「森射……」
軽くゆすぶられ、温かな生命力にみちた空気がのどに流れこんだ。
ぬくもりが森射の唇からはなれた。
切ないほどの愛しみと優しさが森射の全身をだきしめていた。そこからいたわる心がながれこみ、疲れ傷ついた身体を癒してくれるように感じられる。
森射は目をあけイサナをみつめた。
彼の悲しみと愛しさであふれた両の瞳は、黄金に大きくかがやいていた。ほとばしる思いを隠すことなくすべて森射に注いでいる。
愛する人を守り抱きしめている男の腕だった。安心してみを任せられる大人のものだ。
イサナの表情にださない感情が、いまやはっきりと表されていた。
にがく苦しそうに、だが、まるで愛する人との永遠の離別でもすかるかのように、痛々しくゆがみ、苦しくて哀しくてたまらないといいたげな吐息が生々しく頬にかかる。
彼の長いまつげがふるえた。自分をおさえるように声を低くして云う。
「あなたは、これからの世界に必要な人だ森射。もしも、どうにかして人類が生きのびることができたとしても、きっと世界はそれからさらに過酷な時代をすごさねばならないだろう。その厳しい時代にあって、あなたはだれより必要なひととなるはず。人々を希望に導き、伊邪那岐のような輩が二度と近づくことのできない、素晴らしい未来をつくらねばならない。そのためには、あなたが必要なのだ」
「イサナ?」
「あなたは死の大切さも、生の尊さも知っている。あなただから大宇宙は生命の歌を教えてくれたんだ。その使命があなたにはある。そしてまだそれは、果たされていない」
森射はイサナの言葉にただ首をふっていた。それ以上聞きたくないというように、聞けば、したがうしかないと怯えるように。
「森射、あなたは吉備に帰り、皆と一緒にこれから来るであろう試練に耐えてほしい。力をあわせ、守りの結界を強化し、一人でも多くの命を火見華たちと救ってほしい。災害はきっと地球規模でおきるだろう。天地は鳴動し、山はわれ海は渦巻く。俺も全力で食いとめはするが、もしかしたら……上手く行かないかもしれない。それでも、わずかでも生き残ったなら、それは未来へと命をつないでゆかねばならない、大切なものなんだ」
イサナの瞳には未来が映っている。森射の手を離れ、大きくさらに強く成長し、今また、さらに遠くに――はるか宇宙の彼方へと、ひとりゆこうとしている。
森射の手の届かないそこは、あまりに遠すぎるではないか。
森射は思わずイサナの手をにぎりしめた。
「これは俺の戦いだ。そのために、俺は生まれ作られてきた――きたんだと思う。歌鈴の遺伝子に秘められた力にさらなる能力を加えられてしまった。もはや逃げられない」
「……イサナ、私も一緒に戦う。一緒に、ここで戦いたい……」
「森射」
「やっとだ、やっと心が重りあえたのに、光の子供と出会えたのに、なぜ今また、おまえと離れなければならないんだ。お願いだイサナ。一緒に戦わせて。一緒に、この地でおまえと共に――」
そこには、万にひとつも愛する者が生き残る可能性のないことを知る、かなしい女性の悲哀があった。いままで一度だって自分のために我儘を言ったことのない森射の、はじめてで、そしてなによりもつらい、聞き届けられない我儘だった。
苦しそうに、イサナは目をおとした。
必死で自分の心を押し殺そうとして、戦っていた。彼こそが、どれほどそれを欲していたのだろう。欲しくて欲しくて、たまらなく切なくて、気がとおくなりそうだった。その森射の愛を、彼女の心をやっと手に入れたのだ。
森射自身がここにいて、自ら一緒に闘ってくれていると言っている。きっとそれは、共にどこまでも逝ってくれるといっているのだ。
それがどれほど嬉しいか、その言葉がどれほど哀しいか、誰にわかるだろう。
そうできたなら、どんなに幸せだろう。
今にも森射を抱きしめ、一緒に闘おうと云いそうになる自分とひっしで戦い、手をのばしそうになる身体を押さえつけねばならならない。
森射は、だが哀しげにわらった。
わかっているのだ彼女にも。
言ってもしかたがないことを、どうしようもないほど大きな運命なのだと、己の定めには逆らえないことをいやなほど理解している。
最初で最後であった。
森射が自分のために誰かをこまらせるのは。かなうとは少しも思わず、ただ女として、何の飾りも形容もない森射としての言葉を、一回でもいい、云ってみたかったのだ。
