炎の娘

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16




 絶え間なくおそう揺れに大地はわななき、いたる場所を切りつけられ、ひき裂かれていった。
 このまま永遠に暗黒の世界が続くのではないかというほどの闇が地上をおおった。
 人間が原始時代からいだいている本能的な恐怖を刺激し、混乱に落としいれようと冷たい舌でなぶっているのだ。
 悪霊たちが、歪んだ憎悪の波動にのり、空気をひっかきまわして人々の恐怖をあおっていた。恐怖の魔王の到来を待っているのだ。
 海沿いの崖や絶壁や、砂浜などがはげしい波にあらわれて、徐々に、だが激しく崩され海にしずんでいく。
 ときに荒々しい波のやいばに、村や里がのみこまれ、何もかもが藻屑になっていった。
 岩場は地震によって横滑りをおこし、ところどころが隆起しては断層となり、そこからもまた崩れて崩壊していった。
 いたるところから泥水が吹きあげ、海底の火山がマグマをふきあげ、ちかくの村々は熱い津波におそわれた。
 眠っていたはずの火山までが、怒りの炎の柱をふきあげはじめていた。
 多くの家々や緑を焼きつくし、勢いを増してひろがり、陥没した地面が逃げまどう人々を無慈悲にのみこんでいく。
 すぐそこまできている悪魔が、破滅の歌を奏でているのがはっきり聞こえる。
 地球のなにもかもが身悶え、苦しみをその毒素とともに吐きだしながら、身ぶるいをつき、そのおぞましさに必死で対抗しようとしているかのようだった。
 日向から脱出できる者はすべてが生まれ育った故郷の地を捨てて逃げ去っていた。
 もはやそこには崩壊した家々や、妖魅、悪霊、そして死んだ者たちから発せられた燐光による鬼火だけが、右往左往して残っているのみだ。
 あけることのない永遠の闇が舞いおり、乾いた冷たさと呪わしい虚無だけが支配していた。
 時々、人か妖魔かわからない狂人のごときものたちが、耳障りに甲高く笑いながらはしりまわっていた。まるで残忍な魔王の到来を歓迎する先触れのようにみえた。
 おぞましい死の国である。
 死者の戦士の頭上には、死霊がとびまわり、廃墟と化した瓦礫の穴ぐらには、人骨をだいた魑魅魍魎と、それを食らう魔犬に魔獣、そして、それらを導かんとする日女と、彼女の意志に同調した老人や、足や体が萎えて、この地より逃げることもできない老いたわずかばかりの巫女たちだけだ――。
 そう、そしてもうひとり、イサナだけが残っている。
 彼だけがこの地にとどまり、伊邪那岐が開こうとしている高天原の門の天の橋立をくいとめようとしていた。天の裂け目の真下にたっていた。
 時空をひらき、侵入しようと襲いくる悪魔を阻止するために、孤独な戦いにのぞんでいた。
 全身に光が宿っていた。
 黄金の輝きは一個の星のごとき質量とエネルギーをはなち、人が体内で燃やすことのできるエネルギーの容量を、すでにはるか越えていた。まさに魔人のごとき相貌であり、輝きである。
 彼は精神エネルギーをすべてついやし内宇宙で闘っていたるのだ。
 もはや止めることのできない彗星を、地球にぶつかるより早く砕き、亜空間をひらいてそこへ送り込むしかないのだ。
 高天原の負の力を逆に用いることによって、さらに負の質力を高め、なにもかもを吸いこまずにはいない暗黒の扉を開こうとしていた。
 イサナはそのことだけにかけていた。
 それが伊邪那岐よりわずかでも強ければ、星といっしょに伊邪那岐をも亜空間におくりこむことができる。まったくの別次元へ、永遠に追い払うことができるのだ。
 イサナはただひたすら歌っていた。
 磁場を固定し、負の質量をすべてそこへ集め、もっともっと高めるために、精神のすべてを歌に変えていた。
 負のエネルギーは、決して油断をゆるさない。
 いつでもイサナに噛みつき、反逆の牙をむけてくる。わずかでも気を抜けば、その何倍もの衝撃でもってくいあらす。
 精神力の闘いだった。
 イサナの体内原子炉によって負の力を増殖させて、数百、数千倍以上に膨れあがらせている。そのために身体中を、呪わしいエネルギーがはしりぬけ、体組成を破壊してゆく。
 荒々しくかきみだし、血をながさせる。
 すべての力を傑出しなければ、とうてい制御できなかった。
 生きた蛇が身体中をのたうっているようであり、それが高天原のエネルギーであれば、なおさら負に満ちてイサナを苦しめる。
 伊邪那岐のエナジーは邪悪さで一杯だった。イサナを食らおうと蠢いて、鎌首をもたげ狙っていた。
 イサナはひとつの光る球体になっていた。
 宙空に浮かび、今にも噛みつかんばかりの伊邪那岐の黒い蛇影に対抗していた。
 そうなってさえまだ意識をたもっているのは、並大抵の精神力ではない。さらにはその意識を殺ごうとして伊邪那岐が邪魔をしてくるのだ。
 飛来する彗星の速度をわずかでも弱め、大気をこがす摩擦の熱をおさえようとしていた。
 イサナは人の形をすて、肉体という次元をこえて、究極のエネルギーの塊となっていた。たったひとつ、最も大切な森射への思いだけが、その光をイサナという存在として縫いとめているだけである。
 それを失えば、ただの莫大なエネルギーでしかなくなってしまう。
 どれほど切迫するような苦々しさに嬲られていただろう。灼熱の炎に焼かれ、肉を削がれ内蔵をえぐられながら、緩慢な死が残酷に皮膚の一枚一枚をむしりえぐってゆく。
 だがイサナにとってはそんな痛みなどなにほどのことでもなかった。森射が生きていてくれる。いつか幸せになる。それだけでどんなことだって耐えられる。
 彼女が笑ってくれさえすればいいのだ。
 未来永劫苦しみつづけたとしても、そんなこと、結局はたいしたことではい。
 森射はいつも静かに笑っていた。
 穏やかな、優しい緑の風のような彼女の笑みのなかには、どれほどの深い思いが秘められていただろう。
 本当の彼女は炎そのもののような、燃え盛るはげしい愛情をひそめていた。強く揺るぎなく、真っ直ぐむかってゆく情熱をイサナはよく知っている。
 そしてそれはいま自分のものであるのだ。
 胸のなかにつねに森射の吐息と熱を感じていた。
 森射の歌声が聞こえる。森射の祈りが伝わってきている。
 愛している――。
 愛している――。
 すべての命を慈しむのと同じだけの愛情を、たったひとりのイサナに向けていた。
 それと同じように、いや、それより何倍もの、もっともっと多くのふかい愛情が、森射へと向かう。もうどれほど昔から彼女だけをみつめ、捧げてきただろう。
 もし森射に愛されていなかったとしても、同じことをした。
 だが、二つの思いがひとつになったのである。それがどれほどの奇跡にちかいことか言うことができない。
 その思いの強さは計り知れなかった。
 いままで存在しなかった特別な力をあたえ、イサナに無限の勇気と、想念の力を強めてくれていた。
 思いがあふれでた。
 森射の愛を感じ、送られてくる強い生命のエネルギーをはっきりと全身に受けて、体中がそれに答えるように、もっと美しく高貴に輝いてゆくではないか。
 小さな太陽がイサナを中心にしてできあがっていた。
 イサナの存在をおそれ、怒るかのように、伊邪那岐の黒い蛇体が猛烈に襲いかかってきた。
 狂ったように噛みつこうと口をひらき、牙をたて、体当たりをして粉々に砕こうとしている。
 バリバリバリッ――
 大気が放電した。
 彗星の影が、邪悪な意識にみちびかれて地球の大気にぶつかった。高天原の門がひらき、天の橋立が膨れあがっていく。
 ぬめる波動が、黒い影といっしょにゾロリと這い出そうとしてした。
 目の前の小さな太陽を潰さんとして、八つの顔をのばし威嚇して牙をむいているのだ。
