鳥が慌しく飛び立っていった。
肌にまとわりつくようなけだるい空気が、瓶の底にたまった澱のように滞っている。
まったくの無風だった。木々の梢がピクリとも動かない。静寂という生き物が、なにかの異変を見守っているかのようだ。
森射は嫌そうに南の空をみあげた。
かたわらの大木に身をよせる。
「また、地震か……?」
ゴウッという地鳴りがして、うねるような揺れが繰返えされた。
まだそれほどたいしたことはないが、ここのところひっきりなしに起こっている。
これまで、被害がおよぶような大きな揺れは一度もきてはいなかったが、小刻みにやってくるそれらは、まるで後にひかえているものの凄まじさを物語っているようだ。静かで不気味な何かをただよわせ、よけいに恐ろしく感じさせている。
森射は山のむこうに見える瀬戸の海をながめて、海の色をうかがった。
青く冴え冴えとしているはずの恵み深き海は、淀んだ空の色をうつしてか、ここのところあの紺碧の貴石のような輝きをみせていない。
漁師たちも、水揚げする魚の量がさっぱりだといい、どうしたことかとなげいている。
あれほど恵み深き瀬戸の海でさえ、沈黙して、もしかしたらこれから起こることを、いち早く察知し、魚たちが姿を消してしまったのかもしれない。
「ずいぶん地脈が乱れているな。エネルギーの網目がかなり弱まってきているし」
森射はパワースポットに敷かれている円形に形作られた巨石のまえに立っていた。そこから放出されているはずのエネルギーがはっきりとわかるぐらいに弱く沈んでいた。
いや、ストーンサークルが弱まっているというよりは、各地のパワースポットを走っている、地脈自体のエネルギーが減っているといったほうがいい。
故意に歪められ、吹き出し口をうしない滞った力が、地底ふかく鬱屈し、大地が苦しみ鳴動しているかのようだ。
森射にはわかっていた。それが各地に攻め入り、パワースポットを破壊しているヤマトのせいだと。
何度かパワースポットを守る巫女や術者たちから、助けを求める声が入ってきていた。かれらもこのような、不自然な地震と、ヤマト国の狂ったような侵攻と破壊には、なにかただならぬ関連を感じて、異常をひしひしと感受け止めているのだ。
そして倭国の上空にまたたいていた妖霊星が、それがただの星ではなく、何か途方もないエネルギーを秘めた時空の裂け目だと気づきはじめていた。
徐々にではあるが大きくなっている。邪悪な影をよびよせつつあることは間違いない。
ゆれがおさまり、森射は空気の濁りをさらに感じていた。
神と自然の強固な守りのある吉備ですら、その力が弱まっている。その証拠に、あの黒い邪悪な影が、やすやすと闊歩しているではないか。この守り深い吉備の森で、それは考えられない。
とぐろをまいた黒い闇の大蛇が、森射の存在をかぎつけてきた。
いちだんと呪われた影を濃くおとし、悠々とおちつきはらって森射をみつめていた。
のそりとうごくと、森射のからだにまきつき顔をよせ、白皙の横顔をなめあげる。
『我のものとなれ花嫁よ。しからば永遠の生命と永久の享楽をそなたに与えようぞ』
「影よ、私はそのようなものなど少しも欲っしてはいない。私はただの人だ。自然の摂理にさからってまで生きていたくなどない。――それに、おまえのものになるために、母は私に命を与えてくれたのではないからな」
『小生意気なことをいいおる。だが、その愛らしい口が、いつかわしに助けてくれと懇願するようになる日が来るかと思うと、楽しみが増えるというものぞ。おまえの美しいかんばせが苦悩にゆがみ、永遠の命をもとめ、我にすがりついてくる日も近い』
「人はだれもがいずれは死ぬ。それが定めだ。天地の理を曲げてまで生き延びようとあがくは愚かなことだ。そのような生など、すでに命にあらず。死ぬこともままならぬ魍魎だ」
『――戯言じゃ、花嫁よ。選ばれた者が永久の命をもってなにが悪い。下等な人間など、しょせんは、ちっぽけな家畜なのじゃ。我を生かすためのわずかな生き餌よ。人間ごときの動物が、この崇高な生命の糧となれるだけでも、マシというものなのじゃ』
「己のことしか考えられぬ傲慢で利己的なものにこそ、生きる資格はない!人は、人に助けられ、支えあうからこそ生きていられる。自然から与えられる恵みを享受するからこそ生命を存続してこられた。感謝の念を忘れ、己のなかに巣食う醜い闇をかえりみない者に、未来などないっ!」
森射は燃えるような瞳をし、大蛇の影をにらんだ。これがあの優しい森射かというような焔のごとき厳しさだ。
「生命の根源を犯す魔物よ、おまえからは不和と血塗れた争いの臭いしかしない。去るがいい、ここは我らが火具土神の守護する、緑の慈悲の深き土地だ。おまえのいるべき場所ではない」
切る語気のつよさに、影はゆらめいて散った。
あれほどの魔力をもつ闇でさえ跡形もなく消滅してしまう。なんという驚くべき森射の力であろうか。
普通の人間であれば、闇のいざないが現れただけで狂気におちいっているだろう。魂を喰い荒らされ意のままに動く人形に容易になってしまう。
闇が霧散したというのに、なぜか森射は苦しそうな顔をしていた。
彼女はわかっているのだ。自分の言葉の恐ろしさを。
森射の言葉には、皆が思っているよりはるかに強い霊力がある。それは大切な物を守ることもできるが、また、同じ力で、破壊してしまうことも可能なのだ。
「心を乱すな。私にはすべきことがある。真実をみつけるのだ」
森射は自分のはやる心を諌めるようにきびしくつぶやいた。
どんな怒りにも自分をさらわれてはいけない。顔をそむけて逃げださず、しっかり最後まで見つめるのだ。そうすれば、そこにこそ大切なことが隠されている。心を乱さずに真実をみつけなければいけない。
「そういえば、ここらあたりの気が、やけに撹乱されているな」
異次元からの侵入者のせいだけではない、ざらついた気のゆれを感じていた。
森射はその乱れの糸をたどりすすんでいった。
この空気のゆれは、なんと悲しいのだろうか。
傷つけた者も傷つけた自分も一緒に血だらけになり、苦しんでいるような哀しさが肌をしげきした。
森射はだれの心が流れこんでくるのかわかっていた。
――アギトだ。
アギトの心は、いつも不思議なほど森射のなかにまっすぐ入りこんでくるのに、森射にはなぜかそれを止められない。
だれより優しく柔らかな心を持っていた。
なのに彼はまた夜叉ともなってしまう。その己のみにくさに嘆き悲しみ、憎悪するような衝動に苦悶の声をあげているのだ。
未熟で憐れな、そして心からの悔恨の思いにあふれていた。
森射はその苦しみに、なにもしてはあげられない。できるのはただともに感じ、よりそうことだけ。
どうしてアギトとはこれほど魂が重なるのだろうか。不思議だった。なんの縁があってこれらの事象は起きているのだろう。
