部屋のなかは香の匂いなのか、または薬草なのか、甘くてそれでいて緑の爽やかさをかんじさせる清涼さが鼻腔をくすぐっていた。
青々とした畳にたて掛けられた分厚い御簾のむこうがわに、彼女は坐していた。
頭をさげたアギトに、思いのほかははっきりとした、やさしい声がかけられた。
「お呼びだてして申し訳ありませなんだな」
御簾にうつる影がうごくと、アギトはそれが実際うつっているものよりずいぶん大きく感じられて、恐縮するように身をこわばらせる。
だがそこから伝わってくるのは、威圧感ではなく、おどろくほど豊かなぬくもりであり、ただあたたかく広がってゆくのみだ。
「許してくだされませ。このような御簾向かいでお迎えすることを。脚が萎え、まこと体に不自由にしてからは、人前に出ることをはばかっておりまする。人前にでるには、もはやお見苦しい姿でありますからのう」
言葉とはうらはらに、明るい笑い声がした。
部屋はなんら特別なあかりを用いているわけでなく、窓からさしこむやわらかな自然光だけのはずなのだが、まるでそこだけ光が発せられているかのように明るかった。
じっと見つめる視線はあったが少しの不快も感じられず、かえって慕わしいような親しささえあり、どこか懐かしく思えてくる。
きっと、幾年もの時を超え、あらゆるものを見てきた瞳に残ったものは、慈愛だけだったのだろう。
「ようこの吉備にまでおいでくだされましたな、アギト殿。歓迎いたしますぞ。この吉備の地――この祈りの宮では、あなたのご自由にお過ごしくださるがよい」
「えっ?! 」
思いもしない言葉だった。
問いただしたり、責めるようなこともなく、意外な歓迎の言葉にアギトは思わずきき返していた。
「なぜですか。俺のように得体の知れぬものを……。俺はもしかしたら、後々あなたたちに迷惑をかけるかもしれないのですよ。吉備自体に害を与える存在かも知しれないというのに、どうして」
「なあに、もしそのようなことが起きたとしても、吉備の神のご意志であることに変わりはありますまい。ましてあなたは、この吉備とは無縁ではあらぬ御方。――なにより、あなたがここに来られたということが、すでに神のお導きでありましょうからな。我らにはなんのお気遣いも無きように」
どこまで本気で言っているのだろうと疑うように黙っていたが、大ババはそんなアギトになにも気づかぬように続けた。
「神のなさることにけして無駄はございませぬ。たとえ今そのときは意味がわからずとも、そこには我らには計り知れぬ深遠の意図がかくされているもの。ゆえに、あなたが吉備に来たことは偶然ではなく、あなたはここで何か学ぶことがあるのだ、という意味には、思われませぬかえ、アギト殿」
「俺に、吉備で学ぶことがあると?」
何が言いたいのだろうかと、探るように御簾の向こうに気を集中する。
全身の神経が鋭くなっていた。かすかにシャリシャリという音がどこからともなく聞こえはじめていた。
「あなたはその高貴な身分ゆえに、常人にはない、過酷な宿業と重い使命がかせられておられるようじゃ。それが為に、いまは苦しんでおるかもしれませぬが、神はけっして耐えられぬ苦しみは与えられぬもの。あなただからこその苦しみだと、心得られるがよろしかろう」
「なん……だと…?」
シャリっという硬質な、なにかが擦れるような音が、しだいに大きくなっていった。静かな空間にどんどん波紋をひろげ、アギトをふわふわと宙に浮いた奇妙な感覚につつんでいく。
「たとえ、今は犯した罪ゆえに、おびえ、自分自身に押し潰されそうになっているかもしれませぬが、それは耐えねばならぬ、ひとつの試練にすぎませぬぞ」
アギトは罪、という言葉にピクリと反応して逆毛をたてた。森射たちがいることを思いだし、自分をどうにかおさえる。
「あなたは逃げるわけにはゆかぬ。それを乗り越え、学ぶためにここにきたのでありますからのう」
「――俺に、なにを学べというんだ」
アギトは押し殺すような声でいった。胸のなかの黒いおぞましいものが蛇のように身をふるわせている。わずかでも気をぬけば、鎌首をもたげてしまう。
シャリッという音が一段と大きく聞こえた。
アギトが、それが石をまさぐっている音だと気づいたのは、しばらくたってからのことだった。
「人は天地の法則にそって動かねばなりませぬ。それがわかっておれば、おのずと道はみえてくるもの。したが、まずは己がどうしたいかを己自身に問いただすことが、先決かと思われますぞ」
「少しゆっくりしてから考えればいい。それを捜す時間はまだあるだろう、アギト」
森射がアギトの高ぶりを知ってか、なだめるように優しい声をかけた。
「森射……」
「あせっても見えぬときは見えぬものじゃ。まずは心身の気息を充足なさりませ」
大ババが言うのに、アギトは乱れた自分の気を落ちつかせるようにむっつりうつむいた。
彼女の言葉は、一つ一つが心の奥底にまで響きゆさぶるかのようだった。まるで魔法の呪文でも秘めているかのようで、ある意味おそろしい。
さすがに大ババの前にあっては、あれほど凄いと思われた火見華でさえ、まだまだ修行中のひよっこに見えてきた。
大ババは、体の衰えこそ否めないが、齢のもつ重みはさすがにダテではない。
それは、言うなれば深い谷底をはしる急流にあらわれた鋭い石が、しだいに丸くつややかに磨かれ、玉石となってゆくようであり、なにも傷つけずに心にはいりこみ、美しい円形の波紋をひろげて、清浄な世界にとりこんでいくかのような、そんな清廉さがある。
「大ババ様、そろそろお休みくださいませ。もはやこれ以上はお体にさわりますわ」
火見華が気遣うようにいった。
「そうさのう、このババも寄る年波にはかてぬわ」
まだまだ元気そうにカラカラ笑うが、彼女から発せられていた光が薄れてきたのがわかった。いかに優れていても、すでに火見華の支えなくしては長の役も遂行しかねるだろうことは、さすがに隠しようがない。
部屋をさがりかけたアギトに、大ババはつけ加えるようにいった。
「アギト殿、光は闇があってこそ瞬くもの。闇を知らぬものに、本当の愛はわかりませぬぞ」
その言葉が、アギト魂にふかく突き刺さった。大きな黒い瞳が、大ババの言葉のむこうにあるものを必死にのぞきこもうとするかのように、強くきらめきを放った。
「吉備とはなんと不思議な国なんだ――」
アギトはそう思わずにはいられなかった。
ここに来てからは驚くことの連続だった。
それは、巫女や神官たちのような神に仕える者ばかりのことではなく、ごく普通の職人や、商人たち、農作業をしている農民ですら不思議な能力をもっているかのようにみえるのだ。
田畑に入るときは、彼らは米粒をすりつぶしたものをひとつまみ撒き、田の神と自然の精霊に感謝の言葉をのべた。それから作業をはじめている。
