「すまない森射」
イサナがそう言うのは、もう何度目かのことだった。
「なぜイサナがあやまる。私もいつかはここへ必ず来なければならないと想っていたんだ。おまえが思い、私が想ったなら、それは必然だ」
森射はイサナとともに半分倒壊しかけた白い建物の虚群をみてまわっていた。
今までの地震にあってさえ、これだけ保っているということは、かなりの耐震性と強度を供えていたということだろう。
むろん、ここが王直属の研究所――アトランから連れてきた、悪魔の研究者や学者、呪術者たちの極秘の研究所であることを思えば、当然といえば当然のことだが、きっと科学のありとあらゆる最新の技術を駆使して建造されているのだ。
機械の一部がのぞいた壁はほとんど瓦礫の山となって散壊していた。研究所がどれほど贅沢で広大な場所であったかが、こうして一目でみわたせる。
それは人々の欲望とよく似ていて、際限なく増殖していき、気がついた時には自らの手に負えなくなっていて、暴走し、けっきょくは自決せざるをえない、愚かな骸のようだった。
はじめこそ、この上もなく高潔な思考のもとに建設されたのであろうのに、道を違えたために、悪魔の呪縛にかかり、そのおぞましい思惟のもとに動かされる黒魔術の館となってしまった。
研究者と魔道師が手をたずさえ、神の領分へふみこんだとき、知的探求が許容できる範囲をこえ、まさに邪念思想の回廊をひらいて伊邪那岐すら呼び寄せたてしまった。
人の心を忘れた愚かさがすべての原因だが、それもまた人間の中に潜んでいる本性の一部であり、おそるべきことでもある。
そしてとうとうこの国を破滅にまで追いやってしまった。
「すべてはここからはじまった」
イサナが、いまや自分のなかの憎しみも半分以上倒壊してしまったようにうっそりと云った。
「何もかもここで生み出され、ここから広がっていったんだ」
イサナというその莫大なエネルギーを秘めた生命ですら、人工的な授精手段をとりつくりだした。
哀れな異国の巫女から卵子をとりあげ、培養して増やし、その後も無数の命をうみだした。
その後につづく、どんなに残酷で無惨な行いも、人を人とも思わぬ実験も、冷酷な科学という殻をかぶり、発展という名のもとに繰りかえされてきた。
動物か人間かもわからないような、ひとつの命を生み出すために、幾百の生命を無駄にしたのだろうか。
その魂のひとつひとつに、どれほどの可能性があり、生きて幸せになる権利があったのだとは、そこにいた誰も思わなかったのだ。
自分と同じように生き、笑い、話をして、ともに手をたずさえてゆく同胞だとは、どうして考えられなかったのだろう。
そして、もっとも神聖な神の領分に手をそめはじめたとき、完全に心を失ってしまった。
自分を神のごとき存在と驕り、その臭うような傲慢さに伊邪那岐が邪念の糸をつなぎ、とうとうここまでやってきたのだ。
「また、歌声だ……」
歌鈴の歌が空いちめんに響きわたっていた。赤黒い雲がうねり、あちこちで雷が轟き、不吉な影をよんでいる。
イサナは感情をすべてぬぐいさった顔で空の一点をみつめていた。
次元の門は、最後の封印が解かれるのを、今か今かとまちのぞみ、伸縮をくりかえし蠢いてみえる。
特殊な敷地内に踏みこんだ二人をとりまく空気がざわめきはじめていた。
ここそこにいた魂たちが、きっとこれ以上恐ろしい目にあわされるのではないかと怯え狂暴になりはじめているのだ。
ひどく悪意にみちていた。だがそれも仕方がないだろう。彼らは愛情というものを、ひとかけらさえ、与えられたことがないのだ。ただモノとして扱われ、処分された。――それのみの存在。
部屋の内部へと踏みこみながら、残っている壁や、うちくずれた機器類が、なにかの特殊な鋭い刃物のようなものにえぐられ、破壊されていることに気がついた。
まるで荒れ狂った動物がすぎさっていった足跡のようだった。
ゾゾゾッと足元にくすぶっていたモノが振動をはじめた。
薄い煙のようなものが流れはじめたかと思うと、それはみるみるひとつへと集まり固まりだした。
なんとも憐れで惨めな生き物なのだろうか。
伊邪那岐の悪波動を取りこんで巨大化し、異次元の化け物へとソレは変貌していった。
森射とイサナはその怪物をただ、たまらぬように切なくみあげる。言葉がでてこない。
ソレの目は敵意と憎しみそのもののように点滅していた。満たされぬ空虚な孤独が心を占め、怒りがふつふつ煮え立っている。
だが、化け物は森射たちをみていなかった。
怒りはどこかにある別の何かにむけられていた。ただ悲鳴をあげ、のたうち回りながらまわりのなにもかもを破壊してすすんでゆく。
過去の残酷な記憶に囚われたまま、無惨に殺されたその瞬間から、そうしてそこにうずくまっていた怨念が、その時の苦しみを封印したまま時をながれているのだ。
「憐れな……なんて、憐れな怪物だ。あれさえも、人がつくったのか」
見ると、あちこちにそんな化け物となってしまった意識の固まりが、そぞろに動いていた。どれも強い悪意によって心を乗っ取られたただの無機質な化け物だ。怒りだけがその原動力のように、手当たり次第まわりを壊している。
伊邪那岐の邪念をすいこみ、実体化した魔物たちであった。森射には、彼らの嘆きしか見えない。
「彼らを――この地上に苦しむ憐れな魂すべてを救わぬかぎり私は救われはしないだろう」
彼らが森射を食うだけで満たされるというのならば、きっと何度でも身体をあけわたす。魂の一片すら余さず投げ出し、イサナの兄弟たちを逝かせたように何度でも天の道をひらくというのに、それらはもはやそんなことに興味もないのだ。
シャーという唸り声がした。
キメラと化された者たちの残りがまだ生きていた。
ここら辺りのどこかに集まっているようだ。身をひそめ、わけのわからぬ転変地位の余震にふるえていた。怯え隠れて身を寄せあい、不用意に近寄るものがいるなら、すべてを惨殺し、食べものとしていた。
科学者であったものの腕や頭蓋骨がかみくだかれ、血と骨が散在されてうずたかく積もっている。彼らは憎しみだけは忘れていない。
森射はガリガリという骨を食む音に、腸がねじれるような苦さをかんじた。腕につけられた赤い痣が鮮やかにうかびあがってくる。
燃えるように熱くなり総毛だつ。