「アギト……」
アギトは木の根元にひざをつき、茫然とそれをみて泣いていた。
彼が手にしているのは、まだ殺したばかりの雄々しい鹿であった。腹を切りひらき、内臓をかきだし、手のなかの心臓がドクドク赤い血を滴らせている。
鹿の峻厳な黒い瞳が、アギトのかなしみを無表情にうつしだしたまま、首をもがれ、立派なつのを地面につき刺さし、ただ静かに死への旅路に向かっていた。
「俺はどうしてこんなことばかりしたいんだ……」
血にそまった拳を見ていた。
「どうして殺さずにいられないんだ。なんで、こんなに殺してしまう……」
アギトの中に巣食っている闇が勝利にあざ笑うかのように頭上で揺れている。彼を燃やさんばかりに広がっている。
「きっと俺は殺してしまう。森射や、火見華たちを。イサナを、きっとこのままでは殺す!」
「おまえは誰も殺しはしない。おまえの心は知っている。本当に大切なものがなんであるかを、また失う苦しさを」
「――森射」
「大丈夫だアギト。真実を知っているものは、本当は、誰も傷つけられない。おまえは強い。それだけの魔に憑かれながら、まだ己を失っていない。己の心にある聖なる道への希望を失っていないではないか」
アギトの目から新しい涙がドッと盛りあがった。
森射はアギトの目の前に膝をつき、血の紅にそまっている拳をそっと握った。
ビクっとして手をひくのを強くひきよせ、驚きに見開くアギトの瞳をそらせぬようにのぞきこむ。
「おまえは強い。アギトおまえは誰よりも強くなれるんだ」
アギトが動物を殺すのは、これが初めてではなかった。
この吉備にきてからも、燃えたぎる炎が抑え切れなくなると、血の欲するままに動物たちを狩り、残忍に切り裂き殺していた。
首を落とし、心臓を握り潰し、あまつさえその血を飲んだりして、狂乱に身をまかせ、巫女たちの柔らかな胸に剣を思うさま突き刺し、皮をはぎ内臓を引きずりだす幻想をかさね、欲望を滴らせて、小動物をころしていたのだ。彼は、イサナや森射を、殺したくてたまらなかった。
だからこそ、いつか抑え切れなくなるのではないかと恐怖に怯えていた。それは日増しに強くなり、日々アギトを苦しめ続けていた。
はやる血をおさえるためには、どうしても殺さなくてはならなかった。動物たちの悲鳴をきき、我にかえると、アギトは己の行為に吐き気をもよおして、何度もむせび泣いた。
嫌悪に、何度もその命を絶ってしまいたい衝動に駆られた。けれども、そのたびに森射の顔が思い起こされ、おもいとどまった。
だめだという瞳が胸にやきついていて、愛着のような未練の情にひかれ、再び森射のもとへと帰ってくるしかないのである。
「俺を、殺してくれ森射。……苦しいんだ。もう、俺を自由にしてほしい」
アギトは這うようにして森射にすがりついた。まるで最後の助けとばかりの必死の形相だった。
「お願いだ森射。おまえをいつか俺は殺してしまう。そのまえに殺してくれ。俺はおまえを殺したくない。森射、おまえを愛しているんだ、おまえを、俺は――っ!」
吐き出すようにいって、必死でもとめるアギトに、森射は憐れむよう手をかけた。
自分のほうをむかせ、そっと前髪を払う。
「アギト、悲しみに心を曇らせ心を流されてはいけない。そんなのは愛ではない。ただ自分に負けているだけだ。おまえは、どんなことがあっても生きなければならないだろう。己の苦しみと戦いながら、生きてゆくしかない。そのことこそが正しい愛であり、おまえの正義だ。だれも、おまえの戦いを肩代わりはしてくれないのだからな……」
「森射……?」
「闘い傷つき、もうだめだと思っても、そこからまた新たな闘いがはじまる。神はけしてその人に耐えられない試練は与えはしない。耐えらないと思っていても、それは神からの愛であり、学ぶための大切な事柄なのだ。だからアギト、きっとこうなったことには意味がある。逃げるな、闘え!」
アギトはまるで森射こそ神であるかのように見上げた。幼子のように、いやだと首を横に振りつづけた。
分かりたくない。そんなこと、認めたくない。
「アギト、それでももし、おまえがもうこんな闇には耐えられない、つらくて我慢が出来ないというのなら、おまえの中の闇は私が受けとろう。――約束する。私だって汚れていないというわけではないのだから」
森射の表情がふわりと笑みにかすんだ。
果てのない海のような哀しい慈愛であった。
森射の白い手がアギトの額にあてられた。包むような温かさがつたわり、その温かさにいっそ身を委ねてしまいたかったが、アギトは身をふりはらった。
森射が何か呪文をつぶやきはじめたのに、それが記憶を抜く儀式だと気づいたのだ。
「このおぞましい闇をおまえが受けとる気なのか?!」
こんな穢れた闇は、絶対に彼女にわたしてはいけない。
彼女を傷つけてはいけない。
「なぜだ森射、やめろっ!」
「アギト……」
「なんでそこまで俺のためにするんだ。俺なんかのために、なぜおまえが!」
わからない。どうしてなのだ。
たかが死にかけた男を拾ってきただけのことだ。なんの関わりあいもない、誰ともわからぬ男のために。いや、――それが見ず知らずどころか、かつて吉備と戦い、配下におさめた憎いヤマト国の王と知っていて、どうして簡単に己を差し出すことができる。
「俺は、おまえといると心が安らぐ。だがそれは、それと同じくらいの苛立ちを覚える。おまえがよくわからないんだ。どうしてそんなことができる。俺はおまえが、恐ろしいよ、森射」
じっとみつめていた森射は、不意にアギトを抱きしめた。
「……おまえは人の愛情になれていないのだアギト。愛が、足りていないだけなのだ」
柔らかい体から伝わるぬくもりは、今まで与えられたことがないほどに優しい。母からしか受取れぬであろう、慈しみのぬくもりだ。
森射のあたえる無償の愛は、記憶にさえないはずの、母を甦えらせた。
アギトは声を押し殺して泣いていた。
それが消えるのを畏れるように、アギトは森射をつよく抱きしめていた。
森射とアギトを見つめる冷たい双眸があった。影に混じるようにみつめる、不穏な視線だった。
二人は気づいていなかった。
その目は陰々と嫉妬にもえ、見る者を射殺さんばかりに歪んでいる。怒りに目がくらみ、もはや視界が濁りよどんでいる。
オズヌであった。木立にまぎれアギトの動向をさぐろうと身を忍ばせていたのである。
オズヌの完璧に固められていたはずの心に、いまやミシッと音をたて、ヒビがうまれた。
そこから黒い影がしみだしはじめたのに、彼はまだ気がついていなかった。
自然の木々をあつめてつくった簡易な井形の祭壇がたてられていた。
オズヌは護摩木を焚き、炎をするどく睨みつづけている。
その顔は、奇妙なほど憤怒の形相にゆがんでいた。
