首を落とす夢をみた。
ずっと、もうずっと首がほしくてたまらなかった。
――百と、もう八つあれば、甦ることができる。あの忌まわしい封印を破りすてることができるのだ。
早く殺さねばならない。
いや、殺す。必ず殺してやる――。
赤い苦しみの血がながれ、つんざくようにあがる悲鳴には、恐怖と憎しみの暗い思念が凝縮されている。よりつよい力、ダーク・パワーを、あのものに与えることができるのだ。
血がみたい。
美しく流れるあかい血に手をぬらし清めたい。
アギトはたまらなくなって布団からとびだした。
どこから流れこんでくるのかわからない嫌な思考だった。アギトの心の奥底までかきみだし支配しようとしている。
だれのものかもわからないのに、彼のなかは熱く沸きたち、狂わんばかりにふるえている。
みだらな思いは振り払おうとすればするほど、大きく熱くなってゆく。
時折、疲れはててしまい、その黒い激流にすべてをゆだねて身を任せてしまいたくなることがある。
いっそ何もかもをなげすて、この恐ろしい感情そのままに生きてみたらどうだろうか。ふと、恐ろしい考えがうかびあがり、止められなくなってしまう。
けれど決まって、体のどこかが否っ、と叫ぶ。
そうではない、それは違う、ときびしく諌める。
その感情に負けてはだめだとアギトを叱咤し、そんなことのために生まれてきたのではないのだと、厳しくしかる。
アギトはそれにすがりつき、ひっしで闇をおしのけるのだ。
一度だけ、美しい女神とおぼしきひとが泣いている夢をみたことがあった。あまりにも印象的で忘れられない。
赤い髪をした、身も心もとろけてしまうのではないかという優しげで清らかな美しい女性だった。
その美しい人は、アギトをみつめ、涙をこぼしていた。
しずかに頬につたう涙の美しさに、魂ごとぬきとられ、心の中がからっぽになって、ふきあれていた凶々しい炎までもが消えてゆくようだった。
今思えば、それは森射にも似ていたような気がする。
だが、もはやそんな夢もみなくなってしまった。
胸の中にいる黒い生き物は、なぜか日増しに強くアギトを支配しようともがき始めていた。
こんなに人を殺したいと思い、首を欲しがっている自分が恐ろしくてたまらなくなる。
誰にも言うことはできない。それは自分が異端だと告白するようなものであり、蔑視され、排除されるのと同じことなのだ。
――殺せ、おまえの欲望のままに。おまえの血が欲するままに、首をあつめ捧げるのだ。
呪いいざなう声。
アギトは耳をおさえた。
自分からはどんなにしたって逃げられない。わかっているが、それでもそのおぞましい声から逃れるように、ちいさな部屋から這いだしてゆく。
静かな空間がたまらず、おしつぶされるような心地がして外へと走りにげる。
――殺せ!
声は消えない。
――殺せ!
耳につきまとう。
アギトは誰かを殺したくてたまらなかった。手がただれて燃えそうだ。
「助けてくれ、だれかっ」
アギトは苦しげに天をあおいだ。
赤い髪をしたあの美しい神様に会いたい。この血のたぎりを清浄なる涙でおさめて欲しい。
「だめだっ、このままでは――本当に誰かを殺してしまう!」
アギトは自分をどうにか抑えながらヨロヨロと森へ入っていった。
どうあっても、森射たちを――吉備の者たちを傷つけるわけにはいかない。
自分を信じ、身許さえも問わず、黙って置いてくれている。あれほど信頼してくれているというのに、その期待を裏切るわけには絶対にいかないのだ。
「森射たちを傷つけるぐらいなら、死んだほうがましだ――」
死、という言葉は、甘くアギトのなかをかけめぐる。
ざわざわといういかめしい木々のざわめきすら、さざめく誘惑の嵐のように聞こえてくる。
昼間みる森とは、まったく違っていた。
もつれあうように枝をのばし、鬱蒼と繁った木の葉が、アギトの心に棲むおそろしい生き物を映しだしているようにみえた。
「俺に生きている価値はない……。俺は、最低な人間なんだ。なんの罪もない明須葉を傷つけた。まして生まれて来るはずの子供を殺してしまった。医師の首をはね、血をよろこんで浴びていた……俺は、狂っている……狂って…いるっ」
魔界の帝国が、禁断の扉をひらいたかと思うような漆黒の闇がおしよせた。
大蛇となって、ぬめる影をおとしながらアギトにからみつき、まるでとりこもうかというように、頭上で邪悪な口をおおきくひらき、怯える魂を食いちぎらんと毒の息をはく。
アギトは目を閉じた。
これで終りか、と思った。もう、なにも考えられない。
闇が大きな牙をひらめかした。喉を食いちぎらんとした。
そのときアギトの目がカッとひらかれた。
荒々しいが清浄で高貴な光をたたえた瞳に、影がおもわずひるみ、アギトの呪縛をゆるめた。
いきなり、アギトは凄まじいはやさで歩きはじめた。
闇は細かな糸のようになってアギトに絡みつきひっぱってはいたが、彼はそれをものともせず、急速な足取りで歩みをすすめていく。
闇は切れ切れになってちってゆき、みるみる薄れていった。
いつのまにか小走りになっていた。そして次第に速さをまし、とうとう最後には必死で走っていたのだった。
闇はいつのまにか霧散され、夜へとかえっていた。
アギトはそんなことにも気づかず、ただひたすら、ひとつの明かりのほうへとむかいひた走っている。
小さな点かと思われるようなわずかな光が見えてきた。本当にそれが光なのかどうかもわからない。
けれども、アギトはそれでも追わずにいられなかった。たったひとつの残された希望とでもいうように、吸い寄せられているのだ。
たとえ幻でもいい。
それしかもうアギトには残っていないのだ。
昏く恐ろしい森をぬけると、空間がまるくひらけた。うっそうとした木々がその部分だけ、すっぱりときりとられていた。
そこを照らしださんが為だといわんばかりの月が、天空の頂点にのぼり光を爛々とおとしていた。
目の前にあるのは、環状に石を組んだ不思議な呪物――ストーンサークルだった。そこから莫大な力が放出されているのがみえる。
月明かりとエネルギーがあいまって、エネルギーの光が温泉のようにふきだしていた。海底のように空気がゆらめき、月の波のさざめきが光を跳ねる。
巨石のなかにいた人影に目が釘付けられた。
森射が膝まづき、手をくみ祈りをささげている。
風もないのに髪がゆらぎ、優艶にたなびいている。
これ以上ないというかにみえる無限の力が、場の空全体にひしめいていた。
あまりにも膨大で、巨大すぎて、人の目にはもはや風のようにしかみえない。全世界のすべてを覆ってなおあまりあるほどの力である。
森射はそれに身をまかせていた。まるで川の流れに身をゆだね、ゆくべきところへ行こうという自然の小石のようだった。
人間よりは森に近い存在であろうか。
アギトはあらためて気がついた。
星を読み、木々と語らう彼女の姿には、いつも自然がそばにあった。
もはやそんな彼女になれているつもりだったのに、いまそこにいる森射の姿は森そのもののようではないか。畏敬の念さえ覚えてしまう。
森射が目をむけた。
アギトをみるその瞳は、なぜか胸がいたくなるほどの悲しさに満ちていた。闇におびえ固まっていた彼の心さえゆさぶった。
彼女からあふれ出している、温かく安らぎにみちた小宇宙につつみこまれてゆくと、意識が心地よさにひらかれてゆく。
「アギト、闇は私たちの一部なんだ。人は光の中だけでは生きられない。闇があるからこそ、陽の光の輝きが理解できるのだ」
「森射……?」
「闇があってこそ、光が存在する。光のあたたかさは生命を産み、そして生命は至福だ。すべての命は貴くて愛しい。なぜならそれは闇に燃えあがる光だからだ。そして、光はいつしか闇に帰る。どんな美しい光であってもみな等しくそこへ向かう。だからこそ、私はおまえの命と、心を深く愛している」
まるでアギトが、闇の誘惑にまけて、身を任せてしまおうとしたことを見ぬかれているかのようであった。胸が苦しくなり、思考が混乱する。