 イサナの光はさらに増していた。
 闇がからみついた。
 それはまさに、光と闇との、闘いのようであった。




 絶壁のいただき上に立ち、日女はその戦い盲いた両のまなこによって透視していた。
 わずかながらでも、応援できればというように念を向け、その壮烈な闘のなかにいるイサナを味方してもらえるよう、あらゆるものに祈っていた。
 嵐のような黒い風が吹き、荒れくるう海は、地上の膿みそのもののようにどす黒くよどんでいた。怒りと邪悪の想念を繰り返しうちよせる波の作用で、すこしでも浄化し、地上を清めようとしているかのようである。
 海こそは生命の母だった。
 命はそこから生まれたのだ。
 まるで地球は傷みをこらえもがき、懐にいだく生命をすこしでもつぶさぬよう、最小限に堪えてくれているようだが、それでもある程度の荒療治はどうしても必要であると、苦しげに身もだえていた。
 日女はいまにも崩れそうに切り立った岩のうえで強風に煽られ、地が揺れているというのに、その体はなにによって守られているのか、ゆらぎもしていない。
 彼女の周りには無数のものがいて、彼女をじっと見守っている。
 黒き魂に乗っ取られたり、悪霊と化し、無明の闇をさまよっている哀れで瑣末な魂たちや、また行く場所を失った妖怪とも思えるキメラたち、邪悪な波動に狂わされ妖魔となった猫犬などの動物までもが、そこにいた。
 だれもが忌み嫌う彼らにさえ、日女は深い慈しみの情を注ぎ、ここまで導いてきていたのである。
 最後の時をしったそこに集まった淋しい哀れな魂たちは、惜しみない愛を与えられ、彼女を母のように慕いよりそっていた。
 もしその数が目にみえたなら、辺り一面をうめつくしてしまう魂たちに驚いてしまったことだろう。
 日女にとっては、この地で苦しむものたちは、どんな命でも愛おしく大切なものだった。等しく生きる、兄弟なのだ。
 鼓膜を刺きさす不快な音はさらに音量をまし、それが段々耐えられぬほどに響きはじめていた。
 それにつれて揺れもまたまだひどくなり、あちこちが崩れては沈み、隆起しては裂け、破滅の足音をまた一歩また一歩と前進させている。
 もはや大陸へと続いていた道は、往来が不可能なほどに破壊され、わきたつ海へと沈んでしまった。
 それだけではなく、この広大な日向の国のかたちですら、いまやどのように変わってしまったのかも想像がもつかない。
 悪くすれば、この国すべてが消えうせてしまい、さらに本州全土さえ、無事に残るだろうかもわからない。
 いや、この地球すべてが吹き飛んでしまう可能性のほうが、高いとさえいえるのだ。
 最後の望みが、いま、彼女たちの目のまえに光り輝いていた。
 一個の球体となり、たった一人でそれに立ち向かっている、かつてイサナと名乗った少年だけが明日への鍵をにぎっているのだ。
 日女は最後のたしかに音をきいた。
 日向の国が――九州全土が最後の声をあげた。
 大地が断末魔をあげ、溶岩が海にながれこみ蒸気をあげた。もうもうとした噴煙に淀んだ空気を、さらに白くかすませ、肌をやく熱気を放出してゆく。
 「来たか……」
 海を鋭く睨むように見ていた日女は、なぜか突然、ほっとしたような笑みをもらした。
 そこで狂ったように飛沫をあげていたはずの波が、どうしたことか、すっかり消えている。
 ようやく勤めを終えることができる。
 日女はそうつぶやくと、充足感にあふれた安堵の笑み口元にうかべた。
 その彼女のむこうに、遠く、たちあがる白く高い波の壁がみえていた。
 近づくにつれ、益々巨大になり競りあがって白くわきたっている。
 なにもかものみつくす浄化の波だ。
 ――巨大な津波がなにもかもを飲み込もうしている。
 海はなにも拒みはしない。
 地球の鼓動ともいえる波の波動によって、すべての罪も穢れも浄化し、母の原初の羊水につつみこまれ、一番最はじめへと戻してくれるのだ。
 だからこそ日女は海に抱かれることを選んだ。
 海はやさしく、心地良い。この地球そのものであり、血であり、涙であるのだ。
 波に飲み込まれるその寸前、微笑む日女のすぐそばに、ひとりの寄り添う男の影があった。
 日女はまるで少女そのままのような嬉しげな笑みをうかべ、幸せそうに男に小さな頭を寄せうっとりと呟いていた。
 須佐之男様――。
 それが彼女の魂が残した最後の言葉であった。


 

 青く光かがやく緑の手に抱かれ、森射はすでに意識をあけはなしていた。
 見守るようにたたずんでいる優麗なる精霊と、そうして二人並んでいると、まるで彼女までもが人間ではない、高次元のものとなってしまったかのように見えてくる。
 森射のまぶたがゆっくりとひらかれた。
 瞳の奥底からあふれてくる涙にも似たそれは、情熱という生物だ。
 そこに強く息づき、森射をまったく別の何かへと変えてゆくかのようである。
 現世の重い枷をとかれた彼女は、本来そうあるべきであった少女へと戻り、宇宙から響いてくる歌声に素直に応えていた。
 思いのままに歌をほとばしらせはじめ、彼女のなかにある、ありったけのすべての熱が歌へと変えられてゆく。
 からだの器官の全部が歌に共鳴していた。いま森射から流れているその歌は、最後の力をふりしぼって歌っているイサナの声、それ自身であった。
 「イサナ……」
 森射にむけられた最後の思い。
 胸の中へイサナを抱きしめるかのように、森射は両手をかきあわせた。
 イサナと手と手を合わせているかのような強い力がわきおこり、彼女にながれる生命のエネルギーがさらに強い思念となってイサナへ注がれてゆく。
 それを受けとり歓喜の声をあげる光の存在を、森射はすぐとなりにいるように感じていた。
 地鳴りとともに、境界線を越えておしよせてくる隕石の圧力に、もろい岩山がくだけだした。粉塵をまきちらし、あわれにもガラガラと崩れはじめていく。
 緑の絶叫が峡谷にひびき、動物たちの逃げ惑う声がひっきりなしに上がっている。虫たちの死する吐息が鼓膜を串ざすように聞こえてくる。末期の叫びがあちこちからあがっているのだ。
 まるで地球自身が悲鳴をあげているようであった。
 崩壊はいやおうなしにはじまり、電磁波が空気中をはねまわり放電しながら雷鳴を轟かせていた。
 竜巻のような荒々しい風がうねり、雷があちこちに破壊の刃をむけ、火焔をもやしている。
 彗星が、いまや地球を守っている最後のバリアーに突入し、空間を焔硝させ、ねじ切ろうとしている。
 天が割れる――。
 「……もう、だめなのか、イサナ」
 森射はつぶやいた。
 それこそ精魂を使いはたし、死するほどの思いを力にして送りつづける。そこで戦っているだろうイサナのそばに意識をよりそわせる。
 侵入者の到来をどうにか水際でかわそうと必死でたちむかっていく、苦しげでせわしい息づかいが、もうずっと己の息のように感じられていた。
 次元の裂け目からのぞく禍々しい地獄の魔王は、地上が崩壊し荒れ狂いわきたつのを喜び、さらに魔力を増幅していた。
 それに対抗するイサナが、最後の力の一滴までもをふりしぼるように吼え、耐えながら苦しみに身を引き裂いている。
 それがどれほどの痛みか手にとるようにわかった。
 時は、本当にすぐそこまで押し迫っているのだ。
 人と神との闘いでは、あまりにも力の差がありすぎていた。
 答えが出ているのと同じに等しいのかもしれないが、イサナは、まだ逃げだそうとはしていない。どんなに苦しさに悶えていても、まだ諦めていないのだ。
 伊邪那岐の負の波動さえ、自分の中の原子炉にとりこみ、最大限に変換して、新たなる亜空間を開こうと懸命だった。彼へとながれる森射の気とあいまって、そこがだんだんと膨れ上がりはじめている。