行者として、これほど不本意な、だが自制がきかない怒りにみまわれたことは、いまだかつて彼に覚えがない。それすら苛立ちの原因のように、己を律することもわすれ、それが行者の真の修行の目的であることも忘れている。
オズヌは天高く燃えあがる焔をみつめていた。目にはまだ、あの二人の抱き合うなまなましい光景が焼きついて離れない。
「なぜ、あの男なのだ……」
オズヌは野獣のように唸った。
自分がとうていアギトなどに劣っているとは思えない。
あれほど未熟で、すがりつき殺してくれと懇願するような、愚かでしかも子供のようなもろさをもっている男など、認められない。
ましてそれが一国をおさめる王であるならばなおのことである。信じられぬというより、許しがたい、罪ですらある。
森射は、姿こそ女のかたちをしているが、女ではなかった。そういった彼女の言葉はよくわかる。
オズヌは森射をただの女として欲しているのではないと思っているし、姿の美しさや心根のやさしさだけに惹かれているのでもない。
「おまえの魂が俺を呼ぶのだ。おまえのすべてが、欲しいのだ」
そして彼女が、握っているだろう世界の秘密もまた、オズヌの欲望をゆりうごかす。
「なぜ俺ではだめなのだ。俺ならばおまえの孤独も心の闇もひきうけられるはずではないか。俺ほどおまえをわかってやれる男はいないのに」
だが何度そう言っても、森射はただ、だれも好きにならないだろうとしか言わない。
それならば、まだあきらめもつく。
だが、なぜいまになってアギトをどうして受け入れるのだ。まるで、あれでは、恋人どうしの睦みあいではないか。
「どういうことだ森射。アギトなどのどこに惹かれる。おまえの命を狙い、闇に凌辱されている男に――あんな弱々しい男に、俺のなにが劣る!」
護摩木を投げつけた炎がオズヌの心に応えるように燃えあがった。怒りそのもののように火焔の渦をまきあげ、木の枝をこがす。
『それは、おまえに力がないからだ、オズヌ』
「な、なんだとっ?!」
闇のあいだから生まれたような声が響いた。
あの声だった。オズヌに呼びかけてきていたあの、黒くおぞましい声。
ブワっともえあがった炎が人の顔の形をうかべた。呪われた悪霊の笑みを浮かべ、オズヌを包むように大きくひろがった。
『アギトには権力がある。ヤマトに帰れば王という地位がまっており、やつの号令で何万という家来が意のままに従い動く。ヤツにはあふれんばかりの富や財力もある。どのような無様なさまをさらしても、アギトは『王』だ。――おまえとはちがうぞ、オズヌ?』
声は嘲笑するようにいい、オズヌの自尊心をわざと刺激する。
オズヌは自分を幻惑するおぞましい闇の声だとわかっていながら、図星をつかれたことに、心が怒り乱れ、おのれが収集できなかった。
行者としての念力や呪力は、たしかにかなりのものであり、頂点に近いかもしれない。
けれど、しょせんはヒトとしての範疇のはなしでしかなく、小さな限界をもつちっぽけな者だといえば、それまでである。
もはやそれ以上はない。
自らのちからではなにも得られない、また何もわからない。
知りようもなければ、何も変りもしない。木の葉ひとつ作り出すこともできないではないか。
なにもない。権力も呪力も、生命の根源をつかさどる神秘にみちた秘密さえ手が届かない。そういう意味でなら、オズヌなど、たかが二十年そこらしか生きていない森射の足元にもおよばないのだ。
そう、アギトとおなじなのである。
『だが、アギトは王だ。選ばれた者だ。おまえは赤子のひと泣きほどの能力しかない。それでも、他の目さえ開いておらぬ未熟児たる民衆にくらべれば、おまえは優れているほうだろう。いや、おまえは条件さえゆるせば、壮大なる力を手にできる能力を秘めている。その気になり、誰も持っていない世界を変えられる真の力をのぞみさえすれば、世界の王にでもなれるのだ。――力はすべてだ。オズヌ、力あるものだけが、秘密を手に入れられる資格がある。力もない愚かな者どもは、力ある偉大なものに淘汰され消えて行くのが自然の摂理だ』
「ちから……」
オズヌが憑かれたようにつぶやいた。
罠かもしれない。分かっているのに、それを退けるだけの、強さがたりない。
どのように飾りふるまおうと、本心はもう自分ではままならないほど、力を欲している。
本当は、だれよりもそれを欲し、望んでいた。力が、知識が、世界の秘密が欲しくてたまらない。
『おまえはもはやその昏い欲望のほむらからは逃れられぬ。もし本当に欲っし望むならば、吉備の谷にある、温羅の首を壊すのだ。アレは死してなお、いまだ吉備に影響を与え、呪力を発している。吉備を手中におさめ離そうとせぬのだ。オズヌ、首を壊せ。さすればアレに封印されている吉備がもっているすべての神秘の力は、お前のものになるだろう。おまえこそが、真の王だ』
「温羅の首、だと?」
温羅――。
その者の名は、吉備では知らぬ者がないといわれるほど、知れわたっている英雄であり、勇敢な戦士の名であった。
吉備の王となるべき実力をもちながら何故か王にならなかった伝説の存在でもあった。
その行動は、つねに自分の行くべき道をしり、未来さえも予知していたようであったという。
そのために王座をしりぞけ、大切な者のために戦い、生きぬいてきた。きっと、温羅は王として人民に尽くすよりは、大切な者のために生きることを選んだのだ。
それでも人々の心を深くつかみ、支えとなっていた。闘いとなれば、闘神ともいうべく戦隊を鼓舞し、戦闘の最前線にたち、勇猛に戦ったという。
現吉備王である真人は、温羅の実子である。
かれは父親の高い志をうけつぎ、またその生き方をよく理解して、それをより高めようとしている賢王だった。
温羅によく似た面差しをして、凛々しい相貌と目をみはるような立派な体躯をした偉丈夫だった。若いころはかなり美姫をさわがせ、心を奪ったという。
道理をよくこころえているだけに、臣下もまた、清廉で実直なものが多くあり、みな王をしたっていた。
真人は、だから、森射を庇って温羅が死んだことも、父がえらんだ運命だと享受していた。彼女を責めるようなことはしなかったし、温羅の命を賭してまで守った森射を、また自分の子のように目をかけ、親をなくした子と憐れみ、慈しんでいた。
もちろん温羅の配下の者たちも、同じであった。
この人以上の大将はあらわれぬとおもい心酔した。温羅を殺された理由を、森射に重ねるものはすくなかった。
森射のほうでその罪をよく心得え、己を厳しく罰し悲嘆しているだけに、よけいだったかもしれない。
「伝説の男――慈悲深く知力にたけ、人民の多くに慕われ、敬われつづけた吉備の真の王。最強部隊を率いて、最後までヤマトと対等に戦ったという。屈強で叡智にみちた行動は、吉備の闘神ともいわれ、その名はヤマトの戦士さえをも震えあがらせていた」