安らぎがうそのように消えた。
かわりに、怒りにもにた苛立ちが煮えたちはじめた。
森射の前ではいつだって安らぎと焦りが混交してしまう。
産着に包まれたような優しさがあるかと思えば、その心地よさに留まり続けることをゆるさない厳しさがある。背中を押され、前進することを強いられるような苛立ちに、いてもたってもいられなくなるのだ。
アギトは、いつだって己の未熟さを恥じていた。
王としての責務を放棄して逃げだし、いまなお、心の闇を払うこともできずにいる。どうするかも決断できない無責任さと優柔不断さに焦燥している。
それを非難されているようで、アギトの目にはいつも、超然としてみえる森射の姿は非常に重苦しい。
女ともおもわれぬ行動力と叡智こそが、おまえにないものだと嘲笑っているようにみえる。資質のちがいを突きつけられているようで心おだやかでいられない。
だからといって、たやすく逃げ出してしまえないほど、森射には惹かれすぎていた。憎しみと、それ以上に慕わしく熱い感情が胸にうずまき、振り払うことができない。
「……ここでなにをしていたんだ、森射」
アギトは自分の思考をふりはらうかのように声をだした。紅い瞳に酔ったように目眩がしていた。
「こんな夜更けに、こんな山奥でなにをしているんだ?」
「祈っていたんだよ。吉備の――この葦原の中津国すべての平安を」
「平安――?」
「感じているはずだろうアギト。目に見えてはいない部分で、たしかに何かが起こりはじめている。時がこんなんも不安におびえている。すべては刻一刻と変わりつつある。昨日のおまえが今のおまえではないように、世界もかわりつつあるのだ」
森射の目はどこを見ているのか。
アギトよりはるか遠いかなたに向けられている。
「ここは吉備に流れている竜脈の上だ。膨大なエネルギーが流出している場所でもある。石の力をあつかえる神世の巫女たちによって、各地に敷かれているという、ストーンサークルのひとつだ」
何から守るために、そのように広大な結界を、しかも全国各地に敷いたのだろう。
まるで蜘蛛の巣の網目のようにめぐらされたそれは、あたかも異次元からの侵入者を防がんがための防御機能でもあるかのようだ。
吉備にも幾つかあるが、そのうちの一つであり、最大級のものがこの場所だった。
「この石の布陣は宇宙をあらわしているといわれている。それは人の心のなかにある小宇宙と呼応し、力を漲らせてくれる。――だがどうもここのところその力が弱まっている気がするんだ。まるでこの結界石が意図的に壊されているような、そんな気配がしてならない……」
各地の異変は、もちろん吉備にも影響を及ぼしていた。
たとえ吉備のストーンサークルがかわりなく健在でも、竜脈はつながりあい、地球のエナジーを調整している。他所に滞りがあれば、必ず変化があらわれてしまう。
「ここの磁場は力をあたえる。けれど良くも悪くも働き、闇に棲まうものたちの力さえ増幅させてしまう、という欠点ももっている。――アギト、どうやらこの土地の布陣は良くおまえにあっているようだな」
「おまえの言っていることは、よくわからない森射」
じれたように言うアギトに、森射はかるく頬をゆるめた。
「いいや、ちがうな。肉体のおまえは分かりたくないと思っているが、精神のおまえは、もうずっと以前からこのことを理解しているはずだ。ただ、恐怖心が受け入れることを邪魔しているだけだ」
まるで、逃げつづける卑怯者の臆病さを笑われたようで、劣等感が刺激され頭にカッと血がのぼる。
「――俺を馬鹿にしている気か森射?!」
「何を馬鹿にすることがある?そうではない。いうなれば、目を開かぬ子供だ。だれでも持つ感情なのだ。その目が開かれる時がくるならば、神の存在はすぐにでもみえてくるだろう。神はわれわれのすぐそばにおられる。この山や川、人々のすまう村里にだって神はそこにいるのだから」
「神が、すぐそばにだと?」
「そう。そして地上には、かつて、いたるところに森があり、その恵みをうけて人間は累々と生命の歴史をくりひろげてきた。森には命があり、神がいた。そしてその恵みを受けているのはなにも人間だけではない。鳥も獣も昆虫も、すべての命が豊かな緑の営みのなかで生きている。彼らは人間のよき友であり先達でもあり、人を導いてきたのは彼ら自然なのだ。ただ人間だけが、いつまでたっても目をあけようとせず、赤子の愚かさをふりかざし、踏みにじっている」
森射の姿が、森に同化し、透けているかにみえた。まるで、アギトをだまそうとする精霊のようだった。
「闇と光でできた人間を、森は慈しんでくれた。森を荒らしても、怒りもせず、ただ愚かなわが子をそっと悲しみ、身を与えながら、子らが向おうとする、行く先を案じている。今こそ目をひらき、赤子であることをやめなければならない。赤子の甘えで自然を殺しては、生きてはゆかれない。それに気づき、手をとりあって全てといっしょに、生きてゆかねばならないのだ」
「では人間は、自然が望む方向とは違った道へと進んでいるというのか。ならばどうせよというのだ。人民はますます増え、領土は不足し食料さえままならなくなる。富を羨むあさはかな者は他人の富を盗み、いさかいが始まって秩序はみだれてゆく。無益な戦いがはじまるのを、誰かが終わらせねばならない。国を一つにまとめ、明確な秩序をうちたてて、指針をしめしてやり、救いの手をさしのべねば、人々は同じ方向をむかぬのだ。進歩と発達のない文化は、よどみ荒廃してしまうだけだ。つねに前へ進まねば人は終る」
各国への侵攻は、なにも己の利益のみを追求してのことではなかった。
たとえ、一時的にせよ、そのために豊かな森を焼き、田畑をあらして焦土と化したとしても、すべては明瞭なる未来のためである。
だが反面、たしかに欲望にみちたくらい部分もあることは否めない。
掌握した国を、より強固に支配するために、政策として女たちを犯すことを許し、子を産ませたりもしている。
「所詮、おまえにはわからない。血にぬられた王者の道のことなど。孤独も苦しみも、そしてそれを面に出すことも許されない。息苦しささえも王にあってはならないんだからな」
アギトはギッと森射を睨んだ。
「おまえのように、王家の血をもちながら自由にふるまい、人々に慕われ、さらに驚くべきほどの霊力をもっている者になど、俺のこの胸の思いなどわかりはしないだろう。俺は多くの屍をのりこえてきた。そうだ、悪魔だ。きっとこれからもまだまだ殺してゆくだろう。それが俺の人生。血に塗られた生き様だ。だが決して後悔などしない」
ブワッと霧散していたはずの黒い影が四方からアギトへ向かって吸い寄せられた。
ふたたびアギトの背後で膨れあがり、磁場を得たかのようにその黒さをましていった。
「アギト……」
環状の石のエネルギーに、激しく闇がゆれていた。
「おまえにはわからないさ、森射。妻を殺したも同然に傷つけ、腹の子まで流させた俺のなかの狂気など、わかりはしない。愛しいと思っていた者どもの首を欲し、血を望む夜叉の心のつらさがどれほどのものか。暗黒の心に日々むしばまれ、苛なまれなければならない、この苦しみがどんなものか、恵まれたおまえにわかろうはずもない」
「それは、ちがう。人はだれだって他人にはわかりえない苦しみをもっているものだ。苦しみは比べるべきものではない。アギト、激しすぎる感情はいつかおまえを滅ぼすだろう。みんな二つの感情のなかで生きている。ただ、それは魂が惹かれている方向が、問題なだけなのだ。本当におまえが望んでいるのは、もっと遠くて美しい、高みのきわにあるものではないのか?」
「きれいごとばかりでは生きてゆかれぬ!俺はおまえが嫌いだ。俺の心を無理やりこじ開け、闇をつきつけるおまえなど、大っ嫌いだっ!」
アギトの目には膜が張ったような闇がぬめっていた。黒い霧がアギトにからみつき、まるで力を吸い上げているかのように脈打ちだしている。