 イサナはもはや、自分の中のなにもかもを捨てていた。
 ただひとつ、森射への愛だけをだきしめ、ただそれだけが彼だというように、その苦しみに向かっている。
 イサナは決して希望を失わない。失うわけにはいかない。
 森射も、だからこそあきらめるなどとは微塵も考えられなかった。
 絶望することも、闘いを終わらせることもありえない。愛するひとが自分を信じ闘ってくれるのならば、己もまた闘わねばならないではないか。
 生きることをひたすらに祈っていた。
 生きて未来を信じ進むこと。明日の光へとめざすこと。
 命を響かせあって調和をたもち、手をとりあい、ともに生きてゆくことをなにがあっても疑わない。
 体のなかで命と命が響き共鳴し、宇宙にちらばり広がっている生命のすべてが、森射のおもいに同調して生命の喜びの声をあげていた。
 なにもかもが調和することにより、森射という存在が形作られているのだから。
 宵の明星のような美しい涙がひとすじ、森射の瞳からこぼれおちた。それは、すべての命が流した涙だった。
 緑も動物も、風や海、昆虫やたった一粒の砂までもが泣いていた。
 生きて、存在したいと、なにもかもが、まだ未来へと進みたいと、森射の瞳から祈るような涙をながしている。
 純白の精霊は、森射をずっと見つめていた。
 心なしか満足げに笑みをうかべているようにもみえたが、それはすぐ白く長い睫がおとす影に、切なくけぶって消えていった。
 もう数え切れないぐらいの衝撃が空にはしっていた。
 見えない壁にぶつかっては消え、それによっておきた放電が暗黒のそらに禍々しい呪文をえがきだしていた。
 伊邪那岐のいらだちが癇癪にかわり、半狂乱の状態でやみくもに、何もかもを手当たりしだい壊してしまおうというかのように暴れまわっている。
 行く手を阻むものは許せぬと叫喚をあげ、激昂のまま猛烈と体あたっているのだ。
 みるみるうちに、そこが黒く滲み、おおっていた皮膜にヒビの網目が入ってゆくのがわかった。
 接近している高天原からのエネルギーで伊邪那岐の力はさらに強まっていおり、おぞましい顔がしだいにそら一面へと浮かびあがってくる。
 森射は膝をつきこうべをたれ、手をあわせた。
 「お願いです緑の王、守ってください。みんなをどうか守って。――お願い、父様っ」
 思わず口からもれた言葉に、純白の精霊はなぜか不思議なほどこころよい笑みをみせた。
 それは果てしなく美しく、なぜか胸が痛くなるようなやさしさと、慈悲にあふれていた。彼のそのまなざしに、森射は声をあげて泣きそうになってしまった。
 緑の王にふさわしい高貴さと威厳のむこうには、我が子にみせる愛しみの表情があふれていた。
 一瞬だけ、森射を抱きしめたかのように光で包むと、それは天高く舞いあがり、流星のように消えてしまった。
 その抱擁に、森射はおのれの身勝手さと、人間だけがもつ無情さを心の底からなげいた。
 永久の別れだと、悟っていた。
 森射はもうずっと昔から、母がだれと結ばれたかということを自然と感じとっていた。
 なにに教えらたわけでもなく、自分がそうだと知っていると自覚するよりまえから、血のざわめきによってわかってしまった。
 彼女ほど、緑と心を通わせあうことができ、愛情を受けられる人間をみつけることは、来世にも過去世にもいないだろう。 
 彼女はその身のなかに自然を息づかせ、脈々と流れる高貴なる、緑の血をもって生まれてきたのだから。
 自然の庇護も、愛情も、彼女にとって常にそこに存在し、身体の半身に流れる血そのものだった。緑に愛され、またそれ以上に愛していた。
 生まれるまえから森射はそこに属する者だった。
 吉備を守り、吉備に眠る神を守ってきた巨木――『緑の王』こそが、森射の父であったのだ。
 黙して語らぬ母は、吉備の大地と自然に愛され、森射を産みおとした。
 だからこそ母は父の名を口にすることなく、ひとりで森射をいつくしみ育てたのである。
 楪にとってみれば、巫女の神聖な役目を果たしたことでもあり、またこれ以上ない光栄なことでもあった。
 巫女の大役を果たしたあとは、ただのひとりの女として、一途に温羅を思いすごした。
 森射の存在は、誇りにこそなれ、非難されることも恥ずることもなかったのだ。だから何も言わなかった。
 温羅もきっとそれをわかっていたのだろう。
 森射を我が子と同等か、それ以上に大切にした。吉備の守り神のように可愛がった。
 彼女こそは吉備の大地の王と、神の花嫁でもある射王の血を継ぐたったひとりの運命の子供なのだから。
 そして森射はその血に恥ないように行動してきたつもりだった。
 どんなにつらいことがあっても、一度たりとも父たる神木に願ったことはない。そこにあるだけで畏敬の念を起こさずにいない隆々とした大樹は、そばにいるだけで森射の心を慰め力づけてくれた。
 彼女の中のなにかが、できることは自分の力で切り開かねばならない、決して頼ってはならぬという誇りと気高さをおしえていた。
 だから温羅や母が死んだ時も、ここで泣き、眠っただけだ。生き返らせてほしいなどと、天地の理に逆らうようなことなど、一言も口にもしなかった。
 森は自然と人間のまったき姿なのである。
 闇も光も、なにもかもを黙して受け入れてしまう彼女の心は、悠久の年月を辛抱づよく黙して見守り続けてきた、その神木そのものであった。
 「お願い父様、どうか――」
 森射ははじめて願った。
 もうどうすることもできない。人間の力ではもはや歯がたたない。
 身勝手とわかっていながらも、多くの者たちを救わねばならない。魂がゆさぶられ、心が裂けそうになりながらも、父に救いを願わずにはいられないではないか。
 バリバリバリバリッ――
 轟音が天を裂くようにとどろいた。
 彗星が地球の大気を侵しはじめていた。
 終末の歌がなりひびき、暗黒のエネルギーが森射の身体に突き立ちつき駆け巡ってゆくようである。
 皮膚から内臓から、からだを構成する元素のすべてが発狂したように熱をもち沸騰していった。熱にわき総毛だって、呼吸がとまりそうになる。
 たまらぬように、森射は息をもらし、歌っていた。
 体の中から溢れてくる未知なる歌だ。
 それこそイサナがおのれのすべてをかけて奏で、最後に歌う、魂の言葉のように、熱く激しくからだをかけぬけていった。
 歌にすべてが同調してゆく。
 その歌をうたっているのは、もはや森射だけではなかった。
 吉備の神殿にのこり、円陣を組んで祈っていた火見華や、大勢の巫女、またヤマト国などの各地にいる、大地とのつながりを忘れていない巫女たちが、時をおなじくして、まったくおなじ歌を歌っているではないか。
 声はひとつのエネルギーとなり、地球をとりまいていった。
 侵入しようとする邪悪なものをふせがんとする、固くて丈夫な金色の楯のようだった。
 あとはただ、そのものたちを砕くための剣が必要なだけ。
 その剣を握っているのは、森射であり、イサナであった――。
 「イサナっ!」
 森射は叫んだ。
 腰の伊邪那美の――健御雷の剣を大きくかかげた。
 思いのすべてがそこに終結し、歌が複雑に織りなしてできた異次元のエネルギーが沸き立ちかえる。
 剣にうずまいていたエネルギーは、不意に爆発したように先端から天にすい込まれていった。
 そのつぎの瞬間、倭国上空にひらいていた裂け目むかって、光の柱が放たれていた。
 吉備とこれほど離れていてさえ、はっきりとその清浄な光はおおきく瞬き、ほのくらい薄もモヤがたちこめるような大気のなかで、銀鱗の輝きをはなっている。
 イサナは森射からのエネルギーをたしかに得ていた。
