眠っていた森射は、不快な痛みに目をさました。
痛みで目がさめてしまうことはひさしぶりだった。肩に残された傷跡がぴりぴりと焼けつくようにうずいている。
このところの妙なせわしさに忙殺され、自分のからだを労わる暇もなかった。
肩に走るひりつく感触は、まるで忍び込もうとしている黒い影の存在を、森射に警告しているかのようでもある。
邪悪な波動が、かすかに、だが、日がたつにつれて色濃くなりつつあることは、森射も気づいていた。まるでゆるやかに効く毒のように、ある日突然気づくと、すでに手遅れであり、命を奪ってしまう恐ろしさがある。
肩の痛みは、それに呼応しているように感じられた。
森射はそっと足音をしのばせ、戸外にでた。
夜はまだふかく、空には溢れるような星々がひしめきあい、遠い宇宙のかなでる子守唄がきこえてくるようである。
虫の音に誘われるように山へと歩きだすと、露をふくんだ夜風は肌にしみこむようにしっとりとしていた。ひどく心地がいい。
そのやさしさに身悶えるように森射は背伸びをし、息をすいこんで太い木の幹に身をもたせかける。
「母さん……」
傷跡の痛みは、まだに鈍くつづいていた。
それは忘れてはならないという戒めのように思われた。母親と、父代わりの存在であった温羅が――森射のもっとも大切な二人が、命を賭してまで自分を守ってくれた、愛の証でもあるのだから。
森射にとっては、大事な傷跡だった。
森射の母はけっして多くのことは語ろうとしなかったが、美しくて聡明な人であった。
その流れるような麗らかな身のこなしと、静かな物言いは、まるで人間の香りがなく、森の精霊のような人であると、よくみなに言われていた。
そして祖父ともいえる齢ではあった温羅は、まさに父のような心強い存在でもあった。
彼は現吉備王の祖父にあたり、王という名にふさわしい威厳と知慧をそなえていた。まさに大器の人物である。
実際の年齢とはとても思われぬほどの若々しい気をいつも放っており、頑健な体躯は、おとろえぬ剣技を際立たせ、刀神とまで呼ばれていた傑出した戦士でもあった。
だれより強くて、やさしくて、まさに吉備の守護神だったのである。
吉備の民のみなが信頼をよせ、かれの号令ひとつで人々はまとまり動くことができた。
「私が、あの二人の命を奪ってしまった」
凍てつくツララが胸をつきぬくような、悲痛なつぶやきだった。
「私はあまりにも愚かな子供すぎた」
いまだにそのことは、心からは離れない。まるで体の一部のように後悔は存在している。
『それが、おまえの存在だからだ、森射』
頭の中に直接語りかけてくる冷たい声に森射はハッと顔をあげた。
「誰だ?! 」
ゾロリ、と巨大な蛇が草のあいだを這い出だしてきた。
森射の顔よりおおきな鎌首をヌウッともたげると、先の割れた舌をのぞかせた。
『おまえをずっと捜していたのだ。おまえの存在を待っていたのだよ、森射』
大蛇は、森射を魔性のにらみで射すくめようと、足元からヌメヌメとまきついてきた。
森射の体をおぞましい蛇体で抱きからめると、意思を絡めとり、とりこもうとするかのように瞳をのぞきこむ。
だが森射の双眸には、一凪のゆるぎさえ映っていなかった。
森射こそが、大蛇の向こうにいるものを見通そうとするかのような冷静な目をしている。鋭くみつめているのだ。
蛇はいらだちギリギリと森射をしめあげていった。
『なぜだ、なぜおまえ怯えぬ。さあ恐怖に心を乱せ、慌ておののき、わめくのだ――。さすれば我はおまえを食らうことができる。森射よ、我はおまえの醜い心を食うてやることができるのだぞ。おまえを楽にしてやれる最後の使者よ。さあ、心をあけわたして、眠ってしまえ』
「おまえはただの影にしかすぎぬ。死の残像だ。わたしは揺れぬ。おまえはおまえに相応しい国へ去るがいい。死者は死の国へ、闇の国へ帰れ、忌まわしき影よ!」
森射は微塵のおそれもみせず言い放った。
大蛇の姿が一瞬に薄くなったかと思うと、波うち消えはじめる。
『――たしかに、我はまだ、おまえのいる場所からは遠い。だが必ずおまえを我が虜として食ろうてやろうぞ。あのときは失敗したが、今度は間違わぬ。なぜなら、おまえは我れの愛の証である傷を、その身に負うているのだからな」
消えながら笑いさざめき、影は甘い誘惑のような声を耳にふきかけた。細い舌で森射の首筋をなめる心地悪さをのこしてゆく。
「森射!」
ザッと影が走った。森射にのこる最後の闇の影が分断された。
夜のなかに散って消える。
イサナであった。燃えるような怒りの瞳を夜のむこうにむけている。普段の静かな表情からは想像できない恐ろしい表情だ。
「森射、大丈夫か?」
まだわずかに森射のほうが背が高い。イサナは少しだけ上目づかいにみる。
森射は夜目にもわかる濡れたような赤い唇で微笑んだ。
「助かったよイサナ。おまえはいつも私が危ないときに来てくれるのだな」
それは嘘ではなかった。
必ずといっていいほど、彼は森射になにか起こったときあらわれた。今だとて、おぞましい影が森射の首に牙をたて、新たな目印をつけかけていたのだ。
アギトと山から帰ってきたときも、イサナは途中まで迎えに来ていた。
どの道筋を通って帰るかもわからないはずなのに、ちゃんとそこにいて、森射が助けを呼ぶのを待っている。
「さっきのアレは、何だったんだ?」
森射に巻きついていた影のただならぬものを感じたらしいイサナが嫌そうに言った。まだ残留思念のため空気が濁っているではないか。
「死の影だ。たぶん異次元からの侵入者だろう」
肌をなめたあの心地悪さが体からなかなか抜けない。心の底から畏怖させるような声の冷たさは、この世にあらざるものであった。
空気が澄むのにあわせ、蛍かと見まちがうような光の珠があらわれていた。
まるで侵入者の振りまいた死の匂いに反応して騒ぎたてているかのように、数を増していく。
「森にさまよっていた死者の魂が騒いでいるのだ」
「……あの男のせいだ。あの、アギトが来てからだ。こんなにも闇の波動がふえ活性化されはじめているのは。あの男が闇を呼んでいる」
イサナが語気強くいった。
「アギトは危険だ森射。アギトを吉備からはやく出せ。そばに置いておいたら、きっと良くないことが起こるぞ」
「イサナ、わたしは――本当はたぶん、死と生の区別があまりついていないのだ。この身はあまりにも死に惹かれすぎている。それが今世の業であり宿命だ。わたしには深い闇がある。だからこそ、死の闇に苦しんでいるアギトが、他人のようには思えないのだ」
イサナは一瞬だけ、おしだまった。
それから、どこか、ぎこちなく聞いた。
「好きなのか、アギトを」
森射はふっと笑った。夢を見ているようだった。
「人として、という意味ならそうだろうな。だが男としてなら、否だ。私にはすべての命は同等にしかみえない。どれもが愛しく、どれもが大切だ。例え、それが死した穢れた魂であってもだ――。イサナ、私はきっと誰かを特別好きにはならないだろう。それが死に惹かれ過ぎている罪なのかもしれない。私は誰かを好きになってはいけない。きっとこの胸なかに眠るおそろしいほどの激情で、殺してしまうだろうからな」
「森射に罪なんてない!ただ、きっと心が深すぎるだけだ。あんたが俺を助けてくれて、生きてもいいと言ってくれたから、俺はいままで生きてこれた。あんたがいるから、これからも生きてゆけるんだ」
イサナは真剣にいい森射の手を握った。
「俺は殺されるためにだけに生きてきた。いや、そのために生み出されて、飼われてきたといったほうがいい。でも俺はそこから必死で逃げ出した。それはただ、あそこで弄ばれて惨めに死にたくはなかっただけだ。あんなおぞましいところで死にたくなかった、その思いだけだったんだ。――その望みもかない、もう死んでもいいと思ったそのとき、あんたが俺を拾ってくれた。死にかけていた空っぽの俺にあんたの生気が入り、魂が命をあたえてくれたんだ。森射が、俺の体と魂に染み込んだからこそ、俺は生き返ってこれた。森射が俺の命だ」
森射に顔をよせ、目がそらせないほど真剣に、そして切なくみつめた。
「森射が空を飛べというなら俺は飛ぶ。死ねというなら即座に死にもする。俺の命は森射のものだ。――いや違う。森射しか、俺を殺せない」
「イサナ……」
言いきるイサナの瞳は、目をそらせぬほどに強い。
イサナは八才になったとき、命を賭けて逃げ出した。本当に、もうこれで最後だと覚悟を決めていた。
何日も海に漂いつづけ、誰にも気づかれず、このままむなしく藻屑と化すだろうとあきらめ、心を手放そうとしたそのときだった。
イサナの心の悲鳴をききつけ、救いにきてくれたのが森射だったのだ。
だれもがイサナを気味悪がり、いやがった。おぞましい子だと、死ねばいいという心の声すらも聞こえていた。
死骸そのもののように海に漂っていても、その哀れな骸をすくいあげ、せめて土に埋めてやろうとすらしてくれなかった。
そんな冷たい人々のなかで、森射だけは自分の身の危険を顧みず、イサナを助けてくれた。
たった一人からの愛情さえしらず、見向きもされなかった憐れな生涯を憎み、他人を恨み、あとはただ死に朽ち果ててゆくだけのはずだった。
そんな惨めな人生の、死の淵にまでおりてきて、森射がイサナを助けだしてくれた。温もりを与えてくれたのだ。