「おまえなど、死ねばいい……。森射、おまえの血は、本当に赤いのか?」
森射は、首をふった。
「アギト、目を覚ませ。そんなものに心を明け渡してはいけない。言霊はおまえを傷つけ支配するだけだ。おまえ自身の意思でそれを振り払わなければならない」
アギトの頬がわずかだがヒクリとうごいた。
だが殺気は弱りもせず、足が草のうえを這うように進んでゆく。
森射は動かなかった。
闇がヌウッと不気味な触手をのばしてきた。
それがピタリととまった。
「それ以上森射に近づけばおまえを殺す」
いつわりも気負いもない鋭い殺気の声。
――イサナだ。
わずかでも近づけば、本当にアギトを殺す。彼にはいささかのまよいもない。
「イサナ!」
アギトのうめきに、森射が目を大きく見開く。
「アギト、おまの背後に巣食うものは森射を穢す。――はやく、この地を去ってしまえ。森射をわずかでも苦しめるものは、なんであろうと許さない」
体中の細胞が沸騰するような熱が背後からアギトを襲った。
イサナの剣はかまえられたままで、どこも触りもかすりさえもしていない。ただその声音のみがアギトの意識をおさえこみ、ギリギリとしめあげ肉を怒りに焼いてゆく。痛みを感じさせているのだ。
意志とは無関係に、体のみが動きだすのにアギトは恐怖をおぼえた。
森射のまえから一歩一歩後退してゆく。額を冷たい汗がながれおちる。
恐怖のあまり、アギトは足が進むほうへそのまま走りだした。それと同時に自由がもどったような俊敏さで闇に消えしまう。
「森射――」
イサナはそれを見届けもせず、森射にかけりより気遣うようにそっと抱きしめた。
森射は熱いイサナの思いを体にうけ、冷えていた体温をとりもどしながら、瞳だけは、心配げにアギトの去っていった方向を見つめていた。
その美しい顔の視線の先を、イサナもまた追う。
森射とアギトのあいだだけにある、特殊ななにかをイサナだけはせつなげに感じとっていたかのようであった。
火見華のもとを訪れた森射とちょうど入れかわるようにして、王宮からの使者とおぼしき者たちが部屋を出ようとしていた。
いかにも頑健そうにひきしまった面の男たちは、森射を目にすると、ほうっと感嘆の吐息をもらした。
どの顔にも、それぞれ彼女の美しさへ畏敬の念があり、目を奪われずにはおられないかのようでありながら、一方ではひとならぬ美貌に、言葉ではあらわせない不穏の影を感じているのがわかる。
一人の年若い青年は、これは初めて森射に会ったのだろう、魂を奪われたようにぼうっとしていた。あまりぶしつけに見ているのに、同僚にこづかれて、あわてて深々と頭を下げた。
敬意をしめすように頭をさげたその中のひとりに、森射は見覚えがあった。吉備王、真人の側近であり、もっとも深く信頼されているといわれているかど葛野という男だった。
彼とは何度か面識があり、王とおなじ年齢の、壮年のひじょうに逞しい武人であるとともに、それ以上に学識豊かで、祭事にくわしい博学者でもある。事細かな配慮をもって、王を側面から助けているのだと内々に聞いていた。
葛野の誠実な人柄と思慮深さは、その温和な面持ちからもにじみ出ていた。
森射が足をとめ挨拶をするよりまえに、葛野が森射のまえに、まるで王にでもかしずくかのように膝をつく。
「葛野殿、こんなところでお会いするとはめずらしい。いったいどういうご用向ですか」
「ちょっとしたお使いでございますよ」
顔をあげ、微笑む。
「森射様にはいつもお変わりなく元気そうで安心しましたよ。たまには王宮のほうにもお越し下さいませ。でないと王が、森射様がなかなか顔を見せに来ぬと、いつもぼやいてうるさくて仕方ありません。そのお美しいかんばせを見せて、お忙しい王のお心をなぐさめてさしあげてくださいませ」
「王にはいつもなにかと微にいり細にいりお気をかけていただき痛み入っております。機会があればお邪魔いたしましょう。どうぞ真人王も、いまとかわらずお元気でつつがなくお過ごしあそばすようにと、申し上げてください。――ところで、なにやらせわしそうですが、どうなされたのですか」
森射でなくとも、疑問に思うに違いない。
人をたずねるにしてはかなりの早朝であった。
太陽がようやく昇り、まだ朝の清澄な空気がたなびいている。しかも王の側近であり信任の深い臣下がみずから訪れているのだ。
なにも葛野が祈りの宮へくることはめずらしいことではなかった。火見華が王宮に出向くこともあるし、迎えにもくる。ただここのところ彼自身が頻繁な出入りをくりかえし、日参に近い状態のあげく、この時間である。
必要とあらば森射は、火見華からどんなことでも聞くことができる。ここで、火見華が森射にたいして秘密にするようなことはほとんどない。葛野はそのことも知っていて、あえて聞いてくる森射に、参ったとばかりに苦笑する。
「もうご存知でしょうが、このところ各国でのただならぬ不穏な動きがちと気になりましてな。何かのまえぶれではないか、なにものかの陰謀ではないか、と真人王は、非常に危惧されておられるのですよ」
「たしかに、王が心配されるのも仕方がないでしょうね」
「ヤマトの侵攻もまた、再び始まりだしているようですしね。まあ、それはすでに予測されていたことだったのですが、今度の侵略は、いままでになく激しい――というか、残虐であまりに無慈悲な行いがすぎるのですよ。いままでのヤマト王のなさりようとは思えぬ非道なふるまいが目につきましてね。このままの勢いで侵攻がすすむと、いまに全国を滅し、恐ろしげなことが起きてしまうのではないかと恐れているのですよ」
「ヤマトの、侵攻?」
森射は表情をわずかに動かした。
王が不在だというのに、そんな重要な決定がおこなわれ、また実践部隊までが動き始めているのか。しかも熾烈をきわめる残虐さであるというのは、一体なにがあったのだろう。
「なんでも聞くところによると、新しい巫女が突如あらわれ、今まで不在としていた巫女姫の座についたとか――。その女はものすごい霊力をもっており、神事をとりしきるだけにあきたらず、ヤマトの重臣たちを色香にまよわせ、争いごとを焚きつけ、荒々しい戦いをおし進めている、ということらしいのです。それに若い兵士たちや、ごろつきまがいの荒らくれどもが煽られ、巫女姫を狂ったように心酔して支持をし、いまが絶好の機会だと、戦いをくりひろげているそうです」
葛野は、だがなにか腑に落ちないとばかりに渋面してつづける。
「それにしても、妙な話ですよね。呪術をことのほか嫌っていたあのヤマト国が、そんな急に巫女をたてるなどとは……。というよりも、ポッと出の巫女などに踊らされているという、その異常さがわからぬことが、異常なのですよ。端でみている我らですら気づくというのに、ヤマト王や重臣たちにわからぬとはとても思えませぬ。ヤマトがなんらかの異様な状態であることは、間違いないでしょうね」
首をひねるのに、たしかにそうでだと森射も訝しげにうなずいた。
得体も知れぬ者が、王の不在をつくようにして不意に現れた巫女の座についた。しかもどうしてヤマトほどの強国が、あれほど馬鹿にしていた巫女などに、踊らされなければならないのか。
これからますます成長していくだろう活動期に、そうそう不用意に、呪術など受け入れるはずがない。
巫女の魔力に取入られた王が、無茶苦茶な命令を下しているならまだしも、後ろ盾もなにもないただの女が単独で現れて巫女姫の座につき、ヤマトを配下においているという。
「誰かが後ろで糸をひいているのでしょうか」
森射は考え深そうにいった。それが果たして、人間であるとはいい切れぬ。油断のない瞳がそう物語っている。