歌が、詰まっていた喉からとびだしていった。いままでの激情をおさえきれないようにほとばしっていった。
森射にはなんの歌かも、なにを語っているのかもわからなかった。ただ魂にふれてくる、幾多の苦しみにみちた魂魄に刺激され、それらを慰め抱きしめんがために、身体中に渦巻く思いがほとばしりでていた。
森射の歌声は水におちた一滴の雫のように、静かに、だが段々と大きく波紋をえがきだし、空気をわたって、そこにくすぶる淀んだ生命の澱が、清くうつくしく澄まされはじめていく。
「それが、生命の歌であるのか、森射よ」
「伊邪那岐!」
イサナが叫んだ。牙をむいた。
伊邪那岐が悠然とふたりのまえに立っていた。ゆっくりと楽しむようにあゆみよると、まだ日向王の姿をまね、悪魔の幻影がみにくく笑う。身震いがつくほどおぞましい邪気をはなっている。
「その歌の価値などわかりもせぬ瑣末な生命などに、なぜ歌ってやるのだ。おまえの歌は我のものだぞ」
かってな真似をするなという伊邪那岐に、森射のするどい睨みが飛んだ。
歌が止んだ。
「おまえら二人は、この地へ必ずやってくるだろうと戻ってくると思うておった。とくに、イサナ、おまえは絶対にここに戻ってこなければならぬ理由があるであろうからのう」
ここにまだ歌鈴がいる。
そしてイサナは会わねばならぬ。そう思っていることを見抜かれているのだ。
人ではなく、もはやただの生きる機械となされてしまった母を――例え生体学上の、遺伝子だけの母としても、彼こそがその手で解放してやらねばならない。イサナはその唯一の存在なのだ。
「母親を助けたいのであろうイサナ。いや、殺したいのか、本心は」
彼の心情を知りつくしていると嘲笑うのに、イサナはもはや感情をかくしもせず、本性そのままの野獣のような荒々しさで睨あげる。
「どちらにせよ、おまえはしょせん人にあらざる者よ。我の意思によってつくらせた悪魔の申し子、我のために地球の破滅の鍵となってはてる運命に生みだされてきた、呪いの子供なのじゃ」
「だまれっ!俺は、俺は決してそんなものになりはしない。必ずこの葦原の国を守り、おまえを倒してやる。俺を作ったことを後悔させてやるっ?! 」
イサナの怒りのオーラがはなつ波動に、キメラたちが穴から悲鳴をあげとびだすように逃げていった。
怒りは彼のまわりで弾けながら、黄金の髪が逆立ちなみうっている。
「おまえは破壊の子だ。おまえの怒りは空気を切り裂き、波を荒げる。そして母とおなじく、星を墮とすがよい」
星という、いままさに迫り来る凶星を、大地とそこに暮らすものの上に堕とすという。それがどれほどの惨劇をうむのかを伊邪那岐は知っていて、楽しんでいる。森射はたまらなくなり、美しい眉がつりあがる。
「おまえの思い通りにはさせはしない。おまえなどに、この美しい大地を穢させはしない。生命はだれにも犯すことはできない神聖なものだ。おまえが好きにしていいはずはないんだ」
「森射、我に逆らう忌々しげな花嫁よ。おまえなどの意志などどうでもよい。我が欲しているのは生命の秘密。そして宇宙で最強の力を有する火具土の遺伝子のみじゃ。あとは火具土の子が生まれるより先に、この地球を滅ぼすまで。宇宙を根源から変えてしまうほどの力をもつという、救世主たりうる力を秘めた子供など、許さぬ!嬲り殺してやるわ!」
伊邪那岐のそばにいた怪物たちが、その声にふくまれる高圧な異次元の波動率にはじかれ消滅していった。実体ではないとはいえ、かなりの力を持ちはじめている。
空にひびく悲鳴の数はますますふえている。
次元の彼方からのしかかってくる重みと、その軋轢に必至にたえているかのようにゴウゴウと唸りをあげていた。
「もはやこの世界も終りだ。星が墮ち、地球がしずむは必至。偉大なる我の前にあっては生命などなにほどもなく、まして人間など小さな虫ケラほどにもあらぬわ」
哄笑をあげ、大きくあけた喉の奥から、高次元のエネルギーが吹き出した。
数千度の炎の柱がふきあがり、天を貫く。
空にひらいた穴が、にぶい振動音をたえながら動きだし、伸縮をくりかえしては、ゆっくりと、その目をひらこうと胎動している。
なにかが垂れてくるのがわかった。
橋桁のようなものだった。
とっさにイサナが森射をかばい、言霊の空気と高圧エネルギーで熱をはじきふせいでいた。イサナにだきしめられたまま森射はそれを呆然とみている。
「天の橋立――。この橋が完全に地上におりたったとき、高天原と地上はつながるであろう。我ら一族がこの星のすべてを食い尽くすために降り立ち、葦原の中ツ国を破壊し貪りつくすのじゃ」
「そんなことをさせるかっ!」
イサナは吼えると、掌から鋭い刃のようなエネルギーが炎をあげた。そのまま疾風のごとくためらいもなく伊邪那岐の胸に投げた。
伊邪那岐は軽くそれをかわすと、カラカラと笑い、笑った顔が溶けてゆく。
イサナの手のまわりの空気が膨れあがり球体になっていた。
体内原子炉が発動し、そのエネルギーによって物質が元素転換して、新たに鋭い刃物へと凝結したのである。
これこそが彼の力であり、想像の力によっていかなるものでも変化させられる、大宇宙の無限の力なのであった。
伊邪那岐が真に欲した能力であり、またイサナが、いつでも使えるという呪わしい誘惑と戦いながらも、決して使わなかった超常の力でもある。
もしも己の欲望のままに力が使われたなら、世界を滅ぼすだけでなく、自分さえも――自分の大事なものさえも滅ぼしてしまうだろう力だった。イサナはずっとそれを知っていたからこそ、使わずにきた。
王の身体が溶け、サラサラと乾いた風に散っていった。伊邪那岐の荒ぶる思念はたわむれの殻をすて、本来のすがたに戻ってゆく。
とっくに高天原とは異なるこちらがわの空間でさえ、意のままにできるほど力を得ていた。ふたつの次元はかさなり、伊邪那岐自身の本体が、すぐそこにきている。
醜くおぞましい大蛇の影がゆらいだ。
十六個の穴から赤黒い眼がらんらんとして、悪魔の八つの首がうごめきながら細い舌をだす。
天空では開かれた裂け目をさらにこじあけようと、毒をもった牙をさしいれのたうっている。
空が悲鳴をあげていた。
超音波のような振動が鼓膜を不快に刺激しふるわせ、今か今かと時をまっているかのようだ。