また、どこにでもいるような普通の女が風を読み、ピタリとその日の天候をいい当てたり、虫の音だけで、収獲した作物の出来、不出来をみわけ、鳥と話をして、豊富な果実を手にする者もいた。
けれどもっと不思議なのは、それらのことがなにも特別に珍しいこととは思われてなく、それこそ当然のように行われていることだった。
職人は職人で、ヤマトでは見たことながい技をもつ者が数多くおり、そのなかのひとりには、玉匠とよばれる技能者がいた。
玉匠とは、人間にまだ踏み荒されていないような幽谷にまでくだり、赤玉となる石をさがしてくる。それだけでもひと仕事だというのに、さらにかたい石を丸くし、一刻の狂いもないほどに磨きあげ、首飾りにするために、中心に細く糸が通るだけの穴をうがつのだ。
どのような技術をもってするのかはわからないが、特殊な能力を持つものだけが許される仕事であるらしい。
先日も、火見華が使用するためだというので、頼んでいた赤玉の首飾りを受け取るために、森射についていったのだった。
アギトの癒しの儀式のためにつかわれたため、火見華のつけていた首飾りの力がすべて失われ、駄目になってしまったので、そのかわりにということだった。
出来あがったばかりの赤玉の首飾りは、かなりの威力を発しているらしく、優れた霊能者か、あるいは強力な霊力を有する術者、しかも女性にしか持つことができないという。
茫漠たるエネルギーに満ちているそれは、未熟な者なら取り込まれてしまう。そのため宮にかえるまでは、重厚な箱におさめられ、かたく封印されていた。
アギトは、森射があまりにも、なにごともなくそれを手にするのにつられて思わず触ってしまい、まるで紙きれのように吹きとばされてしまったのだった。
「吉備は異能集団なのか?」
痛みにうめきながらアギトが言った。
このようなことが日常におこるだけでなく、そのように恐るべき技をもつ技術者が、村でごく普通に暮らしているというほうがおかしいのだ。
「異能集団?――私たちが?」
森射は吹き出すように笑った。
「まさか。私たちは普通の者だ。そうだな、まあたしかにヤマトあたりでは、このような力をもつ者を、そう呼んでいるとは聞くがな。だが吉備では当たり前のことだし、自然と話せる人間などザラにいるよ」
「ヤマト」、という言葉を、べつに森射は他意があって言ったわけではなかったが、分かっていてもアギトはつい身構えてしまう。
「万物は、空、風、火、水、土、この五つの元素から成り立っているんだ。それを知り、それらの法則に従えば、なにも難しいことではないさ」
「おまえの言っていることそれ自体が難しいんだよ、森射。俺にはわからない。やはり吉備は変な国なんじゃないか?」
「そうかなぁ」
ただ笑うだけの森射にかわり、イサナが小馬鹿にしたように、
「そんな簡単なことも知らずに暮らしているおまえの国こそ、変っているんだよ」
アギトは思わずムッとする。
「どこに聞いても吉備の方が変だと言うさ」
吐き捨てるよう言ったが、イサナは相手にすることもなく、そ知らぬ顔で答えなかった。
イサナは与えられた仕事がなく、森射がダメだといわない限りは、彼女のそばにいつもいた。
森射に拾われ育てられたと、だれかから聞いたが、それほど年がかわるとは思われない。森射とおなじはなれの小屋にすみ、寝起きをともにしているのだ。
だが、彼のほうからめったに話しかけて来ることもなく、森射と話していても会話にも加わらない。時々いることも忘れてしまいそうになるが、どうやらアギトに好意を抱いてはいないことだけは確かだった。
しばらく黙っていたアギトは、畑を耕しているのをみて、不思議そうに聞いた。
「あの鍬の先についている銀色のものは何なのだ?先ほどからずっと気になっていたんだが」
「ああ、あれは鉄だ。純粋に近い鉄ほど白銀色になるのだ。純鉄は硬度をまし、固い土地でも楽に耕せるのさ」
「純鉄?――そんな技術を吉備は持っているのか?! 」
かみつくようにアギトが言う。
「そう、なかでも吉備の刀匠とよばれるものは最もその技にたけているんだぞ」
備前刀といえば、知らぬ者がないというほど最高級の剣であり、またその期待をうらぎらないだけの働きをみせる、名刀でもある。
「彼らの鍛えた刀は命を吹き込まれるんだ。――そうだな、ちょうどこの近くに、刀匠で、私の知り合いがいる。まだそう年はいってないが、吉備では、もはや並ぶべき者がないといわれるほどの腕前だ。吉備のほこる最も美しい鋼をみせてくれるぞ」
「それは、見たいなぜひ」
「森射、いいのか?! 」
イサナが思わずいさめるように声をかけた。
真金ふく吉備、ともうたわれたほど重要な秘密ともいうべきその中枢に、そう簡単によそ者をつれていってもよいのか。
「かまわないさ。見たからといって、その真似は相当の修行をつんでも難しいだろうからな」
あっけらかんと言う。
吉備の刀匠は、神の火を扱うことができる神聖な職業であり、神に仕える神職ともいえた。吉備の神から寵愛をうけるだけでなく、その身自体を神のやしろとして差し出す、一種の神行でもある。
身も心も相当の修行をつんでいなくては、力を受け止められず、壊れてしまうだけだ。
「刀匠は神の炎をつかって吉備の上質な鉄をきたえ、命を吹きこむ。一振りの刀をつくるには、想像できないほどの体力と気力を使うともいわれているんだが、名匠の刀にはどれも魂がやどり、己をつかう主を、刀のほうが選ぶのだぞ」
「刀が、持ち主を選ぶのか?」
「そうだ。だから剣士は刀に相応しいように、また選ばれるよう心気を高め、鍛錬せねばならない」
「刀にそんなことがどうしてできる。ただのモノだろう」
「モノだが、ただのモノではない。といっても、それだけの魂を込められる匠はめったにいないがな。私が知るかぎりでは、狭崎の鍛える刀は、吉備で一番素晴らしい。なんといっても、あの火見華の兄なのだからな」
火見華の兄、という言葉には、さすがに奇妙な説得力がえられる。
だがその名を聞いていたイサナの顔に、なぜかいやそうな表情が浮かんだ。
「火見華と狭崎は、兄弟そろって神の慈悲と寵愛を受けているのだ。火見華はその名のとおり、火の神を――吉備の神を「見る」ことの出来る巫女だし、兄は神の火を扱うことが出来る刀匠だ」
その絶対的な力は、だが自らを滅ぼすこともできるほど激しくもある。神の御心からはずれたなら、命すら失いかねない。
それは火見華にかぎらず、他の巫女たちもみな同じだった。
何かしらそれらの能力があるがゆえに選ばれ、神に仕える職についているのだ。
「吉備の神は、火の神なのか……」
「ここだ。――狭崎、入るぞ」
森射はアギトの呟きにはこたえず、声をかけるなりひなびた家の戸を引いた。
厳しい顔をして、鍛え終わったばかりの刀身を手にしていた男は、森射の顔をみたとたん、むさくるしい髭面を輝かせ破顔した。