「そうみて間違いございすまいな。倭国のほうも、なにかと不穏な動きがあるらしいですしね。この時期、二つの大国の、奇妙な動きは心安からぬものがあります。そこでぜひ火見華様にご助言戴き、なるたけ吉備国が類焼を起こさぬようにとの、王のご配慮なのでございますよ。火見華様におかれては、もろもろの忙しい仕事がございますことは重々承知しておりますが、できるかぎりお急ぎになって、王宮のほうへおこしいただきたいと、王がそう申し、首を長くしておられるのです」
じれるように言う。
火見華はつい何日かまえまで、大切な儀式につかう呪器の製作にとりかかっていたため、どうしても身動きが出来なかったのだ。
王もそのことは承知していて、だからこそこうして葛野が何度も出向き、取次ぎのわずかな助言すら必要としている。
その呪器の製作は、大ババの命令によっておこなわれていた。
この斎の宮にあっては、大ババの言葉のほうが、王の依頼より強いのは、すでに知られていることである。
祈りの宮のぬしが大急ぎとあらば、どんな仕事よりも優先される。王といえどそれには従わざるをえない。目に見えない世界をみるものの深い英知にはかなわないのだ。
また吉備の自由な風潮がそうさせている部分もあった。真人王が寛大にそれを許し、それほど大ババと祈りの宮の力を必要としていた。
齢、百何年を越える怪女にそう勝てるものはそういないであろう。
「すでに王宮の方も動いているのだな。――ならば、騒乱の時はより近づいた、ということか」
時は刻一刻と満ちている。
そのすすむ道が、破壊なのか、さらなる進化なのかは、まだわからない。
火見華は禊をおえた白装束のまま、部屋から出てきた。
「お待たせいたしました葛野様。明日にはお伺いいたしますわ。呪器の製作も終り、禊もすませました。一両日中には、口寄せもいたしますので、その結果をもって王の御前に参上いたします。王にも益のある知らせとなりましょう。本当にずいぶん長くお待ちいただきましたものね」
かなり疲れている様子であったが、その美貌にいささかの遜色もなかった。また圧倒するような威厳は子供ながらも、さらに深みを増している。
「森射姉様も、お待たせしましたわね」
「火見華、ごくろうだったな」
「このような早朝から失礼いたしております。火見華様にはながの深重なお勤め、お疲れでございました」
葛野があわてたように頭をふかく下げるのに、つきそっていた男たちも膝をつき、顔を伏せる。
王の直接の使いとはいえ、彼らと対話をするときの火見華はいつも正装をし、御簾のむこうからのかすんだ姿でしか現れたことがなかったのである。
「こちらこそ、お忙しい身であらせられるのに、何度もお出向きいただき、代理の巫女でご挨拶せねばならなかったことを、お許し願いますわ。王には、わたくしの方も色々と話がございますので、お時間をぜひ頂きたいと申していたことを、よろしくお伝えくださいませ」
「たしかに、お受けつかまつりました」
頭を低くさげるのに、火見華はそれだけいうと、使者にはもうかまわず、背をむけていって行ってしまった。
彼女の仕事はまだまだこれからが本番なのである。
死者の口寄せを行うために心身を統一しなければならない。余計なことには気をつかうひまはないのだ。
「葛野殿、王には、私の方からもよろしくお伝えください。私は、真人様には返しても返し切れないほどの借りがある。王のためなら、いつでもこの命をさしだしますと――」
葛野は、その意味を知っているのか、いつまでたっても癒えぬ森射の過去をみるように、痛ましそうにふかく頭をさげた。そして敬意を表し、宮廷の淑女にするように、服のすそにくちづけた。
森射の美しい横顔が、どこか寂しそうにみえていたのはなぜなのか。
だがそのまま森射もまた、火見華のあとを追っていってしまった。
祭壇のまえに置かれていたのは、どこかの屋敷を模写したような、精巧なつくりの土器の家だった。
それは筒型の台の上にのせられており、真名石で作られた結界をはりめぐらした中央部に置かれていた。
屋敷は細部にまでわたり繊細につくられ、意匠をほどこされていた。
まるで本当に人が住んでいてもおかしくないような緻密さである。それだけの腕前があれば、職人として名を馳せることもできるであろう。
倭国から逃げてきたという、あの哀れな少年が、暮らしていただろう屋敷を、まねて造ったものだった。
彼が残した数本の髪の毛から、火見華が霊視し、奥底の記憶をよみとってつくったものである。
火見華たちの目的は、少年の魂を、ほんのいっときだけ呼び返し、話を聴くためであった。
あまり行いたくない危険な儀式であったが、緊急を要しているため、しかたがないと判断されたのだ。火見華はその呪器に霊力を込めるために、数日にわたって手をくわえていたのである。
生前がどのようなおとなしい魂であっても、霊体となってしまえば、いかようにも変わりうる可能性がある。
それでも過去を思いださせ、また呼びだせるようにとおなじ環境をつくり、話やすいように、火見華自身の霊力をも、その呪具の空間に同調させ、霊がそこに固定されやすい磁場をつくっていたのだった。
特殊な土でこねられた土器は、何年にもわたって礼拝につかった灰をまかれている場所の聖なる土をこねて、火見華が特別な祝詞をあげながら、丁寧に細工をしていったものだ。
それを吉備の神とする、火具土神の火をつかう火見華の兄、狭崎によって焼きしめてもらい、完全な霊体――この世のものではない、呪器として甦らせたのだ。
火見華は準備のととのったそれらを前にして、火を焚き、よい薫りのする香をまいていった。
紫色の炎があがり、天井から吊りさげられている幣に届くほどの渦をあげる。
弦が二本しかない不思議な琴を爪弾いていた。
この世とあの世をあらわすその弦を、交互に鳴らすことにより、二つの世界が近づき重なり合うことを可能にさせた。
繰返される単純な音に、意識がうばわれてゆき、宙にうかんでいくような心地になってゆく。
「魂よ、旅立つ霊魂よ、いま一度この場にかえりて声を聞かせたまえ」
何か響きのよいことばの羅列ともおもわせる、摩訶不思議な祝詞が流れはじめた。
琴の音は小さく鳴りつづけ、すでに催眠状態に入っているらしい火見華は、「火を見る」という名前にふさわしく、猛り狂う炎だけをじっとみつめている。
強烈な想念思念によって、霊界との回路をひらき、降りたまう魂を導いているのだ。
呼びかけていた。
この世での苦しみも、怒りも、その無念さ、その心の猛り、悲しみひとつも語ることなく、苦しむだけ苦しみ去らねばならなかった、哀れでいたましい少年の魂に、ひたすら祈り呼びかけていた。
『ここは怖い……怖くて寒くて、痛い……。ああ、痛いよう、つらいよう。……ナツメ、ナツメは、どこ?ナツメ助けて、ナツメ……』
声は、空気ににじむように、脳へ直接聞こえてきた。
孤独にあえぎ、悲しさに満ちた魂がながれこむと、屋形の土器に縦に大きなヒビが入った。
『ああ、またあの怖い人たちがやってくる。あのいやな部屋に連れて行かれるのはいやだよ。怖い……痛いよ…また体を切り刻むよ。また、ヘンなものを体に入れ……』
少年の声はさざめくように泣いた。
どうにもならない運命に、もはやあげる悲鳴もなく、死してなおいまだ消えうせない過去のおぞましい夢に、苦しみむせびないている。
消えそうにゆらいだ魂に火見華が問いかける。
「大丈夫、もうあなたを傷つける者はいないわ。ここは、あなたたちが勇気をもって逃げ出してきた異国の地。吉備よ」
『吉備……?』
「そう、わたくしたちは、ただあなたの話が聞きたくて、こちらへ来てもらったの。よく見て、ここは温かいわ。もうだれもあなたを害しはしないのよ」
空気がふるえ、ふわりと少年の体が浮かびあがった。蒼く向こうが透けて見える。
「お願い、わたくしたちは、あなたにどうしてもお話を聞きたいの。いま倭国がどのような状態になっているのか、何がはじまろうとしているのかを聞いておきたいの。もし、それがこの世にあって許されないことなら、食い止めねばならないの。もしかしたら、このままでは世界は滅びてしまうかもしれないのですもの」