そして肌の温もりだけではなく、森射はこの世でもっとも尊い者を与えてくれた。こんな何者かもしれぬ汚い子供に、母の愛よりつよい、無償の愛を惜しげもなくくれたのだ。
「イサナ……」
切なそうにイサナの名をよび、森射は腕を強く握っているイサナの手をなでた。
昔、すがりつくようにして必死で握ってきた手は、いつのまにかもうこんなにも大きくなっていて、森射を包んでしまうまでに成長している。
浮かんだ森射のまろやかな笑みに、慈悲が溢れだす。
「イサナは私がおまえを救ったと言ったけれど、それは反対だよ。私を救ってくれるのはいつもおまえだけだ。それだけで十分なんだ」
「森射?」
「覚えておいて。私もイサナのためなら、この命をあげられるということを」
イサナは何かを耐えるように歯をくいしばり、目をそらした。森射のひとみを見ていられないほどに彼のなかの思いがゆれているのがわかった。
イサナがいきなり顔をあげた。
森射の背後を睨みすえた。恐ろしいほど真剣な顔をして、まなこをきびしくむき出す。森射は背後の闇にふりかえる。
「どうしたんだイサナ。なにかいるのか?」
「……こっちだ、ここにいるぞ俺たちは。さあこっちに来い」
誰に呼びかけているのだろうか、言うなり、イサナは思わぬ速さで走り出していった。いつもの彼の様子ではない。
森射はそのあとをすぐに追い、次第にかすかな生き物の息遣いを感じはじめた。
消えかけるようなかすかな吐息ではあるが、たしかにそこにいる。森射でも追いつけぬほどの速さで走るイサナを見たのはこれが初めてだ。
「ここだっ!」
枝に身が裂かれるのもかまわず。下生えのイグサのなかにイサナは入っていった。
その中に縮こまって身をひそめている男の子をだき抱えた。
全身に血の気はなく、体はいやなほど冷えていた。みみたぶが矢にでも射られたかのように半分えぐられ、血が盛りあがり固まっている。腕がブランと垂れ下がっているのは、間接がはずれているせいだ。
外傷はかぞえればきりがないほどであった。イサナはわずかの痛みも与えぬよう、そうっと抱えなおした。
「大丈夫かイサナ?」
同じようにそこへおり立った森射は、少年をみてわずかに驚き目をまなじりをあげた。どことなく異国的で、独特の顔立ちがイサナに似てみえる。
少年はなにかをつぶやいていた。それは異国の言葉のようであったが、震えていてよく聞き取れなかった。何かを懇願しているかのようにも聞こえる。
「とにかく祈りの宮へ運ぼう。急がなければ命取りになるぞ」
森射は手をそっと少年の額にあてると、簡単な癒しの呪文をとなえた。少年は身悶えるように苦しげに息をつき、焦点のあわないひとみを見開いた。
「―――っ?! 」
助けをもとめるような悲鳴をあげた。
森射の手をにぎりしめ、泣きはらした真っ赤な目をむけ、力弱く、だが必死でまくしたてた。
森射は少年をだきとると、心配はいらぬと頷き、抱きしめ頬をよせてやった。人肌の温かさに安心をおぼえたのか、胸に顔をうずめ、大きく体を痙攣させると気をうしなってしまった。
「先に行って火見華に伝えて!極秘で癒したい者がいる、と。急いげイサナ!」
イサナはすべて聞き終わらぬのうちにすでに走りだしていた。
少年のうわごとを聞きながら森射は頭を何度もなで、祈りの言葉をささやき、イサナの後につづいて走った。
森射の勘違いでなければ、それはアトランで使われているはずの、言葉であった。
少年は森射から離れようとはしなかった。
どんな力で握りしめているのか、森射の腕には小さな手型があざになり、服がしわくちゃになって汗でじっとりしめっている。
あまり強さにか、血の気を失い血管さえうきたっていた。
いまの彼がどんな思いで森射にすがりついているのか、イサナならきっとわかるだろう。
はじめて会った時の彼がそうであり、最後の最後の果てにみた、天上の光そのものなのだから。
生まれてはじめてみた美しい天女が手をさしのべてくれたのなら、離すまいと必死になってもしかたがないであろう。もはやそれしか彼には残ってはいない。
森射は無理には離さそうとはしなかった。かえってしっかりと、抱きしめてやり、満ち石を少年の胸におし当てていた。
あまり効力の強すぎない霊石を敷きつめた中に座って、癒しの呪文をとなえて続けていた。
煎じた薬草を、すこしだけでも少年に飲ませようと火見華がわずかに近づいた。
それだけで、少年はガッと野獣的な目をあけ唸りをたてる。
それは弱々しくはあるが、威嚇そのものであった。はげしく警戒しているのだ。
「怯えているんだ。あの怯えはちょっとやそっとでは拭えないだろう」
イサナが哀れむように言った。
まるで、自分の過去をみるような沈痛な面持ちである。
少年は声にならぬほどかすれた声でなにかを森射に必死で訴えていた。彼女のあやすような歌声が聞こえはじめると、やっと興奮がおさまり、しだいにやすらかな寝息をたてはじめる。
「姉様の歌だわ……なんて、なつかしい……」
森射はめったに歌うことはなかった。
まるで自分に禁を課しているかのように、かつてよく人前で歌っていたうたを口にすることはなくなっていた。
それでも彼女の歌声を知っている者ならだれでも、そのたえなる調べを聴くことを望んでいる。それがどれほど美しく安らぎにみちているか、何にもまさる癒しのエナジーを生うみだしているかを知っているからだ。
死の苦しみにあがく病人ですら心やすらかにする良薬なり、おだやかな終末の夢をみせてくれる。
火見華の必死の祈りでさえ、森射の歌には及ばないかもしれない。それらの構成自体が、根本から違っている。
歌のおよぼす波動は、肉体の傷みが原因でやまいとなったその磁場に、直接しみこみ、己のもつ潜在的な力を最大限にひきだして、内部から修復してゆく。
それにくらべ、祈りの癒しは、外部からの力を利用し、磁場の乱れを改善し、良い方向へゆくように導くのだ。
「ああ、姉様のこの歌がどんなに聞きたかったか。この歌には、大宇宙と自然との調和がもつ美しいエナジーに満ちている。音の響きも、言葉のひとつひとつも、神のつくりたもう奇跡のひとつ。姉様はこの吉備でもっとも優れた言霊の持ち主でもあるんだわ。だって、宇宙にただよう無限の力を、こうしていとも簡単に取り込むことが出来るんですもの」
自分とて、人から羨まれ、嫉妬されずにはいないほどの力の持ち主でありながら、火見華は、森射に憧れずにはいられないとばかりに、うっとりと言う。
だがその熱い視線のなかには、なぜか同類を哀れむような痛みも隠されている。
人の痛みがわかるものが、どれほどの苦痛をともに、癒しを引き受けることか。
またさしのべるその助け手が、いかに無力であるかを、苦しみが強い者に接すれば、接するほどに思い知らされるのだから。
まさに苦難の道でもあった。
その人と共に、辛苦の責めを引き受けねばならない。その痛みに耐えるのは、心の修行そのものなのでもあるのだ。
火見華はなかば自分でその道を選んだのだが、森射はちがう。生まれたときより背負っている、他人よりずっと重い宿業という名の巨石であった。
彼女こそ、願えば女王として、吉備の権力の頂点にさえ立てた身であっただろう。だがそれすら望まぬ者は、その力をどうすればよいのか。
「やっと眠ったようだ。これでしばらくは落ちついていられるだろう」
用意してあった布団にそっと寝かしつけ、わずかな間だけでも、こわい夢も、痛い思いも忘れて眠れるようにと、満ち石で焚きしめた薬香をまいてゆく。結界をむすび完全に空間をとじた。
少年のはだけていた服からのぞく赤い傷跡のようなものに森射は気がついていた。そっと前をひらくと、そこには無数の傷跡や、火傷跡、人為的に切り裂いたであろう、手術の跡が、乱暴に縫い合わせされており、それはかなりの数で縦横にはしっていた。
「これは……」
森射は一番大きな傷をそうっとなでた。
胸の真上に――心臓のうえにある傷は、かなり大きい。どのような病気をしてこれほどの大手術をうけたのか。
「違う。これはなにか人工的な歪みを感じる。切り裂いた物どものおぞましい思念のような、淫らな欲望がここにはある……」
こんな嫌な感情をもつ人間がいるのだろうか。森射はおぞましといわんばかりに、ギリッと歯の根をかみあわせた。
「その者の言葉は、日向のなまりがあっただろう。純粋なアトラン人ではないと見たほうがいいな」
「オズヌ!どうしてここへ?!」
森射はいきなり現れたオズヌに声をあげた。
いかようにして入ってきたのか、ここは神殿の奥の、さらに迷路のような秘密のぬけ道をとおってゆく、地下の奥殿なのだ。
この祈りの宮でも、巫女の長である大ババと、その代行者の火見華、そして森射たちしか知らないはず。
さらには、火見華によって厳重に空間を閉じ、許しなき者は決して通れないようにしているのだ。
なのにオズヌは何食わぬ顔をして、森射の横にたっているではないか。
「――そうこわい顔をせずともよいではないか。悪いがな、ちょっとばかり術をつかって後をつけさせてもらったのだ。いや、どうもただごとではなさそうだったし、ひどく気になったのでな。さすがの森射も気が急いていたとみえる。いつもなら即座に気づき遮断されるはずなのに、まったく気にも止めなかったぞ」