 そして、それをつかい、最後の力をふりしぼって、彗星を砕かんとする光明なる終極の力をほとばしらせていた。
 耳をつんざくような雷鳴のあと、ほんのわずかのあいだ静寂が訪れた。
 浮かびあがっていた星の姿が突然ぼやけたかと思うと、いきなり膨らみ、ぶれるように稜線がにじみ、まるで熟れすぎた果物が落下しつぶれてしまうように、臨界値をこえて崩壊し、消えてゆく。
 ――大気が不気味な振動をはじめた。
 イサナのおそるべき力は、すべてのものの力をしのいだのだ。
 彼は本当にたった一人で、星ひとつを砕き、破壊してしまったのである。
 もうあと一歩で、まさに破裂しそうにはりつめていた邪悪な気配が、いきなり拘束をゆるめられ、バラバラになって四方八方へと無作為に暴走しはじめていた。
 それに怒るように、おぞましい奇声を発し蛇体の影がやみくもに暴れ狂い、森射をめがけて一直線に走り下ってくるではないか。
 巨大なくちから牙がむきだされ、毒の唾液がしたたり落ちた。呪いの形相は、今にも森射を食らわんと猛りせまりくる。
 だが、まったく臆する様子もなく、森射はそれに毅然と向かっていた。
 凛とした表情には、生を踏みにじる邪悪な影を絶対にゆるさない、高潔な怒りが燃えあがっている。
 忌まわしく哀れな老人の醜さを、正面から見据えているのだ。
 「きさまぁ!きさまだけは絶対に逃さぬ、道連れにしてやるわぁ、森射め――っ!! 」
 闇が森射を飲みこんだ。
 切れるような風が通りぬけた。
 だが、森射はなにごともなかったかのようにその場に立っていた。
 伊邪那岐の蛇身はそれこそ幻のごとく身体をすりぬけ、森射にぶつかるのと同時に分解してしまったのである。
 聞くことに耐えない呪わしい絶叫だけが空の彼方にひびいていた。
 逆流しだした空の一点に、伊邪那岐はみるみるねじまげられ、吸いこまれていくのが見えていた。
 亜空間がひらかれていたのだ。
 イサナが彗星をのみこむためにひらいた、別次元への道。
 邪悪な波動をはなっていた悪霊たちや邪霊、怨念に妖魅たちのなにもかもが、そこへ呪わしい召還をうけている。悪しきものが吸い込まれ、ひらきかけた高天原の門からのびていたはずの天の橋立までもが消滅し、侵入したばかりの悪鬼たちや、天孫族の鬼神、いや、高天原の門それ自体が、穴に引寄せられ、飲み込まれて、異世界からの悪しき来訪のすべてを拒絶しているではなか。
 砕かれた彗星の大半が、すでにそこへ飲み込まれていた。
 はるか異次元の彼方につづく亜空間は、どこに続き、どこへ消えていくのかもわからない。もしかしたら永久の闇を彷徨う、無限地獄なのかもしれない。
 無数の流星が空におそろしいほど走っていた。
 イサナが砕いた彗星のかけらだった。
 小さな星が大群となって空を駆け巡り、地上へと飛来しようと涙をながしている。
 幾つもの瞬きがひかりをはなち、地球にはられた防御膜にはじかれていた。それらのほとんどは地球に届くまえに激しく光をあげて燃えついているのだ。
 なかには巨星ゆえに、防御膜をも越えて、または亜空間の吸引にもまけず地上に達しているものが幾らかはあった。
 星屑が向かう場所はだれにもわからない。まるで神の采配のごとく思うがままいたるところに落下し、激しい爆音をがなりたて、大地をえぐっていた。
 町ひとつぶんほどある穴を生じさせたり、あたりを炎につつみ、あらゆる物をなぎはらい、焦土となさんと呪いの歌をあげている。
 落ちた衝撃で蒸気が噴きあがり、火山がさらに刺激され噴火をよびおこした。
 まきあがる粉塵で大気が黒くそまり、泥の雨がごうごうと降りそそぎ、雷鳴が絶叫をひびかせていた。
 破壊的なエネルギーが至るところで散会していく。
 地球があげる恐ろしい悲鳴はますます激しさを増してゆくばかりだった。
 海洋にのみこまれた多くの星が、巨大な波紋をえがき、しだいにそれは寄せてはかえす波のうねりをひとつにまとめあげていく。まるで海神の怒りのごとく巨大化し、不吉なざわめきをもって膨れあがり、山よりもたかい津波となり、無数の人間をのみこみ、さらに大地をけずり、無常な牙跡を地上へとつきたてる。
 海沿いの村はどこもが沈んでしまった。
 岩や陸がこそぎ取られ、海と陸とを境にする線をはるかにこえて、山の中腹にまで水位はおよんでいった。
 まさに恐るべき現象。世界の終末のようだ。
 ひとつの星が砕けたわずかな破片ですら、これほどまでにおそろしく激しい影響を与えるのである。彗星がそのままもし落ちていたとしたら、地球など、まさにひとたまりもなかったことであろう。
 緑の王たる山の神が、空へと舞いあがり、まるで地上のすべてを覆うようにその手を伸ばしてくれているのがわかった。
 空から降る災いの種から守ろうとしているかのように、わが子を火の粉から庇うかのように、ひっしと抱きしめている。
 山の意志すべてを負っているかとおもうほどの力が彼から放たれていた。
 緑の王の心に感応し、各地にあるストーンサークルからほとばしるようなエネルギーが噴き上がりはじめた。
 最期まで残って修復していたものたちは、いきなり発動しはじめたそれに唖然として立ちつくし、渦巻くような絶対の力がはなたれるのを黙してみつめていた。
 しだいに彼らは敬虔な祈りをささげはじめている。
 エネルギーは尖りをもった山の先端へあつめられていた。
 そこからさらに巨大な力となり、いっきに噴射されて緑の王へとそそがれていた。
 山がまるでそれ自体のための道具であるかのように黄金にかがやき、唸りをあげているのだ。
 エネルギーをうみ、増幅させる磁場である。
 光りをはなっている各地の山々は、どれもが吉備の神殿の後ろのそびえているのとおなじような、きれいな三角の形をえがいていた。その形こそが、石の放つエネルギーを先端部へ集めるための効率よい形であるのだ。
 山々の緑がざわめき、石の力と同調し未知の力をうみだしている。
 全国各地から放たれたエネルギーはすべて緑の王へとあつまり、彼の手によってエネルギーはさらに清くつむがれ、まるで赤子に着せる産着のようなやわらかい皮膜となって地上を包みこんでいく。
 命の鎖で紡がれた最強のまもりは、空からふる星のかけらをもはや地上に落とすことなかった。
 空気がわずかだが険をゆるめる。
 あれほど狂ったようにわきたっていた津波でさえ、いささか凪ぎはじめ、地上のすべてを飲みこまずにいてくれた。
 生命でできた生きた皮膜がはなっているのは愛の波動であった。
 地球さえも、それらは癒しているのである。
 森射を愛してくれた山が、緑が、いや森羅万象なにもかもが、愚かで小さな人間に対するふかい愛情をむけてくれていた。
 限りない優しさが、まるで別れを告げているかのように森射をだきしめ流れてゆく。
 たまらない切なさがを森射を襲った。身が切られる寒さにふるえ、かれらのなかに流れるひとつの歌が、森射の胸へ別れをつげる。
 満たされるような、それでいて耐え切れないほどの孤独と寂しさがつのり、森射はたまらなくなって身を抱きしめていた。
 かれらの別れのつらさに声をあげて泣きそうになってしまう。
 だが森射の口からはなにも発せられなかった。
 ただ、無言の祈りと別れだけが、心の中で鳴り響いていた。





 そして、
 ――どれくらい、そうしていただろうか。
 温かい朝の光を頬にかんじ、なでるような風がふきぬけていくのに気がついた。
 森射はふかい祈りから、ゆっくりと目を醒ますかのように、顔をあげた。
 あたりは静けさにつつまれていた。
 それまでの、なにもかもが破壊され、消えて滅んでしまうかもしれないという獰猛で荒々しい騒乱が、まったくの嘘のように凪ぎ、穏やかな春の日差しのような陽光が、黒い雲の切れ間からさしこみ森射を照らしていたのだ。