『……ナツメは?ナツメが、いないよ…』
少年は火見華の言葉を聞いているのか、自分のまわりにいる森射やイサナ、部屋の隅にいたアギトたちの顔を見まわし、かなしげに首をふった。そこに彼の求める影がなかったのだ。
だが、すぐにふと気づいたように森射に目をとめた。
その顔を思い出したのか、パッと顔があかるくなり、すがるように聞いた。
『ナツメはどこなの、ねえ?』
「ナツメは、おまえと一緒にいるよ。だれにも手が出せないように、森の主によく頼んでおいたから。どんなことがあっても二度と離れることはない。よく頑張ったね」
『ナツメと、ボクは一緒なの?』
森射はやさしくうなずく。そのために一緒に埋めたのだ。
助け合い、かばいあい、一緒に逃げてきた大切な友達だった。つらい実験にも、苦しい研究にも耐え、お互いの体温で慰めあってきた唯一の支えであり、よりどころだった。
『ミラヒは?』
「ミラヒ?」
『ミラヒも、一緒に逃げたんだ。丁度実験室に、三人一緒に連れられて行って……そこでたまたま火事があったんだ。だから、やつらが慌てていた隙にどうにか逃げ出して……。ああ、そうか。ミラヒは途中から違う方向へ行ってしまったんだ。あいつは何を考えているかわからないから……だって、彼もナツメと一緒で脳をいじられたてしまったんだもの……』
「脳をいじるだと?」
ふてたように隅で小さくなっていたアギトが口をはさんだ。
『そうだよ。ボクだってもう何日もしていれば頭蓋骨に穴をあけられて、どうなっていたか――。多分、クダをいっぱい突っ込まれて、人形のようにされていたんだろうなぁって思う。ナツメはそのせいで口が聞けなくなってしまったんだもの。僕が言ってることはわかるのに、自分がどんなに思ってても、他人にそれを伝えられないんだ……。ミラヒは……可哀相に、別人のように狂暴になってしまったよ。おとなしい子だったのに。やさしい子だったのに……にまるで野獣のように乱暴でおそろしい姿に……』
「いま倭国はどうなっているのですか。何が行なわれているの?」
火見華が哀しい思考におちこみそうになった魂に問いかけた。声が多少うわずっていたが、仕方がないだろう。
少年はシオンと名乗り、思い出すのもおぞましそうに、ゆっくりと口を開いた。
『倭国は、地獄だよ――』
炎の燃えゆらぐ音だけしかない静かな部屋に、シオンの声が吸い込まれた。
『みんな狂ってるっ。……そうだ、ボクたちは、みんなあいつらに切り刻まれていった。大勢のものたちが研究室に連れられてゆき、そのまま帰ってこなかった。そう、ボクは知っている。心もない、痛みも持たない、ただの物としてあつかわれ、弄ばれ、切り刻まれて――結局さいごには殺されてしまうんだってことを。たくさんの死体は日々、焼却炉で焚かれていたよ。だから細長い煙突からは、毎日白い煙がとだえたことはなかったんだ。屋根も壁も汚れにごっている。みんな僕らの悲しい灰の色なんだ』
「だれが、なんの目的をもって、そんなおそろしい研究をしているというの?」
火見華は顔色を失いながらも聞いた。
『王や貴族、豪族たち、それに気の狂った研究者たちだよ。金にあかせて貧しい者から子供を買ってきたり、連れ去ったり、身寄りのない子供たちは、なにかにつけて連れてゆかれたんだ。保護するだの、世話するだのといって、引き取るふりをしてそこへ連れこみ、そのまま外へでることはない。やつらは、自分たちの望みの人間をつくる実験をしているんだから』
「望みの人間ですって?」
『そう、たとえば――絶対服従で逆らわない人間だとか、年を取らない人間。または動物の機能をそなえた、動物なみの仕事をする人間とか。――そのほか、早く走れるようにならないかって筋肉を強くする薬をつかったり、動物の臓器を移植したり、腕や足までつけかえられた者もいた。様々なことをしていたんだ。でも僕はしっている。本当に彼らが望んでいるのは、もっと別のことだって』
「別のこと?」
火見華の声に、シオンの体がさらに透けた。
「自分たちがね、ずっと生きていられるようになること。不老不死となることさ――』
「不老不死だと?!」
森射がたまらず声をだした。最も忌むべきことだ。
唇をギリッとかむ。
『やつらは生命の秘密を解きあかして、自分たちがいつまでも生きられるようになりたいって望んでいたんだ。そのために、実験をしていたんだよ。僕はそう話しているのを何度も聞いた。早くしろって白衣の男たちを怒鳴ってた』
はじめのうちは、大陸から連れてきた呪術師や、占い師、怪しげな薬師たちにたちなどにより、身の毛もよだつようなおぞましい儀式をおこなったり、人の脂や血をまぜてつくった薬をのんだりしていた。
だがそれに効き目がないことがわかると、今度はそういった研究の先進国であるアトランから科学者を呼びよせ、彼らが望むままの金や物をあたえて、ついには実験施設までつくってしまった。
なんということか、王の公認で、それらの残酷な実験ははじまったのだ。
『ボクの心臓は、べつの違う子の心臓なんだよ。その子はボクの心臓をつけられて、でも、とうとうあわなくなって、そのまま死んでしまった』
成功した貴重な実験材料なので、まだシオンは大切にされていたほうだった。
顔が可愛いこともてつだってか、遊び半分で、いろいろな情報や知識を教え込まれた。局員たちは、どうせ知ったからどうすることもできぬと小馬鹿にし、怯え苦しむのを面白がっていた。
「心臓の入れかえだなんて、そんなことが可能なのか?」
アギトがそのあまりの技術力の高さに驚嘆するように言った。
それだけのことが可能な科学力が倭国にはあるというのか。ならばヤマトなど、まだまだ足元にも及ばぬ後進国ではないか。
それが、よいにせよ、悪いにせよ、恐ろしいことは事実だ。
「だれもそんなことを行なうことに反対はしなかったの?正しい道を説くものは、倭国にはいないの?」
火見華がたまらず謂う。
大ババが慕っているあの偉大なる巫女、日巫女はなにをしていたのだろうと苛立つようにこぶしを握る。
『……それは、いないこともなかったけれど、表立って口にする者はいなかったよ。だってそんなことをすれば、即座に消されてしまうんだもの。みんな自分の身が大切さ。ああ、でも大昔から倭国を導き束ねていたという巫女のおばあさんが、ひどく反対して、こんなことダメだとずいぶん頑張ったそうだけど、結局はどうすることもできなかったって。きっと殺されたよ。その人の部下の巫女も、かなり死んだらしいって、見張り番のおやじが言ってたもの。さすがに巫女を殺すのはいやだったって。呪われた気がしたって』
「殺された……日巫女様が……巫女たちが殺されたの?」
火見華が信じられぬように首をふった。つぶらな目が見開かれ、肩がふるえだした。
が、唐突に、表情がふっと変わったかとおもうと、空間にずっしりとしたなにかがぶつかった。場が重くなった気がした。
「……時空はひらかれた」
腹の底に響くような声は火見華のものではなかった。
火見華になにかの魂が乗り移っていた。
声をあげかけたアギトをおさえて森射が訊ねる。
「あなたは、だれなのですか」
「……おお、時空は開かれてしもうた。闇の思念にとりつかれた呪わしき幽鬼どもが、わが倭国へと、数あまた迷い込み、恨みと怒りの情念をまきちらし、清浄なる国土を穢してゆく。倭国の人民の魂をくらい、心のくもったあわれな人民を闇へと導き、死の王の到来をまちのぞみ、ともに招来の唄をうたいはじめておる」
「死の王、それはだれ?」
「倭国王は狂うてしもうた。己の利欲に心を惑わせすぎて、ついには時空をゆがめ、高天原の門を開いてしまったのじゃ」
「高天原だと――?それは、神の国の名のはずだが」
アギトが言った。どういうことだと森射をみるのに、彼女は首をふる。