『鍵を開けイサナ。おまえの母はそこにいるぞ。母とともに我に憎しみをぶつけるのだ。強くもっと強く――さあ、我を呼べっ!』
「キャァァァ――」
三半規管がくだけ内耳神経を断ち切ってしまいそうな甲高い悲鳴がわきあがった。
赤い空がもっと濃く異様な色をしてかがやくのに、地面もまた地殻をゆさぶるようなゆれがおこり騒然とする。
空の割れ目からどんどん噴きこんでくる怨霊たちは、毒そのもののようにひどく穢らわしい悪念悪想をふりまきながら、森射めがけて飛来しはじめた。
あまりに無数の悪霊が、同方向にむかいいっきに流れたため、空気が竜巻のように旋風しうなりをあげた。
残っていたすべての建物があられもなくがらがらと崩れた。煙をあげた炎が青く高く燐光をはなつ。
そのなかで、ひときわ大きな建物が、とうとうたえきれず倒壊しはじめた。
なにか産まれるような不気味な波動が森射のなかを駆けめぐってゆき、白く呪われた大理石の壁のなかから、それはゆっくりと姿をあらわし天にむかって昇りだすではないか。
森射とイサナはそれに愕然として息を飲んだ。
放たれているオーラは――。
まさに尋常ではない莫大なエネルギーを有する究極の力。次元さえゆるがすその歌をうたっている者だ。
「……歌鈴……あれが歌鈴?!」
白く磨き上げられた台座に載せられ、高く高くもちあげられているその様子に目を剥き出す。
まさに生贄として捧げられているかのようであり、天の橋立のまえにくると歌声がさらに大きくなる。まるで扉を開く呪文とでもいうように稲妻が空にはしってゆく。
そのあまりの姿に森射は目をとじ、祈りの声をあげた。
そこにあるのは、科学のおぞましさと、利己的な自惚れのみにくさが傑出された悪夢だった。
人は本当にここまで残酷になれるのだろうかと、いかな森射でさえ絶望してしまいそうになる。
歌う機械であった。
ただ歌わされているだけのモノ。姿も形もそこには存在しない――。
透明な円筒形の容器に閉じ込められているのは、ただの『脳』だった。
歌鈴の身体などどこにもなく、ただ培養液にひたされ、電極につながれ生かされている、ただそれだけ。
脳に差し込まれた管に刺激が送られ、それによって反応し、まさに意のままにあやつられている。刺激が送る信号音を歌として読みこみ、その波長と音程を『歌』として流している、まさに道具そのものだった。
衝撃波が定期的に送られているのが見えた。
敏感な歌鈴の脳はその刺激に狂ったように反応していた。ただひたすら歌いつづけているだけなのだ。
歌う機械。
生命の尊厳も、個人の尊重もなにもない。唯一だれにでも約束されている永遠の眠りである安らぎさえ、彼女は許されない。
彼女の絶望と苦しみは、すさまじい憎しみとないまぜになり、ただひたすらに呪いの歌として、人々の感情を奪い去る無のエネルギーを生みだし、生命力を奪いつづけている。
彼女の歌に刺激され、天空のひび割れのあたりにエネルギーの磁場が渦巻いていた。それに群がる悪霊どもが、狂人そのものの力で橋をこちらに引寄せているのがみえる。
森射は伊邪那岐がこれほど心から憎いと思ったことはなかった。
もはや、あの狂った老人に、人の命の崇高さや尊厳の大切さを説こうとも通じないであろう。
人の心をなくした過去の悪夢は、虚無の世界に帰らせるしかない。気高い人間の言葉など、初めからわかるはずもなかったのだ。
「ああ、歌鈴……」
それ以上言葉にならなかった。
「伊邪那岐……っ!」
イサナの低く憎しみのにじんだ声が地の底をはうように唸りあがった。唇が獰猛にめくりあげられ牙が殺気をおびてのぞく。野獣のように純粋な怒気が、彼の身体をつつんでいく。
触れば痛いほどの青いイサナのオーラは、歌鈴の悲痛な歌に引きずられていた。二人の気が接してチリチリと火花が散っている。
歌鈴の歌声が強まった。
地上にのこっていたすべてのもが、倒され破壊されはじめていた。
わずかの命さえ枯れ、奪われ、消滅してゆこうとしている。
生あるものは、どんなものでも歌鈴の歌声をあびて死んでいった。空気を失い、真空の空間にとじこめられた動物のように苦しみのたうつばかりだ。
森射は虚無の闇が身体のなかに入りこんでくるのがわかった。
身体中のエネルギーがすいとられてゆき、自分という、ひとつの個体の枠を食いやぶられてゆく幻覚がよぎった。
意志が磨耗し、けだるい狂気がぞろりと忍び込み、抱きしめそのまま呪わしい世界へ誘われてゆきそうな心地である。
歌鈴の心の闇がどれほど深く果てしないか、森射は目の前につきつけられ見せられてしまった。
「歌鈴、歌鈴もうやめて、歌わないで歌鈴……」
森射はあえて抵抗しなかったが、心が引き裂かれそうな苦しみを感じていた。歌鈴の心がどれほど森射のなかを無遠慮にふみにじり、荒らしまわっても、なぜか逆らう気がしなかった。大切な思い出を辱められ穢されても、赦し与えていた。
それほどひどく傷つけられたかわからない彼女に、このくらいの暴力をふるう権利があってもよいではないか、彼女のために、心を痛めるものがいてもよいではないか。そんな気がして、どうしても彼女を傷つけることはできない。
彼女は哭いている。もう歌いたくないと。助けてと絶叫し、嗚咽している。
もうわずかであっても傷つけたくなかった。
彼女は十分痛めつけられて、悲鳴をあげ、だれか止めてと叫んでいた。なにもかもが意のままにならず、運命に弄ばれて、苦行を強いられ、その惨憺たる絶望が、あきらめにも似た怒りとともに、すべてを殲滅せんとして狂っているだけなのかもしれない。
歌鈴の思いが、森射にかさなっていった。
森射の喉から血と歌が同時に噴きあがった。
まるで歌鈴のエネルギーに吸いこまれていくように、声がかさなり彼女の悲しみが体中をきしませ、開け放った心にゆっくりと支配の手をのばし、奪ってゆく。
「森射っ!なぜ抵抗しない、森射?!」
イサナのすぐ目のまえで森射はそのまま黒い影に吸いこまれ、持ちあげられていった。
嵐に翻弄された蝶のようにはかなくたよりなく、闇の中央へと吸いこまれ飲まれてゆく。
昏くふかい深淵の闇は、重々しい触手で、森射を意識のいちばん深い場所へとみちびいていく。底無し沼のように森射のすべてをとりこんでしまう。
……兄様…どこ……どこなの?