『おまえの探っている吉備の秘密の半分は、温羅がいまだ支配している。その温羅を倒しさえすれば、吉備に隠された真の力と知識と、そして、森射さえも、手にいれることなどたやすいであろう』
闇はしたたるほど濃くなり、炎が一気にもえあがった。
そして、忽然ときえた。
あたりには閑散としたぬめる静けさだけのみ――。
オズヌの瞳には、鬱屈した不敵の笑みが映りだされていた。完全に、彼は囚われてしまったのだった。
闇の静けさが、いっそう増したかに思われたのだった。
本殿の礼拝場にふかく一礼をすると、吉備王の護衛としてついてきていた葛野と、その部下たちも、王にならい深く頭をさげた。
吉備王、真人は、針のような不精髭をはやし、野生の猛獣をおもわせる精悍な風貌をしていた。
人情味あふれるようなあたたかな眼光が、ちょっと微笑むだけで印象をがらりとかえる。ずいぶん魅力的な、人を惹きつけずにはいられない印象となる。
どこか飄々としていて、高くとまった貴族や豪族などの印象とはかけはなれており、民衆のなかにいつのまにか現れ、噂話しを聴いていてもおかしくない気さえさせる。
かなりの長身だが、背筋を凛とのばし、真っ直ぐ人をみつめる黒目だけは、やはり王者だけがもつ威厳と高貴さをにじみだしていた。
彼は忙しい政務のあいまをぬって、かねてより思案していた事柄の相談と、それについての助言をえるために、祈りの宮を訪れていた。
長の大ババのもとに参拝し、目通りをすませたところだった。
「倭国の、予測のつかぬ不穏な動向にも目がはなせられぬが、ヤマトの目的のしれぬめちゃくちゃな侵攻にも頭が痛むところだな」
真人が問題が多すぎると、愚痴をこぼすのに、葛野がかたわらでもっともだとうなずいていた。
「葛野はどう思う。今になってなぜヤマトはこれほどまで激しく、他国に攻め入らねばならぬのだろうかな」
「真人様に図りしれぬことを、私にわかるわけがございますまい。しかし、まことに憂慮すべき懸案が多うこざいますなぁ真人様。再びヤマトが吉備に刃をむけはせぬかと、そればかりに心愁いておりますが」
「まあ、今のところ、それはないだろう。一応この吉備は、ヤマトの従国としての責務は果たしておるし。悔しかろうが、それも父の――温羅のきめた最善の策だ。この吉備は、闘いの手段をもって、かの国に立ち向かってはならぬ。――神が、目覚めるその時までは」
葛野があわてたようにあたりを見まわし、たしなめるように、
「真人様、声が高うございます。だれが聞き耳をたてておるかわからぬというのに」
「なあに心配ない。ここは祈りの宮だ。それに、聞いていてもなんのことかわからぬさ」
屈託なく笑うのに、葛野はそれもそうだと表情をやわらげる。
「この吉備は豊かな国。それも神の守護あってのことでございます。――温羅様の、ひいては偉大なる聖母、射王様の深い御心におかれます英断に、吉備の民のだれが反対しましょうか」
遠い遠い約束ごとである。
もはやそれを知る者も少なくなり、生きていてもかなり年をとり、記憶も薄れているはずである。
だが、その根底にある熱い血潮だけは、脈々と受け継がれている。吉備の民はそのときのために耐えているのだ。
真人は友であり一番の臣下でもある葛野の言葉に、うれしげな顔をみせた。
「ところで、亡き美貌の叔母上の愛娘、森射どこにおるのだ?今日はまだ顔を見てはおらぬが」
真人は物足らなそうに言った。
「あの花のかんばせをみぬことには、来たかいがないというものだ」
巫女たちの殿舎がならぶ建物のほうに視線をやり、その向こうにみえる深い山に続く裾野に目をむけた。
真人はよく知っている。森射がどこにいることが多いのか。どこにいたがるかということを。
幼いころ、森射はたびたび王宮に遊びにきていた。美しさでは並ぶべき者がないとうたわれた伝説の美女、楪を母として、しばらく暮らしていたこともあった。
楪は温羅の厚い庇護のもとに生活をいとなみ、真人の目から見てもまったく神秘的で、どこかあやうげなひとであった気がする。
彼女と温羅は親子ほど年がちがっていたため、真人は、どちらかといえば楪と年が近かったが、楪には独特の雰囲気があり、おいそれとは近づいてはならない神聖な巫女のようでもあり、またどこか恐ろしく感じられていた。
いつも物憂げな表情をうかべて、息を飲むほど美しさに反するように、あまりにひっそりとしていた。彼女の人離れした違和感は、神の側にちかい人間だということを物語っているようにもおもわれた。
温羅は楪をかわいがり、彼女が産んだ森射はことのほか慈しみ、我が子以上に目をかけ、愛情をそそいでいた。
ある日忽然と子を産み、戻ってきた楪に、温羅はどうしたことか、詰問したり取り乱したりはしなかった。
また楪も、森射が誰の子であるかを、口にすることは一切しなかったのだ。
それでも温羅はひたすら森射を可愛がった。一時、森射は温羅の子ではないかとも噂されたこともあったし、真人もそれを疑ったこともある。
だが、秘密は温羅と楪だけが知っていた。
それもまた、彼らの死によって明かされぬままである。
真人は神殿の向こうから歩いてくる緋色の美しい髪をもつ女性に目を細めた。
腕一杯の花をかかえ、まるでそこだけが夢を見ているようにしとやかで溜息が漏れそうな光景である。
彼女があらわれただけで周りの緑と空気が暖かくぬるんだ。そよ風が甘く、命と光にかがやく。
「あいかわらず男のような格好をしおって。年頃の娘がもうすこし着飾るか、せめて女物の服ぐらいまとったらどうだ、森射」
無造作にたばねた髪をほどき、ゆったりと肩にたらすだけで、どれだけ彼女が華やかになるかを知っている。宮中に艶やかに咲きほこっているどんな美姫にも負けはしない。
だが本人は無頓着にいった。
「私には似合いませんよ。それに裾の長い姫君の服など着たら、転んで歩けませんからね」
「まあそれもそうか。おまえは昔から男のような格好ばかり好んでおったからな。妻がよく悲しんでいたことよ、もったいないといってな」
多分、いまでも悲しむだろう。せっかくの美貌がだいなしだと。
森射が笑った。みなの目がくぎづけになった。
「奥方様を悲しませたお詫びに、山から積んだ花をどうぞおわたしください。この薫りをかげば、きっと体調もよくなられるでしょうから」
「なんだ、アレの体調が悪いことを知っておったのか?」
「このたびの異変は、今までのような自然の災害とは違っております。やんごとなき身の上のおかたなれば、繊細な神経を病まれることも不思議にはございませんからね」
森射は花束をさしだした。
なんとも言えぬ馥郁たる芳香がふわりと真人を包んだ。みたこともない花ばかりであったが、きっと山奥の花畑で摘んできた貴重なものだろう。どれも生気にみちている。
「ありがとう。よい薫りだ。体がスッと軽くなるようだぞ」
匂のもたらす薬効か、邪気がはらわれる。