大切な刀を投げ出すようにおくと、それこそ飛ぶように駆け寄ってきた。
「森射!よくきたな。このところ顔を見せないからどうしたのかと思っていたんだぞ。いや、それとも今日こそ、とうとう俺の嫁になる意志を固めてきてくれたのか?」
髭におおわれた唇を嬉しそうに笑みにしゃくり、抱きつかんばかりに腕をひろげる。イサナがそのあいだに割るようにはいり、睨みをきかす。
狭崎は、イサナが森射についてきていることを知っていて、いやがるのが面白くてわざと大仰にしているのだ。
だが、イサナのとなりに、べつの顔があるのにすぐに目をうつすと、遠慮のない視線で、まじまじと隅からすみまで調べるようにして、上下までじっくりみた。
「ほほう、こりゃあ珍客だな。――いや、聞いているぞ、森射が色男を助けたって話しはな。こいつはまた、噂にたがわず、いい男ぶりじゃねえか」
背中をどんっと叩き、ごつい腕にアギトは咳きこむ。
「ずいぶんと耳がたつようだな狭崎」
森射があきれるように言った。
「なあに、愛するおまえのことなら俺はなんでも知っているぞ――と、言いたいとこだが、宮に出入している行商の女どもが騒いでたんでな、聞いていたんだよ」
どうせ盗み聞きをしたのだろうが、悪びれず、のび放題の髭をボリボリ掻きながらいう。
一振りの刀をつくりはじめると、でき上がるまでは、髪はおろか髭までも剃らないのである。
精神を統一のために幾日も堂にこもり、滝にうたれる行で身を清め、精神が神とかさなったその時、ようやく刀を作りはじめるのだ。
そのため、出来上がるころには、かなり髭も髪も自由気ままにのびきっており、かなりむさくるしい様になる。森射よりまだ三、四才ほどしか年が上でないというのに、年齢不祥の山男のようになっていた。
「近くまで来たからな、アギトに本当の吉備の刀を見せてやろうと思って足をのばしたんだ。あるのだろう――?」
森射はわざと挑戦的にいった。
本物、と呼ぶに足りる品が、あるのかと聞いている。
その言葉を受けて、狭崎も自信ありげにニヤリと笑う。
先ほど鍛え終わったばかりの刀身を、突き刺した土からひきぬき、森射になげて渡した。まだ握りも鍔もついていない、刃そのものだ。
「たった今打ち終えたばかりの刀だ。俺の会心作だがな、ちょっと気を込めすぎたんで心配しているところだったんだ。こいつもまた、持ち主が決まらないんじゃないかなぁってさ」
心配などまったくしていないくせにそう口だけは言ってみせる。
自分の渾身の作ならば、並の者ものになどとうてい扱えはしないし、そうそう簡単には手にすることなどできないだろうという、確信にあふれている。
その証拠に、持ち主の決まらない刀が、主をまちつづけて、数本は家に眠っている。
だが、言葉のとおりの美しさだった。
アギトはとなりからのぞき込み、その刀に目をうばわれていた。
煌くように輝く純白鉄は、まるで魔性の女のようにスラリと優美にのびあがり、目眩がするような色香で誘っている。
「これだけの純粋な鉄を、どうやって作れるんだ」
アギトが信じられないようにこぼした。狭崎の作業場にあるのは、わずかな薪と、数個の石だけである。
森射がそれに答える。
「吉備の鉄を鍛えるのは、木を燃した火ではないんだ。焔石のもつ火力をつかい、刀匠がそれに神気を吹きこんで、熱の強さを限りなく高あげのだ」
「……美しい」
アギトは完全に刀に魅入られていた。
「これだけの技術があれば、わがヤマトも、日向国の倭国などに、あれほど大きな顔などさせてはおかぬものを――」
何をつぶやいているのかも気づかぬまま、アギトは惹かれ吸い寄せられるように森射の手にあった刀に手をのばしていた。
「アギト!」
思わずにぎったその冷たい突き刺さるような刃の感触に、体の奥底に眠っていた黒い影が、喚声をあげた。
呼び起こされたようにそぞろに蠢き首をもたげる。
――血……殺ス……ッ
忘れかけていたソレが脳の奥からヌルヌルとはいだしアギトの目の前にひろがった。
下腹から血を流して倒れている女の姿が呼び起こされ、つんざくような叫び声と、それに続くおぞましい光景が、アギトの心をおおってゆく。
「アギト!」
森射の怒鳴る声に、アギトは目だけを向けた。
まるで魂を吸いとられたかのように刀に心をうばわれ、意識をのっとられかけていた。
刀のもつ魔力を制御できるだけの力量のないものが、不用意に手にすると、自分の意志にかかわらず暴走し、悪くすればそのまま止めることもできず、自決することさえあるのだ。
アギトのエネルギーがどんどん膨らんでいくのがわかった。
「あぶない森射、やつから離れるんだ、剣に吸い込まれてしまったぞ!」
一瞬にしてとりこまれしまったアギトに、狭崎が舌打ちし声をあげた。
だがそれにもかまわず森射は夢中でアギトが握っている手に、自分の手をかけた。ひき戻さんとばかりに力をつよめる。
バチバチッという放電の激しい音がした。森射の髪を結わえていたヒモが飛び散り、赤い髪がフワリと浮かびあがった。
電気の衝撃のためか、森射の白い喉が官能的に色づき、痛みにふるえた。クッとくいしばった筋が浮きあがってゾクリとするほどなまめかしい。
それでもアギトから手をはなさず、恐ろしい暴走のはじまりを止めようとしていた。必死でおさえているが、アギトの体から白い光がもりあがった。
森射の体が跳ね飛ばされかけたのをイサナが受け止め、彼のからだもまた、放電を受けていっしょに光った。
「アギト!自分を制御するんだ、刀などに負けるな!」
森射はふきとばされてなお、アギトが刀を振り上げるのに臆することもなく目の前に立ちはだかった。
二人は睨みあった。
「アギト」
森射がもう一度名を呼んだ。
アギトは苦しげに歯を食いしばっていた。
まだ刀の魔力に引きずられて、握っている手がふるえているが、己を完全には失っていない。
棚にたてかけてあった刀を手にしたイサナが、アギトの背後で構える。いざというときには、森射に振りおろされる前に、アギトの首を落とすつもりなのだ。
「イサナ、手をだすな!」
「森射!」
「いいんだイサナ。私はアギトを信じているのだから」
真っ直ぐにみつめたまま、森射は動かない。
アギトは目を吊り上げ、森射に鋭く刀をふりをおろす。
刀がくうを切り、轟音をたてた。
森射の頭上でピタリととまった。
放電が消え、アギトからの邪気が消えうせた。
ほう、と狭崎が大きく息をついた。
「このクソ野郎、驚かせやがって」
舌打ちして言った。
汗びっしょりになったアギトが、力尽きてその手をおろした。
そのアギトの胸には、イサナの剣がつきつけられていた。薄紙一枚の隙間もないほどに、ぴったりと、心臓の真上をねらっている。
もう一呼吸、手が止まるのが遅かったら、アギトは命を完全に断たれていたであろう。