「高天原の王、すなわち伊邪那岐じゃ。やつはこの地上すべての人間の魂を食らい、闇の力で支配しようと、はるか過去世より老獪な目をこらし、淡々と狙ろうておったのだ。葦原の中津国にすむ人民なぞ、伊邪那岐にとっては家畜にすぎぬ。そう、己の寿命と超常力の源にせんがための、ただの人肉じゃ――」
恐ろしい言葉をのこし、それは来たときとおなじように、不意に去っていった。まるで許された時間が終りをつげたかのように。
火見華の表情がもとに戻った。彼女に憑いていた霊は完全に消えていた。
「いまのは、誰だったんだ火見華?」
火見華にもどったのをたしかめると、森射がたずねた。
体力をかなり消耗したようで、流れている汗を袖でふきながら、火見華は息を大きく吐く。
疲労の色が濃かった。火見華ほどの術者をのっとるとは、かなりの能力だろう。
「たぶん――日巫女様。……生霊でいらっしゃったわ」
「日巫女様?!では、まだ生きているということか」
森射の言葉にうなずく。
「ええ、でもかなり弱ってらしたみたい。生命にながれる波動が、とても小さくていらしたから。そのうえ魂飛ばしの術などお使いになったら、さぞや……」
相当な高齢のはずである。さらに倭国の混乱も、王からの迫害もかなり激しいにちがいない。きっと肉体も精神も疲労の極みにたっしているはずだ。そのうえで、これだけの高等呪術をしたとすれば、老体にはかないりきびしいはずであろう。
シオンがふと、イサナに目をやり思い出すように言った。
『そういえば、アトランから連れてきた女というのがいて、そのひとが時空を開くはずだって、博士のだれかが言ってた気がするよ』
「アトランの、女だと?」
イサナはシオンの言葉をうけ、口をひらいた。
いままで一言も彼は言葉をもらさなかったのに、なにか思い当る節があるかのように表情をわずかにくもらせた。
シオンは、イサナをまるで懐かしい同族に会ったような目をしてみていた。同じ傷をもつものの匂いを感じとっているのだろう。
イサナもまた、同じようにみつめ、力強く言った。
「おまえの恨みは、必ず晴らしてやる。安心して逝くがいい」
魂をゆさぶる言葉の響きに、シオンが初めて笑い顔をみせた。
心と体にうけた痛みを本当にわかってくれる者を、純粋な魂は無心に信じたのだ。
結局は、シオンたちは殺される運命にあった。実験動物として、時空の向こうにいる死の神に捧げられるために。だからこそ、その言葉がなによりの手向けである。
『…そろそろいかなきゃ、みんなが待っているもの……』
「そうですわね、ありがとうシオン」
火見華が別れの言葉をつげた。
あまり魂をこちらにとどめておくことはできない。これだけ明瞭な声音で、生前のままの魂と話ができたのは火見華の能力があってこそのことだ。
普通の巫女なら、呼び寄せた魂が暴走して、乗っ取られて終ることもままある。魂自身がおだやかに逝くといううちに、送らねばならない。
送りの呪文がおぼつかなくなっていた火見華にかわり、森射が祝詞をあげはじめた。それは正式に習った巫女のものとは違っていたが、シオンは嬉しそうに笑い、言霊の美しさに浄化され、道をまっすぐ昇って逝く。
『ありがとう、きれいな歌を』
「道を間違えないように。もう誰もおまえを傷つけはしないのだから。心やすらかに、ナツメとたち一緒に永久の夢をみて眠って――」
『うん』
魂は、すうっと光のなかへと消えてしまった。
火見華の呪具である屋形もまた、それと同時に跡形もなく崩れ、役目を終えてしまった。
「……倭国は、高天原の魔王を呼び出してしまったというのだろうか」
アギトが苦々しく吐きすてた。それがこれからどのような恐ろしい結果をうみだすのかは、まだわからない。
「あの影だ……」
森射はひとりつぶやいた。彼女だけは、まるでその存在を知っているかのように、あやしく瞳を輝かせている。
「心や魂を無差別に破壊する闇。虚無の王だ」
隙あらば取りつこうと狙うおぞましい影。森射はそれが、なぜか伊邪那岐なのだと、本能的にさとっていた。
「私の大切な者を奪った、あの影が、ついにそこまで来てしまったのだ」
森射の目はここに居るだれをも見ていなかった。
まるで倭国に開かれた異次元を見ているように遠い。
「森射姉様、どうなされたの?」
火見華が声をかけるが聞こえていない。
きっとイサナだけしか、森射の見ている場所がどこだかわからないだろう。彼だけがその地獄をしっているからである。
そしてアギトもまた、別の意味で、高天原の門がひらかれたという、あのおぞましい意味をその身にかんじていた。
それと同じ闇がからだの半分を支配しようと暴れていたのだった。
森射が歌っていた。
その声は森にこだまするほどはっきりとよく響きわたり、まるで森をわたる風にのせるかのように爽やかに心地良くひろがっていった。
鎮魂歌だった。
遠い異国で死したものたちへの慰めの歌である。
罪もなく、毎日の生活をただ一生懸命いきている者や、重きさだめを背負わされ、苦しみながら死んでいった者たちをなぐさめ、あまりにつらい無念と未練の嘆きを、少しでも癒さんとするかのような、切ない願いが込められていた。
道をたがえず天上界へ帰れるように、宇宙のエナジーをふくんだその歌声は、清浄な力で道を照らしだす。
失いかけた天地の調和と、秩序を甦らせることができるほど生命力を感じるのに、なぜかその歌には言葉がなく、ただの美しい音色だけであった。
「誰のための歌なのだ、それは」
森射は驚きもせずふりかえった。
「迷い苦しむ魂たちへの別れの歌だ」
みつめかえされたオズヌは、まるで魂でも抜かれたように呆然とみていた。
夕日に照らされている森射は、まるで神の造った最も美しい彫像でもみるようで、なんと敬虔な存在なのかと思わせる。
自然に包まれている森射の姿は、言葉にあらわしがたいほど格別であった。
「どこかで観ていたのだろうオズヌ」
森射は問いつめるでもなく云い、笑った。
オズヌの神出鬼没さは誰にも止められない。
彼が欲しいとおもった情報はどうあっても手にいれるし、聞き出すだであろう。
それがたとえ祈りの宮のなかであろうとも同じだ。阻止できる確率は火見華であっても半分がやっとなほどだ。
「おまえの目は、いつもなにを視ているんだ森射」
オズヌは自分をうつしている宝玉のような朱の瞳をじっと見ていた。この不思議な瞳の虜になったのは、いつからだろうと自嘲さえしている。
「なにを視て、なにを聴いているのだ森射。――そして、おまえはなにを知っている?」
ずっと聞きたいと思っていた。
森射なら、きっと知っているはずだった。
神だけが知りたもうはずの秘密や、大宇宙の神秘を、自然に愛され、人々に慕われる彼女だけが許されている。天地創造の秘歌を知っているはずなのだ。
「俺はずっと思っていた――行者や霊能力者が、どんなに厳しい修行を積み、血を吐くような地獄を耐えてぬいても、結局そんなことは無駄なことなのだ。選ばれ、偉大なる神々の御心にかなわねば、生命の秘密を知ることは決してできぬ、と」
峻厳でおそろしい岩山をのぼり、道なき道を跋渉し、身をさかんとする寒冷な滝にうたれ、また灼熱の炎をわたり、熱湯を浴びてみても、しょせんはそれだけのことなのである。
知るに足りる資格がなければ、何もかわりはしない。
たしかに修行の効能として、人々の病を癒したり災禍をとりさる神通力を得られるかもしれない。
だが、人々にどれほどありがたがられようと、それだけである。
自然はある一定以上のことは決して語ってはくれない。そう、彼らがほんとうに心を開いたものにしか、秘密はみせてくれはしないのだ。
「いまだかつて、おまえほど自然の秘密を知るものに俺は会ったことはない。いや、おまえ以上のものには、もうこれからも会えぬだろう」
「オズヌ、おまえが思っているほどに、私はなにも知りはしないよ。私はただそこにあるだけのもの。……それだって、罪ではないと言い切れないのだから」