クククッと喉だけで笑う。たしかに浮き足立っていたことは、森射も否めない。
「ああ、そうだな。こういときこそ慎重にあれ、と温羅にたしなめられていたはずだったのにな」
「オズヌ様!あなたという人は、まったく!」
苦笑いする森射のよこで、火見華の誇り高い顔が怒りに赤くそまり、おそろしい形相になっていた。
「たとえ、渡り行者の名高い高僧とはいえ、守るべき礼節というのがおありでしょう。我らの深部にまで土足で踏み入るとは、これほど仁義をかいた行いはありませぬ。許し難いおこない。オズヌ様とても、わが祈りの宮は、今後一切のもてなしも付合いもお断りさせていただきましょうぞ」
祈りの宮を任されている者の身としては、まさしく許しがたいことだった。見逃せないばかりか、あまりにも馬鹿にした行為である。
「おいおい、なにもそう目くじらをたてることもあるまい。なにごとも、時と場合によるぞ。それに今は、俺のもつ情報のほうが貴重だろう?なにせ、倭国にもしばし居たこともあるし、けっこうな役に立つとはおもわぬか?」
ぬけぬけと言う。
「それに――」
ニヤリと意地悪く笑う。
「アギトも一緒だしな」
「アギト様も?!」
オズヌのうしろにアギトの顔があった。火見華はもう、まったく処置なしだとばかりに言葉を失った。
森射は二人の顔をみてため息をついた。
「仕方がない、つけられたが我らの落ち度。祈りの宮の怒りをかうという危険をおかしてまで、おまえがここに来たからには、それ相応に役立つということだろうオズヌ。それにこのことはまだ誰にも漏らされては困るからな」
「さすが森射だ。わかりがはやくてよい。火見華も少しは頭をやわらかくせねばならんぞ」
「オズヌ様!」
火見華が顔をくしゃくしゃにして怒鳴る。
「宮がこの者たちの出入りを許したのであれば、それも何らかの運命――縁であろうからのう、仕方がないわ」
ユラリと小さな影が二人の背後にあらわれた。
大ババだった。
「かのアトランの言葉をつかう少年の出現もまた、ひとつの予兆であろうからのう」
「大ババ様!このようなところにまでお出ましになられて、御体は大丈夫ですの?!」
火見華があわてて駆け寄ると、大ババの体をささえた。足萎えとして、めったに姿をみせぬ彼女が、初めて自ら御簾の向こうからすがたを現したのだ。
だが夜の影は濃く、また彼女の姿は影より薄くて、夜目につよい森射やオズヌにすら、その姿はよく見えない。魂と同じく、肉体まで半分、冥府の世界に隠れているかのようである。
「吉備の知恵袋のおでましか」
オズヌが面白そうにいった。大ババは、地響きがするような声で笑った。
「このところの変異には、さすがの行者殿も、落ちついてはおられぬようになったかえ」
「時代の鳴動が、俺にも聞こえてくるのだ」
オズヌは少し考えるような声でいった。
「わしの占いにもな、このところ不吉な影ばかりが映るのじゃ。それも、かならず南方――その災いをもたらすであろう原因は南方の地、日向より、やってくるであろう出てくる」
『災い』その言葉の意味することがなんであるのかわからないが、その場にいた者は身をブルリとふるわせる。
大ババの占いはいまや神業にちかい。
外れることは半世紀に一度あるかないかだろうし、小さなものであれば、彼女がわざわざこうして人前に出てくることはない。それがどれほど尋常ではないであろうことだけは、確かである。
「では、まずは倭国に居ったことのあるという、オズヌ殿の話から伺おうかのう」
大ババは、噂にきくが、まだ見せたことのない力量を問おうとでもいうかのように、指名した。大概の情報ならば、彼女の耳に入っているからだ。
「あの国の滅びの笛は、すでに鳴っている」
斬って捨てるように、オズヌはあっさりいった。
「王の形骸化はとうの昔にはかられているし、豪族や貴族どもはおのれの欲望と、権力への妄執に腐りはてていて、いまやブタよりも劣る存在だろう。もはや国の泰平や、民の生活の安定などを願うものは一人もおらぬからな。ただ私服を肥やすことのみを考えている欲望の亡者どもだ」
微塵の感情もはさまれない声だった。
「さらに悪いことに、やつらは富をエサに、アトランやら、大陸から、得体の知れぬ技術者をまねき、よからぬことを始めようとしている。その内容は詳しくは俺にもわからぬが、生きた人間の体をつかい、怪しげな実験をしたり、おぞましい魔術によって力を得ようと、家畜や人間を――生贄としてささげ、多くの血をながしていると聞いている。そこには、なにが暗躍しているのか、一切の情報がもらされぬようにと、非常な警戒体制をしいておる。ただ事ではないであろうな。倭国もまた、その風潮を受け入れる兆しをみせ、何をもって作られたかわからぬ薬やら、食物やらが、民のあいだで流行し、好んで食べられているらしい」
オズヌはさもいやそうに顔をゆがませた。
「それは人が食するものではないことは確かだ。精神――いや、脳それ自体を狂わせ、廃人にしてしまう。または死ぬまでやめられぬ淫行に酔わせたり、女を性の虜にしてもてあそび、いらなくなれば簡単に捨てもする。そのようなことを平気でしておる。死骸が裏町のドブに幾体も平気でうちすてられ、血が川や溝にながされ、中には年端もゆかぬ子供ばかりが浮いているところもあるという。空気はよごされ、土地は枯れ、よけいな手を加えたばかりに、川は汚濁し、流れさえ滞っている。それによって、雨がふれば大水になり、降らねば干上がり、飲み水にもこまっている」
そう言いながらふっと笑う。
「山がくずれ川は干上がり、災害はふえつづけてはいるが――そのような話ならば、大きな都市であるならば、大小の如何にとわずあるはずだ。だがこと倭国においては、すべての悪行、悪道は、大宇宙の法からもはや離れ、常識の範囲を逸しておるのだ。――そう、文化は頂点をきわめると、もはやあとは崩壊への道をたどるのみ。それこそが自然の流れでもあるからな。滅しては起こり、起こっては滅っするという盛者必滅のことわり。その流れを、人間が無理に捻じ曲げようとするならば、そのときには巨大な歪みは生じであろう」
誰もが口をはさまなかった。静かだった。
オズヌは続けた。
「はじめは小さなさざなみのようであっても、それは次第に大きくなり、ひとつの国を飲み込むほどの津波となる。人の作ったうたかたの営みなど、嘲笑って飲みこむことだろう。その時、その瞬間まで気づかずに、己の愚かな饗宴によいしれるのだ。――その最も典型的な例がアトランといえような。アトランはすでに魑魅魍魎が跋扈し、堂々と悪鬼どもが猛威をふるう地獄の街となっていると聞く。科学という、人間の産みだしたおぞましい技術力にうぬぼれ、溺れてしまい、すでに死者の国となっているのだ。そしてまた、倭国もその後を追うかのように第二のアトランへと変貌しつつあるのだよ」
「第二の、アトラン……」
アギトがつぶやいた。
そのひとみは重苦しくあやしい光をはらんでいた。
オズヌはちらりと森射に目をしのばせた。嘘も虚無もあまさず映しだす火焔のような彼女の瞳にうっとりとしながら、話をすすめる。
「倭国は、もうずっとさいぜんより、アトランからの科学者を数多く招き入れていた。また魔道に身をそめているという、大陸の不審な連中と通信をとり、何かをたくらんでいるとも聞く。なにやらあやしくて嫌な気を発している巨大な施設があちこちに建っていることからも、かなり真実味をおびている話だろう。その警戒も、いまだかつてないほど厳重だしな。さすがに俺も潜りこめなかったほどだ。いちいち機械によって照合が行われなければ扉が開かれなかったり、入り込むものによって、廊下の道筋がかわるらしい。――それを知らずにのりこんで、死んでいった仲間も少なからぬ。あそこで何が行なわれているのかは分かっておらぬ。完全な秘密が保たれているのだ。だがそれだけの労力を払うだけの価値があるということでもあろう。それだけの富をうむのか、荒廃をうむのかはわからないがな。だが倭国の主だった貴族達は、秘密裏にだが、よくそこを訪れているというぞ」
火見華がただならぬ不安に襲われたように、ブルリと身を震わせ、自分を抱きしめたずねた。
「倭国はなにを考えているのでしょうか?」
「なにをしようとしているのか……。だが、あまりそれらは歓迎すべきことではなさそうなことは確かだろう」
森射が嫌な予感がするとでもいうように、厳しい顔をしてうなずいた。
オズヌの後ろに隠れるようにいたアギトは、倭国で起こっていたことが、彼が考えていたことよりもあまりに深刻であり、心やすからぬ状況であったことをしり、どうにか己のなかで整理しようと耐えるように、唇をかんでいた。
あれこれと思案する顔は政治家のようであり、また遠い目をしている。
ヤマト国としても、敵対国である倭国には並々ならぬ注意と関心をもち、つねに警戒をしていたはずだった。
近年の荒廃ぶりは耳にしていたが、彼らが行っているだろう生臭い研究の内容までは、さすがにつかめていなかった。
少しでも不審な行動をとる者や、無作為に近づこうとする者があるならば、表情をもたない機械のような兵士たちによって、容赦なく殺されてしまうのだ。腕利きの間者といえど、近づくこともままならない状態なのだった。
アギトがぽつりと言った。