おびえるような子供の声が聞こえてくる。
……兄様どこ……お願い、ひとりにしないで……わたしをおいて、ゆかないで……
わずかに漏れ聞こえてくるのは、なんともいえぬ淋しげな少女の声だった。
まるで色あせた枯れる寸前の花のような、なにもかもに自信のない弱々しい声。
居場所がどこにもないのに、他に行くところさえわからないこころもとなさに泣いていた。哀れでたよりげないその意識は、いじらしいほどひっそりとして、なんとも憐れで愛おしくなってくる。
ただひたすら見つけてくれるのを待っていた。
愛しい兄の名だけを呼び、それしか知らない祈りの言葉のようにつぶやく。彼が見つけてくれなければ、もはや自分には生きる価値がないと思っているかのように、闇の帳につつまれうずくまっている。
森射はその最もふかい闇のなかに一人の少女が隠れているのをみつけた。
寂しげで、どことなく繊細な表情をしていたが、目はくりくりと大きくて、大陸的なくっきりとした顔だちをして、咲き誇れば大輪の華となるだろうことはすぐにわかる。
異国の鮮やかな衣裳を身にまとっていた。
『兄様……どこ…』
少女の美しい眼からは涙が、宝石のかけらのようにほろほろとこぼれていた。
頭に巻いた絹のターバンが顔に垂れ、涙に濡れてひどく重そうだ。
『わたしを一人にしないで、淋しいのはイヤッ』
少女は懇願するように泣いていた。泣き顔のまま、少女はみるみる年頃の美女へとかわっていった。
そのさびしげな表情はまるで時を留めたままのようでありながら、うっそりとした陰をおびてよけいに美しく彩っている。
黙っていれば見過ごしてしまいそうだが、一度目にすると忘れられない、そんな不思議な美しさである。
『おねがい、わたしを見捨てないで兄様。わたし、きっときっと兄様のために巫女姫になります。一生懸命修行して、兄様の治める国のために働きます。だからわたしを――』
誰に向かっているのか、必死でそういっている。
『私が巫女になって、きっと兄様をたすけるわ。そしたらもうだれも兄様をいじめない。兄様が王に相応しくないなんて云えなくなるわ。だれも文句をいわない、いじめない。――ねえ、元気を出して。お願い、歌鈴を見て。あっちに行けなんて、そんな意地悪いわないで……』
なぐさめながら、必死で自分はここにいるのだと訴えかけるように云い、闇の奥深くに懸命にむかって語りかけている。
まるで鏡に映っている過去に向かっているように、時がどんどん流れていくのがうつりだす。
『わたしには力がある。わたしだけが、兄様を本当の王にしてあげられる。――知っているでしょう、わたしの声には力があることを。兄様だけにしか教えていないのよ。だって他の人はこわいもの。わたしが本気になれば、誰だって意のままに動かすことができるの、本当なのよ。だから、兄様……っ!』
ザッという風がふきぬけ、黄金の草原が広がった。
永遠につづくのかと思われるほどひろい草深い平原だった。あまりに広くて、自分の存在を忘れてしまいそうになるほど淋しく感じ、永遠の時をそこですごしてきたような気がしてくる。
彼女のその孤独そのままに、ひっそりとしていた。彼女はそこにたたずみ、誰ひとりとしていない孤独な場所にいつまでも居るのだ。
彼女はいつもいつもそこで一人でいた。歌い遊び、たったひとりで時間がうつろうのを見続けていた。
彼女の歌がどれほど素晴らしくても、誰も聞きもしなければ、気にもかけない。興味さえももちはしないのだ。
だから彼女のもっていたその特殊な声と、異常なまでに強い歌の呪力にまったく気づかなかった。彼女はひとり、そこで歌を育んでいた。
彼女は、母が早世しそれから、もうずっと孤独であった。
王の側室が生んだ女児などは、まったくめずらしいものでもなく、浮気性であればなおさらだった。
なんの後ろ盾のない諸子の女児など、王宮にあってはただ面倒で、手間のかかる厄介者として、肩身狭く扱われていた。
そんななかにあって、唯一彼女に声をかけてくれたのが、腹違いであり、三才年上の兄だった。
彼は王の最後の子――第八王子という身分ではあり、また王位から最も遠く、年若い頼りない存在であった。
彼もまた人々に興味ももたれず、疎まれている身であったのだ。
母親も平凡な身分であるだけでなく、官職についている係累のなかには、一人だって野心をもつほどの才覚のある者もいなかったし、覇気もなかった。
そんな平凡な境遇のなかに産まれおちてなお、彼だけが違っていた。彼は、最も遠いはずの王座を、ずっと夢に見、追いかけ狙っていたのだ。
幼いころからそれだけの野心をもち、もうわずかでもはやくに産まれていれば、王位争奪戦に食いこむこともできただろう。
彼は兄弟のなかで最も有能であり、才気があったといえた。
その証拠に、数多くいた兄弟のなかで、かれだけが、この寂しい少女のもつ並々ならぬ才能に気づき、目をつけたのであるからだ。
そしてこの彼女がどれほど愛にかつえ、孤独であったかを見抜き、それを与えることで妄信的な信頼を得、愛情を得ることができた。
『兄様、嫌わないで……。お願い、なんでもいうことを聞くわ、だからお願い』
『わたしを愛して。わたしだけを見て。もう、一人はいやなの。一人はさびしいの。さびしくって気がおかしくなりそう……』
愛という餌はなにより甘美で魅力的なものだった。それを最も欲している者の前に吊り下げ、意のままにあやつった。
あとになって考えても、どうして、それほどまでに少女の心を理解し操れたのかはわからない。
たぶん、本当は彼もまた、愛に非常に飢え欲していたからかもしれない。ただそれ以上に、王位につくという野心に心うばわれ、思いを炎上させていたために、意識できなかっただけかもしれない。
愛のもつ甘露の魅惑は、一度手に入れたものならば、もはや二度と離したくなくなってしまう呪力でしばりつける。
少女はいくら頼まれても、自分のその特殊な力を人々のまえに顕すのは嫌がった。心底恐くて、なぜかとても不吉な予感がしていた。
彼女はどこかで感じていたのだろう。不自然な力で捻じ曲げた運命は、いつかきっとより大きな反発にあい、負の力を呼びこむということを。もっと苦しい結果を生み、苦しむだけなのだというのを。