森射はむかしから、誰も知らぬ山の道をたどり、こうしてみたこともない花を採ってきては、人々の心を慰めてくれた。
「……まだ、夜はおまえを呼ぶか、森射よ」
真人は森射の腕にかすかにのこっている傷後に目をやっていた。森射はただ微笑んだだけだった。
「そういえば森射、おまえはまた面白い男を拾ったそうだな。あちらからうかがっているあの男がそうか?」
社のかげから隠れるようにそっとこちらを伺っている男がいる。アギトは真人の視線に気づくと、身をスッとかくした。
「なにやらみたことがある顔のようだが、あれは――」
「詮索はご無用です真人様。かのものは神の導きのもとにやってきたのです。真に目覚めるために、この吉備へと」
「目覚めるため?」
言葉の意味を考えるように云った。
「そういえば、あの腰の剣、なにやらただならぬ気を発しているが、備前刀か?宮のなかで帯刀をゆるしているとはめずらしいな」
「先刻『狭崎の剣』の主となりました。正式に剣を受け取ったので帯刀を許しております。私の目を信じてくださいますなら、このままお見逃しください」
「はや狭崎の剣を手にいれたのか。この私とて、何度も通い、まだ数本にもみたないというのに……」
なにやら複雑そうに言い、じっとアギトをみていた。だがすぐに人好きする笑みを浮かべた。
「そのくらいの者でなければ、国を治められぬか」
「王――真人様、そろそろ戻られませんと。つぎのご予定のほうのお時間が迫っております」
葛野が背後から控えめに声をかけるのに、真人は軽くうなずいた。
森射をあらためてみつめ、愛しそうに肩を抱いた。
「一人でなにもかも背負おうとするなよ森射。みなおまえのことを案じておるのだからな」
「ありがとうございます、真人様」
「神に愛された、緋色の神女の末裔よ。おまえを吉備の守り神だと思っているのだぞ」
森射はそれには答えず、ただ一言いった。
「父と母の御霊と、この血にだけは恥じぬ行ないをすることだけは、きっとお約束します」
真人は彼女の高潔な魂をふたたび確認したように、一時のあいだ森射をじっとみつめた。
「王、お急ぎください」
葛野がもはや時間いっぱいだと声をかけ急かす。
「では森射、またゆっくり話をしよう。いつなりとも会いにきてくれ。王宮の方で、おまえに力を貸せることがあれば、かならずその意にこたえようからな」
そういうと、慌しく帰っていった。
わずかな護衛だけで、馬を駈ってゆく真人の後姿を見送りながら、森射は静かな思いに沈むように視線をぼやかせていた。
真人の面差しが、年を負うごとにますます温羅に似てきている。その温もりも、心遣いの優しさも、森射には懐かしくて、せつなすぎる。
――誰も自分を責めない。それがよけいに悲しい。
「いまのが、吉備王か」
アギトがゆっくりと近づいてきていた。森射の背後にたち、早駆ける馬の一行を見下ろしていた。
「なぜ、そんな悲しそうな顔をするんだ」
アギトがどこか遠慮がちに聞いた。
森射は視線を向けずに言う。
「私のなかの罪を思い出しているからだ」
「罪?」
その言葉に、アギトもまた己の罪を思い出したのか、重く口を閉ざした。
しばらくしてから、戸惑うようにいった。
「なぜ、おまえの髪はそんなに赤いのだ森射。おまえほど赤い髪と目をした者に吉備ではまだ出合わない。なぜみなおまえをそう特別に扱う」
憧れのまなざしをむけ、慕うように甘え、特別な人間だといいながら、どこか一線をひいているのがありありと見てとれる。
森射のなかにひそむ、異邦人である部分をまるで畏れて、刺激しないかのように扱っている気がする。
「森射、おまえは……おまえの罪とは、何なのだ」
森射はアギトをふりあおいだ。
その目の赤さが燃える火焔のように赤味を増していった。
そこにあるのは深い悲しみなのか後悔なのか。ただそれはあまりにも輝きがつよすぎて、普通の人間の相貌とはかけはなれすぎている。
「私の赤い髪は嫉妬に焼かれた罪の証。私のなかには、燃える熱い血潮が流れている。私は……それを抑え切れなかった愚かな子供だ」
「森射?」
アギトは無意識に森射の細い肩に手を回そうとした。それより早く彼の手をはじき、燃えるような眼をして睨みあげる者がいた。
イサナだった。イサナは無遠慮に森射の心を犯そうとすることに怒っているかにみえた。
それを押さえたのは森射だった。
「いいんだ、イサナ。アギトも、きっと知っていたほうがいいんだろう……なぜかそういう気がするんだ」
「森射っ?! 」
イサナはなぜ、と問うように森射に目をむけた。けれども、いつもと同じように、彼はそれ以上問わず、口をとざした。
イサナの心からの信頼と愛情の込められた視線に、森射は慰められるような笑みをむけた。
こういったときの二人のあいだには誰も入れない。アギトだけでなく、みないつもそう思わせられる。
イサナの、この森射に対する言葉にはならないような強い思いはなんだろうか。なぜか負けたような気持ちになってしまう。
「ついてこいアギト、見せたいものがある」
森射はそういって、アギトを山のほうへと招いた。
アギトはどんどん行ってしまう森射を驚いたようにみていたが、あわてて遅れまいと、そのまま後を必死でついていった。
――神仙境。
まさにそこは、その不可思議な言葉に相応しい場所。人の出入りのまったくない、閉ざされた空間だった。
選ばれた者だけが入出入り許され、そこにある真理の小石を握り、叡智を得ることができる特別の場のようであった。
多分、森射がいなければ、二度とここへ来ることはかなわないだろう。また、人界へと戻ることもできない。
吉備の最も大切な、深層の聖域であった。
空間のもつ重みがすでにちがっており、ピリピリと肌を刺激するような緊張感がある。新たな侵入者をうかがうようになにかが取り囲んでいる。
森射のかたわらには警戒するようにイサナがぴったりとくっついていた。
離れようとしなかった。アギトにすら、隙をみせないほどの気を、なぜか張りつめさせている。
その場所に足を踏みいれたとたん、空気が一変した。
強い波動にあふれ、エネルギーが空気に対流の渦をおこし、あわただしくうごめいているのが見えてきた。
もしそこに隠されてある、本当のものがアギトの目にうつっていたなら、どれほど驚嘆の声をあげただろうか。
複雑な文様を描いた魔法陣が天空にはりめぐらされていた。まるでなにかの強い思念をこめられた呪符のように、ほそくたなびく紗羅の織物の繊細えがきながら、強力に、吉備全体を覆っている。
まる膜のようなものだった。
アギトは森射がみている先を目で追い、それに気づいた。
おもわず息を飲みこむ。
人であった。
吉備の全体を見下ろせるかという岩壁の先端に、結跏趺坐のかっこうのまま、ミイラとなっている男のすがたがあった。