「なぜ罪なのだ?おまえはそこにいることにこそ価値があるではないか。たとえどんな過去があろうと、お前は神秘のきわみだ。なにも気にする必要はない」
森射は口をキュッとむすび、目をとじた。
それからゆっくり瞳を寂しげにひらく。
その仕種があまりに痛々しくて、オズヌはけぶるような夕日に森射がかすんで見えた。一瞬、本当は森射はまぼろしであり、森の作りだした精霊に幻覚をみせられているのではなかという錯覚がした。
「私は闇に惹かれすぎてしまう。だから闇もまた私の匂いを嗅ぎつける。私は、なのに私の心をとめる術をもっていないよだよ。もしおまえが私のその部分を指して、秘密を知っているというのなら、これは個人の負う重き宿命であり、業だ。誰にもかわりに負担してもらうことは許されない」
彼女の長いまつげが何度もふるえた。そのかすかな風が、オズヌの頬をなでたような気がして、甘い痺れに目眩がおこる。
「俺は、お前の視ているものを見たい。おまえの聴いている声がともに聞きたいのだ。――森射、俺は、俺はおまえが……欲しいっ」
オズヌは心のうちに湧き出すつよい感情を、とうとうはっきり口にした。
劣情をぶつけるなど、行者にはあるまじき行為だった。だがオズヌはいっこうに躊躇をしない。
思いのままに、森射のほそい肩をひきよせ胸に抱きしめた。
もっと大きくて強いと感じていたのに、手にしてみれば、なんと小さくて頼りないのだろとオズヌは驚く。この体でアギトを軽々かつぎ走るとはとても思えない。
「俺のものになれ森射。おまえとなら、俺は世界の秘密を知ることができるだろうし、俺なら、おまえの中の闇を理解し、癒してやれる」
言葉こそは行者としてのものだが、男として、森射をなにより欲しがっていることは、もはや隠しようもない。
この女がほしい――。
森射はオズヌの腕をほどき、身をはなすと強い視線でみあげた。
「私にはすべきことがあるのだ、オズヌ。私はおまえのためだけには、もはや生きられない」
「なぜだ?俺ならおまえがなすべきことにだって役立てるし、おまえの心を満たしてだってやることもできる。あのような子供たちよりずっと、おまえがどういう存在であり、どういう宿命を負った女か、深く理解しているはずだ」
「違うな。おまえの目にどう映っているかは知らぬが、私は女の形をとっていても、女ではないのだ。おまえが求めているものとも、行くべき場所とも、私は違っている」
「森射?! 」
まるで幻影が消え行くように、森射は森へ消えていった。
オズヌはなぜかひきとめることがでず、たちつくし、見ていた。
森射から発しているオーラが、それ以上近づくことを阻んでいたのだ。聖なる森にすむ女王のように高貴で、身動きすらできない。
「くそっ!」
欲しいのに、手をだせない。
ただ目を奪われるだけでしかない。オズヌの苛立ちが全身をふるわせ怒りともいえる憤りがふきあがる。
身にまとうオズヌの黒一色の行者服が、逢魔ケ時のしっとりとした闇にはためく。
「なぜだ森射!あの男が、アギトが好きなのか――?!」
オズヌは悔しげに拳をにぎり叫んだ。もはや森射のすがたはない。
「あの男か、あの男がいるから俺をうけいれないのか森射!」
抑え切れぬ嫉妬が怒りとなって胸の中に燃えあがった。
いままでどんな者を連れてきても、オズヌはまったく意に介さなかった。なのに、アギトだけはちがっていた。彼は、はじめからなにか嫌な予感をオズヌに覚えさせていたのだ。
森射のアギトに対する態度がいままでより違っているのは確かだった。あれほどそばに置き、声をかけ、イサナ同様に身内のようにさえ扱っているのはどういう意味があるのだ。
古馴染みのオズヌにさえ許さなかったことですら許し、語っている。
それだけでも許しがたいが、それ以上にオズヌを不安にさせているのは、アギトと森射が近すぎるのだ。
言葉にこそあらわせないが、あの二人はどこか似ている。魂が触れ合うほどに共鳴しているのを感じてしまう。
アギトは森射に好意をもっている。ならばそれを森射がうければ、おわりではないか。
そしてそうなるであろうという漠然とした予感が強くなりひびいている
「許せぬ!そのようなこと絶対に許さぬ。いきなり現れ、俺の目の前でさらってゆくなどと許さぬ――っ!」
『ならば、おまえの望み、我が、叶えてやるろうぞ』
ねっとりとした不快な声がささやいた。
熱くあまい誘惑が内耳をふるわせる。闇がドロリと濃くなり肌にまとわりつく。
「何やつだ!魔物などにようはないわ、とっととうせろっ!」
脳の端がチリチリしていた。オズヌにこれほどの圧迫感をあたえられるとなると、ただの魔物ではない。おぞましいまでの闇である。
『あの女が欲しいのであろう。あの女を自由にする力を、おまえは欲しくはないのかオズヌ』
くすぐるような声がゆっくり浸透し、撹乱しようと魔の手をのばした。だがオズヌはきっぱりと弾きかえす。
「きさまなどに力を借りずとも、いずれ森射は手に入れられる。この俺に魔物のごときの戯言は通じぬ、滅殺されぬうちに消えるがいい、愚か者め!」
影はうすく笑い、肝がうずくような冷たい声をしのばせる。
『力が欲しくなったら我をよぶがよい。その方法を教えてやろうぞ、行者よ。この吉備には、不思議な力がまだまだたくさん潜んでいるのだからな。手にすれば、さぞ楽しかろうのにのぅ――』
オズヌが腹立たしげに眉をひそめ、邪霊を祓う印を切ろうとした。
とたんに影はざわめきながら遠ざかっていった。
それが残す波動の余韻は、アギトの背後にいたものと、同じ闇のものであった。
だがさすがにオズヌもそれにはまだ気づいていなかった。
鬨の声をあげて進む兵士達の軍勢を見下ろしていたのは、葵――かつて葵と呼ばれていた少女であった。
輿にかつがれ、まるで遊楽にでも出かけるかのような風情で山道を登っている。
美しく着飾り、艶やかな宴の化粧のようにきらびやかにほどこし、花がひらかんばかりに艶然と笑っている。
張り出した大きな岩のうえから、闘い殺しあう男たちの勇壮なさまを、さも楽しそうに見ていた。魔性の女に相応しく極上の歓楽のように悦んでいる。
巫女にしては、華やかすぎる衣装だった。
翡翠の耳飾りにそろいの首輪、金銀をあしらった腕輪を何重にもつけ、額かざりは大粒の黒真珠がたれさがり、まるで第三の目のようにもみえる。
服もまた彼女の美しさが際立つよう、ゆったりとした肌の露出の高いうすぎぬであり、珊瑚の帯飾りをつけているだけだった。目に焼きつく白い肌と、唇の赤は、甘美な欲望をいっそうきわだたせていて、まさに男の欲情をさそわずにはいない風情である。
黒いまなこにゆらめく淫靡な炎は、だが、ぞっとするように冷たかった。
彼女の毒を含んだ美しさは、衣服の華々しさなど比にはならない。
匂いたつ色気に包まれると、不幸になるとわかりつつ、それがたまらぬ魅力のように思え、吸い寄せられてしまうのだ。
とくに顕示力のつよい男にとっては、これ以上にないほど、克己心をみたす女に思えた。
顔立ち自体は、それほど華やかでも美しすぎるということもなかった。なのになぜか絶世の美女とも思える雰囲気があり、そのふるまい、高慢にもおもえる物言いがさらに自尊心をくすぐり、惹きつける。
まるで薄皮一枚に、別の、まるで黒い女神が仮面でも被っているような不均衡な感覚をひきおこすのだ。
それもそのはず。そこには葵の魂はないのだから。
「もうよい、先にすすんでおくれ。このたびの闘いは、すでに我らがヤマトの圧勝が確約されておる。ほどなく片がつくことであろう」
彼女の勝利を予告することばに、おお、というひくい感嘆の声がもれた。
付添ってきていた、彼女の崇拝者たる若い貴族の男と、その家来たちだ。
「黒媛様がそのようにおっしゃられるのなら、このたびの戦も、間違いはありますまい」
「まことに、我らにとって勝利の女神であらせられますなあ」
「おそれいります。――でもわたくし、本当に敦賀様たちには感謝しておりますのよ」