強大な力のまえには、負の想念が吸い寄せられ、滅びの歌が始まってしまう。
それでも彼女は人前に現れた。兄のためだけに、たった一人、彼女を見てくれ――たとえそれが利用するためであったとしても――愛してくれたその人のために、力を貸してやりたかった。
彼女の能力は、だが見せつけられるには、あまりにも強すぎていた。
人外の力は、結局さいごには人々を畏怖させる。異端視され、危険分子となってしまう。
その特異な能力を、欲望のままにふるったならどうなるだろうかという、本能的な危惧感を招いてしまうのだ。
そして、とうとう恐怖とねたみ羨む巫女たちの陰謀により彼女はおとしいれられてしまった。
好意の表情のうらで悪意をいだき、呪詛するごとくに――悪魔の申し子たち、すなわちアトランの科学者たちに売りつけられてしまったのである。
『兄様助けて!ひとりはいや、恐い。……みんなわたしを傷つけるの。みんなわたしに悪意の息を吹きかけるの。……恐いっ、恐いっ、みんな恐いよぉ、嫌いだよぉ……欲望と嫉妬でわたしの心を殺そうとするの……』
少女は顔をふせたまま小さくなってうずくまってしまった。
そこからはじまる地獄は、どんなにおぞましく残酷な悪夢を彼女にみせたことか。
身体を切り刻まれ、心を粉々に砕かれ、彼女の内も外も、何もかもすべてを辱められた。
いっさいの思惟や人格、感情さえも剥ぎとられ、子宮に宿るはずの未来さえ、侵され切り刻まれ奪われてしまった。
予感は当たってしまった。
誰もかれもが、彼女を裏切った。
やるせないほどの絶望感が怒涛のごとくおそい、それは森射をも襲い飲みこんでゆく。
おわりのない黒く重い絶望の海がひろがる。
無限の彼方まで続くただひたすらの闇だけだ。
生きている意味も、存在する意義もみあたらない。
なんという孤独であろうか。
この地上にわずかの、愛のひとかけらでもあったならば彼女の絶望感はこれほど深くはなかっただろう。
森射は漆黒の闇のむこうに、幾千万もの星が瞬くのをみた。まるで宇宙そのもののようだった。
美しい星々の輝く空間は、彼女の小さな内なる世界のように、果てしなく広がっていた。そこにまたたくの星は、彼女の愛そのものである。
遠大で見果てぬほど大きな愛がそこを占めている。彼女の愛情がどれほど深くて大きいのか、この愛に抱かれたなら、分からずにはいない。
だが彼女の中の、生命の源――青く美しい星は段々輝きをにごらせてゆき、あっというまにひどく疲弊して、まるで生きるという希望を失った老婆のようになってしまった。
本来なら、生命そのもののように命に満ち、幻想的な美でもって気高く輝いているはずなのに、その姿はひどく惨めで縮こまり、希望のひとかけらさえも失ってしまっている。
森射には、歌鈴のすがたが、いまの地球そのものに見えた。伊邪那岐に襲われ、蜘蛛の糸のうえで揺れる花弁のようにあやうい。
『死にたい……死にたい……』
冷たい秋風がふきつけた。
『私を、殺して……』
木枯らしのように森射の心をかけぬけ、そこから氷のかけらが突き立ち、胸を切り裂いた。流れた血が凍りついて、体が凍る。
少女は立ちあがった。
目の前に浮かんでいる青い球体を握った。
彼女の目は不吉に蒼くかがやき、絶望と憎しみに渦巻く、獣の顔をしていた。
『……もういいの、もう疲れた……』
『だめだ、やめろ!』
森射の叫びとともに青い星が悲鳴をあげた。星の痛みが森射に同化した。
『みんな嫌い。みんなわたしを傷つける。誰もかれもがわたしを嫌い、わたしの苦しみを無視する。……だれもわたしを愛していない。だれもわたしを必要としていない。ああ、わたしはひとりだわ……わたしは、ひとり……』
『違う!あなたはひとりなんかじゃない!ひとりじゃない!』
森射は叫んだ。
『ひとりじゃない。みんなあなたを愛している。あなたの生命を歓迎している。――わかって歌鈴、地球はあなたを愛しているわ。緑たちはだれよりふかくあなたを慈しみ、命を歓迎している。だからこそ、あなたに大切な歌を教えてくれたんじゃない。命がなにより光輝ける歌を――生命の火を燃えたたせる、原初の歌を、あなただからこそ教えてくれたんだっ!』
草原を流れる風がやさしく頬をなで、空の青さが心をなだめてくれた。草のさざめく歌が、星の流れる声がきこえたではないか。
花の匂いが心に安らぎをあたえ、緑たちがつつみ癒してくれた。
愛というものは、人が気づかないだけで、どれほどたくさんのものに与えられているであろう。人が生きているという、それだけで偉大なることなであり、愛に許され祝福されている証拠なのだ。
いつのまにか、森射のまわりにキメラたちがならんでいた。歌鈴の卵子を母体としてうまれてきた、あの哀れな浄化したはずの命たちだった。
彼らは以前とちがい、ひどく穏やかで優しげな表情をしていた。
歌鈴の救われぬ魂の苦しみをあわれむように、たゆたう波のような静けさで見つめている。
あれほど過酷な生を与えられた魂でさえ、人為的に歪められた肉体から解放され、大河の流れに清められるように浄化していったのだ。ただもはや慈悲の心を抱いて、泰然として母をみつめている。
母の嘆きの声が、彼らがゆくべき故郷への帰途から彼らを呼びよせていた。たったひとつの心残りが、どうしても後ろ髪をひき逝けない。
だれもかれも、やさしい顔で歌鈴を見つめていた。
少女は半分怯えながらも、そこから流れてくる、なにかいいしれぬ感情と、深いつながりからくる愛しさに戸惑いふるえている。
しだいに瞳に盛りあがった涙が、真珠のようにポロポロこぼれた。
森射は少女をそっと抱きしめると、小さな胸にひそんでいた、壮大な虚無の闇が、森射の胸へと吸い込まれ消えていった。
歌鈴のかかえている闇は森射に共有される。絶望の深さに森射はちいさな嘆息をもらしながら、あまさず受け止めた。
少女の顔はゆっくりと、だがはっきり安らいでいくのがわかった。うっとりとした甘くけぶる吐息をもらす。
かわりに森射から流れこんでいる清浄な光を吸いこみ、彼女は色鮮やかになって、光輝きはじめてゆく。
『……いい匂い。これ、お花の匂いね。なんて懐かしいのかしら。……ああ、緑の野を風が渡ってゆく音がきこえるわ。故郷の風の薫りがしてくる』
森射の胸に耳をよせ、うっとりとつぶやく。