 森射はまるで別の世界にまぎれこんだようにあたりをみまわした。
 嵐のあとの、汚れも穢れも何もかも流し去ったような清々しさでつつまれていた。
 優しい風が頬をなでて、初めてであった旅人のように挨拶をしてゆく。その懐かしい匂いに、地球がふたたび呼吸しはじめていたのが感じられた。命と喜びに満ちあふれていた。
 森射は感じていた。
 人々の営みが終わっていないことを。風も、陽光も、穏やかな大気までもが爽やかな目覚めを告げ、朝日ついた吐息のような懐かしさを運んでくる。
 空をみあげた森射は、ただひたすらの蒼さに目をしばたいた。
 あまりに蒼く澄みきっていて目が痛くて、涙がにじんでくるではないか。
 自分たちをあれほど守ってくれていた父の慈愛である膜はすべて消えうせ、痕跡ひとつ残っていなかった。
 静かだった――。
 なにもかもが静かで、あまりに静寂すぎた。
 今までのことが嘘のようにさえおもわれてくるほどひっそりとしていて、森射は不意に一人ぼっちになったような気がしてしまった。
 自分を庇いおおうように繁っていた森の木々はすべてが枯れ、枝が無惨に折られ、壊死したように倒れている。草も花もなにもかもが茶色く染められ、命が去ったことを物語っているではないか。
 夢ではなかった。
 森射の願いにこたえ、彼らはみな、全身全霊をかけ、命を投げ出して、悪魔の襲撃からまもってくれたのだ。そしてとうとう役目を終えて、逝ってしまったのだ。
 森射は言葉にならないほどの深い感謝の念でむねが一杯になった。なんといって彼らに御礼をいったらいいのだろう。
 あんなに生命にきらめき、エネルギーにあふれていた父である神木ですら、もはやなんの命のかけらもみあたらなかった。
 雄大しく美しい神木であったのに、いまはもう閑散としている。
 いつもそこにいて、森射を見守ってくれていた。なのに命をうしなったそれは、まるで色がぬけおちてしまったなんの変哲もないただの巨木ように、むっつりとしている。ひとかたの揺れもみせないではないか。
 なんともいえない寂しさと虚無だけをぽっかりと浮かんでいた。
 山々は、どんなに森射が呼びかけようと、二度と答えてくれなかった。
 すべての力を使い果たし、彼らはもはや眠りについてしまったのである。
 吉備の神、火具土が眠りについたのと同じように、再び目覚めるその日まで彼らは眠りつづける。さらなる進化を経てさらに崇高な命となるようにと言い残し、逝ってしまった。
 「父様……」
 森射はそっと呼びかけ、木にだきついた。
 頬をすりよせ、答えぬとわかっていても、それでも呼びかけた。
 破壊と崩壊の大半は、いつだって人間が最初に起こすのだ。それを彼らがいつも尻を拭い、いつも恕してきた。
 もちろん、誰だって、自分が失敗するとわかっているわけではない。もしかしたらよりよい生活となり、明るい未来が待っていると希望に胸を膨らませている。
 ただあまりにも先へ先へと道を急ぎすぎて、夢中になって方向を見失ってしまい、執着が心の目を濁すことさえ気づかず、いつしか道をあやまってしまうのである。
 生命の樹を登っているつもりでいるのに、死へとくだってしまうのだ。
 だからこそ、目をみひらき、瞳を曇らせずそれを見極めなければならない。それが地球に住み、未来を担う者としての役目なのだから――。
 「みんな、たえて……どこへ行ってしまったの?……私をおいて、どこに行っちゃたの……」
 森射は返らないとわかって、それでもほとばしる思いを押さえ切れず呼びかけた。
 目の前の父は沈黙し、林立した枯木のあいだを寂しげな声だけが通りすぎてゆくだけ。
 なにもかもが静かに眠っていた。
 風だけが、優しく森射の頬を愛撫してくれた。
 森射はそして、ひとりきりになってしまった。
 とうとう、誰もいなくなった。
 どこまでも続くかとおもわれるほどの、地上をおおっていた緑は消えてしまい、わずかにのこっているそれも、痛み折れている。
 森射をつつみこむ森はなくなり、心を癒してくれる緑たちは消えた。森射の願いを受け入れてくれたためにである。
 雲がゆっくり流れていった。
 森射はそれにあわせて無意識に歩きだした。
 言葉が失われ、言葉がでてこない。
 胸が一杯で、なにも受け入れられそうにない。あらゆる思いが交錯し喉がつまり、息がうまくできない。
 どこか遠くから、声が聞こえたような気がした。だれの言葉かわからなかった。
 自分が自分でないようなおぼつかない気がして、意識がふうっと離れてゆく。自分という小さな概念が消えうせ、そのまま奇妙で不思議な感覚がおそってくる。
 森射は心地良さげにその声へと惹かれていった。
 自分のなかのすべては、もはや何一つのこっておらず、みんなの思いへ応えるために、使い果たしてしまった。
 なのに、何もなくなったと思ったそこから、ゆっくりと、熱くて、熱くて優しいエネルギーが染み出してきている。
 まるで枯れた泉に水が湧きだしてくるように、無限にエナジーが身体のなかもそとも、心の内側からも、満々とあふれだし、膨れあがってゆく。
 それはすぐに体をいっぱいにし、どこかに噴き出さずにいられないほど満ちた。堰きを切ったように歌となり、喉からほとばしり出ていった。
 森射ははじめて歌というものを、心から溢れる思いにまかせうたっていた。
 まるで自分が一つの楽器になったように、ただ夢中でそれを追い、歌声にながれでてゆく。
 これほどの激しい情熱に突き動かされたことはない。
 歌と身体がひとつになり、宇宙を形成する創造のエネルギーが旋律になり、愛が歌声となって森射のなかで音色にかわって奏でられてゆく。
 それこそが全てのものに宿る歌。
 聖なる、『生命の歌』だ――。
 神が最初に発したという、太初の言葉とおなじ霊力をもつ未曾有の歌は、きっとだれかのためにとか、何かの義務によってなどと、そんなちっぽけな感情や思いによっては、歌えないものだったのである。
 人間のちっぽけな思惑などひとかけらもなく、ただ歌いたいがために歌う。
 ただそれだけが、命を歌いあげられる。
 すべてを含蓄した生命の歌は、萌えいずる発芽を育まずにはいなかった。
 ただこんこんと清水が湧き出してくるように優しくて強い、母なるものが生み出していく、まったき力だ。それこそが、森射という音色であり、魂の歌なのだ。
 全宇宙のエネルギーを秘めた森射にしか歌えない――森射が、森射であるからこそ、歌えた奇跡。森射は自分ですら聞いたことのないその歌に、歌いながら自分が抱きしめられるのがわかった。
 愛は普遍に存在している。いつも抱きしめられている。
 この神秘の歌を手にいれようと伊邪那岐はあれほど狂ったというのに、きっとかれでは決して手に入れることのできないものであった。
 なぜなら、伊邪那岐が最も嫌うもの――愛によってしか、奏でられないのだから。
 雲の切れ間から差し込んでいた光の筋が、段々と太く大きくなっていった。
 雲がながれ走り去っていくのと同じ速さで、地上を陽光が照らしてゆく。
 驚くほどの速さで山々の峰が光をとりもどし、田畑や川、家並みへと差し込み、暗雲に怯え小さくなっていた人々の頭上を明るく照らしだしていった。
 あっという間にすべては、朝の清浄な光につつまれ、闇の残り香さえ浄化されていく。
 森射の歌はまろやかにのび渡り、水面をゆらしてひろがる波紋のように、大地に緑をとりもどしていった。
 木々が枝をのばし、草や花、また地上をおおう苔や蔦など、あらゆる緑が荒れ果てた地上をおおった。
 彼らは森射の歌にあわせ、復活し、脅威の成長をとげているのである。