イサナが刀をおさめ、アギトはその場にへたり込んだ。
肩で大きく息をつき玉の汗がおちてながれる。だが彼は手の中の刀は離そうとしない。いや、刀が離れようとしていないようにもみえるではないか。
「どうやらこれの持ち主が決まったようだな、狭崎」
森射が乱れた髪をかき上げながら、意外に爽快そうにいった。
「ああ、このくそったれ、どうやらそのようだ」
こうもあっさりと己の刀に主がみつかったことがしごく残念であり、またアギトであることに驚くように狭崎はこたえる。
刀はどうやら、アギトを主と認めたらしい。
命がけではあったが、アギトの精神力もまた、常人のそれとは異なり、おそるべきものがあると証明するのである。
だがイサナだけは快く思っていないらしく、かくそうともせず、氷のやいばのまなざしで冷たく油断なくアギトを見据えていた。
彼の奥底に眠るなにかをひどく警戒するようなに、不安でならぬ顔をしてイサナは森射のそばをはなれなかった。
首飾りの珠をうけとった火見華は、イサナの隠しきれない不機嫌さに首をかしげていた。
珍しく表情をはっきりと面にだしていて、それはとりもなおさずアギトへとむけられているのだ。まるで視線の矢じりで射殺さんばかりである。
火見華はそっとイサナをよび、その理由をたずねた。
「あの男は森射に害をなす」
そう端的に答えると、むっつりとだまり、後はわかっているだろう、と言わんばかりに自分の仕事に戻っていった。
「ほほう、あの男が森射の拾ってきた新しいやつか」
複雑な顔をしてため息をつく火見華の背後で、影がゆらぐ。
「オズヌ様!」
火見華がふりかえり声をあげるのに、男は面白そうに目を細めていた。
「まったく、イサナのときといい、あの男といい、森射のまわりには奇妙な男ばかりが寄ってくるものだな。森射もずいぶんと物好きなことだ。あやつも自分の寝所におき、育てているのか?」
目の半分はからかっているが、もう半分にはどことなく不穏な色が宿ってみえる。
「そうですわ。まったく姉様は自分のことになると本当に無頓着なんですから。オズヌ様からもご忠告申し上げてください。――と言っても、オズヌ様も、危険な側にはいる方でしたわよね。森射姉様にあれほど夢中なんですもの」
火見華に意地悪げにいわれ、オズヌはかえって心地よさげな笑い声をあげた。
「まったくそのとおりだ。森射は特別だからな。我ら行者が、おのれの精神力を高めるために、他者を避けて森の奥底にこもり、いかような荒行をつんでさえも、かなわぬのだ。彼女は、大自然の秘密を、生まれながらに知っているのだろうな」
「たしかに姉様は特別ですわ。けれど、そのオズヌ様のおっしゃる大自然の秘密、とはなにを指しておられるのかはわかりませぬ。なにをそんなに求めていらっしゃるのかしら」
火見華は、この男のあくなき修練と追求の先にあるものが、一体何であるかがわからないとばかりに、少し呆れ顔をしている。
オズヌは行者としても超一級の能力者であり、かなりの術をつかう者としても各国に名を馳せていた。もちろん吉備の者ではない。異国の地からの来訪者でもある。
だがどこうどうとっても、風変わりなことは否めない。
たいていの行者はあまり一所に長居せず、旅をつづけるものであるが、オズヌは何が気に入ったのかこの吉備の地には、ずいぶん長く腰を落ちつけていた。
出鬼没であり、しばらく顔を見せないかと思えば、火見華や森射のまえに不意に現れ、しばらくゆっくりしてゆく。
火見華をからかったり、森射についてまわっていたかと思えば、不意に消えている。
だがどんなことがあっても、消えてしまわない。必ず帰ってくるのだ。
彼がどんな修行をしていて、何を求めているのかは火見華さえもよくはしらない。
ただオズヌは、その求めているものを、森射だけが知っていると思っているらしい。
はっきりとした年齢はわからなかったが、オズヌの見た目の姿は三十歳をすぎて半ばくらいにみえた。精悍な彫りのふかい顔は、叡智を求めるものの意志強く引き締まり、真剣な表情になったなら、そこらにいる女子供など、鬼のような気迫におののき、にげ出してしまうことだろう。
それだけの男であるにもかかわらず、自分より十才は若い森射に、迷いもせず教え乞い、膝を折るのだ。それだけの心得はあるらしい。
「わたしが求めているものは、かならず森射のなかにある。だから、わたしは森射が欲しいのだ」
オズヌは遠くを見ていた。
水汲みを手伝っている森射をじっと目でおい、目で全てを奪おうかといわんばかりに力をやどす。あの白いたおやかな手が握っている大きな真実をつかみたい、赤みを帯びた美しい宝石の瞳がうつす宇宙が見たい、そう願ってやまないかのようである。
「森射姉様のことについては、ちょっとオズヌ様は考えすぎだと思いますけれど」
「稀代の巫女姫とよばれた火見華殿でもわからぬものなのか――。いや、それとも、近くにいすぎて、あの至高の輝きが分からなくなったのであろうかな」
「あら、どういう意味ですの、それ?」
火見華はいくぶん眉根をひそめた。
「あのひとはなにも拒まない。それが闇であろうと、光であろうともだ。大自然の愛と守護をうけ、人ならぬ声を聞き友として受け入れる。だからこそ、イサナのような異質な者ですらなつき、アギトのような闇を背負うも者でさえ、安心して彼女に身をまかせている。だいたいイサナが人間になつくことのほうが、珍しいこととは思わぬか?」
みょうに思わせぶりな口調だ。
「イサナも……確かに特別ですわね」
ずっと一緒にいてさえ、火見華ですら彼の全貌はつかめない。
不思議だと思うことは度々ある。だがそこには嫌なものは感じない。
たしかに森射のことになると、イサナはたやすく人がかわったようになってしまう。どことなく野獣じみて恐ろしいと思ったときもあった。
もともとイサナは、彼が八才のときに十三才になったばかりの森射に拾われてきたのだ。
だがそれ以前のことはあまり口にしたことがなく、それでも森射が無償の愛でもって庇護し、心をわけて育てている。そういう家族ともいえる者ならば、森射と共にいることにだれも疑問がない。
言いかえれば、それほどまでに火見華は森射を信頼していた。
森射のあの吉備の地にはそぐわない赤らんだ髪に、緋色の瞳という風貌と、独特の雰囲気が、彼女を特殊な存在においている。
里の者になんとなく恐れられ、倦厭されているのもまた半分は事実だろう。だが森射の本質に、外見のなにひとつですら関係なく、気にとめる理由にもならない。
「べつに、イサナはわたくしたちに害をなすわけではないですもの。そう申されるならば、オズヌ様、あなたのほうがよっぽど危険だわ。そうやって不和の感情を植え付けようとなさっている」
「ハッ、これはやられたな」