その言葉はまた、イサナの望んでいるものでもあったし、イサナが退けることもわかっていた。
二人は哀しげにわらい、抱き合いお互いの思いを抱きしめあった。
二人の腕が未練の糸のようにゆっくりと離れるのにあわせ、脳だけになった歌鈴の歌声が、流れはじめた。
「あなたのとこへ必ず帰る。たとえどんな姿になっていようとも、かすかな意識のひとかけらになっても、必ずあなたの胸へ帰ると約束する」
それがどんなかたちでも、小さな虫やひとつぶの雨、一瞬の光、星の瞬きであるかもしれない。それでも森射のもとへ、帰ってみせる。そこにしかイサナの居場所はないのだから。
「帰る場所を守ってほしい。俺の魂の一部は、ずっとあなたのもとにある。だから、絶対に生きていてくれ」
「イサナ……」
森射を絶対に死なせない、これ以上ない強い言霊だった。森射にはイサナの思いが痛いほどわかった。
「森射、あなたを愛している。あなただけを、永遠に――」
そう言うとイサナは森射に背をむけ、歌鈴のほうへと向きなおった。
まるで導かれるかのように、ともに歌いはじめた。
森射はイサナの背をみつめ、彼が全身全霊をこめて歌鈴の呪力をとりこんでいるのだとわかった。歌鈴の力を限界まで取りこんだとき、ようやく脳の機能が弱まり、結果的な死が――解放が歌鈴にもたらされるのだ。
そしてイサナは歌鈴の力とともに強大な力を手に入れて、すぐそこまで来ている彗星を砕き、亜空間をひらくという。
異国の言葉で紡がれる呪言は、波のようにあたりの空気をざわめきゆるがし、得体の知れない騒然とした何かがひろがってゆきはじめる。
「負の力には負の力で、火には火の力でもって対抗するしかない。そして、それができるのはイサナだけだ……」
そこには、いつのまにか研究所跡に残っていたキメラたちがあつまり、一緒に詠唱しはじめていた。
悲しくて切ない風の音にも似た、イサナの青いオーラが美しい金色にかわりはじめる。未知のエネルギーとなりはじめている。
森射はそこに神の火を見ていた。
ふりかえるイサナの瞳がさいごの別れを告げた。
どのくらいみつめあったのか、その時歌われた歌のすべては、森射に捧げられていた。森射は彼の思いのすべてを受けとめていた。
魂と魂でつながれたものが交わす言葉に秘められる意味は、だれにもわからないだろう。葉脈のように一部のすきまもなく自然につながりあっていて、その自然のつながりこそが心を解放する魔法の絆なのだ。誰にもたち切る事のできない、大切なものなのだから。
森射は走りだした。
歯をくいしばり、吉備にかえるために片身をもがれるような痛みに耐えながら、夢中で走りぬけていた。
イサナの思いを無駄にしないためにも、約束を絶対に守るためにも、ひとりでも多くの者を救わねばならない。それだけが、森射に残された使命なのだから。
「鳥が、ようやく飛び立ったか……」
日巫女、いや日巫女の役目をおえた日女が安堵の吐息をもらしながら笑っていた。
空を見上げているその眼は、もはやなにも映してはいなかったが、強くあたたかい光にみちていた。
年老いた身にかかる過重なばかりの重責と労働に、身体のなにもかもが悲鳴をあげて、巫女としての機能以外をすべて停止していたのだ。
彼女の盲いた瞳には、それでも森射の疾走する姿がみえていた。痛みをこらえ、涙を飲みこみながら懸命に走る運命の子供の姿が、雄々しくうつった。
一時の休息もなく、女の幸せをかみしめることすらない非常な戦士。そのときがくるまで、戦い続けなければならない。
だが森射はそれでも幸せだった。
愛する人と何千という抱擁をかわすより、魂で結びついた愛のほうがどんなにか強いかを知っていた。
「純化された愛は、愛する者の魂に発芽を促すだけでなく、愛する者を受けいれる恋人の魂にも翼をあたえるものだ」
二人の翼はさらなる高みを目指し飛翔する。いま、森射とイサナの背には、だれより大きく美しい翼が生えているのだ。
「さあて、そろそろかのう」
日女は立ちあがった。よもや、歩けるとは思わないほど弱っていたはずなのに、その足どりは驚くほどしっかりして前へと進みだした。
残っていた年老いた巫女たちもともに立ち歩きはじめている。
何をすべきか――何が起こるかみな心得ている。
「のう皆のもの、花は散るからこそ美しいのであるし、散るからこそ、実をつけることもできるのじゃぞ。さあて、我らの散らす花はどのような実になるか、楽しみであることよのう」