 再生の歌は、わずかに残った命の残り火をふたたび燃えたたせていた。眠りについた木々にあらたに生命が芽生えたのである。
 山はふたたび生命を萌えあがらせてしまった。
 森射の歌声が消えた。
 緑の息吹が彼女を抱きしめていた。
 ふたたび心を開いた緑たちにつつまれながら、あらためて、そこに父の存在がないことを、森射は思い知らされていた。
 父だけは、やはり、どうあっても返ってはこない。
 深い、深い、眠りについてしまった。吉備の神、火具土と同じほど、深く遠い眠りの底に。
 森射の願いを聞き、地上のすべての生命をたすけるために、緑の王は逝った。砕け散った隕石の破片の大半をふせぎ、多少(・・・)の、変形でおさまるほどに守ってくれたのである。
 大地は、そうであってさえ、かなりの傷をおったことは否めない。津波に洗われた地上のいくらかは削りとられ、そのまま飲み込まれたりした。
 だが反対に新しい島が突然あらわれたり、陸地が隆起し、小高い丘ほどにせりあがり、水をせきとめ塩辛い池をつくったりもしていた。
 海水が引いた後の土地には、貝や魚がはねている場所もあった。
 そしてその変化は、日向地方において、ことにはげしく起きていた。
 上空に異次元の目が、いまなおひらかれていた。
 大な被害をうけたのは仕方がない。ほとんどといっていいほどの土地が切り崩され、裂けたり閉じたりして、まるで一枚の絵をきりさき、新たに組み合わせたかのようであった。
 海は激しいうずをまき、地をけずり、大陸に続く道さえも飲み込んだ。
 点々とわずかに残った陸地は孤島となり、さびしくうかびんでいるばかりだ。また本州とも切りはなされて一個の島となってしまっていた。
 だが、それでもまだ神に感謝をせねばなるまい。
 そこは残っていたのだから。
 それがどんなに奇跡に近いことか言いしれないのである。
 日向地方はもはや助からないとだれもが思っていた。
 妖霊星や伊邪那岐を飲み込むためにひらいた異次元のむこうへ、ともにつれて行かれてしまうだろうと覚悟していた。だが姿を大規模に変えたとはいえ、そこは存在していたのだ。
 森射は胸がやけつくようなたまらない寂しさで一杯になった。
 その地を守った偉大なる父がどこにもいない大地は、これほど空虚で寂しい場所であったのだろうか。
 自分が今まで気づかなかっただけでどれほど緑の王(ちち)の存在に頼り、慰められ、支えられていたか。
 たとえ森射がこの吉備をはなれ、どんなに遠くにいったとしても、緑のあるところは、すべて父の領域であり、森射を守る父のうでのなかだった。それだけで安堵していられたのだ。
 「みんな、私をおいて逝ってしまうの……?私を、ひとりにするの?」
 心もとない声をあげ、顔を手でおおった。
 まるでそのつぶやきに反応するように、ふいに左手が熱くなった。
 だれかが掌を合わせているような感覚をおぼえる。
 強烈だが、森射だけはけっして傷つけることはありえないそんな心強いエナジーを感じた。わが身を半分にわったもう一人の自分。魂のなかに必ず存在していて、陰陽に分かれた兄弟のものである。
 「安伎人」
 『――森射、おまえは一人ではない。いつだっておまえのそばにはみんながいる。心はいつでもおまえと一緒にあるんだ』
 安伎人の声は森射のなかに直接ひびいていてきた。
 彼の声には、いままで感じられなかった宇宙のエネルギーともいえる無尽蔵な力に満ちていた。
 安伎人の血は、地上をふるわせた大地震の巨大な波動によりさらに清められたていた。自分を投げだしヤマトの民を救うことで一度死に、そして再生されて新しい力を得たのである。
 そしてヤマトの地もまた王と同じく、天から降る星によって禊をうけ、穢れを清めた。
 大いなる『和』をとりもどし、安伎人という器にうけいれられることによって、かの地は特別な力を得ていた。
 『森射、俺とともに手をたずさえてくれ。ヤマトに来て、一緒にこのヤマトの地を再建してくれ。二度と間違った方向に進むことなく、またあの栄華と人々の賑わいを取り戻したいんだ。御願いだ、俺と手をあわせてくれ』
 「安伎人……」
 『それに、おまえにだって休息は必要なはずだろう。森射、俺ならばおまえの眠りを守ってやれる。俺だからこそ、おまえがわかる。ここへ来い森射、羽をやすめろ』
 ひとりではない、安伎人は何度もそう云い、傷ついた魂を癒せと云っていた。
 二人は背中合わせの一人の人間なのだから。
 同じ血をもち、同じ方向をめざしている。だからこそ安伎人は、いまどれほど森射が傷つき、心も身体も、流れる血の一滴さえも、苦鳴をあげているのか、誰よりよくわかっている。
 一時でいい、自分の腕のなかで休息してほしいと願っていた。
 だが森射は、首を縦にはふらなかった。
 「きっと、私のなかの傷は、この吉備の森でしか癒されないだろう。……いや、違う。ここでならば、この痛みをかかえて生きていける。――私の力の半分はおまえのものだ、安伎人。おまえがヤマトの再建をはたし、かつての繁栄を取り戻さんとしているのと同じように、私はこの地にのこり、吉備の国の再建を果たさねばならない。きっと、それが二人にわかえて生まれてきたことの魂の意味なのだ」
 森射は、緑の王たる父が去ったあとに残る、あの聖なる場所を守らねばならない。
 父が守り封印していたそこには、偉大なる神、火具土と、いまなお救世主を抱いて眠る、射王が眠っているのだ。
 誰もいなくなったいま、自分こそが護らねばならない。
 「ふたたび目醒め、彼の者たちとあいまみえる日まで、ここを守ってゆく。それこそが私のこれからの使命。その日がくるまで私は走ることを止めるわけにはゆかない」
 安伎人は、森射の静かだが、強くて強い意志に、もはや言葉を継がなかった。
 そして、本当に深い愛情を込めて、半身である森射に言葉をかけた。
 『もしも、本当におまえに困ったことがあったらいつでも俺を頼ってきてくれ。おまえは俺の命の恩人だ。死にかけていた俺の心を暗黒の淵から甦らせてくれ、再び光の道を歩ませてくれた。俺のなかにあった、自尊心にかたまっていた愚かな思いを払拭し、誰より大切なことを教えてくれたのだからな』
 たとえ、失敗しようとも、間違えてしまったとしても、そんなことはなにも構わないのである。
 馬鹿にしたいものには馬鹿にさせておけばいいし、軽蔑させておけばいい。
 人はだれもが、失敗をする。それを繰返すことでより成長できる。
 いらぬ自尊心が消えれば、自分のなかに抱えていたくだらない劣等感も負い目も消えて、次への道がみえてくるのだ。
 心を解放することは自分を許すこと。自分を許し、そしてようやく他人を許し、受け入れられるようになれるのだから。
 森射だけがそう教えてくれた。
 『森射、俺にはもはや野心も野望もない。おまえに教えられ、それらは俺にとって意味をなさないものとなってしまった。――だが、たぶんこれから俺がなすことの意味は、大勢のものは理解できないだろう。愚かな野心家が、巨大な権力と富を欲していると思うか、また混乱に乗じて世界を手に入れようとする卑劣な覇者だと罵るにちがいない。だが誓って俺はそんなものなど欲していない。ただ、俺は守りたい。――おまえが愛したこの世界を。イサナが守ってくれた、火具土の眠るこの葦原の中津国を、俺の信じる道で守りたいのだ』
 「安伎人」
 『俺には、あの伊邪那岐が本当に滅んだとはどうしても思えない。あれほど生に執着し、富と権力とにとり憑かれたおぞましいほどの生命力をもつ存在が、そう簡単に消滅してしまうだろうか。――たしかにイサナによって亜空間に投げこまれはしたが、ヤツは必ず甦ってくる。暗黒の世界から、必ず甦えり、ふたたび呪いの雄叫びをあげ、この国をおそってくるに違いないのだ』