「アトランと倭国か……どういうつながりなのかはわからないが、両者とも、不気味な存在であることは知っていた。あのおぞましい力はそこから来ていたのか……」
倭国が、アトランという国の文明と科学力を狂信的に崇拝していることは、昔から公にも知られていることだった。
交易をさかんにし、学者や術者を多く留学させたり、招いてきては高位と特権をあたえ、永住させたりしているのもその一つのあらわれだろう。アトランの文化がつねに最高とされ、真似しつづけ、ずっとそれをよしとしてきたのだ。
オズヌは少し鼻白むと、小ばかにしたように言った。
「いまの倭国の呪力ならば、ヤマトの密偵などすぐに見破ってしまうだろうさ。本州随一の強国と誇るにしては、粗末なもんだ。あの程度の能力者など、その場で即座に抹殺されて終いさ。まあなら、俺でなくとも簡単に見破れるだろうがな」
「なんだとッ?! 」
アギトは怒りをカッと顔にのぼらせたが、すぐに表情をけした。
ここで侮辱されたと怒ってみてもしょうがない。自分がヤマトから来たのだと言っているだけであり、また事実、そのぐらいの能力者しか、ヤマトにはいない。
アギトの感情のゆれを楽しむかのように、オズヌは人の悪い笑みをうかべ、話を先へやる。
「だが、やつらの警戒ぶりはただごとではない。我ら行者の情報網をもってしても、掴めぬのだからな」
裏の世界の情報網は、それこそ全国各地に張り巡らされている。
行者たちは、個人で動いているようにみえても、おなじ道を歩む同士として固く結ばれていた。地下にもぐれば、各地で行われていることでわからぬ情報などないであろうと囁かれてもいる。
いわば全国いたるところに諜報部員がもぐりこんでいるようなものである。
だからこそ、どんな国でも、彼らの活動を大目に見て、幾分、いきすぎのきらいがあったとしても、沈黙している。
彼らを怒らせて、自分たちの不利になるようなことを、他国にもらされたくないからである。貴族たちは滞在を歓迎さえして、少しでも有利な情報を得ようとご機嫌をうかがったりしていた。
その彼らであってさえ、誰も掴めていないのだという。
「言いかえれば、それほど警戒し、我さえ拒むということが、ろくでもないことをしている証拠でもあるわけだ。まさに、魔都としかいいようがないな」
魔都という、淫猥でおぞましい響きをもつ言葉は、なんとしっくり今の倭国にあうことだろう。
すでに人間の犯すべき範疇をこえているだろうことは、森射にもよくわかっている。目のまえで眠る、土気色の顔をした少年を見れば、これ以上ないほどの残酷さが、一目瞭然でみてとれる。
苦しい息がもれ、いまだ悪夢から逃れられないでいた。
森射は少年の頬をなで、触れる指先から彼女のエナジーを送りこんでやった。わずかだが、あえぎがへるのに、森射は愛しそうにみつめる。
体中に走る傷跡は耐えがたい。こんなにほっそりとした弱々しく小さい少年に、どんな悪鬼の心を持ってすれば、そのような行ないができるのかわからない。
「あそこは地獄だ……」
「えっ?」
「あそこは地獄だ」
しぼりだすような声で、イサナが言った。
「イサナ……」
森射がつらそうに名をよんだ。イサナの固く握られた拳がかすかにふるえている。きっと思い出したくもないおぞましい思い出が彼のなかで甦っているのだ。
みなの目はイサナに集中されていた。めったに発言しないイサナのつぶやきは、まさに心からもれた怒りとしかいいようがなかった。
これ以上言葉にできないとでもいうような憤怒と、そして切れるような悲壮なオーラは、あまりにもつよくて、もはや常人にさえ見えるほどに膨れあがっていた。
「イサナ」
森射がもう一度呼んだ。イサナはハッと顔をあげた。森射の声の優しさに、おちいりかけていた思考の闇からもどってくる。
みつめる森射の目になにを読みとったのか、なんともいえないほど切なく、甘く狂おしい、胸が痛くなるようなまなざしで彼女をみつめた。
「……この少年はなんという目をするのだ」
オズヌはたまらず喘ぐようにつぶやきをもらした。まるで彼が欲しくてたまらなかった宝石を、イサナがもっていた、とでもいうように、その声は嫉妬をはらんでいる。
大ババの深くて重い息が長く闇のなかから聞こえてきた。
「まったく、なんということかのう。よからぬ噂ばかりを耳にしてはおったが、あの偉大なる日巫女様が導きたもうた、古代王国の倭国が、本当にそのようないかがわしい魔都となりおうせようとしておるとはなぁ。わしは思いもせなんだ。いや、知っておったとしても、きっと信じれなんだであろうかのう。倭国に異変がおこるとは、微塵も思いたくなかった。これはわしの慢心じゃ。……日巫女様は、いつもいつも、わしらに、天の道からはずれるような事だけは、してはならぬと仰られておった。あの方は光り輝く星のごとくに、しずかに、だがつねに我らを諌められておられたのに」
ガタンッと石を跳ねつける音がして、森射は少年に振りむいた。
少年は、まるでそんな真似ごとのようなまじないでは、とうていこの苦しみは誤魔化されぬというように、ひどくもがきあえぎだし、周囲の石をはじいていた。
悪魔のかけた呪縛は、少年の心身の底にまで浸透し、もはや手のほどこしがないほど痛めつけているのだ。
甦った苦痛はさらにそのひどさを増したようで、少年は我を忘れもがくうちに、石を力らいっぱい握り、ひっかくのに、もろくなっていた指先の皮膚がただれて出血しはじめていた。
少年はカッと目を見開き、幽霊のようにフワリとたちあがった。念波のつよさに共鳴して、満ち石の力がいっきょに発動しはじめる。
気は膨れあがり少年の髪が逆立ち、石をにぎっていた爪が長く鋭くのびあがった。目が金色になり、虹彩がネコのように細くすぼまる。
そのすがたはなんと魔物めいていることか。
「これは――?!」
オズヌが少年の邪気に反応するかのように唸った。これが人間か、と言いたげに忌まわしげな目つきである。
森射はかまわず進みでると、少年を救わんとするかのように手をのべた。
エネルギーの増幅に耐えきれず、石がくだけ飛び散り、破片が森射の頬をかすめた。腕からは血がたれ、数ヶ所以上切られている。
それにもかかわらず、森射はただまっすぐみつめ、涙を浮かべ暴走する少年にさらに進みでると、自分の力に怯えている少年に、彼女のやわらかな腕(かいな)をまわし、抱き寄せた。
「アアッ!」
少年は悲鳴のような声をあげた。そのまま森射の腕に倒れこんだ。
黒い血を吐きだしはじめる。
ヘドロのような腐った匂いがした。よくみれば、それは内臓のようなものだ。
体内にまわっていた毒に犯され、もはや内側はボロボロだったのだ。吐くものもなく、黒い血が呪われたように流れだしている。
森射は少しでも吐きやすいように背をさすってやった。泣きながら何かをうったえかける少年にやさしくうなずいていた。
少年は苦しげに毒の血を吐き終えると、なぜかしら満足したように、衰弱した体を森射にゆだね、ぐったりと横たわってしまった。
「姉様?」
森射はまた、流麗なこえで歌っていた。
少年の顔は安らかになり、顔色こそは、もはや子供の淡くまろやかな色には戻らなかったが、心配ごとのきえた、安らぎにみちた、子供の表情をとりもどしていた。
母に甘える赤子のように、柔らかなまるい乳房に顔をおしつけていた。
なにかを目でうったえかけるように森射をみあげ、森射の目が微笑むのと、心がきしむような霞のごとく淡い笑みをのこし、そのまま息を引き取ってしまったのだった。
「安心して、お逝き」
少年の内蔵は、すでにどこもかしこも朽ち果てていた。いままで生きていられたのが不思議なくらいである。
微弱な満ち石の力にさえ、耐えられないほど衰弱し、病み果てたその苦しみにずっとのたうちながら、それでもここまで逃げて来たのだ。
森射は少年をだきしめていた。
長いまつげがかすかに震えていた。
ほんのわずかしか生きていない小さな魂が、どうしてこんな無情な死をむかえねばならないのだろう。彼はまだ、一度の楽しみも喜びも知らないというのに、苦しむだけ苦しんで、生の喜びを感じることなくこの世を去っていくなんて、そんなことにはたえられない。
愛しいぬくもりが腕から消えてゆくのに、森射は憐れで小さな魂の救済を、神に願わずにいられないように抱きしめた。
我が子を抱く母のような森射の姿に、だれも声をかけることができなかった。
ただひとりだけ異様なものでも見るように目を見開き、青ざめている者がいた。
アギトだ。
アギトは、まるで終わらない悪夢でも見ているかのように体が震えていた。
「明須葉……」
それは、彼が忘れたくてたまらない、そして決して忘れることのできない、妻の名前であった。
自分でつぶやいた言葉を聞いて、アギトはよけいに恐怖におののき、苦しみを押し隠すように唇を強くかみしめていた。
それでも森射からは目がはなせられなかった。魂ごと吸いつけられたとでもいうようにみつめるほかない。
カタンッと扉のしまる音がした。
イサナが飛び出していった。
怒りに形相をかえて出てゆくイサナがもらした言葉は、だれにも聞こえなかった。だがその唇は、たしかに「許さない」、と形づくっていたのだった。
悪夢でもみたかのようにげっそりとやつれたアギトは、まるで生活につかれきった老人のような顔をしていた。そまま、のっそりと裏山のなかへとはいってゆく。