日女の言葉に、皆一様に微笑みうなずいた。満足げな顔だった
「まことでございます。きっと力強く気高い、まろやかな実になりましょうなぁ」
「ほんによい花が咲いたことでございます。さいごまで見れぬのが、ほんに残念……」
笑い声が漏れ、その穏やかな波動は彼女らの周囲にあつまっていた、死者の魂に食われたり、とり憑かれた者たちにすら、一時のやすらぎを与えていた。
「この者たちだけでは天に帰る道がわからぬであろうゆえ、我ら老人が案内をせねばまた道をまようてしまうわ。みなよろしく頼むぞえ」
生きているあいだじゅう苦しみ、死してなお、まだ苦しんでいる、憐れで悲しい無数の魂たちが、ひっしと老巫女たちによりそっている。
日女たちは空をみあげ、そこにできた裂け目の大きさがさらに増し、今にも開かんばかりになっているのに嘆息した。
「もうすぐじゃ。森射は――イサナは間におうてくれることか……」
つぶやきながら、彼らをひきつれ日女は海を目指した。彼女は、母なる生命の海に抱かれ、すべての不浄なるものどもとともに逝こうとしているのである。
空が振動し、不快な音をたてはじめた。渦巻く死霊たちが迎合するように渦を巻き空気がピリピリとして放電していた。
なにかが割れるような音がしはじめ、垂れこめた闇が、鏡のように黒く光をはなちだす。
欲望に狂った醜い顔が――伊邪那岐の顔が黒雲の一面に、照らし出されていたのだった。
森射は山を越えていた。
神が最初に降りたったという聖なる山、高千穂のクシフル岳であった。
何故そこを目指したかはわからなかった。
だが彼女の本能がそこへ向かえと急きたてた。多分、どんなに必死で走ったとしても、とうてい吉備に行きつくだけの時間が残されていないことはわかっていた。が、それでも森射は走らずにはおられなかった。
そこはまだ穢されていない神聖なる神の山としての荘厳さをたもっていた。どこよりもかたい結界に守られている。
森射がなれ親しんだ吉備の山々とおなじ匂いがしていた。
抱きしめられるような優しい感覚がした。空気も木々のさざめきも、森射の傷つき引っかきまわされた心の痛みを癒し、流し去ってくれる。なつかしい慈しみと、また、立ち止まることのないように叱咤してくれる、母のような強さがあった。
「森射、泣くな。泣くな、走るんだ――」
木々が励ましてくれている。
草や花が、我が子の苦しみに応えようとするかのように、何かしら口にはできない不思議な力をあたえてくれている。
森射はひとりではない。
それらが身体を軽くし、まるで雲の上を走っているかのような心地良さをあたえてくれていた。息さえみだれていない。地上にあるすべての自然は、森射の味方だ。
それが森射の一番の力であり、生命の秘密を知るものが持つ、もう一つの神秘の力である。
もう何度目かわからぬ激しい地震が襲った。
だが、こんどはあきらかに今までと違う衝撃だった。
森射は足をとられないように大木に抱きつき、激振と大地の鳴動をたえるように聞いていた。
揺れのなかで、山頂からみおろしていた森射の目には、平地にひろがる大地が、まるで氷のように幾重にも割れ、小高い山や谷がこどもの玩具のごとく崩れ、ひっくりかえり、海からの津波によって海岸線の町が沈み、川が逆流して、荒れ狂ったように氾濫をはじめていた。
口では言いあらわせないほどの被害である。大陸とつながっていた南西部の方面では、夜のやみより暗くなっており、まったく見えなかった。そこがどれほどひどい状態なのは、いやでもわかる。
天空から巨大な、黒い竜巻のようなものが伸びてきはじめていた。
渦を巻き、放電しながらおろどくべき速度で森射に向かっている。
みあげた森射は、そこに、欲望に取り憑かれている狂人の顔をみる。
「伊邪那岐っ、きさまか!」
伊邪那岐は本性そのままの姿で森射を我がものとせんばかりであった。大蛇はおとがいを大きくあけ、今にも飲みこまんばかりであった。
『森射、我を最後の最後まで受け入れなんだ愚かな女よ。貴様にもはや命などないっ!』
雷のごとくするどい声が無気味に鳴り響き、落雷が大木を真っ二つに割った。
『我の血肉となり、生命の秘密をあかせ。森射、おまえたち人間は死にゆくさだめなのだ。彗星と共にくだけ、我を拒んだことを後悔しながら、無念のおもいのなかで死んでゆくのだ』