 森射は安伎人の言葉の魔力にゾクリとふるえた。それは、森射のなかにも漠然と存在していた恐怖でもあった。
 やつは甦る。そしてふたたびこの葦原の国を狙い、火具土と、その子――救世主を必ずおそう。
 『俺は葦原の中津国をできるかぎり統一し、より強固でより力のある守りを張りめぐらせたい。そのためにも、ストーンサークルの修復は不可欠だ。また各地に備えられている自然の山に手を加えてつくったピラミッドも、もっともっと堅牢になものへとつくりなおさなければならないだろう。最大限に機能させられるために備えるんだ』
 「安伎人……おまえは、そんなことまで考えていたのか」
 安伎人のなかに眠っていた王者の叡智と理知が、いまこそ目覚め燃えあがっている。王たる者が歩む、孤独で孤高な道が、目のまえにひろがっている。
 王者とは本来、天と地と人の中心を知る者であり、宇宙の聡明な意志によって働くもののことであるのだから。
 「ならば安伎人、そのためには絶対といっていいほど、火見華の手が必要だろう。彼女の日巫女としての能力は、もはや吉備だけのためにあるのではないはずだ」
 だからこそ、『火見華』ではなく『日巫女』の名を継承した。
 「日巫女の手をとれ安伎人。そしておまえはおまえの信じるべき道へ進んでいくがいい。私はここで、この吉備で、ずっとおまえたちを見守っている。お前と日巫女が、二人がなすことを信じ見守っていよう」
 『森射――』
 安伎人の存在が流れるように空に消えた。
 森射の深い信頼と承認をえて、彼はもはや恐れるものがなくなったのだ。
 だれにどう罵られようと安伎人はきっと負けない。彼のなかにある、確固とした自信は、森射の信頼を得てさらに強まり、それだけの誇りをもった。
 風がふたたび流れ、森射の緋色の髪をたなびかせた。
 まったく静かだった。
 今度こそ本当の静寂がおとずれた。草木の葉が擦れ合うせせらぎの音と優しい風だけの世界となった――。
 森射は深い瞑想に入ったように祈りの手をあわせ膝をついた。
 森射のまわりからなにもかもが去ってしまった。
 大役を終えた空虚さと、果てが見えないほど暗くておもい孤独だけが、瓶の底にたまった澱のように森射のなかに残っていった。
 「イサナ……」
 森射の唇がその愛しい名前をやっと呼んだ。
 ため息のように切なく、哀しいささやきだった。
 「……イサナ、逢いたい……」
 森射の瞳から透きとおった美しい真珠の粒がはらはらとおちた。赤い瞳が陽光のひかりに輝いて、さらに美しいきらめきとなり頬をぬらした。
 悲しみは残酷にも彼女をさらに美しく孤高にしてゆく。山に息づくすべての息吹によって作り上げられてひとつぶの宝石のように美しくて、哀しかった。
 緑の風がほほをなでていった。
 ――森射、あまり悲しみすぎてはいけませんよ
 ――深い絶望は心をひどく消耗させてしまうわ。悲しみに囚われすぎてはだめよ。心が、バラバラになってしまうわ
 ――森射、森射、心をとざさないで
 木々がなぐさめるように葉擦れの音でささやきかけ、小さな子供のように頭をなでるように大気が抱きしめてくれた。
 ――人は悲しみや苦しみのほうへ進んでしまいやすいけれど、森射、でも本当に必要とするもの、決してあなたからはなくなったりしないのよ
 ――そう、だからこそ、もうひとつの愛をみつけなさい森射。古いものを大切にするのと一緒に、新しいものを生みだすのですよ。あなたは知っているはず、死は生の一部だと。そこには大切なものがあるということを思い出して
 森射は優しい声を聞きながら、だが、いやだと首をふっていた。
 「私は知ってしまった。愛する者がそこにいて、受け入れ、受け入れられることによって、変わることができるということを。生きることは変わること。それを恐れるものに進化はありえない。でも、でも私の愛は、もう永遠にもどってこない。もう、どこへも進めない……」
 彗星を砕き、伊邪那岐の侵入をくいとめ、さらに亜空間をひらくという、誰にもなしえなかった偉業をなしとげたイサナは、散ってしまった。
 人々を救うために――いや、森射を救うためだけに、命の炎をすべてもやしてしまった。
 もはやこの世界のすべてがイサナなのだ。イサナの愛によってまもられた大切で、愛しい場所だった。
 草も風も木も、すべてがイサナであり、そのどれもからイサナの愛を感じるけれど、いまは涙を止めることができない。
 彼はもう、その手で森射をだきしめてくれることはないのだ。
 鳥の羽根がいちまい、空から舞いおりてきた。
 天空の高みで、太陽を背にして一羽の鷹が旋回していた。
 その巨大な翼はまるで弾力ある空気の層をすべるようにゆっくりと羽ばたきながら、美しい弧を空にえがいていた。
 森射は吸い寄せられるように、ただ無心に、その羽根のゆったりとした動きに目をうばわれたていった。
 彼女の眼が、それをみつけると、閉じることも忘れたかのようにみひらかれ、みるみる温かい涙をもりあげていく。
 鷹の舞い落ちる羽根を中空でうけとめた青年が、真っ直ぐ森射を見つめていたのだ。
 心を奪わずにいない喜びにみちた笑みを浮かべるその顔を、森射は目を凝らし、みつづけた。
 なんてまぶしくてなんて目が痛くなるような光景なのだろう。
 すべてが光り輝いて見えてくる。
 「――イサナっ!」
 森射が声をあげた。手をおおきく広げるのにあわせて、イサナが走り出した。
 なにもかも忘れたようにイサナはかけより森射を抱きしめる。
 もはや二度とはなさないとばかりに、強くきつく腕にかかえ、力をこめる。
 「イサナ、お帰り」
 森射もイサナを抱いていた。
 手にしている互いの存在が信じられぬとでもいうように、二人は無言でだきあっていた。
 もっとふかく存在を確かめあい、よりつよく感じることでその存在がよりはっきりするかのようである。
 まぎれもなく狂おしいほど探していた相手だ。
 何度もみつめあい、何度もたしかめあい、それでもまだ信じられぬかのようにまた抱きあい、存在を確認しあった。
 イサナは森射をすっぽりつつんでしまえるほど大きくなったかのように思われた。
 ほんのちょっと別れただけのはずなのに、見違えるように大人びている。別人かと思うような柔らかく、落ちついた表情をしている。
 なんと頼もしい青年であった。
 たそれはただ身長がのびたとか、体格がよくなったとかという物理的なものだけではなく、彼のなかに潜んでいた本質のひとつが、重くて苦しい枷から解き放たれ、自由に表出できるようになり、本来の雄々しい姿をとりもどしたかのようであった。
 森射は腕に抱いたイサナを、それでもまだ、信じられないかのようにみつめていた。
 何から聞けばいいのかわからない。
 言葉がでてこない。
 自分の思いを言葉にするすべさえ忘れたように、イサナをみつめ、愛しみと慈しみにみちた瞳から涙がとまらなかった。
 「ほんとうに……?」
 やっとそれだけ言った。イサナは頷いた。
 「俺はもどってきた、約束どおりに」
 イサナは森射をみつめながら、思い出すように云った。
 「あのとき――妖霊星と伊邪那岐の両者にはさまれ、どうにかそれらを必死で食い止めていたんだ。もはや精魂もつきはて、これまでかと思った。――だけどそのとき、おまえの力を――莫大なエネルギーを感じた。そのとたん、自分でも信じられないような力がほとばしり、俺はたしかに亜空間の次元をひらいていたんだ」
 森射が健御雷の剣にすべての思いをのせ、エネルギーをイサナに送ったときのことだった。