オズヌは火見華にピシャリと返され、楽しそうに笑った。
「まあイサナはいい。アレは森射の心に沿うておるからな。――だが、あの男は危険だ」
アギトに顎をむける。
備前刀に生気を根こそぎ吸いとられ、ようやく帰ってはきたものの、へたりこみ木陰にすわったきり、そのまま動けずにいた。
アギトはだが、すぐにオズヌの呪術者特有の重苦しい視線に気づいたらしく、体こそ起こしはしなかったが、投げられた視線をきつく返してきた。
オズヌは彼の顔を興味ぶかげにみつめていた。
「なにかの意味があって吉備に来たのだと、吉備のとは無縁の人間ではないと、そう大ババが言っていたそうだな」
「……あいかわらず耳が速いですわね」
火見華は不機嫌そうに声を低くした。
行者ゆえ、祈りの宮に出入りを許してはいるが、あまり深入りし、不穏な動きが目立つようならば、火見華も考えねばならない。
「なに、他意はない。ただおもしろいな、と思ってな」
火見華の睨みに、警戒するなと笑い手をふるが、油断のならぬ相手であるのはやはり間違いない。
アギトが何を感じ取ったのか、ゆっくり立ちあがりやってきた。
近づいてくるあいだも、挑むような視線をオズヌからはなさない。
「アギト、こちらは行者であらせられるオズヌ様ですわ。昔からのなじみで、しばらくのあいだ吉備に留まっていらっしゃってるのよ」
オズヌは切れ長の目を意味ありげにほそめ、いきなりいった
「……その顔、どこかで見たことがあるようだが」
アギトの怜悧な顔が糸をひく弓のようにひきつる。
「高貴な顔立ちだな。それこそ生まれもった血のなせるわざともいえる、特別な高貴さだ。森射と同じにおいがする?」
「森射と?」
なぜ、とアギトは言おうとしたが、オズヌがつづける。
「彼女も王家の正当な血を引いておられる御方だからな。やんごとなき姫君だ」
「森射が王家の血をついでいるだって?! 」
思わずアギトが声を大きくした。
「そうだ。あのひとは吉備王家の正当な血筋をひいている。だがある特殊な事情によって祈りの宮で育てられてきたのだ。まさに王家の尊い姫君だよ。――誇り高く美しく、あれほどの聡明さをもちながら、決しておごることがない素晴らしい女性だ。ゆえに、普通のものが持てないものを有することを許されているのだろう」
森射を語るオズヌの顔つきが、うっとりしていている。どれほど森射に心酔しているかすぐにわかる。
「姉様はこの森に愛され、巫女たちに敬愛され――いいえ、彼女を知るすべてのものに慕われているわ」
「あのイサナのよう異質な者さえ、森射が信頼したというだけで受け入れられているのだからな。普通なら彼など、この清浄な地にいるこが許されるはずがないだろう」
オズヌはククッと喉をならす。
「ただ、人間は無意識にわかっているのだ。森射が許すということは、許されるだけの価値があるものだということが。イサナのうえに己の罪を重ね、自分もまた許されていることを理解し、彼におのれの闇を投影しているのだ。森射はただ正義をかざすだけのおろか者ではないからな。闇を知り、そのうえで赦している。なにものをも彼女を縛ることはできない。あのひとこそが真理であり、闇をも包み込む月の光だ。誰もあのひとを自分だけのものにできない。意味がわかるか、アギト」
オズヌは胸にわきあがる思いをこらえきれないように言いながらも、アギトのなかに芽生えつつあるものを牽制しようとしてか、はっきりと釘をさしていた。
カッとアギトの顔がかわる。
「あんた、何が言いたいんだ?! 」
食いつくように言った。
「べつに……。いや、そうだな、同じ王族の生まれでも、己の運命から逃げるものと、それを受け止める者では、こうまでちがうのかとな」
「なんだとっ?! 」
「俺はおまえを知っているよ、アギト。その顔はたしかヤマトの――」
「それから先のことは、アギト自身が語るだろうオズヌ」
オズヌの語尾を切るように言ったのは、森射だった。いつからいたのであろうか、誰ひとり気づきはしなかった。
「あとはアギト自身の問題だ。時がくればわかるだろう」
アギトを信頼している。森射は言外にそう告げている。余計なことはするなと。
「森射」
アギトは魂をぬかれたように森射をみている。いきなり目にするには、彼女の発する気はまぶしすぎる。
「明日、山を案内しようアギト」
森射が言った。オズヌの表情が、一瞬だけ鋭くこわばったような気がした。
山にある木々は、一本一本すべてに神が宿っているかのような大木であった。
まるで天地創造の偉大なる時より、ずっと大地に根をはわせ、ゆったりとすべての生物の営みをみまもり、息づいてきたかのようである。
千古の森だった。
クヌギ、シイ、ナラ、カシ――それぞれの落葉樹が林立し、その根元には、水分を十分にふくんで青々としている潅木たち、そしてコケやツタが覆い、からまり、まるで優美な衣装を着ているようにみえる。
人々はこの神をも感じさせる大樹の森を敬い、この山こそ神の座す聖地とおそれていた。
その聖なる神の山は、木の実や山菜、キノコ、野草といった食材を与えてくれる恵みの宝庫でもあり、神殿を建てる材料ともなってくれた。また、着物の原料になる植物をも提供してくれる大切な場でもあった。
「自然こそが母であり、神そのものだといっていいだろう。けして汚したり粗末にしたりせず、心から愛しさえすれば、自然はかならず愛をあたえて、恵みを返してくれるんだ」
森射が歌うような朗々とした口調でアギトに語った。
昨日、約束したとおりに、森射は世が空けないうちからアギトをともない森にでかけていた。
さすがに今日ばかりは、イサナは行くとは言わなかった。
なにかあるときや、大切なことを行うときなど、自分がついて行くべきでないときを、彼はだれよりも心得ている。それゆえ森射とともにいることを許されているのだ。
アギトは森射について、かなりけわしい急斜面や下生えの繁った山道を歩いていた。息が相当あがっていたが、ひたすら黙ってついてゆく。
彼は時々目をあげて、軽々と前をあるく森射が憎らしいように見ていた。
だが、木々のなかに立っている姿はあまりにも神秘的で、こころを奪われてしまう。迷いもなくあるく森射は、きっとこの森の一部なのかもしれない。
美しい森だった。
アギトが見た中でも、これだけの太古からの原始そのものの森を残している山は稀であり、しかもこんな深部に入ったのは初めてである。
森が人を受け入れている柔らかさがあり、うっそうとして絡みつくような湿気と陰鬱さにみちた山特有の拒絶感がない。
息のあがっていたアギトは次第に呼吸が楽になっていくのがわかった。深海にすむ魚が地上に連れてこられたような苦しさから、ようやく気圧の変化になれ、からだがエラ呼吸から肺呼吸に変化してゆく、そんな感覚だ。