嗤い 、轟音をかきならしながら頭上を何度もかすめた。
森射は思わず目をつぶり身を低くして、そのおぞましい何ものにも変えがたい、生命の根源をおびやかす冥府の黄色い風をさけた。
だが、想像したほどの攻撃も、衝撃波も森射を襲ってこなかった。
伊邪那岐の姿をした大蛇は、まるで見えない手にでも弾かれているかのように、ある一定の場所まで来ると、弾かれるようにしておしもどされているのである。
空のあちこちから攻撃してくる八つの蛇首すべてが同じ目にあっていた。
聖なる結界にはばまれ、近づくことを許されぬかのようにさえぎられている。伊邪那岐はだんだんひどく苛立ち、あばれのたくっている。
神聖なる山はなんと森射を守ってくれているのである。
――森射、手を……
「えっ……?」
どこからか、声が聞こえた。
――森射、手を合わせるんだ。
「手を?――だれと?」
どこから聞こえるのかはわからなかったが、ふいに声がきこえた。ただひどく懐かしい、泣きたくなるような感覚が体をかけぬける。
森射はなぜか迷いもせずに手を伸ばした。真っ直ぐに、吉備に向け――いや、さらにそのむこうにあるヤマトに向けて、掌と掌をだれかとあわせているかのように、さらに遠くへと腕をのばす。
力が感じられた。
掌に、本当に身体の一部のような近しい者の気配を感じた。そこから力がみなぎり溢れるのがわかった。宇宙を満たしている、無限の光明なる力である。
世界は二つの力をもち、それが男と女に分かれて生まれてきた。
一つは男の、日の霊気と、もう一つは女の、月の霊気。
そのふたつが和合することで、天地自然の力が調和され、その偉大な力を受け取ることができるのである。
森射はやっと真なる道が見えたようなきがした。そこには自分のもうひとつの魂である、安伎人がいた。
彼を愛しいと思う気持ちは、自分に向けるものと同じであった。ただべつのかたちを借りて生まれてきたもうひとつの、魂なのだ。
互いに本当に心から愛する人を得て、満たされ、反発することもなく一つの丸になってゆく。
『森射っ――!』
「安伎人!力を、もっと力を貸して!今こそおまえの力が必要だ、力を、わたしに!」
森射の叫びは稲妻のように大地を貫いた。
木々が揺れ、風が山を豪風でもってふきぬけた。
風が和ぐのにあわせ、その場から、なんと森射の身体が消え去っていたのだった。
南の空に開きかけていた高天原の門が、次第にはっきりとすがたを現しはじめていた。
その存在がいかに巨大かは、吉備からでもそれをはっきりとそれを見てとれることからも明らかである。
さらに空にぼんやり見えていた妖霊星が、益々明るさをまし、いまでは昼間の陽光のもとでさえ煌煌と照りかがやき、剣呑と瞬いている。
吉備では、火見華の留守をもまっていた巫女たちが、大ババの指示にしたがい、できるかぎりにストーンサークルの修復につとめていた。
さらには、火見華がともに連れて帰ってくるはずの、日向地方のひとびとを受け入れるための用意をあわせてすすめていた。全ては大ババと火見華が交信で、状況をしらせあいおこなわれていた。
火見華は、『日巫女』の名において、黄泉比良坂の番人である弓月に懇願し、その道を特別に開いてもらうことを許された。
たぶんそれは、最後まで須佐之男への愛と約束をつらぬきとおした『日巫女』へ、礼をつくしてのことだろう。
そうしてどうにか出雲まで帰りつくことができたのだが、霊道を、あまりにもたくさんの生きた人間が使ったために、そこは二度とひらくことのない、異次元の回廊となってしまったのであった。
火見華はそこから強行軍で吉備まで戻ると、我を忘れたように、その超人的な体力と気力で働きはじめていた。
倭国や伊邪那岐のことを報告すると、寝る事も忘れ、各々に指示を与えたり、各国に連絡をとりあったりして、その対処法についての手段をとっていた。
日向の者たちもまた、休息を勧められてはいたが、すぐに里のものたちに混じり、動きだしていた。彼らもじっとしていられず、できる限りのことをしようと懸命に働いている。