苦悩に歪んでいた歌鈴の顔には、穏やかな微笑がうかびはじめている。
その表情は、驚くほどイサナの笑みに似ていた。
あわく甘えるようにささやく言葉の調子や音程、波長までもがそっくりであり、声に潜む力の深さまでが等しく同じで、莫大な未知数の力を秘めている。
きっと彼女の眠っている愛の泉も、イサナとおなじくらい豊かなのだろう。同じくらい広くてふかくて、尽きることのない無尽蔵の豊満さで溢れているのだ。
これほどまでに大きい心の小宇宙を、森射はみたことがなかった。大きくて、あたたかくて、心地良い。本物宇宙空間のようだ。
キメラたちの魂もまた森射の体をとおして、歌鈴を抱いているのが感じられた。とめどない無償の愛情が歌鈴へとほとばしっている。
歌鈴はいままで手に握っていた小さな地球をそっと手離した。
地球は、傷つき壊れかけて虫の根の息であるようにみえたが、まだ生きていた。希望にむかう未来への光をまだ完全には、失ってはいない。
『ありがとう、地球を壊してしまわないで』
森射は心の奥底からいった。
歌鈴がこんなに狂ってしまうほど、無情に残酷に傷つけてしまったのだ。
彼女はそれを憎み破壊してしまったとしても、だれが責められよう。されたのと同じことをしたまでだ。
けれど彼女は森射たちの必死の思いにこたえ、地球を離してくれた。許し、希望を与えてくれた。
まったく人の心をなくしてしまったわけではなく、どこかでまだわずかでも希望を残し、その瞬間まで、待っていてくれたのだ。
歌鈴はただじっと、森射をみつめていた。
『……あなたは、闇がなんであるかをちゃんと知っている人なのね』
ささやくように森射に云った。
『あなたのなかにある光はやさしいわ。けっして闇を否定せず、受け入れてくれる。あなたの光は生きている。闇に潜むすべてを殺してしまわないもの。だから何もかもを恕し受容する広大無辺なあたたかさを、こんなにもたくさん持っているんだわ』
森射はみつめてくる歌鈴の瞳に吸いこまれるような気がした。
無垢なるひとみは気高くて神々しい。光が、暁のようにさざめき、夢をみているような、うつつな声で云った。
『清浄すぎる光は、闇であるわたしを殺してしまう。闇を失った光はもはや光ではなく、不浄を焼きつくす業火でしかない。――わたしはその闇そのもの。正義の炎はわたしに逃げ場をあたえずただ殺すのみ。わたしは憎しみの炎でころされれば何度でも甦り、憎悪の焔ですべてを薙ぎ払っていた。けれど、わたしは知っている。光が、闇のなかでこそ輝けることを。そして光があるからこそ、闇もまた必要だということを』
歌鈴の言葉をききながら、森射はふと吉備で待っていてくれる大ババの言葉を思い出してしていた。
大ババは、いつも森射に言っていた。
――死のいたみを知る者こそが、生の尊さもまた知っているのじゃ。生命は常に死へ向かって進み、その限りある時間のなかで、いったい自分は何ができるであろうと問う。それこそが大切なのじゃ。人は闇を包含している。それを忘れて、誰も生きてはいけはしない。
だれもが歌鈴のなかにある闇を共有し、だれもが、それを知っている。
ただ忘れているだけだ。はっきりと確かめもせず、自分の影に怯えているだけ。
歌鈴はやっと同胞をみつけたように森射に笑いかけた。やすらかな笑みだった。
『あなたも、歌を知っている人なのね――どうしてもっとはやくに出会えなかったのかしら、わたしたち。そしたらもっと……』
そっと森射の頬をなでてくれた。優しい手がここちよかった。
歌鈴の美しい黄金の瞳にみるみる涙の玉がもりあがってゆく。
『でも、もうおそすぎたわ……おそすぎたの……なにもかもが、もう……』
『歌鈴?』
『おそい、出会うのがおそすぎた。もはやわたしには止められない――』
ゆらゆらとゆれ涙は少女の白皙の頬をつたい流れ、闇にきえていった。まるで最後の希望が闇に食われてしまったかのような不安がかけぬけた。
森射は、歌鈴の瞳に一瞬のあいだだけ、彼女におそいかかったその身も心も凍りつかせるおぞましい人生の一端をみた気がした。
無情で無惨な過去の記憶のはげしさに、目眩がし、体があつくなった。
人のなかに巣食う残酷な狂気は、心をしびれさせ、毒をのんだように胸が焼け、喉がつまる。未来を信じている森射ですら、希望の光がゆらぐ。
これだけのことができる人間という存在が、これからも生きてゆくだけの価値があるのか。そう叫ばずにはいられない。
泣き叫ぶ少女。おぞましい手術。冷酷な嘲笑。
子宮をえぐり、脳に管を差し込み、逃げられないように不要な足をもぎとり、闇に縫い止める。
同じ、生きている人間なのに、心の自由や、死さえ奪い取り化け物と変身させてゆくのだ。
『地球は終るわ』
歌鈴は以前の冷たい瞳にもどり、遠くをみつめていた。
『この狂暴で醜い生命体は滅ぼされなければならないの』
あたりの空気が、歌鈴の心を映しとるように、暴風のごとく荒れ狂いはじめた。
歌鈴をとりまいていたキメラたちの姿も、風に散りじりにされて宇宙の闇へと飲み込まれていった。
森射は、腕のなかにいた歌鈴がいなくなっていたことに気づく。あれほど一体感を覚えたのに、いまもう空白を抱きしめるだけで、冷たく消えうせている。
はっとしたように顔をあげた。
歌鈴は宇宙空間をひとり歩いていた。きらめく無数の星々のなかを漂いながら、独りだけで遊んでいる。
淡くけぶるような美しい星を指ではじいていた。
ずっとそうして独り遊びをしていたように、それだけに意識を集中し、背後に黒い影がたちこめはじめたのにも気がつかない。
しだいに黒くて重い、そこだけが永久の闇とも思われるほどの質量となり、無限の闇となってゆく。それは意志をもって集まり、少女の頭上にトグロをまき鎌首をもたげる。
少女の純真でうたがいのない無垢な心のなかに、チロチロと細長い舌をのばし、ゆっくりと、だが二度とはなれないよう、がんじがらめに巻きついた。
そしてとうとう、森射が叫ぶのにもかまわず、柔らかな首に噛みついた。
『やめて!』
牙はやわらかな少女の喉に食い込み、そこから全身を染める闇が注ぎ込まれていった。
少女だけが気づかず、まだ無邪気に星をつついている。たぶん、少女はもはや傷みに慣れすぎて、毒蛇の牙が心臓をとめようとしていているのにさえ気づかない。それほど我慢強い子だったのだ