 「亜空間からは莫大な光がうまれ、なにもかもが光の渦につつまれていった。俺自身さえ光に灼かれ、すべてを失ってしまったかに思われた。きっと、魂の一粒さえもエネルギーに変え爆発させてしまったはずだ。――俺はすべてを失っていた。消えうせたはずだった。なのに、それでも、俺の自我だけはずっとそこに残っていたんだ」
 森射はじっとイサナを見ていた。まるでイサナの思いをみているかのように。
 「気がつくと、俺のまわりをみんなが囲ってくれていた。母さんやキメラ、あそこで産まれた兄弟たちやみんなが、手をつなぎ、俺を守り、俺の一番大切なものを繋ぎとめていてくれた。そして遠い次元の果てにつながっているはずの亜空間は、急速に光を収縮し、凄まじい、強烈な力でありとあらゆるなにもかもを吸いこみはじめた。亜空間の吸い込む嵐の中で、俺はみんなに守られ、消えてゆく何もかもをずっとみていた。――砕かれた彗星の大半がきえ、高天原で苦しみまどうていた霊や、おぞましい悪魔たちが断末魔の悲鳴をあげ、その中へと消えていった」
 生きとし生けるもの、この世に存在するなにもかもが、そのなかでは無に帰されてしまい、亜空間は容赦なく、新たなる生命としての、太初の爆発の一点となるその時までエネルギーと、命を吸いこみ続けていった。
 「気がついてみると、俺はどこか遠い――宇宙の果てのようなところにいた。もしかしたら亜空間に吸いこまれてしまったのかもしれない。そこは果てしなく静かで優しくて、今までの痛みも苦しみも、心の傷さえ忘れてしまうような、ゆったりとした所だった。俺はもはやその悠久の時の流れに身をまかせて、宇宙の一部になってしまうのだろうと思っていた。心地よい誘いにまかせて、目を閉じかけたそのとき……遠くに青く煌く美しい星がとびこんできたんだ」
 ――蒼くて薄いベールのような被膜をかぶった地球。
 地球は、隕石たちの飛来から必死に身をまもり、邪悪なるものの手を弾いていた。
 「しばらくのあいだ地球はそれらに耐えていたけれど、ふいに美しい緑の光に輝きはじめた。ふりそそいでいたはずの隕石はその光にすべて粉砕され、消えていってしまったんだ」
 そして、地球に襲いかかり、エネルギーを吸いとっている、寄生虫のような醜くおぞましい、八つの首を持つ大蛇の姿がそこにうかびあがった。だがそれもまた、緑の皮膜にはじかれ、とうとう亜空間の引力にたえきれず、さいごには飲み込まれていった。
 「伊邪那岐はたしかに亜空間のなかに飲みこまれた。断末魔の悲鳴が遠い暗黒の世界で響きわたり、亜空間ですら、巨大なエネルギーを吸い込んだことに苦しみ悶えるように雷光を閃かせていた。そしてとうとう、満足したかのようにその口をゆっくりと閉じ、忽然と消え去っていった」
 もしかしたらそれは気の遠くなるような長い時間のことだったのかもしれないし、一瞬のことかもしれない。けれどイサナはそれをずっと見続けていた。
 ただ遠くから、みんながいたはずの故郷を眺めて、そこにひとり漂っていた。
 「宇宙はただひたすらに優しかった。俺はこのまま万物の根元にかえるはずだった」
 目をつぶったイサナの顔を、森射は切ないほどのいたわりの眼差しでみつめていた。彼の苦しみが、森射には痛いほどわかっていたからだ。
 イサナはだが、目を開き、溶けるような微笑をうかべた。
 「宇宙の手につつまれ、これで苦しみが終ると安堵がながれたそのとき、胸に小さな痛みが走った。なぜかたまらないほどの懐かしさにおそわれ、地球をみあげそこに、森射、俺はおまえの姿をみていたんだ」
 イサナはもう、ひたすら帰りたいという思いに衝かれてしまった。焦がれるような激しい思いがかけめぐった。
 森射のいる地球へ、森射のまつ吉備へ、森射その人自身の胸のなかへかえりたい。
 母であり姉であり、そしてまた厳しい師であって、だれよりわかりあえる親友でもあり、すべてを越えた至高の存在だった。この世の何にも変わることのない、大切で愛しい恋人のもとへかえりたかった。
 「俺は強く願った。森射のことだけを考えていた。強く美しく、そして孤独なおまえを抱きしめなければならない。寂しげな横顔が、泣いている顔が、俺にははっきりみえていたんだ」
 イサナは真剣な眼差しで森射をみつめた。すべてを投げだし捧げる狂おしいまでの思いがあった。
 「俺は、俺の肩を抱く存在に気づいた。母さんや、兄弟たちみんなが微笑んでいたんだ。彼らがうなずき、俺が笑いかえすと、やっとかれらの愛を受けとることができた気がした。生まれて来たことへの喜びと祝福を、はじめてこの身に感じていたのだから」
 イサナは、森射をつよく抱きしめた。燃えるようにあつい腕だった。胸からも爆発まぎわのような巨大なエネルギーが感じられている。
 「俺のなかから、醜くいじけた子供が焼きつくされ、消滅した。忌まわしい過去も孤独もなくなり、俺は新たに生まれてきた。――それでも俺のなかでひとつのものだけが、かわらず残っていた。たったひとつ、森射、おまえの存在だけが」
 イサナは、森射の赤い宝玉のような瞳をうっとりと見た。
 森射という自然に愛され、最大の魔術――愛によって絡めとられてしまっていたのだ。もはやその呪縛からはぬけだせない。ぬけだしたくない。
 森射の瞳から、ふたたび思いのたけのように涙がせりあがった。
 「イサナ、私はいつもおまえの存在に気づいていた。もうずっと昔から、わかっていた。けれど私のなかの孤独を、おまえの孤独とひとつにしたいと願うようになるまで、とても長い時間がかかった。――それでも変わらず、おまえは私のそばにいてくれた。ずっと辛抱強く待っていてくれた。私はそのことに感謝する。私のもとへおまえを返してくれたそのすべてことに感謝する。この奇跡に、神に感謝を捧げずにはいられない」
 虚空を旋回していた鷹がおおきく鳴いた。
 声は風にのり、遠くの峰々にまで響き渡っていった。
 花が、咲きはじめていた。
 森射の、イサナの足元も、山の斜面も、木々の枝、草の芽、川面にうかぶ水草にまで、季節のことなった四季おりおりの花をつけ、咲きみだれて命に輝きだしていた。
 まるで美しく描かれた絵に、やっと色がつけられたようなそんな鮮やかさである。
 生命を帯び、愛情というエネルギーがそそがれて、緑は本当の復活をはたした。
 二人の顔に笑みが戻り、かたく抱きあい、山を駆け上がってくる者たちへとふり返る。
 「姉様――!」
 「森射様!ご無事で――」
 火見華を先頭にして、巫女や神官、そして日向の国から来ていた者たちが夢中で駆けよっていた。
 みんな未来への希望を失わず、生き残った心強き者たちであり、これから未来をつくってゆく同士たちだ。
 「姉様――イサナっ?!」
 火見華が驚くようにたかく叫び、黒く艶々とした瞳をさらにおおきくた。
 本物だろうかというように、二人を見あげた。
 森射は身に染みいるようなまぶしげな笑みを浮かべた。
 人々は、思わず見とれるように足をとめ、森射とイサナの抱き合うその姿を、ひとつの絵のように――神の和合する完全で崇高な、畏敬の念を起こさずにいない素晴らしい調和をもつ神の姿のように、呆としてとみとれていた。
 ある種の感動さえ感じ、深い嘆息をもらした。
 人々のだれもが思っていた。
 このひとたちがいるかぎり、未来へと歩んで行ける。どんな苦境に陥ろうと、暗黒の闇が襲い来るだろうとも、決して負けはしないし、また何度でもやりなおせるのだと。
 「日巫女」
 森射が手をのべた。
 緋色の髪と目をもつ吉備の女神は、ゆっくりと人々の方へとあゆみよっていた。
 その傍らには、彼女を守る、つよいイサナの手がいつまでもそえられていたのだった。


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