「とにかく、動けるものは皆力をあわせてこの急場を乗り切らなくてはないわ。することは山のようにあるのですもの。まずは各地のストーンサークルをできるだけ修復し、結界を強めなければならない。香や破魔弓を作ることも大切だし、薬も煎じなくてはね。それからケガ人や、死霊に犯されたものたちの除霊と手当ても慎重にして。ああ、病弱な者や老人、それに子供たちは山に避難させておかなければ。――もちろん大地が穢れていたり、脆いところはだめよ。土地の守りがしっかりとした、神が住まう山にお願いなくてはね。その前に、しっかりと山の神に許しを得なければだめよ。みなで心から念じ、恵みに感謝して――」
次々にくる問題や、その対処方、疑問質問などをかたづけている火見華へと、伝令係りの女が矢のように飛んで来た。
「火見華様、ヤマトからの使者様方が、お会いしたいとのことですが――」
「ああ、すぐいくわ!」
まっていたとばかりに、手元の紙にかきつけをすると、即座に立ち上がった。つきそう巫女が心配げに声をかける。
「ヤマトに出向いている巫女たちのほうはどんな様子でございましょうかねえ。あちらのストーンサークルもかなり破壊されているということですが」
「そうね、でも大丈夫でしょう、ヤマトはね」
安伎人からの使者がやってきたのは、火見華が吉備に帰りついてから数日もたたないうちであった。
こちらから使者を出向かせるはずの手配もととのわぬ前に、なんと安伎人自身が、吉備に援助を申し入れてきたのだ。そして吉備からの協力をねがう旨も厚く伝えられた。
火見華はまようことなく、そくざに安伎人の――同胞の手をにぎった。
火見華のとりなしで、吉備王は安伎人の申し入れを快諾し、固い同盟がむすばれた。今は互いに争っているときではない。それは無言で了承である。
これから襲いくる巨大な敵に全員が一致団結して、立ち向かわなければならないことを二人の王はよく心得ていた。
だが、そうであってなお倒せるかどうかわからない敵であるうえ、これから来るであろう厄災と、試練もまた、どれほどのものか未曾有だ。
だれもがどのように乗り越えればいいのかと不安にみちている。
安伎人の願いにより、火見華は、巫女の少なくなったヤマトへ、巫女を派遣し、ヤマトからはストーンサークルの修復を手伝う熟練の者たちがおとなわれていた。
それだけでなく、日向地方の人々を受け入れるための援助物資を輸送してくれたし、各地に散ってもらうために、志願者を連れて立つってもくれた。
かなり少なくなったとはいえ、一地方のすべての人々がやってくるのだ。それこそ半端な数ではない。
それでも吉備もヤマトも協力し、彼らをうけいれることができた。人々もまた、国の違いにかかわらず、協力をし、親しく接していた。
日向の人々もまた、自分でできることはすべておこない、甘えることもなく助力をおしまず働いていた。国を超え、いまやすべての者たちが立ちあがり、手を合わせている。伊邪那岐と、妖霊星の厄災にむけて、必死で備えてようとしているのだ
安伎人からの書面を受取り、読み終えると、火見華は返事をしばらく待つようにいって、使者たちにゆっくりするようねぎらった。
火見華はすぐに出かける用意をさせた。
「ストーンサークルの方をちょっと見てくるわね。もうほぼ出来ているはずだから、仕上げだけになっていると思うのだけど」
「火見華様、急にどうされたのですか?」
声がかかるが聞こえてもいないのか、そのまま伴もつけずに神殿を後にしていた。
火見華が山に入るなり、いきなりの激しい揺れが襲いかかり、大地が切りさかれた傷みにふるえるように揺れていた。
地震はかなり長い間つづいた。
岩が落ち、木々の枝がはげしく擦れあい、古びたこずえが折れて山肌をけずりころがってゆく。
眼下にみえるあちこちの建物がくずれ、崩壊し、人々が逃げ惑っている声が聞こえてくるようだ。
地面にかけぬけた裂け目が、闇の地下へと、なにもかもを飲みこんでゆくのが見えていた。まるで地上の汚濁をのみこんでいるかのようである。
火見華はこれまでにない脅威を感じていた。
何度もこんな揺れは続いてはいたが、これは尋常ではない。まるで破滅へむかいはじめた序曲のように、おぞましい出来事のほんのはじまりだといわんばかりに、体がふるえてくる。
――間に合わなかったのかもしれない。
目のまえに霞んでいた恐怖が、いきなり実体化しようとしている。
そんな思いが駆け抜けるが、それでも火見華は、どんな状況にあっても、希望を失ったり、あきらめたりするわけにはいかない。