闇は少女の心を麻痺させ、自由をうばっていった。顔をあげた少女の目には、闇が宿っていた。
悪霊にとりつかれた生気のないどんより曇った顔は、まっすぐ地球へとむけられた。
憎しみも恨みもこえた、表情のない陶器製の人形のような顔は、間を戦慄させる冷血で無慈悲な死の影そのものだ。
邪悪な影が勝ちほこり、少女の頭上で奇声をあげる。
少女の意志を切り刻みながら、ゆっくりとした動作で、目の前に楕円の軌道をえがいて動いていた彗星にそっと指をのばさせた。
『だめ!』
森射の声に、指が一瞬だけためらわれる。
だが星は、そのままはじかれてしまった。
最初はそよぐ程度の速さで軌道を変え、動きはじめた。
だんだんその速度ははやくなり、りゅうりゅうとした光の尾を長く伸ばしながら、まるで射られた矢のごとく、地球へとまっすぐ向かいはじめる。
地球をおおっていた青く美しい皮膜がびりびりと振動しはじめ、その悲鳴のような叫びは宇宙を駆けぬけ、恐怖と傷みに変わりふりそそいでくる。
『やめて!お願い、止めさせて!』
森射は懇願するように歌鈴にいった。
だが、こちらへ顔をむけた歌鈴の表情は、もはや禍禍しい、薄皮一枚をうえに張りつけている悪魔の顔だった。
まさに伊邪那岐の顔だ。
『伊邪那岐、やはりきさまがすべて仕組んでいたのだなッ!』
伊邪那岐がニヤリと歌鈴の顔をしたまま笑った。
歌鈴の魂は邪悪な波動にからめとられたまま、深層意識の奥底に眠らされている。堅くて冷たい殻におおわれ、もはや絶望の鍵がかけられ出てくる意志さえ失い、悪夢の海に沈んでしまったのだ。
『もはや道はない。滅びの笛は鳴ってしまったのだ。軌道をかえてしまった彗星は地球に衝突し、その衝撃の波にのみこまれすべては滅びるのじゃ。そしてそのとき起きるであろうエネルギーを吸収し、我はさらなる力を得、さらなる進化をとげるであろう』
頭上の大蛇が耳鳴りのように高らかに笑った。
『いいやまだだ、まだ地球は滅びていない。時間はまだある。きっとなにか方法があるはずだ!』
森射が最後まであきらめはしないと自分にいい聞かすように叫んだ。
『たかだか人間などに、なにができよう。我のなげかけた狂いの波紋だけで、こうまで狂うのじゃ。ひとりの女に、地球を滅ぼすほどの憎悪さえいだかせることができるのじゃぞ』
『違う!』
森射は心底にくむように声をあげた。
『違う、それはおまえが歌鈴の心を抑えこみ、力だけを操ったからだ!本当は、歌鈴だってわかっている。いまだって、彼女は必死で私の声をきき、目覚めようとしてくれているはずなんだ』
森射は必死の面持ちで呼びかける。歌鈴の奥底に眠った哀しくて、寂しい愛にあふれた魂に。
『歌鈴、お願いだ歌鈴、目を覚まして。あなたの心からその悪魔を追い出して目覚めて。聞こえているはずでしょう。あなたは全部わかっている。私の声も、ここにいる、他の者みんなの声も届いているはずだ』
森射のまわりには、キメラたちや、多くの散っていった赤子の魂がいた。
森射の心をわけられた魂は、その叫びに同調していた。母なる歌鈴にむけて、伊邪那岐のもっとも嫌う深い愛の波動をはなっている。
気がつくと、高天原で無惨に殺された魂や、伊邪那岐の邪念にとりつかれ狂い死んだ者、病にかけられ祟られ死んでしまったあわれな者の魂たちさえもそこにいた。
そのなかには、歌鈴を無残にあつかった科学者たちの顔もあった。伊邪那岐の邪欲な思念から解放されて、自我をとり戻した彼らは、ひどい後悔と懺悔のおもいにうちひしがれ、これ以上ない罪の重さを思いしり、己のすべてを捧げつぐなうがごとくに、歌鈴にむけてすべてのエネルギーを放っていた。
伊邪那岐は舌打ちした。ひどく気にいらなげに眉間にしわをよせ、牙をシャアッとむいて唸った。歌鈴の黄金の瞳が攻撃色にかわる。
『歌鈴負けないで。お願いッ、頑張って』
頑張って――その言葉が、どれほどつらく彼女を傷つけるか。
森射はわかっている。これ以上きずつけたくないし、なにももう、本当は頑張ってほしくない。
それでもいわねばならないつらさに耐えて言う。
『歌鈴、頑張って。お願い、目を醒まして』
――いやよ、もう……呼ばないで。何も見たくないの。もう、聞きたくない。
『歌鈴、感じて、このみんなの心を。聞いて、目を見ひらき真実をみつめて。その闇を払いのけて』
――いや、疲れた……もう、疲れたわ……いやなのよ、ほっておいて。
気持ちはいたいほど伝わる。
もういいよ。眠っていていいよ。そういって傷ついた魂を抱き、一緒に眠りについてやりたい。
けれどいまその感傷にながされるわけにはいかなかった。どんなに無慈悲に、鬼になっても、まだ歌鈴に走れと叫び、血を流して闘えと言わざるをえない。
まだ人々は走るのを止めるわけにはいかないのだ。
未来は続くはずなのだから。
森射の心も彼女と同じように血を流していた。人の心の傷みのわかるぶんだけ、その血は赤くて濃かった。歌鈴の血は森射の血であり、傷みはふたりのものだった。
『歌鈴、お願いよ』
伊邪那岐はまるで歌鈴が絶対に起きないことを確信しているかのようにうっそりと笑う。
けれど森射はあきらめず、血の涙を流しながら、無心に歌鈴によびかける。
『歌鈴、歌鈴、目を醒ますのよ!』
――呼ばないでよ、いやなの……。
『お願いだから、歌鈴っ!』
森射は必死によびかけながら、いつのまにか小さな子供になっていた。
決してふりかえらない巨大な影にむかって懸命に頼みつづけ、声をはりあげ、泣いていた。
叫びながら、顔を手でおおい、指のあいだから漏れる涙が星になって、淡く瞬いていく。
『森射、泣かないで森射』
森射のまわりの魂たちが小波のように森射に声をかけた。
控えめに、やさしくそうっとよびかけ、おだやかでやさしいさざなみがおしよせる。
なみだがとまらず流れつづけている森射の肩を、だれかがそっと抱きよせた。
温かくて、温もりが心に染みわったっていくようだった。自分のなかにある小さくて、いまにも消えそうな炎が、新たなる希望の風をふき込まれ、力強く燃える火焔を与えられるようだった。
森射は顔をあげた。
光輝く、まぶしい子供がそこにいた。