しなをつくるように体をよせる。
「だって、わたくしのような、名もなき一介の巫女の後ろ盾となってくださり、このようによくしていただいておりますもの。巫女の占術にも専念できるし、それに、我儘を言うわたくしにつきそい、このような場所にまでご一緒してくださるなんて、ほんとうに幸せでございますわ」
背筋がゾクッとするような、意味ありげで甘い視線がおくられる。敦賀の顔がパアッとあからむ。
「敦賀様のように高貴な貴族の若様が、こんなにも優しくしてくださるなんて、女冥利につきますわ……」
「な、なにを仰います黒媛様。あなたこそわがヤマトを導き、野蛮なものどもの平定にお力をお貸しくださっているのではないですか。あなたはご自分の実力で巫女姫となられたのですよ。私こそ、そのような高貴な御方のお供に選んでいただき、光栄にございます。これからもお役に立てることはなんでもさせて頂くつもりですよ。――だって、いずれは秋津島一の大巫女とならせられる方なんですからね。あなたのなさることに間違いはございません。私など、あなたの配下と思い、なんでもお申しつけくださいませ」
芝居がましく仰々しく膝をつくと、黒媛の手にくちづけをした。
黒媛は艶然と笑い、その手を、冷たい手でそうっと握った。
「敦賀様、ありがとうございます。そのようなことを言っていただけるなんてもったいない。ああ、心強ようございます。ほら、むねがこんなにドキドキして――」
くちづけんばかりに顔をちかづけ、敦賀の手を胸にみちびく。
彼の顔がうっとりとしあわせそうに緩む。
見る者がみれば、それがすでに魔物に憑かれている表情だとすぐにわかるだろう。眼にうっすらと霞がかかり、焦点がさだまっていない。
黒媛はすでにそうやって、徐々にだが、ヤマトの中枢にまで毒牙を食い込ませていたのだ。
政権を握っている男たちの大半は、すでに彼女の意のままに動かすことができるクグツの人形となっていた。
「もう少しで目的地につきますわ。先を急ぎましょうか」
邪悪な牙がちらりとのぞき、黒媛は手をはなす。あっと残念そうなのを無視して、一行の先をいそがせた。
蝦夷国にある、霊峰神室山の、深い山道を登っていた。
黒媛はまるで来たことでもあるかのように目的地までの道のりを、的確に指示し、かなりの強行軍で中腹あたりまでのぼっていた。
みずから強引におしすすめていた蝦夷国との戦線の局面が、かなり有利に進んだと確信すると、彼女は配下の力自慢の男たちをつれて、理由もはっきりとさせないまま霊峰へと赴かせていたのだ。
彼女のいうがままに進んでゆくと、そこにはかならずといっていいほど、不思議な巨石でできた円形の建物――ストーンサークルがあった。
彼女はかたっぱしからそれを壊させていった。
その行為は初めてのことではなく、攻撃を仕掛けた国々で同じように繰り返されていた。
すでに黒媛のそんな行為にさえ疑問に思うものもなく、なにかの重要な戦略で、きっとヤマト国に、全国を統一させるためのまじないの一種だろうといって放任されていた。
それがどれほど愚かで恐ろしい行為かは、だれもわかってはいない。
この葦原中津国を護るために敷かれた、大切なパワースポットを壊し、調和を崩しているのだ。
男たちはただ、いつもおなじように石を積みあげられた布陣を壊してゆく。まるで何かに憑かれているように夢中であるのは、かれらもまた、黒媛の術中におちていたためだ。
「愚かなものたち」
黒媛は下僕たちを冷たくみおろし、手にしていた包みをほどいた。
そこには人間にしては小さすぎる、頭蓋骨があらわれた。
その頭は、あの少年の――倭国から逃げ、シオンたちとはぐれ行方がわからなくなっていたはずのミラヒのものであった。
頭蓋骨には手術したあとのような傷がたくさんあり、穴がいくつかあけられている。サルのものだと言えば、本当にそうかと思えるほど小さい。
「おまえが悪いのよ。わたくしの眠りを醒ましてしまうから」
ミラヒの頭蓋骨が発光した。
「わたくしは静かに眠っていたのに、わざわざ『首』を持ってくるのですもの。そのうえ、この愚かな女がエサとして勝手にやってくるから――」
葵の顔をつるりとなでた。
「わたくしはもうずっと眠っていてもよかったのに。五十狭彦がわたくしと死んでくれたのですもの。あの子の腕の中で永遠におとなしく封印されつづけていたかった。だのに愚かな人間が、またわたくしを目覚めさせてしまうとは、なんて愚鈍でおぞましい運命……」
それはどこか疲れてしまったような声音だった。
かつて、いにしえの昔、黒い魔女ともよばれ非常に恐れられた妖女とはおもわれぬ、弱々しげなつぶやきである。悲しみともつかぬつかれた表情をしていた。
「五十狭彦……」
妖女は愛する男の腕に抱かれ、永遠の封印をうけて眠っていたはずだった。
それまで、どれほど残虐な行為を繰返し、首を刈り集めていたかわからない魔女であったことか。
その彼女の手足となり、もっとも信頼し、大きな働きをしてくれていたはずの男が、最後にして最大の裏切りとして、だれも彼女に与えてくれなかった、至上の愛と休息を一緒にくれたのだ。
腕に抱かれた瞬間、黒媛には五十狭彦のおおきくて深くて熱い心がわかった。だからこそおとなしく槍につらぬかれてやり、彼の腕に封印されることをゆるした。
『そなたを呼び起こしたのは我なり、黒媛よ、もはや下す命令はわかっておろうのう』
手の中の頭蓋骨がどんより光った。
『我が天孫族のためにふたたび働くがよい。さすればおまえの主人、月読命を、我の偉大なる無限の力でもって復活させてやろうぞ、黒媛よ』
「おお、これはこれは伊邪那岐様」
黒媛はいままでの尊大な態度とはうってかわったように小さく肩をすぼませ、手の中の髑髏に怯えて、拝むように高く掲げた。
『黒媛よ、高天原をこの世に降ろすときはもはや近い。時空はすでに開かれつつある。だが、最後の難問、いまだこの国に張られた結界は固く強すぎて手がつけられぬ。おまえはこのままパワースポットを壊しつづけるのじゃ。ストーンサークルは邪魔な結界、我を迎える準備をせよ』
「仰せのままに伊邪那岐様。わたくしは、わが主、月読様の復活のため、御言葉にしたがい、なんでもいたしまする。どうぞ力をお与えくださいませ」
髑髏の眼孔には、この世には存在しえない邪悪なエネルギーにみちた光が閃いている。それに触れるすべてのものは邪悪な波動に吸収され、宇宙のチリと化してしまう。
黒媛は目をあけた。
その目には異様な力がたぎっていた。
男たちがストーンサークルをこわしおえ黒媛もとにかえってくる。膝まづくと、エネルギーの補給を望むように、ひくつなおももちで彼女をみあげる。
男たちは人間が手にする範囲以上の力を出しつくし、腕や脚が破損していた。数カ所がすでに腐食をしはじめている。
黒媛のまなこがひかると、それらがみるみる治っていった。もとの屈強な男たちとなる。
だがそこには生気がない。
死人であった。すべて死人の兵士なのである。
そうとはしらぬ敦賀は、いままで死人たちに威張りちらし命令をくだしていたのだ。
だが、彼もまた、その仲間に入るのは時間の問題であろう。すでに足に負っている傷の痛みさえ、感じていないのだから。
「首をまた集めなおさなければならないわね。わたくしの復活のために、今まで集めていた首の力は使い果たしてしまったもの。首がなければ、月読様は力を取り戻すことはできない。わたくしのもとに帰ってきていただくためにも、もっともっと……」
黒媛はつぶやいた。
だがなぜかしら、心ここにあらずというような口調だった。まるで疲れ果てた人形のように見えた。
だがそれはほんの一時だけ。
「五十狭彦……」
彼女は知らずに、その名を口にしていた。
まるで祈りの文句のように聞こえた。
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