「わたくしが投げ出すわけにはいかないのよ。なにがあっても。誰もがあきらめても」
先頭に駆ける馬が走るのをやめれば、あとに続く馬もまた止まってしまう。走るのをやめれば、そこですべてが終わる。
激しい揺れに大地に身を伏せながら、空をみあげた。火見華は大きく目をみはる。
近づきつつある巨大な妖霊星のおぞましい影はあんなにも大きく、すぐそこにみえているのだ。
「星が、もうこんなに近づいて……姉様はどうなったのかしら!」
思わず祈るように手を組んだ。時々、いいしれぬ不安が火見華をおそってくる。
強く美しい森射が、悲しみに耐えながら必死で戦っている目にうかんでくる。彼女の悲しみがはっきり聞こえてくるのだ。
彼女の存在は、いつだって火見華の支えであり、はるか先をゆく目標であり、憧れでもあった。
いつだって、弱音をはかず、前へまえへと進み、どんな恐怖にも苦痛にも、目をつぶることなくすべてを見つづける。そのすがたの崇高さに心をうたれる。
自然とこころを交わし、愛されているのを何度うらやましくおもったことか。
鳥と歌い、蝶と話し、緑と遊ぶ。当たり前のように、そうしている姿がどれほど心をゆさぶるだろう。幼い火見華の目からみても、あまりに美しくて、心奪われずにはいない。
「姉様……」
無事でいてほしかった。
いつも一緒にいて、導いてくれた彼女に会いたかった。
どんなときも声をかけ、道を指し示し勇気をあたえてくれたではないか。
どうして今いないのだろう。彼女に会い、彼女の声がきけたなら、またきっと頑張ってまえへと進んで行けるのに。
「火見華、大丈夫か?どこか怪我でもしたのか」
「――えっ?」
肩に手をかけられた火見華は顔をあげた。
そこにいる者の顔に、信じられないように大きく目をみひらき、夢でもかまわないとそのまま抱きついていた。
「森射姉様!ああ、姉様いつお戻りになられたの?!どうしてここへ?」
「火見華……」
夢ではないのかというように森射の服をにぎり、ギュッとだきしめた。
「ああっ、姉様だわ――っ、本物の姉様だわ!よくご無事でお戻りになられて――」
涙で言葉がかきけされていった。
揺れがおさまりかけていることにも気づかず、もはや手を離せば消えるまぼろしのごとく、火見華は夢中で抱きついている。
誰よりも強いこの人が、もし次にいなくなったとしたら、今度こそもう二度とあえない。そんな気がしてたまらない。
「火見華、よくこれだけストーンサークルを修復してくれたな」
流れおちる火見華の涙を、森射がぬぐった。
困ったように微笑み、膝をおり線をあわせてくれる。
彼女がいれば、どんな難問も苦しみも耐えられる。不思議なほどに心がおちつき、大丈夫だと思えてくる。
「姉様……!」
泣きべその顔をもういちど森射はなでた。
「待たせたな、火見華。よく頑張ってくれている。――だが、もう時間がないんだ。伊邪那岐の墮とそうとしている彗星はすぐそこまで来ている。もはや星が墮ちることを止めることはできない。我々にできることは、その被害を少しでも小さくすることだけだ。だから少しでも急がねばならない」
そう話している森射のすぐそばに、火見華は光る小さな子供の存在を感じていた。
光できた、光そのもののような子供は、森射にぴったりとよりそい、まるで一部であるかのようにはなれない。
その存在を火見華は知っていた。ずっとずっとそこにいたものだからだ。
火見華が巫女になったときから、森射のそばをかたときもはなれなかった、あの存在である。
火見華は森射をみた。
森射は決意をひめた瞳をしていた。強くて美しい戦士の顔だった。
イサナとわかれ、たったひとりになった森射には、もはや立ち止まれないという気高い強さがみなぎっている。
そしてまた、一時もはなれなかったイサナが、森射と道を別ったということが、どういう意味であるかを、火見華は了解していた。
「森射姉様……」
「私は行かなければならない。イサナがたったひとりで闘っているように、これもまた、私ひとりでなさねばならないのだ」
森射はすっくと立ちあがった。
木々が生い茂る森の深淵をみつめながら、まるで瞑想にはいった巫女のような面持ちをしている。遠い幻影のように体の半分が透けているではないか。
「火見華、必ず生き残るんだぞ。おまえもまた、時代が必要とする人間だ。これからの混沌の時代には人々を導く偉大な巫女が必要だ。そのためには日巫女の名を持つおまえが居なくてはならない」