苦しい息でアギトは体内に淀んでいた空気をすべて吐ききり、新鮮な大気に含まれるエナジーで満たされるような気がした。汚れた体が浄化されているのかもしれない。
「だいぶ奥まで来たんじゃないのか」
「そうだな。国境あたりにまで来ているはずだ」
国境、という言葉にアギトはかすかに顔色をかえた。方向こそわからないが、ヤマトには少しでも近づきたくない。まだ、心がゆれている。
がさっと下生えの草がうごいた。
アギトが身をかたくした。立ち上がれば、アギトの背をゆうに超えているだろう大きな狼が顔をだしてきた。立派な毛並みは灰銀色であり、黄金に瞳がもえている。
「森射っ!」
アギトは狼を刺激しないように森射に声をかけた。
だが森射はまるでよろこんでいるかのように笑っている。
「大丈夫だアギト」
あわてることなく森射は狼と視線をかわすと、驚いたことにさらに二匹の狼がまっすぐ森射に近づいてきた。狼たちはあまりに堂々としておりアギトなどまったく意にかいしていない。凍てつく瞳の鋭さは森の王者の風格さえそなえている。
狼は、その誇り高い頭を森射のからだにすりよせ親しげに尾をふった。
「し、森射?」
「彼は知りあいだ。ずっと昔からのな。どうやらアギトおまえを歓迎しているようだぞ」
「えっ?」
笑いを含んだ森射の声に、アギトはまさか、と言いたげに狼をみる。
狼は虚偽をゆるさない絶対的な瞳でアギトをみていた。ふいに影が、彼の頭上でふるえ煙のように薄れてゆく。
アギトはこの高貴な瞳を知っているような気がした。
それは、昔だれかが語ってくれた物語のなかに出てきた、美しく賢い獣たち。緋色の髪をした神が武勇する話であっただろうか。
「この森の主が、おまえなら入ってもいいと言っている。ついて来い、アギト」
森射は草深い斜面をすべりおりていった。あまり軽やかなので、風が草を揺らしているようにしかみえなかった。アギトは見惚れていたが、おいてゆかれそうになり、あわて、森射の背を追ってすべり降りてゆく。
やっと足元に地面がふれ、底にまでおり立ったとき、なにかが足に触れた。目をやると石碑のようなものが崩され散らばっていた。
石は、そこらあたり一帯に散在していた。まるでなにかの、悪意にみちた手によって壊されたような、無残な朽ち方をしていた。
ふと顔をあげると、正面に、得体のしれない、炎のような赤い植物の壁がそびえていた。かなりの範囲においてそれは続いており、よくみると、そのからまった蔓の下には岩が隠されている。
わずかしかみえないそこからは、なにかしらの人の顔や模様がみてとれた。
アギトは無意識にその植物をはぎとり、なにかの神像とおぼしきものを浮き彫りにしたレリーフのようなものに目を食い入らせた。
石の神像は、そのどれもが顔やら腕やらを削りとられ、荒々しく壊されている。その無惨に削り取られた像を名残惜しそうにさわっていた。
「これは……?」
「我が吉備の神と、その神に仕える巫女姫たちの物語を描き綴っていたという壁だ」
どれもが美しい線を華麗にうきたたせていた。
もしこのように荒々しく削り取られていなかったら、さぞ絢爛で豪華で、そして繊細な絵物語が繰り広げられていただろう。
だが惜しむらくは、もう永遠にその美々しい顔を見ることができない。あとは植物たちの新たなるすみかとなって朽ち果てるしかないのだ。
「その昔、吉備とヤマトは激しい戦いを繰り広げていた。……そのことは、アギトももちろん知っているだろう?」
その戦いは、少しでも地位や身分のあるものなら、教育の一部として、語り部たちの歴史から必ず学ぶはずである話であった。
覇王として国家統一を狙わんとするヤマトは、各地を攻め落とそうと、次々に戦いをいどんでゆき、勝利をおさめてきた。着々とその手中に各地をおさめていった中には、もちろん、吉備も含まれている。
「戦いこそ互角に渡りあっていたはずの吉備が、何らかの理由によって、いきなり停戦を申し入れてきたという。そこで天津神を奉るヤマト側は、かなり無理な条件を飲ませることで、それに合意した。その一つに、吉備の神の像を崩すことがあったという」
完全なる配下におさまったわけではなかったが、それでも吉備は相当の苦渋を強いられただろうことは、目の前の惨状にしてもあきらかだった。
だが、なぜそのような苦境を強いられてまで、停戦にしなければならなかったのか。理由はさすがの森射でも知らない。
「だが、吉備の民にとっては、神の名などどう変わろうと、信仰それ自体は何一つかわらないのだ。ただ祈るときに唱える名前がちがうだけで、神の顔が削られようと、崩されようと、祈る心が同じであるならば、その思いはかならず通ずる。守るべき大切なものの前には、替えがたかったのだろう」
ただひとつ、森射にもはっきりと解ることがある。争いは勝者であろうと敗者であろうと、無惨な結果しか残さないということだ。
「ここで激しい戦いが何度もあったらしい。多くの者たちが死に、血はこの地に吸い込まれた。そして、魂はいつまでも浄化されることができず、この古戦場でいつまでもさまよっているのだ」
森射がふわりと手をもちあげた。その手のひらに光がまとわりつき、どれもが悲しい光を発していた。胸をつく色あいだ。
「私には詳しいことはわからない。でも、この魂たちの落す悲しさだけは、わかる」
それは益々多くなってゆき、森射は光に包まれていくようだった。
姿がかすみ、光となっていく森射をみているうちに、それらがさまよう哀れな魂たちであるとアギトは気づいた。森射の歌う、祈るような声にあわせて、そのものたちが泣いているのだ。
「みんな、哭いている……」
アギトはつぶやいく。
森射は時々ここにきて、こうして逝くべき道を見失ったあわれな魂と語らっているのだ。
光はより親しく森射によりそい、だれよりも生きる輝きに満ちていたはずの彼女が、いまは誰より死に近くみえてくる。
光を愛し、闇をその身に赦す彼女のすがたは、なぜか切ない。まさに日と月をあわせた姿だ。
「死はけして恐ろしいものではない。その方法さえまちがわなければ、誰にでも安らかに訪れてくれる」
アギトは本能的な恐れを感じ、かすかにふるえた。それ以上森射の姿をみると、魂を吸い取られそうで思わず目を閉ざした。
彼女の歌声がさらに響き、アギトの魂魄の、最後の一滴までもが吸い取られるようにひきよせられた。
光はさらにまし、アギトにまで手をのばして包み込んでいった。
不思議な心地だった。
思ったような恐怖感はなかった。それよりももっと苦しいような、懐かしさと悲しさがこみあげ、アギトの真髄をゆさぶってくる。
抵抗することさえできなくて、とうとうかれらに体をゆだねたアギトは、奇妙なほどに死のやさしい手にいだかれたようで、どうして今までこの手を恐れていたのかわからなくなってくる。