まるで生きているかのように吉備の国をみつめ、営々と受け継がれていく時の流れが永遠であることを祈念しつつ、しずかに見守っている。
この場にうずまいているエネルギーのすべては、なんとそこから放たれているのである。
彼の腕は、まるで誰かを抱きしめんとして広げられたかのようにみえた。
アギトは全身がガクガクと震えてきた。
その男の前に、正気で立っていられる者がいるとは思えない。それほどまでに強い思念を放出し、なおかつ愛情と厳しさで、大地の父のように見守っているのだ。
怯え立ちすくんでいるアギトを後にのこし、森射はいともかんたんにそのミイラの前に進み出ていった。
なんともいえない顔でみつめる。
まるで愛しい恋人に久しぶりにでも会うように、目をほそめ、表情がかすかにゆれる。
「温羅……」
そっとその名を呼んだ。放出されていたエネルギーがふわりと優しさに色づくようにかわっていった。
まるで森射だとわかったかのように空間が和ぐ。
「逢いにきた温羅、十八年ぶりに――」
森射はまるで幼い子供のような顔になり、感情を必死でおさえようとしているようにみえた。
それだけで、彼に会うということが、森射にとってはどれほどつらいことであったかが、すぐにわかった。
幼いころの傷が、彼に会うことで再びひらき、かきむしられて血が流れているのだ。
「温羅――まさか、あのっ?!」
アギトはその名前に、一呼吸おくれて反応した。あの伝説の戦士が、このミイラだというのか。
「温羅が、なぜ、こんな……?」
埋葬されもせず、生前の姿をのこしたまま、いまだ吉備を見守っているのだろう。ミイラと化してまで、彼は何を守ろうとしているのか。
おもわず一歩踏み出したアギトは、驚き足を止めた。腰に佩いていた備前刀が大きく輝き出した。
「な、なんだ、なにが起こったんだっ?! 」
「温羅の霊気に、備前刀が呼応しているいのだ。おまえを歓迎しているのだよ、アギト」
森射がふりむくと、表情をみせずに言った。
「俺を歓迎しているだと?」
何故、と言わんばかりに眼をむいた。無意識に刀をにぎり、束を抜きはなつ。
「おまえは吉備の人間だ、アギト。どのようにしてかはわからないが、おまえには、たしかに吉備の血が流れている」
「そんな訳がないだろう!俺はヤマトの人間だ、れっきとしたヤマト王家の者だぞ」
自分の素性を疑われたように、アギトはおもわず興奮した声をはりあげた。
たぶん今はっきりヤマトのものだと宣言したことにすら気づいていないだろう。
「おまえがヤマトの人間ではないといっているのではない。ただ吉備の血がながれている、と言っただけだ。刀がおまえに応えている。今はそれだけでいい」
森射は興奮をなだめるようにいった。
光がおさまると、アギトの目にも、ここがどういう場所であり、温羅がどんな存在なのかということが漠然とだが、見えはじめてきていた。うっすらと、吉備をおおう結界さえみえだしている。
「まさか……彼が、この結界の元だとでも?」
信じがたいことではある。たった一人の人間が。
それでも疑いようがないほどの力は、たしかに彼から発せられているのだ。
即身仏と化し、すべてのエネルギーの流通をうながして吉備を――ひいては本州全体を、魔の侵入からふせぐ楯となっている。温羅こそが結界をはっているのだ。
「これはどういうことだ、森射」
温羅のという名前は、それこそヤマトにさえ鳴り響く勇士のものであり、畏怖されていた。
いまでこそ吉備はヤマトに隷属しているが、一歩間違えば、ヤマトこそがその立場に甘んじていたかもしれない。それほど恐れられた知略家でもある。
その男がミイラとなりはて、いまだ吉備を守っているというのだ。それは、なにゆえのことであろう。
一体何があったかと問うような視線をなげかけるアギトに、森射はめずらしく困惑するかのように言葉をとぎらせる。
だが強く表情をひきしめると、玲瓏な双眸を天にあげてから、アギトをゆっくりみた。
「私は――天地に定められし法則を犯したのだ。輪廻の環を、わけもわからず玩具にしてあそんでいたのだ」
「輪廻の、環?」
聞きなれない言葉を疑うように繰り返した。
「あのころ、まだ私は幼かった。とはいえ母に禁止されていたにもかかわらず、生命を遊びの道具としていたのだ。私は知らず知らず、反魂の術を――言霊を操っていた」
「反魂――?あの、死者を生き返らせるという、あの邪悪な術のことか」
いいかけてアギトは言葉をとめた。
そんな馬鹿な話がありえるわけがない。お伽噺にでてくる夢物語ではないか。
だが森射の表情は真剣に張りつめていた。彼女の瞳に映っているのは、真実の悲しみだけ。
「私は知らなかった。なぜ母がその歌をとめるのか。なぜ、死したるものを生き返らせてはいけないのか。……それは生命のながれを無視した、不調和の行為だったのだ。歪みは新たな歪みをうみだし、その波動を感じとった邪悪なるものをも、また引き寄せる結果になってしまった」
悪の想念が悪をうみ、呼び寄せるように、生命の法則を歪めた波動は、生に執着する異次元の悪魔もまた、森射のもとへ呼び寄せてしまった。
「眠った者が、またふたたび目をさますぐらいにしか考えていなかった。私の歌に――それだけの力があるなど思ってもみなかった。だから私は母や温羅の言うことをきかず、無邪気に死した魂を呼び起こし、よろこんでいた」
幼い少女は、ただ友達の小鹿と遊びたかっただけだった。
きれいな角と黒い宝石のような瞳がたまらなく大好きで、また見たくて、永遠のわかれを告げたはずの魂さえを呼び寄せてしまった。
目覚めてくれるように願い、遊ぼうと呼びかけただけのつもりだったのに。
「私の歌と思念は、黄泉の魂とともに、悪魔をもよんでしまった。邪悪なる悪魔は私を連れさろうと魔手をのばし、それをかばった母と、温羅が――逝ってしまった。命を賭し、二人は身をもって私を守ってくれたのだ。闇をしりぞけはしたが、ふたりは二度と、目覚めてくれなかった。私を守るために、かけがえのない大切な命を、みなにとってもだれよりも重要で尊い命を、奪ってしまったのだ」
森射の瞳からとめどない後悔のなみだがあふれ落ちた。
哀切にぬれる赤い瞳が、懺悔の涙にくらくゆらめき、おのれの消せぬ重い罪に心が傷んでいた。
頬にながれる宝玉のしずくは、哀れというよりは、流麗すぎた。
温羅と楪は、死の王からの攻撃をかわし、森射をまもるために、凄まじいエネルギーを身にあびてしまった。もともと繊細ではかない楪のからだは抱きとめた温羅の腕のなかで、元素崩壊をおこし一塊も残さずにきえてしまった。
それと同時に、母はつよい愛情を空にまきちらし、無限にまで高まった生命エネルギーで、次元にできたほつれ目を塞いだ。闇はその『ほつれ』から入り込んでいたのだ。
そして温羅は、楪を抱いた格好のまま、邪悪な悪魔を二度と入りこませないよう、自らの思念と魂で、葦原の国のつつうらうらにまで結界をはりめぐらせた。