普通ならば、ただ森射が子供を抱いている姿に、なにも驚き怯えるようなことはないというのに、彼はひどく狼狽し、うろたえていた。
とうとうその光景に耐えきれず、逃げ出してきていたのだ。
「明須葉……すまない…」
血を吐くようにいい、アギトは何度もそうくりかえしていた。
彼の目の前には、どこまでもひろがった赤い血と、苦しげに身悶えている女性の姿が焼きついていた。
生々しい臭いまで甦ってくる光景は、どんなに拭おうとしても、脳裏からははなれない。
征服国のひとつである、河内の国にいる現地妻の、一人にしかすぎない娘だった。
妻にむかえたときは、王家の血族だという話であったが、とりたてて、目をみはるほど美しいというところもなければ、誉めあげるような美談もなく、ごく普通の、いや普通すぎるほど平凡な女性だった。
だが彼女の本当の美しさは、外見から推し量られるような軽く薄いものではなかった。
ものしずかで、ひっそりとした心のうちに通う温かさは、どんな女の持つやさしさよりも大きく心地がよくて、深い海のようだった。
その深さのぶんだけ、人の心のよくわかる、心こそが美しいひとだったのである。
そしてまた、彼女も寂しいひとでもあった。
いつであっただろうか、彼女は、自分などどこに居ても、居なくてもかわらない、どうでもよい存在なのだとひっそりと言ったことがあった。
だから政治の手駒として差し出されたのだとも――。
彼女のなかの寂しさがよけいに愛しくもあり、いじらしくもあって、可愛くおもえてきた。
政略婚というだけではない、血のかよった愛情を、彼女に抱くようになっていたのだ。
二人は本当に愛し合った夫婦のようにむつまじくなっていった。子供ができたと聞いた時、アギトはどれほど嬉しく思ったかしれない。
家族ができることも初めてだったが、それが意味することはもっと大きい。
もはや彼には帰るところができるのだ。どんなに離れていても、血というつながりが永遠にきえることなく存在する。あの壮絶な孤独からときはなたれ、安らぎを与えてくれるものたちが存在する。
「明須葉……」
だが、臨月も近くなりはじめたとき、彼に異変がおこりはじめた。
まさに、自分のなかで荒れ狂う悪魔が、ついに自分の制御をくいやぶってしまった。乗っ取り、己を支配してしまった。
暴走する荒馬が、まわりのすべてを傷つけ、破壊し、なぎたおしてゆくように、狂気が彼のなかで一杯になった。どんなにもがこうとも、それを抑えることができなくなってしまった。
わからなかった。
いまでもわからない、どうして自分があんな風になったのか。
どうして、あんなおそろしいことをしてしまったのだろうか――。
頭のなかが真っ赤にそまり、怒りと呪いと憎悪がうずまいた。悲しみがかさなり、何もみえなくなってしまった。なにかを叫んでいたが、それすらもわからない。
明須葉の声が聞こえたような気がした。
だがその時は、ただ余計に腹立たしく思え、すべてをめちゃくちゃにしてしまいたいという悋気と欲望に勝てなかった。快楽におぼれ、心のおもむくままに破壊と殺戮の熱におぼれて行動していったのだ。
そして気がついた時には――
目の前は真っ赤であった。
みたこともない赤い鮮やかな血を流して、明須葉が倒れていた。あまりの状況に、呆然とたして、ただ、立ちつくしているばかりだった。
『――なんということを!子供は絶望的ですぞ。明須葉様のご様態も最悪です。……もはや二度と子供は望めますまい。子宮がぼろぼろに――』
医師の冷たく診断する声がとおくに聞こえた。
アギトはその無残な事実がたえられなかった。
自分が犯したのだ。なぜそんな事をしたのかわからない。なにが起こっているのか、なにがあったのか、まったくわからない。
わかっていることは、自分がおぞましい化け物にかわったということだけ。
つぎに気がついたときは、ふたたび血の中だった。
医師さえも、目の前で体を二つにおり、息絶えていしまっていた。
アギトの心は、もはや二度目の絶望と恐怖にはたえられなかった。
自分は狂ってしまったのである。
悪魔のような咆哮をのこし、走りにげた。
おそろしくてたまらなかった。
何かが、どこかで間違ってしまった。重い戒めからはなたれた魔獣が、アギトをわしづかみ、魂ごと咥えこんでしまっていた。そのうちふたとめみられぬ化け物に変わってしまい、望むままに血を求め、荒れ狂うのだ。
逃れたい。自分の運命からも、自分自身からも――。
三日三晩、ねむることもなくひたすら走りつづけていた。わけもわかず、ただただ、そこから逃れたくて、はだしのまま、気がふれたように走って逃げた。
狂ってしまったのだ、自分のなにもかもが。
愛する妻を残虐に切り裂いてしまった。待ち望んだ腹の子を殺してしまった。
悪魔と化し、これから自分の魂に触れるものすべてを殺してしまうにちがいない。
だが、以上に、だれか少しでも心をわけあたえた者を傷つけることには、もはや絶えられない。そうなる前に、自らの命を断たなければならない。
そう思ったアギトは、剣を首の動脈に押しあてた。
ヤマトを出て、何日たったかわからない日のことだった。
そして、そのまよいこんだ森の奥深くで、最後の光景に目をうばわれた。
森射の姿を見たのだ。
まるで野の草や風、そこにまどろむ虫たちなどの自然と心をかわし、たわむれているようであった。ほんとうに繊細で美しかった。
あまりにもきれいな光景は、幻想的すぎて、夢をみているのかとも思えた。
もしかしたら最後に見るという、優しくてかなしいまでに儚い夢なのかもしれない。
悪鬼になどけっして許されない天女の微笑みは、蝶ですら、永遠に休めたはずの羽をひろげ、飛び立ってゆくほど、生命の力に満ちているではないか。
心がうち震えた。
このひとに逢いたかったのだと、心がつげていた。
だが自分のような悪魔が見てはいけない神聖なものだとすぐにわかった。本能的が激しく警告を発している。
目がつぶれるまえに、それからも逃げだそうとフラフラと森の奥へとまいもどった。
そして、今度こそと首にナイフできりつけたのだ。
そのとき、前にたおれこみ、そのままがけ下に転落したのだった。
あたりが真っ暗になり、これで終れると思った。この絶えがたい傷みすら、神がくだした罰であり、心地よく感じられたほどであった。
だが天女は見捨てなかった。
自分の悲しみの声をききつけ、舞い降りてきてくれた。温かい手をさしのべると、もう大丈夫だよとささやいてくれたのである。
「森射っ……」
あのわずかなひと時だけは、恕されたように思えた。森射に恕されるのならば、生きる価値があるのかもしれない。
だがそれはやはり錯覚でしかなかった。
先ほど森射が子供を抱いていた姿が、いやでも事実を思い起こさせる。忘れるな、お前は悪魔なのだと、それをつきつけてくる。
いるはずのない我が子を抱いていて嘆く明須葉の姿のように思えた。
おまえが殺した可哀想な子供だと責められ、決して忘れてはいけないと戒められたようだった。
罪はまだ許されていない。少しも許されていないのだ。
何というおろかでおぞましい罪を犯してしまったのだろう。どんなに逃げても、いまだ、あの狂気は自分から去っていない。いつでも狙っている。
時々その存在を刻みつけ、思い起こさせるように頭のなかで沸きたった。いつでも出てくる隙をうかがい、アギトのなかで虎視眈々と、もっとも効果的な出番を狙っている。
木の根元に隠れるようにうずくまっていた。アギトは宮からでてくる森射の姿に目をとめた。森射は子供の亡骸をだいていて、風のような歩みで山に入ってゆく。まるで草の上をすべっているようだ。
あんなに細いたおやかな腕なのに、アギトをかつぎあげ、この祈りの宮まで運んでくれた。死ぬはずの運命を、生にかえてしまった。
そして今また彼女は、その同じ手で、生から死へと変わってしまった少年を抱き、山に連れてゆく。
緋色の髪がゆらゆらと涙のようにゆれ、まるで森射の心の悲しみをあらわしているようだ。
彼女は自分の悲しみをどうして癒すのだろう。あれほど他人の心を真っ直ぐうけいれて、どうして生きていけるのだ。
アギトは我気づかぬうちに、フラリとたちあがり、無意識に彼女の後を追っていった。
彼女のことを知りたい、その強さのわけが知りたいと、ひたすらに思ってしまう。
森に入れば、森射の感覚はさらに研ぎ澄まされる。きっと、アギトがついてきていることなどすぐに知れるだろう。
かまわずあとを追い続けたが、森射はなにもいわなかった。ザッザッザッと草を踏む足音と、どちらのものか知れない呼吸音だけがきこえてきている。
南方につづく尾根が見えてきた。
アギトは森射と呼吸を合わせ走っているうちに、彼女の心がひどく傷つき、怒りに燃えたっていることに気がついた。
あまりにも理不尽で無慈悲な少年の死に対して、どれほど憤激し、だれがなんの権利をもって、これほどまでに過酷な生を負わせ、また勝手に終らせたのかと、目にみえぬ敵にむかい怒りの声を上げている。
森射のあまりの激しさにアギトは驚いていた。
平素は、けっして自分を見失うこともなく、感情を乱すこともないようにみえた彼女のなかには、これほどまでに激しい感情が眠っていたのだ。