知らず知らずのうちにアギトまで森射と同じ歌を歌っていた。静かな時間だった。
どれくらいそうしていたのだろうか。光はいつのまにかなくなっていた。
森射の見開かれた夕空のような眼が、アギトをおどろくように見つめていた。
「あの哀れで罪深い魂たちが、浄化されてしまった。どうして……?」
「浄化?」
アギトを痛いほど見つめる瞳は、アギトの奥のさらにその向こうに潜んでいる何かを探り出そうとしているかのように真剣だった。
そんなことを聴かれてもアギト自身わからない。
いや、それよりも、自分がどうして森射と同じ歌をうたっていたのかすら、わからないではないか。
アギトとみつめあっていた森射が、息を吐くように破顔した。
「そろそろ帰ろうか」
「……ああ」
それ以上、どちらも問わないまま、無言でふたりは歩いていった。しばらくして、森射が思いついたように言った。
「アギト、ちょっと寄り道してもいいか」
「かまわないが、こんなところでどこへ寄るんだ」
森奥ふかくで、他にどこへ行くところがあるのか。
だが、どのみち森射について行かねば、この森を抜けるのは不可能だ。後を追うしかない。
「そう時間はかからないよ」
森射は云うと、さらにうっそうとした深い山のなかへとわけ入っていった。
巨大な岩や、小川のせせらぎ、木の根が盛りあがり、道なき道をふさいでいる。
どれほど歩いただろうか、森射は急に足をとめた。
気がつくと、大きな木の下にたっていた。
そこが木の根元だと気づかぬぐらい雄大で、途方もない大木だった。
このあたり一帯の樹は、すべて今までの巨木たちとは比べ物にならないほど立派で、威厳にみちており、特別な魂の精気を感じさせている。
その大きさに、ただただ圧倒されたアギトは言葉もでてこなかった。
森射は見上げたその樹に、そうっと抱きつき、ほほをよせた。
安らいだような、まどろんだ優美な表情だった。
アギトは赤子のように、無垢に自分をなげだしている彼女におどろきながら、いまさらながらに気づく思いがした。
森射が女であったということを。
あれほど美しくたおやかなのに、まったく性を思い浮かばなかったのだ。
アギトは生き物の気配を周囲にかんじ、頭上に視線をめぐらした。
こずえから顔をだすモモンガの姿がチラリと目にはいった。梟が夜でもないのに枝にとまりこちらをみつめている。
赤い実のついた枝をくわえたリス。そっと葉の長い草のなかからのぞいている子鹿に灰色クマ。枝々に止まっているのはセキレイであり、その隣にはメジロやヨブコドリがいる。
なんと、気づいて見れば、森射のまわりに動物たちがたくさん集まっているではないか。
「なんで、こんなに動物が?」
「……彼らの言葉に耳をかたむけ聴く者は、聖なる道を知ることになる。鳥や野獣のもつ、神聖な知識がお金で買えないように、どんな修行をしようと、心に曇りがある者は掴めない。なにかを知るためには、素直さが必要なのだ。――そう聞いたことがある」
森射の肩に鳥がとまる。足にリスがまとわりつき、甘えてくる。くすぐったそうに笑う森射は人の子にはみえない。
「彼らはヒトの尊大な態度を、だまって受け入れているように見えているけど、じつはその聖なる言葉を、教えられる者かどうかを見極めてもいるのだよ。ヒトが動物を選ぶのではなく、動物たちがヒトを選んでいる。愚か者は、彼らの身につけた擬態という衣だけにだまされて、欺かれて終わるんだ」
森射の姿がしろく霞んでいく。まるで伝説に聞く天女のようでもあり、また、死を運ぶ闇の乙女のようでもある。
ゾクリと冷たいものが背筋を走った。アギトは恐怖を感じた。
これはヒトではない、と頭の奥でだれかが警告していた。これは、ニンゲンではない、この世のものではない。なぜ、そんなことまで知っているのだ。
喉がヒリヒリするのに、かすれる声で言った。
「……おまえは、人間、なのか」
森射ははっとしたように顔をあげ、アギトをみた。
その目は赤さをまし、秘境にかくされた宝玉のように輝いていたが、悲しみのような色もまた、深くたたえていた。
アギトは、それでも異物でも見るように目を細めながら、もう一度だけ、問うた。
「おまえは、人間なのか森射」
その言葉は、彼が初めて森射に会ったときにいったのと、同じ言葉だった。
「わたしは――」
森射はくちごもり、意外なほど淋しそうな顔をして、まぶたをふせた。
それでも、なにか言おうと何度か口を開きかけたとき、動物たちがさけびをあげ、いっせいに四方へと散って逃げだしていった。
「なに? 」
森射がつぶやいた瞬間、いきなりゴウッという地鳴りがして地面が揺れた。
絡まるように繁った枝がざわざわと不気味にゆれ、天高く音をひびかせてゆく。
驚いたように空を見つめていた森射を、アギトはとっさに抱きかかえて、大木にしがみついた。
大きな揺れは断続的に、しばらくのあいだ続いていた。
やっと不気味なゆれの足音がとまり、潮が引くように、振動はちいさく遠のいてゆく。
森射はなにを感じているのか、アギトの腕の中だということも忘れ、茫然と天をみつめていた。つぶやいた。
「星が――」
「星?」
まだ星が輝くには早すぎる。太陽は正午の空をわずかに傾いただけだ。
だがそれは、そこに輝いていた。
南の空に赤く妖しく閃き、禍々しくおのれの存在を主張しているではないか。
「昼間に光る星――あれは、『妖霊星』だ!」
アギトは、森射のただならぬ声に、それが不吉なことがおこる前触れだということを知った。われしらず森射をつよく抱き寄せていた。
星は彼らをあざ笑うかのように、さらに光を強め、輝いていたのだった。
「『妖霊星』とは、災いあるとき、必ずあらわれるという星の名じゃ。そして、また不吉な象徴でもある」
大ババは御簾のむこうから重々しくそう言った。
急ぎかえった森射たちは、そのまま大ババのもとへと足をはこんでいた。
すでに火見華や他の巫女たちは集まり、不安げな顔を見交わせていた。森射の帰りをいまかいまかと待っていたようだった。
ようやく心強い存在が宮に戻ってきたことを知ると、皆のあいだに、わずかだが和んだ空気がひろがっていった。そこにいる誰もが、あの突然の地震と、いきなり瞬きだした星に不安を覚えていたのだ。
大ババが自分のもとへと呼び出したのは、森射とアギト、それに火見華であり、なぜかイサナもそのなかに加わっていた。
「ただの脅かしではないぞえ。これはなにごとかが起きた証しじゃ。天地の気がこれほどまでに乱れざわめきたてておるのであれば、まこと尋常なことではなかるまい」
「天地の気――たしかに精霊たちが尋常ではない騒ぎかたをしておりますが」
火見華もなにかを感じているらしく、思案げにいった。
敏感な巫女の神経には、なにかしらの影響があるらしい。森射が火見華の肩をだくくように手をかけ、言葉をかみしめながら云った。