その守りは今にまでいたっている。
森射は、服のそでをまくり、彼女の腕にのこされている指の形をした筋をみせた。いまさっき誰かに強く握られたような生々しい跡だった。
「悪魔が私につけた約束の印だ。やつはふたたび私を連れに来ると言い残し、去っていった」
温羅の魂魄がきえてしまう直前に、この場所に自分の体を据え置き、封印となすようにいった。
「だから私はいまなお温羅に守られている。温羅は、愛する吉備を守りつづけるのだ。きっとこれからも、眠りについた吉備の神が復活するその日まで、ずっと」
アギトは呆然として聞いていた。
森射がそのようなモノを背負っていたとは考えもしなかった。
光の中だけで生き、生命に愛され、慕われ、そして守られてきているのだと疑いもしなかった。
光と愛につつまれた華やかでまぶしい人生は、人のそしりも嫉みもしらず、正しい道だけを歩んできたからこその高慢であると思っていたのに。
だからこそ、あのように自然に愛され、神のごとくに美しくいられるのだと――。
「大自然の理もわきまえず、生と死の流れをみだした罪を背負って、私は生きている。闇は私の半身であり、この赤い髪がその証そのものなのだ」
森射はかみしめるように言うと、ひとつ呼吸をした。
「私の赤い髪は嫉妬に焼かれた罪の証。おろかな私を守るために、母と温羅は死んだ――なのに、なのに私は……それでも、愛する温羅にだかれて死んだ母を羨ましいと思ってしまった。その腕のなかで温羅の愛をうけて逝った母を、羨ましいと、いまでも……思っている」
楪の、言葉にこそしなかった思いを知っている。
彼女がどれほど温羅のことを慕っていたか。いや、たぶん愛していたのだろう。森射の幼いながら、女の直感はみぬいていた。
そしてそんな母を幼いころから見つづけていた森射もまた、彼を愛していた。
父のごとく、いやもっと深く大きな無償の愛をくれた温羅を、どうして愛さずにいられよう。
いまとなっては、それが父を愛するようなものだったのか、または男を愛する女のものなのかはわからない。
けれどどんな愛だったにせよ温羅を愛していたことにはかわりない。
楪にも負けないほどの激しい情熱のもとに、ひとりの男として、温羅だけを見つめていたのだから。
「私は母がうらやましかった。子供の目からみても、美しいと思わざるをえない母がうらやましく、憧れずにはいられなかった」
言葉の奥底にどんな激しい感情が眠っているのか。
静かで、穏やかすぎるほど表情をみせぬ感情の下には、まるで嵐のように猛々しい龍が眠っていたのだ。
もしそれがいったん目覚めれば、その激流をおさえることはできないのかもしれない。自分の中の激しさをしっているからこそ、森射は懸命に抑えてきた。
アギトは森射がやっと人間にみえていた。
森射は、普通の女なのだ。
生きて、怒りもするし、泣きもする、ただの人間の女性だ。
特別な存在だと思っていたのは、そう自分たちが見たいと思い、そうあって欲しいと望んだ幻影をなげかけていただけなのである。
彼女がどれほど深く傷ついているかとか、心を痛めているかなど、押して量りもせず、他人とはちがうように扱ってきた。
それがどんなに彼女を傷つけ、遠ざけていたか。
ただ違うのは、彼女は普通の人でありながら、その闇をうけとめたいと望んでいることだけだ。だから他者を恕すこともできるし、闇さえ理解することができる。いや、人間だからこそ、恕し受け入れることができるのだ。
彼女は夜のさみしさを、たったひとりで越えてきたのだから。
「森射は俺を助け、受け入れてくれたただひとりの人間だ」
イサナがささやいた。
「どんなに受け入れてくれているようでも、みなは、俺を異端だと思っている。そんななかで丸ごと受け入れてくれたのは森射だけだ。森射は俺の体も魂も、助けてくれた。森射の魂が俺の中に入ったからこそ、俺は絶望の淵から生き返ることができた」
アギトは、いまならイサナの言葉の真の意味がわかる気がした。
森射の思いやりと言葉は、肉体だけを生き返らせるのではない。枯れて朽ち果てようとしていた少年の――イサナの心を甦らせた。
失ってしまったはずの、人への信頼すら彼にとりもどさせ、人を愛するという心をもまた教えた。
自分もまた、そうだったのだ。
「森射を襲った影はふたたび近づきつつある。それは、倭国と決して無関係ではないことは確かだ」
イサナはなにを知っているのか、彼の厳しい眼差しは、まるでそこまで迫り来ている邪悪な悪魔の影を見ているかのように厳しくひきしめられていた。
ゴウッという地鳴りがした。
また大地がゆれはじめた。
くりかえし起こる地震も日々つよまり、彼らの戸惑いを嘲笑っているかのようだった。
温羅であるミイラの表情が厳しくなった。いやそのようにみえただけなのだが、それと同時に、天空の結界が放電しはじめ、強く厚くなるのがわかった。
結界を破ろうとする外からの圧力に耐えているのか。見えない部分で、力と力の闘いが繰りひろげられ、稲妻が走っている。
「温羅が哭いている?なぜだ……?」
アギトは驚嘆の声をもらした。
温羅は自分自身に呪術をかけ、全身全霊をこめて結界の礎になった。輪廻の枠から外れてさえ、温羅が守りたかったものがこの吉備にあるということだ。
それがなんであるのか。切なそうにみている森射の横顔に、ふとアギトは、ある語り部が暇のなぐさみに話してくれた、吉備の昔語りを思い出したていた。
「闘神温羅のかたわらには、つねに赤い髪をした巫女がよりそっていたと、そう聞いたことがある。……そしてその巫女が消えたとき、吉備はなぜか突然、ヤマトに降伏してきたと。赤い髪の巫女が死んだためとも、見捨てたられたためとも、または神の守りがなくなったからともいわれているが……」
森射の緋色の髪がフワリとゆれた。
作り物のように美しい紅玉の瞳がアギトをみかえした。温羅の傍らに立っている彼女は、まるで、その物語りのなかの、赤い髪をした伝説の巫女のようではないか。
木々がざわめいた。
森射はアギトのといかけに目をとじ、もはやなにもこたえようとはしなかった。
足を踏み入れたかと思ったそのとき、激しい放電がおきた。
火花が飛び散り、目の前が電撃でまばゆくかすんでゆく。
まるでその侵入者自体をこばみ厭うているようだった。
うっそうと繁る大樹がゆれ、空気が生き物のようにうねり襲いかかり、鋭い刃となって銀鱗をひけらかせている。
手に印を結び、真言を低く唱えながらもオズヌは、荒々しい結界に反撃をくわえてった。
なぜかその顔は怒りにもえ、夜叉のごとく歪み、荒々しい闘気に燃えたっている。
彼の目には、もはやそこへ到達すること以外なにも映っていなかった。
嫉妬で狂ったオズヌの思念が、温羅の強固な結界ですら、ゆるがし、蹴破ろうとしている。