光があまりにつよくて、よく顔がみえない。まぶしいけれど、そこから伝わる温もりは優しすぎるほどあたたかくて、広大無限の愛の匂いがした。
よく知っている。森射はどんなときもその愛につつまれ前へ前へと進んできたのだから。
『――イサナ』
光の子供であったイサナは、同じく小さな森射の手をとり、歌鈴に向き直った。
自分と同じ力をもった魂にむかうイサナの強い念波は、もはや隠されることなく、ほとばしるような愛情にわきたたせ、呼びかけた。
『母さん、あなたはわかっているはずでしょう。本当は自分から希望を捨て、生命を捨ててしまったことを』
ビクッと歌鈴のなかの魂がおののいた。
『あなたは知っていたはずだ。あなたの言葉がどのような力をもっていたかを。――あなたは自らの言葉でもって、自分のなかにいつも抑えていた心の叫びと寂しさを、きちんと伝え彼らに呼びかけるべきだったんだ。真摯なる言葉のもつ呪力には、宇宙の力が宿る。その絶対至高の力には、いかなる邪悪な力も敵いはしなかったはずだ。たとえそれが、邪悪の王、伊邪那岐であったとしても――』
光でけぶってみえなかったイサナの姿が、ようやく森射の目に見えはじめていた。
まるでそこに宿っているものは至上の神のようであり、また宇宙そのもののように思われた。
言葉のもつ強さと響きが、神聖な希望となって、歌鈴の小宇宙を鳴動させはじめる。
『母さん、あなたは自分で自分の未来を立ち切ったんだ。あなたが呼びかけてくれさえすれば、みんなあなたを助けるために命を投げ出したのに。あなたが未来を見てくれたら、未来を一緒にみつめ、切り開いてゆけたのに』
そこにいたキメラたちの魂がそうだと激しく賛同し、言葉を伝えられぬのがもどかしそうに蠢いた。しずかな調べのように切なくて、長くて哀しい葬送の歌のようにも聞こえた。
『お願いだ母さん――歌鈴、目を醒ましてよ。もしかしたら、まだ、間に合うかもしれないじゃないか。まだ、人々に生きる望みがあるかもしれないじゃないか』
イサナのあつい思いとともに光が膨らんだ。
歌鈴に巻きついていた蛇の影が焼き切られるように消え、歌鈴を解放していった。
『歌鈴……』
森射は声をかけた。
震えるように目をゆっくり醒まし、顔をあげた。
明晰な光と叡智がそこには宿っていた。
『わたしは、逃げていた……。現実のつらさを受け止めることを畏れ、伊邪那岐の与える夢に身をまかせ全てを人のせいにしてしまっていた』
言葉にならない思いがながれる。
イサナをみつめ、そして背後のキメラたちを慈しむように限りない愛情をこめてみつめていた。
かすかな微笑みが口の端にのぼり、それからイサナに目をむけた。
『おまえの言うとおりだわ、イサナ。……ならば、さあ、わたしのすべての力を受け取りなさい。おまえにならわたしを受け止められる受容能力があるはず。あなたはわたしをすでに超えているけれど、これからしようとしていることは、わたしとあなたのすべてをあわせても、難しいことになるのは確かです』
イサナは歌鈴の思いを受け止めるようにうなずいた。彼女の考えていることはすべてわかっているのである。
同じ本質をもち、同じ呵責を背負う魂は、きっと根元に垣根がないのだろう。
無言で頷くイサナに、森射は急激な不安をおぼえた。
堅い決意の向こうにイサナはひとりで行ってしまおうとしている。孤独な帳が森射のめのまえで仕切りを立て、へだててしまう。
『イサナ、何を――』
『ありがとう森射』
歌鈴がはっきりした声で言った。
『こんなところにまで、わたしをおいかけてきてくれてありがとう。あなただけだったわ、わたしのなかの狂気まで受け入れてくれたひとは。きっともうそんな人はいないでしょうね。わたしの闇を共有してくれ、一緒に血をながしてくれた。過去にも未来にもあなただけだわ』
『歌鈴』
『わたしにもあなたのような強さがあれば、あるいは、違う人生が歩めたかもしれない。悪夢に食われてしまうことはなかった……。けれど、こうなってしまった以上わたしは責任をとらねばならない。あなたたちの未来のためにも』
キリッと表情がひきしまる。睨み据えるように彗星をみあげた。
『もはやこの状況は、わたしにも止められない。星が地球に墮ちることは裂けられない』
『そんな……っ!』
『けれどそれによってうける被害の大きさだけは、どうにか変えられるかもしれない。もしかしたら、隕石による衝撃の規模を最小限にとどめ、被害をくいとめられるかもしれない。地球に届くその前に砕き、亜空間をひらくのよ。そうすれば生き残る確率は格段にあがるはず――』
『そんな力が、どこにあるという――』
言いかけて、森射はドキッとしたように顔をあげて、イサナと歌鈴をみた。
二人には何かが伝わりあっているのだろう。静かにみつめあい、微笑しあっている。
『わたしを受け取りなさいイサナ。わたしは道を誤まった。けれどあなたは違う。別の道を歩めるのだわ』
イサナが嬉しげに顔をほころばせる。
『あなたには愛を注いでくれる人がいた。愛の力を教えてくれ、愛の真綿で包まれことを、その喜びと苦しみをその大切さを知った。それはあなたに無限の力を与えてくれた』
歌鈴は森射をみた。
まるで母親の顔だった。
『ありがとう、森射。最後までわたしを見捨てずに呼びかけてくれて。――ありがとう、イサナをこんなにも愛してくれて』
歌鈴はイサナの顔を両手でつつんだ。すでに自分より大きな背に感心するように目をほそめみつめる。
「イサナ、あながたが生まれてきてくれて、本当によかった。わたしにも生きたという証があってうれしいわ。本当にありがとう』
それが、最後の言葉だった。
イサナをとりまく黄金の光が膨れあがり、さらに膨張しはじめた。
まるで星が生まれ出でるときに発する巨大なエネルギーのように渦巻き、爆発した。
身も心も森射は光につつまれ飲みこまれた。
イサナの温かく心地よいぬくもりが身体を満たすのを感じながら、森射の意識は開放されていった。
だれかが心に混じり、それは悲しいわかれと、無限の力を与えられている満足感のようなものがないまぜになった、不思議な感じがした。
心が満たされていった。胸があたたかかった。
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