「姉様……」
「大丈夫。伊邪那岐なら、イサナが必ず何とかしてくれる。彼なら、きっと、この星を守ってくれる」
すぐそばにいる光の子供が笑っているかのようにみえる。
「行かねばならない。私もまた――」
運命のなかへと。
森射は火見華を抱きしめた。これ以上ないほどやさしく、そして消えそうな蝋燭の炎のような微笑みだった。
火見華はおもわず呆然とみとれる。慈愛に満ちた、生命すべての母のような顔だったのだ。
「さようなら火見華」
永久の別れのような気がして、火見華は思わず森射の服をつかみそうになった。
だが、そうしてはならない何かにひき止められ、言葉をのんだ。
その背中に、火見華やそのほかすべての人々の命を背負っている。彼女はそれらを心から愛している。
手を合わせていた。火見華は神に祈るようなおももちで森射をみおくっていたのだった。
岩の張りでた急斜面をのぼり、下生えの繁っている道とはいえない坂道を森射はひた走っていた。
清浄なる山の空気がかわり、ある種の荘厳ともいえる気配がたちこめはじめていた。
厳しいながらにも、いったん心をゆるせば、どんなものでもどこまでも深く受け入れてくれるような、そんな心強さを感じていた。なによりも優しい腕だった。
森射は身も心も引き締まるような崇高さにつつまれはじめると、なんともいえない感覚を呼び起こされていた。
立ち入る者をみずからが選び、容易にはそれを許さない神の宿る巨木たちが無数にたちならんでいた。山々の王たるものの棲む場所であった。
霧の結界をぬけでると、あの、無限にひろがる巨大な神木のまえにたっていた。
日向国に向かうまえに会いに来た、吉備の山の深淵部にある、聖なる大木。
まるでそこには時の流れなど一切なく、なにひとつ起こっていなかったかのように泰然としていた。今まであった何もかもが異界の出来事であるかのようにみえた。
それでいてすべてを知り、なんのために森射がそこに来たのかもまた深く理解しているようでもある。
この場に居つづけたなら、森射ですらきっとすぐそこまで迫っている危機さえ忘れ、永遠のまどろみについてしまうかもしれない。
だがよくみると、神木の守る聖なる結界も、伊邪那岐の邪念によっていくばくか傷んでいた。目をこらさなければ気づかないほどだが、悠久の時を経ているその高貴な風景の微妙な変化は、周囲の木々や景色にまで及んでいる。
絶え間ない地震に岩が崩れ、水の流れがかわり周囲の木々の枝がからみあってわずかに茶色く枯れていた。大地がもりあがり、岩肌がむき出されている場所もある。
森射は神木のまえに膝まづいた。
頭を垂れ、その張り出した巨大な根にくちづけた。
かなり激しい揺れが大地をかけぬけるのを感じた。異変はたしかにここまで押し寄せている。
ただ、宇宙を思わせるように枝を張りめぐらせている目の前の神木だけは微動だにしていない。
まるで森射の帰りを待ち、歓迎しているかのように悠然と微笑んでいた。
森射は不思議なほど落ちついている自分に驚いていた。
あれほどまでに焦り、一刻も早くここに来なければならないと思っていたのに、巨木のつつみこむ見えざる手に抱かれると、これほどまでに心が凪いでしまっている。
巨大な彗星が頭上にせまりきていることすらわすれ、永遠にこの安楽さにただよっていたいと思えてしまうではないか。
森射の心は空っぽになっていた。
ただ深い愛情と願いだけが心を占めていった。
森射という自我が消えさったあとに残っているのは、ただ愛のみ。
人々の生命への愛と、自然やそこに生きるすべての命への愛。
そして、イサナへの熱い思いだけ。
「お願いです。力を貸してください」
森射は必死に祈った。
突然バリバリバリという空が裂けるような音がなりひびき、天空に雷がはしった。
空気が砕ける振動がして、空がひかりの朱の線で一面をつつまれた。
激しい衝撃だった。
大地がわれんばかりにざわめき、まるで次元を無理矢理引き裂き、地球が苦しみ鳴動しているかのような揺れがまき起こった。
その苦しみは地上にすむすべてのものの苦しみと破滅の叫びでもあり、一人で立つこともかなわぬゆさぶりに、大地が裂ける音がした。
空気が熱をもち、空にできた裂け目のむこうがわに、伊邪那岐の首が突きだしているのが目にはいった。巨大な異物の侵入により、摩擦で熱量が増幅しているのだ。