複雑に編まれている結界のくさりの継ぎ目を断ち切り、一歩、また一歩と前進していく。
今まで彼が修行し身につけた呪法のすべてを駆使していたが、それでも温羅の堅牢な結界と思念のまえには、なかなか歩みがすすまず、苛立ちながら、歯がたたない悔しさにうなるしかない。
森射があれほどすんなり結界を通り抜けたというのに、この違いはなんであろう。
心に調和と慈しみの気持ちがあふれていれば、温羅の結界はすぐにでもぬけだせるのだ。
だが、憎悪と邪悪にそまった心では、聖地をけがす敵としか認識されない。力で反発する者は力にねじ伏されるだけである。
オズヌはそんな簡単なことにも気づけないほど心を乱していた。
ただ憎しみと嫉妬が心を塞いでいる。自分の背後にひそみ、その時をずるがしこく狙っているものに支配されてしまっている。
「なぜだ森射、この俺が何度もたのみ、その足元に伏してみても、温羅のもとへは絶対に連れてはいってくれなかった。なのにおまえは……っ!」
アギトをああもあっさりと連れて行ってしまった。森射はアギトの声ばかり聞き、かれのことばかり考え、愛情をあたえている。
まったく相応しくない男を傍に置いているだけでも腸が煮えくりかえりそうに苛立つというのに、敵ともいえるアギトを、どうして吉備の深淵部である、温羅の結界の中にまでいれるのだ。
「アギトなどに森射をわたしはせぬ」
オズヌのオーラが黒い炭のように波立っていた。彼の清浄な思考はおおわれ窒息寸前である。
――温羅の首を潰すのだ。さすればヤツの妖力をすべておまえのものとなろう。吉備の秘密は温羅のなかにすべて隠されている。森射もまた、おまえの真の力に気づき、心を改めるに違いないぞ。
なにかが何度も耳元でささやく。
行者として最高の位にまでのぼりつめた男が――いや、のぼりつめるほどの精神力をもつ男が、それゆえに、一度狂うと普通の男など足元にもよれぬ歪みをみせるのか。
それほど巨大な激しい力をもっているのに、結局は、オズヌでは一番大切なものは、いつだって手に入れられない。
そう、いつもいつも宇宙の真理は、無駄な者をえらび、なんの努力も修行もせぬ、愚かな者にその智慧をさずける。指のあいだからすりぬけて、他へと流れていってしまう。
許せなかった。
こんな理不尽なことがゆるされていいのだろうか。これほど望んでいる自分が何故にこうまでないがしろにされるのだ。
「森射め、ゆるさぬ」
愛は執着となり憎しみにかわっていった。オズヌはいま自分が何をしているのかわかってはいなかった。心の中にふきあがった黒い情念のままに動いているのみだ。
「飯縄よ、結界をくいやぶれ!」
懐にしまっていた竹筒をあけた。中から光ににた、カマイタチのような魔獣がとびだした。
魔獣は結界に触れると砕けてちった。
何度も何度もくりかえされ、ほんの一瞬間、わずかにゆるんだそこに、オズヌは呪法をくわえ全エネルギーを注ぎ込む。脂汗がつめたく背筋をしたたりおちる。
結界がほんのりゆるんだ。
その時だった。
かなり大きな地震が天をつくように起こった。背後に潜んでいた闇が、まるで外界から加勢でもしようかというように、そこへ攻撃をくりだしていった。
天空にはりめぐらされていた温羅の結界が悲鳴をあげるように激しく火花を散らし瞬いた。
触手のような繋ぎ目が、わずかにゆらいだ。
「そこだ!」
オズヌはその一点に、残るイズナをすべてぶつけた。
消滅するときに放つエネルギーが空間をひらき、隙間ができた。
彼は、自分の慈しみ育ててきた魔獣でさえ、ただの道具とし手駒の一つに殺した。
オズヌはそこを通りぬけた。
結界を越えた。
まるでそれが合図のように地震がおさまり、そして結界もいっきに霧散してしまった。
「フッ…ハハハ……ッ」
爛々と目をかがやかせ、愉悦の笑いを高らかにあげた。
吉備を見下ろすいただきの先には、温羅のミイラは座っているではないか。
「ついに会うことができたぞ温羅よ。やっと、やっと俺はすべてを手にいれられるのだ!」
オズヌは温羅をみすえ、ゆっくりと近づいた。オズヌの全身から鬼気がたちのぼり、周囲にうずまいている。
目の前までくると、オズヌはいきなりガッと温羅の頭を握った。手に力をこめた。
オズヌの全身の細胞という細胞をくい破るかというような激しい力がかけぬけた。
荒々しい熱の牙が五臓六腑を食い破り、毒に焼けただれて、まるでなにもかもが変性されるような苦しみと息がつまるような違和感が貫く。
この世のエネルギーではない。神のもつといわれる無尽蔵なともいえる力から、怒りよりも悲しみが、悲しみよりも哀れみが放たれていた。
「グワ――ッッ!!」
のけぞったオズヌは怪鳥のような声をあげた。そのまま白目をむきだし硬直したままエネルギーにうたれつづけていた。
グラリと温羅の首が揺れた。
オズヌがうしろに倒れた。
体を痙攣させたままピクリともしない。
その手には、温羅の首をにぎったままだ。温羅の体から首がもぎ取られていた。
ピシッピシッという衝撃音が大地をよこぎったかとおもうと、天が割れるかのような稲妻が走り、大樹が真っぷたつに割れて、黒焦げた。
風が入りこんできた。
異国からの狂い澱んだ歪みの波動が、嵐となって大地を吹き荒れ犯してゆく。
一陣の大きく邪悪な影が、まさにその時をまっていたかのように獰猛な野獣のような唸りをあげ入りこんできたのだ。
オズヌはのたうちまわり血を吐きつづけていた。己のおかした愚かさを身をもって知らされるように、まるでわずかの償いでもさせられているように体をうちつけられ、苦しみつづけている。
騙された。
影に、邪悪な悪魔に黒い心をあやつられ、思惑どおりに動いてしまった。甘言に翻弄され、利用されたのだ。
全身から毒の血が吹き出し、ひきつれたような無数の傷からは黒いけがれのような肉が裂けてみえた。いつまでも血はとめどなくながれ、みにくく屠殺された生贄のようにころがる。
頭が割れそうな痛みに絶叫した。オズヌはグワッと野獣じみた眼をあけ、おさえていた額から恐る恐る手をはなした。
角だ。角が、そこにはえている。
銀色をした固い尖りだ。
彼は手に入れた。
欲してやまなかったものだ。彼がのぞんだ、だれも持ち得ない知識と叡智と、そして呪われた血の通う肉体――。
たちあがったオズヌの全身は、先ほどのひきつれたような傷もなくなっていた。まるで再生されたようにきれいになっており、まさに、今産まれたばかりの若者のように、若返りさえしているではないか。
だが、ひとつだけちがっていた。
正しい時の流れに逆らい、欲望に負けた罪人の証だとでもいうような、かたい尖りの角が、強欲の象徴のように、額にうっそりとはえていた。
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