こんな感情をまともにぶつけられれば、普通の人間ならば、簡単に飲み込まれてしまうだろう。誰かを支配してしまうことなど、きっとたやすい。
アギトは見失わないように必死で追っていた。走っていたアギトのまえで、森射は不意に足をとめた。
急にひざまづいたかとおもうと、茂みのほうへと手を伸ばした。よく見ると、その茂みのなかには、もうひとり、別の少年が隠されているではないか。
かきあつめられた枯れ木や草をつみあげてつくられた茂みは、小さな山となり、そのなかへ、まるで傷ついた動物がじっとそこで身を癒しているかのように、丸まっている。
そこからのぞく小さな顔は、なんとなく森射の腕のなかの少年とよく似ている。
だが、それは死に顔だった。恐ろしい夜の闇を超えながら、その魂はしずかに旅立っていた。
もしかしたら二人は兄弟なのかもしれない。いや、同じ運命をせおわされ、同じ苦しみを味わいわけあった同士の痛みの表情だろうか。
森射は腕のなかで永遠に眠ってしまった少年を、その少年のすぐそばに横たえた。
森射は山のかたい土を掘りはじめた。
素手のまま夢中でがりがりと堀り続けている。
「森射……」
指がしだいに赤らみ、するどい小木の硬い根がつきたち、みるみるいたんでいくのが見えた。それでも森射は掘るのをやめず、祈りを込めるようにひとかきひとかき穴を穿っていった。
たまらなくなったアギトは隠れていたこともわすれ、一緒に穴をほりはじめた。
一生懸命掘りはじめたアギトに、森射はやわらかな視線をおくり目をほそめた。
「この子がね、相棒のところまで連れて行って欲しいといったんだ。一緒に、せめて一緒にうめてほしいってね」
アギトは横たわっている二人の少年に目をやった。
気のせいだろうか、表情がさきほどよりずいぶん和んでいるかのようにみえる。死後の硬直からきたのだろうが、口が笑みにひらいている。
アギトが思いをめぐらせるようにいう。
「きっと、二人で、それこそ命がけで逃げ出したんだな。なのに、この子だけが、途中で息耐えてしまったんだ。――逃げ出せば、命はないとわかっていても、それでも逃げずにはいられなかったんだろう」
「そうだな。それが、どんな思いだったのか、想像もつかないけれど……」
幼い胸のうちをおしはかり、森射の言葉がとぎれる。
「それでも二人だったからこそ、どんな苦境にも耐えられたんだ。なのに、この子は相棒に逝かれてしまった。こんなところにおいて、一人だけで、どんな気持ちであそこまで逃げて来たんだろう」
森射の声がふるえる。
きっと、まだもしかしたら、誰かが相棒を助けてくれるかもしれない、本当は生きていて、手当てをすればどうにか息を吹き返すかもしれない。そう思い、必死であそこまで走ってきたのだ。
最後の救いを求める声をあげて、イサナがその声をききとった。
望みを託したからこそ、追っ手にみつからないよう、相棒の姿を隠した。木を上手く組あわせ、呼吸を妨げないようにして、埋めなかったのだ。
「よくわかったな、彼の言っていることが」
アギトにはほとんど唸っているとしか聞こえなかった。必死で懇願していることはわかったが、その意味を理解できただろう者はいないだろう。
「言葉は、ただ耳に聞こえるだけのものではないからな」
森射はアギトをみつめた。
「だからおまえの言葉もわかったんだ。助けを求めている声が、私の耳を打った」
「俺の……?」
アギトは手をとめ森射を不思議そうに目を見開いた。
森射はそれ以上なにもいうことなく、アギトの視線をうけたまま、かなり深くなった穴に二人の体を横たえた。手を合わせて祈ると、再びうめていった。
森の木々が、風のながれる道にそってざわめいていた。
夜だというのに、光が星のおとす粉のように舞い降り、森射にまとわりついていった。
森射はまるで何ごともなかったかのように整地すると、立ちあがった。
光は、尾をひいて森射と共にうごき、まるで一個の生き物のようによりそって、甘く身をよせ、ほおずっているかのようさえみえる。
「……それは、なんなのだ?」
夢でもみているかのような気分になってきた。視界が光ににじんでゆく。
森射が手をわずかに動かせただけで、光は大きく反応する。まるで巫女の舞いをまっているかのように優雅にたなびく。
森射は少しもおどろいていない。まるでなつかしむような仕種で目元をゆるめ光をだきしめる。
「大丈夫、この子たちは一緒に悲しんでくれているだけだから」
森射は目をつむり空をあおいだ。
「父様、どうかこの幼い二人の御霊をみちびきください」
光たちはその言葉に反応するかのように一つに固まり、二人を埋めた穴の上でさらに輝きはじめた。
アギトが吸い寄せられるように一歩ふみだしたのにあわせ、いっせいに空にむけ、消えてしまった。
「なんだ……なんだったんだ、あれは……?」
いきなりおとずれた暗黒のような闇に、アギトは魂をぬかれたようにぼんやりいった。
「森の精霊たちと、この地に眠る私の先祖の御霊が、私の願いをききつけ、あの子達を連れに来てくれたんだ」
そういって森射は遠くに目をやる。
その瞳は、漆黒の闇にすら赤く浮きあがり炎のようにみえた。
人ならぬものの姿を見てしまい、またのぞいてはならぬ神聖な秘密をかいまみたようで、アギトはふいに背筋がつめたくなった。
そこにあるのは人の子のもつ美しさを過ぎた、恐ろしい妖魅であろうか。
「おまえは、何者なんだ森射」
森射の深淵の赤い闇をたたえた瞳がゆっくりアギトにふりかえり、全身をつらぬいた。
ゾクッと鳥肌がたち、頭上に巣食っている何者かが共にふるえた。
「私の母は人だった。私は、だから人だと思っている」
「普通の人間にあのようなものが寄ってくるものか?あれは、あれはまるで……っ」
この世のものではない、遠い向こう側にいるべきである、あちらがわの――闇の住人、のようではないか。
「べつだん、あの子たちを見ることができる者ぐらいならば、この吉備には大勢いるだろう。そう驚くことではないさ」
ただ、それらがあれほど心をひらき、身をよせてくるかはわからない。
「アギト、それならばおまえに憑いている影のほうがタチが悪いといえるぞ。それはおまえを今にも飲み込もうと揺らめいているのだからな」
「なんだと――?」
痛いところを貫かれたようにアギトは動揺をおもてにだした。まさかそれまで見ぬかれていたとは思わなかった。
背後の影が不吉にふくれあがる。
影の支配力がつよまった。
アギトの思考回路をおそろしい力で切断する。だれか他人の、ひどく悪意にみちた意識につながってゆき、ひどい暗黒の闇が舞いおりる。
「や、やめろ、俺をみるな……」
森射はじっとアギトをみつめていた。音もなく闇を――罪をみつけ出され、アギトは大きく身震いをついた。
「コレをみるな、みないでくれ森射!」
懇願するようにさけび、目をそらした。一歩づつ後退してゆく。
「みるな、頼む――!」
顔を手でおさえ、逃れるように頭をふった。
赤い瞳がアギトのなかへ深々と突き刺さり、みにくい暗部をさらけ出し、白日のもとにさらけだしてゆく。必死で隠そうとしているのに、その瞳は何もかもを見抜いてしまう。
「俺は、罪人だ。――俺のなかにひそむ残酷な血を、俺はじぶんで止められない。狂っているんだ、おぞましい悪魔なんだ。やめろっ、そんな目をして俺の中をあばかないでくれ!」
熱くたぎる溶岩のような血がゾロリとうごめいた。それが目醒め、はいだしてくる。
「ヤツが暴れだす。俺には止められないんだ!逃げろ森射!」
頭上の影が一気にひろがりアギトをおおった。
まるでえぐられた穴から漏れでる、宇宙の果てのような闇だ。
この世にはありえない波動の乱れを感じさせている。それはまるで異次元から時空をねじまげて侵入してきた宇宙霊のごとく、極悪な思念を有している。
木々や植物、生き物たちが悲鳴をあげた。
生命あるものすべての根源を冒すような邪悪さに満ちたあふれた影があたりを侵食していった。
アギトがあえぎながら膝をついた。
重くのしかかり、アギトのエネルギーを吸い取るように、影のなかからさらに深い不吉なモノがのび出してきた。
森射のめのまえに現れると、ドロリと重くとぐろをまく。
『もうすぐだ。――もうすぐ、おまえを迎えにゆくぞ森射。我が花嫁、産まれながらにして生と死の秘密を知る、稀有なる者よ、我は長い時をまっていた。もうすぐおまえのもとにゆくぞ、待っておれ』
それは赤い舌をおぞましいほど伸ばし、生臭い息をはくと森射の頬を舐めあげた。
『おまえは我のものだ。我れの花嫁だ、森射よ』
「魔性の闇、ここはおまえの来る場所ではない。生者のすむ現世の世界だ。おまえは自分の相応しい黄泉の国にかえれ、魔性の世界へもどるがいい」
舐めていた闇がビリッと電気にあてられたようにふるえた。卑屈にねじまがったような笑い声がした。
『もうすぐじゃ……もうすぐ、待っておれ、我が愛しの花嫁よ…待っておれ……』
「消え去れ悪魔っ!」
森射が一喝するように叫ぶと、天空がひらめいた。
光でできた蜘蛛の巣のようなものに覆われた。
影は一瞬で霧散された。
光が一層つよまり、穢れを浄化しているかのように輝く。
それは聖なる吉備の御山に敷かれているという、太古の結界石の力であった。
生命力に満ち満ちた巨石を環状にならべ、大地からうまれるエネルギーを増幅させることによって、邪悪なるものの進入に即座に反応し、排除するようになっているのだ。