「星は南に輝いていた。あの方角からゆくと、九州――日向地方、倭国のあたりだと思われますが……」
「倭国には、偉大なる巫女にして語り部であらせられる、日巫女様がいらっしゃるはず。まさか、あの御方がおられるというに、倭国でいかほどの大事が起ころうかとも思うのじゃが」
言葉とは裏腹に、大ババはひどく心配そうであった。
自分の師であり、もはやその能力を超える巫女はあらわれないとまでいわれた、伝説の巫女である。
その日巫女のいる倭国で、妖霊星があらわれるほどの大事が起こるはずはない、と思いたい。
世の理を心得え、いかにそれが大切かを大勢の巫女たちに伝授してきたのは彼女なのだから。
「倭国は伝統ある古の国。だが時代という大河の中にあっては、時には道をうしなうこともあるやもしれません。巨大な体制は、複雑さと混迷をうみます。虚栄と傲慢という厄介な腹の虫に痛めつけられれば、権力に目がくらんだ愚かな亡者どもは簡単に狂い心を失い、それに従う輩も出てきても仕方のないことですから」
森射の痛烈で冷静な言葉に、大ババはむっつり考え込んだ。
御簾のむこうから意識を吸いとるような重々しい声がながれてきた。
「天地が創造され、神々がはじめてこの地へと天下り、そのやんごとなき御足をおろされたのが、聖なる山、九州日向の高千穂にある、クシフル岳じゃ。神の心をしろしめすため、巫女となる乙女に助言をお与えになり、倭国をおつくりになられた。神の加護をえた倭国は、富み栄え、そうして時は流れてゆくうちに、いつしか一大国家と成っていったののじゃ」
それは、天地創造からの歴史をうけつぐ、「語り部」としての物語であった。
「倭国は南と西に、大陸と陸続きであることも手伝って、ますます栄えていった。王は交易のために、道を整備し、商人たちの通商をおおいに歓迎した。保護をあたえて、大陸とのやりとりをも活発におこなった。異文化の技術や科学をどんどん取り入れ、わが国でも、最高の知識と技術を要する国となり、ますます巨大化していったのじゃ。また倭国は、海上の貿易にも力を注ぎ、頻繁に隣国の島国、アトランとやりとりをおこないもした。アトランのもつ世界最高の科学技術を導入していったのである」
どんなものでも受け入れる度量の大きさにくわえ、それらを自らの国にあったものに改良してしまおうという、貪欲な知識欲と、技術力は目をみはるものがあった。
倭国は神の加護を得ながら、それ以上の努力をし、急速な発展の渦にのみこまれていった。ますます異国からの流入者や出稼ぎの者たちが集まるようになっていったのだ。
もちろん、それは良いことばかりを生み出さなかった。
人の集まりによって、人口は爆発的な増加をたどり、荒廃もまた進んでいった。闇の商売に手を出すものも増えたし、おぞましい快楽にふけるものも出た。繁栄と虚無は同じように成長してしまったのだ。
「そのことを厭い、危惧したのは弟王であった。倭国に見切りをつけ、新たな大地を開発し栄えさそうという声に共鳴した人民をひきつれ、内陸の地へと移っていったのじゃ。だが、そこにあった真実は、覇権あらそいに負けた王の逃走なのじゃ。だが、わずかばかりだが、技術を有する民をかかえて逃げられたのは幸いであった。その力をつかい、国をひらき、自分こそが正当なる倭国の王だというようになり、その意味もこめて、ヤマトと――やまとこく倭国と名をつけたのじゃ」
そうして九州倭国をのがれた弟王は、屈辱を晴らすように、近隣の国々を侵攻していった。その力を見せつけ、猛攻を振るっていったのだ。その争いのひとつに吉備国での戦いがあった。
「それが、あの古戦場だと?」
アギトが、信じられないといいながら首をふる。
だが自分の目で見てきたあの地には、多くの魂がただよっていた。
自分の習った国史とはかなり異なった話ではあるが、勝者が歴史を自分たちの都合よく編纂しなおすのは、いつの時代でも同じでことである。
「吉備の国はふみ荒らされ、田畑には塩をまかれ、実りゆたかな木々は削られてしまった。何年も何年も、草さえ生えぬ枯れた土地となってしまったのを、いまのような豊穣なる水田にかえるのは、それは血のにじむような苦労の連続であった。かなりの努力と忍耐が必要の歴史でもあったのじゃ」
大ババはその苦渋をにわかに思い出したかのように、声をからしていった。
森射が力をこめて言う。
「それでも、大地は草を抱き、森を甦えらせた。野獣どもに踏み荒らされた大地であろうと、そこから生える植物の芽は清く美しい。人々の心がありさえすれば、何度でもやり直し清めることができます」
大ババがうなずく。
「そう……たぶん倭国も、はじめこそ己の国の復活を願い、衰退をくいとめようとして、アトランの科学者を連れ戻ったのじゃ。したが、腐りかけた土壌に堆肥をあたえても、さらに腐蝕がすすむだけのこと。――わしは、倭国が、天地の理にそわぬ、悪しき実験をはじめているという情報も、聞き及んではおったのじゃがのう……。イサナよ、そこらへんはどうであろうかな」
アギトがイサナをふりかえった。まさかそこでイサナの名前が出てくるとは思わなかったのだ。
いままで無言で聞いていたイサナは、昏く青ざめ、うつむけていた顔をゆっくりとあげた。大ババを見、それから森射をじっと見た。
「……そんな生易しいものではない。やつらの行っている実験は……あいつらは、狂っているんだっ!」
燃えたぎる怒りをこらえるような声がふるえた。また、あのチャリチャリという石をまさぐる音が聞こえはじめた。
「倭国の豪族どもは、どれも腐っている。腐りおのれの膿におぼれて、もはや自分たちが何を行っているかさえわかっていないだろう。欲望のためにはなんだってする。悪魔の集団だ。禁断の魔術を復活させ、禁忌の実験を行ない、欲望のかぎりをつくしているんだ。だが、もっとひどいことには、それを止める者は、もはやあそこにはいないということだ。王にはそれだけの力は、ない」
言ったきり、むっつりとおし黙り顔をふせてしまった。抑揚のすくない、表情の現れない声だけに、彼の心のなかにある傷の重さが感じられる。
アギトはいままで考えてもみなかったが、イサナの正体がふと気になりはじめた。彼は一体何者なのであろう。そこにはなにが隠されているのか。
「光は、強ければ強いほど、その裏にひそむ闇は濃いものとなる」
森射はイサナになにを感じとっているのだろうか、しずかに言った。
「やはり、何かが起こり始めているのだろうかのう……」
大ババの鳴らす石の音だけが、シンとした空間に、鳴り響いていた。
森射も火見華も、考え込んだまま、口をひらこうとはしなかった。
静かな時間だけが、過ぎていったのだった。
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