伊邪那岐の邪悪な波動は、この地上のものとはあまりにも違いすぎていた。
なにもかもを破壊し、狂わせる狂気の固まりだった。
彗星がぶつかる時におこる衝撃により、次元を裂き、そこから侵入してこの吉備の大地に眠る火具土の身体を喰らおうとしている。
倭国の裂け目より、この吉備へと押し寄せようとしているのだ。
森射はけれどいかなる天変地異にも恐れることもなく、ただその場でひたすらに祈っていた。
いま彼女に出来ることはもはや祈ることだけなのだ。
自然の力を借り、自然のもつ無限大ともいえる力によって、強固な結界を張りめぐらし、伊邪那岐と、やってきている彗星の災禍から人々を守ってもらうことだけを願っていた。
もはやそれらは、人の手によりどうにか出来る範疇を越えている。
人間の力だけでは、いつも必ず限界がくる。
いつだって最終的には、自然のおおいなる頼らなくてはならない。人間とはどれほど威張ってみせようと、結局はこれほどに小さな未熟な生物でしかない。
森射は己の小ささを知っていた。
自尊心も見栄もなにももっていなかった。
だれもが失敗を繰返し、そこから成長する。その失敗を無力になることだけを、本当に恐れている。
「お願いです、どうか守ってください。愚かな人間たちですが、それでも、生きたいと願い望んでいるのです。未来を信じているのです。どうか御慈悲をください。どうか御力を我々に――」
ゆれの激しさに、巨大な岩が森射めがけ落下してきた。
そのまま動くそぶりもない森射の頭上で、岩は砕けて小さな粒となり、光り輝きながら舞っていく。
金粉のように光輝くそのなかで、ひとりの美しい男性が浮かびあがっていた。
みたこともないほど、なんとも気高く神聖な御姿であったことだろうか。
高貴な顔立ちは目に痛いほどまぶしく、白く透き通るような体はまさに神の光そのもののようでさえあった。
それはあきらかに人間ではなかった。
人間などにはとうていもち得ない神秘の力にみちていた。次元を幾層も越えて存在して、雄大な力を圧倒するほどに潜在させているのがわかる。
何が起ころうとも、泰然と見守りつづける宇宙の神秘なる叡智を秘めている。
一目みただけでも、あまりの違いに、その生命体が至高の存在だとわかった。
質感がまったくないだけでなく、目をみはるほど美しくて繊細なのだが、それはただ美しいだけとはちがって、大樹そのもののように峻厳なる雰囲気と、霊妙さにあふれている。
森射は泣きそうに顔を歪めた。まるで幼子が、やっと捜し求めていた親に出会ったような表情だった。
白く輝く精霊は、森射が歯を食いしばり乗り越えてきたすべての苦難を知り、ねぎらうようにうなずいた。
なにもかも受容する慈愛の笑みだった。
足元にひれ伏す森射をみるまなざしは、なんとも不思議なほど人間味をおびていた。
「お願い……父様……」
地球そのものが震えるような揺れとともに、東方にみえる大仙山脈の一部から火柱が昇っているのが見えた。
活火山が地震のゆれにたえきれず噴火して、噴煙とともにマグマをあふれさせていた。灼熱の赤い火の河は、なにもかも焼きつくし地上を流れてゆく。
まるで山が悲鳴をあげて苦しんでいるかのようにみえた。
空がまたたくまに黒く染まった。闇の幕が降ろされてようとしていた。
そして黒い闇でつつまれてさえ、その向こうに見えるのは、巨大な彗星の影。
容赦なくせまる悪魔は、伊邪那岐の嘲笑とともに、時をとどめることなく近づいていた。
森射は闇に浮かんでいる禍々しい顔をみていた。地球の大気圏に赤く燃えうつっている星は、伊邪那岐そのものの顔である。
笑っていた。
笑い、森射を――吉備を食らおうと大きく口をあけている。
おぞましき影は、ぶつかる衝撃をいまやおそしと待っていた。火具土を食らい、森射を手に入れようと嬉々としているのだ。
伊邪那岐は勝ち誇ったように笑い、その笑いが天地を揺るがし、さらに多くの山々が噴火して崩れていった。
悪魔の残虐な手が、森射をだきしめようとすぐそこまで伸ばされている。
吉備中の木々が――植物が、波立つようにゆれ、まるで森射を守ろうとするかのようにそれにむかって敵意を剥きだした。白い光を一斉に放ち始めていたのだった。
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