巨石の未曾有の力をしる国ならば、どこでも行っている結界のひとつでもある。巫女たちの指示によって、いまだ土地の要に敷かれ、邪悪なる存在が侵入するのをふせいでいるのだ。
「いまの声はだれなんだ……」
アギトはふらふらしながら立ち上がった。脂汗にぬれた前髪が重そうに目のうえにかかるのをかきあげた。
「……死の影だ。私の母と、現吉備王の祖父――、温羅を殺した、過去の悪夢の、再来だ」
口調が強められる。
「おまえの母親と、王の、祖父?」
「そうだ。どうやら私は、『死』というものに昔から好かれているようだ。――だが、今のおまえも、そのようだなアギト」
アギトはびくっとした。
そのとおりだった。
あの闇は、アギトに憑いてやってきた。アギトこそが今だれよりも深く魅入られ、とりこまれそうになっている。
アギトは答えられなかった。答える術をしらない。
その闇はまだ、なんなのかわからない。今この時は小さくなりはしていても、まだかすかだがひっそりとよりそい、アギトからはなれていないのである。
森射は悔しげにうつむくアギトをじっとただ見つめていた。
その目には、闇の後ろにあるものがはっきりと映し出されていた。
バタバタバタとあわただしい、いくぶんか苛立ちのおさえきれない癇癪じみた足音が廊下をふみ鳴らしていた。
どれも恰幅のよい壮年の男ばかりであった。
よほどのことがあるらしく、どの者もみな一様に気難しいしい顔つきをしている。
「まったく王はどういうおつもりなのじゃ。このような不始末をしでかしておきながら、姿をくらませるとはっ」
きびしく言い放ち、舌打ちをしている。
ヤマト国の大臣のひとりである橘は、顎にはえた銀色になりつつある髭をたくり、厚い唇をいかめしくひっくり返した。
「まったくもって無責任じゃわい。王のなさりようとは思われぬ」
「まったくでござるな。まさかあの聡明で理知的な安伎人様が、まことあのように残忍で愚かなことをなさるとは、思いもしませなんだわい」
困ったもんだとあきれるように、となりの柚高が相槌をうつ。
円卓をかこむように渋面をつき合わせていたのは、いまや本州随一の大王国にまでなりあがったヤマト国の重臣たちであった。
政治の中枢をつかさどる朝堂院の正殿、大極殿の広間である。
ここでつね日頃から、王や大臣、それに参謀、各省庁をまとめる国の司などが顔をよせては、国政をとどこおりなく執り行うべく、重要な会議をおこなっているのだ。
国のすべての機能はここで計られ、王によって最終的な判断がなされる重要な場所でもある。
だが、ここ数日のあいだ、そこに王が顔をみせることはなかった。残されている困惑顔の大臣ばかりがくる日もくる日も集っているだけである。
どの顔も戦術にたけた武術国の男のものではあるが、それぞれがただ野生のみに突っ走るだけではない、理性的に引き締まった顔をしている。体躯こそいかめしいが、重々しさを感じさせる貫禄すらそなえている。
「たかが征服した地の現地妻などを殺しかけたことぐらい、いかようにも理由がつけられようというのに。よもや逃げ出してしまうとは、あの方の悪い一面がでてしもうたわけじゃな」
右大臣の中野辺が忌々しそうにいった。
「本当に、日頃はあれほどまでに有能であり、慎重に行動される方であらせられるのに、ほんのちょっとした、些細なことに、どうももろい。かの国など、取るに足らぬ小さな国、謀反をおこそうとしたとか、不義をはたらいたとかと、いくらでも理由はつけられように。まして相手は敗戦国なのだ、逆うことなど皆無」
しかも王家の血縁とはいっても、そう重要な存在ともおもわれない、普通の女なのだ。
「まこと、各国への侵攻がすすんでいるこの大事な折に。こんどこそ倭国を潰せる絶好の機会が巡ろうかという時になって、王は何を思うておられるのか……」
無能だといわんばかりに苛たしげに言う。
今まで起こしてきた各国への侵攻も、ひたすらに、かの大国、倭国へと攻め入らんがための戦略でしかなかった。
要所随所をおさえこみ、重要な拠点をつくりあげ、輸送物資や、援軍にこまらぬようあしがかりをしっかりと手立てを組んでいた。大軍をひきつれて、倭国を攻めいるのに困らぬ準備はほぼ整っているのだ。
倭国をヤマト配下にくだす。それがヤマトの王家や貴族、いや国民の、ひたすらな悲願であった。
口にこそださないが、つねに倭国にはひどい劣等感を持っていた。
歴史の浅いヤマトは、どこの国にいっても軽んじられ、しょせんは倭国から別れた小国だ、敗者たる王弟の国だと囁かれ、神々が降臨した聖なる土地と文化を誇っている本家の威光にはかなわないだろう、という理不尽な扱いをうけ続けてきた。
その悔しさがあってこそ、彼らはいまのような繁栄を築き、まして、国の元とまでいわれる倭国をねらわんとして、周囲の国々を平定し、おのが領土とし、力を蓄えてきたのだ。
それでも、心のどこかでは、まだ倭国にはかなわない、と思っている劣等感がけせず、それはどんなに権勢をふるおうと、どうしようもないものでもある。
倭国を倒さぬかぎりは、本物になれないのだ。
ずっとそう思ってきた。だがここにきて、時勢はようやく変動しはじめてきていた。
いまや倭国はかつての繁栄と権力にかげりをみせていた。
最新の文化と科学力をもっているという驕りで居丈高にふるまっていたのが災いしたかのように、おぞましい病を患い、他国の手をかりずとも、みずから衰退をはじめている。
この機会をのがしてはならない。
誰もがそう思い心をはやしている。いつ攻め入るのかと王の号令をいまや遅しと待っているとのだ。
「まったく情けない。どこの国でも、歴代の王が、多少の狂気をもっているのは珍しいことではないではないか。だが、それ以前に、王は、もとより侵攻にも乗り気ではなかったからな。今度のことをふまえ申すと、どうも、主君としての度量をうたがうところですな」
「まあまあ左大臣殿。安伎人様のことは、いずれにせよ、何があったのか我らには分からぬ領域のことでございましょう。心たしかな方であらせられれば、より深いご事情がおありかとおもうがよし。それにあれほど慈しんでこられた明須葉様があのような状態となり、子をなせぬ状態にまでなってしまわれたのだ。失踪も、考えあっての行動かもしれませぬぞ」
大臣たちのなかでは、まだ年若く、以外に細身で背の高い男、楚賀がくちをひらいた。彼は年配の重臣たちの中でも、一番安伎人に年が近く、そのせいか、個人的なつきあいもあり、親しくしていたのだ。
「まったく乱心なされて医師まで殺されるとは。そう言えば、明須葉様の首にも手のあとがくっきりついていたとか何とか……」
呆れたように言う長老たちに、楚賀がやわらかくたしなめる。
「それでも、あのような状態にあってさえ明須葉様は安伎人様のことをかばわれていたそうですよ。本当に憎しみや愚かさだけでそのような行為におよんだのならば、そうはおっしゃられないはずでしょう。ゆえに河内王もなにもいわなかったのでは?」
「だが、腹の我が子を殺すとは尋常ではござらぬ。まさに――鬼じゃ。鬼としかおもわれぬ。なにが気に入らなかったか、血のつながった御子なれば、せっかく河内を乗っ取るよい材料でもあったのに」
「とにかく――安伎人様には早くお帰りになって欲しいものですな。不在が隣国に知られるのはあまり好ましくない。たかが現地の妻のひとりやふたり殺したぐらいで、このヤマトがゆるぎもしないことはご承知のはず。王においては、まったくもって大げさな振舞いには頭が痛むわ」
大臣たちは、子供が死んだくらいどうということはない、と軽々しくいい、王の不甲斐なさをののしりあっている。
王というだけで、まるで人ではないような物言いだ。いや、王こそは、人であってはならぬかのようにさえ聞こえてくる。
「これほど大事な戦いのまえにあって、年若さゆえの弱さが目立ちますな。いまひとつ感情的なもろさが目につきますわい」
まるで自分ならいささかのゆるぎもないとばかりに、老獪な柚高が苦々しくいった。
「さあて、神主にでも占わせますかな」
だれかが冗談半分に言うのに、笑いがさざめいた。しばし黙って聞いていた右大臣の中野辺が重々しく口をひらいた。
「女子供の遊びではございますまいに、神事によって王を捜すなどと、民だけでなく、敵国や属国にも失笑をかいますぞ。いまどき何の科学的根拠もない占いなど、そのような世迷いごとを冗談にも申すのは、少々軽薄でございましょうな」
占いや呪いのたちをひどく毛嫌いしえいるらしく、鼻白むようにいう。
歴代のヤマトの王たちは、いずれも神託やら、占いやら星見などの術師の類をことのほか嫌っていた。もっともらしく進言してくる者や、取り入ろうと声音をたかくして近づく者はきびしく排除してきたのである。
よからぬことを吹き込む不埒ものがあるならば、厳しく処罰されるのみ。
もともと父権国家であり、質実剛健を好む性質のきらいではあったが、ことに先代の王が、女占師にまどわされ、それこそ、女のいいなりにになってしまった。傀儡のように振舞い政治をすすめはじめたため、ひと時ヤマトはひどく混乱したことがあった。
素性もよくわからぬ占師の口だしは、どんなときでもよこしまなもので、女のきまぐれに振りまわされた王は、情け無い男の烙印をおされてしまった。
