていた。なにを感じているのか、ひっそりという。
「闇が先ほどより濃くなっている。はやく帰ったほうがいい。俺たちの発した言霊にヤツの気が惹きつけられているのかもしれない」
「そうだな。早く戻らねば、火見華が心配しているだろう」
待ちきれずにイサナが迎えにきたほどだ。知らないうちにかなりの時間が過ぎていたのかもしれない。
二人は帰り道を急いだ。森射は物言わぬイサナの沈黙にいつもどれほど救われているか分からない。
きっと何かを感じている。もしかすると、オズヌほどの者がのこす気配なのだから、わかって当たり前かもしれない。
だが、彼は森射が困るようなことはもちろん言わないでいる。自らが口をひらくまで、どんなに興味をひくような事柄であっても聞いてくるような無作法なことはしない。
人のなかの闇をしる彼は、けして不用意に他人のなかに踏みこまない。人の心を荒らしたり穢したりはしないのである。
だからこそ森射は彼をそばに置いているし、信頼もしている。まるで始めからそこにいたような、滑らかな空気そのもののような存在であり、心がかさなる相手といえば、イサナほどの者はどこにもいない。
だがきっと彼のなかの、奥底に眠っているものもまた、静かで冷たくて、だが誰よりも激しいのだろう。猛々しい氷でできた炎なのだ。森射にはそれがなぜかわかってしまう。
空気がねっとりと張りつくように森射の足にからまった。
ザッと砂利をすべり、二人はとまった。
イサナがかばうように前に出るが、黒い霧が声をあげるまもなくすっぽりとおおってしいった。
あっというまに二人だけがまわりの空間から切り離されてしまう。
イサナは森射に身を寄せ、それらから隠すように、きびしい視線でその闇を睨みつけた。
重くジメジメと間をよせてくる不快さに森射が眉根をよせたとき、霧の幕に人の顔らしきくぼみがあらわれた。
――伊邪那岐の邪悪な忌まわしい顔。
『早く来い、森射よ。我が血族に加われ』
空気が波うち肌がピリピリとした。
それは結界の継ぎ目から染み込んできているかのようにドロリとしていた。伊邪那岐の思念が結晶し、黒く闇をかたどったようなものだった。
恐れていたとおり二人の言霊に惹かれ、吸い寄せられてきたのである。
『火具土のものはすべて奪ってやる。おまえは我のものだ』
影は繰返しくりかえしそう言った。
まるでその響きによって力がさらに吹きこまれるように、伊邪那岐の顔がだんだんとはっきりしてきた。
『森射よ、火具土など捨てて我もとにくだれ、我を永遠に生かす花嫁となれ』
「だまれ!我が神の名前を気安く呼ぶな禍津神め」
霧は笑うように揺れ、さらに大きくなり二人にのしかかるようにひろがる。
視線はイサナにもむけられ、邪悪さの極みにわきたつようにうねり狂う。
『はやく帰るがよい、イサナよ。おまえの母が待っているぞ。はよう帰らぬから、あの女が苦しみもだえておるのだぞ』
「なんだと?!」
睨み返しているイサナの目が、薄く黄金色に光った。
『おまえが逃げるからじゃ。おまえが逃げるゆえに、母親が苦しまねばならぬのだ。――おまえは死にゆく運命の者。おまえが贄として素直に殺されておれば、我とてこのように回りくどい手法をとらずともよかったのだからな』
イサナが尖りすぎた犬歯を剥き出しにしている。こんな、燃えるような怒りをあらわしたイサナを見たことがない。
『おまえが倭国に居りさえすれば、扉はすぐにでもひらかれようものを。さすればこの世界の人間など、すでに我の餌さとしてすべて食らいつくしおったのに。我が妖力の滋養となれ。おまえの母同様に、家畜の豚として可愛がってやる』
胸が悪くなるような耳障りな声だった。
イサナからたちのぼるオーラが、闇をほんの少しづつだが押しのけている。そのおかげで、わずかだが空間ができ、息がつけだす。
「俺の、母だと――?」
背筋がゾクリッとするような低い声でいった。凄まじい言霊の霊気だ。
カッと目をみひらいた。
「俺には母などいない!もしそれを親というならば、俺にとっては、ただの卵子提供者にしかすぎないだろう。――たしかに、俺は殺されるために産みだされてきたかもしれない。実験をするために作られ、切り刻まれ、苦しみ死んでゆく同胞の叫びを聞き、俺はそのなかで幾多もの苦痛を乗り越えてきたんだ。呪われたおまえらの禁忌の術と技法をほどこされ育てられても、俺はおまえのものではない。だれのものでもないんだ!発生状態がどうであれ、俺は俺だ。俺自身の意志と心で生きているんだ!」
生きて、だからこそ森射のそばにいる。
表情をあらわさない彼の仮面にだまされ、内に隠れていた、野獣の本能としかえないほど凄まじい殺気が襲いかかっていった。その気性の激しさに、本来の彼は、もともとこういう性質であったのかもしれないと思わせる。
ただ、人間として、森射の守護を受けるものの使命を負い、彼女のそばにいるために、野生の牙をかくし本能を眠らせているだけだ。
彼女への愛は自分を変えてしまうことなど厭わぬほどに強くて大きく、またそれだけ価値のある愛を与えられていた。
「森射には手を出させない。おまえなど、消えてしまえっ!」
声質がかわった。あの、不思議な響きを持つ声だ。
『去れ影よ、チリヂリになって消え失せろ。おまえの運んだ影の一片たりとも残さずにこの場から消滅してしまえ』
熱風が上空に吸いあげられて、二人の髪がもちあがり、木々が激しく枝をしならせざわめいている。
それでも森射のまわりの空気はやさしく、風が彼女をけして荒々しいやいばで傷つけることはない。
森射は物言わぬイサナによって、自分がどれほど守らてれきたのだろうかと、あらためて感じ、気づかされていた。
押しつけることも、求めることもない、自然なままのイサナの心は、まるで気づかれたくないかというように控えめで、なのに大きい。それがイサナの愛しかただというように森射をそうっと守り包んでいるのだ。
闇は去っていた。
だがそれは一時的なものにすぎない。
上空を見上げるふたりの目に、白い鴉が三羽、光の使者のように羽ばたいているのが見えてきたのだった。
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