それ以来、ヤマトではことに術師を嫌い、特に女は蔑視するだけでなく、神に仕える巫女たちまでも退けて、神主の配下として扱うようになってしまったのだった。
それがわかっていながら、からかい半分に口に出してしまったことに、みな自重するように消沈する。
「まったく……」
どうするかと唸り、だれもが重く息ついた。
お茶を配りにきた女官が頭をさげて退出していったのにも気づかぬように、沈黙がつづき、大臣たちの話し合いは夜更けまで続けられていったのだった。
部屋を出た女官の葵は、まさかという驚嘆の深い息をついていた。
「あの、あのおやさしい安伎人様が、わが子を――?」
茶を運び、聞く気もないのに耳にはいってきた話には、さすがに言葉をうしなってしまった。
「信じられない。だって、だって安伎人様は、私たち女官にまでおやさしかったのに、そんな残酷なことをなさるなんて、とても……」
安伎人は母をはやくに亡くし、いつもひっそりとした、本当に大人しい少年だった。
まるでそのまま大きくなったように、彼はめったに声を大きくすることもなければ、女官たちに横柄な態度をとったこともない。
子供のときからいつもひとりであり、彼のたったひとりの味方であり、唯一の後見人となるべき父王でさえ、若いうちから気の病で床につくようになってしまった。そのため、大人しく影をひそめていることが、知らず知らずに身についた彼の処世術でもあるのだろう。
不穏な親戚や、情勢を読み利益のある方へとつきたがる大臣や臣下たちが、安伎人をつねにみはり、下心のある従兄弟や、取入りたい親の意図をふくんだ部下の子供ばかりが寄ってきた。
彼の機嫌をうかがい、「親しくて頼りになる良い人物」としてなんとか安伎人に印象づけ、だれかれとなく自分の派閥への取り込もうと目論んでいたのだ。
それは大きくなってからも同じことで、大勢の人間はいても、安伎人のことを心から思うものはわずかだった。
そのせいからか、彼の表面には、笑顔の仮面がはりついていて、どこか真意を探らせない得体の知れないようなところがあった。
だがたいていは人当たりのいい、やさし男、いや王としては優しすぎるという印象を与えているばかりであった。
どうにか暗殺されることもなく、無事王位についてからは、彼は生まれもった才能と魅力を武器に、機知にとんだ政策で、敵対派閥をおさえ、周囲を黙らせていった。
だがそれでも彼自身はとりたてて急変することもなく、急に威張りちらしたりすることはなかった。
陣頭にたって指揮をとるときの猛々しさにくらべて、どちらかといえば、王者としては、個人的なそのふるまいは、控えめすぎていた。
葵はなんとなく寂しげに笑う安伎人の顔が好きだった。
時々、この王は、争いにはまったく向かない人なのかもしれないと思ったことがあった。いつまでも少年のころのあやうさをのこしていて、女性としての何かをくすぐられるのだ。
「お姿を見ないと思ったら、ヤマトから消えてしまわれていたなんて」
心配していた。どこか悪いのか、はたまた、急な戦闘がおこったのかと。
葵はなぜかきゅうに怖々とブルッと震えた。周囲を不安げにみまわし、何もないのに息をつく。
このごろ嫌な気がしてならなかった。
安伎人がいなくなってから、特に強くなったように感じていた。まるでヤマトのなかの空気が変わってしまったかのような心地悪さがつきまとう。
葵はただの女官としてはかなりカンがよいほうであった。ヤマトでなければ、立派な巫女となっていたであろう。
その葵の敏感な神経は、異変にはことに敏感であり、たびたび夢で先読みをしたり、いけない、いけないと思いながら、人の心に入りこんでしまうときがあった。
本当は、幼いころは巫女になろうと修行をしていた。
だが途中から巫女への風当たりが強くなったためにやめざるをえなくなり、宮仕の仕事をうけもつ女官へと転身したのだ。本来は、先輩の巫女について修行をし、能力を磨いて他人の心に容易にふれたり、入り込まないように、制御を覚えなければならなかったというのに。
「いやな気配――ああ、いやな夢。このごろそんなものばかり感じてしまう。特に、南の空にあの不吉な星が現れてから、ほんとうに嫌になるほど不快感ばかりがましてきているわ。とてもこわくて、とても、いや」
安伎人の顔がみたい。安伎人がいるだけで、ヤマトは守られているような気がする。
王とは、本来そうした性質をもっているものなのかもしれない。土地に愛され守られているがゆえに王となれるのだ。
むかし、まだ巫女たちがその能力を発揮していたころは、そうであったと聞いている。
そして安伎人はこのヤマトの大地に深く愛された、選ばれた者なのだ。
「だれか呼んでいる――?」
葵は耳をそばだてた。引寄せられるようにそちらへむかって歩いていた。
日ごろはだれも近づかない西の洞窟がある方角からだった。山の裾野にある、まるで封印でもされているかのような穴には、幾重にも注連縄をまかれ、厳重に封鎖され出入りを禁じている。
不気味で禁忌の重みのある場所なのだ。
葵はまるで呼び寄せられるようにフラフラと歩いていった。その洞窟の注連縄が切られ垂れ下がっていた。
なぜ自分はこんな気色のわるい場所に入っていっているのだろう。
疑問に思ったそのときは、もはやおそかった。
すでに洞窟の中である。
「だ、だれか――」
声がかすれ、虚無の空へと消えていった。
なにかが動いていた。淀んだ空気が対流をおこし、だんだん体の自由がきかなくなる。
葵は目を凝らした。注連縄にかくされたむこうには、積み重ねられた首が数え切れないほどあったのだ。
「ヒッ……!」
どれも白骨化していて無表情に葵を見下ろしていた。眼孔がポッカリと黒く落ち込み、まるで宇宙の最果てのような闇が潜んでいる。呪いと嘆きがこだましていて、あまりにおぞましい。
「な、なに……」
葵はそこに、眼を引くひとりの女性の死体があるのに気づいた。長く黒い髪をさざめかした女性であった。
なにかのまじないでもかけているのか、わずかに皮膚が干からびてはいるものの、今にも動き出しそうな美しさであった。まるで生きているかのような波動をかんじる。
その女性を背後から抱いている男のミイラがあったが、こちらはすっかり骨と化し、黒い髪がわずかについていただけで、服さえ色あせ風化して、ボロボロである。
それが異様であったのは、その二人を背後から射抜いている、大きな槍の存在だった。
なにかの呪文らしいものが柄に彫られていて、二人を永遠に結びつけようかというように一緒に貫いているのだ。
作り物のようにもみえた。特別な儀式をした人形であろうか。
カリカリカリッという神経をさかなでするような硬質な音がそこからきこえてきていた。積み重ねられた首のうえで、サルかなにかのような動物がしゃがんでいる。
かじっていた。首を、かじっているのだ。
それは音もなく地に降りたち葵のまえにのそりとしゃがんだ。
――驚くべきことに、なんと、見上げた顔は人間であった。だが、体はどうみてもひどく不恰好であり、慌ててつぎあてたような違和感さえあるサルに近い動物のものである。
威嚇するようにカミソリみたいな牙をのぞけ、向かってきた。
それは倭国から逃げ出してきた、あの少年たちの仲間のひとりでもあった。
吉備にたどりついた二人と、途中でわかれて、たったひとりでここまで逃げてきていた。
追っ手をおそれてか、いままでこのヤマトの洞窟にひそみで、手につかむことのできる動物ならなんでも食べ生き延びていた。ここにおいてある骨までかじり、本能のままに生をつないできた。
たしかに動物の死骸があちこちに散乱していた。筋も皮もすべて食べたてしまったあとだが、なぜかどれも首だけが切り離されている。
「あ、あんた、なんなのっ?!」
うっそりとした黄色い目を爛々とこちらに向けていた。おぞましさのあまり、葵は無意識にうしろにさがり、骨に足をすべらせ倒れてしまった。
カシャンッという大きな音が反響し、あの男女のミイラにぶつかってしまった。
その弾みに、女を抱いていた男の手が離れ、上半身がうしろにそれてしまった。
「ヒッ!」
葵が短く悲鳴をあげた。
男の手から放たれたミイラの女の目がギラリッと開いたのだ。
葵の目をみすえたままそれはニヤリとわらった。
唇が毒々しいほど真っ赤にみえ、生身の生前のままの美しい顔である。
その瞬間だった――。
目を見開いたままの葵の首が転がり落ちていた。
ミイラであった女の体がサラサラと砂のようにこぼち、足元に流れていった。
葵であったものの体だけが、落ちてころがった葵の首を拾いあげる。
腕のなかでニヤリと笑った。
顔は、葵の体にのせられた。ぴたりとつながった。
女は艶然と笑った。
そこにいるのは、もはや葵ではない、別の女の顔である。
なぜだか生の輝きに満ちていて、魔性の華さえもっている。見るものの魂を虜にする、においたつような色気と邪気だ。男をくるわさずにはおかない淫靡で邪悪さである。
この世の理をたちきった、おぞましさと禍禍しさの塊のような女が、ひとりそこに現れていたのだった。
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